SSブログ

酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十三) [抱一の「綺麗さび」]

その二十三 「秋夜月」と「月」扇子(抱一筆)

秋夜月と月.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子 一本 一七・七×五一・〇㎝ 太田記念美術館蔵
(左)酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

(右) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03

【 秋の夜空を紺碧で、月を金で表す。単純ながらも大胆な構図と配色が印象的な扇。印章「抱弌」(朱文方印)・「文詮」(朱文瓢印)の朱色も背景に映える。賀茂季鷹(一七五四~一八四一)による和歌は「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」。季鷹は京都の歌人で国学者。大田南畝らとも交流し、俗文芸にも接触をもった。抱一の画譜(文化十四年<一八一七>)に序を寄せており、抱一との交流も知られる。裏面には墨書「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」があり、季鷹が賛を請われた様子をうかがうことができる。  】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説七(赤木美智稿)」)

(左) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-07

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

 この二本の扇子(右と左)は、大きさも題名も違う、別々の扇子なのであろうか。それとも、大きさや題名が異なっていても、二本一組の「対」の扇子と解すべきなのであろうか。
 この問については、後者の、二本一組の「対」の扇子と解したい。そして、右の扇子は、金の月の「金」、季鷹(すえたか)の和歌の賛の「和」に対して、左の扇子は、銀の月の「銀」、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』の漢詩の賛の「漢」との、二極相対立する「対」(取り合わせ)の扇子と解したい。
 この「金に対する銀」、「和に対する漢」などの二極対立の構造(視点)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)では、「唱和」(「一方の作った詩歌に答えて、他方が詩歌を作ること」)の一形態の「反転」(「表=先行詩歌」の世界を「反転」(逆転)させて、「裏=後行詩歌」の世界を、水平的に創作する「反転の法」)に他ならないとしている。
 この「反転」(主として、「蕪村の反転の法」)については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-03

 そして、「金に対する銀」の「反転」の世界については、下記のアドレスなどで触れている。ここでは、一部順序を入れ替えて、さらに、補足と修正を加えつつ再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

(再掲)

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 これは、光琳の「金」の世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)である。これを「反転」させたのが、次の抱一の「銀」の世界である。

抱一・波図屏風.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 と同時に、光琳の「金」世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)は、「群青」の世界でもあった。その「群青」の世界をも踏襲したものが、右の「秋夜月」扇子の「群青」ということになる。

秋夜月・全体.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子(「金」と「群青」の世界)

 そして、この「金と群青」の世界は、次の「朱と群青と白富士」に変転(変奏)してくる。

絵手鑑・富士図.jpg

酒井抱一筆「富士山図」(『絵手鑑』七十二図中の十九図)各二五・一×一九・七㎝ 
静嘉堂文庫美術館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-07

 そして、この群青は、北斎の、次の「神奈川沖浪裏(北斎筆)」の「群青(ベルリン藍=ベロ藍)の波濤図」と協奏してくる。

神奈川沖浪裏.jpg

北斎筆「神奈川沖浪裏」横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 さらに、抱一の「朱と群青と白富士」は、次の北斎の「赤(朱)富士」と通称されている「凱風快晴」に連なっていると解したい。

凱風快晴.jpg

北斎筆「凱風快晴」(『富嶽三十六景』全四十六図中の一図)横大判錦絵 二四・一×三七・二cm 天保一~三(一八三〇~三二) 東京冨士美術館蔵

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3769

 次に、「和に対する漢」の「反転」については、例えば、「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)で取り上げられている「和性と漢性の美しい均衡こそ、抱一筆十二か月花鳥図最大の美的特質である」の、「和性」(日本的イメージ)と「漢性」(中国的イメージ)との視点に立っての「反転」ということになる。
 これは、冒頭の「秋夜月」(右)の賛(賀茂季鷹の和歌「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」)の「和性の賛」を、「月」(左)の賛(蘇軾の漢詩「月白風清此良夜如何」)の「漢性の賛」に「反転」しているということになる。
 この抱一の「和性と漢性」との視点ということについては、下記のアドレスの「雨華庵の四季(その一~その十八)」で、その「四季花鳥図巻」(上=春夏=「春夏の花鳥」・下=秋冬=「あきふゆのはなとり」)をとおして見てきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-12

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-16

 この「四季花鳥図巻」の、抱一自身が書いた題簽(上巻=「春夏の花鳥」と下巻=「あきふゆのはなとり」)の一つをとっても、抱一が、所謂、『古今和歌集』の、「真名序=漢性の序=紀淑望の序」と「仮名序=和性の序=紀貫之の序」の「漢性(中国風=漢詩風)と「和性」(日本風=和歌風)」との両極性を内在的に有していたことが察知される。
 ここで、抱一の、この「漢性」と「和性」との両極性ということについて、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」を媒介として、それらをクローズアップさせていきたい。

(再掲)

紅白梅図屏風.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-08

尾形光琳筆「紅白梅図屏風」二曲一双 各一五六・〇×一七二・二cm MOA美術館蔵

【 平安時代に入り、国風文化が徐々に強まるとともに、梅は桜にその地位を譲ることになる。十世紀に初めに編まれた『古今和歌集』になると、桜は七十三首も詠まれて堂々と首位を占め、「花」といえば、それはただちに桜を意味するようになるのである。しかし、中国を意味する梅に対する尊敬は、けつして廃れることはなかった。ただし、この場合も日本化が起こって、中国で尊ばれた白梅に代わって、紅梅に対する愛好が生まれた。菅原道真や清少納言は大の紅梅ファンであった。これを琳派についていえば、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」(MOA美術館蔵)においても、白梅は中国を、紅梅は日本を象徴していることが指摘されている。このような梅の暗喩を、和漢の教養豊かにして、光琳に私淑した抱一が知らないはずはなかった。 】
(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」)

 この右隻の「紅梅」(和性)に、冒頭に掲載した「秋夜月」(和性=類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月=賀茂季鷹)、そして、その左隻の「白梅」(漢性)に、冒頭の「月」(漢性=月白風清/此良夜如何=蘇軾)を重ね合わせると、この「右隻」と「左隻」の中央に、上から下へと貫通する「光琳波の水流」は、光琳を継承する抱一の「江戸琳派」の流れを意味してくる。
 そして、その「江戸琳派」の流れは、次のアドレスの、鈴木其一・池田孤邨らに継承されていく。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-15
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:アート