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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十二) [抱一・四季花鳥図屏風]

その十二  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と『源氏物語第二十帖・朝顔』周辺

国周・朝顔.jpg

豊原国周画「現時五十四情」(第一号から五十四号)の「第二十号」
(早稲田図書館蔵) → 図一
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_b0228/index.html

 幕末から明治期の浮世絵師として名高い豊原国周(くにちか)は、天保六年(一八三五)、鈴木其一の四十歳時に生まれ、安政二年(一八五五)の頃より、豊原国周の名を署名するようになる。
 其一の「四季花鳥図屏風」は、その前年に制作されたもので、それと同時期の頃に制作された「朝顔図屏風」は、浮世絵師として自立する頃の国周は何らかの形で接する機会があったという推測も許されることであろう。
 上記の、国周の「現時五十四情(第二十号)」は、明治十七年(一八八四)に制作されたもので、其一とは何らの接点があるものではないが、この「現時五十四情」は「源氏五十四帖」の「第二十帖・朝顔」を捩ってのもので、上記に書かれているのが、その「第二十帖・朝顔」の、「見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん」の一首である。
 この「第二十帖・朝顔」の前は、「第十九帖・薄雲」で、文政八年(一八二五)、其一、三十歳(抱一=六十五歳)の頃の「薄雲」(新吉原三浦屋の名妓)の美人画(三幅のうちの一幅)がある。

其一・三美人図(薄雲).jpg

鈴木其一筆「雪月花三美人図」(三幅)のうち「雪美人・薄雲図」(一幅)
静嘉堂文庫美術館 → 図二
【 雪月花に、新吉原三浦屋お抱えの薄雲、高尾、長門の三名妓を見立て、寛文美人図の様式で描くという、趣向を凝らした作品である。上部の色紙型や短冊には抱一の手で俳句が記されている。高尾と薄雲の姿には、文政八年刊の『花街漫録』の挿絵に其一が写した花明国蔵の『高尾図』『薄雲図』という菱川印のある古画を参照している。背後に企画者関係者など多くの意向が感じられ、同じ頃の作とすると、其一としてかなり早い時期の大変な力作である。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子)」)

この短冊の抱一の句「(薄雲の句か?)(抱一書)」は、次のものである。

  初雪や 誰か誠も ひとつよき  薄雲

其一・花街漫録(薄雲).jpg

西村藐庵著『花街漫録』(二冊・文化八年=一八二五)所収「薄雲之図」(鈴木其一写)
木版墨絵 各二㈦・五×一八・五㎝  (早稲田大学図書館蔵) → 図三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563734?tocOpened=1

【 吉原江戸町一丁目の名主西村藐庵(みょうあん)が、吉原の故事・古物研究の成果をまとめた書で、抱一が賛辞の序文を寄せ、其一が指図をてがけでいる。江戸市井の富裕層に広がる古物趣味を伝えるもの。中には抱一所蔵品の縮図を掲げ解説がある。このとき其一は三十歳。三浦屋の遊女高尾と薄雲の美人画が、其一の『雪月花三美人図』に生かされていることはよく知られるが、各代の浮世絵をよく写している。】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子)」) 

 図二の「薄雲」と図三の「薄雲」は、姿勢は異なるが、新吉原三浦屋の名妓「薄雲」を其一が「各代の浮世絵をよく写している」、その成果の一つなのであろう。
 其一の師の抱一の出発点は、新吉原の「吉原文化」を背景とする「狂歌と浮世絵」との世界であった。狂歌は四方赤良(大田南畝)、浮世絵は歌川豊春(歌川派の始祖)の流れで、狂歌の号は「尻焼猿人」、浮世絵などの画号は「杜綾・杜陵・屠龍」などを用いた。

抱一・松風村雨図.jpg

酒井抱一筆「松風村雨図」一幅 天明五年(一七八五)細見美術館蔵 → 図四
【 現在知られる抱一作品の中で、数え年二十五歳の最も若い作例である。謡曲「松風」に因み、須磨の松風・村雨姉妹を描く。『松風村雨図』は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれらに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予期させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」) 

 この抱一の「松風村雨図」は、謡曲「松風」に由来するもので、『源氏物語』とは直接関係がないのかも知れないが、この「松風」の題名は、『源氏物語』第十八帖の「松風」に由来があると解しても、それは許されることであろう。
 ここで、上記の浮世絵(図一~図四)と『源氏物語』の各帖名との関係を整理すると次のとおりとなる。

● 「源氏物語・第十八帖『松風』」 → 酒井抱一筆「松風村雨図」(図四)
● 「源氏物語・第十九帖『薄雲』」 → 鈴木其一筆「雪月花三美人図」(三幅)のうち「薄雲図」(図二)と鈴木其一写「薄雲図」(西村藐庵著『花街漫録』所収)(図三)
● 「源氏物語・第二十帖『朝顔』」 → 豊原国周画「現時五十四情」所収「第二十号『朝顔』(図一)

 抱一の「松風村雨図」(図四)は、天明五年(一七八五)の作、そして、国周の「現時五十四情・第二十号(朝顔)」(図一)は、明治十七年(一八八四)刊行時のものとして、凡そ、一世紀(百年)弱の歳月の経過がある。
 歌川豊春系の「抱一」と歌川豊国系の「国周」とを結びつける接点は、抱一の継承者である「其一」ということになろう。
 弘化二年(一八四五)、其一、五十歳時の「新撰花柳百人一首募集摺物」(吉原楼主が遊女の和歌募集摺物)に美人画見本(「玉楼名妓・薄雲)の挿絵を、其一は描いている。この種のものの延長線上に、国周の「現時五十四情(源氏五十四帖)」が誕生する。
 それは取りも直さず、抱一から其一へと継承された、当時の江戸(東京)の「浮世絵と狂歌とを舞台とする吉原文化」が、その背景をなしているということになろう。

其一・百人一首(浮雲).jpg

鈴木其一画「新撰花柳百人一首募集摺物」二枚のうちの一枚(石水博物館蔵)
【 吉原の楼主、玉屋山三郎こと花柳園が企画した、吉原遊女による「新撰花柳百人一首」の募集要項。(略) 其一が『花街漫録』に遊女の挿絵を描いたのはちょうど二十年前になるが、この年五十を迎えた其一は藐庵との交流も続いており、このような企画にも参加していた。「新撰花柳百人一首」が実際に刊行されたかはわからないが、企画段階では其一はともすれば百人の遊女の姿を描く可能性もあったのである。(略)見本に書かれた藐庵の和歌も「君たちのこと葉の花をさくら木にゑりてまた見ぬ人に見せはや」と彼女たちの才知を誘っている。(略)其一の知名度や藐庵ゆかりの人脈が知られるとともに、素顔の其一像は意外とこうした資料から垣間見えるように思う。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)
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