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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その九) [光琳・乾山・蕪村]

その九 乾山の「絵画四」(「十二カ月和歌花鳥図」)4

乾山十二月.jpg

尾形乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 掛幅 一六・〇×二三・〇cm 個人蔵
紫翠深省八十一歳写 逃禅印 → 上記の作品は「十二月」(和歌賛=色うづむ垣根の雪の花ながら年のこなたに匂ふ梅が枝(え)/ながめする池の氷にふる雪のかさなる年ををしの毛衣)

【 もと十二枚一組の色紙を改装したもの。掲載した十二月の図に「紫翠深省八十一歳写との落款があるので、前図(注・二月=下記)と同じく寛保三年(一七四三)の作とわかる。ほかにも、没年、八十一歳作の秀れた作品があるから、乾山の芸術、ことに絵画は最晩年に美しい花をさかせたといえよう。
この図は、藤原定家(一一六二~一二四一)が詠じた十二ケ月花鳥の和歌から取材したもので、図上に例によって乾山がその和歌を散らし書きにしている。定家のこの和歌はもともと「月次(つきなみ)花鳥図」への和歌賛として作られたが、江戸初期に好画題として喜ばれ、乾山の父の宗謙や光琳の師とそれる山本素軒なども描いていた。ことに元禄四年(一六九一)刊行の『鴫の羽掻(はねかき)』に挿図が掲載されてからは広く普及した。
乾山焼の絵皿には、その挿図を原本とした作品が、元禄十五年(一七〇二)の年紀のあるものを含めて三種遺っている。それらは絵がいずれも平凡で、果たして乾山が描いたかどうか不明だが、本図は、書・画・作陶に文人的風格を投影させた乾山芸術の棹尾を飾るにふさわしい、愛すべき小品といってよい。乾山の本領はこのような小画面における書画一体の抒情世界にあったのである。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説119・120」) 

(メモ)

一 この落款の「紫翠深省八十一歳写」というのは万感の重みがある。寛保三年(一七四三)六月二日に、乾山は江戸上野の入谷で瞑目する。すなわち、その瞑目する遺作ともいうべき作品である。

二 上記の解説のとおり、もともとは、十二枚一組の色紙に描かれたもので、現在は掛幅に改装されている。そして、その十二枚が、それぞれバラバラになって、所蔵者を異にしているようである。上記の「十二月」と、上記の解説にある「前図(二月)」は、同一所蔵者のようで、その「二月」の作品は次のとおりである」

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乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「二月」(和歌賛=かざし折る道行き人のたもとまで桜に匂うきさらぎの空(そら)/狩人の霞にたどる春の日を妻(つま)どふ雉(きじ)の声(こゑ)にたつらん)

三 「四月」と「六月」は、次のアドレスで見ることが出来る。

http://pt.wahooart.com/@/OgataKenzan

「四月」(和歌賛=白妙の衣ほすてふ夏のきてかきねもたわにさける卯花/ほととぎすしのぶの里にさとなれよまだ卯の花のさ月待つころ(比))

「六月」(和歌賛=大かたの日かげにいとふみなづき(水無月)のそら(空)さへをしきとこなつの花/みじか夜の鵜川にのぼるかがり火のはやくすぎ行くみな月のそら(空))

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乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「四月」

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乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「六月」

四 「九月」(根津美術館蔵)は次のとおりである。

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乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「九月」
九月(和歌賛=花すすき草のたもとの露けさをすててくれ(暮)ゆく秋のつれなさ/人め(目)さへいとどふかくさ(深草)かれぬとや冬まつ霜にうづら(鶉)なくらん)

http://web-japan.org/niponica/niponica19/ja/feature/feature02.html

五 ここで、途轍もない労の多い作業となって来るが、次のような地道な作業が必須となってくる。

1 乾山の「絵画四」(「十二カ月和歌花鳥図」)と、乾山の「角皿二」(「定家詠十二ケ月和
歌花鳥図角皿」)との相互検討

2 そして、その上で、『尾形乾山手控集成 下野佐野滞留期記録(住友慎一・渡邉達也編)』
などの膨大な資料(翻刻文あり)との相互検討が必須となって来る。

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