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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十四) [抱一の「綺麗さび」]

その十四「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(抱一筆)

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酒井抱一筆「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095260

抱儀・葛花に烏瓜図.jpg

守村抱儀筆「葛花に烏瓜図」 絹本著色 一幅 九五・五×三二・四㎝
東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0027576

【 抱一、其一にもうたがわれるほど似たような構図である。琳派の画家たちが好んで描いた画題であるようだ。しかし烏瓜をからませている図は少ない。しかも蔦と烏瓜の蔓の描線の美はすばらしく、この図に生彩を添える原因でもある。葉の色には明らかな対照を示し、金彩の葉脈に簡略と複雑の表現を用い、花と実も紅白色分けしているのも心憎い。かなり抱一の性格に似た筆者だったようである。守村抱儀の伝は余りはっきりしていないし、抱の一字を用いているところから、かなり近い弟子の存在であったと考えられる。落款に「鷗嶼閑人筆」とあり、「抱儀」朱文角丸方印がある。 】
(『抱一派花鳥画譜一(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

【 守村抱儀(もりむらほうぎ)
1805-1862 江戸時代後期の豪商、俳人。
文化2年生まれ。鶯卿(おうけい)の兄。江戸浅草蔵前の札差。俳諧(はいかい)を成田蒼虬(そうきゅう)、絵を酒井抱一(ほういつ)、詩文を中村仏庵にまなび、天保二十四詩家のひとりにかぞえられる。小沢何丸の後援者だったが、豪華な生活で家産をかたむけた。文久二年一月十六日死去。五十八歳。名は約。通称は次郎兵衛。別号に鴎嶼など。著作に「うみみぬ旅」など。】  (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

抱儀・紅梅図.jpg

守村抱儀筆「紅梅図」 一六・五×四三・五㎝(原「扇面画」・個人蔵)→扇子仕立て(上記「日本航空・記念品」、以下の解説は「原『扇面画(個人蔵)」のもの)
【 抱儀
江戸時代琳派の最後の人とも言うべき画家に、守村抱儀がいる。抱儀は、名は約、号を経解・鴎嶼・松篁・交翠山房・真実庵などと称した幕末の画家で、文久二年(一八六二、)に没した。書画詩俳諧をよくし、文人画的な気質で光琳風を学んだと思われる。紅梅図は、数少ない抱儀の出色の遺品である。画面中央から左右に枝を張る梅を、濃墨と淡墨で描き分け、こぼれんばかりの大きな紅い花をつけている。梅花は清々しい大気を吸い、みずみずしく輝いている。筆勢に力があり、墨も紅も美しい。このような扇絵を見ていると、形式化し衰弱して行った琳派の江戸末期にも、なお扇絵には美の余光が残っていたことを認め得る。  】
(『扇絵名品集(水尾比呂志著)』別冊「解説(水尾比呂志稿)」)

 抱儀は、抱一在世中の末弟に位置する抱一門の一人であろう。『墨林奇勝』「普陀落山房詩集」ほか多数の著作があり、明治四年(一七八一)に遺族より『抱儀句集』も刊行されている。また、先代より引き継いだ蔵書家としても知られているが、晩年は斜陽となり、火災などもあり、駒形堂のほとりささやかな「真実庵」を結んでいたという。
 抱一の「綺麗さび」の世界は、この抱儀や、同世代の、酒井鶯蒲・鶯一、鈴木守一そして田中抱二らに引き継がれていることを、抱一の扇面画などを介すると一段とはっきりとしてくる。

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