SSブログ

琳派とその周辺(その十)酒井抱一「紅梅図」 [琳派とその周辺]

(その九)酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 

    難波津の習ひ始やうめの花(第七 かみきぬた)
    うぐひすの遅音笑ふや垣の梅(第七 かみきぬた)

 この一句目の句は、『古今和歌集』仮名序の「おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた」(仁徳天皇を諷した歌)として出てくる「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(王仁)を踏まえたものであろう。
 この歌は、万葉巻十六の「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」とともに「和歌の父母」とされ、初めて書を習う人の手本とされており、それを踏まえて、この中七の「習ひ始めや」が、抱一の趣向ということになろう。
 この句の「難波津」は、その歌の「難波の港、難波は大阪市及びその付近の古称」の意味ではなく、その歌のを踏まえての「和歌の道・和歌」ということになる。
さらに、この句の下五の「うめの花」も、仮名序の古注の「おほさざきのみかどの、難波津にてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、位につきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし」の、「梅のはな」を踏まえてのものということになろう。 
二句目の句の「うぐひす」は、抱一が、文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えて、その「下谷金杉大塚村」を「鶯邨(村)」と名付け、それを号の一つとしている、その「鶯邨(村)」の「鶯」を指しているのであろう。
この「雨華庵」は、抱一が身請けした小鶯女史(遊女・香川、出家して妙華)と共に過ごした、その抱一と妙華との、終の棲家でもある。この抱一と小鶯女史の、「難波津」(和歌)
の師匠は、抱一と同じく武家出身(江戸町奉行与力)の「国学者・歌人・書家」の加藤千蔭(橘千蔭)ということになろう。
 この加藤千蔭は、享保二十年(一七三五)の生まれ、宝暦十一年(一七六一)の生まれの抱一よりも、二十六歳も年長であるが、抱一の多くの画に賛をしており、抱一の師匠格として大きな影響を与えた一人であろう。この千蔭は、文化五年(一八〇八)に七十三歳で没するが、この千蔭への抱一の追悼句が、『屠龍之技』の「第七 かみきぬた」に、次のとおり収載されている。

    橘千蔭身まかりける。断琴の友
    なりければ
  から錦やまとにも見ぬ鳥の影 (第七 かみきぬた)

 上五の「から錦」(唐錦)が晩秋から初冬にかけての季語である。中七の「やまとにも見ぬ」の「やまと」は「倭・大和」で、「唐錦」を受けての「倭」(日本国)の意と「江戸」に対する「大和」(「奈良・京都」)の意を兼ねてのもので、「大和」の「公家文化」にも匹敵する「和歌・書」の第一人者という意味合いも込められているであろう。
 京都出身で、主に大阪を活躍の場とした、抱一と同時代の画家・中村芳中が、享和二年(一八〇二)に江戸で刊行した『光琳画譜』の「序」を、加藤千蔭が書いており、抱一と芳中とは、加藤千蔭などを介して、何らかの接点はあったことであろう。
 そして、この中村芳中などの接点からして、抱一の、京都の尾形光琳や与謝蕪村(大阪出身)との接点も見え隠れしている雰囲気を漂わせている。




紅梅図.jpg

酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。
(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

 行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ → 野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

妙音天像一.jpg

酒井抱一筆「妙音天像」一幅 文化十一年(一八一四) 個人蔵
絹本著色 一三三・〇×六一・五㎝
【 抱一は巳年生まれで江ノ島詣でを頻繁にするなど、技芸の女神、妙音天(弁財天)への信仰は厚かった。本図は、鎌倉の鶴ケ丘八幡宮の什物で光明皇后筆と伝える妙音天像の模写を元に、極彩色で特に入念に描いた堂々たる大幅である。周囲に波濤文様を描くが、金泥と墨の線は均質としないところに味もある。上部の題「海印発光」は小鸞女史の書で、文字や額の意匠は全て金の厚い盛り上げで仕上げられている。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説142(松尾知子稿)」)

 先の「紅梅図」(小鸞女史賛)を描いたのが、文化七年(一八一〇)、抱一、五十歳のとき、そして、この「妙音天像」(小鸞女史題字)を描いたのは、文化十一年(一八一四)、五十四歳のときである。 
 この前年の文化十年(一八一三)に、十八歳になった鈴木其一が抱一の内弟子となる。そして、小鸞女史(御付女中・春條)が剃髪して妙華尼と名乗り、また、庵居を「雨華庵」と称したのが、文化十四年(一八一七)、抱一、五十八歳のときである。
この年に、鈴木蠣潭が、二十六歳の若さで急逝し、同時に、其一が、抱一の媒介で、蠣潭の姉(りょう)と結婚し、鈴木家を継ぐとともに、蠣潭に代わり、其一が抱一の付人となっている。
 こうして見て来ると、小鸞女史(妙華尼)と其一とは、五十歳代の抱一の、文字通り、最側近であったことが了知されてくる。これに、まだ、健在であった、蠣潭を加え、抱一の画業の背後には、小鸞女史(妙華尼)・蠣潭・其一の、この三人が最大の支援者であったということになる。
 この抱一の「妙音天像」の、その猫表層装に描かれた「波濤図(文様)」は、おそらく、蠣潭と其一とが担当し、そして、金襴の中の朱を背景としての金文字の題字「海印発行」の四字は、この「妙音天像」の化身のような、小鸞女史(遊女・香川、妙華尼)が揮毫し、ここに「無類一品」の抱一仏画が誕生したことになる。
 この「無類一品」は、其一の後継者・守一の、次の箱書きに因って命名されたものである。

【 守一の次のような箱書がある。
「此妙音天之図者光明皇后之御筆
鶴ケ岡八幡宮什物上人為臨模処
之無類一品之真蹟也
庭栢子守一誌」
なお、焼けた痕のある本図の原寸下絵、小鸞女史の題字下書も伝わっていることも報告しておく。雨華庵に伝わり火災で焼け残った文書であろうか。谷文晁にも同図があることは知られるが(八百善伝来)、波濤文様は描かれていない。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説142(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」に出てくる「庭栢子守一」は、鈴木其一の後継者、鈴木守一である。抱一の実質的な後継者は、其一であるが、抱一在世中から雨華庵の近傍に住み、「雨華庵」は、小鸞女史(妙華尼)の養子となって、十一歳の頃に雨華庵に入り、抱一と生活を共にしている鶯蒲が継承することとなる。
 「雨華庵」というのは、抱一工房(画室)であるとともに、仏事を営む場(「唯心寺」)でもあり、大名家の一員という高位の身分を離れ、出家して市井の絵師として、その後半生を歩んでいる抱一にとっては、仏画制作というのは、大きなウェートを占めているものであった。
 そして、其一自身、抱一没後の翌年、文政十二年(一八二九)に三十四歳にして剃髪して、抱一の内妻であった小鸞女史(妙華尼)とともに、雨華庵(唯心寺)二世鶯蒲をサポートし、其一もまた、多くの仏画制作に携わっている。
 そして、その其一の継承者の守一が、この「妙音天像」を、「之無類一品之真蹟也心」と箱書きをしている。まさに、これは、「雨華庵(唯心寺)」の秘宝のような位置を示すものなのであろう。
 この「妙音天像」の上部に、小鸞女史(妙華尼)が揮毫した「海印発光」の四字は、今に燦然と輝いている。

(参考一)酒井鶯蒲(さかいほう)
文化5年(1808年) - 天保12年7月23日(1841年9月8日)
江戸時代後期の江戸琳派の絵師。酒井抱一の弟子で、後に養子となり雨華庵2世を継いだ。通称八十丸。名は詮真、号は伴清、獅現、雨華庵、獅子丸など。
 築地本願寺の末寺である市ヶ谷浄栄寺住職、香阪壽徴(雪仙)の次男として生まれる。抱一が吉原で身請し、事実上の妻となっていた小鶯(妙華尼)の願いで、文政元年(1818年)11歳で雨華庵に入る。『古画備考』には文政10年(1827年)国学者檜山坦斎からの聞き書きとして、鶯蒲が抱一のことを「御父様」と呼ぶことを姫路酒井家から咎められたこと、しかし抱一も鶯蒲をよく愛したこと、水戸公に会った折抱一と共に席画などをした事、書を良くし、茶道を好んだことなどが記されている。鶯蒲が描いた「浄土曼荼羅図」(個人蔵)には、抱一の箱書きや手紙が付属し、鶯蒲に世話をやく抱一の様子がわかる。
鶯蒲は早世しており遺作は少ないとされたが、近年その印象を覆す質・量の作品が発見されており、雨華庵を託されるだけの力量を持った絵師だったことが確認された。作風は基本的に抱一に倣ったもので、父子合作も多いが、天井画や絵馬、扇・団扇や極小の絵巻といった工芸的作品、版本下絵や俳諧摺物など多方面で絵筆を揮っている。雨華庵は絵画工房ではあるものの、基本的には仏事を行う場所であるためか、早くから仏画の修練を積んでいる。しかし、天保12年(1841年)34歳で早世。戒名は依心院詮真法師 唯信寺鶯蒲。墓所は築地本願寺。鶯蒲に子はなく、築地善林寺の長子を養子とし雨華庵3世酒井鶯一として継がせた。他の弟子に、斎藤一蒲など。(wiki)

(参考二)鈴木守一(すずきしゅういつ)
 文政六年(一八二三)~明治二十二年(一八八九)
幕末・明治の画家。江戸生。画家鈴木其一の長子。名は元重、字は子英、通称は重五郎、別号に庭柏子、露青、静々。父其一に学んで光淋派の画を能くする。雨華庵が二世鶯蒲、三世鶯一、四世道一、五世唯一と継承されていく一方で、鈴木家では其一の代に多くの弟子を抱え、其一派ともいうべき一派となった。守一は、その継承者である。明治22年(1889)歿、67才。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート