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醍醐寺などでの宗達(その十六・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十六 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その三)

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-1図

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-2図
【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)
(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

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尾形光琳筆「松島図屏風」六曲一隻 一五〇・二×三六七・八cm ボストン美術館蔵
→ B図
【光琳は宗達の松島図屏風に倣った作品を何点か残している。本屏風はその一つで、宗達作品の右隻を基としている。岩山の緑青などに補彩が多いのが惜しまれるが、宗達作品と比べると、三つの岩山の安定感が増し、左斜め奥へと向かう位置関係が明瞭となり、うねりや波頭が大きくなり、波の動きがより強調されている点が特徴として挙げられる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説」(宮崎もも稿)」)
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尾形光琳筆「松島図屏風」 紙本金地着色 二曲一隻 一四六・四×一三一・四cm 大英博物館蔵 → (C図)
【宗達の「松島図屏風」(米・フリーアギャラリー)の右隻二扇分に元に基づいた作品。光琳には同工異曲の作品を描いている。海中からそそり立つ岩には、蓬莱山にも通ずる寿福のイメージがあった。白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている。】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)

 これらの、宗達筆「松島図屏風」(A-1図・A-2図)、そして光琳筆「松島図屏風」(B図・C図)に関連しては、下記のアドレスで紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-09

 それから、およそ三年を経過した、下記のアドレスで、これらは、等伯の「波濤図」(京都・禅林寺蔵)と何らかの関係があるのではなかろうか? ということについて触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-28

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等伯筆「波涛図」(三幅・その一)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の一 

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等伯筆「波涛図」(三幅・その二)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の二

【「波涛図」六幅 長谷川等伯筆 紙本金地墨画 四幅(各)一八五・〇×一四〇・五㎝
二幅(各) 一八五・〇×八九・〇㎝ 重要文化財 京都・禅林寺蔵
 禅林寺大方丈の中之間を飾っていた襖絵(全十二面)の一部にあたるもので、現在は掛幅に改装されている。寺伝では狩野元信筆、通説では曽我派の作に擬されたこともあったが、その結晶体を想わせる鋭利な岩皺表現から、現在は長谷川派とくに等伯筆とみることが定着している。おそらく今後もその見方が揺らぐことはないだろう。
 図は、海中に屹立する岩塊と、それにぶつかつて渦を巻く波涛だけを長大な画面にほとんど墨一色をもって描き連ねたもので、波は信春時代の仏画にみるような、抑揚のない細線を駆使して丁寧にあらわされている。岩の手前と背後には金箔による雲霞が配されているが、それらは岩の存在を際立たせるとともに、ともすれば地味となりがちな水墨の画面を著しく華やいだものにしているといえよう。
 桃山時代になって大いなる盛行をみる金碧画であるが、純粋な水墨画に金雲を組み合わせた作例は本図の他に見当たらない。その点、本図は「松林図屏風」とはまた違った、等伯による斬新かつ意欲的な試みとして高く評価されるべきであろう。岩法は「四愛図襖」のそれと近似するが、筆遣いはより強く、かつ速まっており、隣華院の「山水図襖」への接近を示す。その作期としては、等伯五十代の末頃を想定しておきたい。
 なお、等伯は「波」に強い関心を抱いていたようで、唐代の詩人・杜甫が同時代の画家・王宰の描きぶりを評した「五日に一石、十日に一水」を受けて、岩よりも水を描くことの方が難しく、重要であるとの見解が『等伯画説』に披露されている。また同じ『等伯画説』には、画の名手で等春を庇護した細川成之の「波ノ画」一双屏風の写しを等伯が所持していたことも記されているが、この「波ノ画」が本図制作の参考にされた可能性は考慮される必要があろう。 】(『没後四〇〇年長谷川等伯』所収「作品解説四六・山本英男稿)」

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等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」(六曲一双・その一)  (出光美術館蔵)→E図の一

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等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」六曲一双・その二)  (出光美術館蔵)→E図の二
https://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/3bd58b853d741e9867d575ee16652f3b
【 「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」
http://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/02.idemitsu-No17_2012.pdf  」】

 上記の「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」を見ると、この出光美術館蔵の「波涛図屏風」(六曲一双)は、「金雲に金砂子が加えられ、また波に藍色が施され、より装飾性が高められている」とし、「法眼落款の作品であるが、等伯次世代の長谷川派の絵師による作例ではないか」としている。

 これらの、等伯筆の「波涛図」(D図の一・D図の二)、そして、等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に接した時に、次のアドレスの抱一の「波図屏風」などが浮かんできたのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

抱一・波図屏風.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

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酒井抱一筆「波図屏風」(部分拡大図)→F図

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尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→G図
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

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北斎筆「神奈川沖浪裏」 横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)→H図
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 ここに、新たに、等伯筆「波涛図」(D図の一・D図の二)と等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に続けて、狩野探幽の「波涛図」(I図の一・I図の二)も付け加えたい。

波涛図一.jpg

狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の一

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狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の二
【 https://www.shimane-art-museum.jp/collection/
 大画面に余白を大きくとって大海原を描き、左右に岩を配した波濤図。狩野派の筆法による岩や波の描写や簡潔な構図に、探幽画の特徴が示されている。後年の作品に、この構図をもとに水鳥を配した《波濤水禽図》(静嘉堂文庫美術館蔵)があり、画様の変容が窺える。探幽の画業は、作風と落款の変遷から3期に分けられるが、この作品は34歳から59歳にかけて探幽斎と称した「斎書き時代」中頃の作と考えられる。 】

等伯筆「波涛図屏風」(D図の一・D図の二)→「金と墨との波涛図」
等伯(長谷川)筆「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)→「金(雲)と墨と藍との波涛図」

探幽筆「波涛図屏風」(I図の一・I図の二)→「金と墨と余白との波涛図」

宗達筆「松島図屏風」(A図の一・A図の二)→「金(州浜)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」

光琳筆「松島図屏風」(B図)→「金(雲)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」
光琳筆「松島図屏風」(C図)→「金銀白(荒磯)と緑青(岩)との波涛図」
光琳筆「波涛図屏風」(G図)→「金箔地と墨との波涛図」

抱一筆「波図屏風」(F図)→「銀箔地と墨との波涛図」

北斎筆「神奈川沖浪裏」(H図)→「ベロ藍(プルシアンブルー)の『藍摺絵(あいずりえ)』の波涛図」 

タグ:波涛図屏風
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醍醐寺などでの宗達(その十五・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十五 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その二)

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綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

醍醐寺三宝院・庭.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

 この宗達の「松島図屏風」は、「秋は紅葉の永観堂」で知られている、京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派総本山「禅林寺」の、等伯の「波涛図」を意識しての作ではなかろうか。

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長谷川等伯:波濤図(制作年代不詳)重文(京・禅林寺所蔵) 紙本金地墨画 京都国立博物館寄託 各一八五・〇×一四〇・五㎝ 十二幅のうち二幅
《長谷川等伯展(2010年04月):京都国立博物館》
http://kanjinnodata.ec-net.jp/newpage768.html

 この等伯の「波涛図」(十二幅の「襖絵」)は、慶長四年(一五九九)、等伯、六十一歳前後の作とされている(『新編名宝日本の美術20永徳・等伯(鈴木広之著)』)。この頃、等伯は「自雪舟五代」を自称するように、その絶頂期の頃であろう。
 もともと、この「波涛図」は、禅林寺の「大方丈・中の間」の襖絵で、「方丈」は「一丈(約3メートル)四方の小室」(禅宗寺院における住職の居室)を意味するが、「大方丈」は、その禅宗寺院の「訪客のための接待の場」として、例えば、醍醐寺の三宝院の例ですると、「⑨表書院」のような居住空間であろう。
 この「大方丈・中の間」は、おそらく、「方丈庭園」(南側)に面した「北側」(襖四幅)・「東側(襖四幅)・西側(襖四幅)」と仮定すると、それは、丁度、宗達の「松島図屏風」(六曲一双)
を「北側」として、それらが「東側」(六曲一双)と「西側」(六曲一双)とで、庭に面して囲むような空間のイメージとなって来よう。
 そして、醍醐寺の三宝院の「⑨表書院」の「襖絵(重文)」は、等伯一門の作とされている。等伯には久蔵、宗宅、左近、宗也の四人の子がおり、そのうち久蔵は等伯に勝るほどの腕前を持っていたが、文禄二年(一五九三)、二十六歳で早世している。
等伯一門には、等伯の女婿となった等秀や伊達政宗に重用された等胤、ほか等誉、等仁、宗圜ら多数がいたが、醍醐寺三宝院表書院」の襖絵も、その子や一門の作なのであろう。

三宝院襖絵.jpg

「醍醐寺三宝院表書院」・襖絵(重文)
https://www.daigoji.or.jp/grounds/sanboin.html
【上段の間の襖絵は四季の柳を主題としています。中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、上段・中段の間は、長谷川等伯一派の作といわれています。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれています。】

 御所造営の障壁画制作を巡って、狩野永徳一門と長谷川等伯一門とが鋭く対立したのは、永徳が没する天正十八年(一五九〇)で、時に、等伯、五十二歳、そして、永徳は四十八歳であった。永徳没後は、永徳の長男・光信が狩野派を継承するが、その光信も慶長十三年(一六〇八)年に没し、その実弟の狩野孝信(1571 - 1618)が狩野派を率いることとなる。この孝信の三子が、「守信(探幽、1602 - 1674)、尚信(1607 - 1650)、安信(1613 - 1685)」で、その中心になったのが、狩野探幽(守信)ということになる。
 この永徳没の「天正十八年(一五九〇)」から、慶長十五年(一六一〇)の等伯没(享年七十二)までが、等伯の時代であろう。

等伯・楓図.jpg

長谷川等伯筆「楓図」(国宝 1592年頃 智積院)壁貼付四面 紙本金地著色 
各一七四・三×一三九・五㎝ 
【『ウィキペディア(Wikipedia)』 
旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)文禄2年(1593年)頃。『楓図』は日本障壁画の最高傑作と評されている。
楓図 紙本金地著色 国宝
松に秋草図 紙本金地著色 国宝
松に黄蜀葵図 紙本金地著色 国宝
松に草花図 紙本金地著色 国宝
松に梅図 紙本金地著色 重要文化財    】

等伯・知恩院壁画.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)
左=長谷川等伯筆「楓図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 
右=長谷川久蔵筆「桜図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 

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旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」(長谷川等伯筆)
これは元々書院を飾るために描かれたため、宝物館に再現された書院にそのままの配置で展示されている。
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

松に立葵図・違棚.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)『松に立葵図』「(長谷川派))
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

松に葵図.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に立葵図」(「長谷川派」筆) 
https://www.mizuha.biz/saijiki/080909tisyakuin/index.html

【 天下人の思惑を秘めた、葵の図

https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

 智積院の障壁画には、秀吉が好んだという「松」が多くモチーフとされていますが、これはつまり、松は豊臣家を示すもの、と考えることが出来ます。対して、この絵に松と共に描かれている「葵」は、豊臣家とは対立する徳川家の家紋にも使われている花です。
 風に揺れる葵の花を、まるで圧迫するかのように上から松の木が枝葉を広げている―これは「豊臣家が徳川家を抑えている」、つまり「天下は豊臣のもの」という意味を暗に示している、と解釈される向きもあったのだそうです。
 結局その後秀吉が亡くなり、天下は徳川のものとなります。普通、そのような不届きな話があるものは無くしてしまってもなんらおかしくはありません。しかし一方で、この絵を見た徳川家康が、葵が勢いよく伸び松を覆いつくさんばかりに描かれており、「豊臣の天下は終わり、徳川がそれを凌駕する」という意味に解釈し、わざとそのまま残させた、という逸話も伝えられているのです。 】

松に黄蜀葵図.jpg

国宝「松に黄蜀葵及菊図」の想定復元模写
https://www.housen.or.jp/common/pdf/26_07_yasuhara.pdf

【「旧祥雲寺客殿障壁画の復元研究― 国宝「松に黄蜀葵及菊図」智積院蔵の想定復元模写を中心として ―安原 成美 (東京藝術大学大学院)」  

< 祥雲寺と智積院障壁画の変遷
本図は、智積院の前身である祥雲寺客殿の障壁画として描かれた。祥雲寺は天正 19 年(1591)愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために豊臣秀吉が創建した禅宗寺院で、その中核をなす客殿の規模は、従来の禅寺のそれをはるかに超えていたが、天和2 年(1682)7 月の護摩堂から発した火災で灰塵に帰してしまう。その際、幸いにも障壁画の主要部分は持ち出され焼失を免れる。焼失を免れた障壁画は、再建された客殿や大書院などの障壁画に転用された。その後、明治25 年(1802)の盗難や昭和 23 年(1947)の火災で、更にその一部が失われたと考えられる。

< 先行研究 >
(略)
< 作品調査及び復元配置 >
(略)

< 想定復元模写 >
 調査結果を基に想定復元模写を行った。復元された本図の右寄り3枚は、二股に別れた巨大な松が画面の天地を貫くように描かれており、廻りには、黄蜀葵、芙蓉、菊の花が咲き乱れ、芒が大きくその葉を伸ばしている。向かって左に伸びる松の奥には群青で描かれた水面が見える。水面は向かって右から左にいくほど広がっており、失われた左寄り 3 枚の下方には、この水面が更に展開しその廻りには草花が生い茂っていたと想像される。水面の手前に描かれている芒の葉のうち半分あまりは隣の画面から伸びてきているため、左寄り 3 枚目の画面には多くの芒が生えていたことがわかる。

< 祥雲寺客殿室中障壁画の構成 >
 さらに想定復元模写を制作したことで、旧祥雲寺客殿の内部構成と障壁画の配置位置について具体的な検証が可能となった。本図の配置されていた部屋の問題であるが、先行研究では 8 室形式で復元した山根案と 6 室形式で復元した小沢案があるが、両案とも本図を「松に秋草図」とともに、室中に配置することで一致している。筆者も両案に同意であるが、今一度、再確認を行う。
 室中の画題としては当時の方丈建築の多くがそうであるように松が相応しく、本図が収まる可能性は充分にあるが、松を描いた旧祥雲寺客殿障壁画は、本図以外にも「松に秋草図」「松に立葵図」「雪松図」が現存する。
 本図が室中に収まっていた根拠として注目すべきは、描かれている草花の種類である。鶴松の死去とその3回忌が旧暦8月5日に行われており新暦で8月29日にあたるこの時期に開花する草花を、主要な部屋である室中には描いていると考えるからである。本図に描かれている草花は、黄蜀葵、芙蓉、薄、菊であり、開花時期は黄蜀葵が 8 月から 9 月、芙蓉が 8 月から 10 月初め、菊が 10 月から 12 月、薄が穂をつけるのが 8 月から 10 月と、法要の時期と一致する。「松に秋草図」の草花も黄蜀葵が描かれていないこと以外は本図と共通する。
 それでは、本図と「松に秋草図」は室中にどのように配置されていたのであろうか。配置箇所の特定のために先ず注目すべきは襖の幅である。復元した祥雲寺客殿室中の平面4 をもとに割り出した襖の寸法によると、室中には幅の違う 3 種類の襖が使用されていたと推測され、そのうち本図の幅である 166.7㎝のものは室中と東西の部屋を間仕切るものであり、そこに収まっていたことは間違いない。
 それぞれが東西どちらに収まるかであるが、両者は寸法と引手の位置が全く同じであるので、図柄により判断するしかない。本図の印象的な特徴として、画面の左から右に向かって吹いている風の存在がある。本図は左から右に向かって風が吹いている。「松に秋草図」は、その逆に向かって風が吹いているので、向かい合って配置した場合には、風は一方向に吹くことになる。そこから、室中西面に本図、東面に「松に秋草図」を配置し、室中に入った人々の視線を風の表現によって仏壇の間に誘うように演出したと考える。風の方向の他に配置位置の手掛かりとなるのと考えるのが、土坡である。本図と「松に秋草図」の画面下方には、土坡が存在するが、それぞれ形の特徴が異なる。
 本図の土坡は、向かって右端が徐々に下がっていく。それに対して、「松に秋草図」の土坡は向かって右端が急激にせり上がっていく。仮に「松に秋草図」を西面に配置すると、室中北面の襖絵は土坡が不自然に高い位置にある画面構成になる。
 以上のことから本図は客殿室中の「松に秋草図」と向かい合うように西面に配されていたことが明らかである。

< 本研究を通して得られた成果 >
本研究により、失われた祥雲寺客殿の室中障壁画が視覚的に復元された。長谷川等伯が狩野永徳の巨大樹による大空間の構成に、草花の四季の変化や風などの自然現象を巧みに利用した場面の展開など、独自の表現を加え建物内部を障壁画により壮大に演出している様が示せたものと考える。ここまで詳細に、祥雲寺客殿障壁画自体の復元研究が行われたことはなく、祥雲寺客殿だけでなく桃山期の障壁画研究における大きな成果となった。 】

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醍醐寺などでの宗達(その十四・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十四 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その一)

松島一.jpg

宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

松島二.jpg

宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

 嘗て、下記のアドレスで「フリーア美術館逍遥」と題し、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-16-1

(再掲)

【《六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。》 
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)》

(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

Waves at Matsushima 松島図屏風
Type Screens (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Edo period, 17th century
Medium Ink, color, gold, and silver on paper
Dimension(s) H x W (overall [each]): 166 x 369.9 cm (65 3/8 x 145 5/8 in)

http://archive.asia.si.edu/sotatsu/about-jp.asp

Sōtatsu: Making Waves

俵屋宗達と雅の系譜

会期 2015年10月24日-2016年1月31日
開催場 アーサー M. サックラー美術館
(English version)
日本絵画とデザインに強烈なインパクトをあたえた江戸時代初期の天才絵師・俵屋宗達(1570年頃-1640年頃)。日本国外では初めてとなる大規模な宗達の展覧会が、米国首都ワシントンDCで2015年10月24日-2016年1月31日に開催されます。
世界最大の博物館群として知られるスミソニアンの一部で、アジア美術を専門とするフリーア美術館。国宝級の「松島図屏風」「雲龍図屏風」など、宗達の傑作品を所蔵しています。隣接のサックラー美術館を会場として、世界各国より70点以上の作品を集めて展示し、京都を中心に活躍した宗達の雅な世界を蘇らせます。
きらびやかな金銀泥と極色彩を用い、大胆に抽象化された絵画空間をみせる宗達作品は、日本美術史の中でも際立った存在です。しかし、宗達の生涯は生没年の記録もないほど未だ多くの謎に包まれています。京都の町衆階層の出身であり市井の紙屋の主人であった宗達が、どのような過程を経て上層貴族階級にネットワーク・交流を持ちその洗練されたセンスを取り入れ数多くの斬新なデザインを生み出すに至ったのか、まだ不明な点が多く残されています。
本展覧会では、日本を始めアメリカ・ヨーロッパの著名なコレクションより70点以上の作品を一堂に会し、屏風、扇面、色紙、和歌巻き、掛け軸などの展示を通して宗達を検証します。宗達の作風を追随した江戸時代中後期の作品も含まれ長期に渡る宗達芸術の継承が示唆されます。さらに明治時代以降の画家たちの作品も併せて展示され、時代を超える宗達スタイル伝播の理解においても画期的な企画といえます。
最大の見所である「松島図屏風」と「雲龍図屏風」は、19世紀末にフリーア美術館の創立者チャールズ・L・フリーア(1854-1919)により蒐集されました。先見あるコレクターであったフリーアは、俵屋宗達及び宗達と書画の合作を行った本阿弥光悦 (1558-1637)の名を、海外に知らしめたとされています。フリーアの遺言により所蔵品が館外貸出は禁じられました。本展覧会は門外不出となった宗達代表作品と各国に分散する宗達筆及び宗達派作品が一度に堪能できる絶好の機会です。
本展覧会はスミソニアン研究機構フリーア/サックラー美術館と国際交流基金 (Japan Foundation)の共催により開催されます。2015年秋には展覧会のフル・カラー図録出版が予定されており、執筆者は下記の通りです。
仲町啓子(実践女子大学)奥平俊六(大阪大学)古田亮(東京藝術大学美術館)
野口剛(根津美術館)大田彩(宮内庁三の丸尚三館)
ユキオ・リピット(ハーバード大学)ジェームス・ユーラック(フリーア美術館)

宗達の重要性

17世紀初頭、宗達は扇面や料紙などを手がける京中で話題の紙屋を営んでいましたが、その時期日本の社会は大きな変貌を遂げようとしていました。権力の中心が宮廷・公卿から幕府・武士階級へと移り、彼らは文化エリートの仲間入りをすべく装飾画を求めました。広がる受容層に答え、宗達は独創的な画面構成に実験的な技法を駆使し憧憬の王朝美に新しい時代の息を吹き込みました。
革新的ともいえる宗達のデザインに後世代の画業が加わり、やがて造形芸術における一つの流れとして「琳派」と呼ばれるようになりました。江戸時代後期の画家・尾形光琳(1658-1716)の名の一字に由来していますが、実は光琳よりも以前に宗達および光悦が確立した流れなのです。実際、琳派様式の要である「たらし込み」は、宗達が創案したものです。まだ水気残る地に墨や顔料を再度含ませ、にじみによる偶然の効果をねらった技法です。例えば花びらや水流などのデリケートな描写に予期せぬニュアンスをもたらします。
宗達が日本美術にもたらした影響は過小評価できません。17世紀に宗達を祖とした「琳派」は19世紀末に美術流派として定着し20世紀初頭まで引き継がれ、西洋ではある意味においては日本文化の粋そのものと認識されるようになりました。1913年に東京で初めて宗達を紹介する展覧会が開かれましたが、それは美術界に大きな波紋を投げ新世代の画家たちを深く感化しました。宗達のデザインはまたアール・デコ派、クリムトやマチスなどの西洋の巨匠らの作品にも呼応し、現代の眼にも近世的に映ります。
1615年に本阿弥光悦が徳川家康より京都洛北の鷹峰の土地を拝領し、そこに芸術村を作ったのを琳派発祥の年とすると、2015年は琳派が誕生してから四世紀ということになり、只今日本では文化人たちの間で「琳派400年記念祭」が呼びかけられています。数多くの琳派関連のイベント・シンポジウムなどが企画される中、国際的なコラボレーションにより可能となった本展覧会は、一つのハイライトとなることが期待されます。  】

 現在、フリーア美術館所蔵となっている、この「松島図屏風」(宗達筆)を、前回に紹介した、下記の「醍醐寺 三宝院庭園」(醍醐寺三宝院の「居住空間」)に展示した場合、どのようなイメージになるのか、そんな「バーチャル(架空)空間」での「松島図屏風 (宗達筆)」を鑑賞したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。
※「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。 】

 上記の「⑥表書院 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」の何処に展示するかによって、それぞれイメージが異なってくるが、「⑥表書院 ⑬純浄観
⑮本堂」に絞って、やはり、国宝の「⑥表書院」(庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間があります。下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。)が、一番落ち着くであろう。

松島図屏風.jpg

綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

 この「右隻」には、「海中に屹立する二つの岩」(「荒磯の岩」=「東海の荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「荒磯と蓬莱山を象徴する亀島・鶴島」)、そして、「左隻」には、「磯の浜松と波に洗われる小島」(「磯の浜松」=「右隻から左隻にかけての州浜と松」と「波に洗われる小島」=「祝儀の席に飾った鶴亀などの作り物を配した州浜台のような小島」)が描かれている。
 この「蓬莱山」は、中国の神仙思想にあらわれる仙人の住む霊山のことで、この「蓬莱山」は、「松に鶴,亀の島」といった古来吉慶祝儀をあらわすようになり、それが「鶴島(鶴石)と亀島(亀石)」、その両方を配置した庭園を、桃山時代から江戸時代にかけて「鶴亀の庭園」として隆盛を極めていくことになる。
 そして「州浜」も「州浜の浄土」として、「彼岸(浄土)」と「此岸(現世)」とを隔てる、「荒磯」と対局をなす海の表象としての「州浜」ということで、古来「作庭」上の重要な「玉石や五郎太石を敷き並べた護岸手法」の一つなのである。
 これらの「蓬莱山・鶴島(鶴石)・亀島(亀石)・州浜」、そして、この宗達の「松島図屏風」の「松島」(特定の名勝地を模写縮小した象徴的な庭=縮景庭)などの「作庭」上の用語が、醍醐寺座主の義円の日記(『義円准后日記』)の中に、かなり詳しく記されているようなのである。

【 醍醐寺三宝院 『義円准后日記』より。蓬莱島、松島については、慶長三年五月九日条に、「成身院庭梅門跡の泉水蓬莱島島ヘ渡之了」。慶長五年正月二十六日条に「泉水蓬莱島払除仰付了」。同年二月三日条「松島ノ末申角ノ小橋懸之」。慶長六年十二月二十七日条「彼岸 八重日 桜予続之今一本ハ蓬莱の島ニ続之」。慶長二十年九月十五日条「松島ノ松与桜ノ根痛ニ依テ島ヲ広ク作レリ」。この慶長二十年には大規模に白砂を運び入れ、石を立て直す庭普請のありさまが具体的にわかる。 】(『絵は語る9松島図屏風(太田昌子著)』p109)

芦鴨図.jpg

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html
「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)」(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝ (醍醐寺蔵)

【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 この醍醐寺蔵の宗達の水墨画「芦鴨図」(二曲衝立)については、下記のアドレスで触れているが、元和八年(一六二二)の頃の作である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 「宗達周辺年表」(『宗達(村重寧著・三彩社)』所収))の「元和八年(一六二二)」の項に「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃か)/このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」とある。
 この時、本阿弥光悦(永禄元年=一五五八生れ)、六十五歳、俵屋宗達は生没年未詳だが、
光悦より十歳程度若いとすると(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)、五十五歳?の頃となる。
 当時、光悦は、元和元年(一六一五)に徳川家康より拝領した洛北鷹が峰の光悦町を営み、その一角の大虚庵(太虚庵とも)を主たる本拠地としている。一方の、宗達が何処に住んでいたかは、これまた全くの未詳ということで確かなことは分からない。】

関屋澪標図屏風.jpg

関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

 この現在、静嘉堂文庫美術館蔵の宗達の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)は、寛永八年(一六三一)に、醍醐寺三宝院に納められたものであることなどについては、下記のアドレスで触れたところである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-14

【寛永八年(一六三二)時、この屏風の注文主の、醍醐寺三宝院の門跡・覚定((1607-1661))は、二十五歳の頃であった。
 その覚定の『寛永日々記』の「源氏物語屏風壱双 宗達筆 判金一枚也 今日出来、結構成事也」(九月十三日条)の、この「結構成事也」について、「第十四帖『澪標』ならば住吉、第十六帖『関屋』ならば逢坂の関という野外を舞台とした絵画化が可能となる。さらに、この二帖を一双の屏風で描いた場合、海と山で対比が作れる。また、前者は明石君、後者は空蝉に源氏が偶然出会うという共通点もある。くわえて、この二帖は不遇な時期を乗り越え、源氏が都に返り咲いた時期の話で申し分がない。源氏の年齢設定も当時の覚定の年齢に近い」と指摘している(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p54~)。】

 これらの、宗達の醍醐寺関連の作品の、元和八年(一六二二)の「芦鴨図」(二曲衝立)から、寛永八年(一六三一)の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)までの、その十年弱の時代の、醍醐寺三宝院の門跡は、「32義演(1558-1626):醍醐寺中興。醍醐寺座主80世。関白三条晴良の子。金剛輪院を再興し、三宝院と称す。大伝法院座主。東寺長者。豊臣秀吉の帰依を受ける。後七日御修法を復興」と「33覚定(1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」との二代にわたるということになる。
 この「松島図屏風」の右隻には、「法橋宗達」の署名と「対青」の朱文円印、左隻には「対青」印が押印してある。宗達の法橋になったのは、寛永七年(一六三〇)の「西行物語絵巻奥書」前後の頃で、寛永十六年(一六三九)には、「八月、俵屋宗雪、堺養寿寺の杉戸絵を描く(戦災で焼失)」とあり、この寛永十六年(一六三九)前後の、宗達の晩年の作品のようにも解せられる。
 いずれにしろ、宗達の、この「松島図屏風」は、堺の祥雲寺に伝存していた作品としても、醍醐寺三宝院門跡・義演(醍醐寺座主八〇世)、そして、覚定(醍醐寺座主八〇世)時代の「醍醐寺 三宝院庭園」(C図)の「蓬莱石組・鶴島・亀島・賀茂三石周辺の州浜・地水(荒磯)・須弥山石組」などから、大きな示唆を享受していることは、想像するに難くない。

三宝院庭園.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(鶴島・亀島=蓬莱山=松島の縮景)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【亀島の右手には鶴島を配している。松の麓には鶴の羽に見立てた鶴羽石を据えている。分かりやすいように赤色のラインで示している。そして左手に今にも折れそうな華奢な石橋がある。これが鶴の首に見立てた鶴首石(かくしゅせき)となり、全体として「躍動感」を表現している。】

松島一.jpg

宗達筆「松島図屏風」(右隻)=「右手の島=鶴島」・「左手の島=亀島」→「荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

三宝院・賀茂三石.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(「枯山水」=「州浜」と「賀茂の三石」(左手の石=「流れの早い様子」・中央の石=「淀んだ様子」・右手の石=「水が砕けて散る様子」)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

松島二.jpg

宗達筆「松島図屏風」(左隻)=「州浜の浄土」(砂州の浜松)と「州浜台(島台)の島」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

「醍醐寺 三宝院庭園」では、この「賀茂の三石」に続いて石張りの「州浜」が「滝石組」の方まで続いている。そして、宗達筆「松島図屏風」(右隻)の、この左手の異様な形状をした「州浜台(島台)」の島(州浜)」の、「州浜台(島台)」は下記のようなものである。

州浜台.jpg
州浜台(島台)=「州浜」の形状にならった島台(しまだい)の作りもの。蓬莱山や木石、花鳥など、その時々の景物を設けたもの。饗宴などの飾り物とする。
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9E%E6%B5%9C%E3%83%BB%E6%B4%B2%E6%B5%9C-300372

(参考一) 《「堺・祥雲寺」関連》

http://www.ies-group.net/shounji/yurai.html

【山号を龍谷山、俗称松の寺といい、豪商谷正安を開基、沢庵宗彭を開山とする。
 徳川時代の初め、沢庵に帰依する正安は、夭折した子供の菩提のため寺院創建を発願した。だがそのころ、新地での寺院建立は法で禁じられていた。折しも大坂夏の陣(元和元年=1615)で焼失した南宗寺の復興に尽力していた沢庵は、同じく夏の陣で焼失した海会寺を南宗寺山内に移転再建し、その跡地に新寺を建立することにした。寛永2年(1625)から同5年にかけて正安は海会寺跡地に方丈、庫裡などを造営、瑞泉寺と号して沢庵を勧請開山に迎えた。これに伴い南宗寺と法類の縁が結ばれた。その後、同9年に祥雲庵、同16年に祥雲寺と寺号を改めた。 】

(参考二) 《「谷正安・沢庵宗彭・今井宗久」そして「堺ゆかりの人々」関連》

https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/great-person/other.html

【谷正安(たにしょうあん)天正十七年~正保元年(1589~1644)
堺の商人で沢庵和尚に帰依し、寛永五年(1628)沢庵を開山にして、海会寺跡に祥雲寺を創建したのち出家し仏門に入りました。祥雲寺は戦災で焼けましたが、枯山水の庭は大阪府の指定文化財になっています。

沢庵宗彭(たくあんそうほう)天正元年~正保二年(1573~1645)
但馬出身の僧で慶長十二年(1607)南宗寺十二世、同十四年大徳寺百五十三世となりました。元名兵火後、南宗寺を復興し祥雲寺も開山しました。その後たびたび堺を訪れ教化に努めるとともに、書画・俳諧・茶道に通じていました。

武野紹鷗(たけのじょうおう)文亀二年~弘治元年(1502~1555)
大和出身の茶人・豪商で後に堺に移り住みました。上洛して三条西実隆に和歌を、宗陳・宗悟らに茶の湯を学びました。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許されました。
茶道においては茶禅一味のわび茶を説き、茶道勃興期の指導者として今井宗久や千利休をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えました。

津田宗及(つだそうぎゅう)天正十九年(1591)没
堺の茶人・豪商で堺の会合衆・天王寺屋に生まれ、父・津田宗達に茶の湯を学びました。今井宗久、千利休とともに信長に仕え、その後は秀吉の茶頭として三千石を得ました。家には多数の名器を持ち、茶会に関する逸話も多くあります。

今井宗久(いまいそうきゅう)永正十七年~文禄二年(1520~1593)
大和出身の茶人・豪商。堺に来て茶の湯を武野紹鷗に学び、女婿となりました。商才を発揮して信長に接近し摂津五ヶ庄、生野銀山の代官職などを歴任しました。千利休、津田宗及とともに信長・秀吉に仕え茶の三大宗匠といわれました

山上宗二(やまのうえそうじ)天文十三年~天正十八年(1544~1590)
堺の茶人・商人で千利休から茶の湯を学び、利休や津田宗及とともに秀吉の茶頭もつとめました。利休から学んだ茶の湯の秘伝を含む、茶の湯生活三十年の覚書を残した「山上宗二記」は、茶道研究において一、二を争う資料となっています。

高三隆達(たかさぶりゅうたつ)大永七年~慶長十六年(1527~1611)
堺顕本寺の子坊、高三坊の第一祖で、還俗して高三家に復帰しました。天性の美音で僧として学んだ声明、諷誦をはじめ各種の音曲に精通し小唄「隆達節」を創出しました。
これは室町時代の「閑吟集」の流れを汲むもので、江戸時代に登場する様々な音曲へとつながる、重要な役割を持ったものです。】

(参考三) 《 「堺・養寿寺」周辺 》

https://japan-geographic.tv/osaka/sakai-yojuji.html

【 永禄10年(1567)9月に、千利休・津田宗及とともに三宗匠の一人と言われた今井宗久の兄秀光が、当地に屋敷を建てたものを、寛永13年(1636)に、今井宗円が即明院日相上人(宗円の甥)を開山として、今井家一門の菩提を弔うため寺院に改めたものです。
 当寺の建物及び寺宝等は第二次大戦ですべて焼失しましたが、永禄10年頃に作られたものといわれる庭の石組が現存します。この庭は、室町様式を伝える桃山初期の書院式枯山水で、正面には亀島、その左には低く鶴島を設け、右の方にも集団の石組を設けた三集団の庭園であると伝えられており、当寺の庭園の様子がうかがうことができる石組が保存されています。
 境内には今井宗薫の五輪塔があり、「天外宗薫、宝永4年(1707)4月11日」と刻しています。 】

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醍醐寺などでの宗達(その十二・「光広賛の「関屋澪標図」屏風」) [宗達と光広]

その十二 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)
六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
https://www.dnp.co.jp/news/detail/1192545_1587.html

光吉・源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/

 宗達の六曲一双の「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(A図)も、光吉の四曲一双の「源氏物語図屏風」(B図)とも、各隻の横の長さが(三五五・六㎝)と、B図「源氏物語図屏風」のように、両隻を右から左へと平行に並べると、七メートル強と、長大なものである。
 こういう豪華な「晴れ」(「晴」と「褻」の「晴れ」)の屏風は、どういう「所」に、どういう「時」に、どういう「人」が「集う」ときに、使用されるものなのかどうか?
 少なくとも、現在の、これらを所蔵されている「静嘉堂文庫美術館」、そして、「メトロポリタン美術館」が、これらの作品を展示するに必要な空間を有している、そういう建造物の中の一室ということになろう。
 光吉・宗達の時代、即ち、豊臣秀吉の「桃山時代」そして、それ続く、徳川家康の「徳川時代前期」ということになると、「宮廷・有力公家・門跡寺院・有力神社」、あるいは、「豊臣家・徳川家に連なる神社・仏閣」、そして、当時勃興しつつあった「有力町衆(京都町衆・堺衆・博多衆)」の、その居住空間ということになろう。
 A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」は、もともとは、醍醐寺三宝院の所蔵であった。
その三宝院の居住空間とその庭園の配置図は、次(C図)のとおりである。
そのうち、「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。 】

 この醍醐寺三宝院の「「⑥表書院」に、このA図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」を飾ると、このC図「三宝院庭園」の「蓬莱石組 ⑩鶴島 ⑨亀島 ⑪賀茂三石」と見事にマッ
チして来る。

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)

 この右隻は「関屋図」は、光源氏の「逢坂の関・石山寺参詣」の場面で、「醍醐寺→上醍醐寺→岩間寺→石山寺」と、西国三十三札所巡りのルートでもある。そして、左隻は、光源氏が都へ帰還出来たお礼の「住吉大社参詣」の場面で、この第五・六扇の「鳥居と太鼓橋(反橋)」は、その住吉神社を象徴するものである。
 そして、この「太鼓橋(反橋)」は、慶長年間に淀君が奉納したものとも伝えられており、この橋のたもとまで大阪湾の入り江であったことの象徴でもある。この大阪湾に連なる一角に、土佐光吉らが根城とする、当時の自由都市「堺」の港が続いている。その大阪湾から堺に連なる「州浜」が、C図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」と解することも出来よう。
 そのC図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」、そして、それは、大阪湾から堺港に連なる「州浜(すはま)」(曲線を描いて州が出入りしている浜)から、「⑨亀島 ⑩鶴島 蓬莱石組」へと通ずる、「荒磯(ありそ・あらそ)」(荒波の打ち寄せる、岩石の多い海岸)の海と、蓬莱神仙思想に基づく「不老不死の仙人が住む蓬莱山・長寿の象徴である鶴島や亀島」へ至るルートを示すものであろう。
 さらに、「⑬純浄観」からは、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」に続く「州浜」から、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づく「須弥山(しゃみさん)」(仏教の宇宙説にある想像上の霊山)」と、阿弥陀三尊を示す「⑧藤戸石」(歴代の武将に引き継がれたことに由来する「天下の名石」)、そして、その奥の「⑦豊国大明神」(醍醐寺全体の復興に尽力した太閤秀吉を祀る社)などが、一望される。
 即ち、C図「三宝院庭園」は、蓬莱神仙思想に基づいた「蓬莱式庭園」と、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づいた「浄土式庭園」とを兼ね合わせ、さらに、「⑨亀島と⑩鶴島」の「蓬莱の島」は、実景の「松島」をも模しており、所謂、縮景で構成される「縮景式庭園」をも加味した、全体的として統一された三位一体の完璧且つ複合的な庭園の代表的なものなのである。
 ここに、茶室の出入り口は「にじり口」ではなく、かがまず出入りできる「貴人口」(貴人=菊の御紋の「天皇家」・葵の御紋の「徳川家」・桐の御紋の「豊臣家」の貴人)の「枕流亭」が南東に設置され、その南東の隅に「三段の滝」(各々の滝の音が、さらにこの庭園を引き立てる)、その南西の「⑬純浄観」の前と後ろに「滝石組」(「⑭奥宸殿」の舟着場・「枕流亭」の船着場)まで設置され、単なる、「観賞式庭園(鑑賞するタイプの庭園)・廻遊式庭園(庭園内を回遊するタイプの庭園)」だけではなく、「舟遊式庭園(歩かずに池に浮かべた舟から観る庭園)・露地庭園茶室まわりの庭園」も兼ねそなえているのである。
 この「⑭奥宸殿」の東北側に、茶室「松月亭」(奥宸殿の東北側、南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦の造り)がある。そして、この茶室「松月亭」の「滝石組」が「内海」(湖・池)とするならば、茶室「枕流亭」の「滝石組」は「外海」(海・荒磯・荒海)の、それをイメージすることになる。
 ことほど左様に、「醍醐寺三宝院庭園」というのは、下記のアドレスの、庭園の要素の全てを兼ね備えた、類まれなる庭園の、紛れもない、その一つということになる。

https://www.travel.co.jp/guide/howto/43/

「何を表現しているか」による分類 (浄土式庭園/蓬莱式庭園/縮景式庭園 etc.)
□ 浄土式庭園
□ 蓬莱式庭園
□ 縮景式庭園

「何で表現しているか」による分類 (枯山水庭園/池泉庭園/築山林泉庭園 etc.)
□ 枯山水庭園
□ 池泉庭園
□ 築山林泉庭園

「どのように鑑賞するか」による分類 (観賞式庭園/廻遊式庭園/舟遊式庭園/露地庭園)
□ 観賞式庭園
□ 廻遊式庭園
□ 舟遊式庭園
□ 露地庭園

 この「醍醐寺三宝院」には、A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)は、見事にマッチするのであるが、B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)は、どうしても馴染まない。
光吉・源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)

 これは偏に、右隻の「御幸・浮舟図屏風」の、その四扇に描かれた下記の「浮舟図」にある。

光吉・浮舟.jpg

B-1図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)

  この図(B-1図「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)の「御舟」の男女二人は、あたかも恋の逃避行の感じで、真言宗醍醐派総本山の醍醐寺の一角に鎮座するのには、やや場違いという印象は拭えない。
 このB図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)に相応しい空間として、例えば、下記のB-2図の天皇の乗る、屋形の頂に金色の鳳の形を据えた「鳳輦(ほうれん)・鸞輿(らんよ)」と同じく、「金色の鳳凰」を屋根に戴く「平等院」などは、『源氏物語』の「宇治十帖」の故郷でもあり、少なくとも、醍醐寺三宝院よりは馴染むであろう。

御幸・輿拡大.jpg

B-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)

宇治平等院.jpg

平等院「鳳凰堂」(国宝)
【京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

源氏物語図屏風・平等院.jpg

平等院ミュージアム鳳翔館に設けられた「源氏物語図屏風」(「綴プロジェクト」による「高精細複製品」)
https://global.canon/ja/tsuzuri/donation.html

 メトロポリタン美術館所蔵の、この光吉の「源氏物語図屏風」は、「綴プロジェクト」による「高精細複製品」の一つとなり、今に平等院に寄贈され、上記のとおり一般公開されているが、元々は部屋を取り囲む「襖絵」の一部であったと、上記のアドレスでは紹介されている。
 こういう金地著色の豪奢なものを襖の一部としていたのは、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の居住空間として、後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう。
 この「桂離宮」は、『源氏物語』第十八帖「松風」に、「明石の君」(明石の御方・明石・御方・女君・女・君)と「明石の姫君」(若君=光源氏と明石の君の娘)が上洛し、住まいとしている「大堰(おおい)山荘」(「桂川」の上流の「嵐山」近くの山荘)から「はひわたるほど」(這ってでも行ける近距離)の所に「桂の院」(「桂の院といふ所、 にはかに造らせたまふ」=光源氏の「桂川」の別荘)との名称で出て来る。
 この『源氏物語』第十八帖「松風」の原文に照らしながら、下記の「桂離宮」の平面図などを見て行くと、この「桂離宮」が多くの点で、『源氏物語』の、殊に、この第十八帖「松風」などを参考としていることが、随所に見受けられる。
 もとより、この「桂離宮」の造営着手は、元和元年(一六一五)の頃とされ、さらに、その第一期造成完成は寛永元年(一六二四)の頃で(『新編名宝日本の美術22桂離宮』)、土佐光吉(没年=慶長十八年=一六一三)の時代は、八条宮の本邸(京都御苑内、御殿は二条城に移築)での、正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子(後陽成天皇は同母兄)智仁親王の時代ということになる。
 そして、この八条宮智仁親王は、慶長五年(一六〇〇)に細川幽斎から「古今伝授」を受け、さらに、同十五年(一六一〇)には、「源氏物語相伝」を受けており、「書・香・茶」など各道に優れ、当代切っての代表的な文化人なのである。

源氏物語図屏風・桂離宮.jpg

「桂離宮」配置図 1.表門、2.御幸門、3.御幸道、4.外腰掛、5.蘇鉄山、6.延段、7.洲浜、8.天橋立、9.四ツ腰掛(卍亭)、10.石橋、11.流れ手水、12.松琴亭、13.賞花亭、14.園林堂、15.笑意軒、16.月波楼、17.中門、18.桂垣、19.穂垣、A.古書院、B.中書院、C.楽器の間、D.新御殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Katsura-Plan.jpg

 この「A.古書院」の二の間の東側、広縁のさらに先に月見台、その北側の茶室「16.月波楼」は、観月の名所として知られている「桂の地」に相応しい観月のための仕掛けが施され、月影を水面に映すために、中央に池面を大きくとっている。

【 『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第三段「饗宴の最中に勅使来訪」

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.3.html#paragraph3.3

3.3.6  月のすむ川のをちなる里なれば/ 桂の影はのどけかるらむ (帝=冷泉帝)
(月が澄んで見える桂川の向こうの里なので、月の光をゆっくりと眺められることであろう)

3.3.12 久方の光に近き名のみして/ 朝夕霧も晴れぬ山里(大臣=光源氏)
(桂の里といえば月に近いように思われますが、それは名ばかりで朝夕霧も晴れない山里です)

3.3.14 めぐり来て手に取るばかりさやけきや/ 淡路の島のあはと見し月(大臣=光源氏)
(都に帰って来て手に取るばかり近くに見える月は、あの淡路島を臨んで遥か遠くに眺めた月と同じ月なのだろうか)

3.3.16  浮雲にしばしまがひし月影の/ すみはつる夜ぞのどけかるべき(頭中将)
(浮雲に少しの間隠れていた月の光も、今は澄みきっているようにいつまでものどかでありましょう)

3.3.18 雲の上のすみかを捨てて夜半の月/ いづれの谷にかげ隠しけむ(左大弁→右大弁)
(まだまだご健在であるはずの故院はどこの谷間に、お姿をお隠しあそばしてしまわれたのだろう)   

※「16.月波楼」=夏・(秋)向きの茶室、後水尾天皇筆か霊元天皇筆の「歌月」の額。
※「12.松琴亭」=冬・(春)向きの茶室、後陽成天皇筆の「松琴」の額。
※「13.賞花亭」=茶室、曼殊院良尚法親王(智仁親王の子)筆「賞花亭」の額。
※「15.笑意軒」=茶室・曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)筆「「笑意軒」の額。
※「14.園林堂」=持仏堂、楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像。
((「茶室」には、それぞれ「舟着き場」がある。)
※「9.四ツ腰掛(卍亭)」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「4.外腰掛」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「7.洲浜」=青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てたもの。
※「8.天橋立」=小島二つを石橋で結び、松を植えで丹後の天橋立に見立てたもの。
※「5.蘇鉄山」=薩摩島津家の寄進という蘇鉄、外腰掛の向いの小山。
(桂離宮の池は大小五つの島があり、入江や浜が複雑に入り組んでいる。中でも松琴亭がある池の北東部は洲浜、滝、石組、石燈籠、石橋などを用いて景色が演出されており、松琴亭に属する茶庭(露地)として整備されている。)
※「1.表門」=庭園の北端に開く行幸用の正門で、御成門ともいう。通用門は南西側にある。
※「2.御幸門」=門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所。
※「3.御幸道」=道の石敷は「霰こぼし」と称し、青黒い賀茂川石の小石を長さ四四メートルにわたって敷き並べ、粘土で固めたものである。突き当りの土橋を渡って古書院に至る。
※「17.中門」=古書院の御輿寄(玄関)前の壺庭への入口となる、切妻造茅葺の門である。
※※「A.古書院」=古書院の間取りは、大小八室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。
※※「B.中書院」=間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。「一の間」の「山水図」が狩野探幽、「二の間」の「竹林七賢図」が狩野尚信、「三の間」の「雪中禽鳥図」が狩野安信である
※※「C.楽器の間」=中書院と新御殿の取り合い部に位置する小建物で、伝承では前述の床に琵琶、琴などの楽器を置いたともいわれている。
※※「D.新御殿」=内部は九室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。(『ウィキペディア(Wikipedia)』『新編名宝日本の美術22桂離宮』など)

亀の尾の松.jpg

※※※亀の尾の住吉の松
https://earthtime-club.jp/column/history/071-2/

※※※「亀の尾の住吉の松」=月波楼横の池泉に突き出た岬(亀の尾)に一本の松が植えられている。この松は『古今和歌集』仮名序に「高砂・住江(住吉のこと)の松も相生のやうにおぼえ」とある住吉の松で、対となる高砂の松は池をはさんで対岸に植えられている。常緑の松には、古来神様が天から舞い降りるという「依代(よりしろ)信仰」があり、その信仰が庭と結びつき、日本庭園では松が貴重な存在となっている。岬(亀の尾)はちょうど池泉全体を見晴らす位置にあり、敷地のほぼ中央にある。この位置こそ、神様に降りていただくには最もふさわしい場所なのであろう。

『源氏物語』第十八帖「松風」第二章「第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会」第五段 嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.2.html#paragraph2.5

2.5.3 契りしに変はらぬ琴の調べにて/ 絶えぬ心のほどは知りきや(光源氏)
(約束したとおり、琴の調べのように変わらない。わたしの心をお分かりいただけましたか)

2.5.5  変はらじと契りしことを頼みにて/ 松の響きに音を添へしかな(明石の君)
(変わらないと約束なさったことを頼みとして、松風の音に泣く声を添えていました)  】

光吉・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 画土佐光吉 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

詞曼殊院良恕・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 詞曼殊院良恕 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

【『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第二段「桂院に到着、饗宴始まる」 

3.2.7 (野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞(つと)にして参れり。)大御酒(おほみき)あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(訳:野原に夜明かしした公達(殿上役人)は、小鳥を体裁ばかり(しるしだけ)に付けた荻の枝など、土産にして参上した。お杯が何度も廻って、川の近くなので危なっかしいので、酔いに紛れて一日お過ごしになった。)

(詞曼殊院良恕: 大御酒あまたたび/順流れて川のわたり/危ふげなれば酔ひに/紛れておはしまし/暮らしつ )   】


追記一 土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木    (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋    (欠)                薫26歳秋
51 浮舟     (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳

(メモ)

一 形状は「折本型式」(現在は四帖、本来は二帖、「絵と詞書」で一対。縦 25.7 cm×横 22.7 cmの色紙が台紙に貼付されている)で、「絵五十四図、詞書五十四枚」から成っているが、内容は、上記のとおりで、『源氏物語』五十四帖の全部を載せるのではなく、「41雲隠・49 宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」は絵も詞書もない。そして、その代わりに、「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」が、「48早蕨」の後に続いている。

二 絵の裏面に「印章」と「墨書」とが、「久翌」印(光吉の「印章」)のみ、「長次郎」墨書のみ、全くの「無記入」との三種類に分けられる。

① 「久翌」印(光吉の「印章」)のみ→「光吉筆」
 「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上)・(下)(光吉筆)」までの三十五図は、「光吉筆」の直筆である。
② 「無記入」のもの→「長次郎筆」
 「35柏木(長次郎筆)」から「48早蕨(長次郎筆)」までの十三図は、「光吉」門弟「長次郎筆」と解せられる。(「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」)

③ 「長次郎」墨書のみ→「長次郎筆」
 「48早蕨」の後に続く「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」の六図については「長次郎」の墨書があり、「長次郎筆」である。

三 詞書の裏面にもその筆者名を示す注記がある。その注記にある官位名は、その多くが元和三年(一六一七)時点のものが多いのだが、元和五年(一六一九)時点のものもあり、その注記はて一筆でなされており、元和三年時点で作られていた筆者目録を、元和五年以降に全て
同時に書かれたものとされている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。

② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。


③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

光吉・蓬生.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

信尋・蓬生.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

長次郎・蓬生.jpg

A-3図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

信尹・蓬生.jpg

A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

(参考一)
A-1図は、「画土佐光吉」で、A-3図は、「画長次郎」である。同じ「蓬生」でも、描かれている場面が異なるので、「土佐光吉」と「長次郎」との画風の相違点は歴然としないが、人物の描写などを見ても、「長次郎」よりも「光吉」の方が「緊迫感」などの鋭さが伝わって来る。また、背景の描写でも、「松」の「緑」と、建物内の「敷物」の「緑」など、「長次郎」の画は、その細部の点で工夫の跡がうかがえないが、「光吉」の画では、「松」と「藤」との「草花」の「緑」などが、実に巧みに違った味わいを見せている。

(参考二)
 A-2図は、「詞近衛信尋」で、「近衛信尋」の書である。「尋書く」と署名があり、「詞書」は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の「露すこし払はせて/なむ入らせたまふべきと/聞こゆれば/尋ねても我こそ訪はめ/道もなく深き蓬の/もとの心を」という一節である。この信尋の書は、養父の近衛信尹が亡くなった慶長十九年(一六一四)の十六歳から、元和六年(一六二〇)の「近衛右大臣左大将」にあった、二十歳の成人を迎えた頃の作とすると、能書家として夙に知られている信尋の、その早熟ぶりが如何ともなく伝わって来る。
 A-4図は、「近衛信尋」の養父の、慶長十九年(一六一四)に没した、「近衛前関白左大臣」の「近衛信尹」の書である。この書は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の、「年を経て待つしるし/なきわが宿を花のたよりに/過ぎぬばかりかと忍びやかに/うちみじろきたまへる/けはひも袖の香も昔より/はねびまさりたまへるにやと/思され」の一節である。
この信尹は、「書・和歌・連歌・絵画・音曲諸芸に通じ、特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に『寛永の三筆』と後世、能書を称えられている」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)、その人である。その人の、亡くなる、最晩年の、慶長十九年(一六一四)当時の、その享年五十の頃の絶筆に近いものであろう。
 慶長十八年(一六一三)に、土佐光吉、そして、その一年後に近衛信尹が亡くなった後、遺された「近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」の二人をサポートして、この「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」を、今の形にまとめさせた中心人物は、後陽成天皇の弟(後水尾天皇)で、「後水尾天皇」や「信尋」の後見人のような立場にあった「八条宮智仁(一五七九~一六二九)」なども、その一人に数えられるであろう。
 その推計の根拠は、「花散里」(土佐光吉筆)の詞書は「近衛信尹息女太郎(君)」で、同じ画題の「花散里」(長次郎筆)の詞書は「八条宮智仁」その人で、この「八条宮智仁」は、「葵」(土佐光吉画)と「賢木」(土佐光吉画)との詞書も草していることなどを挙げて置きたい。

光吉・花散里.jpg

B-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

太郎君・花散里.jpg

B-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

(参考三)
 B-1図は、土佐光吉の「花散里」である。そして、B-2図は、それに対応する「詞近衛信尹息女太郎(君)」で、「信尹息女」の「太郎(「君」とも「姫」ともいわれている) の書である。その書(詞書)は、次の場面のものである。
「琴をあづまに調べて掻き/合はせにぎははしく弾きなすなり/御耳とまりて門近なる/所なればすこしさし出でて/見入れたまへば」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)。

長次郎・花散里.jpg

B-3図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

八条宮・花散里.jpg

B-4図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

(参考四)
 B-3図は、長次郎の「花散里」で、光吉の「花散里」のB-1図と同じ場面を描いたものである。このB-3図(長次郎画)とB-1図(光吉画)とを見比べていくと、B-1図(光吉画)の老成な味わい深い世界に比して、のB-3図(長次郎画)は、若書きの清澄な世界の趣が感じとられる。同様に、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界は、B-3図(長次郎画)と同じような若書きの荒削りの筆勢というのが伝わって来るのに対して、B-4図(詞八条宮智仁)の書からは、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界と真逆の老練な響きな世界という印象すら伝達されて来る。
 いずれにしろ、「A-1図(土佐光吉画・蓬生)・A-4図(近衛信尹書・蓬生)」と「B-1図(土佐光吉画・花散里)・B-4図(八条宮智仁書・花散里)」の「老成・老練」の世界に比して、「A-2図(近衛信尋書・蓬生)とA-3図(長次郎画・蓬生)」と「B-2図(近衛信尹息女太郎(君)書・花散里)とB-3図(長次郎画・花散里)」との「若書き・清澄」の世界とは好対照を成している。 
 なお、このB-4図(詞八条宮智仁)の詞書は、次の場面のものである。
「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす/ ほの語らひし宿の垣根に/
寝殿とおぼしき/屋の西の/妻に/人びとゐたり/先々も/聞きし声/なれば/声づくりけしきとりて/御消息/聞こゆ/若やかなる/けしきどもして/おぼめくなる/べし」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)

(参考五) 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

 先に、「桂離宮」に関連して、【後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう】ということを記したが、その「本邸」は、京都御苑内(同志社女子大学今出川キャンパスと京都御所との間)にあって、慶長年間に屋敷替えなどがあり、度々本邸の改築などが施されており、その「本邸・桂離宮」を含めてのものとした方が、より相応しいのかも知れない。
と同時に、「宮廷絵所預」の「土佐派」(土佐光吉)と、上記の「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図の※印の「詞書」筆者などとの関連は、やはり、濃密な関係にあったことも特記をして置く必要があろう。殊に、「※近衛信尋(養父・※近衛信尹)」と「土佐光吉」との関係は、更なるフォローが必須となって来るであろう。

(参考六) 「長次郎」と「土佐光則」周辺

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「土佐光吉」が描いた三十五図(『久翌』の印章有り)の他に、「長次郎」が描いたとされる「六図」(「長次郎」の墨書名がある)と十三図(無記名・無印で「長次郎の墨書名がある六図」と同一画人とされる「長次郎」)の、その「長次郎」とは何者なのか? 
 光吉の側近中の側近とすれば、光吉の子とも弟子といわれている「土佐光則」(一五八三~一六三八)とすると、光吉が亡くなった慶長十八年(一六一三)の時、数え齢三十一歳で、年恰好からすると、光則が「長次郎」とも思われるが、その確証はない。

【土佐光則(とさみつのり、天正11年(1583年) - 寛永15年1月16日(1638年3月1日))は安土桃山時代 - 江戸時代初期、大和絵の土佐派の絵師。源左衛門尉、あるいは右近と称した。土佐光吉の子供、あるいは弟子。住吉如慶は弟とも、門人とも言われる。土佐光起の父。
光吉の時代から堺に移り活躍する一方、正月に仙洞御所へしばしば扇絵を献上したが、官位を得るまでには至らなかったようだ。寛永6年(1629年)から11年(1634年)には、狩野山楽、山雪、探幽、安信といった狩野派を代表する絵師たちに混じって「当麻寺縁起絵巻」(個人蔵)の制作に参加している。晩年の52歳頃、息子の土佐光起を伴って京都に戻った。
極めて発色の良い絵の具を用いた金地濃彩の小作品が多く、土佐派の伝統を守り、描写の繊細さ、色彩の繊細さにおいて巧みであった。こうした細密描写には、当時堺を通じて南蛮貿易でもたらされたレンズを使用していたとも言われる。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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醍醐寺などでの宗達(その十一・「光広賛の「関屋澪標図」屏風」) [宗達と光広]

その十一 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)
六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

 この「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(六曲一双)は、右隻は「関屋図屏風」、左隻は「澪標図屏風」とするのが通例なのであるが、下記の土佐光吉の「源氏物語図屏風」(B-1図「御幸・浮舟図屏風」・B-2図「)からすると、右隻「澪標図屏風」、左隻「関屋図屏風」と入れ替えた方が、より妥当のようにも思われる。

土佐光吉・源氏物語図屏風右.jpg

B-1図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

源氏物語図屏風.jpg

B-2図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 この両者を比較すると、宗達のA-2図は「澪標図屏風」で、『源氏物語』第十四帖「澪標」が原典なのに対して、光吉のB-1図は「御幸・浮舟図屏風」で、『源氏物語』第二十九帖「御幸」と第五十一帖「浮舟」を原典とするもので、似ても非なるものなのである。
 また、宗達のA-2図「関屋図屏風」と、光吉のB-2図「関屋図屏風」とを比較しても、同じ『源氏物語』第十六帖「関屋」を原典としていても、一見すると、これまた、似ても非なるものとの印象を受ける。
 敢えて、両者の類似している箇所などを指摘すると、B-1図「御幸・浮舟図屏風」では、第六扇に描かれている「御舟」が、A-2図の「澪標図」では、第一・二扇に描かれている「屋形船」、そして、B-1図「御幸・浮舟図屏風」の第二扇に描かれている「牛車」とそれを牽く「牛」が、A-1図「関屋図」の第一・二扇に描かれて「牛車」と「牛」と、同じような題材を描いているということが挙げられよう。

光吉・浮舟.jpg

B-1-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「浮舟」部分拡大図)

宗達・澪標船.jpg

A-2図=澪標図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 B-1-1図「御幸・浮舟図屏風」(「浮舟」部分拡大図)の「御舟」の男女二人は、女性は「浮舟」(八の宮の三女)、そして、男性は「薫」(光源氏の子=実の父は柏木)か「匂宮」(今上帝の第三皇子。母は明石中宮=光源氏の長女。母は明石の方)のどちらかで、『源氏物語』第五十一帖「浮舟・第四章・第三段〈宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す〉」からすると「匂宮」(兵部卿宮・宮)と解せられる。
 そして、A-2図=澪標図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)の上部の「屋形船」に、「匂宮」の母「明石中宮」(光源氏の長女)を腹に宿している、「匂宮」の祖母に当る「明石の方」が乗っている。

【(『源氏物語』第十四帖「澪標」)=光源氏=二十八歳から二十九歳---(呼称)源氏の君・源氏の大納言・源氏の大殿・大殿・大殿の君・内大臣殿・君

http://james.3zoku.com/genji/genji14.html

14.14 住吉詣で

 その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
 舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ人のけはひ、渚に満ちて、いつくしき神宝(かみだから)を持て続けたり。楽人、十列(とおずら)など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
「誰が詣でたまへるぞ」
と問ふめれば、
「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」

14.15 住吉社頭の盛儀

 御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束(そうぞ)き、みづら結ひて、 紫裾濃(むらさきすそご)の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。 】

【 (『源氏物語』第五十一帖「浮舟」=薫君=二十六歳十二月から二十七歳---(呼称)右大将・大将殿・大将・殿・君)

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined51.4.html#paragraph4.3

4.3.6 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

 いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも、 いとらうたしと思す。

4.3.13  年経とも変はらむものか橘の/ 小島の崎に契る心は   (匂宮)
(何年たとうとも変わりません。橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは)

4.3.14  橘の小島の色は変はらじを/ この浮舟ぞ行方知られぬ  (浮舟)
(橘の小島の色は変わらないでも、この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら) 

※6 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

6.5.10  波越ゆるころとも知らず末の松 / 待つらむとのみ思ひけるかな (薫)
(「あなたがほかの人を待っているとも知らず、私は待たれているとばかり思っていました」=(『源氏物語巻十円地文子訳』 )

※※7 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す

7.8.2   後にまたあひ見むことを思はなむ/ この世の夢に心惑はで (浮舟)
(来世で再びお会いすることを思いましょう。この世の夢に迷わないで)       】

御幸・輿拡大.jpg

B-1-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)

 B-1-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)は、天皇の外出(行幸(ぎょうこう))に使用する、屋形の頂に金色の鳳の形を据えた「鳳輦(ほうれん)・鸞輿(らんよ)」で、『源氏物語』第二十九帖「行幸(ぎょうこう・みゆき)」の原文に照らすと「冷泉帝」(桐壺帝の第十皇子・藤壺中宮と光源氏との不義の子)が乗っているものと解せられる。

【 (『源氏物語』第二十九一帖「行幸」=光源氏=三十六歳十二月から三十七歳---(呼称))
源氏の大臣・太政大臣・六条院・六条の大臣・六条殿・主人の大臣・大臣・大臣の君・殿)

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined29.1.html#paragraph1.1

第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸
第一段 大原野行幸

1.1.3 行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部も、皆心ことに、御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかにをかし。左右大臣、内大臣、納言より下はた、まして残らず仕うまつりたまへり。 青色の袍、葡萄染の下襲を、殿上人、五位六位まで着たり。 】

行幸・光源氏.jpg

B-1-3図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「乗馬」部分拡大図)

 B-1-2図の「冷泉帝」の乗っている「鳳輦・鸞輿」を先導するような、B-1-3図の「御馬鞍に跨った上達部(かんだちめ)=摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、及び三位以上の人の総称」は、「光源氏」なのかも知れない。この「上達部」に、B-1-1図の「匂宮」の紋様入りの白装束を着せると、下記のB-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)の「上達部」と様変わりして、これが「光源氏」なのかも知れない。
光吉・光源氏.jpg

B-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)

光吉・関屋図牛.jpg

B-2-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「牛車」部分拡大図」)

 乗馬している「光源氏」(B-2-1図)の前に、「牛車を牽く牛」(B-2-2図)が描かれている。
この光吉の「牛車を牽く牛」(B-2-2図)を、宗達の「関屋図」(A-1図)では、次のように転用している。

宗達・関屋図部分二.jpg

A-1図=関屋図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 この宗達の「牛」(A-1図)と、先の光吉の「牛」(B-2-2図)とを相互に見極めて行くと、両者の差異が歴然として来る。光吉の「牛」(B-2-2図)が無表情なのに対して、宗達の「牛」(A-1図)は、前の人物(空蝉の弟、空蝉の文を持っているか?)に、近寄ろうとしている、その感情を秘めた「牛」の表情なのである。
 この「牛」の表情は、その「牛車」に乗っている「光源氏」の感情の動き(「空蝉」との再会を果たしたい)を如実示している。

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)

 このA図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「右隻=A-1図=関屋図」の主題は、紛れもなく、その第一・二・三扇に描かれている、この「牛車」(光源氏が乗っている)の「牛」(A-1図)なのである。
 そして、この「左隻=A-2図=澪標図」では、その第一扇に描かれている、下記の「明石の方」が乗っている「屋形船」を見送る(再会を果たせず無念のうちに見送る)、この「牛」こそ、謂わば、「光源氏」の化身ともいうべきものであろう。

宗達・澪標船.jpg

A-2図=澪標図(部分拡大図)

宗達・関屋図部分二.jpg

A-1図=関屋図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 「宗達マジック・宗達ファンタジー」とは、この「光源氏」を「牛」に化身させるという、「大胆」にして且つ「自由自在・融通無碍」の発想にある。
 それに比して、「光吉マジック・光吉ファンタジー」は、せいぜい、「輿・牛車に乗る光源氏」を「乗馬の光源氏」に変身させる程度の、「実直」にして且つ「変法自強・活用自在」の、その心情にある。

行幸・光源氏.jpg

B-1-3図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「乗馬」部分拡大図

光吉・光源氏.jpg

B-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)

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醍醐寺などでの宗達(その十・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その十 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 上記A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の第五扇の髭を生やした人物を、これまで「あれかこれか」して、空蝉の夫の「常陸守」(伊予介)と特定したのだが、それを裏付ける
有力なものが出てきた。
 それは、現在、メトロポリタン美術館所蔵の「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝)の左隻「関屋図屏風」(B図)である。

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 この第四扇を拡大すると次のとおりである。

空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物は、空蝉の夫の「常陸守」(紀伊介)その人であろう。そして、その左脇の立っている女性は「空蝉」のように思われる。「常陸守」の右脇の若き男性は、「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)なのかも知れない。
 ここの場面は、下記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の「源氏、石山寺参詣」の場面で、光源氏一行が通過するのを、常陸守・空蝉一行が、「関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる」光景である。「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)については、次の「逢坂の関での再会」で登場する。

【(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
16.2 源氏、石山寺参詣

《 関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。 》

16.3 逢坂の関での再会

《 九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。》

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す    】

関屋澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・左隻=C-2図=澪標図)

土佐光吉のB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、宗達のC図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」においては全くの様変わりをしている。光吉の「光源氏」一行は、宗達の第一・二・三扇に描かれており、それを拡大すると次のとおりとなる。

宗達・関屋図部分二.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図一)

 この場面は、上記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文では、次の記述のところである。

【 (16.2 源氏、石山寺参詣)    
九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。】

 この第三扇に描かれている人物が、上記原文の「かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)」と思われる。そして、光吉のB図(第五扇・部分拡大図)では、中央の「土佐守」の右脇に座している若い人物のように思われる。
 この右衛門佐が話しかけている、C-1図=関屋図の、第二扇に描かれている高貴な童随身のような人物は誰なのか? 
それを証しするのは、C-2図=澪標図の、下記の登場人物からすると、「夕霧→大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧」が以外に見当たらいのである。この人物を「夕霧」とすると、その脇の白い衣装の童は、「夕霧」の童随身で、その背後の人物は「良清と六位の蔵人と傘持ち」のような雰囲気である。

【「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)
光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)
光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?)   】

宗達・関屋図部分一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図二)

 これが、C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」に宗達が描く「空蝉」一行の全体の図なのである。ここに従者のように描かれている三人の人物の視線は、「C-1図=関屋図・部分拡大図一)」の、「夕霧」(「光源氏の名代」)と「小君=右衛門佐=空蝉の弟」(「常陸守と空蝉」の名代)に注がれている。
 この三人の人物を、上記の登場人物から、「常陸守・空蝉・紀伊守=常陸守の子」と見立てることも、これまた一興であろう。この三人の人物が、同じ、土佐派(土佐光吉とその一門)の「関屋図屏風」(D図)では、その位置関係(C-1図との関係)からして、次のとおり描かれている(D図とD-1図)。

土佐光吉・澪標一.jpg

D図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html
土佐光吉・澪標二.jpg

D-1図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵(D図第二扇上部部分拡大)

 この右から二番目の髭の生やした人物(堺衆=光吉が密かに自己の分身を潜ませている?)が、B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)の、中央に描かれている、髭を生やした「常陸守」と連動しているものと解したい。
空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物が空蝉の夫の「常陸守」で、その左脇に立っている女性が「空蝉」とすると、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」の中に、「光源氏」も密かに潜ませているのではなかろうか?

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 「光源氏」は、『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文からして、この「牛車」に乗っているというのが、この図柄からして常識的な見方であろう。しかし、「D-1図 土佐派『澪標図屏風』D図第二扇上部部分拡大」の、当時の「安土桃山時代の装束で描かれた堺衆の四人の人物」の一人に、「光吉が密かに自己の分身を潜ませている」とも思われる「光吉マジック・光吉ファンタジー」を考慮すると、「光源氏」は、この第二扇に描かれて「牛車」には乗っていないで、第一扇に描かれて乗馬している人物が「光源氏」なのではなかろうか?

光吉・光源氏.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 こういう高級の馬具(轡・面繋・胸繋・尻繋など)を装った白馬に乗馬出来る人物は、上記の登場人物では、「光源氏」(源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿)が最も相応しいであろう。
 そして、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」に仕掛けた、土佐光吉の「光吉マジック・光吉ファンタジー」の最も顕著なものは、この第二扇の「牛車」に乗った「光源氏」ではなく、第一扇の「乗馬」の「光源氏」にあると解したい。

土佐光吉・源氏物語図屏風右.jpg

B-A図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 ここで、このB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、上記のB-A図「源氏物語図屏風」右隻「御幸・浮舟図屏風」と対の「四曲一双」の屏風なのである。そして、ここにも、三頭の「乗馬」した人物が描かれている。
 ここらへんについては、次回で触れることにする。ここでは、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇に描かれた髭を生やした人物は「常陸守」(紀伊介)であることは、少なくとも、この「関屋図」のコラボ作品に携わった「宗達と光広」との共同認識であったということは、推測というよりも事実に近いものと解したい。

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 そして、この第四扇に描かれている「童随身」の一人「(河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―四』)は、「常陸守」が恭しく応対していることからして、「夕霧=大殿腹の若君」(大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―五』)と、これまた、「宗達と光広」との共同認識であったと解したい。
 ここで、下記のアドレスの、「シテ=常陸守、ワキ=童随身の一人、ツレ=光源氏の従者」は、「シテ=夕霧、ワキ=常陸守、シテツレ=光源氏の従者」と、シテとワキとの人物を逆転させることになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-22

【一 B図の第四扇に描かれている立姿勢の「関守?」が、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)となり、その座している「常陸守?」が、「光源氏と空蝉」との再会を「関守」(通行を差し止める役)するように描かれていて、これまた面白い。

二 B図の第二・三扇に描かれている「光源氏」の一行は、その牛車の牛が「前へ前へ」と進む姿勢のように「動的」なのに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は、その第一扇の「眠っている従者」のように「静的」な雰囲気で、これまた「対照的関係」で描こうとしてことを強調している。

三 B図の第二扇の「童」(勅旨により「光源氏」仕える「童随身」の一人)が、A図の第四扇に登場し、あたかも、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との「ワキ」を演ずるようで、極めて面白い。それを援護射撃するように、第二扇の「妻折傘」(貴人や高僧へ差し掛けるための傘)を持った従者だけが立ち姿勢で、それは、この第四扇の「童」に、その「妻折傘」をかざすためなら、これは、見事という以外にない。

四 B図の第三扇の「小君」(右衛門佐、「空蝉」の弟)が、A図の第二扇の「座して思案している公家(従者)?」と衣装が同じようで、そう解すると、上記の第四ストーリーの「第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)」よりも、『源氏物語』(第十六帖「関屋」)の登場人物からすると、スムースという印象で無くもない。

五 そして、《A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。》という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない。

六 さらに、A図の第六扇一面全部が空白であることは、「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)の背後に、B図の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」の牛車とその「空蝉」一行(下記「拡大図」)が待機していることを暗示していて、なおさら、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との、このA図の第四・五扇の場面が活きて来る。 】

 その上で、「光吉マジック・光吉ファンタジー」、そして、「宗達マジック・宗達ファンタジー」流に、この「A図の第四・五扇」に何かを潜ませているとすると、この「常陸守」には「宗達」自身のイメージを、そして、この「夕霧」には、正二位権大納言「烏丸光広」の嫡男「烏丸光賢(みつたか)」を潜ませているものと解したい。
 それは偏に、光吉の「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」に、光広の嫡男「烏丸光賢」が、その「詞」を添えているからに他ならない。

光吉・朝顔.jpg

土佐光吉画「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/2

光賢・朝顔.jpg

烏丸光賢詞「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/1

(参考)

遣水もいといたうむせびて池の氷もえもいはずすごきに童女下ろして雪まろばしせさせたまふ

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined20.3.html#paragraph3.2

第二十帖 朝顔
第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
第二段 夜の庭の雪まろばし
3.2.4
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ
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醍醐寺などでの宗達(その九・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その九 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten
【 『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。(以下、略) 】

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の二人の主要人物について、前回では、「【A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。】という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない」としている。そして、第五扇の人物は、「常陸守」、そして、第四扇の人物は、「童随身の一人」としたのだが、この「童随身の一人」は、『源氏物語』第十四帖「澪標」の「住吉社頭の盛儀」(14.15 住吉社頭の盛儀)の下記のところら出てくる「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の、「夕霧」(当時八歳)その人のように思えたのである。

(登場人物)

「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)

光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄)
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第五節)
  大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第二節)
良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第一節)
六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監も靫負になりて、ことごとしげなる随身具したる蔵人なり。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?) 

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 これは、上記のアドレスで紹介されている「再発見・戦国の絵師 土佐光吉」(堺市博物館特別展「土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師」図録より転載)で展示された作品の一つである。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

 上記B図の右端の「牛車」は、このC図の第三扇に描かれている「牛車」と何処となく雰囲気が酷似している。また、このB図の「光源氏」一行は、座している姿勢が多いのだが、A図の「光源氏」一行の「牛車」周辺の人物も、ほぼ座している姿勢で、これまた、酷似している。
 このB図の「光源氏」一行の中に、「夕霧・良清・右近将監」などが居るのかも知れない。そして、この中で「夕霧」は、第二扇に描かれている傘持ちの従者の前の緑色の衣装の童のようである。その童は、B図でも傘持ちの従者の前に緑色の衣装で描かれている。これが、A図の第四扇に描かれている供人を従えた緑色の衣装の童で、この童を「大殿腹の若君」、即ち、「夕霧」と見立てることは、許容範囲のうちに入るものと解したい。
 そして、特に、このB図の左端の上部(鳥居)の上の座している四人の人物に注目したい。その図を拡大すると、次のとおりである。

土佐光吉・澪標二.jpg

B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 このB図(拡大図)に関連して、上記のアドレスでは次のとおり紹介している。

【宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。
(注) 宇野=堺博物館・宇野千代子学芸員=チヨマジック・チヨファンタジー 】

 この四人の人物の主人公と思われる右の二人目の人物(堺衆=町衆?)が、何やら鼻の下と顎に髭をたくわえているようなのである。拡大すると次のとおりである。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

 この人物は、上記の対談中の「チヨマジック・チヨファンタジー」の「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ですると、「土佐派の工房」の主宰者「土佐光吉」その人と見立てることも出来るであろう。
 この土佐光吉((天文11年=一五三九~慶長十八年=一六一三)の経歴については、次の見解が、「チヨマジック・チヨファンタジー」に馴染んでくる。

【 土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地、証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。
】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この「光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され」たということを、「チヨマジック・チヨファンタジー」流に解すると、B図(拡大図)の四人は、「光吉と、光茂(土佐派本家・宮廷繪所預)の遺児・三人」ということになる。
 そして、この三人のうちの一人(旅装した女子?)が、狩野派宗家(中橋狩野家)六代の狩野
光信(七代永徳の長男)に嫁いでいるということになると、狩野派の最大の実力者と目されている狩野探幽(光信の弟・孝信の長男=鍛冶橋狩野家)は、光吉と甥との関係になり、その甥の一人の狩野安信(孝信の三男=探幽の弟)は、狩野派宗家を継ぎ、八代目を継承している。
 さらに、江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖の住吉如慶は、光吉の子とも門人ともいわれており、「チヨマジック・チヨファンタジー」を紹介している上記のアドレスでは、光吉を「近世絵画の礎になった光吉」というネーミングを呈しているが、安土桃山時代から江戸時代の移行期の「近世絵画の礎になった」最右翼の絵師であったことは、決して過大な評価でもなかろう。
 これを宗達関連、特に、その「関屋澪標図屏風」(C図と下記D図)に絞って場合には、全面的に、光吉一門(土佐派)の「澪標図屏風」(A図)と、同じく光吉一門(土佐派)の「源氏物語澪標図屏風」(下記のE図)とを下敷きにし、それを、宗達風にアレンジして、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の世界を現出していると指摘することも、これまた、な過誤のある指摘でもなかろう。

関屋図屏風一.jpg

D図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 この宗達の「関屋図屏風」(D図)の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」一行のうち、その第五扇に描かれている三人の従者などは、その座している姿勢などからして、B図の『澪標図屏風』(土佐派)の左端の上部に描かれている四人の堺衆(そして「光吉と光吉に託された師の三人の遺児」とも解せられる)をモデルにしていることは、その描かれている位置関係などからして、そう解して差し支えなかろう。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

土佐派・澪標図屏風.jpg

E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」(大倉集古館蔵)
https://www.shukokan.org/collection/#link01

 宗達の「澪標図屏風」(C図)の第五・六扇に描かれている住吉大社の「鳥居」と「太鼓橋」は、これまた、E図の第五・六扇をモデルにしていることも明らかであろう。同様に、このE図の第一扇に描かれている「牛車」は、C図の第五扇の「牛車」、同じく、E図の第一・二扇の「屋形船」は、E図の「帆掛け船」をアレンジしたものであろう。
 それよりも、C図とE図とを比較して、最大のアレンジ(改変)は、B図の主題である「光源氏」(束帯姿の長い裾=官位の高い象徴、それを後ろで持つ童を従えっている)の姿が、宗達のC図では「牛車」の中に閉じ込められて、姿を消していることである。これは、「改変」を意味する「宗達マジック」というよりも、「改変+想像+創造」の世界の「宗達ファンタジー」の世界に近いものであろう。
 もとより、創作の世界において、「モデル(制作の対象とする人や物)」をどのように「改変(マジック)」して、自己流の世界(ファンタスティックな世界)を築くかというのは、創作家なら誰しも、その実践を日々続けていることは言うまでもない。 
 しかし、この宗達のように、この「モデル」の主人公を抹殺して、そして、この主人公を別な形で再生させるという、こういう手の込んだ操作は、なかなか目にしない。
 例えば、同じ土佐派(土佐光吉とその一門)による、「B図 土佐派『澪標図屏風』」と「E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」」と比較すると、これらのことは明瞭になっている。

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵

 このB図の「光源氏」の住吉社参詣という主題は、どちらも「光源氏」を中心にして、その他は、全て、それを如何に効果的に盛り上げるかという副次的な脇役ということになる。しかし、仔細に見て行くと、さまざまな「改変」が為されている。
 例えば、B図の前景(下部)の、前駆(行列の先導)の者などが乗馬した「馬」や座す姿勢の従者は、A図では全てカットされている。また、B図は、その前景(下部)から中景(中央)にかけて、「光源氏」参詣一行は動いているのに対して、A図は、第一扇の中央の「牛車」から水平に「右から横へ」と「光源氏」参詣一行は動いている。そして、第五扇の「鳥居」から上部に描けて、「光源氏」参詣一行を見物する「堺衆」などの人達が描かれている。
 E図では、これらの見物人は全てカットされ、その代わりに、「鳥居」の先に、住吉社の「太鼓橋」などが描かれている。
 ここで、注目しなければならないことは、このB図の「鳥居」の上に描かれている四人の見物人(B図(拡大図)=安土桃山時代の装束で描かれた人々)が、宗達の「D図 関屋図」
の第五・六扇の「空蝉一行」とドッキングすると、この第五・六扇の「空蝉一行」の中に、
B図(拡大図)の四人のうちの一人、髭を生やした人物(B図《(拡大図=人物拡大図)》)が居て、その「髭を生やした人物」は、空蝉の夫の「常陸守」と見立てることは、先に許容範囲の内としたが、もはや、これは動かし難いものと解したい。
 そして、この「髭を生やした人物=常陸守」(B図《(拡大図=人物拡大図)》)を「常陸守」とすると、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇の人物も、空蝉の夫の「常陸守」ということは、動かし難いものと解したい。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の第五扇の束帯姿の座している髭を生やした人物を「常陸守」とすると、この「常陸守」が恭しく座して応対している、第四扇の「童」らしき人物は誰か?
 この第四扇の「童」らしき人物は、冒頭に戻って、《「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の「夕霧」(当時八歳)なのかも知れない》とすると、こうなると、この・「宗達ファンタジー」は、新たなるステージの上に立つということになる。

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