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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十四) [光琳・乾山・蕪村]

その十四 乾山の「絵画七」(「楓図」)

乾山楓一.jpg

尾形乾山筆「楓図」一幅 紙本着色 一〇九・八×四〇・四cm
「京兆七十八翁 紫翠深省写・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
「幾樹瓢零秋雨/裡千般爛熳夕/陽中」
【同じ紅葉でもこちらは、縦長の画面に大きく枝とともに色づいた楓が描かれています。秋雨に濡れて葉は赤みが増し、さらに夕陽に照り映えていっそう赤々と風情は弥増しに増す。そんな詩意を受けてこの絵は描かれたのでしょう。幹にはたらし込みの技法も見られ、これぞ琳派といった絵になっています。ただし、画面上方の着賛は漢詩で、ここには乾山の文人的な部分が色濃く出ています。今にも枝につかんばかりの勢いで所狭しと記された筆づかいは、雄渾で迷いがなく、どこまでも「書の人」であった兼山らしさが滲み出ています。落款から乾山晩年、七十八歳の作と知れます。 】『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』

 乾山、七十八歳は、元文五年(一七四〇)に当たり、蕪村、二十五歳の時で、その翌年の六月六日に、江戸で内弟子として仕えた夜半亭宋阿(早野巴人)が、その六十七年の生涯を閉じる。
 蕪村、晩年の自叙伝「新花積」に、当時のことを次のように記している。

「いささか故ありて、余は江戸をしりぞきて、しもつふさ結城の雁宕がもとをあるじとして、日夜俳諧に遊び、邂逅(たまさか)にして柳居が筑波まうでに逢ひてここかしこに席をかさね、或ひは潭北と上野に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもてをはらひ、外の浜の旅寝に合浦(ごうほ)の玉のかへるさをわすれ、とざまかうざまとして、既に三とせあまりの星霜をふりぬ。」

 この奥羽行脚の際の、寛保三年(一七四三)の作とされている、下野(栃木県)の遊行柳での「柳散り清水涸れ石処々」の句を、蕪村は晩年になって(「溌墨生痕」の押印)、下記のとおり一幅ものを遺している。

遊行寺一.jpg

与謝蕪村筆「『柳ちり』自画賛」 一幅 紙本淡彩 逸翁美術館蔵
五八・六×三六・七cm 款「蕪村」 印「溌墨生痕」(白文方印)
賛「赤壁前後の賦字々みな絶妙/あるか中に山高月小水落石出と/いふものことにめてたく孤霍の群鶏を/出るかことし/むかしみちのくに行脚せしに/遊行柳のもとに忽右の句を/おもひ出て/柳ちり清水かれ石ところどころ」

 冒頭の乾山の書画一体の世界と、上記の蕪村の書画一体の世界とは、乾山のそれがまさしく光琳風の、いわゆる琳派的な世界とすると、蕪村のそれはまさしく、水墨画風の文人画の世界ということで、好対照をなしている。
 しかし、それぞれの画面の、その「画と賛(詩文)と落款」との、この絶妙なる書画一体の空間は、両者の文人的気質の類似性をまざまざと見せつけてくれる。

 それ以上に、七十八歳の乾山と、二十五歳の蕪村とが、共に、故郷の西国(乾山=京都、蕪村=大阪)を後にして、遠く江戸(東京)に移住し、乾山が上野・輪王寺付近の入谷(当時・村)とすると、蕪村はその近くの日本橋本石町に住んでいたということは、まさしく、その境涯を一にしているという思いがする。

 さらに、上記の蕪村の『新花積』に出てくる、「雁宕」(夜半亭宋阿の高弟、結城の俳人、蕪村の兄弟子で江戸座の有力俳人=砂岡雁宕)、「柳居」(幕臣で俳人、「五色墨運動(蕉風復興運動)」の中心人物=佐久間柳居)、そして、「潭北」(夜半亭宋阿の知友、俳人で、『民家分量記』の著書を有する啓蒙家=常盤潭北)というのは、当時の江戸俳壇の一角を占めている著名俳人である。

 そして、乾山が、享保十六年(一七二一)に江戸に下向し、光琳も世話になった深川の材木商の冬木家を介して知り合った、乾山の俳諧の師となる長谷川馬光は、「佐久間柳居・中川宗瑞・松本珪林・大場蓼和」と共に、俳諧集『五色墨』を刊行し、当時の点取り俳諧の風潮を蕉風復古への機運を醸成した「五色墨運動」の中核を担っている著名俳人なのである。

 その馬光の師は、松尾芭蕉の畏友・山口素堂で、素堂が葛飾(東京都江東区深川)に住んで居たことから、この素堂俳諧の系譜は、葛飾派と言われ、一世・素堂、二世・馬光、三世・溝口素丸と引き継がれ、後に、蕪村の次の時代を担う、小林一茶は、この葛飾派の俳人の一人である。

 そもそも、山口素堂は、単に、俳諧だけではなく、「茶・書・能・詩・歌」をよくし,芭蕉との親交を通して、その天和の漢詩文調に多大な影響を与えた隠士的文人として名高い人である。

 まさに、「京兆逸民・華洛散人・陶隠・逃禅・霊海」等の隠士的号を有する乾山が、その晩年の江戸にあって、隠士的な、「俳・茶・書・能・詩・歌」など全般に通ずる、素堂・馬光の葛飾派の世界に身を置いたということは、自然の流れでもあったのかも知れない。

 そもそも、雁宕・蕪村などを育んだ夜半亭宋阿(早野巴人)は、芭蕉門の双璧、其角と嵐雪の高弟の一人で、江戸座点取り俳諧の巨匠の一人であるが、俗化する当時の江戸座俳壇の中にあって、「祗空・巴人は心の芥(あくた)吐き尽して跡すらすらと出でたるこそ泥に染まぬ蓮より潔よし」(『常盤潭北著『今の月日』)と記されているとおり、高邁な精神と、蕪村に教示した「師の句法に泥(なづ)むべからず」の俳諧自在の精神を、終生持ち続けた、すなわち、素堂と同じく、孤高の隠士的な面を多々有する俳人の一人だったのである。

 そして、何よりも、夜半亭宋阿(早野巴人)は、乾山が晩年に居を構えていた、下野(栃木県)の佐野と同じ、その下野の北に位置する那須烏山の生まれ(潭北も同じ)、そして、早くから江戸(東京)に出て、そこで、俳諧宗匠となり、何と、享保十二年(一七二七)、五十二歳の時に、何と、当時、六十五歳の乾山の住む京都へと江戸から移住して行くのである。

 そして、夜半亭宋阿(早野巴人)は、その乾山の住む京都にあって、京都俳壇の一角を占める「望月宋屋・高井几圭・三宅嘯山」等々の名立たる俳人を育み、後に、蕪村が名跡を継ぐこととなる「夜半亭俳諧」の礎を築くのである。

 さらに、その京都在住の夜半亭宋阿(早野巴人)を、再び、江戸へと再帰させた、その人こそ、蕪村の兄弟子の結城の俳人の砂岡雁宕なのである。雁宕は、遠く、奥州の仙台にも、そして、光琳・乾山らが住む京都にも、幅広く交流を有する実業人でもあり、その雁宕の勧めにより、夜半亭宋阿(早野巴人)が、江戸に再帰したのは、元文二年(一七三七)、六十二歳の時で、この時、乾山は七十五歳で、京都より江戸に移住していたのである。

 江戸在住時代の、七十五歳以降の乾山(深川・上野・入谷)と、六十二歳以降の宋阿(早野巴人)と二十二歳以降の蕪村(日本橋本石町)との関係は、これらを証しするものは何ら存在しないが、ただ一つ、蕪村が晩年に記した、上記の『新花積』の、その一節は、当時の、乾山と蕪村とを結びつける有力な背景の一つであることは間違いなかろう。

新花摘一.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a0600/bunko31_a0600_p0018.jpg

蕪村著・呉春挿絵『新花摘』(左「常盤潭北像」、右「宰町・蕪村」像)

 この左側の人物を、江戸在住時代の、「京兆逸民」の号を名乗る晩年の「尾形乾山」、そして、右側の人物を、次の、「大阪・京都」からの「逸民」たる「若き日の蕪村」と解すると、当時の、「乾山と蕪村」との関係の一端が見えて来る。

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)
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