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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その五) [三十六歌仙]

(その五)後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)と土御門内大臣(源通親)

藤原忠道.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009398

源通親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方五・土御門内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009416

藤原忠道二.jpg

(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019790

(バーチャル歌合)

左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010684000.html

かすみしく春のしほぢをみわたせば/みどりをわくるおきつしらなみ

右方五・土御門内大臣(源通親)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010685000.html

おりしもあれ月はにしにも成りぬらん/雲のみなみにはつかりのこゑ

判詞(宗偽)

「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の七十七番(左方=左大臣、右方=俊成卿女)は、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  七十七番  左     左大臣
妻恋の雉(きぎす)なく野の下わらび下にもえても折りをしる哉
        右 勝   俊成卿女
梅の花あかぬ色香(か)も昔にておなじかたみの春の夜の月
 左の歌がら宜(よろしく)侍れども、右「同じ形見の春の夜の月」尤よろし。可為勝

 この判詞のスタイルを借用したい。

 「左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)」の歌がら宜(よろしく)侍れども、「右方五・土御門内大臣(源通親)」の「おりしもあれ月はにしにも成りぬらん」の上句の破調尤よろし。以右為勝。


(九条兼実の一首)

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   右大臣に侍りける時、家に歌合し侍りけるに、霞の歌とてよみ侍りける
霞しく春の潮路を見わたせばみどりを分くる沖つ白波(千載8)

【通釈】すみずみまで霞が広がる、春の航路を見わたせば、水の色に染まった霞と、青い海原と、ひとつに融け合ったようないちめん真っ青な景色を、沖に立つ白波だけがくっきりと分けているようだ。
【語釈】◇潮路(しほぢ) 話手が乗っている船の前に広がる海原。◇みどりをわくる 霞と海がひとつに融け合ったような景色の中で、水平線に白く立つ波が霞と海とを分けて見せている、ということ。海や空の青色を当時は「みどり」と言った。
【参考歌】藤原忠通「詞花集」
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波


(源通親の一首)

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    百首歌たてまつりしとき
朝ごとに汀(みぎは)の氷ふみわけて君につかふる道ぞかしこき(新古1578)

【通釈】毎朝、水際に張った氷を踏み、道をつけて、宮城に通います。そのように、陛下にお仕えする臣下の道は、身も竦むように畏れ多いものです。
【語釈】◇氷ふみわけて 「ふみわけ」は踏んで道をつけることを言う。氷をよけて通ることではない。「薄氷を履(ふ)む如し」(詩経)を踏まえるとする説もある。◇道ぞかしこし この「道」は、宮廷に仕える臣下としての、然るべきあり方・生き方を言う。「かしこし」は、霊威に対し畏怖を感じる心をいうのが原義。身も心もすくむような感情。
【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。
【他出】定家十体(有一節様)、新時代不同歌合
【本歌】「源氏物語・浮舟」
峰の雪みぎはの氷ふみわけて君にぞまどふ道はまどはず

九条兼実(くじょうかねざね)久安五~建永二(1149-1207) 通称:月輪殿・後法性寺殿・後法性寺入道関白など

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 九条家の祖。関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房らの弟。兼房・慈円らの兄。子には良通・良経・良輔・良平・後鳥羽院后任子ほかがいる。
 保元元年(1156)二月、母を亡くす。同三年正月、元服し、正五位下に叙せられる。この年、兄の基実は二条天皇の関白となった。
 永暦元年(1160)二月、従三位。 同年八月、権中納言。応保元年(1161)、権大納言。長寛二年(1164)には十六歳にして内大臣に任ぜられた。同年二月、父が逝去。
 永万元年(1165)六月、六条天皇の践祚とともに兄基実は摂政に就くが、翌年七月、二十四歳で夭折したため、次兄基房が代わって摂政となった。兼実は仁安元年(1166)、右大臣に昇る。
 承安二年(1172)十二月、基房は関白に転じ、やがて反平氏政策を実行、治承三年(1179)十一月、平清盛のクーデタにより解官され備前国に流された。清盛は娘婿の基通(基実の子)を関白とし、後白河法皇の院政を停止。翌年、福原に遷都したが、兼実はこの時京都に留まった。この間、承安四年(1174)には従一位に叙されている。
 寿永二年(1183)、平氏都落ちの際、これに同行しなかった摂政基通と共に、後鳥羽天皇の擁立に動いた。木曽義仲入京の際は静観を通したが、源頼朝とは互いに接近し、連絡を取り合った。同三年、義仲誅滅と共に基通が摂政に復帰。しかし基通は文治二年(1186)三月、前年の頼朝追討宣旨の責めを負って辞任し、頼朝の支持のもと、代わって兼実が摂政に就任した。
 文治五年(1189)十二月、太政大臣。建久元年(1190)正月、娘の任子を後鳥羽天皇に入内させる。同年、大臣を辞し、翌建久二年、関白に転ずる。同三年(1192)三月、後白河法皇が崩御すると、実権を掌握し、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。
 しかし建久七年(1196)、源通親の策謀により関白を罷免され、任子は皇子をなさぬまま内裏を追われた。建仁二年(1202)二月、法性寺で出家し、円証を称す。同年、通親が没し、後鳥羽院が実権を握ると、良経が摂政に任ぜられ、九条家復活の兆しが見えたものの、元久三年(1206)三月にはその良経に先立たれた。翌年の承元元年(1207)四月五日、法性寺にて逝去。享年五十九。
 和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。千載集初出。勅撰入集計六十首。長寛二年(1164)から正治二年(1200)に及ぶ日記『玉葉』がある。


源通親(みなもとのみちちか) 久安五~建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)

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 村上源氏。内大臣久我(こが)雅通の長男。母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。後鳥羽院后在子は養女。
 保元三年(1158)八月、従五位下に叙される。仁安二年(1167)、右近衛権少将。同三年正月、従四位下に昇叙され、加賀介を兼任する。同年二月、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。同年三月、従四位上、八月にはさらに正四位下に叙せられ、禁色宣下を受ける。嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。承安元年(1171)正月、右近衛権中将。十二月、平清盛の息女徳子の入内に際し、女御家の侍所別当となる。治承二年(1178)、中宮平徳子所生の言仁(ときひと)親王(安徳天皇)の立太子に際し、東宮昇殿をゆるされる。同三年(1179)正月、蔵人頭に補される。十二月、中宮権亮を兼ねる。同四年正月、参議に任ぜられる。同年三月、高倉上皇の厳島行幸に供奉。六月には福原遷幸にも供奉し、宮都の地を点定した。
 平安京還都後の治承五年(1181)正月、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御(二十一歳)。上皇危篤の時から一周忌までを通親が歌日記風に綴ったのが『高倉院升遐記』である。同年閏二月には平清盛が薨じ、政治の実権は後白河法皇へ移る。以後、通親も法皇のもとで公事に精励することになる。改元して養和元年の十一月、中宮権亮を罷め、建礼門院別当に補される。同二年正月、正三位。
 寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。ついで院御所での議定に列した。同年八月、後鳥羽天皇践祚。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
元暦二年(1185)正月、権中納言に昇進。文治二年(1186)三月、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任。この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月、従二位。同五年正月、正二位(最終官位)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補される。以後、丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。
 建久元年(1190)七月、中納言に進む。同三年三月、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。同月、権大納言に昇る。建久七年(1196)十一月、任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)には外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。
 正治元年(1199)正月、右近衛大将に任ぜられる。その直後源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
 和歌は若い頃から熱心で、嘉応二年(1170)秋頃、自邸で歌合を催している。同年の住吉社歌合・建春門院滋子北面歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに参加。
 殊に内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果すことになる。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の新宮撰歌合、同年六月の千五百番歌合に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれた。
 しかし新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下される。
 著書には上記のほか『高倉院厳島御幸記』などがある。千載集初出。勅撰入集三十二首。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その四) [三十六歌仙]

(その四)※仁和寺宮(※※道助法親王)と前大納言忠良(藤原忠良)

仁和寺宮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・※仁和寺宮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009397

藤原忠良.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方四・前大納言忠良」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009415

仁和寺宮二.jpg

(左方四・※仁和寺宮)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019789

(バーチャル歌合)

左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html

 萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし

右方四・前大納言忠良(藤原忠良)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010683000.html

 ゆふづく日さすやいほりの柴の戸に/さびしくもあるかひぐらしのこゑ

判詞(宗偽)

 藤原忠良が、判者の一人となった「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」のトップは、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  一番 左 勝
春立てばかはらぬ空ぞかはり行(ゆく)昨日の雲か今日の霞か  女房
     右
いつしかと雲井に春や立(たち)ぬらん雪げをこめてかすむ空哉 三宮
 左歌、心(こころ)詞はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、雲
井と空とは同事にや侍らん。以左為勝。

 この左方の作者の「女房」は「後鳥羽院」の筆名(戯名)で、右方の作者の「三宮」は「後鳥羽院の異母兄」の兄弟対決なのである。この「判詞」のスタイルを借用すると、「左方四・※仁和寺宮(道助法親王)」と「右方四・前大納言忠良(藤原忠良)」の対決の「判詞」は次のとおりとなる。

 左歌、心(こころ)詞(ことば)はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、「さびしくも」に「ひぐらしのこゑ」安易にや侍らん。以左為勝(左ヲ以ッテ勝ト為ス)。

(※※道助親王の一首)=「左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)」の「萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし」の一首。

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  秋歌よみ侍りけるに
荻の葉に風の音せぬ秋もあらば涙のほかに月は見てまし(新勅撰223)

【通釈】荻の葉を風が訪れてそよがせる――その音が聞えない秋があったならば、涙に煩わされず美しい月を見ることができたろうに。
【補記】荻は薄によく似た植物。大きな葉のそよぐ音に秋の訪れを知った。「涙のほかに」は「涙とは無関係に」といった意味。
【参考歌】
藤原頼輔「千載集」
身の憂さの秋は忘るるものならば涙くもらで月は見てまし
  藤原伊通「金葉集」
稲葉吹く風の音せぬ宿ならばなににつけてか秋を知らまし
【主な派生歌】
春の月涙の外にみる人やかすめるかげのあはれしるらむ(宗尊親王)
さやかなる月さへうとくなりぬべし涙の外に見るよなければ(永福門院)

(藤原忠良の一首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadayosi.html

   百首歌たてまつりし時
あふち咲く外面(そとも)の木かげ露おちて五月雨はるる風わたるなり(新古234)

【通釈】楝の花が咲く、家の外の木陰――そこから露が落ちて、五月雨の晴れる風がわたってゆくようだ。
【語釈】◇あふち 楝。栴檀。初夏に芳香のある薄紫色の花をつける。◇そとも 外面。家の外。◇五月雨(さみだれ) 陰暦五月頃に降る雨。梅雨。◇風わたるなり 「なり」は視覚以外の感覚(露の落ちる音、あるいは肌に感じる涼しさ)によって判断していることを示す助動詞。
【補記】五月雨は降り止んだかと戸外を眺めれば、楝の花咲く木蔭に露がしたたる。折しも、雨雲を追いやった風が樹々の上を渡ってゆくらしい。薄紫の花に落ちた露という微小な景から、晴れゆく空をわたる風の想像へ、大きな転換が鮮やか。
出典は老若五十首歌合。詞書の「百首」は誤り。
【他出】定家十体(見様)、新時代不同歌合、六華集
【主な派生歌】
あふち咲く山田の木蔭風すぎて見るも涼しくとる早苗かな(飛鳥井雅有)
あふち咲く梢に雨はややはれて軒のあやめにのこる玉水(*平経親[風雅])
露はらふ風ぞ涼しきあふち咲く外面のかげの夏の夕暮(二条為親)
あふち咲くそともの木陰くらき夜も聞かでや明けむ山ほととぎす(下冷泉持為)


※※道助親王(どうじょしんのう) 建久七~宝治三(1196-1249) 諱:長仁 通称:鳴滝宮・光台院御室

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/doujo.html

 後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。順徳院・雅成親王の異母兄。入道二品親王。
 建久七年(1196)十月十六日、生れる。七条院の猶子となる。正治元年(1199)、親王宣下。建仁元年(1201)十一月、仁和寺に入る。建永元年(1206)、十一歳で出家、光台院に住む。承元四年(1210)十一月、叙二品。建暦二年(1212)十二月、道法法親王により伝法灌頂を受ける。建保二年(1214)十一月、第八世仁和寺御室に補せられた。寛喜三年(1231)三月、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。建長元年(1249)一月十六日、入滅。五十四歳。光台院御室・高野御室と称された。
 承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」、嘉禄元年(1225)四月に企画された「道助法親王家十首和歌」などを主催した。隠遁後、宝治二年(1248)の「宝治百首」に出詠。御集が伝わるが上巻を欠く。新勅撰集初出。勅撰入集は計三十八首。「新時代不同歌合」歌仙。新三十六歌仙。

藤原忠良(ふじわらのただよし) 長寛二~嘉禄元(1164-1225) 号:鳴滝大納言

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadayosi.html

 法性寺殿忠通の孫。六条摂政基実の次男。母は左京大夫藤原顕輔の娘。摂政内大臣基通の弟。兼実・慈円らの甥で、良経の従兄。また清輔の甥にあたる。子の衣笠内大臣家良・大納言基良も勅撰歌人。
 永万二年(1166)、三歳の時、父を亡くす。治承四年(1180)、元服して正五位下に叙せらる。養和元年(1181)、従四位下に昇り、侍従より左中将に転ず。寿永二年(1183)、従三位。同年右兵衛督に任ぜられ、年末に右権中将に遷る。文治三年(1187)十二月、権中納言。同五年七月、中納言に転ず。建久二年(1191)三月、権大納言に進む。建仁二年(1202)、大納言に至るが、同四年三月、辞職した。承久三年(1221)、出家。嘉禄元年(1225)五月十六日、六十二歳で薨ず。最終官位は正二位。藤原定家の日記『明月記』に評して「雖非器之性、柔和心操歟」とある。
 後鳥羽院主催の「正治二年初度百首」「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」「千五百番歌合」などに出詠。「千五百番」では判者も務めた。また建仁元年(1201)三月の「通親亭影供歌合」にも参加し、正治二年(1200)の「三百六十番歌合」に選ばれている。千載集初出。勅撰入集六十九首。

(補注)

「※仁和寺宮」は、下記の「※※※守覚法親王」の通称でもあるが、この「※※※守覚法親王」(北院御室)は、後鳥羽院撰(伝承)の「新三十六歌仙」には入集されていない。そして、「新三十六歌仙」には、「和泉市久保惣記念美術館蔵」の「入道二品親王道助(※※道助親王)」(光台院御室)が入集されており、その一首での「バーチャル歌合」としている。
 
※※※守覚法親王(しゅかくほっしんのう) 久安六~建仁二(1150-1202) 通称:北院御室(きたいんおむろ)・喜多院御室・仁和寺宮
 
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syukaku.html


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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その三) [三十六歌仙]

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その三)

(その三)順徳院と前内大臣(源通光)

順徳院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方三・順徳院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009396

源通光.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・前内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009414

(バーチャル歌合)

左方三 順徳院
 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風

判詞(宗偽)

 ここで、あらためて、ここまでの左方の作者は、後鳥羽院とその皇子、即ち、三上皇の揃い踏みなのである。こういう芸当が出来る人は、後鳥羽院その人以外には考えなれないという思いがする。

左方一(後鳥羽院・第八十二代天皇)→左方二(土御門院=後鳥羽院の第一皇子・第八十三代天皇)→左方三(順徳院=後鳥羽天皇の第三皇子・第八十四代天皇)

 それに対する右方は、その「後鳥羽院歌壇」の、それぞれに対応する、この「歌合」(虚構の「歌合」)の主宰者(最終的に「後鳥羽院」その人?)の意向のように思われる。

右方一(式子内親王)→右方二(皇太后宮大夫俊成女)→右方三(後久我前太政大臣通光)

 ここで、あらためて、両首を並列してみたい。
 
左方三 順徳院
 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風

 これは、撰者との伝承のある「後鳥羽院」その人の「判詞」(判定)という観点からすると、「持」(引き分け)とするのが「可」なのかも知れないが、この「左方」の一首に『小倉百人一首』(藤原定家撰)の最終を締め括った、次の一首に思いを重ね併せて、左方の順徳院の「勝」としたい。

 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院『続後撰1205』)


(順徳院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#03

風吹けば峰のときは木露おちて空よりきゆるはるのあは雪
花鳥の外にも春のありがほにかすみてかかる山のはの月
しら雲や花よりうへにかかるらむ桜ぞたかきみ吉野の山
難波江の潮干のかたやかすむらん蘆間にとほきあまの釣舟
あすか川ふちせもえやはわぎもこがうちたれがみの五月雨のころ
暁と思はでしもやほととぎすまだ中空の月に鳴くらむ
明石潟あまのとま屋のけぶりだにしばしぞくもる秋の夜の月
風さゆる夜はのころもの関守は寝られぬままに月や見るらむ
水ぐきの岡のあさぢのきりぎりす霜のふりはや夜寒なるらむ
一すぢに憂きになしてもたのまれずかはるにやすき人のこころは

(後久我前太政大臣通光)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#12

三島江やしももまだひぬあしのはにつのぐむほどのはる風ぞふく
まがふとていとひしみねのしら雲はちりてぞはなのかたみなりける
明けぬとて野べより山にいるしかのあとふきおくる萩の下かぜ
むさし野やゆけども秋のはてぞなきいかなるかぜの末にふくらむ
龍田山よはにあらしのまつふけばくもにはうときみねの月かげ
入日さす麓の尾ばなうちなびきたがあき風にうづらなくらむ
限あればしのぶのやまのふもとにも落ばがうへの露もいろづく
浦人のひも夕ぐれになるみ潟かへる袖より千鳥なくなり
ながめ佗びぬそれとはなしに物ぞおもふくものはたての夕ぐれの空
幾めぐり空行く月もめぐりきぬ契りしなかはよそのうき雲

(順徳院の二首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/juntoku.html

  後鳥羽院かくれさせ給うて、御なげきの比、月を御覧じて
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに(新拾遺918)

【通釈】隠岐と佐渡と、はるか遠くの国に離れていても同じこの世には生きておりましたのに、今や父帝とは今生(こんじょう)の世でもお別れすることとなり、いっそう思慕されてなりません。空をゆく月はたった一つ、それを父帝の面影と偲んでおりましたが、御身はこの世の外へ逝かれ、もはや月を形見と眺めるばかりでございます。
【語釈】◇同じ世の別れ 離れ離れではあっても、同じ世に生きていたが、その同じ世からも別れることになった、ということ。
【補記】後鳥羽院は延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。
【主な派生歌】
雲ゐぢもなほ同じ世とたのみしをさてだにあらで別れぬるかな(契沖)

  題しらず
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰1205)

【通釈】大宮の古び荒れた軒端の忍草――いくら偲んでも、なお偲び尽くせない昔の御代なのであった。
【語釈】◇ももしき 宮廷。上代、「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞であったが、のち大宮そのものを指すようにもなった。◇古き軒端 古び、荒れた屋敷の軒端。百人一首の注釈の多くは、「古き軒端のしのぶ」に宮廷の衰微の象徴を見る。◇しのぶ 忍草。荒れた家の軒端に生える草とされた。偲ぶ(恋い慕う)・忍ぶ(堪え忍ぶ)両義を掛けるか。◇なほあまりある いくら偲んでも、偲び尽くせない。「堪え忍んでも、恋慕の情が外に漏れてしまう」意を掛ける。◇昔 王朝の権威が盛んだった聖代。
【補記】建保四年(1216)頃の「二百首和歌」。承久の乱の五年前である。
【他出】百人一首、紫禁和歌集、万代集、新時代不同歌合
【参考歌】源等「後撰集」
浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
【主な派生詩歌】
秋をへてふるき軒ばのしのぶ草忍びに露のいくよ置くらむ(禅信)
小泊瀬やふるき軒端のむかしをも忍ぶの露に匂ふむめがか(源高門)
月うすくふるきのきばの梅にほひ昔しのべとなれる夜半かな(*源親子)
都にはありし忍ぶのみだれよりふるき軒ばのまれになりぬる(姉小路基綱)
いにしへをふるき軒端のしのぶ夜はもらぬ袂もうちしぐれつつ(本居宣長)
今歳水無月のなどかくは美しき。/軒端を見れば息吹のごとく/萌えいでにける釣しのぶ。/忍ぶべき昔はなくて/何をか吾の嘆きてあらむ。(伊東静雄「水中花」より)

順徳院(じゅんとくいん) 建久八年~仁治三年(1197-1242) 諱:守成

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/juntoku.html

 後鳥羽天皇の第三皇子。母は贈左大臣高倉範季女、修明門院重子。姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする。土御門天皇・道助法親王の弟。雅成親王の同母兄。子に天台座主尊覚法親王、仲恭天皇、岩倉宮忠成王ほか。
 建久八年(1197)九月十日、誕生。正治元年(1199)十二月、親王となり、同二年四月、兄土御門天皇の皇太弟となる。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)。父の院と共に宮廷の儀礼の復興に努め、また内裏での歌会を盛んに催した。建保六年(1218)十一月、中宮立子との間にもうけた懐成親王(即位して仲恭天皇)を皇太子とする。
 承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。以後、同地で二十一年を過ごし、仁治三年(1242)九月十三日(十二日とも)、崩御。四十六歳。絶食の果ての自殺と伝わる。佐渡の真野陵に葬られたが、翌寛元元年(1243)、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。建長元年(1249)、順徳院の諡号を贈られる(それ以前は佐渡院と通称されていた)。
 幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であった。その息子為家も近習・歌友として深い仲であった。俊成卿女とも親しく、建保三年(1215)、俊成卿女出家の際 などに歌を贈答している。建暦二年(1212)の内裏詩歌合をはじめとして、建保二年(1214)の当座禁裏歌会、同三年の内裏名所百首、同四年の百番歌合、同五年の四十番歌合・中殿和歌御会、承久元年(1219)の内裏百番歌合など、頻繁に歌合・歌会を主催した。配流後の貞永元年(1232)には、佐渡で百首歌(「順徳院御百首」)を詠じ、定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請うた。嘉禎三年(1237)、定家はこの百首に評語を添えて進上している。
 著作に、宮廷故実の古典的名著『禁秘抄』、平安歌学の集大成『八雲御抄』、日記『順徳院御記』がある(建暦元年-1211-から承久三年-1221-まで残存)。続後撰集初出(十七首)、以下勅撰集に計百五十九首入集。自撰の『順徳院御集』(紫禁和歌草とも)がある。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

源通光(みなもとのみちてる(みちみつ)) 文冶三~宝治二(1187-1248) 号:後久我太政大臣

 内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
 後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。   
 同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。 
 建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
 新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その二) [三十六歌仙]

(その二)土御門院と皇太后宮大夫俊成女

土御門院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方二・土御門院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009395

俊成女.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方二・皇太后宮大夫俊成女)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009413

俊成女全.jpg

(右方二・皇太后宮大夫俊成女)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019784

(バーチャル歌合)

左方二 土御門院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010678000.html

 伊勢の海のあまの原なる朝がすみ/空にしほやく煙とぞ見る

右方二 皇太后宮大夫俊成女
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010679000.html

 下もえにおもひ消南(きえなむ)煙だに/跡なき雲のはてぞかなしき

判詞(宗偽)

右方の俊成女は、後鳥羽院と同時代の、式子内親王の後継者ともいうべき、後鳥羽院歌壇の中心メンバーの一人ということになろう。対する、左方の土御門院は、後鳥羽院の第一皇子で、俊成女は、兄の定家ともども土御門院の師範挌のような立場で、ここにも、この俊成女を据えたのも、後鳥羽院の意向のように思われる。
 『後鳥羽院-日本文學の源流と傳統(思潮社刊)』という著を有する保田與重郎は、次のように俊成女を高く評価している。

「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である」(保田與重郎『日本語録』)

 この「新三十六人歌合」は、「後鳥羽院撰」伝承といことを考慮すると、これまた、右方の「皇太后宮大夫俊成女」の一首を「勝」とすべきなのであろう。

(土御門院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#02

雪のうちに春は来ぬとも告げなくにまづ知るものは鶯のこゑ
埋れ木の春の色とやのこるらむ朝日がくれの谷のしら雪
伊勢の海のあまの原なる朝霞空にしほやく煙とぞ見る
見わたせば松もまばらになりにけり遠山桜咲きにけらしも
秋もなほ天の川原にたつ波のよるぞみじかき星合の空
おしなべて時雨るるまではつれなくて霰におつる栢木の森
逢はでふる涙の末やまさるらむ妹背の山の中の滝つせ
春のはな秋のもみぢのなさけだにうき世にとまる色ぞすくなき
白雲をそらなる物とおもひしはまだ山こえぬ都なりけり
秋の夜もやや更けにけり山鳥のをろのはつをにかかる月かげ

(俊成卿女)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#22

梅のはなあかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月
うらみずやうき世を花のいとひつつさそふ風あらばと思ひけるかな
面影のかすめる月ぞやどりけるはるやむかしのそでのなみだに
をしむともなみだに月はこころからなれぬる袖に秋をうらみて
色かはる露をば袖におきまよひうらがれて行く野辺のあきかな
ふりにけり時雨は袖に秋かけていひしばかりを待つとせしまに
霜枯はそことも見えぬ草の原たれにとはまし秋の名残を
あだに散る露の枕にふしわびてうづら鳴くなりとこの山かぜ
夢かとよ見し面かげも契りしもわすれずながらうつつならねば
いにしへの秋の空まですみだ河月にこととふそでのつゆかな

(俊成卿女の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html#LV

五十首歌奉りしに、寄雲恋
下もえに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲のはてぞかなしき(新古1081)
【通釈】おもてには顕わさず、ひそかに思い焦がれるまま、我が身は燃え尽きてしまうだろう、そしてその煙さえ、跡形もなく雲の果に消えてしまうだろう、と思えば悲しい。
【補記】建仁元年(1201)の仙洞句題五十首。
【他出】自讃歌、定家十体(幽玄様)、定家八代抄、続歌仙落書、俊成卿女集、新時代不同歌合、題林愚抄、兼載雑談
【参考歌】「狭衣物語」四
消え果てて煙は空にかすむとも雲のけしきをわれと知らじな
かすめよな思ひ消えなむ煙にも立ち遅れてはくゆらざらまし

土御門院 (つちみかどのいん) 建久六~寛喜三(1195-1231) 諱:為仁
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tutimika.html

後鳥羽院の第一皇子。母は承明門院在子(源通親の養女)。大炊御門麗子を皇后とする。贈皇太后土御門通子との間に覚子内親王(正親町院)・仁助法親王・静仁法親王・邦仁王(後嵯峨天皇)をもうけた。
建久九年(1198)正月十一日、四歳で立太子し、即日受禅。三月三日、即位。承元四年(1210)十一月二十五日、皇太弟守成親王(順徳天皇)に譲位。この時十六歳。承久三年(1221)の乱には関与せず、幕府からの咎めもなかったが、父後鳥羽院が隠岐へ、弟順徳院が佐渡へ流されるに際し、自らも配流されることを望んだ。同年閏十一月、土佐に遷幸し、翌年幕府の意向により阿波に移る。寛喜三年(1231)十月、出家。法名は行源。同月十一日(または十日)、阿波にて崩御。三十七歳。陵墓は京都府長岡京市金、金原陵。徳島県鳴門市池谷に火葬塚がある。
新勅撰集などによれば内裏歌合を催したことがあったらしい。建保四年(1216)三月成立の『土御門院御百首』には定家・家隆の合点、定家の評が付されている。御製を集めた『土御門院御集』がある。続後撰集初出。勅撰入集百五十四首。新三十六歌仙。

藤原俊成女(ふじわらのとしなりのむすめ) 生没年未詳(1171?~1254?)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html

 藤原俊成の養女。実父は尾張守左近少将藤原盛頼、母は八条院三条(俊成の娘)。俊成は実の祖父にあたるが、その歌才ゆえ父の名を冠した「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たのであろう。晩年の住居に因み嵯峨禅尼、越部禅尼などとも呼ばれる。勅撰集等の作者名表記としては「侍従具定母」とも。
 治承元年(1177)、七歳の頃、父盛頼は鹿ヶ谷の変に連座して官を解かれ、八条院三条と離婚。以後、俊成卿女は祖父俊成のもとに預けられたものらしい。建久元年(1190)頃、源通具(通親の子)と結婚し、一女と具定を産む。しかし夫は正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、以後の結婚生活は決して幸福なものではなかったようである。
 後鳥羽院主催の建仁元年(1201)八月十五日撰歌合が「俊成卿女」の名の初見。同年の院三度百首(千五百番歌合)にも詠進している。同二年(1202)、後鳥羽院に召され、女房として御所に出仕する。院歌壇の中心メンバーの一人として、「水無瀬恋十五首歌合」「八幡宮撰歌合」「春日社歌合」「元久詩歌合」「最勝四天王院障子和歌」などに出詠した。
 建保元年(1213)、出家。以後も旺盛な作歌活動を続け、建保三年(1215)の「内裏名所百首」をはじめ、順徳天皇の内裏歌壇を中心に活躍した。安貞元年(1227)、夫通具の死後、嵯峨に隠棲。貞永二年(1233)頃、兄定家の『新勅撰和歌集』撰進の資料として、家集『俊成卿女集』を自撰した。仁治二年(1241)の定家死後、播磨国越部庄に下り、余生を過ごした。晩年まで創作に衰えを見せず、宝治二年(1248)の後嵯峨院「宝治百首」などに健在ぶりが窺える。
 建長三年(1251)以後、甥(実の従弟)為家に続後撰集に関する評などを送った『越部禅尼消息』がある。また物語批評の書『無名草子』の著者を俊成卿女とする説がある。
 新古今集の29首をはじめ、勅撰集に計116首を入集。宮内卿と共に新古今の新世代を代表する女流歌人。新三十六歌仙。
(俊成女評)
「今の御代には、俊成卿女と聞こゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔にも恥じぬ上手共成りける。哥のよみ様こそことの外に変りて侍れ。人の語り侍りしは、俊成卿女は晴の哥よまんとては、まづ日を兼ねてもろもろの集どもをくり返しよくよく見て、思ふばかり見終りぬれば、皆とり置きて、火かすかにともし、人音なくしてぞ案ぜられける」(鴨長明『無名抄』)。
「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である」(保田與重郎『日本語録』)
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その一) [三十六歌仙]

(その一)後鳥羽院と式子内親王

後鳥羽院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方一・後鳥羽院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009394

式子内親王.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方一・式子内親王)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009412

後鳥羽院二.jpg

(左方一・後鳥羽院)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019788

(バーチャル歌合)

左方一 後鳥羽院

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010676000.html

龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ/あきや来ぬらん岡のべの松

右方一 式子内親王

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010677000.html

 ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮

判詞(宗偽)

 後鳥羽院と式子内親王との年齢の開きは、式子内親王が三十一歳年長である。そして、この「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)は、後鳥羽院撰とも伝えられ、「後鳥羽院以下左方の歌人、式子内親王以下右方の歌人をまとめる二帖から成る。色紙の配置は、左方が肖像・和歌の順になっているのに対し、右方ではその逆になっている」(『歌仙絵(東京国立博物館編)』所収「作品解説№14と参考2」)。
 式子内親王の「龍田山」は「東京国立博物館蔵」、そして、「龍田姫」は「和泉市久保惣記念美術館蔵」の表記の違いに因る。
 さて、この左方の後鳥羽院の一首は、右方の式子内親王の一首を念頭に置いて、その一首に唱和しての作例のように思われる。この上の句の「龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ」の「龍田山(姫)」は、『万葉集』の次の「龍田山」の歌などを踏まえてのものであろう。

0083: 海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
0415: 家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
0877: ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか
0971: 白雲の龍田の山の露霜に.......(長歌)
1181: 朝霞止まずたなびく龍田山舟出せむ日は我れ恋ひむかも
1747: 白雲の龍田の山の瀧の上の.......(長歌)
1749: 白雲の龍田の山を夕暮れに.......(長歌)
2194: 雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
2211: 妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
2214: 夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
2294: 秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
3722: 大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ
3931: 君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも
4395: 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに

 とすると、ここは、この「新三十六人歌合」の「後鳥羽院撰」という伝承からしても、後鳥羽院が、式子内親王を当代随一の歌人と崇敬し、その意味合いから、己の歌に対峙するように右方のトップに据えた意向からしても、右方のトップに据えた「式子内親王」の一首を「勝」とすべきなのであろう。

(後鳥羽院御製)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#01

ほのぼのと春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく
桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの
秋の露やたもとにいたくむすぶらん長き夜あかずやどる月かな
吉野山さくらにかかるうすがすみ花もおぼろの色は見えけり
露は袖にもの思ふころはさぞな置くかならず秋のならひならねど
秋更けぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむし蓬生の月
我が恋は真木の下葉にもる時雨ぬるとも袖の色に出でめや
たのめずは人をまつちの山なりと寝なましものをいざよひの月
袖の露もあらぬ色にぞ消えかへるうつればかはる歎きせしまに

(式子内親王御歌)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#08

山ふかみ春ともしらぬまつの戸にたえだえかかるゆきの玉水
詠めつるけふはむかしになりぬとも軒ばのむめよ我をわするな
更くるまでながむればこそかなしけれおもひもいれじ秋のよの月
桐の葉もふみ分けがたくなりにけりかならず人をまつとなけれど
玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
わすれてはうちなげかるる夕かな我のみしりて過ぐる月日を
夢にても見ゆらむものをなげきつつうちぬるよひの袖のけしきは
逢ふ事を今日まつがえの手向草いくよしをるる袖とかはしる
いきてよもあすまで人はつらからじ此夕ぐれをとはばとへかし
ながめ佗びぬあきより外の宿もがな野にもやまにも月やすむらん

(式子内親王の一首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT

百首歌の中に
ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋の夕暮(新古321)
【通釈】じっと眺めていると、自分の袖も涼しく感じられる。川風が吹く、天の川の川原の秋の夕暮よ。
【補記】まだ星は見えていない夕空を眺め、天の川に思いを馳せる。爽やかな涼感に焦点をしぼった、清新な七夕詠。「前小斎院御百首」。
【主な派生歌】
夕されば衣手すずし高円の尾上の宮の秋のはつかぜ(源実朝)

後鳥羽院(ごとばのいん) 治承四~延応一(1180~1239) 諱:尊成(たかひら)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gotoba.html

 治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。母は藤原信隆女、七条院殖子。子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。
 寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。同三年三月、後白河院は崩御。七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。
 建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。同年八月、最初の熊野御幸。翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。
 建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。同歌集の編纂には自ら深く関与し、四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。同二年十二月、良経を摂政とする。
 元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。
以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。
 この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。同年五月顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。
歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。

式子内親王(しょくしないしんのう) 久安五~建仁一(1149~1201)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html

 式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。
 後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
 平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
 建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
 藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系80・鹿集大成三・身辺国家大観四・和歌文学大系23・私家集前借草書28などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十八) [三十六歌仙]

その十八 木下長嘯子と松永貞徳

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486

松永貞徳.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十六 松永貞徳」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1506

(歌合)

歌人(左方十八) 木下長嘯子
歌題 月思往事
和歌 世々の人の月はながめしかたみぞと おもへばおもへばぬるる袖かな
歌人概要  桃山~江戸前期の武将、歌人

歌人(右方三十六) 松永貞徳
歌題 月
和歌 雲と見えばこよひの月にうからまし よしや吉のの桜なりとも
歌人概要 江戸前期の俳人、歌人  

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁

本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。
幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。

松永貞徳(まつながていとく) [生]元亀2(1571).京都 [没]承応2(1653).11.15. 京都

 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について

(バーチャル歌合)

歌人(左方十八) 木下長嘯子
歌題 月思往事
和歌 世々の人の月はながめしかたみとぞ おもへばおもへぬるる袖かな(A)
   世々の人の月はながめしかたみぞと おもへばおもへばぬるる袖かな(B)※

歌人(右方三十六) 松永貞徳
歌題 月
和歌 雲と見へずこよひの月にうからまし よしや吉のの桜なりとも (C)
雲と見えばこよひの月にうからまし よしや吉のの桜なりとも (D)※

(「バーチャル歌合」の「判詞=宗偽」の前に)

 上記の、「世々の人の月はながめしかたみとぞ おもへばおもへぬるる袖かな(A)」と「雲と見へずこよひの月にうからまし よしや吉のの桜なりとも(C)」 は、 『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「酒井抱一筆『集外三十六歌仙』和歌翻刻」をベースにしたものである。
 それに対して、「世々の人の月はながめしかたみぞと おもへばおもへばぬるる袖かな(B)」と「雲と見えばこよひの月にうからまし よしや吉のの桜なりとも(D)」は、「続々群書類従本」による、次のアドレスのものを出典としている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ex36k.html#18

 ここは、上記のアドレスによる、次の二首での「判詞=宗偽」としたい。

   月思往事
世々の人の月はながめしかたみぞと おもへばおもへばぬるる袖かな(B)※
   月
雲と見えばこよひの月にうからまし よしや吉のの桜なりとも   (D)※

(判詞=宗偽)

   月思往事(木下長嘯子)
世々の人の月はながめしかたみぞと おもへばおもへばぬるる袖かな(B)※
   月(松永貞徳)
雲と見えばこよひの月にうからまし よしや吉のの桜なりとも   (D)※

 この二首、「月思往事(木下長嘯子)」((B)※)を「勝」とす。その理由は、「世々の人の」の「字余り」、「おもへばおもへば」の「字余り」の、この「字余り」に、「無限」の「月思往事」が詠出されている。

(「木下長嘯子」の辞世の歌)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#LV

 辞世
王公といへども、あさましく人間の煩をばまぬがれず何の益なし。すべて身の生まれ出でざらんには如かじ。まして卑しく貧しからんは言ふに足らず。されば死はめでたきものなり。ふたたびかの古郷にたちかへりて、はじめもなく、をはりもなき楽しびを得る。この楽しみをふかく悟らざる輩、かへりて痛み歎く。をろかならずや。

露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり(挙白集)

あとまくらも知らず病み臥せりて、口に出るをふと書きつくる。人わらふべきことなりかし。

【通釈】(文)王や大臣と言えども、浅ましくも人間の煩わしさを免れず、地位などは何の益もない。大体、生まれて来ないのに越したことはあるまい。まして私のように身分卑しく貧しい者は言うまでもない。だから死はめでたいものである。生まれ出た原郷に再び帰って、始まりもなく終りもない楽しみを得る。この楽しみを深く悟らないやからは、かえって嘆き悲しむ。愚かではないだろうか。

(歌)露のようにはかない身が消えても、消えずに残る置き所。草葉のほかにもまたあるのだった。我が袖に置いた涙の露よ。

(文)前後もなく病み臥せって、口をついて出たのをふと書き付けておく。お笑い種にちがいない。

【補記】『挙白集』最終巻(巻十)の巻末に収められた歌文。長嘯子はその後まもなく死去し、遺言に基づき一本の松のもとに葬られたという。

【本歌】殷富門院大輔「時代不同歌合」「続古今集」
きえぬべき露の憂き身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん

( 貞徳翁独吟百韻《自註略》 )

暉峻康隆、中村俊定 校注 「連歌俳諧集」日本古典文学全集32 小学館 昭和49年
※=月の定座 ※※=花の定座
http://www.din.or.jp/~mium/lit/Toyo/teitoku.html

(初表)
1 哥(うた)いづれ小町をどりや伊勢踊   秋(踊) 小町・伊勢=女流歌人
2 どこの盆にかをりやるつらゆき      秋(盆) つらゆき=紀貫之(判者)
3 空にしられぬ雪ふるは月夜にて 秋(月夜)「桜ちる木の下風は寒からで空しられぬ雪
ぞふりける」(貫之) ※の「月」の引き上げ
4 いつも寝ざまに出す米の飯(いひ)   雑  山寺の稚児の願い
5 投(なげ)はふる鮨の腹もやあきぬらん 雑  その稚児の「寝ざま」→「腹」
6 桶もちながらころぶあふのき 雑 「鮨」→「桶」「あふのき」= 仰向き
※7 すべるらし水汲(くむ)道ののぼり坂 雑  「ころぶ」→「すべる」
8 滝御らんじにいづる院さま 雑 「すべる」→「御意をすべる」
(初裏)
9   とりあへず天神殿は手向して     雑( 宇多法皇の大和龍門の滝御覧の故事)
10  こゝろしづかに夢想ひらかむ     雑  夢想=夢想開きの連歌会
11  唯たのめふさがりたりと目の薬     雑  目の薬=夢想流の目薬
12  しめぢがはらのたつは座頭ぞ    雑「なほ頼め標茅が原のさせも草わが世の
中にあらん限りは」(新古今二〇)
13  くさびらを喰(くふ)間に杖をたくられて 秋(くさびら) くさびら=茸
14   枝なき椎のなりのあはれさ      秋(椎)  茸(くさびら)→椎
15 しばらるゝ大内山の月のもと      秋(月 ※の月の引き上げ
16  御室の僧や鹿(しし)ねらふらむ     秋(鹿) 僧= 仁和寺の破戒僧
17  恒政は十六のころさかりにて      雑・恋(句意) 仁和寺→平経政
※18うつぶるひ引(ひく)琵琶もなつかし   雑・恋(ふるふ) 経政→琵琶
19 急雨(むらさめ)にあふたやうなる袖の露 雑、恋(袖の露)琵琶→恋の感涙
20 ともに見もどすまきの下道     雑 「露ふかき山わけ衣ほしわびぬ日影す
くなきまきのした道」(寂蓮)
※※21 花かづら根もとをしつた人もなし   春(花かづら) 花の定座。
22 売(うれ)かしとぢた門(かど)の藤なみ   春(藤なみ) 花かづら→藤なみ
(二表)
23 かすんだる大豆(まめ)は馬より高ばりて   春(かすむ) 藤なみ→大豆
24 陣ひやうろう(兵糧)のきれはつる時     雑  大豆高い→兵糧尽きる
25 城よりもあつかひこふはうれしや       雑   落城寸前の和解調停。
26 黒の碁かつと兼てさまうす(申す)      雑  城(白)→黒の碁 
27 文王の世や民にてもしらるらん        雑  文王=周の祖
28 しやれたるほねをとりかくしつゝ       雑  しやれたる=風雨に晒された 
29 あらをしや家に伝(つたふ)る舞(まひ)あふぎ 雑  骨→扇
30 あるゝ鼠をにくむ幸(かふ)わか       雑  扇→幸若舞い
31 浅間しゝ朝倉殿の乱の前           雑  朝倉殿=越前国主朝倉殿
32 木のまるはぎにはく藤袴    秋(藤袴)「朝倉や木の丸殿にわれをれば名のりをしつつゆきはたが子ぞ」(新古今・雑)
33 秋山のしばにんにくの実の匂ひ   秋(秋山) 秋山の柴→にんにくの匂い
34 いろ色鳥の汁のすひくち      秋(色鳥) 実→色鳥 にんにく→吸い口 
※35下戸上戸日の暮よりも月見し   秋(月見) 月の定座。 鳥(酉の時刻)→夕暮
36 哥にはよらぬ人の貧福      雑 「鈍智貧福下戸上戸」(諺)
(二裏)
37 観音の占(うら)や当座の用ならん   雑  人の貧福→観音の占
38 清水坂の辻にまつ袖          雑・恋(まつ袖) 観音→清水坂
39 かつたゐにうはなり打をあつらへて   雑・恋(うはなり打) かつたゐ=乞食
40 ぬれるうるしにまくる小鼓          雑   かつたゐ→漆(予譲の故事)
41 新敷(あたらしき)烏帽子をきねばかなはぬか 雑  漆を塗る→新敷烏帽子
42 童部名(わらべな)ばかり人ぞよびぬる    雑  童部名=元服前の名
43 死に入(いる)や定(さだめ)ておとなことならん 雑  おとなごと=天然痘
44 あたる礫(つぶて)のあいだてなさよ     夏(礫打ち) あいだて=無分別
45 昼中によその木の実をかつ物か        秋(木の実) 礫→木の実
※46つなげる猿にしつけすさまじ         秋(すさまじ) 木の実→猿
47 月影に長き刀のしらはとり         秋(月影)※の月の引き下げ(こぼす)
48 夜やいづなの法(ほふ)のおこなひ      雑 いづなの法=魔術
※※49 からげたる燈心をときてともしけり  雑  花の定座  からげたる=くくった
50 くらきにいるゝ物の本蔵(ほんぐら)  雑 ともし→くらき・物の本(灯のもと)
(三表)
51 奥どのを奥でものしりものをして    雑・恋(奥どの) 奥殿=隠し妻
52 よき酒にてや児(ちご)をたらせる   雑・恋(児) たらせる=たぶらかす
53 鬼なれどしたがへられて大江山   雑  酒・児→大江山(酒典童子が住んでいる)
54 治りかへる御代は一条        雑  御代は一条=一条院の治世
55 物着(つけ)てならぬ座敷の床畳   雑  物着けて=武具類
56 まはり花をば小勢にてさせ      春(花) 花の引き上げ(三裏※※)
57 人のせな渦の霞める浪の舟      春(霞む) 人のせな=人を乗せるな
58 松浦(まつら)が事は長閑くもなし  春(長閑) 松浦が事=舞の「新曲」の人物
59 鰯とはいやしきかへ名のいかならむ  雑・恋(かへ名) 松浦→鰯
60 節分(せちぶん)の夜のまゐる宮方  冬(節分) 節分=鰯を柊にさす夜
61 明年は神よまもらせおはしませ    雑  節分→明年 まゐる(詣いる)→神
62 いつ住吉ぞ名月のかげ   秋(名月) ※の月の引き上げ 住吉」と「月が澄む」
※63露ほどもあやかり度は定家にて 秋(露) 定家=藤原定家 住吉→月→定家
64 内親王とちぎるいく秋      秋(秋) 恋(ちぎる) 定家→内親王
(三裏)
65 待(まち)て居るしるしの杉も長月や   秋(長月)・恋(待つ)「わが庵は三輪の山
もと恋しくはとぶらい来ませ杉立てる門」(古今十八・雑)
66 折を出せかし此の菊のやど        秋(菊) 杉→折 長月→菊
67 見るもたゞ大盃はくるしきに       雑    折→大盃
68 かつやうにせん弓の射こくら       雑 盃→弓(投壺の趣向)こくら=競う
69 うしろよりまゐりて拝む堂の前      雑 堂(三十三間堂)
70 主(しゅう)に先だち腹やきるらむ    雑 腹やきる=切腹す
71 鎌倉の海道遠きさめがゐ(醒ヶ井)に  雑  太平記=北条仲時主従自害→鎌倉街道
72 おとす尺八何としてまし        雑  尺八の曲「海道下り」
73 礼をなす沙門(しゃもん)も公家も手すくみて  雑   沙門=僧侶 
74 仏名(ぶつみやう)の夜ぞいかうあれける    冬(仏名) 仏名=仏名の法会
※75 障碍(しょうげ)をや師走の月の天狗共  冬(師走の月)  障碍=邪魔
76 紅粉(べに)に木の葉の散(ちつ)てまじれる  冬(木の葉) 天狗の活動
※※77もやうよく染(そめ)し小袖を龍田川  雑 龍田川の模様(花の定座の見立て?)
78 りんきいはねど身をなげんとや        雑・恋(悋気) 小袖→死装束
(名残・表)
79 我よめが男の刀ひんぬいて          雑・恋(よめ) 嫁の仕草
80 祝言の夜ぞ酔ぐるひする           雑・恋(祝言) 嫁→祝言
81 生魚を夕食過ぎて精進(しゃうじ)あげ    雑  祝言→精進あげ
82 寺のかへさに呼やあみ引(ひき)       雑  魚→あみ引。精進あげ→寺。
83 難波江のさきに亀井の水をみて        雑  あみ引→難波江。
84 こと浦までも月の遊覧            秋(月) 月の引き上げ
85 秋は唯白き衣裳を表(おもて)ぎに      秋(秋) 表着=晴れ着 
86 いそぐよめり(嫁入)ときくや重陽   秋(重陽)・恋(よめり) よめり=嫁入り
87 たのめたるたのもの比もつい立て   秋(たのも)・恋(たのむ)たのも=田実祝い
88 とらへがたしやかへるかりがね    春(かへるかりがね) 田実祝い→雁
89 生姜手が三へぎと筆に霞せて   春(霞む) 生姜手=生姜のような手  へぎ=剥ぐ
90 余寒(よかん)の時分棗もぞなき 春(余寒) 生姜手=余寒 生姜→棗
※91 薄茶さへ小壷に入れてすきぬらん  雑   棗→茶会(薄茶)
92 こゝろざしせし日よりはらめる    雑・恋(はらめる) 薄茶→数寄者
(名残・裏)
93 文を付る薄のやうになびきゝて 秋(薄)・恋(文を付く) はらめる→なびく
94 鹿もおよばじ妻のかはゆき   秋(鹿)・恋(かはゆき)妻を慕う鹿より妻を慕う
95 漸(やや)寒き比(ころ)はとらする木綿たび  秋(やや寒し)妻に木綿足袋
96 あかゞりあればつかはれぞせぬ     冬(あかがり) 足袋→あかぎれ
97 稲茎は鷹場にわるき花の春  春(花の春)※※の花の引き上げ  あかぎれ→稲茎
98 雪間をしのぐ辺土さぶらひ  春(雪間)  辺土さぶらひ=辺土(東国)の武士
※※99 百姓と富士ぜんぢやうに打交(うちまじり) 雑 「雪間」→「富士山の残雪」
100 をがまれたまふ弥陀の三尊   雑 富士禅定→弥陀三尊(めでたく百韻を治定した)

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

木下長嘯子二.jpg

木下長嘯子(狩野蓮長画)

松永貞徳二.jpg

松永貞徳(狩野蓮長画)

(追記一)

 抱一の「松永貞徳」の一句(その周辺)

    辛酉(しんゆう)春興
    今や俳諧峰の如くに起り、
    麻のごとくにみだれ、
    その糸口をしらず。
  貞徳も出(いで)よ長閑(のどけ)き酉のとし(抱一『屠龍之技』「千づかのいね」) 

 抱一の「辛酉春興」、即ち、享和元年(一八〇一)正月、抱一、四十一歳の時の作である。この句は、貞徳の、次の句に唱和したものとされている(『酒井抱一 俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書)』)。

  鳳凰(ほうわう)も出(いで)よのどけきとりの年(貞徳『犬子集』)

この貞徳の句は、元和元年(一六一五)の「元和偃武(げんなえんぶ)」、即ち、豊臣氏が大阪夏の陣で滅び、平和な時代が到来してきたことを詠んだ句とされている。
この句が収載されている『犬子集・狗猧集(えのこしゅう)(松江重頼編)』は、室町時代の「俳諧之連歌集」(俳諧集)の『新撰犬菟玖波集(通称:犬菟玖波集)(山崎宗鑑編)』の子になぞられたもので、江戸初期の俳諧の隆盛に対応し、当代(徳川氏の治の平後)の句を中心に編集・刊行(寛永十年・一六三三)されたものである。
内容は、読人不知と一七八人の作者の発句(ほつく)一六五四句、付句(つけく)一〇〇〇組を、五冊一七巻に収録している。主な作者は貞徳・重頼・親重(立圃(りゆうほ)・徳元・慶友らで、作風は縁語・掛詞による〈見立て〉や故事・古典の立入(たちいれ)が主である。
その全貌は、次のアドレスで閲覧することが出来る。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_06039/index.html

犬子集.jpg

『狗猧集. 巻第1-17 / 重頼 [編]』  早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06039/he05_06039_0001/he05_06039_0001_p0009.jpg

 上記は、その第一巻(第一冊)の「春上」の貞徳句の一部(五句)で、その配列は次のとおりである。

  霞さへまだらにたつやとらの年    貞徳(丙寅=寛永三年・一六二六作?)
 ※大こくの持(もつ)やつちのえ辰の年 同(戌辰=寛永五年・一六二八作)
  梅も先(まづ)にほひてくるや午の年  同(庚午=寛永七年・一六三〇作?)
  けさたるゝつらゝやよだれうしの年   同(己丑=寛永二年・一六二五作?)
 ※鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年  同(辛酉=元和七年・一六二一作)

 上記の二句目(※)は、「戌(つちのえ)辰」で、「寛永五年・一六二八作」、三句目(※)は、冒頭の抱一の句の前書き「辛酉(しんゆう・かのととり)春興/今や俳諧峰の如くに起り/麻のごとくにみだれ/その糸口をしらず」からすると、「元和七年・一六二一作」ということになる。
 この貞徳の五句を見ると、貞徳は「春興」(新年の歌会・句会)の句として、その干支(えと)・十二支(じゅうにし)に関連する句を詠んでいたものと思われる。そして、上記の五句は、元和元年(一六一五)の元和元年(一六一五)の「元和偃武(げんなえんぶ)」以降の、徳川幕藩体制下の平和(パクス・トクガワーナ)の、その「歳旦」(年の初め)の句と理解して差し支えなかろう。
 そして、この「元和偃武(げんなえんぶ)」以降の「貞徳の時代」は、俳諧の祖の「山崎宗鑑・荒木田守武」の時代から、約一世期の戦乱時代を経て、それまでの「連歌の時代」から「俳諧(俳諧之連歌)の時代」へと方向転換する時代をも意味した。即ち、「連歌師」の時代から「俳諧師」の時代への移行である。
 そして、その「貞徳の時代」(江戸初期)から「芭蕉の時代」(江戸中期)を経て「抱一の時代」(江戸後期)になると、抱一の冒頭の句の前書きのとおり、「今や俳諧峰の如くに起り/麻のごとくにみだれ/その糸口をしらず」と、さながら、「貞徳の時代」以前に逆戻りしたような状況を呈する至り、時、あたかも、「享和元年(一八〇一)」の「辛酉」の年で、「元和七年(一六二一)」の「辛酉」の年(一八〇年前)の、貞徳の句に唱和した句が、冒頭の抱一の句なのである。
 ここに、この貞徳と抱一の「辛酉」の句を並列して掲載して置きたい。

 鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年(貞徳「元和七年(一六二一)の辛酉」の年)
 貞徳も出(いで)よ長閑き酉のとし (抱一「享和元年(一八〇一)の辛酉」の年)

(追記二)

  抱一の「集外三十六歌仙図画帖」周辺

 抱一の「集外三十六歌仙図画帖」が何時制作されたものなのかは明らかではない。それを知る足掛かりは、この作品の旧蔵者が、「武州行田の豪商大沢永之」であることが、唯一のものなのかも知れない(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』所収「酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって(岡野智子稿)」)。
 この「大沢永之」については、「酒井抱一と江戸琳派関係年表(松尾知子編)」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』所収)の、「文化十三年(一八一六)」の項に出てくるが、この「文化十三年(一八一六)」とその翌年の「文化十四(一八一七)」の事項を次に掲げて置きたい。

【文化十三 一八一六 丙子 五十六歳
正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)
大沢永之のために「法華経普門品」を書写。永之これを刊行する。
君山君積のために「四季花鳥図屏風」(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載。 
▼秋、「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)制作。
▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)制作                 】

文化十四 一八一七 丁丑 五十七歳
元日 百花園にて観梅。
▼二月、『鶯邨画譜』を刊行。加茂季鷹序(前年)、鞠塢題詩。
五月、建部巣兆の句集『曽波可理』に序文を記す。
六月十七日、小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る。(御一代)
■六月二十五日、鈴木蠣潭没(二十六歳)。(君山君積宛書簡・御一代は七月没とする)浅草松葉町正法寺(現中野区沼袋)に葬られる。抱一、辞世の句を墓の墓石に記す。(増補略印譜・大観)
鈴木其一(二十二歳)、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む。(増補略印譜・大観)
十月十一日、庵居に「雨華庵」の額を掲げる、以来、「雨華」の号を多用する。  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表(松尾知子編)」)

 この「文化十三年(一八一六)」と「文化十四年(一八一七)は、抱一にとっては、大きな節目の年であった。ここに登場する人物を列挙するだけで、当時の抱一の無二の交遊関係というのが浮かび上がってくる。

「七世市川団十郎・亀田鵬斎・谷文晁・※大沢永之・君山君積・加茂季鷹・佐原鞠塢・建部巣兆・小鸞女史(御付女中・春篠、妙華尼)・鈴木蠣潭・鈴木其一」

 この※印の「大沢永之」について、「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)で、要約すると、次のように紹介している。

「尾形乾山の『紫翠』を号にしている。武州忍町行田の呉服商。江戸浅草茅町に別業に住し、その荘を『百花潭』と称す。その『百花潭』の額は抱一の書である。文化十年の句藻で、百花潭水楼と題して『折琴よ継三味線よすゝみ舟』の句を詠じている。永之と抱一との交情は頗る厚く、抱一の事業を援けるところ多く、抱一もまた永之の為に製する作品が多い。又、抱一の鑑定に依って蒐集した光琳・乾山の作品を少なからず併蔵している。そして、それらを散せざるなど、稀有の名家である。天保十五年十月没、行年七十五。その妾おきぬも抱一の妾妙華と親しかった。」(「抱一上人年譜稿(考)」での要約(『相見香雨集一』所収)

 この大沢永之は、尾形乾山の号「紫翠」を号にしていたということからしても、抱一との関係は、抱一の尾形光琳百回忌に顕彰活動の「尾形光琳居士一百周諱展覧会」(『光琳百図』『尾形流略印譜』の刊行)を開催した文化十二年(一八一五五)前後が、その一つのピーク時であったことは、想像するに難くない。
 この観点から、「酒井抱一と江戸琳派関係年表(松尾知子編)」(『前掲書・求龍堂刊』)で、「集外三十六歌仙図画帖」(抱一筆)周辺を探ると、次のような事項が浮かび上がって来る。

文化三年(一八〇六)四十六歳 「宝井其角百年忌。肖像百幅を制作」
文化四年(一八〇七)四十七裁 「柿本人麻呂図」制作
文化五年(一八〇八)四十八歳 「俳諧百職人」に俳句と挿絵あり
文化八年(一八一一)五十一歳 千束の大文字楼の別荘にて人丸影供
文化九年(一八一二)五十二歳 自撰句集『屠龍之技』編集・刊行

柿本人麻呂図.jpg

酒井抱一筆「柿本人麻呂図」(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/353464
「絹本著色 縦 107.4 cm 横 48.1 cm 1幅 銘文:(絵)なし (賛)「橋千蔭謹書」 (絵)朱文円形「抱一」 (賛)なし 歌聖・柿本人麻呂を描く。
酒井抱一(1761~1828)は姫路城主酒井家の嫡流だが、出家して俳譜と画道に遊んだ。江戸の根岸に雨華庵を結んで、江戸後期文化人の中心的存在として活躍した。尾形光琳を追慕して『光琳百図』等を出版、自らも俳趣味をたっぷり加味した琳派風絵画を描き、江戸琳派を形成した。」

「酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって(岡野智子稿)」)(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』所収)では、文政二年(一八一九)の「柳花帖」(姫路美術館蔵)が制作された同時期の作としているのだが、これは、より遡って、文化四年(一八〇七)の、上記の「柿本人麻呂図」を制作した頃に、その萌芽があるものと解したい。
そして、抱一の、この「集外三十六歌仙図画帖」は、寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時に刊行された『集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]』(原画:狩野蓮長 画:緑毛斎栄保典繁 書:芝江釣叟 序:安田貞雄 跋:稲梁軒風斎<寛政8年>)をベースにしていることは、特記をして置きたい。
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十七) [三十六歌仙]

その十七 尚證と小堀政一

尚證.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十七 尚證」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1485

小堀遠州.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十五 小堀政一」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1505

(歌合)

歌人(左方十七) 尚證
歌題 山家初冬
和歌 やま賤(がつ)の朝けの煙うちしめり しぐれしそらにふゆはきにけり
歌人概要  駿河国浅間惣社神主

歌人(右方三十五) 小堀政一
歌題 河邊寒月
和歌 かぜさえてよせ来るなみのあともなし 氷る入江のふゆの夜の月
歌人概要 小堀遠州。江戸初期の大名歌人  

(歌人周辺)

尚證 →  駿河国浅間惣社神主 (不詳)

小堀政一(遠州)  生年:天正7(1579)  没年:正保4.2.6(1647.3.12)

 江戸初期の大名茶人。近江国坂田郡小堀村(長浜市)に小堀正次の子として生まれる。母は磯野氏。名は正一(『寛政重修諸家譜』をはじめ一般には政一とされている)。通称作介。大徳寺の春屋宗園から大有宗甫の号を許された。従五位下遠江守だったことから遠州の名で呼ばれる。継領に当たって家康から受領名をどこの守にするか問われて,「自分は近江の人間だから遠江をいただきたい」と答えて許されたという。
 慶長9(1604)年,備中国(岡山県)松山を継ぎ,元和5(1619)年近江国浅井郡小室領主。多くの作庭,建築に不滅の名をとどめ,禁裡,仙洞,二条城,江戸城内山里など幕府にとって重要な構造物の造営を作事奉行として担当,近世初頭期の時代精神を大きく開花させた。
 古田織部に茶の湯を学び,茶の湯について質問した記録『慶長御尋書』や多くの「次第書」が残る。その茶風は「きれいさび」という言葉でとらえられているが,明るく大らかで軽快な方向に向かい,織部亡きあと将軍家茶道指南として千利休,織部に続く一時代を代表した。  
 のちに中興名物と称される茶道具の末々にまで至る鑑識に,それがことによく現れている。硬く冷たい行政感覚に終始することなく,定家様の書風を確立し,滑稽感を誘う見立ても取り入れ,茶道具を和歌を活用した歌銘によって味わうように指導した,時代の教育者でもあった。伏見奉行職にあること20年余,1万2000石余の小大名に終始しながら,文化の徳川時代を実現した重要人物である。
 将軍家光が品川東海寺の庭の大石に名を付けよといったとき,並居る大名が誰一人思い浮かばなかったところ,末座に控えていた遠州が「万年石」と解答して御意を得,一座を感嘆させたという話を,東海寺の住職沢庵和尚が書き残している。珍しく終わりを全うした茶人であった。
 遠州作として大徳寺孤篷庵忘筌席,竜光院密庵席などの茶席,多くの遠州庭園がある。墓所が孤篷庵である。<参考文献>森薀『小堀遠州』,根津美術館編『遠州の数奇』 (林左馬衛)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(小堀遠州の「綺麗さび」)

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。
 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。
 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。
 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。

(バーチャル歌合)

歌人(左方十七) 尚證
歌題 山家初冬
和歌 やま賤(がつ)の朝けの煙うちしめり しぐれしそらにふゆはきにけり

歌人(右方三十五) 小堀政一
歌題 河邊寒月
和歌 かぜさえてよせ来るなみのあともなし 氷る入江のふゆの夜の月

(判詞=宗偽)

 「左方」の「山家初冬」は、小堀遠州流の「綺麗さび」ですると、「綺麗」(容は整って綺麗)な一首だが、「さび」(深み・情趣)に欠けている。それは偏に、下の句の「しぐれしそらにふゆはきにけり」の「ふゆ」が安易過ぎる。それに比して、「右方」の「河邊寒月」は、この下の句の、「氷る入江のふゆの夜の月」の「ふゆ」が、次の「夜の月」の体言留めと一体になって、「綺麗さび」の「さび」(深み・情趣)を横溢している。依って、「右方」を「勝」とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

尚證二.jpg

尚證(狩野蓮長画)

小堀遠州二.jpg

小堀政一(狩野蓮長画)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十六) [三十六歌仙]

その十六 佐川田昌俊と里村昌叱

佐川田昌俊.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十六 佐川田昌俊」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1484

里村昌俊.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十四 里村紹叱」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1504

(歌合)

歌人(左方十六) 佐川田昌俊
歌題 待花
和歌 よし野山はなまつ頃の朝な朝な 心にかかるみねのしら雲
歌人概要  永井信濃家家臣

歌人(右方三十四) 里村昌叱
歌題 寄枕恋
和歌 あはれともうしとも今はなれをしも しる人にせむ小夜の手枕
歌人概要 桃山~江戸前期の連歌師  

(歌人周辺)

佐川田昌俊(さがわだまさとし)生年:天正7(1579)  没年:寛永20.8.3(1643.9.15)

 江戸初期の歌人。本姓高階,通称喜六。号黙々,壺斎,不二山人など。下野早川田村生まれ。越後の武将木戸元斎の養子となる。和歌,連歌の手ほどきはまずこの養父から受けたらしい。 
 元斎没後浪々の身となるが,永井直勝に見出され,次の尚政の代には和歌・連歌の両面で活躍し,林羅山,松花堂昭乗,小堀遠州らとの交渉繁く,近世初期を代表する文人のひとりとなる。特に「吉野山花待つ頃の朝な朝な心にかかる峰の白雲」の詠は人口に膾炙した。
<参考文献>渡辺憲司「佐河田昌俊の前半生について」(『近世文芸』31号),同「佐川田昌俊と永井家の周辺」(『立教大学日本文学』67号) (久保田啓一)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

里村昌叱(さとむらしょうしつ)生年:天正2(1574) 没年:寛永13.2.5(1636.3.12)

 連歌作者。名は景敏。号は懐恵庵など。安土桃山時代の連歌作者昌叱の子。母は紹巴の娘。里村南家を継いだ。慶長13(1608)年,35歳で法橋に叙す。元和3(1617)年8月将軍徳川秀忠より采地100石の御朱印を受け,連歌の家としての保証を得る。寛永3(1626)年後水尾天皇から古今伝授を受け,同5年御城連歌に勤仕し,宗匠となる。
 同9年法眼。連歌界の第一人者で,斎藤徳元,松江重頼,西山宗因らの有名俳人もその門下。編著『類字名所和歌集』ほか。<参考文献>小高敏郎『ある連歌師の生涯』 (加藤定彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(「新島譲」と「佐川田昌俊」の一句)

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2014-02-26-12-44

吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲

 この歌について、かつては単純に襄の自作と思われていたこともあったようです。また幕末の勤王の志士が詠じた歌と誤解されたこともありました。今では淀藩の佐河田昌俊(1579~1642)の歌だということがわかっています。
 昌俊(喜六)は小堀遠州や松花堂昭乗とも親しい近世初期の一流文化人でした。当然「吉野山」歌も有名で、後水尾院撰『集外三十六歌仙』(近代三十六歌仙)や緑亭川柳撰『秀雅百人一首』にも収録されています。川田順撰『戦国時代和歌集』(昭和18年刊)にも入っています。
 さらに興味深いことに、三代将軍徳川家光がこの歌を色紙にしたためており、その複製自筆色紙が名古屋にある徳川美術館のミュージアムショップで販売されていることまで分かりました。
 もう一点、長い間誤解されていたのは、この歌の解釈についてです。その原因は歌の本文異同にありました。二句目が「花咲くころの」として引用されていたからです。
 「花咲く」と「花待つ」では、花の状態が異なっています。「花咲く」だともう花は咲いていることになりますが、「花待つ」だとまだ開花していないからです。
 そしてこの違いが、末尾の「白雲」の役割を大きく変容させることになりました(「白雲」を「白雪」としているものもありますが、それは明らかな間違いです)。開花している状態では、「白雲」は花を見たい人にとって花を隠す邪魔な存在というか障害になります。従来はこちらの解釈が通用していたようです。そこから「吉野山の花が散ってしまうことが気が気でないように、生徒達のことが気がかりでならない」と訳されていました。
 ところが古典和歌の常套では、「白雲」は決して花見の邪魔をするものではなかったのです。花を隠すのは、「白雲」ではなく「霞」の役割だからです。むしろ「白雲」は、「待つ」と結びつくことによって、まだ咲いていない花と見間違うものとして歌に詠まれることが普通でした。つまり「白雲」は、花が咲いたのかと一瞬勘違いさせる存在であって、せっかくの花を隠す迷惑なものではなかったのです。まだ咲いていないのですから、当然散ることなどありえません。
 これを本来の「待花」題で訳すと、「吉野山では花を待つころの毎朝毎朝、峰にかかる白雲を見て、花が咲いたのではないかと気にかかることよ(早く咲いてほしい)。」となります。

(バーチャル歌合)

歌人(左方十六) 佐川田昌俊
歌題 待花
和歌 よし野山はなまつ頃の朝な朝な心にかかるみねのしら雲

歌人(右方三十四) 里村昌叱
歌題 寄枕恋
和歌 あはれともうしとも今はなれをしもしる人にせむ小夜の手枕

(判詞=宗偽)

 「左方」の「待花」の一首は、歌の本筋の「もののあはれ」(本居宣長=「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ: 『安波礼弁』」=「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事: 『石上私淑言』」)を殊に感じさせる。また、「右方」の「寄枕恋」も然る也。本来、この両句、共に、秀歌として「持」(引き分け)とすべきを、敢えて、「右方」の「寄枕恋」の「恋の歌」を「勝」とす。その理由は、この「寄枕恋」の、「あはれ」(哀れ)、「うし」(憂し)」そして、「なれを」(馴れを)の、この絶妙な連続の和言のリズムを可とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

佐川田昌俊二.jpg

佐川田昌俊(狩野蓮長画)

里村昌叱.jpg

里村昌叱(狩野蓮長画)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十五) [三十六歌仙]

その十五 里村玄陳と今川氏眞

里村玄陳.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十五 里村玄陳」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1483

今川氏真.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十三 今川氏眞」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1503

(歌合)

歌人(左方十五) 里村玄陳
歌題 遠里鶏
和歌 遠(をち)かたにゆふつけ鳥の声すなり いざそのさとに宿りとらまし
歌人概要  連歌師。

歌人(右方三十三) 今川氏真
歌題 河五月雨
和歌 よし野川瀬々のしら浪岩越えて こずゑにかかる五月雨の雲
歌人概要 戦国期の武将。  

(歌人周辺)

里村玄陳(さとむらげんちん)1591-1665 江戸時代前期の連歌師。

 天正(てんしょう)19年生まれ。里村玄仍(げんじょう)の長男。慶長14年安芸(あき)広島藩主福島正則の和漢連句の作者にくわわるなど,おおくの連歌会に出席した。画もよくし,和泉(いずみ)(大阪府)堺にすんだ。法眼。寛文5年1月5日死去。75歳。別号に一翁。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて

今川氏政(いまかわうじざね) 生年: 天文7年(1538) 没年: 慶長19年(1615)

 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。 父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えて存続した。

(文化人としての「氏真」)

 和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。 結果として子孫にも教育で受け継がれ、今川家代々の公家文化の高い能力を活かし、氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公家との交渉役として高家に抜擢されたので、安土桃山時代(戦国時代)の戦で武功を上げることはできなかったが、役人としては江戸時代になって平和になってから今川家の子孫が文化人の能力で登用されている。また幕末の鳥羽・伏見の戦いで旧江戸幕府軍が敗れ、新政府軍が江戸を目指して進軍すると、高家として朝廷と交流してきた今川範叙が若年寄を兼任した。家康の徳川家に臣従して、子の今川範以らが江戸幕府(徳川幕府)に重用されているので、平和の時代に今川家の家訓で必要な能力を先取りしたという意味では、義元の代からの公家文化習得が功を奏している。

(『集外三十六歌仙』上の今川氏真)

 氏真は生涯に多くの和歌を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1,658首が収録されている。 氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言・冷泉為和や、詩歌に通じていた太原雪斎などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない。里村紹巴の『富士見道記』には、氏真が冷泉為益(為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている。
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である井上宗雄は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが優れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」。
 氏真は、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(バーチャル歌合)

歌人(左方十五) 里村玄陳
歌題 遠里鶏
和歌 遠(をち)かたにゆふつけ鳥の声すなりいざそのさとに宿りとらまし

歌人(右方三十三) 今川氏真
歌題 河五月雨
和歌 よし野川瀬々のしら浪岩越えてこずゑにかかる五月雨の雲

(判詞=宗偽) 

 「左方」の、「遠(をち)かたにゆふつけ鳥の声すなり」の上の句に対して、「いざそのさと(里)に宿りとらまし」の下の句は「凡」也。「右方」の、「よし野川瀬々のしら浪岩越えて」の上の句に、「こずゑにかかる五月雨の雲」の下の句も、これまた「凡」也。依って、この両句、「持」(引き分け)とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

里村玄陳二.jpg

里村玄陳(狩野蓮長画)

今川氏真二.jpg

今川氏真(狩野蓮長画)

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十四) [三十六歌仙]

その十四 兼興と北条氏政

兼與.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十四 兼與」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1482

北条氏政.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十二 北条氏政」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1502

(歌合)

歌人(左方十四) 兼與(与)
歌題 梅香留袖
和歌 誰が袖に匂ひをふれて散り残る 色香すくなきにはの梅がえ
歌人概要  連歌師。耕閑斎兼載門人

歌人(右方三十二) 北条氏政
歌題 寄松祝
和歌 守れ猶君にひかれてすみよしの まつのちとせもよろづ代の春
歌人概要 戦国期~桃山期の武将。小田原城主  

(歌人周辺)

http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/inawasiro.006.html

猪苗代兼与(いなわしろけんよ) 〔生没年〕 天正12年(1584)~寛永9年(1632)〔享年〕49

 猪苗代家6代。兼如の子。兼如は宗悦の子。 細川幽斎の門人とされている。看松斎と号し、法橋に任ぜられた。また仙台・伊達家に仕え、その文化圏の中心人物となる。近衛信尹・烏丸光広らとも親交があり、慶長16年、信尹から古今伝授を受けた。著書に『兼与法橋直唯聞書』(名古屋大学)がある。(参照:仙台人名大辞書、 和歌大辞典)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ujimasa.html

北条氏政(ほうじょううじまさ) 天文七~天正十八(1538-1590)

 相摸小田原城主。氏康の長男。母は今川氏親の娘。弟に氏照がいる。子に氏直がいる。永禄二年(1559)、父氏康より家督を譲られる。父と共に武田信玄・上杉謙信らとたびたび交戦する。
 元亀二年(1571)、常陸の佐竹義重を攻めるが、この時父は病没。同四年(1573)、 当主を氏直に譲る。天正十年(1582)織田・徳川と結び、武田勝頼を滅ぼす。同十八年、豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田原城に籠城するが、ついに降伏して開城、秀吉の命により弟氏照と共に自刃させられた。

(「北条氏政」の一句)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ujimasa.html

我が身いま消ゆとやいかに思ふべき空より来(きた)りくうに帰れば(「関八州古戦録」)

【通釈】我が身は今この世から消え去ると、どのように思えばよいというのか。ただ空から生まれて、再び空に帰って行くだけなのだから。
【補記】『太閤記』などにも見える辞世の歌。同じ時の辞世として「雨雲のおほへる月も胸の霧も払ひにけりな秋の夕風」も伝わる。

(北条氏と主な武将の生没年)

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p09347.html

北条氏系図.jpg

(バーチャル歌合)

歌人(左方十四) 兼與(与)
歌題 梅香留袖
和歌 誰が袖に匂ひをふれて散り残る色香すくなきにはの梅がえ

歌人(右方三十二) 北条氏政
歌題 寄松祝
和歌 守れ猶君にひかれてすみよしのまつのちとせもよろづ代の春

(判詞=宗偽) 
「左方」の「梅香留袖」も、「右方」の「寄松祝」も、古式に則った由緒ある歌題のようだが、その歌題を離れて、中世の時代から近世の時代へと移行する「戦国時代」そして「連歌の時代」を背景にすると、両句とも、「もののふ」(武士=戦う人)と「もののあはれ」(本居宣長=「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ: 『安波礼弁』」=「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事: 『石上私淑言』」)とを感じさせる。「左方」の歌は、「『散り残る花』(「もののふ」)の『色香少なき』(「もののあはれ」)、「右方」の「『守れ猶』(「もののふ」)と『松の千年(ちとせ)・萬(よろづ)代(よ)の春』(「もののあはれ)」に、それらが感知される。その上で、これらの歌に、作者の境涯を重ね合わせると、「右方」の、この意表を突く「守れ猶(なほ)」が万感の重みを有している。依って、「右方」の「勝」とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

兼與二.jpg

兼與(狩野蓮長画)

北条氏政二.jpg

北条氏政(狩野蓮長画)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十三) [三十六歌仙]

その十三 伊達政宗と武田信玄

伊達政宗.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十三 伊達政宗」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1481

武田信玄.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十一 武田信玄」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1501

(歌合)

歌人(左方十三) 伊達政宗
歌題 関雪
和歌 ささずとて誰かは越えむあふ坂の 関の戸うづむ夜半のしら雪
歌人概要  桃山~江戸前期の大名。仙台藩主。連歌作者

歌人(右方三十一) 武田信玄
歌題 松間花
和歌 立ちならぶかひこそなけれやまざくら 松に千とせの色はならはで
歌人概要 戦国期の武将。  

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masamune.html

伊達政宗(だてまさむね) 永禄一〇~寛永一三(1567-1636) 号:貞山 通称:独眼竜

 出羽国米沢城主伊達左京大夫輝宗の長男。五歳の時、天然痘で右目を失う。天正五年(1577)元服し、藤次郎政宗と改名。天正十二年、十九歳で家督を継ぐ。同十三年、安達郡小浜城主の大内氏を破ったのを始め、会津の蘆名氏、白河の結城氏、須賀川の二階堂氏などを攻めて次々に領土を拡げた。
 同十八年、豊臣秀吉より小田原参陣を命ぜられ、母と対立、毒を盛られたが一命を取り止める。弟を殺し母を実家に追放したのち、遅れて小田原に馳せ参じた政宗は、死を決意し白装束を着て秀吉の前に現れたという。
 天正十九年(1591)、米沢から玉造郡岩出山に移る。同二十年、文禄の役に出兵。秀吉の没後、長女を徳川家に輿入れする。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦では東軍に参戦、上杉領白石城を陥落させ、刈田郡を与えられて六十万石となる。同七年、新築の仙台城に移る。同八年(1613)、支倉常長らをローマに派遣する。寛永十三年(1636)、江戸の桜田屋敷で死去。
 晩年はことに文雅を好み、たびたび歌会などを催した。木下長嘯子とは交友があった。家集『貞山公集』などに歌が伝わる。川田順編『戦国時代和歌集』には四十三首の歌が収録されている。

武田信玄(たけだしんげん)生年:大永1.11.3(1521.12.1)  没年:天正1.4.12(1573.5.13)

 戦国時代の武将。実名は晴信,通称太郎。大膳大夫,信濃守。出家し信玄と号す。甲斐(山梨県)守護武田信虎の嫡男,母は大井信達の娘。長禅寺で岐秀元伯の教えを受けて成長。若くして上杉朝興の娘を妻にするが死別,天文5(1536)年室町幕府将軍足利義晴の諱の1字を得て元服し,京都の公家三条公頼の娘と再婚する。
 同10年,溝を深めた父を強制的に隠居させ今川義元のもとへ放逐,家臣団の支持を得て当主の座に着くや,父と同じく信濃への侵攻を開始する。同11年妹婿の諏訪頼重を打倒し,進んで村上・小笠原氏らと対峙,同22年これを撃破し越後へ追って北信濃へ進出,上杉謙信との対立を引き起こす。翌23年今川・北条氏と同盟を結んで謙信を圧し,5回にわたる川中島の戦を経て着実に北信濃を掌握,その間木曾・仁科氏らも下して信濃の大半を制圧すると飛騨へ侵入,永禄9(1566)年には長野氏を滅ぼし西上野をも支配下に収めた。
 これより先,今川義元の娘を妻とする嫡子義信と対立,永禄8年西に領土を接す織田信長の養女を4男勝頼に迎え,苦悩の末に義信を幽閉し駿河進出の機会をうかがう。同10年義信一派粛清で動揺する家臣団から起請文を徴し,手堅く内部の結束を強化する一方,今川氏真と断交して娘を信長の子信忠に配し,織田・徳川氏と結んで背後の憂いを絶つ。同11年駿河を占領して氏真を遠江へ追い,翌年伊豆へ攻め入って北条氏政と対峙,この年越相(越後,相模)同盟が成って謙信に背後を圧迫されるが,越後本庄氏や一向一揆を誘うなど外交手腕の冴えを見せてこれを牽制し,小田原城を攻め氏政を三増峠に破る。
 元亀2(1571)年謙信と絶った氏政と再び結び,本願寺,一向一揆や浅井・朝倉氏らとも協調して信長包囲網を形成した。こうして万全の態勢を整えると,同3年病を押して遠江へ出陣,家康・信長連合軍を三河三方原に破り,翌年三河野田城を包囲するが,病が悪化しやむなく甲府へ帰陣の途中,信濃駒場で波乱に満ちた生涯を閉じた。死因は胃癌。
 妻の三条氏を介して義兄弟の管領細川晴元,本願寺顕如を通じ,京都とのつながりや本願寺,一向一揆との関係を存分に活用。さらに姉妹や子女を今川・北条・穴山・仁科・木曾氏ら国内外の大名,国人の養子,妻として配し,人脈の輪を拡げて遠交近攻策を展開,鮮やかな政治的手腕を発揮する。それは内政にも発揮され,天文16(1547)年には分国法「甲州法度之次第」を制定して分国統治の拠り所とし,検地や棟別調査を実施して家臣団の増強を図り,才覚ある家臣を奉行や各地の城将として配置するなど手堅い分国支配を行っている。
 また城下町や交通路の整備,治水,新田開発などにも力を注いだ。儒学,禅学,兵法,詩歌などの勉学にいそしみ,天性の才能に磨きをかけて統合の要となったが,一族,家臣ともに,その個人的力量に頼り過ぎたきらいがある。中肉の体型で,若いときから毛髪がやや薄めで,柔和ななかにも精悍さのある風貌を持っていた。<参考文献>奥野高広『武田信玄』,井上鋭夫『謙信と信玄』,芝辻俊六『武田信玄』(市村高男) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(「伊達政宗」の一句)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masamune.html

  ささずとて誰かは越えむあふ坂の関の戸うづむ夜半のしら雪(「集外三十六歌仙」)

【通釈】閉ざさなくても、誰が越えようか。逢坂の関の門戸を埋める、夜間降り止まぬ白雪よ。
【本歌】九条良通「千載集」
ふるままに跡たえぬれば鈴鹿山雪こそ関のとざしなりけれ

(閑話休題)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1150056096

Q 武田信玄と伊達政宗はどちらが強いですか。

A 国が境を接しておれば、当然晴信の標的になります、ガチの戦争は互角だと思うのですが、この戦争に至るまでの布石を晴信は着々と積み上げて実行してきますよね。これには、謀略好きの伊達政宗は舌を巻くしかないでしょうね、この点については晴信のほうが一枚も二枚も上手と考えます。
ですから、村上義清ではありませんが、大勝して晴信を跳ね除けても、次の戦い次の戦いとだんだんと不利になって行って、最後はその土地を奪われるという図式です。あの、上杉影虎も結局なんだかんだと言われながら、晴信も弟を失うなどの犠牲を払いながらも、土地を奪われていますからね、戦国時代の定義である土地の奪い合いと言う定義で言えば、はっきりと上杉影虎の負けですからね。
 伊達政宗が東北で最大の勢力を誇っていたのは紛れも無い事実ですよ、でも最大になった瞬間に秀吉から呼び出しを受けて、父から譲ってもらった最初の振出にまで戻されましたけどね。あと何年早く生まれていても、意味がありません、当時の東北地方は網の目のように、親戚状態でお互いを牽制しあっていたんですよ、その当事者であれば政宗だって出来る事と出来ない事があるんですよ。
 下手したら、周りを全部敵にしかねないんですよ、政宗だから出来る事も当然あり、むしろこの方が多かったのでしょうね、血筋的に自分からは少し離れますから、又いとことかの関係になれば誼も深く通じていないですからね。それに、そんなに早く生まれたら、当然自分が太れば越後の影虎君とお隣同士になりますよ、この影虎君に政宗は非道な人間だから助けてくれと泣きこまれたら、そりゃ大変な事になりますよ。佐竹は当然影虎君の味方なので、下から横から攻められちゃいますよ。
 単純な発想のアホウがそのような事を言うのでしょうが、政宗の性格からして早く生まれていたなら、逆に滅亡していたと自分は考えますよ、親戚一同からひんしゅくを買って袋叩きに会うか、そうでなくとも秀吉の命令には絶対逆らって小田原になんか行かなかった思いますよ。
 逆に、三代将軍家光なんか、どんなに生まれながらの将軍だと威張ってみた所で、戦一つしたことがないんですから、父秀忠と自分で改易に継ぐ改易でとうとう戦国時代をしる、大名はこの世に存在しなくなっていたのです、将軍家光から尊敬を一身にうける伊達政宗は将軍家につぐ家柄とされ、幕末までの保証を得ているんだから、これが結局正解ですよ。あれ以上遅く生まれても早く生まれてもダメだったんですよ。

(「バーチャル歌合」(「伊達政宗」対「武田信玄」)

歌人(左方十三) 伊達政宗
歌題 関雪
和歌 ささずとて誰かは越えむあふ坂の 関の戸うづむ夜半のしら雪

歌人(右方三十一) 武田信玄
歌題 松間花
和歌 立ちならぶかひこそなけれやまざくら 松に千とせの色はならはで

(判詞=宗偽) 
 「左方」の「関ノ雪」の作者(伊達政宗)は、「逢坂ノ関」(山城・近江国境の峠道。畿内の北限とされ、関が設けられていた。ここを越えれば東国であった)を越え、京都へと馬を進め、天下人を憧れたのでろうか(?)
 対する「右方」の「松間ノ花」の作者(武田信玄)は、「かひ(甲斐)こそ/松に千とせの色はならはで」と、何にもまして、自国の安定を願ったのであろうか(?)
 共に、群雄割拠した戦国時代の武将の生きざまを、この一首に託していることを可とし、「持」(引き分け)とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

伊達政宗二.jpg

伊達政宗(狩野蓮長画)

武田信玄二.jpg

武田信玄(狩野蓮長画)

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十二) [三十六歌仙]

その十一 宗養(宗羪)と北条氏康

宗養.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十二 宗養」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1480

北条氏康.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十 北条氏康」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1500


(歌合)

歌人(左方十二) 宗養(宗羪)
歌題 旅泊霰
和歌 風まぜにあられたばしるささ枕 ゆめもむすばぬ旅寝わびしき
歌人概要  連歌師宗牧の子宗養か。

歌人(右方三十) 北条氏康
歌題 閑居
和歌 中々にきよめぬ庭はちりもなし かぜにまかする山の下庵
歌人概要 戦国期の武将、小田原城主  

(歌人周辺)

谷宗養(たにそうよう)生年:大永6(1526)  没年:永禄6.11.18(1563.12.3)

 戦国時代の連歌師。無為,半松斎とも号す。連歌界の実力者である谷宗牧の子で,天文11(1542)年には連歌論の『当風連歌秘事』を父から与えられており,後継者たるべく育てられた。宗牧が死に臨んで古今伝授の相伝文書が入った箱に辞世歌を添え,近衛稙家に宗養の庇護を頼んだことは有名である。
 宗牧時代からの有力連歌師寿慶,里村昌休が没した天文20年代(1551~55)には連歌界の第一人者となり,近衛稙家,三条西公条,三好長慶らと交際するも早世した。著書に昌休と共著の『連歌天水抄』などがあるが,宗養独自の連歌論と呼べるものはほとんどない。<参考文献>木藤才蔵『連歌史論考』下  (伊藤伸江)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典につい

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ujiyasu.html


北条氏康(ほうじょううじやす) 永正十二~元亀二(1515-1571)

 相摸小田原城主。氏綱の嫡男。母は伊豆の地侍朝倉氏の娘。氏政・氏照の父。天文十年(1541)、父が没し、家督を継ぐ。同十四年、今川義元と合戦するが、武田信玄の仲介により和睦。同十二年、上杉憲政を上野国平井城に攻め、上杉氏の所領を併合する。同二十三年、駿河国善徳寺で武田信玄・今川義元と会し、同盟を締結、関東での地位を確立した。同年、下総の古河城を攻略し、足利晴氏を放逐。弘治二年(1556)、相模に進攻した安房の里見義弘を城ヶ島に迎え撃つ。
 永禄二年(1559)、嫡子氏政に家督を譲る。永禄四年(1561)、上杉謙信に小田原を攻められるが、籠城して撤退に追い込んだ。翌年、信玄と組んで太田資正の松山城を陥落させる。同七年、里見義弘を国府台に破る。武田氏の今川氏攻略によって三国同盟が破れたのちは謙信と和睦する。
 元亀二年(1571)十月、氏政を常陸の佐竹義重に出陣させた後、病没。五十七歳。墓所は箱根の早雲寺。民政にも手腕を発揮し、和歌など文事にも優れた。

(宗養と北条氏康)

 宗養は、戦国時代の連歌師。当時の連歌界の第一人者の宗牧の後継子で、若くして連歌界の第一人者になったが、三十八歳の若さで夭逝した。
 北条氏康も、宗養と同時代の戦国時代の小田原城主で武将。父の氏綱は「二世氏綱君は父(北条早雲)のあとをよく守って後嗣としての功があった」との名君。氏綱は若い氏康の器量を心配して、死の直前の天文10年(1541年)5月に氏康に対して5か条の訓戒状を伝えている。
「5か条の訓戒状」(要旨)

一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。

(北条氏康の一句)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ujiyasu.html

雪折の竹の下道ふみわけてすぐなる跡を世々に知らせむ(『戦国時代和歌集』)

【通釈】雪の重さで折れる竹の下を通る道を踏み分けて、まっすぐ歩んで来た足跡を、後の世の人々に知らせよう。
【補記】「すぐなる跡」とは、誠心を尽した己が人生の行跡を言う。川田順編『戦国時代和歌集』より。同書によれば『武林拾葉』に「竹のした」と題して出ているという。
【本歌】後鳥羽院「新古今集」
奥山のおどろが下もふみわけて道ある代ぞと人に知らせん

(「バーチャル歌合」(「三好長慶」対「毛利元就」)

歌人(左方十二) 宗養(宗羪)
歌題 旅泊霰
和歌 風まぜにあられたばしるささ枕 ゆめもむすばぬ旅寝わびしき

歌人(右方三十) 北条氏康
歌題 閑居
和歌 中々にきよめぬ庭はちりもなし かぜにまかする山の下庵

(判詞=宗偽) 

「左方」の歌、「旅泊霰」の題を得て、上の句の「風まぜにあられたばしるささ枕」の「あられたばしるささ枕」、下の句の「ゆめもむすばぬ旅寝わびしき」の「ゆめもむすばぬ」は秀抜である。「右方」の歌、「閑居」の題にて、上の句の「中々にきよめぬ庭はちりもなし」の嘱目の景を、下の句の「かぜにまかする山の下庵」の「かぜにまかする」と、「閑居」の心象の景へと転じたのは秀抜である。依って、「持」(引き分け)とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

宗養二.jpg

宗養(宗羪)(狩野蓮長画)

北条氏康二.jpg

北条氏康(狩野蓮長画)
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