SSブログ

源氏物語画帖「その十九・薄雲」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   源氏31歳冬-32歳秋

薄雲・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 薄雲  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575866/2

薄雲・光賢吉.jpg

源氏物語絵色紙帖   薄雲  詞・烏丸光賢
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575866/1

(「烏丸光賢」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/20/%E8%96%84%E9%9B%B2_%E3%81%86%E3%81%99%E3%81%90%E3%82%82%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91

漁(いさ)りせし影忘られぬ篝火は/身の浮舟や慕ひ来にけむ
(第五章 光る源氏の物語 第五段 源氏、大堰の明石を訪う)

5.5.7  漁(いさ)りせし影忘られぬ篝火は/ 身の浮舟や慕ひ来にけむ
(あの明石の浦の漁り火が思い出されますのは/わが身の憂さを追ってここまでやって来たのでしょうか )

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十九帖 薄雲
 第一章 明石の物語 母子の雪の別れ
  第一段 明石、姫君の養女問題に苦慮する
  第二段 尼君、姫君を養女に出すことを勧める
  第三段 明石と乳母、和歌を唱和
 第四段 明石の母子の雪の別れ
 第五段 姫君、二条院へ到着
  第六段 歳末の大堰の明石
 第二章  源氏の女君たちの物語 新春の女君たちの生活
  第一段 東の院の花散里
  第二段 源氏、大堰山荘訪問を思いつく
  第三段 源氏、大堰山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る
 第三章 藤壺の物語 藤壺女院の崩御
  第一段 太政大臣薨去と天変地異
  第二段 藤壺入道宮の病臥
  第三段 藤壺入道宮の崩御
  第四段 源氏、藤壺を哀悼
 第四章 冷泉帝の物語 出生の秘密と譲位ほのめかし
  第一段 夜居僧都、帝に密奏
  第二段 冷泉帝、出生の秘密を知る
  第三段 帝、譲位の考えを漏らす
  第四段 帝、源氏への譲位を思う
  第五段 源氏、帝の意向を峻絶
 第五章 光る源氏の物語 春秋優劣論と六条院造営の計画
  第一段 斎宮女御、二条院に里下がり
  第二段 源氏、女御と往時を語る
  第三段 女御に春秋の好みを問う
  第四段 源氏、紫の君と語らう
  第五段 源氏、大堰の明石を訪う
(「烏丸光賢」書の「詞」) →  5.5.7

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2891

源氏物語と「薄雲」(川村清夫稿)

【 光源氏は、幼時に亡くした母の桐壷更衣によく似た藤壷女御と密通して、冷泉帝が生まれた。紅葉賀の帖では冷泉帝の誕生に、光源氏も藤壷女御も罪悪感にさいなまれる。公には冷泉帝の父は桐壷帝ということにされ、出生の真実は秘密にされてきた。薄雲の帖では、頭中将と葵上の父である致仕の大臣(ちじのおとど、元太政大臣)が逝去した後、藤壷女御も37歳の若さで崩御して、光源氏は悲嘆にくれる。女御の葬儀が済んだ後になって、女御の信任の厚い加持僧だった年老いた僧都が、冷泉帝に出生の秘密を告白するのである。僧都の台詞を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「これは来し方行く先の大事とはべることを、過ぎおはしましにし院(桐壷帝)、后の宮(女御)、ただ今世をまつりごちたまふ大臣(光源氏)の御ため、すべて、かへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ。かかる老法師の身には、たとひ愁へはべりとも、何の悔かはべらむ。仏天の告げあるによりて奏しはべるなり。わが君はらまれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて、御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし。詳しくは法師の心にえ悟りはべらず。」

(渋谷現代語訳)
「これは、過去来世にわたる重大事でございますが、お隠れあそばしました院、后の宮、現在政治をお執りになっている大臣の御ために、すべて、かえってよくないこととして漏れ出すことがありはしまいか。このような老法師の身には、たとい災いがありましょうとも、何の悔いもありません。仏天のお告げがあることによって申し上げるのでございます。わが君がご胎内にいらっしゃった時から、故宮には深くご悲嘆なられることがあって、ご祈祷をおさせになる仔細がございました。詳しいことは法師の心には理解できません。」

(ウェイリー英訳)
“The matter of which I speak is one that has had grave results already and may possibly in the future entail worse consequences still. The reputations concerned are those of your late august mother and of someone who now holds a prominent place in the government of our country… it is to Prince Genji that I refer. It is for their sake, and lest some distorted account of the affair should ultimately reach you from other sources, that I have undertaken this painful task. I am an old man and a priest; I therefore have little to lose and, even should this revelation win me your displeasure, I shall never repent of having made it; for Buddha and the Gods of Heaven showed me by unmistakable signs that it was my duty to speak. You must know, then, that from the time of Your Majesty’s conception the late Empress your mother was in evident distress concerning the prospect of your birth. She told me indeed that there were reasons which made the expected child particularly in need of my prayers; but what these reasons were she did not say; so I, being without experience in such matters, could form no conjecture.“

(サイデンステッカー英訳)
“The matter is one which can project its unhappy influence into the future. Silence is damaging for everyone concerned. I have reference to the late emperor, to your late mother, and to the Genji minister. I am old and of no account, and shall have no regrets if I am punished for the revelation. I humbly reveal to you what was first revealed to me through the Blessed One himself. There were matters that deeply upset your mother while she was carrying you within her. The details were rather beyond the grasp of a simple priest like myself.”

 ここでもウェイリー訳は冗長で、サイデンステッカー訳は簡潔である。「過ぎおはしましにし院、后の宮、ただ今世をまつりごちたまふ大臣の御ため」を、ウェイリー訳はThe reputations concerned are those of your late august mother and of someone who now hold a prominent place in the government of our country…it is to Prince Genji that I refer.と、院を抜かした上に心理描写が強く冗長だが、サイデンステッカー訳はI have reference to the late emperor, to your late mother, and to the Genji minister.と、無味乾燥なくらい簡潔である。
「わが君はらまれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて」を、ウェイリー訳はYou must know, then, that from the time of Your Majesty’s conception the late Empress your mother was in a evident distress concerning the prospect of your birth.とくどいが、サイデンステッカー訳はThere were matters that deeply upset your mother while she was carrying you within her.と単純そのものである。ただしサイデンステッカーは「すべて、かへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ」と「御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし」を訳していない。「仏天」をウェイリーはBuddha and the Godsと直訳したが、サイデンステッカーはthe Blessed Oneと一神教的に訳している。

 一度臣籍に下った元皇族が皇族に戻って帝位についた例は、少数だが存在する。菅原道真のパトロンとして藤原氏と対立した宇多天皇は、即位前に3年間臣籍に下って源定省(さだみ)と名乗っていた。その皇子で、摂政や関白を置かない天皇親政「延喜の治」を行った醍醐天皇も、源維城(これざね)と名乗っていたのである。出生の真実を知った冷泉帝は、実父である光源氏に譲位しようとした。光源氏は、実の親子であることを知られたとは気付かなかったが、即座に辞退した。光源氏はこの後の若菜の帖で、正妻として迎えた朱雀帝の皇女の女三宮が頭中将の息子の柏木と密通して薫が生まれ、藤壷女御との密通の因果応報を思い知ることになるのである。   】

(「三藐院ファンタジー」その十)

 「源氏物語画帖」の「詞書」の執筆者の二十三名のうち、一番若い執筆者は、この「烏山光賢」(一六〇〇~一六三八)で、この画帖の企画者とも目されている近衛信伊(一五六五~一六一四)が亡くなった時には、いまだ、十四・五歳の頃である。
 しかし、この光賢の書は、いかに、能筆家として名高い「烏丸光弘」の嫡子の書としても、例えば、一歳年上の「近衛信尋」(一五九九〜一六四九)の、その「須磨・蓬生」のなどに比して、どうにも手慣れた書という印象を拭えない。
 ここで、この「源氏物語画帖」の「詞書」の裏面に書かれている、その注記の官位名が、「元和三年時点での官位によって占められており、わずかに西園寺実晴・冷泉為頼・花山院定熈らが元和五年時点になっていることに気が付く。そして、この点からは次のような可能性が浮かび上がってくる。つまり、現在ある注記は一筆であることから、元和五年以降に  すべて同時に書かれたものであることはまちがいない。しかし、それを記すにあたっては、すでに元和三年時点で作られていた筆者目録が存在しており、元和五年の筆者名はその目録を参考にして書かれてのではないか、という可能性である。」(『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)
 この「光賢」の「裏書注記」は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)七月の四年間で、その七月以降に「左中弁」に昇進する。
 この「源氏物語画帖」の「詞書」の執筆者のうち若手のトリオは次の三人である。
 
  近衛信尋(一五九九~一六四九)
  烏丸光賢(一六〇〇~ら一六三九)
  西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)

 この「烏丸光賢・西園寺実晴」が生まれた「慶長五年」(一六〇〇)九月十五日が、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、その決戦の二日前に籠城していた「丹後田辺城」から「後陽成天皇の勅命により退城の講和が成った」、当時唯一の二条派正統の古今伝授の伝承者である「細川幽斎」(本名=藤孝、別姓=長岡)に連なる正室を、「烏丸光賢=幽斎の嫡男『忠興』の娘(万)」、そして、「西園寺実晴=幽斎の嫡男『忠興』の嫡男『忠隆』の娘(徳姫)」を迎えている。
 ここで、下記のアドレスにより、「烏丸光賢」の「書状」と、その紹介記事を紹介して置きたい。

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/481

光賢書状.jpg

【 烏丸光賢〈からすまるみつかた・1600-38〉は光広〈みつひろ・1579-1638〉の嫡男。細川忠興とガラシャ夫人との間に所生したむすめを室に迎えた。その兄が細川忠利〈ほそかわただとし・1586-1641〉である。累進して、寛永7年〈1630〉31歳で正三位・権中納言に至った。この手紙は、宛名に「細川越州様」とあるので、越後守に任じた細川忠利にさし出したもの。つまり、光賢夫人の兄にあてた手紙である。文面によれば、薫衣香(くんえこう)を調合して忠利に贈るに際して添えた手紙と知る。また、「息女、産後により、今に飛鳥井の所に伴きて存じ申し候ゆえ」とあるのは、二女(長女は忠利の嫡男光尚に嫁す)が飛鳥井雅章に嫁ぎ、その出産が臨月に迫っていることを報じている。これらの内部徴証からは、この手紙の年代を正確に判定することはできない。しかしながら、円熟した父親光広ゆずりの自由奔放な書きぶりから、30代半ばすぎの執筆と推定。潤渇こもごも、流れるような筆の速さが颯爽美を見せている。「此の薫衣香共、調合仕り候間、進上致し候。何かと致し御見廻、遅々、所存の外、存じ有るべく候。息女産後により、今に飛鳥井の所に伴きて存じ申し候ゆえ、弥、参上延引仕り候。尚、御産の日、申し上ぐべく候。恐々謹言。五月二十五日光賢/細川越州守様人々烏丸中納言光賢」  】

 この紹介記事の「細川忠興とガラシャ夫人との間に所生したむすめ」は、「ガラシャ夫人」ではなく、「側室:小也(明智光忠女)」なのかも知れない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

 さらに、ここで、「西園寺実晴」の書状も、下記のアドレスのものを紹介して置きたい。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi06/chi06_04714/chi06_04714_0033/chi06_04714_0033_p0001.jpg

西園寺実晴・書状.jpg

(追記) 「細川幽斎」周辺

【 《細川 幽斎 ・細川 忠興 ・細川 忠隆》

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい) / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は万吉(まんきち)。元服して藤孝を名乗る。雅号は幽斎。法名を玄旨という。

初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。】

天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信(義定)の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信と共に出陣。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、軍事力的劣勢に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。

幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。

忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前国小倉藩39万9000石の大封を得た。この後、長岡氏は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

細川 忠興(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。

足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人の細川 三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。

天正10年(1582年)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変後、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子は信長の喪に服す事を表明し剃髪することで、これを拒否した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、天正13年(1585年)には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年(1599年)には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。

同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増され、城代として重臣の松井康之・有吉立行を置いた。これにより、都合18万石の大名となった。

(関ヶ原の戦い)

徳川家康からの「味方につけば丹後の隣国である但馬一国(10万石)を進ぜよう」という言を受け慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。

このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。

大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒み、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。護衛であったはずの稲富祐直は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。忠興は後に追討をかけるが家康が家来として召し抱えたため断念した。また、この事件に際して忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。

また、弟の幸隆と父の幽斎は忠興の留守をよく守り、丹後田辺城に籠城したが(田辺城の戦い)、後陽成天皇からの勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入った。豊後国では飛び地の杵築の杵築城が旧領主(元豊後国主)である大友吉統に攻撃されたが、松井康之と有吉立行が防戦に尽くし、やがて救援に駆けつけた黒田如水により石垣原の戦いで吉統は打ち破られた。一方、松井康之の居城である久美浜城の留守を守っていた忠興のかつての養父・細川輝経は西軍の誘いを受けて久美浜城を占拠したが、合戦後に康之から問い詰められて自害したという。

慶長16年(1611年)3月24日、伏見城の徳川家康のもとへ祗候するために上洛をした時に病に倒れた。この時、忠興に癪の持病があることを知っていた家康は、本多正純を通して漢方薬の万病円を忠興に遣わしており、快復した忠興がその日のうちに家康のもとに祗候し、礼を述べている。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも参戦する。戦後、松平の苗字の下賜を辞退する[15]。元和6年(1620年)、病気のため、三男の忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と名乗った。

忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが、正保2年(1645年)閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため、叶わなかった。臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%9A%86

細川 忠隆(ほそかわ ただたか)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。細川忠興の長男。官位は従四位下・侍従。天正15年(1587年)、羽柴名字であったことが確認される。
慶長9年(1604年)の廃嫡後は長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号した。

文武に優れ、祖父・細川幽斎にも可愛がられていた。慶長4年(1599年)に幽斎が烏丸光広や中院通勝らを招いて天橋立見物の歌会をした際にも加わり、忠隆が詠んだ和歌短冊が丹後国の智恩寺に現存する。

(廃嫡事件)

慶長5年(1600年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫った。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決したが、忠隆正室の千世は姉・豪姫の指図で隣の宇喜多屋敷に逃れた。

忠隆は剃髪して長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居した。なお、熊千代は同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺に葬られている。

廃嫡後の休無の京都での生活は、6,000石の自領を持ち京都に隠居在住していた祖父・幽斎が支えた。また、幽斎の死後に遺領6,000石を整理した際に、休無に対して細川家からの隠居料として扶持米3,000石が支給されるようになり、経済的に安定した。

(忠興との和解)

寛永9年(1632年)に肥後熊本藩に移った忠興は、寛永19年(1642年)に休無を居城の八代城に招いて正式和解し、八代領6万石を与えるので熊本で住むように申し付けたが、休無は固辞して京都に帰った。

正保3年(1646年)に京都で死去、享年67。死去にあたり、忠恒と忠春に計2,000石分、徳(西園寺家御台所)やそのほかの娘たちにも計1,000石分の隠居料相続を遺言し、実行された。 】

nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

源氏物語画帖(その十八・松風」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三)    源氏31歳秋

光吉・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

詞曼殊院良恕・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 詞 曼殊院(竹内)良恕 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/19/%E6%9D%BE%E9%A2%A8_%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%9C%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96%E3%80%91

(「竹内(曼殊院)書の「詞」)

大御酒あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(第三章 明石の物語 桂院での饗宴 第二段 桂院に到着、饗宴始まる)

3.2.7 (野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞(つと)にして参れり。)大御酒(おほみき)あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(訳:野原に夜明かしした公達(殿上役人)は、小鳥を体裁ばかり(しるしだけ)に付けた荻の枝など、土産にして参上した。お杯が何度も廻って、川の近くなので危なっかしいので、酔いに紛れて一日お過ごしになった。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十八帖 松風
 第一章 明石の物語 上洛と老夫婦の別れの秋
  第一段 二条東院の完成、明石に上洛を促す
  第二段 明石方、大堰の山荘を修理
  第三段 惟光を大堰に派遣
  第四段 腹心の家来を明石に派遣
  第五段 老夫婦、父娘の別れの歌
  第六段 明石入道の別離の詞
  第七段 明石一行の上洛
 第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会
  第一段 大堰山荘での生活始まる
  第二段 大堰山荘訪問の暇乞い
  第三段 源氏と明石の再会
  第四段 源氏、大堰山荘で寛ぐ
  第五段 嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊
 第三章 明石の物語 桂院での饗宴
  第一段 大堰山荘を出て桂院に向かう
  第二段 桂院に到着、饗宴始まる
(「竹内(曼殊院)書の「詞」)→ 3.2.7 
  第三段 饗宴の最中に勅使来訪
 第四章 紫の君の物語 嫉妬と姫君への関心
  第一段 二条院に帰邸
  第二段 源氏、紫の君に姫君を養女とする件を相談

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2874

源氏物語と「松風」(川本清夫稿)

【光源氏は「賢木」の帖で朧月夜との密会を政敵に発見され、勅勘の身となり都を離れたが、「明石」の帖で明石入道から歓待され、明石上を紹介され娘(後の明石中宮)をもうけた。孫娘の立身出世を願う入道は、都へ帰って権勢を取り戻した光源氏のもとに、妻の尼君、明石上と共に移住させることにした。ここで明石入道は明石上に、花嫁の父らしい別離の挨拶を述べる。近衛中将だったが受領階級である播磨守になり下がったことをひがむ節もある長文の台詞なので、主要部を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「世の中を捨てはじめしに、かかる人の国に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもやと、思ひたまへ立ちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかば、さらに、都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、貧しき家の蓬葎、元のありさま改むることもなきものから、…君のやうやう大人びたまひ、もの思ほし知るべきに添へては、など、かう口惜しき世界にて錦を隠しきこゆらむと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりはべりしままに、…思ひ寄りがたくて、うれしきことどもを見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむも、いとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心惑ひは、静めがたけれど、この身は長く世を捨てし心はべり。」

(渋谷現代語訳)
「世の中を捨てた当初に、このような見知らぬ国に決意して下って来ましたことども、ただあなたの御ためにと、思いどおりに朝晩のお世話も満足にできようかと、決心致したのですが、わが身の不運な身分が思い知らされることが多かったので、絶対に、都に帰って古受領の落ちぶれた類となって、貧しい家の蓬や葎の様子が、元の状態に改まることもないものから、…あなたがだんだんご成長なさり、物ごとが分かってくるようになると、どうして、こんなつまらない田舎に錦をお隠し申しておくのかと、親の心の闇の晴れる間もなくずっと嘆いておりましたが、…思いがけなく、嬉しいことを拝見しましてこのかたも、かえって身の程を、あれこれと悲しく嘆いていましたが、若君がこのようにお生まれになったご因縁の頼もしさに、このような海辺で月日を送っていらっしゃるのも、たいそうもったいなく、宿縁も格別に存じられますので、お目にかかれない悲しさは、鎮めがたい気がするが、わが身は永遠に世を捨てた覚悟がございます。」

(ウェイリー英訳)
“When I first put worldly ambitions aside,” said the old man, “and contented myself with a mere provincial post, I made up my mind that, come what might, you, my dear daughter, should not suffer from my having sacrificed my own prospects; and how best, despite the remoteness of our home, to fit you for the station of life to which you properly belonged became my one thought and care. But my experience as Governor taught me much; I realized my incapacity for public affairs, and knew that if I returned to the City it would only be to play the wretched part of ex-Governor. My resources were much diminished and were I to set up house again at the Capital it would be on a very different scale from before… But you were now growing up and your future had to be thought of. How could I allow you to waste your beauty in this far corner of the earth like a brocade that is never taken from the drawer?... And what indeed could have been more utterly unforeseen than the circumstances which at last brought so distinguished a guest to our home? In this I could not but see the hand of Heaven, and my only anxiety was lest too great an inequality of rank should divide you. But since the birth of this child, that fear has not so much troubled me, for I feel that your union is fated to be a lasting one. A child of Royal Blood cannot, we must allow, pass all its days in a village by the sea, and though this parting costs me dear I am determined never again to tamper with the world that I have renounced.”

(サイデンステッカー英訳)
”When I gave up the world and settled into this life, it was my chief hope that I might see to your needs as you deserved. Aware that I had not been born under the best of stars, I knew that going back to the city as another defeated provincial governor I would not have the means to put my hut in order and clear the weeds from my garden… But then you grew up and began to see what was going on around you, and in the darkness that is the father’s heart I was not for one moment free from a painful question: why was I hiding my most precious brocade in a wild corner of the provinces?... Then came that happy and unexpected event, which had the perverse effect of emphasizing our low place in life. Determined to believe in the bond of which our little one here is evidence, I could see too well what a waste it would be to have you spend your days on this seacoast. The fact that she seems meant for remarkable things makes all the more painful the need to send her away. No, enough, I have left it all. “

 ウェイリー訳は説明調で冗長で、サイデンステッカー訳は要領を得てこなれており口語調である。明石上を意味する「錦」は両訳ともbrocadeと訳している。「若君」は孫娘のことで、ウェイリーはthis child、a child of Royal Blood、サイデンステッカーはour little oneと訳している。「御宿世」をウェイリーはthe hand of Heaven、サイデンステッカーはthe bondと訳している。
 光源氏は明石上一行との再会を喜び、孫娘を貴婦人にするべく、その養育を紫上にまかせ、紫上は快諾するのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その九)

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねるが、その下記の皇族のうち、「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」だけ、「詞書」を書いていない。

※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(誠仁親王の弟・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)

 この「興意法親王」について、「朝日日本歴史人物事典」では、次のとおり解説されている。

http://kotobank.jp/word/%E8%88%88%E6%84%8F%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B

【興意法親王(こういほっしんのう)
生年:天正4.10.12(1576.11.2)
没年:元和6.10.7(1620.11.1)
安土桃山・江戸前期の皇族。誠仁親王の第5王子,母は新上東門院晴子(勧修寺晴右の娘)。初め円満院へ入るが,天正19(1591)年1月聖護院へ入り,道勝と名乗る。慶長13(1608)年12月興意と改名する。同15年3月三井寺長吏となり,同18年11月二品に叙せられる。同19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に,書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居した。元和2(1616)年聖護院寺務および三井寺長吏を退いた。嫌疑が晴れたのち白川に照高院を移し,ここへ入った。同6年9月江戸へ下向,滞在中急死した。(藤田恒春) 】

興意法親王は、近衛信尹の『三藐院記」などでは、「聖護院殿」とかで出て来るが、近衛家では、殊に、信尹の父(前久)の弟の「道澄(1544- 1608)」(京都聖護院門跡。関白太政大臣近衛稙家の子。照高院、浄満寺宮と号した)と関係の深い人物である。

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%85%A7%E9%AB%98%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80

【(照高院)
1道澄(1544-1608):近衛稙家の子。聖護院門跡。園城寺長吏。熊野三山検校。方広寺住職。
2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620):誠仁親王(陽光院)の第5王子。聖護院門跡。園城寺長吏。江戸で客死。興意親王墓(東京都港区)。聖護院宮地蔵谷墓地に塔。 】

初代の「照高院(宮)」が「道澄」(近衛信尹の叔父)で、二代が「興意法親王」である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E8%AD%B7%E9%99%A2

【(聖護院門跡)
31 道澄(1544-1608)(近衛稙家子)
32 義観(足利義教子)
33 興意法親王(1576-1620)(誠仁親王皇子 ) 】

三十一代の「聖護院門跡」が「道澄」(近衛信尹の叔父)で、三十三代が「興意法親王」である。

 この「道澄」と「興意法親王」(「道勝」)との「笑話」が、陽明文庫所蔵の三藐院近衛信尹筆「笑話書留」の一つとして、今に残っている。

【⑪ 一、三井寺ニ浄光院トいうものあり、それが、聖護院殿の源氏ノ外題かき給ふ、そのなかに、きりつぼ(線で墨滅している箇所)、はゝき木(線で墨滅している箇所)、ほたる、とこなつ、かゞり火などのあたりをみて、「うたひの本の外題か」と尋申ければ、道澄准后、「よく心をしづめて見よ」と仰ありければ、「げにもそこつを申たり。古今にて候ものを」といへりけるとなむ。 】(「国語国文 第八十三巻第十号―九六二号―」所収「三藐院近衛信尹筆『笑話書留』について―近世初期堂上歌壇と笑話―(大谷俊太稿)」p2-p3)

ここに出てくる「聖護院殿」が「興意法親王」で、「道澄准后」が「道澄」である。

【⑪話は、聖護院殿道勝(興意法親王)が、おそらくは寄合書き(数人が合作で一つの書画をかくこと。また、その書画)の『源氏物語』の外題五十四帖分を頼まれて、書いた題簽の墨を乾かすのに並べていた。そこにやってきた三井寺の浄光院が見て、謡本の外題かと尋ねる。同座していた道澄が「よく落ち着いて見よ」と忠告したところ、浄光院は、こともあろうか、「私としたことがうっかりしていました。古今集でした」と答え、源氏物語はもちろん、謡曲も、古今集すらも知らないことが露顕してしまったという話。浄光院なる者が墓穴を掘った話である。 】(「国語国文 第八十三巻第十号―九六二号―」所収「三藐院近衛信尹筆『笑話書留』について―近世初期堂上歌壇と笑話―(大谷俊太稿)」p7-p8)

この信尹の「笑話」は、いろいろなことを暗示し、示唆を与えてくれる。

一 「信尹」と「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」と「道澄准后=道澄=聖護院(31世)=照高院(2世)」とは、親しい仲で、この「笑話」では実名で出てくる(もう一人の「浄光院」は、フィクション上の「捩りの人物」である)。

二 「興意法親王」は、「源氏ノ外題かき給ふ」と、『源氏物語』などに精通し、この種の
「寄合書き」(数人が合作で一つの書画をかくこと。また、その書画)の常連の一人なのである。その「興意法親王」が、何故に、親交の深い「信尹」が深く関与するとされている『源氏物語画帖』に、「後陽成天皇」の生存する兄弟の親王(空性法親王・良恕法親王・智仁親王)が皆参画しているのに、唯一、その名が見られないということは、どうしたことなのであろうか。

三 その理由は、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に,書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居した。元和2(1616)年聖護院寺務および三井寺長吏を退いた」(上記の「朝日日本歴史人物事典」)と深く関わっているのではなかろうか。

四 そもそも、この「方広寺鐘銘事件」の「方広寺」の初代の住職は、「道澄」(照高院1世)で、「道澄」が、慶長十三年(一六〇八)に亡くなり、その後を継いだのが「道勝」(照高院2世=興意法親王)なのである。

五 ここで、大事なことは、「方広寺鐘銘事件」というのは、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文」に起因するもので、この慶長十九年(一六一四)十一月十四日に、「源氏物語画帖」の企画者とも目されている「近衛信尹」は、その五十年の生涯を閉じている。

六 すなわち、「信尹」は、養子(近衛家の「婿」)の「信尋」(後陽成天皇の「皇子」)と愛娘「太郎(君)」とに関わる「吉事」の、この「源氏物語画帖」の制作に、その「吉事」の「源氏物語画帖」に汚点を残すことも思料される、勃発している「方広寺鐘銘事件」(豊臣家滅亡となる「大阪冬の陣・夏の陣」の切っ掛けとなる事件)の、その「方広寺」のトップの位置にある「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」の名は、どういう形にしろ、留められるべき環境下ではなかったのであろう。

七 その「興意法親王」は、元和二年(一六一六)に「聖護院寺務および三井寺長吏」も退き、嫌疑が晴れて、洛東白川村に「照高院」を再興(幕府より所領千石が付与)できたのは、元和五年(一六一九)、そして、その翌年(元和六年九月)その再興の御礼に「江戸へ下向し、その滞在中に客死する(享年四十五)」という、後陽成天皇の兄弟中では、その後半生は多難の生涯であったことであろう(別記一)。

八 そもそも、「道澄」(照高院1世)、そして、「道勝」(照高院2世=興意法親王)が門跡となった「方広寺」は、「豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な『方広寺鐘銘事件』が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまう」(別記二)という、誠に、「豊臣家の滅亡」を象徴するような数奇な背景を漂わせている。この「方広寺」は、「道勝」(興意法親王)の後、その叔父の「妙法院常胤法親王」の管轄下の寺院となり、今に続いている。この「妙法院常胤法親王」(一五四八~一六二一)は、「源氏物語画帖」の「初音・胡蝶」の「詞書」を書いている。

九 ここで、「源氏物語画帖」の「詞書の執筆時期」について、「慶長十九年以前より始まった詞書の作成は、元和三年頃になってようやく一応の完成を見ることとなり、その時点でまず最初の執筆者目録が作られた。以後も詞書は作り続けられ、最終的にそれが完成を見たのは元和五年頃ではなかったか」(『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)と、大筋一致するように思われてくる(別記三)。

十 最後に、この「第十八帖 松風」と八条宮智仁親王が元和元年(一六一五)の頃に造営を着手したとされる「桂離宮」などとの関連、そして、この「源氏物語画帖」の「信尹・信尋・太郎(君)」の「詞書」の書との関連などについては、下記のアドレスで触れている(その一部も、下記の「追記四」に再掲をして置きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

(追記一)

https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa044.html

【 照高院宮址
照高院は,豊臣秀吉(1536~98)の信任厚い天台僧道澄が開基した寺で,もと東山妙法院にあったが,方広寺鐘銘事件(1614)に関連して廃された。元和5(1619)年後陽成天皇の弟興意法親王(1576~1620)が,伏見城の建物を譲り受け,現北白川外山町付近に再建した。その後,聖護院門主の退隠所となる。明治に入り門主智成法親王(1856~72)は還俗して北白川宮と称し,宮家の東京移転に伴い堂舎は取り壊された。この石標は照高院宮を記念するものである。

碑 文
[甲碑西]
三品智成親王書
事君不忠非孝也
[甲碑東]
明治四十二年五月建之
旧臣近藤親正建之
[乙碑西]
照高院宮址
[乙碑東]
照高院宮者本居御門跡之一文禄之初豊太閤秀吉創建堂宇
于洛東大仏乃迎准三宮聖護院道澄大僧正為法主焉寺領一
万石此為照高院起源慶長三年法主嘆恐三井寺将垂断滅頒
附領地四千三百二十七石餘以再興之及元和元年適有大仏
梵鐘之変事連照高院因被褫寺領壊堂宇後五年当法主興意
法親王時更請幕府卜寺域于洛東白川邨幕府聴附寺領一千
石堂宇諸殿復新建設属天台宗用菊章雪輪焉爾来経道周道
晃道尊忠誉四法主法親王至明和七年為聖護院御門跡兼帯
寺於是寺領其他一切為聖門所支配従此殆一百年間不復置
法主明治元年以聖護院宮御法弟智成親王為照高院主同時
復飾三年改称北白川宮五年親王薨御実兄能久親王為嗣尋
移于東京而堂宇諸殿為撤壊実係八年乙亥夏事云
明治三十五年六月 正八位巌本範治撰 合川澄水書
[乙碑南]
距此東南本村字宮山字丸山間凡若干坪是為旧宮地域其外
郭石垣及古池今尚存焉
元照高院宮坊官北白川宮旧臣士族近藤親正謹建之
彫工 吉村市郎兵衛
(照高院宮址 碑文の大意(乙碑))
 照高院宮はもとは御門跡の一家であった。文禄年間(1592~96)の初め,豊臣秀吉によって洛東に創建され,聖護院道澄大僧正を迎えて門跡住職とした。寺の所領は一万石。これが照高院の起源である。
 慶長3(1598)年,法主は三井寺がまさに断絶しようとしたのを心配し,領地4,327石餘を分け与え再興させた。元和元(1615)年,照高院宮は方広寺鐘銘事件に連座し,寺領を取り上げられ堂舎は破壊された。5年後,法主興意法親王の時に幕府に再興を陳情し許され,洛東白川村に再興し所領1,000石が付与された。
 再興以来,道周・道晃,道尊,忠誉の四法主法親王を経て,明和7(1770)年には聖護院御門跡兼帯寺となった。これより寺領その他一切は聖護院門跡の支配にゆだねられた。これから百年の間は法主が置かれなかった。明治元(1868)年,聖護院宮御法弟智成親王を照高院主に任じ復飾させた。明治3年に北白川宮と改称した。5年に親王は薨去。御実兄能久親王があとを嗣いだ。その後東京へ移られ,照高院の堂宇は撤去された。明治8年夏のことである。
 この碑の場所から東南へ,白川村字宮山と字丸山間の土地が照高院の旧地である。外まわりの石垣と古池は今なお残っている。    】


(追記二)

芦雪・炎上.jpg

芦雪筆「大仏殿炎上図」紙本淡彩 一幅(個人蔵)
一二〇・五×五六・二cm
寛政十年(一七九八)作

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-09-11

【 大仏殿炎上

 「大仏殿」というと、奈良東大寺のそれが思い起こされるが、芦雪が描く「大仏殿炎上図」(個人蔵)は、京都・東山の方広寺の金堂(大仏殿)である。この方広寺の大仏は、豊臣家の滅亡の歴史を象徴するかのような、数奇な運命を辿る。
 豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な「方広寺鐘銘事件」が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまうのである。
 この時の炎上の様子を描いたのが、下記の「大仏殿炎上図」である。落款に「即席漫写
芦雪 印」があり、芦雪は眼前で燃え盛る大仏殿を実際に見ながら、「即席」で「漫写」(一気呵成の自在な筆遣いで写す)したのであろう。
 空高く噴き上げる紅蓮の炎と煙に「畳目」が写っている。さらに、この落款は「墨と朱とを使い分け、あたかもこれらの文字が、大仏殿から立ちのぼる炎に照らし出されていいるかのようにも見え」、「神技とでもいうべきか。毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)もかくや、と思わせる筆の冴えである」(『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』)と称賛されているのである。
 この作品は、芦雪が亡くなる一年前の、四十六歳の時のものである。「白象黒牛図屏風」(六曲一双)が「屏風画」とすると、こちらは「掛幅画(掛軸)」ということになる。
『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』では、「縦に『ひらく』演出」と題して、この作品を取り上げ、そこで、「掛緒を掛けて軸を回転させながら下方へ下げていくことで」、「変化のドラマ」が生じ、「画面を『ひらく』にしたがって、一瞬、人魂とも、焚き火の煙とも見えたものが、じつは巨大な火の粉であり」、その最下部の二層の甍(小さく描かれた『大仏殿』と「楼門」)の炎上が、「同じ『かたち』でありながら、それが表す(意味)を劇的に変化」させているというのである。
 そして、これらを、「見事な『造形の魔術』」として、それを成し遂げた芦雪を、上述の「毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)」との称賛に繋げているのである。 】

(追記三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【「土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)」周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)薫25歳春        】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-27

【「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
     ※青蓮院尊純法親王  ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
                ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                         ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。
② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。
③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)      】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》  】

(追記四)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

源氏物語図屏風・桂離宮.jpg

「桂離宮」配置図 1.表門、2.御幸門、3.御幸道、4.外腰掛、5.蘇鉄山、6.延段、7.洲浜、8.天橋立、9.四ツ腰掛(卍亭)、10.石橋、11.流れ手水、12.松琴亭、13.賞花亭、14.園林堂、15.笑意軒、16.月波楼、17.中門、18.桂垣、19.穂垣、A.古書院、B.中書院、C.楽器の間、D.新御殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Katsura-Plan.jpg

【 この「A.古書院」の二の間の東側、広縁のさらに先に月見台、その北側の茶室「16.月波楼」は、観月の名所として知られている「桂の地」に相応しい観月のための仕掛けが施され、月影を水面に映すために、中央に池面を大きくとっている。

【 『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第三段「饗宴の最中に勅使来訪」

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.3.html#paragraph3.3

3.3.6  月のすむ川のをちなる里なれば/ 桂の影はのどけかるらむ (帝=冷泉帝)
(月が澄んで見える桂川の向こうの里なので、月の光をゆっくりと眺められることであろう)

3.3.12 久方の光に近き名のみして/ 朝夕霧も晴れぬ山里(大臣=光源氏)
(桂の里といえば月に近いように思われますが、それは名ばかりで朝夕霧も晴れない山里です)

3.3.14 めぐり来て手に取るばかりさやけきや/ 淡路の島のあはと見し月(大臣=光源氏)
(都に帰って来て手に取るばかり近くに見える月は、あの淡路島を臨んで遥か遠くに眺めた月と同じ月なのだろうか)

3.3.16  浮雲にしばしまがひし月影の/ すみはつる夜ぞのどけかるべき(頭中将)
(浮雲に少しの間隠れていた月の光も、今は澄みきっているようにいつまでものどかでありましょう)

3.3.18 雲の上のすみかを捨てて夜半の月/ いづれの谷にかげ隠しけむ(左大弁→右大弁)
(まだまだご健在であるはずの故院はどこの谷間に、お姿をお隠しあそばしてしまわれたのだろう)   

※「16.月波楼」=夏・(秋)向きの茶室、後水尾天皇筆か霊元天皇筆の「歌月」の額。
※「12.松琴亭」=冬・(春)向きの茶室、後陽成天皇筆の「松琴」の額。
※「13.賞花亭」=茶室、曼殊院良尚法親王(智仁親王の子)筆「賞花亭」の額。
※「15.笑意軒」=茶室・曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)筆「「笑意軒」の額。
※「14.園林堂」=持仏堂、楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像。
((「茶室」には、それぞれ「舟着き場」がある。)
※「9.四ツ腰掛(卍亭)」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「4.外腰掛」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「7.洲浜」=青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てたもの。
※「8.天橋立」=小島二つを石橋で結び、松を植えで丹後の天橋立に見立てたもの。
※「5.蘇鉄山」=薩摩島津家の寄進という蘇鉄、外腰掛の向いの小山。
(桂離宮の池は大小五つの島があり、入江や浜が複雑に入り組んでいる。中でも松琴亭がある池の北東部は洲浜、滝、石組、石燈籠、石橋などを用いて景色が演出されており、松琴亭に属する茶庭(露地)として整備されている。)
※「1.表門」=庭園の北端に開く行幸用の正門で、御成門ともいう。通用門は南西側にある。
※「2.御幸門」=門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所。
※「3.御幸道」=道の石敷は「霰こぼし」と称し、青黒い賀茂川石の小石を長さ四四メートルにわたって敷き並べ、粘土で固めたものである。突き当りの土橋を渡って古書院に至る。
※「17.中門」=古書院の御輿寄(玄関)前の壺庭への入口となる、切妻造茅葺の門である。
※※「A.古書院」=古書院の間取りは、大小八室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。
※※「B.中書院」=間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。「一の間」の「山水図」が狩野探幽、「二の間」の「竹林七賢図」が狩野尚信、「三の間」の「雪中禽鳥図」が狩野安信である
※※「C.楽器の間」=中書院と新御殿の取り合い部に位置する小建物で、伝承では前述の床に琵琶、琴などの楽器を置いたともいわれている。
※※「D.新御殿」=内部は九室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。(『ウィキペディア(Wikipedia)』『新編名宝日本の美術22桂離宮』など)】

nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

源氏物語画帖(その十七・絵合」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内(曼殊院)良恕(一五七三~一六四三)   源氏31歳春

光吉・絵合.jpg
源氏物語絵色紙帖 絵合  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/590649/2

良恕法親王・絵合.jpg

源氏物語絵色紙帖 絵合  詞・竹内(曼殊院)良恕
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/590649/1

(「竹内(曼殊院)書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/18/%E7%B5%B5%E5%90%88_%E3%81%88%E3%81%82%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%83%BB%E3%82%91%E3%81%82%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96%E3%80%91

内大臣、権中納言、参りたまふ。その日、帥宮も参りたまへり、いとよしありておはするうちに、絵を好みたまへば大臣の、下にすすめたまへるやうやあらむ、ことことしき召しにはあらで、殿上におはするを仰せ言ありて御前に参りたまふ。
(第三章 後宮の物語 第二段 三月二十日過ぎ、帝の御前の絵合せ )

3.2.5 内大臣、権中納言、参りたまふ。その日、帥宮も参りたまへり。いとよしありておはするうちに、絵を好みたまへば、 大臣の、下にすすめたまへるやうやあらむ、 ことことしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて、 御前に参りたまふ。
(内大臣、権中納言、参上なさる。その日、帥宮も参上なさった。たいそう風流でいらっしゃるうちでも、絵を特にお嗜みでいらっしゃるので、内大臣が、内々お勧めになったのでもあろうか、仰々しいお招きではなくて、殿上の間にいらっしゃるのを、御下命があって御前に参上なさる。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十七帖 絵合
 第一章 前斎宮の物語 前斎宮をめぐる朱雀院と光る源氏の確執
  第一段 朱雀院、前斎宮の入内に際して贈り物する
  第二段 源氏、朱雀院の心中を思いやる
  第三段 帝と弘徽殿女御と斎宮女御
  第四段 源氏、朱雀院と語る
 第二章 後宮の物語 中宮の御前の物語絵合せ
  第一段 権中納言方、絵を集める
  第二段 源氏方、須磨の絵日記を準備
  第三段 三月十日、中宮の御前の物語絵合せ
  第四段 「竹取」対「宇津保」
  第五段 「伊勢物語」対「正三位」
 第三章 後宮の物語 帝の御前の絵合せ
  第一段 帝の御前の絵合せの企画
  第二段 三月二十日過ぎ、帝の御前の絵合せ
(「竹内(曼殊院)書の「詞」)→ 3.2.5
  第三段 左方、勝利をおさめる
 第四章 光る源氏の物語 光る源氏世界の黎明
  第一段 学問と芸事の清談
 第二段 光る源氏体制の夜明け
 第三段 冷泉朝の盛世
 第四段 嵯峨野に御堂を建立

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2675

源氏物語と「絵合」(川村清夫稿)

【光源氏は内大臣、頭中将は権中納言になり、政治の実権を握った。冷泉帝の後宮に光源氏は六条御息所の遺児である斎宮女御、権中納言は娘の弘徽殿女御を輿入れして、帝の寵愛を競わせた。帝の母である中宮(藤壷女御)の御前で斎宮女御と弘徽殿女御の間で絵合せが催されることになり、光源氏と権中納言は競って優れた絵を収集した。光源氏は伝統的、権中納言は現代的な趣味だった。ここではその第1回戦を紹介する。斎宮女御側は左、弘徽殿女御側は右に分かれ、左側が出品した「竹取物語」の物語絵を批評している。大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
 「なよ竹の古りにけること、をかしきふしもなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契り高く、神代のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」
と言ふ。右は、
「かぐや姫ののぼりけむ雲居は、げに、及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世の契りは竹の中に結びければ、下れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、百敷のかしこき御光には並ばずなりにけり。阿部のおほしが千々の黄金を捨てて、火鼠の思ひ片時に消えたるも、いとあへなし。車持の親王の、まことの蓬莱の深き心も知りながら、いつはりて玉の枝に疵をつけたるをあやまち」となす。

(渋谷現代語訳)
 「なよ竹の代々に歳月を重ねたこと、特におもしろいことはないけれど、かぐや姫がこの世の濁りにも汚れず、遥かに気位も高く天に昇った運勢は立派で、神代のことのようなので、思慮の浅い女にはきっと分からないでしょう」
と言う。右方は、
「かぐや姫が昇ったという雲居は、おっしゃるとおり、及ばないことなので、誰も知ることができません。この世での縁は、竹の中に生まれたので、素性の卑しい人と思われます。一つの家の中は照らしたでしょうが、宮中の恐れ多い光と並んで妃にならずに終わってしまいました。阿部の御主人が千金を投じて、火鼠の裘に思いを寄せて片時の間に消えてしまったのも、まことにあっけないことです。車持の親王が、真実の蓬莱の神秘の事情を知りながら、偽って玉の枝に疵をつけたのを欠点とします」

(ウェイリー英訳)
“We admit that this story, like the ancient bamboo-stem in which its heroine was found, has in the course of ages become a little loose in the joints. But the character of Lady Kaguya herself, so free from all strain of worldly impurity, so nobly elevated both in thought and conduct, carries us back to the Age of the Gods, and if such a tale fails to win your applause, this can only be because it deals with matters far beyond the reach of your frivolous feminine comprehensions.” To this the other side replied: “The Sky Land to which Lady Kaguya was removed is indeed beyond our comprehensions, and we venture to doubt whether any such place exists. But if we regard merely the mundane part of your story, we find that the heroine emanated from a bamboo joint. This gives to the story from the start an atmosphere of low life which we for our part consider very disagreeable. We are told that from the lady’s person there emanated a radiance which lit up every corner of her foster-father’s house. But these fireworks, if we remember aright, cut a very poor figure when submitted to the august light of His Majesty’s palace. Moreover the episode of the fireproof ratskin ends very tamely, for after Abe no Oshi had spent thousands of gold pieces in order to obtain it, no sooner was it put to the test than it disappeared in a blaze of flame. Still more lamentable was the failure of Prince Kuramochi who, knowing that the journey to Fairyland was somewhat difficult, did not attempt to go there but had a branch of the Jewel Tree fabricated by his goldsmith; a deception which was exposed at the first scratch.”

(サイデンステッカー英訳)
From the left came this view: „The story has been with us for a very long time, as familiar as the bamboo growing before us, joint upon joint. There is not much in it that is likely to take us by surprise. Yet the moon princess did avoid sullying herself with the affairs of this world, and her proud fate took her back to the far heavens; and so perhaps we must accept something august and godly in it, far beyond the reach of sully, superficial women.”
And this from the right: “It may be as you say, that she returned to a realm beyond our sight and so beyond our understanding. But this too must be said: that in our world she lived in a stalk of bamboo, which fact suggests rather dubious lineage. She exuded a radiance, we are told, which flooded her stepfather’s house with light; but what is that to the light which suffuses these many-fenced halls and pavilions? Lord Abe threw away a thousand pieces of gold and another thousand in a desperate attempt to purchase the fire rat’s skin, and in an instant it was up in flames – a rather disappointing conclusion. Nor is it very edifying, really, that Prince Kuramochi, who should have known how well informed the princess was in these matters, should have forged a jeweled branch and so made of himself a forgery too.”

 かぐや姫をウェイリーはLady Kaguya、サイデンステッカーはmoon princessと訳した。かぐや姫に関する「はるかに思ひのぼれる契り高く」を、ウェイリー訳はnobly elevated both in thought and conductと曖昧だが、サイデンステッカー訳はher proud fate took her back to the far heavensと正確だ。かぐや姫の求婚者たちについてはウェイリー訳の方が正確で、「蓬莱」をサイデンステッカーは省略したが、ウェイリーはFairylandと的確に訳している。
 中宮の御前では絵合せの勝負がつかないので、帝の御前で決勝戦が行われ、光源氏が描いた須磨の絵日記が満座の感動を呼び、斎宮女御側の勝利が決定したのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その八)

 近衛信尹は、文禄三年(一五九四)、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の渡海などに関連して、後陽成天皇より勅勘(勅命による勘当)を蒙り、薩摩国の坊津に三年間配流となった。慶長元年(一五九六)、勅許が下り帰洛したが、慶長三年(一五九八)、秀吉死去、そして、慶長五年(一五九六)、関ヶ原の戦いと、時代は、次の徳川の時代へと変動して行く。
 この関ヶ原の戦いの翌年、信尹は左大臣に復職する。その慶長六年(一五九七)の『三藐院記』の正月(一月)十五日の条に、次のような記載がある。

【細雨、大聖寺殿(大聖寺恵仙女王)、竹裏殿(入道良恕親王)、二条(昭実)殿、九条(兼孝)、光照院殿(尊貞尼、信尹の異母妹)、此五御所へ御礼返しに参了、 】

 この「竹裏殿」が、当時、御所近くにあった「曼殊院」の門跡(竹内門跡)の「良恕法親王(1574-1643)」で、現在地(左京区)の曼殊院は、次の「良尚法親王(1622-1693)」の時代となる。この曼殊院門跡は、北野天満宮を管轄下に置き、「後陽成院・後水尾院文化サロン」と、殊に、関係の深い門跡は、次の三人の方となる。


http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9B%BC%E6%AE%8A%E9%99%A2

【〇覚恕法親王(1521-1574):天台座主。後奈良天皇皇子。1537年(天文6年)、曼殊院門跡と北野天満宮別当職を継承。1557年(弘治3年)、准三宮。1570年(元亀1年)、天台座主。翌年、織田信長が比叡山を焼き討ち。1574年(天正2年)死去。墓所は曼殊院宮墓地。著作は『真如堂供養弥陀表白』『金曼表白』など。金蓮院准后。
〇良恕法親王(1574-1643):天台座主。1525年(大永5年)曼殊院で得度。1643年(寛永20年)死去。
〇良尚法親王(1622-1693):曼殊院中興。天台座主。八条宮(桂宮)智仁親王の第二王子。1627年(寛永4年)曼殊院に入る。1632年(寛永9年)後水尾上皇の猶子となる。1634年(寛永11年)親王宣下。得度。1646年(正保3年)から1650年(慶安3年)まで天台座主。1656年(明暦2年)、曼殊院を現在地に移転。1692年(元禄5年)引退して天松院と号す。翌年死去。 】

 この「覚恕法親王」については、元亀二年(一五七一)の、信長の「比叡山焼打ち」という日本史上に残る虐殺寺事件時の、信長に対峙した天台座主(第百六十六世)として名高い。和歌・連歌等を好み、北野天満宮と関係の深い、禁中の和歌連歌の会などには常に出席し、その一端の「覚恕百首」が、下記のアドレスで閲覧できる。天正二年(一五七七四)、覚恕法親王は甲斐にて客死、享年六十の生涯であった。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-01223&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%A6%9A%E6%81%95%E7%99%BE%E9%A6%96%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=1

 「良恕法親王」は第百七十世の天台座主で、こちらも、下記アドレスの「良恕百首」を今に残している。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%e8%89%af%e6%81%95%e7%99%be%e9%a6%96

 この「良恕法親王」の発句で始まる「賦山何(ふしやまなに)連歌」の「表八句断簡」が、
下記アドレスの『古田織部と慶長年間のかぶき者』(古田織部美術館編・図録)で、その題目だけが紹介されていた。

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

41 表八句 断簡 「賦山何連歌」 曼殊院宮良恕法親王(東)・高倉(薮)嗣良・甘露寺時長・勧修寺経広・岩倉具起・覚阿上人他

(追記)  「賦山何(ふしやまなに)連歌百韻」(表八句断簡)

【 賦山何連歌

発句 わか草の種まく/ころか春の山    東
脇  まがきの野べの/かすむあさ霧    嗣良朝臣
第三 しづかなる日影に/蝶やねぶるらん  時長
四  風吹きすさぶ/園のくさむら     経広
五  霧はたゞ竹の/下道立ちこめて    具起
六  行く々さむき/秋の関越え      覚阿上人
七  を鹿なく月に/ゆふべのかり枕    良暁
八  みだれておもき/はなの萩か枝    良秀

 「若草の種まく頃か春の雨」を発句とする山何百韻連歌の表八句部分。各行二行書は、連歌の懐紙の書き方である。連歌最初の懐紙の端作に興行の年月日などを記すことになっているので、この懐紙にもあったはずであるが、端作と賦物との間が空いていたため、掛軸に不似合いと考えた者が、賦物以前を切断したのであろう。
 発句作者の「東」は、曼殊院宮良恕法親王(一五七四~一六四三)。後陽成天皇の弟。脇の「嗣良朝臣」は、高倉(藪) ) 嗣良。第三の「時長」は不明。四句目「経広」は、勧修寺経広
(一六〇六~一六八八)。勧修寺晴豊の孫にあたり、はじめ坊城俊直と称し、勧修寺光豊の養子。寛永八年(一六三一)参議となる。五句目「具起」は岩倉具起(一六〇一~一六六〇)。久我の分家岩倉家の二代目当主。六句目の「覚阿上人」(生没年不明)は、時宗の僧で、遊行三十五世。関白英次の帰依を受けた。京五条の豊國寺(後、法国寺)の開山となる。「良暁」「良秀」は不明。興行年次も不明である。
※高倉(藪) ) 嗣良(一五九三~一六五三)は、四辻公遠の五男。猪熊教利の弟。中絶していた高倉家を範遠(猪熊教利)が継いだが、範遠は山科家に移り、その後を継いで再興した。寛永十四年(一六三七)十に月、高倉から藪へと改姓した。  】(『古田織部と慶長年間のかぶき者』(古田織部美術館編・図録)。なお、濁点を付など、若干の補訂をしている。)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

源氏物語画帖(その十六・関屋)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内(曼殊院)良恕(一五七三~一六四三)     源氏29歳秋

光吉・関屋.jpg

源氏物語絵色紙帖 関屋  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/536338/2

良恕・関屋.jpg

源氏物語絵色紙帖 関屋  詞・竹内(曼殊院)良恕
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/536338/1

(「竹内(曼殊院)書の「詞」)

ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。
(第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語 第二段 源氏、石山寺参詣)

1.2.2 ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、 木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。 (あちらこちらの杉の木の下に幾台もの車の轅を下ろして、木蔭に座りかしこまってお通し申し上げる。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十六帖 関屋
 第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語
  第一段 空蝉、夫と常陸国下向
  第二段 源氏、石山寺参詣
(「竹内(曼殊院)書の「詞」) → 1.2.2
第三段 逢坂の関での再会
 第二章 空蝉の物語 手紙を贈る
  第一段 昔の小君と紀伊守
  第二段 空蝉へ手紙を贈る
 第三章 空蝉の物語 夫の死去後に出家
  第一段 夫常陸介死去
  第二段 空蝉、出家す

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2654

源氏物語と「関屋」(川村清夫稿)

【 大津にある石山寺には、紫式部が参籠した際に源氏物語の着想を得たという伝説がある。京都にあった彼女の自宅(現在の廬山寺)から石山寺までは、三条通から旧東海道を歩いて20キロほどの距離である。しかし現代では、旧東海道の後継道路である国道1号は山科で五条バイパスから五条通につながって大阪へ向かい、山科から三条通までは府道143号が通っている。旧東海道は府道143号とほぼ同じ経路の、狭い街道として現存する。多くの和歌の歌枕として有名な逢坂関は、大津の長安寺付近なのだが、遺跡は発見されていない。

 関屋の帖では、石山寺へ参詣に行く光源氏が、夫の国司任期が終わり都に戻る空蝉と逢坂関で出会う。光源氏は空蝉の弟の右衛門佐を通して空蝉と文通するのである。大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「一日は、契り知られしを、さは思し知りけむや。
 わくらばに行き逢ふ道を頼みしも
なほかひなしや潮ならぬ海
関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」
とあり。

(渋谷現代語訳)
「先日は、ご縁の深さを知らされましたが、そのようにお思いになりませんか。
偶然に逢坂の関でお逢いしたことに期待を寄せていましたが
それも効ありませんね、やはり潮海でない淡海だから
関守が、さも羨ましく、忌ま忌ましく思われましたよ」
とある。

(ウェイリー英訳)
“Did not our meeting of the other day seem almost as though it had been arranged by Fate? Surely you too must have felt so.” With the letter was the acrostic poem: “Though on this lake-side Fate willed that we should meet, upon its tideless shore no love-shell can we hope to find.” How bitterly I envied the Guardian of the Pass,” he added.

(サイデンステッカー英訳)
“I wonder if it occurred to you the other day,” said Genji’s note, “how strong a bond there must be between us.
“By chance we met, beside the gate of meeting.
A pity its fresh waters should be so sterile.”
“How I envy the occupant of the gatehouse.”

 光源氏の手紙については、ウェイリー訳の初訳がこなれていないのに比べ、サイデンステッカー訳は簡潔でわかりやすい。また和歌に関しては、両訳共に下の句の「潮」と「海」の解釈をせずに、意訳している。

(大島本原文)
今は、ましていと恥ずかしう、よろづのこと、うひうひしき心地すれど、めづらしきにや、え忍ばれざりけむ。
「逢坂の関やいかなる関なれば
 しげき嘆きの仲を分くらむ
夢のやうになむ」
と聞こえたり。あはれもつらさも、忘れぬふしと思し置かれたる人なれば、折々は、なほ、のたまひ動かしけり。

(渋谷現代語訳)
今では更にたいそう恥ずかしく、すべての事柄、面映ゆい気がするが、久しぶりの気がして、堪えることができなかったのであろうか、
「逢坂の関は、いったいどのような関なのでしょうか
こんなに深い嘆きを起こさせ、人の仲を分けるのでしょう
夢のような心地がします」
と申し上げた。いとしさも恨めしさも、忘れられない人とお思い置かれている女なので、時々は、やはり、お便りなさって気持ちを揺するのであった。

(ウェイリー英訳)
She was still the same shy, inexperienced girl of years ago; her brother’s tone profoundly shocked her and she had no intention of carrying on a flirtation for his benefit. But naturally enough she did feel flattered at the reception of such a note and in the end consented to reply. With her letter was an acrostic poem in which she said that the Barrier of Osaka had been no barrier to her tears, nor the Hill of Osaka a true hill of meetings.
She was connected in his mind with the most delightful and also perhaps the most painful moment in his life. Hence his thoughts tended frequently to recur to her, and he continued to write to her from time to time.

(サイデンステッカー英訳)
The lady had become more reticent with the years, but she was unable to ignore so remarkable a message.
“The gate of meeting, atop the barrier rise,
Is shaded by impassable wailing groves.
“It is all like a dream.”
Touching things, annoying things, Genji could forget none of them. From time to time he got off notes to the lady which he hoped would interest and excite her.

 空蝉の手紙についてウェイリー訳は、和歌を区別せず不正確であるのに比べ。サイデンステッカー訳は丁寧で正確である。空蝉と光源氏の心理描写に関しては、ウェイリー訳は冗長で、サイデンステッカー訳は簡潔である。
この後空蝉は夫が亡くなり、継子からの誘惑を避けて出家するのである。    】

(「三藐院ファンタジー」その七)

 この「詞書」の筆者の、「竹内(曼殊院)良恕」は、陽光院(誠仁親王)の第三皇子で、兄が、後陽成天皇(誠仁親王の第一皇子)、大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子)、弟が、八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子)である。 
 下記のアドレスで、「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)について紹介している。(そのアドレスでの誤記や、その後のデータなどを加味して、下記に再掲をして置きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)
 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図()周辺は、下記記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

正親町天皇→陽光院(誠仁親王)→ ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
      ↓        ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
      ↓          ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良(養父・一条内基)
      ↓        ↓興意法親王     ↓良純法親王 他
    ※青蓮院尊純法親王(常胤法親王の王子、良恕法親王より灌頂を受け親王宣下)
 
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(誠仁親王の弟・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)    
    】

 さらに、下記のアドレスで、曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)を、「本阿弥光悦そして『後陽成・後水尾文化サロン』」で紹介したが、それも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-08

【 ※曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)

https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BC%E6%AE%8A%E9%99%A2%E8%89%AF%E6%81%95%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B-20985

 江戸初期の親王。曼殊院門跡。陽光院誠仁親王第三皇子。後陽成天皇の弟。初名勝輔、法名覚円のち良恕。幼称は三宮、号は忠桓。尊朝親王のもとで得度、伝法灌頂を受ける。第百七十代天台座主となり、二品に叙せられる。書画・和歌・連歌を能くした。著書に『厳島参詣記』がある。寛永20年(1643)薨去、70才。
 曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)は、光悦(一五五八-一六三七)より十六歳程度年少で、第一〇七代天皇の後陽成天皇の実弟である。後陽成天皇の在位期間は、天正十四年(一五八六)から慶長十六年(一六一一)で、豊臣秀吉から徳川家康,秀忠父子の時代にあたり,皇室が久しい式微の状態から脱して一応尊厳を回復した時期であった。
 光悦の、この「四季草花下絵千載集和歌巻」の署名は「大虚庵 光悦(花押)」で、この「大虚庵」の庵号は、元和元年(一六一五)の鷹峯の地へ移住後で、後陽成天皇の時代の次の後水尾天皇(一五九六―一六八〇、在位期間=一六一一―一六二九)の時代である。
 この後水尾天皇は、歌道を「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」に師事し、寛永二年(一六二五)智仁親王から古今伝授を受けている。のちに宮廷歌壇の最高指導者として稽古会や古典講釈を催し、後継の親王や公卿に古今伝授を行い御所伝授による宮廷歌壇を確立したことで知られている。
 この、智仁親王(初代八条宮)は、「後陽成天皇(和仁親王(後陽成天皇)・空性法親王(天王寺別当)・良恕法親王(天台座主)・興意法親王(織田信長猶子))の末弟で、豊臣秀吉の猶子にもなっている。
 これらの「後陽成天皇・後水尾天皇」の「慶長・元和・寛永」の時代は、同時に、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の「後陽成・後水尾院文化サロン」的な場を形成していていた。
それらは、「歌道」(「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」等の「古今伝授」継受者等を中心とする)」、「茶道」(「後水尾院・公家・宮家・門跡」等の「仙洞茶会」・「大納言日野資勝」等の「公家と町衆(光悦等)」の茶会、「町衆(光悦等)と武家・大名(古田織部・小堀遠州・前田利常・加藤嘉明等々)」との茶会・「千宗旦・近衛家等と町衆(光悦等)との茶会等々)、「華道」(「池坊専好」等)、「書道」(「「歌道」と密接不可分の世界)、「能・能楽」(「観世大夫身愛(黒雪)」等の世界)、「画(俵屋宗達等)・工芸(蒔絵師五十嵐家等、陶芸師楽家・紙師宗二等々)との世界)と、それらが輻輳した、その象徴的な世界が、「光悦と宗達等々」との「和歌巻」の世界であると解することも出来よう。
 それらの「後陽成・後水尾文化サロン」の「歌道」「書道」「茶道」「華道」「能・能楽」「画・工芸」の諸分野に精通し、それらの分野の第一人者(「歌道=烏丸光広等」「書道=松花堂昭乗等」「茶道=千宗旦等」「華道=池坊専好等」「能・能楽=観世黒雪等」「画=俵屋宗達等、蒔絵=五十嵐家等、陶芸=楽家等、嵯峨本=角倉素庵等、唐紙=宗二等)から、先達(先に立って案内する人)として仰がれていた人物こそ、本阿弥光悦と解したい。  】
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

源氏物語画帖(その十五・蓬生)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳

光吉・蓬生.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

信尋・蓬生.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

長次郎・蓬生.jpg

A-3図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

k2・蓬生.jpg

A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

(A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尋)の「詞」

「露すこし払はせてなむ、入らせたまふべき」と聞こゆれば、
尋ねても我こそ訪はめ道もなく 深き蓬のもとの心を
(第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る)

3.3.10 「露すこし払はせてなむ、入らせたまふべき」
(露を少し払わせて、お入りあそばすよう」)
3.3.11  と聞こゆれば、
(と申し上げるので、《その言葉を聞いて、源氏は》)
3.3.12 尋ねても我こそ訪はめ道もなく 深き蓬のもとの心を
(訪ねて来る人もいない様子だが、わたしこそ訪問しましょう。この道もないくらい深く茂った蓬のように変わらない姫君のお心を《お聞きしたい。》)

(A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尹)の「詞」

年を経て待つしるしなきわが宿を 花のたよりに過ぎぬばかりか
 と、忍びやかに、うちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、「昔よりはねびまさりたまへるにやと」思さる
(第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第四段 末摘花と再会)

3.4.11 年を経て待つしるしなきわが宿を 花のたよりに過ぎぬばかりか
(長年待っていた甲斐のなかったわたしの宿を、あなたはただ藤の花を御覧になるついでにお立ち寄りになっただけなのですね。)
3.4.12 と、忍びやかに、うちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、「昔よりはねびまさりたまへるにや」と思さる。
(と、ひっそりと、身動きなさった気配も、袖の香りも、「昔よりは成長なされたか」とお思いになる。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十五帖 蓬生
 第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代
  第一段 末摘花の孤独
  第二段 常陸宮邸の窮乏
  第三段 常陸宮邸の荒廃
  第四段 末摘花の気紛らし
  第五段 乳母子の侍従と叔母
 第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後
  第一段 顧みられない末摘花
  第二段 法華御八講
  第三段 叔母、末摘花を誘う
  第四段 侍従、叔母に従って離京
  第五段 常陸宮邸の寂寥
 第三章 末摘花の物語 久しぶりの再会の物語
  第一段 花散里訪問途上
  第二段 惟光、邸内を探る
  第三段 源氏、邸内に入る
(A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尋)の「詞」→
  第四段 末摘花と再会
(A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尹)の「詞」→
 第四章 末摘花の物語 その後の物語
  第一段 末摘花への生活援助
  第二段 常陸宮邸に活気戻る
  第三段 末摘花のその後

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2602

源氏物語と「蓬生」(川村清夫稿)

【源氏には末摘花という不美人の愛人がいた。光源氏が明石に蟄居していた間、彼女の生活は困窮して、屋敷は荒れ放題になっていた。末摘花には叔母がいたが、その叔母も宮家出身だったが、受領階級の北の方(妻)になって階級が下がったことをひがんでいた。叔母は腹いせに、後見のない末摘花を引き取って、自分の娘たちの侍女にしようとたくらんでいた。夫が太宰大弐になった叔母は末摘花に大宰府へ同行するよう誘ったが、末摘花はいつか光源氏が助けに来てくれると信じて応じないので、末摘花の乳母子の侍従を連れて行ってしまった。ある夜、花散里を訪問しようとしていた光源氏は、偶然末摘花の屋敷に気が付いた。屋敷に生い茂る蓬(よもぎ)を踏み分けて久しぶりに再会した光源氏は、末摘花が自分のことを忘れないでいてくれたことに感動するのである。この再会の場面でプレイボーイの光源氏は、末摘花に実に調子のいい台詞を語りかけている。大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれも、おろかならず、また変はらぬ心ならひに、人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどを、いかが思す。年ごろのおこたり、はた、なべての世に思しゆるすらむ。今よりのちの御心にかなはざらむなむ、言ひしに違ふ罪も負ふべき」

(渋谷現代語訳)
「このような草深い中にひっそりとお過ごしになっていらした年月のおいたわしさも一通りではございませんが、また昔と心変りしない性癖なので、あなたのお心中も知らないままに、分け入って参りました露けさなどを、どのようにお思いでしょうか。長年のご無沙汰は、それはまた、どなたからもお許しいただけることでしょう。今から後のお心に適わないようなことがあったら、言ったことに違うという罪も負いましょう」

(ウェイリー英訳)
“I am afraid you have been having a very dull time, but pray give me credit for tonight’s persistence. It showed some devotion, did it not, that I should have forced my way into the heart of this tangled, dripping maze, without a word of invitation or encouragement? I am sure you will forgive me for neglecting you for so long when I tell you that for some while past I have seen absolutely no one. Not having received a word of any kind from you, I could not suppose that you were particularly anxious to see me. But henceforward I am going to assume, whether you write to me or no, that I shall not be unwelcome. There now! After that, if I ever behave badly again you will really have some cause to complain.”

(サイデンステッカー英訳)
”I can imagine that it has been uncommonly difficult for you these last few years. I myself seem incapable of changing and forgetting, and it would interest me to know how it strikes you that I should have come swimming through these grasses, with no idea at all whether you yourself might have changed. Perhaps I may ask you to forgive the neglect. I have neglected everyone, not only you. I shall consider myself guilty of breach of promise if I ever again do anything to displease you.”

 ウェイリー訳は原文にない描写もあり冗漫であるのに対して、サイデンステッカー訳の方が原文に忠実で簡潔でわかりやすい。
末摘花の律義さに感動した光源氏は彼女の後見を約束し、2年後に彼女を引き取るのである。この帖の末尾は紫式部のある種のユーモアがうかがえるので、ここに挙げておく。

(大島本原文)
かの大弐の北の方、上りて驚き思へるさま、侍従が、うれしきものの、今しばし待ちきこえざりける心浅さを、恥づかしう思へるほどなどを、今すこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたう、うるさく、もの憂ければなむ。今またもついでにあらむ折に、思ひ出でて聞こゆべき、とぞ。

(渋谷現代語訳)
あの大弐の北の方が、上京して来て驚いた様子や、侍従が、嬉しく思う一方で、もう少しお待ち申さなかった思慮の浅さを、恥ずかしく思っていたところなどを、もう少し問わず語りもしたいが、ひどく頭が痛く、厄介で、億劫に思われるので、今後また機会のある折に思い出してお話し申し上げよう、ということである。

(ウェイリー英訳)
Her aunt’s astonishment when in due time she returned to the Capital – Jiju’s delight at her mistress’s good fortune and shame at the thought that she had not held out a little longer in the princess’s service – all this remains yet to be told. I would indeed have been glad to carry my story a little further, but at this moment my head is aching and I am feeling very tired and depressed. Provided a favorable opportunity presents itself and I do not forget to, I promise I will tell you all about it on some future occasion.

(サイデンステッカー英訳)
Though no one has asked me to do so, I should like to describe the surprise of the assistant viceroy’s wife at this turn of events, and Jiju’s pleasure and guilt. But it would be a bother and my head is aching; and perhaps – these things do happen, they say – something will someday remind me to continue the story.

 ウェイリー訳もサイデンステッカー訳も原文に一応忠実である。後者にあるassistant viceroyは大宰府の次官である太宰大弐の訳語である。大宰府は「遠の朝廷」(とおのみかど)と呼ばれた重要官庁なので、この訳語は的確だ。

 この帖で紫式部は光源氏の恋愛物語と、「落窪物語」のような継子いじめ物語のプロットを巧みに組み合わせているのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その六)

 下記のアドレスで、この『源氏物語画帖』が、「49宿木から54夢浮橋」の六画面を外し、代わりに、「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」を、何故に重複させて描かせたのであろうかということについて、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』の、次のような記述を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

【 重複六場面には、光源氏が女性のもとを訪れる場面と、光源氏が女性の姿を垣間見る場面が描かれている。このような情景選択と長次郎の甘く優しい絵の表現から、「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる(注一)。 
 最後の場面である蓬生の絵(上記の「15蓬生」=後出)を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。
(注一)=稲本万里子「京都国立博物館保管「源氏物語画帖」に関する一考察―長次郎による重複六場面をめぐって―」『国華』一二二三、一九九七年九月。
(注二)=武田恒夫「土佐光吉と細画―京都国立博物館源氏物語図帖をめぐって―」『国華』九九六、一九七六年十二月。=この論稿が、《「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。》ことを明らかにしたもので、(注一)などは、ここからスタートしている。 】(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66)

 さらに、下記のアドレスで、この『源氏物語画帖』の欠落部分の六帖(「49宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」)は、謡曲「浮舟」(その原典は『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)をモチーフとした「檜原図屏風」が、それらに取って代わるものではなかろうかということに触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-15

【 その欠落部分『源氏物語』(第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」の、その原典となっている、謡曲「浮舟」(その原典は『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と見事に一致することになる。
 すなわち、近衛信尹にとって、『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の欠落部分の、その「第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」までの六帖は、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」が、それに代わっているということになる。
 そして、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の「素性法師歌屏風」は、より正確的には「素性法師由来歌屏風」ということになる。  】

 ここで、欠落部分の六帖(「49宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」)に代わって、新たに長次郎に描かせた重複六場面(「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」)が、《「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる》という、先の
『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』の見解について考察を加えたい。

4夕顔 → (「帚木」三帖の(「2 帚木」・「3 空蝉」・「4夕顔」)からは、「女性の幸せ」というのは微塵も感じられない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【源氏の君が、六条の御息所のところにお忍びで通う頃、夕顔の花の咲く家に住む美しい姫君に心惹かれ愛しあいますが、姫は御息所の生霊につかれ急死します。夕顔の姫君を失って悲しみにくれ、源氏の君は病の床につきます。 】

5若紫 → (ここの「若紫」は、「女性の幸せ」ということは別にして、例えば、この画帖の制作企画者=注文主が「近衛信尹」として、例えば、「愛娘・太郎(君)」ためのものとすることには、違和感はない。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-25

【 土佐光吉と長次郎の画風の違い(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』)
 どちらも、光源氏が北山で美しい少女(のちの紫の上)を垣間見る有名な場面である。画面右上に少女のいる建物を、左下に光源氏と従者を配する構図は、両画面とも同じである。ただし、光吉の画面は、建物が左奥に続き、奥行を感じさせる構図になっている。簀子に立つ少納言の乳母と犬君、室内の尼君に立つ少女の視線は、左手の桜の花咲く山へと飛んでいく雀の子を追っている。そのようすを光源氏は、小柴垣の外から夢中になって覗いているようである。
 これに比べて長次郎の画面は、建物の傾斜の角度が小さく、平板な印象を与える。空間が多く、やや散漫ではあるが、背丈が低く頭部が大きな人物はかわいらしく、小柴垣を金泥線であらわすところは装飾的である。ふたり少女のうち、少納言の乳母の傍らに立ち、白い衣にまとっている法が紫の上かと考えられる。丹の衣をつけた犬君は伏籠をあけて、いかにも雀の子を逃がしてしのったように描かれており、ふたりの少女の違いをポーズや衣の色で表現している。つまり、光源氏が垣間見ている紫の上を、犬君とは区別し、目立たせているのである。
 長次郎の絵は、中間色を多用し、衣や調度の文様は繊細である。すやり霞のような細長い金雲も併用している。光吉に比べて画技の劣る分、細部を整えていく傾向があったと考えられる。こうした長次郎の画風は、光吉の次世代の土佐光則に受け継がれていくのである。 】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 熱病を病んだ源氏の君は、祈祷のため京都北山の寺にでかけます。藤壷の中宮(義母)を心から慕う源氏の君は、そこで藤壷に大層よく似た面影の少女に出逢います。藤壷恋しさに、その少女を手元に引き取り理想の女性に育てたいと思いますが、一方、妻・葵の上とは、今だに心打ち解けることがありません。藤壷の中宮は、源氏の君との初めての逢瀬に、懐妊してしまいます。不義を知らぬ桐壺帝は、藤壷の懐妊を大層喜び、二人は自らの運命に恐れおののきます。 】

6末摘花 → 長次郎筆の「末摘花」の「詞」を書いたのは「青蓮院尊純」で、「近衛信尹」ではない。信尹は、長次郎筆の「蓬生」(「蓬生」の荒れ果てた屋敷でひっそりと住んでいる「末摘花」)の「詞」を書いているが、それは「末摘花」の「醜女」の容貌などには触れていない。それに対して、「花散里」の「画」(光吉筆)に対応する「詞」(太郎書)のコメントとして、『源氏絵の系譜(稲本万里子著』では、「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」と、「末摘花=醜女=太郎(君)」と解する見解には「否」と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-27

【 源氏物語と「末摘花」(川村清夫稿)
「源氏物語にきら星のごとく登場する美女ぞろいの光源氏の恋人たちの中で、末摘花は異色の醜女である。それだけに彼女の存在感は彼女たちの中でひときわ目立っている。
(その容貌は)→(渋谷現代語訳)まず第一に座高が高くて、胴長にお見えなので、『やはりそうであったか』と失望した。引き続いて、ああみっともないと見えるのは、鼻なのであった。ふと目がとまる。普賢菩薩の乗物と思われる。あきれて高く長くて、先の方がすこし垂れ下がって色づいていること、特に異様である。顔色は、雪も恥じるほど白くまっ青で、額の具合がとても広いうえに、それでも下ぶくれの容貌は、おおよそ驚く程の面長なのであろう。痩せ細っていらっしゃること、気の毒なくらい骨ばって、肩の骨など痛々しそうに着物の上から透けて見える。 】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 常陸の姫君は、父親王に先立たれ後見もなく惨めに暮らしておりました。それを聞いた源氏の君は、大輔命婦の手引きで忍んでお逢いになりますが、いくら話しかけても全く返事を返さぬ姫に苛立ち、せめて美しいご容貌ならばと、ある雪の日、姫君の姿をご覧になりますと、その鼻が紅く長く垂れ下がり、大層醜い様子でした。源氏の君は、姫君を末摘花(紅花)と呼び、見るのも厭な気がしましたが、契りを結んだ姫君としてずっと後見することを決めます。】

10賢木 →この「賢木」のタイトルは、「源氏物語絵色紙帖 賢木 詞・太郎(君)」の《神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」》などに由来してのものなのであろう。この「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」という一首は、この画帖の制作企画者=注文主が「近衛信尹」とすると、「愛娘・太郎(君)」をイメージしてのものという雰囲気で無くもない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

しかし、《「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」》などとは、まるで、別世界のストーリーである。

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 六条御息所の姫君が斎宮として伊勢に下る日が迫り、同行する御息所を引き留めようと、源氏の君は野宮を訪れますが、御息所のご決意は固くやがて出立なさいます。神無月に入り、桐壺院のご病気が重くなり、遂にご崩御なさいます。源氏の君は、里下がりの藤壷の中宮に熱い想いを訴えますが、中宮は強く拒否なさいます。源氏の君の愛を負担に感じた中宮は出家を決意し、故桐壺院の一周忌の法事の後、春宮に心を残しながら、黒髪を切り出家してしまいます。朱雀帝の御代となり右大臣の勢力下で、源氏の君は全てが厭にお思いになります。その頃、朱雀帝の寵愛を受ける尚侍の君(朧月夜)は源氏の君と忍んで逢瀬を重ねていました。ある雨の激しい夜、二人は右大臣に見付かってしまい、弘徽殿の女御の逆鱗にふれます。弘徽殿の女御は、これを機会に憎い源氏の君を政界から葬ることを考えます。】

11花散里→「花散里」の「画」(光吉筆)に対応する「詞」(太郎書)は、この画帖の制作企画者=注文主の「近衛信尹」の「愛娘・太郎(君)」へのメッセージ(「花散里のように温和で家庭的であって欲しい)なのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

【「A-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)」について、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』では、「力強い書風である。太郎君は、数えで九歳のときに麻疹(ましん)を患っている。容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」とコメントしている(p67)。】→ 【しかし、「花散里」の「画」(B-1図・光吉筆)に対応する「詞」(B-2図・太郎書)のコメントとして、『稲本・前掲書』の、「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」は、やや飛躍過ぎという雰囲気で無くもない。
 そして、「花散里は紫上のような美女でもなければ、末摘花のような醜女でもない、普通の容貌の持主であった。ただし温和で、家庭的な性格だった」(「川村・前掲稿」)ということに着目しての、何らかのコメントが付加されるというように解したい。】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【ある日、麗景殿の女御の妹君(花散里)を訪ねる途中、中川の辺りで美しい琴の音に耳を留め、それが昔愛した女性の家だと思い出している折、ほととぎすが鳴いて渡ります。昔を懐かしみ、逢いたいと申し入れますが、逢えずに引き下がります。麗景殿の女御の御邸で、橘の花の薫るなか、故桐壺院のことがしみじみと偲ばれ、女御と昔話をして心慰めます。そして妹の姫君と愛を交わします。】

15蓬生 → 《「15蓬生」を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66) 》の、この画帖は、「信尹」が娘「太郎君」のために制作させたのではないだろうか」という見解に関しては「是」としたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 (『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

太郎には無論生母もいたが、どんな事情があったのか、父親である信尹が太郎の成長に対して心を砕いているようだ。折に付け、事に付け、楊林院を頼っているふしもある。太郎は同性の先達として楊林院に近づけてやりたい、そのような三者の関わりが思われるのである。 姫であれば、信尹にとって太郎はまさに鍾愛の珠である。わずかのことでも傷がついてしまいそうな、はかなげで純真無垢の珠である。あるいは生来の病弱、蒲柳の質であったのだろうか。それゆえに、信尹は太郎に男子の鎧を着せて、守ってやりたいと思う。太郎という男児の名前も、花押を用いた男性的な書状も、いわゆる変成男子(へんじょうなんし=古来、女子(女性)は成仏することが非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想)の願望の所産であったか、と想像力を働かせてしまうのであるが、いかがであろう。それゆえに、信尹は自分の死後も、太郎が近衛家という楽園で安寧に過ごすことを思案したのではなかろうか。 (『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p174)   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

【 重複六場面には、光源氏が女性のもとを訪れる場面と、光源氏が女性の姿を垣間見る場面が描かれている。このような情景選択と長次郎の甘く優しい絵の表現から、「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる(注一)。 
 最後の場面である蓬生の絵(上記の「15蓬生」=後出)を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。
(注一)=稲本万里子「京都国立博物館保管「源氏物語画帖」に関する一考察―長次郎による重複六場面をめぐって―」『国華』一二二三、一九九七年九月。
(注二)=武田恒夫「土佐光吉と細画―京都国立博物館源氏物語図帖をめぐって―」『国華』九九六、一九七六年十二月。=この論稿が、《「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。》ことを明らかにしたもので、(注一)などは、ここからスタートしている。(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66) 】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 源氏の君が須磨に退いていた間、末摘花は大層貧しく惨めにお過ごしでした。叔母からの九州に下る誘いも断り、ただ源氏の君のお帰りを待ち続けておりました。ある日、源氏の君は大層荒れ果てた御邸で末摘花と再会します。信じて待ち続けた末摘花を愛しく想った源氏の君は、ずっと援助することを決めます。  】
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

源氏物語画帖(その十四・澪標)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)   源氏28歳冬-29歳

光吉・澪標.jpg

源氏物語絵色紙帖 澪標  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509147/2

信尹・澪標.jpg

源氏物語絵色紙帖 澪標  詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509147/1

(「近衛信尹」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/15/%E6%BE%AA%E6%A8%99_%E3%81%BF%E3%81%8A%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%83%BB%E3%81%BF%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9B

例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。いとはしたなければ、立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。

(第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅 第二段 住吉社頭の盛儀)

4.2.7 例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
(普通の大臣などが参詣なさる時よりは、格別にまたとないくらい立派に奉仕したことであろうよ。)
4.2.8 いとはしたなければ、
(とてもいたたまれない思いなので、)
4.2.9 立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。
(あの中に立ちまじって、とるに足らない身の上で、少しばかりの捧げ物をしても、神も御覧になり、お認めくださるはずもあるまい。帰るにしても中途半端である。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十四帖 澪標
 第一章 光る源氏の物語 光る源氏の政界領導と御世替わり
  第一段 故桐壺院の追善法華御八講
  第二段 朱雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執
  第三段 東宮の御元服と御世替わり
 第二章 明石の物語 明石の姫君誕生
  第一段 宿曜の予言と姫君誕生
  第二段 宣旨の娘を乳母に選定
  第三段 乳母、明石へ出発
  第四段 紫の君に姫君誕生を語る
  第五段 姫君の五十日の祝
  第六段 紫の君、嫉妬を覚える
 第三章 光る源氏の物語 新旧後宮女性の動向
  第一段 花散里訪問
  第二段 筑紫の五節と朧月夜尚侍
  第三段 旧後宮の女性たちの動向
  第四段 冷泉帝後宮の入内争い
 第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅
  第一段 住吉詣で
  第二段 住吉社頭の盛儀
  (「近衛信尹」書の「詞」) → 4.2.7/4.2.8/4.2.9   
第三段 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず
  第四段 源氏、明石の君に和歌を贈る
  第五段 明石の君、翌日住吉に詣でる
 第五章 光る源氏の物語 冷泉帝後宮の入内争い
  第一段 斎宮と母御息所上京
  第二段 御息所、斎宮を源氏に託す
  第三段 六条御息所、死去
  第四段 斎宮を養女とし、入内を計画
  第五段 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執
  第六段 冷泉帝後宮の入内争い

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2590

源氏物語と「澪標」(川村清夫稿)

【 朧月夜との密会が弘徽殿女御の逆鱗にふれた光源氏は、都を離れて明石入道のもとに隠棲したが、弘徽殿女御の一族が政権を失ったので、都に戻り社交界に復帰した。「澪漂」の帖では、権勢を取り戻した光源氏が死の床についた六条御息所を見舞い、彼女の一人娘である斎宮の後見を依頼される場面がある。六条御息所と光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「心細くてとまりたまはむを、かならず、ことに触れて数まへきこえたまへ。また見ゆづる人もなく、たぐひなき御ありさまになむ。かひなき身ながらも、今しばし世の中を思ひのどむるほどは、とざまかうざまにものを思し知るまで、見たてまつらむことこそ思ひたまへつれ」

(渋谷現代語訳)「心細い状況で先立たれなさるのを、きっと、何かにつけて面倒を見て上げてくださいまし。また他に後見を頼む人もなく、この上もなくお気の毒な身の上でございまして、何の力もないながらも、もうしばらく平穏に生き長らえていられるうちは、あれやこれや物の分別がおつきになるまでは、お世話申そうと存じておりましたが」

(ウェイリー英訳)I had hoped having cast the cares of the world aside, to live on quietly at any rate until this child of mine should have reached an age when she could take her life into her own hands...

(サイデンステッカー英訳)She will have no one to turn to when I am gone. Please do count her among those who are important to you. She has been the unluckiest of girls, poor dear. I am a useless person and I have done her no good, but I tell myself that if my health will only hold out a little longer I may look after her until she is better able to look after herself.

 サイデンステッカー訳は原文に忠実だが、ウェイリー訳は省略部分が目立つ。

(大島本原文)「かかる御ことなくてだに、思ひ放ちきこえさすべきにもあらぬを、まして、心の及ばむに従ひては、何ごとも後見きこえむとなむ思うたまふる。さらに、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」

(渋谷現代語訳)「このようなお言葉がなくてでさえも、放ってお置き申すことはあるはずもないのに、ましてや、気のつく限りは、どのようなことでもご後見申そうと存じております。けっして、ご心配申されることはありません」

(ウェイリー英訳)Even if you had not mentioned it, I should always have done what I could to help her, but now that you have made this formal request to me, you may be sure that I shall make it my business to look after her and protect her in every way that lies in my power. You need have no further anxiety on that score…

(サイデンステッカー英訳)You speak as if we might become strangers. It could not have happened, it would have been quite impossible, even if you had not said this to me. I mean to do everything I can for her. You must not worry.

 ここではウェイリー訳は原文に忠実であるのに比べて、サイデンステッカー訳は前半部分を意訳している。そこで六条御息所は、プレイボーイである光源氏に、斎宮を決して愛人にしないでと注意するのである。

(大島本原文)「いとかたきこと。まことにうち頼むべき親などにして、見ゆづる人だに、女親に離れぬるは、いとあはれなることにこそはべるめれ。まして、思ほし人めかさむにつけても、あぢきなき方やうち交り、人に心も置かれたまはむ。うたてある思ひやりごとなれど、かけてさやうの世づいたる筋に思し寄るな。憂き身を抓みはべるにも、女は、思ひの外にてもの思ひを添ふるものになむはべりければ、いかでさる方をもて離れて、見たてまつらむと思ふたまふる」

(渋谷現代語訳)「とても難しいこと。本当に信頼できる父親などで、後を任せられる人がいてさえ、女親に先立たれた娘は、実にかわいそうなもののようでございます。ましてや、ご寵愛の人のようになるにつけても、つまらない嫉妬心が起こり、他の女の人からも憎まれたりなさいましょう。嫌な気のまわしようですが、けっして、そのような色めいたことはお考えくださいますな。悲しいわが身を引き比べでみましても、女というものは、思いも寄らないことで気苦労をするものでございますので、何とかしてそのようなこととは関係なく、後見していただきたく存じます」

(ウェイリー英訳)It will not be easy, even a girl whose welfare has been the sole object of devoted parents often finds herself in a very difficult position if her mother dies and she has only her father to rely upon. But your task will, I fear, be far harder than that of a widowed father. Any kindness that you show the girl will at once be misinterpreted; she will be mixed up in all sorts of unpleasant bickerings and all your own friends will be set against her. And this brings me to a matter which is really very difficult to speak about. I wish I were so sure in my own mind that you would not make love to her. Had she my experience, I should have no fear for her. But unfortunately she is utterly ignorant and indeed is just the sort of person who might easily suffer unspeakable torment through finding herself in such a position. I cannot help wishing that I could provide for her future in some way that was not fraught with this particular danger…

(サイデンステッカー英訳)It is all so difficult. Even when a girl has a father to whom she can look with complete confidence, the worst thing is to lose her mother. Life can be dreadfully complicated when her guardian is found to have thoughts not becoming a parent. Unfortunate suspicions are sure to arise, and other women will see their chance to be ugly. These are distasteful forebodings, I know. But please do not let anything of the sort come into your relations with her. My life has been an object lesson in uncertainty, and my only hope now is that she be spared it all.

 ウェイリー訳は説明的で冗長だが、サイデンステッカー訳は簡潔で情感に乏しい。

 六条御息所は一週間後に死去し、光源氏は彼女との約束を守って斎宮を引き取り、梅壺女御(秋好中宮)に成長させるのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その五)

「近衛信尹」(プロフィール)  ( 『ウィキペディア(Wikipedia)』などにより作成)

生誕 永禄8年11月1日(1565年11月23日)
死没 慶長19年11月25日(1614年12月25日)
改名 信基(初名)→信輔→信尹
諡号 三藐院
官位 従一位、関白、准三宮、左大臣
主君 正親町天皇→後陽成天皇→後水尾天皇
父母 父:近衛前久、母:波多野惣七の娘
兄弟 信尹、尊勢、宝光院、前子、光照院
子 太郎姫、養子:信尋
(生涯)
天正5年(1577年)、元服。加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。
天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣となる。
同年5月、関白の位をめぐり、現職の関白である二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。その結果、7月に昭実が関白を辞し、秀吉が関白となる。一夜にして700年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深めた事に苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり、文禄元年(1592年)正月に左大臣を辞した。
→ 〇近衛殿さま「きやうき」(狂気=強度の神経衰弱)に御成候。「れうざん」(龍山)様の御子さまの事也。『北野社家日記』天正十八年(一五九〇)三月条(信輔=信尹=二十六歳)。
文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、同年12月に自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言したために天皇や秀吉の怒りを買い、文禄3年(1594年)4月に後陽成天皇の勅勘を蒙った。信尹は薩摩国の坊津に3年間配流となり、その間の事情を日記『三藐院記』に詳述した。
慶長元年(1596年)9月、勅許が下り京都に戻る。
慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し、撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。また、島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。
慶長6年(1601年)、左大臣に復職した。
慶長10年(1605年)7月23日、念願の関白となるも、翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞する。だが、この頻繁な関白交代は、秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。
慶長19年以降、大酒を原因とする病に罹っていたが、11月25日(1614年12月25日)に薨去、享年50。山城国(京都)東福寺に葬られる。
(書)
書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示した。特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。

檜原図屏風.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237246

【京都府 桃山/16世紀末~17世紀初頭 紙本墨画 屏風装 縦 151.5㎝  横 345.6㎝ 1隻 大阪市立美術館 大阪市天王寺区茶臼山1番8号 京都市指定 指定年月日:20110415 宗教法人禅林寺 有形文化財(美術工芸品) 
水墨で檜林を描く6曲1隻の屏風に,寛永の三筆として知られる近衛信尹(1565~1614)が「初瀬山夕越え暮れてやどとへば(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」という和歌を大書している。
本図が伝来した禅林寺(永観堂)には,信尹の書が揮毫された「いろは歌屏風」6曲1隻があり,本図と1双とされてきたが,画面の紙継や金泥引きの状態,書の下絵となる水墨画の作風などが異なっていることから,本来別々の屏風であったものが,後世になって組み合わされたと考えられる。信尹は,屏風に直に大書する作例をいくつか残しているが,下絵の水墨画と融合して,和歌の世界を表現する例は本図のみである。
 また,和歌の「三輪の檜原に」をあえて書かず,絵が代わって表現する趣向や,賛を予定してモチーフが中央に寄せられた構図など,水墨画と書との計算し尽された関係は特筆に値する。檜林は,抑制の効いた筆致と墨の階調で巧みに表現されており,絵師の優れた技量がうかがえる。落款はなく,筆者は不詳であるが,長谷川等伯(1539~1610)とする説が提出されている。 上質の絵画と書をあわせもち,近世初期の書,工芸,絵画の動向が深く絡み合う貴重な作例である。 】

はつせ山
ゆふこえ
くれて
やとゝ
へは
(三輪の檜原に)
秋風

ふく

 この「檜原図屏風」は、二〇一〇年に開催された「没後四百年 長谷川等伯展」(東京国立博物館・京都国立博物館)」(下記は『図録』の「章・出品目録」)に出品されていた。

<第1章 能登の絵仏師・長谷川信春>
<第2章 転機のとき-上洛、等伯の誕生->
<第3章 等伯をめぐる人々-肖像画->
<第4章 桃山謳歌-金碧画->
<第5章 信仰のあかし-本法寺と等伯->
<「第6章 墨の魔術師-水墨画への傾倒-」>
<「第7章 松林図の世界」>
76 国宝 松林図屏風 東京国立博物館蔵 六曲一双 各 156.8×356.0㎝ 
77 月夜松林図屏風           六曲一双 各 150.5×351.0㎝
78 檜原図屏風 京都・禅林寺      六曲一隻   151.5×345.6㎝ 

檜原・いろは歌屏風.jpg

近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上) いろは歌屏風(下) (禅林寺蔵)
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p235) 

【 素性法師歌屏風(六曲一隻)  禅林寺蔵 (上)
いろは歌屏風(六曲一隻)   禅林寺蔵 (下)
 紙の状態や、一対とする必然性のない二隻の書写内容から、これを一双とするには無理があるようであるが、禅林寺に納められた時には、すでに一双となっていた。
 素性法師の和歌「はつせ山ゆうこえくれてやどゝへば」「三輪の檜原(ひばら)に)「秋風ぞふく」を書く。中央の「三輪の檜原」の部分を、文字ではなく水墨画で表現する。古来の歌絵(うたえ)の趣向である。檜原の図は国宝の長谷川等伯筆の「松林図屏風 を連想させる。
 いろは歌屏風も、ダイナミックに文字を散らしていく。どのような筆を用いたのであろうか。木刀で容赦なく斬り込んでいくような激しさである。末尾の「前三々後三々(踊り文字)」というのは、『碧語録』(第三十五則、文殊前三三〇に見える公案。無著文喜が文殊菩薩に参禅する夢を見た。問答の後、無著の「ここでの修行者はどのくらいか」という問いに、文殊は「前三三、後三三―あちらに三人、こちらに四人」と答えたという。今に用いられる公案。これを信尹は最後に付け加えている。   】(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p234-236) 

この「はつせ山ゆふこえくれてやとゝへば(三輪の檜原に=水墨画で表現)秋風ぞ吹く」は、『新古今和歌集』では、「素性法師」ではなく「禅性法師」の作として、次のとおり収載されている。

    長月のころ、初瀬に詣でける道にてよみ侍りける
966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く 禅性法師
(初瀬山を夕方越えていくうちに日が暮れて、宿をさがしていると、三輪の檜原に秋風が吹くことだ。)
(出典:『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳:峯村文人)』 )

 「禅性法師」は、後鳥羽天皇の『新古今和歌集』時代の人で、仁和寺の僧都といわれている。それに対して、三十六歌仙の一人の「素性法師」は、桓武天皇の孫の六歌仙・三十六歌仙の一人「僧正遍照」の在俗時の子で、『古今和歌集』には、三十六首入集(入集数第四位)と、「紀貫之・凡河内躬恒・紀友則・壬生忠岑」(撰者)と並ぶ大歌人で、「屏風歌」(屏風に描かれている絵の主題に合わせてよまれた歌。屏風にはられた色紙形に書く)の名手といわれている。
 そして、『新古今和歌集』に収載されている、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」は、素性法師などの、次の『古今和歌集』の歌と深く関わっているようなのである。

https://core.ac.uk/download/pdf/223207637.pdf

秋風の身にさむければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに(古今555「素性法師」)
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(古今691・百人一首21「素性法師」)
来ぬ人待つ夕暮の秋風はいかに吹けばかわびしかるらむ(古今777「家持」)
三輪の山いかに待ち見む年経(ふ)ともたづぬる人もあらじと思へば(古今780)

さらに、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」は、『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」に登場する架空の人物浮舟を題材に制作されたとされている、謡曲「浮島」(世阿弥〈作詞:横尾元久=室町幕府管領 細川満元の被官の武家歌人〉の、そのスタートの「道行」で、下記のとおり、この本歌取りの「謡」(詞章)が使われている。

http://soxis.blog112.fc2.com/blog-entry-12.html

http://wakogenji.o.oo7.jp/nohgaku/noh-ukifune.html

(シテ詞)

これは諸国一見の僧にて候 われこのほどは初瀬に候ひが 
これより都に上らばやと思ひ候

(道行)

初瀬山 夕越えくれし(来・暮)宿もはや 夕越え暮れし宿もはや
檜原のよそにみわ(見・三輪)の山 しるしの杉もたちわかれ(立つ・立ち別れ)。
嵐とともになら(鳴る・奈良・楢)の葉の しばし(柴・暫し)休らふほどもなく
こま(狛・駒)の渡りや足早(あしはや)み
宇治の里にも着きにけり 宇治の里にも着きにけり 

 ここで、この『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の、そのスタート点に戻って、下記のアドレスの、その欠落部分(源氏物語』(第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」の、その原典となっている、謡曲「浮舟」(その原典は『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と見事に一致することになる。
 すなわち、近衛信尹にとって、『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の欠落部分の、その「第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」までの六帖は、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」が、それに代わっているということになる。
 そして、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の「素性法師歌屏風」は、より正確的には「素性法師由来歌屏風」ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木   (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋   (欠)                薫26歳秋
51 浮舟    (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳         】

(追記)

【 檜原図屏風 六曲一隻 近衛信尹和歌 長谷川等伯筆 紙本墨画 京都禅林寺
 「松林図屏風」(作品76)と同じく、樹林(檜原)を主体として描いた水墨の屏風絵である。画中には、寛永の三筆のひとり、近衛信尹(一五六五~一六一四)によって素性法師の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集』所収)が大書されていることから、この檜林が古来、名所として有名な「初瀬(あるいは三輪)の檜原」をあらわしたものとわかる。となれば、檜林の左手奥に配された雪山は初瀬山、その背後に見える寺塔は長谷寺ということになろう。また、和歌には「三輪の檜原に」の部分は書されていないが、これは図様からそれを読み取らせるというもので、蒔絵意匠などに見受けられる洒落た趣向である。その点、本図は和歌が書されるのを想定して描かれた可能性が高く、全体がやや薄めの墨であらわされていることや余白を多く取っている点にもそうした配慮をうかがうことができるよう。
 筆遣いはきわめて秀逸である。とくに前掲の木々の描写は精緻なもので、粗放さを旨とする「松林図屏風」のそれとは相違するが、墨の濃淡を駆使することで霧がかかったような視覚効果を生んでいる点は全く同じである。
 また、画面全体に漂うしっとりした情趣感も、「松林図屏風」のそれと軌を一にするものといえよう。図に落款がないこともあって、本図を等伯真筆とみるか周辺作とは意見が分かれるが、本図の技量の高さに加え、既に指摘されるように信尹と親しかった春屋宗園を参禅とし、また等伯に天授庵障壁画(作品65・66)を描かせた細川幽斎とも昵懇の間柄であったという事実からすれば、等伯以外の長谷川派絵師も本図の筆者とするのは難しいように思われる。その作期としては、本図の画風と信尹の書風から、およそ慶長四年(一五九九)前後が想定されている。  】(「没後四百年 長谷川等伯展」(東京国立博物館・京都国立博物館)」図録)所収「作品解説78(山本英男稿)」)

 この「作品解説78(山本英男稿)」でも、《素性法師の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集』所収)》になっているのだが、《素性法師由来の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集966 (禅性法師作)』所収)》が、より正確ということになろう。
 それよりも、《画面全体に漂うしっとりした情趣感も、「松林図屏風」のそれと軌を一にするものといえよう。図に落款がないこともあって、本図を等伯真筆とみるか周辺作とは意見が分かれるが、本図の技量の高さに加え、既に指摘されるように信尹と親しかった春屋宗園を参禅とし、また等伯に天授庵障壁画(作品65・66)を描かせた細川幽斎とも昵懇の間柄であったという事実からすれば、等伯以外の長谷川派絵師も本図の筆者とするのは難しいように思われる。その作期としては、本図の画風と信尹の書風から、およそ慶長四年(一五九九)前後が想定されている。》は、やはり、特記して置く必要があろう。
 ここに、下記のアドレスの、「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察 ・ 浜野真由美稿」の知見を加味していくと、その全体像が見えてくる。

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2015_11_21_01_hamano.pdf

【 「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察 ・ 浜野真由美(大阪大学)」
永観堂禅林寺に伝来する「檜原いろは歌屏風」は、「檜原図屏風」と「いろは歌屏風」の二隻からなる紙本墨画墨書の六曲一双屏風である。両隻の書はともに近衛信尹(1565~1614)筆と見做され、大字仮名の嚆矢として日本書道史上重要な位置を占めるが、そうした知名度に反し、実証的な考究はほとんど進められてはいない。近年「檜原図屏風」の画については長谷川等伯(1539~1610)筆に比定されたものの、「いろは歌屏風」の簡略な画は閑却されており、また、両隻には内容的にも関連性が見出せないとの指摘から、現在では本来別個の作であるとする見方が強い。
本発表では、まず二隻の現状と伝来を明らかにする。「檜原図屏風」は、熟考された構成と錬度の高い筆致から、慎重な制作状況が推察される。対して「いろは歌屏風」は、第一扇~第三扇は後補である可能性が高いが、当初とみられる第四扇~第六扇の墨垂れと軽妙な筆致から、むしろ即興的な制作状況が推察される。こうした相違に鑑みれば、確かに二隻は別個の作である蓋然性が高い。
ところが、『禅林寺年譜録』の元和 9 年(1623)の項、すなわち禅林寺第 37 世住持果空俊弍(?~1623)没年の項に「伊呂波屏風一双ナル」の記述が見出され、信尹と懇意であった果空上人の在世時に二隻が一双屏風として禅林寺に伝来したこと、つまり制作後ほどなくより一双屏風であったことが判明する。となれば、二隻に何らかの関係性が伏在した可能性も否めない。
そこで両隻の書画を再検討すると、画のモチーフはほぼ同じ位置に配され、書の字形や章法も近似する箇所が多いなど、意外な親近性が見出される。ことに、「いろは歌屏風」の終行「(前三々後三)々●」の踊り字にあえて用法上の誤りである「くの字点」を用い、「檜原図屏風」の終行の「(ふ)く●」と同じ形状の字で書き終えることは、「檜原図屏風」を意識しつつ「いろは歌屏風」を制作した可能性を示唆する。
こうした二隻の関係から、先行する「檜原図屏風」に即興的に制作した「いろは歌屏風」を加えて一双とした、という成立事情を想定することができよう。
さらに、「檜原図屏風」に表出された三輪地方が柿本人麻呂(660~720?)に縁深い地であることから、その主題は人麻呂の鎮魂にあるとの推察が可能であり、一方「いろは歌屏風」の主題はいろは歌の諸行無常観にあると考えられる。近年の和歌研究においては、人麻呂の歌にいろは歌と諸行無常偈を併記して解釈するといった、和歌文学における仏教的付会の傾向が指摘されており、二隻は内容的にも関連性を認めることができる。
なお、こうした書画の理解には和漢の文芸や仏教理念に関する知識が必須であろう。現段階では推察の域を出ないが、二隻の享受者が公家や五山の禅僧ら知識層、さらに言えば、当該期に盛行した和漢聯句や連歌の連衆であったという可能性も提起したい。 】
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

源氏物語画帖(その十三・明石)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   源氏27歳春-28歳秋

光吉・明石.jpg

源氏物語絵色紙帖 明石  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511314/2

明石・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 明石  詞・飛鳥井雅胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511314/1


(「飛鳥井雅胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/14/%E6%98%8E%E7%9F%B3_%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%80%91

人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声、も心すごく聞こゆ。古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、 箏の琴取りにやりて、入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり。
(第二章 明石の君の物語 第五段 源氏、入道と琴を合奏)

2.5.4 人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声も、 心すごく聞こゆ。
(他人の身の上もご自身の様子も、お思い出しになられて、夢のような気がなさるままに、掻き鳴らしなさっている琴の音も、寂寞として聞こえる。)
2.5.5  古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、 箏の琴取りにやりて、 入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき 手一つ二つ弾きたり。
(老人は涙も止めることができず、岡辺の家に、琵琶、箏の琴を取りにやって、入道は、琵琶法師になって、たいそう興趣ある珍しい曲を一つ二つ弾き出した。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十三帖 明石
 第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語
  第一段 須磨の嵐続く
  第二段 光る源氏の祈り
  第三段 嵐収まる
  第四段 明石入道の迎えの舟
 第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語
  第一段 明石入道の浜の館
  第二段 京への手紙
  第三段 明石の入道とその娘
  第四段 夏四月となる
  第五段 源氏、入道と琴を合奏
  (「飛鳥井雅胤」書の「詞」) → 2.5.4/2.5.5
  第六段 入道の問わず語り
  第七段 明石の娘へ懸想文
  第八段 都の天変地異
 第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語
  第一段 明石の侘び住まい
  第二段 明石の君を初めて訪ねる
  第三段 紫の君に手紙
  第四段 明石の君の嘆き
 第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語
  第一段 七月二十日過ぎ、帰京の宣旨下る
  第二段 明石の君の懐妊
  第三段 離別間近の日
  第四段 離別の朝
  第五段 残された明石の君の嘆き
 第五章 光る源氏の物語 帰京と政界復帰の物語
  第一段 難波の御祓い
  第二段 源氏、参内
  第三段 明石の君への手紙、他

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2201

源氏物語と「明石」(川村清夫稿)

【光源氏は、朧月夜との密会が弘徽殿女御の激怒を買い、須磨に隠棲した。そこへ明石に住む明石入道から自宅に招待されて、その娘である明石の上を紹介されるのである。

 明石入道は六十歳くらいの老人で、かつては近衛中将だったのだが播磨守(つまり受領階級)に転じ、隠居後に出家している。頑固なところもあるが、昔の事もよく知っていて、琴や琵琶などを上手に弾く趣味のよい、魅力のある人物である。明石入道の役は、初めての映像化作品である「源氏物語」(1951年、大映京都)ではかつての丹下左膳役者の大河内伝次郎が、武智鉄二が作った「源氏物語」(1966年、日活)では京都の狂言方である大蔵流の茂山七五三が、そして現代の思潮に迎合して製作された「千年の恋・ひかる源氏物語」(2001年、東映京都)では竹中直人が扮していた。

 明石入道は光源氏と琴を合奏してから、明石の上を光源氏と結婚させようとして紹介するのである。その明石入道の台詞を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。
(大島本原文)前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賎となりはべりけめ、親、大臣の位を保ちたまへりき。みづからかく田舎の民となりにてはべり。次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべるを、これは、生まれし時より頼むところなむはべる。いかにして都の貴き人にたてまつらむと思ふ心、深きにより、ひどほどにつけて、あまたの人の妬みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。

(渋谷現代語訳)前世からの宿縁に恵まれませんもので、このようなつまらない下賤な者になってしまったのでございますが、父親は、大臣の位を保っておられました。自分からこのような田舎の民となってしまったのでございます。子子孫孫と、落ちぶれる一方では、終いにはどのようになってしまうのかと、悲しく思っておりますが、わが娘は生まれた時から頼もしく思うところがございます。何とかして都の高貴な方に差し上げたいと思う決心、固いものですから、身分が低ければ低いなりに、多数の人々の嫉妬を受け、わたしにとってもつらい目に遭う折々多くございましたが、少しも苦しみとは思っておりません。

(ウェイリー英訳)My father, as you know, was a Minister of State; while I, no doubt owing to some folly committed in a former life, am become a simple countryman, a mere yokel, dwelling obscurely among the hills. If the process continued unchecked and my daughter was to fall as far below me in estate as I am now below my illustrious father, what a wretched fate, thought I, must be in store for her! Since the day of her birth my whole object has been to save her from such a catastrophe, and I have always been determined that in the end she should marry some gentleman of good birth from the Capital. This has compelled me to discourage many local suitors, and in doing so I have earned a great deal of unpopularity. I am indeed, in consequence of my efforts on her behalf, obliged to put up with many cold looks from the neighboring gentry; but these do not upset me at all.

(サイデンステッカー英訳)I have sunk to this provincial obscurity because I brought an unhappy destiny with me into this life. My father was a minister, and you see what I have become. If my family is to follow the same road in the future, I ask myself, then where will it end? But I have had high hopes for her since she was born. I have been determined that she go to some noble gentleman in the city. I have been accused of arrogance and unworthy ambitions and subjected to some rather unpleasant treatment. I have not let it worry me.

「前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賎となりはべりけめ」に関して、ウェイリーはI, no doubt owing to some folly committed in a former life, am become a simple countryman, a mere yokel, dwelling obscurely among the hills.と、サイデンステッカーはI sank to this provincial obscurity because I brought an unhappy destiny with me into this life.と訳している。サイデンステッカーは「前の世」をdestinyと解釈しているが、これでは運命の意味になってしまう。「前の世」をa former lifeと解釈したウェイリーの方が正確である。「次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべる」については、ウェイリーはIf the process continued, unchecked and my daughter was to fall as far below me in estate as I am now below my illustrious father, what a wretched fate, thought I, must be in store for her!と、サイデンステッカーはIf my family is to follow the same road in the future, I ask myself, then where will it end?としている。ウェイリー訳は冗漫に過ぎるのに比べ、サイデンステッカー訳は簡潔で正確である。「ひとほどにつけて、あまたの人の妬みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず」をウェイリーはThis has compelled me to discourage many local suitors, and in doing so I have earned a great deal of unpopularity, I am indeed, in consequence of my efforts on her behalf, obliged to put up with many cold looks from the neighboring gentry; but these do not upset me at all.と、サイデンステッカーはI have been accused of arrogance and unworthy ambitions and subjected to some rather unpleasant treatment. I have not let it worry me.と訳している。ウェイリー訳はあまりに説明的で長ったらしいのに対して、サイデンステッカー訳はここでも簡潔で明解な良訳である。
明石入道の紹介もあって、光源氏は明石の上と交際するようになるのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その四)

(「飛鳥井雅胤」周辺)

 この「詞書」の筆者の「飛鳥井雅胤」については、下記のアドレスの「夕顔」で紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

 雅胤は、天正十四年(一五八六)、の生まれ、断絶していた難波家を継ぎ再興した(難波家十三代当主)。慶長十二年(一六〇七)には左近衛少将となったが、翌同十四年(一六〇九)に猪熊教利・兄飛鳥井雅賢らと共に御所の官女と密会して乱交に及んだ事件(猪熊事件)で、後陽成天皇の勅勘を蒙り、同年に伊豆国へと配流された。
 兄・雅賢は隠岐国に配流されたまま寛永三年(一六二六)流刑地(隠岐島)で死去するが、雅胤は慶長十七年(一六一二)勅免により帰京し。翌同十八年(一六一三)名を雅胤(改名=宗勝)と改め、生家飛鳥井家の相続する(十四代当主)。難波家は子の宗種が相続した。
 「猪熊事件」に連座して配流先の伊豆から帰京して、名を「雅胤」に改名して飛鳥井家の当主になったのが慶長十八年(一六一三)とすると、雅胤が、この「源氏物語画帖」(「夕顔」と「明石」)を揮毫したのは、この土佐光吉が亡くなった、この慶長十八年(一六一三)なのか知れない。
 そして、この帰京して間もない飛鳥井雅胤に、この揮毫を依頼したのは、「猪熊事件」が白日の下にさらされた慶長十四年(一六〇九)時には関白職を辞しているが、後陽成天皇の義兄にあたる「信尹」(慶長十一年=一六〇六に関白辞職)と天皇の実弟の「八条宮智仁親王」の二人の影が見え隠れしている。
 殊に、「猪熊事件」の関与者には、「信尹」の「近衛殿(院)流」の能筆家、そして、この「源氏物語画帖」・「詞書」筆者の関係者などが散見される。

(死罪)
〇左近衛少将 猪熊教利(のりとし)
→「四辻公遠」の子、「高倉範国」の養子(「高倉範遠」と称す)、実兄の山科家を継いだ「教遠」(後に四辻季継)が、四辻家を継承し、その後の山科家を相続し、「山科教利」と改名するも、その山科家が、勅勘を蒙っていた「山科言経」が山科家に復帰し、その山科家の分家の「猪熊」家を興し、その家名は平安京の猪熊小路に由来する。教利は、天皇近臣である内々衆の一人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていた。勅命で鷲尾隆康の日記『二水記』を書写したほか、政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院(天皇の国母)の使者として伏見城の家康を訪ねた事もある(慶長6年(1601年)には県召除目で武蔵権介に任じられ、、家康からも200石を安堵されている)。
→ 一方、教利は在原業平や『源氏物語』の光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった。また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」と称されていたという。慶長12年(1607年)2月突如勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸等に誘っては女官と不義密通を重ねた「猪熊事件」の首謀者として、慶長14年(1609年)
10月17日常禅寺で斬刑に処された。享年27。
→ この「猪熊事件」の首魁・教利は、「流儀集」(「日本書流全史」に収載されている版本)に、「近衛(院)流」の能筆家の一人として、その名が刻まれている(『前田・前掲書)。
→ 実兄の「四辻季継」(1581~1639) →「源氏物語画帖」の「詞書(竹河・橋姫)」の筆者(近衛流)。
→実妹の「四辻与津子」→後水尾天皇の典侍。父は正二位権大納言四辻公遠。女房名、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。姉に上杉景勝側室(定勝生母)桂岩院。兄に鷲尾隆尚・四辻季継・猪熊教利ら。はじめ新上東門院に仕え綾小路と称したが、元和4年(1618年)ごろに後水尾天皇に出仕し典侍となり、賀茂宮(夭逝)、文智女王(梅宮)の1男1女を生む。東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され(およつ御寮人事件)、程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したといわれる。

(恩免)
〇参議 烏丸光広(1579-1638) →「源氏物語画帖」の「詞書(蛍・常夏)」の筆者(光悦流)。
→子の「烏丸光賢」(1600~1638)→「源氏物語画帖」の「詞書(薄曇・朝顔(木槿)」の筆者(「定家流」)。
〇右近衛少将 徳大寺実久(1583-1616)→配流された「花山院忠長」の実兄。慶長17年(1612年)に正四位下右近衛中将となり、慶長18年(1613年)1月6日には従三位に叙せられ、公卿に列した。慶長19年(1614年)には権中納言となる。元和元年(1615年)には踏歌節会外弁をつとめたが、元和2年に薨去した。享年34。
→父の「花山院定熙」(1558~1634)→「源氏物語画帖」の「詞書(夕霧・匂兵部卿宮・紅梅)」の筆者(花山院流)。

(配流=男性)
〇左近衛権中将 大炊御門頼国→硫黄島配流(慶長18年(1613年)流刑地で死没)。
左近衛少将 花山院忠長→蝦夷松前配流(寛永13年(1636年)勅免)→「徳大寺実久」の弟。「近衛流」。
〇左近衛少将 飛鳥井雅賢→隠岐配流(寛永3年(1626年)流刑地で死没)→「飛鳥井雅胤」の兄。
〇左近衛少将 難波宗勝→伊豆配流(慶長17年(1612年)勅免)。
→「飛鳥井雅胤」(1586-1651)→「源氏物語画帖」の「詞書(夕顔・明石)」の筆者(栄雅流)。
〇右近衛少将 中御門宗信 → 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)。

(配流=女性)
〇新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)→伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
→父の「広橋兼勝」(1558-1623)は、江戸幕府初代の武家伝奏で、兼勝の妻は「烏丸光康」(光広の祖父)の娘、兼勝の兄の「日野輝資」が「日野家」を継いでいる。この「日野輝資」の嫡子が「日野資勝」(1577-1639)で、「源氏物語画帖」の「詞書(真木柱・梅枝)」の筆者(定家流)である。後陽成天皇の寵愛の深い「広橋局」の密通の相手は「花山院忠長」で、この二人の関係を軸に「朝廷と幕府」との暗躍、「公家間」相互の対立抗争とが錯綜し、以降、「公家衆法度」・「禁中並公家諸法度」制定につながっていく。
〇権典侍 中院局(中院通勝の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
→父は「中院通勝」(1556-1610)、母は「細川幽斎」の養女、兄は「中院通村」(1588-1653)で「源氏物語画帖」の「詞書(若葉下・柏木)」の筆者(中院流)。烏丸光広との密通を疑われたといわれている(本名=仲子)。
〇中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
〇菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
〇命婦 讃岐(兼康頼継=死罪)の妹 →伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

「源氏物語画帖(その十二・須磨)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春

須磨・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 須磨  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/2

須磨・信尋.jpg

源氏物語絵色紙帖 須磨  詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/1

(「近衛信尋」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/13/%E9%A0%88%E7%A3%A8_%E3%81%99%E3%81%BE%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B8%96%E3%80%91

一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひしも、思ひ出できこえたまふ。

いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり
     (第四章 光る源氏の物語 第一段 須磨で新年を迎える)

4.1.2 一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひし」も、思ひ出できこえたまふ。(去る年の花の宴の折に、院の御様子、主上がたいそう美しく優美に、わたしの作った句を朗誦なさったのも、お思い出し申される。)

4.1.3 いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり (いつと限らず大宮人が恋しく思われるのに、桜をかざして遊んだその日がまたやって来た。)

百敷の大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮らしつ(和漢朗詠集上-二五 山辺赤人)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十二帖 須磨
 第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語
  第一段 源氏、須磨退去を決意
  第二段 左大臣邸に離京の挨拶
  第三段 二条院の人々との離別
  第四段 花散里邸に離京の挨拶
  第六段 藤壺に離京の挨拶
  第七段 桐壺院の御墓に離京の挨拶
  第八段 東宮に離京の挨拶
  第九段 離京の当日
 第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語
  第一段 須磨の住居
  第二段 京の人々へ手紙
  第三段 伊勢の御息所へぎやも手紙
  第四段 朧月夜尚侍参内する
 第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
  第一段 須磨の秋
  第二段 配所の月を眺める
  第三段 筑紫五節と和歌贈答
  第四段 都の人々の生活
  第五段 須磨の生活
  第六段 明石入道の娘
 第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
  第一段 須磨で新年を迎える
  (「近衛信尋」書の「詞」)→4.1.2/ 4.1.3
第二段 上巳の祓と嵐

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2095

源氏物語と「須磨」(川村清夫稿)

【「賢木」の帖で朧月夜との密会の場を右大臣に押さえられた光源氏は、弘徽殿女御の激怒を買って勅勘(天皇からとがめを受けること)の身となり、一時的に京の都を退去して、須磨に隠棲せざるを得なくなった。

光源氏は白氏文集、琴など須磨に携行する物を選び、紫上に留守宅ならびに全財産を預けて家を後にするのである。この場面を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、
「生ける世の別れを知らで契りつつ
命を人に限りけるかな
はかなし」
など、あさはかに聞こえなしたまへば、
「惜しからぬ命に代へて目の前の
 別れをしばしとどめてしがな」
「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。

(渋谷現代語訳)「わが身がこのようにはかない世の中を離れて行ったら、どのような状態でさすらって行かれるのであろうか」と、不安で悲しく思われるが、深いお悲しみの上に、ますます悲しませるようなので、
「生きている間に生き別れというものがあるとは知らずに
 命のある限りは一緒にと信じていたことよ、
はかないことだ」
などと、わざとあっさりと申し上げなさったので、
「惜しくもないわたしの命に代えて、
 今のこの別れを少しの間でも引きとどめて置きたいものです」
「なるほど、そのようにお思いだろう」と、たいそう見捨てて行きにくいが、
夜がすっかり明けてしまったら、きまりが悪いので、急いでお立ちになった。

(ウェイリー英訳)The thought came to him that he might die at Suma. Who would look after her? What would become of her? He was indeed on less heart-broken than she; but he knew that if he gave way to his feelings her misery would only be increased and he recited the verse:
“We who so long have sworn that death alone should part us, must suffer life for once to cancel all our vows.”
He tried to speak lightly, but when she answered:
“Could my death pay to hold you back, how gladly would I purchase a single moment of delay,”
He knew that she was not speaking idly. It was terrible to leave her, but he knew that by daylight it would be harder still, and he fled from the home.

(サイデンステッカー英訳)What sort of home would this unkind, inconstant city be for her now? But she was sad enough already, and these thoughts were best kept to himself. He said with forced lightness:
“At least for this life we might make our vows, we thought.
And so we vowed that nothing would ever part us.
How silly we were!”
This was her answer:
“I would give a life for which I have no regrets.
If it might postpone for a little the time of parting.”
They were not empty words, he knew; but he must be off, for he did not want the city to see him in broad daylight.

 紫上を心配する光源氏の台詞「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」に関して、ウェイリーはThe thought came to him that he might die at Suma. Who would look after her? What would become of her? と、冗漫だが原文に近い翻訳である。他方サイデンステッカーはWhat sort of home would this unkind, inconsistent city be for her now? と、原文からずれた翻訳をしている。

光源氏が紫上に詠んだ和歌「生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな」について、ウェイリーはWe who so long have sworn that death alone should part us, must suffer life for once to cancel all our vows と訳して、台詞の「はかなし」を略している。サイデンステッカーは台詞の「はかなし」も含めてAt least for this life we might make our vows, we thought. And so we vowed that nothing would ever part us. How silly we were! と訳している。後者の方がわかりやすい訳である。

紫上から光源氏への返歌「惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしがな」には、ウェイリーはCould my death pay to hold you back, how gladly would I purchase a single moment of delay.と、サイデンステッカーはI would give a life for which I have no regrets. If it might postpone for a little the time of parting.と訳している。後者の方が素直な訳である。

末尾の「いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ」に関して、ウェイリーはIt was terrible to leave her, but he knew that by daylight it would be harder still, and he fled from home.と原文の流れに沿って訳しているが、サイデンステッカーはHe must be off, for he did not want the city to see him in broad daylight.と、ひねった訳をしている。

一度は須磨に蟄居した光源氏だが、このすぐ後の「明石」の帖で、娘を上級貴族に嫁がせようとしていた、明石入道の歓待を受けることになるのである。 】


https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/69/5/69_5_343/_pdf/-char/ja

「後水尾院サロンと宮廷庭園の展開」(町田香稿)

後水尾院サロン.jpg

(「三藐院ファンタジー」その三)

「近衛信尋」(プロフィール)( 『ウィキペディア(Wikipedia)』などにより作成)

生誕:慶長4年5月2日(1599年6月24日)
死没:慶安2年10月11日(1649年11月15日
後陽成天皇の第四皇子。官位は従一位・関白、左大臣。近衞信尹の養子となり、近衞家19代目当主となる。これにより近衞家は皇別摂家となる。
父:後陽成天皇、母:近衞前子(信尹の妹)、養父:近衞信尹。
兄弟:承快法親王、聖興女王、覚深入道親王、龍登院宮、清子内親王・鷹司信尚室、文高女王、後水尾天皇、尊英女王、(近衞信尋)、 尊性法親王 、尭然法親王、高松宮好仁親王、・初代高松宮、良純法親王 、一条昭良、貞子内親王、尊覚法親王、永崇女王、高雲院宮、冷雲院宮、道晃法親王、尊清女王、空花院宮、尊蓮女王、道周法親王、慈胤法親王。
正室: 近衞信尹の娘=太郎(君)か?
子:尚嗣(近衞家20代当主、母=不詳)、寛俊、長君、尋子(徳川光圀の正室、通称は泰姫)、高慶尼、三時知恩寺尼。
(生涯)
慶長4年(1599年)5月2日生。幼称は四宮(しのみや)。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。
慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ公卿に列する。
慶長12年(1607年)に権中納言。
慶長16年(1611年)に権大納言。
慶長17年(1612年)には内大臣。。
慶長19年(1614年)に右大臣。
元和6年(1620年)に左大臣。
元和9年(1623年)には関白に補せられる。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山(おうざん)と号する。
慶安2年(1649年)10月11日薨去、享年51。
(人物・逸話)
〇和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。自筆日記として『本源自性院記』を残している。
〇近衞前久や信尹の文化人としての資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した。書道は養父信尹の三藐院流(別称:近衛流)を継承し、卓越した能書家だった。
〇茶道は古田重然に学び、連歌も巧みだった。実兄にあたる後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らと共に中心的人物として担った。また、禅僧の沢庵宗彭や一糸文守、後に養父と共に寛永の三筆として名を連ねる松花堂昭乗などの文人らと交流があり、宮廷への橋渡しも行っていた。
〇六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

 この「源氏物語絵色紙帖 須磨」を描いた「土佐久翌光吉」は、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五歳の生涯を閉じだ。そして、その翌年の、慶長十九年(一六一四)十一月二十五日、信尋の養父の近衛信尹が没している(享年五十)。
 慶長十八年(一六一三)時は、信尋は十五歳、そして、慶長十九年(一六一四)時は十六歳で、
上記の光吉の描いた「源氏物語絵色紙帖 須磨(光吉筆)」に対応する信尋の書の「詞書」は、その信尋の十五歳から十六歳時の頃の書ということになろうか。
 さらに、この信尋が右大臣に任ぜられたのは、慶長十九年(一六一四)正月十一日、信尹が没したのは、その年の十一月二十五日、そして、この両者が、「蓬生」(後出)で、《15蓬生(光吉筆)=(詞)※※近衛信尋(一五九九~一六四九) (「久翌=光吉」印):(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書) ※※※》で競作している。
その「紙背の墨書注記」(昭和四十九年に「二帖」から「四帖」に改訂した際に発見された墨書注記=『国華』第九九六号所載の武田恒夫氏論稿・『講座日本美術史』第一巻の松原茂氏論稿「詞書作者と執筆分担」)に書かれている「信尹・信尋・太郎(君)」の肩書などは、次のものである(『前田・前掲書』p168)。

【「賢木」・光吉画=(詞書)→八条宮智仁→八条宮一品式部卿知仁
「同」・長次郎画=(詞書→太郎(君)→近衛前関白左大臣信尹公御息女
「花散里」・光吉画=(詞書→太郎(君)→近衛前関白左大臣信尹公御息女
「同」・長次郎画=(詞書)→八条宮智仁→八条宮一品式部卿知仁
「蓬生」・光吉画=(詞書)→信尋→近衛右大臣左大将信尋
「同」・長次郎画=(詞書)→信尹→近衛前関白左大臣信尹        】
(『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

太郎君・花散里.jpg

A図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

須磨・信尋.jpg
B図 源氏物語絵色紙帖 須磨  詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/1

信尹・太郎・賢木.jpg

C図(右)=「源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)」=京都国立博物館蔵
C図(左)=近衛信尹筆「賢木」詞書手本(陽明文庫蔵)=(右図の手本ょ
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』)

 「A図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)」については、下記のアドレスの前回(その十一)に取り上げた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

 ここで、信尹の『三藐院記』の、子供にかんする記述を紹介し、その『三藐院記』に記述されている、下記の「B・C」の「子・愛娘」が、「太郎(君)」とすると、「信尋」は一歳年下
になるということに触れた。
 
【A 今夜、竹、誕ス。男子也。但、即時空。可惜、可嘆。文禄三年(一五九四)七月二十条・信尹三十歳
B 辰下刻(午前九時過ぎ)、女子生。慶長三年(一五九八)五月六日条・信尹三十四歳
C 晴、愛娘ハシカ出。慶長十一年(一六〇六)正月五日条・信尹四十二歳  】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p166)

 そして、C図(右)=「源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)」については、下記のアドレスの前々回(その十)で取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

 ここで、信尹の遺書ともいうべき「信尹公御書置(かきおき)」を紹介し、さらに、C図(右)には、C図(左)の、信尹直筆の「C図(右)の手本」があるということに触れ、下記の記述を紹介した。

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

 ここで、A図(太郎君の「花散里」の書)と、B図(信尋の「須磨」の書)とを、並列して鑑賞したい。そして、土佐光吉が生存していた慶長十八年(一六一三)時の書とすると、A図(太郎君の「花散里」の書)は、太郎(君)の十六歳、B図(信尋の「須磨」の書)は、信尋の十五歳時の作品ということになる。
 さらに、この太郎(君)のC図(左)の、信尹直筆の「C図(右)の手本(「太郎の『花押』入り)」があるということは、「愛娘」の「太郎(君)」には、「書家(近衛流=信尹流)」の一翼を期待してのもの、そして、このB図(信尋の「須磨」の書)には、信尹の跡を継いで、近衞家第十九代目当主となることと同時に、「書家(近衛流=信尹流)」の、その双璧を、「太郎(君)」共々、期待してのものなのではなかろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-08

 『日本書道全史(下巻)・講談社刊』の「近衛流」は下記のとおりである(数字などは「目次」番号など)。ここに、『前田・前掲書(p244-246)』により、『本朝古今名公古筆諸流』(元禄七年=一六四四)の「近衛流の人々(信尹没年時の年齢など)」を付記《》して置きたい(※印は「信尋」と「太郎君」)。

https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001278246-02.html

【27 近衛流 〔二五三−二八六〕
299 近衛信尹(信輔・信基・三藐院)(945〜980) 二五三 → 《信基公改信輔又信尹共 天正之比三藐院と号。五十歳》
300 和久半左衛門(981〜989) 二七二 →《近衛殿流 秀吉公之右筆。三十七歳》
301 四辻季継(990) 二七六 →《季継 近衛殿流 天正之比。三十四歳》
302 西園寺公益(991) 二七六
303 九条道房(992) 二七六 
※304 近衛信尋(応山)(993〜1007) 二七七 →《信尋公 慶長四年誕生 正保弐年出家四十七歳也、法名応山と号。十六歳》
305 大覚寺 空性親王(1008〜1010) 二八三
306 西園寺公満(1011) 二八三
307 滋野井季吉(1012〜1013) 二八四 →《季吉 近衛殿流。二十九歳》
308 鷹司信房(1014) 二八四  
309 花山院忠長(1015) 二八四   → 《忠長 近衛殿流。二十七歳》
310 鷹司教平(1016〜1017) 二八五 → 《近衛殿流 慶長十四年ニ誕生。六歳》
311 堀川康胤(1018) 二八五
312 北野禅昌(1019) 二八五  → 《近衛殿流》
313 津田辨作吉之(1020) 二八六
※314 近衛太郎君(1021) 二八六          
《後水尾院 勅筆 慶安之仙祠様。十九歳》
《高松殿 好仁 近衛殿流 初之筆。十二歳》
《徳大寺殿 実久 近衛殿流。三十二歳 》
《正親町三条実有 近衛流 又実助。二十七歳》
《北野松梅院 禅意 近衛殿流》
《連歌師 兼也 近衛殿流》
《生田六左衛門 近衛殿流》
《古川長助 近衛殿流》
《湯山 甚澄 近衛殿流 慶長之比》         】
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

「源氏物語画帖(その十一・花散里)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女太郎(君   源氏25歳夏 
  花散里(長次郎筆)=(詞) 八条宮智仁

光吉・花散里.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画:土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

太郎君・花散里.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

長次郎・花散里.jpg

B-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里  画:長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

八条宮・花散里.jpg

B-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1


(「近衛信尹息女太郎(君)」書の「詞」=A-2図)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/12/%E8%8A%B1%E6%95%A3%E9%87%8C_%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%A1%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%B8%96%E3%80%91

琴を、あづまに調べて、掻き合はせ、にぎははしく弾きなすなり。御耳とまりて、門近なる所なれば、すこし さし出でて見入れたまへば、(第二段 中川の女と和歌を贈答)

1.2.1 琴を、 あづまに調べて、 掻き合はせ、にぎははしく 弾きなすなり。
(琴を東の調べに合わせて、賑やかに弾いているのが聞こえる。)
1.2.2 御耳とまりて、門近なる所なれば、すこし さし出でて見入れたまへば、
(お耳にとまって、門に近い所なので、少し乗り出してお覗き込みなさると、)

(「八条宮智仁」書の「詞」=B-2図)

「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす ほの語らひし宿の垣根に」
寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、おぼめくなるべし。(第二段 中川の女と和歌を贈答)

1.2.3 「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす ほの語らひし宿の垣根に」
(「昔にたちかえって懐かしく思わずにはいられない、ほととぎすの声だ。かつてわずかに契りを交わしたこの家なので」)
1.2.4 寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、 声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、 おぼめくなるべし。
(寝殿と思われる家屋の西の角に女房たちがいた。以前にも聞いた声なので、咳払いをして相手の様子を窺ってから、ご言伝を申し上げる。若々しい女房たちの気配がして、不審に思っているようである。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十一帖 花散里
第一章 花散里の物語
  第一段 花散里訪問を決意
  第二段 中川の女と和歌を贈答
(「近衛信尹息女太郎(君)」書の「詞」=B-2図)→ 1.2.1/1.2.2 
(「八条宮智仁」書の「詞」=B-4図) → 1.2.3/1.2.4 
第三段 姉麗景殿女御と昔を語る
  第四段 花散里を訪問

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2053

源氏物語と「花散里」(川村清夫稿)

【 光源氏の愛人の中で、花散里は紫上のような美女でもなければ、末摘花のような醜女でもない、普通の容貌の持主であった。ただし温和で、家庭的な性格だったので、光源氏の豪邸六条院が完成してからは、光源氏から紫上に次いで大切にされた。

 「花散里」の帖は、源氏物語の中で最も短い帖であり、最も冗長な帖である「若菜」の帖と好対照である。内容は、光源氏が麗景殿女御のもとを訪問したついでに、その妹である花散里とも会うという状況描写だけで、台詞はほとんど出てこない。ただし末尾に、光源氏の男女交際観が書かれているので、ここにあげておく。

「花散里」の帖の原文は、藤原定家の自筆本である。定家自筆本はこの帖と、「行幸」、「柏木」、「早蕨」、「野分」の5帖しか現存していない。それでは定家自筆本、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順番に見てみよう。

(定家自筆本)かりに見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも、「ことわりの、世のさが」と、思ひなしたまふ。

(渋谷現代語訳)かりそめにもお契りになる相手は、皆並々の身分の方ではなく、それぞれにつけて、何の取柄もないとお思いになるような方はいないからだろうか、嫌と思わず、自分も相手も情愛を交わし合いながら、お過ごしになるのであった。それを、つまらないと思う人は、何やかやと心変わりしていくのも、「無理もない、人の世の習いだ」と、しいてお思いになる。

(ウェイリー英訳)Being women of character and position they had no false pride and saw that it was worthwhile to take what they could get. Thus without any ill will on either side concerning the future or the past they would enjoy the pleasure of each other’s company, and so part. However, if by chance anyone resented this kind of treatment and cooled towards him, Genji was never in the least surprised; for though, as far as feelings went, perfectly constant himself, he had long ago learnt that such constancy was very unusual.

(サイデンステッカー英訳) There were no ordinary, common women among those with whom he had had even fleeting affairs, nor were there any among them in whom he could find no merit; and so it was, perhaps, that an easy, casual relationship often proved durable. There were some who changed their minds and went on to other things, but he saw no point in lamenting what was after all the way of the world.

 第1文の前半「かりに見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや」に関しては、ウェイリーはBeing women of character and position they had no false pride and saw that it was worthwhile to take what they could get.と、サイデンステッカーはThere were no ordinary, common women among those with whom he had had even fleeting affairs, nor were there any among them in whom he could find no merit.と訳している。

「おしなべての際にはあらず」をウェイリーはwomen of character and positionと、サイデンステッカーはthere were no ordinary, common womenと解釈している。また「いふかひなしと思さるるはなければにや」については、ウェイリーはit was worthwhile to take what they could getと、サイデンステッカーはnor were there any among them in whom he could find no meritととらえている。

第1文の後半「憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり」に関しては、ウェイリーはThus without any ill will on either side concerning the future or the past they would enjoy the pleasure of each other’s company, and so part.と、冗漫な訳をしている。他方サイデンステッカーはand so it was, perhaps, that an easy, casual relationship often proved durable.と、訳し足りない。

ウェイリーが「憎げなく」をwithout ill willと、「我も人も情けを交はしつつ」をthey would enjoy the pleasure of each other’s companyと解釈しているのに対して、サイデンステッカーはこれらの部分を訳出せず、そっけなくeasy, casual relationshipにまとめてしまっている。

第2文の前半「それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも」については、ウェイリーはif by chance anyone resented this kind of treatment and cooled towards himと、サイデンステッカーはthere were some who changed their minds and went on to other thingsと簡単に訳しているが、「あいなし」の正しい訳語はunattractiveである。

第2文の後半「ことわりの、世のさがと、思ひなしたまふ」に関しては、ウェイリーの訳文はGenji was never in the least surprised; for though, as far as feelings went, perfectly constant himself, he had long ago learnt such constancy was very unusualと冗長で、サイデンステッカーの訳文はbut he saw no point in lamenting what was after all all the way of the worldと簡潔である。キーワードである「ことわりの、世のさが」を、ウェイリーはsuch constancy was very unusual、サイデンステッカーはthe way of the worldと訳しているが、これは後者の方が的確である。

 麗景殿女御と花散里への訪問もつかの間のやすらぎであった。「賢木」の帖で朧月夜との密会の場を右大臣に押さえられた光源氏は、弘徽殿女御の激怒を買って勅勘の身となり、流罪を避けて、須磨から明石へ蟄居することになるのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その二)

「A-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)」について、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』では、「力強い書風である。太郎君は、数えで九歳のときに麻疹(ましん)を患っている。容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」とコメントしている(p67)。
近衛信尹の日記『三藐院記』には、「太郎(君)」に関する記述はない。ただ、その『三藐院記』には、子供について、次の三箇所の記述がある。

【A 今夜、竹、誕ス。男子也。但、即時空。可惜、可嘆。文禄三年(一五九四)七月二十条・信尹三十歳
B 辰下刻(午前九時過ぎ)、女子生。慶長三年(一五九八)五月六日条・信尹三十四歳
C 晴、愛娘ハシカ出。慶長十一年(一六〇六)正月五日条・信尹四十二歳  】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p166)

Aは、信尹が薩摩の坊津に配流になった三か月後のことで、「竹」は信尹の身辺に仕えた侍女の一人で、後年にも、信尹の書簡などに、その名が記されているようである(『前田・前掲書)。この嬰児は、生まれると直ぐに亡くなり(即時空)、「可惜(惜シム可シ)、可嘆(嘆ク可シ)」。
Bは、生母が不明だが、女子誕生の記述。この女子が「太郎(君)」なのかも知れない。Cでは、この「愛娘(まなむすめ)」が「ハシカ」(麻疹)を患ったという記述で、「恙なく成長していれば、九歳、そして、前年の慶長十年に元服した信尋は、一歳年下の八歳」ということになる(『前田・前掲書)。『稲本・前掲書』では、この『三藐院記』の記述に基づいてのものなのであろう。
 しかし、「花散里」の「画」(B-1図・光吉筆)に対応する「詞」(B-2図・太郎書)のコメントとして、『稲本・前掲書』の、「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」は、やや飛躍過ぎという雰囲気で無くもない。
 そして、「花散里は紫上のような美女でもなければ、末摘花のような醜女でもない、普通の容貌の持主であった。ただし温和で、家庭的な性格だった」(「川村・前掲稿」)ということに着目しての、何らかのコメントが付加されるというように解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【 4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)(「久翌=光吉」印) 
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (「長次郎」墨書)
  5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) )(「久翌=光吉」印) 
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (「長次郎」墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) )(「久翌=光吉」印)
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (「長次郎」墨書) 
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)※※※)(「久翌=光吉」印)
   (長次郎筆)=(詞)※近衛信尹息女(?~?) (「長次郎」墨書)
11 花散里(光吉筆)=※(詞)近衛信尹息女(?~?) (「久翌=光吉」印) 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書) ※※※)
15 蓬生(光吉筆)=(詞)※※近衛信尋(一五九九~一六四九) (「久翌=光吉」印)
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書) ※※※ 】

『源氏物語画帖』(京博本)は、「絵・詞書」ともに五十四枚の画帖である。「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。そして、「49宿木」から「54夢浮橋」までの六場面は存在しない。この六場面に代わるものとして、上記の「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」が「光吉筆と長次郎筆」で重複している。
この「49宿木から54夢浮橋」の六画面を外して、代わりに、この「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」を、何故に重複させて描かせたのであろうかということについて、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』では、次のように記述している。

【 重複六場面には、光源氏が女性のもとを訪れる場面と、光源氏が女性の姿を垣間見る場面が描かれている。このような情景選択と長次郎の甘く優しい絵の表現から、「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる(注一)。 
 最後の場面である蓬生の絵(上記の「15蓬生」=後出)を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。
(注一)=稲本万里子「京都国立博物館保管「源氏物語画帖」に関する一考察―長次郎による重複六場面をめぐって―」『国華』一二二三、一九九七年九月。
(注二)=武田恒夫「土佐光吉と細画―京都国立博物館源氏物語図帖をめぐって―」『国華』九九六、一九七六年十二月。=この論稿が、《「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。》ことを明らかにしたもので、(注一)などは、ここからスタートしている。 】(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66)

 ここで、『稲本・前掲書』では、「蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか」という指摘は「是」としても、これは、「※※※信尹(養父)と※※信尋(養子=実子に近い)」との「両者の『詞書』との関係」で、「※※※信尹「実父」と※太郎(君)=実子の愛娘との関係」との「両者の『詞書』との関係」ではない。そして、これらのことから、「太郎(君)=ハシカ(麻疹)=「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」のストレートの結び付きは、やはり否定的に解したい。
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

「源氏物語画帖(その十)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)   源氏23歳秋-25歳夏
  賢木(長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女太郎(君)

光吉・賢木.jpg

A=1図 源氏物語絵色紙帖 賢木  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580820/2

賢木・詞.png

A-2図 源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580820/1


(A-2図「八条宮智仁」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/11/%E8%B3%A2%E6%9C%A8%E3%83%BB%E6%A6%8A_%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%80%91_%E9%87%8E%E5%AE%AE_%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%BF

榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」と、聞こえたまへば、「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」
(第一章 六条御息所の物語 第二段 野の宮訪問と暁の別れ)

1.2.14 榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、(榊を少し折って持っていらしたのを、差し入れて、)
1.2.15 「変らぬ色をしるべにてこそ 斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」
(「変わらない心に導かれて、禁制の垣根も越えて参ったのです。何とも薄情な」)
1.2.16 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.17 「 神垣(かみがき)はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」(「ここには人の訪ねる目印の杉もないのに、どう間違えて折って持って来た榊なのでしょう」)
1.2.18 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.19 「 少女子(おとめご)があたりと思へば 榊葉の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」(「少女子がいる辺りだと思うと、榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」)

長次郎・賢木.jpg

B=1図 源氏物語絵色紙帖 賢木  画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511517/2

太郎君・賢木.jpg

B=2図 源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511517/1


(B-2図「近衛信尹息女太郎(君)の「詞」)

神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」

1.2.17 「 神垣(かみがき)はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」(「ここには人の訪ねる目印の杉もないのに、どう間違えて折って持って来た榊なのでしょう」)
1.2.18 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.19 「 少女子(おとめご)があたりと思へば 榊葉の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」(「少女子がいる辺りだと思うと、榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十帖 賢木
 第一章 六条御息所の物語 秋の別れと伊勢下向の物語
  第一段 六条御息所、伊勢下向を決意
  第二段 野の宮訪問と暁の別れ
(A-2図「八条宮智仁」書の「詞」)→ 1.2.14/1.2.15/1.2.16/1.2.17/1.2.18/1.2.19 
(B-2図「太郎君」書の「詞」)  → 1.2.17/1.2.18/1.2.19  
  第三段 伊勢下向の日決定
  第四段 斎宮、宮中へ向かう
  第五段 斎宮、伊勢へ向かう
 第二章 光る源氏の物語 父桐壺帝の崩御
  第一段 十月、桐壺院、重体となる
  第二段 十一月一日、桐壺院、崩御
  第三段 諒闇の新年となる
  第四段 源氏朧月夜と逢瀬を重ねる
 第三章 藤壺の物語 塗籠事件
  第一段 源氏、再び藤壺に迫る
  第二段 藤壺、出家を決意
 第四章 光る源氏の物語 雲林院参籠
  第一段 秋、雲林院に参籠
  第二段 朝顔斎院と和歌を贈答
  第三段 源氏、二条院に帰邸
  第四段 朱雀帝と対面
  第五段 藤壺に挨拶
  第六段 初冬のころ、源氏朧月夜と和歌贈答
 第五章 藤壺の物語 法華八講主催と出家
  第一段 十一月一日、故桐壺院の御国忌
  第二段 十二月十日過ぎ、藤壺、法華八講主催の後、出家す
  第三段 後に残された源氏
 第六章 光る源氏の物語 寂寥の日々
  第一段 諒闇明けの新年を迎える
  第二段 源氏一派の人々の不遇
  第三段 韻塞ぎに無聊を送る
 第七章 朧月夜の物語 村雨の紛れの密会露見
  第一段 源氏、朧月夜と密会中、右大臣に発見される
  第二段 右大臣、源氏追放を画策する

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1940

源氏物語と「賢木」(川村清夫稿)

【 源氏物語で十番目の帖になる「賢木」は「榊」とも呼ばれる。「葵」の帖で自分の生霊が葵上をとり殺してしまった六条御息所は、光源氏との関係を清算して、娘の斎宮(後の秋好中宮)と共に伊勢に下ることを決意する。

光源氏は彼らが伊勢に下向する前に滞在していた野宮(現在の野宮神社)に上がり込み、榊の小枝を御簾の下から差し入れて、別れを惜しむのだった。大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順番で見てみよう。

(大島本原文)月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ、榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、
「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣(いがき)も越えはべりにけれ、さも心憂く」
と聞こえたまへば、
「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」
と聞こえたまへば、
「少女子があたりと思へば榊葉の 香をなつかしみめてこそ折れ」

(渋谷現代語訳)幾月ものご無沙汰を、もっともらしく言い訳申し上げなさるのも、面映ゆいほどになってしまったので、榊を少し折って持っていらしたのを、差し入れて、
「変わらない心に導かれて、禁制の垣根も越えて参ったのです。何とも薄情な」
と申し上げなさると、
「ここには人の訪ねる目印の杉もないのにどう間違えて折って持ってきた榊なのでしょう」
と申し上げなさると、
「少女子(をとめご)がいる辺りだと思うと榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」

(ウェイリー英訳)He began trying to explain why it was that for so many months on end he had not been able to visit her; but he soon got into a tangle, and feeling suddenly embarrassed he plucked a spray from the Sacred Tree which grew outside her room and handing it to her through her blinds-of-state he said: “Take this evergreen bough in token that my love can never change. Were it not so, why should I have set foot within the boundaries of this hallowed plot? You use me very ill.” But she answered with the verse: “Thought you perchance that the Holy Tree from whose boughs you plucked a spray was as ‘the cedar by the gate’?” To this he replied: “Well knew I what priestess dwelt in this shrine, and for her sake came to pluck this offering of fragrant leaves.”

(サイデンステッカー英訳)Not wishing to apologize for all the weeks of neglect, he pushed a branch of the sacred tree in under the blinds.
“With heart unchanging as this evergreen,
This sacred tree, I enter the sacred gate.”
She replied: “You err with your sacred tree and sacred gate.
No beckoning cedars stand before my house.”
And he: “Thinking to find you here with the holy maidens,
I followed the scent of the leaf of the sacred tree.”

 ウェイリー訳が説明的で冗漫なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔であるものの省略も見受けられる。

まず「月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ」に関しては、ウェイリーはHe began trying to explain why it was that for so many months on end he had not been able to visit her; but he soon got into a tangle, and feeling suddenly embarrassedと、長ったらしいが全て訳している。

他方サイデンステッカーはNot wishing to apologize for all the weeks of neglectと、「まばゆきほどになりにければ」を省略した訳をしている。この部分で光源氏がしているのは言い訳であり、謝罪ではない。ウェイリー訳の方が正確である。

 光源氏の次の行動である「榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて」については、ウェイリーはhe plucked a spray from the Sacred Tree which grew outside her room and handing it to her through her blinds-of-stateと、榊が屋外で生育していると創作して、冗漫な訳をしている。

サイデンステッカーはhe pushed a branch of the sacred tree under the blindsと、榊の枝を折ったことを略して訳している。

 光源氏の台詞「変わらぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ、さも心憂く」に関しては、ウェイリーはTake this evergreen bough in token that my love can never change. Were it not so, why should I have set foot within the boundaries of this hallowed plot? You use me very ill.と、長々と訳している。

サイデンステッカーはWith heart unchanging as this evergreen, this sacred tree, I enter the sacred gate.と簡潔な訳文であるが、「さも心憂く」を訳していない。

 六条御息所の和歌「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ」では、ウェイリーはThought you perchance that the Holy Tree from whose boughs you plucked a spray was as ‘the cedar by the gate’?と、サイデンステッカーはYou err with your sacred tree and sacred gate. No beckoning cedars stand before my house.と訳しているが、後者の方がすっきりとして、わかりやすい。

 そして光源氏の返歌「少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみてこそ折れ」では、ウェイリーはWell know I want priestess dwelt in this shrine, and for her sake came to pluck this offering of fragrant leavesと、サイデンステッカーはThinking to find you here with the holy maidens, I followed the scent of the leaf of the sacred tree.と訳しているが、原文は「思へば」なので、後者の方が正確である。

 斎宮のいる野宮の御簾に榊の枝を差し入れるとは、光源氏は図々しい人物である。  】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/67/5/67_5_397/_pdf/-char/ja

「八条宮智仁親王サロンの形成と展開にみる固有性と時代性」(町田香稿)

智仁親王サロン二.jpg


(「三藐院ファンタジー」その一)

信尹・太郎・賢木.jpg

C図(右)=B=2図(源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君))=京都国立博物館蔵
C図(左)=近衛信尹筆「賢木」詞書手本(陽明文庫蔵)=B-2図の手本
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』)

一 慶長十八年(一六一三)十一月十一日、近衛信尹は遺書をしたためた。「信尹公御書置(かきおき)」として、陽明文庫に所蔵されている。その書き出しは、次のとおりである。

【今宵、死に候わば、
一 葬礼は黄金(きがね)二枚にて東福寺にてごたごたと焼かせ、少しなりとも坊主どもに取らせ候ようにし候べく候。引導(いんどう)は、韓長老(文英清韓)、ただし引導に及ばず。
一 三百石は、太郎殿、信尋と仲悪くなり候わば、四百石、太郎の一世の分なり。その後は家の知行。
 御霊殿の知行は五十石ばかり候。是は家へ御返し候べく候。光様(光照院)参る。
一 物の本どもは、太郎に取らせ候外、みな、信尋の本たるべし。
一 宣旨(せんじ)事、思し召し寄り候程、信尋より合力候べく候。太郎に知行分け候内にても苦しからず候へども、人を使い候程の心持ち召され候べく候。
    (中略)
 慶長十八(年)霜月十一日             信尹(花押)
 宣旨
女御さまにて
  人々御中                             】
(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p150-p153)

この宛名の「宣旨」(もともとは天皇などの命令を伝達する公文書の一様式であるが、宣旨を取り次ぐ女官などを指し、摂関家などでは宣旨と称する女房がいた)は、「太郎と特別な関係(母子の関係?)」にある女性、そして『女御』は、「後陽成天皇の女御、信尹の同母の妹、信尹の養嗣子となっている信尋の生母」の「前子」(三十九歳)と、『前田・前掲書』と解している。
 そして、この宛名の両人(「宣旨」と「女御」)は、「いまだ成人に達していない太郎(年齢未詳)と信尋(十五歳)、二人の後見人だったのであろう」との推計に達している。

二 この信尹の遺書は、「近衛家の知行の相続、分与」と、「紙面の大半を割いて、いわゆる形見分けの指示がなされている」のだが、その「近衛家の知行の相続、分与」は、「当然ながら、それ養嗣子の信尋が継承すべきものである」が、殊に、信尹の長女とされている「太郎」に、「三百石、信尋と仲悪くなり候わば、四百石(太郎の一世の分なり=太郎一代限り)」とし、また、「宣旨」に関して別に一項を立てて、「太郎分の知行分の内で賄えば良いことなのだが、信尋の合力、力添えを得て、せめて使用人を置くだけの余裕をと、信尋の理解と寛大な思いやり」を「召され候」としてるのがポイントとなる(『前田前掲書』)。
 そして、この「太郎」に関して、この「書置」とは別に「太郎は姫か」と、ここに焦点を当て、種々の信尹と太郎との資料を駆使して、次のような見解に達している。

【 たとえ太郎が姫としても、
〇信尹が太郎のために男性向きの手紙の手本を与え、手習いさせていること。
〇せっかくの姫君なのに、近衛家で生涯を終わらせる段取りをしているのはなぜか。
 やはり、この二つの疑問は疑問のままで残ってしまう。この二つの疑問が氷解しなければ、太郎息女説に心から首肯することはできない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170)

三  これに続いて紹介されているのが、冒頭に掲げたC図(右・左)(原典では「図18-右・左」)なのである。

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

四 続いて、「太郎と楊林院」(p1710-p174)のその結語で、次のように記述されている。

【 太郎には無論生母もいたが、どんな事情があったのか、父親である信尹が太郎の成長に対して心を砕いているようだ。折に付け、事に付け、楊林院を頼っているふしもある。太郎は同性の先達として楊林院に近づけてやりたい、そのような三者の関わりが思われるのである。
 姫であれば、信尹にとって太郎はまさに鍾愛の珠である。わずかのことでも傷がついてしまいそうな、はかなげで純真無垢の珠である。あるいは生来の病弱、蒲柳の質であったのだろうか。それゆえに、信尹は太郎に男子の鎧を着せて、守ってやりたいと思う。太郎という男児の名前も、花押を用いた男性的な書状も、いわゆる変成男子(へんじょうなんし=古来、女子(女性)は成仏することが非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想)の願望の所産であったか、と想像力を働かせてしまうのであるが、いかがであろう。それゆえに、信尹は自分の死後も、太郎が近衛家という楽園で安寧に過ごすことを思案したのではなかろうか。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p174)

ここに登場する「楊林院」は、従一位・権大納言柳原淳光(一五四一~一五九七)の後室で、
先の「信尹公御書置」の形見分けでは、「赤き硯、葡萄の食籠(じきろう)、我々いつも飲み候天目一つ」と、信尹とは特別に親密な関係にあったことが伺われる。しかし、信尹との関係、また、その「書置」に出てくる「宣旨」そして「太郎」との関係などは、全くの謎のままである。
 この「楊林院」は、慶長十四年(一六〇九)の宮中で起きた「猪熊事件」(上層公家衆と女房衆との密通事件)の、幕府(駿府の徳川家康)と朝廷(後陽成天皇)との、その朝廷の折衝役の一人として登場して来る。

https://core.ac.uk/download/pdf/292913343.pdf

【(慶長十四年) 同月(八月)二十日には所司代の板倉(板倉勝重)、翌(九月)十一日には女院(後陽成天皇の生母の新上東門院=勧修寺晴子))の使者帥局と女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)の使者右衛門督および楊林院(柳原淳光後室)の三人が駿府に向けて出発した。(p37)

(慶長十四年)十月一日、問題の女房衆五人と御末衆五人・女嬬三人が楊林院に同行されて駿府に下り、そのまま女房衆五人と女嬬二人が伊豆の新島へ配流となった。(p38)  】(「近世初頭の朝廷における女院の役割(久保貴子稿)」)

 「楊林院」が、この「猪熊事件」の朝廷の折衝役の役割を担っていたということは、「女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)」の使者という立場と共に、
晩年の徳川家康を支えた側室の「阿茶局」(一五五五~一六三七)との親交が厚かったことなどが、「楊林院宛太郎書簡(信尹の太郎のために書いた手本の書簡)」などからも察知される(『前田・前掲書』p171-p172)。

 こうなると、この「三藐院ファンタジー」は、際限なく続いて行くこととなる。
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

「源氏物語画帖(その九)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春

葵・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 葵  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/573126/2

葵・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 葵 詞・八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/573126/1

(「八条宮智仁」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/10/%E8%91%B5_%E3%81%82%E3%81%8A%E3%81%84%E3%83%BB%E3%81%82%E3%81%B5%E3%81%B2%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91_%E8%BB%8A%E4%BA%89_%E3%81%8F%E3%82%8B

つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。
(第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語 第二段 新斎院御禊の見物)

1.2.16 つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。 心やましきをばさるものにて、 かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。(とうとう、お車を立ち並べてしまったので、副車の奥の方に押しやられて、何も見えない。悔しい気持ちはもとより、このような忍び姿を自分と知られてしまったのが、ひどく悔しいこと、この上ない。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第九帖 葵
第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語
  第一段 朱雀帝即位後の光る源氏
  第二段 新斎院御禊の見物
(「八条宮智仁」書の「詞」)→ 1.2.16 

葵・挿絵.jpg

  第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物
 第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語
  第一段 車争い後の六条御息所
  第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う
  第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する
  第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る
  第五段 葵の上、男子を出産
  第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する
  第七段 葵の上の葬送とその後
  第八段 三位中将と故人を追慕する
  第九段 源氏、左大臣邸を辞去する
 第三章 紫の君の物語 新手枕の物語
  第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす
  第二段 結婚の儀式の夜
  第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り

(周辺メモ)

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1831

源氏物語と「葵」(川村清夫稿)

【 「葵」の帖は、源氏物語の前半におけるヤマ場の1つである。葵祭の見物で、光源氏の正妻である葵上と車争いをして敗れた六条御息所の生霊が葵上にとりつく場面である。
 生霊退散のために加持祈祷の僧侶が呼ばれ、光源氏は葵上を見舞い慰めの言葉をかけるが、葵上の口から出て来る声が六条御息所の声であるのに気が付き、驚愕するのである。

(大島本原文)
「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ、かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」となつかしげに言ひて、
「なげきわび空に乱るるわが魂を
結びとどめよしたがひのつま」
とのたまふ声、けはひ、その人にあらず、変りたまへり。いとあやしと思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。

(渋谷現代語訳)
「いえ、そうではありません。身体がとても苦しいので、少し休めて下さいと申そうと思って、このように参上しようとはまったく思わないのに、物思いする人の魂は、なるほど抜け出るものだったのですね」と、親しげに言って、
「悲しみに堪えかねて抜け出たわたしの魂を
結び留めてください。下前の褄を結んで」
とおっしゃる声、雰囲気、この人でなく、変わっていらっしゃった。「たいそう変だ」とお考えめぐらすと、まったく、あの御息所その人なのであった。

(ウェイリー英訳)
Suddenly she interrupted him: „No, no. That is not it. But stop these prayers a while. They do me great harm,” and drawing him nearer to her she went on, “I did not think that you would come. I have waited for you till all my soul is burnt with longing.” She spoke wistfully, tenderly; and still in the same tone recited the verse,
“Bind thou, as the seam of a skirt is braided, this shred, that from my soul despair and loneliness have sundered.”
The voice in which these words were said was not Aoi’s; nor was the manner hers. He knew someone whose voice was very like that. Who was it? Why, yes; surely only she_ the Lady Rokujo.

(サイデンステッカー英訳)
„No, no. I was hurting so. I asked them to stop for a while. I had not dreamed that I would come to you like this. It is true: a troubled soul will sometimes go wandering off.” The voice was gentle and affectionate.
“Bind the hem of my robe, to keep it within,
The grieving soul that has wandered through the skies.”
It was not Aoi’s voice, nor was the manner hers. Extraordinary _ and then he knew that it was the voice of the Rokujo Lady.

 光源氏に対する、葵上にとりついた六条御息所の生霊の台詞「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを。もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」に関しては、ウェイリーは”No, no. That is not it. But stop these prayers a while. They do me great harm.”と、台詞の内容を整理して訳したまではよいのだが、その後は”I did not think that you would come. I have waited for you till all my soul is burnt with longing.”と、明らかな誤訳をしている。
「かく参り来むともさらに思はぬを」の主語は、光源氏でなく六条御息所である。「あくがる」には魂が肉体から離れる意味の他に、心を引かれて後をしたう意味もあるのだが、その前に「もの思ふ人の魂は」とあるので、魂が遊離する意味にとる方が自然である。

 サイデンステッカーは”No, no. I was hurting so. I asked them to stop for a while. I had not dreamed that I would come to you like this. It is true; a troubled soul will sometimes go wandering off.”と、原文の語順に従って正確に訳している。

 六条御息所の生霊の和歌「なげきわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがひのつま」を見てみよう。詩歌は文章より多くの内容を限られた字数の枠に入れ込むので、詩歌の翻訳は文章の翻訳より難しい。

 ウェイリーは”Bind thou, as the seam of a skirt is braided, this shred, that from my soul despair and loneliness have sundered.”と、サイデンステッカーは”Bind the hem of my robe, to keep it within, the grieving soul that has wandered through the skies.”と訳している。「したがひ」とは、衣服の前を合わせると下になる方であり、「つま」とは、衣服の裾の左右両端部分のことである。

 「したがひのつま」をウェイリーはseam of a skirt(スカートの縫い目)と解釈しているが、これでは不正確である。サイデンステッカーがthe hem of my robeと解釈した方が正しい。ウェイリーが源氏物語を英訳した1920年代の西洋では、中世日本の服飾に関する知識が貧弱だったのである。

 葵上は光源氏の嫡子である夕霧を出産するが、この世を去ってしまうのである。 】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/67/5/67_5_397/_pdf/-char/ja

「八条宮智仁親王サロンの形成と展開にみる固有性と時代性」(町田香稿)

智仁親王サロン.jpg

八条宮智仁親王
没年:寛永6.4.7(1629.5.29)
生年:天正7.1.8(1579.2.3)
安土桃山・江戸初期の皇族。四親王家のひとつ桂宮の初代。誠仁親王(陽光院)の第6皇子。母は新上東門院。後陽成天皇の弟に当たる。法号桂光院。はじめ豊臣秀吉の猶子となるが、秀吉に鶴松が誕生したため宮家を創立,八条宮と称した。天正19(1591)年親王宣下を受け、元服、式部卿に任ぜられ、慶長6(1601)年一品に叙せられた。
若年より和歌・連歌を好み、文禄5(1596)年『伊勢物語』などの講釈を細川幽斎より受け、師事する。和歌の批点を受け、二条家系の歌学を学んだ。慶長5(1600)年、石田三成方の軍勢に囲まれ丹後田辺城(京都府)に籠城の幽斎より、古今伝授を受けた話は著名。
寛永2(1625)年後水尾天皇に古今伝授を授け、近世初期の宮廷社会に継承される御所伝授の基となった。自亭でしばしば和歌や連歌の会を催し、また和歌などの古典作品の集書や新写も熱心に行った。親王の筆による写本や自筆の詠草が数多く現存する。現在、日本建築美の代表とされる桂離宮は、親王が元和初期(1615~16)に創設した別邸で2代智忠親王によって完成された。(相馬万里子稿)
(出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

「源氏物語画帖(その八)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春

花宴・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 花宴  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/531838/2

花宴・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 花宴  詞・大覚寺空性
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/531838/1

(「大覚寺空性」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/09/%E8%8A%B1%E5%AE%B4%E3%83%BB%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%AE%B4_%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%88%E3%82%93%E3%83%BB%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%82%91%E3%82%93%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9

朧月夜に似るものぞなき、とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女恐ろしと思へるけしきにて、あな、むくつけ。こは、誰そ、とのたまへど、何か、疎ましきとて、「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」
(第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う)

1.2.5 「 朧月夜に似るものぞなき」(「朧月夜に似るものはない」)
1.2.6  とうち誦じて、 こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、( と口ずさんで、こちらの方に来るではないか。とても嬉しくなって、とっさに袖をお捉えになる。女、怖がっている様子で、)
1.2.7 「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、(「あら、嫌ですわ。これは、どなたですか」とおっしゃるが、)
1.2.8 「 何か、疎ましき」とて、(「どうして、嫌ですか」と言って、)
1.2.9 「 深き夜のあはれを知るも入る月の おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」(「趣深い春の夜更けの情趣をご存知でいられるのも、前世からの浅からぬ御縁があったものと存じます」)

花宴・挿絵.jpg

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第八帖 花宴
 第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴
 第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う
 第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる
 (「大覚寺空性」書の「詞」→ 1.2.5/1.2.6/ 1.2.7 /1.2.8/1.2.9 )
第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲
 第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1820

源氏物語と「花宴」(川村清夫稿)

【光源氏が20歳になった年の二月に、紫宸殿にて桜花の宴が催された。その夜に彼は弘徽殿(飛香舎と共に、清涼殿のすぐ北にあった後宮の殿舎、現存しない)に入り、「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき」という、大江千里の和歌を口ずさんでいた朧月夜と知り合った。

 後で光源氏は彼女が、彼を敵視する弘徽殿女御の妹であることを知るのである。江戸城の大奥と違い、平安宮内裏の後宮は男子禁制ではなかった。内裏の宴会の後で、酒に酔った男性貴族が後宮に入り込み、女官と睦み合うことは珍しくなかったのである。 】

https://otemae.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1018&item_no=1&page_id=33&block_id=62

「寛永文化」(中村直勝稿)

【 藤堂高虎が藤堂という名字は、藤原氏に関係があると称して、巧みに関白近衛信尹に接近し、後陽成天皇に要請して、将軍徳川秀忠の女和子(慶長十二年十月生)を後水尾天皇の中宮として、入内さすことに成功した。元和六年六月十八日のことである。
  そのときに、一つの波乱があった。
 和子の入内は、その前年秀忠が上洛した時に、殆んど、きまったのであったが、元和五年六月廿日後水尾天皇に一人の皇女が生れた。四辻公遠の妹「およつの局」が母であった。
幕府は、それを耳にした。秀忠は和子入内以前に、かかる内寵のあったことは、宮中風儀の乱れを示すものであるから、とて、和子入内を辞退すると申入れた。幸にして後水尾天皇の御母である中和門院(近衛信尹の妹)が、懇々として申披きをされ、かかる事は絶無である、ということにして、漸く和子の入内が実現したのであった。言わば、宮中は恥さらしをされたのであった。
 東福門院のためには、宮中は荊蘇の巷であったが、東福門院の婦徳は、後水尾天皇の震襟を充分になごめ奉って、宮廷の平和は、破れなかった。この複雑なる宮廷事情が、どうした文化を生み出すものだろうか。

 (中略)

 さきに豊臣秀吉が他日の万一に備えて、迎えて猶子とした後陽成天皇の皇弟桂宮知仁親王は、相当な御料地を持たれたまま、豊臣氏滅亡と共に、影を淡めて行く外はなかった。それに準じて徳川家康に迎えられた皇弟曼殊院宮良尚親王は、徳川幕府の地盤が固まるにつれて、もう無用の長物となり、幕府の関心は刻々に消え去って行った。
 後水尾上皇の消すに消せない御不満は、修学院離宮の造営ということで、真綿をかけられ、勃発すべくもない状態に押し流されてしまった。
 関白近衛信信尹とその養子信尋(後水尾天皇皇弟)との勢力は莫大であったけれども、幕府の後援があるだけに、宮廷人には、畏敬されたにしても、親愛さは持たれなかった。人望はそれよりも、同じく皇弟であって一条家を嗣がれた一条兼遐に集った。深く大きかった。
 後水尾天皇譲位。明正天皇の御宇になると兼遐は信尋に代って関白になり、摂政になり、後光明天皇の御宇にも再び摂政になり、また関白になっておる。人望の高さを示すものである。
 宮廷には、この外に大納言鳥丸光広が範を超えた横着さで構えておるし、孜々として後水尾天皇に学問を以て奉仕した中院通村がおった。就中、通村は古今伝授の把持者として有名であり、後水尾天皇にその秘伝を伝えて、今後の朝廷をして古今伝授の家元のような立場においたことは、大きな功績であろう。

(中略)

 寛永の文化を概観略述してみると、慶長元和の戦乱時代がすぎて平和の時代に到達した事が如実に示され、学問文芸の方面は百華練乱という文字が示す通りの壮観であった。
 民間学者には源氏物語の『湖月抄」を著わして源氏研究に著しい進境を与えた北村季吟がおるし、大坂には近松門左衛門の浄瑠璃や、松永貞徳の俳諧が、新分野の獲得と拡張を見せておるし、堅い方面では、伊藤仁斉の古学派的儒学が、中国儒者の悌をそのままに伝えて、漢学を民間に波及させた効果も著しい時であった。
 狩野探幽が、土佐光興の古典画や狩野永徳や山楽の装飾画から脱出して、写生画に新らしい画筆を動かせ、従来の狩野派や土佐派には見られなかった衆民住宅に適応した画境を開いた時である。
 本阿弥光悦及び俵屋宗達が、豪壮無比なる工芸的な画風をもって、富裕者の嗜好に投じたと共に、絵画工芸方面に新希望を燃え上らせ、新機軸を見せた時代であった。
 茶道にあっても、古田織部正重然が、南蛮陶器に暗示を得たのであろう"織部焼"を新たに案出し、形態から釉に及んで、一種の前衛的な作品を世に問い、極めて破格的な茶垸をもって茶道を新鮮にし、茶道に、なお、未来のある一道を宏め出した。
 江戸においては田畠の永代売を禁止したり、歌舞伎役者を追捕したりすることが目立って来た。社会層の著しき変化あるべきを、想わすることになった。これは要するに、文化の中心が上層位の公武から、中層位の町民に移って来たからである。  】
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート