SSブログ

江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十六)  [酒井抱一]

その十六 江戸の粋人・抱一の描く「その六 吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」

花街柳巷六.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(六月「富士参り図」)
【六月(富士参り) 賛は「水無月一日参詣の人々を見て これよりして御馬かへしや羽織富士」。絵は六月朔日の富士参りの日に参詣の土産物として売られた麦藁蛇と青鬼灯である。麦藁蛇は家に持ち帰って井戸や台所に飾ると虫がわかないと信じられた。 】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  これよりして御馬かへしや羽織富士 抱一(「吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」)
  それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)其角(『句兄弟』『五元集』)
  
 抱一の句は、其角の句を念頭に置いて作句していることは明瞭である。しかし、其角の句のパロディ(パクリ=剽窃)そのものかかというと、そうではなく、其角の世界とは異質の世界を、「本句取り」の手法などで、パロディ化(文体・韻律などの特色を一見して分かるように残したまま,全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変える手法)を意図している世界のものということになろう。
 このパロディ(パクリ=剽窃)とパロディ化(「本句取り」の手法など)との一線は、極めて、微妙な問題であるが、その分岐点の判定の基準は、其角、その人が、微に入り細に入り論じている『句兄弟(上)』(末尾の「参考」など)などを一つの手掛かりする他は術がないのかも知れない。
「類句・類想句・当類・同巣」等々、このパロディ(剽窃=パクリ)とパロディ化(「本句取り」の手法など)を巡っては、どうにも手の施しようがない。しかし、この問題に正面から取り組んだ先達者としては、其角その人というのも厳然たる事実であろう。
『去来抄』では、其角と凡兆との「等類(類句)と同巣(類似句)」論争があり、「されど兄より生れ勝(まさり)たらん、又格別也」(去来)が一つの基準(「先行句より後発句に新風が見られる」かどうかの基準)との記述が見られるが、その去来の基準も甚だ主観的なものということになる。
 抱一は、自他ともに認める「其角派」の世界での俳諧活動であったことは、その俳諧日誌ともいうべき『軽挙観(館)句藻』、そして、その自撰句集の『屠龍之技』からして、これまた、一目瞭然たるものがあろう。
 その一例として、上記の其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」は、其角の『句兄弟(上)』での句形で、この「蜀魂(ほととぎす)」は、『五元集』(旨原編)では「郭公(ほととぎす)」の、この句形を抱一は採っていない。
 それ以上に、この「吉原月次風俗図」の「四月・蜀魂(ほととぎす)」と、『句兄弟(上)』の「蜀魂(ほととぎす)」を大書して、この「蜀魂」(「蜀の望帝の魂が化したという伝説から」の「ほととぎす」の異名)を前面に出していることも、抱一が、其角の『句兄弟(上・中・下)』を自家薬籠中にしていることが窺える。

 ここで、其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」の句意を、「蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。」(下記「参考一」の句意)とすると、抱一の「これよりして御馬かへしや羽織富士」の句意は、「富士詣の帰りのお馬返しの後ろ姿が『羽織富士』のように見える。その『羽織富士』を背にして、これより、お馬返しの、その足先は吉原へと向いている」というようなことであろう。

 として、この画の、「麦藁蛇と青鬼灯」について触れたい。

(富士詣:仲夏: 富士道者/富士行者/富士禅定/山上詣/富士講/浅間講/お頂上:「冨士登山を行い、富士権現の奥の院に参詣すること。及び駒込・浅草などの富士権現の山開き(陰暦六月朔日)に参詣することをいった。」 )

(江戸浅間祭=えどせんげんまつり:仲夏:浅草富士詣/冨士山開:『栞草』に六月一日として所出し、「江戸浅間の社は、浅草砂利場にあり。これを浅草の富士といふ。また、駒込にも浅間の社あり。また、本所六ツ目やよび高田の馬場、また鉄砲洲等にも同社あり。祭るところ、いずれも駿河に同じ。今日、麦藁にて竜蛇を作り、これを篠(ささ)に付けてひさぐ者多し。参詣の人、これを買ひて土産とす」とある。)

 この『栞草』(江戸幕末の「俳諧歳時記」)に出て来る「江戸浅間祭」の「疫病除け・水あたりよけの免符」として作られたものが「麦藁蛇」で、それが土産品として売られていた。抱一が、この「六月・富士参り図」で描いたものは、この「江戸浅間祭」などの土産品としての「麦藁蛇と青鬼灯」ということになろう。

   富士と吉原は江戸でも近所也 (『柳多留二十』)  浅草の富士
   吉原へ不二の裾から息子抜け (『柳多留五十一』) 浅草の富士
   真桑瓜富士で売るのは月足らず(『柳多留三』)駒込の富士(走り真桑瓜を売る)
   浅草は道中なれた不二まへり (『柳多留四十』)  浅草の富士 
   一日は蛇の道になる衣紋坂  (『柳多留二十四』) 六月一日の麦藁蛇
   不二みやげ舌ったらずのきりぎりす(『柳多留三』) 虫売りも出る
   富士みやげ舌はあつたりなかつたり (『柳多留二十六』)麦藁蛇の舌
   富士みやげ女房からんた事を言ふ(『柳多留五』)  吉原行きを疑う

富士講.jpg

『江戸名所図会』「六月朔日富士詣」(「浅草浅間神社」ではなく「駒込浅間神社」)
https://ameblo.jp/benben7887/entry-12384403655.html

(参考)

『句兄弟上(其角著)』(「『句兄弟・上』注解:夏見知章他編著:武庫川女子大学国文研究室)

三十五番
   兄 宇白
 ほとゝぎす一番鶏のうたひけり
   弟 (其角)
 それよりして夜明烏や蜀魂

(兄句の句意)夏の夜明けに、ほととぎすが一声し、そして一番鶏が時を告げた。

(弟句の句意)蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。

(判詞の要点など)兄の句は、夏の短夜を恨んで、古今和歌集の「夏のよのふすかとすればほととぎすなく一こゑにあくるしののめ」(紀貫之)の風情に連なるものがある。この形は、ほととぎすの伝統的な手法を離れていないけれども、ほととぎすという題は、縦題(和歌の題)、横題(俳諧の題)と分けて、縦題として賞翫されるべきものであるから、横題の俳諧から作句するのは筋が違ってくる。夏の風物詩として感じ入る心を詠むにも、縦題のやさしい風情が見えるように詠むべきものであろう。
  ほととぎす鳴くなく飛ぶぞいそがほし   芭蕉
  若鳥やあやなき音にも時鳥        其角
この句のスタイルは、横題の俳諧から深く思い入れをしてのものである。もし、これらの作句法をよく会得しようとする人は、縦題・横題が入り混じっているにしても、それぞれの句法に背いてするべきものではない。縦題は、花・時鳥・月・雪・柳・桜の、その折々の風情に感興を催して詠まれるもので、詩歌・俳諧共に用いられるところの本題である。横題は、万歳・藪入りのいかにも春らしい事から始まって、炬燵・餅つき・煤払い・鬼うつ豆など数々ある俳諧題を指していうのであるから、縦の題としては、古詩・古歌の本意を取り、連歌の法式・諸例を守って、風雅心のこもった文章の力を借り、技巧に頼った我流の詞を用いることなく、一句の風流を第一に考えてなされるべきである。横の題にあっては、蜀の帝の魂がほととぎすになったという理知的なものでも、いかにも自分の思うことを自由に表現すべきなのである。一つひとつを例にとっての具体的な説明は難しい。縦題であると心得て、本歌を作為なくとって、ほととぎすの発句を作ったなどと、丁度こじつけたような考え方をするのは残念である。句の心に、縦題、横題があるということを知って貰うために、ほんの少し考えを述べたままである。自分から人の師になろうとするものではない。先達を師として、それを模範として、自分を磨こうとするものである。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:アート