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琳派とその周辺(その一) [琳派とその周辺]

(その一)中村芳中「四季草花図屏風」

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中村芳中筆「四季草花図屏風」(右隻) 紙本金地著色 六曲一双の右隻
七㈦・三××三五三・〇㎝ 大英博物館蔵 出典『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』

芳中・四季草花図二.jpg

中村芳中筆「四季草花図屏風」(左隻) 紙本金地著色 六曲一双の左隻
七㈦・三××三五三・〇㎝ 大英博物館蔵 出典『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』

 中村芳中は、生まれは京都だが、大阪(浪速・浪華)で活躍した、謂わば、「琳派浪華風」の絵師である。芳中は「指頭画」も得意とし、指頭画の大家、池大雅などの手ほどきを受けたのかも知れない。
 芳中と親交のあった木村蒹葭堂の絵の師は、大雅であり、芳中と蒹葭堂とは、同じ大雅門なのかも知れない。すなわち、芳中は、大雅や蕪村のフィールドである「文人画」(日本南画)からスタートしたのかも知れない。
 その芳中が江戸へ下ったのは、寛政十一年(一七九九)のことで(『蒹葭堂日記』など)、その江戸にあって、享和二年(一八〇二)に、芳中は『光琳画譜』を上梓するのである。
 この『光琳画譜』の出版は、芳中の琳派宣言と解して差し支えなかろう。すなわち、芳中の江戸下向も、そして、この『光琳画譜』の刊行も、「琳派浪速風」絵師・中村芳中を世に問うものであったことであろう。
 上記の作品も、芳中が文人画から琳派へと移行した頃の作品で、光琳風というよりも宗達(「伊年」印=宗達工房)風の、江戸下向前、後の芳中の「たらし込み」技法駆使以前の作品の一つのように思われる。
 芳中の名が表れる最も早い資料は、寛政二年(一七九〇)版『難華郷友録』の中であって、
そこには、「滕方休 字方仲 号温和堂 内本町太郎左衛門町 中村方仲」とある。「滕」は「藤原」の「藤」、「方休」は「方仲」と解されている(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸堂)』)。
 『蒹葭堂日記』に芳中の名が出て来るのは、寛政八年(一七九六)のことで、「青木八十八 鳳中(注・芳中)紹介来」と、「青木八十八」こと「青木木米」を蒹葭堂に紹介しているものである。
 青木木米は、明和四年(一七六七)、芳中と同じく京都の生まれで、大雅の終生の友、高芙蓉(こうふよう=篆刻家・画家・儒学者)に書を学んでおり、木米と芳中とは、芳中がやや年長の兄貴分とするならば、木米は弟分というような雰囲気で無くもない。
 この木米が大阪の蒹葭堂と知り合った寛政八年(一七九六)当時は、二十九歳の頃で、この時に、蒹葭堂の書庫で、清の朱笠亭が著した『陶説』を読み、感銘を受けて作陶を志し(後に木米は『陶説』を翻刻する)、奥田頴川に入門し、その翌年の三十歳の境に京都・粟田口に釜を開き、京焼の陶工として評判を得るようになる。
 この木米は、文人画家(南画家)としても著名で、大雅・蕪村の次の世代を担っている一人ということになる。その代表作に挙げられるものは、次の「兎道朝瞰図(うじちょうかんず)」(重要文化財)である。

兎道朝瞰図.jpg

重要文化財 指定名称:紙本著色「兎道朝暾図(うじちょうかんず)」
青木木米筆 1幅 紙本淡彩 48.4×59.3 江戸時代・文政7年(1824)
東京国立博物館 A-11191
【青木木米(1767~1833)は江戸後期の陶工、南画家。京都の料理茶屋に生まれ、初め奥田穎川(おくだえいせん)に学び、染付、青磁、南蛮写等によって煎茶器をつくって名をなした。また、高芙蓉(こうふよう)、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)と交友し文人としての素養を身につけ、田能村竹田(たのむらちくでん)、頼山陽(らいさんよう)の知遇を得た。
本作品は、「甲申仲秋」の年紀から、文政7年(1824)、木米58歳の作と知れる。また題記により、皐陽君(和気正稠)のために鑑水楼(朝日山中の頼山陽命名の料亭)で兎道(宇治)の朝景色を描いたものであることがわかる。
画面中央には藍一刷毛で描かれた宇治川が流れ、右に平等院鳳凰堂、左には宇治橋が見える。中央奥にそびえる山は、本図を描いた鑑水楼のある朝日山。墨の濃淡と藍や代赭といった淡く爽やかな色彩によって宇治の景色を描いた、木米の代表作である。 】

http://www.emuseum.jp/detail/100323/000/000?d_lang=ja

 芳中が没したのは、文政二年(一八一九)、この木米の代表作が描かれたのは、文政七年(一八二四)、木米、五十八歳の時であった。木米は、殊の外、この「兎道朝暾図(うじちょうかんず)」を題材などにすることを好まれ、掛け幅として描かれたものも、著名なもので三点もあり、その他扇子に茶器の箱にと、数点のものを今に遺している。
 これらは、「どれも実景を踏まえながら、それを心ゆくまで、胸中に組み立て、組みなおし、朝日に照り映える宇治の実景そのものとは別な、芸術的世界として表現している。木米の絵の色彩は、藍色と茶色に独特の持ち味なり感覚があり、それはうわつかず沈まず、木米画が有する一半をなしている」(「日本の美術№4 文人画(飯島勇編)」)。
 その木米が没したのは、天保四年(一八三三)、六十七年の生涯であったが、文人画家としては、全くの「一人一派」を全うし、その文人画を大成した「大雅・蕪村」の継承の、その本来的な一つの生き方を示しているとも換言できよう。

 さて、冒頭の芳中の「四季草花図屏風」に戻って、芳中の絵師としてのスタートは、この木米の、この「兎道朝暾図」のような、「藍色と茶色」の文人画が目指すようなものであったのてあろうが、それを、より装飾的な、すなわち、「金地・銀地、著色、たらし込み」の、「宗達・光琳」風、世界への接近、そして、その世界へ移行を目指すものと、その方向転換を図ったということになろう。そして、その一つの分岐点の証しが、冒頭の「四季草花図屏風」(六曲一双)の大作ということになろう。
 しかし、その芳中の「琳派浪華風」も、その根っこのところには、木米と同じく「一人一派」の文人画的な世界を引きずっており、その芳中の「琳派的浪華風」を引き継ぐ風潮は見られず、その後の琳派の主流とは、決して相和することはなかったということになろう。 

(参考一)中村芳中(なかむらほうちゅう)  
没年:文政2.11(1819)
生年:生年不詳
江戸後期の画家。京都に生まれ、のち大坂に住む。号は温知堂、担板漢。南画風の作品や独特のたらし込みを駆使した琳派風の作品を残す。江戸滞在中に『光琳画譜』(1802)を刊行。代表作「四季草花図屏風」(大英博物館蔵)。<参考文献>木村重信『中村芳中画集』
(仲町啓子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 

(参考二)青木木米(あおきもくべい)
没年:天保4.5.15(1833.7.2)
生年:明和4(1767)
江戸後期の陶工、南画家。京都祇園の茶屋「木屋」に青木左兵衛の子として生まれる。青木家の祖先は尾張の藩士と伝え、京都に移って茶屋を経営していた。俗称は八十八、縮めて米と称し,屋号の木を取ってあわせ木米と名乗った。字は佐平、号は九々麟・百六散人・古器観・聾米など。幼少時から文雅の道に興味を抱き、諸々の老大家とすでに交遊をはじめており、文政3(1820)年4月に自伝をまとめている。それによると、本来は陶工ではなく、文人墨客の家で古器を観賞することを趣味としていたといい、大坂の代表的文化人木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した『陶説』を見て陶工たらんことを心に期したという。20歳代の消息は不明な点が多いが、古銭の模鋳をはじめたのが工芸の実作の最初とされる。30歳代で奥田穎川に入門、享和年間(1801~04)にはすでに陶工として世にその名が聞こえていた。のち、徳川治実や加賀の金沢町会所の依頼で作陶を指導し、文人陶工として一家をなした。文政7年、58歳前後に優れた作が多い。絵もよくし、陶器の絵付と関連した色感の作品がある。絵の代表作に「兎道朝暾図」がある。<参考文献>満岡忠成『木米』
(矢部良明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について
タグ:中村芳中
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