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最晩年の光悦書画巻(その十二) [光悦・宗達・素庵]

(その十二)草木摺絵新古集和歌巻(その十二・伊勢)

花卉六.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (6)(伊勢)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(「新古1159)

(釈文)ゆめと天も人尓語なしると以へバたま久ら怒枕多尓勢須

   忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

 この「歌意」は『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳:峯村文人)』に因っている。その「校注」で、この歌の参考歌として、「676 知るといへば枕だにせで寝しものをちりならぬ名の空に立つらむ」(伊勢「古今・恋三」)を挙げている。この参考歌と共に鑑賞すると、この「新古今」所収の歌がより一層鮮明に伝わって来る。
 この歌は、その詞書の「忍びたる人と二人臥して」、そのものずばりの「忍ぶ恋仲の二人の共寝」の歌なのである。参考歌は、「どうして、塵でもない恋仲の評判が立っているのであろうか」というもので、この掲出歌は、「手枕にこと寄せて、共寝の秘密を絶対に漏らさないで下さい」という、何とも優婉な恋歌である。
 伊勢は、下記のアドレスのとおり、「若くして宇多天皇の后藤原温子に仕え、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻する。一度は父のいる大和に帰るが、再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受ける。その後、宇多天皇の寵を得、皇子を産むが、その皇子は夭逝する。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務(三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人)を産む。このような華麗な遍歴の後、宇多天皇の没後に摂津国嶋上郡(大阪府)に庵を結んで隠棲した。作者の生没年が確認されていない」と、王朝女流歌人の典型的な華麗且つ悲哀の生涯を辿る。
 この「伊勢」(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)を、『源氏物語』の発端の第一帖「桐壺」の、「桐壺更衣」そして、その「桐壺帝」は「宇多天皇」、そして、『源氏物語』の主人公「光源氏」は、その二人の間に生まれた夭逝した皇子、そして、その形見のような「宇陀天皇の『皇子・敦慶親王』(その「敦慶親王」と「伊勢」との間に自分の分身のような「中務」が生まれる)と見立てることも、歌人にして希代のストーリーテラーの「紫式部」の脳裏の片隅にあったことは、『源氏物語』(桐壺)の、次の一節の中に、「宇多天皇(亭子院)」と「伊勢」の名が出ていることが、それを示唆しているように思われる。

【命婦は、『まだ大殿籠もらせ給はざりける』と、あはれに見奉る。御前の壺前栽(せんざい)のいとおもしろき盛りなるを、御覧ずるやうにて、忍びやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌(ちょうごんか)の御絵、亭子院(ていしいん)の描かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせ給ふ。】(「桐壺」・「九 命婦帰参、さらに亭の哀傷深まる」)

 ここに、登場する「長恨歌」の「玄宗皇帝(桐壺帝=宇多天皇)と楊貴妃(桐壺更衣=伊勢御息所)」が、『源氏物語』の「桐壺」の背景に横たわっていることは周知のところであり、それを示唆するように、「亭子院(宇多上皇の御所)」と「伊勢、貫之」の「伊勢」が実名で登場している。

 この「亭子院のみかどの描かせた長恨歌」関連の、伊勢の歌がある。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html

長恨歌の屏風を、亭子院のみかど描かせたまひて、
  その所々詠ませたまひける、みかどの御になして(二首)
もみぢ葉に色みえわかずちる物はもの思ふ秋の涙なりけり(伊勢集)
【通釈】紅葉した葉と色が区別できずに散るものは、物思いに耽る私の秋の涙であったよ。

かくばかりおつる涙のつつまれば雲のたよりに見せましものを(伊勢集)
【通釈】このほどまで流れ落ちる涙が包めるものなら、雲の上への便りに贈って見せるだろうに。

 ここで、あらためて女流歌人・伊勢に焦点を絞ると、「古今和歌集」には二十二首、「後撰和歌集」には六十五首、そして、「拾遺和歌集」には二十五首採録されていて、所謂、三大集随一の女流歌人ということになる。
 「新古今和歌集」に採録されている数は十五首とそれほど多くないが、「新古今和歌集」の編纂の方針が、すでに勅撰和歌集に採録されている和歌は選ばない方針であることに影響しているのであろう。


       寛平御時后宮の歌合歌
65   水のおもにあやおりみだる春雨や山のみどりをなべて染むらん
       題しらず
107  山桜ちりてみ雪にまがひなばいづれか花と春に問はなむ
       七條の妃の宮の五十賀屏風に
714   住江(すみのえ)の浜の真砂を踏むたづは久しき跡をとむるなりけり
       題知らず
721   山風は吹かねどしら波の寄する岩根は久しかりけり 
       題しらず
858  忘れなむ世にもこしぢの帰へる山いつはた人に逢はむとすらむ
       題しらず (二首)
1048  みくまのの浦よりをちに漕ぐ舟の我をばよそにへだてつるかな
1049  難波潟短かき蘆のふしのまも逢はでこの世をすぐしてよとや
       題しらず
1064  わが恋は荒磯(ありそ)の海の風をいたみしきりによする波の間もなし
忍びたる人と二人臥して
1159※  夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず
1168 逢ふことの明けぬ夜ながら明けぬればわれこそ帰れ心やはゆく
       題知らず
1241 言(こと)の葉のうつろふだにもあるものをいとど時雨の降りまさるらん
       題知らず 
1257 更級(さらしな)や姨捨山の有明のつきずもものを思ふころかな
1381 春の夜の夢にありつと見えつれば思ひ絶えにし人ぞ待たるる
       題しらず
1408   思ひいづや美濃のを山のひとつ松ちぎりしことはいつも忘れず
       亭子院下りゐ給はんとしける秋よみ侍りける
1720 白露は置きて替れどももしきのうつろふ秋はものぞ悲しき

 これは「新古今和歌集」入集の伊勢の十五首である。小野小町の入集数六首に比して、それを凌駕している。因みに、「古今和歌集」の入集数は、伊勢、二十二首、小町、十八首で、両者は拮抗している。
 伊勢も小町も、恋歌の名手として知られているが、上記の「新古今和歌集」所収の句は、恋歌のみならず、オールラウンドの「女貫之」(紀貫之に匹敵する女流歌人)という雰囲気でなくもない。
 上記の十五首は、その殆どが「題知らず」なのだが、これが私家集の『伊勢集』になると、長文の詞書が付してある。その第一部を占める最初の歌群は三十二首から成り、その冒頭の詞書は、次のようなものである。

【 いづれの御時にかありけむ、大御息所(おほみやすんどころ)ときこゆる御局に、大和に親ありける人さぶらひけり。親いと愛(かな)しうして、男などもあはせざりけるを、
御息所の御せうと、年ごろ言ひわたりたまふを、しばしはさらに聞かざりけるに、いかがありけむ、親いかが言はむと嘆きたりけるを、年頃へにければ聞きつけてけり。されど縮世(すくせ)こそはありけめとて、ことに言はざりけり。……  】
 (『王朝女流歌人抄・清水好子著・新潮社』「伊勢」)

 これは、紛れもなく、『源氏物語』の冒頭の書き出し部分と一致して来る。

【 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひあがりたまへる御方方、めざましきものにおとしめねたみたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちはましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。…… 】 (『新編日本古典文学全集20 源氏物語①』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html

伊勢(いせ) 生没年未詳

伊勢の御、伊勢の御息所(みやすどころ)とも称される。藤原北家、内麻呂の裔。伊勢守従五位上藤原継蔭の娘。歌人の中務の母。生年は貞観十六年(874)、同十四年(872)説などがある。没年は天慶元年(938)以後。
若くして宇多天皇の后藤原温子に仕える。父の任国から、伊勢の通称で呼ばれた。この頃、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻し、一度は父のいる大和に帰る。再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受けたようであるが、やがて宇多天皇の寵を得、皇子を産む(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)。しかしその皇子は五歳(八歳とする本もある)で夭折。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務を産む。
延喜七年(907)、永く仕えた温子が崩御。哀悼の長歌をなす。天慶元年(938)十一月、醍醐天皇の皇女勤子内親王が薨じ、こののち詠んだ哀傷歌があり、この頃までの生存が確認できる。
歌人としては、寛平五年(893)の后宮歌合に出詠したのを初め、若い頃から歌合や屏風歌など晴の舞台で活躍した。古今集二十三首、後撰集七十二首、拾遺集二十五首入集は、いずれも女性歌人として集中最多。勅撰入集歌は計百八十五首に及ぶ。家集『伊勢集』がある。特に冒頭部分は自伝性の濃い物語風の叙述がみえ、『和泉式部日記』など後の女流日記文学の先駆的作品として注目されている。三十六歌仙の一人。


(追記) 「 伊勢日記私注(一)・松原輝美稿」(高松短期大学紀要第十七号)

https://www.takamatsu-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/12/17_II_01-20_matsubara.pdf

「 伊勢日記私注(二)・松原輝美稿」(高松短期大学紀要第十七号)

file:///C:/Users/yahan/Downloads/AN00138796_17_21_37%20(2).pdf

伊勢系譜図.jpg


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最晩年の光悦書画巻(その十一) [光悦・宗達・素庵]

(その十一)草木摺絵新古集和歌巻(その十一・藤原実方朝臣)

花卉五.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-5)(藤原実方朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 上記の左側が、藤原実方の次の一首である。

中々に物思ひそめて寝ぬる夜ははかなき夢もえやは見えける(新古1158)

(釈文)中々尓物思曽め天年多る夜ハハ可那幾遊免もえやハ見え介る

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanekata.html

    題しらず
中々に物思ひそめて寝ぬる夜ははかなき夢もえやは見えける(新古1158)
【通釈】中途半端に恋心を抱き始めた頃は、夜寝ても、はかない夢での逢瀬さえ見ることができようか。
【語釈】◇中々に なまじっか。かえって。◇はかなき夢もえやは見えける はかない夢での逢瀬さえ、かなわない。あれこれ悩んで眠ることが出来ず、夢も見られない、ということ。

藤原実方(ふじわらのさねかた) 生年未詳~長徳四(998)

小一条左大臣師尹の孫。侍従定時の子。母は左大臣源雅信女。子には朝元(従四位下陸奥守)ほか。父が早世したため、叔父藤原済時の養子となる。左近将監・侍従・右兵衛佐・左近少将・右馬頭などを経て、正暦二年(991)、右近中将。同四年、従四位上。同五年、左近中将。長徳元年(995)、陸奥守に任ぜられ、三年後の長徳四年、任地で没した。四十歳前後であったと見られる。
実方の陸奥下向には様々な伝説がつきまとい、『古事談』『十訓抄』などは、侮蔑的な発言をした藤原行成に対し殿上で狼藉をはたらき、一条天皇より「歌枕見て参れ」との命を下されたとする。またその死について『源平盛衰記』などは、出羽国の阿古耶(あこや)の松を訪ねての帰り道、名取郡の笠島道祖神の前を騎馬で通過しようとして落馬し、その傷がもとで亡くなった、とする。
寛和二年(986)六月の内裏歌合に出詠するなど、若くして歌才をあらわし、円融・花山両院の寵を受けた。当代の風流才子として名を馳せ、恋愛遍歴も華ばなしく、清少納言・小大君らとの恋歌の贈答がある。また源宣方・藤原道信・道綱・公任らと親交があった。
拾遺集初出。勅撰入集六十七首。家集『実方朝臣集』がある(以下「実方集」と略)。中古三十六歌仙。


 『菟玖波集(下・巻十四)』に、藤原公任(前大納言公任)と藤原実方(実方朝臣)との短連歌(二句掛合・唱和)が収載されている。

      殿上のをの子ども桂川に逍遥し侍るけるに、
     夜に入りて帰るとて、川を渡り侍るに、星
     の影の水にうつりて見えければ、
 水底にうつれる星の影見れば         前大納言公任
     と侍るに
1387 天の戸わたる心地こそすれ          実方朝臣

 「桂川」は、「嵐山周辺および上流域では『大堰(おおい)川』または『大井川』」(大堰と大井は同義)、嵐山下流域以南では「桂川」または「葛河(かつらがわ)」と称されるようになった。嵐山の「渡月橋からほんのわずか下流に桂の里があって、桂離宮がり、桂のひとびとは古来、桂川とよんできた」ことに由来がある。
 「殿上のをの子(男子)」は、「『公卿〔くぎょう〕・殿上人〔てんじょうびと〕・地下〔じげ〕・庶人〔しょにん〕』」の「殿上人」(昇殿を許された五位以上の人)と「蔵人」(位階に関係なく天皇の側周りの用を勤める蔵人など)の意であろう。
 この「校注」(福井久蔵校注)に、「星と天の戸寄合。実方集、公任集には所見なく、小大君集に載っている」とある。
 この「寄合」は、「連歌・俳諧の付合(つけあい)で、前句の中の言葉や物に縁のあるもの。例えば、松に鶴、梅に鶯など」の用例で、ここでは、「前句・付句にある言葉の関連性のある用語」として、の縁語」(修辞法の一つで、一つの言葉に意味上縁のある言葉を使って表現に面白みを出すこと)の例として「星と天の戸」が「寄合語(掛合語)」になっているということであろう。
 「天の戸」は、「天の岩戸」(「万葉集・四四六五)、「日月の渡る空の道。大空」」(「古今集・秋上」)、「天の川の川門(かわと)」(「後撰集・秋上)」の意などあるが、ここは「天の川の川門」の意であろう。そして、前句の「星」と付句の「天の川」とが「掛合語」「「寄合語」「縁語」で、この「掛合」(付合)は「星合」(陰暦 七月 七日 の夜、 牽牛・織女 の 二つ の星が 出合う)の二句(「連歌」の前句と付句、「短歌」の「上の句」と「下の句」)ということになろう。
 「新古今和歌集巻第四秋歌上」の「星合」の歌の、次のとおりである。

「新古今和歌集巻第四秋歌上」の「星合」の歌

313 大空をわれもながめて彦星の妻待つ夜さへひとりかも寝む (紀貫之)
314 この夕べ降りつる雨は彦星のと渡る舟の櫂のしづくか   (山辺赤人)
315 年をへてすむべき宿の池水は星合の影も面なれやせむ   (権大納言長家)
316 袖ひちてわが手にむすぶ水の面に天つ星合の空を見るかな (藤原長能)
317 雲間より星合の空を見わたせばしづ心なき天の川波    (祭主輔親)
318 七夕の天の羽衣うち重ね寝る夜涼しき秋風ぞ吹く     (太宰大弐高遠)
319 七夕の衣のつまは心して吹きな返しそ秋の初風      (小弁)
320※ 七夕のと渡る舟の梶の葉に幾秋書きつ露の玉章     (皇太后宮大夫俊成)
321 ながむれば衣手涼し久方の天の河原の秋の夕暮れ     (式子内親王)
322 いかばかり身にしみぬらむ七夕のつま待つ宵の天の川風  (藤原兼実)
323※ 星合の夕べ涼しき天の川もみぢの橋を渡る秋風     (権中納言公経)
324 七夕の逢ふ瀬絶えせぬ天の川いかなる秋か渡りそめけむ  (待賢門院堀河)
325 わくらばに天の川波よるながら明くる空には任せずもがな (女御徽子女王)
326 いとどしく思ひけぬべし七夕の別れの袖における白露   (大中臣能宣朝臣)
327 七夕は今や別るる天の川川霧たちて千鳥鳴くなり     (紀貫之)

 特に、※の、「320※」(藤原俊成)と「323※」(藤原公経)の歌は、上記の公任と実方の短連歌の「本歌・派生歌」のような「参考歌」ということになろう。
 なお、下記のアドレスで、実方の「殿上のをのこども、花見むとて東山におはしたりけるに」の詞書のある「撰集抄」(鎌倉時代の仏教説話)に収載されている歌も紹介されている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanekata.html

【 昔、殿上のをのこども、花見むとて東山におはしたりけるに、俄に心なき雨ふりて、人々げにさわぎ給へりけるに、実方の中将、いとさわがず、木の本に立ち寄りて、
桜がり雨はふりきぬおなじくは濡るとも花のかげにやどらむ(撰集抄)
  と詠みて、かくれ給はざりければ、花よりもりくだる雨に、さながらぬれて、装束しぼりかね侍り。此の事、興有ることに人々おもひあはれけり。
【通釈】桜狩しているうち、雨は降ってきた。同じことなら、濡れるにしても、花の陰に宿ろう。
【補記】「桜がり」は桜の花を求めて野山を逍遥すること。この歌は拾遺集に読人知らずの歌として載り(第五句「かげに隠れむ」)、実方の作とは思えないが、彼の風流士ぶりを伝える有名な歌であるので、参考として掲げておく。 】

 また、実方と清少納言との関係を匂わせている次の二首も紹介されている。

【  清少納言、人には知らせで絶えぬ中にて侍りけるに、
   久しう訪れ侍らざりければ、よそよそにて物など言
   ひ侍りけり、女さしよりて、忘れにけりなど言ひ侍
   りければ、よめる
忘れずよまた忘れずよ瓦屋の下たくけぶり下むせびつつ(後拾遺707)
【通釈】忘れないよ、返す返すも忘れることなどないよ。瓦を焼く小屋の下で煙に咽ぶように、ひそかな思いに咽び泣きをしながら、あなたのことを変わらず恋しく思っているよ。
【語釈】◇忘れにけり あなたは私をお忘れになったのね。◇瓦屋(かはらや) 瓦を焼く窯。「変はらず」を掛ける。◇下むせびつつ ひそかにむせび泣きをしながら。「むせび」は煙の縁語で、喉がつまる意もある。
【補記】清少納言とのひそかな仲が絶え、長く訪問することがなかった後、よそよそしく会話を交わす機会があったが、その時清少納言に「あなたは私を忘れたのね」と言われて詠んだ歌。清少納言の返しは「葦の屋の下たく煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ」。

    元輔が婿になりて、あしたに
時のまも心は空になるものをいかで過ぐしし昔なるらむ(拾遺850)
【通釈】しばし別れている間も、これ程心はうわの空になるというのに、あなたと結ばれる以前、滅多に逢えなかった頃は、一体どんなふうに過ごしていたというのだろう。
【語釈】◇元輔 清原元輔か。だとすれば実方は清少納言と結婚したことになる。但し、この「元輔」を藤原元輔とみる説もある。 】

(追記メモ) 「公任と実方の短連歌(星合)」と「小大君集」など

      殿上のをの子ども桂川に逍遥し侍るけるに、
    夜に入りて帰るとて、川を渡り侍るに、星
    の影の水にうつりて見えければ、
 水底にうつれる星の影見れば         前大納言公任
     と侍るに
1387 天の戸わたる心地こそすれ          実方朝臣

 「菟玖波集」所収のこの短連歌(付合)が、『実方集』や『公任集』ではなく『子大君集』に搭載されているということは(『菟玖波集』の「福井久蔵校注」)、次のアドレスなどのものが参考となる。

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3984/YMN005401.pdf

「実方集と私家集(三)・仁尾雅信稿」

https://core.ac.uk/download/pdf/268267875.pdf

「王朝歌人と陸奥守(久下裕利稿)」
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最晩年の光悦書画巻(その十) [光悦・宗達・素庵]

(その十)草木摺絵新古集和歌巻(その十・三条院女蔵人左近=小大君)

(4-5)

花卉五.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-5)(三条院女蔵人左近=小大君)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この右側の歌が、三条院女蔵人左近(小大君)の、次の一首である。

人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ(新古1156・小大君)

(釈文)人心う須華曽免乃か里衣左天多尓安ら天色や可ハら無(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

    題しらず
人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ(新古1156)
【通釈】人の心は薄花染めの狩衣――その薄い色さえ保てず、たちまち褪せてしまうのでしょうか。
【補記】「花染め」は露草の花で縹(はなだ)色に染めること。もともと色落ちしやすい。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中の人の心は花ぞめのうつろひやすき色にぞありける

 西行の「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな」から、この小大君の「人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ」の流れは、西行の一首の「わが心」と、小大君の一首の「人ごころ」とが相通ずるという配慮からなのかも知れない。西行と小大君の接点というのはない。時代史的にも、小大君が平安中期の歌人とすると、西行は平安末期から鎌倉初期の歌人ということになる。
 前回の西行に関しても、「『美福門院加賀と待賢門院加賀』・『待賢門院とその女房たち』そして『上西門院と堀川の局・兵衛の局』」(追記メモ三)で、西行を巡る女房歌人たちの一端に触れてきたが、この小大君も、「三条院女蔵人左近」時代に、「藤原朝光・平兼盛・藤原実方・藤原公任」等々の、その当時の錚々たる男性歌人たちとの贈答歌が今に遺されている。
 しかし、その晩年の頃には、次のような、寂昭上人(大江定基)が亡くなったときの「釈教歌」も遺されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

    わづらひ侍りける比、寂昭上人にあひて戒うけけるに、
    ほどなくかへりければ
ながき夜の闇にまどへる我をおきて雲がくれぬる空の月かな(続後拾遺1298)

【通釈】無明長夜に惑う私を置いて、去ってしまわれた上人様よ。
【補記】釈教歌。「寂昭上人」は俗名大江定基。三河入道とも。長保五年(1003)、入宋。『小大君集』では第二句「やみにまよへる」、第五句「夜半の月かな

 小大君の歌の詞書にある「寂照上人」(大江定基)は、『宇治拾遺物語・第五九話』の「三川入道遁世之間事」や『今昔物語集・巻第一九』の「参河守大江定基出家語第二」などで知られている、平安時代中期の和歌に秀で図書頭・三河守を歴任した文人の筆頭格の人物である。
 これらの「寂照上人」(大江定基)に関しては、下記アドレスの「寂照説話の視点から(薗部幹夫稿)」が参考となる。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17520/ktk034-03.pdf

 ここでは、平安時代の「女房文学」と「隠者文学」という観点(「女房文学から隠者文学へ(折口信夫稿)」)で、「女房歌人・三条院女蔵人左近」と「隠者出家僧文人・寂照上人」との、その交流の一端が見えて来る。
 こういう「女房歌人」と「隠者出家僧歌人」との交流の一端は、次の「待賢門院堀河と西行」との、次のよう贈答歌も見られる。

    西行法師を呼び侍りけるに、まかるべきよし
    は申しながら、まうで来(こ)で、月の明かり
    けるに、門の前を通ると聞きて、よみて遣は
    しける
1976 西へゆくしるべと思ふ月影の空頼めこそかひなかりけれ(待賢門院堀河「新古今」)
(西方極楽浄土へ行く案内者だと思っていた貴方の空約束は、まことに甲斐の無いことでし
た。)
返し
1977 立ち入らで雲間を分けし月影は待たぬけしきや空に見えけん(西行法師「新古今」
(門内に立ち入らないで雲間を分けて過ぎた月の光は、待っていない様子が空に見えたから
でしょうか。)

(追記メモ一)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

小大君(こおおきみ) 生没年未詳 別称:三条院女蔵人左近

出自未詳。三条天皇(在位1011-1016)の皇太子時代、女蔵人として仕える。藤原朝光・源頼光・藤原実方等と交渉があった。通称は「左近」。「小大君」は「こだいのきみ」と訓む説もある(本居宣長)が、「こおほきみ」「小おほきみ」などと作者名表記した古写本があるので、「こおほきみ」が正しいようである。
家集『小大君集』がある。同集には『小町集』と重複する歌があり、また『小町集』の別の二首は『栄花物語』に小大君の作として載り、小町と小大君の間で歌の伝承に混乱があったとみられる。拾遺集初出。勅撰入集二十一首。三十六歌仙・女房三十六歌仙。

(追記メモ二)平安・鎌倉(※)時代の女流歌人(「女房三十六歌仙」=1~36)

(三十六歌仙)(中古三十六歌仙)(百人一首)(新三十六歌仙)
1 小野小町   〇           〇 9     
2 伊勢     〇           〇19
3 中務     〇
4 斎宮女御   〇
5 小大君    〇
(三条院女蔵人左近)
6 右大将道綱母        〇    〇53
7 馬内侍           〇
8 赤染衛門          〇    〇59
9 和泉式部          〇    〇56
10 紫式部           〇    〇57
11 伊勢大輔             〇    〇61
12 清少納言          〇    〇62
13 相模              〇     〇65
14 右近                 〇38 
15式子内親王              〇89     〇
16周防内侍               〇67
17待賢門院堀河             〇80
18二条院讃岐              〇92
19祐猶子内親王             〇72
20殷富門院大輔             〇90     〇
21大弐三位(藤原賢子)            〇58
22高内侍(儀同三司母)        〇54
23小式部内侍                  〇60
24宮内卿※                      〇
25俊成卿女※                     〇
26宜秋門院丹後
27嘉陽門院越前※
28小侍従※
29後鳥羽院下野※
30弁内侍※
31少将内侍※
32土御門院小宰相※
33八条院高倉※ 〇
34後嵯峨院中納言典侍(典侍藤原親子)※
35式乾門院御匣※
36藻璧門院少将※                   〇

(追記メモ三)鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十)
(その二十)『鶴下絵和歌巻』(16小大君)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-03

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最晩年の光悦書画巻(その九) [光悦・宗達・素庵]

(その九)草木摺絵新古集和歌巻(その九・西行)

(4-2)

花卉四の二.jpg
花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

(4-3)

花卉四-三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分図) 本阿弥光悦筆 (4-3) (西行)

 上記の上の図(4-2)の左側の三行が西行の歌である。それを拡大して、西行の歌の全体が見られるものが、上記の下の図(4-3)である。

 逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行『新古今1155』)

(釈文)あふま天濃い乃知も可なとおも日しハ久やし可利介る我心可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

  題知らず
逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行法師『新古今1155』)
(逢うまでの命がほしいものだと思ったのは、まことにくやしかったわたしの心であることよ。)

 この西行の一首は、『山家集』・「恋歌」の部の「恋歌百十首」に、「あふまでの命もがな
と思ひしは悔しかりける我がこころかな」の歌形で収載されている。この『山家集』には西行の連歌は収載されていない。
 西行の数少ない連歌が収載されているのは、「聞書集」と「聞書残集」(『岩波文庫山家集』収載「聞書集」「残集」)とである。
 その「聞書集」に、「藤原俊成」宅に「西行・西住・寂然(藤原頼業)」等が集い、次のような「俊成と西行」との連歌(付け合い)を遺している。

【    五条の三位入道、そのかみ大宮の家に住まれける折、
     寂然・西住なんどまかりあひて、後世の物語申しける
     ついでに、向花念浄世と申すことを詠みけるに
心をぞやがてはちすに咲かせつる今見る花の散るにたぐへて (西行)
     かくて物語中しつつ連歌しけるに、扇に桜をおきて、
     さしやりたりけるを見て         家主 顕広(俊成)
梓弓はるのまとゐに花ぞ見る              (俊成)
     とりわき附くべき由ありければ
やさししことに猶ひかれつつ              (西行)      】
                       (「聞書集」(『岩波文庫山家集』)

 上記の記述中の「五条の三位入道」は、「藤原俊成のこと。五条は五条東京極に住んでいたことに因る。三位は最終の官位を指している」。「家主 顕広」も俊成のことで、「仁安二年(一一六七)十二月二十四日に顕広という名を俊成と改めているので(時に俊成五十四歳、西行五十歳、それ以前の作)ということになる。
 この仁安二年(一一六七)というのは、西行にとって大きな節目の年で、「平清盛が太政大臣となった」年である。その三年前に、西行の『山家集』にしばしば登場する「新院」こと「崇徳上皇」が讃岐で崩御し、西行は、その慰霊のため、仁安三年(一一六八)に、「中国・四国への旅、崇徳院慰霊、善通寺庵居」を決行する。
 すなわち、釈阿(俊成)と西行(円位)とは、保元元年(一一五六)の「保元の乱」(崇徳上皇讃岐に配流)、そして、「平治の乱」(京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。)という、大動乱時代に、その絆を深め合った「真の同志」(歌友)だったのである。

ここで、これらの「聞書残集」(『岩波文庫山家集』の連歌)を理解するためには、次の
アドレスの、「西行の連歌(窪田章一郎稿)」が、その足掛かりとなってくれる。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf

 そこで、「顕広(俊成)の句(「梓弓はるのまとゐに花ぞ見る」)は眼前に即して作った、唱和をもとめる短連歌で、それを西行に名ざしで求めたのである。長連歌の発句にもなりうるもので、穏やかな、明るい、整った句である。寂然、西住たちも同座している楽しげな席であったから、二句のみに終らずに長く連らねられたことも想像されるが、これも何ともいえない」としている。
 さらに、「西行の附句は、『やさししこと』は、矢を挿して負う意で、前句の『梓弓』『まと』と縁を持ち、また『ひかれつつ』は弓を可く意で縁を持っているのは、連歌の常道である。もう一つ『やさししこと』」、語として無理であるが、優しいことの意をもっていると採っていいだろう。この方が一句の意としては表立っている。諸友とともに春のたのしい集いに花を見て、出家の身ではあるが在俗のころとかわらずに風雅の境地に猶心ひかれているという意になろう」と続けている。
 また、「俊成と西行との交際は御裳濯川歌合に俊成によって記されたように『天承の頃ほひ西行(十四歳)より同じ道にたづさはり、仙洞の花下、雲井の月に見なれし友)であったので、西行の附句は俊成の胸にひびいてゆくものをもっていた筈で、二人のみに交流する個人的な感情のあったことがわかる」と記している。

大原三寂・御子左家系図.jpg

「大原三寂・御子左家系図」(『岩波新書西行(高橋貞夫著)』)

 『古今著聞集(巻十五、宿執第二十三)』に、「西行法師、出家よりさきは、徳大寺左大臣の家人にて侍る」と記されている。西行の出家は、保延六年(一一四一)、二十三歳のときであるが、それ以前は「徳大寺家の家人」で、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことも記録に遺されている。
 この徳大寺家と俊成の「御子左家は、上記の系図のように近い姻族関係にあり、そして、この御子左家と「常盤三寂(大原三寂)」(「寂念・寂然・寂超」の三兄弟)で知られている「常盤家」と、寂超(藤原為経)の出家で離縁した妻の「美福門院加賀」が俊成の後妻に入り、「藤原定家」の生母となっているという、これまた、両家は因縁浅からぬ関係にある。
 さらに、この美福門院加賀と寂超の子が「藤原隆信」(歌人で「肖像画=「似せ絵」の名手)なのである。この美福門院加賀は、天才歌人・藤原定家と天才画人・藤原隆信の生母で、御子左家の継嗣・定家は、隆信の異父弟ということになる。
 上記の「大原三寂・御子左家系図」の左端の「徳大寺家」の「実能(さねよし)」に、西行は、佐藤義清時代は仕え、この実能の同母妹が「待賢門院璋子(しょうし)」(鳥羽天皇の皇后(中宮)、崇徳・後白河両天皇の母)なのである。
 この待賢門院は、幼女の頃から白河上皇の鍾愛の下に育てられ、鳥羽天皇の中宮になって生まれた子の「崇徳天皇」は、鳥羽天皇に「叔父子(祖父の白河上皇の子)として忌避されていた。大治四年(一一二九)に、「治天の君」として院政を敷いた白河上皇が崩御すると、待賢門院は立場は弱くなり、鳥羽天皇は、長承二年(一一三三)に、藤原長実(六条藤家の顕季の長子)の女「美福門院得子(とくし)」を後宮に迎え入れ、西行が出家した翌々年(永治二年=一一四二)に、待賢門院は出家する。
 待賢門院は、西行より十七歳も年長であり、西行の出家の一つの「悲恋(高貴なる女人)」
説の相手方と目する見方もあるが、それは「西行伝説」の域内に留めるべきものなのかも知れない。しかし、西行が、「美福門院派、近衛天皇(美福門院の子・夭折)・後白河院(待賢門院)派」ではなく、「待賢門院派、崇徳院派」であることは、それは動かし難い事実に属することであろう。
 そして、上記の系図の右端の「常盤家」の為忠は、白河院の側近の一人であり、その子の「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」の三兄弟も、西行と同じく、「待賢門院派、崇徳院派」と解するのが自然であろう。
 同様に、上記の「御子左家」の俊成も、「六条藤家」出の「美福門院」派よりも「待賢門院」派と解するのが、これまた自然であろう。
 ここで、先の「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)の「俊成と西行」との連歌(付け合い)に戻って、「寂然・西住なんどまかりあひて」の「西住(さいじゅう)法師」は、俗名は「
源季正(すえまさ)」という武士で、これまた、西行の出家前からの友人なのである。西行は、その『山家集』では「同行(どうぎょう)に侍りける上人」と「同行」(いっしょに修行する人)という詞書を呈している。この西住については、次のアドレスに詳しい。

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

【 為忠が常磐に為業侍りけるに、西住・寂然侍りて、
  太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
  罷りたりけり。有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心の隈は知られぬれ入らで明けぬる月を眺めて (西行)

  かくて静空・寂昭なんど侍りければ、物語り申しつつ、
  連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、
  寂然まで来て背中を合せてゐて連歌しにけり。
思ふにも後合せになりにけり             (寂然)                  
  この連歌異人つくべからずと申しければ
裏返りたる人の心は                 (西行)

  後の世の物語おのおの申しけるに、人なみなみに
  その道には入りながら、思ふやうならぬ由申して
人まねの熊野詣でのわが身かな             静空

  と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして            (西行)

  雨の降りければ、檜笠、蓑を着てまで来たりけるを、
  高欄に掛けたりけるを見て                
檜笠着る身のありさまぞあはれなる           西住

  むごに人つけざりければ、興なく覚えて
雨しづくとも泣きぬばかりに             (西行)        
   
  さて明けにければ各々山寺へ帰りけるに、
  後会いつとしらずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ又逢ふことのさだめなの世や(西行)  】
 (「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)

 この「西行・西住・寂然らの連句」は、『聞書残集』に収載されているものである。この「為忠が常磐に為業侍りけるに」の「為忠が常盤に」は、「藤原為忠の太秦の常盤邸に」の意で、「為業侍りけるに」の「為業」は「常盤(大原)三寂」の「二男・為業=寂念」で、まだ、出家前のことを意味するのであろう。そして、「西住・寂然」の「西住・寂然(四男・頼業)」は、「西行の刎頸の親友」ということになる。
 この「静空」については、「静空は誰れともわからぬが、尾山氏(尾山篤二郎氏)は為忠の長男為盛かといっている。出家後の西行の文学のグループのおもだった人々がこの日は集っている」と、「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、記述されている。
 また、そこで、この「西行・西住・寂然らの連句」について、「この日の西行は心の深さよりはユーモラスな軽妙な味わいを中心として居る。『そり』は剃りで剃髪した僧形のことをいっていると思われ、言葉そのものに無理のあることが興趣を呼んでいるといえよう。西住の句は『身の』に蓑を詠みこんで居り、勾欄にかけられている檜笠と蓑からしたたる雨の雫を、人間化して泣く涙としているところにューモアがある。『あはれなる』を『泣きぬばかり』と受けとめて人間の姿にしたのは、超俗の人がこの一時だけ俗界にかえって心を遊ばせていることが思いあわされて、ユーモアも軽くないものとして味わわれる。夜が明けて別れぎわに『帰りゆくもとどまる人も』と詠んだ時は、ふたたび山寺の生活気分にたちもどっていたのである」との、この評の一端を示されている。


(追記メモ一) 『菟玖波集』における「西行の連歌」関連

「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、「西行の連歌は菟玖波集にも一句も採りいれられず、従来の連歌研究もいまだ扱っていない」というのである。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf
 ↓
 しかし、これは、戦前の昭和五年(一九三〇)の「校本つくば集新釈上巻」(福井久蔵著・早稲田大学出版)当時に基づく論孜なのかも知れない。
 戦後の昭和二十六年(一九五一)に刊行された『日本古典全集 筑波集(上・下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』の、その下巻の「巻十二」と「巻十九」に、次のような、西行の連歌が収載されている。

   空にぞ冬の月は澄みける
    と侍るに
1187 舎(やど)るぺき水は氷にとぢらへて  西行法師 (『菟玖波集・下・巻十二』)
(月が映えるべき水は氷ってしまったので、冬月は空に澄わたっていると前後して見る句)
   (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十二」)

  ひろき空にすばる星かな
1948 深き海にかがまる蝦(えび)の有るからに 西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(深い海に身体を十分伸ばしてよいのに、海老はなぜあのように腰をかがめるかと禅の問答のような付けである。参考: 「すばる星」=昴(すばる)=統(す)ばる=集まって一つになる。すまる=すぼまる=窄まる=すぼむ→すばる星。 「深き海」と「広い空」、「すばる星」と「すぼむ蝦」との対比。)
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)

菟玖波集.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_02110/he05_02110_0007/he05_02110_0007_p0027.jpg

     修行し侍るりけるに、奈良路をゆくとて、
     尾もなき山のまろきを見て
   世の中にまんまろにこそ見えにけれ  西住法師
     と侍るとて
1956 あそこもここもすみもつかねば    西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(奈良路の山の形がまんまるなのを見て、円に対して四角のものはないということを利かせようとして設けた付合。参考: 「まんまろ」→まんまろ頭→坊主頭→僧=西住法師と西行法師。西行の別号の「円位法師」を掛けているか。「まんまろ」と「四角の四隅」→融通無碍と四角四面との対比。 )
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


(追記メモ二)『千載和歌集』の「西住・寂然」の歌(『新日本古典文学大系10 千載集』)

(西住法師)

    行路ノ雪といへる心をよめる
463 駒のあとはかつふる雪にうづもれてをくるヽ人やみちまどふらん
(駒の足跡は次から次へと降る雪に埋もれて、後から遅れて来る人は、道に迷うのではなかろうか。)

     夏のころ越の国へまかりける人の、秋はかならず
     上りなん、待てといひけれど、冬になるまで上り
     まうでこざりければ、つかはしける
493 待てといひて頼めし秋もすぎぬればかへる山路の名ぞかひもなき
(待っていて下さいと、私をあてにさせた約束の秋も過ぎてしまったので、帰って来る山路という帰山の名もそのかいがありませんよ。)

     乍臥無実恋といへる心をよめる
753 手枕のうゑに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな
(私の手枕の上に乱れている恋人の朝寝髪、それなのに実は打ち解けていないということを他人は知らないだろうな。参考: 乍臥無実恋=臥シ乍ラ実ノ無キ恋=共に臥しながら男女の関係に至らなかった恋。)

1140 まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける
(睡眠中にそのまま死を迎えたらどうしたらよかろう。寝覚めというものにこそ無いはずの命なのであったよ。)

(寂然法師)

230 秋はきぬ年もなかばにすぎぬとや荻吹く風のおどろかすらむ
(秋が来た。一年も半ばまで過ぎたと言ってであろうか。荻に吹く風が目を覚まさせるようだ。)

     西住法師みまかりける時、終り正念なりけるよしを聞きて、
     円位(西行)法師のもとへつかはしける
604 乱れずと終りを聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
(乱れるところがなかった、とその臨終の様を聞けるのは嬉しいことです。そうとはいっても、死別の悲しみは慰められないのですが。)

664 みちのくの信夫もぢずり忍びつヽ色には出でじ乱れもぞする。
(みちのくの信夫もじずりではないが、忍び忍びしてわが恋心を表にあらわすまい。)

      世を背(そむ)きて又の年の春、花を見てよめる
1068  この春ぞ思ひはかへすさくら花空(むな)しき色に染めし心を
(この春にこそ、桜花の空しい色に染めて執着していた心を翻して、色即是空と悟ることだ。参考: 思ひかへす悟りや今日はなからまし花にそめおく色なかりせば/西行)

      題不知
1069  世の中を常なきものと思はずはいかでか花の散るに堪へまし
(この世を無常と思わなかったら、どうして花の散ることに堪えられるだろうか。無常の認識に立つからこそ散華のあわれに堪えられるのだ。)

      火盛久不燃
1251  煙(けぶり)だにしばしたなびけ鳥辺山たち別れにし形見とも見ん
(荼毘の煙だけでもしばらくの間たなびいていて欲しい。鳥辺山よ、せめてそれを死別したあの人の形見と見ようと思うから。参考: 「火盛久不燃」=罪業応報経の偈の一節。栄枯盛衰の無常をいう。)

(追記メモ三) 「美福門院加賀と待賢門院加賀」・「待賢門院とその女房たち」そして「上西門院と堀川の局・兵衛の局」

(美福門院加賀)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaga_b.html

1232 よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ(『新古今・藤原俊成』)
       返し
1233 たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(『新古今・藤原定家朝臣母=美福門院加賀)

(待賢門院加賀)→ 大宮の女房加賀

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4412.html?sp

799 かねてより思ひし事ぞ伏柴のこるばかりなる歎きせむとは(『千載集・待賢門院加賀)

(待賢門院とそのの女房たち)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇中納言の局
〇堀川の局
〇兵衛の局
堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌が山家集の中に三首あります。
〇帥の局
〇加賀の局→大宮の加賀 
西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、  西行の歌は他の人の代作としてのものです。寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられています。 ○紀伊の局
〇安芸の局
〇尾張の局
〇新少将
源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

(上西門院と堀川の局・兵衛の局)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇上西門院
〇堀川の局・兵衛の局
二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあとに、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えてました。1160年、上西門院の落飾に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと考えられています。上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなったようです。
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最晩年の光悦書画巻(その八) [光悦・宗達・素庵]

(その八)草木摺絵新古集和歌巻(その八・源正清朝臣)

花卉四の二.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この図(4-2)の中央部の歌は、次の源正清の一首である。

恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)

(釈文)恋し左尓介ふ曽た徒ぬ累お具山乃日可介濃露尓袖ぬらし徒々(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

    頭中将に侍りける時、五節所の童女にもの申し
    初めて後、尋ねて遣はしける
恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)
(恋しさで今日という日に尋ねることです。奧山の日陰に生えるひかげのかずらの露に袖は濡れながら。)

 「頭中将」とは、「蔵人所(殿上の諸事を切り回す役所)の頭(長官)」で、「中将」(四等官制の次官)を兼ねていること。「五節」は、「嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭( にいなめさい)に行われた五節の舞を中心とする宮中行事」のことで、「五節の舞姫」(五節の舞をまう舞姫)の、その「童」(舞姫の付き添いの幼い女性)ということになる。
 この作者の「源正清」は、『新古今和歌集』の入集数は、この一句だけで特に名の知れた歌人ということでもない。そして、前の歌の作者・式子内親王が、後白河天皇に連なる皇族とすると、この源正清は、醍醐天皇に連なる皇族の一人で(追記メモ一)、年代的にも、式子内親王の大先達で、この『新古今和歌集』 の「式子内親王→源正清朝臣→西行」という流れは、その作者名の流れからすると、「式子内親王(皇族)→源正清朝臣(皇族から臣籍の源の姓)→西行(北面の武士から出家僧)」という流れなのかも知れない。
 しかし、この「式子内親王→源正清朝臣」の流れは、その「作者間」の事情を配慮したというものではなく、次のとおり、「前歌(前の歌)と後歌(後の歌)」との、その両歌の「外(表面的な歌形など)と内(内面的な歌心など)」とに着目してのように思われる。

前歌(前の歌)
逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)

後歌(後の歌)
恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)

 この両歌で、「今日松が枝の」(前歌)と「今日ぞ尋ぬる」(後歌)、そして、「袖とかは知る」(前歌)と「袖は濡れつつ」(後歌)などの、この両歌の、同種の詞(文言)による「連歌(連ね歌)」、そして、それは「連歌・連句」の「付合(付け合い)」)の基礎に通ずる要領で為されているように解せられる。

【 後鳥羽院建保の比(ころ)より、白黒又色々の賦物(ふしもの)の獨(ひとり)連歌を定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻なども侍るにや。又、様々の懸物(かけもの)など出(い)だされて、おびたヾしき御会ども侍りき。よき連歌をば柿本の衆となづけられ、わろきをば栗本の衆とて、別座に着きてぞし侍りし。 有心(うしん)無心(むしん)にて、うるはしき連歌と狂句とを、まぜまぜにせられし事も常に侍り。 】(『筑波問答(二条良基著)』)

 この『筑波問答』の著者、二条良基(元応二年(一三二〇)~嘉慶二年(一三八八))は、南北朝時代、北朝方として関白、太政大臣、摂政を歴任した大政治家で、『菟玖波集』(連歌作品集)、『連理秘抄』・『筑波問答』(連歌論集)、『応安新式(連歌新式)』(連歌式目集)などを著し、連歌中興の祖として仰がれている。
 その『筑波問答』の中の上記の記述の、「後鳥羽院建保の比(ころ)より、白黒又色々の賦物(ふしもの)の獨(ひとり)連歌を定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻なども侍るにや。」というのは、後鳥羽院は、単に、歌人であるだけでなく、連歌人でもあり、藤原定家や藤原家隆等々と、「おびたヾしき御会(連歌会)」を催し、「白黒(「白と黒を詠み込む)・賦物(賦していた物を詠み込む)の獨連歌(独吟の連歌)」で、その「百韻」(百句続ける連歌)などに興じているということである。

  後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに
  乙女子がかつらぎ山を春かけて
11 かすめどいまだ峯の白雪           従二位家隆(『菟玖波集』)

 この「連歌(「前句=長句=五七五句」に対する「付句=短句=七七句)」」の作者は、従二位の藤原家隆の作である。家隆が、従二位になったのは、亡くなる二年前の嘉禎元年(一二三五)で、この時には、承久の乱に敗れた後鳥羽院は隠岐にあって、二度と帰京することは叶わないということを悟っていた、亡くなる四年前の最晩年の官職名である。
 そして、この「後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに」には、承久の乱以前の、後鳥羽院の院政時代の頃で、その「白黒賦物の連歌」というのは、連歌の各句(長句と短句)に「賦物の『黒と白』とを詠み込む連歌」ということを意味する。

 乙女子がかつらぎ山を春かけて(前句=長句=五七五句)

 この句の「かつらぎ山」は、「葛城山」と「かつら(仮髪=黒髪)山」とを掛けている。

 かすめどいまだ峯の白雪(付句=短句=七七句)

 この句の「峯の白雪」の「白」が、前句の「黒」に和しての「白」ということになる。

 しかし、こういう「賦し物連歌」の「賦し物」というのは、『古今和歌集』の「巻十 物名(ぶつめい・もののな)」、そして「連歌」は、『金葉集』の「巻十 雑下 連歌」で、その萌芽が収載されており、後鳥羽院の、この種の「賦し物連歌」というのは、それらを一段と発展させたものと言えよう。
 しかし、後鳥羽院が、『金葉集』時代の連歌の「一句づつ言ひ捨てるばかり」のものではなく、「百韻なども侍るにや」と、五十韻(五十句続ける連歌)・百韻(百句続ける)の連句形式を作り上げていった、その筆頭人物ということになろう。
 さらに、後鳥羽院は、それらの連歌会で、「よき連歌をば柿本の衆となづけられ、わろきをば栗本の衆」と名づけ、「有心(うしん)無心(むしん)にて、うるはしき連歌と狂句とを、まぜまぜにせられし事も常に侍り」と、その後の「連歌=よき(優美な)連歌=柿本衆=有心連歌」と「俳諧(連句)=わろき(滑稽)連歌=栗本衆=無心連歌」との峻別を示唆した筆頭人物であるのかも知れない。
 そして、これらの背景として、「わろき(滑稽)歌」というのは、『古今和歌集』の「巻十九 雑躰・誹諧歌」と連なっており、後鳥羽院は、それまでの勅撰集(『古今和歌集』から『千載和歌集』)を総決算して『新古今和歌集』を編纂し、さらに、それらの編纂作業を基礎として、それ以降の「和歌・連歌・俳諧(連句)・短歌・狂歌・俳句・川柳(狂句)」の世界の礎を偶発的に試行していたということも意味するのかも知れない。

後鳥羽院御時、三字中略、四字上下略の連歌に
   むすぶ契のさきの世のふし
268 夕顔の花なき宿の露のまに         前中納言定家(『菟玖波集』)

 この「連歌(「短句=七七句)に対する「長句=五七五句」」」の作者は、前中納言の藤原定家の作である。この「前中納言」の「中納言」は定家の罷官時の官職名で、罷官したのは寛喜四年(一二三二)であるが、この作は「後鳥羽院御時」の、承久の乱以前の後鳥羽院の院政時代の頃の作ということになる。
「三字中略、四字上下略の連歌」の「三字中略」というのは、上記の「短句」の「むすぶ契のさきの世のふし」の「契(ちぎり)」の「三字」の「中略」で「ちり(塵)」が賦せられている。同様に、長句の「夕顔の花なき宿の露のまに」の「夕顔(ゆふかを)」の「四字」の「上下略」の「ふか(鱶=フカ)が賦せられている。
 しかし、これは『古今和歌集』の「物名」(和歌の詠法の一種)の一種で、相互に「歌の意味内容とは関わりなく事物名を詠みこむ、遊戯性の高い知的技巧を利かせた、二重の意味は利かしていない、単なる言葉の形のみを借りている」の「連歌」(「長句」と「短句」の二句)ということになる。

後鳥羽院の御時百韻連歌に召されけるに
  御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
271 風も流るる麻のゆふしで          従二位家隆(『菟玖波集』)

 この「連歌(「長句=五七五句)に対する「短句=七七句」」」の作者は、従二位の藤原家隆の作である。この「後鳥羽院の御時百韻連歌に召されけるに」の「後鳥羽院の御時」で、後鳥羽院の院政時代に、そして、「百韻連歌」(百句続きの連歌)を実施されたときの作ということになる。それが、特殊且つ技巧を凝らした「『三字中略・四字上下略の連歌』や『白黒賦物の連歌』」ではなく、通常の「百韻」(百句続ける形式)の、その「長句と短句」と解したい。
 この長句の「御祓(みそぎ)」は、六月晦日に行う朝廷行事で白木綿や藁の形代の人形を流す儀式、そして、その「御祓川」は、その儀式を行う「賀茂川」や洛西の「紙屋川」を指している。
ここで、この「連歌(長句の作者=?、短句の作者=家隆)」に接すると、次の藤原家隆の「百人一首」を想起することであろう。

98 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける(『百人一首 98』『新勅撰集・夏・192』)

 この一首は第九勅撰集『新勅撰集』に、「寛喜元年(一二二九)女御(藤原道家の娘・藤原竴子)入内(中宮=皇后に入内)屏風(その嫁入り家具の一つ)に」との詞書が付してある。
 この寛喜元年(一二二九)には、後鳥羽院は隠岐に配流されている。そして『新勅撰集』の成立は嘉禎元年(一二三五)で、その二年後に家隆が没し、家隆没後の二年後に後鳥羽院が亡くなる。定家が没するのは仁治二年(一二四一)で、後鳥羽院が崩御した二年後のことである。
 この家隆の歌と先の家隆の連歌との関係を見て行くと、連歌の方は後鳥羽院の院政時代の承久の乱(承久三年=一二二一)以前の作で、この家隆の連歌を基礎にして、家隆は『新勅撰集』『百人一首』の入集歌を作歌したと解して差し支えなかろう。
 そして、この家隆の連歌の作と『新勅撰集』『百人一首』の一首とを同時に鑑賞して行くと様々なことが明瞭になって来る。

   御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
271 風も流るる麻のゆふしで  (『菟玖波集・夏』)

98 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける(『百人一首・98』『新勅撰集・夏』)

まず、連歌の長句の「御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん」は、「秋立つ・立秋」で、秋(旧暦=七・八・九月、新暦=八・九・十月)の、旧暦では七月一日、新暦では八月七日の頃の句ということになる。そして、この「御祓川」は季語ではないけれども、六月三十日の「六月祓(みなづきばらえ)」の行事を行う川(賀茂川など)で、その「六月祓」は夏の季語なのである。すなわち、「連歌・俳諧」の式目(ルール)からする「秋立つ」の初秋の句のような雰囲気なのであるが、「秋になったのであろうか、いや、秋にはなっていない」という句の、「六月祓(みなづきばらえ)」の夏の句のようである。
同様に、この短句の「風も流るる麻のゆふしで(白木綿の幣)」は、明瞭な季語はないけれども、この「風」は前句の「秋立つ」を受けて「秋風」(三秋)の「立秋のころ吹く初秋の秋の訪れを知らせる風」の風情であるが、前句が「六月祓」の夏の句とすると、同季の晩夏の句として鑑賞することになろう。
 そして、家隆の代表歌の一つとされている「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」の一首は、「夏のしるしなりける」で、夏の歌であることを明瞭にし、そのことを受けて、当然のように『新勅撰集・夏』の部に収載されている。この歌の鑑賞も、「風そよぐならの小川の夕暮れは」の秋の夕暮れの御祓川というよりも、「みそぎぞ夏のしるしなりける」の「六月祓」の儀式にウエートを置いて鑑賞することになろう。
 これらの種明かしは、実は、これらの歌は、『古今和歌集・夏・168』の凡河内躬恒の、次の歌の「本歌取り」の一首なのである。これらを制作順に並列して列記すると次のとおりとなる。

    みな月のつごもりの日よめる
  夏と秋と行きかふ空のかよひぢはかたへすずしき風やふくらむ
                  (凡河内躬恒『古今・夏・168)』)

御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
風も流るる麻のゆふしで   (藤原家隆『菟玖波集・夏・271』)

  風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
           (藤原家隆『百人一首・98』『新勅撰集・夏・192』)

 これらの歌は並列して、一番のポイントは、凡河内躬恒の歌の詞書(「みな月のつごもりの日」=「六月祓(みなづきばらえ)」)の「六月晦日と七月立秋」の「夏と秋と行きかふ空(夏から秋への時の流れ・その接点)」ということになる。

 ここで、改めて、二条良基が編んだ『菟玖波集』の部立を見ると、「春(巻一・二)、夏(巻三)、秋(巻四・五)、冬(巻六)、神祇(巻七)、釈教(巻八)、恋(巻九・十)」の「十巻・七部立」で、これは、後鳥羽院が中心になって編んだ『新古今和歌集』のそれの「春(巻一・二)、夏(巻三)、秋(巻四・五)、冬(巻六)、神祇(巻十九)、釈教(巻二十)、恋(巻十一・十二・十三・十四・十五)」と「賀(巻七)、哀傷(巻八)、離別(巻九)、羇旅(巻十)、雑(巻十六・十七・十八)」との「二十巻・十二部立」などの簡素化されたものと解することが出来よう。
 そして、『新古今和歌集』(「和歌集」)から『菟玖波集』(「連歌集」)への変遷の流れは、
勅撰和歌集の『古今和歌集』から『新続古今和歌集』の、いわゆる「二十一代集」の変遷
の流れと軌を一にするものであって、それらは、全く、別の世界のものではなく、例えば、「百首歌」(和歌を「百首」まとめて詠むこと)から、「百韻」(和歌を「長句=五七五句」と短句(七七句)と分けて、それら「百句」続けて詠むこと)との、内容によるものではなく、単なる形式上に大きく起因しているように思われる。


(追記メモ一)(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

源正清(みなもとのまさきよ) 承平元年(931年) - 没年不詳

 平安時代中期の貴族。醍醐天皇の孫で、大宰帥・有明親王の次男。官位は正四位下・摂津守。円融朝の天禄4年(973年)左近衛中将に任ぜられる。天延2年(974年)円融天皇の中宮・藤原媓子の中宮権亮を兼ねると、貞元2年(977年)には蔵人頭に任ぜられるが、永観2年(984年)円融天皇の譲位に伴って蔵人頭を辞任する。寛和2年(986年)一条天皇の即位に伴って、居貞親王(のち三条天皇)が春宮に立てられると春宮亮を兼ねる。永祚2年(990年)17年に亘って務めた左近衛中将を解かれ、摂津守に転じた。

(追記二)『菟玖波集. 上』(二条良基, 救済 撰[他])( 国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977295/52

(追記三)「鎌倉初期の連歌」(木藤才三稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1957/14/1957_14_1/_pdf

(追記四)有心衆・無心衆について(岩下紀之稿)

https://aska-r.repo.nii.ac.jp/?action=repository_oaipmh&...

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最晩年の光悦書画巻(その七) [光悦・宗達・素庵]

(その七)草木摺絵新古集和歌巻(その七・式子内親王)

(4-1)

花卉四の一.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-1) (式子内親王)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)

(釈文)逢事を介ふまつ可え濃手向草いくよし保る々袖と可ハしる(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

この歌は、『新古今和歌集』には、次のような詞書が付してある。

    百首歌に
逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)
(逢うことを待ちつづけて、今日逢えることになったが、せつない願いで、長く、幾夜を涙で濡れしおれていた袖だと知ることか、それは知らないであろう。)

 式子内親王は、『新古今和歌集』に、女流歌人としては最多の四十九首が入集され、その中の十一首が「恋歌」である(下記のとおり)。『新古今和歌集』の部立は、『古今和歌集』に倣い二十巻で、その中の五巻が「恋歌」で、その配列も、恋愛の初期の歌から末期の歌まで、その心理的過程に合わせて分けられ採られている。
 式子内親王の「恋歌」は、「巻第十一・恋歌一」(人を恋い初めたころの「初恋」)が四首、
「巻第十二・恋歌二」(「秘めた恋歌」)が一首、「巻第十三・恋歌三」(「逢う恋」)が二首、
「巻第十四・恋歌四」(「恨みの恋」)が三首、そして、「巻第十四・恋歌五」(「別れの恋」)
が一首となっている(下記のとおり)。

 式子内親王は、三十四年の長きに亘り「院政」を敷き、「治天の君」との名を欲しい侭にした「後白河天皇・上皇・法王」の第三皇女で、十一歳から十年間、賀茂斎院として奉仕し、病により退下の後は、俊成門の女流歌人として精進し、晩年には出家(法名承如法)するなど、その生涯は「歌合を主催したり、歌壇の一員となるような華やかな活動は一切封じていた」、俊成門の高貴なる出の女流歌人の一人に過ぎないという名に甘んじていたということになろう。
 従って、『新古今和歌集』の女流歌人として、三番手(式子内親王=四十九首、俊成女=二十九首に次いで三番手の二十首)の「和泉式部」に比して、和泉式部が「女性・妻・母」の、その生き様のような赤裸々(実生涯に根ざした「恋歌」)の「恋歌」とすると、式子内親王のそれは、「生涯独り身を過ごした女性」としての、その一断面(架空の「恋歌」)としての、『技巧主義の藝術』(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)上の「恋歌」ということになろう。
 
    百首歌の中に、忍恋を(三首)
①玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(新古1034)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋い初めたころの「初恋」。「忍ぶ恋」)
                    (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)

②忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を(新古1035)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「秘めた恋」)
                      (後鳥羽院・家隆)

③わが恋はしる人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕(新古1036)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「秘めた恋」)が二首、
                      (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)

    題しらず
④しるべせよ跡なき波にこぐ舟の行くへもしらぬ八重のしほ風(新古1074)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「跡なき波」=「恋路」、「舟」=自身の投影、「秘めた恋」)
                       (後鳥羽院・有家・定家・家隆)

    百首歌の中に
⑤夢にても見ゆらむものを歎きつつうちぬる宵の袖の気色は(新古1124)
(『新古今巻第十二』・「恋歌二」=「秘めた恋」。「恨みの恋」)
                    (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)
    百首歌に
⑥逢ふことをけふ松が枝の手向草いくよしほるる袖とかは知る(新古1153)
(『新古今巻第十三』・「恋歌三」=「逢う恋」。「白波の浜松が枝の手向草幾世までにか年の経るぬらん(万葉一・川島皇子)」の本歌取り)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)
     待つ恋といへる心を
⑦君待つと閨へも入らぬ槙の戸にいたくな更けそ山の端の月(新古1204)
(『新古今巻第十三』・「恋歌三」=「逢う恋」。「待つ恋」)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)
    題知らず
⑧今はただ心のほかに聞くものを知らずがほなる荻の上風(新古1309)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「諦めの恋」)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)

   百首歌の中に
⑨さりともと待ちし月日ぞ移りゆく心の花の色にまかせて(新古1328)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「嘆きの恋」)
                         (後鳥羽院・定家)

⑩生きてよも明日まで人もつらからじこの夕暮をとはばとへかし(新古1329)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「嘆きの恋」)
                         (後鳥羽院・有家・家隆・雅経)

⑪はかなくぞ知らぬ命を嘆き来(こ)しわがかねごとのかかりける世に(新古1391)
(『新古今巻第十五』・「恋歌五」=「別れの恋」。「儚き恋」)
                         (後鳥羽院・家隆)

 上記の「式子内親王は」の「恋歌」十一首の、撰歌者は、例えば、①の歌ですると、「(後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)」は、「(後鳥羽院・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経)」の撰を意味し、『新古今和歌集』の実質的な撰者(他に、源通具は除く)の五名で、満票の撰歌ということになる(『岩波文庫 新訂新古今和歌集 佐々木信綱校訂』)。
 そして、この「式子内親王」の「恋歌」十一首の全てが、「後鳥羽院」撰ということが明瞭となって来る。
 後鳥羽院が『新古今和歌和歌集』の選定作業に深く携わったことは、その「仮名序」の「みずから定め、手づからみがける(歌を選定し、磨き整えた)」という文言を引くまでもなく、この勅撰集の一大特色となっている。
 また、その「切り継ぎ作業」(改訂加除)は、元久二年(一二〇五)の、撰集事業の終了した宴としての「竟宴(きょうえん)」時の第一次本以降、建保四年(一二一六)の第四次本(源家長の詳しい識語を添えた本)に至るまで、数度にわたり行われている。
 さらに、承久三年(一二二一)の「承久の乱」により隠岐に配流された後も、後鳥羽院は、この「切り継ぎ作業」を行い、いわゆる、「隠岐本」(約千六百首)を作成されている。
 その「隠岐本」の中で、この「隠岐本」が「正統な『新古今和歌集』である」(「隠岐本識語)」と記している。そして、その「隠岐本」の全体像は、『岩波文庫 新訂新古今和歌集 佐々木信綱校訂』)では、撰歌者(後鳥羽院=〇印・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経)の、「後鳥羽院=〇印」で付記している。それらを、上記の撰歌者で付記したが、上記の式子内親王の十一首は、その最終の「隠岐本」にも収載されているものとして、後鳥羽院が、式子内親王を、当代有数の女流歌人の一人として目していたことは明瞭となって来る。
 後鳥羽院は、治承四年(一一八〇)の生れ、式子内親王は、仁平三年(一一五三)頃の生れで、その年齢差は、二十七歳前後の開きがあるが、式子内親王は、後白河院の皇女、後鳥羽院は、後白河天皇の孫、そして、後鳥羽院と式子内親王は、共に、藤原俊成門として、後鳥羽院が、この式子内親王に深い親近感を抱いていたことは、『新古今和歌集』の、その入集歌の配列順などからして、十分に窺える。
 そして、「草木摺絵新古集和歌巻」そして「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の作者(揮毫者)、本阿弥光悦は、この後鳥羽院に深い関心を抱いていたことは、その『本阿弥行状記』の中の記述(中巻一二五「菊一文字は後鳥羽院勅作」など)からして、これまた、十分に窺えるのである。
 こういう観点からの、これらの「草木摺絵新古集和歌巻」や「花卉摺下絵新古今集和歌巻」を観賞していくことも、これまた、一つの逸してはならない視点であろう。

(追記メモ一)

『連歌至宝抄』(里村紹巴著)

http://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/thesis/kokubun-mejiro/KOME_54_06.pdf

「恋」には、「聞く恋・見る恋・待つ恋・忍ぶ恋・逢ふ恋・別るる恋・恨むる恋、その外さまざま御入り候」

「先聞恋とはまだみぬ人を風のたよりにきゝて、おきふし物おもひとなり、あらぬ伝をたのみ、一ふでをもつたへまほしくおもふこゝろなり。
又みる恋とは思はざる道行ふりに輿車の下すだれのひまより見物、又はさる家の蔀木丁のかげよりほのかにみし其面影忘れずして、いかなる中だちもがなとおもふ心、。是見恋也。
待恋とは年比、ちぎり置くても何かとさはりありてうち過、又いつの夕必とたのめ、、をき文の返しなど見侍ては心もあくがれ、昨日今日の日をも暮しかね、一日のうちにちとせをふる心ちしてまちわぶるおりふし荻の葉、をとづれ花すゝきのまねくをも君が来かと思ひ夕ぐれになればさらぬかほにて門のほとりにたちやすらひ、よのつねのきぬの袖にも空だきなどして夜の更行くを、かなしみ待宵の鐘の音はあかぬ別の鳥の聲はものゝ数にあらずとよみ侍るも是也。
仭忍恋とは故有人にいひよりて、およそそのぬしも心とけく或はよの聞えを憚、夜な夜な
行通ても人にあやしめられて立かへるふぜい又は一筆の玉章もうき名やもれんとおもふ心是忍恋也。
又逢恋は年月思ひの末をとげ、こよひはあたりの人をしづめ灯火ほそぼそとかかげおき、閨のうちをもよしあるようにつくろひなし、待折しも月のほのかなるに、ちいさきわらはを先にたて妻戸のわきに立やすらへるきぬの袖を引又ねやの内へいざなひ入てもまだ打つけなれば互に恥かはし古器などもとりあへず打ふすさむしろのうへに枕をならべながら、また下ひもゝつれなかりしをとやかくといひよりてやゝこゝろも打ちとくるまゝに、さゝめごとなどあさからぬ情おもひやるべし
別恋(省略)
恨恋(省略) 」

(追記メモ二)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html

式子内親王 久安五~建仁一(1149~1201)  御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。

後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系八〇・私家集大成三・新編国歌大観四・和歌文学大系二三・私家集全釈叢書二八などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。

「彼女の歌の特色は、上に才氣溌剌たる理知を研いて、下に火のやうな情熱を燃燒させ、あらゆる技巧の巧緻を盡して、内に盛りあがる詩情を包んでゐることである。即ち一言にして言へば式子の歌風は、定家の技巧主義に萬葉歌人の情熱を混じた者で、これが本當に正しい意味で言はれる『技巧主義の藝術』である。そしてこの故に彼女の歌は、正に新古今歌風を代表する者と言ふべきである」(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)
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