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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十) [酒井抱一]

その十 山東京伝の「吉原傾城新美人合自筆鏡」と抱一の「吉原月次風俗図」など

山東京伝・吉原.jpg

北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

 この「吉原傾城新美人合自筆鏡」は、北尾政演(後の山東京伝)の作である。天明三年(一七八三)、版元は蔦屋重三郎で、「青楼名君自筆集」として大判二枚続きの作品として刊行された。その翌年、画帖仕立てにして、「序」は四方山人(大田南畝)、「跋」は朱楽館主人(朱楽菅江)が書き、「吉原傾城新美人合自筆鏡」として売りに出された。
 「傾城」とは、遊女のことで、「吉原傾城新美人合自筆鏡」とは、その名のとおり、吉原の遊女を描いた美人画集である。太夫(最高位の遊女)と新造(若い見習いの遊女)や禿(遊郭の住み込みの童女)などを、一図に五・六人の遊女を描き、太夫の自筆とされる詩歌などを図に添えている。
 繰り返しになるが、この作者の北尾政演は、浮世絵師・北尾重政の門人で、黄表紙(江戸小説の一種)の挿絵を中心に美人画や役者絵などを手掛ける一方、山東京伝の戯作号で、黄表紙、洒落本、合巻、読本など幅広いジャンルの執筆活動を行った、マルチタレントの典型的な人物である。
 月の大半を遊所で過ごしたとされ、吉原に親しんだ政演は、浮世絵師・北尾政演、また、戯作者・山東京伝として、版元の蔦屋重三郎と深い関係にあった。
この蔦屋重三郎は、政演よりも十一歳年長で、江戸吉原で生まれ育ち、その吉原大門口で、貸本・小売を主体とする本屋(耕書堂)を開業し、『吉原細見』(遊郭情報誌)を刊行し、大ヒットさせる。そして、次第に出版の内容を広げ、狂歌・戯作界の中心的人物の大田南畝と親交を深め、それらの作品を独占的に手掛けるようになる。
 さらに、寛政四年(一七九二)に、喜多川歌麿による美人大首絵を刊行、また、寛政六年(一七九四)、東洲斎写楽による役者似顔大首絵を刊行し、歌麿・写楽の名を今に轟かせている原動力となっている。北斎もまた、重三郎の狂歌絵本から出てきた新人で、今日の、これらの浮世絵師の名声は、名プロデューサーの蔦屋重三郎の名を抜きにしては語られないと言っても過言でなかろう。
浮世絵師・北尾政演もまた、この名プロデューサー・蔦屋重三郎の企画ものの、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」によって、その名を不動のものにしたと言って、これまた過言でなかろう。
さて、そのトップを飾る、上記の「吉原傾城新美人」の太夫(花魁)は、中央の立膝をしているのが、「よつめ屋(四つ目屋)」の「なゝ里(七里)」で、その左に立って筆を執っているのが、同じ「よつめ屋(四つ目屋)」の「うた川(歌川)」のようである。

 右上部に書かれている「なゝ里(七里)」の歌の、「みよし野のかはへ(川辺)にさけるさくら花」の出だしは、古今和歌集の「みよし野の山辺に咲ける桜花・雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)のパロディの一首のようである。その下の句は、「ちりかかるをや」(散りかかるをや+塵かかるをや)「にごる(濁る)といふらむ(言ふらむ)」(『古今集』の伊勢のパロディ)の、そんな雰囲気の歌のようである。
 それに比して、左上部に書かれている「うた川(歌川)」の発句(俳句)は、「雨帯(び)てうこかぬ(動かぬ)梅のにほひ(匂ひ)かな」と比較的詠み易い感じである。これも、誰かの句のパロディの一句なのであろう。

 この「よつめ屋(四つ目屋)の「七里と歌川の二人」(三頁)に続き「四頁(二人)~九頁(二人)」と、合計すると、十四人の「太夫(花魁)」が、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」には登場する。
 そして、この「九頁の右側の松葉屋の瀬川」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-09

 上記のアドレスのものを再掲して置きたい。

(再掲)

北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

吉原・元旦.jpg

(紙本淡彩、旧状は押絵貼六曲一双・現状は十ニ幅に改装、個人蔵)
「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」所収「琳派・第五巻」挿図

 この抱一筆「吉原月次風俗図」の正月の図に大書されている「花街柳巷(かがいりゅうこう)」は、李白の詩などに由来する「花街」(遊郭・色里)の意で、この図の左側の賛(発句=俳句)「元日やさてよし原はしヅかなり」からすると、「吉原」(新吉原)」ということになろう。
 この「花街柳巷」にぴったりの、広重(初代)が描く「吉原(花街吉原・大門)・巷(衣紋坂)・柳(見返り柳)・日本堤(隅田川土手)」の絵図がある。


雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow

吉原・桜.jpg

広重筆「東都名所 新吉原」(国立国会図書館蔵)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303523

 上の「新吉原雪の朝」の、右下が、「吉原の大門」で、「くの字の小道(巷)」が「衣紋坂」、その「くの字の巷」と「日本堤」との合流する所に「見返り柳」が描かれている。雪の朝で閑散とした吉原のスナップである。
 下の「新吉原」は、花見時のスナップで、手前に、吉原大門は描かれていず「吉原郭内図」、そして「くの字の衣紋坂」の一部、その先に「見返り柳」が描かれている。「日本堤」には、猪牙舟(ちょきぶね)で乗り付けて来た日本堤から吉原へ向かう遊客の群れが描かれている。
 新吉原は、明暦三年(一六五七)に、現在の日本橋人形町の旧(元)吉原から引っ越して来て、爾来、この吉原が江戸文化の中心地となり、明治五年(一八七二)の「娼妓解放令」が出た時の記録には、「百八十軒の遊女屋、百二十一軒の引手茶屋、三千四百四十八人の遊女、百七十一人の芸者、二十五人の幇間が居て、郭内の人口は一万人を超えていたという(『お江戸吉原ものしり帖(北村鮭彦著)』)。
 その郭内には、日常生活に必要な雑貨、小間物、荒物、魚屋などの食品を扱う店、仕出屋、菓子屋、銭湯、医師、書道指南、幇間(たいこもち)・音曲師匠、三味線師、大工、左官などの一般の町人、職人、芸人などと、まさに、当時の江戸の縮図のような賑わいを呈していたのであろう。
 上記の遊女屋というのは、「妓楼・青楼」、そして、引手茶屋というのは、遊客を遊女屋に案内する茶屋で、郭内の中央のメインの「仲の町通り」(大門から水道尻までの吉原一の大通り)の両側に軒を連ねており、上記の「新吉原」の桜並木(植木)に面した二階家が引手茶屋であろう。
 この引手茶屋は、上級の遊客が利用し、単純に遊女と遊ぶ面々は大通りから横町に入っての「張見世」、さらに、「浄念河岸」と「羅生門河岸」の「切見世」「銭見世」などを利用することになる。
 遊女のランクも、元吉原時代の「太夫・格子・端」の三ランクの区分も、新吉原時代になると、「太夫・格子・散茶・局(梅茶)・切見世」の五ランク、そして、新吉原時代後期
になると、「呼出・昼三・附廻・座敷持・部屋持・切見世」の六ランクにと変容するようである(「国文学解釈と鑑賞:川柳・遊里誌:昭和三八・二」など)。
 さて、ここで、冒頭の、北尾政演(後の山東京伝)が描く「吉原傾城新美人合自筆鏡」の主要な遊女(花魁)は、「太夫・格子・端」のランクの、その当時の名称の如何を問わず、最高級の「太夫」クラスであることは言うまでもない。
 と同時に、「山東京伝(北尾政演)・酒井抱一(屠龍・尻焼猿人)・大田南畝(四方赤良))らが吉原詣でするのは、この引手茶屋(妓楼・蔦屋耕書堂などのサロンを含む)などで繰り広げられる「文化サロン」(「連」「宴」「遊びの場」「交遊・ネットワーク」等々)での人との交歓が主で、単なる、いわゆる「傾城(遊女)」との「男女間の情愛」などを直接的に意図してのものではないということなのである。

  美しい花をちらすと二十七 (『柳多留一四』三一)
  二十八才で人間界へ出る  (『柳多留二八』一七)
  二十八からふんどしが白くなり(『柳多留二五』一〇)

 吉原というのは、良くも悪くも、三千人を超える遊女中心の世界であって、その遊女による「宴=晴」の空間であると同時に、その遊女の働きに因って一万人以上の人間が生活しているという「娑婆=褻」の空間でもある。
 そして、この吉原の主役の遊女は、厳しい年齢制限があって、二十七歳で「人間界=娑婆」へ出て、二十八歳からは、「赤い湯文字(ふんどし)」から「白い湯文字」を着けなければならないという、厳然たる事実の中に身を置いているのである。

 ここで、またまた、前回に引き続き、「山東京伝を始め、大田南畝、そして、出家後の、酒井抱一などの面々が、吉原の遊女たちを、己の伴侶とするのか」という問い掛けに対して、「その一端は、上記の、北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)を紐解けば合点が行くように、当時の最高級の女性が、この吉原に結集していたことと、今回、取り上げた、この吉原の女性の年齢制限も、大きく関係していると思われることも、付記して置きたい。
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