SSブログ

酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十九) [抱一の「綺麗さび」]

その十九 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)

柳図.jpg

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵
一六・六×四五・五㎝
【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

 闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)
 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)
 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)
 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚) 

 難波の住吉神社で西鶴が催した一昼夜二万三千五百句の矢数俳諧興行の後見役をつとめた第一次上方行脚の際の、宗匠其角誕生(貞享三年=一六八六)前後の作なのかも知れない。

島原図.jpg

『都名所図会』所収「嶋原(島原)図会」
   ↑
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_148.html

 江戸の吉原は、隅田川の堤防・日本堤から吉原遊廓(新吉原)へ下る坂「衣紋坂(えもんさか)」の「見返り柳」であるが、京都・島原は「出口の柳」である。
 この其角の句は、「柳に風」「柳に風と受け流す」などの古諺を利かせていることが、洒落風俳諧の其角らしい句で、「華やかなる事其角に及ばず」(『旅寝論』の去来の其角評)の、その萌芽のようなものを醸し出しているという雰囲気である。
 抱一の俳諧の師筋の一人・馬場存義(李井)と親交の深い小栗旨原(百万)は、蕪村の『新花摘』に其角の『五元集』の編纂関連で登場し、江戸座俳諧師・抱一は、「其角→存義・旨原・蕪村→抱一」という系譜に連なると俳人で、其角の生前に自撰していた自撰句集ともいえる『五元集』については、自家薬籠中のものであったであろう。
 そして、抱一の門弟の蠣潭や其一の扇面画などには、抱一自身の句で賛をするのが通例であるが、この其一の、この「柳図」には、即興的に其角の句が想起されてきたということなのであろう。
 それにしても、「其角=句、抱一=賛、其一=画」と、何とも「華やかなること三人揃い踏み」という魅力溢れる扇である。

柳に白鷺図.jpg

鈴木其一筆「柳に白鷺図屏風」 二曲一隻  絹本着色 一三二・五×一四一・六㎝
エツコ&ジョー・プライスコレクション
【「菁々其一」と落款を禽泥で入れているところから、画家自身にとってもおそらく快心の作であったのだろう。事実彼の芸術の美質があますところなく披瀝されている。あの傑作「夏秋渓流花木図屏風(根津美術館蔵)は、どこか芝居の書割を思わせる人工美の世界を見せているが、ここではそうしたものを受けつぎながらも、さらにいっそう研ぎ澄まし、昇華させ、画家自身の心象風景とでもいいたいような美の世界を開陳する。ここでは白鷺の羽音も、柳の枝を揺らす風の動きもない。一切が静謐なる世界に封じ込められたかのようである。緑青と胡粉の対比がまことに清新で美しい。これもまた其一円熟期の名品の一つ。 】
(『琳派二 花鳥二(紫紅社)』所収「作品解説一〇七(榊原悟稿)」)

 この落款の「菁々」の初出は、弘化元年(天保十五年・一八四四)、其一、四十九歳の時で、この「柳に白鷺図屏風」は、それ以降の作品ということになる。恐らく、安政元年(嘉永七年・一八五四)、五十九歳時の晩年の傑作「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)前後の、其一の晩年の作品と解したい。
 この「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)については、下記のアドレスで触れている。
 ここで、冒頭の「柳図扇」については、下記のアドレスで紹介した、抱一と其一の師弟合作「文読む遊女図」と同時の頃の作と解したい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

羽子板図.jpg

鈴木蠣潭・其一ほか筆・酒井抱一賛「正月飾り物図」一幅 紙本淡彩 九五・七×二七・五㎝ 文化十三年(一八一六)作 個人蔵(足立区立郷土博物館寄託)
【 今春新出となった、其一の最も早い作例である。新春を寿ぐ寄合描で、中央の羽子板を其一、後ろの枝は鯉隠居こと坂川屋主人山崎利右衛門、その下の雑記を長橋文桂、俵形の供え物を大西椿年、手前の鼠の玩具を蠣潭が描き、抱一の俳句を賛とする。
蠣潭が文化十四年(一八一七)に没していること、「跳んだり跳ねたり」と呼ばれた鼠の玩具が描かれていることなどから、蠣潭が亡くなる前年の文化十三年(一八一六)子年の制作と報告され、大きな反響を呼んだ。その新知見について玉蟲敏子「近世絵画を育てた土壌と地域---足立に残された酒井抱一と谷文晁の弟子の足跡---」(『美と知性の宝庫 足立---酒井抱一・谷文晁とその弟子たち』足立区立郷土博物館、二〇一六年)に詳しい。
抱一・蠣潭・其一の三人が一幅に名を連ねる貴重な作例であること、制作年から其一二十一歳の若描きと判明すること、其一が蠣潭の存命中から「其一」を名乗っていたこと、千住の鯉隠居をはじめとする文化人との交流に、蠣潭・其一が早くから関わっていたことなどが明らかになり、本図出現の意義はきわめて重要である。其一の最初期の落款スタイルも確認されよう。
(賛)
客に止む手毬の
おとや梅の縁
鶯邨題「文詮」(朱文瓢印)  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説一九(岡野智子稿)」)

 「金杉邑(むら)画狂其一筆」と、「紅葉狩図凧」の箱書に署名した抱一の無二の高弟・鈴木其一の出発点は、この「抱一・蠣潭・其一」の師弟合作からスタートする。
そして、それは、文人の里「下谷根岸」の「三幅対」と称せられた、儒者・漢詩人として名高い亀田鵬斎そして江戸文人画の総帥・谷文晁と江戸座の俳諧師にして江戸琳派の創始者・酒井抱一の、そのネットワークからのスタートを意味する。
 この鵬斎の義弟が、俳諧の千住連の頭領が、抱一と同年齢の無二の知友の建部巣兆である。この巣兆が没した翌年の文化十二年(一八一五)に、下記のアドレスなどで紹介した奇妙奇天烈なイベント「千住酒合戦」の、その中心人物の一人が、上記の「正月飾り物図」の其一の描いた「羽子板」(松竹梅図か?)の後ろの「枝(篠竹か?)」を描いたその人、「鯉隠居こと坂川屋主人山崎利右衛門」ということになる。

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-09

 其一は、ここからスタートとして、そのゴール地点に位置する作品が、上記の「柳に白鷺図屏風」であろう。ここに描かれている白鷺は、其一その人と解したい。そして、この静止した柳は、「綺麗さび」の世界に遊んでいた抱一の一瞬の静止した姿であり、その抱一の「綺麗さび」世界からの巣立ちの其一の姿こそ、この白鷺なのであろう。
nice!(2)  コメント(0)