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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その十四) [金と銀と墨の空間]

(その十四)鈴木其一筆「東下り図」(双幅)

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鈴木其一筆「東下り図」 双幅 絹本著色 各九〇・五×三五・〇㎝ 個人蔵
【 『伊勢物語』第九段(東下り)のうち、「富士山」のくだりである。供を具した業平が富士の高嶺を馬上から仰ぎ見る、という図様は江戸時代初期に刊行された嵯峨本の挿絵以降、広く人々に浸透した。光琳は『伊勢物語』に因む図様を多く手掛け、「東下り・富士山」もそのひとつである。『光琳百図』前編上には二図も収録されており、本図は「絹本極彩色吾妻下二幅対」と冠された双幅の写しである。業平、供とも衣服の文様まで一致する。
本図には高品質の顔料が惜しげもなく使われており、大名家や豪商といった、高位の依頼による制作と思われる。光琳百回忌の記念事業や『光琳百図』の発行によって、抱一一門は光琳の後継者として自他ともに認める存在となった。そして自らが作り出した光琳ブームによって、いわゆる「光琳写し」を求める人が急激に増したのである。光琳画をそのまま映す「光琳写し」には独創性を入れる余地はあまりなかったが、其一は誠実に模し、おそらくは原作以上に丁重な彩色をして収め、そうした期待に応じた。(岡野智子稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説32 東下り図」)

 上記の「作品解説」は、やや説明不足のところがある。それは、前回に触れた、其一の師に当たる酒井抱一の、「三幅対」の、「宇津山図・桜町中納言・東下り」・「伊勢物語東下り・牡丹菊図」・「不二山図」との関連での、この其一の「双幅」にした、そのポイントのところが抜け落ちているという点なのである。

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左上(今回の其一筆「東下り図(双幅)」) 右上(前回の抱一筆「不二山図(三幅対)」と『光琳百図』所収「東下り」) 左下(前回の抱一の「伊勢物語東下り・牡丹菊図(三幅対)」)
右下(前回の抱一の「宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)」)

 上記の四つの図で説明すると、まず、左上の「今回の其一筆『東下り図(双幅)』の、左幅の馬上の主人公は「何を見ているのか?」、また。右幅の従者は「何を見ているのが?」、この「双幅」では、右幅の「従者が振り返りながら見上げている黒い雲のようである(?)」。
その答えは、右上の「(前回の抱一筆『不二山図(三幅対)』」と『光琳百図』所収「東下り」) 
にある。すなわち、この「三幅対」の「中幅」が「省略」されているということになる。
 「何を見ているのか(?)」→「富士山を見上げている」ということになる。さらに、この「双幅」は、『光琳百図』の、全くの、「光琳写し」そのものということになる。そして、ここに、抱一(三幅対)と其一(双幅)との、極めて高等な、「遊び心」「響き合う心」「響き合い」「交響」「師弟間の交流」「創作人としての相互交流」などの、その一端が見えてくる。

 さらに、左下の「前回の抱一の『伊勢物語東下り・牡丹菊図(三幅対)』)と対比すると、抱一のそれは、「富士山」よりも、馬上の主人公は、「白牡丹の上の黒揚羽と白夏蝶」に視点が行き、従者は、「白菊の上の赤蜻蛉」に視点を注いでいるのに対して、其一のそれは、「師匠(抱一先生)、ここは、やっぱり富士山ですよ」と、しかし、その「富士山」を、師匠(抱一先生)好みの、「俳諧(連句と発句)」の基本中の基本の「省略(ヌケ)」にしている雰囲気なのである。

 そして、一番問題となるのは、右下の「前回の抱一の『宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)』」との関連なのである。この「三幅対」は、その他の「右上・左下の三幅対」とは、構成を異にしていて、この「三幅対」の右幅は、「宇津山路・蔦の細道・主人公が文を書き、修業僧に、その文を託す」場面で、その左幅は、「東下り・富士山の野越え」場面なのである。そして、その中幅は、その右幅の主人公、左幅の主人公は、「在原業平」ではなく、「桜町中納言(藤原成範)」であるとの、『伊勢物語』の主人公の新しい提示の「三幅対」の構成となって来る。

 この抱一の「宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)」を基本に据えるならば、他の三図(左上・右上・左下)の主人公も、「桜町中納言(藤原成範)」となって来よう。しかし、抱一や其一は、そこまで深く、『伊勢物語』の第九段(東下り)を読み込んで、当初から、「宇津山図(右幅)・桜町中納言(中幅)・東下り(左幅)」の、この「三幅対を念頭に置いて制作したのであろうか(?)

 このことについては、否定的に解したい。その理由は、これらの「宇津山図(右幅)・桜町中納言(中幅)・東下り(左幅)」には、それぞれ、『光琳百図』での、光琳が描いたとされる縮図があり(前回までに紹介したもの、上記の「右上図」の『光琳百図』など)、その「光琳写し」が、この三幅ものの背景にあり、それが、最終的に、そして、偶発的に、右下の「宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)」の構成となったものと解したい。

(追記)
『抱一上人真蹟鏡(池田孤邨編)』(下)の「紅葉図(左幅)・東下り図(中幅)・桜図(右幅)」(三幅対)について

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http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01266/bunko06_01266_0002/bunko06_01266_0002_p0008.jpg

抱一上人真蹟鏡. 上,下 / 抱一上人 [画] ; 池田孤邨 [編] - 早稲田大学

 江戸琳派の創始者・酒井抱一は、上記のような、「紅葉図(左幅)・東下り図(中幅)・桜
図(右幅)」(三幅対)を制作していたのである。この「桜図(右幅)」からして、この「東下り図(中幅)」の馬上の主人公は、「桜町中納言(藤原成範)」ということになる。そして、「東下り」をした、「桜町中納言(藤原成範)」が、後ろの、「紅葉図(左幅)」を振り返りながら、再び、「花爛漫の京の都」へ里帰りする、その「三幅対」のものとして鑑賞したい。
 とすると、この(追記)前に記した、「最終的に、そして、偶発的に、右下の『宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)』の構成となったものと解したい」ということは、撤回することになる。
 すなわち、抱一・其一・孤邨に連なる「江戸琳派」の「東下り」(『伊勢物語』)の主人公は、異説中の異説の「桜町中納言(藤原成範))」として鑑賞することが、そのポイントということになる(これは、池田孤邨の「表・紅葉に流水図屏風」と「裏・山水図屏風」でスタートした、この「江戸絵画(『金』と『銀』と『墨』の空間)」の新しい発見であった。

(参考)鈴木其一(すずき きいつ)
没年:安政5.9.10(1858.10.16)
生年:寛政8.4(1796)
江戸後期の画家。名は元長、通称為三郎、字は子淵、号に必庵、庭柏子、錫雲、為三堂、祝琳斎などがある。紫染を家業とする江戸の町家に生まれ、文化10(1813)年酒井抱一に画才が認められ、内弟子となる。同14年同門の鈴木藤兵衛(蠣潭)が急死したのち、鈴木家の家督を継いで抱一付きの酒井家の臣となる。40歳前後より師風を脱し、特有の色感と形態感覚および奇抜な発想と大胆な構成とによって独自の世界を形成する。代表作に「夏秋渓流図屏風」(根津美術館蔵)、「白椿・薄野図屏風」(フリア美術館蔵)や「柳に白鷺図屏風」(心遠館コレクション)などがある。幕末期江戸のやや退廃的市民感情を共有しつつも、写実的な自然描写と装飾性との新たな調和を目指した作品には,明治期の日本画へと繋がる新鮮な内容もみられる。<参考文献>山根有三ほか編『琳派絵画全集 抱一派』,河野元昭「鈴木其一の画業」(『国華』1067号)
(仲町啓子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 

(参考)池田孤邨(いけだ こそん)
没年:慶応2.2.13(1866.3.29)
生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信,字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』
(仲町啓子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 

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