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醍醐寺などでの宗達(その一・「醍醐寺の水墨画」) [宗達と光広]

その一・「醍醐寺の水墨画」(「芦鴨図〈俵屋宗達筆〉」など)周辺

 醍醐寺には、「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉」(重要文化財)がある。

芦鴨図一.jpg

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html

「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)」(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝ (醍醐寺蔵)
【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 「宗達周辺年表」(『宗達(村重寧著・三彩社)』所収))の「元和八年(一六二二)」の項に「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃か)/このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」とある。
 この時、本阿弥光悦(永禄元年=一五五八生れ)、六十五歳、俵屋宗達は生没年未詳だが、
光悦より十歳程度若いとすると(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)、五十五歳?の頃となる。
 当時、光悦は、元和元年(一六一五)に徳川家康より拝領した洛北鷹が峰の光悦町を営み、その一角の大虚庵(太虚庵とも)を主たる本拠地としている。一方の、宗達が何処に住んでいたかは、これまた全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 上記の年表の「このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」というのは、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)の一節を指している。
 そして、この「俵屋」は、その文章の前の所に出てくる、「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。 
 これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。
 この「五条の扇の俵屋」の主宰たる棟梁格の人物が、後に「法橋宗達(または「宗達法橋)」となる、即ち、上記の醍醐寺の「紙本墨画芦鴨図」を描いた人物なのかどうかは、全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 と同様に、この『竹斎』という仮名草子(平易なかな書きの娯楽小説)の作者は、「富山道冶」(「精選版 日本国語大辞典」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「デジタル大辞泉」「ブリタニカ国際大百科事典」)=「磯田道冶」(『宗達(村重寧著)』『宗達絵画の解釈学(林進著)』)の「富山」と「磯田」(同一人物?)と大変に紛らわしい。
 さらに、「作者は烏丸光広(1579‐1638)ともされたが,伊勢松坂生れ,江戸住みの医者磯田道冶(どうや)(1585‐1634)説が有力」(「世界大百科事典 第2版」「百科事典マイペディア」)と、宗達と関係の深い「烏丸光広」の名も登場する。
 そもそも『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』の、その「凡例」に「辨疑書目録に『烏丸光広公書作 竹斎二巻』とあつて以来作者光広説が伝えられてゐる」とし、校訂者(守髄憲治)自身は、光広説を全面的に否定はしてない記述になっている。
 そして、この烏丸光広は、「歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、「仮名草子」の代表作家の一人として遇せられている(「百科事典マイペディア」)。
当時(元和八年=一六二二)の光広は四十四歳で、御所に隣接した「中立売門」(御所西門)の烏丸殿を本拠地にしていたのであろう。下記の「寛永後萬治前洛中絵図」(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の左(西)上部の「中山殿」と「日野殿」の左側に図示されている。
 「烏山殿」は、その御所(禁中御位御所)の下部(南)の右の「院御所」の左に隣接した「二条殿」と「九条殿」(その下は「頂妙寺」)の間にもあるが、「中立売門」(御所西門)の「烏丸殿」が本拠地だったように思われる。

烏丸殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(A図:烏丸殿と頂妙寺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24215%2C13535%2C3305%2C6435&r=270

 烏丸光広が大納言に叙せられたのは、元和二年(一六一六)、三十八歳の時で、この年に、徳川家康(七十五歳)、その翌年に後陽成院(四十七歳)が没している。
 そして、宗達関連では、後水尾天皇の側近で歌人としても知られている「中院通村(なかのいんみちむら)」の日記(元和二年三月十三日の条)に、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)来候由也、則申附夜之事、御貝十令出絵書給(貝合わせの絵を描かせることを命じ)、本二被見下、一、俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉(その参考の絵として「鹿と紅葉の俵屋絵」を見せた) (省略)」と、後水尾天皇は「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を持っていて、これを参考にして「貝合わせの絵」を描くように、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)」に命じたということが記されている。
 この「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を描いた絵師は、「俵屋宗達」という有力資料の一つなのであるが、これとて、確証のあるものではない。

中院殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(B図:烏丸殿と中院殿)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=27010%2C13733%2C2006%2C3971&r=270

 この図(B図)の左(西)の一番下(南)の「中山殿」の下が「日野殿」(「烏丸家」の本家)で、この「中山殿」と「日野殿」の左側に隣接しているのが「烏丸殿」(家格=名家)である。そして、ここが元和二年(一六一六)当時の権大納言・烏丸光広の屋敷と理解したい。
 その上で、当時、二十八歳、その翌年に権中納言に叙せられる中院通村の「中院殿」(家格=大臣家)は、この図の右(東)の一番上(北)に「中院中納言殿」で図示されている。その下の「高松殿」は、後水尾天皇(後陽成天皇の第三皇子)の弟に当る「高松宮(有栖川宮)好仁親王」(後陽成天皇の第三皇子)の屋敷かも知れない。
 因みに、この図(B図)の左(北)上(北)部の「一条殿」は「一条昭良」(後陽成天皇の第九皇子・一条家十四代当主)、この「新院御所(後水尾院?)」の上部(北)に図示されている(このB図の上=北側に図示されている)「近衛殿」が、「近衛信尋」(後陽成天皇の第四皇子・近衞信尹の養子となり、近衞家十九代当主)の屋敷関連と解すると、当時の「後水尾天皇」(後陽成天皇の第三皇子。母は関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子)の、その文化サロン圏内の一端が、この「A図」と「B図」とで明瞭となって来る。
 下記のアドレスの、「中院通村年譜稿―中年期元和三年~八年―」(日下幸男稿)に、その文化サロン圏内の宮廷歌会(「元和三年(一六一七)五月十一日の和歌会」)に関する記録などが遺されている。

https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

【五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。 】

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟

 この錚々たる後水尾天皇を取り巻く親王と上層公家衆の中に、細川幽斎より「古今伝授」を継受された者が、「智仁親王=八条宮智仁親王・烏丸光広・中院通村」と三人が登場する。
 さらに、数少ない「宗達関係資料」の中で、「一条兼遐書状」(後水尾天皇勘返状)、「中院通村日記」(元和二年三月十三日の条)、そして「『西行物語絵巻(俵屋宗達筆)』奥書」(「特進光広」奥書)と、これまた、三人の名が登場する。
 そして、これらの中で、宗達と最も関係の深い人物が「烏丸光広」ということは、これは紛れもない事実と解して差し支えなかろう。

三宝院門跡.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(C図:三宝院門跡宿坊周辺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=27010%2C13733%2C2006%2C3971&r=270

 この図(C図)の右(東)上(北)部に「三宝院門跡」とあり、ここは「醍醐寺三宝院門跡」の宿坊(宿泊施設)が図示されている。
 そして、寛永八年(一六三一)に、現在、静嘉堂文庫美術館蔵となっている醍醐寺旧蔵品の「源氏物語関屋澪標図屏風」(六曲一双)の制作依頼人が、当時の醍醐寺三宝院門跡の「三宝院覚定」であることが、その覚定の日記の「寛永日々記」(寛永八年〈一六三一〉九月十三日の条)の「源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也」という記述から確認され、ここから、「宗達と醍醐寺」との関係というのが、その姿の一端を現したということになる(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』)。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

 ここでは、この図(C図)の中央下部の「鷹司太閤殿」というのは、醍醐寺の門跡の「三宝院覚定」の兄に当る「鷹司信尚」(官位は従一位・関白・左大臣)その人で、その妻は、後水尾天皇の姉(後陽成天皇の第三皇女)に当る「清子内親王」であることを特記して置きたい。
 そして、上記のB図関連で触れた「後水尾天皇の文化サロン(歌会)」のメンバーには、さらに、下記(再掲)の、「後陽成院の系譜」と、それを取り巻く「門跡寺院」等々、そして、さらに、それらを取り巻く、当時勃興しつつあった「有力町衆」(本阿弥光悦=本阿弥家・角倉素庵=角倉家・俵屋宗達=俵屋家、尾形宗伯=光琳・乾山の父=尾形家、茶屋四郎次郎=茶屋家、後藤庄三郎=後藤家、五十嵐久栄=五十嵐家、楽常慶=楽家、千家=茶道家、池坊家=華道家、等々)が加わり、それらが連鎖状に「一大文化サークル」圏を形成していたということは、これまた首肯することは差し支えなかろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

【 (追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)】
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十二) [水墨画]

その十二 「装丁画家・徳川義恭」と『宗達の水墨画(徳川義恭著・座右寶刊行会)図版』周辺

花ざかりの森.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000203KDS_HKDT-00457
『花ざかりの森(三島由紀夫著)』表紙装幀画(徳川義恭画)

徳川義恭・山水画.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000203KDS_HKDT-00457
『花ざかりの森(三島由紀夫著)』見返し頁山水画(徳川義恭画)

【 花ざかりの森』(七丈書院、1944年10月15日) NCID BA38760328
※A5判。紙装。フランス装カバー。本文用紙に和紙使用(若干数の洋紙刷本あり)。247頁
※カバー装幀:徳川義恭。白地に尾形光琳の躑躅図を模した扇面。見返しには水墨の山水。
※中扉裏に「清水文雄先生に献ぐ」と献辞あり。
※奥付頁にある著作者略歴に「大正四年生」と誤植があり、訂正紙を貼付(ごく一部、三島自身が自筆で訂正したものがある)。
※収録作品:「花ざかりの森」「みのもの月」「世々に残さん」「苧菟(おつとお)と瑪耶(まや)」「祈りの日記」「跋に代へて」。  】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 徳川義恭は、三島由紀夫より四歳年長で、学習院中等科・高等科の先輩に当る。その学習院時代の三島由紀夫(当時、十六歳)が、昭和十六年(一九四一)「花ざかりの森」を書き上げ、恩師の清水文雄の推奨で、その清水の同人月刊誌『文藝文化』に「花ざかりの森」を発表する。この年の十二月八日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が幕開けする。
 そして、昭和十九年(一九四四)、学徒動員の前の十月に、処女短編小説集『花ざかりの森』を刊行する。その前年に三島が書いた、徳川義恭宛ての書簡が遺されている。

【 国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。— 平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付) 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この書簡を書く一年前の昭和十七年(一九四二) 東文彦、徳川義恭と共に同人誌『赤繪』を創刊する。その『赤絵』は、彼らの先輩の多くが参加した「西洋文学・西洋画」を基調とした「文芸・美術雑誌」の『白樺』を意識しての、「白」に対する「赤」という「捩り」のようにも取れるが、次の、三島が東文彦に宛てた書簡が、当時の彼らの真意の一端を物語っている。

【「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。— 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付) 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

白樺.jpg

『白樺』創刊号の表紙(岸田劉生装幀画)

 三島由紀夫は、徳川義恭が亡くなった後(昭和二十四年=一九四九、没年齢=二十八歳)、その八年後の昭和三十二年(一九五七)に、徳川義恭をモデルにした短編小説「貴顕(中央公論 1957年8月)」を執筆する。
 この「貴顕」については、次のアドレスの、「三島由紀夫のイマジナリ ・ポートレイトーー『貴顕』をめぐって(十枝内康隆稿)」が参考となる。

https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3112&item_no=1&page_id=13&block_id=17

 その「貴顕」は、その主人公・柿川治英(モデル=徳川義恭)の、次のポートレイトー(肖像画)の記述より始まる。

【さて、 私の描く肖像画は、 初期銀板写真の額縁のやうな螺鈿や金銀のアラベスクに飾られた楕円形でありたく、又その胸像は横向きであったはうがいい。なせなら彼の横顔は日本人にまれに見る秀麗さで、その鼻は正確な羅馬鼻であるし、唇のはじのくびれは希臘彫刻の唇のそれに似てゐたからである。ほとんど血の気のないほど白皙のその顔には唇の淡紅が目立ってゐた。 】

 そして、その「貴顕」は、その主人公の死顔(デスマスク=ポートレイトー)の記述で終わっている。

【 婦人が顔の白布を除けた。私はその美しさにおどろいた。人間の皮膚の色を脱した白さが、希臘風の横顔を包んでをり、その鼻梁の正しさは似るものがなく、その口もとの括れは彫刻としか思はれなかった。しかし死顔のうかべてゐる云はうやうない晴朗さは、私を安心させた。実際、内心のあらはれとしての晴朗さではなくて、顔の正しい形態そのものの放っ晴朗さは、かうして死後までも残るものである。 】


補記 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第一図から第八図・右:第八図・左」周辺(国立国会図書館蔵本)

第一図 牡丹 竪九六・七㎝ 横四四・九㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-21

第二図 鴛鴦 淡彩 竪九三・九㎝ 横四七・七㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-24

第三図 鴛鴦 竪一〇一・五㎝ 横四三・八㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

鴛鴦二.jpg

右図=第二図(部分図、この下部の左に落款「法橋宗達」) 
左図=第三図(部分図? この左端の落款「宗達法橋」か? 竪一〇一・五㎝とすると、この上部に賛をする余白がとられている?)

第四図 兎 竪四二・四㎝ 横四五・五㎝

兎.jpg

『宗達画集・審美書院・大正二年刊』(国立国会図書館デジタルコレクション) コマ番号76/86)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015931

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第四図」は、上記のものであった。

第五図 狗子 竪九〇・三㎝ 横四四・八㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-05

第六図 蓮池水禽 竪一一七・六㎝ 横五〇・九㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

第七図 鴨 竪一〇〇・六㎝ 横四六・一㎝

蓮池・鴨.jpg

右図=第六図(蓮池水禽図)
左図=第七図(鴨) → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第78図(この第78図では、首に白い首輪の筋が入っている。この左図では、白い目の点とその白い首輪の筋がコピーの際黒一色になっている?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第七図」は、上記の「左図=第七図」の「落下する鴨」の図であった。これと同じような「落下する鴨」が、下記のアドレスの『芸術資料. 第2期 第11冊 金井紫雲 編』に収載されている。
 上図(第七図=鴨)の落款は「宗達法橋」、そして、印章は「対青軒朱文円印」で、それが、鴨の尾の上部に記されている。それに比して、下図(鴨)の落款と印章(「宗達法橋」と「対青軒朱文円印」は同じ)は、一番下部の左端に記されている。よく、その細部を見て行くと、上図の鴨の首は黒一色であるが、下図の鴨の首には、その黒い首に白い首輪のような一筋が入っている(上記の「鴨」図は、『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第78図(この第78図では、首に白い首輪の筋が入っている。この左図では、白い目の点とその白い首輪の筋がコピーの際黒一色になっている?)のかも知れない)。
 また、これらの鴨の脚も、下図では黒の二点が描かれているが、上図では一点の黒ボチだけである。そのように、細部を比較しながら見ていくと、いろいろな相違点が浮かび上がってくるが、雰囲気は、全く同じ、あれこれと詮索せずに、いずれも「宗達法橋」の作とすることに、躊躇を感じない。

落下の鴨図.jpg

「鴨(俵屋宗達筆) 『芸術資料. 第2期 第11冊 金井紫雲 編』所収
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906563

第八図右(水禽=竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝)と第八図左(蓮=一〇七㎝ 横四一・二㎝)

第八図右(水禽=竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

第八図左(蓮=一〇七㎝ 横四一・二㎝)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

蓮池水禽五幅.jpg

(左図の一) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図
(左図の二) 畠山記念館蔵 「同上」 無印      → B図
(左図の三) 山種美術館蔵 「同上」 「伊年」印    → C図
(右図の一) 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第八図左 蓮」無印
→ D図 → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第80図 →部分図
(右図の二) 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第八図右 水禽」伊年印 → E図 → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第82図

 この(右図の一)と(右図の二)については、下記アドレスの「コメント」欄で記している。その誤記などを修正して再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

(再掲)

【「補記」を追加した。『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の図版は未見であったが、「国立国会図書館蔵本」で見ることが出来た。終戦直後の、昭和二十三年(一九四八)当時の出版で、最近の図版などと比較すると見劣りはするが、著者が、どのような図版で、その「図版解説」をしたのかは、やはり、その著書の図版を見ないと、隔靴搔痒の感はゆがめない。
 しかし、そのスタート時点では未見であったが、そのゴール地点で見ることが出来たのは大きな収穫であった。何よりも、その隔靴搔痒のうちに、その過程で、種々の出版されている多くの図録を見る絶好な機会であった。
 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の、その献辞に「千沢梯治学兄に」し記されているが、その「学兄千沢梯治」が、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」を草したのであった。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

《風流人抱一は俳諧の「季」の絵画化を発想の根底とし、みがかれた鋭敏な感覚により、簡潔でまとまりのある瀟洒な装飾画を高貴なマチエールによって品格高く仕上げいるが、光琳の様式に深く傾倒しながらもその亜流化を厳然と拒否した見識は流石である。
(中略)
 宗達にとって古画は図形の宝庫であって意味内容は二次的な関心しか持っていない。光琳は古典に専ら作画のイメージを求める古典の感覚化の度合は著しい。抱一は感覚的に捉えた自然のイメージを文学的情操によってさらに美化し、琳派の色感を継ぎながら写生の妙技を示した。
 このように琳派は、その世代によって追及と発展の方向はさまざまであるが、かかる具象的な装飾様式の展開をたどることによって、おのずから芸術史上の位置を明らかにしている。》(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」)】

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十一) [水墨画]

その十一 「蓮(宗達筆・個人蔵)」周辺

【 第八図左 蓮 竪一〇七㎝ 横四一・二㎝
 此の図を一見して、或る鈍さを感じ得る人は少ないであらう。私は之を俵屋宗達筆とはしないのである。其の難点は指摘する迄もないと思ふが、念の為書いてみると、先ず全体の構図に、大きなゆつたりした感じの無い事、筆触に張りの無い事が其の主なものである。特に茎の構成が拙く、その一本々々の描写も、生気に乏しい。葉にも無意味な筆使いが目立つ。更に花について言ふと、先ず開いた花は、第八図右の花を其の儘写したものである。只、蕊を少し変へてゐる。又、右上の、花の終わつたものは、第六図の蓮池水禽図に描かれてゐるのを逆に写したものである。即ち、宗達の絵の部分を二箇所から写し、あとはいゝ加減の事にして此の絵は出来上つてゐるのである。
 これと殆ど同じ図様で、中央の空間に蕾の描かれた一図も在る。之には右下に伊年印があるが、同じく宗達筆ではない。例えば最下部の構成など如何にも拙く、又全体に墨の濃淡の効果が悪く、絵に深さが無いのである。(之には高見沢版宗達に写真がある)併し、かう云ふ程度の亜流作品は、愛敬があると云ふか、拙い乍らもそんな感じがあつて、私は抱一などよりは好きである。もつとも之は花だから無難なので、この調子で動物や人物などを描かれたら閉口するに違ひない。
 一人の偉大な画家が現れると、其の画風の絵が極めて多く作られる。宗達の場合にもそれが著しいのである。寛永十六年に在世して居た事の確実である俵屋宗雪を始め、宗達と称した亜流画家さへ居るのであるから、吾々は作品に対して、十分厳格でなければならない。殊に宗雪は墨絵を描いてゐたらし、古画備考宗雪の條に、「峯寶斎宗雪法橋」として、之に伊年円印を伴つた落款が書写され、その下に、「紙墨立四幅 東坡、梶葉、芙蓉、舟鷺、別府氏蔵」とある。
 何れにしても、此の様な絵は亜流作品である。併しながら、それを承知して、其の画様式を宗達研究の為に活用することは有意義である。宗達の正筆でなくても、研究の為の価値が認められる場合は屡々ある。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左 蓮」p15~p17 )

(再掲)

蓮池水禽・三幅.jpg

(左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図 (上記解説の「第六図」)
(中央図)畠山記念館蔵 「同上」 無印      → B図
(右図) 山種美術館蔵 「同上」 「伊年」印   → C図(上記解説の「第八図」)
https://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/0dc362de8723932a0236c639f4d34cd0
 この左図の、国宝の「A図 蓮池水禽図(京都国立博物館蔵)」については、下記のアドレス(再掲)のとおり激賞している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

(再掲)

【 水墨的技法を駆使したこの作品は、宗達の水墨画の最高傑作としてつとに名高いものであると同時に、日本の水墨画の歴史のなかでの偉大な成果のひとつとして広く認められている。 】

 また、右図の「C図 蓮池水禽図(山種美術館蔵)」についても、下記のアドレス(再掲)のとおり、宗達の正筆としている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

(再掲)

【 飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる。全体に先の蓮池水禽図(メモ:A図・図版解説第六図)の深さは無いが、併し構図もよく、花の柔かさも、葉の趣も十分であるから、宗達筆としてよいであらう。ゆつたりとした感じのある気持のいゝ絵である。 】

 そして、この中央図の「C図 蓮池水禽図(畠山記念館蔵)」だけは、下記のアドレス(再掲)のとおり、「私は宗達筆とはしない」とし、それに続けて、「後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである」と、もっと拙い「エピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作」が、今回の「第八図左 蓮 竪一〇七㎝ 横四一・二㎝」(D図とする=未見)のようである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

(再掲)

【 同じ蓮池水禽図で鳥が一羽(それは今述べた図の中の、首を延ばしてゐるのと殆ど同形)泳いてゐるのがある(メモ:※下記の「(B図) 蓮池水禽図」)、その絵を私は宗達筆とはしないのである。之は、後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである。 】

蓮池水禽AとB.jpg

(左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図 (上記解説の「第六図」)
(中央図)畠山記念館蔵 「同上」   無印     → B図

 この両図(A図とB図)についての「宗達の二つの『蓮池水禽図』」(『古画名作裏話(中村渓男著)』所収)の、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左 蓮」の異説などを紹介して置きたい。

【 国宝本(A図)は図の上部左より白い花をつけた蓮花と、散って僅かに花弁を残した藕花(ぐうか)が池水から出た大きな葉にささえられている。もう一つ(B図)は、右の下から数枚の荷葉にかこまれた藕花が、こちら向きに葉上から突き出ている。両図とも鳰(かいつぶり)が二羽、一羽と水面にしぶきを飛ばせながら泳いでいる。この荷葉の瑞々しい感じと、鳰の姿。その描法からほとんど同筆と見ることは出来ないであろうか。蓮の向きからいって左右から向い合う形になっており、鳰は左をさして動くが、印章が左右対照に捺されている。
 構図的にも、蓮の処理において、一方(A図)は高く他(B図)は低くすることによって均衡をとっている。対幅でなければしないことで、これを偶然といい得ようか。後代のことだが、光琳燕子花図屏風(国宝・根津美術館蔵)も単一の燕子花だけの図のために、左右片双ずつに高低をつけて構図したもので、まして同派宗達の創案によって当然、この作為的な構図としたことも考えられる。
 筆法の上からも、蓮葉のたらしこみ法はまったく同じで、柔らかみのある質感があらわされているばかりか、葉脈、葉柄に用いられたたっぷりした丸味のある線描には共通点が多い。鳰の描写、とくに頭の表現、背から尻尾にかけての淡墨と、きき羽や尾羽にやや濃い墨を用いた描法、水の中を通して見える水をかく脚の表出などは、まさに同じ時期でなければ描けないような筆法である。(以下略) 】(『古画名作裏話(中村渓男著)』所収「宗達の二つの『蓮池水禽図』」)

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(A図) 寛永七年(一六三〇)後水尾院新仙洞御所に移られる頃の「御所」周辺図

頂妙寺・古図.jpg

「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270
(メモ) 「寛永七年(一六三〇)十二月、上皇(後水尾院)、女御(徳川和子・東福門院)、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館)』所収「関連略年譜」)は、この「院御所に移られる」と解すると、「頂妙寺」(俵屋宗達家の菩提寺?)、「烏丸殿」(烏丸光広邸?)が、その左側(西側)に、そして、当時の醍醐寺の門跡(醍醐寺三宝院門跡・覚定)の宿坊は、「院御所」の「右(西)の上(北)」に図示されている。

(B図) 延宝五年(一六七七)当時の「御所」周辺図

延宝時内裏図.jpg

「新改内裏之図(延宝5年:1677年)』京都市歴史資料館蔵
https://rekishi-memo.net/edojidai/" target="_blank">https://rekishi-memo.net/edojidai/
(メモ)【 霊元天皇在位中の寛文十三年(一六七三)五月八日、関白鷹司房輔の邸から出火があった。これにより禁裏御所、後水尾院の仙洞御所、東福門院の女院御所、後西院の新院御所が焼失した。ただ、明正院の本所御所だけは一部の焼失で済んだ。九月、寛文から延宝に改元。延宝の御所造営が行われていった。造営は仙洞御所、女院御所、禁裏御所の順番で着手された。後水尾院、東福門院が高齢だったからである。禁裏御所は延宝三年(一六七五)正月に木作始、十一月二十七日に霊元天皇が新たな御所に遷幸することが決まる。ところが、その二日前に堀川油小路間で出火、これにより先の火災で一部の焼失で済んだ本所御所などが類焼する。ただ、禁裏御所は無事だったため予定通りに霊元天皇が遷幸した。そして、延宝八年八月に後水尾院が崩御する。 】(『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画  
江戸時代前期 (野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第一章 御所の障壁制作―天明の大火以前 p52~ 五度目の御所造営(五十嵐公一稿)」
※この延宝五年(一六七七)当時には、光悦(一六三七年没=八十歳)、素庵(一六三二年没=六十二歳)、光広(一六三八年没=六十歳)、松花堂照乗(一六三九年没=五十六歳)、そして、宗達(一六四二年=宗雪法橋位にあり、宗達没している?)と、時代は、次の「光琳・乾山」時代へと移行しつつある。
※※(A図)と比較すると「院御所」の左(西)側に隣接していた「二条殿・烏丸殿・九条殿・頂妙寺」が、(B図)では「新院御所(後西院?)」となり、頂妙寺は、この御所付近から現在地へと様変わりをしている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
 しかし、当時の醍醐寺の門跡(醍醐寺三宝院門跡・高賢)の宿坊は、「仙洞御所・女院御所」の「右(西)の上(北)」に図示されている。

(C図)令和三年(2021)の「御所」周辺図

梨木神社周辺.jpg

https://www.mapion.co.jp/m2/35.0220541,135.76259681,16/poi=L0566027 https://fng.or.jp/kyoto/
(メモ)「 醍醐寺三宝院門跡」の宿坊は、右(東)上(北)方の「梨木神社」周辺に当る(『近世京都画壇のネットワーク(五十嵐公一著)』)。

( 補記 )『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図右 水禽」と「図版解説第八図左 蓮」の、その図版(右図=水禽、左図=蓮)は、次のものであった。
 この「図版(右図=水禽、左図=蓮)」のものは、これまでの展覧会図録のものなどと比較すると、微妙にアレンジをしており、この種のものが他にも何点かあることが窺える。

八図右・左.jpg

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版(右図=水禽、左図=蓮)」(国立国会図書館蔵本)

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十) [水墨画]

その十 「水禽(宗達筆・個人蔵)」周辺

【 第八図 右 水禽 竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝
 飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる。全体に先の蓮池水禽図(図版解説第六図)の深さは無いが、併し構図もよく、花の柔かさも、葉の趣も十分であるから、宗達筆としてよいであらう。ゆつたりとした感じのある気持のいゝ絵である。此の図や、先の蓮池水禽図には、伊年と云ふ円印が在る。扶桑名公画譜には伊年を宗雪のみに結びつけ、宗達に迄及ばしてゐないが、宗達が伊年を称してゐた事は認めるべきであると思ふ。第一に、其の様式に疑ひの無い事、第二に、伊年と称した此の系統の画家の多いと云ふ事実は、取りも直さず最初の伊年が偉大であつたのを証明して居ると考へられる事、が理由として挙げられる。尚、家蔵自筆「桧山担斎襍(雑)記」には

俵屋宗達 号郭大年 即見図円印楷字 是元祖伊年トモ称 子孫同名而相続(六七代迄) 初代カ二代ヨリ加州公に召抱ラル 祖宗達ハ画雪(楽)ニ学 右杜陵子話

とある。杜陵子とは抱一のことである。此の記事は信憑するに足らぬものであるが、伊年が六、七代まで続いたと述べてゐるのは、やゝ興味がある。
 何れにせよ、伊年の初代は宗達であり、次で宗雪、相説、女重春、順定、白井(白井宗謙即ち何帛か)などがあるが、今日画蹟に依つて見ても、確かに数人を伊年画の中に分つ事が出来る。
 又、伊年に限らず、対青軒(或は劉青軒)その他の円印に就てであるが、宗達以前に、筆者の印に斯様な大きな円印を用ひた例があるかどうか、私は未ださう云ふものを見た事がない。いずれ宗達は、何かからのヒントを得て、あゝ云ふ大きな円印を画に捺す様になつたものと思はれるが、果してそれは何であつたか。…… 勿論これを簡単に知る訳には行かない。唯、私は次の様な事を想像してゐる(之は文字通りほんの想像に過ぎないのであるが)。
 即ち、絲印が本になつてゐるのではないかと云ふ事である。絲印とは、室町時代の中頃から江戸時代の初めにわたつて、織物の原料たる生絲を、明国から輸入した際に、絲荷の中に一包毎に入れて送つて来た銅印を云ふのである。その際、絲の包紙にその印を押し、又受取書にも押して、斤里を改めて受けたしるしとしたのである。その印は鋳物で、皆朱字である。そして大きさは大小色々あり、輪郭も単線、複線があつて、形も方、円、五角、八角などがあつた。而も之は文具として用ひられる様になり、秀吉や近衛三藐院らはこの絲印を用ひてゐたと云はれてゐる。即ち宗達は機屋俵屋の一族かと思はれるから、当然これに関係があるし、又、三藐院は宗達と恐らく交際があつたと想像出来るから、ここにも繋がりがあるのである。(三藐院と宗達の合作らしき一幅があるし、光悦と三藐院は明らかに交はりがあつた。)
 併し宗達のことであるから、前代の画家の小円印や、所蔵者印の大きなものからヒントを得たのかも知れず、其の点は如何とも決定し難い。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15)

 この「第八図 右 水禽 竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝」については、その、「飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる」ということから、次の「蓮池水禽図」(山種美術館蔵)のような「水禽」図なのであろうか(その「第八図 右」は未見)。

蓮池水禽図・山種美術館.jpg

https://twitter.com/yamatanemuseum/status/639284228107055105/photo/1

(再掲)

【 22・23 蓮池水禽図 宗達 掛幅 紙本墨画 一一八×四八・三㎝ (山種美術館蔵)
 国宝の「蓮池水禽図」(上記の京都博物館蔵のA図)は酒井抱一が絶品と褒める箱書もあり、かねてより特別の作と扱われていたようだが、宗達派には本図(上記の山種美術館蔵のC図)をはじめ多数の「蓮池水禽図」が遺されている。多くはもと押絵貼屏風であったようだが、それらの中には補修で「伊年」印が消されるなど、こうした作品群の評価の揺れ動きを物語る実例もある。鳥(いずれもかいつぶり)のポーズや花の形などには数種のパターンがあり、その組み合わせで多くの作品が制作されたのであろう。本図の身をよじって跳ね上がる愛嬌あるかいつぶりの恰好も、他の作品の中に見ることができる。なお、脚と羽の一部は補筆である。
 花や蕾の形、線描などなんの躊躇もない堂々としたものである。裏返る花びらや果肉の簡潔な形態、線のない荷葉(蓮の葉)などいかにも描き慣れた様子で、様式化・記号化の定着が窺える。類品の間には力量の差が見られるとはいえ、淡墨の面とたらし込みによる表現は、一面で工房制作に適したものとなっているといえよう。「蓮池水禽図」には「伊年」印が捺されたものが多く、それを宗達の法橋叙任以前の作とする説に従えば、そうした早い時期にすでに需要を得、応える法が確立していたということになる。(松尾和子稿)  】(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

鴨脚図.jpg

「蓮池水禽図」(山種美術館蔵)拡大図(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

 この水禽(かいつぶり)は、「特に足が少し気になる」((『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15))。そして、「脚と羽の一部は補筆である」(水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)と、改装の際の補筆の跡も窺えるようである。

鴨図三.jpg

「鴨図」(俵屋宗達筆) 紙本墨画 一〇二・八×四八・六㎝ 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印
【 室町期以来、水墨画の好画題として芦雁図が描かれてきた。宗達は、その伝統を受け継ぎながらも、雁を鴨にすりかえて芦鴨図を描いた。醍醐寺所蔵の衝立が、その代表作である。このように宗達によって新しく画題に加えられた鴨図の遺品は、雁図と共にかなりの数にのぼる。本図も、それら宗達派によって描かれた一図で、類型化して行くなかで足を描くことを忘れたのであろうか。それにしても、鴨の表情には、全く人をくったかのような愛嬌があって微笑ましい。 】(『烏丸光広と俵屋宗達・板橋区立美術館』所収「作品解説77」 )

この図は、「鴨の脚が無い」。そして、落款は「宗達法橋」なのである。空中を飛んでいる鴨の場合は、脚が腹に密着して隠れて見えないような図柄もあるかも知れないが、これは水中から飛び立つ鴨の図で、やはり、「足を描くことを忘れた」という感じが濃厚である。
しかし、白い水仙の花と白い鴨の腹との、その造形的な配慮で、例えば、醍醐寺三宝院所蔵の「舞樂図屏風」に見られる「空間における配置と色彩の妙(この「鴨」図では水墨画の「黒」と「白」との妙)の対比の面白さを狙ってのものという、そんな雰囲気も伝わってくる。
 その上で、この鴨の表情は、「鴨の表情には、全く人をくったかのような愛嬌があって微笑ましい」限りである。

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」

【p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

 後陽成天皇(一五七一~一六一七)は、天正十四年(一五八六)に即位し、慶長十六年(一六一一)に後水尾天皇に譲位するまで、在位二十六年に及んだ。和漢の学問的教養に造詣が深く、書・画を能くし、慶長(けいちょう)勅版を刊行させた。
 この後陽成天皇の活躍時期と、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)と俵屋宗達(?~一六四一)とのコラボレーションの「書(光悦)・画(宗達)和歌巻」の一連の制作時期(慶長五年=一六〇〇=「月の和歌巻」~元和元年=一六一五=鷹峯「大虚庵」へ移住)とはオーバーラップする。
 そして、それらを、「書・画・古活字本出版」の三分野に限定すると、「書=寛永三筆・本阿弥光悦、画=法橋宗達・俵屋宗達、古活字本出版=嵯峨本・角倉素庵」と、この後陽成天皇(後陽成院)に続く後水尾天皇の「寛永文化」(桃山文化の特徴を受け継ぎ、元禄文化への過渡的役割を担う)の担い手として飛翔していくことになる。

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=7398

後陽成天皇書.jpg

[重要美術品]「宸翰 御色紙」 桃山時代(16世紀)紙本墨書 軸装 22.0×18.2cm 東京富士美術館蔵
【後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「秋の夜の月 やをしまの あまの原 明方ちかき おきの釣舟」(『新古今和歌集』)の書写。】

『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第二章 琳派と宮廷 p89~「後陽成天皇と料紙装飾(野口剛稿)」P97~
「後陽成天皇と宮廷画家宗達(野口剛稿)」

【p89~ 御所に色紙を申し入れたところ、「下絵無之ハ不被遊ト」、すなわち後陽成天皇は下絵の無い色紙には筆を遊ばされない、という内容が記されている。

P91~ 天正十五年(一五八七)に正月の三節会、慶長六年(一六〇一)には叙位、県召除目を復活させ、また南北朝時代に途絶えていた立太子の再興を企画するなど、朝儀の復興に情熱を傾けた。これは、以降の近世天皇による朝儀復興への意思の最初の表れといえる。後陽成天皇はまた、源氏物語や伊勢物語などの注釈的研究に努め、正親町天皇(一五一七~九三)の時代には三条西公条により行われた源氏物語の講釈を自ら行った。源氏講釈は実に四十回にも及んだといい、曼殊院本をはじめとする『源氏物語聞書』や『伊勢物語愚案抄』が残される。後陽成天皇は和歌を好み、正親町天皇の時は低調であった歌会も完全な復興を遂げた。自身の古今伝授こそ果たせなかったが、御会始や水無瀬法楽、北野法楽、七夕、十五夜、重陽などの年中行事化した歌会はもとより、毎月二十四日の月次の歌会も恒例になったようだ。文禄二年(一五九三)には『詠歌大概』を講じ、歌学への関心も示している(『御湯殿上日記』同年九月五日条)。
 こうした熱心さは、後陽成天皇が和歌や古典文学を宮廷文化の中心に位置付けていたことをうかがわせる。そして、かかる伝統の再評価と継承を目指す一連の行動は、朝廷や公家の権威を再確認するとともに、その存在意義をアッピールするものであった。

P91~ このような好学、尚古主義の後陽成天皇の料紙下絵のこだわりは、単に個人的な趣味ではなく、また当代における料紙装飾の隆盛を反映するだけでもない。歴史的に天皇と密接に関わってきた料紙装飾の伝統を自覚し、それを領導してゆこうとする意志の表れと見るべきではないかと考えられる。

P94~ そうした絵屋のひとつが俵屋であり、その主宰者が宗達である。俵屋は、その絵屋の屋号である。初期の俵屋の仕事が記念すべき「平家納経」の補作以下、金銀泥を用いた料紙装飾という分野で展開しているのも、既述の絵屋の仕事内容と齟齬しない。巻物や色紙形式の料紙装飾とともに、俵屋初期の様式を示す扇面画が多いのも絵屋の仕事にふさわしい。最近は、俵屋にも土佐派の関係者がいた可能性が指摘され、絵屋としての成り立ちにも示唆が与えられるようになった。

P94~ 宮廷と俵屋を結びつける接点には、さまざまな事柄が作用している。後陽成天皇の能書と料紙装飾の染筆、料紙装飾を含む伝統的な文化を天皇権威に結びつけて導いていこうとする意思、慶長勅版に端を発する印刷出版の隆盛、写本や古活字本の謡本の流行、雲母刷りの復興や金銀泥摺りの開発、そして、町衆勢力の拡大と密接に関連する絵屋の活動の活発化。慶長という時代の歴史的条件が俵屋を存在たらしめ、かつ俵屋と天皇を接触させたといえるのである。 】

P97~ 慶長年間後半から元和初年の宮廷画壇に有力な画家が備わっていたが、しかしその間にも、宗達とその工房の絵は宮廷に浸透していった。俵屋の絵が宮廷で享受されていたことが文献的に確認されるのは、元和年間に入って間もなくである(メモ:「中院通村」の日記の元和二年=一六一六、三月十三日の条、狩野派の松屋=狩野興以に「俵屋絵」の見本を示す)。

P99~ 「寛永年間における宮廷関係の宗達の画事 → 省略
P102~ 「元和年間における宗達の画事」     → 省略
P103~ 「後水尾天皇の禁裏文庫と宗達」     → 省略
P109~ 「三 俵屋の草花図と宮廷」       → 省略   】

慶長勅版.jpg

『古文孝経』 古活字版(慶長勅版) 1599年(慶長4)刊国立国会図書館所蔵

『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第二章 琳派と宮廷 P87~ 「後陽成天皇と活字印刷、あるいは謡本(野口剛稿)」」 → 省略

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その九) [水墨画]

その九 「鴨(宗達筆・個人蔵)」周辺

鴨図一.jpg

A図「鴨図」 俵屋宗達 一幅 紙本墨画 九四・〇×四三・六 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 
【 鳥類を扱った宗達水墨画の遺品は多い。この図は鴨の立った姿を、濃淡をきかせた筆で巧みに描写する。簡略な筆で写実的表現にはほど遠いが、羽毛や脚に用いたたらし込みの墨が、面白い味わいを見せる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

【 之は稍軽い感じのする宗達である。併し其の軽さも浮薄と云ふべき性質のものではない。落着き在る美しいものである。光琳になると此の軽さが少し目立つ様になつて来る。特に狩野派の様式に入つたものには感心出来ない絵が多い。併しそれを除けば、大体に於て、光琳の軽さには快いリズムがある。それは矢張り彼が円山・四條派の画家などと違つて、美的感覚が豊かであつた為である。光琳の名作には宗達に十分対抗出来るものがあるが、其の画業を広く見渡して評価すれば、宗達の方が画家として上位に置かれなければならない。最近は大体この考えへになつて来た様であるが、宗達の芸術が光琳によつて大成されたと見るのは勿論誤りである。宗達はあれで一つの頂点を示してゐる。光琳は宗達の芸術からヒントを得て、更に一つの境地を確立した偉大な画家であるが、宗達に比べれば深さを欠く場合が屡々ある。抱一に至つては悪い甘さばかり目立つて、質は遥かに落ちる。尚、此の鴨の図は左が明らかに切詰められた形跡がある。円印が外へかかる場合は在つてもよいと思はれるが、此の図の様に嘴が切れて居るのは、表装を改めた際に詰められたとすべきであらう。
】 (『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第七図」p12~p13 : 竪一〇〇・六㎝ 横四五・八㎝ )

https://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/215038.html

鴨図四.jpg

B図「鴨図」 俵屋宗達 (美術画報 三十七編巻二(1914年12月24日) / 037-02-004 )
落款 法橋宗達 印章 「対青軒」朱文円印
【 Ⅰ-79 鴨図 俵屋宗達筆 紙本墨画 竪一〇五・〇㎝ 横四四・〇八㎝ 
 宗達は、水墨画で鷺や鴨を好んで描いた。白い姿を背景から浮かび上がらせる鷺、「たらし込み」によって立体感を生み出す鴨は、宗達の水墨画に適したものだったのだろう。本図と同じ横向きの鴨図が他に何図か知られており、光琳の「小西家旧蔵資料 宗達風芦雁図写」(図録№Ⅱ・20②)にも同様の鴨図が数図写されており、光琳にとっても感じるところの多い図柄であったことがわかる。本図は現存する鴨図の中でも墨の諧調が美しく立体感の表現に優れた作品で、背景に何も描かず広やかな空間を感じさせる。「法橋宗達」と署名し「対青軒」朱文円印が捺されている。】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-79 鴨図(田沢裕賀稿)」) 

 上記の徳川義恭の「図版解説第七図」(p12~p13)は、その形状からすると、上記のA図「鴨図」を見てのものではなく、B図「鴨図」を見てのもののように思われる。これは、確かに、左端の上部の「対青軒」朱文円印が、「此の図の様に嘴(端か?)が切れて居るのは、表装を改めた際に詰められたとすべきであらう」という雰囲気で無くもない。しかも、落款が、「法橋宗達」で、「法橋宗達」は「晴れ(晴れ着)の宗達の落款」、「宗達法橋」は「褻(普段着)の宗達の落款」との区別(我流の見方)からすると、これぞ、対外的に「正真正銘の宗達自筆」と誇れる「鴨」図の一つということになる。
 それにしても、A図「鴨図」の「鴨」の「顔かたち」と、B図「鴨図」の「鴨」の「顔かたち」が瓜二つであることか。しかし、「鴨」全体の風貌は、そして、その「たらし込み」などの濃淡の技量の冴えは、確かに、B図「鴨図」(法橋宗達)の方が、A図「鴨図」(宗達法橋)よりも優れている感じで無くもない。

https://twitter.com/koizumi_rosei/status/887098698412417026?lang=bg

鴨図二.jpg

C図「鴨図」俵屋宗達 (円印の端が切れている。落款は「宗達法橋」)

 このC図「鴨」図の、印章(「対青軒」朱文円印)は、半分切れている。これは、「表装を改めた際に詰められたとすべきであらう」の見本のようなものであろうか。この「鴨の姿態」は「左向き」で、A図「鴨図」とB図「鴨図」の、「右向き」の「鴨の姿態」ではない。しかし、その「鴨」の「顔かたち」は、全く、A図「鴨図」とB図「鴨図」の、その「顔かたち」と同じという雰囲気を有している。  
 
  醍醐寺には、「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉」(重要文化財)がある。

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html

芦鴨図.jpg

紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝
【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 この他に、「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」と「金地著色扇面散面〈(伝宗達筆)/二曲屏〉」(いずれも「重要文化財)が所蔵されている。
舞樂図屏風.jpg

「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院

宗達・扇面.jpg

「金地著色扇面散面〈(伝宗達筆)/二曲屏〉」(重要文化財) 二曲一双 醍醐寺三宝院

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その一)

https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/hiroba-column/column/column_1012.html

【『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師』(吉川弘文館)が出版された。これは醍醐寺三宝院門跡・覚定、醍醐寺三宝院門跡・高賢、公家の二条綱平という人物たち(注文主)と、京都で活躍した絵師たちとの関係に注目した本である。
実は、この三人の注文主たちには姻戚関係がある。覚定の兄の孫が高賢であり、その高賢の甥が二条綱平である。従って、『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師』は姻戚関係をもつ注文主たちと絵師たちがどの様につながっているのか、その多くの具体例を紹介する内容となっている。
 絵画史研究は先ず作品、そして絵師に着目し、そこから多くの問題を考えてゆくのが普通である。しかし、この本はそうではない。先ず注文主に着目している。つまり、通常の研究手続きとは全く逆なのだが、注文主に注目すると今まで気づかなかったことが見えてくる。
 たとえば、俵屋宗達が描いた作品に「源氏物語関屋澪標図屏風」がある。言うまでもなく、これは国宝にも指定されている日本美術史上屈指の名品である。現在、東京の静嘉堂文庫美術館にあるが、これは明治28年頃までは京都・醍醐寺の所蔵だった。そして、これについて、醍醐寺三宝院門跡・覚定の日記『寛永日々記』寛永8年(1631)9月13日条に、こんな記録がある。
 源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、

 寛永8年9月13日、宗達が描いた「源氏御屏風壱双」が醍醐寺三宝院門跡・覚定のもとに納品されたというのである。この「源氏御屏風壱双」は「源氏物語関屋澪標図屏風」のことだと考えてよいから、この記録から「源氏物語関屋澪標図屏風」が寛永8年に描かれたことが明らかとなる。しかし、ここから分かるのはそれだけではない。この作品を描かせたのが覚定であり、覚定はその出来映えに満足したことも同時に分かるのである。
 では、覚定は「源氏物語関屋澪標図屏風」のどこに満足したのだろうか?それを探るため、覚定について調べてみると面白い事実に気づく。当時、覚定は25歳だったのである。つまり、「源氏物語関屋澪標図屏風」は、宗達が25歳の注文主・覚定のために描いた作品だったのである。
 そして、この25歳の注文主を満足させるため、宗達は画題選択を始め、いくつかの趣向を凝らした。そして、それらが「源氏物語関屋澪標図屏風」の面白さにつながっている。】

『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(吉川弘文館)』(メモ)

(p2-p3) (p93)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

(p30-p58) 三宝院門跡・覚定と俵屋宗達

『寛永日々記』(覚定の日記) → 寛永八年(一六三一)九月十三日条

源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、

「源氏御屏風」 → 「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)

http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

関屋澪標図屏風.jpg

「関屋澪標図屏風」俵屋宗達筆 六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝
落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝
【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。
寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

※※後水天皇とそのサロンのことなどについては、次のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-08

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-13

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-25

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-06
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その八) [水墨画]

その八 「蓮池水鳥(宗達筆・京都国立博物館蔵)」周辺

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100959&content_part_id=0&content_pict_id=0

宗達・蓮池水禽図.jpg
 
【「(A図)蓮池水禽図」 俵屋宗達筆  1幅 紙本墨画 縦116.0cm 横50.0cm 江戸時代・17世紀 京都国立博物館 国宝 印章「伊年」印 
 桃山時代の終わり頃から江戸時代の初期にかけて活躍した俵屋宗達(たわらやそうたつ)の代表的な作品のひとつ。宗達は「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵)や「鶴図下絵和歌巻」(京都国立博物館蔵)のような、金・銀や絵の具を使って描いたきわめて装飾性の強い作品を数多く残しているが、その一方で、東洋的な味わいにみちた水墨画の作品も数多く制作している。
 水墨的技法を駆使したこの作品は、宗達の水墨画の最高傑作としてつとに名高いものであると同時に、日本の水墨画の歴史のなかでの偉大な成果のひとつとして広く認められている。
 宗達の作品として伝えられている水墨画のうちで、蓮とカイツブリをモチーフにしたものがいくつか遺存している。本図がそれらのうちもっとも優れた出来映えを示していることは、いうまでもない。紙と墨の微妙な関係を熟知している画家が、画家としての人生がもっとも充実しているときに仕上げた作品であることは、そのほかの宗達筆の水墨画と比較しても、疑いようがない。
 江戸時代後期、宗達や尾形光琳(おがたこうりん)の再評価の運動を展開した酒井抱一(さかいほういつ)は、この作品を見て感動し、「宗達(の作品)中(の)絶品也」と箱書(はこがき)した。
 左下に捺(お)された「伊年」と読める朱文円印は、のちには宗達が主宰する工房の商標のようなものになってゆき、さまざまな種類の「伊年」印が捺された作品が登場するが、そのなかで本図は最高のものである。
 宗達の生存期間が確定していないので断定はできないが、1615年頃作と推定される旧大倉家蔵「蓮下絵百人一首」の蓮の描写との類似から、その頃の制作と推定されている。おそらく、この時期、宗達は気力、技術の充実した壮年時代のただなかにあったろう。 】

【 雪舟よりも、雪村よりも、此の絵に現はされた感情は清澄で深い。之も右の兎や狗子と共に東洋水墨画中、最高傑作の一つである。宋元の幾人かの水墨画家に於ては、流石に優れた新様式を樹立しただけの溌剌たる感覚が見られるが、其の技術が我国に入り、或程度の消化が行はれた室町水墨画に於ては相当の水準に達し得たけれども、未だ個性が十分に展開したのではなかつた。それ故、宋元の名品に比べると、何うしても感じが強く迫つて来ない。所が、宗達の水墨画になると、それらに匹敵し得る優れた個性の展開が多分に見られる。特に此の蓮池水禽図は、水墨画の一つの頂点を示して居り、其の様式は他に類の無いものである。
 花、鳥、総て完璧の描写であるが、例へば葉脈の線に於ても、東洋画に屡々見掛ける、滲じみを濫用してそれが只の技術に終つてゐて表現になつてゐないのと違ひ、生きた描写になつている。花や葉を支へる茎にも十分張りが感じられる。…… 一体、茎、枝、樹幹などの表現には画家の型が最もよく現はれる。第一に、此の様な画面構成に於ける線的な要素は、其の僅かの変化を全体に影響する所が極めて大きい。優れた画家は其の線を美しく配置する。が、凡人は必ず破綻を生じさせる。第二に此の様な線的な部分を描く場合の、筆の画面に下ろされた点と離れる点、曲る部分や二つ以上の線の交叉する部分、などを特に注意すべきである。例へば、此の図の茎を描く筆の、柔かく紙を離れる部分は、亜流作家では到底及び難い技巧を内に持つて居り、而して美しい。同様に狗子図の下方の草々、牡丹図の花を支へてゐる茎の美しい筆様などいゝ例である。即ち此の様な部分をよく注意して見てゐると、鑑別の際に役立つ事が多い。
 今、画面構成に於ける線的な要素と言つたが、右に述べた様な自然そのものが線的である場合(枝、幹など)以外でも、画面即ち平面に、筆に依つて物象が表現される時には、常に線が現はされるのであつて、さう云ふ線の性質はその美術家の個性をよく示すのである。例へば蓮の葉の輪郭が周囲の空白と接する所に現はれる線が、全図の構成に如何に役立つてゐるか、と云ふ事もよく見なければならない。さう云ふ立場から……勿論それだけではないが、……※同じ蓮池水禽図で鳥が一羽(それは今述べた図の中の、首を延ばしてゐるのと殆ど同形)泳いてゐるのがある(メモ:※下記の「(B図) 蓮池水禽図」)、その絵を私は宗達筆とはしないのである。之は、後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第六図」p9~p12)

蓮池水禽・畠山.jpg

「(B図)蓮池水禽図」伝俵屋宗達筆  紙本墨画 一幅 一一八・八×四八・三㎝  畠山記念館蔵

【 第五十六図(「(B図)蓮池水禽図」)は、同じ主題の一幅(「(A図)蓮池水禽図」)で、蓮池に花はなく、ただ一羽泳ぐかいつぶりを墨色とたらし込みによって描いている。前図(「A図)蓮池水禽図」)が微妙な墨色による格調ある古典的な世界を表現したとするなら、本図(「(B図)蓮池水禽図」)は奔放な筆づかいによる浪漫的な世界をあらわすといえようか。本図は印をもたない。 】(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「作品解説20・56」の「56・解説」=「伝俵屋宗達筆」ではなく「俵屋宗達筆」)。

 この「(A図)蓮池水禽図」と「(B図)蓮池水禽図」とは、昭和四十七年(一九七二)に開催された『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』において、宗達の水墨画だけを一室にまとめた部屋で同時に陳列されていた。「「(A図)蓮池水禽図」(東京国立博物館蔵、馬越家旧蔵)は国宝で、「(B図)蓮池水禽図」(畠山記念館蔵)は未指定ということで、その『図録』では、次のように紹介されている。

【 21 国宝 蓮池水禽図 俵屋宗達 一幅 京都国立博物館蔵
 柔かく花開いた大輪の蓮花・ゆったりと広がった大きな葉。水中を遊泳する三羽(「二羽」の誤記か?)の水禽。墨一色で描き出された静と動の世界である。墨のもつ微妙な変化がこれほど巧みに生かされている作品を知らない。水禽の濡れ羽と目のうるみまで的確に表されている。筆者の鋭い感覚による自然観察と豊かな情感、しかも高い格調を示してあまりある。左端に伊年印が捺されている。
 
22 重要文化財 牛図 俵屋宗達・烏丸光広賛 二幅 頂妙寺蔵 (略、「宗達法橋」と「対青軒」印)
23 牡丹図 俵屋宗達 一幅 (略、「宗達法橋」と「対青軒」印)
24 狗子図 俵屋宗達 一幅 (略、「宗達法橋」と「対青軒」印)

25 蓮池水禽図 伝俵屋宗達 一幅 畠山記念館蔵
 何点遺る宗達系蓮池水禽図の一つ。蓮花がなく荷葉だけを画面いっぱいに描き、下方に水禽(かいつぶり)を一羽添えている。水禽の姿態は京都国立博物館蔵(図21)のそれと全く同じで、伊年印はないが、宗達グループによる類作の一つと考えられる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

http://blog.livedoor.jp/yamaharanookina/archives/1723250.html

蓮池水禽・三幅.jpg

(左図)   京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝 → A図
(中央図)  畠山記念館蔵 「同上」   無印      → B図
(右図)   山種美術館蔵 「同上」  「伊年」印 → C図
https://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/0dc362de8723932a0236c639f4d34cd0

【宗達では「蓮池水禽図」も魅惑的です。同名の国宝は京博に所蔵されていますが、こちらは山種コレクション。筆致そのものは大らかです。国宝作は蓮が上、下に水鳥が泳いでいるのに対し、本作は下に蓮を配して、鳥が勇ましいまでに飛び立つ様を描いています。もちろんあくまでも空想に過ぎませんが、ともするとこの2つは、水鳥が泳ぎ、そして飛び立っていく光景を表した連作だったのかもしれません。】

「石川県立美術館開館30周年記念 金沢宗達会創立100年記念」(平成二十五年=二〇一三)に、上記の三図が揃い踏みした。この右図の「(C図)蓮池水禽図」は、『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』では、(左図)の「(A図)蓮池水禽図」と併せ、次のように紹介されている。

蓮池水禽図・山種美術館.jpg

https://twitter.com/yamatanemuseum/status/639284228107055105/photo/1

【 22・23 蓮池水禽図 宗達 掛幅 紙本墨画 一一八×四八・三㎝
 国宝の「蓮池水禽図」(上記の京都博物館蔵のA図)は酒井抱一が絶品と褒める箱書もあり、かねてより特別の作と扱われていたようだが、宗達派には本図(上記の山種美術館蔵のC図)をはじめ多数の「蓮池水禽図」が遺されている。多くはもと押絵貼屏風であったようだが、それらの中には補修で「伊年」印が消されるなど、こうした作品群の評価の揺れ動きを物語る実例もある。鳥(いずれもかいつぶり)のポーズや花の形などには数種のパターンがあり、その組み合わせで多くの作品が制作されたのであろう。本図の身をよじって跳ね上がる愛嬌あるかいつぶりの恰好も、他の作品の中に見ることができる。なお、脚と羽の一部は補筆である。
 花や蕾の形、線描などなんの躊躇もない堂々としたものである。裏返る花びらや果肉の簡潔な形態、線のない荷葉(蓮の葉)などいかにも描き慣れた様子で、様式化・記号化の定着が窺える。類品の間には力量の差が見られるとはいえ、淡墨の面とたらし込みによる表現は、一面で工房制作に適したものとなっているといえよう。「蓮池水禽図」には「伊年」印が捺されたものが多く、それを宗達の法橋叙任以前の作とする説に従えば、そうした早い時期にすでに需要を得、応える法が確立していたということになる。(松尾和子稿)  】(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

 なお、この「C図 蓮池水禽図」について、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』では、「第八図右 水禽」(p13~p15)として、その解説を施しているようなので、そこで、再度後述することにする。 
 また、その「第八図左 蓮」(p13~p15)については、「(B図)蓮池水禽図」にも関連するようなので、これも再度後述することにしたい。 
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その七) [水墨画]

その七 「狗子(宗達筆・個人蔵)」周辺

宗達・狗子図.jpg

俵屋宗達筆「狗子図」一幅 紙本墨画 九〇・三×四五・〇 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』所収「174 犬図」)

【 極めて自然に即した無理のない単純化が行はれて居る。かう云ふ扱ひ方をすると、凡人ならば玩具の犬の様になり勝ちであるが、流石によく生命が通つて居る。鼻には物を嗅いだ時の一種の漂ひがあり、足には前へ少し重心の掛かつた動きがあり、腹には弾力のある固さがあり、尾には子犬の尾に特有の、あのぴりぴり動く感じがある。近景としての春の草花にも、葉の省略された蓮華層、薊、蕨、それに淡い地隈など在つて、全体にゆつたりとした温かい感情が充ちてゐる。又、中央に大胆に犬を置き、それが単なる奇抜でなく、画面全体に広々とした感じを与へるに役立つてゐる。草花の思ひ切つて薄いのも効果的である。子犬の尾の先が、写真ではよく分らないが、薄墨の線描きだけで、白く塗残されてゐる。之は真黒な子犬の尾の先だけは、大抵、少し白い所がある、其の写生であらう。
 此の絵の様なふつくりした感じは宗達独特のものであるが、題材から言つても、かう云ふのは珍しい。元代の絵にはよく在るが、感じがまるで違ふ。
 只、我国で鎌倉時代末期の作とされてゐる彫刻に、ちよつと似たのが在る。それは京都府高山寺蔵の木彫(高さ八寸五分)で、黒い子犬が座つてゐる様を現はしたものである。 】
(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第五図」p8~p9)

【 宗達は牛とともに犬もよく描いているが、その中でももっともすぐれているのが、この図である。的確なたらし込みの技法によって仔犬のまるまるとよく肥えた身体や、柔らかい毛の感触までも効果的に表している。上部の空間と黒い犬、手前の薄墨による可憐な草花と構図は、じつにうまく決まっている。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』所収「24 狗子図」 )

宗達・双犬図.jpg

http://www.art-precis.com/item/22.html

【双犬図(そうけんず) 江戸初期 京都 細見美術館蔵 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』所収「176 犬図」=八二・五×四三・二 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 )
戯れあう白黒の仔犬を水墨で表現する。黒犬は彫塗りにより、目や耳を柔らかくもくっきりとした線で示し、たらし込みでつややかな毛並みを表す。白犬は薄墨で太い輪郭線を施し、周りに薄く墨を刷く外隈で白さを際立たせる。宗達独特の温もりのある表現が、穏やかな気分を醸し出す。賛は、京都・嵯峨直指庵の住持で伊藤若冲の作品にも賛を寄せた黄檗(おうばく)僧無染浄善(丹崖)が、宗達没後に記した。 】

宗達・犬図二.jpg

74 狗子図  俵屋宗達 筆、一糸文守 賛 江戸 17世紀 ( 落款「宗達法橋」)

https://twitter.com/ishikawa_premus/status/971300253038235649/photo/1

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/exhibition/5219/

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/wp-content/uploads/2018/02/kikaku_room_1804.pdf

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-11-26

「狗子図画賛」(応挙筆・蕪村賛) 

応挙合作一.jpg

「狗子図画賛」応挙筆・蕪村賛 一幅 紙本墨画 一九・六×二六・八cm 個人蔵

 応挙の画に、蕪村が句を賛した「応挙・蕪村」の合作の小品として夙に知られている作品である。この蕪村の句、「己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋」は、
『蕪村句集(几董編)』では、「丸山氏が黒き犬を画(えがき)たるに、賛せよと望みければ」との前書きが付してある。
 この前書きと句を一緒にして、鑑賞すると、「円山氏(応挙)が黒き犬を描いて、それに賛せよと懇望されたので、『己が身の闇より吼て夜半の秋』と吟じて賛をした。句意は、『黒い犬は、己の心の闇(黒=煩悩)に慄いて吼え立てるのであろうか』というようなことです」と、応挙と蕪村とが一緒の席で、制作されたものと解せられるであろう。
 しかし、「蕪村叟消息・詠草」には、「くろき犬を画(えがき)たるに賛せよと、百池よりたのまれて」との前書きで、この応挙の黒き犬の画に「賛をせよ」と蕪村に懇望したのは、蕪村の若き門弟の寺村百池(寛延元年=一七四八~天保六年=一八三六)、その人というこになる。
 そして、この百池は、夜半亭門で俳諧を蕪村に、絵は応挙に、茶は六代藪内紹智に師事している。百池の寺村家は、京都河原町四条上ルに住している糸物問屋で、父三右衛門(俳号=三貫など)は、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)門で、蕪村にも師事している。すなわち、三貫・百池の寺村家は、親子二代にわたり、夜半亭門で、共に蕪村に師事し、そして、蕪村と夜半亭門の有力後援者なのである。
 おそらく、画人蕪村と応挙との交遊関係の背後には、この百池などが介在してのであろう。

 己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋 (『蕪村句集』他)

 この蕪村の句も、そして、この句の背景にある応挙の画も、小宴(酒宴など)の後の、席画的な「戯画・戯句」の類いのものではない。もとより、応挙の「狗子画」は、応挙の得意中の得意のレパートリーのもので、それは、「思わず抱き上げたくなる可愛い狗子たち」で、人気も高く、応挙の、この種の作画は多い。
 その中にあって、上記の「狗子図画賛」の、応挙の、この「一匹の黒き狗子」は、蕪村にとって、「煩悩の犬」「煩悩の犬は打てども去らず」を思い起こさせたのであろう。この「一匹の黒き狗子」は、蕪村自身であり(この句の「夜半の秋」の「夜半」は、それを暗示している)、同時に、この「一匹の黒き狗子」を描いた応挙の心の中にも、この「黒き闇、そして、煩悩の犬」が巣食っていることを、瞬時にして、見抜いたのであろう。
 蕪村にとって、「黒き闇、そして、煩悩の犬」とは、「夜半亭俳諧と謝寅南画の飽くなき追及」であり、そして、応挙にとって、それは、「応挙画風の樹立と革新的『写生・写実画』の飽くなき追及」というようなニュアンスに近いものであろう。

 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉      (「詠草・蕪村遺墨集」) 
 己が身の闇より吼て夜半の秋   (「詠草・蕪村叟消息」)

 この蕪村の応挙に対する「筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉」は、同時に、応挙の蕪村への返句とすると、次の「応挙を蕪村」に変えての本句通りのものが浮かんで来る。
 
 筆灌ぐ応蕪村が鉢に氷哉  

補記一 「蕪村筆 呂恭大行山中採芝図」「応挙筆 虎図」「呉春筆 孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

補記二 応挙の「狗子図」など

http://ommki.com/news/archives/4146

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-10-31


杉戸狗子図.jpg

円山応挙筆「朝顔狗子図杉戸絵」二面 板地着色 各一六六・五×八一・三cm
「東京国立博物館・応挙館」→B図

(別掲)  「降雪狗児図」(芦雪筆)周辺  

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-09-30

古雪狗児図.jpg

「降雪狗児図」(芦雪筆)一幅 紙本墨画着色 一一四・八×五〇・五cm
逸翁美術館蔵 

これは、まさしく、若冲の「乗興舟」の世界であって、おそらく、芦雪は、若冲の「拓版画」ではなく、応挙門の一人として、応挙風の「写生・写実」をもって、「墨(淡彩)」「紙」「筆」のみで、若冲が案出した「乗興舟」の「黒」と「白」との世界を演出したのであろう。
 さらに、それだけでなく、この「降雪狗児図」の、この「降雪」は、これは、やはり、蕪村の「夜色楼台図」の、その偶発的な「夜の雪」に対して、「空間マジック」の芦雪ならではの、師の応挙その人が目指した、緻密な「計算し尽くした配合の妙」のような「降雪」を現出したという印象を深くする。
 すなわち、「夜色楼台図」(蕪村筆)の「雪」は、胡粉(白)を吹き散らして、たえまなく静かに降る雪なのに対して、「降雪狗児図」(芦雪筆)の「雪」は、胡粉(白)を垂らして、ぽつり・ぽつりと降る、この違いに着目したい。
この「吹き散らす」と「垂らす」とでは、それは、前者が「偶発性」を厭わないのに比して、後者は、それを極力排除するという、その創作姿勢と大きく関わっていて、ここに、両者の相違が歴然として来る。

(別掲) 「百犬図(若冲筆)」周辺

https://paradjanov.biz/jakuchu/colored/83/#toc1

百犬図.jpg

「百犬図(若冲筆)」 絹本着色 一幅 142.7×84.2cm 
寛政11年(1799年)=亡くなる一年前の作
款記は左上に「米斗翁八十六歳画」、「藤女鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)、右下に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)
※八十五歳没、還暦後の二年加算(?)=「米斗翁八十六歳画」。また、「百犬図」だが、実際には「五十九匹」とか。
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その六) [水墨画]

その六 「兎図(宗達筆・東京国立博物館蔵)」周辺

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032462

宗達・兎桔梗図.jpg

A図「兎桔梗図」作者:俵屋宗達 時代:江戸時代_17c  形状:75.5×36.7
落款名:宗達法橋 印章「対青軒」 東京国立博物館蔵

【 宗達は動物が好きであつたらしい。単に動物画が多く在ると云ふだけでなく、それらが皆、深い愛情を以て描かれて居る事で解る。
兎の顔の柔かく温かい表情、草々の豊かな構図。……東洋水墨画中、これ程兎といふものゝ特徴をよく捉へた絵が他にあらうか。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第四図」p3~p4)

【 これは、もと日本画の大家川合玉堂の旧蔵品、没後、遺族より東京国立博物館に寄贈されたもの。桔梗の花を墨で描き、秋野の景を表した中に、白兎が一匹うずくまっている。柔かいタッチの豊潤な線がみごとに兎の生態をとらえている。賛の歌(はな野にものこる雪かとみるがうちにふしどかへたる秋のうさぎか)は、宗達の請いを入れて気軽に筆を執ったものらしく、『黄葉和歌集』にも漏れている。光広五十代半ばの筆であろう。「宗達法橋」款記「対青軒」印。  】(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「作品解説70」)

 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第四図」の「兎」図は、この縦長のA図「兎桔梗図」(形状:75.5×36.7)ではなく、横長の「竪四二・四 横四五・八」
の「兎図」 で、形状的には、下記の「B図 安田靫彦《うさぎ》」に近いものなのかも知れない(口絵は未見)。
 この「B図 安田靫彦《うさぎ》」は、「A図『兎桔梗図』」を参考として、「兎と桔梗」をモチーフにしているのだが、「後ろに足を跳ねさせている」もので、安田靫彦は、この「A図『兎桔梗図』」だけではなく、「B図 安田靫彦《うさぎ》」に近い、別の宗達の「兎」図をも参考にしているのかも知れない。

https://sheage.jp/article/35541

安田靫彦・兎.jpg

B図 安田靫彦《うさぎ》1938 (昭和13)年頃 絹本・彩色 山種美術館
【 明治40年代後半から昭和にかけて、琳派に刺激を受けた作品が多数発表されました。戦後も琳派に対する関心は高く、画家のアイデアの源泉となっています。
近代、現代の画家、安田靫彦(やすだ ゆきひこ)もまた、うさぎをモチーフに描いています。安田靫彦が参考にしたと考えられている琳派の作品は、宗達の《兎桔梗図》です。この《うさぎ》という作品は昭和13年頃の作品。中央に丸い背中のうさぎを置く構図は宗達と同じです。宗達は、そのまわりを囲むように桔梗を配しましたが、安田は右側に一輪だけ。周囲を空白 にし独自性を出しているのでしょうか。また後ろに足を跳ねさせているのも、御舟のうさぎ同様、宗達のデザイン表現の影響なのかもしれません。 】

 この安田靫彦関連の年譜については、下記のアドレスが参考となる。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9601.html

 その昭和十三年の項は、次のとおりである。

【昭和13年(1938) 1月、茶道を習い始める。矢来荘展「菊御作」。2月、関尚美堂展「うさぎ」。3月、多聞堂展「百合」、第5回日本美術院同人作品展「赤人」。6月、第5回展「うさぎ」、本山竹荘展「豊公」。9月、白日荘展「上宮太子」。10月、第2回新文展「孫子勒姫兵」(審査員出品)。11月、七絃会第9回展「観自在」。12月、井南居展「行秋」、関尚美堂展「曾呂利」。 】

 この年譜からすると、安田靫彦は、「うさぎ」と題する作品を二点(「2月、関尚美堂展『うさぎ』」・「6月、第5回展『うさぎ』」)制作している。上記の、山種美術館所蔵の「うさぎ」は、形状などからすると、「2月、関尚美堂展『うさぎ』」なのかも知れない。
 また、その昭和二十一年の項に、つぎのような記述がある。

【昭和21年(1946) 6月、国宝保存会委員となる。文部省主催日本美術展覧会(第1、2回日展)審査員となる。この頃、大磯在住の若き学徒徳川義恭と宗達の研究を続ける。7月、清光会第11回展「観世音菩薩像」。この年、「白椿」を制作。】

 この「徳川義恭」については、下記のアドレスに、次のような記述がある。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8743.html

【 徳川義恭 没年月日:1949/12/12 分野:研究者, 美術関係者 (学) 読み:トクガワ, ヨシヤス、 Tokugawa, Yoshiyasu 
東大美術史研究室助手徳川義恭は12月12日、日赤中央病院で逝去した。享年29。大正10年東京に生れ、昭和19年東大文学部美術史学科を卒業した。大学提出の研究論文には「仏教彫刻に於ける半跏思惟像の研究」「牧谿に関する研究」がある。卒業後同研究室の副手、助手を勤め、主として宗達の研究に専心し、関係論文を種々の美術雑誌に発表、著書としては「宗達の水墨画」がある。かたわら日本画を安田靫彦にまなび、昭和23年高島屋で個展を開いた。  】


https://silentsilent.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=2012-02-08-1

徳川義恭・画.jpg

徳川義恭画・書「月と山梔子の実」(画=倣宗達、書=倣良寛)
賛の書=「万葉集巻十」旧・二三二四、新・二三二八
足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意(「万葉集巻十」旧・二三二四、新・二三二八)  
(足引の山に白きは我が屋戸(宿)に昨日の暮れ(夕)に降りし雪かも)

 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の「あとがき(p131)」に、「此の小著のすべてに亘つて、恩師児島喜久雄先生には多大な御教示を戴いた。又、安田靫彦先生からは常に実技と平行して温かい御指導を受けた。矢代幸雄先生も亦絶えず私を励まされた」と、これらの恩師に対する謝辞が記されている。
 上記の、徳川義恭の画・書「月と山梔子の実」は、実技(宗達流の画)と書(良寛流の書)と歌(『万葉集』)との、これらの全てに堪能の「安田靫彦」への傾倒ぶりを示す、その証しともいえるものであろう。
 この徳川義恭の画・書「月と山梔子の実」は、「昭和23年高島屋で個展」に出品した作品の一つなのであろうか。徳川義恭は、その個展の一年後の、昭和二十四年(一九四九)十二月十二日に、亜急性細菌性心内膜炎で急逝する。三十歳に満たない短い生涯であった。
 上記の書画の款記には、「昭和二十二年(一九四七)十二月」と記されている。逝去する二年前の作である。ここに記されている「足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意(「万葉集巻十、旧・二三二四、新・二三二八」(足引の山に白きは我が屋戸(宿)に昨日の暮れ(夕)に降りし雪かも) の「足引(「山にかかる枕詞)の山」)は、「万葉集」の故郷の「飛鳥」から仰ぎ見られる「大和三山」(香具山=かぐやま・畝傍山=うねびやま・耳成山=みみなしやま)であろうか。
 この「足引山(あしびきの山)」が、徳川義恭の「彼岸(仏の世界)」とするならば、「我屋戸(わが宿)」は、徳川義恭の「此岸(現世)」の世界ということになる。何かしら、その二年後の徳川義恭の急逝を予兆している雰囲気を宿している。
 この徳川義恭の急逝後の十五年後の、昭和三十九年(一九六四)に、安田靫彦の傑作画の一つの「飛鳥の春の額田王」が誕生する。そこに、徳川義恭の「彼岸(仏の世界)」の「大和三山」が描かれ、その「飛鳥の春」と「万葉集」とを象徴する「額田王」の緋の衣装は、徳川義恭画・書「月と山梔子の実」の「山梔子の実」の緋に通ずるものを宿している。

靫彦・切手.jpg

「飛鳥の春の額田王(安田靫彦作)」の切手(発行日:昭和56年2月26日(1981年))

http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11013

【「飛鳥の春の額田王」(安田靫彦作) 紙本著色 額装 1面 131.1  80.2 滋賀県立近代美術館蔵
 昭和39年の第49回院展に出品された作品で、戦後における安田靫彦の最高傑作のひとつであるのみならず、戦後の日本画の中でも群を抜いて傑出した作品のひとつと位置付けられている。飛鳥古京、遠くに春霞がたなびく大和三山を背景にして立つ、万葉の代表的な宮廷歌人額田王を題材としてしている。そのとぎすまされた線描、鮮やかな色彩感など、極めて画格の高い表現になっている。】

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

光悦・兎扇面図.jpg

本阿弥光悦筆「月に兎図扇面」紙本金地著色 一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵 
→D図

【扇面を金地と濃淡二色の緑青で分割し、萩と薄そして一羽の白兎を描く。薄い緑は土坡を表わし、金地は月に見立てられている。兎は、この月を見ているのであろうか。
扇面の上下を含んで、組み合わされた四本の孤のバランスは絶妙で、抽象的な空間に月に照らし出された秋の野の光景が呼び込まれている。箔を貼った金地の部分には『新古今和歌集』巻第十二に収められた藤原秀能の恋の歌「袖の上に誰故月はやどるぞと余所になしても人のとへかし」の一首が、萩の花を避けて、太く強調した文字と極細線を織り交ぜながら散らし書きされている。
薄は白で、萩は、葉を緑の絵具、花を白い絵具に淡く赤を重ねて描かれている。兎は、細い墨線で輪郭を取って描かれ、耳と口に朱が入れられている。
単純化された空間の抽象性は、烏山光広の賛が記され、「伊年」印の捺された「蔦の細道図屏風」(京都・相国寺蔵)に通じるものの、細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる。
画面左隅に「光悦」の黒文方印が捺されており、光悦の手になる数少ない絵画作品と考えられる。  】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-14(田沢裕賀稿)」)

この作品解説は、『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』の「二〇〇八年」に開催された図録によるものであるが、それより、三十六年前の「一九七二年」に開催された『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』の作品解説は下記のとおりである。これからすると、上記の扇面画は、光悦作と解して差し支えなかろう。

【 本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛」一幅 紙本墨書 一七・〇×三六・五㎝ 畠山記念館蔵
秋草に兎、扇面という形態の構図を十分に考慮した作品である。緑青をバックに映える白い兎、これに対して大胆にも、金箔の月が画面の三分の一以上を占める。光悦の筆になる和歌は、『新古今集』(巻一二)の藤原秀能の一首で、「袖の上に誰故月ハやどるぞとよそになしても人のとへかし」と読める。左下に、大きな「光悦」の墨方印がある。】(『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』)
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