SSブログ

「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その四) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その四)「シーボルト」の『日本』の「平戸のオランダ商館」周辺
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=8&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

平戸のオランダ人の商館.gif

「Nippon Atlas. 1Nippon p9」→「『日本』“NIPPON” 図版第1冊№8 平戸のオランダ人の商館」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_01#?cv=7&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-459%2C-43%2C1916%2C847

平戸オランダ商館.jpg

●作品名:平戸オランダ商館
●Title:A view of Hirado Factory of Duch
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima and Hirado,
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:1-4488-35
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=942&cfcid=146&search_div=kglist

【(別記)「徳川家(歴代将軍)」と「歴代オランダカピタン(商館長)」周辺(未完成)

平戸

平戸のオランダ商館.gif

『日蘭三百年の親交(村上直次郎著)』(「コマ番号」=26/104)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954621/100?tocOpened=1

徳川家康.png

徳川家康(初代将軍 慶長8年(1603年)2月12日 - 慶長10年(1605年)4月16日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7

初代(オランダ商館長)、ヤックス・スペックス(1609年-1613年)

※オランダ人初の将軍(徳川秀忠)拝礼(1609年)

徳川秀忠.png

徳川秀忠(二代将軍 慶長10年(1605年)4月16日 - 元和9年(1623年)7月27日)

※長谷川等伯(72)没(1610年)
※幕府、キリスト教禁教令発布(1612年)
※支倉常長、ローマへ出発(1613年)

2代、ヘンドリック・ブラウエル(1613年-1614年)
※高山右近らキリスト教徒、マニラ・マカオに追放さる(1614年)
3代、ヤックス・スペックス(2度目)(1614年-1621年)
※大阪夏の陣(1615年)
※欧船の来航を平戸・中崎に制限(1616年)・狩野内膳(47)没・徳川家康(75)没
4代、レオナルド・キャンプス(1621年-1623年)
5代、コルネリス・ファン・ナイエンローデ(1623年-1632年)
※イギリス平戸商館を閉鎖(1623)・イスパニア人の来航を禁ず(1624年)
6代、ピーテル・ファン・サンテン(1632年-1633年)
※徳川秀忠(54)没

徳川家光.png

徳川家光(三代 元和9年(1623年)7月27日 - 慶安4年(1651年)4月20日)

7代、ニコラス・クーケバッケル(1633年-1638年)
※オランダ人の江戸参府毎年となる(1633-1690年)
※狩野山楽(77)没(1635年)
※本阿弥光悦(80)没(1637年)
※ポルトガル人の来航を禁ず(1639年)
※島原の乱(1637-38年)

島原の乱.gif

『日蘭三百年の親交(村上直次郎著)』(「コマ番号」=25/104)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954621/100?tocOpened=1
 
8代、フランソワ・カロン(1639年3月2日-1640年2月13日)
著作『日本大王国志』 幸田成友訳、平凡社東洋文庫
9代、マクシミリアン・ル・メール(1641年2月14日-1641年5月)
※オランダ人を長崎出島に移す(1641)―鎖国の完成(徳川家光)―

長崎(出島)

9代(初代)、マクシミリアン・ル・メール(1641年5月-1641年10月30日)
10代(2代)、ヤン・ファン・エルセラック(1641年11月1日-1642年10月29日)
11代(3代)、ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル(1642年10月29日-1643年8月1日)
12代(4代)、ヤン・ファン・エルセラック(2度目)(1643年8月1日-1644年11月24日)
13代(5代)、ピーテル・アントニススゾーン・オーフルトワーテル(2度目)(1644年11月24日-1645年11月30日)
14代(6代)、レイニール・ファン・ツム(1645年11月30日-1646年10月27日)
15代(7代)、ウィレム・フルステーヘン(1646年10月28日-1647年10月10日)
16代(8代)、フレデリック・コイエット(1647年11月3日-1648年12月9日)
17代(9代)、ディルク・スヌーク(1648年12月9日-1649年11月5日)
18代(10代)、アントニオ・ファン・ブロウクホルスト(1649年11月5日-1650年10月25日)
19代(11代)、ピーテル・ステルテミウス(1650年10月25日-1651年11月3日)
※岩佐又兵衛没(1650年)・由比正雪の乱(1651年)
20代(12代)、アドリアン・ファン・デル・ブルフ(1651年11月1日-1652年11月3日)
※徳川家光(48)没

徳川家綱.png

徳川家綱(四代 慶安4年(1651年)8月18日 - 延宝8年(1680年)5月8日)

21代(13代)、フレデリック・コイエット(2度目)(1652年11月4日-1653年11月10日)
22代(14代)、ガブリエル・ハッパルト(1653年11月4日-1654年10月31日)
23代(15代)、レオナルド・ウインニンクス(1654年10月31日-1655年10月23日)
24代(16代)、ヨアン・ボウヘリヨン(1655年10月23日-1656年11月1日)
25代(17代)、ツァハリアス・ヴァグナー(1656年11月1日-1657年10月27日)
26代(18代)、ヨアン・ボウヘリヨン(2度目)(1657年10月27日-1658年10月23日)
※水戸光圀「大日本史」の編集を始む(1657年)
27代(19代)、ツァハリアス・ヴァグナー(2度目)(1658年10月22日-1659年11月4日)
28代(20代)、ヨアン・ボウヘリヨン(3度目)(1659年11月4日-1660年10月26日)
29代(21代)、ヘンドリック・インディヤック(1660年10月26日-1661年11月21日)
30代(22代)、ディルク・ファン・リエル(1661年11月11日-1662年11月6日)
31代(23代)、ヘンドリック・インディヤック(2度目)(1662年11月6日-1663年10月20日)
32代(24代)、ウィレム・ボルガー(1663年10月20日-1664年11月7日)
33代(25代)、ヤコブ・フルイス(1664年11月7日-1665年10月27日)
34代(26代)、ウィレム・ボルガー(2度目)(1665年10月28日-1666年10月27日)
35代(27代)、ダニエル・シックス(1666年10月18日-1667年11月6日)
36代(28代)、コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1667年11月6日-1668年10月25日)
37代(29代)、ダニエル・シックス(2度目)(1668年10月25日-1669年10月14日)
38代(30代)、フランソワ・デ・ハース(1669年10月14日-1670年11月2日)
39代(31代)、マルチヌス・カエサル(1670年11月2日-1671年11月12日)
40代(32代)、ヨハネス・カンフフイス(1671年10月22日-1672年11月12日)
41代(33代)、マルチヌス・カエサル(2度目)(1672年11月13日-1673年10月29日)
42代(34代)、ヨハネス・カンフフイス(2度目)(1673年10月29日-1674年10月19日)
43代(35代)、マルチヌス・カエサル(3度目)(1674年10月20日-1675年11月7日)
※狩野探幽(73)没(1674年)
44代(36代)、ヨハネス・カンフフイス(3度目)(1675年11月7日-1676年10月27日)
45代(37代)、ディルク・デ・ハース(1676年10月27日-1677年10月16日)
46代(38代)、アルベルト・ブレフインク(1677年10月16日-1678年11月4日)
47代(39代)、ディルク・デ・ハース(2度目)(1678年11月4日-1679年10月24日)
48代(40代)、アルベルト・ブレフインク(2度目)(1679年10月24日-1680年11月11日)
※徳川家綱(40)没、綱吉将軍になる(1680年)

徳川綱吉.png

徳川綱吉(五代 延宝8年(1680年)8月23日 - 宝永6年(1709年)1月10日)

49代(41代)、イサーク・ファン・スヒンネ(1680年11月11日-1681年10月31日)
50代(42代)、ヘンドリック・カンジウス(1681年10月31日-1682年10月20日)
51代(43代)、アンドレアス・クレイエル(1682年10月20日-1683年11月8日)
52代(44代)、コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(2度目)(1683年11月8日-1684年10月28日)
53代(45代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1684年10月25日-1685年10月7日)
54代(46代)、アンドレアス・クレイエル(2度目)(1685年10月17日-1686年11月5日)
55代(47代)、コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(3度目)(1868年11月5日-1687年10月25日)
56代(48代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(2度目)(1687年10月25日-1688年10月13日)
※生類憐みの令(1687年・徳川綱吉)
57代(49代)、コルネリス・ファン・オウトホールン(1688年10月13日-1689年11月1日)
58代(50代)、バルタザール・スウェールス(1689年11月1日-1690年10月21日)
※清、長崎に商館を設置(1689年)

エンゲルベルト・ケンペル.jpg

(「出島ホームページ」)
エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)=『日本誌』『江戸参府』『日本外国貿易史』『鎖国論』
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index1.html

59代(51代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(3度目)(1690年10月21日-1691年11月9日)
60代(52代)、コルネリス・ファン・オウトホールン(2度目)(1691年11月9日-1692年10月29日)
61代(53代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(4度目)(1692年10月29日-1693年10月19日)
62代(54代)、ヘリット・デ・ヘーレ(1693年10月19日-1694年11月7日)
※井原西鶴没(1693年)・「奥の細道」成る(1694年)
63代(55代)、ヘンドリック・ディックマン(1694年11月7日-1695年10月27日)
64代(56代)、コルネリス・ファン・オウトホールン(3度目)(1695年10月27日-1696年10月15日)
65代(57代)、ヘンドリック・ディックマン(2度目)(1696年10月15日-1697年11月3日)
66代(58代)、ピーテル・デ・ボス(1697年11月3日-1698年10月23日)
※渡辺秀石、長崎奉行所御用絵師兼唐絵目利となる(1697年)
67代(59代)、ヘンドリック・ディックマン(3度目)(1698年10月23日-1699年10月21日)
68代(60代)、ピーテル・デ・ボス(2度目)(1699年10月21日-1700年10月31日)
69代(61代)、ヘンドリック・ディックマン(4度目)(1700年10月31日-1701年10月21日)
※徳川光圀(73)没(1700年)
70代(62代)、アブラハム・ドウグラス(1701年10月21日-1702年10月30日)
71代(63代)、フェルディナント・デ・グロート(1702年11月9日-1703年10月30日)
72代(64代)、ギデオン・タント(1703年10月30日-1704年10月18日)
73代(65代)、フェルディナント・デ・グロート(2度目)(1704年10月18日-1705年11月6日)
74代(66代)、ハルナス・メンシング(1705年11月-1706年10月)
75代(67代)、フェルディナント・デ・グロート(3度目)(1706年10月26日-1707年10月15日)
76代(68代)、ハルナス・メンシング(2度目)(1707年10月15日-1708年11月2日)
77代(69代)、ヤスパー・ファン・マンスダレ(1708年11月2日-1709年10月22日)
78代(70代)、ハルナス・メンシング(3度目)(1709年10月22日-1710年11月10日)
※徳川綱吉(64)没(1709年)

徳川家宣.png

徳川家宣(六代 宝永6年(1709年)5月1日 - 正徳2年(1712年)10月14日)

79代(71代)、ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1710年11月10日-1711年10月31日)
80代(72代)、コルネリス・ラルディヨン(1711年10月31日-1712年11月7日)
81代(73代)、ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(2度目)(1712年11月-1713年11月)

徳川家継.png

徳川家継(七代 正徳3年(1713年)4月2日 - 享保元年(1716年)4月30日)

82代(74代)、コルネリス・ラルディヨン(2度目)(1713年11月7日-1714年10月27日)
83代(75代)、ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(3度目)(1714年10月27日-1715年10月19日)
84代(76代)、ギデオン・ボウダエン(1715年10月19日-1716年11月3日)

徳川吉宗.png

徳川吉宗(八代 享保元年(1716年)8月13日 - 延享2年(1745年)9月25日)

※尾形光琳(59)没(1716年)
85代(77代)、ヨアン・アオウェル(1716年11月3日-1717年10月24日)
86代(78代)、クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1717年10月24日-1718年10月13日)
87代(79代)、ヨアン・アオウェル(2度目)(1718年10月13日-1719年10月21日)
88代(80代)、クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(2度目)(1719年10月21日-1720年10月21日)
89代(81代)、ロエロフ・ディオダティ(1720年10月21日-1721年11月9日)
90代(82代)、ヘンドリック・デュルファン(1721年11月9日-1722年10月)
91代(83代)、ヘンドリック・デュルファン(2度目)(1722年10月-1723年10月18日)
92代(84代)、ヨハネス・ゼンデンス(1723年10月18日-1725年10月25日)
93代(85代)、ヨアン・デ・ハルトグ(1725年10月25日-1726年10月15日)
94代(86代)、ピーテル・ボーケスティン(1726年10月15日-1727年11月3日)
95代(87代)、アブラハム・ミンネドンク(1727年11月3日-1728年10月21日)
96代(88代)、ピーテル・ボーケスティン(2度目)(1728年10月21日-1729年10月12日)
97代(89代)、アブラハム・ミンネドンク(2度目)(1729年10月12日-1730年10月31日)
98代(90代)、ピーテル・ボーケスティン(3度目)(1730年10月31日-1732年11月7日)
※新井白石(69)没
99代(91代)、ヘンドリック・ファン・デ・ベル(1732年11月7日-1733年10月27日)
100代(92代)、ロジャー・デ・ラベル(1733年10月27日-1734年10月16日)
101代(93代)、デビッド・ドリンクマン(1734年10月16日-1735年11月4日)
102代(94代)、ベルナルドス・コーパ(1735年11月4日-1736年10月24日)
103代(95代)、ヤン・ファン・デル・クルイッセ(1736年10月24日-1737年10月13日)
104代(96代)、ゲラルドゥス・ベルナルデュス・ビッスヘル(1737年10月13日-1739年10月21日)
105代(97代)、トーマス・ファン・ラヘー(1739年10月22日-1740年11月8日)
106代(98代)、ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1740年11月9日-1741年10月28日)
107代(99代)、トーマス・ファン・ラヘー(2度目)(1741年10月29日-1742年10月17日)
108代(100代)、ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(2度目)(1742年10月17日-1743年11月9日)
※尾形乾山(81)没(1743年)
109代(101代)、デビッド・ブロウウェル(1743年11月5日-1744年11月1日)
110代(102代)、ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(3度目)(1744年11月2日-1745年12月28日)

徳川家重.png

徳川家重(九代 延享2年(1745年)11月2日 - 宝暦10年(1760年)5月13日)

111代(103代)、ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1745年12月30日-1746年11月2日)
112代(104代)、ヤコブ・バルデ(1746年11月3日-1747年10月25日)
113代(105代)、ヤン・ロウイス・デ・ウィン(2度目)(1747年10月28日-1748年11月11日)
114代(106代)、ヤコブ・バルデ(2度目)(1748年11月12日-1749年12月8日)
115代(107代)、ヘンドリック・ファン・ホモエド(1749年12月8日-1750年12月24日)
116代(108代)、アブラハム・ファン・スフテレン(1750年12月25日-1751年11月18日)
117代(109代)、ヘンドリック・ファン・ホモエド(2度目)(1751年11月19日-1752年12月5日)
118代(110代)、デビッド・ボエレン(1752年12月6日-1753年10月15日)
119代(111代)、ヘンドリック・ファン・ホモエド(3度目)(1753年10月16日-1754年11月3日)
120代(112代)、デビッド・ボエレン(2度目)(1754年11月4日-1755年10月25日)
※渡辺始興(73)没(1755年)
121代(113代)、ハーバート・ベルメウレン(1755年10月25日-1756年10月12日)
122代(114代)、ダビド・ボエレン(3度目)(1756年10月13日-1757年10月31日)
123代(115代)、ハーバート・ベルメウレン(2度目)(1757年11月1日-1758年11月11日)
124代(116代)、ヨハネス・レイノウトス(1758年11月12日-1760年11月11日)

徳川家治.png

徳川家治(十代 宝暦10年(1760年)5月13日 - 天明6年(1786年)9月8日)

125代(117代)、マーティン・フイスホールン(1760年11月12日-1761年10月30日)
※葛飾北斎生まれる(宝暦10年=1760)
126代(118代)、ヨハネス・レイノウトス(2度目)(1761年10月31日-1762年12月2日)
127代(119代)、フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1762年12月3日-1763年11月6日)
128代(120代)、ヤン・クランス(1763年11月7日-1764年10月24日)
129代(121代)、フレドリック・ウィレム・ウィネケ(2度目)(1764年10月25日-1765年11月7日)
130代(122代)、ヤン・クランス(2度目)(1765年11月8日-1766年10月31日)
131代(123代)、ヘルマン・クリスティアーン・カステンス(1766年11月1日-1767年10月20日)
132代(124代)、ヤン・クランス(3度目)(1767年10月21日-1769年11月8日)
133代(125代)、オルフェルト・エリアス(1769年11月9日-1770年11月16日)
※鈴木春信(53)没(1770年)
134代(126代)、ダニエル・アーメナウルト(1770年11月17日-1771年11月9日)
135代(127代)、アレント・ウィレム・フェイト(1771年11月10日-1772年11月3日)
136代(128代)、ダニエル・アーメナウルト(2度目)(1772年11月4日-1773年11月22日)
137代(129代)、アレント・ウィレム・フェイト(2度目)(1773年11月23日-1774年11月10日)
138代(130代)、ダニエル・アーメナウルト(3度目)(1774年11月11日-1775年10月28日)
139代(131代)、アレント・ウィレム・フェイト(3度目)(1775年10月28日-1776年11月22日)

ツュンベリー.jpg

ツュンベリー肖像画・模写/長崎市立博物館蔵
カルル・ペーテル・ツュンベリー(1743~1828)=『日本植物誌』『日本動物誌』
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index1.html

140代(132代)、ヘンドリック・ゴッドフリード・デゥールコープ(1776年11月23日-1777年11月11日)
141代(133代)、アレント・ウィレム・フェイト(4度目)(1777年11月12日-1779年11月28日)
※池大雅(54)没(1776年)
著書『オランダ商館長の見た日本 往復書翰集』 横山伊徳編訳 吉川弘文館、2005年
143代(135代)、アレント・ウィレム・フェイト(5度目)(1780年11月6日-1781年11月23日)
※葛飾北斎(勝川春朗)「洒落本」「噺本」を初作(宝永10年=1781=22歳)
144代(136代)、イサーク・チチング(2度目)(1781年11月24日-1783年10月26日)
145代(137代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1783年10月27日-1784年8月)
※与謝蕪村(68)没(1783年)
146代(138代)、イサーク・チチング(3度目)(1784年8月-1784年11月30日)
147代(139代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(2度目)(1784年11月30日-1785年11月21日)
148代(140代)、ヤン・フレデリック・ファン・パルケレール(1785年11月22日-1786年11月20日)
※※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
149代(141代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(3度目)(1786年11月21日-1787年11月30日)

徳川家斉.png

徳川家斉(十一代 天明7年(1787年)4月15日 - 天保8年(1837年)4月2日)

150代(142代)、ヤン・フレデリック・ファン・パルケレール(2度目)(1787年12月1日-1789年8月1日)
151代(143代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(4度目)(1789年8月1日-1790年11月13日)
152代(144代)、ペトルス・セオドルス・キャッセ(1790年11月13日-1792年11月13日)

153代(145代)、ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)

※※1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる

154代(146代)、レオポルド・ウィレム・ラス(1798年7月8日-1800年7月17日)
155代(147代)、ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)

156代(148代)、ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
著書『ドゥーフ日本回想録』 永積洋子訳 <第3期新異国叢書10> 雄松堂出版 2003年

ドゥーフ.jpg

ドゥーフ肖像画/長崎市立博物館蔵
ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index1.html

※喜多川歌麿(53)没(1802)
※※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
※歌川豊春(80)没(文化11年=1814)
※鳥居清長(64)没(文化12年=1815)
※山東京伝(前・北尾政演、64)没(文化13年=1816)
157代(149代)、ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)

ヤン・コック・ブロンホフ.jpg

(「出島ホームページ」)
ヤン・コック・ブロンホフ(1779~1853)
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

※司馬江漢(72)没・伊能忠敬(74)没(文化15年=1818)
※※1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
※大田南畝(75)没(文政3年=1820)
※※1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
※式亭三馬(47)没・亜欧田田善(75)没(文政5=1822)

フィッセル.jpg

(「出島ホームページ」)
ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル( 1800-1848)=『日本風俗備考』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

158代(150代)、ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
※※1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)

シーボルト.jpg

(「出島ホームページ」)=一回目の来日時のシーボルト
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796~1866)=『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

※※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
※※1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
※※1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
※亀田鵬斎(75)没(文政9=1826)
※小林一茶(65)没(文政10=1826)

159代(151代)、ヘルマン・フェリックス・メイラン(1826年8月4日-1830年8月5日)
著書『メイラン 日本』 庄司三男訳 <第3期新異国叢書1> 雄松堂出版 2002年
※※1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
※※1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
※酒井抱一(68)没(1828年)
※※1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※※シーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。

160代(152代)、ヤン・ウィレム・フレデリック・ファン・シッテルス(1830年11月1日-1834年11月30日)
※※1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
※※1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
161代(153代)、ヨハネス・エルデウィン・ニーマン(1834年12月1日-1838年11月17日)
※※1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。

徳川家慶.png

徳川家慶(十二代 天保8年(1837年)4月2日 - 嘉永6年(1853年)6月22日)

162代(154代)、エドゥアルド・グランディソン(1838年11月18日-1842年11月)
※谷文晁(78)没(天保11年=1840)
※渡辺崋山(49)没(天保12年=1841)
※※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
163代(155代)、ピーテル・アルバート・ビック(1842年11月-1845年10月31日)
164代(156代)、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン(1845年11月1日-1850年10月31日)
著書『レフィスゾーン江戸参府日記』 片桐一男訳 <第3期新異国叢書6> 雄松堂出版 2003年
※※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。石崎融思(79)没(弘化3=1846)

※葛飾北斎(90)没(嘉永2年=1849)

165代(157代)、フレデリック・コルネリス・ローゼ(1850年11月1日-1852年10月31日)
166代(158代)、ヤン・ドンケル・クルティウス(1852年11月2日-1860年2月28日)

※1853年(嘉永6)ペリー、浦賀に来航

徳川家定.png

徳川家定(十三代 嘉永6年(1853年)11月23日 - 安政5年(1858年)7月6日)

徳川家茂.png

徳川家茂(十四代 安政5年(1858年)10月25日 - 慶応2年(1866年)7月20日)

※1859年(安政6)横浜開港、この頃から横浜絵が制作され始める
※※1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)

シーボルト2.gif

(「出島ホームページ」)=再来日時のシーボルトの
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796~1866)
※※1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
※※1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
※※1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳)
※1866年(慶応2)高橋由一、ワーグマンに師事

徳川慶喜(.png

徳川慶喜(十五代 慶応2年12月5日(1867年1月10 - 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

※1867年(慶応3)大政奉還、江戸幕府滅亡     

注1 「徳川家(歴代将軍)」「歴代オランダカピタン(商館長)」「シーボルト」「北斎」「川原慶賀」関連は、「ウィキペディア」などを主軸とする。
注2 『日蘭三百年の親交(村上直次郎著)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)などを副軸とする。
注3 「江戸日蘭の交流」(「国立国会図書館」)・「川原慶賀が見た江戸時代の日本(1)」
(「長崎歴史文化博物館」)「長崎WEBマガジン」などにより随時補訂していくこととする。            】

(補記その一)「日蘭交流の始まり」

https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_1.html

1. 日蘭交流の始まり
(1)リーフデ号の日本漂着

リーフデ号.gif

リーフデ号
http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-125f.html

日本とオランダの400年にわたる交流は、慶長5年(1600)に始まる。この年の3月(1600.4)、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)の海岸に1隻の外国船が漂着した。これが、日本に到着した最初のオランダ船リーフデ号である。リーフデ号を含む5隻のオランダ船は、1598年6月、東洋を目指しロッテルダムを出港した。船団は南アメリカ南端を回って太平洋に入るコースをとったが、嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみであった。少数の生存者の中に、船長クワケルナック、高級船員ヤン・ヨーステン、イギリス人航海士のウィリアム・アダムスらがいた。彼らは、政治の実権を握っていた徳川家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになる。ヤン・ヨーステンは朱印状を与えられ貿易に活躍、江戸の居住地はその名をとって「八重洲河岸」と呼ばれるようになった。アダムスは家康に信任され、外交顧問としても活動、与えられた知行地と水先案内の職務により、「三浦按針」と称された。

リーフデ号漂着の記事→「日本風俗備考」.jpg

リーフデ号漂着の記事→「日本風俗備考」

(2)オランダ人への通商許可、平戸商館の設置

当時日本との交易に携わっていたのは主にポルトガル人であった。家康は彼らに対抗する勢力として、日本との貿易を許可する朱印状をクワケルナックらに与えた。これを受けてオランダ東インド会社の船が慶長14年(1609)九州平戸に到着、オランダ総督マウリッツからの家康への親書と献上品をもたらす。家康は使節を駿府に迎え、書状と通航許可の朱印状を託した。これによりオランダ商館が平戸に設立され、ここに日蘭の貿易が開始された。
 当時のオランダは、1568年に新教徒がスペインへの反乱を起こし、1581年に独立を宣言したばかりの新興国であった。スペイン船による貿易に頼れなくなったオランダは、その存立のため積極的に海外に進出した。オランダ東インド会社(Vereenigde Oost-Indische Compagnie, 略称VOC)はいくつかの商社を統合して1602年に設立され、喜望峰以東の貿易独占権や外国との条約締結権など広範な権力行使を政府から認可されていた。ジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)に本拠を置き、東インド総督が駐在していた。日本の商館もその指揮下にあった。

平戸のファクタリジ(商館).gif

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view?coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-P-028-GRAV
平戸のファクタリジ(商館)
製造年  1669
製造場所 アムステルダム
定義
オランダは1609年に日本政府から貿易パスを受け取ると、長崎の北西にある平戸島にファクタリジを設立しました。ジャック・スペックス(1588-?)が責任者となり、地元当局との良好な関係構築に成功。オランダ人は平戸で比較的自由にとどまり、地元の人々と交流して結婚する人もいます。しかし、1639年、日本政府は、オランダ人とオランダ人のハーフの日本人のハーフの子供全員に国外退去を命じました。1641年、オランダ人はついに平戸のファクタリジを地面に破壊し、長崎湾の出島に移動せざるを得なくなった。
投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ  彫刻(石版画)
徴収    オランダ - 日本 
施設    Koninklijke Bibliotheek
源     388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権   情報: Koninklijke Bibliotheek

(3)台湾事件

日蘭貿易には当初なんら制限はなかったが、元和2年(1616)明船以外の外国船の入港が平戸と長崎に限定され、さらに貿易をめぐる紛争のため一時中断する。
 オランダは、スペイン、ポルトガルに対抗し中国の生糸を入手するため、1622年台湾に拠点として商館と要塞(ゼーランディア城)を設けた。現地での貿易独占を目指すオランダ人と日本の商人との間に紛争を生じ、バタビア政庁は台湾に赴任する長官ヌイツに解決にあたらせた。しかし、ヌイツは1628年朱印船船長浜田弥兵衛と争い、浜田は数名のオランダ人を人質として日本に連れ去った。浜田らの訴えにより、オランダとの貿易は全面的に停止され、ヌイツは責任者として日本側に引き渡され、人質と交換に幽閉された(1636年解放)。これにより解決が図られ、寛永10年(1633)貿易が再開される。貿易許可の「御礼」としての商館長の江戸参府は、このとき義務付けられ定例となった。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート