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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二十五) [光琳・乾山・蕪村]

その二十五 光琳画・乾山書の「銹絵寒山拾得図角皿」

光琳乾山角皿.jpg

光琳画・乾山書「銹絵寒山拾得図角皿」 重要文化財:江戸時代(18世紀):京都国立博物館蔵 二枚 三・三×二一・八㎝ 二・八×二一・八㎝
【 二枚の皿に寒山と拾得の図を描いた角皿で二枚一組になっている。寒山図の土坡に打たれた点描に光琳独特のリズムが感じられる。寒山図には「青々光琳画之」、拾得図には「寂明光琳画之」と落款を書しているので、やはり元禄十四年以前の作であろうか。拾得図の賛に「従来是拾得 不是偶然称 別無親眷属 寒山是我兄 両人心相似 誰能徇俗情 若問年多少 黄河幾度清」とあり、兄光琳の協力を得て作陶に生きようとする乾山の心がしのばれ、鳴滝初期の代表作の一つに挙げられる。 】 (『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説287」)

(メモ)

一 東京国立博物館創立百年を記念し、「創立百年記念特別展 琳派」展が開催されたのは、昭和四十七年(一九七二)のことで、今から四十七年前ということになる。その当時には、上記の光琳・乾山合作の「銹絵寒山拾得図角皿」は、未だ重要文化財には指定されていないで、個人蔵であった。これが、平成二十七年(二〇一五)に、京都国立博物館が落札し、現在は、京都国立博物館蔵となっている。そして、この平成三十年(二〇一八)四月から五月まで、東京青山の根津美術館で公開されていた。

https://www.njss.info/offers/kanpoView/6654976/

https://ex.artnavi-bt.com/exhibition/1654

二 左の「寒山図」の賛は、『寒山詩』(唐の寒山撰)の次の三言古詩の引用のようである。

我居山 (我レ山ニ居ス)
勿人識 (人識ルコト勿レ)
白雲中 (白雲ノ中)
常寂寂 (常ニ寂寂《ジャクジャク》)

 光琳の別号に「寂明」(右の「拾得図」の落款「寂明光琳」)があり、この「寒山」は、光琳その人と解したい。

三 右の「拾得図」の賛は、左の「寒山図」の賛に対応する乾山の漢詩のようである。

従来是拾得 (従来是レ拾得)
不是偶然称 (不是偶然ノ称)
別無親眷属 (別ニ親眷属《シンケンゾク》無ク)
寒山是我兄 (寒山ハ是レ我ガ兄)
両人心相似 (両人ノ心ハ相似ル)
誰能徇俗情 (誰カ能ク俗情ニ徇《シタ》ガワン)
若問年多少 (若シ年ノ多少ヲ問ハバ)
黄河幾度清 (黄河幾度カ清シ)

 意味するところのものは、「兄の光琳が寒山とすれば、私は拾得で、その名のとおり、兄に拾われて今日がある。兄の他頼るべき身内もなく、この二人の心は相通じて、その兄弟の関係は、永遠の黄河の清らかさに例えられる」のようなことであろう。とすれば、この「拾得」は、乾山その人ということになる。

四 上記のように、「寒山図」と「拾得図」の賛を解すると、兄の寒山(光琳)が、「巻物」を広げ、弟の拾得(乾山)に、「詩・書・画・作陶」の何たるかを告げ、弟の拾得(乾山)は、「箒」を持って、その教えを拾い集めている図ということになる。

五 ここで、「光琳の肖像画」というものが存在するのかどうか、次のアドレスで、「芸術新潮(2005年10月号)」に掲載されているようである。それは、『先哲像伝(原徳斎著)』に掲載されているもののようである。その他に、下記の「新編歌俳百人撰」所収のようなものもある。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000039911

http://base1.nijl.ac.jp/~rekijin/syouzou/ok0008/html/thumok0008.html

新編歌俳百人撰 (柳下亭種員、一陽斎豊国:画 国文学研究資料館 ヤ2/207)


光琳肖像.jpg

『新編歌俳百人撰(柳下亭種員著・一陽斎豊国画)』所収「尾形光琳(肖像)」

六 それに比して「乾山の肖像画」となると、「光琳の肖像画」よりも、さらにベールに閉ざされているが、『尾形光琳 元禄町人の造型(赤井達郎著)』で、下記の「乾山像」(木造)が紹介されているのに遭遇した。

乾山木造.jpg

『尾形光琳 元禄町人の造型(赤井達郎著)』所収「乾山木造」(京都・西福寺)

七 京都西福寺(京都市東山区轆轤《ろくろ》町)は、安国寺恵瓊(えけい)のために建てられたもので、享保十一年(一七二六)に二條綱平によって再興されたとの由来が伝えられている。二條綱平は、五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の一つの二條家の当主で、内大臣・右大臣・左大臣・関白を経て、のち落飾して円覚敬信院と号し、享保十七年(一七三二)、六十一歳で没している。

八 この二條綱平卿と光琳・乾山との交遊関係は、元禄二年(一六八九)に遡り、乾山が仁和寺(「御室御所」称せられるように皇室と関係の深い門跡寺院)門前に「習静堂」を建て、そこに移住した頃とされている。時に、綱平卿、十八歳、乾山、二十七歳、そして、光琳、三十二歳の頃である。

九 これらのことは、二条家の『内々御番所日次記』(二條家から寄贈されて慶應大学蔵)で、尾形家(長男・藤三郎、次男・光琳、三男・乾山など)の「二条家伺候回数」などにより、当時の二条家と尾形家との関係が明瞭となって来る(『二條家御庭焼と光琳・乾山(住友慎一著)』)。

十 これらを見て行くと、綱平卿の「絵画などのお伽衆」が「光琳」、「作陶などのお伽衆」が「乾山」というのが浮かび上がって来る。

十一 そして、これらのことは、元禄七年(一六九四)に、乾山は綱平卿から、綱平卿の鳴滝の山荘(千百余坪)を譲り受け、ここに、いわゆる、乾山の「鳴滝窯」が開窯されるのである。すなわち、「絵師・書家・作陶家、尾形乾山」のスタートなのである。

十二、乾山の兄の光琳が、絵師として最高峰たる「法橋」になったのは、元禄十四年(一七〇一)、光琳、四十四歳、そして、乾山、三十九歳の時であった。この光琳の「法橋」の推挙は、紛れもなく、二条家の綱平卿(三十歳)なのであろう。

十三 この綱平卿の甥に当たる東山天皇の第三皇子が「公寛親王」で、公寛親王は、正徳四年(一七一四)、十八歳の時に、江戸上野の東叡山寛永寺の輪王寺の法嗣として下向し、享保三年(一七一八)に一時帰京している。

十四 そして、京都西福寺には、「公寛親王・二條綱平栄子夫妻・乾山」の四体一具の像が安置されている。その寺伝に因れば、公寛親王は、この寺で乾山を引見したことが伝えられている。この享保三年(一七一八)時には、光琳は没しており(正徳六年・五十九歳没)、乾山が、「二條綱平栄子夫妻」、そして、「公寛親王」の「絵画・書・作陶」などのお伽衆のような関係が生じていたのであろう。

十五 二条綱平が関白に叙任したのは、享保七年(一七二二)、乾山が六十歳の時である。そして、享保十六年(一七三一)、乾山、六十九歳の時に、二度目の帰京していた公寛親王の江戸下向の私的な随行の一員として、京都を後にし、以後、寛保三年(一七四三)、その八十一年の生涯を閉じるまで、東国の江戸(そして、一時期、下野の佐野など)での生活を送ることとなる。

十六 光琳・乾山兄弟にあって、終生、この二人の兄弟の庇護者であった二條綱平卿は、享保十七年(一七三二)、乾山、七十歳の時に、六十一歳で瞑目する。そして、江戸の唯一の庇護者である公寛親王は、元文三年(一七三八)、乾山、七十六歳時に、その四十二年の生涯を閉じるのである。

十七 ここで、冒頭の光琳画・乾山書「銹絵寒山拾得図角皿」を見て頂きたい。この「寒山図」も、そして、「拾得図」も、光琳、四十四歳(法橋になる)の頃(又は以前)の作なのある。

十八 そして、この光琳の描く「寒山図」は、法体の「京都西福寺」の木造、すなわち、「乾山=《雁金屋三男・権平》」その人と解することも可能であろう。そして、有髪の「拾得図」こそ、一代の伊達男の「光琳=《雁金屋次子・市之丞》」その人と解することも可能であろう。

十九 いずれにしろ、この「銹絵寒山拾得図角皿」(光琳画・乾山書)には、さまざまなドラマが内包されており、それが海外でなく、国内の「京都国立博物館蔵」になったことに対しても、そのドラマの一端を見る思いがする。 
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