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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その七) [光琳・乾山・蕪村]

その七 乾山の「角皿一」(「銹絵観鴎図角皿」)

銹絵観鴎図角皿(さびえかんおうずかくざら)
1口 陶器 尾形光琳・深省合作(おがたこうりん・しんせい) 高2.9 縦横22.1 江戸時代 18世紀 重文  東京国立博物館蔵
尾形光琳の弟尾形深省は元禄12年に京都の鳴滝に窯を開き,作品には「乾山」の銘款を付けた。乾山焼の中でも兄光琳が絵付をした兄弟合作の作品は特に名高く,この角皿もその代表作である。中国宋代の詩人黄山谷が鴎を眺めている図を光琳が軽妙な筆致で描き,裏面には深省が見事な筆で銘款を記している。

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=G32


乾山皿一.jpg

(「寂明光琳畫」)

乾山皿一の一.jpg

(「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所屋※尚古亝※(斎)」)

乾山皿一の二.jpg



www.emuseum.jp/detail/100517/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E5%85%89%E7%90%B3&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=1&num=7

尾形光琳の弟深省は、元禄12年(1699)に京都近郊鳴滝の地に陶窯を開き、以来陶工として生きた。そしてその地が都の乾(いぬい)(北西)の方角にあたることから陶号を乾山(けんざん)と称し、作品に乾山の銘を書したので、世上乾山焼と呼ばれた。
そうした乾山焼のなかに、兄光琳が下絵付けした兄弟合作品があり、光琳の絵画としても優れた作品があることから声価が高く、それらは主として宝永6年(1709)から正徳6年(1716)の間に焼造されたことが近年明らかになってきた。
この作品は、そうした兄弟合作品の一つで、型造り方形の白化粧下地楽焼質の皿の見込みに、宋代の詩人黄山谷観鷗の図を光琳が鉄呉須(てつごす)で下絵付けし、裏面には乾山が「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所※(居)尚古※(斎)」の銘文を同じく釉下に書しており、立ち上がった縁の外側には雲唐草、内側には枠取りした牡丹文と雲唐草が描かれている。光琳の絵には「寂明光琳(花押<かおう>)」の署名があり、その署名や花押から宝永6年から正徳2年の間の作と推定されている。
この種の兄弟合作銘角皿は20点ほど知られているが、なかにあって光琳の軽妙な筆致もさることながら、裏面に大書された乾山の銘文の見事さと併せて、合作品中の代表作として名高い。明治11年(1878)に当館が購入したもので、昭和59年度に重要文化財に指定された。

別称「墨絵黄山谷観鷗図」(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説115」) 
光琳筆 乾山作 東京国立博物館蔵 角皿 寂明光琳画 乾山銘 縦二二・〇cm 横二二・一cm 高三・〇cm
【 この角皿はもっぱら絵付のために乾山が考案したと思われるもの。絵は「寂明光琳畫」の落款から明らかなように光琳の筆で裏面に「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所※(屋)尚古亝(※斎)」という長い乾山の銘がある。絵は水墨画で好まれた画題で、中国宋時代の有名な詩人、黄山谷(こうざんこく)が鷗(かもめ)をみて詩を作るところ描く。観る者の目は光琳の落款から黄山谷へ、そして、鷗へと動く。また、黄山谷から鷗や落款へと動くといってもよい。まことに気のきいた構図で、筆致も簡略ながら巧みに、人物の表情や姿態をとらえ、しっとりとした味わいがある。乾山がその『陶法伝書』で、「最初の絵は皆々光琳自筆」と書いているのと、光琳の落款が「法橋光琳」となっていないので、元禄十二年(一六九九)末に鳴滝窯を始めてまもなく、光琳が法橋になる元禄十四年以前の作とされてきた。しかし当時の光琳の絵はこれほど情趣的ではない。裏の乾山の堂々とした書風も宝永末(一七一〇)のものに近いから、そのころ江戸から上京した光琳が窮地に陥っていた乾山焼を助けるために描いたと考える。光琳が「寂明」の号を用いたのもその頃である。裏面の長い乾山銘には、かれの衒学(げんがく)的な臭味も感じられるが、得意な書を楽しんだものとみたい。乾山焼は光琳の絵付と乾山の書のある陶器ということで評判を得ていたのであろう。 】 (注) ※=異体字

(メモ)

一 「光琳・乾山合作」ものの、重要文化財指定のものである。上記のとおり、この作品を東京国立博物館が購入したのは、明治十一年(一八七八)のことという。この前年に西南戦争があり、この年に大久保利通が暗殺された年で、フェノロサが来日した年である。
後に、フェノロサは、日本の重要美術品の海外流失などに関し毀誉褒貶の評価を受けるが、この頃から、そういう風潮が根差していたのかも知れない。

二 「光琳・乾山合作」ものは、元禄十二年(一六九九)に乾山が鳴滝に開窯してから、宝永元年(一七〇四)に光琳が江戸へ下向する、鳴滝時代の「鳴滝乾山」(鳴滝自窯)と、宝永六年(一七〇九)に光琳が帰京してから没する享保元年(一七一六)までの、二条(丁子屋町)時代の「二条乾山」(清水・粟田口借窯)とがある。

三 そして、この作品は、上記の「作品解説115」のとおり、「元禄十二年(一六九九)末に鳴滝窯を始めてまもなく、光琳が法橋になる元禄十四年以前の作」の「鳴滝乾山」時代のものとされてきたが、「裏の乾山の堂々とした書風も宝永末(一七一〇)のものに近いから、そのころ江戸から上京した光琳が窮地に陥っていた乾山焼を助けるために描いたと考える。光琳が「寂明」の号を用いたのもその頃である」とする「二条乾山」時代のものとする説が有力になっている。

四 先に紹介した「近世日本陶磁器類の系譜」所収「京焼色絵再考―乾山」では、「鳴滝時代」のものとし、その「鳴滝時代」を次のような三区分により解説をしている。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html



乾山皿.jpg

① 低下度焼成の釉下色絵や銹絵の作品
これらは錦窯と呼ばれる低下度専門(800度位)のかなり小さな窯で焼かれたものです。おそらく乾山が押小路窯の技法を発展させ、さらに独自の形態に創造昇華させたものと考えられます。(上記が例示として掲載されている。)

② 本焼き焼成(高火度焼成)の作品
この技術は御室焼(仁清)から導入し、当時主流をなしていた織部焼や唐津焼などを積極的に写しました。これも乾山風に意匠された作品を多く産出しています。(例示省略)

③国焼意匠の作品
御室焼の特徴でもある国焼意匠も積極的に取り入れ、御室焼を踏襲しながら乾山焼を完成させていきました。
下の百合型向付では、仁清は最初から土をこねて作ったと思われる百合の花びらの先にかすかに銹の色付けがあるだけなのに対し、乾山は型取りされた白地の向付けに、単純化された百合の花を描いたと思われます。(例示省略)

五 いずれにしろ、「光琳・乾山合作」ものは、乾山窯の名を不動のものにし、さらに、華麗な琳派意匠による色絵型物の量産化などは、「二条乾山工房」(乾山を中心とする陶器工房)の乾山焼が、当時の山城国(京都)土産に取り上げられるほどに、その評価は高かったのであろう(正徳三年刊の『和漢三才図絵』)。

六 上記掲載の「中段・左側」のものは、「色絵石垣文角皿」(乾山作・五客)は、鳴滝時代の初期の作品で、「乾山に私淑していた近代陶芸の巨匠、富本憲吉の旧蔵品である」(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)。現在は、「京都国立博物館蔵」で、その裏面(中段・右側)の銘は、「日本元禄年製乾山陶隠(花押?)」で、この「花押(?)」は、乾山の号の一つの「尚古」を合成したもののように思われる(「巾着型」の花押)。ちなみに、富本憲吉も、川端康成と同じく「新佐野乾山」の「否定派」である。

七 上記掲載の「下段」のものは、「色絵定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」(出光美術館蔵)で、乾山窯の代表的な作品とされている。「白化粧をほどこした角皿に、狩野派や土佐派を学んだ絵師の手によって粉本を写した花鳥画が描かれ、裏面には、能書家であった乾山が銹絵具を用いて和歌を散らし書きしている」(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)。
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