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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十三) [三十六歌仙]

その十三 右衛門為家と藤原隆祐朝臣

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狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(右衛門為家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056413

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狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(藤原隆祐朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056414

左方十二・前大納言為家(藤原為家)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010698000.html

 たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲

右方十二・藤原隆祐朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010699000.html

 今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-11


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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十二・前大納言為家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009405

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十二・藤原隆祐朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009423

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

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(周辺メモ)

 後鳥羽院を中心とする後鳥羽院歌壇の両翼は、藤原家隆と藤原定家のお二人ということになる。この家隆についての『後鳥羽院御口伝』の評は次のとおりである。

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。

 この家隆を後鳥羽院に推挙したのは、藤原(九条)良経であることが、『古今著聞集』に記されている。

「かの卿(家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(良経のこと)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。

 この『古今著聞集』の「重代の達者定家卿」こと、藤原定家に対する『後鳥羽院御口伝』の評は次のようなものである。

「定家は、さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、まして餘人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道に達したるさまなど、殊勝なりき。哥見知りたるけしき、ゆゆしげなりき。ただし引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、ことわりも過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばす。(中略)惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。ただ、詞姿の艶にやさしきを本躰とする間、その骨(こつ)すぐれざらん初心の者まねばば、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の物にてあれ」(『後鳥羽院御口伝』)。

 定家を「重代の達者定家卿」に仕立て上げた、その人も後鳥羽院であるが、この定家を「傍若無人、ことわりも過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばす」と断じ、承久の乱の起る前年の承久二年(一二二〇)の順徳天皇の内裏歌会に、次の禁忌の歌を提出したことにより、後鳥羽院の逆麟に触れ、以後、定家は「院勘」(院のお咎めを受けた)のまま、両者の不和の状態は解消することなく、その両者の生涯は閉じることになる。

 道のべの野原の柳したもえぬ あはれなげきのけぶりくらべに

 この定家の歌については、下記のアドレスなどに詳しい。

https://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/rd-bn-ky_036_011._?key=KMCSUL

 ここで、「為家と隆祐」との番いであるが、為家は定家の嫡男、そして、隆祐も家隆の嫡男で、ここで「定家と家隆」の、嫡男同士の「為家と隆祐」との組み合わせということになる。そして、この「為家と隆祐」とを組み合わせたのは、これは、下記のアドレスで触れている、「最晩年の後鳥羽院と繋がりを持っていた一人の亡き藤原(九条)良経の三男・藤原基家」という思いを深くする。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-27

 ここで、後鳥羽院時代の「家隆・定家・良経・後鳥羽院」と、順徳院時代の「隆祐・為家・基家・順徳院」との二つの世界が切り拓かれて行く。

藤原家隆(保元三~嘉禎三/1158~1237)→藤原隆祐(生没年未詳/1190以前~1251以後)
藤原定家(応保二~仁治二/1162~1241)→藤原為家(建久九~建治元/1198~1275)
藤原良経(嘉応元~建永元/(1169~1206)→藤原基家(建仁三~弘安三/1203~1280)
後鳥羽院(治承四~延応元/1180~1239)→順徳院(建久八~仁治三/1197~1242)
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