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醍醐寺などでの宗達(その二十・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その二十「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その三)

合成図二.jpg

(上段) 俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
(下段・左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→B図
(下段・中央図)畠山記念館蔵 「同上」  無印     → C図
(下段・右図) 山種美術館蔵 「同上」  「伊年」印   → D図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19
【《宗達について大事なことは、法橋叙位以前の作品と考えられる「蓮池水禽図」(下段・左図))において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である。また養源院障壁画(※)においてすでに独自のスタイルを見せている。ということも重要であろう。したがって、この時期、すでに宗達は相当に高いレベルで表現の自由を獲得していたと見てよい。
 私は、山川氏(山川武説)のように「若さ」を強調するのではなく、「蓮池水禽図」と養源院の「白象図」「唐獅子図」を描けた時点で、十分に「風神雷神図屏風」を描くだけの技量は成熟していたと思っている。「たらし込み」をたくみに使って「蓮池水禽図」を描いた画家が、同時期に「風神雷神図屏風」の「たらし込み」を描いたとしても不思議ではない。豊かな空間表現への進化を基準とするならば、水墨画において「蓮池水禽図」から「牛図」(※※)、「白鷺図」(※※※)という、より平面性の勝った空間表現へという逆転現象をどのように解釈すべきであろうか。後述べするが、空間表現の問題に関して、ひろがりや奥行きの追求から平面的、装飾的な画面構成へという展開は、芳崖以降の二十世紀の近代画家たちにはごく当たり前のことなのである。》(p129~p130))
《「白鷺図」(※※※)には妙心寺第百二十八世楊屋宗販の賛があり、「前(さき)」とあることから、着賛は早くても一六三三年(寛永十)頃と推定されている。宗達の制作時期もこの頃とすれば、「関屋澪標図屏風」後の最晩年作となる。
 「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。》(p145)
※養源院障壁画 → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
※※「牛図」(頂妙寺蔵) → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09
※※※「白鷺図」→「白鷺図」(宗達画・楊屋宗販賛)→下段の(参考三)を参照。  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」)

(「宗達ファンタジー」その三)

一 宗達作品の「制作年代の推定」について、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収)では、次のように推定している。

①「蓮池水禽図」(上記B図) → 1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08
②「風神雷神図」(上記A図) → 1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
③「雲龍図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?)       
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04
④「松島図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-30
➄「養源院障壁画」     → 1622(元和8= 55?)~1625(寛永元= 57?)  
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
⑥「関屋澪標図屏風」    → 1631(寛永8=64?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20
⑦「舞樂図屏風」      → 1632(寛永9= 65?)~1625(寛永18= 74?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-11

二 この①「蓮池水禽図」(上記B図)に関連しての、「法橋叙位以前の作品と考えられる『蓮池水禽図』)において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である」並びに「『蓮池水禽図』を描いた画家が、同時期に『風神雷神図屏風』の『たらし込み』を描いたとしても不思議ではない」という指摘は、冒頭に掲げた「宗達モデル図」(A図とB図+C図+D図の合成図)からして、その感を大にする。

三 と同時に、宗達が①「蓮池水禽図」を制作したと推定される「1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)」と「法橋授位」の時期は、同時期の頃で、その時期は「1615(元和元=48?)~1616(元和2= 49?)」と推定し、②「風神雷神図」は、「法橋授位」後の「1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)」の頃と推定したい。

四 ③「雲龍図屏風」から⑦「舞樂図屏風」までの制作推定時期は、下記の(参考一「宗達作品の『制作年代の推定』など」) の「※古田亮説」(「標準的」な見解)に近いものと推定し、同時に、「※※林進説」(「異説的」な見解)らの「何故、それらの異説が展開されるのか」ということに関連して、常に先入観にとらわれず、下記の(参考二「宗達に関する『文献史料』)などにより、その一つ一つを随時検証することとなる。

五 その「※古田亮説」(「標準的」な見解)の、「『「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」p145)に関連しては、
その「異説的」な見解を、(参考三)「宗達の水墨画「白鷺図」関連について」で付記して置きたい。

(参考一)  宗達作品の「制作年代の推定」など

【②「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
※古田亮説  → 元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?

③「雲龍図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永四(一六二七)~寛永五(一六二八) →  六〇~六一歳?
水尾比呂志説→ 寛永二(一六二五)~寛永六(一六二九) →  五八~六二歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二五) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和九(一六二三)~寛永二(一六二四)→ 五六~五八歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一) → 五二~五四歳?  

④「松島図屏風」の制作時期
山根有三説 →寛永二(一六二五)~寛永四(一六二七) →   五八~六〇歳?
水尾比呂志説→ 寛永元(一六二四)~寛永五(一六二八) →  五七~六一歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二七) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)~元和九(一六二三)→ 五四~五六歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一)  →五二~五四歳?

⑥「関屋澪標図屏風」の制作時期(寛永八(一六三一) →六四歳? )
山根有三説 → 寛永一三(一六三六)~寛永一五(一六三八) →六九~七一歳?
水尾比呂志説→ 寛永八(一六三一)~寛永一二(一六三五) → 六四~六八歳?
山川武説 →  寛永八(一六三一)~寛永一一(一六三四) → 六四~六七歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→ 六〇~六二歳?
※古田亮説  → 寛永八(一六三一)          → 六四歳?

⑦「舞樂図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永六(一六二九)~寛永八(一六三一) → 六二~六四歳?
水尾比呂志説→ 元和六(一六二〇)~元和八(一六二二)→五三~五五歳?
山川武説 → 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) →六八~七四歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→六八~六二歳?
※古田亮説  → 寛永九(一六三二)~寛永一八(一六四一) →六五~七四歳?  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」)

制作時期・林説.jpg

http://atelierrusses.jugem.jp/?cid=22
「アトリエ・リュス」(連続講座「宗達を検証する」第9回 講師:林進)=※※林進説→『宗達絵画の解釈学―日本文化私の最新講義(林進著)』

(参考二)  宗達に関する「文献史料」など

①『中院通村日記』(元和二年=一六一六・三月十三日の条、後水尾天皇の「俵屋絵」関連)
※中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

②一条兼遐書状
※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

③西行物語絵巻の烏丸光広筆奥書(寛永七年=一六三〇)
※※烏丸光広=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

④宗達自筆書状(快庵=醍醐寺和尚?宛=「むし茸」御礼)

➄光悦書状(宗徳老宛=茶会関連)

⑥千少庵書状(千少庵=千利休の次男、妙持老宛、茶会関連)

⑦仮名草子『竹斎』の一節(五条の「俵屋」関連)

⑧菅原氏松田本阿弥家図(光悦と宗達とは姻戚?)

⑨『寛永日々記』(覚定の日記) → 寛永八年(一六三一)九月十三日条
※源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、→ 「源氏御屏風」 → 「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(参考三) 宗達の水墨画「白鷺図」関連について

白鷺図・光広賛.jpg

「雪中鷺図(俵屋宗達筆、烏丸光広賛)  MIHO MUSEUM蔵 → E図
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000024.htm
【 ?~1640頃。桃山~江戸初期の画家。琳派の様式の創始者。富裕な町衆の出身で、屋号を俵屋といった。日本の伝統的な絵巻物などの技法を消化して大胆な装飾化を加える一方、水墨画にも新生面を開き、その柔軟な筆致や明るい墨調などによって日本的な水墨画の一つの頂点をなしている。「風神雷神図」(京都・建仁寺蔵)、「蓮池水禽図」(京都国立博物館蔵)などが代表作である。】

 この「白鷺図」は、『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」などに紹介されている「楊屋宗販賛」のものではなく、「烏丸光広賛」のものである。「楊屋宗販賛」のものは、次のものである。

白鷺・宗販賛.jpg

「白鷺図」(俵屋宗達筆、楊屋宗販賛)紙本墨画、個人蔵、一〇四・〇×四六・五㎝、落款(宗達法橋)、印章(朱文円「対青軒) → F図
「芦を背景に横向きに立つ白鷺。芦はやや濃い墨を粗く使って、冬枯れの感じを出し、鷺は淡墨の柔かい描線で、巧みに表わされている。図上の賛の筆者は、妙心寺の僧・楊屋宗販(ようおくそうはん)。寛永八年(一六三一)に同寺第128世住職となり、宗達と同時代の人。」
(『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」)

 このF図の落款は「宗達法橋」で、印章は「対青軒」である。一方のE図の落款は下記(G図)のとおり「法橋宗達」で、印章も「対青」と、E図とF図とでは、その落款と印章とを異にしている。この相違は何を意味しているのであろうか?
 「芦を背景に横向きに立つ白鷺」像は、一見して同じものという印象を受けるのだが、仔細に見て行くと、微妙に異にしている。このE図もF図も、晩年の宗達の傑作水墨画として、どのような関係にあり、どのように鑑賞すべきなのか?
 これまた、「宗達ファンタジー」の世界ということになる。

白鷺図・法橋印.jpg

「雪中鷺図」の部分図(落款・印章) → G図

 これらの「宗達ファンタジー」に関連する基本的な考え方は、下記のアドレスの「再掲」
のものと同じで、それらを、それ以降に得た新しいデータを基にして、その細部を「精度を高めるための整序・修正」を施すことになる。
 そして、それは、宗達の水墨画「白鷺図」に関連しても、F図を中心としての「※古田亮説」とは異なり、E図とF図との、この両図との検証を経てのもので、それは、丁度、その水墨画「蓮池水禽図」の「B図(国宝・「伊年」印)とC図(無印)とD図(「伊年」印)との、その比較検証を得てのものと同じような世界のものとなってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

(再掲)

【 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(その四・個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」()クリーヴランド美術館蔵 
※「牡丹図」(その三・東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(その五・個人蔵)
※「兎」図(その六・現東京国立博物館蔵)
※「狗子」図(その七)
※「鴨」図(その九)

 ここで落款の署名の「法橋宗達」(「鴛鴦図一=その四・個人蔵」)と「宗達法橋」(「鴛鴦図二=その五・個人蔵」)との、この「法橋宗達」(肩書の一人「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)との、その用例の使い分けなどについて触れたい。
 嘗て、下記のアドレスなどで、次のように記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19


《 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。 》

 この「法橋宗達」(一人称的「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)関連については、宗達の「西行法師行状絵詞」の、次の烏丸光広の「奥書」に記されている「宗達法橋」を基準にして考察したい。

《 右西行法師行状之絵
  詞四巻本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望申出
  禁裏御本命于宗達法橋
  令模写焉於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
  寛永第七季秋上澣
   特進光広 (花押)

 右西行法師行状の絵詞四巻、本多氏伊豆守富正朝臣の所望に依り、禁裏御本を申し出だし、宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ。詞書に於ては予禿筆を染め了んぬ。胡盧(コロ、瓢箪の別称で「人に笑われること。物笑い」の意)を招くものか。
  寛永第七季秋上澣(上旬) 特進光広 (花押)   》(漢文=『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』、読み下し文=『源・橋本前掲書』)

 この奥書を書いた「特進(正二位)光広」は、烏丸光広で、寛永七年(一六三〇)九月上旬には、光広、五十二歳の時である。
 この寛永七年(一六三〇)の「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収)に、「十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」とあり、この「上皇」は「後水尾上皇」で、「女院」は「中宮の『徳川和子=女院号・東福門院』か?」と思われる。
 この徳川和子(徳川家康の内孫、秀忠の五女)が入内したのは、元和六年(一六二〇)六月のことで、その翌年の元和七年(一六二一)に、東福門院(徳川和子)の実母の徳川秀忠夫人(お江・崇源院)が、焼失していた「養源院」(創建=文禄三年、焼失=元和五年、再興=元和七年)を再興した年で、「俵屋宗達年表」(『源・橋本前掲書』所収)には、「京都養源院再建、宗達障壁に画く、この頃、法橋を得る」とある。
 この養源院再建時に関連するものが、先に触れた「松図襖(松岩図襖)十二面」と「杉戸絵(霊獣図杉戸)四面八図」で、この養源院関連については、下記のアドレスで詳細に触れているので、この稿の最後に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

 ここで、先の宗達の「西行法師行状絵詞」に関する光広の「奥書」に戻って、その「奥書」で、光広は宗達のことについて、「宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ」と、「宗達法橋」と、謂わば、「西行」を「西行法師」と記す用例と同じように、「敬称的用例」の「宗達法橋」と記している。
 これらのことに関して、「(宗達の水墨画の)、多くは宗達法橋としるしている。いわば、自称の敬称である。しかしそれは長幼の差のある親しい者同士の間によくある事例である。宗達がすでに老境に及んで、人からは宗達法橋と呼びならされている自分を、自らもまた人の言うにまかせて、必ずしも自負的意識をおびないで、宗達法橋と称したのは非常に自然なことといってよい。それはまたある意味では、老境に入った者の自意識超越の姿といってもよい。彼の水墨画にこの形式の落款が多いということは、逆にいえば、それらの水墨画が多くは老境の作であり、自己を芸術的緊張から解放した、自由安楽の、いわゆる自娯の芸術であったからであるといえるのではないか」(『源・橋本前掲書』) という指摘は、肯定的に解したい。
 これを一歩進めて、「法橋宗達」の署名は、「晴(ハレ)=晴れ着=贈答的作品に冠する」用例、そして、「宗達法橋」は、「褻(ケ)=普段着=相互交流の私的作品に冠する」用例と、使い分けをしているような感じに取れ無くもない。
 例えば、前回(その四)の「法橋宗達」署名の「鴛鴦一」は、黒白の水墨画に淡彩を施しての、贈答的な「誂え品」的な作品と理解すると、今回(その五)の「宗達法橋」署名の「鴛鴦二」は、知己の者に描いた「絵手本」(画譜などの見本を示した作品)的作品との、その使い分けである。
 次に、印章の「対青」と「対青軒」については、その署名の「法橋宗達」と「宗達法橋」との使い分け以上に、難問題であろう。
これらについては、『源・橋本前掲書(p109)』では、「aの『対青』印は『対青軒』印の以前に用いたものと思われる。『対青軒』印はほとんど常に宗達法橋の署名の下に捺されている。『対青』とは、恐らく『青山に相対する』の意と思われるが、或いは彼の住居の風情を意味するのかも知れない」としている。
 また、「宗達は別号を対青(たいせい)といい、その典拠は中国元時代の李衎(りかん)著『竹譜詳録』巻第六『竹品譜四』に収載されている『対青竹』だ。『対青竹出西蜀、今處處之、其竹節間青紫各半二色相映甚可愛(略)』とあり、その図様も載せる(知不足叢書本『竹譜詳録』)。宗達は中国の書籍を読んでいた読書人であった」(『日本文化私の最新講義 宗達絵画の解釈学(林進著)』p282~p283)という見方もある。
 ここで、「対青軒」(「対青」はその略字)というのは、宗達の「庵号(「工房・画房」号)」と解したい。そして、この「青軒ニ対スル」の「青軒」とは、「青楼」(貴人の住む家。また、美人の住む高楼)の意に解したい。
即ち、宗達の「法橋の叙位を得て、朝廷の御用を勤める宮廷画人」の意を込めての、「青軒」とは、「寛永七年(一六三〇) 十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」)の、その「上皇(後水尾院)と女院(東福門院)」の、その「青軒」(青楼)の意に解したい。 】
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醍醐寺などでの宗達(その十九・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十九「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その二)

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)

 前回のものをアップして、その時に、「モヤモヤとしていた」ものを次のように記した。
今回は、その「モヤモヤとしていた」、その「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる」ということに関連に焦点を絞って、その周辺を探索したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

 これは、これで、「なかなか面白い」と思ったのだが、次の『ウィキペディア(Wikipedia)』のデータとの関連をクリアするのが、これまた、厄介である。

「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』) 】

角倉了以別邸.jpg

「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)

 宗達の「風神雷神図屏風」は、「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだきんのり)」が、「臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念」に寄贈するため製作を依頼したもの」という妙光寺伝来の、「糸屋の打它公軌(糸屋十右衛門)」とは、謎につつまれた宗達と同じように、その全体像はなかなか正体不明の人物である。
 下記のアドレスでは、「豪商・打它公軌は越前(福井県)敦賀の豪商・糸屋彦次郎の子として生まれ、家業を継がずに京都に出て、驚月庵に営み、歌を大名・歌人である木下長嘯子、俳人・歌人である松永貞徳、公卿・歌人である中院通勝に学び、木下長嘯子の「挙白集」を編集した」と、ここでも、「中院通村」の実父「中院通勝」(嵯峨本『伊勢物語』校閲者)が出てくる。

https://kyototravel.info/kenninjifuujinraijinzu

 さらに、この打它公軌の「糸屋」は、当時の俗謡に次のようにうたわれているようなのだが、この「糸屋」も、様々にうたわれており、その「糸屋」の住所などは、今一つ分からない。

「〇〇〇〇糸屋の娘/姉は十六妹は十四/諸国(諸)大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は眼で殺す」

 この「〇〇〇〇」には、「京都三条糸屋の娘」(梁川星巌)とか「大阪本町糸屋の娘」(頼山陽)とかの、その漢詩の「起承転結」の用例で出てくるやら、その他に「三条木屋町」とか「京の五条の」とか、そして、「姉の年齢は十八だとか、妹の年齢も十五」だとか、どうにもややっこしい。
 この俗謡を、「三条木屋町糸屋の娘」とすると、上記の「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)が、角倉了以・素庵親子が開削した運河の「高瀬川」に添う「木屋町通り」で、ここに、打它公軌の「糸屋」があったとすると、「光悦・素庵・宗達」(「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」に携わった「光悦グループ」)の「素庵」との接点が浮かび上がってくる。
 ここに、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)の一節を重ね合わせると、「五条は扇の俵屋」の「俵屋宗達」との接点も、これまた浮かび上がってくる。
 この『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)の「五条は扇の俵屋」関連については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

 ここでは、この「三条木屋町」の「打它公軌」の「糸屋」(繊維問屋)の、その「絲印」(室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印)と、宗達の印章として使用されている「伊年」印、そして、「「対青軒」の円印などとの関連である。
 この宗達の「伊年」そして「「対青軒」の円印と、「絲印」との関連について指摘したのは、下記のアドレスでの、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」においてであった。それを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

【又、伊年に限らず、対青軒(或は劉青軒)その他の円印に就てであるが、宗達以前に、筆者の印に斯様な大きな円印を用ひた例があるかどうか、私は未ださう云ふものを見た事がない。いずれ宗達は、何かからのヒントを得て、あゝ云ふ大きな円印を画に捺す様になつたものと思はれるが、果してそれは何であつたか。…… 勿論これを簡単に知る訳には行かない。唯、私は次の様な事を想像してゐる(之は文字通りほんの想像に過ぎないのであるが)。
 即ち、絲印が本になつてゐるのではないかと云ふ事である。絲印とは、室町時代の中頃から江戸時代の初めにわたつて、織物の原料たる生絲を、明国から輸入した際に、絲荷の中に一包毎に入れて送つて来た銅印を云ふのである。その際、絲の包紙にその印を押し、又受取書にも押して、斤里を改めて受けたしるしとしたのである。その印は鋳物で、皆朱字である。そして大きさは大小色々あり、輪郭も単線、複線があつて、形も方、円、五角、八角などがあつた。而も之は文具として用ひられる様になり、秀吉や近衛三藐院らはこの絲印を用ひてゐたと云はれてゐる。即ち宗達は機屋俵屋の一族かと思はれるから、当然これに関係があるし、又、三藐院は宗達と恐らく交際があつたと想像出来るから、ここにも繋がりがあるのである。(三藐院と宗達の合作らしき一幅があるし、光悦と三藐院は明らかに交はりがあつた。)
 併し宗達のことであるから、前代の画家の小円印や、所蔵者印の大きなものからヒントを得たのかも知れず、其の点は如何とも決定し難い。】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15)

 宗達の「伊年」印、「対青軒」の円印、そして、「絲印」などを、参考に、掲載して置きたい。

和歌巻21.jpg

「四季草花下絵千載集和歌巻」末尾の「光悦署名(花押)」に続く「伊年」印
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-17

対青軒印.jpg

「対青軒」=典拠は模刻印(摹刻印)。典拠は「野村宗達」で立項。典拠によると「印径二寸□カ」。印文は典拠に従った。
https://dbrec.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?DEF_XSL=default&SUM_KIND=CsvSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=NOFRAME&IS_DB=G0038791ZSI&IS_KIND=CsvDetail&IS_SCH=CSV&IS_STYLE=default&IS_TYPE=csv&DB_ID=G0038791ZSI&GRP_ID=G0038791&IS_START=1&IS_EXTSCH=&SUM_TYPE=normal&IS_REG_S1=none&IS_TAG_S1=Identifier&IS_KEY_S1=G0038791ZSI:47531&IS_LGC_S2=AND&IS_CND_S1=ALL&IS_NUMBER=1&XPARA=&IS_DETAILTYPE=&IMAGE_XML_TYPE=&IMAGE_VIEW_DIRECTION=

絲印.jpg

<絲印の由来>
絲印とは、室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印のことをいい、小さな鈕(ちゅう)のついた印である。
https://ameblo.jp/mammy888/entry-11927032659.html

 ここで、最初の振り出しに戻って、【「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)】ということに関連しては、次のように解して置きたい。

(「宗達ファンタジー」その二)

一 宗達の最高傑作と言われる「風神雷神図」は、「家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つ」なのであるが、何らかの経過を経て、当時の上層町衆の一人である、当時の「三条木屋町」で「糸屋」(繊維問屋)を営む「打它公軌」(糸屋十右衛門)に下賜され、「打它公軌」(糸屋十右衛門))のものとなっている。

二 その「打它公軌」(糸屋十右衛門)の所有している「風神雷神図」は、妙光寺再興の記念に、同寺に寄贈される。この間の「寛永十四年(一六三七)~元文四年(一七三九)」までの、
下記のアドレスの「妙光寺編年表」より、主要なものを掲載して置きたい。
 これによると、「※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英) 後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。」と、後水尾天皇は、この「妙光寺」で、御所に進呈され、それを、下賜した「風神雷神図屏風」に再会したということになる。
 また、この「風神雷神図屏風」が、建仁寺へ移管された時期は、「※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅) 東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。」の頃で、尾形光琳や乾山が、この「風神雷神図屏風」に接したのは、建仁寺ではなく、この妙光寺の方丈に於てであると思われる。

https://kyoto-bunkaisan.com/report/pdf/kiyou/02/06_mase.pdf

【寛永14年8月12日(1637年9月30日) 
打宅公軌が建仁寺霊洞院の所管の北山妙光寺屋敷並びに山薮の再興と管理をまかされる。

寛永16年10月13日(1639年11月8日 三江和尚)
妙光禅寺再建,開山法燈円明国師忌を降魔室において行う。

正保4年3月14日(1647年4月18日  三江和尚)
打宅公軌死去,驚月庵香林良亭居士と号す。

慶安元年9月13日(1648年10月29日  三江和尚)
打宅景軌が妙光寺の永代檀那となすことを常光大和尚に約定。妙光寺山のうち,西の方3分の1は,驚月庵へ永代地として除くが,それは良亭遺骨と祖父宗貞の遺骨を納めた石塔を建置く打宅一門の墓とするためである。

慶安3年8月23日(1650年9月18日  雲菴覚英)
三江和尚遷化,雲菴覚英継住

※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英)
後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。

寛文6年(1666年  雲菴覚英)
打宅景軌により山門が再建落成される。

天和2年2月19日(1682年3月27日 乙檀西堂)
雲菴覚英遷化し,乙檀西堂が継住

元禄3年11月2日(1690年12月2日 乙檀西堂)
打宅十兵衛雲泉が驚月庵並びに山薮一式を預かるとともに,妙光寺のことも管理することを約定する。

元禄9年11月21日(1696年12月15日  東明覚沅)
乙檀西堂遷化,東明覚沅継住

享保6年8月22日(1721年10月12日 東明覚沅)
打宅十右衛門死去,實乗院観海雲泉居士と号す。

※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅)
東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。

※※元文4年10月29日(1739年11月29日 東明覚沅)
東明和尚,建仁寺へ再住開堂する。     】

(参考)  尾形乾山略年表

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/244188/1/kenzan2019.pdf

1663(寛文3) 1歳 京都の呉服商尾形宗謙の三男として誕生。幼名、権平。次兄は市丞(のちの光琳)。
1687(貞享4) 25 歳 父・宗謙没(67 歳)。家屋敷・金銀諸道具などの遺産を受け継ぐ。
1689(元禄2) 27 歳 仁和寺の門前、双ヶ岡の麓に習静堂を建てて隠棲する。
1694(元禄7) 32 歳 福王子村鳴滝泉谷にある山屋敷を二條家より拝領する。
1699(元禄 12) 37 歳 3月、仁和寺へ開窯を願い出て許可される。9月、窯を築く。
11 月、初窯。乾山焼と命名し、仁和寺門跡へ茶碗を献上する。
1700(元禄 13) 38 歳 3月、二條綱平 (1672-1732) へ乾山焼香炉を献上。その後 20 年近くにわたって、二條綱平へ乾山焼を献上する。
1712(正徳2) 50 歳 鳴滝乾山窯を廃窯する。二条丁子屋町へ移転し、「焼物商売」を継続する。
1731(享保 16) 69 歳 輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下向か。猪八(二代乾山)、聖護院門前で乾山焼を生産する(聖護院乾山窯)。
1737(元文2) 75 歳 3月、技法書『陶工必用』完成。9月、下野国佐野を訪れ、『陶磁製方』執筆。
1743(寛保3) 81 歳 6月2日、乾山没。
1744 ~ 1747(延享1~4) 二代乾山、聖護院門前で、乾山窯を継続か(「延享年製」銘の火入あり)。

(尾形光琳関連メモ)

http://www.kyoto-yakata.net/artist/2416/

1658年 万治元京都で呉服商の「雁金屋(かりがねや)」の当主、尾形宗謙の次男として生まれる。絵画、能楽、茶道などに親しむ。 30歳の時に父が死去し、財産を相続した為に40代頃まで放蕩・散財生活を送ったと考えられている。画業の始まりは画家が30代前半におこなった改名した頃と同一視されるも、本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測される。40歳のころ、ようやく絵師として立つことを決心します。

1701年 44歳で朝廷から優れた絵師に贈られる法橋の位を得る。もって生まれた天賊の才と公家や銀座の役人、中村内蔵助(くらのすけ)らをパトロンとして、光琳は瞬く間に絵師としての地位を確立します。順風満帆な光琳が屏風「燕子花図」を描いたのはこのころのようです。

1704年 しかし画業の成功も束の間、生来の派手好みは収まらず、やはり借金漬けの生活が続きます。そして京の経済が陰り始めたころ、光琳は江戸に出仕した中村内蔵助を追うようにして、自らも東下り、江戸に赴きます。

1709年 この時期、雪舟(せっしゅう)や雪村(せっそん)の写に没頭し、その画風を学びます。とはいえ如才のない光琳は大名家からも気に入られ、京に戻って新しい屋敷を構えるほどには成功したようです。

1711年 新町通りに新居を構え、精力的に制作を行う。「風神雷神図」「槇楓(まきかえでの図」「松島図」

1716年 逝去。また、辻惟雄が「艶隠者」と呼んだ貴族的・唯美主義的作家であり、 宮廷風に美しく立派な美学を打ち出した。
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醍醐寺などでの宗達(その十八・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十八「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その一)

風神・雷神図屏風.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
【 落款・印章もないが、万人が宗達真筆と認める最高傑作。左右の両端に風神と雷神の姿を対峙させ、その間に広い金地の空間を作る。風神・雷神は仏画の一部に古くから描かれているが、ここでは一切の宗教性、説明性を排して、純粋に配色と構図の妙をもって画面を構成している。躍動、疾駆する体躯の力強い描写、たらし込みによる雲の軽やかな表現。二神の位置の確かさなど、晩年の円熟した画境を物語っている。 】(『創立百年記念特別展『琳派』目録』所収「作品解説1」)

 このスタンダードの「作品解説」の末尾の「晩年の円熟した画境を物語っている」の、この作品は、宗達の「晩年」(「寛永一九=一六四二、俵屋宗雪法橋の位にあり《隔冥記》宗達すでに没か」=『東洋美術選書宗達(村重寧著)』所収「宗達周辺年表」)の頃の作品なのであろうか?
 これらのことに関して、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分で」は、次のとおり紹介されている。

【 「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
※水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
古田亮説  →  元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?  】 
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収俵屋宗達略年譜および各説時代区分))

 この「風神雷神図屏風」の制作時期が、宗達の晩年の「最後に到達しえた画境」(『東洋美術選書宗達(村重寧著)』)などとするのは、上記の「山根有三説」(「山根宗達学」)に由来するものなのであるが、それらの見解は、同時に、「皮肉にも落款(署名)も印もない。他の追随を許さぬこの画面をみてもらえばその必要はなしとしたのだろうか。あるいは恵まれた画歴の最後の時期において、これまでの作画の殻を破るべく、もう一度新たな忘我の境地で、名誉ある『法橋宗達』の自署をあえて捨ててかかったのであろうか」(『村重・前掲書』)となると、どうにも「贔屓の引き倒し」という感が拭えないのである。

 ここは、単純明快に、この「風神雷神図屏風」の「落款(署名)も印もない」というのは、宮廷(「御所」など)御用達(宮廷への進上品など)関連の作品と解して、より具体的に、宗達の「法橋授位」の御礼の、即ち、当時の「後水尾天皇」などへの進上品的絵画作品の一つと解したい。
 そして、その年譜(『村重・前掲書』)に、「元和二(一六一六) 俵屋の記事あり(中院通村日記三月十三日)」とあるのだが、これらのことに関連して、下記のアドレスで、「元和三年(一六一七)五月十一日の和歌会」の「中院通村日記」を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》  

 そして、この背後には、「後陽成・後水尾天皇」の、次の系譜が繋がっている・。

(別記)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主     】

 これらのことに関して、ここで、宗達の「法橋授位」の時期は、「※水尾比呂志説→慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?」に近いものにして置きたい。

【 宗達への法橋授位は、かかる嵯峨本におけるすぐれた下絵や、多くの金銀泥料紙の制作といふ業績に対して、公卿や上層町衆の推挙により行われた、と私は推定する。それは一寺院の障壁画制作よりもはるかに重要な業績として宮廷に認められ得るものであり、推挙者にも最高の強力なメンバーが揃っている。絵屋俵屋の宗達は、画系上では何の格式も持たぬ一介の町絵師に過ぎなかったけれども、みづからもその一員たる上層町衆の位置から考えれば、当時の宮廷との関係は、現実的に狩野土佐その他の画人よりもいっそう親密であったとしてよい。加えるに嵯峨本というみごとな業績と強力な推挙者に恵まれていたのである。
法居叙任は、至極当然たったといえよう。 】(『琳派 水尾比呂志著』所収「俵屋宗達から法橋宗達へ」)

 この指摘のうちの「嵯峨本」については、京都嵯峨の豪商角倉家の角倉素庵(了以の嫡子)が、光悦と宗達との協力を得て出版した私刊本の総称で、「光悦本」とも「角倉本」とも呼ばれている。その代表的な『伊勢物語』の校閲者は、『中院通村日記』の通村の父通勝で、
ここにも、光悦・素庵らの上層町衆と宮廷文化人との密接な協力関係がその背景にある。
 さらに、「多くの金銀泥料紙の制作といふ業績」に関連しては、その中心をなすのは、「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーションの、下記のものに代表される「光悦書・宗達画和歌巻」の世界ということになろう。これらの作品は、慶長十年代から元和初年にかけての制作であることが、「山根宗達学」などの先達によって考証されている。

① 「四季花卉下絵古今集和歌巻」一巻、畠山記念館蔵、重要文化財
② 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」一巻、京都国立博物館蔵、重要文化財
③ 「鹿下絵新古今集和歌巻」一巻、MOA美術館、シアトル美術館ほか諸家分蔵
④ 「蓮下絵百人一首和歌巻」一巻、焼失を免れた断簡が東京国立博物館ほか諸家分蔵
➄ 「四季草花下絵千載集和歌巻」一巻、個人蔵

 上記の「光悦書・宗達画和歌巻」については、④の「蓮下絵百人一首和歌巻」を除いて、これまでに、下記のアドレスなどで主要な課題として取り上げてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-19

 ここで、改めて、これらの「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」、そして、「光悦書・宗達画和歌巻」の世界は、「後陽成天皇(一五七一~一六一七)→第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、一五九六~一六八)・第四皇子:近衛信尋(近衛信尹養子、一五九九~一六四九)・第九皇子:一条兼遐=一条昭良、一六〇五~一六七二)→智仁親王(後陽成院の弟、一五七九~一六二九)」時代の、その中枢に位置した「後陽成天皇」(後陽成院)の、その「天皇権威復活・王朝文化回帰」への悲願ともいうべきものが、その原点にあったという思いを深くする。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れたが、宗達の、この「風神雷神図屏風」と関連させて、再度、その周辺を探索してみたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)
【『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」   

p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)

(宗達ファンタジー その一)

慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、百五十年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了し、同年七月元号は「元和」となり、ここに「元和偃武(えんぶ)」の時代が幕開けする。
 この年、近衛信尹(三藐院・没五〇)、角倉了以(没六一)、海北友松(没八三)が没し、古田織部が豊臣氏に内通した咎で切腹(没六二)している。この織部の切腹などに関連するのかどうかは謎のままだが、本阿弥光悦(五八歳)も、家康より洛北鷹が峰の地を与えられ、それまでの上京区の本阿弥辻から恰も所払いように移住することとなる。
 この翌年の元和二年(一六一六)に、徳川家康が没(七五)し、その翌年の元和三年(一六一七)に後陽成院が崩御(四七)する。この元和二年(一六一六)の「中院通村日記(三月十三日条)」に「俵屋絵の記事」が掲載された前後に、「絵屋・俵屋」の一介の町絵師から、宮廷絵師の「法橋」の授位を賜り、それは、上層公卿(「烏丸光広・中院通村」など)や上層町衆(「本阿弥光悦・角倉素庵」など)の推挙という異例のものであった。

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)

 この宗達の最高傑作とされている、無落款(署名)・無印章の「風神雷神図」屏風は、何時頃制作されたのか?
 このことについては、家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つと解して置きたい。
 そして、その上で、この宗達の「風神雷神図屏風風」は何を主題したものなのかどうか?
このことについては、町絵師の「俵屋宗達」から、宮廷絵師「法橋(俵屋)宗達」へと推挙した、「町衆文化(「光悦・素庵」らの新興する「町衆文化」)と、「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)との、新たなる止揚としての「元和偃武の王朝文化の復権」を目指すものであったと解したい。
 として、「法橋(俵屋)宗達」が使用することとなる「対青」そして「対青軒」の印章に照らして、右隻の「風神図」の「風神」の、この「白色」ならず有色の「緑・青色」の世界は、
「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)、そして、左隻の「雷神図」の「雷神」の、この「白色」の世界こそ、当時、勃興する「町衆文化」を象徴するもと解して置きたい。
 ここで、この宗達筆の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)と、先の後陽成天皇筆の「鷹攫雉図」(B図)とを、じっくりと交互に鑑賞してみたい。
 とすると、この「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の左隻の「白色」の「雷神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「白色」の胸毛を露わにした「雉ヲ攫ウ鷹」図と化し、一方の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の右隻の「風神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「有色」の「緑・青」の「鷹ニ襲ワレタ雉」の形相を呈してくることになる。
 後陽成天皇(後陽成院)のポジションは、常に、時の巨大な武門の覇権者(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)との熾烈な修羅場に身を置くことを余儀なくされた環境下にあり、好むと好まざるとに関わらず、そういう二極対立上の世界のものとして鑑賞されやすいが、この宗達の「風神雷神図屏風」の「風神」と「雷神」との見立ては、全く、これらを鑑賞する者の自由裁量に委ねられている。
 そして、これらのことと、この風神と雷神とを一双の両端上部に配置し、中央の二扇を全て金地の余白とした構図と密接不可分の関係にあり、これこそが、この「風神雷神図屏風」の、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の原動力があるように思われる。
 ここで、この「風神雷神図屏風」の出来上がるまでの、そのモデル(宗達が見本としたもの)の段階的な一つのイメージ化(仮想的な形象化)を提示したい。

第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-20

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04

友松・龍右.png

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

友松・龍左.jpg

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)
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醍醐寺などでの宗達(その十七・「雲龍図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十七 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「雲龍図屏風 (宗達筆)」

雲龍図屏風.jpg

「雲龍図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm フリーア美術館蔵
《綴プロジェクト作品(高精細複製品)「雲龍図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:東京芸術大学美術館》→ A図の一
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-08.html

 この宗達の「雲龍図屏風」も下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-15-1

【Dragons and Clouds
Type Screen (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Momoyama or Edo period, 1590-1640
Medium Ink and pink tint on paper
Dimension(s) H x W: 171.5 x 374.6 cm (67 1/2 x 147 1/2 in)

《「雲竜図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm
六曲一双の大画面に波間から姿を現し、対峙する二頭の龍を雄渾な筆致で描く。二頭に反転したような姿態でにらみ合う。龍は周りを黒雲で囲み、塗り残しの白さで表す。左右に躍る二組の波濤の形態は、のちに光琳や抱一の「波図屏風」にそのまま受け継がれている。龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える。》(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)】

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A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

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A図の三(「右隻」の龍図・部分拡大図)

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A図の四(「右隻」の波図・部分拡大図)

 確かに、この宗達の「波図」(A図の四) は、下記の光琳の「波図」(B図)と、抱一の「波図」(C図)とに、確りと引き継がれている。

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尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→B図

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酒井抱一筆「波図屏風(部分拡大図)」六曲一双 各一六九・八×三六九・〇cm 静嘉堂文庫美術館→C図

 そして、確かに、この宗達の龍は、「龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える」ということを実感する。これは、宗達その人の自画像なのかも知れない。この龍の眼を見ていると、「好奇心旺盛で、猜疑心が強く、ユーモアと優しさを秘めて、一切は語らず」の、謎の絵師・宗達その人の「眼」という思いを深くする。
そして、この「眼」は、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の、あの何とも言えない、二頭の「牛」の表情(「眼)と、同じものという印象を深くするのである。

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「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」右隻=関屋図(部分拡大図)=D図の一

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「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」左隻=澪標図(部分拡大図)=D図の二

 この宗達の「牛」(D図の一)は、前の人物(空蝉の弟、空蝉の文を持っているか?)に近寄ろうとしている、その感情を秘めた「牛」の表情なのである。そして、次の「牛」(D図の二)は、「明石の方」が乗っている「屋形船」を見送る(再会を果たせず無念のうちに見送る)、、謂わば、「光源氏」の化身ともいうべきものなのである。
 これらのことについて、「宗達マジック・宗達ファンタジー」ということについて、下記のアドレナスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-09

 この「宗達マジック・宗達ファンタジー」というのは、決して宗達の独占的なものではなく、当時の名のある絵師なら、その大小や程度の差はあるが、何らかの「マジック」(トリック=騙し)やら「ファンタジー」(幻想・空想を呼び起こさせるもの)を、その作品の中に潜ませている。

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狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)

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狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)
「青矢印が太くて長いまつ毛に隠れた左目で、赤矢印は目ではなく鼻の一部にように受け止めてしまいますが、反対側に行くと、その赤矢印が大きく開いた目となり、「両目で睨まれる」となります」
http://blog.unno-kouenkai.com/?eid=1584000

 これは、狩野派の総帥、探幽の「騙し絵」である。探幽には「鳴き龍」(大徳寺「法堂」)もある。

大徳寺・鳴き龍.jpg

大徳寺・法堂 (重要文化財)寛永13年(1636年)、小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。天井に描かれている「雲龍図=蟠龍図」は狩野探幽35歳の作。→ E図
https://ja.kyoto.travel/specialopening/winter/2019/special/public01.php?special_exhibition_id=31

 この大徳寺には、等伯(等白)の天井に描かれている「雲龍図」もある。

等伯・雲龍図.jpg

大徳寺(山=三門)金毛閣〈龍の天井絵〉長谷川等白(等伯)筆=龍源院は能登の守護大名畠山氏が建立、再興し、等伯の師とされる等春が晩年を過ごした。→ F図
https://coshian.exblog.jp/17319338/ https://news.yahoo.co.jp/articles/e065c8946d9b759368deaded7a677ed046ca41f5

 探幽の「法堂」の「雲龍図」(鳴き龍)に比して、等白(等伯)の、この「金毛閣」の「雲龍図」は、それほど喧伝されていない。「永徳・等伯年譜」(『新編名宝日本の美術 永徳・等伯』所収 )の「天正十七年(一五八九、永徳・四七歳、等伯・五一歳)」の項に、「大徳寺三門の天井画・柱絵を描く。大徳寺三玄院創建。同院の襖絵(京都市円徳院他蔵)制作はこの頃か。(『大宝院鑑国師行道記』)」とある。
 この「山=三門・金毛閣」は、下記の「大徳寺境内図」の「勅使門→金毛閣→仏殿→法堂」の一直線上の中心伽藍の中にあり、「勅使門」の南側に「龍源院」、「法堂」の西側に「三玄院」、そして、「真珠庵」は「本坊・方丈」の北側に位置する。

大徳寺境内図.jpg

「大徳寺」境内図(配置図)
http://www.geisya.or.jp/~tamaruya/info/mapwide.html

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)の時代は、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代から、探幽(慶長七=一六〇二~延宝二=一六七四)時代への、その橋渡しの時代ということになる。

雲龍図屏風二.jpg

A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

 この宗達の「左隻」の龍図の視線は、「来し方」の、等伯の、F図の、「大徳寺(金毛閣」」の「雲龍図」を睨んでいる。

雲龍図屏風三.jpg

 この宗達の「右隻」の龍は、「行く末」の、探幽の、E図の「大徳寺(法堂)」の「「雲龍図=蟠龍図」を睨んでいる。

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)時代の先鞭をつけた、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代に、もう一人、海北友松(天文二=一五三三~慶長二十=一六一五)の「雲龍図」(京都・建仁寺蔵)は、これは避けては通れないであろう。

友松・龍左.jpg

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)→G図の一

友松・龍右.png
海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九) →G図の二
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632
【本坊方丈の玄関に最も近い位置にある「礼之間」を飾る8面の襖絵です。阿吽(あうん)の双龍が対峙するように配され、建仁寺を訪れたものを濃墨の暗雲の中から姿をあらわして出迎えます。迫力と威圧感は他の画家の追随を許しません。】

 この友松の「雲龍図」は、「阿吽(あうん)」=「阿=口を開ける・吽=口を閉じる」の「双龍図」なのである。それに比して、宗達の「双龍図」は、その口ではなく、その眼の、その「視線の先」は、一切が『語らざる』の、沈黙の「ファンタジーの世界(さまざまな幻想などを掻き立てる語らざる世界)」なのである。

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)→H図 

宗達の最高傑作と言われている、友松筆「雲龍図」(襖八面)と同じ「建仁寺」所蔵の、「風神雷神図」(部分拡大図・H図)である。
 この宗達の、右の「風神図」の「風神」の口は「開いて」、さながら、友松の「阿の龍」(G図の二)で、その「眼」の視線も同じ方向である。
 そして、この宗達の、左の「雷神図」の「雷神」の口は「閉じて」、これもまた、友松の「吽の龍」(G図の一)さながらで、その「眼」の視線も、これまた、同じ方向である。

(これまでに、下記のアドレスで「風神雷神図」幻想(その一~二十))と題して、その周辺を探索したことがあるが、新たに「宗達ファンタジー」と題して、その続きをフォローして行きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306151768-1

【「風神雷神図」幻想(その一~二十)
2018-03-1  (その一)   河鍋暁斎の「風神雷神図」(一)
2018-04-24 (その二十) 光琳の「金」(風神雷神図)と抱一の「銀」(夏秋草図)、そして、其一の「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)の世界 】

タグ:雲龍図屏風
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醍醐寺などでの宗達(その十六・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十六 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その三)

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-1図

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-2図
【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)
(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

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尾形光琳筆「松島図屏風」六曲一隻 一五〇・二×三六七・八cm ボストン美術館蔵
→ B図
【光琳は宗達の松島図屏風に倣った作品を何点か残している。本屏風はその一つで、宗達作品の右隻を基としている。岩山の緑青などに補彩が多いのが惜しまれるが、宗達作品と比べると、三つの岩山の安定感が増し、左斜め奥へと向かう位置関係が明瞭となり、うねりや波頭が大きくなり、波の動きがより強調されている点が特徴として挙げられる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説」(宮崎もも稿)」)
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尾形光琳筆「松島図屏風」 紙本金地着色 二曲一隻 一四六・四×一三一・四cm 大英博物館蔵 → (C図)
【宗達の「松島図屏風」(米・フリーアギャラリー)の右隻二扇分に元に基づいた作品。光琳には同工異曲の作品を描いている。海中からそそり立つ岩には、蓬莱山にも通ずる寿福のイメージがあった。白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている。】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)

 これらの、宗達筆「松島図屏風」(A-1図・A-2図)、そして光琳筆「松島図屏風」(B図・C図)に関連しては、下記のアドレスで紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-09

 それから、およそ三年を経過した、下記のアドレスで、これらは、等伯の「波濤図」(京都・禅林寺蔵)と何らかの関係があるのではなかろうか? ということについて触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-28

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等伯筆「波涛図」(三幅・その一)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の一 

波濤図三幅二).jpg

等伯筆「波涛図」(三幅・その二)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の二

【「波涛図」六幅 長谷川等伯筆 紙本金地墨画 四幅(各)一八五・〇×一四〇・五㎝
二幅(各) 一八五・〇×八九・〇㎝ 重要文化財 京都・禅林寺蔵
 禅林寺大方丈の中之間を飾っていた襖絵(全十二面)の一部にあたるもので、現在は掛幅に改装されている。寺伝では狩野元信筆、通説では曽我派の作に擬されたこともあったが、その結晶体を想わせる鋭利な岩皺表現から、現在は長谷川派とくに等伯筆とみることが定着している。おそらく今後もその見方が揺らぐことはないだろう。
 図は、海中に屹立する岩塊と、それにぶつかつて渦を巻く波涛だけを長大な画面にほとんど墨一色をもって描き連ねたもので、波は信春時代の仏画にみるような、抑揚のない細線を駆使して丁寧にあらわされている。岩の手前と背後には金箔による雲霞が配されているが、それらは岩の存在を際立たせるとともに、ともすれば地味となりがちな水墨の画面を著しく華やいだものにしているといえよう。
 桃山時代になって大いなる盛行をみる金碧画であるが、純粋な水墨画に金雲を組み合わせた作例は本図の他に見当たらない。その点、本図は「松林図屏風」とはまた違った、等伯による斬新かつ意欲的な試みとして高く評価されるべきであろう。岩法は「四愛図襖」のそれと近似するが、筆遣いはより強く、かつ速まっており、隣華院の「山水図襖」への接近を示す。その作期としては、等伯五十代の末頃を想定しておきたい。
 なお、等伯は「波」に強い関心を抱いていたようで、唐代の詩人・杜甫が同時代の画家・王宰の描きぶりを評した「五日に一石、十日に一水」を受けて、岩よりも水を描くことの方が難しく、重要であるとの見解が『等伯画説』に披露されている。また同じ『等伯画説』には、画の名手で等春を庇護した細川成之の「波ノ画」一双屏風の写しを等伯が所持していたことも記されているが、この「波ノ画」が本図制作の参考にされた可能性は考慮される必要があろう。 】(『没後四〇〇年長谷川等伯』所収「作品解説四六・山本英男稿)」

波濤図三幅三).jpg

等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」(六曲一双・その一)  (出光美術館蔵)→E図の一

波濤図三幅四).jpg

等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」六曲一双・その二)  (出光美術館蔵)→E図の二
https://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/3bd58b853d741e9867d575ee16652f3b
【 「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」
http://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/02.idemitsu-No17_2012.pdf  」】

 上記の「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」を見ると、この出光美術館蔵の「波涛図屏風」(六曲一双)は、「金雲に金砂子が加えられ、また波に藍色が施され、より装飾性が高められている」とし、「法眼落款の作品であるが、等伯次世代の長谷川派の絵師による作例ではないか」としている。

 これらの、等伯筆の「波涛図」(D図の一・D図の二)、そして、等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に接した時に、次のアドレスの抱一の「波図屏風」などが浮かんできたのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

抱一・波図屏風.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

波図拡大.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」(部分拡大図)→F図

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→G図
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

神奈川沖浪裏.jpg

北斎筆「神奈川沖浪裏」 横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)→H図
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 ここに、新たに、等伯筆「波涛図」(D図の一・D図の二)と等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に続けて、狩野探幽の「波涛図」(I図の一・I図の二)も付け加えたい。

波涛図一.jpg

狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の一

波涛図二.jpg

狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の二
【 https://www.shimane-art-museum.jp/collection/
 大画面に余白を大きくとって大海原を描き、左右に岩を配した波濤図。狩野派の筆法による岩や波の描写や簡潔な構図に、探幽画の特徴が示されている。後年の作品に、この構図をもとに水鳥を配した《波濤水禽図》(静嘉堂文庫美術館蔵)があり、画様の変容が窺える。探幽の画業は、作風と落款の変遷から3期に分けられるが、この作品は34歳から59歳にかけて探幽斎と称した「斎書き時代」中頃の作と考えられる。 】

等伯筆「波涛図屏風」(D図の一・D図の二)→「金と墨との波涛図」
等伯(長谷川)筆「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)→「金(雲)と墨と藍との波涛図」

探幽筆「波涛図屏風」(I図の一・I図の二)→「金と墨と余白との波涛図」

宗達筆「松島図屏風」(A図の一・A図の二)→「金(州浜)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」

光琳筆「松島図屏風」(B図)→「金(雲)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」
光琳筆「松島図屏風」(C図)→「金銀白(荒磯)と緑青(岩)との波涛図」
光琳筆「波涛図屏風」(G図)→「金箔地と墨との波涛図」

抱一筆「波図屏風」(F図)→「銀箔地と墨との波涛図」

北斎筆「神奈川沖浪裏」(H図)→「ベロ藍(プルシアンブルー)の『藍摺絵(あいずりえ)』の波涛図」 

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醍醐寺などでの宗達(その十五・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十五 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その二)

松島図屏風.jpg

綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

醍醐寺三宝院・庭.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

 この宗達の「松島図屏風」は、「秋は紅葉の永観堂」で知られている、京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派総本山「禅林寺」の、等伯の「波涛図」を意識しての作ではなかろうか。

等伯・波涛図.jpg

長谷川等伯:波濤図(制作年代不詳)重文(京・禅林寺所蔵) 紙本金地墨画 京都国立博物館寄託 各一八五・〇×一四〇・五㎝ 十二幅のうち二幅
《長谷川等伯展(2010年04月):京都国立博物館》
http://kanjinnodata.ec-net.jp/newpage768.html

 この等伯の「波涛図」(十二幅の「襖絵」)は、慶長四年(一五九九)、等伯、六十一歳前後の作とされている(『新編名宝日本の美術20永徳・等伯(鈴木広之著)』)。この頃、等伯は「自雪舟五代」を自称するように、その絶頂期の頃であろう。
 もともと、この「波涛図」は、禅林寺の「大方丈・中の間」の襖絵で、「方丈」は「一丈(約3メートル)四方の小室」(禅宗寺院における住職の居室)を意味するが、「大方丈」は、その禅宗寺院の「訪客のための接待の場」として、例えば、醍醐寺の三宝院の例ですると、「⑨表書院」のような居住空間であろう。
 この「大方丈・中の間」は、おそらく、「方丈庭園」(南側)に面した「北側」(襖四幅)・「東側(襖四幅)・西側(襖四幅)」と仮定すると、それは、丁度、宗達の「松島図屏風」(六曲一双)
を「北側」として、それらが「東側」(六曲一双)と「西側」(六曲一双)とで、庭に面して囲むような空間のイメージとなって来よう。
 そして、醍醐寺の三宝院の「⑨表書院」の「襖絵(重文)」は、等伯一門の作とされている。等伯には久蔵、宗宅、左近、宗也の四人の子がおり、そのうち久蔵は等伯に勝るほどの腕前を持っていたが、文禄二年(一五九三)、二十六歳で早世している。
等伯一門には、等伯の女婿となった等秀や伊達政宗に重用された等胤、ほか等誉、等仁、宗圜ら多数がいたが、醍醐寺三宝院表書院」の襖絵も、その子や一門の作なのであろう。

三宝院襖絵.jpg

「醍醐寺三宝院表書院」・襖絵(重文)
https://www.daigoji.or.jp/grounds/sanboin.html
【上段の間の襖絵は四季の柳を主題としています。中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、上段・中段の間は、長谷川等伯一派の作といわれています。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれています。】

 御所造営の障壁画制作を巡って、狩野永徳一門と長谷川等伯一門とが鋭く対立したのは、永徳が没する天正十八年(一五九〇)で、時に、等伯、五十二歳、そして、永徳は四十八歳であった。永徳没後は、永徳の長男・光信が狩野派を継承するが、その光信も慶長十三年(一六〇八)年に没し、その実弟の狩野孝信(1571 - 1618)が狩野派を率いることとなる。この孝信の三子が、「守信(探幽、1602 - 1674)、尚信(1607 - 1650)、安信(1613 - 1685)」で、その中心になったのが、狩野探幽(守信)ということになる。
 この永徳没の「天正十八年(一五九〇)」から、慶長十五年(一六一〇)の等伯没(享年七十二)までが、等伯の時代であろう。

等伯・楓図.jpg

長谷川等伯筆「楓図」(国宝 1592年頃 智積院)壁貼付四面 紙本金地著色 
各一七四・三×一三九・五㎝ 
【『ウィキペディア(Wikipedia)』 
旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)文禄2年(1593年)頃。『楓図』は日本障壁画の最高傑作と評されている。
楓図 紙本金地著色 国宝
松に秋草図 紙本金地著色 国宝
松に黄蜀葵図 紙本金地著色 国宝
松に草花図 紙本金地著色 国宝
松に梅図 紙本金地著色 重要文化財    】

等伯・知恩院壁画.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)
左=長谷川等伯筆「楓図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 
右=長谷川久蔵筆「桜図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 

松に黄蜀葵図・違棚.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」(長谷川等伯筆)
これは元々書院を飾るために描かれたため、宝物館に再現された書院にそのままの配置で展示されている。
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

松に立葵図・違棚.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)『松に立葵図』「(長谷川派))
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

松に葵図.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に立葵図」(「長谷川派」筆) 
https://www.mizuha.biz/saijiki/080909tisyakuin/index.html

【 天下人の思惑を秘めた、葵の図

https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

 智積院の障壁画には、秀吉が好んだという「松」が多くモチーフとされていますが、これはつまり、松は豊臣家を示すもの、と考えることが出来ます。対して、この絵に松と共に描かれている「葵」は、豊臣家とは対立する徳川家の家紋にも使われている花です。
 風に揺れる葵の花を、まるで圧迫するかのように上から松の木が枝葉を広げている―これは「豊臣家が徳川家を抑えている」、つまり「天下は豊臣のもの」という意味を暗に示している、と解釈される向きもあったのだそうです。
 結局その後秀吉が亡くなり、天下は徳川のものとなります。普通、そのような不届きな話があるものは無くしてしまってもなんらおかしくはありません。しかし一方で、この絵を見た徳川家康が、葵が勢いよく伸び松を覆いつくさんばかりに描かれており、「豊臣の天下は終わり、徳川がそれを凌駕する」という意味に解釈し、わざとそのまま残させた、という逸話も伝えられているのです。 】

松に黄蜀葵図.jpg

国宝「松に黄蜀葵及菊図」の想定復元模写
https://www.housen.or.jp/common/pdf/26_07_yasuhara.pdf

【「旧祥雲寺客殿障壁画の復元研究― 国宝「松に黄蜀葵及菊図」智積院蔵の想定復元模写を中心として ―安原 成美 (東京藝術大学大学院)」  

< 祥雲寺と智積院障壁画の変遷
本図は、智積院の前身である祥雲寺客殿の障壁画として描かれた。祥雲寺は天正 19 年(1591)愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために豊臣秀吉が創建した禅宗寺院で、その中核をなす客殿の規模は、従来の禅寺のそれをはるかに超えていたが、天和2 年(1682)7 月の護摩堂から発した火災で灰塵に帰してしまう。その際、幸いにも障壁画の主要部分は持ち出され焼失を免れる。焼失を免れた障壁画は、再建された客殿や大書院などの障壁画に転用された。その後、明治25 年(1802)の盗難や昭和 23 年(1947)の火災で、更にその一部が失われたと考えられる。

< 先行研究 >
(略)
< 作品調査及び復元配置 >
(略)

< 想定復元模写 >
 調査結果を基に想定復元模写を行った。復元された本図の右寄り3枚は、二股に別れた巨大な松が画面の天地を貫くように描かれており、廻りには、黄蜀葵、芙蓉、菊の花が咲き乱れ、芒が大きくその葉を伸ばしている。向かって左に伸びる松の奥には群青で描かれた水面が見える。水面は向かって右から左にいくほど広がっており、失われた左寄り 3 枚の下方には、この水面が更に展開しその廻りには草花が生い茂っていたと想像される。水面の手前に描かれている芒の葉のうち半分あまりは隣の画面から伸びてきているため、左寄り 3 枚目の画面には多くの芒が生えていたことがわかる。

< 祥雲寺客殿室中障壁画の構成 >
 さらに想定復元模写を制作したことで、旧祥雲寺客殿の内部構成と障壁画の配置位置について具体的な検証が可能となった。本図の配置されていた部屋の問題であるが、先行研究では 8 室形式で復元した山根案と 6 室形式で復元した小沢案があるが、両案とも本図を「松に秋草図」とともに、室中に配置することで一致している。筆者も両案に同意であるが、今一度、再確認を行う。
 室中の画題としては当時の方丈建築の多くがそうであるように松が相応しく、本図が収まる可能性は充分にあるが、松を描いた旧祥雲寺客殿障壁画は、本図以外にも「松に秋草図」「松に立葵図」「雪松図」が現存する。
 本図が室中に収まっていた根拠として注目すべきは、描かれている草花の種類である。鶴松の死去とその3回忌が旧暦8月5日に行われており新暦で8月29日にあたるこの時期に開花する草花を、主要な部屋である室中には描いていると考えるからである。本図に描かれている草花は、黄蜀葵、芙蓉、薄、菊であり、開花時期は黄蜀葵が 8 月から 9 月、芙蓉が 8 月から 10 月初め、菊が 10 月から 12 月、薄が穂をつけるのが 8 月から 10 月と、法要の時期と一致する。「松に秋草図」の草花も黄蜀葵が描かれていないこと以外は本図と共通する。
 それでは、本図と「松に秋草図」は室中にどのように配置されていたのであろうか。配置箇所の特定のために先ず注目すべきは襖の幅である。復元した祥雲寺客殿室中の平面4 をもとに割り出した襖の寸法によると、室中には幅の違う 3 種類の襖が使用されていたと推測され、そのうち本図の幅である 166.7㎝のものは室中と東西の部屋を間仕切るものであり、そこに収まっていたことは間違いない。
 それぞれが東西どちらに収まるかであるが、両者は寸法と引手の位置が全く同じであるので、図柄により判断するしかない。本図の印象的な特徴として、画面の左から右に向かって吹いている風の存在がある。本図は左から右に向かって風が吹いている。「松に秋草図」は、その逆に向かって風が吹いているので、向かい合って配置した場合には、風は一方向に吹くことになる。そこから、室中西面に本図、東面に「松に秋草図」を配置し、室中に入った人々の視線を風の表現によって仏壇の間に誘うように演出したと考える。風の方向の他に配置位置の手掛かりとなるのと考えるのが、土坡である。本図と「松に秋草図」の画面下方には、土坡が存在するが、それぞれ形の特徴が異なる。
 本図の土坡は、向かって右端が徐々に下がっていく。それに対して、「松に秋草図」の土坡は向かって右端が急激にせり上がっていく。仮に「松に秋草図」を西面に配置すると、室中北面の襖絵は土坡が不自然に高い位置にある画面構成になる。
 以上のことから本図は客殿室中の「松に秋草図」と向かい合うように西面に配されていたことが明らかである。

< 本研究を通して得られた成果 >
本研究により、失われた祥雲寺客殿の室中障壁画が視覚的に復元された。長谷川等伯が狩野永徳の巨大樹による大空間の構成に、草花の四季の変化や風などの自然現象を巧みに利用した場面の展開など、独自の表現を加え建物内部を障壁画により壮大に演出している様が示せたものと考える。ここまで詳細に、祥雲寺客殿障壁画自体の復元研究が行われたことはなく、祥雲寺客殿だけでなく桃山期の障壁画研究における大きな成果となった。 】

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醍醐寺などでの宗達(その十四・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十四 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その一)

松島一.jpg

宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

松島二.jpg

宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

 嘗て、下記のアドレスで「フリーア美術館逍遥」と題し、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-16-1

(再掲)

【《六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。》 
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)》

(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

Waves at Matsushima 松島図屏風
Type Screens (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Edo period, 17th century
Medium Ink, color, gold, and silver on paper
Dimension(s) H x W (overall [each]): 166 x 369.9 cm (65 3/8 x 145 5/8 in)

http://archive.asia.si.edu/sotatsu/about-jp.asp

Sōtatsu: Making Waves

俵屋宗達と雅の系譜

会期 2015年10月24日-2016年1月31日
開催場 アーサー M. サックラー美術館
(English version)
日本絵画とデザインに強烈なインパクトをあたえた江戸時代初期の天才絵師・俵屋宗達(1570年頃-1640年頃)。日本国外では初めてとなる大規模な宗達の展覧会が、米国首都ワシントンDCで2015年10月24日-2016年1月31日に開催されます。
世界最大の博物館群として知られるスミソニアンの一部で、アジア美術を専門とするフリーア美術館。国宝級の「松島図屏風」「雲龍図屏風」など、宗達の傑作品を所蔵しています。隣接のサックラー美術館を会場として、世界各国より70点以上の作品を集めて展示し、京都を中心に活躍した宗達の雅な世界を蘇らせます。
きらびやかな金銀泥と極色彩を用い、大胆に抽象化された絵画空間をみせる宗達作品は、日本美術史の中でも際立った存在です。しかし、宗達の生涯は生没年の記録もないほど未だ多くの謎に包まれています。京都の町衆階層の出身であり市井の紙屋の主人であった宗達が、どのような過程を経て上層貴族階級にネットワーク・交流を持ちその洗練されたセンスを取り入れ数多くの斬新なデザインを生み出すに至ったのか、まだ不明な点が多く残されています。
本展覧会では、日本を始めアメリカ・ヨーロッパの著名なコレクションより70点以上の作品を一堂に会し、屏風、扇面、色紙、和歌巻き、掛け軸などの展示を通して宗達を検証します。宗達の作風を追随した江戸時代中後期の作品も含まれ長期に渡る宗達芸術の継承が示唆されます。さらに明治時代以降の画家たちの作品も併せて展示され、時代を超える宗達スタイル伝播の理解においても画期的な企画といえます。
最大の見所である「松島図屏風」と「雲龍図屏風」は、19世紀末にフリーア美術館の創立者チャールズ・L・フリーア(1854-1919)により蒐集されました。先見あるコレクターであったフリーアは、俵屋宗達及び宗達と書画の合作を行った本阿弥光悦 (1558-1637)の名を、海外に知らしめたとされています。フリーアの遺言により所蔵品が館外貸出は禁じられました。本展覧会は門外不出となった宗達代表作品と各国に分散する宗達筆及び宗達派作品が一度に堪能できる絶好の機会です。
本展覧会はスミソニアン研究機構フリーア/サックラー美術館と国際交流基金 (Japan Foundation)の共催により開催されます。2015年秋には展覧会のフル・カラー図録出版が予定されており、執筆者は下記の通りです。
仲町啓子(実践女子大学)奥平俊六(大阪大学)古田亮(東京藝術大学美術館)
野口剛(根津美術館)大田彩(宮内庁三の丸尚三館)
ユキオ・リピット(ハーバード大学)ジェームス・ユーラック(フリーア美術館)

宗達の重要性

17世紀初頭、宗達は扇面や料紙などを手がける京中で話題の紙屋を営んでいましたが、その時期日本の社会は大きな変貌を遂げようとしていました。権力の中心が宮廷・公卿から幕府・武士階級へと移り、彼らは文化エリートの仲間入りをすべく装飾画を求めました。広がる受容層に答え、宗達は独創的な画面構成に実験的な技法を駆使し憧憬の王朝美に新しい時代の息を吹き込みました。
革新的ともいえる宗達のデザインに後世代の画業が加わり、やがて造形芸術における一つの流れとして「琳派」と呼ばれるようになりました。江戸時代後期の画家・尾形光琳(1658-1716)の名の一字に由来していますが、実は光琳よりも以前に宗達および光悦が確立した流れなのです。実際、琳派様式の要である「たらし込み」は、宗達が創案したものです。まだ水気残る地に墨や顔料を再度含ませ、にじみによる偶然の効果をねらった技法です。例えば花びらや水流などのデリケートな描写に予期せぬニュアンスをもたらします。
宗達が日本美術にもたらした影響は過小評価できません。17世紀に宗達を祖とした「琳派」は19世紀末に美術流派として定着し20世紀初頭まで引き継がれ、西洋ではある意味においては日本文化の粋そのものと認識されるようになりました。1913年に東京で初めて宗達を紹介する展覧会が開かれましたが、それは美術界に大きな波紋を投げ新世代の画家たちを深く感化しました。宗達のデザインはまたアール・デコ派、クリムトやマチスなどの西洋の巨匠らの作品にも呼応し、現代の眼にも近世的に映ります。
1615年に本阿弥光悦が徳川家康より京都洛北の鷹峰の土地を拝領し、そこに芸術村を作ったのを琳派発祥の年とすると、2015年は琳派が誕生してから四世紀ということになり、只今日本では文化人たちの間で「琳派400年記念祭」が呼びかけられています。数多くの琳派関連のイベント・シンポジウムなどが企画される中、国際的なコラボレーションにより可能となった本展覧会は、一つのハイライトとなることが期待されます。  】

 現在、フリーア美術館所蔵となっている、この「松島図屏風」(宗達筆)を、前回に紹介した、下記の「醍醐寺 三宝院庭園」(醍醐寺三宝院の「居住空間」)に展示した場合、どのようなイメージになるのか、そんな「バーチャル(架空)空間」での「松島図屏風 (宗達筆)」を鑑賞したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。
※「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。 】

 上記の「⑥表書院 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」の何処に展示するかによって、それぞれイメージが異なってくるが、「⑥表書院 ⑬純浄観
⑮本堂」に絞って、やはり、国宝の「⑥表書院」(庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間があります。下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。)が、一番落ち着くであろう。

松島図屏風.jpg

綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

 この「右隻」には、「海中に屹立する二つの岩」(「荒磯の岩」=「東海の荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「荒磯と蓬莱山を象徴する亀島・鶴島」)、そして、「左隻」には、「磯の浜松と波に洗われる小島」(「磯の浜松」=「右隻から左隻にかけての州浜と松」と「波に洗われる小島」=「祝儀の席に飾った鶴亀などの作り物を配した州浜台のような小島」)が描かれている。
 この「蓬莱山」は、中国の神仙思想にあらわれる仙人の住む霊山のことで、この「蓬莱山」は、「松に鶴,亀の島」といった古来吉慶祝儀をあらわすようになり、それが「鶴島(鶴石)と亀島(亀石)」、その両方を配置した庭園を、桃山時代から江戸時代にかけて「鶴亀の庭園」として隆盛を極めていくことになる。
 そして「州浜」も「州浜の浄土」として、「彼岸(浄土)」と「此岸(現世)」とを隔てる、「荒磯」と対局をなす海の表象としての「州浜」ということで、古来「作庭」上の重要な「玉石や五郎太石を敷き並べた護岸手法」の一つなのである。
 これらの「蓬莱山・鶴島(鶴石)・亀島(亀石)・州浜」、そして、この宗達の「松島図屏風」の「松島」(特定の名勝地を模写縮小した象徴的な庭=縮景庭)などの「作庭」上の用語が、醍醐寺座主の義円の日記(『義円准后日記』)の中に、かなり詳しく記されているようなのである。

【 醍醐寺三宝院 『義円准后日記』より。蓬莱島、松島については、慶長三年五月九日条に、「成身院庭梅門跡の泉水蓬莱島島ヘ渡之了」。慶長五年正月二十六日条に「泉水蓬莱島払除仰付了」。同年二月三日条「松島ノ末申角ノ小橋懸之」。慶長六年十二月二十七日条「彼岸 八重日 桜予続之今一本ハ蓬莱の島ニ続之」。慶長二十年九月十五日条「松島ノ松与桜ノ根痛ニ依テ島ヲ広ク作レリ」。この慶長二十年には大規模に白砂を運び入れ、石を立て直す庭普請のありさまが具体的にわかる。 】(『絵は語る9松島図屏風(太田昌子著)』p109)

芦鴨図.jpg

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html
「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)」(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝ (醍醐寺蔵)

【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 この醍醐寺蔵の宗達の水墨画「芦鴨図」(二曲衝立)については、下記のアドレスで触れているが、元和八年(一六二二)の頃の作である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 「宗達周辺年表」(『宗達(村重寧著・三彩社)』所収))の「元和八年(一六二二)」の項に「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃か)/このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」とある。
 この時、本阿弥光悦(永禄元年=一五五八生れ)、六十五歳、俵屋宗達は生没年未詳だが、
光悦より十歳程度若いとすると(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)、五十五歳?の頃となる。
 当時、光悦は、元和元年(一六一五)に徳川家康より拝領した洛北鷹が峰の光悦町を営み、その一角の大虚庵(太虚庵とも)を主たる本拠地としている。一方の、宗達が何処に住んでいたかは、これまた全くの未詳ということで確かなことは分からない。】

関屋澪標図屏風.jpg

関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

 この現在、静嘉堂文庫美術館蔵の宗達の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)は、寛永八年(一六三一)に、醍醐寺三宝院に納められたものであることなどについては、下記のアドレスで触れたところである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-14

【寛永八年(一六三二)時、この屏風の注文主の、醍醐寺三宝院の門跡・覚定((1607-1661))は、二十五歳の頃であった。
 その覚定の『寛永日々記』の「源氏物語屏風壱双 宗達筆 判金一枚也 今日出来、結構成事也」(九月十三日条)の、この「結構成事也」について、「第十四帖『澪標』ならば住吉、第十六帖『関屋』ならば逢坂の関という野外を舞台とした絵画化が可能となる。さらに、この二帖を一双の屏風で描いた場合、海と山で対比が作れる。また、前者は明石君、後者は空蝉に源氏が偶然出会うという共通点もある。くわえて、この二帖は不遇な時期を乗り越え、源氏が都に返り咲いた時期の話で申し分がない。源氏の年齢設定も当時の覚定の年齢に近い」と指摘している(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p54~)。】

 これらの、宗達の醍醐寺関連の作品の、元和八年(一六二二)の「芦鴨図」(二曲衝立)から、寛永八年(一六三一)の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)までの、その十年弱の時代の、醍醐寺三宝院の門跡は、「32義演(1558-1626):醍醐寺中興。醍醐寺座主80世。関白三条晴良の子。金剛輪院を再興し、三宝院と称す。大伝法院座主。東寺長者。豊臣秀吉の帰依を受ける。後七日御修法を復興」と「33覚定(1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」との二代にわたるということになる。
 この「松島図屏風」の右隻には、「法橋宗達」の署名と「対青」の朱文円印、左隻には「対青」印が押印してある。宗達の法橋になったのは、寛永七年(一六三〇)の「西行物語絵巻奥書」前後の頃で、寛永十六年(一六三九)には、「八月、俵屋宗雪、堺養寿寺の杉戸絵を描く(戦災で焼失)」とあり、この寛永十六年(一六三九)前後の、宗達の晩年の作品のようにも解せられる。
 いずれにしろ、宗達の、この「松島図屏風」は、堺の祥雲寺に伝存していた作品としても、醍醐寺三宝院門跡・義演(醍醐寺座主八〇世)、そして、覚定(醍醐寺座主八〇世)時代の「醍醐寺 三宝院庭園」(C図)の「蓬莱石組・鶴島・亀島・賀茂三石周辺の州浜・地水(荒磯)・須弥山石組」などから、大きな示唆を享受していることは、想像するに難くない。

三宝院庭園.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(鶴島・亀島=蓬莱山=松島の縮景)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【亀島の右手には鶴島を配している。松の麓には鶴の羽に見立てた鶴羽石を据えている。分かりやすいように赤色のラインで示している。そして左手に今にも折れそうな華奢な石橋がある。これが鶴の首に見立てた鶴首石(かくしゅせき)となり、全体として「躍動感」を表現している。】

松島一.jpg

宗達筆「松島図屏風」(右隻)=「右手の島=鶴島」・「左手の島=亀島」→「荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

三宝院・賀茂三石.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(「枯山水」=「州浜」と「賀茂の三石」(左手の石=「流れの早い様子」・中央の石=「淀んだ様子」・右手の石=「水が砕けて散る様子」)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

松島二.jpg

宗達筆「松島図屏風」(左隻)=「州浜の浄土」(砂州の浜松)と「州浜台(島台)の島」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

「醍醐寺 三宝院庭園」では、この「賀茂の三石」に続いて石張りの「州浜」が「滝石組」の方まで続いている。そして、宗達筆「松島図屏風」(右隻)の、この左手の異様な形状をした「州浜台(島台)」の島(州浜)」の、「州浜台(島台)」は下記のようなものである。

州浜台.jpg
州浜台(島台)=「州浜」の形状にならった島台(しまだい)の作りもの。蓬莱山や木石、花鳥など、その時々の景物を設けたもの。饗宴などの飾り物とする。
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9E%E6%B5%9C%E3%83%BB%E6%B4%B2%E6%B5%9C-300372

(参考一) 《「堺・祥雲寺」関連》

http://www.ies-group.net/shounji/yurai.html

【山号を龍谷山、俗称松の寺といい、豪商谷正安を開基、沢庵宗彭を開山とする。
 徳川時代の初め、沢庵に帰依する正安は、夭折した子供の菩提のため寺院創建を発願した。だがそのころ、新地での寺院建立は法で禁じられていた。折しも大坂夏の陣(元和元年=1615)で焼失した南宗寺の復興に尽力していた沢庵は、同じく夏の陣で焼失した海会寺を南宗寺山内に移転再建し、その跡地に新寺を建立することにした。寛永2年(1625)から同5年にかけて正安は海会寺跡地に方丈、庫裡などを造営、瑞泉寺と号して沢庵を勧請開山に迎えた。これに伴い南宗寺と法類の縁が結ばれた。その後、同9年に祥雲庵、同16年に祥雲寺と寺号を改めた。 】

(参考二) 《「谷正安・沢庵宗彭・今井宗久」そして「堺ゆかりの人々」関連》

https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/great-person/other.html

【谷正安(たにしょうあん)天正十七年~正保元年(1589~1644)
堺の商人で沢庵和尚に帰依し、寛永五年(1628)沢庵を開山にして、海会寺跡に祥雲寺を創建したのち出家し仏門に入りました。祥雲寺は戦災で焼けましたが、枯山水の庭は大阪府の指定文化財になっています。

沢庵宗彭(たくあんそうほう)天正元年~正保二年(1573~1645)
但馬出身の僧で慶長十二年(1607)南宗寺十二世、同十四年大徳寺百五十三世となりました。元名兵火後、南宗寺を復興し祥雲寺も開山しました。その後たびたび堺を訪れ教化に努めるとともに、書画・俳諧・茶道に通じていました。

武野紹鷗(たけのじょうおう)文亀二年~弘治元年(1502~1555)
大和出身の茶人・豪商で後に堺に移り住みました。上洛して三条西実隆に和歌を、宗陳・宗悟らに茶の湯を学びました。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許されました。
茶道においては茶禅一味のわび茶を説き、茶道勃興期の指導者として今井宗久や千利休をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えました。

津田宗及(つだそうぎゅう)天正十九年(1591)没
堺の茶人・豪商で堺の会合衆・天王寺屋に生まれ、父・津田宗達に茶の湯を学びました。今井宗久、千利休とともに信長に仕え、その後は秀吉の茶頭として三千石を得ました。家には多数の名器を持ち、茶会に関する逸話も多くあります。

今井宗久(いまいそうきゅう)永正十七年~文禄二年(1520~1593)
大和出身の茶人・豪商。堺に来て茶の湯を武野紹鷗に学び、女婿となりました。商才を発揮して信長に接近し摂津五ヶ庄、生野銀山の代官職などを歴任しました。千利休、津田宗及とともに信長・秀吉に仕え茶の三大宗匠といわれました

山上宗二(やまのうえそうじ)天文十三年~天正十八年(1544~1590)
堺の茶人・商人で千利休から茶の湯を学び、利休や津田宗及とともに秀吉の茶頭もつとめました。利休から学んだ茶の湯の秘伝を含む、茶の湯生活三十年の覚書を残した「山上宗二記」は、茶道研究において一、二を争う資料となっています。

高三隆達(たかさぶりゅうたつ)大永七年~慶長十六年(1527~1611)
堺顕本寺の子坊、高三坊の第一祖で、還俗して高三家に復帰しました。天性の美音で僧として学んだ声明、諷誦をはじめ各種の音曲に精通し小唄「隆達節」を創出しました。
これは室町時代の「閑吟集」の流れを汲むもので、江戸時代に登場する様々な音曲へとつながる、重要な役割を持ったものです。】

(参考三) 《 「堺・養寿寺」周辺 》

https://japan-geographic.tv/osaka/sakai-yojuji.html

【 永禄10年(1567)9月に、千利休・津田宗及とともに三宗匠の一人と言われた今井宗久の兄秀光が、当地に屋敷を建てたものを、寛永13年(1636)に、今井宗円が即明院日相上人(宗円の甥)を開山として、今井家一門の菩提を弔うため寺院に改めたものです。
 当寺の建物及び寺宝等は第二次大戦ですべて焼失しましたが、永禄10年頃に作られたものといわれる庭の石組が現存します。この庭は、室町様式を伝える桃山初期の書院式枯山水で、正面には亀島、その左には低く鶴島を設け、右の方にも集団の石組を設けた三集団の庭園であると伝えられており、当寺の庭園の様子がうかがうことができる石組が保存されています。
 境内には今井宗薫の五輪塔があり、「天外宗薫、宝永4年(1707)4月11日」と刻しています。 】

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醍醐寺などでの宗達(その十二・「光広賛の「関屋澪標図」屏風」) [宗達と光広]

その十二 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)
六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
https://www.dnp.co.jp/news/detail/1192545_1587.html

光吉・源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/

 宗達の六曲一双の「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(A図)も、光吉の四曲一双の「源氏物語図屏風」(B図)とも、各隻の横の長さが(三五五・六㎝)と、B図「源氏物語図屏風」のように、両隻を右から左へと平行に並べると、七メートル強と、長大なものである。
 こういう豪華な「晴れ」(「晴」と「褻」の「晴れ」)の屏風は、どういう「所」に、どういう「時」に、どういう「人」が「集う」ときに、使用されるものなのかどうか?
 少なくとも、現在の、これらを所蔵されている「静嘉堂文庫美術館」、そして、「メトロポリタン美術館」が、これらの作品を展示するに必要な空間を有している、そういう建造物の中の一室ということになろう。
 光吉・宗達の時代、即ち、豊臣秀吉の「桃山時代」そして、それ続く、徳川家康の「徳川時代前期」ということになると、「宮廷・有力公家・門跡寺院・有力神社」、あるいは、「豊臣家・徳川家に連なる神社・仏閣」、そして、当時勃興しつつあった「有力町衆(京都町衆・堺衆・博多衆)」の、その居住空間ということになろう。
 A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」は、もともとは、醍醐寺三宝院の所蔵であった。
その三宝院の居住空間とその庭園の配置図は、次(C図)のとおりである。
そのうち、「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。 】

 この醍醐寺三宝院の「「⑥表書院」に、このA図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」を飾ると、このC図「三宝院庭園」の「蓬莱石組 ⑩鶴島 ⑨亀島 ⑪賀茂三石」と見事にマッ
チして来る。

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)

 この右隻は「関屋図」は、光源氏の「逢坂の関・石山寺参詣」の場面で、「醍醐寺→上醍醐寺→岩間寺→石山寺」と、西国三十三札所巡りのルートでもある。そして、左隻は、光源氏が都へ帰還出来たお礼の「住吉大社参詣」の場面で、この第五・六扇の「鳥居と太鼓橋(反橋)」は、その住吉神社を象徴するものである。
 そして、この「太鼓橋(反橋)」は、慶長年間に淀君が奉納したものとも伝えられており、この橋のたもとまで大阪湾の入り江であったことの象徴でもある。この大阪湾に連なる一角に、土佐光吉らが根城とする、当時の自由都市「堺」の港が続いている。その大阪湾から堺に連なる「州浜」が、C図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」と解することも出来よう。
 そのC図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」、そして、それは、大阪湾から堺港に連なる「州浜(すはま)」(曲線を描いて州が出入りしている浜)から、「⑨亀島 ⑩鶴島 蓬莱石組」へと通ずる、「荒磯(ありそ・あらそ)」(荒波の打ち寄せる、岩石の多い海岸)の海と、蓬莱神仙思想に基づく「不老不死の仙人が住む蓬莱山・長寿の象徴である鶴島や亀島」へ至るルートを示すものであろう。
 さらに、「⑬純浄観」からは、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」に続く「州浜」から、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づく「須弥山(しゃみさん)」(仏教の宇宙説にある想像上の霊山)」と、阿弥陀三尊を示す「⑧藤戸石」(歴代の武将に引き継がれたことに由来する「天下の名石」)、そして、その奥の「⑦豊国大明神」(醍醐寺全体の復興に尽力した太閤秀吉を祀る社)などが、一望される。
 即ち、C図「三宝院庭園」は、蓬莱神仙思想に基づいた「蓬莱式庭園」と、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づいた「浄土式庭園」とを兼ね合わせ、さらに、「⑨亀島と⑩鶴島」の「蓬莱の島」は、実景の「松島」をも模しており、所謂、縮景で構成される「縮景式庭園」をも加味した、全体的として統一された三位一体の完璧且つ複合的な庭園の代表的なものなのである。
 ここに、茶室の出入り口は「にじり口」ではなく、かがまず出入りできる「貴人口」(貴人=菊の御紋の「天皇家」・葵の御紋の「徳川家」・桐の御紋の「豊臣家」の貴人)の「枕流亭」が南東に設置され、その南東の隅に「三段の滝」(各々の滝の音が、さらにこの庭園を引き立てる)、その南西の「⑬純浄観」の前と後ろに「滝石組」(「⑭奥宸殿」の舟着場・「枕流亭」の船着場)まで設置され、単なる、「観賞式庭園(鑑賞するタイプの庭園)・廻遊式庭園(庭園内を回遊するタイプの庭園)」だけではなく、「舟遊式庭園(歩かずに池に浮かべた舟から観る庭園)・露地庭園茶室まわりの庭園」も兼ねそなえているのである。
 この「⑭奥宸殿」の東北側に、茶室「松月亭」(奥宸殿の東北側、南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦の造り)がある。そして、この茶室「松月亭」の「滝石組」が「内海」(湖・池)とするならば、茶室「枕流亭」の「滝石組」は「外海」(海・荒磯・荒海)の、それをイメージすることになる。
 ことほど左様に、「醍醐寺三宝院庭園」というのは、下記のアドレスの、庭園の要素の全てを兼ね備えた、類まれなる庭園の、紛れもない、その一つということになる。

https://www.travel.co.jp/guide/howto/43/

「何を表現しているか」による分類 (浄土式庭園/蓬莱式庭園/縮景式庭園 etc.)
□ 浄土式庭園
□ 蓬莱式庭園
□ 縮景式庭園

「何で表現しているか」による分類 (枯山水庭園/池泉庭園/築山林泉庭園 etc.)
□ 枯山水庭園
□ 池泉庭園
□ 築山林泉庭園

「どのように鑑賞するか」による分類 (観賞式庭園/廻遊式庭園/舟遊式庭園/露地庭園)
□ 観賞式庭園
□ 廻遊式庭園
□ 舟遊式庭園
□ 露地庭園

 この「醍醐寺三宝院」には、A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)は、見事にマッチするのであるが、B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)は、どうしても馴染まない。
光吉・源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)

 これは偏に、右隻の「御幸・浮舟図屏風」の、その四扇に描かれた下記の「浮舟図」にある。

光吉・浮舟.jpg

B-1図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)

  この図(B-1図「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)の「御舟」の男女二人は、あたかも恋の逃避行の感じで、真言宗醍醐派総本山の醍醐寺の一角に鎮座するのには、やや場違いという印象は拭えない。
 このB図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)に相応しい空間として、例えば、下記のB-2図の天皇の乗る、屋形の頂に金色の鳳の形を据えた「鳳輦(ほうれん)・鸞輿(らんよ)」と同じく、「金色の鳳凰」を屋根に戴く「平等院」などは、『源氏物語』の「宇治十帖」の故郷でもあり、少なくとも、醍醐寺三宝院よりは馴染むであろう。

御幸・輿拡大.jpg

B-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)

宇治平等院.jpg

平等院「鳳凰堂」(国宝)
【京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

源氏物語図屏風・平等院.jpg

平等院ミュージアム鳳翔館に設けられた「源氏物語図屏風」(「綴プロジェクト」による「高精細複製品」)
https://global.canon/ja/tsuzuri/donation.html

 メトロポリタン美術館所蔵の、この光吉の「源氏物語図屏風」は、「綴プロジェクト」による「高精細複製品」の一つとなり、今に平等院に寄贈され、上記のとおり一般公開されているが、元々は部屋を取り囲む「襖絵」の一部であったと、上記のアドレスでは紹介されている。
 こういう金地著色の豪奢なものを襖の一部としていたのは、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の居住空間として、後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう。
 この「桂離宮」は、『源氏物語』第十八帖「松風」に、「明石の君」(明石の御方・明石・御方・女君・女・君)と「明石の姫君」(若君=光源氏と明石の君の娘)が上洛し、住まいとしている「大堰(おおい)山荘」(「桂川」の上流の「嵐山」近くの山荘)から「はひわたるほど」(這ってでも行ける近距離)の所に「桂の院」(「桂の院といふ所、 にはかに造らせたまふ」=光源氏の「桂川」の別荘)との名称で出て来る。
 この『源氏物語』第十八帖「松風」の原文に照らしながら、下記の「桂離宮」の平面図などを見て行くと、この「桂離宮」が多くの点で、『源氏物語』の、殊に、この第十八帖「松風」などを参考としていることが、随所に見受けられる。
 もとより、この「桂離宮」の造営着手は、元和元年(一六一五)の頃とされ、さらに、その第一期造成完成は寛永元年(一六二四)の頃で(『新編名宝日本の美術22桂離宮』)、土佐光吉(没年=慶長十八年=一六一三)の時代は、八条宮の本邸(京都御苑内、御殿は二条城に移築)での、正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子(後陽成天皇は同母兄)智仁親王の時代ということになる。
 そして、この八条宮智仁親王は、慶長五年(一六〇〇)に細川幽斎から「古今伝授」を受け、さらに、同十五年(一六一〇)には、「源氏物語相伝」を受けており、「書・香・茶」など各道に優れ、当代切っての代表的な文化人なのである。

源氏物語図屏風・桂離宮.jpg

「桂離宮」配置図 1.表門、2.御幸門、3.御幸道、4.外腰掛、5.蘇鉄山、6.延段、7.洲浜、8.天橋立、9.四ツ腰掛(卍亭)、10.石橋、11.流れ手水、12.松琴亭、13.賞花亭、14.園林堂、15.笑意軒、16.月波楼、17.中門、18.桂垣、19.穂垣、A.古書院、B.中書院、C.楽器の間、D.新御殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Katsura-Plan.jpg

 この「A.古書院」の二の間の東側、広縁のさらに先に月見台、その北側の茶室「16.月波楼」は、観月の名所として知られている「桂の地」に相応しい観月のための仕掛けが施され、月影を水面に映すために、中央に池面を大きくとっている。

【 『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第三段「饗宴の最中に勅使来訪」

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.3.html#paragraph3.3

3.3.6  月のすむ川のをちなる里なれば/ 桂の影はのどけかるらむ (帝=冷泉帝)
(月が澄んで見える桂川の向こうの里なので、月の光をゆっくりと眺められることであろう)

3.3.12 久方の光に近き名のみして/ 朝夕霧も晴れぬ山里(大臣=光源氏)
(桂の里といえば月に近いように思われますが、それは名ばかりで朝夕霧も晴れない山里です)

3.3.14 めぐり来て手に取るばかりさやけきや/ 淡路の島のあはと見し月(大臣=光源氏)
(都に帰って来て手に取るばかり近くに見える月は、あの淡路島を臨んで遥か遠くに眺めた月と同じ月なのだろうか)

3.3.16  浮雲にしばしまがひし月影の/ すみはつる夜ぞのどけかるべき(頭中将)
(浮雲に少しの間隠れていた月の光も、今は澄みきっているようにいつまでものどかでありましょう)

3.3.18 雲の上のすみかを捨てて夜半の月/ いづれの谷にかげ隠しけむ(左大弁→右大弁)
(まだまだご健在であるはずの故院はどこの谷間に、お姿をお隠しあそばしてしまわれたのだろう)   

※「16.月波楼」=夏・(秋)向きの茶室、後水尾天皇筆か霊元天皇筆の「歌月」の額。
※「12.松琴亭」=冬・(春)向きの茶室、後陽成天皇筆の「松琴」の額。
※「13.賞花亭」=茶室、曼殊院良尚法親王(智仁親王の子)筆「賞花亭」の額。
※「15.笑意軒」=茶室・曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)筆「「笑意軒」の額。
※「14.園林堂」=持仏堂、楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像。
((「茶室」には、それぞれ「舟着き場」がある。)
※「9.四ツ腰掛(卍亭)」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「4.外腰掛」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「7.洲浜」=青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てたもの。
※「8.天橋立」=小島二つを石橋で結び、松を植えで丹後の天橋立に見立てたもの。
※「5.蘇鉄山」=薩摩島津家の寄進という蘇鉄、外腰掛の向いの小山。
(桂離宮の池は大小五つの島があり、入江や浜が複雑に入り組んでいる。中でも松琴亭がある池の北東部は洲浜、滝、石組、石燈籠、石橋などを用いて景色が演出されており、松琴亭に属する茶庭(露地)として整備されている。)
※「1.表門」=庭園の北端に開く行幸用の正門で、御成門ともいう。通用門は南西側にある。
※「2.御幸門」=門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所。
※「3.御幸道」=道の石敷は「霰こぼし」と称し、青黒い賀茂川石の小石を長さ四四メートルにわたって敷き並べ、粘土で固めたものである。突き当りの土橋を渡って古書院に至る。
※「17.中門」=古書院の御輿寄(玄関)前の壺庭への入口となる、切妻造茅葺の門である。
※※「A.古書院」=古書院の間取りは、大小八室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。
※※「B.中書院」=間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。「一の間」の「山水図」が狩野探幽、「二の間」の「竹林七賢図」が狩野尚信、「三の間」の「雪中禽鳥図」が狩野安信である
※※「C.楽器の間」=中書院と新御殿の取り合い部に位置する小建物で、伝承では前述の床に琵琶、琴などの楽器を置いたともいわれている。
※※「D.新御殿」=内部は九室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。(『ウィキペディア(Wikipedia)』『新編名宝日本の美術22桂離宮』など)

亀の尾の松.jpg

※※※亀の尾の住吉の松
https://earthtime-club.jp/column/history/071-2/

※※※「亀の尾の住吉の松」=月波楼横の池泉に突き出た岬(亀の尾)に一本の松が植えられている。この松は『古今和歌集』仮名序に「高砂・住江(住吉のこと)の松も相生のやうにおぼえ」とある住吉の松で、対となる高砂の松は池をはさんで対岸に植えられている。常緑の松には、古来神様が天から舞い降りるという「依代(よりしろ)信仰」があり、その信仰が庭と結びつき、日本庭園では松が貴重な存在となっている。岬(亀の尾)はちょうど池泉全体を見晴らす位置にあり、敷地のほぼ中央にある。この位置こそ、神様に降りていただくには最もふさわしい場所なのであろう。

『源氏物語』第十八帖「松風」第二章「第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会」第五段 嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.2.html#paragraph2.5

2.5.3 契りしに変はらぬ琴の調べにて/ 絶えぬ心のほどは知りきや(光源氏)
(約束したとおり、琴の調べのように変わらない。わたしの心をお分かりいただけましたか)

2.5.5  変はらじと契りしことを頼みにて/ 松の響きに音を添へしかな(明石の君)
(変わらないと約束なさったことを頼みとして、松風の音に泣く声を添えていました)  】

光吉・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 画土佐光吉 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

詞曼殊院良恕・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 詞曼殊院良恕 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

【『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第二段「桂院に到着、饗宴始まる」 

3.2.7 (野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞(つと)にして参れり。)大御酒(おほみき)あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(訳:野原に夜明かしした公達(殿上役人)は、小鳥を体裁ばかり(しるしだけ)に付けた荻の枝など、土産にして参上した。お杯が何度も廻って、川の近くなので危なっかしいので、酔いに紛れて一日お過ごしになった。)

(詞曼殊院良恕: 大御酒あまたたび/順流れて川のわたり/危ふげなれば酔ひに/紛れておはしまし/暮らしつ )   】


追記一 土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木    (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋    (欠)                薫26歳秋
51 浮舟     (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳

(メモ)

一 形状は「折本型式」(現在は四帖、本来は二帖、「絵と詞書」で一対。縦 25.7 cm×横 22.7 cmの色紙が台紙に貼付されている)で、「絵五十四図、詞書五十四枚」から成っているが、内容は、上記のとおりで、『源氏物語』五十四帖の全部を載せるのではなく、「41雲隠・49 宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」は絵も詞書もない。そして、その代わりに、「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」が、「48早蕨」の後に続いている。

二 絵の裏面に「印章」と「墨書」とが、「久翌」印(光吉の「印章」)のみ、「長次郎」墨書のみ、全くの「無記入」との三種類に分けられる。

① 「久翌」印(光吉の「印章」)のみ→「光吉筆」
 「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上)・(下)(光吉筆)」までの三十五図は、「光吉筆」の直筆である。
② 「無記入」のもの→「長次郎筆」
 「35柏木(長次郎筆)」から「48早蕨(長次郎筆)」までの十三図は、「光吉」門弟「長次郎筆」と解せられる。(「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」)

③ 「長次郎」墨書のみ→「長次郎筆」
 「48早蕨」の後に続く「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」の六図については「長次郎」の墨書があり、「長次郎筆」である。

三 詞書の裏面にもその筆者名を示す注記がある。その注記にある官位名は、その多くが元和三年(一六一七)時点のものが多いのだが、元和五年(一六一九)時点のものもあり、その注記はて一筆でなされており、元和三年時点で作られていた筆者目録を、元和五年以降に全て
同時に書かれたものとされている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。

② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。


③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

光吉・蓬生.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

信尋・蓬生.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

長次郎・蓬生.jpg

A-3図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

信尹・蓬生.jpg

A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

(参考一)
A-1図は、「画土佐光吉」で、A-3図は、「画長次郎」である。同じ「蓬生」でも、描かれている場面が異なるので、「土佐光吉」と「長次郎」との画風の相違点は歴然としないが、人物の描写などを見ても、「長次郎」よりも「光吉」の方が「緊迫感」などの鋭さが伝わって来る。また、背景の描写でも、「松」の「緑」と、建物内の「敷物」の「緑」など、「長次郎」の画は、その細部の点で工夫の跡がうかがえないが、「光吉」の画では、「松」と「藤」との「草花」の「緑」などが、実に巧みに違った味わいを見せている。

(参考二)
 A-2図は、「詞近衛信尋」で、「近衛信尋」の書である。「尋書く」と署名があり、「詞書」は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の「露すこし払はせて/なむ入らせたまふべきと/聞こゆれば/尋ねても我こそ訪はめ/道もなく深き蓬の/もとの心を」という一節である。この信尋の書は、養父の近衛信尹が亡くなった慶長十九年(一六一四)の十六歳から、元和六年(一六二〇)の「近衛右大臣左大将」にあった、二十歳の成人を迎えた頃の作とすると、能書家として夙に知られている信尋の、その早熟ぶりが如何ともなく伝わって来る。
 A-4図は、「近衛信尋」の養父の、慶長十九年(一六一四)に没した、「近衛前関白左大臣」の「近衛信尹」の書である。この書は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の、「年を経て待つしるし/なきわが宿を花のたよりに/過ぎぬばかりかと忍びやかに/うちみじろきたまへる/けはひも袖の香も昔より/はねびまさりたまへるにやと/思され」の一節である。
この信尹は、「書・和歌・連歌・絵画・音曲諸芸に通じ、特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に『寛永の三筆』と後世、能書を称えられている」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)、その人である。その人の、亡くなる、最晩年の、慶長十九年(一六一四)当時の、その享年五十の頃の絶筆に近いものであろう。
 慶長十八年(一六一三)に、土佐光吉、そして、その一年後に近衛信尹が亡くなった後、遺された「近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」の二人をサポートして、この「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」を、今の形にまとめさせた中心人物は、後陽成天皇の弟(後水尾天皇)で、「後水尾天皇」や「信尋」の後見人のような立場にあった「八条宮智仁(一五七九~一六二九)」なども、その一人に数えられるであろう。
 その推計の根拠は、「花散里」(土佐光吉筆)の詞書は「近衛信尹息女太郎(君)」で、同じ画題の「花散里」(長次郎筆)の詞書は「八条宮智仁」その人で、この「八条宮智仁」は、「葵」(土佐光吉画)と「賢木」(土佐光吉画)との詞書も草していることなどを挙げて置きたい。

光吉・花散里.jpg

B-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

太郎君・花散里.jpg

B-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

(参考三)
 B-1図は、土佐光吉の「花散里」である。そして、B-2図は、それに対応する「詞近衛信尹息女太郎(君)」で、「信尹息女」の「太郎(「君」とも「姫」ともいわれている) の書である。その書(詞書)は、次の場面のものである。
「琴をあづまに調べて掻き/合はせにぎははしく弾きなすなり/御耳とまりて門近なる/所なればすこしさし出でて/見入れたまへば」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)。

長次郎・花散里.jpg

B-3図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

八条宮・花散里.jpg

B-4図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

(参考四)
 B-3図は、長次郎の「花散里」で、光吉の「花散里」のB-1図と同じ場面を描いたものである。このB-3図(長次郎画)とB-1図(光吉画)とを見比べていくと、B-1図(光吉画)の老成な味わい深い世界に比して、のB-3図(長次郎画)は、若書きの清澄な世界の趣が感じとられる。同様に、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界は、B-3図(長次郎画)と同じような若書きの荒削りの筆勢というのが伝わって来るのに対して、B-4図(詞八条宮智仁)の書からは、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界と真逆の老練な響きな世界という印象すら伝達されて来る。
 いずれにしろ、「A-1図(土佐光吉画・蓬生)・A-4図(近衛信尹書・蓬生)」と「B-1図(土佐光吉画・花散里)・B-4図(八条宮智仁書・花散里)」の「老成・老練」の世界に比して、「A-2図(近衛信尋書・蓬生)とA-3図(長次郎画・蓬生)」と「B-2図(近衛信尹息女太郎(君)書・花散里)とB-3図(長次郎画・花散里)」との「若書き・清澄」の世界とは好対照を成している。 
 なお、このB-4図(詞八条宮智仁)の詞書は、次の場面のものである。
「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす/ ほの語らひし宿の垣根に/
寝殿とおぼしき/屋の西の/妻に/人びとゐたり/先々も/聞きし声/なれば/声づくりけしきとりて/御消息/聞こゆ/若やかなる/けしきどもして/おぼめくなる/べし」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)

(参考五) 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

 先に、「桂離宮」に関連して、【後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう】ということを記したが、その「本邸」は、京都御苑内(同志社女子大学今出川キャンパスと京都御所との間)にあって、慶長年間に屋敷替えなどがあり、度々本邸の改築などが施されており、その「本邸・桂離宮」を含めてのものとした方が、より相応しいのかも知れない。
と同時に、「宮廷絵所預」の「土佐派」(土佐光吉)と、上記の「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図の※印の「詞書」筆者などとの関連は、やはり、濃密な関係にあったことも特記をして置く必要があろう。殊に、「※近衛信尋(養父・※近衛信尹)」と「土佐光吉」との関係は、更なるフォローが必須となって来るであろう。

(参考六) 「長次郎」と「土佐光則」周辺

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「土佐光吉」が描いた三十五図(『久翌』の印章有り)の他に、「長次郎」が描いたとされる「六図」(「長次郎」の墨書名がある)と十三図(無記名・無印で「長次郎の墨書名がある六図」と同一画人とされる「長次郎」)の、その「長次郎」とは何者なのか? 
 光吉の側近中の側近とすれば、光吉の子とも弟子といわれている「土佐光則」(一五八三~一六三八)とすると、光吉が亡くなった慶長十八年(一六一三)の時、数え齢三十一歳で、年恰好からすると、光則が「長次郎」とも思われるが、その確証はない。

【土佐光則(とさみつのり、天正11年(1583年) - 寛永15年1月16日(1638年3月1日))は安土桃山時代 - 江戸時代初期、大和絵の土佐派の絵師。源左衛門尉、あるいは右近と称した。土佐光吉の子供、あるいは弟子。住吉如慶は弟とも、門人とも言われる。土佐光起の父。
光吉の時代から堺に移り活躍する一方、正月に仙洞御所へしばしば扇絵を献上したが、官位を得るまでには至らなかったようだ。寛永6年(1629年)から11年(1634年)には、狩野山楽、山雪、探幽、安信といった狩野派を代表する絵師たちに混じって「当麻寺縁起絵巻」(個人蔵)の制作に参加している。晩年の52歳頃、息子の土佐光起を伴って京都に戻った。
極めて発色の良い絵の具を用いた金地濃彩の小作品が多く、土佐派の伝統を守り、描写の繊細さ、色彩の繊細さにおいて巧みであった。こうした細密描写には、当時堺を通じて南蛮貿易でもたらされたレンズを使用していたとも言われる。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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醍醐寺などでの宗達(その十一・「光広賛の「関屋澪標図」屏風」) [宗達と光広]

その十一 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)
六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

 この「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(六曲一双)は、右隻は「関屋図屏風」、左隻は「澪標図屏風」とするのが通例なのであるが、下記の土佐光吉の「源氏物語図屏風」(B-1図「御幸・浮舟図屏風」・B-2図「)からすると、右隻「澪標図屏風」、左隻「関屋図屏風」と入れ替えた方が、より妥当のようにも思われる。

土佐光吉・源氏物語図屏風右.jpg

B-1図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

源氏物語図屏風.jpg

B-2図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 この両者を比較すると、宗達のA-2図は「澪標図屏風」で、『源氏物語』第十四帖「澪標」が原典なのに対して、光吉のB-1図は「御幸・浮舟図屏風」で、『源氏物語』第二十九帖「御幸」と第五十一帖「浮舟」を原典とするもので、似ても非なるものなのである。
 また、宗達のA-2図「関屋図屏風」と、光吉のB-2図「関屋図屏風」とを比較しても、同じ『源氏物語』第十六帖「関屋」を原典としていても、一見すると、これまた、似ても非なるものとの印象を受ける。
 敢えて、両者の類似している箇所などを指摘すると、B-1図「御幸・浮舟図屏風」では、第六扇に描かれている「御舟」が、A-2図の「澪標図」では、第一・二扇に描かれている「屋形船」、そして、B-1図「御幸・浮舟図屏風」の第二扇に描かれている「牛車」とそれを牽く「牛」が、A-1図「関屋図」の第一・二扇に描かれて「牛車」と「牛」と、同じような題材を描いているということが挙げられよう。

光吉・浮舟.jpg

B-1-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「浮舟」部分拡大図)

宗達・澪標船.jpg

A-2図=澪標図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 B-1-1図「御幸・浮舟図屏風」(「浮舟」部分拡大図)の「御舟」の男女二人は、女性は「浮舟」(八の宮の三女)、そして、男性は「薫」(光源氏の子=実の父は柏木)か「匂宮」(今上帝の第三皇子。母は明石中宮=光源氏の長女。母は明石の方)のどちらかで、『源氏物語』第五十一帖「浮舟・第四章・第三段〈宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す〉」からすると「匂宮」(兵部卿宮・宮)と解せられる。
 そして、A-2図=澪標図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)の上部の「屋形船」に、「匂宮」の母「明石中宮」(光源氏の長女)を腹に宿している、「匂宮」の祖母に当る「明石の方」が乗っている。

【(『源氏物語』第十四帖「澪標」)=光源氏=二十八歳から二十九歳---(呼称)源氏の君・源氏の大納言・源氏の大殿・大殿・大殿の君・内大臣殿・君

http://james.3zoku.com/genji/genji14.html

14.14 住吉詣で

 その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
 舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ人のけはひ、渚に満ちて、いつくしき神宝(かみだから)を持て続けたり。楽人、十列(とおずら)など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
「誰が詣でたまへるぞ」
と問ふめれば、
「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」

14.15 住吉社頭の盛儀

 御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束(そうぞ)き、みづら結ひて、 紫裾濃(むらさきすそご)の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。 】

【 (『源氏物語』第五十一帖「浮舟」=薫君=二十六歳十二月から二十七歳---(呼称)右大将・大将殿・大将・殿・君)

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined51.4.html#paragraph4.3

4.3.6 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

 いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも、 いとらうたしと思す。

4.3.13  年経とも変はらむものか橘の/ 小島の崎に契る心は   (匂宮)
(何年たとうとも変わりません。橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは)

4.3.14  橘の小島の色は変はらじを/ この浮舟ぞ行方知られぬ  (浮舟)
(橘の小島の色は変わらないでも、この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら) 

※6 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

6.5.10  波越ゆるころとも知らず末の松 / 待つらむとのみ思ひけるかな (薫)
(「あなたがほかの人を待っているとも知らず、私は待たれているとばかり思っていました」=(『源氏物語巻十円地文子訳』 )

※※7 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す

7.8.2   後にまたあひ見むことを思はなむ/ この世の夢に心惑はで (浮舟)
(来世で再びお会いすることを思いましょう。この世の夢に迷わないで)       】

御幸・輿拡大.jpg

B-1-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)

 B-1-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)は、天皇の外出(行幸(ぎょうこう))に使用する、屋形の頂に金色の鳳の形を据えた「鳳輦(ほうれん)・鸞輿(らんよ)」で、『源氏物語』第二十九帖「行幸(ぎょうこう・みゆき)」の原文に照らすと「冷泉帝」(桐壺帝の第十皇子・藤壺中宮と光源氏との不義の子)が乗っているものと解せられる。

【 (『源氏物語』第二十九一帖「行幸」=光源氏=三十六歳十二月から三十七歳---(呼称))
源氏の大臣・太政大臣・六条院・六条の大臣・六条殿・主人の大臣・大臣・大臣の君・殿)

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined29.1.html#paragraph1.1

第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸
第一段 大原野行幸

1.1.3 行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部も、皆心ことに、御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかにをかし。左右大臣、内大臣、納言より下はた、まして残らず仕うまつりたまへり。 青色の袍、葡萄染の下襲を、殿上人、五位六位まで着たり。 】

行幸・光源氏.jpg

B-1-3図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「乗馬」部分拡大図)

 B-1-2図の「冷泉帝」の乗っている「鳳輦・鸞輿」を先導するような、B-1-3図の「御馬鞍に跨った上達部(かんだちめ)=摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、及び三位以上の人の総称」は、「光源氏」なのかも知れない。この「上達部」に、B-1-1図の「匂宮」の紋様入りの白装束を着せると、下記のB-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)の「上達部」と様変わりして、これが「光源氏」なのかも知れない。
光吉・光源氏.jpg

B-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)

光吉・関屋図牛.jpg

B-2-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「牛車」部分拡大図」)

 乗馬している「光源氏」(B-2-1図)の前に、「牛車を牽く牛」(B-2-2図)が描かれている。
この光吉の「牛車を牽く牛」(B-2-2図)を、宗達の「関屋図」(A-1図)では、次のように転用している。

宗達・関屋図部分二.jpg

A-1図=関屋図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 この宗達の「牛」(A-1図)と、先の光吉の「牛」(B-2-2図)とを相互に見極めて行くと、両者の差異が歴然として来る。光吉の「牛」(B-2-2図)が無表情なのに対して、宗達の「牛」(A-1図)は、前の人物(空蝉の弟、空蝉の文を持っているか?)に、近寄ろうとしている、その感情を秘めた「牛」の表情なのである。
 この「牛」の表情は、その「牛車」に乗っている「光源氏」の感情の動き(「空蝉」との再会を果たしたい)を如実示している。

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)

 このA図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「右隻=A-1図=関屋図」の主題は、紛れもなく、その第一・二・三扇に描かれている、この「牛車」(光源氏が乗っている)の「牛」(A-1図)なのである。
 そして、この「左隻=A-2図=澪標図」では、その第一扇に描かれている、下記の「明石の方」が乗っている「屋形船」を見送る(再会を果たせず無念のうちに見送る)、この「牛」こそ、謂わば、「光源氏」の化身ともいうべきものであろう。

宗達・澪標船.jpg

A-2図=澪標図(部分拡大図)

宗達・関屋図部分二.jpg

A-1図=関屋図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 「宗達マジック・宗達ファンタジー」とは、この「光源氏」を「牛」に化身させるという、「大胆」にして且つ「自由自在・融通無碍」の発想にある。
 それに比して、「光吉マジック・光吉ファンタジー」は、せいぜい、「輿・牛車に乗る光源氏」を「乗馬の光源氏」に変身させる程度の、「実直」にして且つ「変法自強・活用自在」の、その心情にある。

行幸・光源氏.jpg

B-1-3図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「乗馬」部分拡大図

光吉・光源氏.jpg

B-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)

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醍醐寺などでの宗達(その十・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その十 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 上記A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の第五扇の髭を生やした人物を、これまで「あれかこれか」して、空蝉の夫の「常陸守」(伊予介)と特定したのだが、それを裏付ける
有力なものが出てきた。
 それは、現在、メトロポリタン美術館所蔵の「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝)の左隻「関屋図屏風」(B図)である。

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 この第四扇を拡大すると次のとおりである。

空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物は、空蝉の夫の「常陸守」(紀伊介)その人であろう。そして、その左脇の立っている女性は「空蝉」のように思われる。「常陸守」の右脇の若き男性は、「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)なのかも知れない。
 ここの場面は、下記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の「源氏、石山寺参詣」の場面で、光源氏一行が通過するのを、常陸守・空蝉一行が、「関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる」光景である。「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)については、次の「逢坂の関での再会」で登場する。

【(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
16.2 源氏、石山寺参詣

《 関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。 》

16.3 逢坂の関での再会

《 九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。》

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す    】

関屋澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・左隻=C-2図=澪標図)

土佐光吉のB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、宗達のC図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」においては全くの様変わりをしている。光吉の「光源氏」一行は、宗達の第一・二・三扇に描かれており、それを拡大すると次のとおりとなる。

宗達・関屋図部分二.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図一)

 この場面は、上記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文では、次の記述のところである。

【 (16.2 源氏、石山寺参詣)    
九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。】

 この第三扇に描かれている人物が、上記原文の「かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)」と思われる。そして、光吉のB図(第五扇・部分拡大図)では、中央の「土佐守」の右脇に座している若い人物のように思われる。
 この右衛門佐が話しかけている、C-1図=関屋図の、第二扇に描かれている高貴な童随身のような人物は誰なのか? 
それを証しするのは、C-2図=澪標図の、下記の登場人物からすると、「夕霧→大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧」が以外に見当たらいのである。この人物を「夕霧」とすると、その脇の白い衣装の童は、「夕霧」の童随身で、その背後の人物は「良清と六位の蔵人と傘持ち」のような雰囲気である。

【「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)
光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)
光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?)   】

宗達・関屋図部分一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図二)

 これが、C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」に宗達が描く「空蝉」一行の全体の図なのである。ここに従者のように描かれている三人の人物の視線は、「C-1図=関屋図・部分拡大図一)」の、「夕霧」(「光源氏の名代」)と「小君=右衛門佐=空蝉の弟」(「常陸守と空蝉」の名代)に注がれている。
 この三人の人物を、上記の登場人物から、「常陸守・空蝉・紀伊守=常陸守の子」と見立てることも、これまた一興であろう。この三人の人物が、同じ、土佐派(土佐光吉とその一門)の「関屋図屏風」(D図)では、その位置関係(C-1図との関係)からして、次のとおり描かれている(D図とD-1図)。

土佐光吉・澪標一.jpg

D図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html
土佐光吉・澪標二.jpg

D-1図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵(D図第二扇上部部分拡大)

 この右から二番目の髭の生やした人物(堺衆=光吉が密かに自己の分身を潜ませている?)が、B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)の、中央に描かれている、髭を生やした「常陸守」と連動しているものと解したい。
空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物が空蝉の夫の「常陸守」で、その左脇に立っている女性が「空蝉」とすると、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」の中に、「光源氏」も密かに潜ませているのではなかろうか?

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 「光源氏」は、『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文からして、この「牛車」に乗っているというのが、この図柄からして常識的な見方であろう。しかし、「D-1図 土佐派『澪標図屏風』D図第二扇上部部分拡大」の、当時の「安土桃山時代の装束で描かれた堺衆の四人の人物」の一人に、「光吉が密かに自己の分身を潜ませている」とも思われる「光吉マジック・光吉ファンタジー」を考慮すると、「光源氏」は、この第二扇に描かれて「牛車」には乗っていないで、第一扇に描かれて乗馬している人物が「光源氏」なのではなかろうか?

光吉・光源氏.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 こういう高級の馬具(轡・面繋・胸繋・尻繋など)を装った白馬に乗馬出来る人物は、上記の登場人物では、「光源氏」(源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿)が最も相応しいであろう。
 そして、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」に仕掛けた、土佐光吉の「光吉マジック・光吉ファンタジー」の最も顕著なものは、この第二扇の「牛車」に乗った「光源氏」ではなく、第一扇の「乗馬」の「光源氏」にあると解したい。

土佐光吉・源氏物語図屏風右.jpg

B-A図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 ここで、このB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、上記のB-A図「源氏物語図屏風」右隻「御幸・浮舟図屏風」と対の「四曲一双」の屏風なのである。そして、ここにも、三頭の「乗馬」した人物が描かれている。
 ここらへんについては、次回で触れることにする。ここでは、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇に描かれた髭を生やした人物は「常陸守」(紀伊介)であることは、少なくとも、この「関屋図」のコラボ作品に携わった「宗達と光広」との共同認識であったということは、推測というよりも事実に近いものと解したい。

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 そして、この第四扇に描かれている「童随身」の一人「(河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―四』)は、「常陸守」が恭しく応対していることからして、「夕霧=大殿腹の若君」(大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―五』)と、これまた、「宗達と光広」との共同認識であったと解したい。
 ここで、下記のアドレスの、「シテ=常陸守、ワキ=童随身の一人、ツレ=光源氏の従者」は、「シテ=夕霧、ワキ=常陸守、シテツレ=光源氏の従者」と、シテとワキとの人物を逆転させることになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-22

【一 B図の第四扇に描かれている立姿勢の「関守?」が、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)となり、その座している「常陸守?」が、「光源氏と空蝉」との再会を「関守」(通行を差し止める役)するように描かれていて、これまた面白い。

二 B図の第二・三扇に描かれている「光源氏」の一行は、その牛車の牛が「前へ前へ」と進む姿勢のように「動的」なのに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は、その第一扇の「眠っている従者」のように「静的」な雰囲気で、これまた「対照的関係」で描こうとしてことを強調している。

三 B図の第二扇の「童」(勅旨により「光源氏」仕える「童随身」の一人)が、A図の第四扇に登場し、あたかも、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との「ワキ」を演ずるようで、極めて面白い。それを援護射撃するように、第二扇の「妻折傘」(貴人や高僧へ差し掛けるための傘)を持った従者だけが立ち姿勢で、それは、この第四扇の「童」に、その「妻折傘」をかざすためなら、これは、見事という以外にない。

四 B図の第三扇の「小君」(右衛門佐、「空蝉」の弟)が、A図の第二扇の「座して思案している公家(従者)?」と衣装が同じようで、そう解すると、上記の第四ストーリーの「第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)」よりも、『源氏物語』(第十六帖「関屋」)の登場人物からすると、スムースという印象で無くもない。

五 そして、《A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。》という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない。

六 さらに、A図の第六扇一面全部が空白であることは、「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)の背後に、B図の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」の牛車とその「空蝉」一行(下記「拡大図」)が待機していることを暗示していて、なおさら、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との、このA図の第四・五扇の場面が活きて来る。 】

 その上で、「光吉マジック・光吉ファンタジー」、そして、「宗達マジック・宗達ファンタジー」流に、この「A図の第四・五扇」に何かを潜ませているとすると、この「常陸守」には「宗達」自身のイメージを、そして、この「夕霧」には、正二位権大納言「烏丸光広」の嫡男「烏丸光賢(みつたか)」を潜ませているものと解したい。
 それは偏に、光吉の「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」に、光広の嫡男「烏丸光賢」が、その「詞」を添えているからに他ならない。

光吉・朝顔.jpg

土佐光吉画「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/2

光賢・朝顔.jpg

烏丸光賢詞「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/1

(参考)

遣水もいといたうむせびて池の氷もえもいはずすごきに童女下ろして雪まろばしせさせたまふ

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined20.3.html#paragraph3.2

第二十帖 朝顔
第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
第二段 夜の庭の雪まろばし
3.2.4
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ
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醍醐寺などでの宗達(その九・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その九 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten
【 『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。(以下、略) 】

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の二人の主要人物について、前回では、「【A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。】という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない」としている。そして、第五扇の人物は、「常陸守」、そして、第四扇の人物は、「童随身の一人」としたのだが、この「童随身の一人」は、『源氏物語』第十四帖「澪標」の「住吉社頭の盛儀」(14.15 住吉社頭の盛儀)の下記のところら出てくる「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の、「夕霧」(当時八歳)その人のように思えたのである。

(登場人物)

「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)

光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄)
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第五節)
  大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第二節)
良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第一節)
六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監も靫負になりて、ことごとしげなる随身具したる蔵人なり。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?) 

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 これは、上記のアドレスで紹介されている「再発見・戦国の絵師 土佐光吉」(堺市博物館特別展「土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師」図録より転載)で展示された作品の一つである。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

 上記B図の右端の「牛車」は、このC図の第三扇に描かれている「牛車」と何処となく雰囲気が酷似している。また、このB図の「光源氏」一行は、座している姿勢が多いのだが、A図の「光源氏」一行の「牛車」周辺の人物も、ほぼ座している姿勢で、これまた、酷似している。
 このB図の「光源氏」一行の中に、「夕霧・良清・右近将監」などが居るのかも知れない。そして、この中で「夕霧」は、第二扇に描かれている傘持ちの従者の前の緑色の衣装の童のようである。その童は、B図でも傘持ちの従者の前に緑色の衣装で描かれている。これが、A図の第四扇に描かれている供人を従えた緑色の衣装の童で、この童を「大殿腹の若君」、即ち、「夕霧」と見立てることは、許容範囲のうちに入るものと解したい。
 そして、特に、このB図の左端の上部(鳥居)の上の座している四人の人物に注目したい。その図を拡大すると、次のとおりである。

土佐光吉・澪標二.jpg

B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 このB図(拡大図)に関連して、上記のアドレスでは次のとおり紹介している。

【宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。
(注) 宇野=堺博物館・宇野千代子学芸員=チヨマジック・チヨファンタジー 】

 この四人の人物の主人公と思われる右の二人目の人物(堺衆=町衆?)が、何やら鼻の下と顎に髭をたくわえているようなのである。拡大すると次のとおりである。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

 この人物は、上記の対談中の「チヨマジック・チヨファンタジー」の「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ですると、「土佐派の工房」の主宰者「土佐光吉」その人と見立てることも出来るであろう。
 この土佐光吉((天文11年=一五三九~慶長十八年=一六一三)の経歴については、次の見解が、「チヨマジック・チヨファンタジー」に馴染んでくる。

【 土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地、証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。
】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この「光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され」たということを、「チヨマジック・チヨファンタジー」流に解すると、B図(拡大図)の四人は、「光吉と、光茂(土佐派本家・宮廷繪所預)の遺児・三人」ということになる。
 そして、この三人のうちの一人(旅装した女子?)が、狩野派宗家(中橋狩野家)六代の狩野
光信(七代永徳の長男)に嫁いでいるということになると、狩野派の最大の実力者と目されている狩野探幽(光信の弟・孝信の長男=鍛冶橋狩野家)は、光吉と甥との関係になり、その甥の一人の狩野安信(孝信の三男=探幽の弟)は、狩野派宗家を継ぎ、八代目を継承している。
 さらに、江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖の住吉如慶は、光吉の子とも門人ともいわれており、「チヨマジック・チヨファンタジー」を紹介している上記のアドレスでは、光吉を「近世絵画の礎になった光吉」というネーミングを呈しているが、安土桃山時代から江戸時代の移行期の「近世絵画の礎になった」最右翼の絵師であったことは、決して過大な評価でもなかろう。
 これを宗達関連、特に、その「関屋澪標図屏風」(C図と下記D図)に絞って場合には、全面的に、光吉一門(土佐派)の「澪標図屏風」(A図)と、同じく光吉一門(土佐派)の「源氏物語澪標図屏風」(下記のE図)とを下敷きにし、それを、宗達風にアレンジして、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の世界を現出していると指摘することも、これまた、な過誤のある指摘でもなかろう。

関屋図屏風一.jpg

D図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 この宗達の「関屋図屏風」(D図)の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」一行のうち、その第五扇に描かれている三人の従者などは、その座している姿勢などからして、B図の『澪標図屏風』(土佐派)の左端の上部に描かれている四人の堺衆(そして「光吉と光吉に託された師の三人の遺児」とも解せられる)をモデルにしていることは、その描かれている位置関係などからして、そう解して差し支えなかろう。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

土佐派・澪標図屏風.jpg

E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」(大倉集古館蔵)
https://www.shukokan.org/collection/#link01

 宗達の「澪標図屏風」(C図)の第五・六扇に描かれている住吉大社の「鳥居」と「太鼓橋」は、これまた、E図の第五・六扇をモデルにしていることも明らかであろう。同様に、このE図の第一扇に描かれている「牛車」は、C図の第五扇の「牛車」、同じく、E図の第一・二扇の「屋形船」は、E図の「帆掛け船」をアレンジしたものであろう。
 それよりも、C図とE図とを比較して、最大のアレンジ(改変)は、B図の主題である「光源氏」(束帯姿の長い裾=官位の高い象徴、それを後ろで持つ童を従えっている)の姿が、宗達のC図では「牛車」の中に閉じ込められて、姿を消していることである。これは、「改変」を意味する「宗達マジック」というよりも、「改変+想像+創造」の世界の「宗達ファンタジー」の世界に近いものであろう。
 もとより、創作の世界において、「モデル(制作の対象とする人や物)」をどのように「改変(マジック)」して、自己流の世界(ファンタスティックな世界)を築くかというのは、創作家なら誰しも、その実践を日々続けていることは言うまでもない。 
 しかし、この宗達のように、この「モデル」の主人公を抹殺して、そして、この主人公を別な形で再生させるという、こういう手の込んだ操作は、なかなか目にしない。
 例えば、同じ土佐派(土佐光吉とその一門)による、「B図 土佐派『澪標図屏風』」と「E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」」と比較すると、これらのことは明瞭になっている。

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵

 このB図の「光源氏」の住吉社参詣という主題は、どちらも「光源氏」を中心にして、その他は、全て、それを如何に効果的に盛り上げるかという副次的な脇役ということになる。しかし、仔細に見て行くと、さまざまな「改変」が為されている。
 例えば、B図の前景(下部)の、前駆(行列の先導)の者などが乗馬した「馬」や座す姿勢の従者は、A図では全てカットされている。また、B図は、その前景(下部)から中景(中央)にかけて、「光源氏」参詣一行は動いているのに対して、A図は、第一扇の中央の「牛車」から水平に「右から横へ」と「光源氏」参詣一行は動いている。そして、第五扇の「鳥居」から上部に描けて、「光源氏」参詣一行を見物する「堺衆」などの人達が描かれている。
 E図では、これらの見物人は全てカットされ、その代わりに、「鳥居」の先に、住吉社の「太鼓橋」などが描かれている。
 ここで、注目しなければならないことは、このB図の「鳥居」の上に描かれている四人の見物人(B図(拡大図)=安土桃山時代の装束で描かれた人々)が、宗達の「D図 関屋図」
の第五・六扇の「空蝉一行」とドッキングすると、この第五・六扇の「空蝉一行」の中に、
B図(拡大図)の四人のうちの一人、髭を生やした人物(B図《(拡大図=人物拡大図)》)が居て、その「髭を生やした人物」は、空蝉の夫の「常陸守」と見立てることは、先に許容範囲の内としたが、もはや、これは動かし難いものと解したい。
 そして、この「髭を生やした人物=常陸守」(B図《(拡大図=人物拡大図)》)を「常陸守」とすると、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇の人物も、空蝉の夫の「常陸守」ということは、動かし難いものと解したい。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の第五扇の束帯姿の座している髭を生やした人物を「常陸守」とすると、この「常陸守」が恭しく座して応対している、第四扇の「童」らしき人物は誰か?
 この第四扇の「童」らしき人物は、冒頭に戻って、《「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の「夕霧」(当時八歳)なのかも知れない》とすると、こうなると、この・「宗達ファンタジー」は、新たなるステージの上に立つということになる。

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醍醐寺などでの宗達(その八・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その八 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten
【 『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。(以下、略) 】

 この宗達と光広とのコンビの「賛」の「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色屏風)について、前回、次の三つのストーリーがイメージとして浮かび上がってきた。

(再掲)

【 (登場人物)

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の従者?)         】  

(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)

第一扇→「小君」に託した「空蝉」の対応を「光源氏」は待ちくたびれている。
第二・三扇→「空蝉」一行から従者の一人が来たようだが「あれは誰か」?
第四・五扇→「空蝉」の夫「常陸守」か? 「光源氏」の出迎えに参上したか?
第六扇→丸ごと「余白」で、後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)

第一・二・三扇→「空蝉」は「光源氏」との再会を逡巡している。
第四・五扇→「空蝉」は「光源氏」の従者(右近衛尉?)に「光源氏」への伝言を依頼?
第六扇→後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

(第三ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉と「常陸守」」、そして、第五扇の「髭の人物」は「常陸守」の次男「右近衛尉」と、その「右近近衛尉」を仮の姿とする「大納言・烏丸光広」)

第一扇→牛車の中の「空蝉と夫の常陸守」は「光源氏」一行が通過するのを待ちくたびれて
いる(眠っている従者が示唆している)。
第二扇→「空蝉」の弟の「「小君」(右衛門佐)は、「光源氏」一行が来たらどう挨拶するか、  
    あれこれ思案している(三人の人物の一番上の人物?)。
第三扇→「空蝉」を懸想している「河内守(常陸守の長子)」は、親父(常陸守)似の弟「光源
氏」の使者となっている実弟の「右近衛尉」(第五扇の人物)のを見詰めている(第二扇の「右衛門佐」の前の人物?)
第四扇→「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(この賛を書
いた「大納言・烏丸光広」の化身?)に、一部終始を伝えている。
第五扇→(第三扇上部余白)から(第五扇上部)にかけて、「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、
「光源氏」の使者・「右近衛尉」(この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)への伝言の内容が、下記のとおり光広が賛(散らし書き)をしている。

(第三扇上部余白)
うち出
(第四扇上部余白)

はまくるほど

殿は
粟田山
こえたまひ

行と
来と
せきとめ
がたき
(第五扇上部余白)
なみだをや
関の清水と
人は
みるらん

第六扇→第六扇一面が余白で、 ここに、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「大納言・烏丸
光広」の化身?)が、「光源氏」に伝えること約し、その「空蝉」の贈歌に対し、「大納言・烏丸光広」が、次のとおりの賛(答歌)を散らし書きしている。

みぎのこゝろをよみて
かきつく(花押)
をぐるまのえにしは
あれなとしへつゝ
又あふみちに
ゆくも
かへるも         】

 この三つのストーリーで、何かが足りないと、どうにも不満であったのだが、それは、前回の最初の疑問の、【「牛車」に「空蝉」が乗っているにしては、この「牛車」の従者は皆男衆ばかりという感じである。】については、何ら応えていないということに気がついた。上記の第一ストーリーと第三ストーリーとをドッキングしたような、次の第四ストーリーである。

(第四ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」、そして、第五扇の「山羊髭の人物」は、空蝉の夫の「常陸守」(その化身の「大納言・烏丸光広」との一人二役)

第一扇→「小君」(右衛門佐)に託した「空蝉」の対応を「光源氏」一行は待ちくたびれている(眠っている従者が示唆している)。

第二・三扇→「空蝉」一行から従者の一人が来たようだが「あれは誰か」?
      第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)
      第三扇の上部の公家=右近衛尉(「常陸守」の次子・光源氏の従者)

第四・五扇→「空蝉」の夫「常陸守」か? 「光源氏」の出迎えに参上したか?
      第四扇の若き近仕=童随身の一人(勅旨により「光源氏」仕える童)
      第五扇の山羊髭の公家=常陸守(「空蝉」の夫)

第六扇→一面の余白に「常陸守」に扮した「大納言・烏丸光広」が「空蝉」の和歌などを
     賛(散らし書き書き)する。

関屋図屏風一.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

 ここで、この三枚の屏風図(B図・C図・A図)との関係を、屏風の「右隻・左隻」と、屏風の「表・裏」との視野から、次のような関係として捉えると、宗達が、この三枚の屏風図を描いた視点の一つというのが見えて来る。
 まず、B図とC図とは、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「B図=右隻」と「C図=左隻」という「六曲一双」形式の「屏風図」ということになる。

関屋澪標図屏風.jpg

「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=B図・左隻=C図)

 そして、A図は、この「左隻=C図」に連なるのではなく、この「左隻=C図」の背面の「裏」に描かれている、「表=C図=澪標図」と「裏=A図=関屋図」あるいは「表=B図=関屋図」と「裏=A図=関屋図」という二通りの見方である。この二通り見方のうち、「表=C図=澪標図」と「裏=A図=関屋図」とすると、次のようなことが浮かび上がってくる。

(表)

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

(裏)

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

一 C図の第四扇の中央に描かれている「光源氏」の「牛車」の前に伺候している「摂津国・国守?」(「住吉大社のある摂津の国守」)が「立っている」のに対して、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)は「座っている」(A図の「摂津守?」からC図の「常陸守?」を連想させ、その両者を「立つ」と「座す」との「対照的関係」で描こうとしている。

二 C図の第二・三扇に描かれている「光源氏」一行の従者は「立ち姿勢」の者が多いのだが、それに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は「座す姿勢」と、ここでも、同じ従者を描くにも、これまた「対照的関係」で描こうとしている。

三 何よりも、C図が『源氏物語』の「関屋澪標図屏風」として、先行する、その関連の様々な「大和絵」風の作品の図様をアレンジしながら、「人物と景物」の織り成す「絵巻」(ストーリー化)の世界を現出したのに対して、A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。

 これを、「表=B図=関屋図」と「裏=A図=関屋図」とすると、次のようなことが指摘できる。

(表)

関屋図屏風一.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

(裏)

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

一 B図の第四扇に描かれている立姿勢の「関守?」が、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)となり、その座している「常陸守?」が、「光源氏と空蝉」との再会を「関守」(通行を差し止める役)するように描かれていて、これまた面白い。

二 B図の第二・三扇に描かれている「光源氏」の一行は、その牛車の牛が「前へ前へ」と進む姿勢のように「動的」なのに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は、その第一扇の「眠っている従者」のように「静的」な雰囲気で、これまた「対照的関係」で描こうとしてことを強調している。

三 B図の第二扇の「童」(勅旨により「光源氏」仕える「童随身」の一人)が、A図の第四扇に登場し、あたかも、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との「ワキ」を演ずるようで、極めて面白い。それを援護射撃するように、第二扇の「妻折傘」(貴人や高僧へ差し掛けるための傘)を持った従者だけが立ち姿勢で、それは、この第四扇の「童」に、その「妻折傘」をかざすためなら、これは、見事という以外にない。

四 B図の第三扇の「小君」(右衛門佐、「空蝉」の弟)が、A図の第二扇の「座して思案している公家(従者)?」と衣装が同じようで、そう解すると、上記の第四ストーリーの「第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)」よりも、『源氏物語』(第十六帖「関屋」)の登場人物からすると、スムースという印象で無くもない。

五 そして、【A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。】という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない。

六 さらに、A図の第六扇一面全部が空白であることは、「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)の背後に、B図の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」の牛車とその「空蝉」一行(下記「拡大図」)が待機していることを暗示していて、なおさら、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との、このA図の第四・五扇の場面が活きて来る。

関屋図屏風・空蝉一行.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」(第五・六扇拡大図)

 ここまで来て、下記のアドレスの、次の「各隻の並べ方については『複数の解釈が可能な屏風』として差し支えない」ということの一端が明瞭となってきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-14

【 この「関屋澪標図屏風」は、画面向って右に「関屋」の隻、左に「澪標」の隻を並べて鑑賞するのが一般的である。これは右隻の落款が右端、左隻の落款が左端に位置することで、「六曲一双」の屏風としては、それが自然であろうという程度の確然としたものではない。
 現に、『源氏物語』の順序からしても、「澪標」(第十四帖)、「関屋」(第十六帖)と、右隻に「澪標」、左隻に「関屋」が自然で、落款が中央に集まるのは、同じ六曲一双の「雲龍図屏風」(フリーア美術館)があり問題にならないとし、各隻の並べ方については「複数の解釈が可能な屏風」として差し支えないようである(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)。 】

 と同時に、これまでの、「絵巻」(ストーリー化)の世界の、「第一ストーリー」から「第四ストーリー」との「右から左へ」の世界と、「裏と表」の「反転」の世界との、この二つの世界を、これらの「宗達と光広」の「コラボ(協同・共同)」的な作品が教示して呉れている思いを深くする。


(参考) 『源氏物語絵巻』「関屋」段を読み解く(倉田実稿)周辺

関屋図・錦織.jpg

「山口伊太郎遺作 源氏物語錦織絵巻」の「関屋」
http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2009/05/post-166d.html
【徳川美と五島美にある‘源氏物語絵巻’(19場面)を織りで表現しようと思い立ったのは西陣織作家、山口伊太郎(1901~2007)。1970年からはじめ、第4巻が08年にできあがり、37年かけてようやく完成させた。山口は07年に105歳で亡くなったので、最後の織りは見届けられなかったが、職人たちに指示をして天国へ旅立った。】

https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki23

 上記のアドレスの「『源氏物語絵巻』「関屋」段を読み解く(倉田実稿)」は、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(静嘉堂文庫美術館蔵・国宝)や「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」(東京国立博物館蔵・国宝)を理解する上で、その周辺の基調的なデータが満載している。
 その要点を、上記に関連することだけを、掲載して置きたい。

関屋図・原典.jpg

【人物:[ア]・[カ]牛飼 [イ]・[ウ]立烏帽子狩衣姿の前駆(さき・ぜんく) [エ]随身 [オ]傘持ちの従者 [キ]常陸介一行 [ク]・[ケ]・[コ]警護の供人
事物:①・⑤・⑥牛車 ②・⑧胡簶(やなぐい) ③・⑦弓 ④袋に入れた妻折傘 ⑨行縢(むかばき) ⑩荷馬
景色:Ⓐ琵琶湖 Ⓑ打出の浜(うちでのはま) Ⓒ筧(かけい) Ⓓ鳥居 Ⓔ道祖神の祠

絵巻の場面 「関屋」の段は現存する『源氏物語絵巻』で唯一の風景描写になっていますが、剥落が多く原画では細部がはっきりしません。しかし、それでも人々や牛車、あるいは関山(逢坂の関付近の山)などがそれとなく分かりますので、読み解いていきましょう。

 この場面は、願果しに石山詣でに出掛ける光源氏一行と、常陸国から上京してきた空蝉一行が、逢坂の関で偶然にすれ違ったことを描いています。画面は、北側から眺めた景色になります。画面右側が京で、やってきたのが光源氏と供人たち、左側が東になり空蝉一行が京を目指しています。空蝉は夫が常陸介として赴任した際に同行し、任期が終わって京に戻るところでした。なお、原画でははっきりしませんが、画面左角がⒶ琵琶湖で、湖岸はⒷ打出の浜になります。

 光源氏の一行 まず光源氏一行を見ることにしましょう。光源氏の姿は描かれていませんが、[ア]牛飼のいる①牛車に乗っているようです。騎乗する[イ][ウ]立烏帽子狩衣姿は前駆(行列の先導)の者、②胡簶を背負い、③弓を持つのは[エ]随身です。徒歩の者もいて、[オ]右端の者は④袋に入れた妻折傘を持っています。かなりの人数でやって来ていますね。光源氏が須磨・明石から帰京した翌年になり、内大臣になった威勢の表現にもなっています。

 空蝉の一行 空蝉の姿も描かれていませんが、やはり[カ]牛飼の付く⑤牛車に乗っています。復元画によりますと牛車に女房装束の裾先を出して飾りとする「出衣(いだしぎぬ)」があり、女車になっています。空蝉が乗車していることになります。

 常陸介・空蝉の一行も多人数になっています。物語には、「類ひろく(常陸介の親類が多く)」、「車十ばかり」であったとされています。牛車は⑥もう一両見え、[キ]徒歩の者、 [ク][ケ][コ]騎乗の者が何人も見えます。騎乗の者は⑦弓と⑧胡簶を持っていますので警護役になります。画面左上の[コ]騎乗する者には⑨行縢も認められます。また、打出の浜あたりには⑩荷を積んだ馬が三頭描かれています。これも常陸介一行でしょう。受領として任地で蓄財した富を積んでいると思われます。この地方の富は京に入り、受領たちの任官運動の一環として公卿たちに献上されることになります。光源氏の権勢も、豊かな受領の富が支えていることを暗示しているのかもしれません。

 逢坂の関の風物 続いて逢坂の関を暗示するものがあるかどうか確認してみましょう。物語にも「関屋」という語が使用されていますが、画面に関所らしいものは描かれていません。しかし、逢坂の関に付属するものが認められるようです。画面右端を見てください。

 Ⓒ筧が認められますね。これは当時あった「関の清水」の表現のようです。物語では空蝉が心ひそかに詠んだ独詠歌にこの「清水」が使用されていました。

 また、Ⓓ鳥居とⒺ祠も描かれています。これを琵琶湖寄りにある「関蝉丸神社」とする説もありますが、位置的に見て国境に置かれた道祖神の祠などでしょう。逢坂の関の存在と少なからず関係しているわけです。

 関山の景色 さらに景色を見ましょう。関山の形はどうでしょうか。峰を高く描いた山々が描かれていますね。この山容は実景ではありません。峰を高く描くのは、唐絵(からえ。中国風の絵)に多く認められますので、その様式によっているのです。雄大な山間の景色を描こうとした際に、おのずと唐絵の技法に寄り添ったということでしょう。

 画面の趣向 最後に画面の趣向と思われる点を考えておきましょう。『源氏物語絵巻』でありながら、光源氏も空蝉もその姿が描かれていないことです。それは絵師が物語の世界における二人の関係性をきちんと読み解いていたからだと思われます。物語では、光源氏の車は簾を下したまま空蝉の車とすれ違っています。顔を合わせたり、言葉を交わしたりなどはしていません。二人の関係は光源氏十七才の折に遡りますが、空蝉と強引に契りを交わしただけで終わりました。文のやり取りはその後あったものの、二人の関係は秘め事なのでした。逢坂の関で、偶然にすれ違っても、挨拶を交わすことなどできません。物語では、衛門佐(えもんのすけ)になっている空蝉の弟(小君)に、関迎えに来ましたとの伝言を託したとありますが、絵巻には描かれていないようです。秘めた二人の関係だからこそ、その姿を描かないようにしたのだと思われます。なお、空蝉はこの後出家し、光源氏の庇護を受けるようになるのは後年のことになります。  】
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醍醐寺などでの宗達(その七・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その七 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&content_pict_id=000
【『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。さまざまな姿態に描かれる従者たちは、「西行物語絵巻」や「北野天神縁起絵巻」など、先行するやまと絵作品から図様を転用していることが指摘されている。「宗達法橋」の署名と「対青軒」の朱文円印、賛に光広最晩年の花押(かおう)がある。「住吉家古画留帳(すみよしけこがとめちょう)」(東京藝術大学蔵)には、文化12年(1815)8月13日に、住吉広尚(すみよしひろなお)(1781~1828)が「等覚院(とうがくいん)抱一」(酒井抱一)の依頼で、この屏風を「宗達筆正筆ト申遺ス」と鑑定したことが記録されている。うち出のはまくるほどに/殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも 】

 この牛車の中に「空蝉」が乗っていることは、ここに書かれている、烏丸光広の賛からすると一見明らかのような雰囲気である。

(『源氏物語』第十六帖「関屋16.2」の一節)

 うち出のはまくるほどに (打ち出の浜来るほどに)
 殿は粟田山こえたまひぬ (「殿」=「光源氏」は粟田山を越え給ひぬ) 

(『源氏物語』第十六帖「関屋16.3」の「空蝉」の和歌)

 行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん
(行く人も来る人もせきとめることの難しい逢坂の関で/塞き止め難く途絶えぬ涙を/湧き出して途絶えぬ清水のように人は見るでしょうね/それほど涙があふれて止まりません)

(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
16.2 源氏、石山寺参詣
【関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。】

16.3 逢坂の関での再会
【九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。】

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す

関屋図・牛車.jpg

B図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第一・二・三扇」(拡大図)

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」
https://twitter.com/news_pia/status/1107545393749884928/photo/2

 このB図の「牛車」に「空蝉」が乗っているにしては、この「牛車」の従者は皆男衆ばかりという感じである。そして、この従者は、C図(二・三扇)の従者と、その恰好やら仕草が瓜二つなのである。そして、このC図の「牛車」に乗っている人は「光源氏」で、この場面は、「空蝉」と「光源氏」の「関屋」の場面ではなく、「明石の上」と「光源氏」の「澪標」の場面なのである。
 ここで、「澪標図屏風」(C図)と、次の場面の「関屋図屏風」(D図)とドッキングして、
『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」とを、「連歌・俳諧」(「創作」と「鑑賞」とを繰り返し、一連の即興的なストーリー化の世界を現出する)的な視野で見て行くと、次のとおりとなる。

関屋図屏風一.jpg

D図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」
https://twitter.com/news_pia/status/1107545393749884928/photo/1

C図「澪標図屏風」の場面

第一扇→「牛車」から解き放された「牛」が「船上」の「明石の上」を見送る。
第二・三扇→「牛車」の「光源氏」は「明石の上」の再会を断念し「住吉参詣」をする。
第四・五・六扇→「住吉大社」の関係者が「光源氏」をお迎えする。

D図「関屋図屏風」の場面

第一・二扇→「光源氏」の一行が「石山寺から逢坂の関」に差し掛かる。牛は急いでいる。
第三・四扇→「空蝉」の弟「小君」(右衛門佐)が「牛車」の「光源氏」と対面している。
第五・六扇→「空蝉」の「牛車」が「逢坂の関」の途中の路上に待機している。

 ここまでが、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(C図とD図)との「ストーリー」(場面の流れ)である。そして、この「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(C図とD図)は、六曲一双の屏風として完結しているのだが、次の六曲一隻屏風のA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」
は、D図の「関屋図屏風」との関連で、どういう場面で、どういうストーリー(場面の転換)
のイメージ(「鑑賞」して自分なりの「想像・創造・創作」する)を抱くかということになる。

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

 ここで、 『源氏物語』第十六帖「関屋」の登場する主要な人物は、次の六人ということになる。

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の従者?)

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」に描かれている、向き合っている二人の人物は誰か? 「第四扇」の若い従者は、貴人に仕える「近侍(近仕)」の一人か? 上記の登場人物の「小君」(右衛門佐)とも解せるが、D図(第二・三扇)の「小君」(右衛門佐)とは別人物のようなので、「小君」(右衛門佐)とは別人物の若い「近侍(近仕)」の一人と解して置きたい。
 もう一人の、「第五扇」の髭を生やした人物は誰か? 上記の登場人物の中ですると、「空蝉」の夫の「常陸守」(伊予介)という雰囲気である。「紀伊守」(河内君)は、「16.2 源氏、石山寺参詣」「16.3 逢坂の関での再会」には出て来ないので、除外して、一応、「「常陸守」(伊予介)として置きたい。
 さらに、前提として、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「烏丸光広賛」は書いてないということで、この場面のストーリー化を試みると次のとおりである。

(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)

第一扇→「小君」に託した「空蝉」の対応を「光源氏」は待ちくたびれている。
第二・三扇→「空蝉」一行から従者の一人が来たようだが「あれは誰か」?
第四・五扇→「空蝉」の夫「常陸守」か? 「光源氏」の出迎えに参上したか?
第六扇→丸ごと「余白」で、後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)

第一・二・三扇→「空蝉」は「光源氏」との再会を逡巡している。
第四・五扇→「空蝉」は「光源氏」の従者(右近衛尉?)に「光源氏」への伝言を依頼?
第六扇→後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

 この二つのストーリーで、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「烏丸光広賛」の、「殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも」が書いてあることを前提とすると、上記の(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)はカットされ、(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)の場面ということになる。
 この(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)で行くと、このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の主役のような第五扇の「髭を生やした人物」(「空蝉」の夫の「常陸守」クラスの人物)が、謎の人物となるが、この謎の人物を、「常陸守」の長男の「紀伊守」の弟の「右近衛尉」(「光源氏」に仕えている)と解することも出来るのかも知れない。
 しかし、それだけでは、「宗達絵画」(「宗達屏風」「宗達絵巻」「宗達扇絵」など)の「仕掛け」(意表を突く面白み)が今一つ伝わって来ない。
 何か「仕掛け」(意表を突く面白み)があるとすると、この第五扇の「髭を生やした人物」を、「空蝉」の夫の「常陸守」の次男で「光源氏」の従者になっている「右近衛尉」と、この「賛」の書き手の「大納言・烏丸光広」とが、一人二役で登場しているとすると、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の、この「絵」(筆)と「文」(賛)との「コラボレーション」(「協同・共同」創作)が活きてくる。

(第三ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉と「常陸守」」、そして、第五扇の「髭の人物」は「常陸守」の次男「右近衛尉」と、その「右近近衛尉」を仮の姿とする「大納言・烏丸光広」)

第一扇→牛車の中の「空蝉と夫の常陸守」は「光源氏」一行が通過するのを待ちくたびれている(眠っている従者が示唆している)。
第二扇→「空蝉」の弟の「「小君」(右衛門佐)は、「光源氏」一行が来たら挨拶するかどうか
    思案している(三人の人物の一番上の人物?)。
第三扇→「空蝉」を懸想している「河内守(常陸守の長子)」は、親父(常陸守)似の弟「光源氏」の使者となっている実弟の「右近衛尉」のを見詰めている(第二扇の「右衛門佐」の前の人物?)
第四扇→「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)に、一部終始を伝えている。
第五扇→(第三扇上部余白)から(第五扇上部)にかけて、「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)への伝言の内容が、下記のとおり光広が賛(散らし書き)をしている。

(第三扇上部余白)
うち出
(第四扇上部余白)

はまくるほど

殿は
粟田山
こえたまひ

行と
来と
せきとめ
がたき
(第五扇上部余白)
なみだをや
関の清水と
人は
みるらん

第六扇→第六扇一面が余白で、 ここに、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「大納言・烏丸光広」の化身?)が「光源氏」に伝えること約し、その「空蝉」の贈歌に対し、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)が、次のとおりの賛(答歌)を散らし書きしている。

みぎのこゝろをよみて
かきつく(花押)
をぐるまのえにしは
あれなとしへつゝ
又あふみちに
ゆくも
かへるも」

 ここで、「空蝉の贈歌」を見ると、これが実に手の込んだ一首なのである。

行くと来とせき止めがたき涙をや
   絶えぬ清水と人は見るらむ   空蝉

「行くと来(く)とせき止めがたき」→「行く人も来る人も関は止めることが出来ない」の「関止め難き」と、次の「涙」を「塞き止め難き」(塞き止めることは出来ない)とを掛けている。
 そして、この「涙」が「絶えぬ」と、次の「清水」が「絶えぬ」とを掛け、さらに、この「清水」は、「関の岩清水」の歌枕「逢坂の関の石清水」で、次の「逢坂の関」の和歌などを踏まえての一首ということになる。

あふさかの関に流るる石清水言はで心に思ひこそすれ(よみ人知らず「古今集」)
これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸「後撰集」)
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(紀貫之「拾遺集」)

 これに対する「光広の答歌」は、技巧的な空蝉の一首に対して、下記の『東行記』冒頭の一首(「知る知らず会ひ問ひかわす旅人の行くと帰ると逢坂の関」)など、自己の旅行体験などを踏まえ、「表」の意とか「裏」の意とか考えないで、当意即妙に、空蝉の一首に和しているような雰囲気である。

をぐるま(御車)のえにし(縁)はあれなとし(年)へ(経)つゝ
 又あふみち(近江路)にゆく(行)もかへ(帰)るも     烏丸光広

光広・逢坂の関.jpg

「東行記・烏丸光広筆」(東京国立博物館蔵・一巻・彩箋墨書)中の「逢坂の関」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/482788/2
「しるしらず 会(ひ)とひかわす 旅人の 行(く)とかへると あふ坂の関」
【烏丸光広は江戸時代初期の公卿。古今伝授を受けるほか、歌人として著名である。彼は朝廷と江戸幕府の斡旋役として度々江戸に下向したが、この1巻はその折の紀行文をもとに、和歌やスケッチを加えた旅日記である。光広独自の書風を確立した晩年の筆跡。】

 元和四年(一六一八)、光広、四十歳の時、徳川家康三回忌に江戸に下向し、その時の紀行文を『あづまの道の記』として遺している。その『あづま道の記』は、次のアドレスで見ることが出来る。

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100291419/viewer/1

 また、上記の「東行記」(東京国立博物館蔵)の草稿本(京都国立博物館蔵)の「逢坂の関・瀬田の長橋・鈴鹿山」は、下記のアドレスなどが参考となる。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/shoseki/59tokoki.html

 なお、光広の『あづまの道の記』は、中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『十六夜日記』)の一つに数えられる『東関紀行』を参考にしている。『東関紀行』は下記のアドレスで見ることが出来る。その「逢坂の関・近江路」の所を抜粋して置きたい。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/tokan.htm

【 東山の邊なるすみかを出て、相坂の關うち過ぐる程に、駒ひきわたる望月の比も、漸近き空なれば、秋霧立ちわたりて、ふかき夜の月影かすかなり。木綿付鳥幽に音づれて、遊子(孟甞君之故事)猶殘月に行きけむ、幽谷の有樣思ひ合せ(いでイ)らる。むかし蝉丸といひける世捨人、此の關の邊にわらやの床をむすびて、常は琵琶をひきて心をすまし、大和歌を詠じておもひを述けり。嵐の風はげしきをわびつゝぞ過しける。ある人の云ふ「蝉丸は延喜第四の宮にておはしけるゆゑに、この關のあたりを四の宮河原と名づけたり」といへり。
  「いにしへのわらやのとこのあたりまで心をとむる相坂の關」。
 東三條院(詮子一條御母)石山に詣でゝ、還御ありけるに、關の清水を過させ給ふとて、よませ給ひける御歌、「あまたゝびゆきあふ坂の關水にけふをかぎりのかげぞかなしき」と聞こゆるこそいかなりける御心のうちにか、と哀に心ぼそけれ。關山を過ぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんどきけども、いまだ夜のうちなれば、さだかにも見わからず。昔天智天皇の御代、大和國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮を造られけりときくにも、此の程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて哀なり。
  「さゞ波や大津の宮のあれしより名のみ殘れるしがの故郷」。
 曙の空になりて、せたの長橋うち渡すほどに、湖はるかにあらはれて、かの滿誓沙彌が、比叡山にて此の海を望みつゝよめりけむ歌(萬葉巻三拾遺哀傷)おもひ出でられて、漕ぎゆくふねのあとの白波、まことにはかなく心ぼそし。
  「世の中をこぎゆく舟によそへつゝながめし跡を又ぞ眺むる」。 】(『東関紀行』抜粋)
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醍醐寺などでの宗達(その六・「醍醐寺の障壁画・装飾画」) [宗達と光広]

その六 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆 六曲一双)周辺

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

 この国宝となっている宗達の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)は、現在は静嘉堂文庫美術館所蔵となっているが、もともとは醍醐寺所蔵のものであった。それが、上記の紹介記事にあるように、明治二十九年(一八九六)に静嘉堂創設者の岩崎弥之助(一八五一~一九〇八)へ寄進の返礼として、同寺より岩崎家に贈られたものなのである。
 この「関屋澪標図屏風」は、画面向って右に「関屋」の隻、左に「澪標」の隻を並べて鑑賞するのが一般的である。これは右隻の落款が右端、左隻の落款が左端に位置することで、「六曲一双」の屏風としては、それが自然であろうという程度の確然としたものではない。
 現に、『源氏物語』の順序からしても、「澪標」(第十四帖)、「関屋」(第十六帖)と、右隻に「澪標」、左隻に「関屋」が自然で、落款が中央に集まるのは、同じ六曲一双の「雲龍図屏風」(フリーア美術館)があり問題にならないとし、各隻の並べ方については「複数の解釈が可能な屏風」として差し支えないようである(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)。
 ここは、『源氏物語』の、「澪標」(第十四帖)そして「関屋」(第十六帖)の、この順序で鑑賞したい。

澪標図屏風.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

 この「澪標図屏風」が制作された寛永八年(一六三二)時、この屏風の注文主の、醍醐寺三宝院の門跡・覚定((1607-1661))は、二十五歳の頃であった。
 その覚定の『寛永日々記』の「源氏物語屏風壱双 宗達筆 判金一枚也 今日出来、結構成事也」(九月十三日条)の、この「結構成事也」について、「第十四帖『澪標』ならば住吉、第十六帖『関屋』ならば逢坂の関という野外を舞台とした絵画化が可能となる。さらに、この二帖を一双の屏風で描いた場合、海と山で対比が作れる。また、前者は明石君、後者は空蝉に源氏が偶然出会うという共通点もある。くわえて、この二帖は不遇な時期を乗り越え、源氏が都に返り咲いた時期の話で申し分がない。源氏の年齢設定も当時の覚定の年齢に近い」と指摘している(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p54~)。
 ここに、もう一つ、この「澪標図屏風」に描かれている、この場面は、『源氏物語』第十四帖「澪標」をベースにしている、能楽「住吉詣」の場面で、能楽に関心の深い覚定に取っては、ことさらに、このことが、「結構成事也」の、その理由の一つに挙げられるものと解したい。

http://www.nohgakuland.com/know/kyoku/text/sumiyoshimoude.htm

ロンギ「不思議やな。ありし明石の浦浪の。立ちも帰らぬ面影の。
それかあらぬか舟かげの。信夫もじずり誰やらん。
シテ「誰ぞとは。よそに調の中の緒の。其音違はず逢ひ見んの。
頼めを早く住吉の。岸に生ふてふ草ならん。
源氏「忘草。々々。生ふとだに聞く物ならば。其かね言もあらじかし。
地「実になほざりに頼めおく。その一言も今ははや。
源氏「ありし契の縁あらば。
地「やがての逢瀬も程あらじの。心は互に。変らぬ影も盃の。度重なれば惟光も。
惟光「傅御酌をとりどりの。
地「酔に引かるゝ戯の舞。面はゆながらもうつりまひ


(『源氏物語』第十四帖「澪標」)=光源氏=二十八歳から二十九歳---(呼称)源氏の君・源氏の大納言・源氏の大殿・大殿・大殿の君・内大臣殿・君

http://james.3zoku.com/genji/genji14.html

14.1 故桐壺院の追善法華御八講
14.2 雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執
14.3 東宮の御元服と御世替わり
14.4 宿曜の予言と姫君誕生
14.5 宣旨の娘を乳母に選定
14.6 乳母、明石へ出発
14.7 紫の君に姫君誕生を語る
14.8 姫君の五十日の祝
14.9 紫の君、嫉妬を覚える
14.10 花散里訪問
14.11 筑紫の五節と朧月夜尚侍
14.12 旧後宮の女性たちの動向
14.13 冷泉帝後宮の入内争い

14.14 住吉詣で
【その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ人のけはひ、渚に満ちて、いつくしき神宝(かみだから)を持て続けたり。楽人、十列(とおずら)など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
「誰が詣でたまへるぞ」
と問ふめれば、
「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」
とて、はかなきほどの下衆だに、心地よげにうち笑ふ。
「げに、あさましう、月日もこそあれ。なかなか、この御ありさまを遥かに見るも、身のほど口惜しうおぼゆ。さすがに、かけ離れたてまつらぬ宿世ながら、かく口惜しき際の者だに、もの思ひなげにて、仕うまつるを色節(いろふし)に思ひたるに、何の罪深き身にて、心にかけておぼつかなう思ひきこえつつ、かかりける御響きをも知らで、立ち出でつらむ」 など思ひ続くるに、いと悲しうて、人知れずしほたれけり。】

14.15 住吉社頭の盛儀
【松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる表(うえ)の衣の、濃き薄き、数知らず。六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監(うこんのじょう)も靫負(ゆげひ)になりて、ことごとしげなる随身具したる蔵人なり。
良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。
すべて見し人びと、引き変へはなやかに、何ごと思ふらむと見えて、うち散りたるに、若やかなる上達部、殿上人の、我も我もと思ひいどみ、馬鞍などまで飾りを整へ磨きたまへるは、いみじき物に、田舎人も思へり。
御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束(そうぞ)き、みづら結ひて、 紫裾濃(むらさきすそご)の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。
大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束そうぞきわけたり。
雲居遥かにめでたく見ゆるにつけても、若君の数ならぬさまにてものしたまふを、いみじと思ふ。いよいよ御社の方を拝みきこゆ。
国の守参りて、御まうけ、例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
いとはしたなければ、
「立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。今日は難波に舟さし止めて、祓へをだにせむ」
とて、漕ぎ渡りぬ。】

14.16 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず
14.17 源氏、明石の君に和歌を贈る
14.18 明石の君、翌日住吉に詣でる
14.19 斎宮と母御息所上京
14.20 御息所、斎宮を源氏に託す
14.21 六条御息所、死去
14.22 斎宮を養女とし、入内を計画
14.23 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執
14.24 冷泉帝後宮の入内争い

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
【伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて、またの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居も遥かに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へ聞こゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も、浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて、年月かさなりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ、常陸は上りける。】

16.2 源氏、石山寺参詣
【関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。】

16.3 逢坂の関での再会
【九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。】

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す

 http://wakogenji.o.oo7.jp/nohgaku/noh-genji.html

 上記のアドレスによると「現存する謡曲235曲の中に、「源氏物語」を題材にするものは下記の10曲」のようである。

半蔀(はじとみ)   「夕 顔」 第五帖  シテは夕顔の上
夕顔(ゆうがお)   「夕 顔」 第五帖  シテは夕顔の上
葵上(あおいのうえ) 「葵」 第九帖  シテは六条御息所
野宮(ののみや)   「賢木」第十帖  シテは六条御息所
須磨源氏(すまげんじ)「須磨・明石」第十二帖、十三帖 シテは光源氏
住吉詣(すみよしもうで)「澪標」 第十四帖  シテは明石の上
玉鬘(たまかずら)  「玉鬘」第二十二帖  シテは玉鬘
落葉(おちば)    「若菜」第三十四帖  シテは落葉の宮
浮舟(うきふね)   「宇治十帖より 「浮舟」  シテは浮舟
源氏供養(げんじくよう)「源氏物語表白」  シテは紫式部

この他に「新作能」として、次のものが挙げられている。

碁(ご)        「空蝉」第三帖  シテ空蝉
夢浮橋(ゆめのうきはし)「宇治十帖・最終章」 シテ修行僧 (瀬戸内寂聴作)

 この「碁」については、次のアドレスによると、「帚木」「空蝉」の巻を典拠とし、「長い間廃曲となっていましたが、「世阿弥生誕六百年前夜祭公演」として昭和37年(1962年)11月23日に二十五世金剛巌宗家により復曲」されたとあり、宗達が描く「関屋図屏風」の「源氏の石山詣でと空蝉との再会」の場面ではない。

http://www.kotennohi.jp/?page_id=2459

 宗達には、もう一枚の「関屋図屏風」(六曲一隻・烏山光広賛・東京国立博物館蔵=国宝)がある。
次のD図である。大きさは、C図(静嘉堂文庫美術館蔵=醍醐寺三宝院旧蔵=国宝)が「一五二・二×三五五・六㎝」に対して「九五・五5×二七三・〇㎝」とやや小ぶりである。
ここで、このD図とC図と交互に、『源氏物語』第十六帖「関屋」(「16.2 源氏、石山寺参詣」「16.3 逢坂の関での再会」など)の原文などを照合して見て行くと、宗達が、この二枚の絵(C図とD図)に託した(仕掛けた)、その謎の一端が明らかになってくる。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&content_pict_id=000

関屋図屏風・光広.jpg

D図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
【『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。さまざまな姿態に描かれる従者たちは、「西行物語絵巻」や「北野天神縁起絵巻」など、先行するやまと絵作品から図様を転用していることが指摘されている。「宗達法橋」の署名と「対青軒」の朱文円印、賛に光広最晩年の花押(かおう)がある。「住吉家古画留帳(すみよしけこがとめちょう)」(東京藝術大学蔵)には、文化12年(1815)8月13日に、住吉広尚(すみよしひろなお)(1781~1828)が「等覚院(とうがくいん)抱一」(酒井抱一)の依頼で、この屏風を「宗達筆正筆ト申遺ス」と鑑定したことが記録されている。うち出のはまくるほどに/殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも  】

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 上記のD図の「牛車」に乗っている人は誰か?→ 空蝉
 上記のC図の「牛車」に乗っている人は誰か?→ 光源氏
 
 上記のD図の「場面」は『源氏物語』の何処か?→ 『源氏物語』第十六帖「関屋」(「16.2 源氏、  
                          石山寺参詣」)
 上記のC図の「場面」は『源氏物語』の何処か?→ 『源氏物語』第十六帖「関屋」(「「16.3 逢坂
                          の関での再会」)

上記のD図の「牛車」の「牛」は? →「牛車」から離されて休息中
上記のC図の「牛車」の「牛」は?   →光源氏の「牛車」の「牛」は必死に「関屋」へ
                   空蝉「牛車」の「牛」は休息中

澪標図屏風.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 このB図とC図との注文主の、二十五歳の「醍醐寺三宝院門跡・覚定」は、この二枚のB図とC図に、「結構成事也」と大満足をしたのである。
 その大きな理由は、このB図とC図に描かれている「牛」が、この「牛車」に乗っている「光源氏」の、この場面での「心境」を如実に表現しているからに他ならない。
 B図の「牛」は、海の上の船中に居る「明石上」を、「光源氏」に替わって、見送っているのである。そして、C図の「牛」は、「牛車」に乗っている「光源氏」が、左端の「牛車」に居る「空蝉」に再会したい、その「心境」を察して、必死になって「関屋」に入ろうとする、それらの「牛」の表情・仕草が、二十五歳の「醍醐寺三宝院門跡・覚定」をして、「結構成事也」と言わしめた最大の原因ということになる。
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醍醐寺などでの宗達(その五・「醍醐寺の舞楽図屏風―採桑老」) [宗達と光広]

その五 醍醐寺の「舞楽図屏風―採桑老」周辺

舞樂図屏風.jpg

「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲一双屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院
https://www.daigoji.or.jp/about/cultural_asset.html

 この「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)」周辺については、前々回(その四)、前回(その五)に次いで、今回が三回目となる。これは、狩野永岳の、次の「採桑老」に接したからに他ならない。

採桑老・詠岳.jpg

D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」(部分図) 六曲一双(左隻一~二扇)
各157.4×363.0 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0097236

舞樂図右隻.jpg

B図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印、一扇の中央「採桑老」)

輪王寺右隻.jpg

C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

採桑老・狩野派.jpg

A図「舞楽図・採桑老」板絵著色 170.0×88.0(cm) 醍醐寺三宝院蔵
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

狩野永岳(1790-1867)は、 俵屋宗達や狩野探幽を江戸初期の画人、尾形光琳を江戸中期の画人とすると、江戸後期の画人ということになる。一口で評すると「京狩野家九代。桃山風の画風を基本に円山四条派や文人画、復古大和絵など様々な画風を取り入れ、低迷する京狩野家を再興した」(ウィキペディア(Wikipedia)』)ということになる。
 この永岳が、安政二年(一八八五)に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建された、現在の京都御所の、その「御常御殿上段の間」の「堯任賢図治図」「桐竹鳳凰図」(襖絵)を描いている。この「上段の間」を担当するのは、その当時の絵師の中で最右翼の絵師であるということを意味する。その「桐竹鳳凰図」は、下記のとおりである。

桐竹鳳凰図 狩野永岳筆.jpg

「桐竹鳳凰図 狩野永岳筆」(京都御所「御常御殿上段の間の襖絵」)
http://kyouno.com/turezure/20070126_goshosyouhekiga.htm
【鳳凰は、古来中国で想像上の瑞鳥とされ、桐の樹に宿り、竹の実を食し、徳高き天子の兆しとして現れると伝えられていました。この鳳凰図は、御常御殿上段の間正面に描かれたもので、天子を象徴する意味でも極めて重要な4面です。】

 この狩野永岳の描いたD図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」は、紛れもなく、宗達のB図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」の「採桑老」をアレンジしている。

永岳・羅陵王.jpg

D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「羅陵王」(部分図) 六曲一双(右隻一~三扇)
各157.4×363.0 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0097236

 ここに描かれている「握舎」(幔幕)と「大太鼓と大鉦鼓」、そして、殊に、この「松と桜」は、宗達の「崑崙八仙」の上部に描かれた「松と桜」とを拡大して描いている。そして、宗達の「舞樂図屏風」の最もユニークな「崑崙八仙」の「青装束」の「青」は、D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」の上部に流れている「流水」の「青」と化している。
 さらに、その永岳の「青」は、現在の京都御所のシンボルともされる「「桐竹鳳凰図」の「流水」と「鳳凰の翼」に活かされている。
タグ:障壁画
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醍醐寺などでの宗達(その四・「醍醐寺の障壁画・装飾画」) [宗達と光広]

その四 醍醐寺の障壁画・装飾画(「舞樂図屏風〈俵屋宗達筆〉」)周辺

https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

醍醐寺関係絵師.jpg

 障壁画を「装飾のために障子・襖・屛風・衝立 ・土壁などに描かれた絵画の総称」(旺文社日本史事典 三訂版)と解するならば、宗達の二曲一双の「「舞樂図屏風」は、「障壁画」ということになる。
そして、その「障壁画」の中で、特に、「近世の装飾性に富む絵画。俵屋宗達・尾形光琳らが始め,酒井抱一 (ほういつ) が継承した」(旺文社日本史事典 三訂版)とすると、宗達の「舞樂図屏風」は「装飾画」ということになる。
 しかし、ここでは、「障壁画」を、「装飾画」(著色画)、「水墨画」そして「扇面画」との三区分をし、その三区分での「装飾画」程度の大雑把なものである。
 そして、「障壁画」というのは、平安時代の寝殿造に応じた「大和絵障壁画」、室町時代の書院造に応じた「漢画障壁画」そして安土・桃山時代の」城郭建築に応じての「金碧障壁画(濃絵 (だみえ)」と区分されるのが常で、この建物の一部として使用されているものは、これまた、大雑把に「障壁画」として置きたい。
 このようなことを前提として、醍醐寺座主・三宝院門跡が住む「三宝院」の現在の障壁画は、下記のとおり、七十二面があり、それらは「長谷川等伯一派と石田幽汀」の作とされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E9%99%A2

【三宝院障壁画 72面 - 長谷川等伯一派と石田幽汀の作

表書院障壁画 40面
紙本著色松柳図 床貼付3(上段の間)
紙本著色柳草花図 違棚壁貼付6、襖貼付4、戸襖貼付6(上段の間)
紙本著色果子図 違棚天袋貼付2(上段の間)
紙本著色四季山水図 襖貼付8、戸襖貼付11(中段の間)
勅使間秋草間障壁画 32面
紙本著色竹林花鳥図 襖貼付4、戸襖貼付4(勅使の間)
紙本著色秋草図 障子腰貼付6(勅使の間)
紙本著色秋草図 襖貼付8、戸襖貼付6、障子腰貼付4(秋草の間)】

 ここで、冒頭に示した「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」には、「石田幽汀(1721-1786)」の名は出て来るが、「長谷川等伯一派」の名は出て来ない。
 これは、冒頭関連図上の絵師達は、上記の障壁画以外の、座主が日常生活を営んでいる「三宝院奥宸殿および奥居間」に関係する絵師達のもので、「長らく建物から外され、別に保管されていた」の新出の障壁画関連の、「狩野素川信正(1607-1658)・狩野寿石敦信(1639頃-1718)・山本探川(1721-1780)・石田幽汀(1721-1786)」などの「狩野派」の絵師たちが中心になっているからに他ならない。
 しかし、この「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」が紹介されている、下記のアドレスの「新出の杉戸絵― 山本探川・山口素岳を中心にして ―(田中直子稿)」は、醍醐寺の全体の障壁画を知る上で必須の貴重なデータが満載されている。

https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

 この「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」で、「宗達・光琳」関連と深い関係にあると思われる「醍醐寺座主(三宝院門跡)」は、次の三人ということになろう。

醍醐寺座主(三宝院門跡)八十世・義演(1558-1626)→醍醐寺中興。醍醐寺座主八十世。関白三条晴良の子。金剛輪院を再興し、三宝院と称す。大伝法院座主。東寺長者。豊臣秀吉の帰依を受ける。後七日御修法を復興。
(醍醐の花見-豊臣秀吉と義演准后-)
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html

同八十一世・覚定(1607-1661)→鷹司信房の子。
(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)
☆「覚定」の母(岳星院)と「狩野探幽」の母(養秀院)は姉妹で、「覚定と探幽」とは従弟の関係にある。また、「覚定」の姉(孝子)は三代将軍「徳川家光」の正室である。

同八十二世・高賢(1639-1707)→鷹司教平の子。大峰山入峰。『鳳閣寺縁起』を著す。宝池院大僧正。
(「京狩野の飛躍と光琳・乾山の登場」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p93~)
☆「高賢」の妹(信子)は五代将軍「徳川綱吉」の正室である。

 この三人のうちの「八十世・義演(1558-1626)」の時代は「豊太閤醍醐の花見」に象徴される「豊臣家」の時代で、この時代には「豊臣家」に関係の深い「長谷川等伯一派」の障壁画が、「狩野派」と共に、その双璧を担っていたように思われる。
 そして、次の「八十一世・覚定(1607-1661)」の時代になると、「徳川家康・秀忠・家光」の時代で「狩野派(「狩野素川系」「鶴沢深山系」「山本素軒系」)と共に、「俵屋宗達」派が登場して来る。
 その次の「八十二世・高賢(1639-1707)」の時代が、「尾形光琳」そして、次の「石田幽汀」の時代で、その「石田幽汀」を師の一人とする「円山応挙」らの「円山四条派」が「京都画壇」の主流を占めて行くことを示唆している。

採桑老・狩野派.jpg

A図「舞楽図・採桑老」板絵著色 170.0×88.0(cm)江戸時代 18-19世紀
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html
【本図は通常、三宝院の表書院と、座主の宸殿の境界に置かれている。松と舞楽「採桑老」の図であり、金泥を使い濃彩で描かれた松の構図と舞人の長く引く下襲(裾)のすその曲線が特徴的である。人物は太くおおらかな墨線で描かれ、堀塗りで仕上げられている。】

舞樂図右隻.jpg

B図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印)

輪王寺右隻.jpg

C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

 これらの三枚(A図・B図・C図)の「採桑老」のうち、B図(俵屋宗達筆)は、元和八年(一六二二)の「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃成る?)から寛永七年(一六三〇)の「宗達法橋の位にある」(「西行物語絵巻奥書」)当時の制作であることは、ほぼ許容されることであろう。
そして、C図(「輪王寺・舞樂図屏風右隻」)は、宗達がB図を制作した頃の「後水尾天皇(後水尾院)」の第六皇子「守澄法親王(1634-1680)」= 初代輪王寺宮門跡・179代天台座主」が、「初代輪王寺宮門跡」となった明暦元年(一六五五)の頃と解することも、これまた、許容されることであろう。
とすると、現在の「三宝院の表書院と、座主の宸殿の境界に置かれている」、その板戸に描かれている「採桑老」(A図)は、「狩野素川信正(1607-1658)」か「狩野寿石敦信(1639頃-1718)」の、どちらかの作と推定し、そこから、「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(C図)は、「狩野素川信正(1607-1658)・狩野寿石敦信(1639頃-1718)」に連なる「狩野派」の絵師達の手に因るもの解することも、これまた許容されるという思いがしてくる。
 として、改めて、これらの三枚(A図・B図・C図)の「採桑老」を見て行くと、例えば、その「下襲(裾)のすその曲線」は三者三葉で、それぞれ、「一枚の板戸」(A図)、「二曲一隻の屏風」(B図)、そして「六曲一隻の屏風」(C図)という、その空間に、どのように配置するかという、その描き手の「構図上の配慮」ということが伝わってくる。
 と同時に、この「採桑老」は、「白装束」の「白」色を基調にして描くということは、これは「採桑老」を描く場合の鉄則のようなものも伝わってくる。
それに対して、下記の宗達が描く「崑崙八仙」の「青装束」というのは、これは、まさに、「宗達」その人の独壇場という思いがしてくる。
例えば、A図「舞楽図・採桑老」、C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」そして、宗達自身のB図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」の、それぞれ装束の色からして、この宗達が描く「崑崙八仙」の、この「青装束」というのは、これこそ、まさに、宗達が法橋になってからの印章の「対青」「対青軒」の、その「青」の由来なのではないかという思いが彷彿としてくる。
 「採桑老」の「白」が「老・死」というイメージならば、「崑崙八仙」の、この「青」は「青・生」の、輪廻的な「再生」というイメージと重なってくる。
舞楽にも『源氏物語』(第七帖 紅葉賀)の、「源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける」の、「青海波」がある。この場面での光源氏は、十八歳から十九歳時の頃である。
もし、宗達の「対青」「対青軒」の「青」が「青海波」の「青」などに由来があると仮定すると、法橋宗達は、法橋叙任に伴い、この「舞樂図屏風」の、この「青」の「崑崙八仙」などに、新しい「宮廷絵師」として再スタートの決意を込めているという推論と結びついてくることになる。

崑崙八仙部分図.jpg

「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)左隻の「崑崙八仙」(部分拡大図)

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醍醐寺などでの宗達(その三・「醍醐寺の装飾画」) [宗達と光広]

その三 「舞樂図屏風〈俵屋宗達筆〉」周辺

舞樂図屏風.jpg

「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲一双屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院
https://www.daigoji.or.jp/about/cultural_asset.html

 下記のアドレスの「宗達筆『舞楽図屏風』の制作背景(本田光子稿)」を足掛かりにして、その周辺を見ていきたい。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~artist/gakkai2008/presentation/presentation12.pdf

【 宗達筆「舞楽図屏風」(醍醐寺蔵)の先行研究は、辻惟雄氏による舞楽図の包括的な系譜研究のほか構図の分析等が進められ、しばしば同時代の舞楽図屏風との造形上の比較を通して、宗達の独自性や伝統に対する自由な態度について言及されてきた。近年、五十嵐公一氏の紹介により同寺に伝来した「源氏物語関屋及澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)が醍醐寺座主覚定(1607-61)の注文による寛永 8 年(1631)の完成であることがほぼ確定し、醍醐寺と宗達の密接なつながりが立証されたことで、改めて宗達作品をめぐる人的ネットワークが注目されるようになった。
本発表では、これまであまり論じられてこなかった宗達筆本舞楽図屏風の制作背景について、近世初頭の醍醐寺における伝統儀式の再興という面から、特に覚定の師である前座主義演(1558-1626)とのつながりを検討する。
 近世初頭は京と江戸及び日光を軸に、朝廷と幕府を中心とした大規模な舞楽復興の動きがあり、このことは主に狩野家により多数描かれた舞楽図屏風の制作背景としても重要である。さらに醍醐寺においては中興の祖、義演が伽藍の再建や聖教・寺伝類の整理編集に加えて伝統儀式の復活に取り組んだことが注目される。
 そこで『桜会類聚』、『義演准后日記』の記述を見ると、義演が桜会という童舞を伴い桜花爛漫の季節に行われる中世以来の伝統的な法会を再興させようとしていたことが判明する。つまり同時代の王朝文化復興の機運の中でも、醍醐寺と舞楽の間には固有のつながりが見出され、宗達筆本の注文の背景として考慮され得るだろう。
 ただし法橋の落款や作品の様式からは義演没年(寛永 3 年〈1626〉)より遡る制作とは考えにくく、実際の制作と復興運動との関係については踏み込んだ検討が必要となる。その点について考証すると、『桜会類聚』はもと義演が憧憬を寄せた醍醐寺座主満済(1378-1435)が桜会の復興を期して書写させたものを、後世に義演が類聚したものである。義演は「満済像」(醍醐寺蔵)に裏書を記しているが、満済像の姿を踏襲した「義演像」(同)の裏書には、無量寿院の門跡堯円が、義演の没した翌年に後継の覚定が同像の開眼供養を行った旨を記している。無量寿院には、宗達筆「芦鴨図衝立」(同)が壁貼付として伝承したとされる。 
 ここに満済、義演、堯円と覚定という人物の縦のつながりが見出せ、よって義演の没後に周辺の人物がその意思を継承し、追慕の意を込め描かせたとする解釈が可能となる。
 以上のことから、宗達筆本成立の背景には醍醐寺における義演の古儀復興が一因としてあり、具体的な注文主としては次世代の覚定、堯円の蓋然性が高いと思われる。松に寄り添う影のように描かれた桜樹に桜と縁の深い醍醐寺の象徴をみるとともに、さらに造形を通して舞楽図の系譜における本作品の位置付けや、宗達作品の特質を再考する一歩としたい。】

舞樂図右隻.jpg

「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印)

「右隻右扇」→「採桑老(さいそうろう・さいしょうろう)」=雅楽。唐楽。盤渉(ばんしき)調で古楽の中曲。舞は一人舞で、老翁の面をつけ、鳩杖(はとづえ)をついて、歩行も耐えがたい姿で舞う。
「右隻左扇」→「納曾利(なそり)」=雅楽。高麗楽(こまがく)。高麗壱越(こまいちこつ)調の小曲。舞は二人の走り舞で、一人で舞うときは落蹲(らくそん)という。番舞(つがいまい)は蘭陵王(らんりょうおう)。双竜舞(そうりゅうのまい)。

舞樂図左隻.jpg

「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)左隻(左下に「法橋宗達」の落款)

「左隻右扇」→(上)=「還城楽」(げんじょうらく)=雅楽の舞曲。唐楽。太食(たいしき)調で、古楽。舞は一人による走舞(はしりまい)。怪奇な面をつけ、桴(ばち)を持ち、作り物の蛇を捕らえて勇壮に舞う。一説に、西域の人が好物の蛇を見つけて喜ぶさまを写したものという。番舞(つがいまい)は抜頭(ばとう)など。見蛇(げんじゃ)楽。還京楽。
→(下)=「蘭陵王」(らんりょうおう)=雅楽。唐楽。壱越(いちこつ)調で古楽の中曲。林邑(りんゆう)楽の一。舞は一人舞の走り舞。中国、北斉の蘭陵王が周軍を破る姿を写したものとされる。番舞(つがいまい)は納曽利(なそり)。羅陵王(らりょうおう)。陵王。
「左隻左扇」→「崑崙八仙」(こんろんはっせん)=《崑崙(こんろん)山の八仙人の意》=雅楽。高麗楽(こまがく)。高麗壱越(いちこつ)調の小曲。舞は四人舞で、鶴が舞い遊ぶ姿を表す。崑崙八仙。ころはせ。くろはせ。鶴舞。

奉納舞.jpg

醍醐寺の「桜会中日恵印法要」(「羅陵王」?)
https://www.daigoji.or.jp/events/events_detail2.html

 慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉は、その六十三年の生涯を閉じる。その最期の年に敢行した「醍醐の花見」は、今に続く、「豊太閤花見行列」(四月第二日曜日・全山)として醍醐寺の年中行事の一つとなっている。
 この年、光悦、四十一歳、宗達、三十一歳、素庵、二十八歳、そして、光広が二十歳の頃で、「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館)』所収)では、「八月、細川幽斎に師事す。この年より『耳底記』の記事始まり同七年まで続く」とある。
 この「醍醐の花見」の所管で且つその総指揮を秀吉より命ぜられたのは、当時の京都所司代の「前田玄以」で、前田利家(二代利長、三代利常等)や古田織部と親交のあった光悦や、当時の後陽成天皇の側近中の側近であった光広(天皇と同年齢)は、直接か間接かを問わず、この秀吉の最期を飾る一世一代のイベントと全くの無関係ということは有り得ないことであったろう。
 そして、この前田玄以は、当時の御所に隣接していた、宗達の本家筋とされる蓮池家の菩提寺である日蓮宗「頂妙寺」の扁額(豊臣秀吉による宗門布教の許状の扁額=前田玄以署名)に、その名が刻まれているということに関連させると、これまた、全くの無関係ということではなかったことであろう。
 その醍醐寺の「醍醐の花見」は、その一環として「桜会中日恵印法要」(金堂)があり、その法要には、宮廷などに伝わる「舞樂」(雅楽を伴奏として演じる舞踊)が演じられる。宗達の描いた「舞樂図屏風」は、この「桜会(さくらえ)」に関連するものをモチーフにしているが、その醍醐寺の「桜会中日恵印法要」の「舞樂図」の、その「採桑老(さいそうろう)」「納曾利(なそり)」「還城楽(げんじょうらく)」「羅陵王(らりょうおう)」「崑崙八仙(こんろんはっせん)」を直接的に描いたものではない。
 これらは、別々に演じられるもので、宗達のこの「舞樂図」は、右から「採桑老(さいそうろう)」(一人舞)、「納曾利(なそり)」(二人舞)、「還城楽」(げんじょうらく)と羅陵王(らりょうおう)」(番舞=セットでの上演)、そして「「崑崙八仙(こんろんはっせん)」(四人舞)
を、同一画面に、あたかも競演しているかのように描いている。
 この「舞楽図」の典拠になっているものとして、日光・輪王寺所蔵の金地著色「舞樂図屏風」(六曲一双)などが挙げられ、それを宗達風にアレンジして仕上げている。その輪王寺本は、宗達の醍醐寺本よりも後に狩野派の絵師たちによって描かれたもののようであるが、その輪王寺本と同種の「舞楽図」の粉本などをモデルにして制作していることは、下記の輪王寺本の、それにの形姿を見比べて行くと明らかになってくる。

https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/406/52/N000/000/105/154191512425323911179_Panf_2.jpg

輪王寺右隻.jpg

「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

 まず、宗達は、この輪王寺本(右隻)の「一扇・二扇」下段の「握舎」(幔幕)と「大太鼓と大鉦鼓」を、右隻の「一扇」の下段に描く。そして、その「大太鼓」の左側に、輪王寺本の「四扇」下段の白装束をまとった「採桑老」を、ほとんどそのままに描いている。そして、「二扇」の「納曽利」(二人舞)は、下記の「輪王寺・舞樂図屏風左隻」の「五扇・六扇」下段の緑の装束をまとった「納曽利」(二人舞)を、上と下とにバランスよく配置して描いている。

https://www.rinnoji.or.jp/activity/926-2/

輪王寺左隻.jpg

「輪王寺・舞樂図屏風左隻」(「一扇」下段=「還城楽」、「四扇」下段=「崑崙八仙」、「五扇」中段=「蘭陵王」、「五扇」下段と「六扇」下段=「納曾利」)

 次に、宗達は、左隻の「一扇」に、輪王寺本の「五扇」中段の「蘭陵王」と「一扇」下段=「還城楽」とを、「番舞」(二曲をセットにしての舞)にして描く。上に「還城楽」、下に「蘭陵王」である。その「還城楽」も「蘭陵王」も、お揃いのような赤装束を靡かせている。
 そして、その「二扇」に、輪王寺本の「四扇」下段の白装束の「崑崙八仙」を何と青い装束に着せ替えて輪舞しているように描いている。この「崑崙八仙」の実際の装束は、下記のアドレスの「崑崙八仙」のように、輪王寺本の「白装束」で演じられるのを、右隻「一扇」の「採桑老」の「白装束」を回避するように、ここでは「青装束」に改変して描いているということになる。

崑崙八仙.jpg

「崑崙八仙」(実際の装束)
http://kaz3275.sitemix.jp/gagaku/komagaku/kichi/kichi07.htm

 ここで、宗達は、この「醍醐寺」(「醍醐寺三宝院門跡」の依頼による制作)の、この「舞樂図屏風」(「二曲一双屏風」の四面に描かれた「舞樂図」)に、何をイメージ(心象風景=心に思い描いているイメージ)しているのかの、その一端について、思いつくままに記して置きたい。
その前提として、「光悦・宗達・素庵・光広」等の世界は、当時の「能・謡曲」との関連が一つのキイワードになるということで、ここでは、「舞樂図」の「採桑老・抜頭」の用語が出てくる、初番目物(脇能)の「難波」(世阿弥作)の、その詞章などを基本に据えたい。

http://www.syuneikai.net/naniwa.htm

http://www5.plala.or.jp/obara123/u1021nan.htm

(全体の主題=「難波」の最終場面の地謡=「万歳楽」=左舞で舞人は四人、まれには六人で襲装束を着けて舞う。祝賀の宴に用いられた。右舞の延喜楽と共に平舞の代表的なものである。)

【「入り日を招き返す手に。入り日を招き返す手に。今の太鼓は波なれば。寄りては打ち、返りては打つ。この音楽に引かれて。聖人御代にまた出で。天下を守り治むる。天下を守り治むる。万歳楽ぞめでたき。万歳楽ぞめでたき。」】

(右隻=右舞=朝鮮半島系の高麗楽を源流とする右方の舞=「豊太閤の醍醐の花見」)

【《前半の「ワキ=臣下」と「前シテ=老翁」→「「納曾利」》
ワキ「げにげに難波の梅の事。名木やらんと尋ねしは。愚かなりける問い事かな。
   然れば歌にも難波津に。咲くやこの花冬籠り。
   今は春べと咲くやこの。花の春冬かけてよめる」
   歌の心はいかなるぞ
シテ「それこそ君をそへ歌の。心詞は顕はれたれ。難波の御子は皇子ながら。
   未だ位につき給はねば。冬咲く梅の花の如し」
ワキ「御即位ありて難波の君の・位に備はり給いし時は
シテ「今こそ時の花の如し」
ワキ「天下の春を知ろし召せば
シテ「今は春べと咲くやこの
ワキ「花も盛りは大さざきの
シテ「帝を花にそえ歌の
ワキ「風も治まり
シテワキ「立つ波も
地謡「難波津に咲くやこの花冬ごもり。咲くやこの花冬ごもり。
今は春べに匂い来て。吹けども梅の風。枝を鳴らさぬ御代とかや。
げにや津の国の。難波の事に至るまで。豊かなる代の例こそ。
げに道広き治めなれげに道広き治めなれ            】

(左隻=左舞=中国の唐楽を源流とする左の舞=「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」)

【《後半=中入後の「後シテ=王仁」と「地(ロンギ)=問答形式の地謡」→「還城楽」と「蘭陵王」そして「崑崙八仙」》

地(ロンギ)「あら面白の音楽や。時の調子にかたどりて。春鶯囀の楽をば
後シテ   「春風と諸共に。花を散らしてどうと打つ
地(ロンギ) 「秋風楽はいかにや
後シテ   「秋の風諸共に。波を響かしどうど打つ
地(ロンギ) 「万歳楽は
後シテ   「よろづうつ
地(ロンギ) 「青海波とは青海の
後シテ   「波立てうつは。採桑老
地(ロンギ) 「抜頭の曲は
後シテ   「かへり打つ
地謡    「入日を招き返す手に。入日を招き返す手に。今の太鼓は波なれば。
       よりてはうち、かへりてはうち。此の音楽に引かれつつ。
聖人御代にまた出で。天下を守り治むる。天下を守り治むる。
万歳楽ぞめでたき。万歳楽ぞめき。 】

(補足説明)

一 右隻(二曲)・右扇の右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印が捺されている。そして、左隻(二曲)・左扇の左下には「法橋宗達」の落款が、両面の対角に配置されている。同様に、右隻右下に「大太鼓と握舎」が描かれ、そして、左隻左上には「常緑の『松』と満開の『桜』」とが、これまた、対角に配置されている。この右隻の「「大太鼓と握舎」とは、「室内」(「醍醐寺」の「室内」)を暗示し、左隻の「常緑の『松』と満開の『桜』」は「室外」(「醍醐寺」の室外)を暗示している。

二 この「二曲一双」の「右隻」と「左隻」とは、丁度、「舞樂」の「右舞」(高麗楽系の舞=原則として緑の装束)と「左舞」(唐樂系の舞=原則として赤の装束)との区別のように、「右隻」の世界と「左隻」の世界とは別の世界を示唆していて、それが「二曲一双」と合体すると、「番舞」(セットの舞)のように、連なった世界をも示唆している。これを「能樂」(能と謡曲)の世界ですると、例えば、「難波」(世阿弥作)ですると「前半」(「中入」の前)と「後半」(「中入」の後)の場面(世界)ということになる。

三 この「二曲一双」の「右隻」(前半)は、その「前半の一」(右扇)は「採桑老」(唐樂系)で「前半の二」(左扇)は「納曾利」(高麗楽景)で、全体の世界は「豊太閤の醍醐の花見」の場面と解したい。そして、この「採桑老」の形姿は、醍醐の花見時の「豊太閤秀吉」をイメージしてのものと解したい。これに続く「納曾利」(二人舞)は、「豊太閤秀吉」とその一粒種の「秀頼」とのイメージで、この「納曾利」は別名「落蹲(らくそん)」で「蹲(うずくま)」方の「納曾利」は「秀吉」のイメージである。この「納曾利」の二人舞の場面は、能楽「難波」ですると、次の詞章の場面である。

シテ「それこそ君をそへ歌の。心詞は顕はれたれ。難波の御子は皇子ながら。
   未だ位につき給はねば。冬咲く梅の花の如し」
ワキ「御即位ありて難波の君の・位に備はり給いし時は
シテ「今こそ時の花の如し」

四 続いて、「二曲一双」の「左隻」(後半)に入り、その右扇(後半の一)は「還城楽」(唐樂系)と「羅陵王」(唐樂系)の「番舞」で、さらに、この「羅陵王」は「右隻」(前半の二)の「納曾利」と「番舞」として上演されるのが常である。「還城楽」も「羅陵王」も赤装束で、どちらも勇壮華麗な「走舞」で、緑装束の「右隻」の「走舞」の「納曾利」と著しい対称を為す。この「納曾利」から「「還城楽」と「羅陵王」への転換は、当時の「関ヶ原合戦」(慶長五年=一六〇〇)、「徳川家康征夷大将軍叙任」(慶長八年=一六〇三)、「大阪夏の陣」(慶長十九年=一六一四)、そして「大阪夏の陣」(慶長二十年・元和元年=一六一五)による「豊臣家滅亡」を示唆しているように思えてくる。この場面は、能楽の「難波」では、次の詞章の場面ということになる。

地(ロンギ)「あら面白の音楽や。時の調子にかたどりて。春鶯囀の楽をば
後シテ   「春風と諸共に。花を散らしてどうと打つ
地(ロンギ) 「秋風楽はいかにや
後シテ   「秋の風諸共に。波を響かしどうど打つ

五 これに続いて、「左隻」の「左扇」(後半の二)は「崑崙八仙」(高麗樂系)の「鶴の舞」である。この「鶴の舞」の「崑崙八仙」は、本来は「鶴」を象徴する「白装束」であるが、ここを「白装束」にすると、「右隻」の「右扇」の「豊太閤」を形姿している「白装束」の「採桑老」のイメージと重なり、「豊臣家」の「万歳楽」の「崑崙八仙」のイメージを避けて、「白(装束)」でもなく、「緑(装束)」でも「赤(装束)」でもなく、何と「青(装束)」の「崑崙八仙」(鶴の舞)を、宗達は描いている。即ち、宗達は、「豊太閤の醍醐の花見」の後の、それに続く、「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」の、この「青装束」の「崑崙八仙」(鶴の舞)に託したものと解したい。
 そして、それを示唆するのが、左隻の「左扇」の上部の「常緑の『松』と満開の『桜』」
で、「桜(豊臣家)は散り、「松」(徳川家)は常緑を保つ」ということになる。そして、それは、能楽の「難波」では、次の詞章の場面ということになる。

地(ロンギ) 「万歳楽は
後シテ   「よろづうつ
地(ロンギ) 「青海波とは青海の
後シテ   「波立てうつは。採桑老
地(ロンギ) 「抜頭の曲は
後シテ   「かへり打つ
地謡    「入日を招き返す手に。入日を招き返す手に。今の太鼓は波なれば。
       よりてはうち、かへりてはうち。此の音楽に引かれつつ。
聖人御代にまた出で。天下を守り治むる。天下を守り治むる。
万歳楽ぞめでたき。万歳楽ぞめき。

(追記メモ:その一) 「採桑老」周辺

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E6%8E%A1%E6%A1%91%E8%80%81

『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』では、「採桑老」の詠詞「『三十情方盛、四十気力微、五十至衰老、六十行歩宜、七十懸杖立、八十座魏々、九十得重病、百歳死無疑』を主題とするとし、宗達の二曲一双「舞楽図屏風」について、次のように、左から右への、「時間の推移」を提示する。

① 青色の崑崙八仙の「少年期」
② 赤色の羅陵王と還城楽の「青年期」
③ 緑色の納曾利の「壮年期」
④ 白色の採桑老の「老年期」

 その上で、次のような見解を提示している。

【 装束の色彩は、①青色 ②赤色 ③緑色 ④白色、と変わる。舞人の動きと色彩の変化によって、人の一生の段階を表す。画面左隅に描かれた満開の桜と常盤の松の楼樹は無常を象徴し「生と死の輪廻」を暗示する。醍醐寺本『舞楽図屏風』の主題は、「老いの坂図」と同じで、いのちのはかなさ、無常を表したものだ。華やいだ舞楽のうちにも、「死」は忍び寄る。本図は、『田家早春図扇面』『犬図扇面』と同じ主題である。 】


(追記メモ:その二) 宗達の「署名・印章」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

【 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」(クリーヴランド美術館蔵) 
※「牡丹図」(東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(個人蔵)
※「兎」図(東京国立博物館蔵)
※「狗子」図)
※「鴨」図) 】
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醍醐寺などでの宗達(その二・「醍醐寺の扇面画」) [宗達と光広]

その二 醍醐寺の扇面画(「扇面散屏風(俵屋宗達筆)」)周辺

https://spice.eplus.jp/articles/209491

扇面散図屏風.jpg

「金地著色扇面散(図)屏風(伝宗達筆/二曲一双屏風)」(重要文化財)醍醐寺三宝院蔵 
各一五六・〇×一六八・〇㎝
【 二曲一双の屏風に十一枚の扇面を貼ったもの、主題は「保元物語」などの戦記文学や、風景、動物などの画が含まれている。「田家早春図」はとくにすぐれ、扇形の特殊な画面を巧みに活かし、重厚な色調をもっており、宗達扇面画の最高傑作とされている。 】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

(右隻の右三扇=上・中・下)

上 「鵜飼図扇面」(骨なし、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「鵜飼」(甲斐国石和)→地謡「面白の有樣や。底にも見ゆる篝火に。」→「鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十宇治川の夕闇の空」(慈円) 
中 「柴舟と僧侶・女人図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
  →※能「通盛」(阿波国鳴門)→地謡「そもそも此一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越。」→「我こひはほそ谷河のまろ木ばしふみかへされてぬるゝ袖かな」(平通盛) 
下 「重い柴を運ぶ牛と農夫図扇面」(骨なし、原典=「西行物語絵巻」「保元物語絵巻」)
→※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「あれを見よ野飼いの牛の、声々に。野飼いの牛の、声々に。」→「君がため蓬が島もよりぬべし生薬とる住吉の浦」(藤原家隆)

(右隻の左二扇=上・下)

上 「伊勢物語第五段関守図扇面」(骨あり、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※『伊勢物語五段』(ひんがしの五条)→「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」
下 「犬図扇面」(骨あり、原典=「六道人道不浄相図」「九想図絵巻」)
→※能「殺生石」(下野国那須野)→地謡「野干は犬に似たれば犬にて稽古。あるべしと
て百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の始めとかや。」→「白露に風の吹しく秋の野は
つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」(文屋朝康)

(左隻の右三扇=上・中・下)

上 「僧侶と輿図」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河宇津・富士)→「駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり」
中 「曳き舟図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」
→※「伊勢物語九段」(武蔵・隅田川)→「名にしおはゞいざこと問はむ都鳥わが思ふ人
はありやなしやと」
下 「伊勢物語第十一段東下り図扇面」(骨なし、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語十一段」(武蔵国入間)→「忘るなよほどは雲居になりぬるとも空ゆく月の
 めぐりあふまで」

(左隻の左三扇=上・中・下)

上 「田家早春図扇面」=(骨ありし、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「桜川」(常陸国桜川)→「常よりも春べになれば桜花波の花こそ間なく寄すらめ」

中 「伊勢物語第九段富士山図」(骨あり、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河・富士)→「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」

下 「重い荷車を曳き、河を渡る牛図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「いざや家路に帰らん。いざや家路に帰らん。」


 上記の各扇面図(十一図)の「ネーミング・原典」などは、『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』に因っている。そこでは、特に、「田歌早春図扇面」については、「桜の花が咲く春の野辺、長閑な田舎家の風景のうちに、人に生と死があることを示した『無常の絵画』なのだ(P42)とし、「犬図扇面」については、「苅り田や土坡や畦道、銀泥で縁取られた金雲を背景とし、おだやかな農村の日常生活のひとコマのなかに併存する『畜生道』を表現した」(P47)としている。
 これらのことに関しては、次のアドレスの「宗達画を検証する」に、その見解の全容の一端を知ることができる。

http://atelierrusses.jugem.jp/?eid=432

 しかし、ここでは、「宗達と能」(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p89)などに関連させて、その鑑賞の一端を進めたい。
 上記の「※印」(そして下段)のものが、その鑑賞の一端のメモで、以下、その説明(メモ)をしていきたい。その説明に入る前に、全体的な事項について触れたい。

一 「扇面散(ちらし)屏風」、「扇面貼付(はりつけ)屏風」そして「扇面貼交(はりまぜ)屏風」

 上記の「『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録」の説明の「二曲一双の屏風に十一枚の扇面を貼ったもの」とすると、「扇面貼付屏風」のネーミングの方が、よりイメージとしては「扇面散屏風」よりも鮮明な感じがする。
 要は、「屏風」に数枚の「扇面」(扇子画)を「散らし」たもので、それには「貼り付けた」ものと「描いた」ものと、それらが「混在しもの」と、色々な種類があるということ、さらに、それらが、「未使用のもの」と「使用したもの」とか、あるいは、「同一人が描いたもの」か「複数人の描いたもの」なのかとか、その用例も分けて区分するのが妥当なのかも知れないが、ここでは、それらの使い分けはしていない。

二 屏風に「下絵の有る」ものと「下絵の無いもの」、また扇子に「骨の有る」ものと「骨が無いもの」、そして「屏風歌」など

 この醍醐寺の「扇面散屏風」は、「金地着色扇面散屏風」で、無地(下絵無し)の「金地屏風」に「扇面画」を貼付したものだが、「金地」ではなく「銀地」のものや、「無地」ではなく、「下絵」を施したものとか、いろいろな種類がある。
 また、その「扇面画」も「骨の有る」ものと「骨の無い」ものとか、「扇面画」ではなく、「色紙」や「短冊」(それらに「和歌」を書写する)を貼付したものとか、これまた、いろいろのものがあるが、これらのものの原初的なスタイルは、『古今集』『新古今集』の平安時代に盛行した「屏風歌」(「屏風に描かれている絵の主題に合わせてよまれた歌」など)に由来があるように思われる。
 この「屏風歌」については、下記のアドレスの「平安中期の屏風絵と屏風歌の関係 : 網代を例として(田島智子稿)」などが参考となる。

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/54507/shirin57_001.pdf

三 「扇面構図論」と「宗達屏風構図論」など

 「扇面構図論―宗達画構図研究への序論」そして「宗達屏風構図論」は、『琳派(水尾比呂志著・芸艸堂)』に収載されている。その論稿の骨子は、「扇面画といふ特殊な画面形式の構図法の基本的な原則とその形成事由」を考察し、「扇面画と密接な関係にある宗達の構図法を究明する」ということを眼目にしている。
 そこで、扇面画の構図上の特性として次の三点を挙げている。

放射性=画面の外の扇の要を中心としてモチーフを放射状に配置する
彎曲性=扇面の弧に沿ってモチーフを彎曲させて配置する
進行性=右から左への時間的進行動きを伝えるようにモチーフを配置する

 これらのことについては、下記のアドレスの「扇面画の空間表現の歪みについて(面出和子稿)」などが参考となる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsgs1967/40/Supplement1/40_Supplement1_139/_pdf/-char/ja

 この扇面画の特性の一つの「進行性」というのは、「巻物」(右から左へと進行する)、そして「屏風」(右から左へと進行する)の特性とも一致している。そして、それは、「連歌・俳諧」を書きつける「懐紙」の折りとも一致してくる。この「連歌・俳諧・式目・懐紙」などは、下記のアドレスの「古典への招待(連歌・俳諧・連句)」などが参考となる。 

https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_61.html

 ここで、上記のことなどを前提として、この醍醐寺の扇面画(「扇面散屏風(俵屋宗達筆)」)の余興的な「絵解き」(絵から「歌・俳諧」などを連想する)を試みたい。


四 (右隻の「右三扇=上・中・下」と「左二扇=上・下」)=説明(メモ)

右隻.jpg

四の一 (右隻の右三扇=上・中・下)=説明(メモ)

上 「鵜飼図扇面」(骨なし、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「鵜飼」(甲斐国石和)→地謡「面白の有樣や。底にも見ゆる篝火に。」→「鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十宇治川の夕闇の空」(慈円) →「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉( 芭蕉 )」
(メモ)謡曲「鵜飼」は、甲斐国の石和が舞台。その地謡に「面白の有樣や。底にも見ゆる篝火に。」、ここから芭蕉の「「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」の名句が誕生したのかも知れない。この扇面画は「骨無し」で「景気(景色)」の場面か(?)

中 「柴舟と僧侶・女人図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※能「通盛」(阿波国鳴門)→地謡「そもそも此一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越。」→「我こひはほそ谷河のまろ木ばしふみかへされてぬるゝ袖かな」(平通盛) →「一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の公達あわれ 暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛」(文部省「唱歌」)
(メモ)文部省「唱歌」は敦盛の「青葉の笛」だが、謡曲「通盛」の地謡は、「そもそも此一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越。」、この「通盛と小宰相」については、下記のアドレスが参考となる。「骨あり」で「人事(恋)の場面。

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E5%B0%8F%E5%AE%B0%E7%9B%B8

下 「重い柴を運ぶ牛と農夫図扇面」(骨なし、原典=「西行物語絵巻」「保元物語絵巻」)
→※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「あれを見よ野飼いの牛の、声々に。野飼いの牛の、声々に。」→「君がため蓬が島もよりぬべし生薬とる住吉の浦」(藤原家隆)
(メモ)「牛と農夫図」は、「西行物語絵巻」にほんの少し出て来るが、そこから西行関連の和歌はなかなか思い浮かばない。ここは、異色の謡曲「唐船」の地謡「あれを見よ野飼いの牛の、声々に。野飼いの牛の、声々に。」、その関連での藤原家隆の歌が、「私撰・私歌集歌と謡曲(松田存稿)」で紹介されていた。この「扇面画」は「骨無し」で「景気(景色)」の場面。

四の二 (右隻の左二扇=上・下) =説明(メモ)

上 「伊勢物語第五段関守図扇面」(骨あり、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
 →※『伊勢物語五段』(ひんがしの五条)→「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」
(メモ)「伊勢物語」と「能(謡曲)」との関連は、次のアドレスなどが参考となる。「骨有り」で「人事(恋)の場面。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/56/7/56_KJ00009652523/_pdf/-char/ja

下 「犬図扇面」(骨あり、原典=「六道人道不浄相図」「九想図絵巻」)
→※能「殺生石」(下野国那須野)→地謡「野干は犬に似たれば犬にて稽古。あるべしとて百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の始めとかや。」
(メモ)この扇面画は難解である。『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』では、「女性の死体が朽ち果て白骨になる経過がリアルに描かれている。『犬図』は女の死肉を食らう野犬がもとになっている」(P45)と、「晴れ」の「金屏風」の「犬図」にしては何とも凄まじい。せめて、謡曲「殺生石」地謡の「犬追物」の「犬」図か。本来、「骨有り」(上図)だが、下の扇面画は「骨無し」で、「景気(景色)」の場面に「見立て」替えしている。

犬図.jpg

五 (左隻の「右三扇=上・中・下」と「左二扇=上・下」)=説明(メモ)

左隻.jpg

五の一 (左隻の右三扇=上・中・下) =説明(メモ)

上 「僧侶と輿図」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河宇津)→「駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり」
(メモ) 『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』の出典は「保元物語絵巻」だが、宗達に続く「光琳・抱一」らが好んで画題とした「宇津の山越え」(「伊勢物語九段」)でも可か。骨有りで「人事(恋)の場面。

中 「曳き舟図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」
→※「伊勢物語九段」(武蔵・隅田川)→「名にしおはゞいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
(メモ)ここも「曳き舟」と来ると、「伊勢物語九段」(武蔵・隅田川)が必須である。これもまた、骨有りで「人事(恋)」の場面が続く。

下 「伊勢物語第十一段東下り図扇面」(骨なし、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語十一段」(武蔵国入間)→「忘るなよほどは雲居になりぬるとも空ゆく月のめぐりあふまで」
(メモ) 「伊勢物語九段」(東下り)の場面の後の「伊勢物語第十一段」(空行く月)、「骨無し」の「景気(景色)」の場面で、「月」の定座の月が輝いている。


五の二 (左隻の左三扇=上・中・下) =説明(メモ)

上 「田家早春図扇面」=(骨あり、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「桜川」(常陸国桜川)→「常よりも春べになれば桜花波の花こそ間なく寄すらめ」

田家早春図.jpg

(メモ) 『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』では、「桜が咲き、鄙びた山里に、また春がめぐってくる。多くの人を魅了した名品。流水を描く柔らかな線描は、宗達の特徴だ。流水と桜は、無常の表象」(P30)と紹介されている。そして、『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』では謡曲「桜川」との関連を指摘している(P89)。
 謡曲「桜川」の舞台は、「常陸国桜川」、そのストーリーなどは、次のアドレスが参考となる。そこに出てくる紀貫之の「常よりも春べになれば桜花波の花こそ間なく寄すらめ」(「後撰和歌集」)は、「連歌・俳諧」の「桜花」(晩春)と「波の花」(晩冬)と、「季語」的な働きは、「春べになれば櫻花」の晩冬の「桜花」で、「波の花」は比喩的な用例として鑑賞することになる。
 それらに関連することなのかどうか、新日本古典文学大系六『後撰和歌集』巻三・春下(片桐洋一校注、岩波書店)では、「常よりも春べになればさくら河花の浪こそ間なく寄すらめ」の「花の浪」が採られている。
 因みに、芭蕉の二十五歳時の、寛文八年(一一六八)の句に、「浪の花と雪もや水に返り花」(「浪の花」=晩冬、「雪」=晩冬、「返り花」=初冬)と、これは、明らかに、謡曲「桜川」の「浪の花」に由来のある、若き日の芭蕉の問題提起的な実験句的な作と解したい。          
 この「田家早春図扇面」も、本来は「骨有り」だが、上記は「骨無し」の図で、これまた、問題提起的に、「景気(景色)」、そして、「花の定座」の場面ということになる。

http://sybrma.sakura.ne.jp/56youkyoku.sakuragawa.html

【シテ「桜花、散りにし風の名残(なごり)には、」
地謡「水なき空に、波ぞ立つ。」
 シテ「思ひも深き花の雪、」
地謡「散るは涙の、川やらん。」

地謡「常よりも、春べになれば桜川、春べになれば桜川、
波の花こそ間(ま)なく寄すらめ
と詠みたれば
花の雪も貫之も
古き名のみ
残る世の、
桜川、
瀬々(せぜ)の白波繁ければ、霞うながす、
信太(しだ)の浮島の浮かめ浮かめ水の花
げに面白き河瀬(かわせ)かな
げに面白き河瀬かな。」            】

中 「伊勢物語第九段富士山図」(骨なし、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河・富士)→「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」
(メモ)この『伊勢物語』の歌も「鹿の子」(三夏)と「雪」(晩冬)と、「連歌・俳諧」の「季の歌・季の句」としては、どちらを採るかは問題にされるのだが、この歌は「鹿の子模様の斑雪を頂いた富士の嶺」として、「斑雪」(三春)の歌として鑑賞されるのかも知れない。この歌を念頭においての芭蕉の「灌仏の日に生まれあふ鹿の子哉」(「笈の小文」)の句がある。この「鹿の子」は「灌仏の日」(仏生会、旧暦の四月八日、釈尊の誕生の日の法会)の日と特定している。「骨無し」の景気(景色)」の場面。

下 「重い荷車を曳き、河を渡る牛図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
  →※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「いざや家路に帰らん。いざや家路に帰らん。」
(メモ) 地謡の「いざや家路に帰らん。いざや家路に帰らん。」に着眼すると、ここは、蕪村の「花に暮れぬ我が住む京に帰去来(かへりらむ)」(『蕪村遺稿』)となるが、やはり、芭蕉
の「牛部屋に蚊の声よはし秋の風」(『星合集』)の発句と、それを発句とする俳諧(歌仙)の流れが収まりが良い。

 (表の六句)
牛部屋に蚊の声よはし秋の風(芭蕉) → 骨無し=景気、秋の風
 下桶(び)の上に葡萄重なる(露通) → 骨無し=景気、葡萄
酒しぼる雫ながらに月暮れて(史邦) → 骨無し=景気、月(引き上げ)
 扇四五本書きなぐりけり(丈草)  → 骨有り=人情、無
呉竹に置きなをしたる涼床(去来)  → 骨有り=人情、涼床
 蓮の巻葉の解けかゝる頃(野童)  → 骨無し=景気、蓮の巻葉(浮葉) 

(追記一) 宗達の「扇面貼付屏風」など   

①醍醐寺三宝院本 ― 扇面貼付屏風    二曲一双 十一面
②御物本     ― 扇面貼付屏風    八曲一双 四十八面
③フーリア美術館本― 扇面散らし貼付屏風 六曲一隻 三十面
④大倉集古館本  ― 扇面流し図屏風   六曲一双 四十面

(追記二)  宗達に関する「文献史料」など

①西行物語絵巻の烏丸光広筆奥書
②一条兼遐書状
③宗達自筆書状
④千少庵書状
➄『中院通村日記』
⑥仮名草子『竹斎』の一節
⑦菅原氏松田本阿弥家図

タグ:扇面画
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醍醐寺などでの宗達(その一・「醍醐寺の水墨画」) [宗達と光広]

その一・「醍醐寺の水墨画」(「芦鴨図〈俵屋宗達筆〉」など)周辺

 醍醐寺には、「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉」(重要文化財)がある。

芦鴨図一.jpg

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html

「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)」(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝ (醍醐寺蔵)
【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 「宗達周辺年表」(『宗達(村重寧著・三彩社)』所収))の「元和八年(一六二二)」の項に「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃か)/このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」とある。
 この時、本阿弥光悦(永禄元年=一五五八生れ)、六十五歳、俵屋宗達は生没年未詳だが、
光悦より十歳程度若いとすると(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)、五十五歳?の頃となる。
 当時、光悦は、元和元年(一六一五)に徳川家康より拝領した洛北鷹が峰の光悦町を営み、その一角の大虚庵(太虚庵とも)を主たる本拠地としている。一方の、宗達が何処に住んでいたかは、これまた全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 上記の年表の「このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」というのは、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)の一節を指している。
 そして、この「俵屋」は、その文章の前の所に出てくる、「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。 
 これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。
 この「五条の扇の俵屋」の主宰たる棟梁格の人物が、後に「法橋宗達(または「宗達法橋)」となる、即ち、上記の醍醐寺の「紙本墨画芦鴨図」を描いた人物なのかどうかは、全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 と同様に、この『竹斎』という仮名草子(平易なかな書きの娯楽小説)の作者は、「富山道冶」(「精選版 日本国語大辞典」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「デジタル大辞泉」「ブリタニカ国際大百科事典」)=「磯田道冶」(『宗達(村重寧著)』『宗達絵画の解釈学(林進著)』)の「富山」と「磯田」(同一人物?)と大変に紛らわしい。
 さらに、「作者は烏丸光広(1579‐1638)ともされたが,伊勢松坂生れ,江戸住みの医者磯田道冶(どうや)(1585‐1634)説が有力」(「世界大百科事典 第2版」「百科事典マイペディア」)と、宗達と関係の深い「烏丸光広」の名も登場する。
 そもそも『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』の、その「凡例」に「辨疑書目録に『烏丸光広公書作 竹斎二巻』とあつて以来作者光広説が伝えられてゐる」とし、校訂者(守髄憲治)自身は、光広説を全面的に否定はしてない記述になっている。
 そして、この烏丸光広は、「歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、「仮名草子」の代表作家の一人として遇せられている(「百科事典マイペディア」)。
当時(元和八年=一六二二)の光広は四十四歳で、御所に隣接した「中立売門」(御所西門)の烏丸殿を本拠地にしていたのであろう。下記の「寛永後萬治前洛中絵図」(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の左(西)上部の「中山殿」と「日野殿」の左側に図示されている。
 「烏山殿」は、その御所(禁中御位御所)の下部(南)の右の「院御所」の左に隣接した「二条殿」と「九条殿」(その下は「頂妙寺」)の間にもあるが、「中立売門」(御所西門)の「烏丸殿」が本拠地だったように思われる。

烏丸殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(A図:烏丸殿と頂妙寺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24215%2C13535%2C3305%2C6435&r=270

 烏丸光広が大納言に叙せられたのは、元和二年(一六一六)、三十八歳の時で、この年に、徳川家康(七十五歳)、その翌年に後陽成院(四十七歳)が没している。
 そして、宗達関連では、後水尾天皇の側近で歌人としても知られている「中院通村(なかのいんみちむら)」の日記(元和二年三月十三日の条)に、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)来候由也、則申附夜之事、御貝十令出絵書給(貝合わせの絵を描かせることを命じ)、本二被見下、一、俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉(その参考の絵として「鹿と紅葉の俵屋絵」を見せた) (省略)」と、後水尾天皇は「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を持っていて、これを参考にして「貝合わせの絵」を描くように、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)」に命じたということが記されている。
 この「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を描いた絵師は、「俵屋宗達」という有力資料の一つなのであるが、これとて、確証のあるものではない。

中院殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(B図:烏丸殿と中院殿)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=27010%2C13733%2C2006%2C3971&r=270

 この図(B図)の左(西)の一番下(南)の「中山殿」の下が「日野殿」(「烏丸家」の本家)で、この「中山殿」と「日野殿」の左側に隣接しているのが「烏丸殿」(家格=名家)である。そして、ここが元和二年(一六一六)当時の権大納言・烏丸光広の屋敷と理解したい。
 その上で、当時、二十八歳、その翌年に権中納言に叙せられる中院通村の「中院殿」(家格=大臣家)は、この図の右(東)の一番上(北)に「中院中納言殿」で図示されている。その下の「高松殿」は、後水尾天皇(後陽成天皇の第三皇子)の弟に当る「高松宮(有栖川宮)好仁親王」(後陽成天皇の第三皇子)の屋敷かも知れない。
 因みに、この図(B図)の左(北)上(北)部の「一条殿」は「一条昭良」(後陽成天皇の第九皇子・一条家十四代当主)、この「新院御所(後水尾院?)」の上部(北)に図示されている(このB図の上=北側に図示されている)「近衛殿」が、「近衛信尋」(後陽成天皇の第四皇子・近衞信尹の養子となり、近衞家十九代当主)の屋敷関連と解すると、当時の「後水尾天皇」(後陽成天皇の第三皇子。母は関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子)の、その文化サロン圏内の一端が、この「A図」と「B図」とで明瞭となって来る。
 下記のアドレスの、「中院通村年譜稿―中年期元和三年~八年―」(日下幸男稿)に、その文化サロン圏内の宮廷歌会(「元和三年(一六一七)五月十一日の和歌会」)に関する記録などが遺されている。

https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

【五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。 】

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟

 この錚々たる後水尾天皇を取り巻く親王と上層公家衆の中に、細川幽斎より「古今伝授」を継受された者が、「智仁親王=八条宮智仁親王・烏丸光広・中院通村」と三人が登場する。
 さらに、数少ない「宗達関係資料」の中で、「一条兼遐書状」(後水尾天皇勘返状)、「中院通村日記」(元和二年三月十三日の条)、そして「『西行物語絵巻(俵屋宗達筆)』奥書」(「特進光広」奥書)と、これまた、三人の名が登場する。
 そして、これらの中で、宗達と最も関係の深い人物が「烏丸光広」ということは、これは紛れもない事実と解して差し支えなかろう。

三宝院門跡.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(C図:三宝院門跡宿坊周辺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=27010%2C13733%2C2006%2C3971&r=270

 この図(C図)の右(東)上(北)部に「三宝院門跡」とあり、ここは「醍醐寺三宝院門跡」の宿坊(宿泊施設)が図示されている。
 そして、寛永八年(一六三一)に、現在、静嘉堂文庫美術館蔵となっている醍醐寺旧蔵品の「源氏物語関屋澪標図屏風」(六曲一双)の制作依頼人が、当時の醍醐寺三宝院門跡の「三宝院覚定」であることが、その覚定の日記の「寛永日々記」(寛永八年〈一六三一〉九月十三日の条)の「源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也」という記述から確認され、ここから、「宗達と醍醐寺」との関係というのが、その姿の一端を現したということになる(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』)。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

 ここでは、この図(C図)の中央下部の「鷹司太閤殿」というのは、醍醐寺の門跡の「三宝院覚定」の兄に当る「鷹司信尚」(官位は従一位・関白・左大臣)その人で、その妻は、後水尾天皇の姉(後陽成天皇の第三皇女)に当る「清子内親王」であることを特記して置きたい。
 そして、上記のB図関連で触れた「後水尾天皇の文化サロン(歌会)」のメンバーには、さらに、下記(再掲)の、「後陽成院の系譜」と、それを取り巻く「門跡寺院」等々、そして、さらに、それらを取り巻く、当時勃興しつつあった「有力町衆」(本阿弥光悦=本阿弥家・角倉素庵=角倉家・俵屋宗達=俵屋家、尾形宗伯=光琳・乾山の父=尾形家、茶屋四郎次郎=茶屋家、後藤庄三郎=後藤家、五十嵐久栄=五十嵐家、楽常慶=楽家、千家=茶道家、池坊家=華道家、等々)が加わり、それらが連鎖状に「一大文化サークル」圏を形成していたということは、これまた首肯することは差し支えなかろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

【 (追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)】
タグ:水墨画
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