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「源氏物語画帖(その十)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)   源氏23歳秋-25歳夏
  賢木(長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女太郎(君)

光吉・賢木.jpg

A=1図 源氏物語絵色紙帖 賢木  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580820/2

賢木・詞.png

A-2図 源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580820/1


(A-2図「八条宮智仁」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/11/%E8%B3%A2%E6%9C%A8%E3%83%BB%E6%A6%8A_%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%80%91_%E9%87%8E%E5%AE%AE_%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%BF

榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」と、聞こえたまへば、「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」
(第一章 六条御息所の物語 第二段 野の宮訪問と暁の別れ)

1.2.14 榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、(榊を少し折って持っていらしたのを、差し入れて、)
1.2.15 「変らぬ色をしるべにてこそ 斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」
(「変わらない心に導かれて、禁制の垣根も越えて参ったのです。何とも薄情な」)
1.2.16 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.17 「 神垣(かみがき)はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」(「ここには人の訪ねる目印の杉もないのに、どう間違えて折って持って来た榊なのでしょう」)
1.2.18 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.19 「 少女子(おとめご)があたりと思へば 榊葉の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」(「少女子がいる辺りだと思うと、榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」)

長次郎・賢木.jpg

B=1図 源氏物語絵色紙帖 賢木  画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511517/2

太郎君・賢木.jpg

B=2図 源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511517/1


(B-2図「近衛信尹息女太郎(君)の「詞」)

神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」

1.2.17 「 神垣(かみがき)はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」(「ここには人の訪ねる目印の杉もないのに、どう間違えて折って持って来た榊なのでしょう」)
1.2.18 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.19 「 少女子(おとめご)があたりと思へば 榊葉の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」(「少女子がいる辺りだと思うと、榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十帖 賢木
 第一章 六条御息所の物語 秋の別れと伊勢下向の物語
  第一段 六条御息所、伊勢下向を決意
  第二段 野の宮訪問と暁の別れ
(A-2図「八条宮智仁」書の「詞」)→ 1.2.14/1.2.15/1.2.16/1.2.17/1.2.18/1.2.19 
(B-2図「太郎君」書の「詞」)  → 1.2.17/1.2.18/1.2.19  
  第三段 伊勢下向の日決定
  第四段 斎宮、宮中へ向かう
  第五段 斎宮、伊勢へ向かう
 第二章 光る源氏の物語 父桐壺帝の崩御
  第一段 十月、桐壺院、重体となる
  第二段 十一月一日、桐壺院、崩御
  第三段 諒闇の新年となる
  第四段 源氏朧月夜と逢瀬を重ねる
 第三章 藤壺の物語 塗籠事件
  第一段 源氏、再び藤壺に迫る
  第二段 藤壺、出家を決意
 第四章 光る源氏の物語 雲林院参籠
  第一段 秋、雲林院に参籠
  第二段 朝顔斎院と和歌を贈答
  第三段 源氏、二条院に帰邸
  第四段 朱雀帝と対面
  第五段 藤壺に挨拶
  第六段 初冬のころ、源氏朧月夜と和歌贈答
 第五章 藤壺の物語 法華八講主催と出家
  第一段 十一月一日、故桐壺院の御国忌
  第二段 十二月十日過ぎ、藤壺、法華八講主催の後、出家す
  第三段 後に残された源氏
 第六章 光る源氏の物語 寂寥の日々
  第一段 諒闇明けの新年を迎える
  第二段 源氏一派の人々の不遇
  第三段 韻塞ぎに無聊を送る
 第七章 朧月夜の物語 村雨の紛れの密会露見
  第一段 源氏、朧月夜と密会中、右大臣に発見される
  第二段 右大臣、源氏追放を画策する

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1940

源氏物語と「賢木」(川村清夫稿)

【 源氏物語で十番目の帖になる「賢木」は「榊」とも呼ばれる。「葵」の帖で自分の生霊が葵上をとり殺してしまった六条御息所は、光源氏との関係を清算して、娘の斎宮(後の秋好中宮)と共に伊勢に下ることを決意する。

光源氏は彼らが伊勢に下向する前に滞在していた野宮(現在の野宮神社)に上がり込み、榊の小枝を御簾の下から差し入れて、別れを惜しむのだった。大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順番で見てみよう。

(大島本原文)月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ、榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、
「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣(いがき)も越えはべりにけれ、さも心憂く」
と聞こえたまへば、
「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」
と聞こえたまへば、
「少女子があたりと思へば榊葉の 香をなつかしみめてこそ折れ」

(渋谷現代語訳)幾月ものご無沙汰を、もっともらしく言い訳申し上げなさるのも、面映ゆいほどになってしまったので、榊を少し折って持っていらしたのを、差し入れて、
「変わらない心に導かれて、禁制の垣根も越えて参ったのです。何とも薄情な」
と申し上げなさると、
「ここには人の訪ねる目印の杉もないのにどう間違えて折って持ってきた榊なのでしょう」
と申し上げなさると、
「少女子(をとめご)がいる辺りだと思うと榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」

(ウェイリー英訳)He began trying to explain why it was that for so many months on end he had not been able to visit her; but he soon got into a tangle, and feeling suddenly embarrassed he plucked a spray from the Sacred Tree which grew outside her room and handing it to her through her blinds-of-state he said: “Take this evergreen bough in token that my love can never change. Were it not so, why should I have set foot within the boundaries of this hallowed plot? You use me very ill.” But she answered with the verse: “Thought you perchance that the Holy Tree from whose boughs you plucked a spray was as ‘the cedar by the gate’?” To this he replied: “Well knew I what priestess dwelt in this shrine, and for her sake came to pluck this offering of fragrant leaves.”

(サイデンステッカー英訳)Not wishing to apologize for all the weeks of neglect, he pushed a branch of the sacred tree in under the blinds.
“With heart unchanging as this evergreen,
This sacred tree, I enter the sacred gate.”
She replied: “You err with your sacred tree and sacred gate.
No beckoning cedars stand before my house.”
And he: “Thinking to find you here with the holy maidens,
I followed the scent of the leaf of the sacred tree.”

 ウェイリー訳が説明的で冗漫なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔であるものの省略も見受けられる。

まず「月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ」に関しては、ウェイリーはHe began trying to explain why it was that for so many months on end he had not been able to visit her; but he soon got into a tangle, and feeling suddenly embarrassedと、長ったらしいが全て訳している。

他方サイデンステッカーはNot wishing to apologize for all the weeks of neglectと、「まばゆきほどになりにければ」を省略した訳をしている。この部分で光源氏がしているのは言い訳であり、謝罪ではない。ウェイリー訳の方が正確である。

 光源氏の次の行動である「榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて」については、ウェイリーはhe plucked a spray from the Sacred Tree which grew outside her room and handing it to her through her blinds-of-stateと、榊が屋外で生育していると創作して、冗漫な訳をしている。

サイデンステッカーはhe pushed a branch of the sacred tree under the blindsと、榊の枝を折ったことを略して訳している。

 光源氏の台詞「変わらぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ、さも心憂く」に関しては、ウェイリーはTake this evergreen bough in token that my love can never change. Were it not so, why should I have set foot within the boundaries of this hallowed plot? You use me very ill.と、長々と訳している。

サイデンステッカーはWith heart unchanging as this evergreen, this sacred tree, I enter the sacred gate.と簡潔な訳文であるが、「さも心憂く」を訳していない。

 六条御息所の和歌「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ」では、ウェイリーはThought you perchance that the Holy Tree from whose boughs you plucked a spray was as ‘the cedar by the gate’?と、サイデンステッカーはYou err with your sacred tree and sacred gate. No beckoning cedars stand before my house.と訳しているが、後者の方がすっきりとして、わかりやすい。

 そして光源氏の返歌「少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみてこそ折れ」では、ウェイリーはWell know I want priestess dwelt in this shrine, and for her sake came to pluck this offering of fragrant leavesと、サイデンステッカーはThinking to find you here with the holy maidens, I followed the scent of the leaf of the sacred tree.と訳しているが、原文は「思へば」なので、後者の方が正確である。

 斎宮のいる野宮の御簾に榊の枝を差し入れるとは、光源氏は図々しい人物である。  】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/67/5/67_5_397/_pdf/-char/ja

「八条宮智仁親王サロンの形成と展開にみる固有性と時代性」(町田香稿)

智仁親王サロン二.jpg


(「三藐院ファンタジー」その一)

信尹・太郎・賢木.jpg

C図(右)=B=2図(源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君))=京都国立博物館蔵
C図(左)=近衛信尹筆「賢木」詞書手本(陽明文庫蔵)=B-2図の手本
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』)

一 慶長十八年(一六一三)十一月十一日、近衛信尹は遺書をしたためた。「信尹公御書置(かきおき)」として、陽明文庫に所蔵されている。その書き出しは、次のとおりである。

【今宵、死に候わば、
一 葬礼は黄金(きがね)二枚にて東福寺にてごたごたと焼かせ、少しなりとも坊主どもに取らせ候ようにし候べく候。引導(いんどう)は、韓長老(文英清韓)、ただし引導に及ばず。
一 三百石は、太郎殿、信尋と仲悪くなり候わば、四百石、太郎の一世の分なり。その後は家の知行。
 御霊殿の知行は五十石ばかり候。是は家へ御返し候べく候。光様(光照院)参る。
一 物の本どもは、太郎に取らせ候外、みな、信尋の本たるべし。
一 宣旨(せんじ)事、思し召し寄り候程、信尋より合力候べく候。太郎に知行分け候内にても苦しからず候へども、人を使い候程の心持ち召され候べく候。
    (中略)
 慶長十八(年)霜月十一日             信尹(花押)
 宣旨
女御さまにて
  人々御中                             】
(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p150-p153)

この宛名の「宣旨」(もともとは天皇などの命令を伝達する公文書の一様式であるが、宣旨を取り次ぐ女官などを指し、摂関家などでは宣旨と称する女房がいた)は、「太郎と特別な関係(母子の関係?)」にある女性、そして『女御』は、「後陽成天皇の女御、信尹の同母の妹、信尹の養嗣子となっている信尋の生母」の「前子」(三十九歳)と、『前田・前掲書』と解している。
 そして、この宛名の両人(「宣旨」と「女御」)は、「いまだ成人に達していない太郎(年齢未詳)と信尋(十五歳)、二人の後見人だったのであろう」との推計に達している。

二 この信尹の遺書は、「近衛家の知行の相続、分与」と、「紙面の大半を割いて、いわゆる形見分けの指示がなされている」のだが、その「近衛家の知行の相続、分与」は、「当然ながら、それ養嗣子の信尋が継承すべきものである」が、殊に、信尹の長女とされている「太郎」に、「三百石、信尋と仲悪くなり候わば、四百石(太郎の一世の分なり=太郎一代限り)」とし、また、「宣旨」に関して別に一項を立てて、「太郎分の知行分の内で賄えば良いことなのだが、信尋の合力、力添えを得て、せめて使用人を置くだけの余裕をと、信尋の理解と寛大な思いやり」を「召され候」としてるのがポイントとなる(『前田前掲書』)。
 そして、この「太郎」に関して、この「書置」とは別に「太郎は姫か」と、ここに焦点を当て、種々の信尹と太郎との資料を駆使して、次のような見解に達している。

【 たとえ太郎が姫としても、
〇信尹が太郎のために男性向きの手紙の手本を与え、手習いさせていること。
〇せっかくの姫君なのに、近衛家で生涯を終わらせる段取りをしているのはなぜか。
 やはり、この二つの疑問は疑問のままで残ってしまう。この二つの疑問が氷解しなければ、太郎息女説に心から首肯することはできない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170)

三  これに続いて紹介されているのが、冒頭に掲げたC図(右・左)(原典では「図18-右・左」)なのである。

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

四 続いて、「太郎と楊林院」(p1710-p174)のその結語で、次のように記述されている。

【 太郎には無論生母もいたが、どんな事情があったのか、父親である信尹が太郎の成長に対して心を砕いているようだ。折に付け、事に付け、楊林院を頼っているふしもある。太郎は同性の先達として楊林院に近づけてやりたい、そのような三者の関わりが思われるのである。
 姫であれば、信尹にとって太郎はまさに鍾愛の珠である。わずかのことでも傷がついてしまいそうな、はかなげで純真無垢の珠である。あるいは生来の病弱、蒲柳の質であったのだろうか。それゆえに、信尹は太郎に男子の鎧を着せて、守ってやりたいと思う。太郎という男児の名前も、花押を用いた男性的な書状も、いわゆる変成男子(へんじょうなんし=古来、女子(女性)は成仏することが非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想)の願望の所産であったか、と想像力を働かせてしまうのであるが、いかがであろう。それゆえに、信尹は自分の死後も、太郎が近衛家という楽園で安寧に過ごすことを思案したのではなかろうか。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p174)

ここに登場する「楊林院」は、従一位・権大納言柳原淳光(一五四一~一五九七)の後室で、
先の「信尹公御書置」の形見分けでは、「赤き硯、葡萄の食籠(じきろう)、我々いつも飲み候天目一つ」と、信尹とは特別に親密な関係にあったことが伺われる。しかし、信尹との関係、また、その「書置」に出てくる「宣旨」そして「太郎」との関係などは、全くの謎のままである。
 この「楊林院」は、慶長十四年(一六〇九)の宮中で起きた「猪熊事件」(上層公家衆と女房衆との密通事件)の、幕府(駿府の徳川家康)と朝廷(後陽成天皇)との、その朝廷の折衝役の一人として登場して来る。

https://core.ac.uk/download/pdf/292913343.pdf

【(慶長十四年) 同月(八月)二十日には所司代の板倉(板倉勝重)、翌(九月)十一日には女院(後陽成天皇の生母の新上東門院=勧修寺晴子))の使者帥局と女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)の使者右衛門督および楊林院(柳原淳光後室)の三人が駿府に向けて出発した。(p37)

(慶長十四年)十月一日、問題の女房衆五人と御末衆五人・女嬬三人が楊林院に同行されて駿府に下り、そのまま女房衆五人と女嬬二人が伊豆の新島へ配流となった。(p38)  】(「近世初頭の朝廷における女院の役割(久保貴子稿)」)

 「楊林院」が、この「猪熊事件」の朝廷の折衝役の役割を担っていたということは、「女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)」の使者という立場と共に、
晩年の徳川家康を支えた側室の「阿茶局」(一五五五~一六三七)との親交が厚かったことなどが、「楊林院宛太郎書簡(信尹の太郎のために書いた手本の書簡)」などからも察知される(『前田・前掲書』p171-p172)。

 こうなると、この「三藐院ファンタジー」は、際限なく続いて行くこととなる。
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