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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) 

その十八 蓬莱山図

蓬莱.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「蓬莱山図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

蓬莱二.jpg

池田孤邨画「蓬莱・百亀・百鶴図」三幅対 絹本著色 各九六・〇×三二・四㎝ 個人蔵
【池田孤邨(一八〇三~六八)は其一より七歳年下抱一の弟子。抱一没後は雨華庵から独立し、鶯蒲や其一とある程度の距離を保ちながら明治維新直前まで活躍した。最晩年の元治元年(一八六四)には『光琳新撰百図』を、翌慶応元年(一八六五)には『抱一上人真蹟鏡』を発行、光琳、抱一と連なる流派の一員であることを意欲的に示した。三幅対の中幅は海上に聳える蓬莱の島に初日、右幅は夥しい亀を、左幅にも刈田に鶴の群れを配して新年を祝す掛物である。(後略) 】(『江戸琳派の旗手 鈴木其一』所収「120 蓬莱・百亀・百鶴図」)

 この中幅が「蓬莱山図」である。「蓬莱山」は、仙人の住む理想郷で、中国の神仙思想のシンボルの山である。

「中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。しかし,遠く望めば雲のようであり,近づけばどこへか去って,常人にはいたりえないところという。前4世紀頃から盛んにいわれるようになり,神仙思想の原型となった。日本にも伝わって,富士山,熊野山,宮城県の金華山などの霊山の呼び名となった。また,熱田神宮を蓬莱と呼ぶこともある。」
https://kotobank.jp/word/蓬莱山-132488

 この孤邨が描く「百鶴図」は、「丹頂鶴と真鶴を混ぜる図様も光琳画を継承している」(上記の「作品解説」)と、前回の「鍋鶴」は、「真鶴」と解するのが妥当のようである。
 なお、『江戸琳派の旗手 鈴木其一』には、次のような、「蓬莱山図」主題の「吉祥物」(縁起物)が掲載されている。

 酒井道一画「蓬莱・桜・瓢箪図」三幅対(作品解説129)
鈴木其一画「雛掛物」三幅対 滴翠美術館蔵(作品解説139)

この其一の「雛掛物」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「中央は蓬莱山に日輪、右幅には白椿に鴛鴦、左幅には鯉に萍(うきくさ)を描く三幅対。(中略)蓬莱山の上には二羽の鶴が飛翔し、鴛鴦、鯉も番(つがい)であることを考え合わせれば、婚礼調度として誂えた雛道具の一種だろうか。」

 鈴木其一画「亀蓬莱山図」一幅 細見美術館蔵(作品解説161)

この其一の「亀蓬莱山図」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「(前略)海の彼方にある蓬莱山は古代中国の神仙思想に基づくが、江戸琳派では仙人の住む理想郷として緑の松とともにユニークな形で描かれ、新年の床飾りとして多くの注文を得たようだ。(後略)」

 さて、抱一の「蓬莱山」に関する句というと、抱一自撰句集『屠龍之技』を丹念に見ていくと、これはというのにお目にかかるのかも知れないが、ここは、抱一の先輩格の与謝蕪村の次の句が相応しいであろう。

  蓬莱の山まつりせむ老の春 (蕪村 安永四年=一七七五 六十歳)

 この蕪村の句の意は、「還暦に当たる老いの正月に、蓬莱山を床の間に飾り目出度い寿ぎの年を迎えたい」というようなことであろう。
 この句は、蕪村の夜半亭一門の歳旦開き(初句会)の句で、この句を発句にしての歳旦三つ物が今に遺されている。

  安永乙未歳旦
 ほうらいの山まつりせむ老の春   蕪村
  金茎の露一杯の屠蘇       我則
 閣寒く楼あたたかに梅咲きて    月渓

  其二
 みよし野の旅出撰ばんはつ暦    月渓
  花の都やみなさくら人      蕪村
 おぼろ月堤の小家ゆかしくて    我則

 其三
 冨士の夢さめ行窗や初霞      我則
  よゝと雑煮をくらふ家の子    月渓
 春風に朱のそを舟哥ふらん     蕪村
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