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雨華庵の四季(その九) [雨華庵の四季]

その九「夏(四)」

花鳥巻夏四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035820

 この『四季花鳥図巻(上=春夏)』の巻末の図柄は、抱一が畏敬して止まない尾形光琳の「燕子花と流水」を念頭に置いたものであろう。

燕子花・紅白梅.jpg

「尾形光琳300年忌記念特別展燕子花と紅白梅光琳デザインの秘密」(出光美術館)
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/past2015_n03.html

花鳥巻夏四拡大.jpg

(『四季花鳥図巻(上=春夏)』「夏(四)」同上:部分拡大図)

 この左端の燕子花の上に咲いている白い花は「沢瀉(おもだか)」であろう。

沢瀉(仲夏・「面高・花慈姑=はなくわい・生藺=なまい」)「沼、池等の水中に自生する。根から矢じり形の特徴のある葉が出て葉の間から花茎をのばし三片の白い涼しげな花を咲かせる。」

 破れ壺におもだか細く咲きにけり   鬼貫 「大丸」
沢瀉や花の数添ふ魚の泡       太祇 「太祇句選」
 沢瀉は水のうらかく矢尻かな     蕪村 「落日庵句集」

夏草図屏風.jpg

尾形光琳筆「夏草図屏風」二曲一双 紙本金地着色 根津美術館蔵 
署名「法橋光琳」 印章「方祝」朱文円印 各一六九・七×一七八・二cm

 この右上から左下への大胆な対角線構図は、「紅白梅図屏風」の流水を草花に置き換えたものとして夙に知られている。この左下に、燕子花と沢瀉が描かれている。この右上から左下に流れるように描かれている草花は、上から「※菫・石蕗(つわぶき)・※土筆・※蒲公英・※薺・都忘(みやこわすれ)・※桜草・穂反萱(ほかえりかや)・二輪草・薊・牡丹・春菊・※芥子・海老根・撫子・※母子草・八重葎・立葵・石竹・※鉄砲百合・銭葵・檜扇・※風車・黄蜀葵(とろろあおい)・岩菲(がんぴ)・擬宝珠・※燕子花・※沢瀉・水葵」などのようである(『特別展 光琳と乾山 芸術家兄弟・響き合う美意識(根津美術館)』)。
 ここであらためて抱一の『四季花鳥図巻(上=春夏)』と比較すると、上記の※印のものは、その中で書かれているものである。そして、この『四季花鳥図巻(上=春夏)』では描かれていないものも、抱一の他の「四季花鳥図屏風」や「十二か月花鳥図」などで描かれているものばかりなのである。
 しかし、光琳には、「草・花と鳥・虫」などの相互の関係を密にしたものは見当たらない。そして、光琳の実弟の尾形乾山が、「色絵定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」で「木・花・草と鳥」(狩野探幽の「定家詠十二ケ月和歌花鳥図画帖(出光美術館蔵)」の図様を参考にしている)とを見事に結実させ、京都の乾(北西)の鳴滝泉谷に開いた「鳴滝窯」のヒット商品として世に出している。そして、乾山はこの画題を終世愛好し、晩年の江戸に出て来てからも、この画題での掛幅ものを今に遺している。
 抱一の、この光琳・乾山へのオマージュとその顕彰の軌跡は次のとおりである。

【 文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け、人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。
其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
 光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
 光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。
 文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/酒井抱一
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