SSブログ

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十一) [三十六歌仙]

その十一 参議雅経と二条院讃岐

藤原雅経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(参議雅経)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056411

二条院讃岐.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056412

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-10

雅経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十一・参議雅経」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009404


讃岐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十一・二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009422


左方十一・参議雅経(飛鳥井雅経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010696000.html

 しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく

右方十一・二条院讃岐
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010697000.html

 やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら


(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原雅経二.jpg

二条院讃岐二.jpg

(周辺メモ)

(「小倉百人一首92」・二条院讃岐「永冶元年?~建保5年? / 1141?~1217?」)

 わが袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそしらねかはくまもなし(『千載集』恋・760 )
(私の袖は引き潮になっても見えない沖の石のに、人は分からないでしょうが、何時も涙に濡れて乾く間もありません。)

(「小倉百人一首94」・参議雅経「嘉応二年~承久三(1170-1221)))

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり(『新古今』秋・483)
(吉野山の秋風が吹き渡ると、夜更けの故郷では衣を砧を打つで音のみが寒々と聞こえてくるるばかりです。)

 このお二人(二条院讃岐・参議雅経)は、承久三年(一二二一)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」は知らない。

 二条院讃岐の父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。二条天皇即位と同じ頃に内裏女房として出仕、二条院崩御後、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子(九条兼実の娘)に再出仕。後鳥羽院の側近の九条家を代表する女流歌人である。

 参議雅経の父は藤原頼経。母は源顕雅の娘。飛鳥井家の祖。蹴鞠(けまり)に優れる。父は源義経にくみし流罪となるが,雅経は蹴鞠を好む将軍源頼家に厚遇された。後に後鳥羽天皇の近習となり、従三位、参議。「新古今和歌集」の撰者の一人でもある。『後鳥羽院御口伝』では、「雅経は、殊に案じかへりて歌詠みしものなり(=雅経はとりわけあれこれ思いめぐらして歌を詠む者である)」と、後鳥羽院の側近中の側近の一人である。蹴鞠は、後鳥羽院の師で、後鳥羽院から「長者」の称号を与えられている。

 その後鳥羽院・雅経らの「長者鞠会(まりえ)」の鞠足(蹴鞠の名手)のメンバーに対して、承久の乱後、「院近臣として乱に処刑される藤原忠信(坊門家、遠流)・同有雅(斬罪)・同範茂(高倉家、斬罪)・同宗行(中御門家・斬罪)・医王丸(寵童、隠岐へ供奉)などがズラリと名を列ねている。この中にあって、和歌所寄人として、蹴鞠の師として院に寵愛され、しかも鎌倉とも特別に縁の深い雅経は、公武関係の緊張する晩年には、よほど去就に心を痛めたに違いない。承久三年(一二二一)三月、乱勃発の二か月前に病死したのは、せめてものの幸せであったか」との記述も見られる(『史伝後鳥羽院(目崎徳衛著)』)。

 これに続いて、後鳥羽院・雅経らの「長者鞠会」が行われていた頃について、次のような太平の世であったことが記述されている。

【 長者鞠会の二年後の承元四年(一二一〇)、後鳥羽院の第二子守成親王が十㈣歳で即位した。この順徳天皇の生母は、幼少の院を養育して帝位に即けた高倉範季の女子修明門院である。そして故摂政九条良経の女立子が新帝の中宮となった。本命の揃ったこの時あたりが後鳥羽院の院政の輝かしいクライマックスである。院を追慕する『増鏡』の著者が、

 四方の海波静かに、吹く風も枝を鳴らさず、世治まり民安くして、(中略)よろずの
 道々にあき らけくおはしませば、国に才(ざえ)ある人多く、昔に恥ぢぬ御代にぞ
 ありける。

と讃えたのは、誇張ではない。平泉の藤原氏を滅ぼして十年間の内乱を鎮めた頼朝が意気揚々と上洛した建久元年(一一九〇)から、すでに二十年間も太平が続いている。
 その太平は乱の承久三年(一二二一)まで、なお十年間も保たれる。その間に遠い鎌倉では血なまぐさい事件が次々に起ったが、京の貴族・庶民の実感は、『増鏡』の記すところに近かったと思う。三十年もの平和は中世の歴史には稀なのである。 】(『史伝後鳥羽院(目崎徳衛著)』)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート