SSブログ

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十四) [三十六歌仙]

その十四 後鳥羽院宮内卿と藤原秀能

宮内卿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後鳥羽院宮内卿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056417

藤原秀能.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(藤原秀能)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056418

左方十四・宮内卿
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010702000.html

 かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり

右方十四・正二位秀能
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010703000.html

 足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-16

宮内卿.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十四・宮内卿」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009407

藤原秀能.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十四・正二位秀能」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009425

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

宮内卿二.jpg

藤原秀能二.jpg

(参考)宮内卿の死

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/9416c1c7186359571a42f8c7995a3e81

【明月記 建永二年五月
十日 (暁雨降)天晴
相具爲家參上未時許御神泉退出
入夜束帶參八条院一品宮御除服(入道殿下御服)
陪膳一昨日隆範催昨日輕服(宮内卿局昨日逝去常馴人也甚悲近
習奏事輙達心操甚柔和) 少納言長季參入役送
即出御(車面御車寄)ー略ー。

十日。(暁雨降る)爲家を相具して参上す。未の時許りに、神泉におはしまして退出す。
夜に入り、束帯して八条院に参ず。一品宮御除服(入道殿下御服)。
陪膳一昨日、隆範催す。昨日軽服(宮内卿の局、昨日逝去。常に馴るる人也。甚だ悲し。近
習の奏事輙く達す。心操甚だ柔和)。少納言長季、参入し役送。
即ち出でおはします。(車御車寄せに面す)ー略ー。 】

(参考)藤原秀能(「承久の乱」前後)

http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2009/05/post-b1b4.html

【「藤原秀能は、河内守秀宗の二男、藤原秀郷の後裔だといふ武の家に生まれた。通説に従へば、仁治元年五月二十一日に行年五十七歳を以て卒したといふから、それから逆算すれば、元歴元年の生まれとなる。元歴元年は即ち壽永三年である。木曾義仲が戦死し、一の谷の合戦に源氏が大勝した年である。秀能は、もと土御門通親の家人であつた。ところが、正治元年十六歳の時に、後鳥羽上皇の北面に召されたと尊卑分脈にある。彼の新しい運命はここから開けるのである。」小島吉雄「藤原秀能とその歌」 
 (中略)
正治元年は西暦で言うと1199年、後鳥羽上皇が土御門天皇に譲位された翌年にあたる。
このとき後鳥羽院は二十歳くらい、俊成は八十五歳くらい、定家は三十七歳くらいの見当であります。(俊成・定家親子のパトロンともいうべき九条家の跡目を継いだ藤原良経が政権の中央に返り咲きます。良経は三十歳くらい。)
 (中略)
「建仁元年八月三日の「影供歌合」には、武者所の平景光と組み合つて、六番のうち三番勝、二番持の成績をあげてゐるし、同年八月十五夜の「撰歌合」には、源通親、源具親、藤原隆信、藤原定家と番つて、通親、定家に負け、具親、隆信に勝つてゐる。この頃から歌人としての彼の地位は高まつて来たのであつて、以来、鴨長明と共に、歌會歌合の常連として詠進列席を許されるやうになつた。既に、この建仁元年の七月に和歌所が開かれ、十一人の寄人が補せられたのであるが、『家長日記』によれば、そののち鴨長明と藤原隆信とそしてこの秀能が更に寄人に追補せられたとある。」小島吉雄「藤原秀能とその歌」

http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2009/05/post-296f.html

「藤原秀能(「ひでよし」あるいは「ひでとう」)は、元暦元年(1184)の生まれ。藤原という苗字だが、北家などの貴族の血筋ではなくて平氏の流れをくむ北面の武家である。お兄さんである藤原秀康の方が歴史上は有名で、承久の乱(1221)で京方の総大将をつとめました。
なにしろ京方には後鳥羽上皇の院宣がありますから、執権北条義時はこれには逆らえないだろうと思いきや、例の北条政子が大演説、藤原秀康は君側の奸である、いまこそ故右大将頼朝の「海より深く山より高い恩」に報いるときぞ、ものども進撃せよ、とやったもんだから、鎌倉方は一致団結、一気に武家の世となった歴史的瞬間であります。可哀想なのは、藤原秀康で、水戸黄門の印籠のように院宣がきくと思っていたら、さんざんに討ちのめされて、あげくのはてに後鳥羽さんに見棄てられ、六波羅で斬られております。このとき、義時はもし後鳥羽院みずから出御の場合はいかにと政子に尋ね、そのときは全員弓弦を切って官軍に下るべしとの指示を受けていたといいますな。まあ、そんなことはありえない、というのが政子の読みだったのでしょう。」 】

(周辺メモ) 藤原秀能の「如願法師集」の歌

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hidetou.html

「来ぬ人をあすも待つべきさむしろに桜吹きしく夜はの山風」(如願法師集)
【通釈】来なかった人を明日も待つであろう莚の上に、桜の花を吹いては敷く、夜の山風よ。

「水な月のなかばに消えし白雪のいつしか白き富士の山風」(如願法師集)
【通釈】水無月の半ばに消えた雪が、いつのまにかまた降りだして、富士の山を吹く風は白い。

「うたた寝のうすき袂に秋たちて心の色ぞまづかはりける」(如願法師集)
【通釈】うたた寝をしていた薄い袂に秋がはっきりと現れて、真っ先に私の心の色が変わったのだった。

「葦の葉に風秋なりと聞きしより月すさまじくすむ心かな」(如願法師集)
【通釈】葦の葉のそよぐ音に、風が秋になったと聴いた――その時から、月の光は荒涼と冴えわたり、我が心も冷たく澄んでいる。

「下紅葉うつろひゆけば玉ぼこの道の山風さむく吹くらむ」(如願法師集)
【通釈】下葉の紅葉が散ってゆくので、山道を寒風が吹いているのだろう。

「ひさかたの雲井ながらも逢ひ見しをしぐれにけりな天の香久山」(如願法師集)
【通釈】遥かに雲を隔てながらも対面したが、また時雨れてきて隠れてしまったなあ、天の香具山よ。

「山里の桐の落葉にすむ月のかげさだめなく吹く嵐かな」(如願法師集)
【通釈】山里の桐の落葉に澄んだ光を宿す月――その光が不安定に揺れるほど吹く嵐であるよ。

「うちたゆむ夢を嵐にまがへても深山さびしき夜はのむらさめ」(如願法師集)
【通釈】途絶えた夢は激しい風の音に紛らせても、深山にあって寂しい夜半の叢雨よ。

「命とは契(ちぎ)らざりしを石見(いはみ)なるおきの白島(しらしま)また見つるかな」(如願法師集)
【通釈】命をかけて約束はしなかったけれども、再び石見の沖の、隠岐の白島を見たのであったよ。
【補記】承久の大乱後、すでに十年以上が経った頃、秀能は隠岐の院を慕って西国に下った。乱に際し将軍として戦った人物が島へ渡ることを、幕府がやすやすと見過ごしたはずもないと思われるが、この歌を事実として受け取れば、彼は何度か渡島を果したことになる。「白島」は院の御所とは離れているが、隠岐のさらに北隅の離れ小島に、院自身を暗喩していると思える。上句は「再びの訪問を、命をかけて白島と約束はしなかったけれども」ほどの意で、結局のところ、命をかけてまで再び此処へやって来た、と言っていることになる。前例のない、あわれ深い句である。

「憂へても泣きてもいはむ友もがなこたへぬ月にながめわびぬる」(如願法師集)
【通釈】不平でも泣き言でもいい、何か言ってくれる友がいてくれたら。夜空の月は何も答えてはくれず、眺め続ける気持も萎えてしまった。
【補記】西行を思わせる詠みぶりである。俗名秀能如願法師は、仁治元年(1240)五月二十一日、入寂。享年五十七。後鳥羽院崩御翌年のことであった。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート