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「源氏物語画帖(その九)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春

葵・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 葵  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/573126/2

葵・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 葵 詞・八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/573126/1

(「八条宮智仁」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/10/%E8%91%B5_%E3%81%82%E3%81%8A%E3%81%84%E3%83%BB%E3%81%82%E3%81%B5%E3%81%B2%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91_%E8%BB%8A%E4%BA%89_%E3%81%8F%E3%82%8B

つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。
(第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語 第二段 新斎院御禊の見物)

1.2.16 つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。 心やましきをばさるものにて、 かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。(とうとう、お車を立ち並べてしまったので、副車の奥の方に押しやられて、何も見えない。悔しい気持ちはもとより、このような忍び姿を自分と知られてしまったのが、ひどく悔しいこと、この上ない。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第九帖 葵
第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語
  第一段 朱雀帝即位後の光る源氏
  第二段 新斎院御禊の見物
(「八条宮智仁」書の「詞」)→ 1.2.16 

葵・挿絵.jpg

  第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物
 第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語
  第一段 車争い後の六条御息所
  第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う
  第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する
  第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る
  第五段 葵の上、男子を出産
  第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する
  第七段 葵の上の葬送とその後
  第八段 三位中将と故人を追慕する
  第九段 源氏、左大臣邸を辞去する
 第三章 紫の君の物語 新手枕の物語
  第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす
  第二段 結婚の儀式の夜
  第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り

(周辺メモ)

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1831

源氏物語と「葵」(川村清夫稿)

【 「葵」の帖は、源氏物語の前半におけるヤマ場の1つである。葵祭の見物で、光源氏の正妻である葵上と車争いをして敗れた六条御息所の生霊が葵上にとりつく場面である。
 生霊退散のために加持祈祷の僧侶が呼ばれ、光源氏は葵上を見舞い慰めの言葉をかけるが、葵上の口から出て来る声が六条御息所の声であるのに気が付き、驚愕するのである。

(大島本原文)
「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ、かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」となつかしげに言ひて、
「なげきわび空に乱るるわが魂を
結びとどめよしたがひのつま」
とのたまふ声、けはひ、その人にあらず、変りたまへり。いとあやしと思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。

(渋谷現代語訳)
「いえ、そうではありません。身体がとても苦しいので、少し休めて下さいと申そうと思って、このように参上しようとはまったく思わないのに、物思いする人の魂は、なるほど抜け出るものだったのですね」と、親しげに言って、
「悲しみに堪えかねて抜け出たわたしの魂を
結び留めてください。下前の褄を結んで」
とおっしゃる声、雰囲気、この人でなく、変わっていらっしゃった。「たいそう変だ」とお考えめぐらすと、まったく、あの御息所その人なのであった。

(ウェイリー英訳)
Suddenly she interrupted him: „No, no. That is not it. But stop these prayers a while. They do me great harm,” and drawing him nearer to her she went on, “I did not think that you would come. I have waited for you till all my soul is burnt with longing.” She spoke wistfully, tenderly; and still in the same tone recited the verse,
“Bind thou, as the seam of a skirt is braided, this shred, that from my soul despair and loneliness have sundered.”
The voice in which these words were said was not Aoi’s; nor was the manner hers. He knew someone whose voice was very like that. Who was it? Why, yes; surely only she_ the Lady Rokujo.

(サイデンステッカー英訳)
„No, no. I was hurting so. I asked them to stop for a while. I had not dreamed that I would come to you like this. It is true: a troubled soul will sometimes go wandering off.” The voice was gentle and affectionate.
“Bind the hem of my robe, to keep it within,
The grieving soul that has wandered through the skies.”
It was not Aoi’s voice, nor was the manner hers. Extraordinary _ and then he knew that it was the voice of the Rokujo Lady.

 光源氏に対する、葵上にとりついた六条御息所の生霊の台詞「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを。もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」に関しては、ウェイリーは”No, no. That is not it. But stop these prayers a while. They do me great harm.”と、台詞の内容を整理して訳したまではよいのだが、その後は”I did not think that you would come. I have waited for you till all my soul is burnt with longing.”と、明らかな誤訳をしている。
「かく参り来むともさらに思はぬを」の主語は、光源氏でなく六条御息所である。「あくがる」には魂が肉体から離れる意味の他に、心を引かれて後をしたう意味もあるのだが、その前に「もの思ふ人の魂は」とあるので、魂が遊離する意味にとる方が自然である。

 サイデンステッカーは”No, no. I was hurting so. I asked them to stop for a while. I had not dreamed that I would come to you like this. It is true; a troubled soul will sometimes go wandering off.”と、原文の語順に従って正確に訳している。

 六条御息所の生霊の和歌「なげきわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがひのつま」を見てみよう。詩歌は文章より多くの内容を限られた字数の枠に入れ込むので、詩歌の翻訳は文章の翻訳より難しい。

 ウェイリーは”Bind thou, as the seam of a skirt is braided, this shred, that from my soul despair and loneliness have sundered.”と、サイデンステッカーは”Bind the hem of my robe, to keep it within, the grieving soul that has wandered through the skies.”と訳している。「したがひ」とは、衣服の前を合わせると下になる方であり、「つま」とは、衣服の裾の左右両端部分のことである。

 「したがひのつま」をウェイリーはseam of a skirt(スカートの縫い目)と解釈しているが、これでは不正確である。サイデンステッカーがthe hem of my robeと解釈した方が正しい。ウェイリーが源氏物語を英訳した1920年代の西洋では、中世日本の服飾に関する知識が貧弱だったのである。

 葵上は光源氏の嫡子である夕霧を出産するが、この世を去ってしまうのである。 】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/67/5/67_5_397/_pdf/-char/ja

「八条宮智仁親王サロンの形成と展開にみる固有性と時代性」(町田香稿)

智仁親王サロン.jpg

八条宮智仁親王
没年:寛永6.4.7(1629.5.29)
生年:天正7.1.8(1579.2.3)
安土桃山・江戸初期の皇族。四親王家のひとつ桂宮の初代。誠仁親王(陽光院)の第6皇子。母は新上東門院。後陽成天皇の弟に当たる。法号桂光院。はじめ豊臣秀吉の猶子となるが、秀吉に鶴松が誕生したため宮家を創立,八条宮と称した。天正19(1591)年親王宣下を受け、元服、式部卿に任ぜられ、慶長6(1601)年一品に叙せられた。
若年より和歌・連歌を好み、文禄5(1596)年『伊勢物語』などの講釈を細川幽斎より受け、師事する。和歌の批点を受け、二条家系の歌学を学んだ。慶長5(1600)年、石田三成方の軍勢に囲まれ丹後田辺城(京都府)に籠城の幽斎より、古今伝授を受けた話は著名。
寛永2(1625)年後水尾天皇に古今伝授を授け、近世初期の宮廷社会に継承される御所伝授の基となった。自亭でしばしば和歌や連歌の会を催し、また和歌などの古典作品の集書や新写も熱心に行った。親王の筆による写本や自筆の詠草が数多く現存する。現在、日本建築美の代表とされる桂離宮は、親王が元和初期(1615~16)に創設した別邸で2代智忠親王によって完成された。(相馬万里子稿)
(出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)
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