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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その六 [光悦・宗達・素庵]

その六 「そもそもこの歌の道を……」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

6-1(5-8)

序5-8.jpg

(ひろからず
歌かずすくなくして、)
のこ(残)れる歌おほし、
そのほかいま(今)の世
までのうた(歌)をとりえら(撰)べるならし)
そもそもこの歌
のみち(道)をまな
ぶることをいふに、
からくに(唐国)日の
もと(本)のひろき
ふみ(文)のみち(道)
をもまな(学)びず

※唐国日の本のひろき文の道=中国や日本の広汎な文芸の道。

6-2

序6-2.jpg

(もとのひろき
ふみのみち
をもまなびず)
しか(鹿)のその(園)
わし(鷲)のみね(峰)

ふかき御(み)のり(法)を
さと(悟)る

しも
あらず
(ただかなのよそぢ)

※鹿の園=鹿野苑のこと(成道後の釈迦が初めて説法をした所)。
※鷲の峰=霊鷲山(りょうじゅせん)(釈迦仏が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山として知られる)。

6-3 (「書図」無し)

ただかな(仮名)のよそぢ(四十)
あまりななもじ(七文字)の
うちをいでずして
こころ(心)に思ふことを
ことば(言葉)にまかせて
い(い)ひつらぬる
ならひなるがゆゑに、
みそもじ(三十文字)あまりひともじ(一文字)を

※ただかな(仮名)の……=漢詩などの複雑な文芸様式に比較して、和歌が簡単な形式であることを言う。

6-4

序6-4.jpg

(みそもじ(三十文字)あまりひともじ(一文字)を)
だによみつらねつる
ものは、いづ(出雲)もやく
も(八雲)のそこをし
のぎ、しき(敷(島)やま(山)とみこ(御)
こと(言)のさかひに
い(入)りすぎにたり
とのみおも(思)へる
なるべし、
(しかはあれども、)

※出雲八雲の……=日本神話においてスサノオが詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」が日本初の和歌とされることから、和歌の別名ともされる。
※敷島山と……=『万葉集(三二四八)』の「磯城島(しきしま)の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども 藤波の 思ひもとほり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜(よ)を」と、「同(三二四九)の「磯城島(しきしま)の大和の国に人二人ありとし思(おも)はば何か嘆かむ」とを踏まえての「和歌の境地を深く理解しきっている」というようなこと。

6-5

序6-5.jpg

しかはあれども、
まことには
き(鑚)れば
いよいよかた(堅)く
あふげ(仰)ばいよいよ
たか(高)きものは
この
やまと(大和)うた(歌)の
道に
なむありける、

※き(鑚)れば……=『新撰万葉集・序(菅原道真)』の「所謂、仰彌高(イヤダカヲ仰ギ)、鑽(キワメ )ルニ、彌(イヤイヤ)堅キ者カ」を踏まえている。

6-6

序6-6.jpg

春のはやし(林)
のはな(花)
秋のやま(山)のこ(木)の
は(葉)にしき(錦)
いろいろ(色々)に
玉こゑ(声)ごゑなりとの
みおも(思)へれど、

6-7 (「書図」無し)

やま(山)のなか(中)のふるき(古木)なをからざることおほく、
なにはえ(難波江)のあし(蘆)をかしきふし(節)あることは
かたくなんありけれど、
かつはこの(好)むこころ(心)ざしをあはれび、
かつはみち(道)をたや(絶)さざらんがために、
かはら(瓦)のまど(窓)、しば(柴)のいほり(庵)のこと(言)のは(葉)をも、
み(見)るによろしくき(聞)くにさかへざるをばもらすことなし、
勒してちうた(千歌)ふたもも(二百)ちあまり、はたまき(二十巻)とせり。

※山の中の……=すぐれた作品ばかりとは限らい、の意。
※かたくなんありけれど=すぐれた趣向の歌はなかなかないが、の意。
※好む心ざし=歌の道に心を寄せる志。
※瓦の窓、柴の庵=貧者や隠者の粗末な住居、転じてその住人、隠遁者。
※聞くにさかえざる=耳ざわりでない作品。
※勒(ろく)して=ほどよくまとめて。

(参考) 「漢字・真仮名・万葉仮名・草仮名・変体仮名=異体仮名・平仮名・片仮名・男手・女手」など

“平仮名”はこうして生まれた

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092100015/?P=4

極美な仮名と和様の書の世界

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092100016/

型の尊重。新時代の気風を表現

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092100017/?P=5

【(再掲)

 光悦は自分で日本風とか中国風という意識は無かったと思うんですが、南宋の張即之(ちょうそくし)の字を学んでいましたので、日中の書法が交じっているところがあります。

木下:その光悦ですが、「琳派」の創始と言われ、「風神雷神図屏風」の俵屋宗達とのコラボレーションした「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(つるしたえさんじゅうろっかせんわかかん)」などは、単に書ということではなくて、まさに“作品”を創作するという意識が前提に立ったものですよね。(参照「本阿弥光悦 筆/紙本金銀泥鶴図下絵和歌巻 文化遺産データベース」)

 表現の可能性を求めて、書の在り方が少しずつ変わり始めたのかなと感じます。

 光悦と宗達の、あのような絵と書の気宇壮大なコラボレーションは、やっぱりこの時代において生まれたものなのでしょうか。

島谷:それ以前の時代に、あれだけ大きい下絵のものは無いですよね。だから光悦がそういうものを、宗達にダイナミックで大きい下絵をこんなイメージで書いてくれと、注文したんだと思います。

木下:光悦がやっていたようなことは、当時最先端の、まさに“現代アート”と言えるものですよね!

島谷:もう、当時の現代アートですよ。文学と絵と書、それらが一体となったものが光悦の「鶴図下絵和歌巻」で。総合芸術とも言えますよね。

 アーティスト同士のコラボレーションということで言えば、光悦と宗達、それから同じく安土桃山から江戸初期にかけての長谷川等伯と近衛信尹ですね。(参照「近衛信尹 筆/紙本墨画檜原図 文化遺産データベース」)

 それから三筆には入ってはいませんが、忘れてはならないのが、烏丸光広(からすまるみつひろ)の豪快で天衣無縫な書ですね。(参照「烏丸光広 筆/東行記 文化遺産データベース」) 】

⾒失われた書の本質を取り戻す為に

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092200018/?P=5

先人に学ぶ「守破離」の極意

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092200019/?P=1


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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その五 [光悦・宗達・素庵]

その五 「ここにいまの世のみちを……」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

5-1(4-6)

序4-6.jpg

(ことばのはやし
むかしよりもしげし。)
ここに
いま(今)の世のみち(道)を
このむ
ともがらの
ことのは(言葉)

5-2

序5-2.jpg

(ともがらの
ことのは)
をも)
きこしめし、
むかし(昔)の
とき(時)のをり(折)

つけたる人の
こころ(心)
をも
みそなはさんことに

5-3

序5-3.jpg

(みそなはさん
ことに
よりて)
かの後拾遺集に
えら(撰)びのこさ
れたる歌
かみ正暦のころ
ほひ
よりしも
文治の

※正暦=九九〇-九九四年。一条天皇の年号。
※文治=一一八五―一一九〇年。後鳥羽天皇在位、後白河法皇院政の時期の年号。

5-4

序5-4.jpg

(よりしも
文治の)
いま(今)にいたるまでの
やまとうた(大和歌)を
えら(撰)び
たてまつるべ

おほ(仰)せごと(言)なん
ありける、

5-5

序5-5.jpg

(ありける)
かの御とき(時)より
このかた(方)
とし(年)はふたももち(二百)
あまりにおよび、
世はと(十)つぎあまり
ななよ(七代)になん
なりにける

※とし(年)はふたももち(二百)あまりにおよび=一条天皇から後鳥羽天皇まで十七代。正暦元年より文治三年は一九八年目に当る。

5-6

序5-6.jpg

すぎ(過)にけるかた(方)も
とし(年)ひさ(久)しく、
いま(今)ゆ(行)くさき(先)も
はるかにとどまらむため、
この集を
なづけて
千載和歌集
といふ
かの後拾遺集
ののち、
(おなじく
勅撰になずらへて)

5-7

序5-7.jpg

おな(同)じく
勅撰になずらへて
えら(撰)べる
ところ
金葉、詩華のふたつ

集あり、
しかれども
部類
ひろからず
歌のかず(数)すく(少)なくして、

※金葉、詩華=金葉集、詞花集。

5-8

序5-8.jpg

(ひろからず
歌のかず(数)すく(少)なくして)
のこ(残)れる歌おほし
そのほかいま(今)の世
までのうた(歌)をとり
えら(撰)べるならし
(そもそもこの歌
のみちをまな
ぶることをいふに、
からくに日の
もとのひろき
ふみのみち
をもまなびず)


(参考一) 勅撰集(古今集・後拾遺集・千載集・新古今集)の構成など

https://kogani.com/text/classics/kimagurenikki_25.html


(参考二) 千載集(巻一から巻二十)

千載集(巻一から巻六)

https://mukei-r.net/waka-8a/8-3-senzai1.htm

千載集(巻七から巻二十)

https://mukei-r.net/waka-8a/8-3-senzai2.htm


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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」(その四) [光悦・宗達・素庵]

その四 「わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして……(その二)」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

4-1

序4-1.jpg

ちか(近)く
なれつか(仕)ふ
まつり
とほ(遠)く
きき
つたふるたぐひ
まで
こと(事)にふれ
をり(折)
にのぞみて
(むなしくすぐさずなさけおほし。)

4-2

序4-2.jpg

(のぞみて)
むなしく
す(過)ぐさずなさけ(情)
おほし。
はる(春)のはな(花)の
あした
(あきの月のゆふべ、)

※春の花のあした=「春の花の朝、秋の月の夜ごとに、侍ふ人々を召して事につけつつ歌を奉らしめ給ふ」(古今・仮名序)

4-3

序4-3.jpg

あき(秋)の月のゆふべ、
おも(思)ひをのべ
こころ(心)をうご
かさずと
いふことなし。
あるときには
いとたけ(糸竹)


※糸竹の声=管弦。音楽。

4-4

序4-4.jpg

(いとたけの)
こゑ(声)しらべを
ととのへ、
あるとき(時)には
やまと(大和)もろ
こしの
うた(歌)ことば(言葉)を
あらそふ。

※大和もろこしの歌……=歌会・詩会、歌合・詩歌合などの盛行をいう。

4-5

序4-5.jpg

(あらそふ)
しきしま(敷島)のみち(道)もさかりに
おこりて、
こころ(心)のいづみ(泉)
(いにしへよりも
ふかく、)

※敷島の道=和歌の道。

4-6(5-1)

序4-6.jpg

いにしへより

ふか(深)く、
ことば(言葉)のはや

むかしよりも
しげ(繁)し
(ここにいまの世のみちを
このむ
ともがらの
ことのは)

※言葉の林むかしよりも繁し=和歌の隆盛によって撰集の機運の高まってきたことを言う。


(「追記メモ」その四) 千載和歌集の概要

http://kul01.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/hachidaisyu/senzai/index.html

(基本情報)

下命者:後白河上皇(1127―1192)
成立年次:1188年
選者:藤原俊成
収録数:約1300首
巻数:20巻
序文:仮名
収録された主な歌人:藤原俊頼、藤原俊成、藤原基俊、崇徳院、和泉式部など

(概要)

平氏都落ちの年に後白河上皇が宣下し、源平の争乱期を経て、1188年に成立。「金葉和歌集」、「詞花和歌集」と続いた10巻による構成から、「後拾遺和歌集」以前の20巻による構成に戻し、神祇、釈教を独立して1巻とした。また、僧侶の入選が増加し、全体の約19%(248首)を占め、これは勅撰和歌集では最高の比率である。
「詞花和歌集」の反古今的特徴や、同時代の歌人を軽視したことなど、「千載和歌集」の特色は、先の「詞花和歌集」への批判あるいは、正当な勅撰和歌集への復帰を目指した点にある。当代の歌人の比率も歌数では全体の50%に及んでいる。「詞花和歌集」の「をかしきさまのふり」(表現の奇抜さ)を批判的に包摂しつつ、古典的な叙情に立脚した歌風に特徴があり、中世和歌の世界が「新古今和歌集」で大成する予感を感じさせる。
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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その三 [光悦・宗達・素庵]

その三 「わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして……(その一)」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

3-1

序3-1.jpg

わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして、
たも(保)ちはじめたま(給)ふとな(名)づけしとし(年)より、
ももしきのふる(古)きあとをば、むらさき(紫)の庭たま(玉)のうてな(台)
(ちとせひさしかるべきみぎりとみがきおきたまひ、)

※我が君=後白河天皇
※たも(保)ちはじめたま(給)ふとな(名)づけしとし(年)=保元元年
※ももしき=皇居・宮中(大宮にかかる枕詞) 
※紫の玉の台=禁裏の美しい殿舎

3-2

序3-2.jpg

(庭)
たま(玉)のうてな(台)
ちとせ(千載)ひさ(久)しかるべき
みぎり(砌)とみがきおきたま(給)ひ、
はこや(藐姑射)の山のしづかなる
すみかをば、あを(青)きたに(谷)
きく(菊)の水、よろづ代す(住)む
べきさかひ(境)としめさだめ(定め)
たま(給)ふ。かれこれお(を)しあはせて
みそぢ(三十)あまりみ(三)かえりの
はるあき(春秋)になんなりに
ける。

※はこや(藐姑射)の山=《本来は、「はるかなる姑射(こや)の山」の意。「荘子」逍遥遊の例により、一つの山名のように用いられるようになった》1 中国で、仙人が住んでいるという想像上の山。姑射山(こやさん)。2 日本で、上皇の御所を祝っていう語。仙洞(せんとう)御所。仙洞。

※青き谷菊の水=中国河南省南部を流れる白河の支流。この川の崖上にある菊の露がしたたり落ち、これを飲んだ者はみな長生きしたという。菊の水。
※かれこれお(を)しあはせてみそぢ(三十)あまりみ(三)かえり=後白河院即位の久寿二年(一一五五)より千載集奏覧の文治三年(一一八九)まで、在位期と院政期とを合わせて三十三年になる。 

3-3

序3-3.jpg

(のはるあきになんなりに)
あまねきおほん(御)うつくしみ
あきつしま(秋津島)の
ほかまでを(お)よび、

※あきつしま(秋津島)=日本の国

3-4

序3-4.jpg

(をよび、)
ひろ(広)き
おほんめぐ(御恵)みはる(春)の
その(園)のはな(花)
よりも
かうばし。
(ちかく)

※ひろ(広)きおほんめぐ(御恵)み=「あまねき御うつくしみの浪 八州のほかまで流れ
ひろき御めぐみのかげ 筑波山の麓よりもしげくおはしまして」(「古今・仮名序)

(「追記メモ」その三)

(その三)釈文(読み下し文)

わ(我)がきみ(君)よ(世)をしろしめして、たも(保)ちはじめたま(給)ふとな(名)づけしとし(年)より、ももしきのふる(古)きあとをば、むらさき(紫)の庭たま(玉)のうてな(台)ちとせ(千載)ひさ(久)しかるべきみぎり(砌)とみがきおきたま(給)ひ、はこや(藐姑射)の山のしづかなるすみかをば、あを(青)きたにきく(谷菊)の水よろづ代す(住)むべきさかひ(境)としめさだ(定)めたま(給)ふ。
かれこれおしあはせて、みそぢ(三十)あまりみ(三)かえりのはるあき(春秋)になんなりにける。あまねきおほん(御)うつくしみあきつしま(秋津島)のほかまでおよび、ひろ(広)きおほんめぐみ御恵)はる(春)のその(園)のはな(花)よりもかうばし。

 定家が撰者となった第九勅撰集『新勅撰和歌集』(「巻第十七」雑二・一一九四)に、次の平行盛の歌が収載されている。

    寿永二年、大方の世情静かならず侍りしころ、
    詠み置きて侍りける歌を定家がもとに遣はす
    とて包紙に書きつけて侍りし
流れての名だにもとまれゆく水のあはれはかなき身は消えぬとも(平行盛「新勅撰」)

 この詞書にある寿永二年(一一八三)二月、頭中将平資盛が後白河院の勅撰集下命の院宣を俊成に届けたことが、『拾芥抄』(しゅうがいしょう)に記されている。この年は、四月になると、北陸の木曽義仲追討に出向いた大軍が翌月には大敗し、七月には都落ちに置い込まれるという大動乱の年で、その直前の僅かな平安の日に、この第七勅撰集『千載和歌集』は、スタートしたのであった。


   故郷ノ花といへる心をよみ侍ける
さゞ浪や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(よみ人知らず=平忠度「千載」66)

この平忠度の歌については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-10

(再掲)

 この末尾に添えた「さゞざ波や―」の一首は、平忠盛の六男で清盛の腹違いの末弟・平忠度の歌である。この歌は、寿永二年(一一八三)に木曽義仲に追い立てられた平家一門が都落ちする時に、忠度が歌の師の俊成に今生の別れを告げる、その時の一首である(『平家物語』)。

(参考)

文部省唱歌「青葉の笛」(作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵)

1 一の谷の軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の公達(きんだち)あわれ → 熊谷次郎直実に討たれた「平敦盛」
  暁寒き須磨(すま)の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛
2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き
  わが師に託せし言(こと)の葉あわれ →「わが師」=「わが=忠度」「師=俊成」
  今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に
  残れるは「花や今宵」の歌 →「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」→『平家物語(巻第九)』「忠度最期」→平忠度の「辞世の歌」

 ここに、もう一首、平経盛の歌を付け加えて置きたい。

    だいしらず
いかにせむ御垣(みかき)が原に摘む芹のねにのみ泣けど知る人のなき(よみ人不知=平経盛「千載」668)
(どうしょう、御垣が原に摘む芹の根のように、音(ね)に― 声にばかり出して泣いていても私の思いを知る人はいない。 )

 この歌は、恋歌なのである。そもそもは、「治承三十六人歌合」(平安時代に活躍した藤原清輔、藤原俊成、藤原教長、寂然ら男性の歌人36人の詠歌を集めたもので、左方には在家の歌人、右方には出家した歌人を配した歌合の形式で編集したものである)に出てくる一首である。
 しかし、『千載和歌集』の中に、「よみ人不知」の一首として収載されていると、先の「よみ人知らず=平忠度」のように、「平家物語」と関連させて鑑賞させることを、この撰者の俊成の脳裏にはあったことであろう。

 さて、この「(その三)釈文(読み下し文)」の文面は、「後白河院即位の久寿二年(一一五五)より千載集奏覧の文治三年(一一八九)まで、在位期と院政期とを合わせて三十三年」
の、「ひろ(広)きおほんめぐ(御恵)みはる(春)のその(園)のはな(花)よりもかうばし」というのだが、その三十三年間は、下記のとおり、叛乱盤上の、幾多の戦乱に明け暮れた年月でもあった。

https://ch-gender.jp/wp/?page_id=12049

※1156(保元元)  鳥羽上皇死去→保元の乱
○後白河天皇(弟)と崇徳上皇(兄)の争いに協力して、摂関藤原氏・平氏・源氏が親族間で分かれて争った。
○勝者=後白河天皇・関白忠通・平清盛・源義朝
○敗者=崇徳上皇(配流)・左大臣頼長(傷死)・平忠正(斬首)・源為義(斬首)・源為朝(配流)
※1159(平治元)  平治の乱
保元の乱の勝者間で恩賞等をめぐる対立が生じる。後白河上皇・二条天皇の近臣の地位を巡る主導権を争って平氏と源氏が戦い、平氏が勝利した。
1167 (仁安二) 平清盛、太政大臣となる。
1179(治承三) 平清盛、反平氏の公卿たちを宮中から追放し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を止めさせる。
1180(治承四) 安徳天皇即位。後白河上皇の第二皇子以仁王挙兵(敗死)。
1181(養和元) 平清盛没
※1183 (寿永二) 源義仲、砺波山で平維盛を破る。北陸道から京都に入る。平家一族西に遁れる。後白河上皇の命により鳥羽天皇即位。後白河法皇、義仲に平家追討を命ずる。その後、義仲、法王の御所を襲い、法王の近臣たちを免職する。
※1184(元暦元) 義仲、源範頼・義経らに攻められ、近江の粟津で戦死。範頼・義経、摂津の一の谷を奇襲して平氏を破る。頼朝、鎌倉に公文所などを設置する。
1185(文治元) 平氏滅亡。源頼朝守護地頭任命権獲得。義経、讃岐の屋島で平氏を破る。安徳天皇崩御。後白河天皇、義経に頼朝追討の命令を下す。義経、源行家と京都を遁れる。後白河法王、今度は義経・行家追捕の命令を下す。
1186(文治二) 頼朝、西行と会見。
1187(文治三) 義経、陸奥へ遁れる。藤原秀衡没。
1189(文治五) 藤原泰衡、義経を殺し、その首を鎌倉に送る。頼朝、奥州藤原氏を征伐。奥州藤原氏滅亡。
1190(建久元) 西行没。頼朝、上京し、後白河法皇・後鳥羽天皇に面会。
※1192(建久三) 後白河法皇没。源頼朝が征夷大将軍となり,鎌倉に幕府を開く

1196(建久七) 源頼朝没。源頼家(第二代将軍)=征夷大将軍となる。
1203(建仁三) 源実朝(第三代将軍)=征夷大将軍となる。頼家伊豆に幽閉。
1204(元久元) 頼家、修善寺で殺される。藤原俊成没。
1205(元久二) 『新古今和歌集』が成る。
1219(承久元)  源実朝殺され この後,北条政子(保元2年(1157年) – 嘉禄元年(1225年))が実質的に執政する。
1221(承久3)  承久の乱
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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その二 [光悦・宗達・素庵]

その二 「おほよそこのことわざ……」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

(2-1)

序2-1.jpg

(うたをたてまつらしめたまへり、)
おほよそこの
ことわざわ
(我)がよ(世)の風俗
として、
これを
このみ
もてあそべば
名を世々にのこし、

※このことわざ=和歌をさす。
※我が世の風俗=我が国の国風。

2-2

序2-2.jpg

これを
まな(学)び
たづさはらざるは、
おもて(面)をかき(垣)にして
たてらむがごとし、
かかりければ、
この世)にむま(生)れと
むま(生)れ、
わが国にきたりと
きたる人は、
(たか(高)きも
くだ(下)れるも、)

※おもて(面)をかき(垣)にして=『論語』の言=「何も周囲が見えず、身動きがとれない」こと。

2-3

序2-3.jpg

たか(高)きも
くだ(下)れるも、
このうた(歌)をよまざるはすく(少)なし、
このうた(歌)を
よまざるは
すくなし。
聖徳太子はかたをかやま(片岡山)の
みこと(御言)をのべ、
伝教大師は
わ(我)がたつそま(杣)の
ことばを
のこせり。

※片岡山の御言=日本書記・推古二十一年(しなてる片岡山に飯に飢て臥せる―)→「しなてるやかたをかやまにいひにうゑて ふせるたびびとあはれおやなし」(「拾遺・哀傷1350 聖徳太子」)
※我がたつ杣の言葉=和漢朗詠集・仏事(わが立つ杣に冥加あらせたまへ―)

2-4

序2-4.jpg

よりて
世々の
御かども
このみちをば
すてたまはざる
をや。
ただしまた(又)、集を
えらびたまふ
あとは
なほ(猶)まれになんあり
ける。
(わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして、)

(「追記メモ」その二)

(その一)釈文(読み下し文)
大和みことの歌はちはやぶる神世よりはじまりて、楢の葉の名におふ宮にひろまれり。玉敷き平の都にしては、延喜のひじりの御世には古今集を撰ばれ、天暦のかしこき御時には後撰集をあつめたまひき。白河の御世には後拾遺を勅せしめ、堀川の先帝はも百千(ももち)の歌をたてまつらしめたまへり。

(その二)釈文(読み下し文)
おほよそこのことわざ我が世の風俗として、これをこのみもてあそべば名を世々にのこし、これを学びたづさはらざるは面を垣にしてたてらむがごとし。かかりければ、この世に生れと生れ、わが国にきたりときたる人は、高きも下れるも、この歌をよまざるは少なし。聖徳太子は片岡山の御言をのべ、伝教大師はわがたつ杣の言葉をのこせり。よりて世々の御かどもこの道をば捨てたまはざるをや。ただし又、集を撰びたまふあとは猶まれになんありける。

 この出だしは、俊成の歌道の師にあたる「源俊頼」の歌論書『俊頼髄脳』に類似している。
『千載和歌集』の入集数も、「源俊頼(五十二首)→藤原俊成(三十六首)→藤原基俊(二十六首)→崇徳院(二十六首)→俊恵(二十二首)」の順で、俊頼がトップで、この俊頼の世界を基本の一つに据えているのであろう。
 ちなみに、西行(円位)は十八首、定家(八首)、後白河院(七首)、家隆(四首)である。

http://neige7.pro.tok2.com/karon_shunrai.html

【やまと御言の歌は、わが秋津州の国のたはぶれあそびなれば、神代よりはじまりて、けふ今に絶ゆることなし。おほやまとの国に生れなむ人は、男にても女にても、貴きも卑しきも、好み習ふべけれども、情ある人はすすみ、情なきものはすすまざる事か。たとへば、水にすむ魚の鰭を失ひ、空をかける鳥の翼の生ひざらむがごとし。
(訳)
古くからの雅語でつづった和歌は、我が日の本の国の、抒情的な慰み事であるので、遠く神代から起って、今日現在にいたるまで、連綿として詠まれ続いている。この永い伝統をもつ日本の国に生を享けた者は、男女を問わず、身分の高下にも関係なく、この和歌の道を進んで習得すべきであろうが、どうしても”もののあはれ”を感ずる人は巧みになるし、この情のない人は、和歌を詠んでも上手にならないようだ。この情のない人とは、たとえてみると、水中にすまなければならない魚類でありながら、肝心な鰭がなかったり、空を飛ぶはずの鳥でありながら、翼が生えないようなものである。 】

 もう一つ、この「千載和歌集(序)」の背景となっているものに、「保元の乱」と崇徳院の讃岐配流後、長寛二年(一一四六)に四十六歳で没し、治承二年(一一七七)に鎮魂の意を込めての諡号(しごう)が追贈されたことなども挙げられるであろう。
 崇徳院の没後、俊成のもとに崇徳院の「長歌」が届けられ、それが『千載和歌集巻第十八』「雑歌下・雑体」に収載されている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-05

(『千載和歌集』1162 崇徳院御製=長歌=『千載集』は『古今集』に倣い「短歌」の表示)

しきしま(敷島)や やまと(大和)のうた(歌)の 
つた(伝)はりを き(聞)けばはるかに 
ひさかた(久方)の あまつかみ(天津神)よ(世)に はじ(始)しまりて
みそもじ(三十文字)あまり ひともじ(一文字)は いづも(出雲)のみや(宮)の
やくも(八雲)より お(を)こりけりとぞ しるすなる
それよりのちは ももくさ(百草)の こと(言)のは(葉)しげく ちりぢりの 
かぜ(風)につけつつ き(聞)こゆれど
ちか(近)きためしに ほりかは(堀河)の なが(流)れをくみて 
さざなみの よ(寄)りくるひと(人)に あつらへて
つたなきこと(事)は はまちどり(浜千鳥) あと(跡)をすゑまで 
とどめじと おも(思)ひなからも
つ(津)のくにの なには(難波)のうら(浦)の なに(何)となく
ふね(舟)のさすがに このこと(事)を しの(忍)びならひし 
なごり(名残)にて よ(世)のひと(人)きき(聞)は はづかしの 
もりもやせむと おも(思)へども こころ(心)にもあらず かき(書)つらねつる
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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」 [光悦・宗達・素庵]

その一 「大和とみこと(御言)の歌は―」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

その一 「大和とみこと(御言)の歌は……」

(1-1)

序1-1.jpg

やまと
みこと(御言)の
歌は、
ちはや
ぶる神代
より
はじまりて、
なら(楢)のは(葉)の
名にお(を)ふ
(みや(宮)にひろまれり、)

※大和とみこと(御言)の歌→やまと歌は→「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(「古今・仮名序」)→「古来風躰抄」
※なら(楢)のは(葉)の名にお(を)ふみや(宮)=聖武天皇?→「古来風躰抄」

(1-2)

序1-2.jpg

(なら(楢)のは(葉)の名にお(を)ふみや(宮)にひろまれり、)
たましき(玉敷き)

たひら(平)の
みやこ(都)にし
ては、

※たましき(玉敷き)のたひら(平)のみやこ(都)=平安京

(1-3)

序1-3.jpg

延喜のひじり
の御世には
古今集を
えらばれ、
天暦のかし
こき
おほむとき(御時)には、
(後撰集をあつめたまひ、)

※延喜のひじり=醍醐天皇 
※天暦のかしこきおほむとき(御時)=村上天皇

(1-4)

序1-4.jpg

後撰集をあつ

たまひ、
白河のおほんよ(御世)には
後拾遺を
勅せしめ、
堀川の先帝は
ももち(百千)の
(うたをたてまつらしめたまへり。)

※白河のおほんよ(御世)=白河天皇  
※堀川の先帝=堀河天皇 
※ももち(百千)の(うた=百首和歌


(「追記メモ」その一)

一 本阿弥光悦愛蔵から「本阿弥切(ほんあみぎれ)」と呼ばれる「伝小野道風筆《古今集》断簡の古筆切〈本阿弥切〉」がある。

【小野道風が書写したと伝えられる『古今和歌集』の断簡で,平安古筆の一つ。本阿弥光悦が愛蔵したのでこの名がある。藍,白,枯れ葉色の唐紙 (からかみ) を用い,巻子または断簡として宮内庁三の丸尚蔵館,あるいは京都国立博物館その他諸家に分蔵。書は『寸松庵色紙』に類似し,円転自由のうちに骨力があり,高い品位をそなえる。】(ブリタニカ国際大百科事典)

二 三色紙と『寸松庵色紙』

https://www.syodou.net/column/kanamorekishi/

【「三色紙」とは、平安時代の古筆の中で、散らし書き、布置の見事さなどから、継色紙、寸松庵色紙、桝色紙を指しています。

継色紙(つぎしきし)
万葉集、古今和歌集、その他未評の集から四季、恋などの歌を抜粋し書写したものの断簡。
もとは粘葉装の冊子で、料紙二枚に継き書きしている為にこの名で呼ばれます。料紙は鳥の子の染紙。小野道風筆と伝えられ、十世紀後半の書写と推定されます。字形は古体で、女手に草を混用し、洗練度が高く古筆中の名作と言われます。

寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)
古今和歌集の四季の部分の抄写。てもとは粘葉装の冊子本です。舶来の美麗な料紙(12~13センチ四方)を用い、十一世紀後半の書写とと思われます。散らし方は、行頭に高低変化のあるもの、一首を左右上下に分けたもの、終行を一字で収めたものなど、変化に富んでいます。茶人の佐久間将監真勝がこの色紙十二枚を愛玩し、茶室・寸松庵に秘蔵していたことにちなんで、一連の色紙がこの名で呼ばれています。

桝色紙(ますじきし)
清原深養文の家集を書写したもので、もとは冊子本、藤原行成筆と伝えられます。白・淡藍などの地に雲母をまいた高雅な料紙を用い、形が桝のような方形である為にこの名で呼ばれています。字形は豊円で、線の細太変化と墨色の濃淡が交錯して現れる明暗の美しさは、他に類を見ず、優艶・典雅な趣きがあります。 】

三 光悦の書(「光悦切」との関連)

【本阿弥光悦は鋭く細い線と太い直線とを交え,巧みな墨の配置によって個性的な書境を作り出している。光悦は初め青蓮院流を学んだが,漢字の書風からは中国元の張即之の鋭利な筆法がうかがわれ,仮名については〈本阿弥切〉と呼ぶ平安時代書写の〈古今集〉を所持していたと考えられ,それを習ったあとが見えている。そして,墨線の肥瘦の極端な変化を示すとともに,金銀の下絵料紙に散らし書とした色紙は,桃山時代の障壁画を連想させるきらびやかな意匠である。】(「世界大百科事典 第2版・平凡社」)

四 (その一)釈文(読み下し文)

やまとみことのうたはちはやぶる神代よりはじまりて、ならのはの名におふみやにひろまれり。たましきたひらのみやこにしては、延喜のひじりの御世には古今集をえらばれ、天暦のかしこきおほむときには後撰集をあつめたまひ、白河のおほんよには後拾遺を勅せしめ、堀川の先帝はももちのうたをたてまつらしめたまへり。
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最晩年の光悦書画巻(その十七) [光悦・宗達・素庵]

(その十七)芥子下絵新古今和歌巻(その十七・謙徳公)

ケシ下絵・謙徳公.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻頭) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

 ここに記されている歌は、次の一首である。

      正月(むつき)、雨降り風吹きける日、女に遣はしける
1020 春風の吹くにもまさる涙かなわが水上も氷解くらし(謙徳公「新古今」)
(春風の吹くにつけてもくわわるる涙であることよ。水上の氷が解けるように。わが身の心も解けて、もの思いが増すらしい。)

 この歌の釈文(揮毫上の書体)は、「ハる可勢野ふく尓も満さ類奈ミ多可奈王可ミ奈可ミもこほりとくらし」の感じである。
 そして、続く左端の二行は、次の歌の詞書の「たびたび返事(かへりごと)せぬ女」の前半部分のようである。そして、その次の歌は、「水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふころかな」(謙徳公)である。

 この「謙徳公」は、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-25

(再掲)

藤原氏諡号.jpg

 藤原伊尹(ふじわらのこれまさ(-これただ)) 延長二~天禄三(924-972) 通称:一条摂政 諡号:謙徳公右大臣師輔の長男。母は贈正一位藤原盛子(藤原経邦女)。兼通・兼家・為光・公季(いずれも太政大臣)は弟。恵子女王を室とし、懐子(冷泉院女御)・義孝・義懐らをもうける。書家として名高い行成は孫。
 天慶四年(941)二月、従五位下に叙せられ、同年四月、昇殿を許される。同五年十二月、侍従。その後右兵衛佐を経て、天暦二年(948)正月、左近少将となり、同年二月には蔵人に補せられる。同九年、中将。同十年、蔵人頭に任ぜられたが、この地位を争った藤原朝成(あさひら。定方の子)に恨まれ、子孫にまで祟られたと言う(『大鏡』)。天徳四年(960)八月、参議に就任し、三十七歳にして台閣に列した。康保四年(967)正月、中納言・従三位。同年十二月、さらに権大納言となる。安和二年(969)、むすめ懐子所生の師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子になると、以後は急速に昇進。同年大納言、天禄元年(970)右大臣と進み、同年五月には摂政に就いた。同二年十一月、太政大臣正二位となったが、翌年の天禄三年十一月一日、薨じた。四十九歳。贈一位、参河国に封ぜられ、謙徳公の諡を賜わる。
 天暦五年(951)、梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰集』の編纂に深く関与した。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭」に仮託した歌物語的な部分を含む家集『一条摂政御集』がある。『大鏡』にもこの家集の名が見え、歌才が賞讃されている。後撰集初出。勅撰入集三十七首。小倉百人一首にも歌を採られている。

 謙徳公は、藤原伊尹の「諡号(しごう)」で、その諡号と共に「三河公」も賜ったが、この「三河国」は、慶長期以後の本阿弥光悦と関係を深める「徳川家」(家康、そして、三代将軍・家光)の本拠地の「三河国」(現在の愛知県東半部)であることも、何かしらの縁という感じで無くもない。
 この謙徳公の歌が二首続くのだが、その二首目以降の画像(東京国立博物館「画像検索」)は、目にすることが出来ない。
 その紹介されていない箇所は、次のような箇所である。

     たびたび返事(かへりごと)せぬ女に
1021 水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふころかな(謙徳公「新古今」)
(水の上に浮いている水鳥の足跡もないように、返事の手紙もなく、気がかりに思うこのごろであるよ。)

     題知らず
1022 片岡の雪間に根ざす若草のほのかに見てし人ぞ恋しき(曾祢好忠「新古今」)
(片岡の雪間に根ざして生え出てくる若草の先のように、ちらっと見ていただけの人が恋しくてたまらないことだ。)

 そして、これに続く、巻末の、次の和泉式部の画像は紹介されている。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

ケシ下絵・和泉式部.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻末) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

 この和泉式部の一首の詞書も、前図(画像)に掲載されていて、上図には出て来ない。

     返事せぬ女のもとに遣はさんとて、人のよませ侍りければ、
二月ばかりによみ侍りける
1023 跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも 和泉式部
(あなたの筆跡をだけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)

 ここで、「鷹峯隠士大虚庵齢七十六」の署名のある、この最晩年の「芥子下絵新古今和歌巻」は、その和歌巻に書かれている「亭子院→謙徳公(二首)→曾祢好忠→和泉式部」の「歌の流れ」(「新古今集」に寄せる眼差し)に比して、その、晩年の「書風」は、「肉細く筆鋒の鋭さに加え、筆の運びも遅く枯淡の味」(『別冊太陽№167本阿弥光悦』「光悦の書と下絵(伊藤敏子稿))」と「晩年の光悦書に特徴的な『震え』」(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』)と併せ、その下絵の芥子坊主(胡粉と雲母で描く)は、その署名の「鷹峯隠士大虚庵」の、その「隠士」風と「大虚庵」の「大(太)虚」(「円カナルコト太虚ニ同ジ=一切皆空ノ理=『信心銘』)風とがイメージ化されてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-22

(再掲)

花鳥巻夏一拡大.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(一)」東京国立博物館蔵
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035817.jpg

 これは、酒井抱一の「芥子図」である。真っ赤な芥子の花の脇の、ひょろりしたのは「芥子坊主」ではなく「芥子の蕾」であろうか。

歌麿・蜻蛉・蝶.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

 これは、喜多川歌麿の「芥子図」である。この右の芥子の花と蜻蛉の頭と尾のところのものが「芥子坊主」であろう。
 これらの「芥子の花」と「芥子坊主」の「絵画」的な空間に比すると、晩年の光悦の「芥子下絵新古今和歌巻」の下絵「芥子坊主」の世界は、その独自性を発揮するものではなく、いわゆる、「詩(和歌)・書・画」一如の世界の、その細やかな一翼を担っているに過ぎないということになろう。

(追記メモ) 宗達(そして「宗達工房)の「芥子図屏風」

宗達・芥子図屏風.jpg

https://media.thisisgallery.com/works/sotatsu_02
俵屋宗達(「伊年」印)「芥子図屏風」(京都国立博物館蔵)  紙本金地着色

【『芥子図屏風』は俵屋宗達によって描かれた芥子(ケシ)を描いた8曲1双からなる図屏風です。画面左下には「伊年」の印が捺されているのですが、これは宗達を始祖とする俵屋派のブランドマークにあたります。そのため宗達以外にも「伊年」印が確認されるものがあります。俵屋宗達は知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、本人についての詳しい資料は見つかっておらず現在も不明な点が多いままです。例えば作品を製作した詳しい年月日などはわかりません。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵などを大規模に製作したことはわかっています。『芥子図屏風』は金箔の下地に芥子(ケシ)がバランスよく並び、安定した構図の作品になっています。 】

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最晩年の光悦書画巻(その十六) [光悦・宗達・素庵]

(その十六)芥子下絵新古今和歌巻(その十六・亭子院御歌)

ケシ下絵・亭子院.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻頭) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/306816


 芥子下絵新古今和歌巻(「光悦書」)は、この亭子院の御歌からスタートする。前の六行目までが、「亭子院」で、七行目からは、次の「謙徳公」の詞書である。「亭子院」の一首は、次のとおりである。

1019 大空をわたる春日の影なれやよそにのみしてのどけかるらん(亭子院御歌「新古今」)
(お前は、大空を渡る春の光であるので、よそにばかりいて、のどかに過ごしているのであろうか。)

 これは、平安時代中期の和歌説話集『大和物語』(四十五段)に由来のある一首である。

https://mukei-r.net/kobun-yamato/yamato-05.htm

【 前の帝[宇多天皇か清和天皇か定まらず]の時、刑部の君(ぎょうぶのきみ)と呼ばれていた更衣(こうい)[天皇の妻のうち、女御より下]が、里に下がられたまま、長らく参上しないので、天皇が遣わした和歌。

大空を
  わたる春日の 影なれや
    よそにのみして のどけかるらむ
          宇多天皇 or 清和天皇 (新古今集)

[大空を
   わたる春の日の太陽なのだろうか
  余所から眺めるばかりで
    のどかそうにしているようですね]  】 (『大和物語(四十五段)』)

 「亭子院(ていじいん、ていじのいん)」とは、第五十九代の天皇 (在位 887~897) 「宇多天皇」の院号である。「宇多上皇の院号。また、その御所。左京七条坊門南、西洞院の西(西本願寺の東辺)にあった。」(「大辞林 第三版」)

亭子院歌合.jpg

亭子院歌合〈延喜十三年三月十三日/〉
福岡県 平安 1巻 福岡県太宰府市石坂4-7-2
重文指定年月日:19410703  国宝指定年月日: 登録年月日:
国(文化庁) 国宝・重要文化財(美術品)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/185082

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/bae305c33a8b0012d981dbddc62bc58f

【 延喜十三年三月十三日亭子院歌合

 ひたりのとう(左頭)をんな(女)ろくのみや(六宮)、かた(方)のみこ、おほんせうと(御兄人)のなかのまつりこと(中務)のし(四)のみこ(親王)、たんしよう(弾正)のこ(五)のみこ(親王)、なかのものまうすつかさ(中納言)ふちはらのさたかた(藤原定方)朝臣、さゑもんのかみ(左衛門督)なかみつ(有実)朝臣、うたよみ、ふちはらのおきかせ(藤原興風)、おふしかうちのみつね(凡河内躬恒)、かたうと(方人)、むねゆき(致行)、よしかせ(好風)らなむ。
 みきのとう(右頭)をんな(女)ななのみや(七宮)、かた(方)のみこ(親王)、おほんせうと(御兄人)のこうつけ(上野)のはちのみや(八宮)、せいはのさたかす(清和貞数)のはちのみや(八宮)、なかのものまうすつかさ(中納言)みなもとののほる(源昇)朝臣、うゑもんのかみ(右衛門督)きよつら(清貫)朝臣、うた(歌)よみ、これのり(是則)、つらゆき(貫之)、かたうと(方人)、かねみ(兼覧)のおほきみ(王)、きよみちの朝臣。
 みかと(帝)のおほむしようふそく(御装束)、ひはたいろ(檜皮色)のおほんそ(御衣)にしようわいろ(承和色)のおほんはかま(御袴)。をとこをむな(男女)、ひたり(左)はあかいろにさくらかさね、みき(右)はあをいろにやなきかさね。ひたり(左)はうたよみ、かすさしのわらは(童)、れいのあかいろにうすすはう(薄蘇芳)あや(綾)のうへのはかま、みき(右)にはあをいろにもえき(萌葱)のあや(綾)のうへのはかま。かたかたのみこ(方方親王)、あをいろあかいろみなたてまつれり。
 かくて、ひたり(左)のそふ(奏)はみのとき(巳時)にたてまつる。かた(方)のみや(宮)たちみなしようそく(装束)めでたくして、すはま(州浜)たてまつる。まふちきみ(大夫)よたり(四人)かけり。かく(楽)はわうしきてう(黄鍾調)にていせのうみ(伊勢海)といふうたをあそふ。みき(右)のすはま(州浜)はうまのとき(午時)にたてまつる。おほきなるわらは(童)よたり(四人)、みつら(美豆良)ゆひ、しかいは(四海波)きてかけり。かく(楽)はそうてう(双調)にてたけかは(竹河)といふうたをいとしつやかにあそひて、かたみや(方宮)たちもてはやしてまゐりたまふ。ひたりのそふ(左奏)はさくらのえたにつけて、なかのものまうすつかさ(中務)のみこ(親王)もたまへり。みき(右)はやなきにつけて、かうつけ(上野)のみこ(親王)もたまへり。うた(歌)は、したん(紫檀)のはこちひさくて、おなしこといれたり。かんたちめ(上達部)、はしのひたりみき(左右)にみなあかれ(上かれ)てさふらひたまふ。によくらふと(女蔵人)よたり(四人)つつひたりみき(左右)にさふらはせたまふ。うた(歌)のかんし(講師)は、をんな(女)なむつかまつりける。みす(御簾)いちしやくこすん(一尺五寸)はかりまきあけて、うた(歌)よまむとするに、うへ(上)のおほせたまふ。このうたをたれかはききはやしてことわらむとする。たたふさ(忠房)やさふらふとおほせたまふ。さふらはすとまうしたまへは、さうさうしからせたまふ。
 みき(右)はかちたれとも、うち(内)のおほんうた(御歌)ふたつをかちにておきたれは、みき(右)ひとつ(一)まけたり。されと、ほとときすのはうのはなにつけたり。よ(夜)のうたは、うふね(浮舟)してかかり(篝)にいれてもたせたり。ひたりのかた(左方)のみや(宮)に、みき(右)のかたのたてまつりたまひける、しろかねのつほのおほきなるふたつに、しん(沈)あはせたきもの(薫物)いれたりけり。かた(方)のをんな、ひとひと(人々)にみなそうそく(装束)たま(給)ひけり。
 たい(題)はきさらき(二月)やよひ(三月)うつき(四月)なり。

春 二月 十首

二月一番
左  伊勢
歌番号〇一 
原歌 あをやきの えたにかかれる はるさめは いともてぬける たまかとそみる
解釈 青柳の 枝にかかれる 春雨は 糸もてぬける 玉かとぞ見る
右  坂上是則
歌番号〇二 
原歌 あさみとり そめてみたるる あをやきの いとをははるの かせやよるらむ
解釈 浅緑 そめて乱れる 青柳の 糸をばはるの 風や縒るらむ

二月二番
左  凡河内躬恒
歌番号〇三 
原歌 さかさらむ ものならなくに さくらはな おもかけにのみ またきみゆらむ
解釈 咲かざれむ ものならなくに 桜花 面影にのみ まだき見ゆらむ
右  紀貫之
歌番号〇四 
原歌 やまさくら さきぬるときは つねよりも みねのしらくも たちまさりけり
解釈 山桜 咲きむるときは つねよりも 峰の白雲 たちまさりけり

二月三番
左  凡河内躬恒
歌番号〇五 
原歌 きつつのみ なくうくひすの ふるさとは ちりにしうめの はなにさりける
解釈 来つつのみ 鳴く鶯の 故里は 散りにし梅の 花にざりける
右  坂上是則
歌番号〇六 
原歌 みちよへて なるてふももは ことしより はなさくはるに あひそしにける
解釈 三千代経て なるてふ桃は 今年より 花咲く春に あひぞしにける
(以下、略)    】(『日本古典文学全集7 古今和歌集(校注・訳:小沢正夫)』所収「延喜十三年亭子院歌合」

 「亭子院歌合」のトップは、古今和歌集では小野小町と双璧なす女流歌人の「伊勢」の一首である。「伊勢」は宇多天皇の寵愛を得て、「更衣」(女御に次ぐ令外の后妃)として一子をもうけ、夭逝した。
 この「芥子下絵新古今和歌巻」の巻頭の一首は、「宇多天皇」(亭子院)の「更衣」の一人に寄せた歌で、「伊勢」の面影が無くもない。そして、その「巻末」の句は、時代は下って「千載集」「新古今」時代の、「伊勢」の面影もどことなく宿している「和泉式部」の一首である。
 そして、「芥子下絵新古今和歌巻」と同時の頃の作「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻末の三首は、「伊勢・和泉式部・馬内侍」の、次のアドレスで紹介したものであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-08  (再掲)

(伊勢)
    忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(伊勢「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

(和泉式部)
    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古1160」)
(枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。)

(馬内侍)
   人にもの言ひはじめて
忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍「新古1161」)
(忘れてもけっして人にお語りなさいますな。うたた寝の夢を見るようなあなたとの儚い一夜を過ごしてのちも、長くはあるまいと思われる命なのだから。)

 そして、そこで、「華麗な恋愛遍歴に彩られた王朝女流歌人の三羽烏」の「伊勢・和泉式部・馬内侍」の三首が、何とも、光悦の最晩年の華やぎ」を見るような思いがして来る」との、「草木摺絵新古今集和歌巻」にかんする総括的な感慨の一端を記したのだが、今回の、「芥子下絵新古今和歌巻」の、巻頭(亭子院)と巻末(和泉式部)の二首に接しただけでも、同じような感慨を抱くのである。
 まして、この「芥子下絵新古今和歌巻」の下絵が、胡粉と雲母で描いた「雛罌粟」の「芥子坊主(芥子の果実)」だけのものを見ると、その印象はさらに強まって来る。

(追記メモ一)  「亭子院歌合の人物構成について」(小林あづみ稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nbukiyout/26/0/26_KJ00000183103/_pdf

(追記メモ二)  光悦筆・宗達下絵「和歌巻」と「色紙」の「月」図(四態様)など(その二)

ベルリン国立アジア美術館光悦月・.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「月図(弦月図)」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm (第十九図)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

【 白地に金泥をうすく刷き、下半をはすかいに区切った―恐らく山の端に見立てた―土坡には、濃い金泥を塗り、その上に銀泥の十日あまりの月を大きく、月の上端は画面をはずれるほど大きく、えがく。桃山時代は月を描けば、このふくよかな十日月である。柳橋水車図の月がそうであり、団家本の光悦歌巻の月もそうである。それはまた光悦のたっぷりした量感の表現と軌を一にするものである。この第十九枚目からは、屏風としては、左隻に移って、秋に入るのであるが、右隻の第一葉が、春のはじめとして日輪であったのに対し、ここは弦月をもって対照させている。歌は新古今集巻四秋歌である。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

ベルリン・藤原良経.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「日輪図か満月図」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm (第一図)

【 下絵は、今しがた松林の上に姿をあらわした日輪。胡粉地にうすく金泥を刷き、色紙の上端に接して幅一ぱいの直径をもつ大きな日輪を描く。日輪は先づ濃い金泥を塗り、その上に更に銀泥をむらむらにかけている。総じて銀泥はほとんど黒く錆びてしまっているが、最初は金地に加えられた白銀光が燦として日輪の輝きを発揮していたであろう。日輪の下すれすれに金泥のつけたてで、簡略に描かれた低いはるすな松林が、この日輪を一層大きく感じさせる。日輪は満月と見られなくはないが、もと一双の屏風であった左隻の第一葉(第十九図)の上弦の月に対し、右隻第一葉のこの図としては、当時の日月四季屏風の方式に即して、やはり日輪と解すべきであろう。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

 「ベルリン博物館の光悦色紙帖」(三十六枚)は、この第一図からスタートとする。ここに揮毫されている歌は、次の「新古今和歌集」の巻頭の一首である。

     春立つ心をよみ侍りける
1  み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(摂政太政大臣=藤原良経「新古今・巻一春歌上)
(吉野は、山までもかすんで、昨日までの冬には白雪の降り積もっていた里、これは、遠い昔、離宮のあった里だが、この里には、春き来たことだ。)

 この色紙には、詞書も作者名もない。そして、釈文は「三芳野は山も霞て白雪濃ふりにし里に春は来に介梨」の感じである。
 これは、六曲一双屏風の、右隻(十八枚)の第一扇(三枚)の、そのトップの図が、この第一図のものなのである。
そして、左隻(十八枚)の第一扇(三枚)の、そのトップの図は、冒頭の第十九図なのである。

    百首歌よみ侍りける中に
289 昨日だに訪(と)はんと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(藤原家隆「新古今・巻四・秋歌上」)
(夏であった昨日でさえ尋ねようと思った津の国の生田の森に、今日は、秋は来たことだ。)

 ここで、右隻第一扇のトップの図が、立春(藤原良経作)の一首で、その左隻第一扇のトップの図が、立秋(藤原家隆作)の一首というのは、この絶妙な好対照の発見は、この下絵(図)を描いた宗達(または宗達工房の画家)ではなく、紛れもなくなく、この二首を揮毫した、光悦その人ということになろう。
 
 ここで、この右隻第一扇のトップの図(第一図)について、「日輪は満月と見られなくはないが、もと一双の屏風であった左隻の第一葉(第十九図)の上弦の月に対し、右隻第一葉のこの図としては、当時の日月四季屏風の方式に即して、やはり日輪と解すべきであろう」(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)については、やはり、これは、「日輪」ではなく「満月」と解したい。
 そして、いわゆる、「光悦謡本(うたいぼん)」(「角蔵(倉)本ト云ウ。或ハ光悦ノ謡本トモ云ウ」=『弁疑書目録(中村富平著)』)の「雲英摺(きらずり)模様」の中に、この第一図の原型ともいうべき「松山満月模様」(松山の端に上る満月の図)のものがある。

当麻一.jpg

光悦謡本(上製本),当麻,法政大学鴻山文庫蔵(表表紙)
https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/y14/01-034.html

当麻に.jpg

光悦謡本(上製本),当麻,法政大学鴻山文庫蔵(裏表紙)
https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/y14/01-034.html

 これらの「光悦謡本」、そして、角倉素庵の「嵯峨本」と、光悦・宗達(又は宗達工房)の「和歌巻」や「色紙・短冊」のコラボ(「共同・共作・共演」)的な世界とは密接不可分の関係にあるのであろう。
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最晩年の光悦書画巻(その十五) [光悦・宗達・素庵]

(その十五)芥子下絵新古今和歌巻(その十五・和泉式部)

ケシ下絵・和泉式部.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻末) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/306816



 下絵に芥子坊主(芥子の果実)を胡粉と雲母で描き、『新古今和歌集』巻第11の詞書と和歌を散らし書きする。晩年の筆と推測され、筆線に震えが散見される。料紙および下絵のさまざまな白が、墨が内包する多様な黒を対比的に引き立てている。

 この「芥子下絵新古今和歌巻(巻末)」の年紀は「寛永十年十月五日」で、次の「草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)」の年紀は「寛永十年十月二十七日」の、二十二日後に制作されたということになる。

鷹峯隠士・拡大氏.jpg

【 草木摺絵新古今集和歌巻(巻末) 寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
紙本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした下絵に、巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す。巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】

 「芥子下絵新古今和歌巻(巻末)」の署名も、「草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)」の署名「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の「有」の文字がないだけで、同じ字配りのようである。
 ここで書かれている和歌は『新古今集和歌』の「巻十位置・恋歌一」の次の一首である。

1023 跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも 和泉式部
(あなたの筆跡をだけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)

 この歌意は、『日本古典文学全集26新古今集和歌集(峯村文人校注・訳)』に因っているが、この歌には、「返事(かへりごと)せぬ女のもとに遣はさんとて、人のよませ侍りければ、二月(きさらぎ)ばかりによみ侍りける」との詞書がある。
 この図では、この詞書は出て来ないが、この図の冒頭の「和泉式部」の前に、この詞書が書かれているものと思われる(上記のアドレスでは、「巻頭」「部分」「巻末」の三葉だけで、その詞書が書かれている「部分図」は紹介されていない)。
 この詞書の「人のよませ侍り」とは、「男が和泉式部に代作を頼んで、和泉式部が男に代わって詠んだ歌」(和泉式部の「男歌」)なのである。さらに、この歌は、「春日野の雪間を分けて生ひ出でくる草のはつかに見えし君かは」(壬生忠岑「古今・恋」)の本歌取りの一首である。
 この歌の「釈文」(読み難い筆跡を読み易い字体に直したもの)は、この図だけでは判読し難いが、「安登を多耳草乃ハ徒可尓見てし可那無須不ハ可利乃本となら寸斗も」の感じである。これは『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』の「釈文・解題(中田勇次郎・木下正雄)」に因っているが、次のアドレスの「変体仮名 五十音順一覧」も参考になる。

http://www.book-seishindo.jp/kana/onjun_3.html

 その『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』で、光悦の和歌巻について、次のように指摘している。

【 光悦の和歌巻を通じて言いうることは、その書体にはほぼ一定のものがあり、いわゆる平がな体のものよりも、変体がなのものに特色があり、その用例も変体のものの方が多いことである。(「桜下絵新古今和歌巻(中田勇次郎)」)

 この下絵の考案者を、他の同類の和歌巻の下絵についてすでに研究家によって立てられている説とおなじように、これを宗達と見ることも考えられよう。しかし、下絵が考案され、えがかれて、その上に光悦が新古今からさくらの歌をえらんで書いたというには、あまりにも下絵と和歌とが融合しすぎている。これはどうしても下絵の考案についても光悦の意図があったもので、光悦の考案の方が先行するのではないかとおもう。それには、陶器、蒔絵、茶器、作庭などにあらわれる光悦のとくに創作にすぐれ、才気のみなぎった作品から考えても、和歌巻の場合においても、かならず光悦の意図が先立つものとして出されていたと考えるべきであろう。(「桜下絵新古今和歌巻(中田勇次郎)」)

 光悦は室名を徳友斎と号したが、鷹峯に移ってからは大虚庵を号したという。林羅残の鷹峯記に「嘗て数百弓の地を占めて以て小字をここに構え、自ら太虚庵と号す」とあり、深草元政上人の大虚庵にも、「翁、遂に居をその間に築き、太虚庵を以て扁(扁額をかかげること) とあるのによって知られる。元和五年に書いた立正安国論および始聞仏乗義にも、いずれも署名の上に大虚庵と書いている。これは元和になってこの号を用いていたことを示している。あるいはもっと早くにこの号があったかも知れないが、まだその実例は見あたらない。(「四季花卉下絵千載和歌巻(中田勇次郎)」)  】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』)

 本阿弥光悦は、「江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)で、画家ではない。そして、光悦の本業は、刀剣に関する仕事(「研ぎ」「拭い」「目利き」)で、「書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」は、「手遊び・余技」の分野のものである。
 この「手遊び・余技」の分野の「書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」の中で、唯一、「寛永の三筆」(本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗)の筆頭と自負しているほどに(『今古雅談』)、専門的な「書家」として、それを本業と見做すことも出来よう。
 その本業の一つと見做すことも出来る「書家」の分野で、光悦が最も本格的に取り組んだものとして金銀泥などの絵模様を散らした下絵に揮毫する「和歌巻」が挙げられる。
 この光悦書の「和歌巻」は、凡そ、次の三期に分けられる。

一 慶長期(光悦四十代・五十代)→「書(光悦)・画(宗達他)」協奏の時代

① 四季草花下絵古今集和歌巻(畠山記念美術館蔵)→「光悦」墨文方印 「伊年」朱文方印
「紙師宗二」長方印
② 鶴下絵三十六歌仙和歌巻(京都国立博物館蔵)→「光悦」墨印方印 「紙師宗二」長方印
③ 鹿下絵新古今集和歌巻(諸家分蔵)→「徳友斎光悦(花押)」 「伊年」朱文方印

二 元和期(光悦六十代)→「書(光悦) 画(宗達他)」同源の時代

④ 四季草花千載集和歌巻(個人蔵)→「太虚庵光悦(花翁)」 「伊年」朱文円印 「紙師宗二」長方印
➄ 蓮下絵百人百人一首和歌巻」(諸家分蔵)→「太虚庵光悦(花翁)」

三 寛永期(光悦七十代)→「詩(和歌)・書画(光悦書ほか)」一如の時代

⑥ 草木摺絵新古今集和歌巻(静嘉堂文庫蔵)→「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名 「光悦」墨印方印 
⑦ 芥子下絵新古今和歌巻(東京国立博物館蔵)→「鷹峯隠士大虚庵齢七十六」の署名 「光悦」墨印方印  

(注:『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編)』では「太虚庵」、『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』では「大虚庵」、『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』では「大と太」とを使い分けている。また、『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編)』では「墨印方印」と「墨文方印」とを使い分けている。)

 この、「一 慶長期(光悦四十代・五十代)→『書(光悦)・画(宗達他)』協奏の時代」とは、
「光悦の書と宗達(そして宗達工房)の下絵とが相互に響きあって協奏の世界を創出している」世界を意味し、いわゆる、「光悦書・宗達画和歌巻」として、「光悦和歌巻」の代名詞にもなっている世界である。
 そして、「二 元和期(光悦六十代)→『書(光悦) 画(宗達他)』同源の時代」については、「書画同源」(張彦遠・『歴代名画記』の「書と画とは同体異名であり、そもそも文字の起源は象形、つまり画であった」と由来する)ですると、「一の『書画協奏』」ではなく、さらに、「二の『書画同源』」の、「光悦書(そして光悦書画)が主で、宗達画(そして宗達工房の画)は、その従たる伴奏のような世界」を意味している。
 その上で、この「三 寛永期(光悦七十代)→『詩(和歌)・書画(光悦書ほか)』」一如の時代」というのは、いわゆる、造形的な世界(「書画の世界」)の、その「書画同然」の次の世界の、「書画(造形的な「形」の世界)と詩歌(非造形的な「情」の世界)」との、その「詩書画三絶(詩書画一如・詩書画一致)の世界」のような雰囲気を漂わせている。

【 本阿弥光悦は慶長年間の人、以書海内に鳴る。画又一風を為す。宗達光琳の祖とするところなり。尤古土佐の風によりて細筆の歌仙など世に残決あり。草画金銀にて絵き、淡彩も稀に有り。「光悦」印 (酒井抱一編『尾形流略印譜』異本)  】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』では「句読点なし」)

 琳派の継承者、江戸琳派の総帥・酒井抱一の「本阿弥光悦」像である。
そこでは、「本阿弥光悦は慶長年間の人」と、上記の「一 慶長期(光悦四十代・五十代)→『書(光悦)・画(宗達他)』協奏の時代」を念頭に置いている。
 そして、次に、その「書は海内(天下)に鳴る(知れ渡っている)。」同時に「画又一風を為す。宗達光琳の祖とするところなり。」と、抱一は、画家としても「宗達・光琳の祖」と仰ぎ、その画は、「古土佐の風の細筆の歌仙など」(大和絵の様式で描かれた歌仙図など)と「草画金銀にて絵(えが)き」(「金銀泥で描かれた和歌巻」=上記の「①②③」の和歌巻など)と「淡彩も稀にあり」としている。
 この抱一の光悦像で、光悦が「以書(書は)海内に鳴る」というのは、今日でも動かない評であるが、こと、「画又一風を為す」については、「近代以降の光悦研究では、和歌巻類の金銀泥絵は、宗達、ないしは、その工房の作品と考えられるようになり、本書もその立場に拠っているが、当時は書画ともに光悦筆として認識されていたようである」(『玉蟲・前掲書』)が、一般的な見方のようである。
 そういう、一般的見方も考慮しても、冒頭の「芥子下絵新古今和歌巻」の、この「下絵に芥子坊主(芥子の果実)を胡粉と雲母で描き」の、その描いた人は、この書の揮毫者の最晩年の、本阿弥光悦その人と解したい。

(追記)  光悦筆・宗達下絵「和歌巻」と「色紙」の「月」図(四態様)など

(「上弦の月」→ 旧暦二十三日頃、弦が直線)

千載・上弦月.jpg

https://weathernews.jp/s/topics/201802/220075/

光悦筆・宗達下絵「「四季草花下絵千載集和歌巻」(部分図)  個人蔵 紙本墨書 金銀泥下絵 一巻 縦三四・〇㎝ 横九二二・二㎝

【 末尾に「伊年」印のある和歌巻のうち、浅黄、白、薄茶などの色紙をつなげ、四季の草花や景物を描いた優美な様式もの。書は作者や詞書を省略し、春の歌二十五首を選んで闊達に執筆する。慶長末期から元和初めに推定される筆跡は、掲出の月に秋草の場面からもわかるように、漢字まじりの大字を象徴的にあつかい、小字の仮名は虫のごとく、叢(くさむら)に潜めるように配置する。薄や末尾の松林などは「平家納経」補修箇所と一致し、その展開であることが示唆される。「大虚庵光悦(花押)の署名がある。 】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

    花留客(客を留めん)といへる心をよみ侍りける
90 ちりかかる花のにしきは来たれどもかへらむ事ぞわすられにける(右近大将実房「千載集巻二・春下」)

 この一首の前の次の歌の結句が、右の二行である。

    花の歌とてよみ侍りける
89 さくら咲く比良の山風ふくまゝに花になりゆく志賀のうら浪

(「更待月」→陰暦二十日頃、もう少し弦が丸みを帯びると「寝待月」)

月色紙・五島美術館蔵.jpg

光悦筆・伝宗達下絵「金銀泥下絵和歌色紙『月図』」五島美術館蔵 [本紙一紙]縦18.1cm 横16.8cm
【紙本著色・墨書/一帖 江戸時代初期・17世紀
[本紙一紙]縦18.1cm 横16.8cm [台紙一紙]縦28.8cm 横23.0cm 五島美術館蔵
本阿弥光悦(1558~1637)が、『新古今和歌集』36首(巻第五「秋歌下」504~521番、巻第十「羇旅歌」954~967番、巻第十一「恋歌」1034~1037番)を1首ずつ書写した色紙36枚を、アルバム状に仕立てた作品。下絵は、俵屋宗達(?~1640頃)が描いたと伝え、36枚のうち34枚が2枚1組として同主題の四季草花図を描く。金銀泥を主体に文様化した花や草木、鳥、波等の一定のパターンを用いているところから、数人の職人絵師による工房制作だろうか。 】

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_03/08072_001.html

     旅寝とて
967 さらぬだに秋の旅寝は悲しきに松に吹くなりとこの山風(藤原秀能「新古今」)

(「上弦の月」か「更待月」→弦はほぼ直線の感じ)

光悦色紙・月に萩.jpg

光悦筆・伝宗達下絵「花卉下絵新古今和歌巻」より「月に萩図」
【 慶長十一年(一六〇六)十一月十一日年紀 北村美術館蔵 紙本墨書 金銀泥下絵 一枚 縦二〇・三㎝ 横一七・六㎝
 十一尽くしの特別な年紀をしるした色紙は十数枚が残されているが、その一枚で画面をはみ出さんばかりの上弦の月とばつばさに描かれた薄(すすき)・萩などの秋草の大胆な下絵は見事である。法性寺入道関白太政大臣作の和歌の書もまた画面いっぱいに力強く、「慶長十一年十一月十一日光悦書 かせ吹は玉ちる萩の下露にはかなくやとる野辺の月哉」としるす。朱文の「光悦」が捺される。 】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

386 風吹けば玉散る萩の下露にはかなく宿る野べの月かな(法性寺入道関白太政大臣「新古今」)

 この「法性寺入道関白太政大臣」は、藤原忠道である。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadamiti.html

【藤原忠通 ふじわらのただみち 承徳元~長寛二(1097-1164) 号:法性寺関白
道長の直系。関白太政大臣忠実の息子。母は右大臣源顕房のむすめ、従一位師子。左大臣頼長・高陽院泰子の兄。基実・基房・兼実・兼房・慈円・覚忠・崇徳院后聖子(皇嘉門院)・二条天皇后育子・近衛天皇后呈子(九条院)らの父。藤原忠良・良経らの祖父。
堀河天皇の嘉承二年(1107)四月、元服して正五位下に叙され、昇殿・禁色を許され、侍従に任ぜられる。鳥羽天皇代、右少将・右中将を経て、天永元年(1110)、正三位。同二年、権中納言に就任し、従二位に昇る。同三年、正二位。永久三年(1115)正月、権大納言。同年四月、内大臣。保安二年(1121)三月、白河院の不興を買った父忠実に代わって関白となり、氏長者となる。同三年、左大臣・従一位。崇徳天皇の大治三年(1128)十二月、太政大臣。
近衛天皇代にも摂政・関白をつとめたが、大治四年(1129)の白河院崩後、政界に復帰した父と対立を深め、久安六年(1150)には義絶されて氏長者職を弟の頼長に奪われた。以後美福門院に接近し、久寿二年(1155)の後白河天皇即位に伴い忠実・頼長が失脚した結果、氏長者に返り咲いた。保元三年(1158)、関白を長子基実に譲り、応保二年(1162)、出家。法名は円観。
永久から保安(1113-1124)にかけて自邸に歌会・歌合を開催し、自らを中心とする歌壇を形成した。詩にもすぐれ、漢詩集「法性寺関白集」がある。また当代一の能書家で、法性寺流の祖。日記『法性寺関白記』、家集『田多民治(ただみち)集』がある。金葉集初出。勅撰入集は五十九首(金葉集は二度本で数えた場合)。 】

この「十一尽くしの特別な年紀」は、日蓮宗の聖日の「小松原法難」との関連など幾つの説があるが、「三十一字」(みそひともじ)」の、光悦の洒落の雰囲気で無くもない。

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%96%87%E5%AD%97-513664

(「十日夜の月」→陰暦十日頃、「弦」さらに丸みを帯びると「十三夜月」)

ベルリン国立アジア美術館光悦月・.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「月図」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm
(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)では、「稲田図」(鴨長明の歌)が紹介されている。この「月図」は、次の藤原家隆の歌である。

    百首歌よみ侍りける中に
289 昨日だに訪(と)はんと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(藤原家隆「新古今・巻四・秋歌上」)
(夏であった昨日でさえ尋ねようと思った津の国の生田の森に、今日は、秋は来たことだ。)

 「生田の森」は、今の兵庫県神戸市生田区にあった森。「君住まば訪(と)はましものを津の国の生田の森の秋の初風」(僧都清胤「詞葉・秋」)。歌意・校注は、『日本古典文学全集26 新古今和歌巻集(峯村文人:校注・訳)』に因っている。

【 白地に金泥をうすく刷き、下半をはすかいに区切った―恐らく山の端に見立てた―土坡には、濃い金泥を塗り、その上に銀泥の十日あまりの月を大きく、月の上端は画面をはずれるほど大きく、えがく。桃山時代は月を描けば、このふくよかな十日月である。柳橋水車図の月がそうであり、団家本の光悦歌巻の月もそうである。それはまた光悦のたっぷりした量感の表現と軌を一にするものである。この第十九枚目からは、屏風としては、左隻に移って、秋に入るのであるが、右隻の第一葉が、春のはじめとして日輪であったのに対し、ここは弦月をもって対照させている。歌は新古今集巻四秋歌である。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

(参考)

https://core.ac.uk/download/pdf/228663408.pdf

 源豊宗の「秋草の美学」論―中国絵画との比較研究を踏まえて―(関西大学大学院東アジア文化研究科 施 燕)

「ベルリン博物館蔵光悦色紙帖研究」(1966)、

(抜粋)
【 源の琳派研究は、1950 年「扇屋俵屋宗達」に始まり、『本阿弥光悦』(1954)、『宗達の芸術』(1954)、『光琳の生涯』(1954)、『光琳の芸術』(1959)、『宗達の墨絵』(1961)、『光琳と乾山の美術史上の位置』(1962)、「ベルリン博物館蔵光悦色紙帖研究」(1966)、『光悦短冊帖について』(1969)、(共編)『琳派工芸選集』(1968)、『宗達と水墨画』(1970)、『宗達の様式』(1972)、『光悦の書風とその展開』(一-三)(1973)、『宗達とその周辺』(1974)、
『俵屋宗達』(日本美術絵画全集)(1976)、『五島本光悦筆「新古今色紙帖」』(解説)(1976)、
「平家納経と宗達」(対談)(1976)、「光悦の芸術」(畠山本宗達下絵光悦筆四季草花和歌巻)
(1977)、「初期の光悦」(1977)、「日本の美術工芸と光琳」(1982)、「鷹峰以前の光悦」(1985)、
「本阿弥光悦の芸術」(1990)といった多数の研究にわたっている。それらの論考は実証
的手法に基づきながら、様式の展開とそこに反映される民族的精神を追求するという研究
姿勢に貫かれている。一方、数からいえば、宗達と光琳が主な研究対象であって、その中、
光琳よりも明らかに宗達に偏重していることが明らかである。】
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最晩年の光悦書画巻(その十四) [光悦・宗達・素庵]

(その十四)草木摺絵新古集和歌巻(その十四・馬内侍)

馬内侍.jpg

草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)
寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
絹本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
(拡大図)

鷹峯隠士・拡大氏.jpg

巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。

1161 忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍「新古今」)
(忘れてもけっして人にお語りなさいますな。うたた寝の夢を見るようなあなたとの儚い一夜を過ごしてのちも、長くはあるまいと思われる命なのだから。)

 この歌には、「人にもの言ひはじめて」(「人に言葉をかはじめて」=「その人と情を通わせはじめて」)との詞書と「馬内侍」との作者名も書かれている。
 これが「花卉摺下絵新古今集和歌巻」(MOA美術館蔵)では、詞書も作者名も省かれている。

花卉六.jpg

「花卉摺下絵新古今集和歌巻」(MOA美術館蔵) 巻末の「和泉式部」(部分図)

 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は「紙本金銀泥摺絵墨書和歌巻」で、「草木摺絵新古今集和歌巻」、「絹本金銀泥摺絵墨書和歌巻」で、両者は「紙本」と「絹本」との違いはあるが、共に、「金銀泥摺り木版画を施したものに和歌を墨書した巻物」ということになる。
 そして、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は、「梅、藤、竹、芍薬、蔦」の金銀泥摺り絵の模様で、「草木摺絵新古今集和歌巻」は、「躑躅、藤、立松、忍草、蔦、雌日芝(めひしば)」
の絵の模様で、上記の「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の巻末のものは、「蔦」の絵(模様)で、
「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻末のものは、「雌日芝(めひしば)」の絵(模様)で、こちらには、金砂子や金銀泥の刷毛などが仕上げ用に施されている。
 そして、この「巻物」に書かれている「墨書」は、『新古今和歌集』の「巻十二(「恋歌二)」から「巻十三(恋歌三)」に掛けての歌が、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では二十一首(「詞書」と「作者名」は省略)、「草木摺絵新古今集和歌巻」では十三首(「詞書」と「作者名」有り)が書かれている。
 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は「縦三四、一㎝×長九〇七、四㎝」、「草木摺絵新古今集和歌巻」は「縦三五、八㎝×長九五七、二㎝」で、共に、九メートル以上の長大な巻物であるが、そこに書かれている歌数(前者=二十一首、後者=十三首)の違いは、後者では、「歌」のほかに「詞書と作者名」とが書かれ、前者では「歌」のみが書かれていることに因る。
 この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の巻頭と巻尾の歌は次のものである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-16

(巻頭)
1139 袖の上にたれゆゑ月は宿るぞとよそになしても人問へかし(藤原秀能「新古今」)
(巻末)
1160 枕だに知らねばいはじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古今」)

 そして、その十番目に書かれている歌は、次の西行の一首である。

1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)

 これは、慶長十年(一六〇五)、光悦の四十八歳前後の作品なのであるが、これが、光悦の最晩年の寛永十年(一六三三)、七十六歳時の「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻頭の一首に、
この十番目の西行の一首が登場するのである。その巻尾の一首は、上記の和泉式部の歌の次に配列されている馬内侍(うまのないし)の一首なのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-15

(巻頭)
1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)
(巻末)
1161 忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍)

 この「馬内侍」については、次のアドレスのものを掲載して置きたい。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/umanaisi.html

馬内侍(うまのないし)生没年未詳(949頃-1011頃) 別称:中宮内侍

文徳源氏。源能有の玄孫。左馬権頭(または右馬頭)源時明の娘(尊卑分脈・中古三十六歌仙伝)。実父は時明の兄致明という。
はじめ斎宮女御徽子女王に仕え、円融天皇代、堀河中宮(藤原兼通女)に仕えたらしい。のち、選子内親王・東三条院詮子に仕え、一条院后定子の立后の際、掌侍となる。伊尹・道隆・実方・道長・公任など、多くの貴公子と交渉を持った。晩年、出家して宇治院に住む。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。梨壺の五歌仙。拾遺集初出。勅撰入集三十八首。家集『馬内侍集』がある。『大斎院前の御集』(『馬内侍歌日記』とも呼ばれた)にも多くの歌を載せる。

 この馬内侍のプロフィールにある「伊尹・道隆・実方・道長・公任など、多くの貴公子と交渉を持った」とあるとおり、「藤原伊尹」(藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男、後に、摂政・太政大臣となる)、「藤原道隆」(藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣)、「藤原実方」(左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は正四位下・左近衛中将)、「藤原道長」(藤原北家 、 摂政 関白 太政大臣 ・ 藤原兼家 の五男(または四男)。 後一条天皇 ・ 後朱雀天皇 ・ 後冷泉天皇 の 外祖父 にあたる)、そして、「藤原公任」(藤原北家小野宮流、関白太政大臣・藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。小倉百人一首では大納言公任。『和漢朗詠集』の撰者としても知られる)と、いわゆる、摂関政治の黄金時代を彩るエリート公家・歌人と渡り合った、これまた、エリート女房・歌人の一人ということになる。
 そして、この「馬内侍」の前に配列されている「伊勢」と「和泉式部」と、この三人の「伊勢・和泉式部・馬内侍」とを並列されると、さながら、「王朝女流歌人の三羽烏」、そして、藤原道長が和泉式部に戯れに呈した「浮かれ女」を冠すると、「華麗な恋愛遍歴に彩られた王朝女流歌人の三羽烏」ということになる。
 それにしても、『新古今和歌集』の、この「巻第十三、恋歌三」の、この「伊勢・和泉式部・馬内侍」の三首続きは圧巻である。

(伊勢)
    忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(伊勢「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

(和泉式部)
    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古1160」)
(枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。)

(馬内侍)
   人にもの言ひはじめて
忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍「新古1161」)
(忘れてもけっして人にお語りなさいますな。うたた寝の夢を見るようなあなたとの儚い一夜を過ごしてのちも、長くはあるまいと思われる命なのだから。)

 そして、四十代に挑戦した、同じ、「新古今和歌集」の『新古今和歌集』の「巻十二(「恋歌二)」から「巻十三(恋歌三)」に掛けての歌が、七十代には、晩年の光悦書に特徴的な「震え」のある書風の「肉細く筆鋒の鋭さを加えた、筆の運びもおそく枯淡の味を深めてゆく」、その「書画一致の美の世界」は、まさに、光悦が最晩年の世界と言えるであろう。
 そして、そこに、「華麗な恋愛遍歴に彩られた王朝女流歌人の三羽烏」の「伊勢・和泉式部・馬内侍」の三首が、何とも、光悦の最晩年の華やぎ」を見るような思いがして来る。
 ここで、晩年の光悦の「寛永期以降の光悦書画巻」の総括的な記述を掲載して置きたい。

【 鷹峯の大虚庵に居住し、書の揮毫に明け暮れたと伝えられている晩年の光悦は、寛永三年(一六二六)から寛永十三年(一六三六)にいたるまで、寛永の年紀をもつ約二十点余りの書画巻を残している。ここに巻頭と巻末を紹介した「草木摺絵新古今集和歌巻」のように、これらはおおむね絹本の上に金泥のみの摺絵を施し、晩年の光悦書に特徴的な「震え」のある書風を見せている。摺絵模様は、慶長期の金銀泥摺絵のものと異なり、いわゆる「光悦本」の雲母摺下絵に見出されることでも注目される。たとえば、雌日芝が表章(おもてあきら)の分類による特製本(川瀬分類では第一種)や上製本(同第三・四種)に見られ、藤、躑躅などの図様は、表の分類の色替わり本(同第二種)や袋綴別製普通本(同第九種)などの一部に見出されるのである。書画巻と謡本が同版を共有している可能性が高く、年紀のある寛永期の書画巻は、多くの版種をもつ「光悦謡本」の出版時期やその制作背景の研究にも約立つのではなかろう。】
(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

                                             
(追記一) 「四季草花下絵新古今集和歌色紙」(藤原俊成和歌・ベルリン国立アジア美術館蔵)メモ

俊成・ベルリン.jpg

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO31813030V10C18A6BC8000/

【 下絵は金泥の林から滝が右上から左にかけて弧を描いて垂下し、飛沫や波を立てて流れていくダイナミックな自然景である。対する書は、上の句を滝のカーブや盛り上がる波頭に合わせて、中央を斜めに「聞人そ涙ハ/落帰雁(おつるかえるかり)/」と漢字を多く用いて豪快にしるし、下の句の「鳴て行/くな/る/曙」を右下の流水に散らし、残りの「濃(の)/空」の二字を上部の滝の向こう側に配する。これなどを見ていると、つくづく力ある下絵に反応し、その方向性を、書の力によっていっそう高めようとする光悦の意欲に圧倒される思いがする。そして、力強い色紙の出現と重なるようにして、巻物という新しい形式が現れていくのである。】(『日本美術のことばと絵・玉蟲敏子著・角川選書』) 

(追記二) 江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-13


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最晩年の光悦書画巻(その十三) [光悦・宗達・素庵]

(その十三)草木摺絵新古集和歌巻(その十三・和泉式部)

花卉六.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (6)(和泉式部)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)

(釈文)満久らだ尓しら年ハ以ハじ見しま々尓君可多るなよ春濃能夢

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html

    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)
【通釈】枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。
【語釈】◇枕だに… 古歌より「人は知らなくても枕は情事を知る」という観念があったため、枕さえせずに寝たのである。だから枕も告げ口のしようがない(下記本歌・参考歌参照)。◇春の夜の夢 情事を喩える。
【補記】『和泉式部続集』では「おもひがけずはかりて、ものいひたる人に」の詞書に続く三首の第二首で、第四句は「君にかたるな」とする。
【本歌】伊勢「伊勢集」「新古今集」
夢とても人にかたるなしるといへば手枕ならぬ枕だにせず
【参考歌】
よみ人しらず「古今集」
わが恋を人しるらめや敷妙の枕のみこそしらばしるらめ    
伊勢「古今集」
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空にたつらむ

和泉式部(いずみしきぶ)生没年不詳

生年は天延二年(974)、貞元元年(976)など諸説ある。父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(たいらのやすひら)女。父の官名から「式部」、また夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれた。
母が仕えていた昌子内親王(冷泉天皇皇后)の宮で育ち、橘道貞と結婚して小式部内侍をもうける。やがて道貞のもとを離れ、弾正宮為尊(ためたか)親王(冷泉第三皇子。母は兼家女、超子)と関係を結ぶが、親王は長保四年(1002)六月、二十六歳で夭折。翌年、故宮の同母弟で「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王との恋に落ちた。この頃から式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが『和泉式部日記』である。親王との間にもうけた一子は、のち法師となって永覚を名のったという。
しかし敦道親王も寛弘四年(1007)に二十七歳の若さで亡くなり、服喪の後、寛弘六年頃から一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺にはこの頃紫式部・伊勢大輔・赤染衛門などがいた。その後、宮仕えが機縁となって、藤原道長の家司藤原保昌と再婚。寛仁四年(1020)~治安三年(1023)頃、丹後守となった夫とともに任国に下った。帰京後の万寿二年(1025)、娘の小式部内侍が死去。小式部内侍が藤原教通とのあいだに残した子は、のちの権僧正静円である。
中古三十六歌仙の一人。家集は数種伝わり、『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)がある。また『和泉式部日記』も式部の自作とするのが通説である。勅撰二十一代集に二百四十五首を入集(金葉集は二度本で数える)。名実共に王朝時代随一の女流歌人である。


「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、この歌が末尾で、この後に、「光悦」の黒印が押印してある。この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は、慶長十年(一六〇五)前後の作品とされ(『玉蟲他・前掲書』)、光悦の四十八歳前後に制作されたものということになる。
これらについては、下記のアドレスで触れてある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-16

(再掲)

【  花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-1)
17世紀初め、MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝
具引き、すなわち胡粉を塗って整えた料紙に、梅、藤、竹、芍薬、蔦などの四季の花卉を金銀泥で摺り、「新古今集和歌集」巻十二、十三から選んだ恋歌21首を書写する。起筆の文字を大きく濃くしるし、高低、大小の変化をつけた散らし書きのリズムが心地よい。末尾に署名はなく「光悦」の黒印のみを捺している。背面は松葉文様を摺り、紙継ぎに「紙師宗二」印を記す。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】

 そして、光悦は、その最晩年の、寛永十年(一六三三)に、「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印のある、次のアドレスの「草木摺絵新古今集和歌巻」を仕上げる。
しかし、この末尾の歌は、上記の、和泉式部の歌(「新古1160」)ではなく、次の(「(新古1161)」)の「忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍)」のものである。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-15

馬内侍.jpg

(再掲)

【 草木摺絵新古今集和歌巻(部分) 寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
紙本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした下絵に、巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す。巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】


 「伊勢・和泉式部・馬内侍」の関連などは、次の「馬内侍」で触れることにして、ここでは、『菟玖波集(上)』所収の「和泉式部」の連歌などについて触れて置きたい。

    清水寺に通夜し侍りけるに瀧の音を聞きて
  よる音すなり瀧の白絲            和泉式部
    と申してまどろみ侍りけるに、御帳の中より
    けだかき御声して
623 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて
    これは観音の付けさせ給ひけるとぞ。

   みるめはなくて恋をするかな
    と侍るに
624 あふみなるいかごの海のいかなれば
    此句は保元の頃、近江に在廰成りけるもの、
    国中にならびなき美女をあひぐしたりける
    を、国司聞きて彼女を恋ひけるになげき申
    しければ、国司思ふ様ありて、みるめはな
    くてといふ連歌をして箱に入れて封を付け
    て、此連歌を見ずして付けたらんに、こと
    わとかなひたれば、汝がなげき申す旨をゆ
    るすべしと云いけるに、此男此道の行衛を
    知らねば、おもふばかりなくて、石山寺に
    こもりてさまざま祈り申しけるに、七日過
    ぎて泣く泣く下向しける時、大門より一町
    ばかり行きて下女一人行き逢ひて此句を詠
    じける程に、佛の教にこそと思ひて、国司
    のもとへ行きて申しければ、ことわり叶ひ
    たりとて、其女をゆるしてけり。是は観音
    の御連歌となん申し伝へたる。

 この「623」の校注(福井久蔵校注)に、「白絲の瀧の夜落ちる音を現実に聞いたことを前句にあげたので、白絲の詞により、大慈大悲の観音の手毎にその絲を繰りかけてと詞の縁にすがつて寄合をなした。夜に縒るをかけ、手に繰(く)るを寄合とした。また清水寺の本尊が千手観音佛でおはすことはいふまでもない。」とある。
  また、「624」の校注は、「みるめは海藻の一種、海松(みる)に見るをいひかけ、噂だけで、目のあたり見ないのになぜ恋ひしいのか、の意。今昔物語には『みるめもなきに人の恋ひしき』とある。」と「前句に対して、それはいかなるわけか知らぬといふべきであるのを、いかがといふのに序として用ゐる伊香胡の崎を出し、それは近江国にあるので、さらに近江なると加えた。」とある。

 この詞書(「前書き」と「後書き」)によると、この「付句」は、「観音」の「お告げ」に因るものということになる。

   よる音すなり瀧の白絲            和泉式部
623 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて     (観音)

   みるめはなくて恋をするかな         国司
24 あふみなるいかごの海のいかなれば       (観音)

 ここで、連歌(「短連歌」と「長連歌」)というのは、大雑把に、「二人以上の作者が、一つの歌を作ることで、上の句(五七五句)と下の句(七七句)、又は、下の句と上の句とを作ることを、「短連歌」と言い、それを、繰り返し続けることを「長連歌」と言う」と定義することも出来よう。
 そして、二人で創作することを「両吟」、三人でする場合は「三吟」とかと呼ばれる。ここで、一人で創作する場合は「独吟」(片吟)と呼ばれるが、原則は、二人以上の共同(協同)創作ということになろう。
 その「独吟」の場合も、単純に、「上の句」と「下の句」とを創作するのではなく、それぞれが、「上の句」は「上の句」、「下の句」は「下の句」として、別人が創作したように独立していているように作ることが原則となって来る。
 
 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて     (観音)
  よる音すなり瀧の白絲           和泉式部
 あふみなるいかごの海のいかなれば      (観音)
  みるめはなくて恋をするかな        国司

 上記のように表記すると「観音・和泉式部・国司」の「三吟」の四句ということになる。
「大悲じやの千千の手ごとにくりかけて」(前句)に対して「よる音すなり瀧の白絲」(付句)は、「校注」の場面ですると、京都の清水寺の御本尊、大慈大悲の「十一面千手観世音菩薩」
の前句に対して、その音羽山の「音羽の瀧」の付句である。
 続く、「よる音すなり瀧の白絲」(前句)の「京都の音羽の瀧」に対する「あふみなるいかごの海のいかなれば」(付句)は、場面を「近江の伊香胡(余呉湖)へと「転じ」ている。
 さらに、「あふみなるいかごの海のいかなれば」(前句)の「近江と相見」の「掛詞」に対して、「みるめはなくて恋をするかな」(付句)も「海松(みる)と見る」との「掛詞」で応酬   
している(この「掛詞」を「賦物」として読み取り「掛詞」で応じている)。
 この和泉式部の連歌は、南北朝時代の連歌の大成者、二条良基の『菟玖波集』に収載されているものだが、二条良基には、別に、連歌論書として、『筑波問答』『応安新式』『連理秘抄』などがある。
 その「筑波問答」に、「後鳥羽院建保の比より、白黒又は色々の賦物の獨(ひとり)連歌を、定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻などにも侍るにや」とあり、「伊勢・和泉式部」時代、そして、次の「後鳥羽院・定家・家隆」時代には、「賦物連歌」(追記一・追記二)で「獨連歌」(独吟)が主体であったことが了知される。
 しかし、この「後鳥羽院・定家・家隆」時代には、連歌式目(ルール)というのは確立しておらず、その萌芽は、後鳥羽院の第三皇子・順徳天皇の『八雲御抄』(追記三)あたりで、二条良基の『連理秘抄』では、「八雲の御抄にも、末代(同書巻一・正義部に見える)ことに存知すべしとて、式目など少々しるさるゝにや」と記されている。
 そして、これらの「短連歌」から「長連歌」、そして、「独(ひとり)連歌」(独吟)から「連歌」(両吟以上の連歌)への移行を知る上で、上記の『菟玖波集』所収の和泉式部の連歌は、多くの示唆を含んでいる。

【和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交しける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるなり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらんは、いでや、さまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめり、とぞ見えたる筋に侍るかし。はづかしげの歌詠みや、とは覚えはべらず。】(『紫式部日記』の「和泉式部」評)

 この紫式部の「和泉式部」評で、「口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり」(口にまかせて詠んだ歌には、かならずこれはと、一ふし目にとまるおもしろいことを詠み添えております)と「口にいと歌の詠まるるなめり、とぞ見えたる筋に侍るかし」(口にすらすらと歌が詠み出されてくるといったたちの才能なのでしょうよ)とが、いわゆる、「連歌」(「短連歌」と「長連歌」)の本質の「当意即妙」「臨機応変」「挨拶と即興」などに「長けている歌人」であるという評なのであろう(この引用文の和訳は『王朝女流歌人抄(清水好子著)』に因っている)。


(追記一) 「賦物」(連歌におけることば遊び、「賦物(ふしもの)」)

https://japanknowledge.com/articles/asobi/06.html

(追記二) 「物名」(隠し題)

https://japanknowledge.com/articles/asobi/05.html

(追記)三 『八雲抄』巻第1-6 / [順徳天皇] [撰]

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00288/index.html
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