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「源氏物語画帖(その十二・須磨)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春

須磨・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 須磨  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/2

須磨・信尋.jpg

源氏物語絵色紙帖 須磨  詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/1

(「近衛信尋」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/13/%E9%A0%88%E7%A3%A8_%E3%81%99%E3%81%BE%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B8%96%E3%80%91

一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひしも、思ひ出できこえたまふ。

いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり
     (第四章 光る源氏の物語 第一段 須磨で新年を迎える)

4.1.2 一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひし」も、思ひ出できこえたまふ。(去る年の花の宴の折に、院の御様子、主上がたいそう美しく優美に、わたしの作った句を朗誦なさったのも、お思い出し申される。)

4.1.3 いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり (いつと限らず大宮人が恋しく思われるのに、桜をかざして遊んだその日がまたやって来た。)

百敷の大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮らしつ(和漢朗詠集上-二五 山辺赤人)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十二帖 須磨
 第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語
  第一段 源氏、須磨退去を決意
  第二段 左大臣邸に離京の挨拶
  第三段 二条院の人々との離別
  第四段 花散里邸に離京の挨拶
  第六段 藤壺に離京の挨拶
  第七段 桐壺院の御墓に離京の挨拶
  第八段 東宮に離京の挨拶
  第九段 離京の当日
 第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語
  第一段 須磨の住居
  第二段 京の人々へ手紙
  第三段 伊勢の御息所へぎやも手紙
  第四段 朧月夜尚侍参内する
 第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
  第一段 須磨の秋
  第二段 配所の月を眺める
  第三段 筑紫五節と和歌贈答
  第四段 都の人々の生活
  第五段 須磨の生活
  第六段 明石入道の娘
 第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
  第一段 須磨で新年を迎える
  (「近衛信尋」書の「詞」)→4.1.2/ 4.1.3
第二段 上巳の祓と嵐

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2095

源氏物語と「須磨」(川村清夫稿)

【「賢木」の帖で朧月夜との密会の場を右大臣に押さえられた光源氏は、弘徽殿女御の激怒を買って勅勘(天皇からとがめを受けること)の身となり、一時的に京の都を退去して、須磨に隠棲せざるを得なくなった。

光源氏は白氏文集、琴など須磨に携行する物を選び、紫上に留守宅ならびに全財産を預けて家を後にするのである。この場面を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、
「生ける世の別れを知らで契りつつ
命を人に限りけるかな
はかなし」
など、あさはかに聞こえなしたまへば、
「惜しからぬ命に代へて目の前の
 別れをしばしとどめてしがな」
「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。

(渋谷現代語訳)「わが身がこのようにはかない世の中を離れて行ったら、どのような状態でさすらって行かれるのであろうか」と、不安で悲しく思われるが、深いお悲しみの上に、ますます悲しませるようなので、
「生きている間に生き別れというものがあるとは知らずに
 命のある限りは一緒にと信じていたことよ、
はかないことだ」
などと、わざとあっさりと申し上げなさったので、
「惜しくもないわたしの命に代えて、
 今のこの別れを少しの間でも引きとどめて置きたいものです」
「なるほど、そのようにお思いだろう」と、たいそう見捨てて行きにくいが、
夜がすっかり明けてしまったら、きまりが悪いので、急いでお立ちになった。

(ウェイリー英訳)The thought came to him that he might die at Suma. Who would look after her? What would become of her? He was indeed on less heart-broken than she; but he knew that if he gave way to his feelings her misery would only be increased and he recited the verse:
“We who so long have sworn that death alone should part us, must suffer life for once to cancel all our vows.”
He tried to speak lightly, but when she answered:
“Could my death pay to hold you back, how gladly would I purchase a single moment of delay,”
He knew that she was not speaking idly. It was terrible to leave her, but he knew that by daylight it would be harder still, and he fled from the home.

(サイデンステッカー英訳)What sort of home would this unkind, inconstant city be for her now? But she was sad enough already, and these thoughts were best kept to himself. He said with forced lightness:
“At least for this life we might make our vows, we thought.
And so we vowed that nothing would ever part us.
How silly we were!”
This was her answer:
“I would give a life for which I have no regrets.
If it might postpone for a little the time of parting.”
They were not empty words, he knew; but he must be off, for he did not want the city to see him in broad daylight.

 紫上を心配する光源氏の台詞「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」に関して、ウェイリーはThe thought came to him that he might die at Suma. Who would look after her? What would become of her? と、冗漫だが原文に近い翻訳である。他方サイデンステッカーはWhat sort of home would this unkind, inconsistent city be for her now? と、原文からずれた翻訳をしている。

光源氏が紫上に詠んだ和歌「生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな」について、ウェイリーはWe who so long have sworn that death alone should part us, must suffer life for once to cancel all our vows と訳して、台詞の「はかなし」を略している。サイデンステッカーは台詞の「はかなし」も含めてAt least for this life we might make our vows, we thought. And so we vowed that nothing would ever part us. How silly we were! と訳している。後者の方がわかりやすい訳である。

紫上から光源氏への返歌「惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしがな」には、ウェイリーはCould my death pay to hold you back, how gladly would I purchase a single moment of delay.と、サイデンステッカーはI would give a life for which I have no regrets. If it might postpone for a little the time of parting.と訳している。後者の方が素直な訳である。

末尾の「いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ」に関して、ウェイリーはIt was terrible to leave her, but he knew that by daylight it would be harder still, and he fled from home.と原文の流れに沿って訳しているが、サイデンステッカーはHe must be off, for he did not want the city to see him in broad daylight.と、ひねった訳をしている。

一度は須磨に蟄居した光源氏だが、このすぐ後の「明石」の帖で、娘を上級貴族に嫁がせようとしていた、明石入道の歓待を受けることになるのである。 】


https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/69/5/69_5_343/_pdf/-char/ja

「後水尾院サロンと宮廷庭園の展開」(町田香稿)

後水尾院サロン.jpg

(「三藐院ファンタジー」その三)

「近衛信尋」(プロフィール)( 『ウィキペディア(Wikipedia)』などにより作成)

生誕:慶長4年5月2日(1599年6月24日)
死没:慶安2年10月11日(1649年11月15日
後陽成天皇の第四皇子。官位は従一位・関白、左大臣。近衞信尹の養子となり、近衞家19代目当主となる。これにより近衞家は皇別摂家となる。
父:後陽成天皇、母:近衞前子(信尹の妹)、養父:近衞信尹。
兄弟:承快法親王、聖興女王、覚深入道親王、龍登院宮、清子内親王・鷹司信尚室、文高女王、後水尾天皇、尊英女王、(近衞信尋)、 尊性法親王 、尭然法親王、高松宮好仁親王、・初代高松宮、良純法親王 、一条昭良、貞子内親王、尊覚法親王、永崇女王、高雲院宮、冷雲院宮、道晃法親王、尊清女王、空花院宮、尊蓮女王、道周法親王、慈胤法親王。
正室: 近衞信尹の娘=太郎(君)か?
子:尚嗣(近衞家20代当主、母=不詳)、寛俊、長君、尋子(徳川光圀の正室、通称は泰姫)、高慶尼、三時知恩寺尼。
(生涯)
慶長4年(1599年)5月2日生。幼称は四宮(しのみや)。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。
慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ公卿に列する。
慶長12年(1607年)に権中納言。
慶長16年(1611年)に権大納言。
慶長17年(1612年)には内大臣。。
慶長19年(1614年)に右大臣。
元和6年(1620年)に左大臣。
元和9年(1623年)には関白に補せられる。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山(おうざん)と号する。
慶安2年(1649年)10月11日薨去、享年51。
(人物・逸話)
〇和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。自筆日記として『本源自性院記』を残している。
〇近衞前久や信尹の文化人としての資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した。書道は養父信尹の三藐院流(別称:近衛流)を継承し、卓越した能書家だった。
〇茶道は古田重然に学び、連歌も巧みだった。実兄にあたる後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らと共に中心的人物として担った。また、禅僧の沢庵宗彭や一糸文守、後に養父と共に寛永の三筆として名を連ねる松花堂昭乗などの文人らと交流があり、宮廷への橋渡しも行っていた。
〇六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

 この「源氏物語絵色紙帖 須磨」を描いた「土佐久翌光吉」は、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五歳の生涯を閉じだ。そして、その翌年の、慶長十九年(一六一四)十一月二十五日、信尋の養父の近衛信尹が没している(享年五十)。
 慶長十八年(一六一三)時は、信尋は十五歳、そして、慶長十九年(一六一四)時は十六歳で、
上記の光吉の描いた「源氏物語絵色紙帖 須磨(光吉筆)」に対応する信尋の書の「詞書」は、その信尋の十五歳から十六歳時の頃の書ということになろうか。
 さらに、この信尋が右大臣に任ぜられたのは、慶長十九年(一六一四)正月十一日、信尹が没したのは、その年の十一月二十五日、そして、この両者が、「蓬生」(後出)で、《15蓬生(光吉筆)=(詞)※※近衛信尋(一五九九~一六四九) (「久翌=光吉」印):(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書) ※※※》で競作している。
その「紙背の墨書注記」(昭和四十九年に「二帖」から「四帖」に改訂した際に発見された墨書注記=『国華』第九九六号所載の武田恒夫氏論稿・『講座日本美術史』第一巻の松原茂氏論稿「詞書作者と執筆分担」)に書かれている「信尹・信尋・太郎(君)」の肩書などは、次のものである(『前田・前掲書』p168)。

【「賢木」・光吉画=(詞書)→八条宮智仁→八条宮一品式部卿知仁
「同」・長次郎画=(詞書→太郎(君)→近衛前関白左大臣信尹公御息女
「花散里」・光吉画=(詞書→太郎(君)→近衛前関白左大臣信尹公御息女
「同」・長次郎画=(詞書)→八条宮智仁→八条宮一品式部卿知仁
「蓬生」・光吉画=(詞書)→信尋→近衛右大臣左大将信尋
「同」・長次郎画=(詞書)→信尹→近衛前関白左大臣信尹        】
(『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

太郎君・花散里.jpg

A図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

須磨・信尋.jpg
B図 源氏物語絵色紙帖 須磨  詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/1

信尹・太郎・賢木.jpg

C図(右)=「源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)」=京都国立博物館蔵
C図(左)=近衛信尹筆「賢木」詞書手本(陽明文庫蔵)=(右図の手本ょ
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』)

 「A図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)」については、下記のアドレスの前回(その十一)に取り上げた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

 ここで、信尹の『三藐院記』の、子供にかんする記述を紹介し、その『三藐院記』に記述されている、下記の「B・C」の「子・愛娘」が、「太郎(君)」とすると、「信尋」は一歳年下
になるということに触れた。
 
【A 今夜、竹、誕ス。男子也。但、即時空。可惜、可嘆。文禄三年(一五九四)七月二十条・信尹三十歳
B 辰下刻(午前九時過ぎ)、女子生。慶長三年(一五九八)五月六日条・信尹三十四歳
C 晴、愛娘ハシカ出。慶長十一年(一六〇六)正月五日条・信尹四十二歳  】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p166)

 そして、C図(右)=「源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)」については、下記のアドレスの前々回(その十)で取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

 ここで、信尹の遺書ともいうべき「信尹公御書置(かきおき)」を紹介し、さらに、C図(右)には、C図(左)の、信尹直筆の「C図(右)の手本」があるということに触れ、下記の記述を紹介した。

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

 ここで、A図(太郎君の「花散里」の書)と、B図(信尋の「須磨」の書)とを、並列して鑑賞したい。そして、土佐光吉が生存していた慶長十八年(一六一三)時の書とすると、A図(太郎君の「花散里」の書)は、太郎(君)の十六歳、B図(信尋の「須磨」の書)は、信尋の十五歳時の作品ということになる。
 さらに、この太郎(君)のC図(左)の、信尹直筆の「C図(右)の手本(「太郎の『花押』入り)」があるということは、「愛娘」の「太郎(君)」には、「書家(近衛流=信尹流)」の一翼を期待してのもの、そして、このB図(信尋の「須磨」の書)には、信尹の跡を継いで、近衞家第十九代目当主となることと同時に、「書家(近衛流=信尹流)」の、その双璧を、「太郎(君)」共々、期待してのものなのではなかろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-08

 『日本書道全史(下巻)・講談社刊』の「近衛流」は下記のとおりである(数字などは「目次」番号など)。ここに、『前田・前掲書(p244-246)』により、『本朝古今名公古筆諸流』(元禄七年=一六四四)の「近衛流の人々(信尹没年時の年齢など)」を付記《》して置きたい(※印は「信尋」と「太郎君」)。

https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001278246-02.html

【27 近衛流 〔二五三−二八六〕
299 近衛信尹(信輔・信基・三藐院)(945〜980) 二五三 → 《信基公改信輔又信尹共 天正之比三藐院と号。五十歳》
300 和久半左衛門(981〜989) 二七二 →《近衛殿流 秀吉公之右筆。三十七歳》
301 四辻季継(990) 二七六 →《季継 近衛殿流 天正之比。三十四歳》
302 西園寺公益(991) 二七六
303 九条道房(992) 二七六 
※304 近衛信尋(応山)(993〜1007) 二七七 →《信尋公 慶長四年誕生 正保弐年出家四十七歳也、法名応山と号。十六歳》
305 大覚寺 空性親王(1008〜1010) 二八三
306 西園寺公満(1011) 二八三
307 滋野井季吉(1012〜1013) 二八四 →《季吉 近衛殿流。二十九歳》
308 鷹司信房(1014) 二八四  
309 花山院忠長(1015) 二八四   → 《忠長 近衛殿流。二十七歳》
310 鷹司教平(1016〜1017) 二八五 → 《近衛殿流 慶長十四年ニ誕生。六歳》
311 堀川康胤(1018) 二八五
312 北野禅昌(1019) 二八五  → 《近衛殿流》
313 津田辨作吉之(1020) 二八六
※314 近衛太郎君(1021) 二八六          
《後水尾院 勅筆 慶安之仙祠様。十九歳》
《高松殿 好仁 近衛殿流 初之筆。十二歳》
《徳大寺殿 実久 近衛殿流。三十二歳 》
《正親町三条実有 近衛流 又実助。二十七歳》
《北野松梅院 禅意 近衛殿流》
《連歌師 兼也 近衛殿流》
《生田六左衛門 近衛殿流》
《古川長助 近衛殿流》
《湯山 甚澄 近衛殿流 慶長之比》         】
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