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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十二) [抱一の「綺麗さび」]

その二十二 「月」扇子(抱一筆)

抱一・月扇面.jpg

酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

「月白風清/此良夜如何」(蘇軾『後赤壁賦』)関連(※印)の原文と訳は次のところである。

   已而嘆曰      已にし嘆じて曰く
  有客無酒      客有れども酒無し
  有酒無肴      酒有れども肴無し
※ 月白風清      月白く風清らかに
※ 如此良夜何     此の良夜如何せん
  客曰        客曰く
  今者薄暮      今薄暮
  舉網得魚      網舉げ魚得たり
  巨口細鱗      巨口細鱗
  状似松江之鱸    状松江の鱸に似たり
  顧安所得酒乎    顧ふに安くの所の酒を得ん

 蕪村に出て来る『後赤壁賦』関連は、上記に続く、次(※印)のところである。

  歸而謀諸婦     歸って諸婦に謀る
  婦曰        婦曰く
  我有鬥酒      我に鬥酒有り
  藏之久矣      之を藏すること久し
  以待子不時之需   以て子の不時の需め待てり
  於是攜酒與魚    是に於いて酒と魚とを攜へ
  復遊於赤壁之下   復た於いて赤壁の下に遊ぶ
  江流有聲      江流聲有り
  斷岸千尺      斷岸千尺
※ 山高月小      山高くし月小にし
※ 水落石出      水落ちて石出づる
  曾日月之幾何    曾ち日月の幾何ぞや
  而江山不可復識矣  而るに江山復た識るべからず


  月白風清/此良夜如何
 くれぬ間に月は懸(かか)れり冬木立  抱一「隅田川遠望図」賛)

  山高月小/水落石出
 柳散リ清水涸レ石処々(トコロドコロ) 蕪村(『反古襖』「遊行柳のもしにて」)

 この抱一と蕪村との句の背景には、「曾日月之幾何(曾ち日月の幾何ぞや)/而江山不可復識矣(而るに江山復た識るべからず)」の感慨が去来している。

 抱一の、この句が出てくる「隅田川遠望図」(池田孤邨筆・酒井抱一賛)は、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-04

 ここに、その抜粋を再掲して置きたい。また、、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)で、その補足をして置きたい。

(再掲)

孤邨・隅田川遠望図.jpg

池田孤邨筆「隅田川遠望図」(酒井抱一賛)一幅 絹本淡彩色 文政九年(一八二六)
五五・五×一〇七・六㎝ 江戸東京博物館蔵
【 抱一は、夕暮れ時の舟中で酒肴を愉しんだ孤邨らの隅田川周遊を、中国北宋の文人・蘇東坡が詠んだ「赤壁賦」に見立てた。自らは参加できなかったものの、気持ちの赴くまま、末尾に「くれぬ間に 月は懸れり 冬木立」の一句を詠じている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保田佐知恵稿)」)

(追記一) 抱一の「賛」の全文は次のとおりである。

 是歳丙戌冬十一月桐生の竹渓
 貞助周二の二子をともなひ墨水
 舟を泛夕日の斜ならんとするに
 猶綾瀬に逆のほり舟中使者
 有美酒有網を挙れハ巨□
 細鱗の魚を得陸を招けは
 □□葡萄の酒傍らに奉る
 嗚呼吾都会の楽ミ何そ蘇子か
 赤壁の遊ひに異ならんや
 冨士有筑波有観音精舎の
 かねの聲は漣波に響き 今戸
 の瓦やく烟水鳥の魚鱗鶴翼に
 飛廻るは草頭にも盡
 かたきを門人孤邨か
 一紙のうちに冩して予に
 此遊ひを記せよといふ予
 その日の逍遥に
 もれたるも名残なく
 其意にまかせて
 俳諧の一句を吃く
  くれぬ間に
   月は懸れり
    冬木立
 抱一漫題「雨華菴」(朱文扇印)「文詮」(朱文瓢印) 

 孤邨の落款は、「蓮葊孤邨筆」の署名と「穐信」(朱文重郭印)である。なお、抱一の「賛」中の、「竹渓」は、桐生の「書上(かきあげ)竹渓」(絹の買次商・書上家の次男)で、市川米庵にも学ぶ文化人という。桐生は佐羽淡斎を通じて抱一とは関わりの深いところで、抱一を慕う者が多かったようである。
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説115(岡野智子稿)」)

(補足)

 『井田・岩波新書』での、上記(追記一)の賛の訳文は次のとおりである。

是(この)歳(とし)丙戌(へいじゆつ)冬十一月、桐生の竹渓(ちくけい)、/
貞助・周二の二子をともなひ、墨水(ぼくすい)に/
舟を泛(うかぶ)。夕日(せきじつ)の斜(ななめ)ならんとするに、/
猶(なほ)、綾瀬(あやせ)に逆(さか)のぼり、舟中佳肴(かかう)有(あり)、/
美酒有り。網を挙(あぐ)れば巨口(きよこう)/
細鱗(さいりん)の魚(うを)を得、陸を招けば、/
蘭陵(らんりよう)葡萄の酒、傍(かたわら)に来る。/
嗚呼、吾(わが)都会の楽(たのし)み、何そ蘇子(そし)が/
赤壁の遊びに異ならんや。/
冨士(ふじ)有(あり)、筑波有(あり)。観音精舎の/
かねの聲は、漣波(れんぱ)に響き、今戸(いまど)/
の瓦やく烟(けむり)、水鳥の魚鱗(ぎよりん)鶴翼(かくよく)に/
飛(とび)廻(まは)るは筆頭にも盡(つくし)/
がたきを、門人孤邨が/
一紙のうちに冩して、予(よ)に/
「此(この)遊ひを記せよ」といふ。予、/
その日の逍遥に/
もれたるも不慢(ふまん)ながら、/
其(その)意(い)にまかせて、/
俳諧の一句を吐く。/
  くれぬ間に/
   月は懸(かか)れり/
    冬木立/

 この抱一の長文の賛は、『井田・岩波新書』では、最終章(「第四章 太平の『もののあはれ』」)の最終節(「五 追憶と回顧---最晩年」)に収載されている。この長文の賛に関連する貴重な記述について、抜粋して掲載して置きたい。

【(「隅田川遠望図」の賛)
 (前略) 
抱一はこの舟遊びに誘われなかったが、賛を求められた。その賛は、蘇東坡の「赤壁賦(せきへきのふ)」「後(こう)赤壁賦」という、東坡が長江(ちょうこう)流域の景勝地赤壁に遊んだ際になした名高い文章を踏まえていて、孤邨画に奥行きを与えている。ただし、隅田川には墨堤があるものの、かの赤壁に擬すべき切り立った断崖はなく、賛の趣向として赤壁を取り入れるのには少し無理がある。「赤壁賦」が「壬戌(じゅんじつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて赤壁の下に遊ぶ」と始まるのを考えあわせると、実はこの賛に抱一はもう一つ、個人的な感慨を点じていたと考えられる。
相見香雨によれば、溯ること二四年、壬戌(享和二年)の秋、七月既望(一六日の夜)、抱一は文晁・鵬斎と舟を泛べ、国府台(こうのだい)(千葉県市川市)の下に遊ぶ約束をしていたのである。国府台、つまり江戸川に面する切り立った河岸段丘を赤壁に見立て、七二〇年前の東坡の風雅を偲ぶこの好企画が実現したか否か、今は傍証をもたない。

(揺曳する鵬斎)
 抱一が著賛したのは文政九年、その三月九日に鵬斎は没していた。数年来、中風で薬餌に親しんでいたという。この年は月見の約束を交わした享和二年と同じ戌年であったが、愉しい時代はすでに過ぎてしまっていた。抱一は「いかにせむ賢き人もなきあとに今(こ)としもおなじ花ぞ散りける」(『句藻』「月日星」)と文政一〇年の鵬斎一周忌に際して一首捧げているが、季節は何事もなくめぐり、また日常が繰り返されてゆくという気分が濃い。
(中略)
 「赤壁賦」は七月で秋、「後赤壁賦」は一〇月で冬。隅田川でのこの舟遊びは冬であった。賛の末尾にそえた抱一句にどこか寂寥がたゆたうのは、東坡の赤壁という往古を想う漢詩、冬という季節感、あるいは画面にみられる夕方という時間帯のせいだけなのであろうか。舟遊びにおける時間の経過のほか、おそらくは人間における時間というものの経過のままならさが一句に立ち込めるからである。
(後略)

(最晩年)
 文政一〇年一一月一一日、水戸徳川家の茶会に抱一は正客として招かれた。(藩主斉修公の抱一への答礼の趣向に感激し、)「誠、関東画工の目面(面目)をほどこし、難有(ありがたかり)けり」と感激している(『句藻』「竹鶯」)。大名社会からは逸脱したが、「画工」として名を立て、再び大名社会に迎え入れられたという自己認識なのであろうか。
(後略)

(絶筆四句)
 文政一一年(一八二八)一一月二九日、抱一は雨華庵で六八年の生涯を静かに終えた。晩年の弟子田中抱二は「一一月まで稽古に通ったという」(「雨華庵図」)から、急逝とみられる。『句藻』「はつ音」には、最期に書きつけられた四句のあと、索漠たる空白が広がっている。

  寄雪述懐(ゆきによするしゆつかい)
 月出(いで)て帰(かへる)風なり雪見舟(ゆきみぶね)
 残菊(ざんぎく)や慈童(じどう)は一里酒買(かひ)に
 木の瘤(こぶ)の残りて寒き鴉(からす)かな
 鹿の来てならすや菴(いほ)の楢(なら)紅葉(もみぢ)  

(後略)   】(『井田・岩波新書』「「第四章 太平の『もののあはれ』」)
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