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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(九) [抱一・四季花鳥図屏風]

その九 鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)

其一・四季花鳥図右.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(右隻)

其一・四季花鳥図左.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(左隻)
【鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一五四・七×三四一・二㎝
嘉永七年(一八五四) 東京黎明アートルーム蔵
 六曲一双の総金地に四季の花卉草木と小禽を描いた屏風である。右隻には「菁々其一」の署名に「為三堂」(朱文瓢印)、左隻には「嘉永甲寅初秋」の年紀に続けて、同じ「菁々其一」の署名に、「為三堂」(朱文瓢印)と、さらに「其弌」(朱文楕円印)が捺される。したがって嘉永七年(安政元年/一八五四)の制作と判明する貴重な作例であるが、晩年の其一が「朝顔図屏風」のように単一の植物を大画面に描く一方で、琳派の伝統に即したこのような屏風を描いていたことが判明する。
 右隻は白い花を咲かせた辛夷にはじまり、蕨や蒲公英、菫から、中央に立葵、燕子花、罌粟など、春から夏にかけての植物が題材に選ばれる。これに続く左隻は、朝顔や女郎花、などの秋草から、葉鶏頭に鞠、藪柑子に水仙、梅や山茶花などの秋から冬にかけての植物が余白を生かしながら描かれる。立葵、燕子花、秋の七草など、俵屋宗雪や「伊年」印を捺す作例、さらに光琳から抱一へと受け継がれてきた琳派作品に頻出する植物が顔を見せているかと思えば、捩摺、華鬘層、竹似草、小数珠菅など、一般には特定がむずかしい種類も数多く加えられている。そこには渡辺始興(一六八三~一七五五)や抱一と軌を一にして、博物学的な写生に基づく新知見や、園芸植物への関心の高さもうかがえる。一年の季節の巡りの中で、さまざまな植物が身を寄せ合いながら群生し、鳥が心地よさげに飛び交う平和なイメージであり、其一が率いていた時期の江戸琳派を代表するにふさわしい四季花鳥図屏風であるといえよう。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 この「四季花鳥図屏風」を其一が制作した嘉永七年(安政元年/一八五四)は、其一、晩年の五十九歳のときで、その前年にペリーが浦賀に来航し、その翌年の日米和親条約を調印した年に当たる。
 其一の師の抱一が亡くなったのは、文政十一年(一八二八)十一月二十九日(享年六十八)、其一、三十三歳のときである。この頃の作、其一画・抱一賛の「文読む遊女図」については、下記のアドレスなどで触れている。そこで、「抱一・小鸞女史・其一」の、この三者について触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12

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鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(左隻)の「第五扇(部分拡大図)

 この其一の「四季花鳥図屏風画」(左隻)の「第五扇(部分拡大図)の、この白梅上の二羽の鶯は、これは、其一三十代の頃の作、「文読む遊女図」(其一画・抱一賛)の、其一の二人の師である「抱一・小鸞女史」の面影を宿している、その二羽のペアの鶯と解したい・
 そして、ずばり、この地上の鶯(笹子=笹で鳴く鶯=「笹ならず秋草と冬草の狭間で鳴く鶯」)は、その二人の雨華庵で画人として育っていた「其一その人の自画像」の鶯と解したい。
 其一は、四十代後半には家督を長男の守一に譲り(天保十三年=一八四二、四十七歳の「広益諸家人名簿」守一のみが掲載されており、この頃までに家督を守一に譲っているとされている)、この頃から抱一色というよりも其一色の濃い多様な作風が顕著となってくる。
 其一が、晩年の栄光の号「菁々(せいせい)」を落款するのは、弘化元年(一八四四、四十九歳)頃からで、以降、安政五年(一八五八)、その六十三年の生涯の幕を閉じるまで、抱一に近い大名家や豪商の支援の下に、「光悦・宗達→光琳・乾山」の次の時代の「抱一・其一」時代を樹立していくことになる。
 その「抱一・其一時代」の「綺麗さび」の世界の集大成が、冒頭に掲げた、其一、五十九歳時の「四季花鳥図屏風」(六曲一双)と位置付けてもいささかの違和感もなかろう。

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鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵
【 夏から秋にかけて咲く朝顔のみを取り上げて、六曲一双の大画面に描いた屏風。うねるような朝顔の緑色の蔦や葉と、胡粉を巧みに用いて光を発するかのように描かれた青い朝顔の花を眺めていると時が経つのを忘れてしまうかのようだ。各隻には「菁々其一」の署名に「為三堂」(朱文印)が捺される。一九五四年にアメリカ・メトロポリタン美術館の所蔵となった其一の代表作のひとつである。
 金地を背景に、群青による朝顔の花と緑青による葉を全面に描いたこの屏風は、光琳が描いた「燕子花図屏風」(根岸美術館)や「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館)の題材と色彩の取り合わせを明らかに意識したものと推測されている。抱一もまた『光琳百図』に載る「八橋図屏風」に基づいて、さまざまな画面形式の燕子花を描いたが、その背景には『伊勢物語』第九段の東下りという文学的イメージが暗黙の了解として脈々と受け継がれていた。
 しかるにこの其一が選んだ朝顔という植物には文学的な背景は希薄であり、むしろ江戸後期における園芸熱がこの画題を選ばせた動機ではないかと推測されている。其一がここで取り上げた朝顔の種類は、当時もてはやされた変化朝顔の類ではなく、曜と呼ばれる花弁の筋や、葉の形も普通と代わり映えしない種類である。ただし描かれた花はきわめて大輪で、向きは正面や側面など変化に富み、さらに葉の影に隠れたものを含めれば百五十を超える数が描かれている。よく見ると各所に蕾や膨らみかけた種も描かれ、其一が栽培を通してのことか、朝顔をよく熟知していることは疑いない。
 一方で、本来、朝顔という蔓性の植物は、棹や垣根にからませて栽培し鑑賞するものである。しかし、其一は朝顔の根元を一切明らかにせず、あたかも空中に浮遊させるがごとく、それぞれの蔓を融通無偈に四方に伸びるに任せ、大輪の朝顔をたわわに咲かせた。そこには食物のもつ自然の生命力を感じさせもするが、右隻、左隻を一望に収め、六曲一双の屏風として見たときには、それぞれの花房の示す勢いや方向が、左右で拮抗しあうように慎重に制御されている様子がうかがわれる。
 これはあえて例を挙げれば宗達の「雲龍図屏風」(フリア美術館)に通じる構図であり、「風神雷神図屏風」(建仁寺)を源泉として、これに触発され、影響を受け、翻案された一連の琳派における一双形式の屏風の構成に沿うものである。屏風における左右の対比は、流派を問わず珍しいことではない。其一が、朝顔という単一の植物を取り上げて屏風を制作するに当たり、琳派の伝統である「燕子花図屏風」におけるモチーフを反復させる構図色彩がおそらく意識されたのだろう。さらに六曲一双という大画面の構図を思案する際に、抱一が光琳を顕彰しつつ翻案した屏風の制作に寄り添うような、左右が拮抗しあう構成の「朝顔図屏風」であった。
 それは自らの絵師としての根幹をなす琳派という流派の様式を、たえず新たに問い直す作画活動の中で生まれた琳派ならではの屏風であったと思われる。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 其一筆「朝顔図屏風」の「作品解説」(鑑賞文)のスタンダードのものとして全文を掲載したが、その周辺の下記のことなどについて、次回以降で触れていきたい。

一 其一筆「朝顔図屏風」と宗達筆「雲龍図屏風」・「風神雷神図屏風」周辺
二 其一筆「朝顔図屏風」と光琳筆「朝顔図香包」周辺
三 其一筆「朝顔図屏風」と『源氏物語第二十帖・朝顔』周辺
四 其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺
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