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四季花卉下絵古今集和歌巻(その五) [光悦・宗達・素庵]

その五 梅(その四)

四季花卉下絵古今集和歌巻73.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    五節の舞姫を見てよめる
872 天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ(良岑宗貞 )
(空を吹く風よ、雲の通い路を吹き閉じてくれ。そして、空に帰る乙女たちの姿を今しばらく留めておきたいのだ。)
    五節のあしたに簪の玉の落ちたりけるを見て、
    誰がならむととぶらひてよめる
873 主や誰問へど白玉言はなくにさらばなべてやあはれと思はむ(河原左大臣)
(誰のものかと聞いても簪の白玉は何も言わない。それ故に、誰とかは特定せずに、五節の舞女全員が愛らしく思えるのだ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

872 安(あ)ま徒(つ)可(か)世(ぜ)雲濃(の)通路(かよひぢ)吹(ふき)きと知(ぢ)よをとめ能(の)姿しハ(ば)しと々(ど)免無(めむ)

※安(あ)ま徒(つ)可(か)世(ぜ)=天つ風。天空を吹き渡る風。乙女が舞う宮廷の庭を天上になぞらえているために、そこを吹く風を「天つ風」と言っている。
※雲濃(の)通路(かよひぢ)=雲の通ひ路。天空の通り路。「殿上をば雲の上と云へば、そのおりのぼる道を雲のかよひぢとは云也」(『顕註密勘抄』)。
※吹(ふき)きと知(ぢ)よ=「天つ風」に対し、「雲をたくさん吹き寄せて、天の通り道を塞いでしまえ」と願っている。
※をとめ=乙女。五節の舞姫のこと。
※※五節(ごせち)=新嘗祭の翌日(十一月の中の辰の日)、豊明(とよのあかり)の節会に際して舞われた少女楽。公卿・国司の娘より美しい少女を四、五名選んで舞姫に召した。

873 ぬしやた連(れ)問(とへ)ど白玉以(い)者(は)那(な)久(く)尓(に)左(さ)ら半(ば)なべ天(て)や阿(あ)ハ(は)連(れ)と於(お)もハ(は)無(む)

※ぬしやた連(れ)=主(持ち主)や誰。白玉に対して問いかけている。
※以(い)者(は)那(な)久(く)尓(に)=言わないのに。「でも、それなら私はこう思おう」と続く文脈。
※左(さ)ら半(ば)なべ天(て)=さらば(それなら)なべて(すべて)。
※※とぶらひて=訪ねて。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/henjou.html

良岑宗貞(よしみねのむねさだ)→遍昭(へんじょう)

【遍昭(へんじょう) 弘仁七~寛平二(816-890) 俗名:良岑宗貞 号:花山僧正 
桓武天皇の孫。大納言良岑朝臣安世の八男。素性法師は在俗時にもうけた息子。名は遍照とも書かれる。
承和十二年(845)、従五位下に叙せられ、左兵衛佐となる。蔵人・左近少将等を経て、嘉祥二年(849)、蔵人頭の要職に就く。翌三年正月、従五位上に叙されたが、同年三月二十一日、寵遇を受けた仁明天皇が崩御すると、装束司の任を果たさず出家した。この時三十五歳。比叡山に入り、慈覚大師円仁より菩薩戒を受け、台密の修行に励む。貞観十年(868)に創建された花山寺(元慶寺)の座主となる。また、貞観十一年(869)に仁明天皇の皇子常康親王より譲り受けた雲林院をその別院とした。元慶三年(879)、権僧正。仁和元年(885)十月、僧正。同年十二月、七十の賀を光孝天皇より受ける。寛平二年正月十九日、七十五歳で死去。花山(かざん)僧正の称がある。
六歌仙・三十六歌仙。後世の他撰家集『遍昭集』がある。惟喬親王や小野小町と歌を贈答している。古今集に十七首、勅撰集入集歌は計三十六首(連歌一首含む)。】

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tohoru.html

河原左大臣(河原の左のおほいまうちの君=かわらのさだいじん)→源融(みなもとのとおる) 

【源融(みなもとのとおる) 弘仁一三~寛平七(822-895) 号:河原左大臣 
嵯峨天皇の皇子。母は大原全子。子に大納言昇ほか。子孫に安法法師がいる。系図
臣籍に下って侍従・右衛門督などを歴任、貞観十四年(872)、五十一歳で左大臣にのぼった。元慶八年(884)、陽成天皇譲位の際には、新帝擁立をめぐって藤原基経と争い、自らを皇位継承候補に擬した(『大鏡』)。仁和三年(887)、従一位。寛平七年(895)八月二十五日、薨去。七十四歳。贈正一位。河原院と呼ばれた邸宅は庭園に海水を運び入れて陸奥の名所塩釜を模すなど、その暮らしぶりは豪奢を極めたという。また宇治に有した別荘は、その後変遷を経て現在の平等院となる。古今集・後撰集に各二首の歌を残す。】

(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」)




「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)
四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg 

 これまでの、「その一、その二、その三/その四」と今回(「その五」)の歌(863~873、865は欠番)と関連する『伊勢物語』の歌(と※※※)一首は、次のとおりである。

(その一)
863  わが上に露ぞ置くなる天の川とわたる舟のかいのしずくか(読人知らず)
864   思ふどちまどゐせる夜は唐錦たたまく惜しきものにぞありける(読人知らず)
865 (省略されている。)
(その二)
866  限りなき君がためにと折る花は時しもわかぬ物にぞありける(読人知らず)
867  紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(読人知らず)
(その三)
※868 紫の色こき時は目もはるに野なる草木ぞわかれざりける(※業平朝臣)
869   色なしと人や見るらむ昔より深き心に染めてしものを(近院右大臣)
(その四)
870  日の光の藪しわかねば石上(いそのかみ) ふりにし里に花も咲きけり(布留今道)
※二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、
     大原野にまうでたまひける日よめる
※871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(※在原業平)
※※※白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを(『伊勢物語』第6段)
(その五)
872 天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよ※乙女の姿しばしとどめむ(良岑宗貞 )
873 主や誰問へど※※白玉言はなくにさらばなべてやあはれと思はむ(河原左大臣)

 ここで、今回の「873 主や誰問へど※※白玉言はなくにさらばなべてやあはれと思はむ(河原左大臣)」の、この「※※白玉」は、「『伊勢物語』第6段(芥川)」の「※※※ 白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを」の「※※※白玉」と、同じ意図を持ったもので、その主題は、「五節の舞姫」の「簪の白玉」ということになろう。
そして、それは同時に、『伊勢物語』の主人公(※在原業平、この『古今集』の「868・871」の作者)と「五節の舞姫」の一人であった「※二条の后(后となる以前の乙女の頃)」との、その「恋物語(ラブストーリー・ロマンス)」を背景にしているものと理解をしたい。
『伊勢物語』での、この「恋物語(ラブストーリー・ロマンス)」は、主として次の段(第3段~第9段、第76段)などにその背景が書かれているが、第1段(初冠)、第65段(御手洗川)、第69段(伊勢の斎宮)そして第125段(終章)も付記して置きたい。

http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html

※第1段 初冠(春日野の若紫の摺衣(しのぶずり)しのぶの乱れかぎり知られず)
第3段 ひじき藻(思ひあらば葎の宿にねもしなむひじきのものには袖をしつゝも)
第4段 西の対(月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身は一つもとの身にして)
第5段 関守(人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ)
※※※第6段 芥川(白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを)
第7段 東下り(伊勢・尾張)(いとゞしく過ぎ行く方の恋しきにらやましくもかへる浪かな)
第8段 東下り(信濃)(信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ)
第9段 東下り(八橋)(唐衣きつゝ馴にしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)
     同(宇津)(駿河なる宇津の山辺のうゝにも夢にも人に逢はぬなりけり) 
     同(富士)(時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ)
     同(隅田川)(名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと)
※第65段 御手洗川(恋せじと御手洗川にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな)
※第69段 伊勢の斎宮(かち人の渡れどぬれぬ江にしあれば/またあふさかの関は越えなむ
第76段 小塩の山(大原やをしほの山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ)
(※※871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(※※在原業平『古今集』))
※第125段 終章(つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを)

 ここまで来ると、前回の『伊勢物語・第七段(芥川)』=「伊勢物語図色紙・芥川:伝俵屋宗達筆」に続くものとしては、次の「蔦の細道図屏風」(書=烏丸光広、画=伝俵屋宗達、萬野美術館旧蔵→相国寺承天閣美術館蔵)ということになろう。


蔦の細道一.jpg

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館旧蔵 紙本金地着色 重要文化財

蔦の細道二.jpg

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館旧蔵 紙本金地着色 重要文化財

 これらについては、下記のアドレスで触れている。その「作品解説(山根有三稿)」を全文掲載して置きたい。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-22

【 六曲一双の金地屏風に、緑青一色の濃淡だけで蔦の葉と土坡を描いたもの。上部に書かれた烏丸光広の賛から『伊勢物語』第八段に出てくる蔦かずらの生い茂った宇津の山の細道であることがわかる。話の筋は、東に行けばなにかよいことがあるだろうと、都をあとにした男が途中三河の八ツ橋を渡り、駿河の宇津の山の細道を抜け、富士の山を眺めつつ、やっとの思いで東についたが、隅田川に遊ぶ鳥が都(みやこ)鳥であると聞き、有名な「名にし負はば……」を歌を詠み、都に思いをはせる、という一種の旅日記である。この蔦の細道は、原文では、「いと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく……」とあって、暗く心細いことが都への郷愁をいっそうかきたてる心理的に重要なくだりであるが、この屏風ではそんなことは頓着なく、すっきりと明るく仕上げている。『伊勢物語』のくだりは、発想のための一起点にすぎず、画家の心は金と緑青のあやなす夢幻の世界を快げに飛びかっている。
それにつけても大胆、かつ斬新な構図である。屏風の大画面を左から右へゆるやかに流れる三本の線、おそらく中央の蔦を描いた細い帯は、山あいを走る蔦の細道の象徴的な表現であろう。この蔦を除いて、あとは三本の線で区切られた抽象的な面の響き合いによる構成である。
では、この屏風は宗達の作であろうか。結論からいえば宗達ではないと私は考えている。理由の第一は、空間処理の感覚が宗達とは異質のものである。宗達の画面に描かれたものは、必ず二次元の平面的な位置だけではなく、三次元の前後関係における位置もしっかりと定められている。つまり広がりと奥行が綿密な計算のうえに、きわめて整然と画面のなかに組み立てられているのである。しかるにこの屏風では、三次元的な前後関係はいっさい無視して、平面におけるパターンの効果とおもしろ味をねらっている。もちろん蔦の葉の重なりには、おのずから前後ん゛描かれているが、この蔦全体の属する空間の位どりが゜は、はっきりしておらず、そのため土坡らしき緑青(補彩が多い)の面と、賛の書かれた金地の空間との関係も明確にされていない。しかし、それは技及ばずして描きえなかったのではなく、初めその意図がなかったとみるべきであろう。
古くより、宗達でなければこれほどのものは描けまいとする説があるが、もし宗達に共通点を求めるならば、金銀泥絵巻物の世界であろう。たしかに、上下よりも左右への広がりを見せるこの屏風は、巻物的な構図をしており、技法も金銀泥絵的といえる。また名士烏丸光広の賛があることからみて、宗達が金銀泥絵巻物を媒体にして、直接または間接に影響を与えた可能性は考えられる。
宗達の作でないとする第二の理由は、その金銀泥絵巻物に関連する蔦の葉の描法である。宗達の「四季草花図」和歌巻(注・(その四)俵屋宗達画・本阿弥光悦書「四季草花下絵和歌巻」=https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-11)の巻末に、一面蔦の葉ばかりを描いた場面があるが、濃淡による葉の重なり、葉の配置による奥行の深さなどにおいて、この屏風より一段まさっている。同一画家の出来・不出来であることに異論はない。なお光広とされる賛は次のとおり。

 行さきもつたのした道しけるより
  花は昨日のあとのやまふみ
 夏山のしつくを見えは青葉もや
  今一入(ひとしお)のつたのしたみち
 宇津の山蔦の青葉のしけりつゝ
  ゆめにもうとき花の面影
 書もあへすみやこに送る玉章(たまずさ)よ
  いてことつてむひとはいつらは
 あとつけていくらの人のかよふらん
  ちよもかはらぬ蔦の細道
 茂りてそむむかしの跡も残りける
  たとらはたとれ蔦のほそ道
 ゆかて見る宇津の山辺はうつしゑの
  まことわすれて夢かとそおもふ     】
(『原色日本の美術14宗達と光琳(小学館)』所収「作品57「『蔦の細道図(山根有三稿)』」)

(追記メモ) 「蔦の細道図屏風」(書=烏丸光広、画=伝俵屋宗達、萬野美術館旧蔵→相国寺承天閣美術館蔵)周辺

(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
承天閣美術館(じょうてんかくびじゅつかん)は、京都府京都市上京区の相国寺境内にある美術館。
相国寺創建600年記念事業の一環として1984年に開館した。相国寺および臨済宗相国寺派に属する鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)などが所有する墨蹟・絵画・工芸品等の文化財(国宝 2件(5点)[1]と国の重要文化財多数を含む)を収蔵・展示している。2004年には同年閉館した萬野美術館(大阪市)から国宝・重要文化財を含む約200点の美術品が寄贈された。

『形成される教養 十七世紀日本の<知>(鈴木健一編・勉誠出版)』所収「烏丸光広の画賛(田代一葉稿)」

蔦の細道図屏風(絵師・画者:俵屋宗達)
(左隻)
 行さきもつたのした道しげるより花は昨日のあとのやまふみ
 夏山のしづくをみえは青葉もや今一入(ひとしお)のつたのしたみち
 宇津の山蔦の青葉のしげりつゝゆめにもうとき花の面影
 書もあへずみやこに送る玉章(たまずさ)よいでことづてむひとはいづらば
 あとつけていくらの人のかよふらんち世もかはらぬ蔦の細道
(右隻)
 茂りてぞむかしの跡も残りけるたどらばたどれ蔦のほそ道
 ゆかで見る宇津の山辺はうつしゑのまことわすれて夢かとぞおもふ 
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四季花卉下絵古今集和歌巻(その四) [光悦・宗達・素庵]

その四 梅(その三)

四季花卉下絵古今集和歌巻72-73.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    いそのかみのなむまつが宮づかへもせで、
    石上といふ所にこもり侍りけるを、
    にはかにかうぶりたまはりければ、よろこび
    いひつかはすとてよみてつかはしける
870 日の光の藪しわかねば石上(いそのかみ) ふりにし里に花も咲きけり(布留今道)
(日の光が籔も区別することなく照らすように、あまねく照らすお恵みにより、石上の古い里にも花が咲いた。)
    二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、
    大原野にまうでたまひける日よめる
871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(在原業平)
(大原の小塩山も今日こそは、神世のことも思い出すであろう。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

870 日濃(の)光屋(や)ぶしわ可(か)年(ね)盤(ば)以曾濃可三(いそのかみ)婦利(ふり)尓(に)し里尓(に)華も咲(さき)介梨(けり)

※わ可(か)年(ね)盤(ば)=分かねば。区別することなく。
※以曾濃可三(いそのかみ)=石上(いそのかみ)。天理市の石上神宮付近から西一帯。
※婦利(ふり)尓(に)し里=「古い里」と「布留の里」とを掛けている。古い都のあった「石上の布留の里」の意。)
※※いそのかみのなむまつ=石上並松(人名)。仁和二年(八八六)に従七位から従五位下に昇叙された。石上神宮に関わりのある人物か。
※※かうぶりたまはり=冠(かうぶり)賜り。位階を賜った。

871 お保(ほ)ハ(は)らやをしほ濃(の)山も今日こ曾(そ)ハ神代(かみよ)濃(の)事を思出(おもひいづ)らめ

※お保(ほ)ハ(は)らや=大原や。大原野神社。大和の春日神社を勧請したもので、京都市右京区にある。
※をしほ濃(の)山=小塩の山。大原野神社の背後の山。
※神代(かみよ)濃(の)事=藤原氏の祖神・天児屋命(あめのこやねのみこと)が皇祖・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従って天降りしたことを指しているか。
※※二条のきさき=二条の后。清和天皇の女御、藤原高子(たかいこ)。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/imamiti.html

【 布留今道(ふるのいまみち) 生没年未詳
布留氏は代々石上神宮の神主をつとめた家系。貞観三年(861)、内蔵少属。元慶六年(882)、従五位下。下野介などを経て、寛平十年(898)、三河介。古今集に三首を載せる。 】

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/narihira.html

【 在原業平(ありわらのなりひら)=前掲=下記アドレス
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-23      】

芥川.jpg

A図(『伊勢物語・第七段(芥川)』=「伊勢物語図色紙・芥川:伝俵屋宗達筆」)
(「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」出品目録1-53: 伝俵屋宗達筆 紙本着色 縦二四・六 横二〇 大和文華館蔵)

【むかし、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きにきけり。芥河といふ河を率ていきければ、草のうへにおきたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。ゆくさきおほく、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓、やなぐひを負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ひつゝゐたりけるに、鬼一口に食ひてけり。 「あなや」といひけれど、神鳴る騒ぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

 白玉かなにぞと人の問ひし時
   露とこたへて消えなましものを

これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御せうと堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈にて内裏へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとり返し給うてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて后のたゞにおはしける時とや。   】『伊勢物語・第七段(芥河)』

871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(在原業平)
(大原の小塩山も今日こそは、神世のことも思い出すであろう。)

 この業平の歌の「詞書」(「二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、大原野にまうでたまひける日よめる」)の「二条のきさき(后)」は、上記の「伊勢物語図色紙・芥川: 伝俵屋宗達筆」の「男性(在原業平か)に背負われて女性(のちの二条の后か)」の女性である。
 この絵図について、次のように絵解きをしたものもある。

【 「男=業平」は手に入れがたい「女=のちの二条の后」に何年ものあいだ求婚しつづけ、やっとのことで盗みだし、暗いなか、「芥川」(大阪府高槻市を流れる川)のほとりまで逃げてきた場面。男と女の駆け落ちの場面だ。画面のほぼ中央に大きく、女を背負った男を描く。二人の体はもはや離れがたく一体化している。夢のなかにふわりと浮かんでいるように見え、リアリズム絵画にない幻想的な表現だ。「恋の逃走行」なのだが、切迫した悲壮感はない。
絵の詞書は、「女のえうまじかりけるを、としをへてよばひわたりけるを、からうじてぬすみて、いとくらきに、来けり」とある。この段の初めの一節だ。詞書は絵の一部かのように染筆されている。色紙の肌表紙の裏書に「昌程」とあり、その染筆は連歌師の里村昌程が担当したことがわかる。
なお、素庵の叔父吉田宗恂の女は、連歌師の里村玄仲に嫁しており、里村家と角倉・吉田家とは親戚関係にあった。素庵は、近衛信尹・近衛信尋・昌俔らの連歌会で詠まれた和歌・発句・連歌の清書を行なっている。素庵は公家たちと親交をもった。 】(『宗達絵画の解釈学―「風神雷神図屏風」の雷神はなぜ白いのか(林進著)』(敬文舎・2016年)


(参考)「四季花卉下絵古今集和歌巻」(梅その三・梅その四・躑躅・躑躅と糸薄)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」彩箋墨書、三三・七×九一八・七

雷神.jpg

B図(『伊勢物語・第七段(芥川・雷神)』=「伊勢物語図色紙・芥川:伝俵屋宗達筆」)
(「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」出品目録1-54: 伝俵屋宗達筆 紙本着色 縦二四・六 横二〇 個人蔵)

 上記で紹介したA図(大和文華館蔵)とこのB図(個人蔵)については、嘗て、次のアドレスで次のように記した。それを関連するところを全文再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-03

(再掲)

【『伊勢物語』(第六段)は「芥川」と題される段で、「伊勢物語図色紙(伝俵屋宗達画)」の三十六図(益田家本)の中では、この第六段中の「芥川」の図は夙に知られている。
 これを第六段の全文に照らすと(上記の※)、「をとこ(若い男=業平)と女(愛する尊い女性=後の二条の后)」とが「駆け落ち」する場面で、これは、宗達自身の肉筆画というよりも、宗達工房(宗達が主宰する工房)の一般受けする、いわゆる「宗達工房ブランド」の絵図と解したい。
 そして、次の「雷神」図なのであるが、この「雷神」図は、宗達画の代表的な作品の「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵・国宝)の、その「雷神」図の原型のようで、これこそ、「伊勢物語図色紙」の三十六図(益田家本)中の、宗達自身の肉筆画のように解したい。
 それにしても、この「雷神」図の詞書の「か見(神)さへ/いと/伊(い)ミし(じ)う/奈(な)り」は、どうにも謎めいているような感じで、『伊勢物語』の原文と照らすと、「神→雷神→鬼→(駆け落ちした女の「兄」)」という図式となり、その結末は、「鬼はや一口に食ひけり」、即ち、「女を連れ戻したり」ということで、何とも、他愛いない、これこそ、滑稽(俳諧)の極みという感じでなくもない。
 しかし、『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』の口絵(『伊勢物語図色紙』第六段「雷神図」)の紹介は次のとおりで、何と角倉素庵の追善画というものである。

[宗達は、癩(ハンセン病)で亡くなった角倉素庵を追善するために『伊勢物語図色紙』三六図を描き、素庵の知友、親王・門跡・公家・大名・連歌師らも、詞書をその上に書き入れ、表立ってはおこなえぬ法要に替えて供養した。素庵も雷神となって色紙のなかに登場し、生前の知己たちの間をとび回り、出来映えをたのしんでいるようだ。] (『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』)

 その「友人素庵を追善する『伊勢物語図色紙』」(第六章)では、その制作年代を寛永十一年(一六三四)十一月二十八日、二十二歳の若さで亡くなった、後陽成天皇の第十二皇子の「道周法親王」(「益田家本」第八八段の詞書染筆者、同染筆者の「近衛信尋・高松宮好仁親王・聖衛院道晃法親王の弟宮)の染筆以前の頃としている。
 ちなみに、その「益田家本『伊勢物語図色紙』詞書揮毫者一覧」の主だった段とその揮毫者などは次のとおりである。

第六段   芥川    里村昌程(二二歳)    連歌師・里村昌琢庄の継嗣(子)
同上    雷神    同上
第九段   宇津の山  曼殊院良尚法親王(一二歳) 親王(後水尾天皇の猶子)
同上    富士の山  烏丸資慶(一二歳)     公家・大納言光広の継嗣(孫)
同上    隅田川   板倉重郷(一八歳)     京都所司代重宗の継嗣(子)
第三九段  女車の蛍  高松宮好仁親王(三一歳) 親王(後陽成天皇の第七皇子)
第四九段  若草の妹  近衛信尋(三五歳)  親王(後陽成天皇の第四皇子)        
第五六段  臥して思ひ 聖衛院道晃法親王(二二歳)親王後陽成天皇の第一一皇子?) 
第五八段  田刈らむ  烏丸光広(五五歳)    公家(大納言)

 これらの「詞書揮毫者一覧」を見ていくと、『伊勢物語図色紙』」は角倉素庵追善というよりも、第九段(東下り)の詞書揮毫者の「曼殊院良尚法親王(一二歳)・烏丸資慶(一二歳)」などの「※初冠(ういこうぶり)」(元服=十一歳から十七歳の間におこなわれる成人儀礼)関連のお祝いものという見方も成り立つであろう。
 ちなみに、烏丸光広(五五歳)の後継子(光広嫡子・光賢の長子)、烏丸資慶(一二歳)は、寛永八年(一六三一)、十歳の時に、後水尾上皇の御所で催された若年のための稽古歌会に出席を許され、その時の探題(「連夜照射」)の歌、「つらしとも知らでや鹿の照射さす端山によらぬ一夜だになき」が記録に遺されている(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』)。 】

(追記メモ)

    いそのかみのなむまつが宮づかへもせで、
    石上といふ所にこもり侍りけるを、
    にはかに※かうぶりたまはりければ、よろこび
    いひつかはすとてよみてつかはしける
870 日の光の藪しわかねば石上(いそのかみ) ふりにし里に花も咲きけり(布留今道)
(日の光が籔も区別することなく照らすように、あまねく照らすお恵みにより、石上の古い里にも花が咲いた。)

 この歌の詞書の「※かうぶり」と、上記の「※初冠(ういこうぶり)」は関連性がある。

    ※二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、
大原野にまうでたまひける日よめる
871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(在原業平)
(大原の小塩山も今日こそは、神世のことも思い出すであろう。)

 この歌の詞書の「※二条のきさき」は、紛れもなく、「『伊勢物語』(第六段・芥川)」の「二条の后」そのものであろう。
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四季花卉下絵古今集和歌巻(その三) [光悦・宗達・素庵]

その三 梅(その二)

四季花卉71・72-1.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

     妻(め)のおとうとを持て侍りける人に、
     袍(うへのきぬ)をおくるとてよみてや
     りける
868 紫の色こき時は目もはるに野なる草木ぞわかれざりける(業平朝臣)
(紫草の色濃き時は目も見張るように、野にある草木も、(紫草の色濃き時は)、その区別がつきませんね。「親しい姉妹をそれぞれ妻にしている私たち二人がお互いに好感情を抱くのは当然のことですね」の意か。)
    大納言藤原の国経の朝臣の、宰相より中納言
    になりける時、染めぬ袍(うへのきぬ)のあや
    をおくるとてよめる
869 色なしと人や見るらむ昔より深き心に染めてしものを(近院右大臣)
(これには色がない(無風流)とあなたは見るでしょうが、実際には、(この無色の、無風流な色合いの中に)、昔から、(貴方に対して)、深く思う気持ちの色合いを込めて染め上げているですよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

868 無(む)ら左支(さき)濃(の)色こ幾(き)時盤(は)めもハ(は)る尓(に)野那(な)類(る)草木曾(ぞ)可(か)禮(れ)左(ざ)里(り)介(け)流(る)

※無(む)ら左支(さき)濃(の)色こ幾(き)=紫の色こき。紫草の根の色が濃いことで、裏に自分たちの二人の妻が血を分けた姉妹である意が込められているか。
※野那(な)類(る)草木=野なる草木。歌を贈った相手を野にある草木にたとえた。自分の妻の妹を紫草にたとえ、「あなたもその妹と同様に懐かしい」という意を込めているか。

869 以(い)露(ろ)なし登(と)人や見るら無(む)无(む)可(か)しよ利(り)ふ可(か)支(き)心尓(に)曾(そ)め天(て)し物を

※以(い)露(ろ)なし=色無し。色彩の無い意と無風流の意とを掛ける。
※人や見るら無(む)=人や見るらむ。この「人」は歌を贈る相手。
※ふ可(か)支(き)心=深き心。貴方を思う深い心で染め上げているの意。

※※ 業平朝臣(なりひらのあそん)=在平業平

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/narihira.html

【 在原業平(ありわらのなりひら) 天長二~元慶四(825-880) 通称:在五中将 
平城天皇の孫。阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。子の棟梁・滋春、孫の元方も勅撰集に歌を収める歌人である。妻の妹を娶った藤原敏行と親交があった。(以下、略) 】

※※ 近院右大臣(こんゐんのみぎのおほいまうちぎみ)=源能有(みなもとのよしあり)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yosiari.html

【 源能有(みなもとのよしあり) 承和十二~寛平九(845-897) 号:近院右大臣
文徳天皇の皇子。母は伴氏。藤原基経の娘を妻とする。子に当純がいる。仁寿三年(853)、源朝臣を賜わって臣籍降下。貞観四年(862)、従四位上に初叙され、貞観十一年、大蔵卿。同十四年、参議。元慶元年(877)、従三位。元慶六年(882)、中納言。寛平元年(889)、右近衛大将に東宮傳を兼任。翌年正三位に昇り、寛平三年、大納言。同八年、右大臣に就任したが、翌年五十三歳で薨じた。贈正二位。藤原因香・国経との贈答歌がある。古今初出。勅撰入集は四首。】

※※※ 「868 紫の色こき時は目もはるに野なる草木ぞわかれざりける(業平朝臣)」

http://www.milord-club.com/Kokin/uta0868.htm

【昔、女はらから二人ありけり。一人はいやしきをとこの貧しき、一人はあてなるをとこ持(も)たりけり。いやしきをとこ持たる、十二月のつごもりに、うへのきぬを洗ひて、手づから張りけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしき業(わざ)もならはざりければ、うへのきぬの肩を張り破(や)りてけり。せむ方もなくて、たゞ泣きに泣きけり。これを、かのあてなるをとこ聞きて、いと心苦しかりければ、いと清らなる緑衫(ろうさう)のうへのきぬを見出でてやるとて、

紫の色濃き時はめもはるに野なる草木ぞ別れざりける

武蔵野の心なるべし。  】(『伊勢物語・第四十一段』)

http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise/now/ise_ns41.html

伊勢四一段.jpg

(『伊勢物語・第四十一段』)


(参考)「四季花卉下絵古今集和歌巻」(竹・梅その一・梅その二)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」彩箋墨書、三三・七×九一八・七

(画像再掲)

隆達節断簡・梅・東京国立博物館.jpg

B図「四季草花木版下絵隆達節小歌巻断簡」 画像番号:C0036766 32.9×81.0 東京国立博物館蔵
【 花卉摺絵隆達節断簡 伝角倉素庵 一幅 紙本金銀泥摺絵墨書 33.0×81.3 東京国立博物館蔵  】(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』出品目録二)
【 隆達節断簡 俵屋宗達下絵 一幅 彩箋墨書 32.9×81.0 東京国立博物館蔵 】(「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」出品目録1-08)

【(前略) 胡粉地の料紙に、梅・蔦・藤・細竹・太竹の図様を金銀泥で摺ったもので、一つの版木を幾度も重ね摺りし、金銀泥の変化をつけて大胆に画面を構成するなどの工夫があり、無造作に捺された版画に生じた捺しムラが「たらし込み」に通じる効果を見せている。草花を大きくクローズアップするのは、宗達金銀泥絵と共通した特色であるが、なかでも最も複雑な版木の活用法を見せる作品で、新たな巻子本装飾の手法がうかがえる。
隆達の自筆によると、慶長十年(一六〇五)九月、親交のあった茶屋又四郎の求めによって行間に譜付けを加えたことが明らかになる。茶屋又四郎とは、京都の豪商で、朱印船貿易に活躍、家康の信任を得た上層町衆の一人であった。本文は、光悦流随一の書き手角倉素庵(一五七一~一六三二)の筆と伝えられているが諸説があり断定できない。(高橋裕次)  】
(「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」出品目録1-08)

(画像再掲)

隆達断簡・隆達署名・素庵筆.jpg

C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵 (『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』出品目録六)

【 (前略) 隆達小歌、隆達節の小歌などとも呼ばれる隆達節は、安土桃山時代、泉州堺の高三隆達が節付けして流行した歌謡である。それらは『日本古典文学大系』の「中世近世歌謡集」に収められている。高三隆達は、小歌の名人として織田信長の前で歌ったことがあり、また堺流書道の名手として豊臣秀吉に召されたともいう。款記にある「自庵」とは『大日本人名辞書』によれば隆達の別号であり、隆達の署名と花押まであるのだから、当然この巻は隆達自筆ということになるのだが、一般にこの小歌巻は角倉素庵の書であるといわれている。
 そこで、隆達の自筆である「遊里図屏風」(ボストン美術館蔵)の片隻二扇に貼られている「隆達節」や巻子の「隆達節」(不二文庫蔵)などと比較して見ると、まるで書風が異なる一方、素庵の「百人一首」(根本家蔵)などとはかなり似ている。しかし、よく比べてみると、同一筆者に帰着させることは、難しいように思われる。光悦流ではあるものの、素庵の書風はより典型化されていて、ややくねくねとしている。そこで、試みに光悦と比較してみると、むしろこれとの共通性のほうが強いのである。これも断定は差し控えなければならないが、少なくとも、素庵よりは光悦のほうにより多くの可能性を認めるべきであろう。したがって、ここでは一応光悦として扱っておきたい。
そもそも、隆達は飛鳥井雅親(栄雅)の流れを引く栄雅流であるのに対し、光悦は光悦流の創始者である。なぜ、先のようなことが起こったのかよくわからない。しかし、改めて注意してみると、歌の部分と款記とは書風が異なっており、前者は光悦、後者は隆達と擬定することができそうである。おそらく、隆達が庇護者であった茶屋又四郎に贈物とするため、光悦に依頼し、特に美しい料紙に自分の隆達節を浄写してもらったのであろう。そして、巻末に署名、年紀、宛名をみずから書いたのである。墨譜を加えたのも、隆達自身であったにちがいない。
 隆達と光悦とは親しい間柄であったはずであるが、ここでは隆達と又四郎との関係が第一義であって、書家や、まして料紙装飾を行なった職人の名などは、本紙上に明示する必要はなかったのである。ちなみに、贈られた茶屋又四郎は、豪商茶屋家の三代目四郎次郎清次のことである。慶長二十年本家名四郎次郎を襲名するまで、又四郎を名乗っていたのである。
(以下略)  】(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』所収「宗達金銀泥絵序説(河野元昭稿)」)

 この『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』所収「宗達金銀泥絵序説(河野元昭稿)」(1992年)は、『琳派―響きあう美(河野元昭著)』所収「※第6章 宗達金銀泥絵序説」(2015年)においても、そのまま踏襲されている。

『琳派―響きあう美(河野元昭著)』(思文閣出版・2015年)
(目次)
序 章 琳派と写意      (1989)
第1章  光悦試論   (2011/10-2012/7)      
第2章  宗達関係資料と研究史 (1977)  
第3章  養源院宗達画考 (1987)
第4章  宗達における町衆的性格と室町文化(1990)
第5章  宗達から光琳への変質 (1991)
※第6章  宗達金銀泥絵序説 (1992)
第7章  琳派の主題―宗達の場合 (1994)
第8章  宗達と能 (2003)
(第9章 光琳水墨画の展開と源泉~第16章 渡辺始興筆「真写鳥類図巻」について)
(第17章 乾山の伝記と絵画~第19章 乾山と光琳―兄弟逆転試論)
(第20章 抱一の伝記~第26章 鈴木其一の画業)
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四季花卉下絵古今集和歌巻(その二) [光悦・宗達・素庵]

その二 梅(その一)

四季花卉下絵古今集和歌巻71.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」)三三・七×九一八・七

      題しらず  
866  限りなき君がためにと折る花は時しもわかぬ物にぞありける(読人知らず)
(限りなき長寿のあなたのお祝いのために折り取った花は、季節に関係なく何時までも咲いている花でしたよ。)
867  紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(読人知らず)
(紫草が一本あるために、武蔵野の草は、すべていとおしく見えることだなあ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
866 限(かぎり)な幾(き)君可(が)為(ため)尓(に)と於(お)る華盤(は)時しも王可(わか)ぬも乃(の)尓(に)曾(ぞ)有(あり)介(け)る

※限(かぎり)な幾(き) 君可(が)為(ため)尓(に)=限りなき君がために。寿命の無限な貴方の為に。
※於(お)る華盤(は)=折る花は。
※時しも王可(わか)ぬ=時しもわかぬ。必ずしも時節を区別していない。

867 紫濃(の)日とも登(と)遊(ゆ)へ尓(に)武蔵野濃(の)草盤(は)三(み)な可(が)ら哀(あはれ)と曾(ぞ)見る

※紫濃(の)=紫草(むらさきそう)の。
※日とも登(と)遊(ゆ)へ尓(に)=一本(ひともと)故に。一本であるが故に。
※三(み)な可(が)ら=ことごとく。
※あはれ=しみじみとかわいい。いとしい。

 下絵は、「竹」の図から「梅」の図(その一)と変わる。『古今和歌集』の部立(構成)は、「春(二巻)・夏(一巻)・秋(二巻)・冬(一巻)・賀(一巻)・離別(一巻)・羇旅(一巻)・物名(一巻)・恋(五巻)・哀傷(一巻)・雑(二巻)・雑体(一巻)・大歌所御歌(一巻)」の二十巻構成で、その後の勅撰集の模範とされている。
 この「四季花卉下絵古今集和歌巻」の下絵で描かれている「竹・梅・躑躅・蔦・下草(糸薄)」などについては、この『古今和歌集』の「四季(春・夏・秋・冬)」の区分のものではなく、冒頭に、「四君子に属する竹・梅を選び、年初の歳寒のイメージを託す。弐種の素材であるので歳寒二友」ともいうべき、「竹(冬)・梅(春)」、そして、それに続く、「躑躅(夏)・蔦(秋)」という展開のイメージのような雰囲気である。
 いずれにしろ、ここで「竹(冬)」から「梅(春)」へとの場面転換(「季移り」)の図柄である。それに相応してのものなのかどうかは判然としないが、(下絵=竹図=863と864の二首 )と(下絵=梅図その一=866と867)との間に、次の一首(865)が省かれている。
 その一首(865)を、その前(下絵=竹図=863と864の二首)と、その後(下絵=梅図その一=866と867)との間に挿入すると、次のとおりとなる。

(下絵=竹図) 
863  わが上に露ぞ置くなる天の川とわたる舟のかいのしずくか(読人知らず)
(私の体が濡れているのは露が降りているのだそうだ。それならその露は天の川の渡し場を彦星が渡る舟の櫂から落ちた雫なのであろうか。)
864 思ふどちまどゐせる夜は唐錦たたまく惜しきものにぞありける(読人知らず)
(仲のいい者たちが車座に座って楽しいひとときを送っている夜は、立ち上がるのが本当に惜しいものだ。)

865 うれしきを何に包まむ唐衣袂ゆたかにたてと言はしも(読人知らず)
(こんなにたくさんある嬉しいことを何に包んで持って帰ろうか。着物の袖にしまえるように、大きく作ってくれと言っておくのだったなぁ。)

(下絵=梅図その一)
866  限りなき君がためにと折る花は時しもわかぬ物にぞありける(読人知らず)
(限りなき長寿のあなたのお祝いのために折り取った花は、季節に関係なく何時までも咲いている花でしたよ。)
867  紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(読人知らず)
(紫草が一本あるために、武蔵野の草は、すべていとおしく見えることだなあ。)

(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(竹・梅その一・梅その二)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」彩箋墨書、三三・七×九一八・七

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000074.htm

隆達節断簡・梅.jpg

A図「梅下絵隆達節断簡」紙本墨書金銀泥 縦:33.8cm 横:89.9cm MIHO MUSEUM蔵
【 堺の高三隆達によって始められた「隆達節」は,慶長年間(1596~1615)に流行した歌謡で,この隆達節をおよそ百種をおさめた巻物が作られたのだが,今は諸所に分蔵されている。
この巻物の特徴は,料紙に肉筆による装飾を施すのではなく,木版の金銀泥刷によって梅蔦細竹太竹を表現している点である。本図はそのうちの梅の部分の断簡で,梅の他の部分はたとえば東京国立博物館に所蔵される。
巻末にあたる部分は京都民芸館の所蔵で,そこには,慶長10年(1605)9月,高三隆達自身が京の豪商として名高い茶屋又四郎にこの巻物一巻を贈った旨が記されている。
なお,俵屋宗達による金銀泥下絵巻物とこの木版金銀泥刷下絵巻物とは,深い関係があることは確かではあるが,宗達との直接的関係を断定するのは時期尚早とすべきであろう。 】

 この紹介文の「東京国立博物館蔵」のものは、次のものである。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0036766

隆達節断簡・梅・東京国立博物館.jpg

B図「四季草花木版下絵隆達節小歌巻断簡」 画像番号:C0036766 32.9×81.0 東京国立博物館蔵
【 花卉摺絵隆達節断簡 伝角倉素庵 一幅 紙本金銀泥摺絵墨書 33.0×81.3 東京国立博物館蔵  】(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/17/2/17_2_155/_pdf/-char/ja

【(14)慶長十年九月茶屋又一郎宛本
角倉素庵筆というが、現所蔵者・内容共に未詳。その断簡と思われるもの(十章)、現在、東京国立博物館保管。左の如くである。
8   たねとりてうへし。うへなはむさし野も。せはくやあらん。わかおもひ草
9  みるめ。はかりになみたちて。なるとふねかや。あハてこかるエ
10  枕の海ハ、なみたつはかり。さらはみるめの。ありもせて
11  あハぬうらみハつもれとも。見れハことの葉もなし
12 うらみあるこそたのみなれ。おもハぬ中は。ふらすふられす
36 物のしゆむなハ春のあめ。なをもしゆむなは。たひのひとりね
37 華に。あらしのふかはふけ。君の心の。よそへちらすは
38 ひとりねてふたり。ぬるよのありさまを。かたるな人に。なふまくら
39 見製ゆるとなさけ。あれかし夢にさへ。つれなのふりや。なふきみは
40 月はにこりの水にもやとる。かすならぬ身に。なさけあれきみ
(頭の数字は文緑二年百五十章本の歌詞番号) 】(「隆達小歌集の伝本について(浅野健二稿)」)

http://www.ccf.or.jp/jp/04collection/item_view.cfm?P_no=2245

【高三隆達〈たかさぶりゅうたつ・1527-1611〉は、堺の薬種商の家の生まれ。日蓮宗顕本寺(けんぽんじ・大阪府堺市)の僧となり、日長(にっちょう)と改める。庵室を自在院(じざいいん)といい、高三坊(たかさぶぼう)と称したが、やがて還俗。小歌の名手としての盛名を高め、隆達節(りゅうたつぶし)と呼ばれる新しい歌謡を民衆に広めた。伏見城の能舞台において、細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉の鼓に合わせて歌い、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1537-98〉らの喝采を浴びたことは有名。書にも巧みで、自ら書写した「隆達節」(一巻・個人蔵)などが伝存する。さらに、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉周辺の紙師宗二(そうじ)調製の料紙(金銀雲母下絵)に角倉素庵〈すみのくらそあん・1571-1632〉が揮毫した「隆達節」(もとは一巻。断簡が東京国立博物館に収蔵)などもあり、その交友も広範囲に及んでいたことを推察する。書流系譜においては、牡丹花肖柏〈ぼたんかしょうはく・1443-1527〉を祖とする堺流に挙げられる。これは、隆達自作の小歌(=隆達節)を短冊形に書写したもの。かなりの能書で、手馴れた筆致である。文句の右横には、墨譜(曲節を明らかにするための点)がしるされる。隆達の遺墨は稀少で、この譜付けの一幅などは、尊貴な遺品といえよう。】

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21363&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「角倉素庵と『方丈記』(小秋元段 稿)」

 なお、「梅下絵隆達節断簡」(MIHO MUSEUM蔵)の紹介文で、「巻末にあたる部分は京都民芸館の所蔵で,そこには,慶長10年(1605)9月,高三隆達自身が京の豪商として名高い茶屋又四郎にこの巻物一巻を贈った旨が記されている」の「京都民芸館」ものは、次のものである。

http://drei-punkte.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/2-fbf6.html

隆達断簡・隆達署名・素庵筆.jpg

C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵 (『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 ここで、「本阿弥光悦略年譜」(『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収)の「慶長十年(一六〇五)」の項を見ると、次のような記載がある。

「慶長十年(一六〇五) 四八(歳) この年の紀年のある角倉素庵筆と伝える隆達節の巻物がある。四十八歳になったという手紙がある。この年の紀年をもつ八十嶋道除筆木版下絵『琵琶幷序』がある。この頃『蓮下絵和歌巻』(前半)を書くか。」

 この「本阿弥光悦略年譜」に記載されている「この年の紀年のある角倉素庵筆と伝える隆達節の巻物がある」というのが、上記の【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】を指しているように解せられる。
 しかし、この【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】が紹介されている『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』(出品目録五)には、「伝角倉素庵筆」の記載はなく、同時に出品されていた【B図「四季草花木版下絵隆達節小歌巻断簡」・東京国立博物館蔵】(出品目録二)の「作者」欄に、「伝角倉素庵筆」の記載があり、この【B図「四季草花木版下絵隆達節小歌巻断簡」・東京国立博物館蔵】(出品目録二)と【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】(出品目録五)と、さらに、【A図「梅下絵隆達節断簡」(MIHO MUSEUM蔵=「神慈秀明会」旧蔵)】とは、元々は一巻のものと解しての、「伝角倉素庵筆」としているのかも知れない。

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200008233/viewer/11

隆達・自筆.jpg

D図「初歌集」・著者:隆達・国文学研究資料館 貴重書・ 書誌ID:200008233 

 この【D図「初歌集」・著者:隆達・国文学研究資料館蔵】は、「高三隆達」の自筆筆とされており、この「自庵(隆達の号「自在院」の「自庵」)の署名・花押・紀年と宛名書き」は、
【C図「花卉摺絵隆達節断簡」・京都民芸館蔵】と同一であり、これらは、全て、「伝角倉素庵筆」ではなく、「高三隆達筆」と解するのが最も素直な理解のようにも思われる。
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四季花卉下絵古今集和歌巻(その一) [光悦・宗達・素庵]

その一  竹

四季花卉下絵古今集和歌巻70.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

      題しらず  
863  わが上に露ぞ置くなる天の川とわたる舟のかいのしずくか(読人知らず)
(私の体が濡れているのは露が降りているのだそうだ。それならその露は天の川の渡し場を彦星が渡る舟の櫂から落ちた雫なのであろうか。)
864 思ふどちまどゐせる夜は唐錦たたまく惜しきものにぞありける(読人知らず)
(仲のいい者たちが車座に座って楽しいひとときを送っている夜は、立ち上がるのが本当に惜しいものだ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
863 我(わが)上尓(に)露曾(ぞ)を久(く)那類(なる)天河(あまのがわ)とわ多(た)る舟濃(の)可(か)い乃(の)し徒(づ)久(く)可(か)

※我(わが)上尓(に)=我が上に。私の体の上に。
※露曾(ぞ)を久(く)那類(なる)=露ぞ置くなる。露がおいているのだそうだ。
※天河(あまのがわ)とわ多(た)る=天の川とわたる。天の川の川門を渡る。
※舟濃(の) 可(か)い乃(の)し徒(づ)久(く)=舟(七夕の夜に彦星が乗る舟)の櫂の雫。

864 おもふど知(ち)園居(まどゐ)世流(せる)夜(よ)ハ(は)唐錦多々(たた)ま久(く)於(お)し支(き)物尓(に)曾(ぞ)有(あり)介流(ける)

※おもふど知(ち)=思い合っている者たち。
※園居(まどゐ)世流(せる)=丸く座っている。集会している。
※唐錦(からにしき)=布に関する意から「た(裁)つ」「お(織)る」などにかかる枕詞。
※多々(たた)ま久(く)於(お)し支(き)=立ち上がることが惜しい。

(周辺ノート)

『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」では、「光悦書・宗達画和歌巻」の代表的なものとして、次の五巻を挙げている。

① 「四季花卉下絵古今集和歌巻」一巻、畠山記念館蔵、重要文化財
② 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」一巻、京都国立博物館蔵、重要文化財
③ 「鹿下絵新古今集和歌巻」一巻、MOA美術館、シアトル美術館ほか諸家分蔵
④ 「蓮下絵百人一首和歌巻」一巻、焼失を免れた断簡が東京国立博物館ほか諸家分蔵
➄ 「四季草花下絵千載集和歌巻」一巻、個人蔵

 これらの五巻のうち、下記の三巻については、これまでに取り上げてきた。

② 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」一巻、京都国立博物館蔵、重要文化財
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』78-87=「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」)
その一
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-19
その三十九
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-28
③ 「鹿下絵新古今集和歌巻」一巻、MOA美術館、シアトル美術館ほか諸家分蔵
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』88-103=「鹿下絵新古今和歌巻」)
その一
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-05
その二十九
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-10

➄ 「四季草花下絵千載集和歌巻」一巻、個人蔵
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』30-42=「四季花卉下絵千載和歌巻」)
その一
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-06
その二十五
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-17

 今回取り上げるのは、【①「四季花卉下絵古今集和歌巻」一巻、畠山記念館蔵、重要文化財】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』70-77「四季草花下絵古今集和歌巻」)である。

【 この和歌巻は、書のほうからもっとものびのびと筆が運ばれていると評価され、確かに絵との関わりを見ると、書き手は下絵としての理解に徹し、『古今和歌集』巻十七歌上の巻頭から詞書・詠者名を省いて歌のみ十九首をほぼ七行程度の散らし書きで自在に連ねて行く。一首の単位はイメージのまとまりに対応しており、その特色は躑躅と糸薄を描いた箇所によく現れている。このようにほぼ一種類のイメージに和歌一首を割り当てる方法は色紙などの揮毫と同じであり、光悦は小品画で培った方法にならっているということができる。
 「四季花卉下絵」と通称されるが、実際は樹木を含む竹・梅・躑躅・下草(糸薄)・蔦の五種の植物で構成され、このうち、竹と梅は中国の文人画の典型的な主題である四君子(しくんし)のうちに属している。下草を除く四種の素材が、共通してベルリン国立アジア美術館蔵「四季草花図和歌色紙帖」の上帖十八図に見出され、「新古今集」から選んだ和歌の部立によれば、春から夏のモティーフとして扱われている。この色紙帖の構成に基づいて①を見ると、竹梅は早春、躑躅は仲春に相応し、その次の蔦は、青葉茂れる夏から、実のなる秋にかけての題材として扱われているのがわかる。絵は冒頭に文人的な四君子に属する竹・梅を選び、年初の歳寒のイメージを託す。弐種の素材であるので歳寒二友というべきであろう。
 】『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」


(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(竹・梅その一・梅その二)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」彩箋墨書、三三・七×九一八・七

【 胡粉下地に金銀泥で、竹(冬)、梅(春)、躑躅(夏)、蔦(秋)を描いて下絵とし、その上に『古今和歌集』の十九首を散らし書きにした和歌巻である。右から左へ移動する巻物のもつ横長の連続的な画面の流れにのせて悠々と描かれたモティーフが、画面の中でドラマティックに展開する。竹の表面や梅・躑躅の幹など、滲みの効果をいかす「たらし込み」によって、量感や質感を見事に表現し、金銀の濃淡は、画面に情趣的な空間をつくりだしている。これに寛永の三筆の一人とされる光悦の豊麗秀潤な書が見事に調和し、絢爛豪華な美しさを生み出している。
 巻末に「光悦」の黒文方印があり、光悦の書であることを示している。また「伊年」の朱文円印は「四季草花千載集和歌巻」、「蓮池水禽図」に捺されるものと同印で、宗達が法橋叙任以前、自作に用いた印であったと考えられている。同印を捺す作品には、やや作風を異なにするものもあり、これを工房印の一種とみる説もあるが、本作品については作風の優秀性からも宗達筆とするのに異論はなく、光悦の書体から、慶長末期頃の作と考えられている。(高橋祐次)  】「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-13

花卉摺絵新古今.jpg

本阿弥光悦書「花卉摺絵新古今集和歌巻」(「竹図」・部分図)
時代 桃山~江戸時代(17世紀) 素材・技法 紙本木版金銀泥摺・墨書 一巻
サイズ   34.1×全長 907.0㎝  (MOA美術館蔵)

http://www.moaart.or.jp/?collections=048

【金銀泥(きんぎんでい)を用いて梅・藤・竹・勺薬(しゃくやく)・蔦の下絵を反復して摺り上げた版画下絵の料紙に、『新古今和歌集』の恋歌二十一首を選んで散らし書きした一巻である。全長九メートルにおよぶもので、巻末に篆書(てんしょ)体で「光悦」の黒印が捺されている。きわめて良質の料紙で、紙背には、伝統的な図様の松葉文様が見られ、紙継ぎ部分には、「紙師宗二」の縫合印が捺されている。大胆な構成による下絵に光悦の巧みな運筆が見事にマッチし、その書画一体の構成は独自の趣きのあるものとなっている。雲母(きら)などで文様を摺った料紙は、中国からの舶来品として平安時代すでに愛好されていたが、その美意識を当世風に再興させた光悦の斬新で洗練された感覚が、下絵の金銀泥絵に見られる。書風は、筆線の濃淡や太細の変化が著しく、装飾的である。】

花卉に蝶摺絵.jpg

下絵・俵屋宗達、書・本阿弥光悦 「花卉に蝶摺絵新古今集和歌巻」(一部)
桃山時代末期~江戸時代初期・17世紀初頭 岡田美術館蔵 「一巻 紙本金銀泥摺絵墨書 三三・三×九㈣一・七㎝」

http://www.okada-museum.com/collection/japanese_painting/japanese_painting04.html

http://salonofvertigo.blogspot.com/2015/02/rimpa.html

【光悦と宗達の作品もいくつか展示されていて、中でも白眉は完本の「花卉に蝶摺絵新古今集和歌巻」。今に残る光悦の書の巻物はほとんどが断簡で、巻物として完全な形で残っているのは4本しかないそうです。宗達がデザインした色変わりの綺麗な料紙の上に流麗で美しい光悦の書。うっとりするほどの逸品です。】

 この「花卉に蝶摺絵新古今集和歌巻」(岡田美術館蔵)も摺絵(金銀泥摺)なのである。しかし、冒頭の「花卉摺絵新古今集和歌巻」(MOA美術館蔵)に比して、こちらは、「下絵・俵屋宗達、書・本阿弥光悦」と、俵屋宗達の名が表示されている。表示の仕方としては、「書家」と「絵師」との「コラボレーション」(「響き合い」)という視点から、こちらの方をとりたい。
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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十五) [光悦・宗達・素庵]

(その二十五) 和歌巻(その二十五)

和歌巻20.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

96 あかなくにちりぬる花のおもかげや風に知られぬさくらなるらむ(覚盛法師)
(花に飽きることがない心から、すでに散ってしまった桜を面影に抱き続けて来たが、それは風に知られぬ桜なのだろう。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
阿可(あか)な久(く)尓(に)知里(ちり)ぬるハ(は)な乃(の)於(お)も影や可勢(かぜ)尓(に)しら連(れ)ぬ桜なるら無(む)

※阿可(あか)な久(く)尓(に)=飽かなくに。飽きることながないのに。
※可勢(かぜ)尓(に)しら連(れ)ぬ=風に知られぬ。風を擬人化した。

【 覚盛(かくじょう) 生没年未詳 比叡山阿闍梨
建久二年(一一九二)『若宮社歌合』に参加。『三十六人十八番』(散佚) の撰者。千載初出。】
(『新日本古典文学大系10 千載和歌集』)

(参考) 『無名抄』(鴨長明著)の「覚盛法師」周辺

【 (歌をつくろへば悪事)   
覚盛法師のいはく、「歌は、荒々しく、止めもあはぬやうなる、一つの姿なり。それをあまり細工(さいく)みて、とかくすれば、果てにはまれまれ物めかしかりつる所さへ失せて、何にてもなき小物(こもの)になるなり」と申し、「さも」と聞こゆ。

季経卿歌に

  年を経て返しもやらぬ小山田は種貸す人もあらじとぞ思ふ

この歌、艶なるかたこそ無けれど、一節(ひとふし)いひて、さる体の歌とみ給へしを、年経て後、彼の集の中に侍るを見れば、

  賤(しづ)の男(を)が返しもやらぬ小山田にさのみはいかが種を貸すべき

これは直されたりけるにや。いみじうけ劣りて思え侍るなり。よくよく心すべきことにこそ。

(校注)=『日本古典文学大系65 歌論集・能楽論集(久松潜一・西尾実校注)』

※荒々しく、止めもあはぬやうなる=「荒削りで止めることができないような」の意か。「拉鬼体(らきてい)」(藤原定家がたてた和歌の十体の一つ。強いしらべの歌。のち、能楽の風体にも用いられた語。拉鬼様。)
※細工(さいく)みて=技巧を凝らして。
※まれまれ物めかし=たまたま物々しかった箇所。
※小物(こもの)=「つまらない物」の意か。
※さも=「尤も」。
※一節(ひとふし)いひて、さる体の歌=「趣向面白く表現してあって、そういう風体の歌と見ておりましたが」の意。「さる体の歌」は「誹諧歌」をさすか。  】

(参考メモ)「四季草花下絵千載集和歌巻」と「蓮下絵百人一首和歌巻」の「大虚庵光悦」(花押)周辺

 この「四季草花下絵千載集和歌巻」(個人蔵)の巻末の署名は「大虚庵光悦」(花押)で、二行に分けて書かれている。この最終場面の署名(花押)が同じ和歌巻に、「蓮下絵百人一首和歌巻」(焼失を免れた断簡が東京国立博物館ほか諸家分蔵)がある。
 この「➄四季草花下絵千載集和歌巻」と「④蓮下絵百人一首和歌巻」とを比較して、『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」で、「➄は④とともに色替わり料紙を用い、しかも『大虚庵』の署名である点で製品としての体裁が共通しており、製作年や製作背景がかなり近接していることを類推させる」としている。
 そして、この「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」の末尾で、次のように記している。

【 本阿弥光悦が、徳川家康から拝領した鷹峯の地所に「大虚庵」という庵居を営むのは、元和元年(一六一五)以降である。その頃の制作が確実な「蓮下絵和歌巻」のしばらく後に製作されたとおぼしい寛永年紀の書画巻は、絹本に金銀摺絵をほどこす別な表現に変わっていく。したがって金銀泥絵の色紙や和歌巻の制作された慶長七年前後からの十五年余りこそが、本阿弥光悦と、いずれ俵屋宗達と呼ばれていく個性ある下絵作者が繰り広げた至福の時であったといえるのである。それは、関ヶ原から元和偃武にいたる時期である。元和元年を指標として琳派四百年といわれるものの、本当の意味で琳派の揺籃といえるこの時期が、それから程なくして終了したとするならば、芸術の歴史にとって何と皮肉なことであろうか。 】『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」

蓮下絵・順徳院.jpg

(「④蓮下絵百人一首和歌巻」末尾「順徳院(一首)」と「光悦署名(花押)」)

 これは、「④蓮下絵百人一首和歌巻」末尾の「順徳院」の一首に続く「大虚庵/光悦(花押)」であるが、ここには、「➄四季草花下絵千載集和歌巻」に押印されている、次の「伊年」印は押印されていない。

和歌巻21.jpg

(「➄四季草花下絵千載集和歌巻」末尾の「光悦署名(花押)」に続く「伊年」印)

 ここで、この「伊年」印を取り上げた最初のものは、次のアドレスのものなのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-27

 それから、この「➄四季草花下絵千載集和歌巻」の冒頭の「伊年」印に触れての、その期間は、二年余というタイムスパンがある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-06

 この二年有余のタイムスパンは、それこそが、「本阿弥光悦と、いずれ俵屋宗達と呼ばれていく個性ある下絵作者が繰り広げた至福の時」の、それを執拗に求め続けた一つのプロセス的な記録でもある。

(追記メモ)

 この「伊年」印については、下記のアドレスなどが詳しい。そして、この「伊年」印=「俵屋」(「俵屋宗達工房」)のブランドマークとして、「俵屋宗達」個人の創作というよりは、「俵屋宗達工房」の協同(共同))創作の成果品として意味合いを強くしている。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/pdf/dic_163.pdf

 このアドレスで「伊年」印の最高傑作作品が紹介されているのだが、この作品は、「宗達のすぐれた弟子のひとりが描いた」ものとして紹介されている。

https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/91/1990_91_3_2p.pdf

 このアドレスの「伊年」印については、「俵屋宗雪、伊年、宗達弟、仕賀州太守世白宗達画多雪之筆也」などが紹介されている。

 これらのアドレスで紹介されている「伊年」印の周辺については、次のことと大きく関連しているように思われる。

【 従来の光悦書・宗達画和歌巻類の研究は、リストアップしたこれらの作品群を画の側から宗達・非宗達に分けて後者をはずし、次に前者の時系列上の位置を確定していく編年作業を主に行ってきた。ここではその成果を踏まえつつも、制作現場における書と画の協同性に考慮し、かつ巻物という形式をより重視する立場をとる。というのも、巻物は書写形式が規制される枠をもつ色紙・短冊・扇面とは異なり、左右に連続する開放的な空間を有し、書と画とがそれぞれストーリーをもち、相互に干渉し合いながら、一定の方向に連続する時空間を作り上げていくところに特色があるからだ。 】『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」

 この「宗達・非宗達」の区分けの一つとして、極論をすると、「『伊年』印=非宗達、『無印』=宗達」という見方も、一つの目安となってくる。ここで、光悦書・宗達画和歌巻類の鑑賞というのは、「光悦(光悦とその一門)と宗達(宗達とその一門)との『協同創作作品』という、「コラボレーション」(美術の世界では、作品の競作とか協力関係を意味し、複数の作家が一つの表現に関わることで、そこに起きる微妙なずれや摩擦が生み出す特有な空間を、従来のひとりの作家に限定された創作行為とは違った開かれた方法として、評価されている)
的視野が必須となってくる。
 そして、このことは「『個』としてのアーティストの『肉筆画』と「『全(集団)としてのアーティストの『摺絵・木版画など』」との「個と全(集団)との相互浸透」などと係わってくる。

【 巻物という長大な画面を受け持つ仕事であるゆえに描き手の感覚が現れやすく、それが「個」の発露につながったのだと。そうした「個」のあり方を過度に強調して集団制作にまで敷衍し、個単位に分解することはかなり危険である。見え隠れする個性と俵屋という集団の構造を緩やかにとらえる視点とスタンスを保つことが、結局のところ、この近世初頭に生まれた稀有な造形活動の全体を視野に収めていく上で適切な構え方なのではないかと思われる。 】『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」

 この「個と全(集団)との相互浸透」という視点とスタンスから、今回の「四季草花下絵千載集和歌巻」(個人蔵)を、「書画二重奏への道」の「画」の面からのみ見て行くと、「四季の花や木に月・千鳥などの季節の景物を取り合わせ、平安時代以来の金銀泥下絵巻物や大和絵系景物画と重なる素材を選択している。」(玉蟲・前掲書)
 そして、全体として「平明」で、「集団的な生産組織によるもの作りゆえに、俵屋内部のさまざまな個性をもった作り手も画房としての一定の様式を一様に担い」、この和歌巻に用いられた松林や薄のモティーフは、『平家納経』の補修部分に認められ」、全体として、「俵屋の標準的な共通様式の発展上において捉えられる。」(玉蟲・前掲書)
 さらに続ければ、光悦と宗達(そして「宗達工房」)の「書画二重奏の道」、それは、同時に、「詩(和歌)・書・画三重奏の道」、それはまた、「光悦・宗達・素庵(角倉素庵)の三重奏の道」でもあったのだが、慶長七年(一六〇二・光悦=四十五歳)前後にスタートとして、素庵が宿痾によって「嵯峨に退隠」した元和五年(一六一九、光悦=六十二歳)前後にゴールとなった、十五年余りの「走馬灯」でもあった。
 その後も、寛永年紀を有する「光悦書画和歌巻」は制作が続けられるが、それは、かっての「光悦と宗達(そして「宗達工房」)」、あるいは、「光悦・宗達・素庵」とが火花を散らした「書画二重奏の道」、あるいは、「詩(和歌)・書・画三重奏の道」とは、違った世界のものに変わり果ててしまったということなのであろう。
 そして、このことを、「元和元年(一六一五=光悦の「鷹峯移住」)を指標とした琳派四百年といわれるものの、本当の意味での琳派の揺籃といえるこの時期が、それから程なくして終了した(元和五年=一六一九)とするならば、芸術の歴史にとって何と皮肉なことであろうか」(玉蟲・前掲書)という指摘が重みを有してくる。
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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十四) [光悦・宗達・素庵]

(その二十四) 和歌巻(その二十四)

和歌巻19.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

95 ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老ひにけるかな(道因法師)
(散る花を惜しむあまり、わが身にかえてもとひたすら思い続けて来たが、それにもかなわず、年ごとに花は散り、わが齢も老いてしまったことだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
地(ち)るハ(は)なを見尓(に)可(か)ふハ(ば)可利(かり)思へども可那ハ天(かなはで)年濃(の)老(おい)尓(に)介(け)る可(か)な

※地(ち)るハ(は)な=散る花。
※見尓(に)可(か)ふハ(ば)可利(かり=身にかふばかり。身にかえても。
※可那ハ天(かなはで)=(散る花と命を引き換えにすることも)できずに。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/douin.html

【 道因(どういん) 寛治四(1090)~没年未詳 俗名:藤原敦頼(あつより)
藤原北家高藤の末裔。治部丞清孝の息子。母は長門守藤原孝範女。子に敦中ほかがいる。
従五位上右馬助に至る。承安二年(1172)三月、藤原清輔が催した暮春白河尚歯会和歌に参加、この時「散位敦頼八十三歳」と記録されている(古今著聞集では八十四)。その後まもなく出家したか。歌壇での活動は主に晩年から見られ、俊恵の歌林苑の会衆の一人であった。永暦元年(1160)、太皇太后宮大進清輔歌合、嘉応二年(1170)の左衛門督実国歌合、安元元年(1175)及び治承三年(1179)の右大臣兼実歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに出詠。また承安二年(1172)には広田社歌合を勧進した。
鴨長明『無名抄』には、歌への執心深く、秀歌を得ることを祈って住吉神社に月参したとある。没後、千載集に二十首もの歌を採られたが、これは最初十八首だったのを、編者藤原俊成の夢に現れ涙を流して喜んだのを俊成が憐れがり、さらに二首加えたものという(『無名抄』)。『歌仙落書』には歌仙として六首の歌を採られている。同書評に「風体義理を先としたるやうなれども、すがたすてたるにあらず。すべて上手なるべし」とある。小倉百人一首にも歌を採られている。私撰集『現存集』を撰したが、散佚した。千載集初出。勅撰入集四十首。 】

(参考) 『無名抄』(鴨長明著)の「道因法師」周辺

https://polygondrill.com/firstkaruta/list/hi082

(道因歌に志深事)
この道に心ざし深かりしことは、道因入道並びなき者なり。
七八十になるまで「秀歌詠ませ給へ」と祈らんため、徒歩(かち)より住吉へ月詣でしたる、いとありがたきことなり。
ある歌合に、清輔判者にて、道因が歌を負かしたりければ、わざと判者のもとにまうでて、まめやかに涙を流しつつ、泣き恨みければ
亭主、言はん方なく、「かばかりの大事にこそ逢はざりつれ」とぞ、語られける。
九十ばかりになりては、耳などもおぼろなりけるにや
会のときはことさらに講師の座の際(きわ)に分け寄りて、脇許(わきもと)につぶと添ひ居て、みづはさせる姿に耳を傾(かたぶ)けつつ
他事なく聞きける気色など なほざりのこととは見えざりき。
千載集撰ばれ侍りし事は、かの入道失せて後のことなり。
されど、亡き後にも、「さしも道に心ざし深かりし者なり」とて、優して十八首を入れられたりけるに
夢のうちに来たりて、涙を落しつつ、喜び言ふと見給ひたりければ
ことにあはれがりて、今二首を加へて二十首になされたりけるとぞ。
しかるべかりけることにこそ。

(大意)
この(歌の)道に志が深いことにかけては、道因入道の並ぶものはいない。
七、八十になるまで「素晴らしい歌を詠ませてくださいませ」と祈るために
徒歩で、住吉大社(大阪)まで、毎月、月詣でした。
まことに、めったにいない人である。
ある歌合に、藤原清輔が判者で道因の歌を負けとしたとき、わざわざ清輔のもとにやってきて、本当に涙を流して泣き恨んだので
清輔は何とも言いようがなく、「これほど大変な目にあったことはない」と言ったといわれている。
九十歳になって、耳などもはっきりと聞こえなくなると
歌会のときなど、とりわけ講師の席の側に分け行って、その脇に寄り添いひどく年老いた姿で耳を傾けつつ
よそ事などに気をとられることなく聞いている様子などは、いい加減なことのようには見えなかった。
藤原俊成さまが『千載集』に選ばれたときには、すでに道因入道の亡くなくなってからのことであった。
しかし、亡き後でも、「本当に歌の道に志深かった者であった」と評価されて十八首を入れられた。
すると俊成さまの夢の中に道因が来て、涙を流し、うれしく思う気持ちを言えば、
俊成さまはもっとあわれに思われて、もう二首加えて、二十首になされたとのことだ。
まことにそうあるべき事である。

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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十二・二十三) [光悦・宗達・素庵]

(その二十二・二十三) 和歌巻(その二十二・二十三)

和歌巻18.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

     花の歌とてよめる
93 み吉野の山した風やはらふらむこずゑにかへる花のしら雪(俊恵法師)
(み吉野の山の麓を吹く風が落花を吹き上げるからだろうか、雪のような花が梢に咲き返るよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
見よし野乃(みよし野の)山し多可勢(山したかぜ)やハ(は)らふら無(む)こ須衛尓(こずゑ)尓(に)可(か)へる花乃(の)しら雪

※山した風=山の麓を吹く風。
※はらふ=風が落花をまきあげる。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

【俊恵(しゅんえ) 永久一(1113)~没年未詳 称:大夫公 
源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。
永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ、仁安二年(1167)の経盛朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承三年(1179)の右大臣家歌合など多くの歌合・歌会に参加。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人が集まって月次歌会や歌合が行なわれた。ほかにも源師光・藤原俊成ら、幅広い歌人との交流が知られる。私撰集『歌苑抄』ほかがあったらしいが、伝存しない。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。家集『林葉和歌集』がある(以下「林葉集」と略)。中古六歌仙。詞花集初出。勅撰入集八十四首。千載集では二十二首を採られ、歌数第五位。 】

94 一枝(ひとえだ)を折りてかへらむ山ざくら風にのみやはちらしはつべき(源有房)
(山桜を一枝は折って帰ろう。どうせ散る桜ゆえ、風にばかりまかせきってよいものか。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
一枝ハ(は)折天(折りて)可(か)へら無(む)やま左具羅(さくら)可勢(かぜ)尓(に)乃三(のみ)やハ(は)知(ち)らしハ(は)徒(つ)べ幾(き)

※ちらしはつ=すっかり散らしきる。

【有房(ありふさ) 源氏、伯大夫と号す。生没年未詳。
神祇伯顕仲男、あるいは仲房男か。任安二年(一一六七)斎院長官、正五位下、久安五年(一一四九)『山路歌合』に出詠。千載初出、三首。】(『新日本古典文学大系10 千載和歌集』)
※『新勅撰和歌集』(第九勅撰集)の「源有房」(号:周防中将)とは、同名異人。

(参考) 俊恵法師と「歌林苑」周辺

https://wakadokoro.com/wonderful-songs/dailysongs/%E3%81%BF%E5%90%89%E9%87%8E%E3%81%AE%E5%B1%B1%E3%81%97%E3%81%9F%E9%A2%A8%E3%82%84%E6%89%95%E3%81%B5%E3%82%89%E3%82%80%E6%A2%A2%E3%81%AB%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%82%8B%E8%8A%B1%E3%81%AE%E3%81%97%E3%82%89/

【 み吉野の山した風や払ふらむ梢にかへる花のしら雪(俊恵法師)
今日の歌人は俊恵法師。父は金葉集の選者「源俊頼」、方丈記などの執筆でも有名な「鴨長明」は歌の弟子であった。父とは17歳で死別しそのまま仏門に入ったというが、もし彼が堂上歌壇に留まっていたら御子左家が勃興する機会はなかったかもしれない。長明の「無名抄」に俊成と自賛歌について論じている段があるが、このやり取り見る限り、俊恵の方がはるかに的確※であるのだ。「幽玄」は俊成の専売特許のように思われているが、その本質にいち早く気付いていたのは俊恵だったのかもしれない。今日の歌にもそれが表れている。花を白雪に見立てるのは常套的だが、それを風が払って「梢に帰る」とした。とたんに物語性を帯びて、情趣に響く歌となった。
※「景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優に侍れ」(無名抄) 】

http://mie-ict.sakura.ne.jp/100n1s/kajin/k085.html

【俊恵法師(しゅんえほうし。1113年~1191年頃)
71番・源経信(つねのぶ)の孫、74番・源俊頼(としより)の息子で、3代続けて百人一首に歌が選ばれています。「金葉集」の撰者である父・俊頼に歌を学びましたが、17歳で死別し、出家して奈良・東大寺の僧となりました。40代になると、京都白川の自分の別邸を「歌林苑(かりんえん)」と名付け、歌人たちを集めて月例会を持つなど、保元(1156)以降治承(1177)の頃までサロンとしました。40人を越す参加者の中には、源頼政、82番・道因法師、84番・藤原清輔、87番・寂蓮法師、90番・殷富門院大輔、92番・二条院讃岐、など、有名な歌人もいましたが、身分・性別の区別なく幅広い階層の人々が集まりました。流派にこだわらない自由な雰囲気で、度々歌合や歌会を催しています。ここに集まった歌人たちは、生活での困りごとなども相談し合う仲だったらしく、俊恵法師が面倒見のよい人物だったことがうかがえます。俊恵法師の和歌の弟子である鴨長明は、その著書「無名抄(むみょうしょう)」に、俊恵法師の歌論を伝えています。現在、俊恵作と伝えられている歌は千百首あまりですが、その多くは40歳以降に詠まれたものです。自然詠や恋の歌を得意としていました。「詞花集」以下の勅撰集に84首入集しています。俊恵の父・源俊頼と親しかった83番・藤原俊成は「千載和歌集」に俊恵の歌を一番多い22首撰入しています。自撰家集に「俊恵法師集(林葉和歌集)」があります。 】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1980/129/1980_129_41/_pdf/-char/ja

【 「歌林苑歌壇の形成とその歌風 (上)」(大取一馬稿)……抜粋……
歌林苑の主宰者俊恵の初出は、父俊頼が催した歌合であった。当時一七歳であった俊恵は、恐らく作歌の練習のために詠んだもので、しかも代作の歌かも知れない。俊恵は、その後.久安二年三月左京大夫顕輔歌合」(当時俊恵三三歳) まで消息を断っている。俊恵自身、崇徳院との関係は全く不明であるが、『詞花集』に俊恵法師の名で載っている点からみると、『詞花集』撰集時の仁安元年にはすでに僧侶となっていたものと考えられる。俊恵の家集『林葉和歌集』によると、次の二条院との関係はその詞書に見られるが、父俊頼の関係か、あるいは清輔・頼政、その他の院の廷臣を通じてかかわっていたものと思える。又、清輔は為忠の歌合を初出としている。この歌合には清輔の父顕輔も出席しており、父に同行したものであろう。その後、清輔は崇徳院の催した『久安百首』の歌人に加えられているので、崇徳院近臣の教長、あるいは頼政とはこの時期に関係を持ったかと思われる。

歌林苑.jpg

(歌林苑の胎動期・生成期・発展期・衰退期・消滅期)

歌林苑・歌人たち.jpg

(歌林苑の主な歌人たち)          】

https://plaza.rakuten.co.jp/sekkourou/diary/200604020000/

【 『後鳥羽院御口伝』の「釋阿(俊成)・西行・清輔・俊惠」評など】

俊頼の後には釋阿・西行・俊惠なり。すがたことにあらぬ體なり。釋阿はやさしくゑんに、心もふかくあはれなる所もありき。殊に愚意に庶幾するすがたなり。西行はおもしろくてしかもこゝろに殊にふかくあはれなる、ありがたく、出來しがたきかたもともに相兼てみゆ。生得の歌人とおぼゆ。これによりて、おぼろげの人のまねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり。清輔はさせる事なけれども、さすがにふるめかしき事まゝみゆ。
   としへたる宇治のはしもりこととはむいくよになりぬ水のみなかみ
これ體なり。俊惠法師おだしき樣に侍り。五尺のあやめ草に水をかけたるやうに歌はよむべしと申けり。
   たつた山こずゑまばらになるまゝにふかくも簾のそよぐなるかな
釋阿、優なる歌に侍ると申き。

〔口訳〕源俊頼の次の世代では、藤原俊成、西行、俊恵である。歌の詞つづきがことにすぐれているという歌風ではない。ただし俊成は優艶で、艶っぽく、しみじみとした情趣に満ち、趣ぶかいところがあった。ことに私の好み理想とする歌風である。西行は機知や趣向に富み、しかも歌の心がまことに深く哀婉であって、なかなか世にめずらしい歌風であり、余人の真似がたい風を持っているようにも見える。生れつきの歌人というべきであろう。ただしそれゆえに初心の人の真似たり参考にしたりするような歌ではない。言葉にいいあらわしがたい名手である。藤原清輔はそれほどのこともないが、さすがに(歌学の大家であったらしく)古風なところが歌にところどころあらわれている。
     としへたる宇治のはしもりこととはむいくよになりぬ水のみなかみ
こういう歌風である。俊恵はおとなしい歌風である。彼は「五尺のあやあ草に水をかけたように(清爽たるさまの)歌を詠むべきである」と言っていた。
     たつた山こずゑまばらになるまゝにふかくも簾のそよぐなるかな
という歌があって、俊成はこれを優艶な歌であると言っていた。 】

(「俊恵と歌林苑のメモ」)

 『後鳥羽院御口伝』の「俊頼の後には釋阿・西行・俊惠なり」のとおり、俊恵の父の「俊頼の時代」(第五勅撰集『金葉和歌集』の撰者)の次の時代は、「釋阿(俊成)・西行・俊惠」(第七勅撰集『千載和歌集(俊成撰)』)の時代ということになろう。
 この「釋阿(俊成)・西行・俊惠」の時代は、「釋阿(俊成)」が主たる歌壇とする「殿上歌壇」(公的な宮廷歌壇)」の他に、「西行・俊恵」が主たる歌壇とする「在野歌壇」(個人的あるいは同好者的な私的な歌壇)が生成・発展した時代であった。
 この「在野歌壇」の代表的な歌壇が、俊恵が中心となった「歌林苑」ということになろう。
この「歌林苑」の時代は、「歌林苑歌壇の形成とその歌風 (上)」(大取一馬稿)によると、その生成期は、保元元年(一一五六)から仁安元年(一一六六)の「藤原清輔が判者として活躍した時代」(「六条藤家」の時代)」で、次の発展期(仁安二年=一一六七~治承元年=一一七七)は、「藤原清輔が没して、俊成が判者として活躍した『御子左家』の時代」としている。
 ここで、「殿上人歌壇」と「在野歌壇」とを、この「四季草花下絵千載集和歌巻」(光悦筆の『千載和歌集』)ですると、その『千載和歌集』の配列は、「官職名」が有るものが「殿上人歌壇」、「官職名」が無いものが「在野歌壇」と、一応の目安とすることも可能であろう。

(「殿上人歌壇」の作例)

87 あらしふく志賀の山辺のさくら花ちれば雲井にさゞ浪ぞたつ(右兵衛公行)
(志賀の山辺の桜花が、はげしい山風に吹き散らされると、空にはさざ波が立つよ。)

88 春風に志賀の山こゑ花ちれば峰にぞ浦のなみはたちける(前参議親隆)
(春風の中、花吹雪の志賀の山越えをして来ると、山の頂に浦の波が立つことだよ。)

89 さくら咲く比良の山風ふくまゝに花になりゆく志賀のうら浪(左近中将良経)
(桜咲く比良の峰々を山風が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。)

90 ちりかゝる花のにしきは着たれどもかへらむ事ぞわすられにける(右近大将実房)
(落花の下、花の錦は身につけたが、花に心を奪われて故郷へ帰ることを忘れてしまったよ。)

91 あかなくに袖につゝめばちる花をうれしと思ふになりぬべきかな(権大納言実国)
(散る花への飽きることのない愛惜の心から、それを袖に包みとると、花が散るのは悲しいのに、かえって喜んでいるようになってしまいそうだよ。)

92 桜花うき身にかふるためしあらば生きてちるをば惜しまざらまし(権中納言通親)
(桜の花が散るのを、この憂き身に代えて止めるというためしがあるのなら、私は(身代わりになるから)生き永らえて散る花を惜しむことはないであろう。)

 そして、これに続く、この「四季草花下絵千載集和歌巻」(光悦筆の『千載和歌集』)の、次の歌は、「在野歌壇」の歌ということになる。

(「在野歌壇」の作例)

93 み吉野の山した風やはらふらむこずゑにかへる花のしら雪(俊恵法師)
(み吉野の山の麓を吹く風が落花を吹き上げるからだろうか、雪のような花が梢に咲き返るよ。)

94 一枝(ひとえだ)を折りてかへらむ山ざくら風にのみやはちらしはつべき(源有房)
(山桜を一枝は折って帰ろう。どうせ散る桜ゆえ、風にばかりまかせきってよいものか。)

95 ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老ひにけるかな(道因法師)
(散る花を惜しむあまり、わが身にかえてもとひたすら思い続けて来たが、それにもかなわず、年ごとに花は散り、わが齢も老いてしまったことだよ。)

96 あかなくにちりぬる花のおもかげや風に知られぬさくらなるらむ(覚盛法師)
(花に飽きることがない心から、すでに散ってしまった桜を面影に抱き続けて来たが、それは風に知られぬ桜なのだろう。)

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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十一) [光悦・宗達・素庵]

(その二十一) 和歌巻(その二十一)

和歌巻17.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

     久我内大臣の家にて、「身ニ代エテ花ヲ惜シム」
     といへる心をよめる
92 桜花うき身にかふるためしあらば生きてちるをば惜しまざらまし(権中納言通親)
(桜の花が散るのを、この憂き身に代えて止めるというためしがあるのなら、私は(身代わりになるから)生き永らえて散る花を惜しむことはないであろう。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
左久らハ那(さくらばな)う来身尓(うき身に)可ふる(かふる)多免し安ら半(ためしあらば)以来天(いきて)散るをハ(ば)おしま左(ざ)らまし

※左久らハ那(さくらばな)=桜花。
※う来身尓(うき身に)=憂き身。辛い現世を生きている身。
※多免し安ら半(ためしあらば)=ためしあらば。前例があるならば。
※以来天(いきて)散るをハ(ば)=いきて散るをば。生き永らえて散る(花)をば。
※おしま左(ざ)らまし=惜しまざらまし。惜しむことはないであろう。
※※久我内大臣=作者(通親)の父、源雅通。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititika.html

【源通親(みなもとのみちちか)久安五~建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)
村上源氏。内大臣久我(こが)雅通の長男。母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。後鳥羽院后在子は養女。
保元三年(1158)八月、従五位下に叙される。仁安二年(1167)、右近衛権少将。同三年正月、従四位下に昇叙され、加賀介を兼任する。同年二月、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。同年三月、従四位上、八月にはさらに正四位下に叙せられ、禁色宣下を受ける。嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。承安元年(1171)正月、右近衛権中将。十二月、平清盛の息女徳子の入内に際し、女御家の侍所別当となる。治承二年(1178)、中宮平徳子所生の言仁(ときひと)親王(安徳天皇)の立太子に際し、東宮昇殿をゆるされる。同三年(1179)正月、蔵人頭に補される。十二月、中宮権亮を兼ねる。同四年正月、参議に任ぜられる。同年三月、高倉上皇の厳島行幸に供奉。六月には福原遷幸にも供奉し、宮都の地を点定した。
平安京還都後の治承五年(1181)正月、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御(二十一歳)。上皇危篤の時から一周忌までを通親が歌日記風に綴ったのが『高倉院升遐記』である。同年閏二月には平清盛が薨じ、政治の実権は後白河法皇へ移る。以後、通親も法皇のもとで公事に精励することになる。改元して養和元年の十一月、中宮権亮を罷め、建礼門院別当に補される。同二年正月、正三位。
寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。ついで院御所での議定に列した。同年八月、後鳥羽天皇践祚。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
元暦二年(1185)正月、権中納言に昇進。文治二年(1186)三月、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任。この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月、従二位。同五年正月、正二位(最終官位)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補される。以後、丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。
建久元年(1190)七月、中納言に進む。同三年三月、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。同月、権大納言に昇る。建久七年(1196)十一月、任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)には外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。
正治元年(1199)正月、右近衛大将に任ぜられる。その直後源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
和歌は若い頃から熱心で、嘉応二年(1170)秋頃、自邸で歌合を催している。同年の住吉社歌合・建春門院滋子北面歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに参加。
殊に内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果すことになる。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の新宮撰歌合、同年六月の千五百番歌合に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれた。
しかし新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下される。
著書には上記のほか『高倉院厳島御幸記』などがある。千載集初出。勅撰入集三十二首。】

(参考) 「九条兼実」と「源通親」周辺

 「九条兼実」は、「藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる」。一方の「源通親」は、「村上源氏久我流、内大臣・源雅通の子。官位は正二位・内大臣、右大将、贈従一位。土御門通親と呼ばれている」。
 この二人は、共に、久安五年(一一四九)の同年の生まれで、没年は、兼実が、承元元年(一二〇七)、通親は、建仁二年(一二〇二)と、通親の方が、早く亡くなっている。
 ここで、この通親が、「関白・兼実」を失脚させる「建久七年(一一九六)の政変」以降の、両者の「官職名」の推移を明記すると次のとおりとなる(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

「建久七年(一一九六)の政変」後の「兼実」

建久7年(1196年)11月25日:関白停任。無上表事。
建仁2年(1202年)1月28日:出家。法名「圓證」
承元元年(1207年)4月5日:薨去。享年59

「建久七年(一一九六)の政変」後の「通親」

建久9年(1198年)1月5日:後院別当を兼帯。
正治元年(1199年)
1月20日:右近衛大将を兼任。
6月22日:内大臣に転任。
6月23日:右近衛大将如元。
正治2年(1200年)4月15日:東宮傅を兼任。
建仁2年(1202年)10月21日、薨去。享年54。時に、内大臣正二位兼行右近衛大将東宮傅。

 すなわち、兼実が出家した建仁二年(一二〇二)に、通親は、その生涯を閉じている。この通親の死について、兼実の異母弟の慈円の『愚管抄』は次のように記している。

http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo06_yositune.html

【建仁二年十月廿一日ニ。通親公等ウセニケリ。頓死ノ躰ナリ。不可思議ノ事ト人モ思ヘリケリ。承明門院〔在子〕ヲゾ母ウセテ後ハアイシ参ラセケル。カカリケル程ニ。院ハ範季ガムスメヲ思召テ三位セサセテ。美福門院ノ例ニモニテ有ケルニ。王子モアマタ出キタル。御アニ〔守成〕ヲ東宮ニスエマイラセントヲボシメシタル御ケシキナレバ。通親ノ公申沙汰シテ立坊有テ。正治二年四月十四日ニ東宮ニ立テ。カヤウニテ過ル程ニ。九條〔良経〕殿ハ又北政所ニヲクレテ出家セラレニケリ。サル程ニ院ノ御心ニフカク世ノカハリシ我ガ御心ヨリヲコラズト云コトヲ人ニモシラレントヤ思召ケン。建仁二年十一月廿七日ニ。左大臣〔良経〕ニ内覧氏長者ノ宣旨ヲクダシテ。ヤガテ廿八日ニ熊野御進発ナリニケリ。母北政所重服コノ十二月バカリニテアリケリ。サテ熊野ヨリ御帰洛ノ後。十二月廿七日ニ摂政ノ詔クダサレニケリ。サテ正月一日ノ拝禮ノサキニヨロコビ申サセラレニケレバ。世ノ人ハコハユユシク目出キコトカナト思ケリ。宗頼大納言ハ成頼入道ガ高野ニ年比ヲコナイテアリケル入滅シタル服ヲキルベキヲ。真ノ親ノ光頼ノ大納言ガヲバ成頼ガヲキムズレバトテキザリケリ。是ハ又アマリニ世ニアイテイトマヲオシガリテキズ。サテ親モナカリケル者ニナリヌル事ヲ。人モカタブキケルニヤ。カク熊野ノ御幸ノ御トモニマイリテ。松明ノ火ニテ足ヲヤキタリケルガ。サシモ大事ニナリテ正月卅日ウセニケル。其後卿二位ハ夫ヲウシナイテ又トカクアンジツツ。コノ太相國頼実ノ七條院辺〔後鳥羽院御母〕ニ申ヨリテ候ケルニ申ナドシテ。又夫ニシテヤガテ院ノ御ウシロミセサセテ候ケル。】(『愚管抄第六』=上記アドレス)

 この「建仁二年十月廿一日ニ。通親公等ウセニケリ。頓死ノ躰ナリ。不可思議ノ事ト人モ思ヘリケリ」の「頓死」とは「急死」のことであり、「不可思議ノ事ト人モ思ヘリケリ」については、例えば『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』では、「これまでの権謀術数の数々を思えば、敵はゴマンといたはずで、密かに殺害されたのではないかという疑念を抱かれてもおかしくない」と紹介されている。
 これに続く、「建仁二年十一月廿七日ニ。左大臣〔良経〕ニ内覧氏長者ノ宣旨ヲクダシテ。」、そして、「十二月廿七日ニ摂政ノ詔クダサレニケリ。」と、失脚した兼実(この時には出家している)の継子の「九条良経」は、後鳥羽院の宣旨をもって「藤氏長者」(藤原氏一族全体の氏長者)となり、さらに、良経は、「左大臣」(「関白」にならず)のまま土御門天皇の「摂政」(君主に代わって政務をとること,またはその者)と朝廷のトップに立つこととなる。
 この時、良経、三十五歳、この宣旨・詔を発した後鳥羽院は、二十三歳で、兼実は出家、
通親は頓死、既に後白河法皇・源頼朝も没しており、名実ともに治天の君となった。しかし、この良経は、元久三年(一二〇六)三月七日深夜に頓死。享年三十八歳であった。この良経の頓死(急死)についても、下記のアドレスで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-03

 そして、承久三年(一二二一)の「承久の乱」(後鳥羽院と時の執権・北条義時との戦乱)により、後鳥羽院は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、そこで、延応元年(一二三九)に、その六十年の生涯を閉じた。

 ここで、上記の『愚管抄第六』の事項を理解するには、下記のアドレスの図解が恰好のものである。

http://dabohazj.web.fc2.com/kibo/note/motomichi/motomichi.htm

後鳥羽系図.jpg

(「後白河~順徳天皇」・「藤原忠実~道家」・「源頼朝~頼嗣)」と「兼実と通親」関連図)

一 天皇家は、「1後白河→2二条→3六条→4高倉→5安徳→6後鳥羽→7土御門→8順徳」の流れである。
二 藤原家は、「1忠実→2忠通→3基実(近衛家)→4基房(松殿家)→5・7・9基通(近衛家)→6師家(松殿家)→8兼実(九条家)→10良経(九条家)→11・13家実(近衛家)→12・14道家」の流れである。
三 源頼朝家→1頼朝→2頼家→3実朝→4頼経→5頼嗣の流れである。
四 後鳥羽院=任子(兼実の娘、良経の妹)、後鳥羽院=在子(通親の養女、通親正室範子の娘)、後鳥羽院と任子(宜秋門院)の内親王=昇子(春華門院)、後鳥羽院と在子(承明門院)の親王=土御門天皇、後鳥羽院と重子(修明門院)の親王=順徳天皇
五 源通親の側室(兼実の兄・基房の娘)
六 兼実の娘任子は後鳥羽天皇の中宮宜秋門院となっているが、建久六年(1195)八月に女子を産む(昇子・春華門院)。源通親の養女・在子は宮仕していたが同十一月に皇子(為仁・土御門天皇)を生む。これで通親と兼実の形勢が逆転し、通親による「建久七年の政変」が起こり、かねて憎まれていた兼実は失脚する。そして、村上源氏の全盛時代となり、古い後白河派とみなされた近衛基通が10年ぶりに関白として返り咲く(上掲および前掲 系図 の基通の数字「9」)。
七 建久九年(1198年)正月に後鳥羽天皇(十九歳)は土御門天皇へ践祚した。これで通親は天皇の外祖父の地位を得たのであり、後鳥羽は若い院としての自由な立場を得て京都内外を活発に「御幸」したという。祖父・後白河の血が確かに伝わっていたのであろう。基通は土御門天皇(四歳)の摂政にもなる。政治の実権を握っていた通親は正治元年(1199)に内大臣となり、「源博陸」(げんはくりく、博陸は関白の意)と呼ばれた。
八 通親は建仁二年(1202)十月に急死(享年五十四歳)する。それを契機に九条家にバランスをとる人事がなされ、摂政が九条良経に移る。良経は溢れるほどの才能に恵まれた人物だったようで慈円が『愚管抄』に「コノ人は三ツノ舟ニノリヌベキ人」(詩・和歌・管弦の三つの舟)と言葉を極めて賞讃している。その良経は元久三年(1206)二月廿日に急死(享年三十八歳)する(『愚管抄』は「ネ死ニ頓死」、『玉葉』は夕刻まで良経が普段通りであったことを記したあと、良経の「女房」が走ってきて急を知らせ、兼実が「劇速して行く」が「身冷気絶」であったと)。このため良経の死には他殺説もある。
九 良経の急死を受け、近衛家実が摂政となった。基通の息子である。こののちは、松殿は摂関家としては基房-師家で絶え、近衛家と九条家のバランスを考えた人事となって、文永十年(1273)この両家から「五摂家」が成立する(近衛家・鷹司家・九条家・一条家・二条家)。「五摂家」体制のもとで江戸時代終末まで形式的な摂関は続く。
十 三代将軍実朝の暗殺で頼朝の系譜は断たれる。上掲系図のように、良経は義朝の娘と婚姻し、九条家が将軍となるきっかけを作っている。藤原将軍時代である。しかしそれも2代しか続かず、そのあとは親王将軍の時代となる。

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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十) [光悦・宗達・素庵]

(その二十) 和歌巻(その二十)

和歌巻16.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

    落花の心をよめる
91 あかなくに袖につゝめばちる花をうれしと思ふになりぬべきかな(権大納言実国)
(散る花への飽きることのない愛惜の心から、それを袖に包みとると、花が散るのは悲しいのに、かえって喜んでいるようになってしまいそうだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
安可那久尓(あかなくに)袖尓(袖に)つ々め盤(ば)知る(ちる)ハな(花)をう連(れ)しとおもふ尓(に)な里(り)ぬべ幾(き)可那(かな)

※安可那久尓(あかなくに)=飽きることがないのに。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin//sanekuni.html

【藤原実国(ふじわらのさねくに) 保延六~寿永二(1140-1183) 
太政大臣実行の孫。内大臣公教の子。左大臣実房の兄。母は家の女房。子には公時・公清ほかがいる。妻の藤原家成女は、藤原重家室と姉妹。
久安三年(1147)叙爵し、保元四年(1159)、蔵人頭。左衛門督などを歴任し、権大納言正二位に至る。寿永二年(1183)一月二日、四十四歳で薨ず。
縁戚関係のあった六条藤家と歌壇的にも深いつながりを持った。永万二年(1166)の中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応二年(1170)十月の住吉社歌合・建春門院北面歌合、承安二年(1172)十二月の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに出詠。また嘉応二年(1170)五月、自邸で歌合を主催し(実国家歌合)、判者に六条藤家の清輔を招いた。
家集『実国集』がある。千載集初出。高倉天皇の笛の師。『古今著聞集』に歌人としての逸話を残している。滋野井実国とも。滋野井家の祖。  】

(参考) 「右近大将実房」と「権大納言実国」周辺

 『千載和歌集』が成った文治三年(一一八七)には、「権大納言実国」は亡くなっている(寿永二年=一一八三没)。この「権大納言」は実国の最後の官職名である。その弟の「右近大将実房」は、実国が亡くなった時には「大納言」で、「右近大将」を兼任したのは、『千載和歌集』が成る一年前の文治二年(一一八六)のことである。
 この実国は、高倉天皇の笛の師で、この高倉天皇の母(国母)の「建春門院(平慈子)」(後白河天皇の女御・皇太后・女院)である。この建春門院の院号を宣下された翌年の、嘉応二年(一一七〇)十月の「住吉社歌合・建春門院北面歌合」には、「公通(左)対※※※俊成(右)、実定(左)対※※重家(右)、隆季※※(左)対※※清輔(右)、※実房(左)対実家、※実国(左)対頼政(右)、実守(左)対※※※隆信(右)、脩範(左)対通親(右)」の名が見られる。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_03121/he04_03121_p0003.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_03121/he04_03121_p0004.jpg

 この「建春門院北面歌合」には、「※実房(左)対実家、※実国(左)対頼政(右)」と、「※実国・※実房」兄弟は、「高倉天皇・建春門院」(後白河院政下)を支える、その一翼を担っていたのであろう。
 同時に、この当時は、「実定(左)対※※重家(右)、隆季※※(左)対※※清輔(右)」の「※※重家」(「六条藤家」の顕輔の四男、子に「顕家・有家」)、「※※隆季」(「六条藤家」の顕季→家保→隆季)、「※※清輔」(「六条藤家」の顕輔の二男)と、いわゆる「歌の家」の筆頭の「六条藤家」時代であったということであろう。
 同様に、この当時の、「御子左家」は、「公通(左)対※※※俊成(右)」「実守(左)対※※※隆信(右)」の「※※※俊成」と「実守(左)対※※※隆信(右)」の「※※※隆信」の二人であるが、この「※※※隆信」は、「母=美福門院加賀(藤原親忠女)、実父=藤原為経(寂超)、養父=俊成(美福門院加賀の再婚相手、定家は「異父弟」)で、「御子左家」に連なる歌人であるが、同時に「美福門院」(六条藤家の藤原清輔は従兄弟にあたる)と、「美福門院-八条院-二条天皇」の近臣でもあり、「六条藤家」と「御子左家」とを結びつける歌人というのが、より、その立つ位置を明瞭にしているのかも知れない。
 さらに、この「建春門院北面歌合」には、「脩範(左)対通親」の「通親」の名も見られ、その官職名は「少将」と詠める。
この当時は、「俊成」(皇后宮太夫)、「実国」(左衛門督)、「実国」(権大納言)、「顕輔」(権大納言)と同等というよりも下級職で、後に、「建久七年(一一九六)の政変」で、「関白・九条兼実」を失脚させて、「源博陸(はくりく・はくろく)」(博陸=関白の唐名)と権勢を極めた「土御門通親」の面影はない。
 ちなみに、この通親(右近衛少将)に対する「脩範(左近衛少将)」は、保元の乱(保元元年=一一五六)で勝者になった後白河院側の立役者の「信西=藤原通憲」の五男で、この乱後は
左近衛少将まで昇り上がるが、続く、平治の乱(保元四年=一一五九)で、信西は自害、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)は全員流罪となり、脩憲(ながのり)は隠岐に流刑される。
 この平治の乱は、「後白河院政派(信西派と反信西派=信頼派)」と「二条天皇親政派(美福門院派)」との対立、「源氏一門(源義朝派=信頼派と源頼政派=美福門院派)」と「平氏一門」(信西派で信西派が放逐された後、信頼派と源義朝派を放逐)との対立、これらが、平治元年(一一五九)から同二年(一一六〇)にかけて合戦が続くのだが、結果的には、続く、治承三年(一一七九)の政変(平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件)により、平清盛による「平氏政権の確立」と連なっている。
 しかし、この平氏政権も、次のような政変・合戦を経ながら、源氏政権(鎌倉幕府)へと移行して行くことになる。

治承四年(一一八〇)  以仁王の挙兵 → 「以仁王・源頼政」対「平氏」
治承五年(一一八一)  高倉上皇崩御後白河法皇院政復活、平清盛死去
           墨俣川の戦い → 「源行家・尾張源氏」対「平氏」
寿永二年(一一八三)  倶利伽羅峠の戦い → 「源(木曽)義仲」対「平氏」
          平氏都落ち、後鳥羽天皇践祚
法住寺合戦 →  「後白河法皇」対「源(木曽)義仲」
寿永三年(一一八四)  宇治川の戦い → 「源範頼・源義経」対「源(木曽)義仲」
          一ノ谷の戦い → 「源範頼・源義経」対「平氏」
元暦二年(一一八五)  屋島の戦い →  「源義経」対「平氏」
          壇ノ浦の戦い →  「源範頼・源義経」対「平氏」
建久元年(一一九〇) 頼朝上洛により鎌倉幕府と朝廷の協調体制樹立  
建久三年(一一九二) 後白河法皇が崩御、源頼朝の征夷大将軍の任命、鎌倉幕府確立
承久三年(一二二一) 承久の乱(院政終了)→「後鳥羽院」対「鎌倉幕府(北条義時・正子)」

 上記の「「住吉社歌合・建春門院北面歌合」は、嘉応二年(一一七〇)、関白・兼実の失脚する「建久七年の政変」は、建久七年(一一九六)のことである。すなわち、この「嘉応二年(一一七〇)~建久七年(一一九六)」の時代は、「平家政権から平家の滅亡、そして、源氏政権の樹立」という、大乱世の時代で、そこには、さまざまなドラマが渦巻いている。
 この『千載和歌集』が成った「文治三年(一一八七)」は、「壇ノ浦の戦い」の安徳天皇が入水崩御した二年後のことなのである。これらのさまざまなドラマが、この『千載和歌集の底流に流れている。

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四季草花下絵千載集和歌巻(その十九) [光悦・宗達・素庵]

(その十九) 和歌巻(その十九)

和歌巻15.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

    花留客(花客ヲ留ム)といへる心をよみ侍ける
90 ちりかゝる花のにしきは着たれどもかへらむ事ぞわすられにける(右近大将実房)
(落花の下、花の錦は身につけたが、花に心を奪われて故郷へ帰ることを忘れてしまったよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
知利懸(ちりかかる)ハな(はな)能(の)錦盤(は)きた連(れ)ども帰無事(かへらむこと)曾(ぞ)わ須(す)ら禮(れ)尓(に)介流(ける)

※知利懸(ちりかかる)=散りかかる。
※ハな(はな)能(の)錦=花の錦。衣の上に花の散ったさまを錦に見立てた。
※きた連(れ)ども=着たれども。身にまとったが。
※帰無事(かへらむこと)=(花に心を奪われて)故郷へ帰らんことを。
※わ須(す)ら禮(れ)尓(に)介流(ける)=忘れにける。忘れてしまったよ。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanehusa.html

【藤原実房(ふじわらのさねふさ) 久安三~嘉禄元(1147-1225) 号:三条入道左大臣 
三条内大臣公教の三男。母は権中納言藤原清隆女。権大納言実国の弟。太政大臣公房・権大納言公宣・同公氏の父。
仁平二年(1152)叙爵。左少将・右中将などを経て、永暦元年(1160)、蔵人頭。同年従三位。永万二年(1166)、権中納言。仁安二年(1167)、従二位に叙され中納言に転じる。同三年、権大納言。承安元年(1171)、正二位。寿永二年(1183)、大納言。文治五年(1189)、右大臣。建久元年(1190)、左大臣に至る。同七年、病により引退。法名は静空。
住吉社歌合・広田社歌合・御室五十首・文治六年(1190)女御入内御屏風歌・正治二年初度百首などの作者。日記『愚昧記』がある。千載集初出。勅撰入集三十首。『歌仙落書』に「義理を存候、言葉妙也。末床しきさまなり」の評がある。 】

(参考) 「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)周辺

 藤原俊成の編んだ『千載和歌集』の、「89左近中将良経→90右近大将実房→91権大納言実国→92権中納言通親」の収載配列(上記の和歌巻は、右側の部分図が前回の「89左近中将良経」の一首、左側が今回の「90右近大将実房」、「91権大納言実国」と「92権中納言通親」は、この後に続く)は、この十年後に勃発する「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)の予兆を感じさせるような趣で無くもない。
 今回の「90右近大将実房」は、本姓は「藤原」だが、三条内大臣公教の三男で「三条実房」、二男の「91権大納言実国」は「滋野井実国」と、その姓は「三条家」(実房)、そして「滋野井家」(実国)が通姓のようである。
 そして、この実房が、「大納言」と「右近衛大将」(右近衛に置かれた近衛大将)とを兼任したのは、文治二年(一一八六)のことで、この時に、「89左近中将良経」は、「正三位に昇叙、左近衛中将・播磨権守は元の如し」(若干十七歳)と、まさに、「九条兼実・良経」親子の絶頂期を迎える頃で、この「九条兼実・良経」親子のサポートの基に、「御子左家」(「藤原俊成・定家」親子等々の「歌道の家」)は、それまでの「六条藤家」(「藤原顕輔・清輔」親子等々の歌道の家)に代わり、それが俊成(「御子左家」)による、この第七勅撰集『千載和歌集』の撰集へと繋がっている。
 そして、この実房は、九条兼実を支える両翼の一人(もう一人は「徳大寺実定」)で、これらの、当時(文治二年=一一八六)の官職名等は次のとおりである。

九条兼実 → 摂政宣下。藤原氏長者宣下。右大臣如元(十月、辞任)。建久二年(一一九一)=関白宣下。准摂政宣下。
徳大寺実定→ 右大臣(十月)。文治五年(一一八九年)七月左大臣となり、兼実の片腕として朝幕間の取り次ぎに奔走する。
三条実房 → 右近衛大将を兼ねる(寿永二年=大納言)。文治四年(一一八八)=左近衛大将、翌年=右大臣(左大将兼務)、その翌年(建久元年)=左大臣。
九条良経 → 正三位に昇叙、左近衛中将・播磨権守は元の如し。建久六年(一一九五)=内大臣に転任。11月12日、左近衛大将は元の如し。

 これらの、当時の朝廷のトップ層の「九条兼実」派と当時の歌壇の主流となってきた「御子左家」派等が一同に名を連ねている「屏風歌」(長寿を祝う算賀、裳着(もぎ)、入内(じゅだい)、大嘗会等の行事のための屏風調進に伴って詠作される和歌)がある。
 それは、「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」で、その作者(詠進歌人)は「兼実(関白)・実定(左大臣)・実房(右大臣)・良経(近衛大将)・季経(「御子左家」寄りの「六条藤家」)・隆信(「六条藤家」寄りの「御子左家」)・定家(「御子左家」の嫡子)・俊成(「御子左家」再興の祖)の八名である。
 この「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」については、次のアドレスの「勅撰集の中の入内屏風和歌 : 作者・詞書を手がかりに(細川佐知子稿)」の論攷の中で、次のように紹介されている。

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/67625/shirin49_001.pdf

「文治六年(四月一一日より建久)正月に後鳥羽天皇に入内した、九条兼実の女任子の入内屏風和歌である。(中略) 月次一二帖(各月三面)三六面の屏風と夏・冬二面の泥絵記すために詠出されたものである。作者は、兼実・実定・実房・良経・季経・隆信・定家・俊成の八名で、各人が三八首詠じ、各面一首ずつ選定された。選定は俊成・実定が下選びをし、兼実が最終決定した。屏風歌に選定された歌だけでなく、全歌が作品として残る。」(「勅撰集の中の入内屏風和歌 : 作者・詞書を手がかりに(細川佐知子稿)」)

 ここで、『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』で、この「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」の二年後の『明月記』(定家の五十五カ年にわたる漢文体の「日記」)の「建久三年(一一九二)三月六日の条を紹介したい。

【六日、天晴、巳時(午前十時頃)「院」に入る。人々多く参る。未刻(午後二時頃)退出し、「七条」(院)・「八条院」へ参り、「家」に帰る。昏(夕方)に「内」(内裏)に参る。人なきにより、独り「宮御方」(任子・宜秋門院)に参り、格子を下ぐる後、「大将殿」(九条良経)に参り見参の後、「宮御方」(任子)に帰り参る。深更、又「大将殿」(良経)に参り、暁鐘の程「蓬」(自宅)に戻る。 】(『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』所収「序章『明月記』とは」)

 ここに出てくる、定家の「出仕先」(公務として出向いた先)の「院」・「七条院」・「八条院」・「内」・「宮御方」・「大将殿」と、その「殿舎」(その出仕先の殿舎)は、次のとおりである。

※「大将殿」=九条良経(近衛大将)、「九条家」の「家司(けし)=貴人に供奉する秘書役など」として仕えた定家の「九条家の御曹司」)→「一条殿」(当時の「良経」の殿舎)
※「内」(「内裏」=「里内裏」)「宮御方」(後鳥羽中宮、任子、宜秋門院、兼実の息女、良経の妹)→「閑院(中宮御所)」(当時の「任子」の殿舎)
※「院」(後白河院、後白河院の崩御=建久三年三月十三日、上記の『明月記』=建久三年三月六日で、この一週間後「院」は亡くなる。)→「六条殿」→「建久3年(1192年)2月18日、雨の降る中を後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する(『玉葉』同日条)。後白河院は「事の外辛苦し給ふ」という病状だったが(『玉葉』2月17日条)大いに喜んで、後鳥羽の笛に合わせて今様を歌っている。後鳥羽帝が還御すると、後白河院は丹後局を使者として遺詔を伝えた。その内容は、法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽殿など主要な部分を天皇領に、他の院領は皇女の亮子・式子・好子・覲子にそれぞれ分与するというもので(『明月記』3月14日条)、後白河院に批判的な九条兼実も「御処分の体、誠に穏便なり」としている。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
※「七条院(後鳥羽母)」=高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母=藤原 殖子 → 「三条殿」(七条院の殿舎)
※「八条院(鳥羽皇女、美福門院女)」=暲子内親王。「近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる。ほかに母を同じくする姉妹に、早世した叡子内親王と二条天皇中宮となった姝子内親王(高松院)がいる。終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
※「家」「蓬」(自宅)=当時の「定家」宅(九条宅)→「九条殿」(九条兼実の「殿舎」)に隣接している。定家の父の俊成宅は「五条京極邸」邸でそことは異なる。

 これらの解説(解読)は、『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』の、下記の「目次」の随所にわたって、図表入りで、その一端が論述されている。

「序章」 →『明月記』とは
「第一章」→五条京極邸 1 五条三位  2 百首歌の時代
「第二章」→政変の前後 1 兼実の失脚 2 女院たちの命運 3 後鳥羽院政の創始 4 定家の「官途絶望」
「第三章」→新古今への道 1 正治初度百首 2 和歌所と寄人 3 終わりなき切継ぎ 4 水無瀬の遊興

 ここでは、「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」とその二年後の『明月記』(「建久三年=一一九二・三月六日の条」)の記載と「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)との関連などについて記して置きたい。

一 「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)とは、すべからく、『明月記』(「建久三年=一一九二・三月六日の条」)の、その一週間後の、建久三年(一一九二)三月十三日の「後白河院」の崩御を起因として勃発する。

二 この「後白河院政」から「後鳥羽院院政」への移行期を支えた体制は、「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」の、「九条兼実体制(関白・兼実、左大臣・実定、右大臣・実房、近衛大将・良経)であったが、この時に、既に、「関白・兼実」の両翼の、「左大臣・実定」は「建久二年、病のため官を辞して出家、同年閏十二月に崩御」、「右大臣・実房」は、建久七年(一一九六)三月、病により左大臣を辞し、出家」している。
 すなわち、「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)とは、それまでの「後白河(後鳥羽)・兼実」体制から、新しく「後鳥羽・通親」体制への移行ということを意味する。

三 そして、この「建久七年(一一九六)の政変」の背後には、親幕(親鎌倉)派の「兼実」に対する反幕(反鎌倉)感情を強めていた後白河院の寵妃「丹後局(高階栄子)」と「兼実」の娘の中宮「任子(宜秋門院)」を退けて「通親」の養女「在子(承明門院)」を後宮入りさせる画策とが、後白河院の没後に結実したということが挙げられよう。

建久六年(一一九五)八月十二日 任子、第一皇女昇子内親王(後に「春華門院」)を出産。
  同     十一月一日 在子、第一皇子為仁親王(後に「土御門天皇)を出産。

四 この時(建久六年=一一九五)、任子、二十二歳、在子、二十四歳、後鳥羽天皇、十五歳、この後鳥羽天皇の外戚として、関白・兼実が強権を揮っていたが、この時を境に、権大納言・通親が実権を握り、その翌年(建久七年=一一九六)の十一月二十四日に、「八条院」(鳥羽皇女・美福門院女、兼実・四男=良輔と昇子内親王の養母)に居を移し、その翌日に、兼実は失脚している。これが、「建久七年(一一九六)の政変」の実態なのである。

五、しかし、この時点では、任子の再入内の余地は十分に残されていたのだが、正治元年(一一九六)、任子の兄の九条良経が左大臣となり政権に復帰した、その翌年の正治二年(一二〇〇)六月二十八日に、任子への「宜秋門院」の院号宣下があり、ここで、名実ともに、「後白河(後鳥羽)・兼実」体制から「後鳥羽・通親」体制へと移行することとなる。

六 ここで、「建久七年(一一九六)の政変」は、「クーデターでなく、兼実が目指していた外戚摂関再興の途が閉ざされたことによる『関白辞職』である」とする、下記のアドレスの論攷などは、やはり、上記の「建久七年(一一九六)の政変」の実態と併せ、その真実の一端を語っているものであろう。

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11199&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「建久七年の九条兼実『関白辞職』」(遠城悦子稿)」

七 さらに、ここで、下記のアドレスで触れた「平安京条坊図(大内裏周辺)」と、上記で紹介した『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』の冒頭の『明月記』の「建久三年(一一九二)三月六日の条」とを重ね合わせると、様々なことかイメージ化されてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-23

平安京条坊図(大内裏周辺)


大内裏周辺.jpg
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四季草花下絵千載集和歌巻(その十七・十八) [光悦・宗達・素庵]

(その十七・八) 和歌巻(その十七・八)

和歌巻14.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      百首歌たてまつりける時よめる
88 春風に志賀の山こゑ花ちれば峰にぞ浦のなみはたちける(前参議親隆)
(春風の中、花吹雪の志賀の山越えをして来ると、山の頂に浦の波が立つことだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
ハ(は)る可世(かぜ)尓(に)し可(志賀)乃(の)やまこえ(山越え)ハ(は)な知連ハ(散れば)見年(峰)尓(に)曾(ぞ)浦乃(の)波ハ(は)多知(たち)介(け)る

※ハ(は)る可世(かぜ)尓(に)=春風に。
※し可(志賀)乃(の)やまこえ(山越え)=志賀の山越え。京都の北白川から山中峠を越え、滋賀の里へ抜ける道。近江の志賀寺(崇福寺)詣でに利用された。
※ハ(は)な知連ハ(散れば)=花散れば。
※見年(峰)尓(に)曾(ぞ)=峰にぞ。
※浦乃(の)波ハ(は)多知(たち)介(け)る=浦の波はたちける。「浦の波」は、志賀の浦の波で、志賀の縁語の「花吹雪」を見立てている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikataka.html

【藤原親隆(ふじわらのちかたか) 康和元~永万元(1099-1165)
右大臣定方の裔。大蔵卿為房の息子。母は法橋隆尊の娘(忠通の乳母)。
保安四年(1123)、叙爵。伊予守・春宮亮などを経て、保元三年(1158)五月、従三位。同年の二条天皇即位後、正三位に昇叙される。永暦二年(1161)、参議。長寛元年(1163)、出家。法名は大覚。
関白内大臣忠通歌合・中宮亮顕輔歌合・木工権頭為忠家百首・久安百首などに出詠。家集『親隆集』は久安百首詠を一冊にしたもの。金葉集初出。勅撰入集十六首。 】

     花の歌とてよみ侍ける
89 さくら咲く比良の山風ふくまゝに花になりゆく志賀のうら浪(左近中将良経)
(桜咲く比良の峰々を山風が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
左久良(さくら)咲(さく)日ら濃(の)山可勢(かぜ)吹(ふく)まゝ尓(に)ハ那(はな)尓(に)成行(なりゆく)志可(しが)濃(の)うらな見(み)

※左久良(さくら)咲(さく)=桜咲く。
※日ら濃(の)山可勢(かぜ)=比良の山風。比良の山は近江の歌枕。
※吹(ふく)まゝ尓(に)=吹くままに。
※ハ那(はな)尓(に)成行(なりゆく)=花になりゆく。湖面に花吹雪が散り敷くさま。
※志可(しが)濃(の)うらな見(み)=志賀の浦波。志賀の浦も近江の歌枕。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yositune.html

【 藤原(九条)良経(ふじわらよしつね・くじょうよしつね)  嘉応元~建永元(1169-1206)
法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
治承三年(1179)四月、十一歳で元服し、従五位上に叙される。八月、禁色昇殿。十月、侍従。同四年、正五位下。養和元年(1181)十二月、右少将。寿永元年(1182)十一月、左中将。同二年、従四位下。同年八月、従四位上。元暦元年(1184)十二月、正四位下。同二年、十七歳の時、従三位に叙され公卿に列す。兼播磨権守。文治二年(1186)、正三位。同三年、従二位。同四年、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言。十二月、兼左大将。同六年七月、兼中宮大夫。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)。同七年、父兼実は土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』『後京極摂政御自歌合』がある。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。 】

(参考)「院政」(白河院・後白河院・後鳥羽院)時代周辺と「藤原(九条)良経(1169-1206)」

院政期.jpg

https://sekainorekisi.com/japanese_history/

 「院政」時代というのは、「白河、鳥羽、後白河上皇三代の院政が行なわれた時代の応徳三年(一〇八六)から建久三年(一一九二)までの約一〇〇年間が中心となるが、藤原氏が摂関として政権を取った時代と、鎌倉幕府が朝廷に優越する政権となった時代との中間の時代と考えれば、後三条天皇即位の治暦四年(一〇六八)から後鳥羽上皇の退位した承久の乱の承久三年(一二二一)までの約一五〇年間がこれに当たる」(精選版 日本国語大辞典)。
 それらを図示したものとして、上記のものは恰好のものである。これによると、「院政」時代というのは、次の三期に分かれる。

「白河院院政期」(1086-1129)=「白河→堀河→鳥羽→崇徳→近衛」時代
「後白河院政期」(1158~1179. 1181~1192)=「後白河→二条→六条→高倉→安徳」時代
「後鳥羽院制期」(1198~1221)=「後鳥羽→土御門→順徳」時代

 「藤原親隆(1099-1165)」は、上記の「白河院院政期」の、特に、「崇徳天皇」時代に活躍した歌人である。
 それに比して、次の「藤原(九条)良経(1169-1206)」は、「後鳥羽院院政期」時代の代表的な歌人で、『新古今和歌集』の「序(仮名序)」を起草した、時の「摂政太政大臣」(『新古今和歌集』搭載の官職名)である。
その『新古今和歌集』が成った元久二年(一二〇五)の翌年、元久三年(一二〇六)三月七日深夜に、享年三十八歳の若さで夭逝した。『千載和歌集』には七首、『新古今和歌集』には七十九首(西行=九十四首、慈円=九十二首に次いで第三位、俊成=七十二首、式子内親王=四十九首、定家=四十六首、家隆=四十三首、寂蓮=三十五首、後鳥羽院=三十四首と続く)入集している。
良経の『千載和歌集』に入集したのは、二十歳前(十七・八歳時)の頃で、御子左家の総帥、藤原俊成(『千載和歌集』の撰者)に見出された歌人ということになろう。良経の叔父にあたる慈円は、その著書『愚管抄』で「能芸群ニヌケタリキ、詩歌能書昔ニハヂズ、政理公事父祖ヲツゲリ」と記している。
書家としても著名で、その書風は後に「京極流」と呼ばれた。一方、有職故実の研究にも力を入れ,、『大間成文抄(除目大成抄)』『春除目抄』『秋除目抄』などの著書を残している。ほかに日記『殿記』も残している。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

「故摂政は、たけをむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由あるさま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし」(『後鳥羽院御口伝』)。

「後京極摂政の歌、毎首みな錦繍、句々悉々く金玉、意情を陳ぶれば、ただちに感慨を生じ、景色をいへば、まのあたりに見るが如し。風姿優艷にして、飽くまで力あり、語路(ごろ)逶迱(いだ)として、いささかも閑あらず、実に詞花言葉の精粋なるものなり」(荷田在満『国歌八論』)。

若き日の「藤原(九条)良経」の歌(『千載和歌集』の七首)

   帰る雁の心をよみ侍りける
ながむればかすめる空のうき雲とひとつになりぬかへる雁がね(千載37)
【通釈】眺めると、北へ帰る雁は、霞んだ空の浮雲と見分けがつかなくなってしまった。

   花の歌とてよみ侍りける
桜咲く比良の山風吹くままに花になりゆく志賀の浦波(千載89)
【通釈】桜咲く比良の峰々を山風が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。

虫ノ声非ズ一ニといへる心をよみ侍りける
さまざまなの浅茅が原の虫の音をあはれひとつに聞きぞなしつる(千載330)
【通釈】荒れ果てた野のさまざまな虫の音は、その「虫ノ音ハ一ツニ非ズ」と耳をすましている。

   閑居聞ク霰ヲといへる心をよみ侍りける
さゆる夜の槙の板屋のひとり寝に心くだけと霰ふるなり(千載444)
【通釈】冷え冷えとした夜の板葺きの家で独り寝をしていると「霰ガ砕ケル」ように孤独感が増大してくる。

  契ル暮ノ秋ヲ恋といへる心をよみ侍りける
秋はをし契りは待たるとにかくに心にかゝる暮の空かな(千載746)
【通釈】秋の暮れも、恋の契りも、とにかくに、心を悩ませる、この暮色の空であることか。

知られてもいとはれぬべき身ならずは名をさへ人に包まましやは(千載826)
【通釈】知られては厭われる身なので、ここは名を隠すほかはあるまいに。

  法華経の弟子品、内秘菩薩行の心をよみ侍りける
ひとりのみ苦しき海を渡るとや底を悟らぬ人は見るらん(千載1227)
【通釈】悟らぬ人は一人で苦海(苦界)を渡ると思っているが、この法華経の声明は菩薩に導かれて苦海渡るとことを導いてくれる。

https://sidu.exblog.jp/1724542/

『新古今和歌集』「仮名序」(摂政太政大臣良経)

 やまとうたは、昔あめつち開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵞の里よりぞつたはれりける。しかありしよりこのかた、その道さかりに興り、その流れいまに絶ゆることなくして、色にふけり、心をのぶるなかだちとし、世をおさめ、民をやはらぐる道とせり。

  かゝりければ、代々のみかどもこれを捨てたまはず、えらびをかれたる集ども、家々のもてあそびものとして、詞の花のこれる木のもとかたく、思ひの露もれたる草がくれもあるべからず。しかはあれども、伊勢の海きよき渚の玉は、ひろふとも尽くることなく、泉の杣しげき宮木は、ひくとも絶ゆべからず。ものみなかくのごとし。うたの道またおなじかるべし。

  これによりて、右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近中将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近少将藤原朝臣雅経らにおほせて、むかしいま時をわかたず、たかきいやしき人をきらはず、目に見えぬ神仏の言の葉も、うばたまの夢につたへたる事まで、ひろくもとめ、あまねく集めしむ。

  をのをのえらびたてまつれるところ、夏引の糸のひとすぢならず、夕の雲のおもひ定めがたきゆへに、緑の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風すゞしきゆふべ、難波津の流れをくみて、すみ濁れるをさだめ、安積山の跡をたづねて、ふかき浅きをわかてり。

  万葉集にいれる歌は、これをのぞかず、古今よりこのかた七代の集にいれる歌をば、これを載する事なし。たゞし、詞の苑にあそび、筆の海をくみても、空とぶ鳥のあみをもれ、水にすむ魚のつりをのがれたるたぐひは、昔もなきにあらざれば、今も又しらざるところなり。すべてあつめたる歌二千ぢ二十巻、なづけて新古今和歌集といふ。

  春霞立田の山に初花をしのぶより、夏は妻恋ひする神なびの郭公、秋は風にちる葛城の紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮まで、みなおりにふれたる情なるべし。しかのみならず、高き屋にとをきをのぞみて、民の時をしり、末の露もとの雫によそへて、人の世をさとり、たまぼこの道のべに別れをしたひ、あまざかる鄙の長路に都をおもひ、高間の山の雲居のよそなる人をこひ、長柄の橋の浪にくちぬる名をおしみても、心中にうごき、言外にあらはれずといふことなし。いはむや、住吉の神は片そぎの言の葉をのこし、伝教大師はわがたつ杣の思ひをのべたまへり。かくのごとき、しらぬ昔の人の心をもあらはし、ゆきて見ぬ境の外のことをもしるは、たゞこの道ならし。

  そもそも、むかしは五たび譲りし跡をたづねて、天つ日嗣の位にそなはり、いまは八隅知る名をのがれて、藐姑射の山に住処をしめたりといへども、天皇は子たる道をまもり、星の位はまつりごとをたすけし契りをわすれずして、天の下しげき事わざ、雲の上のいにしへにもかはらざりければ、よろづの民、春日野の草のなびかぬかたなく、よもの海、秋津島の月しづかにすみて、和歌の浦の跡をたづね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集をえらびて、永き世につたへんとなり。

  かの万葉集はうたの源なり。時うつり事へだたりて、今の人しることかたし。延喜のひじりの御代には、四人に勅して古今集をえらばしめ、天暦のかしこきみかどは、五人におほせて後撰集をあつめしめたまへり。そののち、拾遺、後拾遺、金葉、詞華、千載等の集は、みな一人これをうけたまはれるゆへに、聞きもらし見をよばざるところもあるべし。よりて、古今、後撰のあとを改めず、五人のともがらを定めて、しるしたてまつらしむるなり。

  そのうへ、みづから定め、てづから磨けることは、とをくもろこしの文の道をたづぬれば、浜千鳥あとありといへども、わが国やまと言の葉始まりてのち、呉竹のよゝに、かゝるためしなんなかりける。

  このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり。これみな、人の目たつべき色もなく、心とゞむべきふしもありがたきゆへに、かへりて、いづれとわきがたければ、森のくち葉かず積り、汀の藻くづかき捨てずなりぬることは、道にふける思ひふかくして、後の嘲りをかへりみざるなるべし。

  時に元久二年三月廿六日なんしるしをはりぬる。

  目をいやしみ、耳をたふとぶるあまり、石上ふるき跡を恥づといへども、流れをくみて、源をたづぬるゆへに、富緒河のたえせぬ道を興しつれば、露霜はあらたまるとも、松ふく風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月の曇なくして、この時にあへらんものは、これをよろこび、この道をあふがんものは、今をしのばざらめかも。

『藤原良経略年譜』(下記のアドレスなどによる。)

https://sidu.exblog.jp/1724542/

(0歳~16歳)

1169年 九条兼実の次男として生まれる。
1179年 元服し良経と名乗る。
1181年 このころから連句・詩会に出席。
1185年 従三位に叙され公卿の仲間入り。

(17歳~20歳)

1186年 父兼実が摂政となる。藤原定家が九条家に出仕する。
1188年 兄良通の死。『千載集』に入撰。
1189年 権大納言・左近衛大将となる。

(21歳~30歳)

1190年 『花月百首』『二夜百首』を詠む。
1191年 一条能保の娘と結婚。『十題百首』。
1193年 良経主催で『六百番歌合』が行われる。
1195年 内大臣となる。勅使として伊勢に下向。
1196年 建久の政変。九条家が失脚する。
1198年 『後京極殿御自歌合』を編む。
1199年 左大臣となる。

(31歳~38歳)

1200年 良経の妻、死去する。『院初度百首』。
1201年 『老若五十首歌合』、『千五百番歌合』。和歌所寄人となり、『新古今集』編纂を指揮。
1202年 内覧の宣旨を賜り、摂政・氏長者となる。
1204年 太政大臣となる。
1205年 『新古今集』が一応完成、お披露目。
1206年 曲水宴を目前に謎の頓死。享年38歳。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/04432d5f6de5fc99653292ebd36ca6a7

【 良経は序(新古今集の)完成の翌日相国(摂政太政大臣)を辞していた。そうして中御門京極に壮美を極めた邸宅を造り営む。絶えて久しい曲水の宴を廷内で催すのも新築の目的の一つであった。実現を見たなら百年振りの絢爛たる晴儀となっていたことだろう。元久三年二月上旬彼はこの宴のための評定を開く。寛治の代、大江匡房の行った方式に則り、鸚鵡盃を用いること、南庭にさらに水溝を穿つことを定めた。数度評定の後当日の歌題が「羽觴随波」に決まったのは二月尽であった。
 弥生三日の予定は熊野本宮二月二十八日炎上のため十二日に延期となった。良経が死者として発見されたのは七日未明のことである。禍事を告げる家臣女房の声が廷内に飛び交い、急変言上の使いの馬車が走ったのは午の刻であったと伝える。
 尊卑分脈良経公伝の終りには「建仁二年二月二十七日内覧氏長者 同年十二月二十五日摂政元久元年正月五日従一位 同年十一月十六日辞左大臣 同年十二月十四日太政大臣 同二年四月二十七日辞太政大臣 建永元年三月七日薨 頓死但於寝所自天井被刺殺云云」と記されている。
 天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある。
 良経を殺したのは誰か。神以外に知るものはいない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を挿頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した。その時王朝は名実共に崩れ去ったのだ。  】(『塚本邦雄全集第14集』所収「藤原良経」(昭和50年6月20日初出))
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