雨華庵の四季(その五) [雨華庵の四季]
その五「春(五)」
酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035816
(同上:部分拡大図)
上図の右側は、「春(三)」に続く黄色の連翹の花、そこに、白い辛夷の花を対比させている。この白い辛夷の花の周囲には、白い点々の藤の花を添えている。そして、中央に紫の藤の花を三房バランスよく描いている。その紫の藤房の空間に、飛んでいる小さな足長蜂を一匹丁寧に描いて、思わず、この一点に視線が集中するような巧みな構成となっている。この小さな蜂に目を奪われていると、この図の左上の端に、蜂の巣があり、そこに留まっている一匹の足長蜂と対比になっていることに気付いてくる。そして、その蜂の巣の下に白い辛夷の花が添えられている。
蜂(三春・「足長蜂・熊蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・似我蜂・山蜂・花蜂・蜜蜂・姫蜂・雀蜂・女王蜂・雄蜂など」)「く見られるミツバチは、女王蜂を中心に生活が営まれる。スズメバチやアシナガバチなどは、巣を守るためひとを襲うこともある。」
腹立てて水呑む蜂や手水鉢 太祇 「太祇句選」
土舟や蜂うち払ふみなれ棹 蕪村 「遺稿」
木ばさみのしら刃に蜂のいかりかな 白雄 「白雄句集」
一畠まんまと蜂に住まれけり 一茶 「七番日記」
指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな 久女 「杉田久女句集」
蜂の尻ふわふわと針をさめけり 茅舎 「川端茅舎句集」
辛夷(仲春・「木筆・山木蘭・幣辛夷・田打桜」)「早春、葉が出る前に、六弁の白い花を枝先につける。莟の形が赤子のこぶしを連想させるのでこぶしと名づけられた。」
咲く枝を折る手もにぎりこぶしかな 重頼 「犬子集」
雉一羽起ちてこぶしの夜明けかな 白雄 「白雄句集」
花籠に皆蕾なる辛夷かな 子規 「子規全集」
藤(晩春・「ふじ・ふぢ・山藤・野藤・白藤・八重藤・赤花藤・藤の花・南蛮藤・ 藤波・藤棚・藤房」)「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」
恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり 山部赤人「万葉集」
よそに見てかへらむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも 僧正遍照「古今集」
くたびれて宿借るころや藤の花 芭蕉 「笈の小文」
水影やむささびわたる藤の棚 其角 「皮籠摺」
蓑虫のさがりはじめつ藤の花 去来 「北の山」
しなへよく畳へ置くや藤の花 太祇 「太祇句選」
月に遠くおぼゆる藤の色香かな 蕪村 「連句会草稿」
しら藤や奈良は久しき宮造り 召波 「春泥発句集」
藤の花長うして雨ふらんとす 子規 「子規全集」
喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345
【『画本虫撰』宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 二冊 天明八年(一七八八) 千葉市美術館
精細きわまる植物と虫の絵は、若き喜多川歌麿によるもの。虫の羽の透けの表現に雲母摺りを施すなど美麗な本で、虫の歌合の趣向で三十名の狂歌と競演する。蜂と毛虫の歌合に、尻焼猿人こと抱一が登場。「こハごハに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあち(ぢ)ハひ」とある。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(三三)(松尾知子稿)」)
この『画本虫撰』が刊行された天明八年(一七八八)時は、抱一、二十八歳、歌麿、三十六歳の頃で、当時の狂歌名は、抱一が「尻焼猿人(しりやけのさるんど)、歌麿は「筆綾丸(ふでのあやまろ)」である。
この二人とも、この『画本虫撰』の出版元の「蔦重」こと、蔦屋重三郎の所属する「吉原連」と深い関係にあると解して差し支えなかろう。ちなみに、蔦屋重三郎の狂歌名は「蔦唐丸(つたのからまる)」である。
【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずがない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画、天明八(一七八九)年刊)などに、抱一は立て続けに、「 尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を七言絶句の漢詩を詠んでいる。その書き出しには「金馬門(きんばもん)前白日開」とあり、中国漢代の末央宮の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。
好奇心旺盛な若き抱一が、最初期の画業として取り組んだのは浮世絵美人画で、画風の一致から、その師匠は記録のとおり歌川派の開祖のと歌川豊春であると考えられる。南畝はたびたび抱一筆の美人画に漢詩や狂歌を書き付けているが、天明五(一七八五)年初冬作の「調布の玉川図」はのちに、当時の抱一の絵が少しも古びていないことを称え、古歌をもじった賛を執筆したものである。賛の狂歌と本歌を挙げておこう。
玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず
→ 玉川にさらす調布さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
(『拾遺和歌集』巻第十㈣恋四 よみ人しらず)
二人の交流は晩年まで長く続き、南畝は抱一にとって最古参の友人の一人であった。 】
太田南畝(狂歌名=四方赤良)は、寛延二年(一七四九)の生まれ、抱一よりも十二歳年長で、抱一の狂歌の師匠格に当たるというよりも、当時の天明狂歌運動の中心的な人物であった。
上記の『画本虫撰』の撰者は、宿屋飯盛(家業=宿屋、国学者=石川雅望)であるが、飯盛は南畝門であり、この『画本虫撰』の背後に南畝が控えていることは、この画本のトップに、上記の「抱一(猿人)の蜂」の狂歌に「南畝(赤良)の毛虫」の狂歌の「歌合(うたあわせ)」を持ってきていることからも明瞭であろう。この南畝(赤良)の狂歌は、次のものである。
毛をふいてきずやもとめんさしつけて
きみがあたりにはひかかりなば (四方赤良)
これらのことについては、下記のアドレスでも触れている。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28
ここで特記して置きたいことは、抱一と抱一一門では、数多くの「四季花鳥図」あるいは「十二か月花鳥図」を、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれているが、こと、「蜂と蜂の巣」が取り上げられているのは、この冒頭の、文化十五年(一八一八)、抱一、五十八歳時の作「四季花鳥図巻」のものの他、殆ど見掛けないということなのである。
そして、この抱一五十八歳時の、抱一代表作の一つの、この「四季花鳥図巻」の「蜂と蜂の巣」は、紛れもなく、抱一二十八歳時の狂歌名・尻焼猿人の名で登場する『画本虫撰』の、上記の歌麿の描いた「蜂と蜂の巣」を、直接・間接とかを問わずモデルとしているように思えるのである。
抱一の花鳥図の、殊に、その鳥や虫の描写には、やや年代が遡る京都画壇の写生派の元祖・円山応挙や奇想派の巨匠・伊藤若冲などの影響については夙に指摘されているところであるが、同世代且つ同土俵上の先輩絵師にして狂歌師の歌麿の影響というのも大きかったということを特記して置きたい。
これらのことに関し、『画本虫撰』との観点は、上記アドレス(国立国会図書館蔵)で相互に検討することが出来るが、その『絵本百千鳥』などの挿絵などに関しては、次のアドレス(国立国会図書館蔵)のものとの相互検討が必要となって来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943229
上記のアドレスで紹介されているもののうち、今回の抱一の『四季花鳥図巻』で前回までに取り上げている「雉(きじ)」と「燕(つばめ)」のものを掲載して置きたい。
赤松金鶏撰・喜多川歌麿画『絵本百千鳥(上)』の「雉子と燕」(国立国会図書館蔵)
http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_momochidori.html
上記掲載中の「燕子と雉」に関する狂歌は次のとおりである。
燕 酒月米人 つばめにも身をかへてまし下紐を ときはにながくねんとおもへば
雉子 桐一葉 あふときハけんもほろゞな返事して いひ出ん事のはねもすぼめり
酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035816
(同上:部分拡大図)
上図の右側は、「春(三)」に続く黄色の連翹の花、そこに、白い辛夷の花を対比させている。この白い辛夷の花の周囲には、白い点々の藤の花を添えている。そして、中央に紫の藤の花を三房バランスよく描いている。その紫の藤房の空間に、飛んでいる小さな足長蜂を一匹丁寧に描いて、思わず、この一点に視線が集中するような巧みな構成となっている。この小さな蜂に目を奪われていると、この図の左上の端に、蜂の巣があり、そこに留まっている一匹の足長蜂と対比になっていることに気付いてくる。そして、その蜂の巣の下に白い辛夷の花が添えられている。
蜂(三春・「足長蜂・熊蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・似我蜂・山蜂・花蜂・蜜蜂・姫蜂・雀蜂・女王蜂・雄蜂など」)「く見られるミツバチは、女王蜂を中心に生活が営まれる。スズメバチやアシナガバチなどは、巣を守るためひとを襲うこともある。」
腹立てて水呑む蜂や手水鉢 太祇 「太祇句選」
土舟や蜂うち払ふみなれ棹 蕪村 「遺稿」
木ばさみのしら刃に蜂のいかりかな 白雄 「白雄句集」
一畠まんまと蜂に住まれけり 一茶 「七番日記」
指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな 久女 「杉田久女句集」
蜂の尻ふわふわと針をさめけり 茅舎 「川端茅舎句集」
辛夷(仲春・「木筆・山木蘭・幣辛夷・田打桜」)「早春、葉が出る前に、六弁の白い花を枝先につける。莟の形が赤子のこぶしを連想させるのでこぶしと名づけられた。」
咲く枝を折る手もにぎりこぶしかな 重頼 「犬子集」
雉一羽起ちてこぶしの夜明けかな 白雄 「白雄句集」
花籠に皆蕾なる辛夷かな 子規 「子規全集」
藤(晩春・「ふじ・ふぢ・山藤・野藤・白藤・八重藤・赤花藤・藤の花・南蛮藤・ 藤波・藤棚・藤房」)「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」
恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり 山部赤人「万葉集」
よそに見てかへらむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも 僧正遍照「古今集」
くたびれて宿借るころや藤の花 芭蕉 「笈の小文」
水影やむささびわたる藤の棚 其角 「皮籠摺」
蓑虫のさがりはじめつ藤の花 去来 「北の山」
しなへよく畳へ置くや藤の花 太祇 「太祇句選」
月に遠くおぼゆる藤の色香かな 蕪村 「連句会草稿」
しら藤や奈良は久しき宮造り 召波 「春泥発句集」
藤の花長うして雨ふらんとす 子規 「子規全集」
喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345
【『画本虫撰』宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 二冊 天明八年(一七八八) 千葉市美術館
精細きわまる植物と虫の絵は、若き喜多川歌麿によるもの。虫の羽の透けの表現に雲母摺りを施すなど美麗な本で、虫の歌合の趣向で三十名の狂歌と競演する。蜂と毛虫の歌合に、尻焼猿人こと抱一が登場。「こハごハに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあち(ぢ)ハひ」とある。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(三三)(松尾知子稿)」)
この『画本虫撰』が刊行された天明八年(一七八八)時は、抱一、二十八歳、歌麿、三十六歳の頃で、当時の狂歌名は、抱一が「尻焼猿人(しりやけのさるんど)、歌麿は「筆綾丸(ふでのあやまろ)」である。
この二人とも、この『画本虫撰』の出版元の「蔦重」こと、蔦屋重三郎の所属する「吉原連」と深い関係にあると解して差し支えなかろう。ちなみに、蔦屋重三郎の狂歌名は「蔦唐丸(つたのからまる)」である。
【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずがない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画、天明八(一七八九)年刊)などに、抱一は立て続けに、「 尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を七言絶句の漢詩を詠んでいる。その書き出しには「金馬門(きんばもん)前白日開」とあり、中国漢代の末央宮の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。
好奇心旺盛な若き抱一が、最初期の画業として取り組んだのは浮世絵美人画で、画風の一致から、その師匠は記録のとおり歌川派の開祖のと歌川豊春であると考えられる。南畝はたびたび抱一筆の美人画に漢詩や狂歌を書き付けているが、天明五(一七八五)年初冬作の「調布の玉川図」はのちに、当時の抱一の絵が少しも古びていないことを称え、古歌をもじった賛を執筆したものである。賛の狂歌と本歌を挙げておこう。
玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず
→ 玉川にさらす調布さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
(『拾遺和歌集』巻第十㈣恋四 よみ人しらず)
二人の交流は晩年まで長く続き、南畝は抱一にとって最古参の友人の一人であった。 】
太田南畝(狂歌名=四方赤良)は、寛延二年(一七四九)の生まれ、抱一よりも十二歳年長で、抱一の狂歌の師匠格に当たるというよりも、当時の天明狂歌運動の中心的な人物であった。
上記の『画本虫撰』の撰者は、宿屋飯盛(家業=宿屋、国学者=石川雅望)であるが、飯盛は南畝門であり、この『画本虫撰』の背後に南畝が控えていることは、この画本のトップに、上記の「抱一(猿人)の蜂」の狂歌に「南畝(赤良)の毛虫」の狂歌の「歌合(うたあわせ)」を持ってきていることからも明瞭であろう。この南畝(赤良)の狂歌は、次のものである。
毛をふいてきずやもとめんさしつけて
きみがあたりにはひかかりなば (四方赤良)
これらのことについては、下記のアドレスでも触れている。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28
ここで特記して置きたいことは、抱一と抱一一門では、数多くの「四季花鳥図」あるいは「十二か月花鳥図」を、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれているが、こと、「蜂と蜂の巣」が取り上げられているのは、この冒頭の、文化十五年(一八一八)、抱一、五十八歳時の作「四季花鳥図巻」のものの他、殆ど見掛けないということなのである。
そして、この抱一五十八歳時の、抱一代表作の一つの、この「四季花鳥図巻」の「蜂と蜂の巣」は、紛れもなく、抱一二十八歳時の狂歌名・尻焼猿人の名で登場する『画本虫撰』の、上記の歌麿の描いた「蜂と蜂の巣」を、直接・間接とかを問わずモデルとしているように思えるのである。
抱一の花鳥図の、殊に、その鳥や虫の描写には、やや年代が遡る京都画壇の写生派の元祖・円山応挙や奇想派の巨匠・伊藤若冲などの影響については夙に指摘されているところであるが、同世代且つ同土俵上の先輩絵師にして狂歌師の歌麿の影響というのも大きかったということを特記して置きたい。
これらのことに関し、『画本虫撰』との観点は、上記アドレス(国立国会図書館蔵)で相互に検討することが出来るが、その『絵本百千鳥』などの挿絵などに関しては、次のアドレス(国立国会図書館蔵)のものとの相互検討が必要となって来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943229
上記のアドレスで紹介されているもののうち、今回の抱一の『四季花鳥図巻』で前回までに取り上げている「雉(きじ)」と「燕(つばめ)」のものを掲載して置きたい。
赤松金鶏撰・喜多川歌麿画『絵本百千鳥(上)』の「雉子と燕」(国立国会図書館蔵)
http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_momochidori.html
上記掲載中の「燕子と雉」に関する狂歌は次のとおりである。
燕 酒月米人 つばめにも身をかへてまし下紐を ときはにながくねんとおもへば
雉子 桐一葉 あふときハけんもほろゞな返事して いひ出ん事のはねもすぼめり