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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十四)  [酒井抱一]

その十四 江戸の粋人・抱一の描く「その四 吉原月次風俗図(四月・蜀魂《ほととぎす》)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(四月「鏡立て)
【四月(鏡立て)「蜀魂たゝあり明の鏡たて」の句に合せて、室内に鏡立てが一基描かれ、空をほととぎす(蜀魂)が鳴き渡る。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

【 四月の図には、「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明の鏡たて」という発句がそえられ、鏡立てと檽子(れんじ)窓、落款と鏡にひっかけた糠袋に点じた朱がなまめかしく、夜明けの静謐さと遊里の色っぽさが表現されています。この図と比較するのによいのは、『狂歌左鞆絵』から取った窪俊満の絵(下図一)です。吉原の二階で、遊女が鏡に向かって髪を結っています。窓の外には蜀魂が一羽います。比較すると、抱一は人間を消しています。しかし、蜀魂を消さなかったのは、描かないとよくわからない絵になるからです。さらに、ダメ押しのように「蜀魂」を大書します。大書した文字を図像のように扱う例は、管見の限りでは一渓宗什筆・狩野常信画「夢一字」図(根津美術館蔵)のようなものがあります。もちろん、画題は荘子の胡蝶の夢です。抱一にも類似作があります。兄忠以(ただざね)と合作した「夢・蝶」図(姫路神社蔵)です(下図二)。

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(図一)窪俊満画『狂歌左鞆絵』(早稲田大学図書館蔵)

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(図二)酒井宗雅(忠以)筆・酒井抱一(忠因)画「夢・蝶」(姫路神社蔵)

 ここで本来見えない「蜀魂」を装飾的な大字で表現し、画面を引き締め、主題は「蜀魂」であると明示されます。これは、屋根ばかりを描いて主題がよく了知けされない正月の図で、画賛には「吉原」とありながら、「花街柳巷」とダメ押しのように大書したのと同理由でしょう。さて、抱一の画賛「蜀魂たゞあり明の鏡たて」は、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」(『五元集』)を典拠とします。抱一の句は舌足らずで、「蜀魂」と鏡台の結びつきが解りません。舌足らずなのは、名詞に名詞を並べただけの発句という理由があります。では、この発句の場合、取り合わせに問題がありそうです。「蜀魂」と鏡を取り合わせた他の抱一の例から、これらの取り合わせに付与された意味を探りましょう。

 只有明の 鏡にも影ハ残さずほとゝぎす(『句藻』「梶の音」夏之部一九一) 

 上の頭註(前書き)「只有明の」は、「蜀魂鳴きつるかたをながむればただあり明の月ぞのこれる」という名歌を指します。「鏡にも影ハ残さず」とは物理的な問題のみならず、「蜀魂」の鳴き声は、時間の経過を刻むという鏡にも姿を残さないほど非常に短いというわけです。抱一の画面では、鏡がさながら朝ぼらけの月の形状のように描かれている点も興味深い点です。和歌では後朝の恋を主題として、蜀魂は有明の月とよく詠まれます。有明の月は、形状の類似もあって鏡に擬せられた例も多く、漢詩でも鏡は時間の経過を認識させるモチーフであります。
 抱一は「有明の月」を「有明の鏡」と俳諧化しますが、句賛の音律面でのコノテーション(注:言外の意味・暗示的意味など)として取り入れた其角のイメージと相俟って、吉原の遊蕩の雰囲気を演出します。しかし、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」とは別種の世界を築きあげています。其角句だと、「蜀魂」の声でどんちゃん騒ぎからさめるわけですが、抱一の画賛は「蜀魂」が去った後朝の有明の廓(さと)景色のみならず、夜の明け易さをなげくというイメージの中にあります。
 ここで皆さまのご注意を喚起したいのですが、こういった発句は現代語に翻訳するばあい、非常に難しい。つまり、コノテーション、文化的な含意が占める割合が大きい。名詞に名詞だけで発句になっているのは、こういった文化的なコノテーションに立脚しているからであります。かくして、抱一の発句は成立しています。
 以上のとおり、画面では人物あるいは喧噪に焦点をあてる浮世絵の視線とは一線を劃し、人物が留守模様にされたことで吉原の鄙びた雰囲気に焦点が当てられます。モチーフ面からは煌びやかな行事に筆ほ偏せず、四月や五月、さして行事のない十月などを見ると、都会の中の閑雅が描かれているのが解ります。京伝の『錦之裏』の影響を受けた喜多川歌麿の『青楼十二時』のように吉原の裏世界を描いたわけでもなく、「吉原月次風俗図」は、遊びなれた客の視線から描かれています。
 当時の絵画は、基本的には注文制作です。享受者がいる以上、理解されなければならない存在となります。もっとも、抱一は身分が下の人間に対しては、モチーフを自由に変えた事例もあります。鑑賞者が見たがるオーソドックスな吉原の行事を外した本作にも、そういった側面があります。市中の隠の楽しみを、五月の碁、九月の稲掛けで表現している部分もあります。
 画面では人をぬいて、静かな雰囲気に仕立てています。しかし、画面の背景には<都市>性を主張するかのように華やかと評される其角の句があります。画賛は人事句が殆どで、画面と逆の方向性をとります。その画賛は、言葉が一次的に示す意味だけで意味が解る発句、つまり、デノテーション(注:裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)で構成されている発句ではありません。
 一般に言外にあるコノテーションとは、それを共有するグループの外の人間には解りにくいものです。其角をコノテーションとして取り込んだテクストがあるからこそ、其角の句を知識の前提条件として持つ抱一周辺の特定の享受層には、まさに言葉と図像の交響が存したであろうと推測され、理解されたのであります。あるいは、画面の静かさと画賛のにぎやかさが対比的で面白かったでしょう。
 画賛がなければ、これらの重層したイメージは当然ながら機能しません。抱一は本作で、言葉と図像を近接させる、いわゆる「べたづけ」をする芭蕉などとは全く違った面白いアプローチを行っているといえるでしょう。
 確かに文政期の年紀を持つ抱一の絵画作品は、雅の味わいが強い。発句も同じです。しかし、それは一色ではなく、本作では<俗>な都市が画面で閑雅に描かれつつ、画賛では其角のコノテーションとして取り込まれいる点から、<雅>一辺倒といえないのは確認できるかと考えられます。 】 (「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

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蕪村筆「岩くらの」自画賛 紙本淡彩 一幅 三八・六×六四・三㎝
款「蕪村」 印「謝長庚」「春星氏」(白文連印) 個人蔵
賛「岩くらの狂女恋せよほとゝきす」  (『蕪村全集六』所収)
【季語:ほとゝぎす(夏) 語釈:岩倉=京都市左京区内。同所大雲寺境内の滝は、狂気を治す効果ありとされた。岩倉と時鳥は付け合い。句意:時鳥の裂帛の鳴き声の中に、岩倉のうら若い狂女が恋人を慕って号泣する俤を幻想し、あたかも物狂いの能のワキがシテの狂女に呼び掛けるように、もっともっと恋に狂ってその哀艶の声を聞かせてほしいと望んだもの。】(『蕪村全集六』所収)

 蕪村の時代には、俳画は、「はいかい(俳諧)物之草画」と呼ばれ、蕪村自身、この分野で、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。
 これらのことについては、下記のアドレスで、「余情付け」「物付け」などを含めて触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-21  

 ここで、「余情付け(匂付け)」(前句の余情と付句の余情が匂い合うような付け方)と「物付け(詞付け)」(掛詞や物・詞の縁などによる付け方)との関連で、蕪村の「ほととぎす」の「句(賛)と画」、そして、抱一の「蜀魂(ほととぎす)」の「句(賛)と画」とに触れて置きたい。

一 蕪村の句の「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」に、その上部の「ほととぎす」の画は、「物付け」で、そのものずばりの「べた付け」である。抱一の句の「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明けの鏡立て」では、左の上部に米粒程度の「蜀魂(ほととぎす)」が描かれ、その賛(句)に、「蜀魂(ほととぎす)」を隷書体で大書したのは、これまた、「物付け」(詞付け)で、これまた、「べた付け」である。そして、蕪村も抱一も、其角流の江戸座の洒落俳諧・比喩俳諧を、その句作りの基本に据えているのだが、抱一は蕪村よりも、其角流の洒落俳諧が顕著である。

二 蕪村の、この左下の「紫陽花(四葩の花、七変化)」は、「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」の句の「狂女」の心の変化(七変化)を暗示するような「余情付け」である。さらに、この「紫陽花」の背後には、藤原家良の「飛ぶ蛍日影見えゆく夕暮になほ色まさる庭のあぢさゐ」(『夫木和歌抄』)の和歌などを暗示している「俤付け・面影付け」である。抱一の、この下部の「鏡立て」は、「蜀魂たゞあり明の鏡立て」の、「鏡立て」は「物付け」だが、「あり明けの鏡立て」の「有明」は、その鏡のまん丸い形状からの「余情付け」ということになる。ここでも、抱一は蕪村よりも、技巧的な洒落俳諧が顕著ということになる。
 しかし、この句の背後にも、「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣『千載集』)、そして、「ほととぎす消え行く方や嶋一ツ」(芭蕉『『笈の小文』) 
を典拠にしている「俤付け・面影付け」である。全体的に、蕪村と抱一とは、蕪村が、「其角→巴人→蕪村」とすると、抱一は、「其角→存義→抱一」と、同じ流れで、さらに、巴人が江戸で没したときに、江戸の巴人門は、存義一門に吸収されたような経過を踏まえると、両者の「句と画」との創作姿勢は、極めて近いという印象を受ける。

三 さらに、抱一の、この「吉原月次風俗図」(「花街柳巷図巻」を含む)は、下記の通りの配列(「漢=男文字=漢字」と「和=女文字=平仮名」の俳諧的な運びによる配列)になっていることも付記して置きたい。

一月(漢=「花街柳巷」)→二月(和=「きさらぎ初のうま」)→三月(和=「夜さくら」)
→四月(漢=「蜀魂」)→五月(和=「さみだれ」)→六月(和=「富士参り」)→七月(漢=「乞功尊」)→八月(漢=「俄」)→九月(和=「干稲」)→十月(和=「しぐれ」)→十一月(和=「酉の日」)→十二月(和=「狐舞い」)


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