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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(四) [抱一・四季花鳥図屏風]

その四 「四季花鳥図屏風」の左隻(秋)

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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「左隻(一~三扇・秋)部分拡大図」

 「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」の「秋」(左隻・一~三扇)の絵図である。

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035821

花鳥巻秋二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵
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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(三)」東京国立博物館蔵
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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(四)」東京国立博物館蔵
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 「四季花鳥図巻」の「秋」(上記の一・二・三・四)の景物は、「紅白萩、鈴虫、あおじ、満月、がんぴ、朝顔、綿とその花、蓼、木槿、鶏頭、水引草、紅芙蓉、菊戴、かまきり、白菊、苅萱、公孫樹(いちょう)の葉、楓、嫁菜(野菊)、赤啄木鳥(あかげら)、いしみかかわ、櫨(はぜ)の葉」などである(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。

 ここで、「抱一再評価の直接的契機となったのは、昭和四十七年、東京国立博物館の創立百周年を記念として開催された『琳派』展で、出陳された二十四点の作品は、宗達とも光琳とも異なる抱一の魅力をたっぷりと味わわせてくれた。このころから、抱一によって確立された江戸の琳派をとくに江戸琳派と呼ぶようになったのも、このように抱一に対する関心の高まりと無関係ではありえない」(「抱一筆 十二か月花鳥図考(河野元昭稿)」(『国華』一一七五号<国華社、一九九三年>)→『琳派 響きあう美(河野元昭著・思文閣刊)・(第二十三章)』)との、その「江戸琳派(抱一再評価)」の導火線となった、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)』(図録)の、両者(「四季花鳥図屏風」と「四季花鳥図巻)」の「作品解説」を掲げて置きたい。

【 「207 四季花鳥図屏風 酒井抱一  六曲一双 陽明文庫 
抱一は四季の花鳥を大画面によく描く。この図は向かって右から春夏秋冬の草木を配し、その要所に、雲雀(ひばり)・白鷺・雉子(きじ)を遊ばせている。しかも、図の平明化を避けるために、草花の色彩効果を示し、濃緑の土坡(どは)には春草、雪の土坡には梅や藪柑子を描き、濃群青の流れは図を清らかに締めている。右隻の落款「文化丙子<1816>晩冬」により彼の五十六歳の作である。」

「225 四季花鳥図巻 酒井抱一 二巻 本館(東京国立博物館)
二巻よりなるこの「草花図巻」は写生的なところがある。図のつながりがいかにも巧みに構成されて、見事な四季草花・鳥の図巻としての体裁を保っている。品格の高い画調と色彩感豊かな色面の展開は抱一の画境の高さを示すもので、かれの傑作に数えられる。下巻巻末に、「文化戌寅<1818>晩春、抱一暉真写之」とあり、五十八歳の作。」  】
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』)

 この「四季花鳥図屏風」の落款を仔細に見ると、「文化丙子晩冬 抱一写於鶯邨画房」とあり、文化丙子(文化十三年=一八一六)、抱一、五十六歳当時は、庵居に「雨華庵」の額を掲げる一年前のことで、その庵居は「鶯邨画房」であったことが窺える。この落款を加味するならば、この「四季花鳥図屏風」(六曲一双)は、抱一の「鶯邨画房」時代の頂点を示すものと理解することも可能であろう。
 その二年後の、抱一、五十八歳時の、「四季花鳥図巻」(二巻)は、その落款は「「文化戌寅晩春、抱一暉真写之」であるが、その印章には「雨華」(朱文内鼎外方印)が捺印され、それを活かすと、この作品は、抱一の最後に到達した「雨華庵(画房)」時代の、「抱一の画境の高さを示すもので、かれの傑作に数えられる」作品ということになろう。
 この「四季花鳥図巻」制作後の、三年後、文政四年(一八二一)、抱一、六十一歳時に、抱一の最高傑作作品の、「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)・「同下絵」(出光美術館蔵)が完成し、それらは制作依頼主の一橋治済(第十一代将軍徳川家斉の実父)に提出されることになる。

夏草図屏風一.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)東京国立博物館蔵 重要文化財
一七五・三×三四〇・四㎝(各隻)
【 「206 夏秋草図屏風 酒井抱一 二曲一双
銀地に風雨にさらされた夏・秋の野の光景を描く。驟雨にぬれた色増す薄・昼顔・百合・女郎花と流水。一方、吹きすさぶ野分の風に、蔦の葉や薄がなびき、それにからまった野葡萄の紫と女郎花の黄がまばゆく、風にとび散った葡萄葉の紅葉が鮮やかである。両双の静と動の対照がまことに巧みで、抱一芸術の頂点を示す傑作である。」  
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』)

「71 夏秋草図屏風 酒井抱一 二曲一双 紙本銀地著色
 どんな画家でも、その画家の評価を決定するマスター・ピースをもっている。抱一にとってこの「夏秋草図」は、やはり畢生の大作の名に値する草花絵の名品である。めぐまれた家庭環境、二十歳代の華々しい時代の最先端をゆく粋人ぶりから、兄との死別、出家と変転する人生。光琳画との出会いは、おそらくかなりの若年に遡ると思われるのだが、絵画のなかにその影響が明瞭に現われてくるのは、三十歳代以降である。とりわけ、文化末~文政初期は、光琳画との対決にファイトを燃やした時期であったようであり、この作品も文政三~六年(一八二〇~二三)ごろが制作時期と推察される。光琳の「風神雷神図」(東京国立博物館第四巻所収)の裏面に俳諧の付合のごとき手法で描き合わせる趣向のおもしろさ。しかも裏面で展開された世界は、奥深い銀地空間のなかでうなだれ、吹き上げられる草花の抒情の美学であり、それは遠く平安時代の情趣豊かな大和絵景物画の伝統につらなってゆく。光琳画の重く緊張した風神、雷神からリリカルな草花のドラマチックな転換をみるにつけ、趣向がそのまま創造を意味していた時代の自由闊達さがしのばれる。」(『琳派一 花鳥一(紫紅社)』所収「作品解説・玉蟲敏子稿」) 】 

 この抱一の最高傑作作品「夏秋草図屏風」については、下記のアドレスなどで取り上げいる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-28 ]

抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26 ]

酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」

 ここで、視点を変えて、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)と「褻(け)の空間」
(私的な「日常の空間)とを、抱一が十代を過ごした酒井家(酒井雅樂頭家)の「上屋敷」(江戸城大手門の斜向かいの一角、この大手門を「中国漢代の未央宮の門」に擬して「金馬門」と称し、抱一の第一句集「こがねのこま」は、その大手門に由来する)は、さしずめ、
「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)の典型的な空間で、上記の、光琳の金地に描いた「風神雷神図屏風」とその裏面に銀地を施して描いた抱一の「夏秋草図屏風」は、この空間が最も相応しいであろう。
 大名家の「上屋敷」が、江戸城に近く、大名の政務を司る主要な屋敷とすると、「中屋敷」は、隠居した大名や成人した後嗣などの屋敷で、酒井家の中屋敷は、日本橋界隈の蠣殻町にあり、その近くの箱崎川に因んで、抱一は「筥崎舟守(はこざきのふなもり)」と称して、抱一は、その中屋敷の主であることを標榜していた。抱一の第二句集「梶の音」は、その箱崎川や日本橋川を往来する舟の梶音に由来しているようである(『日本史リブレット 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
 この酒井家の蛎殻町の中屋敷の空間もまた、その上屋敷と同じく「朱門=大名屋敷」の、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)で、上記の「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)に相応しい空間ということになろう。
 抱一が、この酒井家の中屋敷を出るのは、寛政二年(一七九〇・抱一、三十歳)実兄の酒井家当主・忠以(ただざね)の急逝(三十六歳)後の三年後のことで、それは酒井家の嫡流体制の確立と傍流(抱一)の排除ということと無縁ではなかろう。そして、抱一は、寛政八年(一七九六、三十六歳)、『江戸続八百韻』を刊行し、江戸座俳諧宗匠として独り立ちし、その翌年に出家し、「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせいきしん)」の法号を得て西本願寺の門徒としての生涯を送ることになる。すなわち、「朱門=大名屋敷」から「白屋=詫び住い」へと「艶(やさ)隠者」(武家の身分を捨て「出家僧・俳諧師・画人」としての一市井人として隠遁的姿勢を貫く)の生活を全うすることになる。抱一にとって、この空間こそ「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)であって、ここには、上記の「四季花鳥図巻」が最も相応しいように思われる。
 翻って、これらの「四季花鳥図屏風」から「四季花鳥図巻」、そして、「夏秋草ず屏風」への軌跡は、一口に換言するならば、抱一より百年前の憧憬して止まない尾形光琳、そして、その実弟の乾山へのオマージュ(崇敬の念の表意)ということになるが、同時に、「光悦・宗達・光琳・始興・乾山」等々の京都を中心とする「京都琳派」から、抱一その人を中心としての「江戸琳派」への変遷を告げるものでもあった。
その変遷過程を中心に据えた「琳派展」こそ、先に紹介した、昭和四十七年(一七九二)の、東京国立博物館の創立百周年を記念として開催された『琳派』展ということになる。
その「江戸琳派(抱一再評価)」の導火線となった、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)』(図録)の、その「序」(千沢梯治稿)の末尾のところを抜粋して置きたい。

【 風流人抱一は俳諧の「季」の絵画化を発想の根底とし、みがかれた鋭敏な感覚により、簡潔でまとまりのある瀟洒な装飾画を高貴なマチエールによって品格高く仕上げいるが、光琳の様式に深く傾倒しながらもその亜流化を厳然と拒否した見識は流石である。
(中略)
 宗達にとって古画は図形の宝庫であって意味内容は二次的な関心しか持っていない。光琳は古典に専ら作画のイメージを求める古典の感覚化の度合は著しい。抱一は感覚的に捉えた自然のイメージを文学的情操によってさらに美化し、琳派の色感を継ぎながら写生の妙技を示した。
 このように琳派は、その世代によって追及と発展の方向はさまざまであるが、かかる具象的な装飾様式の展開をたどることによって、おのずから芸術史上の位置を明らかにしている。 】
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」)
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