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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十八) [三十六歌仙]

その十八 入道三品釈阿と西行法師

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狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425

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狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

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(周辺メモ)

藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「聞く人ぞ涙はおつる帰る雁なきて行くなる曙の空」(新古59)
【通釈】聞いている人の方こそ涙はこぼれ落ちるのだ。北へ帰る雁が鳴いて飛んでゆく曙の空よ。

「いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花」(新古100)
【通釈】幾年の春に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。

「またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙」(新古114)
【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。

「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川」(新古159)

【通釈】馬を駐めて、さらに水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち添う井手の玉川を見るために。

「昔思ふ草の庵(いほり)の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
【通釈】昔を思い出して過ごす草庵の夜――悲しげな鳴き声で、降る雨に涙を添えてくれるな、山時鳥よ。

「雨そそく花橘に風過ぎて山ほととぎす雲に鳴くなり」(新古202)
【通釈】雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹いて過ぎる――すると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いている。

「我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ」(新古210)
【通釈】私の心をどうせよというので、ほととぎすは雲間から漏れ出た月――それだけでも十分あわれ深い月影のもとで鳴くのだろう。

「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」(新古238)
【通釈】橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す――私も死んで過去の人となったならば、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。

「伏見山松の蔭より見わたせば明くる田の面(も)に秋風ぞ吹く」(新古291)
【通釈】伏見山の松の蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。

「水渋(みしぶ)つき植ゑし山田に引板(ひた)はへてまた袖ぬらす秋は来にけり」(新古301)
【通釈】夏、袖に水渋をつけて苗を植えた山田に、今や引板を張り渡して見張りをし、さらに袖を濡らす秋はやって来たのだ。

「たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ」(新古320)
【通釈】七夕の天の川の川門を渡る舟の梶――その梶の葉に、秋が来るたび何度書いたことだろう、葉に置いた露のように果敢ない願い文(ぶみ)を。

「いとかくや袖はしをれし野辺に出でて昔も秋の花は見しかど」(新古341)
【通釈】これほどひどく袖は涙に濡れ萎れたことがあったろうか。野辺に出て、昔も今のように秋の花々を眺めたことはあったけれど。

「心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは」(新古527)
【通釈】木々は自分の心から紅葉するのだろうか。立田山――その山の紅葉にまじる松はどうか、時雨に濡れなかっただろうか。そんなはずはないのだ。

「かつ氷りかつはくだくる山川の岩間にむせぶ暁の声」(新古631)
【通釈】氷っては砕け、砕けては氷る山川の水が、岩間に咽ぶような暁の声よ。

「ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな」(新古640)
【通釈】独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。

「今日はもし君もや訪(と)ふと眺むれどまだ跡もなき庭の雪かな」(新古664)
【通釈】今日はもしやあなたが訪ねて来るかと眺めるけれど、まだ足跡もない庭の雪であるよ。

「雪ふれば嶺の真榊(まさかき)うづもれて月にみがける天の香久山」(新古677)
【通釈】雪が降ると、峰の榊の木々は埋もれてしまって、月光で以て磨いているかのように澄み切った天の香具山よ。

「夏刈りの芦のかり寝もあはれなり玉江の月の明けがたの空」(新古932)
【通釈】夏刈りの芦を刈り敷いての仮寝も興趣の深いものである。玉江に月が残る明け方の空よ。

「立ちかへり又も来てみむ松島や雄島(をじま)の苫屋波に荒らすな」(新古933)
【通釈】再び戻って来て見よう。それまで松島の雄島の苫屋を波に荒れるままにしないでくれ。

「難波人あし火たく屋に宿かりてすずろに袖のしほたるるかな」(新古973)
【通釈】難波人が蘆火を焚く小屋に宿を借りて、わけもなく袖がぐっしょり濡れてしまうことよ。

世の中は憂きふししげし篠原(しのはら)や旅にしあれば妹夢に見ゆ(新古976)
【通釈】篠竹に節が多いように、人生は辛い折節が多い。篠原で旅寝していれば、妻が夢に見えて、また辛くなる。

「うき世には今はあらしの山風にこれや馴れ行くはじめなるらむ」(新古795)
【通釈】辛い現世にはもう留まるまいと思って籠る嵐山の山風に、これが馴れてゆく始めなのだろうか。

「稀にくる夜半も悲しき松風をたえずや苔の下に聞くらむ」(新古796)
【通釈】稀に訪れる夜でも悲しく聴こえる松風を、亡き妻は絶えず墓の下で聞くのだろうか。

「山人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし」(新古719)
【通釈】仙人が花を折り取る、その袖を濡らして香る菊の露――それを打ち払う一瞬にも、千年が経ってしまうだろう。

「君が代は千世ともささじ天(あま)の戸や出づる月日のかぎりなければ」(新古738)
【通釈】大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから。

「近江(あふみ)のや坂田の稲をかけ積みて道ある御代の始めにぞ舂(つ)く」(新古753)
【通釈】近江の坂田の稲を積み重ねて掛け、正しい道理の通る御代の最初に舂くのである。

「思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる」(新古1107)
【通釈】思い悩むあまり、あなたの住む方の空を眺めると、霞を分けて春雨が降っている。

逢ふことはかた野の里の笹の庵(いほ)しのに露ちる夜半の床かな(新古1110)
【通釈】あの人に逢うことは難く、交野の里の笹葺きの庵の篠に散る露ではないが、しきりと涙がこぼれる夜の寝床であるよ。

「憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ」(新古1143)
【通釈】辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。

「よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ」(新古1232)
【通釈】仕方ない、それなら、せめて来世だけでも約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから。

「あはれなりうたた寝にのみ見し夢の長き思ひに結ぼほれなむ」(新古1389)
【通釈】はかないことである。転た寝に見ただけの短い夢のような逢瀬が、長い恋となって私は鬱屈した思いを抱き続けるのだろう。

「思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむ折ぞ恋しき」(新古1394)
【通釈】歎き悲しむ今は、逢瀬の時に見た面影はさておいて、あの人をまだ恋していなかった頃のことが慕わしく思われるのである。

「五月雨は真屋の軒端の雨(あま)そそぎあまりなるまでぬるる袖かな」(新古1492)
【通釈】五月雨は、真屋の軒端から落ちる雨垂れが余りひどいように、ひどく涙に濡れる袖であるよ。

「嵐吹く峯の紅葉の日にそへてもろくなりゆく我が涙かな」(新古1803)
【通釈】嵐が吹き荒れる峰の紅葉が日に日に脆くなってゆくように、感じやすくなり、こぼれやすくなってゆく我が涙であるよ。

「杣山(そまやま)や梢におもる雪折れにたへぬ歎きの身をくだくらむ」(新古1582)
【通釈】杣山の木々の梢に雪が重く積もって枝が折れる――そのように、耐えられない嘆きが積もって我が身を砕くのであろう。

「暁とつげの枕をそばだてて聞くも悲しき鐘の音かな」(新古1809)
【通釈】暁であると告げるのを、黄楊の枕をそばだてて聞いていると、何とも悲しい鐘の音であるよ。

「いかにせむ賤(しづ)が園生(そのふ)の奧の竹かきこもるとも世の中ぞかし」(新古1673)
【通釈】どうしよう。賤しい我が園の奧の竹垣ではないが、深く引き籠って生きようとも、世間から逃れることはできないのだ。

「忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば」(新古1509)
【通釈】私も忘れまい。おまえも忘れるなとだけは言っておきたいものだ。殿上から眺める月に心があったならば。

「世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲」(新古1846)
【通釈】世の中のことを次から次へ思い続けて、外を眺めていると、虚空にはなかく消えてゆく白雲よ。

「思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは」(新古1531)
【通釈】思いもしなかった。この世と訣別した秋に巡り逢って、再び生きて月を眺めようとは。

「年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春や立つらむ」(新古1436)
【通釈】年が暮れたのを惜しんで流した涙のつららも解けてしまった。苔の袖にも春が来たのであろうか。

「今はわれ吉野の山の花をこそ宿の物とも見るべかりけれ」(新古1466)
【通釈】出家した今、私は吉野山の桜を我が家のものとして眺めることができるのだ。

「照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける」(新古1468)
【通釈】美しく輝く月も、雲の彼方という遥か遠い世界を行き巡っている。それに対して桜の花こそはこの世界を照らす光なのだ。

「老いぬとも又も逢はむと行く年に涙の玉を手向けつるかな」(新古1586)
【通釈】老いてしまったけれども、再び春に巡り逢おうと、去り行く年に涙の玉を捧げたのであった。

「春来ればなほこの世こそ偲ばるれいつかはかかる花を見るべき」(新古1467)
【通釈】春が来ると、やはりこの現世こそが素晴らしいと心惹かれるのである。来世ではいつこのような花を見ることができようか。そんなことは分かりはしないのだから。

「今日とてや磯菜つむらん伊勢島や一志(いちし)の浦のあまの乙女子」(新古1612)
【通釈】今日は正月七日というので、若菜の代りに磯菜を摘んでいるのだろうか。伊勢島の一志の浦の海人の少女は。

「昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける」(新古1815)
【通釈】まだ若かった昔でさえ、亡くなったのは昔のことだと思っていた親――その親が今もなお恋しく思われるとは、はかないことである。

「しめおきて今やと思ふ秋山の蓬がもとにまつ虫のなく」(新古1560)
【通釈】自身の墓と定めて置いて、今はもうその時かと思う秋山の、蓬(よもぎ)の繁る下で、私を待つ松虫が鳴いている。

「荒れわたる秋の庭こそ哀れなれまして消えなむ露の夕暮」(新古1561)
【通釈】一面に荒れている秋の庭は哀れなものだ。まして、今にも消えそうな露が庭の草木に置いている夕暮時は、いっそう哀れ深い。

「今はとてつま木こるべき宿の松千世をば君となほ祈るかな」(新古1637)
【通釈】今となっては、薪を伐って暮らすような隠棲の住まいにあって、その庭先に生える松に寄せて、千歳の齢を大君に実現せよと、なおも祈るのである。

「神風や五十鈴の川の宮柱いく千世すめとたてはじめけむ」(新古1882)
【通釈】五十鈴川のほとりの内宮(ないくう)の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。

「月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖」(新古1889)
【通釈】澄み切った月が輝く御手洗川に、小忌衣(おみごろも)を着た人の影が映っていて、その氷で摺り付けたかのような山藍の袖よ。

「春日野のおどろの道の埋れ水すゑだに神のしるしあらはせ」(新古1898)
【通釈】春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。

「今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀(みだ)の御国(みくに)の夕暮の空」(新古1967)
【通釈】今目の当りにしているのがそれなのだ、入日を眺めては思い憧れてきた、阿弥陀如来の御国、極楽浄土の夕暮の空よ。

(参考)家長日記 俊成九十賀屏風歌 

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/8dbad5ec177891bf86de8431bbfcdb89


(周辺メモ)西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

 藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。

「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらん」(新古7)
【通釈】岩と岩の間を閉ざしていた氷も、立春の今朝は解け始めて、苔の生えた下を流れる水が通り道を探し求めていることだろう。

「ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水の白波」(新古27)
【通釈】冬の間に降り積もった高嶺の雪が解けたのであるよ。清滝川の水嵩が増して白波が立っている。

「吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」(新古79)
【通釈】吉野山では桜の枝に雪が舞い散って、今年は花が遅れそうな年であるよ。

「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」(新古86)
【通釈】吉野山――ここで去年枝折(しおり)をして目印をつけておいた道とは道を変えて、まだ見ない方面の花をたずね入ろう。

「ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」(新古126)
【通釈】じっと見つめては物思いに耽るとて、花にもひどく馴染んでしまったので、散る時の別れが一層悲しいのだった。

「聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立」(新古217)
【通釈】たとえ聞こえなくとも、ここを時鳥の声を待つ場所としよう。山田の原の杉林を。

「ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる」(新古218)
【通釈】時鳥は深い峰から今出たのだな。私が歩いている外山の山裾に、その声が落ちて来る。

「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」(新古262)
【通釈】道のほとりに清水が流れる柳の木蔭――ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだった。

「よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空」(新古263)
【通釈】もつれ合った野一面の草がふと陰って、見れば涼しげに曇っている夕立の空よ。

「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」(新古300)
【通釈】ああ、どれほど草葉の露がこぼれているだろうか。秋風が吹き始めた。宮城野の原では今頃――。

「雲かかる遠山畑(とほやまばた)の秋されば思ひやるだにかなしきものを」(新古1562)
【通釈】雲がかかっている、遠くの山の畑を眺めると、そこに暮らしている人の心が思いやられるが、ましてや秋になれば、いかばかり寂しいことだろう――思いを馳せるだけでも切なくてならないよ。

「月を見て心浮かれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる」(新古1532)
【通釈】月を見て心が浮かれた昔の秋に、再び巡り逢ってしまったことよ。

「夜もすがら月こそ袖にやどりけれ昔の秋を思ひ出づれば」(351)[新古1533]
【通釈】一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。

「白雲をつばさにかけてゆく雁の門田のおもの友したふなり」(新古502)
【通釈】白雲を翼に触れ合わせて飛んでゆく雁が鳴いているのは、門田に残る友を慕っているのだ。

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古362)
【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。

「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく」(新古472)
【通釈】蟋蟀は秋が深まり夜寒になるにつれて衰弱するのか、鳴き声が遠ざかってゆく。

「秋篠や外山の里やしぐるらむ伊駒(いこま)の岳(たけ)に雲のかかれる」(新古585)
【通釈】秋篠の外山の里では時雨が降っているのだろうか。生駒の山に雲がかかっている。

「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(新古625)
【通釈】古歌にも詠まれた津の国の難波の春は夢であったのだろうか。今や葦の枯葉に風がわたる、その荒涼とした音が聞こえるばかりである。

「さびしさに堪(た)へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古627)
【通釈】寂しさに耐えている人が私のほかにもいればよいな。庵を並べて住もう――「寂しさ増さる」と言われる冬の山里で。

「おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる」(新古691)
【通釈】言葉をかけない私を、ひょっとして、慕ってくれる人もあるかと、ためらっているうちに、年が暮れてしまいました。

「面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて」(新古1185)
【通釈】いつまでも面影の忘れられそうにない別れであるよ。別れたあとも、あの人がなごりを月の光のうちに留めていて…。

「くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな」(新古1268)
【通釈】隈もなく照っている折しも、恋しい人を思い出して、自分の心からせっかくの明月をみすぼらしくしてしまったよ。

「はるかなる岩のはざまに独り居て人目思はで物思はばや」(新古1099)
【通釈】人里を遥かに離れた岩の狭間に独り居て、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。

「数ならぬ心のとがになし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ」(新古1100)
【通釈】身分不相応の恋をしたことを、賤しい身である自分の拙い心のあやまちとして諦めはすまい。あの人にこの思いを知らせて、拒まれた上で初めて我が身を恨もうではないか。

「なにとなくさすがに惜しき命かなありへば人や思ひ知るとて」(新古1147)
【通釈】なんとはなしに、やはり惜しい命であるよ。生き永らえていたならば、あの人が私の思いを悟ってくれるかもしれないと。

「今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとての情けなりけり」(新古1298)
【通釈】今になって分かった。思い出してと約束を交わしたのは、私を忘れようと思っての、せめてもの情けだったのだ。

「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりける我が心かな」(新古1155)
【通釈】あの人と逢うまでは命を永らえたいと思ったのは、今にしてみれば浅はかで、悔やまれる我が心であったよ。

「人は来(こ)で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く」(新古1200)
【通釈】待つ人は来ないまま、風もすっかり夜が更けた気色になったところへ、しみじみと哀れな声で雁が鳴いてゆく。

「待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ」(新古1808)
【通釈】待たれた入相の鐘の音が聞こえる。明日も生きていたならば、またこうして聞こうというのだろうか。

「古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮」(新古1676)
【通釈】焼き捨てられた古畑の斜面の立木に止まっている鳩が、友を呼ぶ声――その響きが物寂しく聞こえる夕暮よ。

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ」(新古1619)
【通釈】吉野山に入って、そのまますぐには下山しまいと思う我が身であるのに、花が散ったなら帰って来るだろうと都の人々は待っているのだろうか。

「山里にうき世いとはむ友もがな悔しく過ぎし昔かたらむ」(新古1659)
【通釈】この山里に、現世の生活を捨てた友がいたなら。虚しく過ぎた、悔やまれる昔の日々を語り合おう。

「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」(新古1471)
【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。

「世をいとふ名をだにもさはとどめおきて数ならぬ身の思ひ出(い)でにせむ」(新古1828)
【通釈】世を厭い捨てたという評判だけでも、そのままこの世に残しておいて、数にも入らないような我が身の思い出としよう。

「都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり」(新古937)
【通釈】都にあって月を哀れ深いと思ったのは、物の数にも入らないお慰みなのであった。

神路山月さやかなる誓ひありて天(あめ)の下をば照らすなりけり(新古1878)
【通釈】神路山の月がさやかに照るように、明らかな誓いがあって、慈悲の光はこの地上をあまねく照らしているのであった。

「さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影やはらぐる月よみの森」(新古1879)
【通釈】霊鷲山にかかる雲から現れた月は、さやかな光をやわらげて、この国に月読の神として出現し、月読の杜に祀られている。

「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」(新古987)
【通釈】年も盛りを過ぎて、再び越えることになろうと思っただろうか。命があってのことである。小夜の中山よ。

「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな」(新古1613)
【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ。
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