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源氏物語画帖(その十三・明石)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   源氏27歳春-28歳秋

光吉・明石.jpg

源氏物語絵色紙帖 明石  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511314/2

明石・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 明石  詞・飛鳥井雅胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511314/1


(「飛鳥井雅胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/14/%E6%98%8E%E7%9F%B3_%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%80%91

人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声、も心すごく聞こゆ。古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、 箏の琴取りにやりて、入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり。
(第二章 明石の君の物語 第五段 源氏、入道と琴を合奏)

2.5.4 人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声も、 心すごく聞こゆ。
(他人の身の上もご自身の様子も、お思い出しになられて、夢のような気がなさるままに、掻き鳴らしなさっている琴の音も、寂寞として聞こえる。)
2.5.5  古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、 箏の琴取りにやりて、 入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき 手一つ二つ弾きたり。
(老人は涙も止めることができず、岡辺の家に、琵琶、箏の琴を取りにやって、入道は、琵琶法師になって、たいそう興趣ある珍しい曲を一つ二つ弾き出した。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十三帖 明石
 第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語
  第一段 須磨の嵐続く
  第二段 光る源氏の祈り
  第三段 嵐収まる
  第四段 明石入道の迎えの舟
 第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語
  第一段 明石入道の浜の館
  第二段 京への手紙
  第三段 明石の入道とその娘
  第四段 夏四月となる
  第五段 源氏、入道と琴を合奏
  (「飛鳥井雅胤」書の「詞」) → 2.5.4/2.5.5
  第六段 入道の問わず語り
  第七段 明石の娘へ懸想文
  第八段 都の天変地異
 第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語
  第一段 明石の侘び住まい
  第二段 明石の君を初めて訪ねる
  第三段 紫の君に手紙
  第四段 明石の君の嘆き
 第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語
  第一段 七月二十日過ぎ、帰京の宣旨下る
  第二段 明石の君の懐妊
  第三段 離別間近の日
  第四段 離別の朝
  第五段 残された明石の君の嘆き
 第五章 光る源氏の物語 帰京と政界復帰の物語
  第一段 難波の御祓い
  第二段 源氏、参内
  第三段 明石の君への手紙、他

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2201

源氏物語と「明石」(川村清夫稿)

【光源氏は、朧月夜との密会が弘徽殿女御の激怒を買い、須磨に隠棲した。そこへ明石に住む明石入道から自宅に招待されて、その娘である明石の上を紹介されるのである。

 明石入道は六十歳くらいの老人で、かつては近衛中将だったのだが播磨守(つまり受領階級)に転じ、隠居後に出家している。頑固なところもあるが、昔の事もよく知っていて、琴や琵琶などを上手に弾く趣味のよい、魅力のある人物である。明石入道の役は、初めての映像化作品である「源氏物語」(1951年、大映京都)ではかつての丹下左膳役者の大河内伝次郎が、武智鉄二が作った「源氏物語」(1966年、日活)では京都の狂言方である大蔵流の茂山七五三が、そして現代の思潮に迎合して製作された「千年の恋・ひかる源氏物語」(2001年、東映京都)では竹中直人が扮していた。

 明石入道は光源氏と琴を合奏してから、明石の上を光源氏と結婚させようとして紹介するのである。その明石入道の台詞を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。
(大島本原文)前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賎となりはべりけめ、親、大臣の位を保ちたまへりき。みづからかく田舎の民となりにてはべり。次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべるを、これは、生まれし時より頼むところなむはべる。いかにして都の貴き人にたてまつらむと思ふ心、深きにより、ひどほどにつけて、あまたの人の妬みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。

(渋谷現代語訳)前世からの宿縁に恵まれませんもので、このようなつまらない下賤な者になってしまったのでございますが、父親は、大臣の位を保っておられました。自分からこのような田舎の民となってしまったのでございます。子子孫孫と、落ちぶれる一方では、終いにはどのようになってしまうのかと、悲しく思っておりますが、わが娘は生まれた時から頼もしく思うところがございます。何とかして都の高貴な方に差し上げたいと思う決心、固いものですから、身分が低ければ低いなりに、多数の人々の嫉妬を受け、わたしにとってもつらい目に遭う折々多くございましたが、少しも苦しみとは思っておりません。

(ウェイリー英訳)My father, as you know, was a Minister of State; while I, no doubt owing to some folly committed in a former life, am become a simple countryman, a mere yokel, dwelling obscurely among the hills. If the process continued unchecked and my daughter was to fall as far below me in estate as I am now below my illustrious father, what a wretched fate, thought I, must be in store for her! Since the day of her birth my whole object has been to save her from such a catastrophe, and I have always been determined that in the end she should marry some gentleman of good birth from the Capital. This has compelled me to discourage many local suitors, and in doing so I have earned a great deal of unpopularity. I am indeed, in consequence of my efforts on her behalf, obliged to put up with many cold looks from the neighboring gentry; but these do not upset me at all.

(サイデンステッカー英訳)I have sunk to this provincial obscurity because I brought an unhappy destiny with me into this life. My father was a minister, and you see what I have become. If my family is to follow the same road in the future, I ask myself, then where will it end? But I have had high hopes for her since she was born. I have been determined that she go to some noble gentleman in the city. I have been accused of arrogance and unworthy ambitions and subjected to some rather unpleasant treatment. I have not let it worry me.

「前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賎となりはべりけめ」に関して、ウェイリーはI, no doubt owing to some folly committed in a former life, am become a simple countryman, a mere yokel, dwelling obscurely among the hills.と、サイデンステッカーはI sank to this provincial obscurity because I brought an unhappy destiny with me into this life.と訳している。サイデンステッカーは「前の世」をdestinyと解釈しているが、これでは運命の意味になってしまう。「前の世」をa former lifeと解釈したウェイリーの方が正確である。「次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべる」については、ウェイリーはIf the process continued, unchecked and my daughter was to fall as far below me in estate as I am now below my illustrious father, what a wretched fate, thought I, must be in store for her!と、サイデンステッカーはIf my family is to follow the same road in the future, I ask myself, then where will it end?としている。ウェイリー訳は冗漫に過ぎるのに比べ、サイデンステッカー訳は簡潔で正確である。「ひとほどにつけて、あまたの人の妬みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず」をウェイリーはThis has compelled me to discourage many local suitors, and in doing so I have earned a great deal of unpopularity, I am indeed, in consequence of my efforts on her behalf, obliged to put up with many cold looks from the neighboring gentry; but these do not upset me at all.と、サイデンステッカーはI have been accused of arrogance and unworthy ambitions and subjected to some rather unpleasant treatment. I have not let it worry me.と訳している。ウェイリー訳はあまりに説明的で長ったらしいのに対して、サイデンステッカー訳はここでも簡潔で明解な良訳である。
明石入道の紹介もあって、光源氏は明石の上と交際するようになるのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その四)

(「飛鳥井雅胤」周辺)

 この「詞書」の筆者の「飛鳥井雅胤」については、下記のアドレスの「夕顔」で紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

 雅胤は、天正十四年(一五八六)、の生まれ、断絶していた難波家を継ぎ再興した(難波家十三代当主)。慶長十二年(一六〇七)には左近衛少将となったが、翌同十四年(一六〇九)に猪熊教利・兄飛鳥井雅賢らと共に御所の官女と密会して乱交に及んだ事件(猪熊事件)で、後陽成天皇の勅勘を蒙り、同年に伊豆国へと配流された。
 兄・雅賢は隠岐国に配流されたまま寛永三年(一六二六)流刑地(隠岐島)で死去するが、雅胤は慶長十七年(一六一二)勅免により帰京し。翌同十八年(一六一三)名を雅胤(改名=宗勝)と改め、生家飛鳥井家の相続する(十四代当主)。難波家は子の宗種が相続した。
 「猪熊事件」に連座して配流先の伊豆から帰京して、名を「雅胤」に改名して飛鳥井家の当主になったのが慶長十八年(一六一三)とすると、雅胤が、この「源氏物語画帖」(「夕顔」と「明石」)を揮毫したのは、この土佐光吉が亡くなった、この慶長十八年(一六一三)なのか知れない。
 そして、この帰京して間もない飛鳥井雅胤に、この揮毫を依頼したのは、「猪熊事件」が白日の下にさらされた慶長十四年(一六〇九)時には関白職を辞しているが、後陽成天皇の義兄にあたる「信尹」(慶長十一年=一六〇六に関白辞職)と天皇の実弟の「八条宮智仁親王」の二人の影が見え隠れしている。
 殊に、「猪熊事件」の関与者には、「信尹」の「近衛殿(院)流」の能筆家、そして、この「源氏物語画帖」・「詞書」筆者の関係者などが散見される。

(死罪)
〇左近衛少将 猪熊教利(のりとし)
→「四辻公遠」の子、「高倉範国」の養子(「高倉範遠」と称す)、実兄の山科家を継いだ「教遠」(後に四辻季継)が、四辻家を継承し、その後の山科家を相続し、「山科教利」と改名するも、その山科家が、勅勘を蒙っていた「山科言経」が山科家に復帰し、その山科家の分家の「猪熊」家を興し、その家名は平安京の猪熊小路に由来する。教利は、天皇近臣である内々衆の一人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていた。勅命で鷲尾隆康の日記『二水記』を書写したほか、政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院(天皇の国母)の使者として伏見城の家康を訪ねた事もある(慶長6年(1601年)には県召除目で武蔵権介に任じられ、、家康からも200石を安堵されている)。
→ 一方、教利は在原業平や『源氏物語』の光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった。また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」と称されていたという。慶長12年(1607年)2月突如勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸等に誘っては女官と不義密通を重ねた「猪熊事件」の首謀者として、慶長14年(1609年)
10月17日常禅寺で斬刑に処された。享年27。
→ この「猪熊事件」の首魁・教利は、「流儀集」(「日本書流全史」に収載されている版本)に、「近衛(院)流」の能筆家の一人として、その名が刻まれている(『前田・前掲書)。
→ 実兄の「四辻季継」(1581~1639) →「源氏物語画帖」の「詞書(竹河・橋姫)」の筆者(近衛流)。
→実妹の「四辻与津子」→後水尾天皇の典侍。父は正二位権大納言四辻公遠。女房名、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。姉に上杉景勝側室(定勝生母)桂岩院。兄に鷲尾隆尚・四辻季継・猪熊教利ら。はじめ新上東門院に仕え綾小路と称したが、元和4年(1618年)ごろに後水尾天皇に出仕し典侍となり、賀茂宮(夭逝)、文智女王(梅宮)の1男1女を生む。東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され(およつ御寮人事件)、程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したといわれる。

(恩免)
〇参議 烏丸光広(1579-1638) →「源氏物語画帖」の「詞書(蛍・常夏)」の筆者(光悦流)。
→子の「烏丸光賢」(1600~1638)→「源氏物語画帖」の「詞書(薄曇・朝顔(木槿)」の筆者(「定家流」)。
〇右近衛少将 徳大寺実久(1583-1616)→配流された「花山院忠長」の実兄。慶長17年(1612年)に正四位下右近衛中将となり、慶長18年(1613年)1月6日には従三位に叙せられ、公卿に列した。慶長19年(1614年)には権中納言となる。元和元年(1615年)には踏歌節会外弁をつとめたが、元和2年に薨去した。享年34。
→父の「花山院定熙」(1558~1634)→「源氏物語画帖」の「詞書(夕霧・匂兵部卿宮・紅梅)」の筆者(花山院流)。

(配流=男性)
〇左近衛権中将 大炊御門頼国→硫黄島配流(慶長18年(1613年)流刑地で死没)。
左近衛少将 花山院忠長→蝦夷松前配流(寛永13年(1636年)勅免)→「徳大寺実久」の弟。「近衛流」。
〇左近衛少将 飛鳥井雅賢→隠岐配流(寛永3年(1626年)流刑地で死没)→「飛鳥井雅胤」の兄。
〇左近衛少将 難波宗勝→伊豆配流(慶長17年(1612年)勅免)。
→「飛鳥井雅胤」(1586-1651)→「源氏物語画帖」の「詞書(夕顔・明石)」の筆者(栄雅流)。
〇右近衛少将 中御門宗信 → 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)。

(配流=女性)
〇新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)→伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
→父の「広橋兼勝」(1558-1623)は、江戸幕府初代の武家伝奏で、兼勝の妻は「烏丸光康」(光広の祖父)の娘、兼勝の兄の「日野輝資」が「日野家」を継いでいる。この「日野輝資」の嫡子が「日野資勝」(1577-1639)で、「源氏物語画帖」の「詞書(真木柱・梅枝)」の筆者(定家流)である。後陽成天皇の寵愛の深い「広橋局」の密通の相手は「花山院忠長」で、この二人の関係を軸に「朝廷と幕府」との暗躍、「公家間」相互の対立抗争とが錯綜し、以降、「公家衆法度」・「禁中並公家諸法度」制定につながっていく。
〇権典侍 中院局(中院通勝の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
→父は「中院通勝」(1556-1610)、母は「細川幽斎」の養女、兄は「中院通村」(1588-1653)で「源氏物語画帖」の「詞書(若葉下・柏木)」の筆者(中院流)。烏丸光広との密通を疑われたといわれている(本名=仲子)。
〇中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
〇菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
〇命婦 讃岐(兼康頼継=死罪)の妹 →伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
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