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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十一) [酒井抱一]

その十一 江戸の粋人・抱一の描く「その一・吉原月次風俗図(元旦)」など

吉原・元旦.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)
十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。
 正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 酒井抱一には、文政二年(一八一九)、五十九歳時の自跋がある「吉原」(新吉原)に関する「俳画集」とも言うべき『柳花帖』(全一冊・五十六丁・五十六図・五十五発句)がある。その跋文は次のとおりである。

【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この『柳花帖』には、「箱書」があり、そこには、次のように記載されている。

【 抱一上人筆句集
屠龍の技
  天保丁酉初春日 可保茶宗園題画 「大文字や」(朱文方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この箱書きをした「可保茶宗園」は、吉原大文字屋三世南瓜宗園で、宗園は抱一に絵のてほどきを受けていたという(俳諧・狂歌なども手ほどきを受けていたと思われる)。そして、抱一が若い時から親交が厚かったのは、二世可保茶元成で、その元成ために戯画したとも伝えられている初代「大文字屋市兵衛図」については、下記のアドレスなどで触れている。

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23  

 そこで、この『柳花帖』についても触れているが、その『柳花帖』の俳句(発句一覧)について、ここでも、再掲をして置きたい。

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図 はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

 さて、ここで特記をして置きたいことは、この「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の箱書きの「天保丁酉」は、天保八年(一八三七)で、「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』)に、「十月二十七日、妙華尼没(浄栄寺過去帳)」とあり、抱一の伴侶・小鶯女史(俗名=おちか、御付女中名=春篠・春条《はるえ》?、遊女名=香川・一本《ひともと》?・誰ケ袖?)が亡くなった年なのである。
 さらに、その年に、「『柳花集』其一挿絵」とあり、この狂歌集『柳花集』(村田元就・遊女浅茅生撰、村片相覧・鈴木其一画)の撰者の「村田元就」は、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」であろう。そして、この「遊女浅茅生」は、抱一の伴侶の妙華尼と何らかの縁があるように思われるのである。
 ここで、大胆な推測をすると、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の懇請により描かれたとされている、この抱一の俳画集『柳花帖』は、何らかの機縁で、抱一の伴侶・妙華尼が手元に所持していて、亡くなる時に、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の再び元に戻ったように解したい。
 として、この『柳花帖』は、抱一と小鶯女史との思い出深い画帖と解したいのである。そして、この抱一と小鶯女史との、その深い関わりに陰に陽に携わった、その人こそ、抱一の後継者の第一人者・鈴木其一と解したいのである。
 これらのことについては、下記のアドレスで、上記の『柳花帖』の「※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花」に関連しての「抱一・小鶯女史・其一」との、この三者の深い関わりについて触れている。ここで、その「※其一筆『文読む遊女図』(抱一賛)」関連のものも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

(再掲)

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 九㈣・二×二六・二㎝
細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都 
一尺楊枝 
只北廓女 
朝々玩之

長房の 
よふし涼しや 
合歓花
       抱一題「文詮」(朱文瓢印)  】  
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

 上記の解説文で、上のものは「簡にして要を得る」の典型的なもので、これだけでは、何とも「謎」の多い「文読む遊女図」のものとしては、やや不親切の誹りを受けるのかも知れない。
 ということで、下のものは、その「謎」解きの一つの、「房楊枝(歯ブラシ)」が「合歓の花」の比喩(別なものに見立てる)であることについて触れている点は、親切なのだが、しかし、その後の、「朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である」となると、やや、説明不足の印象が拭えない。

昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎・『万葉集・巻八(一四六一)』)

 この万葉集の「紀女郎」の歌の「君」は、「紀女郎」自身であり、「戯奴(わけ・たわむれやっこ)は、年下の恋人の大伴家持である。

 これに対して、家持の返歌は次のとおり。

 我妹子(わぎもこ)が形見の合歓は花のみに咲きてけだしく実にならじかも (大伴家持
『万葉集』巻八・一四八三) 

 冒頭の「文読む遊女図」(其一筆・抱一賛)には、この『万葉集』の相聞歌などが背景にあり、「君=紀郎女=遊女香川=小鸞女史(抱一夫人=妙華尼)」と「戯奴=大伴家持=抱一(雨華庵)」とを、その走り使いの其一が、一幅ものにしたような、そんな雰囲気を漂わせている。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉

 芭蕉の、この『おくのほそ道』での句は、蘇東坡の詩句を受けてのもので、上記の『万葉集』の相聞歌とは関係がないが、抱一に見受けされて、終の棲家の「雨華庵」で、晩年の抱一を支え続けた小鸞女史のイメージは、花魁香川というイメージよりも、控え目な西施風のイメージが強いであろう。

 抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、其一は、寛政八年(一七九六)の生まれ、両者の年齢差は、三十五歳と、親子ほどの開きがある。抱一が、新吉原大文字屋花魁・香川を、見受けして、表向きは御付女中・春條(はるえ)とし、「雨華庵」で同棲を始めたのは、文化八年(一八〇九)、其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)の頃である。
 文化八年(一八〇九)の、抱一の内弟子になる以前の其一は、おそらく、抱一の中小姓として仕えていた鈴木蠣潭の下で、抱一の小間使いのようなこともしていたように思われる。
 すなわち、冒頭の「文読む遊女図」の遊女は、其一が知っている遊女図というよりも、主君のような存在の抱一と、その御付女中・春條として迎え入れられた「遊女(花魁)・香川」図のように理解して来ると、この「文読む遊女図」(其一筆)の、抱一の賛(漢詩と発句)が、始めて、その正体を現してくるような感じなのである。
 それらのことを念頭にして、抱一の賛(漢詩と発句)を読み解くと、次のようになる。

 無有三都  (三都に有や無しや)
 一尺楊枝  (見よ この一尺の歯楊枝を 即ち この一尺の合歓の花を)
 只北廓女  (只に 北に咲く合歓の花 即ち 只に 新吉原の廓女を)
 朝々玩之  (朝々に これを愛ずり 朝々に これと交歓す)

 長房の    (長い房の その歯楊枝の如き)
 よふし涼しや (夜を臥して涼やかに そは夜を共寝して涼やかに)
 合歓花    (合歓の花 そは西施なる妙なる花ぞ)

 其一が生まれた寛政八年(一七九六)、抱一、三十六歳時に、「俳諧撰集『江戸続八百韻』を世に出し、其角・存義に連なる江戸座の俳諧宗匠の一人として名をとどめ、爾来、抱一は、その俳諧の道と縁を切ってはいない。
 その俳風は、芭蕉門の最右翼の高弟、宝井其角流の、洒落俳諧・比喩(見立て)俳諧の世界で、その元祖の芭蕉俳諧(「不易流行」の「不易」に重きを置く)とは一線を画している。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉
  長房のよふし涼しや合歓花  抱一

 芭蕉の句の、この「西施」なる字句の背景に、蘇東坡の漢詩が蠢いているが、それが、この句の眼目ではなく、歌枕の「象潟」を目の当たりにして、その「象潟」の、永遠なるもの(流行に根ざす不易なるもの)への「感慨・憧憬」と、その地霊的なものへの「挨拶」が、
この芭蕉の句の眼目となってくる。
 それに比して、抱一の句は、「長房の」の「長房」(「長い房」と「長い歯楊枝」との掛け)、「よふし涼しや」の「よふし(「夜臥す」と「夜閉じる」との掛け)の、「洒落・見立ての面白さ」が、この句の眼目になっている。そして、それは、下五の「合歓の花」に掛かり、全体として、「合歓の花」を見ての、刹那的(不易なるものより一瞬に流れ行くもの)な「感慨・憧憬」を、言霊(ことだま)的な「挨拶」となって、一種の謎句的なイメージが、この抱一の句の眼目となってくる。
 
  雨の日やまだきにくれてねむの花  蕪村

 蕪村も、抱一と同じく、其角・巴人の「江戸座」の「洒落・比喩俳諧」の流れに位する俳人の一人である。しかし、抱一と違って、「其角好き」の一方、無類の「芭蕉俳諧の信奉者」なのである。
 この蕪村の句も、「まだきくれて」(まだ時間でもないのに日が暮(昏)れる)というところに、其角・抱一と同じように、掛け言葉の比喩俳諧的な世界に根ざしている。この句は、「虎雄子が世を早うせしをいたむ」との前書きがあって、芦陰社中の俳人虎雄への悼句なのである。すなわち、「若くして夭逝した俳友」を、この眼前の「雨の日のまだきにくれゆく合歓の花」に見立てているということになる。


 翻って、抱一と小鶯女史とが、下谷根岸大塚村の鶯の里に定住したのは、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳、そして、小鶯女史は、「年明き」「身請け」などを考慮して、二十七・八歳の頃と推定される。
 それから八年後の文化十四年(一八一七)に、その鶯の里の庵居に「雨華庵」の額を掲げ、抱一は、以来「雨華」の号を多用するようになる。そして、この年、小鶯女史は剃髪して「妙華尼」を名乗るようになる(「等覚院御一代」)。
 そして、上記に紹介した、抱一の吉原に関する俳画集『花柳帖』が制作されたのは、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳の頃である。
 ここで、特記したいことは、この吉原に関する抱一の俳画集『花柳帖』では、吉原の代名詞とも言うべき遊女などの人物像は一切排除されて、上記に再掲した画題の通り、「月に白梅・白椿・桜・蓮華・柳・朝顔・梨・露草・菊・葵・芥子・女郎花・初茸に茄子・紅葉・松・雪竹・八頭・水仙・燕子花・萩・合歓木」「ほととぎす・蝙蝠・水鶏・蝶・落雁・初雁・鶯」などの、抱一絵画特有の「花鳥画」の、さながら、俳画集「絵手鑑」の趣を呈しているということである。
 この俳画集『花柳帖』を基礎にして、冒頭に紹介した「吉原月次風俗図」(十二幅・旧六曲一双押絵貼屏風)、そして、その「吉原月次風俗図」を図巻にしたような「花街柳巷図巻」は制作されたものと思われ、これら抱一の「吉原三部作」は、文政二年(一八一九)を前後にしての、同一時期の制作のように思われる。
 ここで、これらの抱一の「吉原三部作」(『花柳帖』「吉原月次風俗図」「花街柳巷図巻」)に、遊女類の人物像が排除されていることについて、「抱一が美人画の画家でなかったのも一因」(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)との見方もあるが、これは、吉原の遊女出身の、今は剃髪して「妙華尼」を名乗っている小鶯女史への、抱一流の情愛の細やかな配慮が、その背景にあるように解したい。
 そして、この細やかな配慮こそ、「江戸の粋人」の「粋(すい)」に通ずるもののように解したい。ちなみに、この「粋(すい)」について、「水は方円の器に従う。(中略)『粋』に『いき』の訓はない。(中略)江戸初期には『水』『推』『帥』などと、いろいろな文字が宛て字として用いられた。なかでも『水』が最も多い。(中略)遊興生活を営む上において、見事な平衡感覚を備えた人の意である。そういう人は当然、他人の志向をよく推量するから『推』、そして、そのような人は自然と重んじられて一軍の将帥となるから『帥』であり、(中略)まじりけのない『純粋』な、良質の『精粋』な人の意」(『江戸文化評判記(中野三敏著)』)と喝破した見方を是としたい。

(追記一)「夜色楼台図(蕪村画)」と「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

蕪村 夜色楼台図.jpg

「夜色楼台図(蕪村画)」

花柳図巻元旦.jpg

「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

 蕪村の水墨画(横長)の傑作「夜色楼台図」は、京都の東山をバックに祇園 の妓楼と京の街並みの雪の夜の「屋根・屋根」の光景である。そして、抱一の淡彩画(水墨画に近い)の「縦長」の「吉原月次風俗図のうち元旦図」(冒頭に掲載)と「横長」の「花街柳巷図巻のうち元旦図」(上記の下の図)も、江戸の吉原の妓楼などの「屋根・屋根」の光景である。
この抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」(冒頭の「小林忠稿」)とすれば、蕪村の「夜色楼台図」もまた、「蕪村ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」との評が当て嵌まるであろう。
 しかし、続けて、抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている」(冒頭の「小林忠稿」)は、「立ち並ぶ吉原の郭内の屋根、そして、雪の朝の一刷毛の描写、そして、その雪空に閑古鳥が飛んでいる」としたい。
 ちなみに、「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」では、「よし原の元日ばかりかんこ鳥」(『俳諧觽《けい》二十二編)が紹介されている。この『俳諧觽』は、江戸座俳人・抱一に近い「沾洲・紀逸らの点者(宗匠)の高点付句集」であり、これまた、「江戸の粋人・抱一」に相応しいであろう。

(追記二)「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」と「東山清音・江天暮雪(大雅画)」そして「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」

東山清音9 (2).png

「東山清音・江天暮雪図(大雅画)」

 この大雅の「江天暮雪図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-25

 そこで、『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」の、下記の鑑賞文を紹介した。

[ 紙本墨画 一帖 全十六面 各二〇・〇×五二・〇cm
 本図にのみ「九霞山樵写」と落款が入っているので、八景の締めくくりの図である。たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせ、たちまちにして主山と遠山を描いてしまう。画面が湾曲している扇面形に、これらの主山、遠山の形と配置だけでもじつは難しいのであるが、大雅の筆にはいささかな迷いもなく、ごく自然に、これしかないという形で決まっている。太い墨線の墨がまだ乾かないうちに水を加えて、片側をぼかしている。白い雪、ふわっとした質感の表現であるが、まさに妙技といえる。折しも、一陣の風に、降り積もった新雪が舞い上がる。図25の《江天暮雪図》(注=掲載省略)と比較しても、本図においてはまた一段と円熟味が増しており、堂々たる風格を備わっていることがわかる。 ]
(『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」)

 この鑑賞文ですると、上記の「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」の、その「屋根・屋根」の上とその下の刷毛のような線は、「たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせた」という表現となって来よう。そして、「水墨を含んだ太めの筆」の運びが、先に紹介した、「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」を連想させるのである。

雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow


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