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源氏物語画帖「その四十八 早蕨」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  薫25歳春

長次郎・早蕨.jpg

源氏物語絵色紙帖  早蕨  画・長次郎
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冷泉為頼吉・早蕨.jpg

源氏物語絵色紙帖  早蕨  詞・冷泉為頼
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(「冷泉為頼」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/23/%E6%97%A9%E8%95%A8_%E3%81%95%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%B3%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96_%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

年改まりては何ごとかおはしますらむ御祈りはたゆみなく仕うまつりはべり今は一所の御ことをなむ安からず念じきこえさするなど聞こえて蕨つくづくしをかしき籠に入れてこれは童べの供養じてはべる初穂なりとてたてまつれり手はいと悪しうて歌はわざとがましくひき放ちてぞ書きたる
  君にとてあまたの春を摘みしかば常を忘れぬ初蕨なり
(第一章 中君の物語 第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く)

(周辺メモ)

第四十八帖 早蕨
 第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
  第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く
  第二段 中君、阿闍梨に返事を書く
  第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問
  第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う
  第五段 中君、姉大君の服喪が明ける
第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問
第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す
  第八段 薫、弁の尼と対面
  第九段 弁の尼、中君と語る
 第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる
  第一段 中君、京へ向けて宇治を出発
  第二段 中君、京の二条院に到着
  第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す
  第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る
  第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く

(参考)

「冷泉為頼筆和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/690

【冷泉為頼〈れいぜいためより・1592-1627〉は、江戸時代初期の公卿、歌人。為満〈ためみつ・1559-1619〉の長男。寛永4年〈1627〉、従三位に進んだが、この年、36歳で没した。為頼は、歌道をもって朝仕する上冷泉(かみれいぜい)家第7代として家学を継承。父為満とともに小堀遠州〈こぼりえんしゅう・1579-1647〉の歌道の師をつとめた。また、書は父と同様、遠祖藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風を受け継ぎ、筆線の細太を強調する、典型的な定家流(ていかりゅう)を見事にこなしている。この懐紙は、「松契多春」の歌題により、慶長17年〈1612〉1月19日の御会始における詠とわかる。為頼21歳の筆跡。装飾性の高い書である。「春の日、同じく「松、多春を契る」ということを詠める和歌/侍従藤原為頼/生末の年いくかへりこめつらん松に根ざしの御代の初春」

(釈文)

春日同詠松契多春和謌侍従藤原為頼おひすゑのとしいくかへりこめつらん松にねざしの御代のはつ春         】

(参考) 「智仁親王の源氏物語研究」(小高道子稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/63/0/63_29/_pdf


(「三藐院ファンタジー」その三十八)

鷹を手に据える公家.jpg

「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)

 これは、「かぶき者」の武士ではなく、「かぶき者」の公家なのだ。この「左隻第四扇中部」に、次の「突然暴れ出した馬」の図が描かれている。

突然暴れ出した馬.jpg

「突然暴れ出した馬」(左隻第四扇下部)

 二条城に向かう行列一行の、中ほどの二頭の馬が突然暴れ出して、何やら騒動を起こしている。この行列一行は、武士の行列で、この中には「かぶき者の公家」は混ざっていないようである。黒馬の武士は手綱を引き絞り、この黒馬は、後ろの白馬を蹴飛ばしているように見える。そして、この白馬は、前方の「二条城」(左隻第六扇)に行くのを嫌がり、後方の「豊国廟・大仏殿」(右隻第一扇)へ帰らんとし、その白馬の武士は、落馬すまいと、馬の首にしがみついている感じでなくもない。
 すなわち、大胆な「三藐院ファンタジー」的な見方は、当時の「方広寺大仏殿鐘銘事件・大阪冬の陣・大阪夏の陣」を背景にしての、「黒馬=東軍、黒馬の武士=徳川秀忠」に対する「白馬=西軍、白馬の武士=豊臣秀頼」を、「突然暴れだした」二頭の馬(「黒馬」と「白馬」とが暗示している、その見立ていうことになる。

乗馬した板倉重昌.jpg

「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(左隻第四・五扇中部)

 この図の暖簾の「銭屋」は、「両替商」(現在の金融業、「本両替」と「脇両替」に分化、「本両替」=小判および丁銀の金銀両替および預金・貸付など信用取引を仲介する業務)、「脇両替」=銭貨の交換・売買などの窓口業務)で、その隣で「脇両替」の店舗を開いている。
「寶」というのは特殊な暖簾で、「寶=豊=豊太閤=豊臣家御用達店」というような感じの暖簾のようである。これと同じような暖簾で「光」という暖簾も、この「洛中洛外図屏風・舟木本」に描かれており、それも「光=太(閤) =豊太閤=豊臣家御用達店」な感じの暖簾と解して置きたい(この「寶」と「光」は(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』をベースにしている)。
 次の「雪輪笹」の暖簾は、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)のもので、その「笹谷」の奥庭(この図の左上)の人物が、笹谷半四郎(その父か祖父)、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主ではないかと『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推定している。
 この通りは「二条通り」なのであろうか(?) この舟木屏風では、右隻の第一扇の「方広寺大仏殿」→「五条大橋」→「五条通り」(右隻第六扇)から左隻第一・二・三扇の「五条通り」を経て、第四扇(上の「「突然暴れ出した馬」)に入り、ここから、「五条通り」が「二条通り」に変身し、そして、次の第六扇の「二条城」に至るという道筋になる。
 即ち、舟木屏風のトリックは、この左隻第四扇の「突然暴れ出した馬」の図あたりに、その種明かしの一端が隠されていると解したい。
この図の後方の「豊国廟・大仏殿」(右隻第一扇)へ帰らんとしているように見える「白い馬」は、「この道は、今まで通ってきた道とは違う」ということで暴れ出し、その白い馬を「蹴飛ばして前方の「二条城」(左隻第六扇)の方に行こうとしている黒い馬」は、「そんなことはない。何故、従順について来ない」のかと暴れだした図という理解である。
そもそも、一つの「洛中洛外図」に、「五条通りと二条通り」を、一本の「通り」に結び付けて、しかも、それを、メインの『東から西へと行く主要な通りにする』という発想は、「奇想」(辻惟雄の命名=「奇想の系譜」「奇想の図譜」「奇想の挿絵」「奇想の発見」ギョッとする絵画」)というネーミングが相応しいのかも知れない。
 しかし、この「奇想」というのは、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」が生きた「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮」の「かぶき者・傾奇者・歌舞伎者=世間の常識や権力・秩序への反発・反骨などの表現」と深く関わっているもので、「数寄者=数寄に傾いた者=茶人・連歌師・俳諧師など」より、さらに傾いている「傾奇者」というネーミングも捨て難い。
 と言うのは、岩佐又兵衛と同時代の「本阿弥光悦・俵屋宗達」などを「数寄者絵師・書家」とすると、岩佐又兵衛は「傾奇者絵師」というネーミングの方が、より好みということに他ならない。
 さて、この「二条城へ向かう武家行列」、そして、その先頭集団の、この「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行」の図の、「銭屋」という暖簾の前の、この「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」は誰か(?)
 この「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」は、先に、「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)に出てくる「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)の、当時の京都所司代の「板倉勝重」の次男坊の、当時、徳川家康の「近習筆頭人」の一人であった「板倉重昌」だと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、推定というよりも、断定に近い「謎解き」を提示している。
 そして、その断定に近い「謎解き」は、「板倉勝重の九曜紋」の「九曜紋」にあらず、「板倉重昌の鞠挟紋」だと、またもや、「家紋」を、その「謎解き」のキィーポイントの一つにしている。

鞠挟紋の駕籠・板倉重昌.jpg

「鞠挟紋の駕籠舁き」(左扇第五扇中部)

 この図の右端が、前図の「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」の英姿である。その前に誰やらが乗っている「駕籠」が二人の「駕籠舁き」と共に描かれていて、その「駕籠舁き」の交替要員(二人)も後ろに描かれているようである。
この四人の「駕籠舁き」の「揃いの衣服の家紋」は、板倉家の通常の家紋の「左巴三頭や九曜紋」ではなく、この「鞠挟紋」も使用している「板倉重昌」固有の紋のようなのである。それが、「父勝重や嫡男の重宗」(この二人は名「京都所司代」として夙に知られている)と区別出来る、謂わば、「板倉重昌」専用の「板倉家」の家紋で、この「駕籠」に乗っている人物は、「板倉重昌」との謎解きの解を導いている。
当時、家康の「近習出頭人」(大御所の側近で、幕政の中枢に参与した者)の一人であった板倉重正は、駿府に居て、駿府から上洛する時は、駕籠と馬とを利用し、ここは、京の都に入り、駕籠を降りて、乗馬に乗り換えたのであろう。
 そして、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この時の上洛は、「方広寺鐘銘事件に際しての上洛」ではなく、「猪熊事件の際の上洛」との謎解きをしている。
 これらの謎解きは、『源氏物語』の「章と段」の目次ですると、次のような過程を経ての謎解きの展開ということになる。

第六章 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解
 第一段 牛馬の数
 第二段 物資や人を運ぶ牛馬
 第三段 二条通が五条通につながる
 第四段 舟木屏風を座って見る
 第五段 中心軸上に描かれた二つの印象的な集団
 第六段 ドグマからの脱却
 第七段 表現上の焦点となっている二つの集団
 第八段 二条城に向かう武家の行列
 第九段 読解の手かせかりはないか?
 第十段 駕籠舁きの鞠挟紋
第十一段 近習出頭人
第十二段 鞠挟紋は重昌の家紋
第十三段 板倉重昌の上洛とその政治的役割
第十四段 方広寺鐘銘事件での上洛ではない
第十五段 猪熊事件の際の上洛
第十六段 大御所家康の政治意思
第十七段 板倉重昌は乗馬しているのでは?
第十八段 注文主は板倉氏か?
第十九段 五条橋上で踊る一行
第二十段 老後家尼
第二一段 花見踊りの一行の姿
第二二段 傘の文様は?
第二三段 豊国祭礼図屏風の老後家尼
第二四段 高台院の屋敷が左隻第四扇に描かれている
第二五段 どこで花見をしたのか?
第二六段 豊国社の枝垂れ桜は物語る
第二七段 右隻の中心で踊る高台院
第二八段 両隻にある「寶」「光」と豊公贔屓
第二九段 徳川美術館本豊国祭礼図屏風の「豊光」の旗
第三十段 暖簾に豊公敬意の心情を描く
第三一段 右隻は物語る
第三二段 近世風俗画誕生の「坩堝」

 これらの「老後家尼・高台院(北政所禰々=ねね・おね)」や「近習筆頭人・板倉重昌」の背後には、「大御所・徳川家康」が見え隠れしている。その徳川家康も、この「近習筆頭人・板倉重昌」図の上部右(左隻第四扇)に描かれている。

家康の乗っている牛車.jpg

「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」(左隻第四扇上部)

 この牛車には「三つ葉葵と桐紋」があり、「大御所家康か秀忠」が乗っているようだが、
その後ろに、二挺の「手輿(たごし)」が並んでおり、脇には被衣の二人の女と、赤傘をさしかけている侍女が描かれている。この「手輿」には、家康の幼い子息が乗っているようである。
 家康は、慶長十一年(一六〇六)八月十一日に、五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。この参内行列は、その時のものであろうと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推測をしている。
 この前年の慶長十年(一六〇五)に、高台院は、徳川家康の助力のもとに、秀吉の菩提を弔うための「高台寺」を創建しており、ここに、「高台院→徳川家康→板倉重昌」が一線上に結びついてくる。
 ここでは、このような史実に基づく実証的な「謎解き」ではなく、謂わば、「三藐院ファンタジー」の「ファンタジー」(空想・幻想・想像=創造)的な「謎解き」を加味すると、先の、「猪熊事件・方広寺鐘銘事件・大阪冬の陣・大阪夏の陣」に大きく関わった「近習出頭人・板倉重昌」(1588-1638)は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」の、後のパトロンとなる、徳川家康の孫の、「越前国北ノ庄(福井)藩主・松平忠直」(1595-1650)が、「板倉重昌の大御所家康に寄せる忠誠心」に、自分の「大御所家康への忠誠心」を重ね合わせ、この七歳程度年上の「板倉重昌」の、この上記の二条城に向かう英姿に、己の姿をダブルイメージしていたような、そんな雰囲気が察知されるのである。
 そして、この「黒塗笠の乗馬姿の板倉重昌」の真上に描かれている、「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この「洛中洛外図・舟木本」の注文主の、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」と推測しているのだが、それを「是」としても、この「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物は、限りなく、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 の、その当時のイメージが、これまた、ダブルイメージとしてオ―バラップしてくるのである。

乗馬した板倉重昌.jpg

(再掲) 「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(左隻第四・五扇中部)

 この図の左上部の「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物が、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 のイメージをも宿しているとすると、この「岩佐又兵衛」と同時代に生きた、「狩野派」に匹敵する大きな画壇を形成してくる「琳派の創始者」と目されている「本阿弥宗達・俵屋宗達」、そして、この二人に深い関係にある、当時の三大豪商の一人の「角倉素庵」なども、この「洛中洛外図・舟木本」の中に、何らかの形で描かれているのではなかろうか?
 これらのことに関して、「角倉素庵」関連では、確かに、この「右隻第六扇と左隻第一扇」の接点の「三条大橋」(左隻第一扇上部)の左手(左隻第二扇上部)に、「角倉了以・素庵」の父子が、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河の「高瀬川」の「船入」場が描かれており、その周辺に「角倉屋敷」などが描かれている雰囲気である。
 それを「寺町通(第二扇上部)→四条通(第二扇中部)→室町通(第二扇中部)→五条通(第二扇中部)に、次の図が出てくる。

扇屋.jpg

「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」(左隻第二扇中部)

 この扇屋は、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に出てくる「五条は扇の俵屋」と一致する感じで無くもない。とすると、その裏手に描かれている、俳諧師のような数寄者風情の一人は、「俵屋宗達」、そして、もう一人の人物は、「本阿弥宗達」と解しても、「三藐院ファンタジー」的な「謎解き」としては、許容範囲の内ということになろう。
 そして、この五条通りの「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」の図が、二条城(左隻第六扇中部)の方に視線をずらして行くと、二条通りと堀川通りと接点の
「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(第五扇中部)と、横一線上に繋がってくるのである。
 そして、この「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」の、板倉重昌の上部に、「洛中洛外図・舟木本」の注文主ではないかと推測されている、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)と、好一対をなしてくるのである。
 この京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)は、「三藐院ファンタジー」風の見方では、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた張本人の「岩佐又兵衛」のイメージと重なるとしたのだが、何やら、この、五条通りの数寄者「俵屋宗達・本阿弥光悦」と、この二条通りの数寄者(「市中の山居人」)「岩佐又兵衛」とは、相互に、何かしらの因縁を有しているような雰囲気を醸し出している。
 なお、『竹斎物語』と「俵屋宗達」の関連などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

 ここで、ひとまず、『源氏物語画帖』周辺の探索は、ピリオドを打って、これまで敬遠していた「岩佐又兵衛」の、そして、未だに、どうにも謎めいた、曖昧模糊としている、その初期の、若干、三十八・九歳時の頃に携わったと言われている、「洛中洛外図屏風・舟木本」へと、そのステップを進めたい。
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源氏物語画帖「その四十七 総角」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四)  薫24歳秋-冬

光吉・総角.jpg

源氏物語絵色紙帖  総角  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

久我・総角.jpg

源氏物語絵色紙帖  総角  詞・久我通前
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html


(「久我通前」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/22/%E7%B7%8F%E8%A7%92_%E3%81%82%E3%81%92%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96_%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

明け行くほどの空に妻戸押し開けたまひてもろともに誘ひ出でて見たまへば霧りわたれるさま所からのあはれ多く添ひて例の柴積む舟のかすかに行き交ふ
(第四章 中の君の物語 第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十七帖 総角
 第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
  第一段 秋、八の宮の一周忌の準備
  第二段 薫、大君に恋心を訴える
  第三段 薫、弁を呼び出して語る
  第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)
  第五段 薫、大君の寝所に迫る
  第六段 薫、大君をかき口説く
  第七段 実事なく朝を迎える
  第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う
第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる
  第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問
  第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める
  第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す
  第四段 大君、弁と相談する
 第五段 大君、中の君を残して逃れる
 第六段 薫、相手を中の君と知る
  第七段 翌朝、それぞれの思い
 第八段 薫と大君、和歌を詠み交す
 第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚
  第一段 薫、匂宮を訪問
  第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う
  第三段 薫、中の君を匂宮にと企む
  第四段 薫、大君の寝所に迫る
  第五段 薫、再び実事なく夜を明かす
  第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く
  第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜
第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜
 第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
  第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める
  第二段 薫、明石中宮に対面
  第三段 女房たちと大君の思い
  第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
  第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる
  第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く
  第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える
  第八段 匂宮、中の君を重んじる
 第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り
  第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り
  第二段 一行、和歌を唱和する
第三段 大君と中の君の思い
  第四段 大君の思い
  第五段 匂宮の禁足、薫の後悔
 第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う
 第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護
  第一段 薫、大君の病気を知る
  第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る
  第三段 中の君、昼寝の夢から覚める
  第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く
  第五段 薫、大君を見舞う
  第六段 薫、大君を看護する
  第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る
  第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う
 第九段 薫、大君に寄り添う
 第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆
  第一段 大君、もの隠れゆくように死す
  第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり
  第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆
  第四段 雪の降る日、薫、大君を思う
  第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問
  第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
  第七段 歳暮に薫、宇治から帰京

(参考)

【久我 通前(こが みちさき)
生誕 天正19年10月14日(1591年11月29日)
死没 寛永12年10月24日(1635年12月3日
 元和元年(1615年)に叙爵。以降累進して、侍従・右近衛少将・左近衛中将を経て、寛永元年(1624年)後水尾天皇の中宮徳川和子の中宮権亮となるが寛永6年(1629年)の天皇の譲位にともない辞職。寛永7年(1630年)より権中納言に転じた。寛永8年(1631年)に正三位となったが、寛永12年(1635年)には薨去した。享年45。 】

(「三藐院ファンタジー」その三十七)

左五下・二条城大手門・公家一行.jpg

「大手門を潜る公家一行」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)

《二条城の大手門を潜る一行は誰か?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P167-169)

「二条城の大手門には、今しも立烏帽子・狩衣。指貫姿の公家が一人やってきており、裃姿の武士たちが迎えている。この公家には風折烏帽子の公家が三人付き従っており、その背後には白丁たちがいる。この公家は何者か? そして、この公家は何のために二条城に来たのか?

左六下・二条城内振舞準備.jpg

「振舞い料理の準備」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇下部)

《二条城の大手門を潜る一行は誰か?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P167-168)

「二条城内で料理の真っ最中である。包丁人が調理しようとしているのは鯛と鯉であり、鴨であろうか。毛をむしり、内臓を取り去った鳥を洗っている。竈では煮炊きが始まっている。これは、所司代板倉勝重が、その公家を招待し、その振舞いの料理の準備している図だ、その公家は武家伝奉ではなかろうか?

《武家伝奉》《武家伝奉が一人だけだった時期がある》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P168-170)

「朝廷と幕府の交渉を担った公家の役職。慶長八年(一六〇三)から、武家伝奉は、広瀬兼勝と勧修寺光豊の二人であった。その勧修寺光豊が、慶長十七年(一六一二)十月十七日に亡くなり、その後任の三条西実条が任命されたのは、慶長十八年(一六一三)七月十二日のことであった。この新武家伝奉が任命される約八か月余り、武家伝奉は広橋兼勝が一人で武家伝奉を努めていた。

《駿府の広橋兼勝と板倉勝重》《公家衆法度の制定》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P170-172)

「武家伝奉が広橋兼勝一人だけであった、この時期は、丁度、公家衆法度の作成プロセスと合致する時期であった。慶長十八年(一六一三)四月九日、武家伝奉広橋兼勝は駿府に下った。駿府の大御所徳川家康の下で、京都所司代板倉勝重と武家伝奉広橋兼勝とは、この任に当たったのである。そして、同年六月十六日に、大御所徳川家康は公家衆法度を制定した。

 諸公家(公家衆)法度

一、公家衆家々之学問(以下略)=要約( 公家は各家の代々の学問に油断無く励むべきこと)
一、不寄老若背行儀法度(略)=要約( 行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと)
一、昼夜之御番老若背行為(略)=要約( 昼夜懈怠なく老若共に仕事を相勤むべきこと)
一、夜昼共ニ無指用所ニ(略)=要約(昼夜用無き所に徘徊することを堅く禁ずること)
一、公宴之外私ニテ不似合勝負(略)=要約(賭事・不行儀の公家近侍も先条に因ること)

 この「公家衆法度五ヵ条」は、慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」を踏まえての、公家衆の風儀の矯正を狙いとしたもので、特に、その二条の「行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと(但し、罪の軽重に依る「年序」別に定るべきこと)」は、公家衆の予期せぬものであったことが、『時慶卿日記』(慶長十八七月十二・十三日条)から読み取れる。」

【(メモ)
 この「諸公家(公家衆)法度」が、さらに、大坂の夏の陣で、豊臣家が滅亡した直後の元和元年(一六一五)七月十七日に、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」が、京都二条城で「本文に大御所徳川家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署したものを武家伝奏に渡す形」で制定され、同月三十日に、公家・門跡衆に公布されることになる。
 この「「禁中並公家諸法度」については、次のアドレスのものを、「原文・読み下し文・注釈・現代語訳」の全文を掲載して置きたい。

http://gauss0.livedoor.blog/archives/2559131.html

〇「禁中並公家諸法度」(全文) 元和元年7月17日制定

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一 三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事。
一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象、諸臣礼服各別、御袍 、麹塵、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙洞御袍、赤色橡、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練貫、羽林家三十六歳迄着之、此外不着之、紅梅、十六歳三月迄諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人従四月西賀茂祭、着用普通事。
一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。但学問、有職、歌道令勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功不可棄捐事。
一 關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一 罪輕重、可被守名例律事。
一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。摂家三公之時者、雖為親王之上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王門跡之外門跡者、可為准門跡事。
一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一 門跡者、僧都大、正、少、法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。

 右、可被相守此旨者也。

 慶長廿年乙卯七月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

  「徳川禁令考」より

<読み下し文>

一、天子御芸能之事、第一御学問也。学ならずんば則ち古道明らかならず、而して政を能して太平を致す者未だこれあらざるなり、貞観政要[1]の明文也、寛平遺誡[2]に経史[3]を窮めずと雖も、群書治要[4]を誦習[5]すべしと云々。和歌は光孝天皇[6]より未だ絶えず、綺語[7]たりと雖も我が国の習俗也、棄置くべからずと云々。禁秘抄[8]に載せる所、御習学専要候事。
一、三公[9]の下は親王[10]。その故は右大臣不比等[11]は舎人親王[12]の上に着く。殊に舎人親王[12]、仲野親王[13]は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親王[14]は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし。親王[10]の次は前官大臣。三公[9]は官の内に在れば、親王[10]の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王[10]、但し儲君[15]は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華[16]の大臣辞表の後、座位[17]は諸親王[10]の次座たるべき事。
一、摂家[18]たりと雖も、その器用[19]無き者は、三公[9]・摂関に任ぜらるるべからず。況んやその外をや。
一、器用[19]の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公[9]摂関辞表あるべからず。但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿[20]、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切これなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外[21]たるべき事。
一、改元[22]は漢朝の年号[23]の内、吉例[24]を以て相定むべし。但し重ねて習礼[25]相熟むにおいては、本朝[26]先規の作法たるべき事。
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍[27]・麹塵[28]・青色、帛[29]、生気[30]御袍[27]、或は御引直衣、御小直衣等之事。仙洞[31]御袍[27]、赤色橡[32]或ひは甘御衣[33]、大臣袍[27]、橡[32]異文、小直衣、親王袍[27]、橡[32]小直衣、公卿[34]は禁色[35]雑袍[36]を着す、殿上人[37]と雖も、大臣息或は孫は禁色[35]雑袍[36]を着すと聴く、貫首[38]、五位蔵人、六位蔵人、禁色[35]を着す、極臈[39]に至りては麹塵[28]袍[27]を着す、是申下すべき御服之儀也。晴[40]之時と雖も下臈[41]之を着す、袍[27]色、四位以上橡[32]、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹[42]、初位浅縹[42]、袍[27]之紋、轡唐草輪無、家々旧例をもって之を用いて着す、任槐[43]以後は異文也、直衣、公卿[34]禁色[35]直衣、或は任を拝領して始め、先規にて之を用いて着す、殿上人[37]直衣、羽林家[44]之外之を着さず、殿上人[37]と雖も、大臣息亦孫は禁色[35]を着すと聴く、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿[34]衣冠[45]の時は綾[46]を着す、殿上人[37]は綾[46]を着さず、練貫[47]、羽林家[44]三十六歳迄之を着す、此外は之を着さず、紅梅[48]、十六歳三月迄諸家は之を着す、此外は平絹也、冠十六未満は透額[49]、帷子[50]、公卿[34]は端午[51]より、殿上人[37]は四月西賀茂祭[52]より、着用普通の事。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。但し学問、有職[53]、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備[54]は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、尤も規摸[55]なり。蛍雪の功[56]は棄捐[57]すべかざる事。
一、関白・伝奏[58]并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩[59]、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律[60]を守らるべき事。
一、摂家門跡[61]は親王門跡[61]の次座たるべし。摂家三公[9]の時は親王[10]の上たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し皇子連枝の外の門跡[61]は親王[10]宣下有るまじきなり。門跡[61]の室の位はその仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王[10]は希有の儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂なし。摂家門跡[61]、親王門跡[61]の外門跡[61]は准門跡[61]となすべき事。
一、僧正[62](大、正、権)・門跡[61]・院家[63]は先例を守るべし。平民に至りては、器用[19]卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。但し国王大臣の師範は各別の事。
一、門跡[61]は僧都[64](大、正、少)・法印[65]叙任の事、院家[63]は僧都[64](大、正、少、権)、律師[66]、法印[65]、法眼[67]、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、尚以て器用[19]を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺[68]は、住持職[69]、先規希有の事[70]也。近年猥りに勅許の事、且は臈次[71]を乱し且は官寺[72]を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用[19]を撰び、戒臈[73]相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申沙汰有るべき事。
一、上人号[74]の事、碩学[75]の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に及ぶは正となすべし、年序未満は権となすべし。猥らに競望[76] の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事。

 右此の旨相守らるべき者也。

   慶長廿年[77]乙卯七月 日  

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

【注釈】

[1]貞観政要:じょうがんせいよう=唐の2代皇帝太宗と群臣の問答録で、帝王学の教科書として日本でも読まれた。
[2]寛平遺誡:かんぴょうのゆいかい=宇多天皇が醍醐天皇に与えた訓戒書。
[3]経史:けいし=四書五経や歴史書。
[4]群書治要:ぐんしょちよう=唐の2代皇帝太宗が編纂させた政論書。
[5]誦習:しょうしゅう=読み習うこと。書物などを口に出して繰り返し読むこと。
[6]光孝天皇:こうこうてんのう=第58代とされる天皇(830~887年)で、『古今和歌集』に歌2首が収められている。
[7]綺語:きぎょ=表面を飾って美しく表現した言葉。
[8]禁秘抄:きんぴしょう=順徳天皇が著した有職故実書(1221年頃成立)。
[9]三公:さんこう=太政大臣、左大臣、右大臣のこと。
[10]親王:しんのう=天皇の兄弟と皇子のこと。
[11]右大臣不比等:うだいじんふひと=藤原不比等(659~720年)のことで、奈良時代初期の廷臣。藤原鎌足の次男。
[12]舎人親王:とねりしんのう=天武天皇の第3皇子(676~735年)で、藤原不比等の死後、知太政官事となり、没後太政大臣を贈られた。
[13]仲野親王:なかのしんのう=桓武天皇の皇子(792~867年)で、没後太政大臣を贈られた。
[14]穂積親王:ほづみしんのう=天武天皇の皇子(?~715年)で、知太政官事、一品にいたる。
[15]儲君:ちょくん=皇太子のこと。
[16]清華:せいが=公家の名門清華家のことで、摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣、大将を兼ねる家。久我、花山院、転法輪三条、西園寺、徳大寺、大炊御門、今出川 (菊亭) の7家。
[17]座位:ざい=席次のこと。
[18]摂家:せっけ=摂政、関白に任命される家柄、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家のこと。
[19]器用:きよう=能力。学識。
[20]連綿:れんめん=長く続いて絶えないこと。
[21]公家当官の外:くげとうかんのほか=官位令に規定される公家の官位とは別扱い。
[22]改元:かいげん=元号(年号)を改めること。
[23]漢朝の年号:かんちょうのねんごう=中国の年号。
[24]吉例:きちれい=縁起の良いもの。
[25]習礼:しゅうらい=礼儀作法をならうこと。
[26]本朝:ほんちょう=日本のこと。
[27]袍:ほう=束帯用の上衣。
[28]麹塵:きくじん=灰色がかった黄緑色。
[29]帛:はく=きぬ。絹布の精美なもの。羽二重の類。
[30]生気:しょうげ=生気の方向を考慮して定めた衣服の色。東に青、南に赤を用いるなど。
[31]仙洞:せんどう=太上天皇のこと。
[32]橡:つるばみ=とち色のことだが、四位以上の人の袍の色となる。
[33]甘御衣:かんのおんぞ=太上天皇が着用する小直衣(このうし)。
[34]公卿:くぎょう=公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。
[35]禁色:きんじき=令制で、位階によって着用する袍(ほう)の色の規定があり、そのきまりの色以外のものを着用することが禁じられたこと。また、その色。
[36]雑袍:ざっぽう=直衣(公家の平常服)のこと。上衣。
[37]殿上人:でんじょうびと=清涼殿の殿上間に昇ることを許された者(三位以上の者および四位,五位の内で昇殿を許された者)
[38]貫首:かんじゅ=蔵人頭のこと。
[39]極臈:きょくろう=六位の蔵人で、最も年功を積んだ人。
[40]晴:はれ=正月や盆、各種の節供、祭礼など、普段とは異なる特別に改まったとき。
[41]下臈:げろう=官位の下級な者。序列の低い者。
[42]縹:はなだ=一般に、タデ科アイだけを用いた染色の色で、ややくすんだ青のこと。
[43]任槐:にんかい=大臣に任ぜられること。
[44]羽林家:うりんけ=摂家や清華ではないが、昔より代々中将・少将に任じられてきた家(冷泉・灘波・飛鳥井など)。
[45]衣冠:いかん=男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。冠に束帯の縫腋の袍を着て指貫をはく。
[46]綾:りょう=模様のある絹織物。
[47]練貫:ねりぬき=縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。
[48]紅梅:こうばい=襲(かさね)の色目の一つで、表は紅色で、裏は紫色。
[49]透額:すきびたい=冠の額の部分に半月形の穴をあけ、羅うすぎぬを張って透かしにしたもの。
[50]帷子:かたびら=夏の麻のきもの。
[51]端午:たんご=端午の節句(旧暦5月5日)のこと。
[52]賀茂祭:かもまつり=加茂の明神のまつり(旧暦4月中の酉の日)のことで、現在の葵祭。
[53]有職:ゆうそく=朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。また、それに詳しい人。
[54]下道真備:しもつみちのまきび=吉備真備(695~775年)のこと。従八位下から正二位・右大臣にまで昇った。
[55]規摸:きぼ=手本。模範。
[56]蛍雪の功:けいせつのこう=苦労して勉学に励んだ成果。
[57]棄捐:きえん=捨てて用いないこと。
[58]伝奏:てんそう=江戸時代に幕府の奏聞を取り次いだ公武関係の要職。
[59]堂上地下の輩:どうじょうじげのやから=殿上人とそれ以外の官人。
[60]名例律:みょうれいりつ=律における篇の一つで、刑の名前と総則を規定する。
[61]門跡:もんぜき=皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職。
[62]僧正:そうじょう=僧綱の最高位。僧都・律師の上に位し、僧尼を統轄する。のち、大・正・権ごんの三階級に分かれる。
[63]院家:いんげ=大寺に属する子院で、門跡に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。
[64]僧都:そうず=僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正に次ぎ、律師の上の地位のもの。
[65]法印:ほういん=僧位の最上位で、僧綱の僧正に相当する。この下に法眼・法橋があった。
[66]律師:りっし= 僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に準じた。
[67]法眼:ほうげん=僧位の第二位で、法印と法橋のあいだ。僧綱の僧都に相当する。
[68]紫衣の寺:しえのてら=朝廷から高徳の僧に賜わった紫色の僧衣を着る高僧が住持となる寺格。
[69]住持職:じゅうじしょく=住職。
[70]先規希有の事:せんきけうのこと=先例がほとんどない。
[71]臈次:ろうじ=僧侶が受戒後、修行の功徳を積んだ年数で決められる序列。
[72]官寺:かんじ=幕府が保護した寺のことで、五山十刹などをさす。
[73]戒臈:かいろう=修行の年功。
[74]上人号:しょうにんごう=法橋上人位の略称。修行を積み、智徳を備えた高僧の号。
[75]碩学:せきがく=修めた学問の広く深いこと。また、その人。
[76]競望:けいぼう=われがちに争い望むこと。強く希望すること。
[77]慶長廿年:けいちょうにじゅうねん=慶長20年7月は13日に元和に改元されたので、実際の制定時7月17日は元和元年となる。

<現代語訳>

一、天皇が修めるべきものの第一は学問である。「学を修めなければ、すなわち古からの道は明らかにならない、学を修めないでいて良き政事をし、太平をもたらしたものは、いまだないことである。」と、『貞観政要』にはっきり書かれていることである。『寛平遺誡』に四書五経や歴史書を極めていないといっても、『群書治要』を読み習うこととしかじか、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、表面を飾って美しく表現した言葉であるといっても、我が国のならわしである、捨ておいてはならないとしかじか、『禁秘抄』に掲載されているところは、学習されるべき最も大切なところである。
一、現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次の下に親王がくる。特に、舎人親王、仲野親王は薨去後に贈(正一位)太政大臣、穂積親王は准右大臣となった。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の下となることは、勿論のことである。親王の次は前官大臣である。三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は在任中であれば、親王の上とするが、辞任後は次座となるべきである。その次は諸親王、ただし皇太子は特別である。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次であるべきである。
一、清華家の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)辞任後の席次は、親王の次となるべきである。
一、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。
一、能力のあるお方は、高齢だからといっても、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白を辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。
一、養子連綿、すなわち、同姓を用いるべきである、女縁をもってその家督を相続することは、昔から今に至るまで一切無いことである。
一、武家に与える官位は、公家の官位とは別扱いのものとする 。
一、元号を改めるときは、中国の年号から縁起の良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。
一、天皇の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、束帯用の御上衣は灰色がかった黄緑色・青色、絹布、生気色の束帯用の御上衣、あるいは御引直衣、御小直衣等の事。太上天皇の束帯用の御上衣は赤色橡色あるいは甘御衣、大臣の束帯用の上衣は橡色の異文、小直衣、親王の束帯用の上衣は橡色の小直衣、公卿は位階によって決められた色の上衣を着用する。殿上人といっても、大臣の息子あるいは孫は、位階によって決められた色の上衣を着用すると聴く。蔵人頭は五位蔵人、六位蔵人は、位階によって決められた色を着用する。六位の蔵人で最も年功を積んだ人に至っては、灰色がかった黄緑色の束帯用の上衣を着用する。これは申し下すべき御服の決まりである。はれの儀式の時は序列の低い者もこれを着用する。束帯用の上衣の色は、四位以上は橡色、五位は緋色、地下は赤色、六位は深緑色、七位は浅緑色、八位は深いくすんだ青色、初位は浅いくすんだ青色、束帯用の上衣の紋は、轡唐草は輪無しについては、家々の旧例に従って、これを用いて着用する。大臣任官以後は異文である。直衣については、公卿は位階によって決められた色の直衣、あるいは任を拝領して始め、先規にてこれを用いて着用する。殿上人は直衣、羽林家のほかはこれを着用しない。殿上人といっても、大臣の息子また孫は位階によって決められた色を着用すると聴く。直衣直垂については、随所着用である。小袖については公卿の最高の礼装の時は、模様のある絹織物を着用する。殿上人は模様のある絹織物は着用しない。平織りの絹織物については羽林家は36歳までこれを着用する。このほかは、これを着用しない。表は紅色で、裏は紫色のかさねについては、16歳3月まで諸家はこれを着用し、それ以後は、平絹を着用する。冠16歳未満は透額とする。夏の麻の着物については、公卿は端午の節句(5月5日)より、殿上人は4月中の酉の日の賀茂祭より、着用するのは普通のことである。
一、諸家の昇進の順序は、その家々の旧例を守って、報告せよ。ただし、学問、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識、歌道の学問に勤め励むことを命じる。その他.、国家や朝廷のために一身をささげて働くことを重ねた者は、順序をとびこえているといっても、上位の者の推挙によって官につかせたり、位を上げたりするべきである。下道真備(吉備真備)は従八位下ではあったけれど、才智がすぐれていたため右大臣を拝任した、もっとも手本となる。苦労して勉学に励んだ成果は捨ててはならないことである。
一、関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。
一、罪の軽重は名例律が守られるべきである。
一、摂家門跡は、親王門跡の次の席次とする、摂家は、現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の時には親王より上の席次といっても、辞任後は親王の次の席次と定められたことにより、これに准ずる。ただし、皇子兄弟のほかの門跡は親王宣下があってはならないことである。門跡の室の位はそのお方によるべきである。先規を考えれば、僧侶の中の親王は希なことである、近年非常に多くなっているが、その言われはない。摂家門跡と親王門跡のほかの門跡は准門跡とするべきである。
一、僧正(大、正、権)・門跡・院家は先例を守るべきことである。平民に至りては、卓越した才能のある人を、稀にこれを任命することがあるといっても、准僧正であるべきだ。ただし、国王大臣の師範とするものは特別のこととする。
一、門跡については、僧都(大、正、少)・法印を叙任することである。院家は、僧都(大、正、少、権)、律師、法印、法眼、先例から叙任するのはもちろんである。ただし、平人は本寺の推学の上、さらに才能のある人を選んで命じるべきである。
一、紫衣が勅許される住職は以前は少なかった。近年はやたらに勅許が行われている。これは(紫衣の)席次を乱しており、ひいては官寺の名を汚すこととなり、はなはだよろしくないことである。今後はその能力をよく吟味して、修行の功徳を積んだ年数を厳重にして、学徳の高い者に限って、寺の住職として任命すべきである。
一、上人号のことは、修めた学問の広く深い人は、本寺として正確に判断して選んで申上してきた場合は、勅許されるべきである。ただし、そのお方が、仏法修行20年に及ぶ者は正とすること、20年未満の者は権とすること。みだらに、われがちに争い望むことが有る場合は、流罪にするべきである。

 右の旨は守らなければならない。

 慶長20年(1615年)7月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)          】

《板倉勝重、広橋兼勝を招いて振舞う》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P172-174)

「『時慶卿記』の慶長十八年(一六一三)七月三日条に、京都所司代板倉勝重が武家伝奉広橋兼勝を招宴した記載があり、この「洛中洛外図・舟木本」(左隻第五扇下部)に描かれている「大手門を潜る公家一行」は、この時のものであることが裏付けられる。」
 もう一方の、京都所司代板倉勝重は、次の「二条城内での裁判」(左隻第六扇下部)で、民事訴訟を裁いている図で描かれている。

《二条城と所司代屋敷》《舟木屏風の制作は元和元年の禁中並公家諸法度制定以前である》《二条城の民事裁判》《民事訴訟を裁く京都所司代板倉勝重》《京の秩序を守る所司代》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P174-178)

「実際の『武家伝奉広橋兼勝の招宴』や、『民事訴訟の裁判』をする所は、二条城に隣接した所司代屋敷であろうが、この舟木屏風では、それらを一体のものとして、二条城の一角での図として描かれている。」


左六下・二条城内裁判.jpg

「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)

「女が何事かを懸命に訴えている。縁で訴状が読み上げられ、周囲には武士や訴訟関係者たちが取り巻いている。この中央の武士は誰か? 」

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)

「この中央の武士の羽織には、かすかに九曜紋が読み取れる。板倉(勝重)家の家紋は、『左巴・九曜巴・菊巴・花菱』などである(『寛政重修諸家譜』)。これは「九曜巴」で、この中央の武士こそ、板倉勝重なのである。」
 (メモ) 板倉勝重は、徳川家康の信任が厚く、慶長六年(一六〇一)に京都所司代となり、十八年に及び市政に尽力し、『板倉政要』(判例集)は彼と子重宗の京都市政の記録で、その名奉行ぶりは夙に知られている。その書は本阿弥光悦に学び、元和元年(一六一五)の、光悦の「鷹峯」(芸術の村)移住なども、家康との仲介をとり、板倉勝重の配慮として伝えられている。」

鷹を手に据える公家.jpg

「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)

《堀川の上で拳に鷹を据えている『かぶき者』》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P161-162)
↓ 
「堀川に架かっている橋の上には、不思議な着流し姿の四人組の男と彼らに付き従っている一人の少年の姿がある。そのうち三人の男は茶筅髷で羽織(胴服か)を着ており、大小の刀を腰に差している。左の二人は髭を生やしている。今一人は銀杏髷(二つ折り髷)で、羽織は着ていない。少年は羽織袴姿で、刀を肩に担いでいる。かれらの衣服には派手な文様があり、いかにも「かぶき者」的な姿に描かれている。
 注目すべきは、彼らのうち二人が、拳に鷹を据えていることだ。鷹を扱う一番の基本は、鷹を拳にとまらせることで、これを「据える」といい、鷹を拳に据えられるようになったら、町中を出歩く。これを「据え回し」という。しかし、男たちは着流し姿であり、「据え回し」というよりも、鷹を拳に据えてたむろしているという図である。」

《公家の鷹狩りは禁止された》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P162-1653

「『言緒卿記』(慶長十七年六月八日条)によれば、『鷹狩り』は公家には相応しくないということで、大御所家康の「(公家の)放鷹禁止」の「上位」が、京都所司代板倉勝重を通して、武家伝奉に伝えられたのである。」

【(メモ)
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2904&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「近世の鷹狩をめぐる将軍と天皇・公家」(,根崎光男稿)」によると、この「公家の統制と鷹狩禁止策」は、この時点では、江戸幕府の意向を受けて、朝廷側で、その幕府の意向を受けての「朝廷法」ともいうべきもので、「若輩之公家」の「鷹狩禁止」ということで、徹底しているものではなかった。
 しかし、慶長十八年(一六一三)六月十六の「諸公家(公家衆)法度」、そして、慶長二十年あけて元和元年 (一六一五)七月十七日制定の「「禁中並公家諸法度」により、「朝廷法」というのは「幕府法令」と化して行く。 】

《公家の「かぶき者」たち》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P163-165)

「『かぶき者』というと、武士のそれを思い浮かべるかもしれないが、それは違う。慶長十年代の京都らは、公家のなかかにも『かぶき者』がいた。「かぶき者」たちが公家社会に横行していたのである。」

「辻切りの横行と公家に向けられた嫌疑」「諸公家(公家衆)法度」↓
「この慶長十年代、公家社会の中に、辻斬りをする『かぶき者』が横行していたのである。このような公家の『かぶき者』の行動を取り締まり、あるべき公家の姿に統制して意向とするものが、『公家の放鷹禁止』、そして、それに続く『諸公家(公家衆)法度』」であった。」

《公家の姿かたちとは》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P166)

「公家のフォーマルな姿は、『束帯姿や烏帽子直衣姿』の公務のイメージであるが、『普段着の公家の姿』は、この図のように、京の町に出歩く際に、武士と同じような姿をしていたのであろう。」

《振り返って二条城を見ている「かぶき者」の公家》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P166-167)

「この堀川の橋にいる四人の男(そのうちの二人は鷹を据えている)は、鷹狩りの好きな四人の公家なのだ。そして、鷹狩りを一部の武家の特権として、公家は公家らしく、鷹狩りなどは禁止するという幕府の統制に、冷ややかな眼差しをもって、その幕府の統制に一翼を担っているような、二条城の大手門を潜ろうとしている、武家伝奉一行を見守っている図のようである。」(要点要約・意訳)

かぶき公家供揃図.jpg

「かぶき公家供揃図」(古田織部美術館蔵)
https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=3461

http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

 この「かぶき公家供揃図」について、下記のアドレスで、次のような記事を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-27

【 江戸初期の慶長年間(1596-1615)、京ではかぶき(傾き)者(いたずら者)の文化が一世を風靡していました。なかでも、「かぶき手の第一」(『当代記』)といわれたのが、織田信長の甥・織田左門頼長(道八)です。また、公家の世界では、「天下無双」の美男と称され、ファッションリーダーでもあった猪熊少将教利、彼と親しかった烏丸光広などの若い公家たちの行動が「猪熊事件」へと発展します。さらに、「天下一」の茶人だった古田織部が好んだ、奇抜で大胆な意匠の茶器や斬新な取り合わせも、数寄の世界でかぶきの精神を表現したものといえるでしょう。本展では、織部好みの茶器や刀、織田頼長の書状、猪熊事件に連座した公家衆の直筆短冊などの品を通して、かぶいた武士・公家衆の人物像を探ります。 
※「光源氏」になぞらえた京のファッションリーダー猪熊少将の「猪熊様」と言われた髪型をついに解明! → 「かぶき公家供揃図」には、月代(さかやき)を大きく剃った大額(おおひたい)に茶筅髷(まげ)、襟足を伸ばして立てるという異風の髪型の公家が描かれているが、これが「猪熊様(よう)」と推定されます。  】

 先ほどの「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)の四人は、普段着ではなく、フォーマルな公家姿で、例えば、天正九年(一五八一)の、織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードの「京都御馬揃え」時の「公家衆」と仮定すると、次のようなメンバ―の、そこに出てくる公家衆の普段着の姿のようにも思われるのである。

【 公家衆:近衛殿(近衛前久)、正親町中納言殿(正親町季秀)、烏丸中納言殿(烏丸光宣)、日野中納言殿(日野輝資)、高倉藤衛門佐殿(高倉永孝)、細川右京大夫殿(細川信良)、細川右馬殿(細川藤賢)、伊勢兵庫頭殿(伊勢貞為)、一色殿(一色義定)、山名殿(山名氏政)、小笠原(小笠原長時)、高倉永相、竹内長治   】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 そもそも、若き日の織田信長の「茶筅髷」(毛先を茶筅のように仕立てた男性の髪型)が「かぶき者」の代名詞とすると、公家衆の筆頭の「かぶき者」は、当時の、「武闘派」の「騎馬好き・鷹狩好き」の「近衛前久(龍山)」(「近衛信尹の父」)の英姿と重なってくる。
 そして、「猪熊事件」で処罰を受けた公家衆(猪熊教利・大炊御門頼国・花山院忠長・飛鳥井雅賢・難波宗勝・松木宗信・烏丸光広・徳大寺実久) は、これらは、全て、この武闘派」の「かぶき者」の公家「近衛前久(龍山)・近衛信尹(三藐院)」に連なる、上層公家衆の面々ということになろう。
 ここで、「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)の四人は、「猪熊教利(四辻家四男・山科家相続、後に別家の猪熊家)・四辻季満(教利の兄・四辻家の長男・鷲尾家相続)・四辻季継(教利の兄・四辻家四男・四辻家相続)・高倉(藪)嗣良(教利の弟・四辻家の五男・高倉家相続)と見立てるのも一興であろう。
 ちなみに、後水尾天皇の典侍で、一男一女を生み、東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放された「およつ御寮人事件」の「四辻与津子」は、猪熊教利の妹である。
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源氏物語画帖「その四十六 椎本」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏

長次郎・椎本.jpg

源氏物語絵色紙帖  椎本  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

久我・椎本.jpg

源氏物語絵色紙帖  椎本  詞・久我敦通
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「久我敦通」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/19/%E6%A4%8E%E6%9C%AC_%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%8C%E3%82%82%E3%81%A8%E3%83%BB%E3%81%97%E3%81%B2%E3%81%8C%E3%82%82%E3%81%A8%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81

阿闍梨の室より炭などやうのものたてまつるとて年ごろにならひはべりにける宮仕への今とて絶えはつらむが 心細さになむと聞こえたりかならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを思し出でてやりたまふ
(第四章 宇治の姉妹の物語 第一段 歳末の宇治の姫君たち)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十六帖 椎本
 第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る
  第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る
  第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す
  第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る
  第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
  第五段 八の宮、娘たちへの心配
 第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す
  第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問
  第二段 薫、八の宮と昔語りをする
  第三段 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京
  第四段 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る
  第五段 八月二十日、八の宮、山寺で死去
  第六段 阿闍梨による法事と薫の弔問
 第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち
  第一段 九月、忌中の姫君たち
  第二段 匂宮からの弔問の手紙
  第三段 匂宮の使者、帰邸
  第四段 薫、宇治を訪問
  第五段 薫、大君と和歌を詠み交す
  第六段 薫、弁の君と語る
  第七段 薫、日暮れて帰京
第八段 姫君たちの傷心
 第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち
  第一段 歳末の宇治の姫君たち
  第二段 薫、歳末に宇治を訪問
  第三段 薫、匂宮について語る
  第四段 薫と大君、和歌を詠み交す
  第五段 薫、人びとを励まして帰京
 第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる
  第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る
  第二段 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答
  第三段 その後の匂宮と薫
  第四段 夏、薫、宇治を訪問
  第五段 障子の向こう側の様子

(参考)

【久我 敦通(こが あつみち)
生誕 永禄8年8月21日(1565年9月15日)
死没 寛永元年11月22日(1625年1月1日)

室町時代後期から安土桃山時代の公卿。主に正親町天皇(106代)・後陽成天皇(107代)の二代にわたり朝廷に仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。父は久我通堅。母は佐々木氏。初名は吉通、季通。一字名は橘。号は円徳院。
(生涯)
永禄9年(1566年)に叙爵。
永禄11年(1568年)に父が目々典侍との密通の風聞がたったことで正親町天皇の勅勘を被り、京都から追放され、元亀4年(1573年)には祖父の晴通が将軍・足利義昭の京都追放に同行してしまう。
その後、天正3年(1575年)3月に祖父が、翌4月には父が客死してしまうが、織田信長の配慮で家督継承が認められて、11月には信長から所領の安堵を受けた。
 以降累進し、天正6年(1578年)に従三位に達して公卿に列した。
 天正10年(1582年)に権大納言、天正15年(1587年)に従二位となる。
 文禄4年(1595年)より武家伝奏となり、朝廷と豊臣氏との取り次ぎに活躍。豊臣家からも信頼を受けて、しばしば加増を受けている。
 慶長4年(1599年)、勾当内侍との密通の風聞がたったことで、子の通世とともに後陽成天皇の勅勘を被り、京都から追放されている。  】(ウィキペディア)

(「三藐院ファンタジー」その三十六)

左五上・紫宸殿.jpg

「紫宸殿」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 「紫宸殿」の「垂簾(すいれん)」の中には、天皇(後陽成天皇か次の後水尾天皇)が出御しているのであろう。その前の「簀子縁(すのこえん)」には、冠束帯姿のトップクラスの殿上公家が居並んでいる。垂簾の右脇に黒い枠の「格子」(上に「半蔀」で夜間に「蔀戸」になる)があり、左方にも黒い「格子」が見える。

左五上・舞楽.jpg

「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)

 その「紫宸殿」の南庭に舞台が設置され、二人舞の「青海波」が演じられている。その右側に、「大太鼓・笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・横笛(おうてき)・笏拍子(しゃくびょうし)などの楽器を演奏する人が描かれている。
 この舞台は架設用の舞台ではなく、慶長期の内裏造営は、「慶長十七年末より慶長十八年中工事が行われ、同年十二月八日、新造内裏の移徒(わたまし)の日時が定められ、後水尾天皇が仮内裏から新内裏へ移徒したのは、同年十九日。そして、慶長十九年年(一六一四)に、紫宸殿の前に舞台や楽屋が建てられた」(『新訂京都御所(藤岡通夫)』)、したがって、「舟木屏風の制作時期は、それ以降ということになろう」(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P144-145)との見解を提示している。

左上六上・清涼殿.jpg

「清涼殿」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)

 一見すると、「紫宸殿」と同じかという印象を受けるが、「紫宸殿」は、「内裏」(天皇の日常居住する住居)の「正殿」(朝賀・即位・大嘗会などの重要な儀式を行う建物)で、「清涼殿」は、天皇の日常の御座所の、四方拝・小朝拝や除目などの諸公事を行う建物と、まず、その建てられている位置関係が、異なっている。
 すなわち、「紫宸殿」の前庭は「南庭」に位置し、その左右に「左近の桜」(東方)と「右近の橘」(西方)が植えられている。一方の「清涼殿」の前庭は、「東庭」に位置し、北方に「呉竹」(格子の籬垣の中に淡竹が植えられている)、南方に「河竹」(格子の籬垣の中に漢竹が植えられている)が据えられている。
 この「清涼殿」の後方(北側)に、宮中の后妃・女官が居住する殿舎(七殿五舎)が位置し、これらが、いわゆる、「後宮(こうきゅう)」である。
 これらの全体像を把握するのには、次の「源氏物語(源氏物語画帖)に見る内裏の図」が分かりやすい。

内裏.jpg

「源氏物語に見る内裏の図」
http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/dairizu.html

【1.紫宸殿(ししんでん)→宮中の行事を執り行う御殿。
「桐壺・第1帖」で第一皇子(弘徽殿の春宮)が御元服の儀を行った所。
「花宴・第8帖」で桜の宴が催された。
2.清涼殿(せいりょうでん)→帝の住まい。これより北側の建物を後宮と言い多くの女性が暮らしていた。
「桐壺・第1帖」で源氏の君の御元服の儀が行われた。
「紅葉賀・第7帖」舞楽の予行演奏がこの前庭で催され、源氏の君が清海波を舞われた。
3.後涼殿(こうりょうでん)→清涼殿の西隣で帝付きの女房の住まい。
「桐壺・第1帖」で淑景舎8に住む桐壺の更衣が女房達のイジメを受け、帝に最も近いこの御殿を賜ることになる。
4.弘徽殿(こきでん)→桐壺帝の第1皇子を産んだ女御の住まい。物語を通して、源氏の君と反目する立場にある。
「花宴・第8帖」源氏の君の須磨流離の原因となる朧月夜の姫君との出逢いの場となる。
5.飛香舎(ひぎょうしゃ)→藤壷と呼ばれる御殿。
「桐壺・第1帖」桐壺の更衣亡き後、中宮として迎えられた先帝の姫君の住まいで、源氏の君がこの継母を愛することから物語が展開される。
6.凝華舎 (ぎょうかしゃ)→梅壺と呼ばれる殿。
「賢木・第10帖」桐壺院亡き後、弘徽殿の大后が使われた部屋。当時弘徽殿には、朱雀帝の寵愛を受けていた朧月夜の姫君が住んでいた。
7.麗景殿(れいけいでん)→帝に仕えた女御の住まい。
「花散里・第11帖」の姫君(花散里)はここに住む女御の妹君に当たる。
8.淑景舎(しげいしゃ)→桐壺と呼ばれ、北側の一番遠い所にある。
「桐壺・第1帖」光源氏の母君は帝の寵愛を受けながら更衣という低い身分のためここにいた。
9.温明殿(うんめいでん)→帝に仕える女房の住まい。
「紅葉賀・第7帖」老女典侍と源氏の君とのお戯れの場。   】

左六上・若公家と上臈.jpg

「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)

《内裏の不思議な光景》《若い公家と上臈の逢瀬》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P151-153とP154)

「この内裏様には、これまで誰も着目してなかった、じつに不思議な光景が二か所にあることに気付く。一つは、清涼殿の左側(奥)に描かれている、この『若公家と上臈の逢瀬』である。このような男女の表現は、他の洛中洛外図屏風にはおそらくない。
 この図だけでは解釈が難しいが、次の「短冊を書いている五人の上臈たち」と合わせ考えれば、これは、「猪熊事件あるいは官女密通事件という一大不祥事」に関係しているように思えるのである。

左五上・五人の上臈.jpg

「短冊を書いている五人の上臈たち」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)

《内裏の不思議な光景》《短冊に恋の歌を書いている五人の上臈たち》》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P151-153)

「この屏風は、改装の際に各扇の上下左右を切り落とされている。その結果として、肝心の読解が困難になってしまった個所が多い。この図も上部が裁ち落とされて読解が困難なのだが、『短冊に恋の歌を書いている五人上臈たち』が描かれているように思える。
 この五人の上臈の数が、「猪熊事件」(官女密通事件)に関わった五人の官女の数と一致するのである。

《猪熊事件あるいは官女密通事件という一大不祥事》《事件の発端》《「かぶき者」の公家猪熊教利と兼屋頼継》《発覚》《処罰》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P154-158)

 「猪熊事件」(官女密通事件)については、豊富な資料に基づき、その詳細が記述されているが、これらのことについては、下記アドレスで紹介したものと大筋で一致するので、それらの一端について、下記に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-27

【  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

《 猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分
慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪    
左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)
新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
参議 烏丸光広《三十一歳》
右近衛少将 徳大寺実久《二十七歳》    》

https://ameblo.jp/kochikameaikouka/entry-11269980485.html

《 ※広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。
※中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。  》

https://toshihiroide.wordpress.com/2014/09/18/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BC%881%EF%BC%89/

《 権典侍中院局の兄で正二位内大臣まで上り詰めた中院通村(なかのいん・みちむら)が、後水尾帝の武家伝奏となって朝幕間の斡旋に慌ただしく往復していたころ、小田原の海を眺めつつ妹の身を案じて詠んだ歌がある。
  ひく人のあらでや終にあら磯の波に朽ちなん海女のすて舟
 一首は「私の瞼には、捨てられた海女を載せて波間を漂う孤舟が浮かぶ。いつの日か舟をひいて救ってくれる人が現れるであろうか。それとも荒磯に打ちあげられて朽ちてしまうのか。かわいそうに可憐な妹よ、私はいつもお前のことを憂いているのだよ」と。】

https://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran91utf.html

<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)   》  】

 すなわち、「短冊を書いている五人の上臈たち」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)の、その「五人の上臈たち」とは、次の五人の女臈を指している。

新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>

 そして、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)に描かれている二人は、「左近衛少将 花山院忠長(二十二歳>と新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>)ということになる。
 さらに、この「新大典侍 広橋局」の父親の、当時、武家伝奏として朝廷と幕府の融和に努め、「出頭無双」といわれその権勢は大きかったが、幕府に譲歩も強いられ「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあった「広橋兼勝」が、「二条城大手門を潜る一行」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)、また、その「猪熊事件」の裁定に大きく関わった、時の京都所司代の「板倉勝重」(伊賀守)が、「二条城内での裁判での九曜紋の板倉勝重」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)が描かれているとの見解が記述されている(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P171-178)。
 これは、次の「三藐院ファンタジー」で記述することにして、ここでは、「内裏」(御所=後水尾天皇)の近くの「院御所」(後陽成院)の図を掲載して置きたい。

左四上・院御所.jpg

「院御所(後陽成院)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第四扇上部))

《院御所》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P160)

「名所は上部が切れていて、「□□所」とある。この建物は「女院御所」と「院御所」の二つの解釈があるが、簀の子縁では文書が作成されている最中である。これは院政の表現なのであろう。とすれば、この院御所にいるのは、譲位したばかりの後陽成上皇なのである。この点に着目すると、内裏は後水尾天皇のそれということになる。」

《内裏様のダブルイメージ》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P161)

「つまり、舟木屏風には二つの内裏が表現されている。後陽成天皇の内裏と、即位してまだ間もない後水尾天皇の内裏である。慶長十六年三月二十七日、後陽成天皇は退位し、同年四月十二日に後水尾天皇が即位した。その以前の後陽成天皇の内裏とそれ以後の後水尾天皇の内裏、そのいずれにも見えるように描かれている。このダブルイメージとして描いたのは、注文主の意向に基づく画家又兵衛と創作ということになる。」(要点、要約記述)

 このことを「猪熊事件」当時に当てはめてみると、「猪熊事件」が発覚したのは、慶長十四年(一六〇九)六月半ば頃で、後陽成天皇の時代であった。後陽成天皇は、自分に仕える官女たちと若公家衆による集団的な密通行為を知って、捜査権を有する幕府(京都所司代)に、厳罰(死罪)に処したい意向を伝えたが、事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が、この事件の裁定に関わり、すべて幕府主導のままにその結着を見ることになる。
 その結着は、国母(後陽成天皇の生母)新上東門院(勧修寺晴子)などの意向を汲んでの、後陽成天皇の意向は無視され、結果的に、死罪(二人)、配流(十名)、恩赦(二人)ということになった(個々の処分裁定は前述のとおり)。後陽成天皇は、この処分措置には大不満で、その後、周囲と孤立しまま、不本意な譲位を余儀なくされ、徳川家康が亡くなった翌年の元和三年(一六一七)に崩御した。
 すなわち、後陽成天皇は、幕府主導の後水尾天皇の譲位を強いられ、この「院御所」で、意のままに、後水尾天皇の背後で、後陽成上皇としての「院政」を行う状況下には置かれていなかった。
 「院御所(後陽成院)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第四扇上部))の、「簀の子縁では文書が作成されている最中である。これは院政の表現なのであろう」というのは、後陽成天皇時代の、「慶長勅版」(大型木活字による勅版の開版)や「近臣を動員した収書・書写活動に専心し禁裏本歌書群の基礎を築いた」、その業績を、象徴的に見立てたもので、「院政の表現」の見立てではなかろう。
 そして、「見立て」(あるものを他になぞらえて創作すること)というは、その「なぞらえて創作したもの」が、その「本体が何か」ということを暗示するもので、「ダブルイメージ」というよりも、臨機応変に「多様なイメージ」を伝達するということが、その本意なのであろう。
 例えば、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)の図は、「猪熊事件」の見立てというよりも、『源氏物語』の主人公「光源氏」と「実父の桐壺帝の後添えの藤壺中宮、亡き母の面影を宿している光源氏の初恋の女性」との「不義密通」の見立てで、その描かれている位置は、その「藤壺中宮」が住んでいる、清涼殿の後方(北側)の《5.飛香舎(ひぎょうしゃ)=藤壷と呼ばれる御殿=「桐壺・第1帖」桐壺の更衣亡き後、中宮として迎えられた先帝の姫君の住まいで、源氏の君がこの継母を愛することから物語が展開される》(先の「源氏物語に見る内裏の図」)の箇所辺りに、この「若公家と上臈の逢瀬」が描かれている。
 また、「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)の図も、これも、「源氏物語」の「紅葉賀・第7帖」での、「光源氏が、その藤壺の御前で青海波を舞う」、それをイメージしての見立てと解することも出来よう。

岩佐勝友・青海波.jpg

「紅葉賀」(岩佐勝友筆「源氏物語屏風・六曲一双・紙本金地著色・各155.2×364.0・出光美術館蔵」の「紅葉賀・右隻第二扇」)

 この『源氏物語・第七帖』の「紅葉賀」の「青海波」の図は、「又兵衛工房と岩佐派のゆくえ(戸田浩之稿)」(『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著・とんぼの本)』)所載のものであるが、これに続く「花の宴・第八帖」は次のものである。

岩佐勝友・花の宴.jpg

「花の宴」(岩佐勝友筆「源氏物語屏風・六曲一双・紙本金地著色・各155.2×364.0・出光美術館蔵」の「花の宴・右隻第二扇」)

 これを描いた「岩佐勝友」(屏風縁裏に「勝友書之」の署名あり)は、岩佐又兵衛の弟子で、「又兵衛工房」の一人なのだが、詳細は不明である。又兵衛の「又兵衛工房」を継いだのは、又兵衛の福井移住後の、長男・勝重(?~一六七三)、そして、その子の陽雲(?~一七〇八)だが、それらの「又兵衛工房」の実態は謎のままである。
 そして、又兵衛の弟子の、この岩佐勝友筆の「花の宴」は、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)のイメージと重なってくる。このイメージは「光源氏と朧月夜の君との逢瀬」の見立てということになる。
 この「洛中洛外図屏風・舟木本」(六曲一双)のような屏風絵(画)の展開は、「俳諧」(俳諧の連歌)の、三十六場面(句)からなる「歌仙(三十六句形式の俳諧=連句)」の構造と極めて類似している。
 すなわち、六曲一双屏風の「右隻」(第一扇~第六扇を各三区分=上・中・下して「十八場面」)、「左隻(「右隻と同じ構造で「十八場面」)の「三十六場面」で、その「三十六場面」が、「一場面一場面の独自の面白さ(創作)」があり、「他の場面と連動しての面白さ(創作)」があり、その連動の仕方に、「物付け・心付け・余情付け」などの配慮がなされる。さらに、「一巻(全体)として、舞楽の拍子の『序・破・急』の展開の面白さ(創作)」が、その創作(作る=場面を作る・味わう=場面を味わう)に加わった人に、「盤上転珠(ばんじょうてんじゅ)=盤の上を珠が転がる」の「心地よさ」にさせる」というのが基本になる。
 そして、この俳諧の「他の場面と連動しての面白さ(創作)」では、その連動しようとする場面(前の場面)を自分なりに「見立てて」(他人の作ったものを、自分なりに解釈して連動させる)創作(作句)することになる。
 具体的には、「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」の図に連動して、「若公家と上臈の逢瀬」の図は、「花の宴」(「光源氏と朧月夜の君との逢瀬」)のようにも思えるが、それを、当時の「猪熊事件」の「若公家と上臈の逢瀬」と「見立て替え」して、次のステップの図を創作するということになる。
 この次のステップ以降の展開を、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』をベースにして見ていくことにする。
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源氏物語画帖「その四十五 橋姫」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)

長次郎・橋姫.jpg

源氏物語絵色紙帖  橋姫  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

四辻・橋姫.jpg

源氏物語絵色紙帖  橋姫  詞・四辻季継
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「四辻季継」書の「詞」)

雲隠れたりつる月のにはかにいと明くさし出でたれば扇ならでこれしても月は招きつべかりけりとてさしのぞきたる顔いみじくらうたげに匂ひやかなるべし
(第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る 第三段 薫、姉妹を垣間見る)

(周辺メモ)

第四十五帖 橋姫
 第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮
  第一段 八の宮の家系と家族
  第二段 八の宮と娘たちの生活
  第三段 八の宮の仏道精進の生活
  第四段 ある春の日の生活
  第五段 八の宮の半生と宇治へ移住
 第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ
  第一段 八の宮、阿闍梨に師事
  第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る
  第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る
第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ
 第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る
  第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く
  第二段 宿直人、薫を招き入れる
  第三段 薫、姉妹を垣間見る
  第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面
  第五段 老女房の弁が応対
  第六段 老女房の弁の昔語り
  第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京
  第八段 薫、宇治へ手紙を書く
  第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る
 第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る
  第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く
  第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引
  第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く
  第四段 薫、父柏木の最期を聞く
  第五段 薫、形見の手紙を得る
  第六段 薫、父柏木の遺文を読む

(参考)

四辻季継書状.jpg

「四辻季継筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/402

【四辻季継〈よつつじすえつぐ・1581-1639〉は、正二位・権大納言公遠〈きんとお・1440-95〉の二男。初名は教遠(のりとお)。寛永3年〈1626〉、46歳の時、正二位・権大納言に至る。四辻家は、もともと和琴・箏をもって朝廷に仕えた家柄であった。この書状は、某年の一月、仙洞(後水尾上皇)における御会始の歌会にあたって詠んだ詠草ながら、その不出来を恥じつつ、その添削を中院亜相(亜相は大納言の唐名)、すなわち、中院通村〈なかのいんみちむら・1588-1653〉に求めたものである。季継の権大納言在任(寛永3年〈1626〉~同16年〈1639〉=死去)と通村の権大納言在任期間(寛永6年〈1629〉~同19年〈1642〉)から、季継の50代の筆跡と判明する。かれは、書流系図においても近衛流の能書として知られるが、この書状にもその特徴が見え隠れしている。「仙洞の御会始めの愚作に候。何とも成らず候て、正体無く候。御詞加えられ候て、下され候はば、畏れ入り候。殊に御急ぎにて候て、赤面此の事に候。猶、面拝を以って申し入るべく候。恐々謹言。十九日中(院)亜相公四辻大納言季継」

(釈文)

仙洞之御会始之愚作ニ候何とも不成候て無正躰候御詞被加候て被下候者可畏入候殊御急に候て赤面此事候猶以面拝可申入候恐々謹言十九日(花押)四大納言中亜相公季継   】

(「三藐院ファンタジー」その三十五)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

 この「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」右隻第六扇・部分拡大図)は、豊臣秀頼と徳川家忠との「大阪夏の陣」の見立てで、その登場人物は、主役の「秀頼と家忠」の他に、「淀殿・高台院・千姫・大野治長・治房兄弟・孝蔵主・方広寺関係僧・蜂須賀家・前田家・浅野家関係武士」などが読み取れるというのが、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』などの謎解きであった。
 この「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)は、「洛中洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)と連動していて、この「豊国祭礼図屏風」の「高台院」が、同じ格好をして、「洛中洛外図・舟木本」に出て来るというのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)。

右四・五中・五条大橋で踊る高台院.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

右四中・高台院アップ.jpg

同上(五条橋で踊る老後家尼)第五扇拡大図

《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」

《豊国祭礼図屏風の老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P206-207)

「ここで、拙著『豊国祭礼図を読む』の記述を想い起こしたい(二六六頁)。そこで、淀殿の乗物の脇にいて、慌てて飛び退いている老後家尼の高台院がかかれていると指摘しておいた。この高台院も、舟木屏風の老後家尼と同様の姿で描いている。つまり舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである。」

 それだけではないのである。「豊国祭礼図屏風」の、豊臣秀頼と徳川秀忠の「かぶき者の喧嘩」に見立てての「大阪夏の陣」に対応する「大阪冬の陣」が、何と、「洛中洛北屏風・舟木本」の、右隻第二扇の「方広寺大仏殿」の上の、「妙法院」の門前で「かぶき者らしき男たちの喧嘩」の見立てで、又兵衛は、それとなく描いているのである。
 その舟木本の「かぶき者らしき男たちの喧嘩」の図は、次のものである。

舟木本・大阪冬の陣.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

【《二年前に出した拙著『豊国祭礼図を読む』では、徳川美術館本の右隻第五・第六扇の喧嘩の場面に、「かぶき者」に見立てられた豊臣秀頼の姿を見出したというに、みの舟木本の喧嘩の場面については、肝心のディテールを「見落とし」てしまったのである。家紋を見落としたのだ。》

《妙法院と照高院の門前で喧嘩が始まっている。双方六人ずつ、武器は鑓・薙刀と刀である。》

《この妙法院と照高院の門前の喧嘩は何を意味しているのか? それを物語るのが、右側の男の背中に描かれている家紋であったのだ。この男の茶色の短い羽織の背中には、「丸に卍紋」が大きく描かれている。この「丸に卍紋」は阿波の蜂須賀氏の家紋である。妙法院・照高院の門前に描かれているのは下郎ないし「かぶき者」の喧嘩であるが、この家紋は、それが大きな戦いの「見立て」であることを示唆している。》

《慶長十九年(一六一四)十月からの「大阪冬の陣」において、とくに目立った軍勢は阿波の蜂須賀家勢(蜂須賀隊)であった。十一月十九日、大阪方の木津川の砦を、蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の三者で攻めることになったが、蜂須賀至鎮は抜け駆して、砦を陥落させたのであった。次に蜂須賀勢が著しい成果を挙げたのは、同月二十九日の未明に、薄田隼人の守っていた博労ケ淵の砦を攻撃し、砦を奪取した。また逆に、十二月十六日の深更に、蜂須賀勢の陣地は、大阪方の塙団右衛門らによって夜襲をかけられてもいる。》

《すなわち、大阪冬の陣における蜂須賀勢の攻防・活躍はとくに顕著であり、世間によく知られたことであった。他方、「大阪夏の陣」での蜂須賀軍はどうだったか。蜂須賀軍は、荒れた海と紀伊の一揆のために、夏の陣の決戦には間に合わず、夜通し進軍して、五月八日(大阪城の落城は五月七日)に住吉に着陣し、茶臼山と岡山の陣営に行って家康と秀忠に拝謁したのであった。》

《したがって、「かぶき者」の背中に描かれた「丸に卍紋」は、大阪冬の陣における蜂須賀勢を意味する。この場面は、大阪冬の陣における戦いを「かぶき者」たちの喧嘩に見立てたものだったのである。以上のように読むと、舟木本の右隻第二扇の喧嘩は、徳川美術館本の右隻第五・六扇上部に描かれた「かぶき者」の喧嘩の場面と繋がってくる。》 】
(「一 舟木本「洛中洛外図屏風」読解の「補遺」」の要点要約)

 この「徳川美術館蔵「豊国祭礼図か」の注文主(黒田日出男稿)」の論稿は、平成三十年(二〇一八)の徳川美術館での講演用のものを改稿したもので、この種の読解は現在進行形の形で、その後の知見も集積されていることであろう。
 それらの中には、おそらく、この「大阪冬の陣に見立てた『かぶき者』の喧嘩」が、「何故、『妙法院・照高院』の門前で描かれているのか」にも触れられているのかも知れない。
 これは、大阪冬の陣の勃発の発端となった「方広寺鐘名事件」の震源地の「方広寺」の総括責任者が、当時の方広寺を所管していた「照高院・興意法親王」で、この「方広寺鐘名事件」で、一時「照高院」は廃絶され、興意法親王は「聖護院宮」に遷宮となり、方広寺は「妙法院・常胤法親王」の所管となり、その「方広寺鐘名事件」関連の終戦処理は、その「妙法院・常胤法親王」が担うことになる。この「方広寺鐘名事件」に関連する、「興意法親王」の書状が今に遺されている。

興意法親王書状.jpg

御書状 「立札通」(聖護院宮 興意法親王書 ・海の見える杜美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237671
【 慶長十年(一六〇五)徳川秀忠江戸下向の際、暇乞に信尹や常胤らと礼参(義演准后日記)するなど、時の為政者によく仕えていたが、慶長十九年(一六一四)の方広寺鐘銘事件では、大仏殿住職の職を解かれ、聖護院にて遷居となった。なお、常胤が大仏殿住職を継いだ。
 後陽成天皇の皇弟で、酒樽二つ贈られた礼状。宛名は「金□□」と見えるが、明らかにしない。「諸白」はよく精白した米を用いた麹によってつくられた酒である。江戸へ下向して将軍に会ったことを述べて、末尾にはお目に懸ってまた申しましょうとあるが、文末の決まり文句で「期面云々」「面上云々」などを結びとするのが通例である。(『名筆へのいざない―深遠なる書の世界―』海の見える杜美術館2012 解説より)  】

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

 上記の図について、前回、下記のとおり記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-30#comments

【ここまで来ると、上記の図・上部の「大阪城から脱出した千姫」と思われる貴女の、左後方の屋敷から、喧嘩の状況を見極めているような人物は、千姫を大阪城の落城の時に、家康の命により救出した「坂崎直盛(出羽守)」という「見立て」も可能であろう。
 さらに、この図の下部の「秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶(三人?)
のうちの中央の身分の高い僧衣をまとった人物は、「方広寺鐘銘事件」が勃発した時の、方広寺門跡「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」の「見立て」と解することも、これまた、許容されることであろう。
そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。
 この「方広寺鐘銘事件」と「興意法親王(照高院)」との関連などについては、下記のアドレスで取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

ここで、先の(参考一)に、興意法親王(照高院)も入れて置きたい。

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) → 「方広寺鐘銘事件」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
※※松平忠直(1595-1650)   →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」  】

 さらに、次のアドレスのものも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-20

【「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)
 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図()周辺は、下記記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

正親町天皇→陽光院(誠仁親王)→ ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)
      ↓        ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
      ↓          ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良(養父・一条内基)
      ↓        ↓興意法親王     ↓良純法親王 他
    ※青蓮院尊純法親王(常胤法親王の王子、良恕法親王より灌頂を受け親王宣下)
 
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里)
※妙法院常胤法親王(誠仁親王の弟・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)   】

舟木本・大阪冬の陣.jpg

(再掲)「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第二扇中部部分拡大図」(東軍=蜂須賀勢)

舟木本・大阪冬の陣・幸村の槍.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
(西軍=真田勢)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 「照高院・妙法院」前の、「かぶき者」の小競り合い(六人対六人)が、何と、「大阪冬の陣」の見立てとし、その「東軍」の代表選手が、薙刀を持って、背中に「丸に卍紋」の軍羽織をした男が「蜂須賀勢」を意味するとなると、それに相対する「西軍」の代表選手は、
 この下図の「大千鳥十文字槍」を持っている男の「真田勢」ということになろう。

大千鳥十文字槍.jpg

「真田信繁(幸村)愛用の大千鳥十文字槍」(真田宝物資料館蔵)
https://monorog.com/archives/1112

 上記のアドレスのものは、「大千鳥十文字槍の由来 現在の持ち主は真田宝物資料館?」というもので、関連する記事として、「大阪冬の陣の歴史 真田丸の戦いとは?」「大阪夏の陣の歴史 豊臣家の滅亡と高台院」の、三本立ての記事として見ると、この「洛中洛外図屏風・舟木本」そして「豊国祭礼図屏風」の見立てを読み解くのには参考となる。
 ついでに、「東軍」の「蜂須賀勢」(「丸に卍紋の軍羽織」を着ている男)が手にしている「薙刀」も、「蜂須賀勢」を象徴するものでなく、これも、「真田信繁(幸村)」が、大阪夏の陣で、越前松平勢(藩主は岩佐又兵衛のパトロンとなる松平忠直)に討ち取られた時に使用していたものとして、越前松平藩に伝わっているものに由来があるように思われる。

幸村所用の薙刀.jpg

「真田信繁(幸村)が大阪夏の陣で越前松平藩に討ち取られた際の所用の薙刀」(越葵文庫蔵)
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/yukimura.pdf

 上記のアドレスに、次のように解説されている。

【 采配とともに真田信繁を討ち取った福井藩士・西尾宗次の子孫の家に伝わったもので、のち藩主松平家に献上され、松平家に伝来している。由緒書が残されており、
「慶長二十年乙卯七月十三日元和ト改 大坂御陣茶臼山御本陣之節 真田左衛門尉幸村ヲ討取采配ト長刀 西尾仁左衛門尉宗次」
「此長刀及采配ハ当藩士西尾仁左衛門尉宗次が茶臼山陣ニ於テ真田幸村ヲ討取リタル際分捕セシモノ也」
「采配 薙刀西尾久馬所持 祖先西尾仁左衛門尉宗次大阪ノ役ニ茶臼山陣ニ於テ真田左衛門尉幸村ヲ討取此両品ヲ分捕」といった文言が見える 】

 ここで、真田信繁(幸村)は、越前松平藩(藩主は岩佐又兵衛のパトロンとなる松平忠直)に討ち取られたのは、この大阪冬の陣ではなく、それに続く、大阪夏の陣に於いてなのである。
とすると、「豊国祭礼図屏風」の「大阪夏の陣」の何処かに、真田信繁(幸村)を見立てているものが描かれている筈である。

かぶき者の「窯〇怒』紋.jpg

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

 このアドレスの「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)の記述は次のとおりである。

【「かぶき者」の「鎌〇怒(かまわぬ)」紋があることに気付く(指図四)。この紋は、従来、幡随院長兵衛の頃に生まれたとされてきたが、慶長期の「かぶき者」がすでに使用していた紋であったことは、これで明らかになった。このような判じ物的な趣向は、江戸中期まで下らず、慶長期の「かぶき者」たちがすでに好んでいたものであった(註9=「岩佐又兵衛の『豊国祭礼図屏風』から歴史を読む」=『Kotoba』(集英社) 30号。2018年12月)。】

 上記の「かぶき者」の「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の読み方は、それだけではない。もう一つの読み方は、「かぶき者」は、上半身裸の主人公の「殿様スタイル」の男なのである。   
 そして、それを引き留め取っているような「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の男と、その下の、真田家の家紋の「六文銭」もどきの紋章の男二人は、この「もろ肌脱ぎの主人公(殿様)」が誰であるかを証明している、その示唆を投げかけている、謂わば「説明用の黒子の人物」ということに他ならない。
 すなわち、上記の「もろ肌脱ぎの主人公(殿様)」は、「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の、「鎌」形の「(大千鳥)十文字槍」の「鎌槍(十文字槍など)」と、次の「六文銭」もどきの男の、この二つ備えて示唆している、すなわち、「真田信繁(幸村)」ということになる。

豊国祭礼図屏風・主役たち.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図の下部の拡大(「中央=興以法親王(照高院門跡)・文英清韓)、左方、「豊臣秀頼・真田信繁(幸村)」、右方、「徳川秀忠・徳川忠直(岩佐又兵衛のパトロン「越前松平藩主)」

 ここで、この「豊国祭礼図屏風」(右隻第六扇・中部)の「かぶき者の喧嘩図」に戻って、この喧嘩図が、「大阪夏の陣」の見立てで、左方の上半身裸の「かぶき男」が、西軍の「豊臣秀頼」で、右方の上半身が、東軍の「徳川秀忠」とすると(『黒田・角川選書533)、
この秀頼の後方の、もろ肌脱ぎの「かぶき男」は、西軍の代表選手の「真田信繁(幸村)」という見立てが成り立つという、「三藐院ファンタジー」的な推理なのである。
 そして、右方の秀忠の右後方の、もろ肌脱ぎの「かぶき男」は、この大阪夏の陣で、その「真田信繁(幸村)」を討ち取った越前松平藩主の「徳川忠直」(岩佐又兵衛のパトロン)と解したいという、これまた、「三藐院ファンタジー」的な見立てなのである。
 この「松平忠直」(1595-1650)と「岩佐又兵衛」(1578-1650)との関連などについては、
『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』で詳細に記述されているのだが、ここでは、そのタイトルの副題にあるとおり、「パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎」解きに関連するもので、「豊国祭礼図屏風」や「洛中洛外図屏風・舟木本」に関する事項は、皆目出て来ない。
 そして、下記アドレスの「徳川美術館蔵『豊国祭礼図』の注文主(黒田日出男稿)」では、「豊国祭礼図屏風」の注文主は、阿波の徳島藩主の「蜂須賀家政(蓬庵)」(1558-1639)、そして、「洛中洛外図屏風・舟木本」は、「京の上層町人・暖簾『雪輪笹』の室町二条上ルの笹屋半四郎(呉服商)」と推定をしているのだが、この「洛中洛外図屏風・舟木本」も、阿波徳島藩主の「蜂須賀家政(蓬庵)」に匹敵する、後に、岩佐又兵衛のパトロンとなる、越前松平藩主の「松平忠直」こそ、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主に相応しい人物と推定をいたしたい。

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%

 ここで、「松平忠直」のプロフィールを紹介して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお・1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。 [上野秀治] 『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】
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源氏物語画帖「その四十四 竹河」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)     薫14,5歳-23歳

長次郎・竹河.jpg

源氏物語絵色紙帖  竹河  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

四辻・竹河.jpg

源氏物語絵色紙帖  竹河  詞・四辻季継
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「四辻季継」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/17/%E7%AB%B9%E6%B2%B3_%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%83%BB%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%8B%E3%81%AF%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B8%96_

藤のおもしろく咲きかかりたるを水のほとりの石に苔を蓆にて眺めゐたまへりまほにはあらねど世の中恨めしげにかすめつつ語らふ
  手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
(第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院 第六段 冷泉院における大君と薫君)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十四帖 竹河
 第一章 鬚黒一族の物語 玉鬘と姫君たち
  第一段 鬚黒没後の玉鬘と子女たち
  第二段 玉鬘の姫君たちへの縁談
  第三段 夕霧の息子蔵人少将の求婚
  第四段 薫君、玉鬘邸に出入りす
 第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語
  第一段 正月、夕霧、玉鬘邸に年賀に参上
  第二段 薫君、玉鬘邸に年賀に参上
  第三段 梅の花盛りに、薫君、玉鬘邸を訪問
  第四段 得意の薫君と嘆きの蔵人少将
  第五段 三月、花盛りの玉鬘邸の姫君たち
  第六段 玉鬘の大君、冷泉院に参院の話
  第七段 蔵人少将、姫君たちを垣間見る
  第八段 姫君たち、桜花を惜しむ和歌を詠む
 第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院
  第一段 大君、冷泉院に参院決定
  第二段 蔵人少将、藤侍従を訪問
  第三段 四月一日、蔵人少将、玉鬘へ和歌を贈る
  第四段 四月九日、大君、冷泉院に参院
  第五段 蔵人少将、大君と和歌を贈答
  第六段 冷泉院における大君と薫君
  第七段 失意の蔵人少将と大君のその後
 第四章 玉鬘の物語 玉鬘の姫君たちの物語
  第一段 正月、男踏歌、冷泉院に回る
  第二段 翌日、冷泉院、薫を召す
  第三段 四月、大君に女宮誕生
  第四段 玉鬘、夕霧へ手紙を贈る
  第五段 玉鬘、出家を断念
  第六段 大君、男御子を出産
  第七段 求婚者たちのその後
 第五章 薫君の物語 人びとの昇進後の物語
  第一段 薫、玉鬘邸に昇進の挨拶に参上
  第二段 薫、玉鬘と対面しての感想
  第三段 右大臣家の大饗
  第四段 宰相中将、玉鬘邸を訪問

(参考)

四辻季継和歌懐紙.jpg

「四辻季継筆和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/792

【四辻季継〈よつつじすえつぐ・1581-1639〉は、室町~江戸時代にかけての公卿。公遠の二男。初名は教遠。正二位・権大納言に至る。四辻家は代々、和琴や箏による雅楽をもって朝廷に仕えた。また季継は近衛流の書を能くした。これは、歌題により新年の御会始で詠まれたものと知る。季継が位署の左中将在任は、慶長11年〈1606〉から元和元年〈1615〉まで、すなわち26歳から35歳の間である。30歳前後の筆。骨力ある線を、緩急自在に歯切れよく運んだ筆致で書かれている。近衛流を掌中した見事な筆致である。また、松平不昧が、禁裡より拝領した二巻中の一葉であるという伝来をもつ一幅である。「春の日、同じく「池水、澄むこと久し」ということを詠める倭歌/参議左近衛権中将藤原季継/さゞれいしの巌とならむゆく末を契ぎりて澄める庭の池水」

(釈文)

春日同詠池水久澄倭歌参議左近衛権中将藤原季継さゞれいしのいはほとならむゆく末をちぎりてすめる庭のいけ水        】


(「三藐院ファンタジー」その三十四)

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

かぶき者の鞘の銘.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)の「鞘の銘記文」

《「廿三」は秀頼の死没年齢》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P263-264)

「《いきすぎたるや廿三 八まん ひけはとるまい》は、 近世史家杉森哲也氏の見事な着眼による、《豊臣秀頼の死没年齢なのである。》 これまでの多くの論者は「かぶき者」大島一兵衛にだけ惹きつけられていて、豊臣秀頼と大阪夏の陣のことに思いもおよばなかったのである。すなわち、画家岩佐又兵衛は、大阪夏の陣を「かぶき者」たちの喧嘩に「見立て」て、このもろ肌脱ぎの「かぶき者」を「豊臣秀頼」に「見立て」ているのである。この「八まん ひけはとるまい」とは「戦(いくさ)」のこと、大阪夏の陣で、決死の覚悟で「徳川方」に挑んでいる、その決死の銘文なのである。」(メモ=「八まん」は、「戦の神様の『八幡太郎義家(源義家)』の「比喩」的用例と解したい。)

豊国祭礼図屏風・秀頼・淀・高台院.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
二の一 重文「豊国祭礼図屏風(右隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)の「右隻第六扇・拡大図(その一)」

https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 この図(「右隻第六扇・拡大図(その一)」)の左の下方が「かぶき者」に見立てた「豊臣秀頼」で、それに対する、この図の右の下方の「かぶき者」は「徳川秀忠」の「見立て」だというのである。

《卍紋・梅鉢紋・鷹羽紋は語る》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P264-265)

「左側の若者が秀頼であるならば、右側の武士たちは徳川側である。相手になろうとしているのは秀忠であろう(七十歳を超えていた大御所家康の姿ではない)。この秀忠の周りにいて喧嘩を止めようとしている男の衣服は卍紋と梅鉢紋である。卍紋は蜂須賀家であり、梅鉢紋は前田家である。秀忠の後で刀を抜こうとして男の衣服の紋は鷹羽紋で浅野家の紋である(こま図の右側に鷹羽紋の男が出てくる)。」
 
 この図の中央に、この秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶がいるが、これは、大阪冬の事件の切っ掛けとなった「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、東福寺の長老・文英清韓(ぶんえいせいかん)などの見立てなのであろう。

《倒れ掛かる乗物のなかの淀殿》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

「このもろ肌脱ぎの若者(秀頼)の上部に倒れかかった立派な乗物(駕籠)が描かれている。この乗物には、家紋が鏤められている。この乗物の紋尽くしの中心にあるのは、豊臣家の家紋で、この倒れかかった乗物から、にゅーと女性の手が出ている。この乗物には、大阪城で秀頼と運命をともにした淀殿が乗っていることを暗示している。」

《後家尼姿の高台院》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

「この倒れかかった乗物の上部に、破れ傘を持ってあわてて飛び退いている後家尼の老女が描かれている。この老後家尼こそ、秀吉の妻おね(北政所)つまりは高台院の姿なのである。」

これらは、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』での著者の考察なのであるが、これらの考察は、次の論稿により、さらに、深化を深めて行く。


徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

「倒れ掛かった乗物(駕籠)から、女の手が突き出ている。この乗物に鏤められているさまざまな家紋の殆どは「目くらまし」であり、豊臣氏の「桐紋」がある。乗っているのは淀殿なのだ。そして、この乗物を担いでいる揃いの短衣を着た駕籠かき二人は、大野治長・治房兄弟であろう。
 乗物の向こう側、すぐ脇に後家尼の老女がいて、破れ傘をもったまま慌てて飛び退いている。後家尼の姿だから、これは高台院(秀吉の妻おね、北政所)である。背後の首に赤布を巻いている女は、高台院に仕えていた女性(孝蔵主?)などではあるまいか。
 さらに上の方には、侍女に傘をさしかけられた、被衣姿の貴女がいる。喧嘩の騒ぎを眺めているようだ。今のところ確かな論拠は示せないのだけれども、大阪城から脱出した千姫の姿が描かれているように思われる。
 こうして徳川美術館本の右隻の一角には、大阪夏の陣の豊臣秀頼と徳川秀忠の戦いが「かぶき者」たちの喧嘩に見立てて描かれていたのであった。それは、この屏風の注文主にとって必須(あるいは必要)な表現であり、しかも、徳川方の者が見ても気付かれにくい「見立て」の表現だったのである。」(「二 徳川美術館本の「かぶき者」の喧嘩と大阪夏の陣」の要点要約)

 ここまで来ると、上記の図・上部の「大阪城から脱出した千姫」と思われる貴女の、左後方の屋敷から、喧嘩の状況を見極めているような人物は、千姫を大阪城の落城の時に、家康の命により救出した「坂崎直盛(出羽守)」という「見立て」も可能であろう。
 さらに、この図の下部の「秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶(三人?)
のうちの中央の身分の高い僧衣をまとった人物は、「方広寺鐘銘事件」が勃発した時の、方広寺門跡「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」の「見立て」と解することも、これまた、許容されることであろう。
そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。
 この「方広寺鐘銘事件」と「興意法親王(照高院)」との関連などについては、下記のアドレスで取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

ここで、先の(参考一)に、興意法親王(照高院)も入れて置きたい。

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) → 「方広寺鐘銘事件」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」
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源氏物語画帖「その四十三 紅梅」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)   薫24歳春

長次郎・紅梅.jpg

源氏物語絵色紙帖  紅梅  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・紅梅.jpg

源氏物語絵色紙帖  紅梅  詞・花山院定煕
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定煕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/16/%E7%B4%85%E6%A2%85_%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%B0%E3%81%84%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96_%E5%8C%82%E5%AE%AE%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%81%AE

麗景殿に御ことづけ聞こえたまふ譲りきこえて今宵もえ参るまじく悩ましくなど聞こえよとのたまひて笛すこし仕うまつれともすれば御前の御遊びに召し出でらるるかたはらいたしやまだいと 若き笛をとうち笑みて
(第二章 匂兵部卿の物語 第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十三帖 紅梅
 第一章 紅梅大納言家の物語 娘たちの結婚を思案
  第一段 按察使大納言家の家族
  第二段 按察使大納言家の三姫君
  第三段 宮の御方の魅力
  第四段 按察使大納言の音楽談義
 第二章 匂兵部卿の物語 宮の御方に執心
  第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る
  第二段 匂宮、若君と語る
  第三段 匂宮、宮の御方を思う
第四段 按察使大納言と匂宮、和歌を贈答
第五段 匂宮、宮の御方に執心

(「三藐院ファンタジー」その三十三)

 この「源氏物語画帖」が制作された同じ年代(「慶長期~元和初期)に、岩佐又兵衛(1578-1650)作とされている「豊国祭礼図屏風(六曲一双)」(徳川美術館蔵)と「洛中洛外図屏風・舟木本(六曲一双)」(東京国立博物館蔵)との二大大作屏風が制作されている。
 その「豊国祭礼図屏風」の右隻(第六扇)の中央部に、次の「かぶき者けんか図」として知られている場面が描かれている。

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

 この図が掲載されている「かぶき者―織田頼長と猪熊教利―(古田織部美術館蔵・宮出版社 )」では、この上半身裸の「かぶき者」(徒者=いたずらもの)は、「かぶき手の第一なり」(『当代記』)と名指しされている「織田左門頼長(道八)」(1582-1620)を想定しているようである。
 というのは、この頼長は、織田信長の甥で、茶人織田有楽斎(長益)の嫡男、そして、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣では豊臣方につくが、その総軍の指揮にあたることを望んで容れれらず、その翌年(1615)に大阪城を出て京都に退去している(『大阪御陣覚書』)。
 そして、その大阪冬の陣の時に、頼長は「朱具足と朱鞘の刀、赤母衣(ほろ)を着けた女武者を連れて夜間の見回りをした」という話(『大阪陣山口休庵咄』 )などか出回っており、それらを題材にしての、岩佐又兵衛のイメージ化での創作なのであろうというのが、この図の一般的な解なのである。

かぶき者の鞘の銘.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)の「鞘の銘記文」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8778.html

【「いきすぎたりや、廿三、八まんひけはとるまい」
と当時の傾奇者たちにはやった死生観を表しているものと一般的に解釈されているようだ
(歴史番組?ヒストリアでもそのように紹介)。
 しかし、黒田日出男「豊国祭礼図を読む」でちょっと驚くような考察がされていた。
黒田氏の考察によれば、この図屏風は元和元年頃、蜂須賀家政の注文によるものだそうだが、「いきすぎたりや~」の若者の、喧嘩相手の側を見ると、卍紋や梅鉢紋をつけた男たちが必死になって仲裁し、鷹羽紋をつけた男が加勢しようとしている。
(卍紋は蜂須賀家、梅鉢紋は前田家、鷹羽紋は浅野家の家紋である。)
また、喧嘩のせいで倒れたと思われる、紋が散りばめられた上等の駕籠が描かれているが、
その紋の中心は豊臣家の桐紋であり、中から女の手が伸びている。
そして、1612年に処刑された傾奇者、大鳥一兵衛の刀には「廿五迄いき過ぎたりや一兵衛」
と「廿五まで」、となっているのに、絵の若者は「廿三」と中途半端な年齢である。
実は廿三とは豊臣秀頼の享年である。
 結論を言えば、岩佐又兵衛は大坂の陣をかぶき者同士の喧嘩にみたてたのではないか、という考察だった。
つまり、この画像のかぶき者は秀頼ということになるのだが・・・】

 上記の、上半身裸の「かぶき者」(徒者=いたずらもの)は、「かぶき手の第一なり」(『当代記』)と名指しされている「織田左門頼長(道八)」(1582-1620)ではなく、慶長二十年、改元して、元和元年(1615)の「大阪夏の陣」で大阪城が落城した時に自決した「豊臣秀頼」(享年23(満21歳没))の「見立て」(俳諧用語で「あるものを他のものになぞらえる作りかた。また、比喩仕立ての句」=それに準じた「創作」)が、この「かぶき者」の正体だというのである。
 この「豊国祭礼図屏風(岩佐又兵衛筆)」の「かぶき者けんか図」の「かぶき者=豊臣秀頼」とする見方は、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「Ⅷ 徳川美術館本《豊国祭礼図屏風》と岩佐又兵衛」(P230-270)で展開されているもので、ここでの見方が、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の「Ⅳ 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解」(P179-213)と「舟木屏風の注文主と岩佐又兵衛」(P214-252)などにより、さらに、その細部が深化され、その全体像は、未だ、未完のまま、考察途上の現在進行形のものと解すべきものなのであろう。
 これらの、その全体像の考察は、下記の著作などで、その一端が紹介されている。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』
六 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」

(参考二)「洛中洛外図屏風(舟木本)」と「豊国祭礼図屏風」

一 重文「洛中洛外図屏風(舟木本)」(岩佐又兵衛筆・東京国立博物館蔵) 
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

二の一 重文「豊国祭礼図屏風(右隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

二の二 重文「豊国祭礼図屏風(左隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja

(参考三)「慶長・元和期における政治と民衆―『かぶき』の世相を素材として―」(鎌田道隆稿)

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19841200-1002.pdf?file_id=1682

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源氏物語画帖「その四十二 匂宮」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)   薫14歳-20歳

長次郎・匂宮.jpg

源氏物語絵色紙帖  匂兵部卿宮  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・匂宮.jpg

源氏物語絵色紙帖  匂兵部卿宮  詞・花山院定煕
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定煕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/15/%E5%8C%82%E5%85%B5%E9%83%A8%E5%8D%BF_%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B6%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86_%E5%8C%82%E5%AE%AE_%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%BF%E3%82%84

例の左あながちに勝ちぬれは例よりはとくこと果てて大将まかでたまふ兵部卿宮常陸宮后腹の五の宮と一つ車に招き乗せたてまつりてまかでたまふ宰相中将は負方にて音なくまかでたまひにける
(第二章 薫中将の物語 第七段 六条院の賭弓の還饗)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十二帖 匂兵部卿
 第一章 光る源氏没後の物語 光る源氏の縁者たちのその後
  第一段 匂宮と薫の評判
  第二段 今上の女一宮と夕霧の姫君たち
  第三段 光る源氏の夫人たちのその後
 第二章 薫中将の物語 薫の厭世観と恋愛に消極的な性格
  第一段 薫、冷泉院から寵遇される
  第二段 薫、出生の秘密に悩む
  第三段 薫、目覚ましい栄達
  第四段 匂兵部卿宮、薫中将に競い合う
  第五段 薫の厭世観と恋愛に消極的な性格
  六段 夕霧の六の君の評判
  第七段 六条院の賭弓の還饗

(「三藐院ファンタジー」その四十二)

かぶき公家供揃図.jpg

「かぶき公家供揃図」(古田織部美術館蔵)
https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=3461

http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895
【 江戸初期の慶長年間(1596-1615)、京ではかぶき(傾き)者(いたずら者)の文化が一世を風靡していました。なかでも、「かぶき手の第一」(『当代記』)といわれたのが、織田信長の甥・織田左門頼長(道八)です。また、公家の世界では、「天下無双」の美男と称され、ファッションリーダーでもあった猪熊少将教利、彼と親しかった烏丸光広などの若い公家たちの行動が「猪熊事件」へと発展します。さらに、「天下一」の茶人だった古田織部が好んだ、奇抜で大胆な意匠の茶器や斬新な取り合わせも、数寄の世界でかぶきの精神を表現したものといえるでしょう。本展では、織部好みの茶器や刀、織田頼長の書状、猪熊事件に連座した公家衆の直筆短冊などの品を通して、かぶいた武士・公家衆の人物像を探ります。 

※「光源氏」になぞらえた京のファッションリーダー猪熊少将の「猪熊様」と言われた髪型をついに解明! → 「かぶき公家供揃図」には、月代(さかやき)を大きく剃った大額(おおひたい)に茶筅髷(まげ)、襟足を伸ばして立てるという異風の髪型の公家が描かれているが、これが「猪熊様(よう)」と推定されます。

※猪熊教利の父・兄弟
□ 38 和歌懐紙 「春日同詠遐齢如松」 四辻季満(1566~1608)筆 江戸時代初期
○ 39 和歌小色紙 「おくやまの」 四辻季継(1581~1639)筆 川勝宗久極札 江戸時代前期
□ 40 和歌短冊 「早梅」 高倉(薮)嗣良(1593~1653)筆 江戸時代前期
○ 41 表八句 断簡 「賦山何連歌」 曼殊院宮良恕法親王(東)・高倉(薮)嗣良・甘露寺時長・勧修寺経広・岩倉具起・覚阿上人他

※猪熊事件連座の若公家衆
□ 45 和歌懐紙 「春日詠花色映月」 烏丸光広(1579~1638)筆 江戸時代初期
○ 46 和歌懐紙 「林葉漸紅」「雲浮野水」 烏丸光広 筆 江戸時代初期
47 烏丸光広好 吉野絵 錫棗 江戸時代前期
□ 48 和歌短冊 「明暮に」 花山院忠長(1588~1662)筆 古筆了栄極札 江戸時代初期
□ 49 和歌短冊 「ぬれてほす」 花山院忠長 筆 朝倉茂入極札 江戸時代初期
○ 50 書 状 (年未詳)七月二十九日付・津軽信義宛 花山院忠長 筆 江戸時代前期
○ 51 和歌短冊 「湖上花」 飛鳥井雅賢(1585~1626)筆 江戸時代初期
□ 52 和歌短冊 「暁神祇」 難波宗勝(1587~1651)筆 江戸時代初期
□ 53 和歌短冊 「花を散さぬ風」 難波宗勝 筆 藤本了因極札 江戸時代初期
○ 54 和歌短冊 「聞恋」 飛鳥井雅胤(難波宗勝)筆 京古筆家極札 江戸時代前期
○ 55 和歌短冊 「玉嶋河」 飛鳥井雅宣(難波宗勝)筆 江戸時代前期

猪熊事件連座の女官の父
□ 56 和歌懐紙 「春日同詠鶯是万春友」 広橋兼勝(1558~1623)筆 江戸時代初期
○ 57 和歌短冊 「梅留客」 広橋兼勝 筆 京古筆家極札 江戸時代初期
□ 58 和歌短冊 「開路雪」 中院通勝(1556~1610)筆 江戸時代初期
○ 59 和歌短冊 「初冬暁」 水無瀬氏成(1571~1644)筆 江戸時代前期    】
(「かぶき者―織田頼長と猪熊教利―(古田織部美術館蔵・宮帯出版社 )」「後期展は(2017)5月14日(日)まで。春季展『古田織部と慶長年間のかぶき者』(古田織部美術館様)」 )

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

【猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分
慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪    
左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)
新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
参議 烏丸光広《三十一歳》
右近衛少将 徳大寺実久《二十七歳》       】

https://ameblo.jp/kochikameaikouka/entry-11269980485.html

【※広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。
※中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。  】

https://toshihiroide.wordpress.com/2014/09/18/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BC%881%EF%BC%89/

【権典侍中院局の兄で正二位内大臣まで上り詰めた中院通村(なかのいん・みちむら)が、後水尾帝の武家伝奏となって朝幕間の斡旋に慌ただしく往復していたころ、小田原の海を眺めつつ妹の身を案じて詠んだ歌がある。
  ひく人のあらでや終にあら磯の波に朽ちなん海女のすて舟
 一首は「私の瞼には、捨てられた海女を載せて波間を漂う孤舟が浮かぶ。いつの日か舟をひいて救ってくれる人が現れるであろうか。それとも荒磯に打ちあげられて朽ちてしまうのか。かわいそうに可憐な妹よ、私はいつもお前のことを憂いているのだよ」と。】

https://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran91utf.html

<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)


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源氏物語画帖「その四十一 幻」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

41 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)    源氏52歳の一年間

長次郎・幻.jpg

源氏物語絵色紙帖  幻  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

冷泉為頼・幻.jpg

源氏物語絵色紙帖  幻 詞・冷泉為頼
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「冷泉為頼」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C

死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほ惑ふかな
さぶらふ人びともまほにはえ引き広げねどそれとほのぼの見ゆるに心惑ひどもおろかならずこの世ながら遠からぬ御別れのほどをいみじと思しけるままに書いたまへる言の葉げにその折よりもせきあへぬ悲しさやらむかたなしいとうたて今ひときはの御心惑ひも女々しく人悪るくなりぬべければよくも見たまはでこまやかに書きたまへるかたはらに
   かきつめて見るもかひなし藻塩草 同じ雲居の煙とをなれ
と書きつけて皆焼かせたまふ
(第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語 第三段 源氏、手紙を焼く)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十一帖 幻
 第一章 光る源氏の物語 紫の上追悼の春の物語
  第一段 紫の上のいない春を迎える
  第二段 雪の朝帰りの思い出
  第三段 中納言の君らを相手に述懐
  第四段 源氏、面会謝絶して独居
  第五段 春深まりゆく寂しさ
  第六段 女三の宮の方に出かける
  第七段 明石の御方に立ち寄る
  第八段 明石の御方に悲しみを語る
 第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語
  第一段 花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす
  第二段 五月雨の夜、夕霧来訪
  第三段 ほととぎすの鳴き声に故人を偲ぶ
  第四段 蛍の飛ぶ姿に故人を偲ぶ
 第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語
  第一段 紫の上の一周忌法要
  第二段 源氏、出家を決意
  第三段 源氏、手紙を焼く
  第四段 源氏、出家の準備

(「三藐院ファンタジー」その三十一)

冷泉為頼書状.jpg

「冷泉為頼筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/479

【冷泉為頼〈れいぜいためより・1592-1627〉は、江戸初期の公卿・歌人。権大納言為満〈ためみつ・1559-1619〉の子。36歳で従三位・非参議に叙任したが、その年のうちに若くして没した。これは為頼自筆の書状。宛名の「御霊別法印」は、御霊社別当法印(ごりょうしゃべっとうほういん)の略である。御霊社とは御霊会(死者の怨霊を慰めるための祭)を行なう社の意。京都・八坂神社(むかしは祇園社といった)の盛大な御霊会(祇園会)は有名。御霊別法印はその祇園社供僧の筆頭の別当のことを指す。長年、子どもに恵まれなかった為頼に、待望の一子が誕生した際、この別当法印に命名方を依頼した手紙である。為頼の子、為治(ためはる)は寛永3年〈1626〉に生まれ、虎熊丸と名付けられた。この手紙は、その年の9月17日に書かれたもの。為頼36歳、亡くなる前年にあたる。典型的な定家流。家祖の書法を見事に踏襲している。「重ねての貴札、本望に存じ候。息子名の事、本卦訟の卦とやらん申し候。則ち、松寿丸と付け申し候。則ち、我等名を千寿と申し候。千年松と申す故、随分、作分出来候かと存じ候。然れ共、我等子に不縁故、今まで出来せず候間、虎熊丸と神前にて御付候て給うべく候。殊に貴公繁昌の御方に候へば、一段と目出度く候。名は二ツも三ツ、付く物と申候間、必ず必ず、明日、虎熊丸目出度く候。恐々謹言。猶々、明日は神前にて御付け頼み申し候。以上。九月十七日為頼(花押)御霊別法印冷貴報」

(釈文)

猶々明日ハ神前にて御付頼申候 以上重而貴札本望存候むすこ名之事本卦訟之卦とやらん申候則松(せう)寿(じゅ)丸と付申候則我等名ヲ千寿と申候千年松と申故随分作分出来候かと存候然共我等子ニ不縁故今まて不出来候間虎熊丸と神前にて御付(候)て可給候殊ニ貴公繁昌之御方ニ候へ者一段と目出度候名ハ二ツも三ツ付物と申候間必々明日虎熊丸目出度候恐々謹言九月十七日為頼(花押)御霊 別法印 冷 貴報       】

(参考)

家職一覧.jpg

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/kuge/kuge_h.htm

※ 西園寺家   → 琵琶
※ 花山院    → 笛
※ 飛鳥井    → 歌道・蹴鞠
※ 烏丸     → 歌道
※ 冷泉(上冷泉)→ 歌道・蹴鞠
※ 日野     → 儒道・歌道 

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源氏物語画帖「その四十 御法」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

40 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四)  源氏51歳

長次郎・御法.jpg

源氏物語絵色紙帖  御法  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

西園寺・御法.jpg

源氏物語絵色紙帖  御法 詞・西園寺実晴
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C%A

  薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法ぞはるけき
夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、
(第一章 紫の上の物語 第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答)

1.3.4  薪こる思ひは今日を初めにて  この世に願ふ法ぞはるけき
(仏道へのお思いは今日を初めの日として、この世で願う仏法のために千年も祈り続けられることでしょう)
1.3.5 夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。 ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、 百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、
(一晩中、尊い読経の声に合わせた鼓の音、鳴り続けておもしろい。ほのぼのと夜が明けてゆく朝焼けに、霞の間から見えるさまざまな花の色が、なおも春に心がとまりそうに咲き匂っていて、百千鳥の囀りも、笛の音に負けない感じがして、)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十帖 御法
 第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語
  第一段 紫の上、出家を願うが許されず
  第二段 二条院の法華経供養
  第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答
(「西園寺実晴」書の「詞」) →  1.3.4 1.3.5 
  第四段 紫の上、花散里と和歌を贈答
  第五段 紫の上、明石中宮と対面
  第六段 紫の上、匂宮に別れの言葉
 第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀
  第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける
  第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す
  第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る
  第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る
  第五段 紫の上の葬儀
 第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち
  第一段 源氏の悲嘆と弔問客
  第二段 帝、致仕大臣の弔問
  第三段 秋好中宮の弔問

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3804

源氏物語と「御法」(川村清夫稿)

【 紫上は、「若紫」の帖で光源氏が18歳の頃から連れ添ってきた、最高の人生の伴侶だった。正妻だった葵上のように子種には恵まれなかったが、光源氏が慕っていた藤壺女御そっくりの容貌と、高い教養と温和な性格を兼ね備えた、源氏物語における最高の女性であった。しかし「若菜」の帖で女三宮が光源氏の正妻格になってからは、「厄年」である37歳を境に体調を崩していった。
 「御法」の帖では、紫上は死期を悟り、明石の君、花散里、匂宮に別れを告げた。そして秋の夕暮れに、光源氏と明石中宮と和歌を詠み交わす間に、紫上は容体を崩し、明石中宮に看取られて息を引き取ったのである。
 それでは紫上の死の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」
とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、
「いかに思さるるにか」
とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騒ぎたり。先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明け果つるほどに消え果てたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
「もうお帰りなさいませ。気分がひどく悪くなりました。お話にもならないほどの状態になってしまったとは申しながらも、まことに失礼でございます」
と言って、御几帳引き寄せてお臥せになった様子が、いつもより頼りなさそうにお見えなので、
「どうあそばしましたか」
とおっしゃって、中宮は、お手をお取り申して泣きながら拝し上げなさると、本当に消えてゆく露のような感じがして、今が最期とお見えなので、御誦経の使者たちが、数えきれないほど騒ぎだした。以前にもこうして生き返りなさったことがあったのと同じように、御物の怪のしわざかと疑いなさって、一晩中いろいろな加持祈祷のあらん限りをし尽くしなさったが、その甲斐もなく、夜の明けきるころにお亡くなりになった。

(ウェイリー英訳)
“Now,” she said presently, “you had better go back to your rooms. I am feeling very giddy; and though I know you would forgive me if I did not entertain you properly. I do not like to feel that I have been behaving badly.” Her screens-of -state were drawn in close about the couch. The Princess stood holding Murasaki’s hand in hers. She seemed indeed to be fading like a dewdrop from the grass. So certain seemed the approach of death that messengers were sent in every direction to bid the priests read scriptures for her salvation. But she had more than once recovered from such attacks as these, and it was hoped that this was merely another onslaught of the “possession” that had attacked her years before. All night long various prayers and incantations were kept going, but in vain; for she died next morning soon after sunrise.

(サイデンステッカー英訳)
“Would you please leave me?” said Murasaki. “I am feeling rather worse. I do not like to know that I am being rude and find myself unable to apologize.” She spoke with very great difficulty.
The empress took her hand and gazed into her face. Yes, it was indeed like the dew about to vanish away. Scores of messengers were sent to commission new services. Once before it had seemed that she was dying, and Genji hoped that whatever evil spirit it was might be persuaded to loosen its grip once more. All through the night he did everything that could possibly be done, but in vain. Just as light was coming she faded away.

 ウェイリーもサイデンステッカーも明石中宮の台詞を省略したが、原文に忠実な翻訳をしている。明石中宮をウェイリーはPrincess、サイデンステッカーはempressと訳している。紫上の死「消え果てたまひぬ」を、ウェイリーはshe diedと普通に訳したが、サイデンステッカーはshe faded awayと、原文に忠実に訳している。

 夕霧が紫上のなきがらを見つめると、類もないほど美しく、「死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」(死に入ろうとする魂がそのままこの御亡骸に止まっていてほしい)と思った。夕霧の切ない気持ちを、ウェイリーは原文を改作して、Yugiri was astounded. His spirit seemed to leave him, to float through space and hover near her, as though it were he that was the ghost, and this the lovely body he had chosen for his habitation.と訳している。サイデンステッカーは原文に忠実に、He almost wished that the spirit which seemed about to desert him might be given custody of the unique loveliness before him.と訳している。

 紫上の葬儀に関しては、「限りなくいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にて、はかなく昇りたまひぬる」(この上もなく厳めしい葬儀であるが、まことにあっけない煙となって、はかなく上っていっておしまいになった)とあるが、ウェイリーは省略している。サイデンステッカーは原文に忠実に、The services were solemn and dignified, and she ascended to the heavens as the frailest wreath of smoke.と訳している。

 最愛の妻である紫上を失った光源氏は、出家するために身辺整理をはじめるのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その三十)

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/genji/

五島美術館・御法.jpg

「国宝 源氏物語絵巻」(大東急記念文庫蔵)の「御法」(絵・詞書第三面(第五紙)・詞書第二面(第三・四紙))
【「国宝 源氏物語絵巻」(大東急記念文庫蔵)
平安時代の11世紀、関白藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房紫式部(生歿年未詳)は、『源氏物語』を著し、主人公光源氏の生涯を軸に平安時代の貴族の世界を描いた。 「源氏物語絵巻」は、この『源氏物語』を絵画化した絵巻で、物語が成立してから約150年後の12世紀に誕生した、現存する日本の絵巻の中で最も古い作品である。 『源氏物語』54帖の各帖より1~3場面を選び絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式の、 当初は10巻程度の絵巻であったと推定( 2 0 巻説もあり)。現在は5 4 帖全体の約4 分の1 、巻数にすると4巻分が現存する。江戸時代初期に、3巻が尾張徳川家に、1巻が阿波蜂須賀家に伝来していたことがわかっているが、それ以前の古い伝来は不明。 徳川家本は現在、愛知・徳川美術館が収蔵。蜂須賀家本は江戸時代末期に民間に流出、現在、五島美術館が収蔵する(「鈴虫」2場面、「夕霧」、「御法」の3帖分)。 両方とも昭和7年(1932)、保存上の配慮から詞書と絵を離し、巻物の状態から桐箱製の額装に改めた。「詞書」も「絵」も作者は不明。「詞書」の書風の違いから、五つのグループによる分担制作か。 「絵」の筆者を平安時代の優れた宮廷絵師であった藤原隆能(?~1126~74?)と伝えるところから、本絵巻を「隆能源氏」とも呼ぶ。

御法(絵・詞書第三面(第五紙)・詞書第二面(第三・四紙・詞書第一面(第一・二紙))

『源氏物語』第40帖「御法」。光源氏の最愛の妻である紫上が重病にふし、源氏と明石中宮(光源氏と明石上の娘/紫上が養育)に最後の別れを告げる場面。命のはかなさを、庭に咲く萩に付いた露にたとえて、3 人は和歌を詠み交わす。やがて、紫上の病状はにわかに悪化し、源氏に別れを告げると、横になって間もなく、明石中宮に手を取られながら静かに息を引き取った。風に吹きすさぶ萩や薄・桔梗・女郎花など秋草の繊細な描写が、3人の詠歌と悲しい心情を象徴する。 】

http://www.genji-monogatari.net/

(「紫上・明石君・花散里・光源氏」の詠唱)

惜しからぬこの身ながらもかぎりとて  薪(たきぎ)尽きなむことの悲しさ(紫上)
(惜しくもないこの身ですが、これを最後として、薪の尽きることを思うと悲しうございます)
薪こる思ひは今日を初めにて  この世に願ふ法ぞはるけき(明石君)
(仏道へのお思いは今日を初めの日として、この世で願う仏法のために千年も祈り続けられることでしょう)

絶えぬべき御法(みのり)ながらぞ頼まるる  世々にと結ぶ中の契りを(紫上)
(これが最後と思われます法会ですが、頼もしく思われます 生々世々にかけてと結んだあなたとの縁を)
結びおく契りは絶えじおほかたの  残りすくなき御法なりとも(花散里)
(あなた様と御法会で結んだ御縁は未来永劫に続くでしょう。普通の人には残り少ない命とて、多くは催せない法会でしょうとも)

おくと見るほどぞはかなきともすれば  風に乱るる萩のうは露(紫上)
(起きていると見えますのも暫くの間のこと、ややもすれば風に吹き乱れる萩の上露のようなわたしの命です)
ややもせば消えをあらそふ露の世に  後れ先だつほど経ずもがな(光源氏)
(どうかすると先を争って消えてゆく露のようにはかない人の世に、せめて後れたり先立ったりせずに一緒に消えたいものです)
秋風にしばしとまらぬ露の世を  誰れか草葉のうへとのみ見む(明石君)
(秋風に暫くの間も止まらず散ってしまう露の命を、誰が草葉の上の露だけと思うでしょうか)
「堂上公家の『家礼・門流』と「猪熊事件」関係公家(※印)

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/kuge/kuge_h.htm

《近衛殿家礼》50家
※広橋・柳原・西洞院・吉田・土御門・舟橋・滋野井・※難波・持明院・※山科・※高倉・※四辻・※水無瀬・竹内・竹屋・裏辻・日野西・平松・長谷・交野・石井・萩原・七条・富小路・櫛笥・高野・裏松・石野・外山・小倉・八条・芝山・北小路・北小路・慈光寺・町尻・桜井・山井・錦小路・錦織・西大路・園池・豊岡・三室戸・北小路・阿野・万里小路・正親町三条・勘解由小路・日野
《九条殿家礼》20家
鷲尾・綾小路・五辻・堀河・伏原・樋口・唐橋・油小路・澤・下冷泉・坊城・葉室・姉小路・高松・風早・山本・大宮・甘露寺・勧修寺・穂波
《二条殿家礼》4家
白川・岡崎・中御門・花園
《一条殿家礼》37家
醍醐・西園寺・※花山院・※大炊御門・今出川・※松木・清水谷・四条・※飛鳥井・野宮・藪・※烏丸・正親町・中山・今城・清閑寺・園・橋本・梅園・中園・壬生・池尻・梅小路・石山・六角・庭田・大原・岩倉・千種・植松・高辻・五条・東坊城・清岡・桑原・倉橋・藤波
《鷹司殿家礼》8家
冷泉・藤谷・入江・西四辻・梅溪・高丘・藤井・堤

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

【猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分

慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪 
   
※左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

※左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
※左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
※左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
※左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
※右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)

※新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
※権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
※中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

(追記)近衛太郎君筆倶胝和尚自画賛

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/17

太郎君・自画賛.jpg

【上方の賛の最後に見える花押は、近衛太郎君のもの。近衛太郎君は、「信尹公息女」(『古筆流儀分』)「三藐院公ノ長女」(『皇朝名画拾彙』)とあるように、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉の娘で、筆跡は三藐院流(信尹の書風)の書き手と知られ、さらに画技では、父信尹が得意とした達磨・布袋・人麿の画賛に傑出した画才を発揮したという。実際に、歌仙色紙、書状、画賛等々、いくつもの遺例が現存する。ところが、「太郎」という名前や花押の存在に加えて、信尹そっくりのいかにも男性的な書風を勘案して、太郎君が男性であったとも説もあり、いずれを決する確固たる証明もなく、謎につつまれている。本図は、中国・唐代の人、倶胝和尚を描いたもの。この倶胝和尚、小院の住持に収まっていた若いころ、ひとりの尼(実際尼)が訪ね来て、「速やかに一句を」との問いに、倶胝は何も答えることができなかった。その悔しさで、寺を棄てて諸方遊歴を決意。そのうち馬祖道一の法孫・天竜智洪に参じ、この事を尋ねた。すると天竜は、何もいわずにただ1本の指を突き出して見せた。その瞬間、倶胝は大悟を得たという。これが、一指頭禅(倶胝指頭の禅・倶胝の一指・倶胝竪指とも)と言われる禅の公案。倶胝は以後生涯にわたって禅旨を問う者あればいつも指を1本立てて示したという。本図は、倶胝が指を1本立てた姿を略画したもの。上部の賛の書風がいかにも信尹の書そのものを彷彿とさせるほど酷似する。おそらくは、画・賛ともに、信尹の手本の存在を思わせる。「写し絵は何とてものをいはざらむささくる指のものをいふとて」

(釈文)

うつしゑハなにとてものをいはさらむさゝくるゆひのものをいふとて (花押)  】

(参考)

http://www.asahi-net.or.jp/~ZU5K-OKD/house.14/mumonkan/gate.2.htm

 倶胝竪指 (ぐていじゅし)

【彼は若い頃、山中の庵で一人座禅をしていました。そうしたある日、実際尼という

尼僧の訪問を受けました。ところがこの尼さん、あろうことか笠を付けたまま庵室に

入って来ました。しかも、無礼にも錫杖をジャランジャランと鳴らしながら、倶胝の周

りを三週したといいます。それから、彼の正面に立って、こう言いました。

「もしあなたが、私を満足させる一語を言い得るならば、笠を取りましょう...」


  尼僧は、三度問うたが、倶胝は何とも答えられなかった。彼はまだ、心眼が開け

てはいなかったのです。すると、尼僧はさっさと出て行こうとしました。そこで、ようや

く倶胝はこう言いました。

「もう、日もだいぶ傾いてきました。今夜は、ここに泊まっていってはどうですか」

                (倶胝は、見事に一語を言い得ています...しかし、自分ではそれに気がつきません)

  すると、尼僧は折りたたむように、こう言いました。

「もし、あなたが、一語を言い得たらば、泊まりましょう...」


  しかし、やはり倶胝は何も答えられなかった。ここで倶胝は大いに反省し、一念発

起しました。このまま、一人ここで座禅をしていてはダメだと思ったのです。すぐさま、

諸国に名僧を訪ね、修行の旅に出る事を決意したのです。ところが、倶胝はこの夜、

夢を見ました。そして、その夢の中で、こうお告げを受けたのです。

「近くこの草案に、そなたの師となる優れた禅匠が訪れるであろう...」


  そこで倶胝は、しばらく山に留まることにしました。すると十日ほどたった頃、一人

の老僧が庵にやってきました。大梅法常禅師の法嗣・天竜禅師でした。倶胝は、礼

を尽して迎え入れ、尼僧との事、夢のお告げの事、などを話し、

“禅の根源的な一句”


  ...とは何かと問いました。この時、天竜禅師は、黙ってただ“一指”を立てまし

た。するとこの瞬間、倶胝は忽然と心中の暗雲が晴れました。彼は心眼が開け、

大悟したのです。以来、倶胝はこの“天竜の一指頭の禅”を確立し、一生涯使い続

けました。しかし、臨終の際、これを使いきる事が出来なかったと言っています。

  そこには、何とも広大で明快な、禅的な世界が広がっていたのです。そしてこの

“無門の関”を通れば、向こうには趙州も南泉も馬祖もいます。五祖・弘忍、初祖・菩

提達磨の姿も透けて見えます。彼らはみな同じ心で、二元的対立を超えた、この世

界の真理を見つめています。

 

  倶胝禅師の“一指頭の禅”とは、まさに痛快きわまる禅の境涯です。私の説明な

どは、全て蛇足になります。が、未熟者ゆえ、あえてその蛇足を述べておきます。

  ここで重要なのは、一指を立てる事ではありません。重要なのは、まさに倶胝の

激しい草案での修行が、機を熟していたということです。しかも、ここで尼僧に何も

答えることが出来ず、倶胝は“大地黒漫々”の状況に叩き込まれていました。諸国

行脚の修行に出るなどとうろたえたのも、まさにその狼狽振りを示しています。そし

て、そこに...
 

  天竜禅師の一指!
 

  ...です。ここはもはや、理屈ではありません。この“一指”によって倶胝は、主体

とか客体とかの二元的世界を超越し、内外打成一片(ないげだじょういっぺん)<ジャンプ> の

風景を見たのです。】

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源氏物語画帖「その三十九 夕霧」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

39 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  源氏50歳秋-冬

長次郎・夕霧.jpg

源氏物語絵色紙帖  夕霧  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・夕霧.jpg

源氏物語絵色紙帖  夕霧  詞・花山院定熈
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定熈」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C%A7_%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%8A%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91

霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、まかでむ方も見えずなり行くはいかがすべきとて、山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して
(第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問 第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意)

1.4.4 霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、
(霧がすぐこの軒の所まで立ち籠めたので、)
1.4.5 「 まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、
(「帰って行く方角も分からなくなって行くのは、どうしたらよいでしょうか」と言って、)
1.4.6 「 山里のあはれを添ふる夕霧に  立ち出でむ空もなき心地して」
(「山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために、帰って行く気持ちにもなれずおります」)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十九帖 夕霧
 第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問
  第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る
  第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問
  第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる
  第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意
(「花山院定熈」書の「詞」)  →  1.4.4 1.4.5 1.4.6 
  第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む
  第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く
  第七段 迫りながらも明け方近くなる
  第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る
第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口
 第一段 夕霧の後朝の文
  第二段 律師、御息所に告げ口
  第三段 御息所、小少将君に問い質す
  第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る
  第五段 御息所の嘆き
 第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸
  第一段 御息所、夕霧に返書
  第二段 雲居雁、手紙を奪う
  第三段 手紙を見ぬまま朝になる
  第四段 夕霧、手紙を見る
  第五段 御息所の嘆き
  第六段 御息所死去す
  第七段 朱雀院の弔問の手紙
  第八段 夕霧の弔問
  第九段 御息所の葬儀
 第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧
  第一段 夕霧、返事を得られず
  第二段 雲居雁の嘆きの歌
  第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問
  第四段 板ばさみの小少将君
  第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅
第六段 落葉宮の返歌が届く
 第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る
  第一段 源氏や紫の上らの心配
  第二段 夕霧、源氏に対面
  第三段 父朱雀院、出家希望を諌める
  第四段 夕霧、宮の帰邸を差配
  第五段 落葉宮、自邸へ向かう
第六段 夕霧、主人顔して待ち構える
  七段 落葉宮、塗籠に籠る
第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
  第一段 夕霧、花散里へ弁明
  第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う
  第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す
  第五段 夕霧、塗籠に入って行く
  第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ
 第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語
  第一段 雲居雁、実家へ帰る
  第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く
  第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者
第四段 藤典侍、雲居雁を慰める

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3771

源氏物語と「夕霧」(川村清夫稿)

【 光源氏の子息である夕霧は、太政大臣の娘で幼なじみでもある雲井雁と6年間の交際の末に結婚した。夫婦仲は円満で、多数の子供に恵まれた。ところが夕霧は世帯じみた生活に飽きて、柏木の死後、彼の未亡人である落葉の宮に言い寄って愛人関係を結んでしまう。夕霧の不倫に怒った雲井雁は、彼と夫婦げんかを起こし、子供たちを連れて実家に帰ってしまうのである。

 ウェイリーは、夕霧と雲井雁の夫婦げんかの場面を重要でないと思ったのか、省略しているが、サイデンステッカーは翻訳している。それでは夕霧と雲井雁の夫婦げんかの場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」
とのたまふ。
「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」…
「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」
とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、
「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」

(渋谷現代語訳)
「ここをどこと思っていらっしゃったのですか。わたしはとっくに死にました。いつも鬼とおっしゃるので、同じことならすっかりなってしまおうと思って」
とおっしゃる。
「お心は鬼以上でいらっしゃるが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることはできないな」…
「何を言うの。あっさりと死んでおしまいなさい。わたしも死にたい。見ていると憎らしい。聞くも気にくわない。後に残して死ぬのは気になるし」
とおっしゃるが、とても愛らしさが増すばかりなので、心からにっこりして、
「近くで御覧にならなくても、よそながらどうして噂をお聞きにならないわけには行きますまい。そうして、夫婦の縁の深いことを分からせようとのおつもりのようですね。急に続くような冥土への旅立ちは、そのようにお約束申したからね」

(サイデンステッカー英訳)
“Do you know where you are?” she said finally. “You are in hell. You have always known that I am a devil, and I have merely come home.”
“In spirit worse than a devil,” he replied cheerfully, “but in appearance not at all unpleasant.”…
“That will do. Just disappear, please, if you do not mind, and I will hurry and do the same. I do not like the sight of you and I do not like the sound of you. My only worry is that I may die first and leave you happily behind.”
He found her more and more amusing. “Oh, but you would still hear about me. How do you propose to avoid that unpleasantness? Is the point of your remarks that there would seem to be a strong bond between us? It will hold, I think. We are fated to move on to another world in quick succession.”

 怒った雲井雁の台詞「いづことておはしつるぞ」をサイデンステッカーはDo you know where you are?と正確に訳しているが、これに続く「まろは早う死にき」を、You are in hell.と原文と違って訳している。「常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむ」は、You have always known that I am a devil, and I have merely come home.と訳しているが、これも違う。雲井雁の怒りにとりあわない夕霧の台詞「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」は、In spirit worse than a devil, but in appearance not at all unpleasantと、そっけなく訳していて、物足りない。

 逆上した雲井雁の台詞「何ごと言ふぞ」を、サイデンステッカーはThat will do.と原文と違って訳している。続く「おいらかに死にたまひね。まろも死なむ」をJust disappear, please, if you do not mind, and I will hurry and do the same.と、原文と違った訳文である。disappearではなくdieとするべきだ。その後の部分は、「見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」を、I do not like the sight of you and I do not like the sound of you. My only worry is that I may die first and leave you happily behind.と、正確に訳している。雲井雁をからかう夕霧の台詞「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ」をOh, but you would still hear about me. How do you propose to avoid that unpleasantness?と訳しているが、翻訳不足である。その後の部分は、「さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり」をIs the point of your remarks that there would seem to be a strong bond between us?と、「にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」をWe are fated to move on to another world in quick succession.と、上手に訳している。

 雲井雁は子供たちを連れて実家に戻り、夕霧と別居するが、夕霧は雲井雁と落葉の宮のもとに1日おきに通うようになるのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十九)

花山院忠長書状一.jpg

「花山院忠長筆消息」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/433

【花山院忠長〈かざんいんただなが・1588-1662〉は、左大臣花山院定煕〈さだひろ・1558-1634〉の二男。順調に累進して従四位・左近衛権少将に至った(17歳)。が、慶長10年〈1609〉7月、22歳の時、烏丸光広(からすまるみつひろ)・大炊御門頼国(おおいみかどよりくに)・飛鳥井雅賢(あすかいまさかた)・難波宗勝(なんばむねかつ)・徳大寺実久(とくだいじさねひさ)・松木宗信(まつきむねのぶ)らの公家たちとともに、宮廷の女官5人と遊興にふけり、密通していたことが発覚。宮廷の風紀粛正を決意した後陽成天皇は、幕府に命じてそれぞれを厳罰に処した。忠長は蝦夷(北海道)松前に流罪の身となった。のち津軽に移されたが、赦免されたのは、寛永13年〈1636〉、49歳の時。武蔵国に住み、出家して浄屋(じょうおく)を号した。慶安5年〈1652〉には念願叶って帰洛、10年後の寛文2年〈1662〉、75歳で没した。忠長は、書道史上、近衛流の名手として知られる。この書状にもその影響が顕著である。内容の詳細は不明ながら、「此地も替事無之候」「ふりふりと逗留」「馬一疋引上せ申度候人足とも大勢上り申候」「馬とゝのひ候て上り申候」などの文言などから、忠長が配流先から赦されて江戸に戻る直前の身辺の動向が察知される。宛名の「早野茂兵衛」は不明。「幸便の条一筆啓せしめ候。軽米兵介(かるまいひょうすけ・奥州九戸郡の軽米城主・軽米兵右衛門の一族か)下るの刻も書状を以って申し度く候へども、去り難き隙入り候て、恐れながら其の儀無く候。先ず以って其元無事の由珍重に候。此の地も替(変)わる事これ無く候間、心安からるべく候。将亦、我等事も未だ御目見の隔て申さず候故、ふりふりと逗留。本馬(本間)太兵衛なども懇切にて、米など心得にて遣わされ候由祝着の事に候。よくよく心得候て申され給うべく候。頼み入り候。此の度、書状を以って申し度く候へども、此の仁(使者)不慮に(思いがけず)参り候間、便俄に候て、頓而(やがて)、期不(期せず)書状を以って申すべく候。万々、頼み入り候。恐々謹言。/尚々、昭九郎にもよくよく御心得頼み入り候。仍って此の度、馬一疋引き上せ申し度く候。人足ども大勢上り申し候由申し候間、土佐殿へ申し候へば、引き上せ申し候処、其々の事に候間、馬調ひ候て、上り申し候はば、路次中以下懇ろに入り申し付けられ給うべく候。是又、頼み入り候。猶、後音の時を期し候。卯月(四月)二十三日花(山院)少将忠長(花押)早野茂兵衛殿参る」

(釈文)

[上段]尚々昭九郎ニもよく/\御心得頼入候仍此度馬一疋引上せ申度候人足幸便之条一筆令啓候とも大勢上り申候由申候間軽米兵介下之刻も土佐殿へ申候へハ引上せ申候処其々以書状申度候へ共難去之事候間馬とゝのひ候て隙入候而乍恐無其儀候上り申候ハゝ路次中以下先以其元無事之由懇に入被申付可給候是又珍重ニ候此地も替事頼入申候猶期後音之無之候間可被心安候将亦時候我等事も未御目見之隔不申候故ふり/\と逗留[下段]本馬太兵衛なとも懇切にて米なと心得にて被遣候由祝着事候よく/\心得候て被申可給候頼入候此度以書状申度候へ共此仁不慮ニ参候間便俄ニ候而頓而期不以書状可申候万々頼入候恐々謹言花少将卯月廿三日忠長(花押)早野茂兵衛殿まいる    】

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

(花山院定熙)
生没年:1558-1634
父:左大臣 西園寺公朝
義父:右大臣 花山院家輔
初名:家雅
1576 侍従
1577 従五位上
1578 従四位下
1578 左近衛少将
1579 左近衛中将
1579 参議
1580 正四位下
1585 従三位
1588 正三位
1589 権中納言
1597 従二位
1599 権大納言
1602 正二位
1615-1617 右近衛大将
1615 神宮伝奏
1619 内大臣
1620 従一位
1621 右大臣
1632 左大臣
妻:(父:内大臣 徳大寺公維)
女:?
1588-1662 忠長
妻:(父:朝倉義景)
清昌院
1583-1616 徳大寺実久(徳大寺家へ)
1595-1659 寛海
了二
超勝院(権中納言 橋本実村室)
1599-1673 定好
-1667 総持院尼
1609-1646 松木宗保(松木家へ)
於万
於国(美作湯川左衛門室)
1610-1658 (養子)野宮定逸(野宮家へ)

(花山院忠長)
生没年:1588-1662
父:左大臣 花山院定熙
従四位上
左近衛少将
1609 猪熊事件
1609-1636 配流
妻:
1608-1695 公海
1610-1658 野宮定逸(野宮家へ)

 花山院定熈(1558-1634)は、「猪熊事件」(慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった)に連座した、「徳大寺実久(1583-1616)・花山院忠長(1588-1662)」の実父である。
 上記の「花山院忠長筆消息」は、その嫡男の「花山院忠長(1588-1662)」が、「配流先から赦されて江戸に戻る直前の身辺の動向」(慶安5年〈1652〉前後)が読み取れる書状である。
 この書状(慶安5年〈1652〉前後)の時には、花山院定熈(1558-1634)は既に没している。なお、徳大寺実久(1583-1616)は、忠長の兄であるが、定熈の妻(父:内大臣 徳大寺公維)の「徳大寺」家の養子となっている。
 さらに、この「猪熊事件」に連座した「松木宗信」(1578-?)の「松木家」には、定熈の「花山院家」から、「松木宗保」(1609-1646)が養子となって、その後継者となっている。
 この「定熈→徳大寺実久・花山院忠長・松木宗保」の系譜の、「花山院定熈」(花山院家19代当主)は、「西園寺家」(西園寺家18代当主)の養子で、所謂、「清華家」の「西園寺家・徳大寺家・花山院家」を結びつける中心的な人物なのである。
 その「花山院定熈」が、この「源氏物語画帖」の、「夕霧・匂兵部卿宮・紅梅」、そして、
若き「西園寺実晴」が、「横笛・鈴虫・御法」を、その「詞書」の筆者していることが、この「源氏物語画帖」が、最終的に完成した元和五年(一六一九)当時の、最長老の「定熈」(1558-1634)と最年少の「実晴」(1600-1673)の、「近衛信尹・信尋」の二代に亘って「近衛」家のブレ―ンとなっている「西園寺・花山院」家に対する配慮のように思われるのである。
 そして、「猪熊事件」(1609)に連座して配流をされていなければ、当然に、この「源氏物語画帖」の「詞書」の筆者の一人になっていると思われる、「書道史上、近衛流の名手として知られる」、定熈の嫡男の「花山院忠長」が、この「花山院定熈・西園寺実晴」の背後に潜んでいるように思えるのである。

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源氏物語画帖「その三十八 鈴虫」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

38 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)  源氏50歳夏-秋

長次郎・鈴虫.jpg

源氏物語絵色紙帖  鈴虫  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

西園寺・鈴虫.jpg

源氏物語絵色紙帖  鈴虫 詞・西園寺実晴
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/11/%E9%88%B4%E8%99%AB_%E3%81%99%E3%81%9A%E3%82%80%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96%E3%80%91

御硯にさし濡らして、香染めなる御扇に書きつけたまへり。宮
   隔てなく蓮の宿を契りても君が心や住まじとすらむ
(第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養 第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす)

1.2.11 御硯にさし濡らして、 香染めなる御扇に書きつけたまへり。宮、
(御硯に筆を濡らして、香染の御扇にお書き付けになった。宮は、)
1.2.12  隔てなく蓮の宿を契りても  君が心や住まじとすらむ
(蓮の花の宿を一緒に仲好くしようと約束なさっても、あなたの本心は悟り澄まして一緒にとは思っていないでしょう)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十八帖 鈴虫
 第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養
  第一段 持仏開眼供養の準備
  第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす
(「西園寺実晴」書の「詞」)  →  
第三段 持仏開眼供養執り行われる
  第四段 三条宮邸を整備
 第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴
  第一段 女三の宮の前栽に虫を放つ
  第二段 八月十五夜、秋の虫の論
  第三段 六条院の鈴虫の宴
  第四段 冷泉院より招請の和歌
  第五段 冷泉院の月の宴
 第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う
  第一段 秋好中宮、出家を思う
  第二段 母御息所の罪を思う
  第三段 秋好中宮の仏道生活

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3764

源氏物語と「鈴虫」(川村清夫稿)

【 柏木が世を去って2年たち、光源氏は50歳になっていた。光源氏は、出家した女三宮のために、六条院の庭に大量の鈴虫を放して、彼女と和歌のやりとりをしながら、琴を弾いた。そこへ、宮中の月の宴が中止になったので、公卿たちが六条院にやって来て、光源氏は期せずして、鈴虫の宴を催し、今は亡き柏木の美意識を顕彰するのであった。

 初めて源氏物語を英語に全訳したウェイリーは、この「鈴虫」の帖を完全に省略している。その理由はわかっていないが、国文学者の加納孝代は理由を、ウェイリーが初めて枕草子を英語に抄訳した本の、そのあとがきに求めている。ウェイリーが省略したのは、原文が退屈なところ、意味をはかりかねるところ、くりかえし、たとえが混み入っていて説明なしにはわからないところであった。たとえ退屈であっても、意味が難解であっても、翻訳家は原作を省略せずに誠実に翻訳するべきである。それをしないウェイリーは翻訳家ではなく、改作者と呼ぶべきである。サイデンステッカーは、ウェイリーのような文才がなかっただけ、理想的な翻訳ができている。

 それでは鈴虫の宴の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、
「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言(柏木)、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」
などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。御簾の内にも、耳とどめて聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。
「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」
と思したまふ。

(渋谷現代語訳)
お琴類を合奏なさって、興が乗ってきたころに、
「月を見る夜は、いつでももののあわれを誘わないことはない中でも、今夜の新しい月の色には、なるほどやはり、この世の後の世界までが、いろいろと想像されるよ。故大納言が、いつの折にも、亡くなったことにつけて、一層思い出されることが多く、公、私、共に何かある機会に物の栄えがなくなった感じがする。花や鳥の色にも音にも、美をわきまえ、話相手として、大変に優れていたのだったが」
などとお口に出されて、ご自身でも合奏なさる琴の音につけても、お袖を濡らしなさった。御簾の中でも耳を止めてお聴きになって入るだろうと、片一方のお心ではお思いになりながら、このような管弦の遊びの折には、まずは恋しく、帝におかせられてもお思い出しになられるのであった。
「今夜は鈴虫の宴を催して夜を明かそう」
とお考えになっておっしゃる。

(サイデンステッカー英訳)
“One is always moved by the full moon,” said Genji, as instrument after instrument joined the concert, “but somehow the moon this evening takes me to other worlds. Now that Kashiwagi is no longer with us I find that everything reminds me of him. Something of the joy, the luster, has gone out of these occasions. When we were talking of the moods of nature, the flowers and the birds, he was the one who had interesting and sensitive things to say.”
The sound of his own koto had brought him to tears. He knew that the princess, inside her blinds, would have heared his remarks about Kashiwagi.
The emperor too missed Kashiwagi on nights when there was music.
Genji suggested that the whole night be given over to admire the bell cricket.

 紫式部の美的観念「もののあはれ」を含んだ光源氏の台詞「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなき」を、サイデンステッカーはOne is always moved by the full moon.と訳しているがそっけなく、「もののあはれ」が生かされていない。藤原道長の和歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば」から啓発されたと思われる「今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ」は、but somehow the moon this evening takes me to other worldsと訳している。柏木をほめた台詞「故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ」は、Now that Kashiwagi is no longer with us I find that everything reminds me of him. Something of the joy, the luster, has gone out of these occasions.と訳している。「にほひ」はsomething of joy, the lusterと解釈されている。「花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」は、When we were talking of the moods of nature, the flower and the birds, he was the one who had interesting and sensitive things to say.と訳している。

光源氏は、女三宮と密通した柏木を非難したが、柏木の美意識を顕彰する度量も持っていたのであった。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十八)

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

(西園寺公益) →「後陽成・近衛信尹」時代(「西園寺実晴」の父)

生没年:1582-1640
父:右大臣 西園寺実益
号:空直院、真空院
1583 従五位下
1583 侍従
1588 従五位上
1589 左近衛中将
1592 正五位下
1597 従四位下
1611 従四位上
1612 正四位下
1613 従三位
1614 権中納言
1615 踏歌外弁
1616 正三位
1617 権大納言
1619 従二位
1620 正二位
1629 神宮伝奏
1631-1632 内大臣
1635 従一位
室:
1601-1673 実晴
室:慈教院 久野殿山内康豊
1603-1684 大宮季光(大宮家へ)
1610-1674 大僧正 性演
1627 娘

(西園寺実晴)  →「後水尾・近衛信尋」時代

生没年:1601-1673
父:内大臣 西園寺公益
号:大恵院
1611 従五位下
1613 従五位上
1613 侍従
1614 正五位下
1615 左近衛中将
1615 従四位下
1616 従四位上
1619 正四位下
1619 参議
1621 従三位
1627 権中納言
1628 正三位
1630 従二位
1632-1640 権大納言
1632 踏歌外弁
1634 正二位
1635 神宮伝奏
1637-1638 右近衛大将
1649-1650 内大臣
1654 右大臣
1660 従一位
1667-1668 左大臣
1672 出家
妻:徳姫(父:侍従 細川忠隆)
1622-1651 公満
1625-1670 公宣
妻:家女房
1663-1678 公遂
空誉

(「西園寺実晴」周辺メモ=ウィキペディア)
※元和5年(1619年)に参議となって以降、内大臣・右大臣・従一位左大臣を歴任。 慶安4年(1651年)に朝廷は徳川家光に対して正一位太政大臣の追贈と「大猷院」の諡号を決め、内大臣西園寺実晴を勅使として日光に派遣している。寛文12年(1672年)に出家して大忠院入道と号し、法名は性永。
※正室は細川忠興とガラシャの子の細川忠隆(1604年の廃嫡後は長岡休無と号す)の長女・徳姫(1605-1663)であり、京都在住の休無から助成金が毎年西園寺家へ贈られている。また休無遺産として500石が徳姫(西園寺家)に相続され、西園寺家の財政の基盤となった。子は23代目となった公満のほかに、公遂、公宣(別名公義又は随宜)。なお、末子の西園寺公宣は京都の公家生活を嫌って、長岡休無の子の長岡忠春(1622-1704年、細川内膳家祖)を頼って肥後国に移り住み菊池(現熊本県菊陽町)で死去したが、そこで生まれた娘(也須姫もしくは安姫)が京に戻って鷹司家から婿(西園寺実輔)を取り西園寺家を継いだ。
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源氏物語画帖「その三十七 横笛」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

37 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   源氏49歳

長次郎・横笛.jpg

源氏物語絵色紙帖  横笛  画・長次郎
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西園寺・横笛.jpg

源氏物語絵色紙帖  横笛 詞・西園寺実晴
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(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/10/%E6%A8%AA%E7%AC%9B_%E3%82%88%E3%81%93%E3%81%B6%E3%81%88%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96%E3%80%91

筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、いとねぢけたる色好みかなとて
  憂き節も忘れずながら呉竹のこは捨て難きものにぞありける
(第一章 光る源氏の物語 薫の成長 第三段 若君、竹の子を噛る)

1.3.13 筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、
(筍をしっかりと握り持って、よだれをたらたらと垂らしてお齧りになっているので、)
1.3.14 「 いとねぢけたる色好みかな」とて、
(「変わった色好みだな」とおっしゃって、)
1.3.15  憂き節も忘れずながら呉竹の  こは捨て難きものにぞありける
(いやなことは忘れられないがこの子は、かわいくて捨て難く思われることだ)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十七帖 横笛
 第一章 光る源氏の物語 薫の成長
  第一段 柏木一周忌の法要
  第二段 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る
  第三段 若君、竹の子を噛る
(「西園寺実晴」書の「詞」)  →  1.3.13 1.3.14 1.3.15 
 第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛
  第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
  第二段 柏木遺愛の琴を弾く
  第三段 夕霧、想夫恋を弾く
  第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る
  第五段 帰宅して、故人を想う
  第六段 夢に柏木現れ出る
 第三章 夕霧の物語 匂宮と薫
  第一段 夕霧、六条院を訪問
  第二段 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う
  第三段 夕霧、薫をしみじみと見る
  第四段 夕霧、源氏と対話す
  第五段 笛を源氏に預ける

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3755

源氏物語と「横笛」(川村清夫稿)

【 柏木の一周忌になり、朱雀院から女三宮のもとに、筍が送られてきた。歯が生えてきた幼い薫は、櫑子(らいし、丈の高い漆塗りの皿)にあった筍をかじって、光源氏からとがめられた。光源氏は薫を抱き上げ、そのまなざしが格別に高貴であることに気付いたが、初老になった光源氏は果たして薫の成長した姿を見ることができるだろうか、行く末の不安を感じるのである。

 それでは光源氏が薫を抱き上げる場面を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわただしう取り散らして、食ひかなぐりなどしたまへば、
「あな、らうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」
とて、笑ひたまふ。かき抱きたまひて、
「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの稚児を、あまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどは、ただいはけきものとのみ見しを、今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし。
あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは、花の盛りは、ありなめど」
と、うちまもりきこえたまふ。

(渋谷現代語訳)
やっとよちよち歩きをなさる程である。この筍が櫑子に、何であるのか分からず近寄って来て、やたらにとり散らかして、食いかじったりなどなさるので、
「まあ、お行儀の悪い、いけません。あれを片づけなさい。食べ物に目がなくていらっしゃると、口の悪い女房が言うといけない」
と言って、お笑いになる。お抱き寄せになって、
「若君の目もとは普通とは違うな。小さい時の子を、多く見ていないからだろうか、これくらいの時は、ただあどけないものとばかり思っていたが、今からとても格別すぐれているのが、厄介なことだ。女宮がいらっしゃるようなところに、このような人が生まれて来て、厄介なことが、どちらにとっても起こるだろうな。
ああ、この人たちが育って行く先までは、見届けることができようか。花の盛りにめぐり逢うことは、寿命あってのことだ」
と言って、じっとお見つめ申していらっしゃる。

(ウェイリー英訳)
The child was just beginning to walk. As soon as he entered the room he caught sight of Suzaki’s strange looking roots lying in the fruit-dish, and toddled in that direction. Anxious to discover what sort of things they were, he was soon pulling at them, scattering them over the floor, breaking them in pieces, munching them, and in general making a terrible mess both of himself and the room. “Look what mischief he is up to,” said Genji. “You had better put them somewhere out of sight. I expect one of the minds thought it a good joke to tell him they were meant to eat.” So saying, he took up the child in his arms., “What an expressive face this boy has!” he continued. “I have had very little to do with children of this age, and had got it into my head that they were all much alike and all equally uninteresting. I see now how wrong I was. What havoc he will live one day to work upon the hearts of the princesses that are growing up in these neighboring apartments!” I am half sorry that I shall not be these to see. But ‘though Spring comes each year…’”

(サイデンステッカー英訳)
Able to walk a few steps, the boy totted up to a bowl of bamboo shoots. He bit at one and, having rejected it, scattered them in all directions.
“What vile manners! Do something, someone. Get them away from him. These women are not kind, sir, and they will already be calling you a little glutton. Will that please you?” he took the child in his arms. “Don’t you notice something rather different about his eyes? I have not seen great numbers of children, but I would have thought that at his age they are children and no more, one very much like another. But he is such an individual that he worries me. We have a little princess in residence, and he may be her ruination and his own. Will I wonder, to watch them grow up? ‘If we wish to see them we have but to stay alive.’” He was gazing earnestly at the little boy.

 「この君のまみのいとけしきあるかな」をウェイリーは「人相」と解釈してWhat an expressive face this boy has!と訳したが、サイデンステッカーは「まなざし」と正しく解釈してDon’t you notice something rather different about his eyes?と訳している。「女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし」の「女宮」とは、明石の女御(光源氏と明石の君の娘)の1人娘のことである。ウェイリーはWhat havoc he will live one day to work upon the hearts of the princesses that growing up in these neighboring apartments!と女宮を複数形で訳してしまったが、サイデンステッカーはWe have a little princess in residence, and he may be her ruination and his ownと正確に単数形で訳している。「あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは」は、ウェイリーはI am half sorry that I shall not be these to see. 、サイデンステッカーはWill I wonder, to watch them grow up? とそっけなく訳している。

光源氏は、彼の亡き後に起こる、薫の恋愛遍歴を予言しているのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十七)

西園寺実晴書状.jpg

「西園寺実晴筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/504

【 西園寺実晴〈さいおんじさねはる・1600-73〉、内大臣公益〈きんます・1582-1640〉の子。順調に累進を重ね、慶安2年〈1649〉には内大臣、承応3年〈1654〉には右大臣、寛文7年〈1667〉には従一位・左大臣を極めた。が、翌8年辞任、12月に出家、大忠院入道と号した(法名・性永)。礼楽を好み、画事をたしなみ、とくに仏祖像を描くのに優れていたという。その書は、当時の書流系譜によると、三条西実隆〈さんじょうにしさねたか・1455-1537〉を祖とする三条流にその名をつらね、伝存する短冊にはその面目が躍如とする。が、この手紙のように草卒に筆を執る筆跡はまた別のもの。枯淡な味わいに渋滞の筆意から、晩年の執筆を思わせる。となれば、宛名の「前(飛鳥)井大納言」は、飛鳥井雅章〈あすかいまさあき・1611-79〉が有力。実晴の出家(寛文八年・1668)、雅章の大納言辞任(承応四年・1655)を勘案すると、これは実晴60代半ばのものと推定される。雅章の江戸下向に際して、寒中の旅途を案じ、慰めとして「野山吹く……」の一首を送る。両者の親しい間柄がほのぼのとする。「寒気以っての外(意外)に候。東州(江戸)への御下向、寒さ察し入り候。/野山吹くあらしの末の激しさを伏せてたよりの頭巾ともなれ/一笑々々。近日、参会を遂げ述ぶべく候。穴賢(あなかしこ)。寒菊移ろい候へども、一枝、見参に入れ候。十一月十日実晴/飛(鳥井)前大納言殿」

(釈文)

寒菊うつ(ろ)ひ候へ共一枝見参ニ入候寒気以外ニ候東州江之御下向さむさ察入候野山吹くあらしのすゑのはけしさをふせくたよりの頭巾ともなれ一笑々々近日遂参会可申述候穴賢十一月十日 実晴飛前大納言殿            】
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源氏物語画帖「その三十六 柏木」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

36 柏木(長次郎筆) =(詞)中院通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋

長次郎・柏木.jpg

源氏物語絵色紙帖  柏木  画・長次郎
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通村・柏木.jpg

源氏物語絵色紙帖  柏木  詞・中院通村
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(「中院通村書の「詞」)

人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る
(第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産 第三段 柏木、侍従を招いて語る)

1.3.1 人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る。
(誰彼のお勧め申すがままに、いろいろと聖めいた験者などで、ほとんど世間では知られず、深い山中に籠もっている者などをも、弟の公達をお遣わしお遣わしになって、探し出して召し出しになるので、無愛想で気にくわない山伏連中なども、たいそう大勢参上する。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十六帖 柏木
 第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産
  第一段 柏木、病気のまま新年となる
  第二段 柏木、女三の宮へ手紙
  第三段 柏木、侍従を招いて語る
  第四段 女三の宮の返歌を見る
 (「中院通村書の「詞」)  →  1.3.1 
  第五段 女三の宮、男子を出産
  第六段 女三の宮、出家を決意
 第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家
  第一段 朱雀院、夜闇に六条院へ参上
  第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる
  第三段 源氏、女三の宮の出家に狼狽
  第四段 朱雀院、夜明け方に山へ帰る
 第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去
  第一段 柏木、権大納言となる
  第二段 夕霧、柏木を見舞う
  第三段 柏木、夕霧に遺言
  第四段 柏木、泡の消えるように死去
 第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い
  第一段 三月、若君の五十日の祝い
  第二段 源氏と女三の宮の夫婦の会話
  第三段 源氏、老後の感懐
  第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う
  第五段 夕霧、事の真相に関心
 第五章 夕霧の物語 柏木哀惜
  第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
  第二段 母御息所の嘆き
  第三段 夕霧、御息所と和歌を詠み交わす
  第四段 夕霧、太政大臣邸を訪問
  第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問
  第六段 夕霧、御息所と対話

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3743

源氏物語と「柏木」(川村清夫稿)

【 朱雀院の50歳祝賀のための試楽の場で、光源氏から痛烈な皮肉を言われた柏木は、女三宮を妊娠させた罪悪感もあって、死の床に伏してしまった。夕霧は柏木の友人で、見舞いに行ったところ、柏木は夕霧に、不興を買った光源氏にとりなしてくれるよう頼んだ。太政大臣一家が悲しむなか、柏木は「泡の消えるように」この世を去ってしまった。女三宮は薫を出産して、生後50日のお祝いに光源氏は薫を抱き上げ、即座にその顔が柏木に似ていると感じ、我が子を見ることなく死んだ柏木を思って感涙にむせぶのだが、対面上感情を押し隠すのであった。

 ウェイリーは「柏木」の帖を、夕霧をめぐる状況にしぼって翻訳しており、光源氏が幼い薫を見つめる場面を省略している。それでは定家自筆本、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(定家自筆本原文)
この君、いとあてなるに添へて、愛敬づき、まみの薫りて、笑がちなるなどを、いとあはれと見たまふ。思ひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただ今ながら、眼居ののどかに恥づかしきさまも、やう離れて、薫りをかしき顔ざまなり。
宮はさしも思し分かず。人はた、さらに知らぬことなれば、ただ一所の御心の内にのみぞ、「あはれ、はかなかりける人の契りかな」
と見たまふに、大方の世の定めなさも思し続けられて、涙のほろほろとこぼれぬるを、今日は言忌みすべき日をと、おし拭ひ隠したまふ。
「静かに思ひて嗟くに堪へたり」
と、うち誦うじたまふ。五十八を十取り捨てたる御齢なれど、末になりたる心地したまひて、いとものあはれに思さる。「汝が爺に」とも、諫めまほしう思しけむかし。

(渋谷現代語訳)
この若君、とても上品な上に加えて、かわいらしく、目もとがほんのりとして、笑顔がちでいるのなどを、とてもかわいらしいと御覧になる。気のせいか、やはり、とてもよく似ていた。もう今から、まなざしが穏やかで人に優れた感じも、普通の人とは違って、匂い立つような美しいお顔である。
宮はそんなにもお分かりにならず、女房たちもまた、全然知らないことなので、ただお一方のご心中だけが、
「ああ、はかない運命の人であったな」
とお思いになると、世間一般の無常の世も思い続けられなさって、涙がほろほろとこぼれたのを、今日の祝いの日には禁物だと、拭ってお隠しになる。
「静かに思って嘆くことに堪えた」
と、朗誦なさる。五十八から十とったお年齢だが、晩年になった心地がなさって、まことにしみじみとお感じになる。「おまえの父親に似るな」とでも、お諫めなさりたかったのであろうよ。

(サイデンステッカー英訳)
This boy was beautiful, there was no other word for it. He was always laughing, and a very special light would come into his eyes which fascinated Genji. Was it Genji’s imagination that he looked like his father? Already there was a sort of tranquil poise that quite put one to shame, and the glow of the skin was unique.
The princess did not seem very much alive to these remarkable good looks, and of course almost no one else knew the truth. Genji was left alone to shed a tear for Kashiwagi, who had not lived to see his own son. How very unpredictable life is! But he brushed the tear away, for he did not want it to cloud a happy occasion.
“I think upon it in quiet,” he said softly, “and there is ample cause for lamenting.”
His own years fell short by ten of the poet ‘s fifty-eight, but he feared that he did not have many ahead of him. “Do not be like your father.” This, perhaps, was the admonition in his heart.

 薫の容貌の「愛敬づき、まみの薫りて、笑がちなるなどを、いとあはれと見たまふ」を、サイデンステッカーはHe was always laughing, and a very special light would come into his eyes which fascinated Genjiと訳しているが、「愛敬づき」を訳さず「笑がちなる」をalways laughingとしたのは不正確である。「眼居ののどかに恥づかしきさまも」をthere was a sort of tranquil poise that quite put one to shame, としたのは誤訳である。「薫りをかしき顔ざまなり」をthe glow of the skin was uniqueと訳したのも、原文の情趣が伝わってこない。

 光源氏の独白「あはれ、はかなかりける人の契りかな」をHow very unpredictable life is!としたが、誤訳である。

 末尾にある「静かに思ひて嗟くに堪へたり」と「汝が爺に」は、白氏文集の第58巻2821番にある「自嘲」という漢詩に由来する。「静かに思へば喜ぶに堪へ、亦嗟くに堪へたり」と「盃を持ちて祝願するに、他の語無し。慎んで頑愚、汝が爺に似ること勿れ」とある。白楽天は58歳にして子息をもうけたのを自嘲して、この詩を作った。光源氏は48歳にして薫の名目上の父になり、白楽天の心境を思い出したのである。サイデンステッカーは前者をI think upon it in quiet, and there is ample cause for lamenting、後者をDo not be like your fatherと訳している。

 柏木と女三宮の密通で生まれた薫は、宇治十帖の優柔不断な主人公になるのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その二十六)

中院通村・詠草.jpg

「中院通村筆詠草」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/726

【 中院通村〈なかのいんみちむら・1588-1653〉は、江戸時代前期の公卿。通勝の子。はじめ通貫と称し、慶長5年〈1600〉叙爵、このとき通村と改名した。号は後十輪院。正二位・権大納言に至る。後水尾天皇の信任厚く、たびたび江戸へ下向したが、寛永6年〈1629〉天皇が幕府の専制に反発して譲位を強行すると、この謀議に参画したという咎を受けて、江戸に幽閉された。その後、僧・天海のとりなしで赦免されて帰京し、正保4年〈1647〉内大臣に任じられたがほどなく辞し、承応2年〈1653〉66歳で没した。書は世尊寺流の名手で、中院流の祖とされる。博学で和歌にもすぐれ、家集『後十輪院集』を残している。また「関戸本古今集」の巻末識語ほか、古筆の鑑定にも才能を発揮した。これは、寛永15年〈1638〉正月14日の仙洞御会始のための詠草である。歌道の師であった父・通勝の添削をもとめたものではなかったか。「鴬声和琴」という兼題の歌会(あらかじめ歌題が示される歌会)で、御会始当日は、第1首目の「鴬のなくねも」を披講している。「通村/鴬声琴に和す/鴬の鳴く音も春に弾く琴の調べ変はらず千世鳴らさなむ/鴬のそのこととなき声も猶春の調べの折にあふらむ」

(釈文)

通村鴬声和琴鴬のなくねも春にひくことのしらべかはらず千世ならさなむうぐひすのそのことゝなき声も猶春のしらべのおりにあふらむ       】
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源氏物語画帖「その三十五 若葉(下)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

35 若菜(下) (光吉筆)=(詞)中院通村(一五八七~一六五三)     源氏41歳春-47歳冬 

光吉・若菜下.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜下  画・土佐光吉
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通村・若菜下.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜下 詞・中院通村
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「中院通村」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/05/%E8%8B%A5%E8%8F%9C%EF%BC%88%E4%B8%8B%EF%BC%89_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B8%96%E3%80%91

端近く寄り臥したまへるに、来て、ねうねうと、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、うたても、すすむかな、と、ほほ笑まる。
   恋ひわぶる人のかたみと手ならせば なれよ何とて鳴く音なるらむ
(第一章 柏木の物語 第二段 柏木、女三の宮の猫を預る)

1.2.16 端近く寄り臥したまへるに、来て、「 ねう、ねう」と、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、「 うたても、すすむかな」と、ほほ笑まる。
(端近くに寄り臥していらっしゃると、やって来て、「ねよう、ねよう」と、とてもかわいらしげに鳴くので、撫でて、「いやに、積極的だな」と、思わず苦笑される。)
1.2.17 恋ひわぶる人のかたみと手ならせば  なれよ何とて鳴く音なるらむ
(恋いわびている人のよすがと思ってかわいがっていると、どういうつもりでそんな鳴き声を立てるのか)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十五帖 若菜下
 第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後
  第一段 六条院の競射
  第二段 柏木、女三の宮の猫を預る
(「阿野実顕」書の「詞」)  →  1.2.16 1.2.17 
第三段 柏木、真木柱姫君には無関心
  第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚
  第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活
 第二章 光る源氏の物語 住吉参詣
  第一段 冷泉帝の退位
  第二段 六条院の女方の動静
  第三段 源氏、住吉に参詣
  第四段 住吉参詣の一行
  第五段 住吉社頭の東遊び
  第六段 源氏、往時を回想
  第七段 終夜、神楽を奏す
  第八段 明石一族の幸い
 第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画
  第一段 女三の宮と紫の上
  第二段 花散里と玉鬘
  第三段 朱雀院の五十の賀の計画
  第四段 女三の宮に琴を伝授
  第五段 明石女御、懐妊して里下り
  第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定
 第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽
  第一段 六条院の女楽
  第二段 孫君たちと夕霧を召す
  第三段 夕霧、箏を調絃す
  第四段 女四人による合奏
  第五段 女四人を花に喩える
  第六段 夕霧の感想
 第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論
  第一段 音楽の春秋論
  第二段 琴の論
  第三段 源氏、葛城を謡う
  第四段 女楽終了、禄を賜う
  第五段 夕霧、わが妻を比較して思う
 第六章 紫の上の物語 出家願望と発病
  第一段 源氏、紫の上と語る
  第二段 紫の上、三十七歳の厄年
  第三段 源氏、半生を語る
  第四段 源氏、関わった女方を語る
  第五段 紫の上、発病す
  第六段 朱雀院の五十賀、延期される
  第七段 紫の上、二条院に転地療養
  第八段 明石女御、看護のため里下り
 第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語
  第一段 柏木、女二の宮と結婚
  第二段 柏木、小侍従を語らう
  第三段 小侍従、手引きを承諾
  第四段 小侍従、柏木を導き入れる
  第五段 柏木、女三の宮をかき抱く
  第六段 柏木、猫の夢を見る
  第七段 きぬぎぬの別れ
  第八段 柏木と女三の宮の罪の恐れ
  第九段 柏木と女二の宮の夫婦仲
 第八章 紫の上の物語 死と蘇生
  第一段 紫の上、絶命す
  第二段 六条御息所の死霊出現
  第三段 紫の上、死去の噂流れる
  第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く
  第五段 紫の上、小康を得る
第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見
  第一段 女三の宮懐妊す
  第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す
  第三段 源氏、女三の宮を見舞う
  第四段 源氏、女三の宮と和歌を唱和す
  第五段 源氏、柏木の手紙を発見
  第六段 小侍従、女三の宮を責める
  第七段 源氏、手紙を読み返す
  第八段 源氏、妻の密通を思う
 第十章 光る源氏の物語 密通露見後
  第一段 紫の上、女三の宮を気づかう
  第二段 柏木と女三の宮、密通露見におののく
  第三段 源氏、女三の宮の幼さを非難
  第四段 源氏、玉鬘の賢さを思う
  第五段 朧月夜、出家す
  第六段 源氏、朧月夜と朝顔を語る
 第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引
  第一段 女二の宮、院の五十の賀を祝う
  第二段 朱雀院、女三の宮へ手紙
  第三段 源氏、女三の宮を諭す
  第四段 朱雀院の御賀、十二月に延引
  第五段 源氏、柏木を六条院に召す
  第六段 源氏、柏木と対面す
  第七段 柏木と御賀について打ち合わせる
 第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる
  第一段 御賀の試楽の当日
  第二段 源氏、柏木に皮肉を言う
  第三段 柏木、女二の宮邸を出る
  第四段 柏木の病、さらに重くなる

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3732

「柏木と女三宮の密通に対する光源氏(「若菜下」)」(川村清夫稿)

【 光源氏は、朱雀帝から娘の女三宮を正妻として結婚させられたが、彼女は紫上にくらべ伴侶として未熟であった。六条院の蹴鞠の会で、女三宮は屋内から蹴鞠を見ていたが、飼っていた唐猫が走り出し、つないでおいた綱が御簾に引っかかって引き開けてしまい、蹴鞠をしていた柏木衛門督(太政大臣の子息)は女三宮の姿を見てしまった。柏木は女三宮に一目ぼれして、彼女の侍女の小侍従の手引きで彼女の部屋に押し入って情交をとげてしまった。女三宮は妊娠して、光源氏は柏木から彼女への恋文を見つけて、密通に気づいた。六条院にて行われた、朱雀帝の50歳の誕生日を祝う式典の予行演習である試楽の場で、同席した光源氏は柏木に痛烈な皮肉を言って、柏木は罪悪感もあいまって病床に伏してしまうのである。

 それでは、光源氏が柏木に皮肉を言う場面を、明融臨模本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(明融臨模本原文)
主人の院、「過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督、心とどめてほほ笑まるる。いと心恥づかしや。さりとも、今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり」
とて、うち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩ましければ、いみじきことも目もとまらぬ心地する人をしも、さしわきて、空酔ひをしつつかくのたまふ。戯れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを、御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。

(渋谷現代語訳)
ご主人の院は、「寄る年波とともに、酔泣きの癖は止められないものだな。衛門督が目を止めてほほ笑んでいるのは、まことに恥ずかしくなるよ。そうは言っても、もう暫くの間だろう。さかさまには進まない年月さ。老いは逃れることのできないものだよ」
と言って、ちらっと御覧やりなさると、誰よりも一段とかしこまって塞ぎ込んで、真実に気分もたいそう悪いので、試楽の素晴らしさも目に入らない気分でいる人をつかまえて、わざと名指しで酔ったふりをしながらこのようにおっしゃる。冗談のようであるが、ますます胸が痛くなって、杯が回って来るのも頭が痛く思われるので、真似事だけでごまかすのを、お見咎めなさって、杯をお持ちになりながら何度もお勧めなさるので、いたたまれない思いで、困っている様子、普通の人と違って優雅である。

(ウェイリー英訳)
“All right, Kashiwagi, don’t look so contemptuous!” Genji shouted across to him. “Just wait a few years, and you’ll find a little wine will make your tears flow quite as fast as ours!” Kashiwagi made no reply, and and Genji, looking at him more attentively, saw that he was not only (alone among the whole company) entirely sober, but also extremely depressed. Surely, thought Kashiwagi, everyone can see that I am far too ill to take part in such a scene as this. How inconsiderate of Genji (who was certainly not nearly so drunk as he pretended) to call attention to him by shouting across the room in that way!no doubt it was meant as a joke; but Kashiwagi found it quite impossible to be amused. He had a violent headache, and each time the flagon came round he merely pretended to drink out of it. Genji presently noticed this, and sending it back, pressed him again and again to take his share.

(サイデンステッカー英訳)
“An old man does find it harder and harder to hold back drunken tears,” said Genji. He looked at Kashiwagi. “And just see our young guardman here, smiling a superior smile to make us feel uncomfortable. Well, he has only to wait a little longer. The current of the years runs only in one direction, and old age lies downstream.”
Pretending to be drunken than he was, Genji had singled out the soberer of his guests. Kashiwagi was genuinely ill and quite indifferent to the festivities. Though Genji’s manner was jocular each of his words seemed to Kashiwagi a sharper blow than the one before. His head was aching. Genji saw that he was only pretending to drink and made him empty the wine cup under his own careful supervision each time it came around Kashiwagi was the handsomest of them even in his hour of distress.

 ウェイリー訳は原文を改作しており、翻訳とは言えない。サイデンステッカー訳の方が原文に忠実である。「衛門督、心とどめてほほ笑まるる。いと心恥づかしや」をウェイリーはAll right, Kashiwagi, don’t look so contemptuous!に変えているのに対して、サイデンステッカーはAnd just see our young guardman here, smiling a superior smile to make us feel uncomfortable.と、より正確に訳している。「さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり」も、ウェイリーはyou’ll find a little wine will make your tears flow quite as fast as ours.と訳したのに対して、サイデンステッカーはThe current of the years runs only in one direction, and old age lies downstream.と、原文により忠実に訳している。またウェイリーは、Genji shouted across to himと書いているが、原文では源氏は柏木に対して叫んでいないし、2人の距離が遠いようにも書いていない。

 「柏木」の帖で女三宮は薫を出産して、光源氏は、かつて藤壺女御と密通して冷泉帝が生まれた過去を思い出し、因果応報の条理を思い知るのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十五)

中院通村・消息.jpg

「中院通村筆消息」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/316

【中院通村〈なかのいんみちむら・1588-1653〉は、江戸初期の公卿。権中納言通勝〈みちかつ・1556-1610〉の子。母は細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉の養女。初名は通貫(みちつら)、後十輪院(のちのじゅうりんいん)と号した。忠誠剛直な性格で、後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の信頼を得たという。寛永6年〈1629〉の明正天皇〈めいしょうてんのう・1623-96〉への譲位事件の際、幕府より武家伝奏としての責任を追求され解官、江戸幽閉の身となった。が、のちに天海僧正〈てんかい・1536-1643〉の奔走によって特赦を受けて復帰、寛永8年〈1631〉正二位・内大臣となる。とくに和歌をよくし、『御十輪院集』(2巻)がある。書においては早くから世尊寺流の名手として聞こえたが、のちには通村を祖とする中院流が立てられ、多くの追随者を生んだ。また、古筆の鑑定にも優れた才能を発揮した。「関戸本古今集」の巻末識語をはじめ、『中院通村日記』『隔蓂記(かくめいき)』などにも、かれの鑑定記録が散見される。これは、数多くの歌の揮毫依頼(色紙・短冊のたぐいか)にもかかわらず、健筆(清書)をふるってもらったことへの礼手紙。中の一点につき気になるところがあるので訂正して再度の執筆を申し入れる、という。相手は、能書の家系「清水谷」。通村の活躍期から勘案すると、一時途絶えていた清水谷を相続した清水谷実任〈しみずだにさねとう・1587-1664〉と推定される。かれは、光悦流の能書阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉の弟。書流系図「古筆流儀分(こひつりゅうぎわけ)」では、実任も光悦流にその名が掲げられるが、伝存の遺墨から見るかぎり、実任の書は中院流に近い書風を示している。「歌数多申し入れ候処、健筆を染められ候。過分の至りに存じ候。一首不審の事候。重ねて申し入れ候。御労煩察し存じ候。余は面談の次と存じ候。恐々謹言。二月九日(花押)/清水谷殿(花押)」

(釈文)

歌数多申入候処被 染健筆候過分之至存候一首不審之事候重而可申入候御労煩察存候餘者面談之次存候恐々謹言二月九日(花押)清水谷殿(花押)      】

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源氏物語画帖「その三十四 若葉(上)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

34 若菜(上) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)   源氏39歳冬-41歳春 

光吉・若菜上.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜上  画・土佐光吉
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

菊亭・若菜上.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜上  詞・菊亭季宣
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「菊亭季宣」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/04/%E8%8B%A5%E8%8F%9C%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B8%96%E3%80%91

鞠に身を投ぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人びとあらはを ふともえ見つけぬなるべし
(第十三章 女三の宮の物語 第八段 柏木、女三の宮を垣間見る)

13.8.3 鞠に身を投ぐる若君達の、 花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを 見るとて、人びと、あらはを ふともえ見つけぬなるべし。
(蹴鞠に夢中になっている若公達の、花の散るのを惜しんでもいられないといった様子を見ようとして、女房たちは、まる見えとなっているのを直ぐには気がつかないのであろう。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十四帖 若菜上
第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び
 第一段 朱雀院、女三の宮の将来を案じる 
  第二段 東宮、父朱雀院を見舞う
  第三段 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う
  第四段 夕霧、源氏の言葉を言上す
  第五段 朱雀院の夕霧評
  第六段 女三の宮の乳母、源氏を推薦
 第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾
  第一段 乳母と兄左中弁との相談
  第二段 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上
  第三段 朱雀院、内親王の結婚を苦慮
  第四段 朱雀院、婿候補者を批評
  第五段 婿候補者たちの動静
  第六段 夕霧の心中
  第七段 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす
  第八段 源氏、承諾の意向を示す
 第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家
  第一段 歳末、女三の宮の裳着催す
  第二段 秋好中宮、櫛を贈る
  第三段 朱雀院、出家す
  第四段 源氏、朱雀院を見舞う
  第五段 朱雀院と源氏、親しく語り合う
  第六段 内親王の結婚の必要性を説く
  第七段 源氏、結婚を承諾
  第八段 朱雀院の饗宴
 第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける
  第一段 源氏、結婚承諾を煩悶す
  第二段 源氏、紫の上に打ち明ける
  第三段 紫の上の心中
 第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う
  第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず
  第二段 源氏、玉鬘と対面
  第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和
  第四段 管弦の遊び催す
  第五段 暁に玉鬘帰る
 第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁
  第一段 女三の宮、六条院に降嫁
  第二段 結婚の儀盛大に催さる
  第三段 源氏、結婚を後悔
  第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす
  第五段 六条院の女たち、紫の上に同情
  第六段 源氏、夢に紫の上を見る
  第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答
  第八段 源氏、昼に宮の方に出向く
  第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る
 第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋
  第一段 源氏、朧月夜に今なお執心
  第二段 和泉前司に手引きを依頼
  第三段 紫の上に虚偽を言って出かける
  第四段 源氏、朧月夜を訪問
  第五段 朧月夜と一夜を過ごす
  第六段 源氏、和歌を詠み交して出る
  第七段 源氏、自邸に帰る
 第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感
  第一段 明石姫君、懐妊して退出
  第二段 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る
  第三段 紫の上の手習い歌
  第四段 紫の上、女三の宮と対面
  第五段 世間の噂、静まる
 第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う
  第一段 紫の上、薬師仏供養
  第二段 精進落としの宴
  第三段 舞楽を演奏す
  第四段 宴の後の寂寥
  第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷
  第六段 中宮主催の饗宴
  第七段 勅命による夕霧の饗宴
  第八段 舞楽を演奏す
  第九段 饗宴の後の感懐
 第十章 明石の物語 男御子誕生
  第一段 明石女御、産期近づく
  第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る
  第三段 明石御方、母尼君をたしなめる
  第四段 明石女三代の和歌唱和
  第五段 三月十日過ぎに男御子誕生
  第六段 帝の七夜の産養
  第七段 紫の上と明石御方の仲
 第十一章 明石の物語 入道の手紙
  第一段 明石入道、手紙を贈る
  第二段 入道の手紙
  第三段 手紙の追伸
  第四段 使者の話
  第五段 明石御方、手紙を見る
  第六段 尼君と御方の感懐
  第七段 御方、部屋に戻る
 第十二章 明石の物語 一族の宿世
  第一段 東宮からのお召しの催促
  第二段 明石女御、手紙を見る
  第三段 源氏、女御の部屋に来る
  第四段 源氏、手紙を見る
  第五段 源氏の感想
  第六段 源氏、紫の上の恩を説く
  第七段 明石御方、卑下す
  第八段 明石御方、宿世を思う
 第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る
  第一段 夕霧の女三の宮への思い
  第二段 夕霧、女三の宮を他の女性と比較
  第三段 柏木、女三の宮に執心
  第四段 柏木ら東町に集い遊ぶ
  第五段 南町で蹴鞠を催す
  第六段 女三の宮たちも見物す
  第七段 唐猫、御簾を引き開ける
  第八段 柏木、女三の宮を垣間見る
(「菊亭季宣」書の「詞」)  →  13.8.3
第九段 夕霧、事態を憂慮す
 第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴
  第一段 蹴鞠の後の酒宴
  第二段 源氏の昔語り
  第三段 柏木と夕霧、同車して帰る
  第四段 柏木、小侍従に手紙を送る
  第五段 女三の宮、柏木の手紙を見る

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3723

源氏物語と「若菜」(川村清夫稿)

【 光源氏は「藤の裏葉」の帖で准太上天皇になり栄華を極めた。しかし「若菜」の帖から彼の運命は暗転する。光源氏は、出家する異母兄の朱雀上皇から娘の女三宮との結婚を受け入れて、紫上との夫婦生活が不安定になり、紫上は出家を考えるようになる。ところが女三宮は紫上とくらべ女性として未熟で、六条院の蹴鞠の会で彼女に一目ぼれした、太政大臣(頭中将)の子息である柏木と密通して、宇治十帖の主役となる薫を産んでしまう。光源氏は、かつて藤壺女御と密通して冷泉帝が生まれた過去を思い出し、因果応報の条理を思い知るのである。

 「若菜」の帖は、他の帖とくらべて異常に長大で、それ自体で中編小説になれる。源氏物語を初めて現代語訳した与謝野晶子は、「藤の裏葉」と「若菜」の間で表現に相違点があるので、紫式部が書いたのは「藤の裏葉」までで、「若菜」以降は彼女の娘の大弐三位が書いたのだろうと考えている。

 「若菜」の帖を描いた映画では、1966年に武智鉄二が日活で製作、脚本、監督した「源氏物語」が知られている。光源氏は花ノ木寿、紫上は浅丘ルリ子、女三宮は柏美紗、柏木は中村孝雄が扮していた。
 テレビドラマでは、1980年にTBSで、向田邦子が脚本を書き、久世光彦が演出した「源氏物語」がある。光源氏は沢田研二、紫上は叶和貴子、女三宮は藤真利子、柏木はジョニー大蔵が扮していた。1991年にもTBSで、橋田寿賀子が脚本を書き、鴨下信一が演出した「源氏物語・上の巻、下の巻」もある。光源氏は東山紀之(上の巻)と片岡仁左衛門(下の巻)、藤壺女御と紫上は大原麗子、女三宮は若村麻由美、柏木は坂上忍が扮していた。

 それでは、光源氏が女三宮と結婚して彼女の幼さに幻滅する場面を、藤原定家の自筆本に次いで重要な写本である明融臨模本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(明融臨模本原文)
姫宮は、げに、まだいと小さく、片なりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若びたまへり。
かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに、
「かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」
と思すものから、「いとあまりものの栄なき御さまかな」と見たてまつりたまふ。

(渋谷現代語訳)
姫宮は、なるほど、まだとても小さく、大人になっていらっしゃらないうえ、まことにあどけない様子で、まるきり子供でいらっしゃった。
あの紫のゆかりを探し出しなさった時をお思い出しなさると、
「あちらは気が利いていて手ごたえがあったが、こちらはまことに幼くだけお見えでいらっしゃるので、まあ、よかろう。憎らしく強気に出ることなどあるまい」
とお思いになる一方で、「あまり張り合いのないご様子だ」と拝見なさる。

(ウェイリー英訳)
The little princess, though now well on in her thirteenth year, was very small for her age, and indeed still looked a mere child. Her conversation and behavior also savored solely of the nursery, and Genji could not help remembering how lively, how full of character and imagination little Murasaki had been when twenty years ago he had carried her to his home. But perhaps it was a good thing that the newcomer was, except in actual years, so very much of a child. She would certainly be less likely to get into scrapes. But unfortunately, Genji reflected, people who do not get into scrapes are a great deal less interesting than those who do.

(サイデンステッカー英訳)
The Third Princess was, as her father had said, a mere child. She was tiny and immature physically, and she gave a general impression of still greater, indeed quite extraordinary, immaturity. He thought of Murasaki when he had first taken her in. She had even then been interesting. She had had a character of her own. The Third Princess was like a baby. Well, thought Genji, the situation had something to recommend it: she was not likely to intrude and make Murasaki unhappy with fits of jealousy. Yet he did think he might have hoped for someone a little more interesting.

 ウェイリー訳は、サイデンステッカー訳とくらべて冗長でない。「紫のゆかり」とは、光源氏が紫上を見初めた「若紫」の帖のことである。光源氏の独白にある「かれはされていふかひありし」を、ウェイリーはhow full of character and imagination little Murasaki had been、サイデンステッカーはShe had had a character of her ownと、同じように訳している。「憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」は、ウェイリーはshe would certainly be less likely to get into scrapesと訳しているが、サイデンステッカーはshe was not likely to intrude and make Murasaki unhappy with fits of jealousyと踏み込んで訳している。「いとあまりものの栄なき御さまかな」は、ウェイリーはpeople who do not get into scrapes are a great deal less interesting than those who doとあくの強い翻訳をしたが、サイデンステッカーはhe might have hoped for someone a little more interestingと、そっけない翻訳をしている。

 六条院の蹴鞠の会で唐猫の悪戯で御簾が外れ、柏木は女三宮の姿を見てしまうのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その二十四)

今出川晴季短冊.jpg

「今出川晴季筆短冊」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1262

【今出川晴季〈いまでがわはるすえ・1539-1617〉は、左大臣公彦〈きんひこ・1506-78〉の長男。初名は実維(さねつぐ)。天文14年〈1545〉晴季と改名。今出川氏は、西園寺実兼〈さいおんじさねかね・1249-1322〉の四男兼季〈かねすえ・1280-1338〉を祖とする名家。晴季は右大臣まで上りつめ、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉と結び、秀吉の関白宣下に尽力するなど、朝政を握るほどの権勢を振るった。が、文禄4年〈1595〉女婿にあたる豊臣秀次〈とよとみひでつぐ・1568-95〉の聚楽第の公金流用事件により、越後に配流となる。が、翌年赦免され、右大臣に還任した。元和3年、79歳で没。晴季は野心家で、政治面においてその才能を発揮したが、一方で歌や書にもすぐれ、書は尊鎮流の名手としても謳われた。これらの短冊の筆致がそれを如実に物語る。この短冊は、藍と紫の打曇に金銀泥の下絵で雲と松を描いた、美しい装飾料紙が用いられている。

(釈文)

色も香も名にめでゝみむをのづからさく桜あれば桜木の宮晴季  】
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源氏物語画帖「その三十三 藤裏葉」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)     源氏39歳春-冬

土佐光吉・藤裏葉.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤裏葉  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900649&parent_data_id=320&data_id=532

菊亭季宣・藤裏葉.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤裏葉  詞・菊亭季宣
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900649&parent_data_id=320&data_id=533

(「菊亭季宣」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/03/%E8%97%A4%E8%A3%8F%E8%91%89_%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%AE%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%B0%E3%83%BB%E3%81%B5%E3%81%A2%E3%81%AE%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%B0%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_

紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども
宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり
(第一章 夕霧の物語 第五段 藤花の宴 結婚を許される)

1.5.8 紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども
(紫色のせいにしましょう、藤の花の待ち過ぎてしまって恨めしいことだが。)
1.5.9 宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり。
(宰相中将、杯を持ちながら、ほんの形ばかり拝舞なさる様子、実に優雅である。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十三帖 藤裏葉
 第一章 夕霧の物語 雲居雁との筒井筒の恋実る
  第一段 夕霧と雲居雁の相思相愛の恋
  第二段 三月二十日、極楽寺に詣でる
  第三段 内大臣、夕霧を自邸に招待
  第四段 夕霧、内大臣邸を訪問
  第五段 藤花の宴 結婚を許される
(「菊亭季宣」書の「詞」) → 1.5.8  1.5.9 
  第六段 夕霧、雲居雁の部屋を訪う
  第七段 後朝の文を贈る
  第八段 夕霧と雲居雁の固い夫婦仲
 第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の入内
  第一段 紫の上、賀茂の御阿礼に参詣
  第二段 柏木や夕霧たちの雄姿
  第三段 四月二十日過ぎ、明石姫君、東宮に入内
  第四段 紫の上、明石御方と対面する
 第三章 光る源氏の物語 准太上天皇となる
  第一段 源氏、秋に准太上天皇の待遇を得る
  第二段 夕霧夫妻、三条殿に移る
  第三段 内大臣、三条殿を訪問
  第四段 十月二十日過ぎ、六条院行幸
  第五段 六条院行幸の饗宴
  第六段 朱雀院と冷泉帝の和歌

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3689

源氏物語と「藤裏葉」(川村清夫稿)

【 天皇家の皇位継承の歴史には、皇室を離れて臣籍に下った元皇族が皇室に復帰して天皇に即位した前例がある。9世紀末に菅原道真の後援者になって藤原氏を抑え天皇親政を実現した宇多天皇と、彼が臣籍にいた時に生まれた子息で10世紀初めに藤原氏と協調しながら天皇親政を継続した醍醐天皇である。宇多天皇は臣籍にいた間は源定省(さだみ)、醍醐天皇は源維城(これざね)と名乗っていた。

 「藤の裏葉」の帖は、皇室を離れて臣籍に下っていた光源氏が、冷泉帝のはからいで准太上天皇(准上皇)に、内大臣は太政大臣に、夕霧は中納言になって、光源氏一家も内大臣一家も栄華の絶頂を迎える、めでたしめでたし型の帖である。与謝野晶子は、紫式部が書いた源氏物語は「藤の裏葉」までで、「若菜」の帖以降は娘の大弐三位が書いたと考えている。それでは光源氏が准太上天皇になる場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
明けむ年、四十になりたまふ。御賀のことを、朝廷よりはじめてたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。

その秋、太上天皇に准らふ御位得たまうて、御封加はり、年官年爵など、皆添ひたまふ。かからでも、世の御心に叶はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、内裏に参りたまふべきこと、難かるべきをぞ、かつ思しける。

かくても、なほ飽かず帝は思して、世の中を憚りて、位をえ譲りきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける。

(渋谷現代語訳)
明年、四十歳におなりになる。御賀のことを、朝廷をお初め申して、大変な世を挙げてのご準備である。

その年の秋、太上天皇に準じる御待遇をお受けになって、御封が増加し、年官や年爵など、全部お加わりになる。そうでなくても、世の中でご希望通りにならないことはないのが、やはりめったになかった昔の例を踏襲して、院司たちが任命され、各段に威儀厳めしくおなりになったので、宮中に参内なさることが、難しいだろうことを、一方では残念にお思いであった。

それでも、なおも物足りなく帝はお思ひあそばして、世間に遠慮して、皇位をお譲り申し上げられないことが、朝夕のお嘆きの種であった。

(ウェイリー英訳)
Next year would see his fortieth birthday, and he heard that both at Court and in the country at large great preparation were afoot for celebrating this event. Already in the autumn of the present year he was proclaimed equal in rank to an Imperial parent, and his fiefs and patronage were correspondingly increased. His actual power had for a long time past been absolute and complete, so that these changes brought him no great advantage. Indeed, in one respect they were inconvenient; for in defiance of a very well-established precedent he was burdened with the special retinue of his new rank, which, magnificent though it made his public appearances, rendered his comings and goings in the Palace very burdensome, and he was no longer able to meet the Emperor so often as he desired.

Ryozen still felt acutely the illegality of his own position and would at any moment have been prepared to resign the Throne, had not Genji refused to sanction such a step, pointing out that it would have a disastrous effect on public opinion if it became known that the true line of succession had been impaired.

(サイデンステッカー英訳)
Genji would be forty next year. Preparations were already under way at court and elsewhere to celebrate the event. In the autumn he was accorded benefices equivalent to those of a retired emperor. His life had seemed full enough already and he would have preferred to decline the honor. All the old precedents were followed, and he was so hemmed in by retainers and formalities that it became almost impossible for him to go to court. The emperor had his own secret reason for dissatisfaction: public opinion apparently would not permit him to abdicate in favor of Genji.

 この場面は源氏物語における重要な場面なのだが、ウェイリー訳はいささか冗漫で、サイデンステッカー訳は簡潔だがそっけない翻訳をしている。「太上天皇に准らふ御位」を、ウェイリーはequal in rank to an Imperial parentと訳しているが、桐壺帝と同じ「天皇」の意味になってしまい、誤訳である。サイデンステッカーはbenefices equivalent to those of a retired emperorと訳している。彼によれば「太上天皇」はretired emperorである.「なほめづらしかりける昔の例」とは、一度臣籍に下りながら皇室に復帰して即位した、宇多天皇と醍醐天皇のことである。これをウェイリーはa very well-established precendentと、サイデンステッカーはall the old precedentsと訳している。サイデンステッカーはこの箇所に註釈を設けてIt is interesting to note that there were no real precedentsと書いている。彼は元皇族が天皇に即位した、歴史的事実を知らないようである。ウェイリーは「冷泉帝」を、間違えてRyozenと表記している。日本の古典文学を正確に翻訳するためには、日本史に関する十分な知識が必要なのである。

 光源氏の栄耀栄華は「藤の裏葉」の帖までで、この後に続く「若菜」の帖から光源氏の運勢は暗転してゆくのである。      】

(「三藐院ファンタジー」その二十三)

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E5%AE%B6%EF%BC%8F%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

今出川経季(→ 菊亭季宣 )
生没年:1594-1652
父:権中納言 今出川季持
初名:宣季
1598 従五位下
1604 従五位上
1604 侍従
1607 正五位下
1608 従四位下
1611 従四位上
1611 左近衛少将
1612 正四位下
1612 左近衛中将
1613 従三位
1614 権中納言
1614 踏歌外弁
1616 正三位
1619-1627 権大納言
1620 従二位
1628 正二位
1638-1639 権大納言
1638-1639 右近衛大将
1644 武家伝奏
1649 院別当
1652 右大臣
妻:(父:氏家行広、義父:若狭小浜藩初代藩主 京極高次)

公嗣

(養子)春照院(父:西園寺実晴)
1638-1697 (養子)公規
今出川公規

 「源氏物語画帖」の筆者の「菊亭季宣」は、別姓が「今出川」で、「故実拾要によると、大納言の時までは、菊亭を称し、大臣以後に今出川を称するのだという。 明治以降、菊亭に改姓」と、下記のアドレスでは紹介されている。また、その名の「季宣」は、「今出川(菊亭)経季(宣季)」の「初名」のようである。

https://geocity1.com/okugesan_com/imadegawa.htm#google_vignette

 「菊亭(今出川)家」は、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・菊亭)の「精華家」の一つで、最上位の「五摂家」(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に次いで、「大臣家」の上の序列に位置する。
 この「菊亭(今出川)家」の「今出川経季(菊亭宣季・季宣)」関連については、その祖父「今出川(菊亭)晴季」に関する、次のアドレスの「今出川晴季伝―豊臣・徳川政権交替期を生きた一人物―(松原一義稿)」が参考となる。

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=2073&item_no=1

 この論稿では、「慶長九(一六〇四) 宣季(季持の遺児)侍従、元服、禁色昇殿」などと紹介されているが、季宣〈宣季〉の父「季持」は早世して、「菊亭(菊亭)家」は、祖父・晴季(その前年に内大臣を辞去)から孫・季宣(宣季)へと、実質的に継受されたということを意味しよう。
 そして、この「晴季」に関しては、上記論稿で紹介されている年譜の、次の記事のように、「豊臣秀吉の関白就任・豊臣秀次追放・自殺と一族集団処刑」など、当時の大きなドラマと深く関わっている。

「天正十三(一五八六) 晴季、右大臣。内大臣、秀吉を案内して参内ついで、関白職を斡旋。
文禄四(一五九五) 秀吉、秀次を高野山に追う。秀次室(一の台)他、子女、女房を処刑。晴季も越後に左遷される。」

http://fuujinnomon.the-ninja.jp/person09.html

【今出川晴季。今出川家第10代当主。今出川家は琵琶を家職とした。居所から今出川、菊花を愛したことから菊亭と称されたという。豊臣秀吉を関白太政大臣にするために周旋した。秀吉は織田信長亡き後の政権を握るため、織田氏に負けない身分がほしかった。そのため、前将軍足利義昭の猶子(養子)となり征夷大将軍の位を請うたが、義昭に拒絶され為す術を失っていた。同じ頃朝廷では、二条昭実と近衛信尹(のぶただ)が関白太政大臣の位を争っていた。この機に乗じた晴季は、前関白の近衛前久(さきひさ)に図り、秀吉を前久の猶子とさせ関白職を譲らせた。この同じ年(天正13年/1585年)、晴季は従一位に叙せられる。ところが、文禄4年(1595年)に秀吉の甥であり関白職にあった豊臣秀次が失脚すると、娘を秀次に嫁していた晴季も連座し、越後に流罪となってしまう。しかし翌慶長元年には赦されて帰京。秀吉没後の慶長3年(1598年)に右大臣に還補された。慶長8年(1603年)右大臣を辞任。大坂の陣の2年後の元和3年(1617年)薨去する。 】

 これらの記述からして、「近衛家」(近衛信尹)と「菊亭家」(菊亭晴季)との確執は根深いものがあったであろうが、慶長十九年(一六一四)に信尹が亡くなり、そして、晴季も元和三年(一六一七)に没しており、この「源氏物語画帖」の「詞書」の制作時期の、「慶長十九年(一六一四)以前より始まり、元和三年(一六一七)の頃に一応の完成を見て、最終的に元和五年(一六一九)の頃に完成した」(『源氏物語画帖(京都国立博物館蔵))・勉誠社』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)と、菊亭季宣(宣季)が、この画帖の筆者になっていることは、「近衛家」(信尋)と「菊亭家」(季宣・宣季)との和解をも意味しているように思われる。
 なお、源氏物語画帖」筆者(詞書)関連の「堂上公家」は、下記(参考)のとおりである。

(参考) 「源氏物語画帖」筆者(詞書)関連の「堂上公家」

堂上家一覧一.jpg

堂上家一覧二.jpg


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6
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源氏物語画帖「その三十二 梅枝」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)    源氏39歳春

土佐光吉・梅枝.jpg

源氏物語絵色紙帖  梅枝  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900648&parent_data_id=323&data_id=538

日野資枝・梅枝.jpg

源氏物語絵色紙帖  梅枝  詞・日野資勝
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900648&parent_data_id=323&data_id=539

(「日野資勝」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/02/%E6%A2%85%E6%9E%9D_%E3%81%86%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%88%E3%83%BB%E3%82%80%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%88%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B8%96

花の香をえならぬ袖にうつしもて ことあやまりと妹やとがめむ
とあれば、「いと屈したりや」と笑ひたまふ。御車かくるほどに追ひて
めづらしと故里人も待ちぞ見む 花の錦を着て帰る君
(第一章 光る源氏の物語 薫物合せ 第四段 薫物合せ後の饗宴)

1.4.18 花の香をえならぬ袖にうつしもて ことあやまりと妹やとがめむ 
(この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら、女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう。) 
1.4.19 とあれば、(と言うので、)
1.4.20 「 いと屈したりや」(「たいそう弱気ですな」)
1.4.21 と笑ひたまふ。 御車かくるほどに、 追ひて、(と言ってお笑いになる。お車に牛を繋ぐところに、追いついて、)
1.4.22 めづらしと故里人も待ちぞ見む花の錦を着て帰る君 (珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう。この花の錦を着て帰るあなたを、)
1.4.23 またなきことと思さるらむ (めったにないこととお思いになるでしょう。)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十二帖 梅枝
  第一章 光る源氏の物語 薫物合せ
   第一段 六条院の薫物合せの準備
   第二段 二月十日、薫物合せ
   第三段 御方々の薫物
   第四段 薫物合せ後の饗宴
(「日野資勝」書の「詞」) → 1.4.18 1.4.19 1.4.20 1.4.21 1.4.22 1.4.23  
  第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着
   第一段 明石の姫君の裳着
   第二段 明石の姫君の入内準備
   第三段 源氏の仮名論議
   第四段 草子執筆の依頼
   第五段 兵部卿宮、草子を持参
   第六段 他の人々持参の草子
   第七段 古万葉集と古今和歌集
  第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語
   第一段 内大臣家の近況
   第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓
   第三段 夕霧と雲居の雁の仲

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3673

源氏物語と「梅枝」(川村清夫稿)

【 光源氏は、文化的には流行に流されない、保守的な趣味の持ち主であった。彼は織物に関しても、「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」(錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった)と言っている。彼は、明石の君との間にもうけた娘である明石の姫君を東宮妃として入内させる準備を進めていた。他方、光源氏の子息である夕霧は、内大臣の娘である雲居の雁と恋愛関係にあったが、なかなか身を固めなかった。そこで光源氏は、自分の恋愛経験を話しながら、結婚を勧めるのであった。では光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。」

「いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつしみだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。」

(渋谷現代語訳)
「所在なく独身でいると、何か考えがあるのかと、世間の人も推量するであろうから、運命の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着くことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。」

「ひどく高望みしても、思うようにならず、限界があることから、浮気心を起こされるな。幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず、窮屈に、ちょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと、慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から非難されたものだ。位階が低く、気楽な身分だからと、油断して、思いのままの行動などなさるな。心が自然と思いあがってしまうと、好色心を抑える妻子がいない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。」

(ウェイリー英訳)
“But what I wanted to say to you now was this: your present unsettled way of living is doing your reputation a great deal of harm. Naturally everyone assumes that a previous attachment of some kind is holding you back, and the impression most people are likely to get is that you have got tied up with someone so lowborn or discreditable that you cannot possibly introduce her into your family. I know that this idea is the opposite of the truth; indeed no one could possibly accuse you of aiming too low. But it is now perfectly clear that you cannot get what you want… Under such circumstances the only thing to do is to take what one can get, and make the best of it…”

“I myself had just the same sort of trouble at your age. But things were even worse; for in the Palace one is hedged round by all kinds of rules and restrictions. All eyes were upon me, and I knew that the slightest indication on my part would be eagerly seized upon and exploited by those who stood to gain by my undoing. In consequence of this I was always extremely careful… Yes. In spite of all my precautions I did once get into trouble, and it even looked at one time as though I had ruined myself for good and all. I was still low in rank then and had not particularly distinguished myself in any way. I felt that I was free to do as I chose, and that if things went wrong I had not much to lose. As a matter of fact it is just at such a moment in life that one makes the most far-reaching and irreparable mistakes, for it is then that passion is at its strongest, while the checks and restraints, that in middle age inevitably protect us against the wilder forms of folly, have not yet come into play. To suggest that you need advice on this subject is in no way derogatory to your intelligence; for in their relations with women people who show the utmost good sense in other matters seem constantly to get into the most inextricable mess.”

(サイデンステッカー英訳)
“People think there is something odd about you because you are not married, and if in the end it seems to have been your fate to disappoint us, well, we can only say that you once showed promise. Do please always be on guard against the possibility that you are throwing yourself away because your ambitions have proven unreal.”

“I grew up at court and had little freedom. I was very cautious, because the smallest mistake could make me seem reckless and giddy. Even so, people said that I showed promiscuous tendencies. It would be a mistake for you to think that because you are still relatively obscure you can do as you please. The finest of men - it was true long ago and it is still true today - can disgrace themselves because they do not have wives to keep them from temptation.”

 ウェイリー訳が冗漫なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔である。しかし「なほなほしきありてなびく」をウェイリーはtied up with someone so lowborn or discreditableと的確に訳しているが、サイデンステッカーの訳は意味がわからない。「位浅く、何となき身のほど」をサイデンステッカーはyou are still relatively obscureと正確に訳しているが、ウェイリーは光源氏のことだと勘違いしている。I felt that I was free to do as I choseからin middle age inevitably protect us against the wilder forms of folly, have not yet come into playまでは、原文にないウェイリーの創作である。この光源氏の恋愛体験談は、「帚木」の帖の冒頭にある光源氏の紹介と内容が一致する。

 夕霧と雲居の雁は、次の「藤の裏葉」の帖で、晴れて結婚するのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十二)

日野資枝・渕亀.jpg

「日野資枝筆詠草」
https://objecthub.keio.ac.jp/object/744

【 日野資枝〈ひのすけき・1737-1801〉は、江戸時代中期の公卿、歌人。内大臣烏丸光栄の末子だが、日野資時の子が相次いで没したため、嗣子となった。賀茂社奉行・神宮弁など歴任したのち、宝暦13年〈1763〉参議に列せられた。翌年、権中納言に任ぜられ、以後累進し、天明5年〈1785〉権大納言に任ぜられ、寛政5年〈1793〉従一位に昇った。日野家は代々、儒道と歌道をもって朝廷に仕えた。歌学者の実父・光栄の血もあってか、資枝は歌人として名高い。冷泉為村・烏丸光胤・有栖川宮職仁親王らに歌道を学んだのち、為村の没後の、宮廷歌壇において主要な存在となったのである。塙保己一や内藤正範らは歌道を資枝に学んだ。その書は日野流の系譜にあるという。この詠草では、最後の一行に位署を記す。57歳から65歳で没するまでの間に書かれた、晩年期の筆跡であるが、豪放な書きぶりである。「渕の亀すむ亀はさこそ齢も限りなき千尋の渕ををのが常世に/従一位資枝」

(釈文)

渕亀すむかめはさこそよはひもかぎりなき千ひろの渕ををのがとこ世に従一位資枝  】


(参考)「日野資枝」周辺

 「日野家」(「日野家」嫡流)の「日野資勝」(1577-1639)と、「烏丸家」(「日野家」庶流)の「烏丸光広」(1579-1638)とは、資勝が二歳年上で、亡くなったのは、光広の方が一年早く、この二人は、下記の略歴のとおり、同時代の、謂わば、資勝が兄貴、光広が弟分というような関係にある。
 この『烏丸家』から「日野家」の当主(三十六代)になつたのが、「蕪村・秋成」時代の「日野資枝」(1737-1801)で、この資枝も、資勝や光広と全く同じような、謂わば、「儒学と和歌と実務官僚という家職を持って、名家の家格を確立した日野家(そして烏丸家)」(「中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―(申美那稿)」)の一典型的な道を歩むことになる。
 そして、それは、「日野流儒者・日野流歌人・日野流書家」で、且つ、「名家(日野家・烏丸家)」としての「実務官僚」(資勝=踏歌内弁・神宮伝奏・武家伝奏等、光広=踏歌外弁・賀茂伝奏等、資枝=踏歌外弁・賀茂伝奏等)の重役を歴任することになる。

(日野資勝)  →  「日野家」29代当主
生没年:1577-1639
父:権大納言 日野輝資
1578 従五位下
1581 従五位上
1581 侍従
1585 正五位下
1586 左少弁
1589 右中弁
1590-1595 蔵人
1590 正五位上
1594 左中弁
1595 従四位下
1595 従四位上
1597 正四位上
1597 蔵人頭
1599 左大弁
1599 参議
1600 従三位
1601 美作権守
1601-1604 勘解由長官
1611 正三位
1611 権中納言
1614 権大納言
1615 従二位
1616 踏歌内弁
1619 正二位
1626-1628 神宮伝奏
1630-1639 武家伝奏
妻:(父:准大臣 烏丸光宣)
1591-1630 光慶
娘(左大臣 三条実秀室)
養玉院(対馬府中藩二代藩主 宗義成室)
娘(権中納言 平松時庸室)
日野光慶

(烏丸光広)  → 「烏丸家」9代当主
生没年:1579-1638
父:准大臣 烏丸光宣
1581 従五位下
1583 侍従
1583 従五位上
1586 正五位下
1589 右少弁
1594 左少弁
1595 正五位上
1595 蔵人
1599 左中弁
1599 従四位下
1599 蔵人頭
1599 従四位上
1600 正四位下
1600 正四位上
1601 左宮城使
1604 右大弁
1606 参議
1608 従三位
1609 左大弁
1609 猪熊事件
1609-1611 蟄居
1611 参議
1611 左大弁
1612 権中納言
1613 正三位
1616 権大納言
1617 従二位
1617 踏歌外弁
1620 正二位
1625 春日祭上卿
1627 賀茂伝奏
1637 春日祭上卿
正室:鶴姫(父:江戸重通、義父:結城晴朝、結城秀康未亡人)
側室:清源院(父:越後村上藩初代藩主 村上頼勝)
1600-1638 光賢
妻:家女房
1632-1679 勘解由小路資忠(勘解由小路家へ)
(生母不明)
?-1658 六角広賢
親広
1624-1709 明正院梅小路局
西本願寺宗西光寺照貞室
昭子内親王上臈

(日野資枝) →  (「烏丸家」→「日野家」36代当主)
生没年:1737-1801
父:内大臣 烏丸光栄
義父:権大納言 日野資時
1742 従五位下
1746 従五位上
1746 侍従
1753 権右少弁
1750 正五位下
1752 蔵人
1752 右衛門権佐
1752 正五位上
1753-1761 賀茂社奉行
1753-1756 御祈奉行
1753-1758 神宮弁
1754 左少弁
1755 権右中弁
1756 右中弁
1758 左中弁
1761 蔵人頭
1761 従四位下
1761 従四位上
1761 正四位下
1762 正四位上
1762 左大弁
1763 参議
1764 従三位
1764-1774 権中納言
1765 踏歌外弁
1767 賀茂伝奏
1768 正三位
1774 従二位
1778 正二位
1785 権大納言
1793 従一位
妻:喜子(父:准大臣 広橋勝胤)
1756-1830 資矩
1763-1819 北小路祥光(北小路家へ)
娘(典薬頭 錦小路頼尚室)

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2009/662.html

「中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―(申美奈稿)」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/101/0/101_17/_pdf/-char/ja

「日野資枝の画賛(田代一葉稿)」

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/50076/gobun95_12.pdf

「交誼と報謝 : 秋成晩年の歌文(飯倉 洋一稿)」

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-84512

「日野資枝百首(宮内庁書陵部)」

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-84515

「日野資枝金毘羅社壇詠百首(宮内庁書陵部)」

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/sukeki.html

「日野資枝千人万首(asahi net)」
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源氏物語画帖「その三十一 真木柱」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)   源氏37歳冬-38歳冬 

光吉・真木柱.jpg

源氏物語絵色紙帖  真木柱  画・土佐光吉
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日野資勝・真木柱.jpg

源氏物語絵色紙帖  真木柱  詞・日野資勝
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(「日野資勝」書の「詞」)

正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふ
(第二章 鬚黒大将家の物語 第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける)

2.5.7 正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふ(ほど、人の ややみあふるほどもなう、あさましきに、 あきれてものしたまふ。)
(ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる(間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる)。)

(周辺メモ)

第三十一帖 真木柱
 第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚
  第一段 鬚黒、玉鬘を得る
  第二段 内大臣、源氏に感謝
  第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活
  第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す
 第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動
  第一段 鬚黒の北の方の嘆き
  第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)
  第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)
  第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする
  第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける
(「日野資勝」書の「詞」)  →  2.5.7
  第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る
  第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う
 第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る
  第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る
  第二段 母君、子供たちを諭す
  第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す
  第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨
  第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問
  第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る
 第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ
  第一段 玉鬘、新年になって参内
  第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る
  第三段 玉鬘の宮中生活
  第四段 帝、玉鬘のもとを訪う
  第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す
  第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出
  第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る
  第八段 源氏、玉鬘の返書を読む
  第九段 三月、源氏、玉鬘を思う
 第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君
  第一段 北の方、病状進む
  第二段 十一月に玉鬘、男子を出産
  第三段 近江の君、活発に振る舞う

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3657

源氏物語と「真木柱」(川村清夫稿)

【 源氏物語の31番目の帖「真木柱」は、22番目の帖「玉鬘」から続いてきた玉鬘十帖の最後の帖である。髭黒大将は北の方(妻)がいるにもかかわらず、玉鬘と強引に男女の仲を結んでしまった。北の方は夫の不倫に狂乱して香炉の灰を投げつけ、髭黒大将は家族と離別してしまった。彼の愛娘の真木柱は家の柱に父との離別の歌を書きつけ、母と行動を共にした。玉鬘を髭黒大将に取られた光源氏は悔しがり、彼女に恋文を送るが、髭黒大将は彼女の名をかたって返事をよこすのであった。

 それでは、光源氏からの恋文に髭黒大将が返事をよこす場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「同じ巣にかへりしかひの見えぬかな
 いかなる人か手ににぎるらむ
などか、さしもなど、心やましうなむ」
などあるを、大将も見たまひて、うち笑ひて、
「女は、まことの親の御あたりにも、たはやすくうち渡り見えたてまつりたまはむこと、ついでなくてあるべきことにあらず。まして、なぞ、この大臣の、をりをり思ひ放たず、恨み言はしたまふ」
と、つぶやくも、憎しと聞きたまふ。…
「巣隠れて数にもあらぬかりの子を
 いづ方にかは取り隠すべき
よろしからぬ御けしきにおどろきて、すきずきしや」
と聞こえたまへり。
「この大将の、かかるはかなしごと言いたるも、まだこそ聞かざりつれ、めづらしう」
とて、笑ひたまふ。心のうちには、かく領じたるを、いとからしと思す。

(渋谷現代語訳)
「せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね
 どんな人が手に握っているのでしょう
どうして、こんなにまでもと、おもしろくなくて」
などとあるのを、大将も御覧になって、ふと笑って、
「女性は、実の親の所にも、簡単に行ってお会いなさることは、適当な機会がなくてはなさるべきではない。まして、どうして、この大臣は、度々諦めずに、恨み言をおっしゃるのだろう」
と、ぶつぶつ言うのも、憎らしいとお聞きになる。…
「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を
 どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか
不機嫌なご様子にびっくりしまして、懸想文めいていましょうか」
とお返事申し上げた。
「この大将が、このような風流ぶった歌を詠んだのも、まだ聞いたことがなかった。珍しくて」
と言って、お笑いになる。心中では、このように一人占めにしているのを、とても憎いとお思いになる。

(ウェイリー英訳)
“What an extraordinary man this Genji is!” he said. “Why, even if he were your real father he could not now that you are married expect to meet you except on particular occasions. What does he want? He seems, in one way or another, to be always complaining that he does not see you.” She did not seem to have any intention of acknowledging the gift, …
“I am not minded that any should reclaim her, this fledging that was not counted among the brood of either nest.” Such was the poem he sent, and he added: “My wife was surprised at the nature of your gift, and was at a loss how to reply without seeming to attach an undue importance to it…”
Genji laughed when the note was brought to him. “I have never known Higekuro stoop to concern himself in such trifles as this,” he said, “What is the world coming to?” But in his heart he was deeply offended by the arrogantly possessive tone of Higekuro’s letter.

(サイデンステッカー英訳)
“I saw the duckling hatch and disappear. Sadly I ask who have taken it.”
Higekuro smiled wryly. “A lady must have very good reasons for visiting even her parents. And here is His Lordship pretending that he has some such claim upon your attentions and refusing to accept the facts.”
She thought it unpleasant of him. …
“Off in a corner not counted among the nestlings, It was hidden by no one. It merely picked up and left.
“Your question, sir, seems strangely out of place. And please, I beg of you, do not treat this as a billet-doux.”
“I have never seen him in such a playful mood,” said Genji, smiling in fact, he was hurt and angry.
 
 ウェイリーの翻訳に手抜きが目立つのに対し、サイデンステッカーは原文に忠実で簡潔な翻訳をしている。ウェイリーは光源氏と髭黒大将の和歌を訳さなかったので、訳文が説明調で味気ない。billet douxとは、「懸想文」のフランス語訳である。

玉鬘は男児を出産して、髭黒大将の新妻になった。内大臣が頭中将だった時に夕顔ともうけた玉鬘は、養女扱いしながら不純な恋愛感情を持つ光源氏の手から離れたところで、「玉鬘十帖」は終わるのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十一)

 「日野資勝」に関連しては、総括的に、次のアドレスが、そのスタート地点ということになる。

https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E5%8B%9D-14898

【日野資勝(読み)ひの・すけかつ
没年:寛永16.6.15(1639.7.15)  生年:天正5(1577)
江戸前期の公家。権大納言輝資の子。母は津守国繁の娘。慶長4(1599)年参議,16年権中納言,19年権大納言となる。後水尾天皇譲位に際して,幕府の譴責を受け辞任した中院通村にかわり,父輝資が武家昵近衆として徳川家康の知遇を受けたことから,寛永7(1630)年武家伝奏となり朝幕間の斡旋に努める。16年まで在職。その日記『資勝卿記』は,10年にわたる武家伝奏在任期の記録も残され,江戸前期の朝幕関係を知る貴重な資料。資勝は,また後水尾院の立花会の重要メンバーであり,当時ブームとなった椿栽培においても珍種「日野椿」の栽培で知られる。法名涼源院。<参考文献>熊倉功夫『寛永文化の研究』 (母利美和)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 】

 ここに、年号の「慶長」から「元和」へ、そして「元和」から「寛永」へと、その元号が変わる時の、それらを審議した、謂わば、その時の「審議公家一覧」(「改元陣儀上卿一覧)」を添えて見たい。

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf
「戦国・織豊期の朝廷政治」(池享稿)

改元陣儀上卿一覧

改元陣義上卿一覧.jpg

 この「慶長」(後陽成天皇)の元号から、「元和」(後水尾天皇)の元号に代わった「元和元年」(一六一五)は、「大阪夏の陣」で豊臣家が滅亡した年である。その前年の「慶長十九年」(一六一四)が「大阪冬の陣」で、この年の十一月に「近衛信尹」が亡くなっている(享年五十)。この年に、「近衛信尋」が若干十五歳で、近衛家第十九代当主となり「右大臣」に進み、
元和六年(一六二〇)に左大臣、元和九(一六二三)には関白に補せられている。
 この「元和」の改元の審議に携わったトップが「右大臣・近衛信尋」で、その審議に携わったメンバーが、「権大納言・花山院定煕、同・日野資勝」等の十人ということになる。
これらの上記の「慶長・元和・「寛永」の改元に携わったメンバーのうち、「源氏物語画帖」の詞書の筆者となっているものが、「久我敦通・花山院定煕・近衛信尋・日野資勝・烏丸光広・四辻季継・阿野実顕・中院通村」の八人で、その他、「烏丸光賢〈烏丸光広〉・西園寺実晴〈西園寺公益〉・飛鳥井雅胤〈飛鳥井雅庸〉・菊亭季宣〈菊亭宣季〉・久我通前〈久我敦通〉」も上記のメンバー〈括弧書き〉と親子関係などの一族ということになる。
ここで、「源氏物語画帖」の詞書の二十三名の筆者のうち、皇族関係者と上記の公卿関係者と親子関係など直接的な関係に無い者は、「西洞院時直・冷泉為頼」の二人で、「西洞院時直」は、「西洞院時慶」の長男で、後水尾天皇の側近であると同時に、「西洞院」家は「近衛」家の「家司」で、その執事的な家政を司っていた人物ということになる。
もう一人、「冷泉為頼」は、第十代「上冷泉家」の当主で、「冷泉流歌道」と「定家流(書流)」との正統を伝承している人物ということになろう。そして、この「冷泉為頼」と、清華家の当主の「久我通前」との二人が、「定家流をもって詞書を書いている点は、その幅広い流行を物語る一例として興味深い」との指摘がなされている(『源氏物語画帖(京博本・勉誠社)』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)。
ここで、源氏物語画帖」の詞書の二十三名の筆者のうち、皇族関係者を除いて、五摂家の「近衛家」などの公家の筆者を、この「書流」(書道の流派)の観点から見て行くと、当時の「書流」の代表的な能筆家の面々による制作であったということが浮き彫りになってくる。

https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001278246-02.html

「三藐院流(近衛流)」
  近衛信尹(信輔・信基・三藐院) → 「澪標・乙女・玉鬘・蓬生」
  近衛信尋(応山)        → 「須磨・蓬生」
  近衛太郎(君)          → 「花散里・賢木」
  四辻季継            → 「竹河・橋姫」
  (西洞院時慶) → 西洞院時直  → 「若紫・末摘花」  
(西園寺公益) → 西園寺実晴  → 「横笛・鈴虫・御法」

「光悦流」
  阿野実顕            → 「行幸・藤袴(蘭)」
烏丸光広

「定家流」
  冷泉為頼            → 「幻・早蕨」
  久我通前            → 「総角」
  烏丸光広
  烏丸光賢
  日野資勝

「光広流」
  烏丸光広            → 「蛍・常夏」
  烏丸光賢            → 「薄雲・朝顔(槿)」

「中院流」             
  中院通村            → 「若菜下・柏木」
 菊亭季宣(今出川季宣・経季)    → 「藤裏葉・若菜上」

「栄雅流」
  飛鳥井雅胤            → 「夕顔・明石」

「花山院流」
  花山院定煕            → 「夕霧・匂兵部卿宮・紅梅」

「道澄流」
  久我敦通             → 「椎本」

「日野流」
  日野資勝             → 「真木柱・梅枝」



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源氏物語画帖「その三十 藤袴(蘭)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿野実顕(一五八一~一六四五)  源氏37歳秋 

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源氏物語絵色紙帖  藤袴(蘭)  画・土佐光吉
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源氏物語絵色紙帖  藤袴(蘭) 詞・阿野実顕 
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(「阿野実顕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/30/%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%B9%B8_%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

宰相中将、 同じ色の、今すこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿しも、またいと なまめかしくきよらにておはしたり。初めより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、 もて離れて疎々しきさまには、もてなしたまはざりしならひに、今、あらざりけりとて、こよなく変はらむもうたてあれば、なほ御簾に几帳添へたる御対面は、人伝てならでありけり。
(第一章 玉鬘の物語 玉鬘と夕霧との新関係 第二段 夕霧、源氏の使者として玉鬘を訪問)

1.2.1  宰相中将、 同じ色の、今すこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿しも、またいと なまめかしくきよらにておはしたり。
(宰相中将が、同じ喪服の、もう少し色の濃い直衣姿で、纓を巻いていらっしゃる姿が、またたいそう優雅で美しくいらっしゃった。)

1.2.2 初めより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、 もて離れて疎々しきさまには、もてなしたまはざりしならひに、今、あらざりけりとて、こよなく変はらむもうたてあれば、なほ御簾に几帳添へたる御対面は、人伝てならでありけり。
(初めから、誠意を持って好意をお寄せ申し上げていらっしゃったので、他人行儀にはなさらなかった習慣から、今、姉弟ではなかったといって、すっかりと態度を改めるのもいやなので、やはり御簾に几帳を加えたご面会は、取り次ぎなしでなさるのであった。)


(周辺メモ)

第三十帖 藤袴
 第一章 玉鬘の物語 玉鬘と夕霧との新関係
  第一段 玉鬘、内侍出仕前の不安
  第二段 夕霧、源氏の使者として玉鬘を訪問
(「阿野実顕」書の「詞」) → 1.2.1 1.2.2 
  第三段 夕霧、玉鬘に言い寄る
  第四段 夕霧、玉鬘と和歌を詠み交す
  第五段 夕霧、源氏に復命
  第六段 源氏の考え方
  第七段 玉鬘の出仕を十月と決定
 第二章 玉鬘の物語 玉鬘と柏木との新関係
  第一段 柏木、内大臣の使者として玉鬘を訪問
  第二段 柏木、玉鬘と和歌を詠み交す
 第三章 玉鬘の物語 玉鬘と鬚黒大将
  第一段 鬚黒大将、熱心に言い寄る
  第二段 九月、多数の恋文が集まる


http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3651

源氏物語と「藤袴(蘭」(川村清夫稿)

【 桐壺帝の妹で光源氏の叔母に当たる三条の大宮が亡くなり、光源氏の養女となっていた玉鬘は孫娘として喪に服した。玉鬘は宮中へ出仕するか迷っていたところ、夕霧がやって来て、藤袴の花を差し出して求愛したが、玉鬘は相手にしなかった。夕霧は光源氏に、光源氏が玉鬘を側室にしようとしているとの噂を内大臣が聞いていると言って、光源氏の真意をただしたが、光源氏は言葉巧みに真意をはぐらかせた。玉鬘は夕霧の他に、内大臣の息子の柏木、右大臣の息子の髭黒大将、光源氏の異母弟の蛍兵部卿宮などの男性貴族から求愛の手紙を送られるが、結局彼女は蛍兵部卿宮だけに返事を書いたのである。

 「藤袴」の帖の英訳に関しては、ウェイリーは玉鬘と柏木、髭黒大将、蛍兵部卿宮の恋愛だけ描いていて、玉鬘と夕霧の場面、夕霧と光源氏の場面を省略しており、サイデンステッカーは原文に忠実に翻訳している。

 それでは夕霧と光源氏の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かたしや、わが心ひとつなる人の上にもあらぬを、大将さへ、我をこそ恨むなれ。すべてかかることの心苦しさを見過ぐさで、あやなき人の恨み負ふ、かへりては軽々しきわざなりけり。かの母君のあはれに言ひおきしことの忘れざりしかば、心細き山里になど聞きしを、かの大臣、はた聞き入れたまふべくもあらずと愁へしに、いとほしくて、かく渡しはじめたるなり。ここにかくものめかすとて、かの大臣も人めかいたまふなめり」と、つきづきしくのたまひなす。…
「年ごろかくて育みこきえたまひける御心ざしを、ひがざまにこそ人は申すなれ。かの大臣も、さやうになむおもむけて、大将の、あなたざまのたよりにけしきばみたりけるにも、応へける」と聞こえたまへば、うち笑ひて、
「かたがたいと似げなきことかな。なほ、宮仕へをも、御心許して、かくなむと思されむさまにぞ従ふべき。女は三つに従ふものにこそあれど、ついでを違へて、おのが心にまかせむことは、あるまじきことなり」
とのたまふ。

(渋谷現代語訳)
「難しいことだ。自分の思いのままに行く人のことではないので、大将までが、わたしを恨んでいるそうだ。何事も、このような気の毒なことは見ていられないので、わけもなく人の恨みを負うのは、かえって軽率なことであった。あの母君(夕顔)がしみじみと遺言したことを忘れなかったので、寂しい山里になどと聞いたが、あの内大臣は、やはり、お聞きになるはずもあるまいと訴えたので、気の毒に思って、このように引き取ることにしたのだ。わたしがこう大切にしていると聞いて、あの大臣も人並みの扱いをなさるようだ」
と、もっともらしくおっしゃる。…
「長年このようにお育てなさったお気持ちを、変なふうに世間の人は噂申しているようです。あの大臣もそのように思って、大将が、あちらに伝を頼って申し込んできた時にも、答えました」
と申し上げなさると、ちょっと笑って、
「それもこれもまったく違っていることだな。やはり、宮仕えでも、お許しがあって、そのようにとお考えになることに従うのがよいだろう。女は三つのことに従うものだというが、順序を取り違えて、わたしの考えにまかせることは、とんでもないことだ」
とおっしゃる。

(サイデンステッカー英訳)
“It is very difficult. Higekuro seems to be annoyed with me too, quite as if her arrangements were mine to make. Her life is very complicated and I thought I should do what I could for her. And the result is that I am unjustly reproached by both of them. I should have been more careful. I could not forget her mother’s last request, and one day I heard that she was off in the far provinces. When she said that her father refused to listen to her troubles. I had to feel sorry for her and offer to help her. I think her father is finally beginning to treat her like a human being because of the interest I have taken in her.” It was a consistent enough account of what had happened…
Yugiri wished to probe further. “People seem a curious about your reasons for being so good to her. Even her father hinted to a messenger from General Higekuro at what he thought might be your deeper reasons.”
Genji smiled. “People imagine too much. I shall defer entirely to her father’s wishes. I shall be quite happy if he sends her to court, and if he finds a husband for her that will be splendid too. A woman must obey three men in her life, and it would not do for her to get the order wrong.”

 「宮仕えへをも、御心許して、かくなむと思されむさまにぞ従ふべき」は、意味がよくわからない。サイデンステッカーの訳文I shall be quite happy if he sends her to court, and if he finds a husband for her that will be splendid tooの方がはるかにわかりやすい。「女は三つに従ふもの」は、女性は父、夫、息子の順に従えという、当時の婦道である。「おのが心」を渋谷は「わたしの考え」と訳したが、誤訳である。「玉鬘の考え」と訳すべきである。

 光源氏は、求愛者が群がる玉鬘の出仕を、十月に決定するのである。  】


(「三藐院ファンタジー」その二十)

阿野実顕・書状.jpg

「阿野実顕筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/587

【阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉は従四位上右少将季時(すえとき)の子(実は、季時の子・休庵〔大和内山の上乗院住持〕の子で、請われて季時の養子となる)。初名は実政、のち実時、さらに天正20年〈1592〉に実顕と改名した。元和5年〈1619〉権中納言、寛永10年〈1633〉権大納言に至る。蹴鞠の宗家・飛鳥井家において催された蹴鞠を見物、その見事な競技に、一座の皆々が満足の旨を報告してきた。早速にその礼を申し述べるべきところ用事で外出、日延べしたことを詫びている。宛名を「飛鳥井様」とのみ記す。が、実顕と同年代の飛鳥井某となれば、飛鳥井雅宣〈あすかいまさのぶ・1586-1651。雅章の父〉が相当するものと思われる。実顕は、当時光悦流の能書公卿として知られる。この書状の筆致にもその面目が遺憾なく発揮されている。「一昨日は御鞠興行、本望の至りに存じ候。皆々見物仕り候衆、満足仕り候由申し越し候。昨日御礼申し入るべくの処、他出致し、延引本意に背くと存じ候。猶、参を以って御意を得べく候。かしく。御報に及ばず候。以上。二月十六日飛鳥井様人々御中実顕」

(釈文)

[端裏書]飛鳥井様人々御中実顕不及御報候以上一昨日者御鞠興行本望之至存候皆々見物仕候衆満足仕候由申越候昨日御礼可申入之処致他出延引背本意存候猶以参可得御意候かしく二月十六日      】

光悦・書状.jpg

「本阿弥光悦筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/427

【本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉は、桃山~江戸時代初期の能書家・工芸家。徳友斎・大廬庵を号した。室町時代より刀剣の磨研・浄拭・鑑定の三業で知られる本阿弥家に生まれる。父光二(こうじ)の分家に伴い、この家職から半ば解放され鷹ヶ峰に芸術村をつくり、そこで書画・蒔絵・陶器などにすぐれた芸術作品を生み出し、その才能を発揮した。書においては「寛永の三筆」の一人として知られる。慶長期〈1596~1615〉には、俵屋宗達〈たわらやそうたつ・生没年未詳〉下絵の華麗な料紙に展開した彼の筆致は、上代様を基盤に光悦の個性が加味された豊麗なものであった。が、元和期〈1615~24〉に入ると、中国宋代の張即之〈ちょうそくし・1186-1266〉や空海〈くうかい・774-835〉の書の影響をうけた、肥痩の著しい新たな書風を展開した。いわゆる光悦流である。角倉素庵〈すみのくらそあん・1571-1632〉・小島宗真〈こじまそうしん・1580-1655?〉・尾形宗謙〈おがたそうけん・1621-87〉ら多くの追従者を出している。茶道においても、古田織部〈ふるたおりべ・1544-1615〉に学び、小堀遠州〈こぼりえんしゅう・1579-1647〉に並ぶ傑出した存在であった。この手紙は、光悦が京の町に居住の養嗣子光瑳〈こうさ・1578-1637〉に、江戸の本阿弥家からの到来物の鮭を裾分けするに際して添えたもの。当節、気分よく、書の揮毫に励んでいる旨の近況と、9月晦日か10月朔日に京へ出ると告げている。つまりこれは、鷹ヶ峰から上京・本阿弥辻子の光瑳に宛てたものである。光悦と光瑳は20歳違い、宛所に光瑳老としたためているので、光悦晩年の筆と知る。「江戸より上り申し候間、鮭を進じ入れ候。拙者、気相能く、物を書き申し候。御心易かるべく候。晦日、朔日(十月一日)時分、出京せしむべく候。かしく。九ノ二十五日。光悦(花押)/光瑳老光悦(花押)座下」

(釈文)

従江戸上申候間鮭 進入候拙者気相能物をかき申候可御心易候晦日朔日時分可令出京候かしく九ノ廿五日光悦(花押)[封]光瑳老 光悦(花押)座下     】
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源氏物語画帖「その二十九 行幸」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

29 行幸(光吉筆)=(詞)阿野実顕(一五八一~一六四五)   源氏36歳冬-37歳春 

光吉・御行.jpg

源氏物語絵色紙帖  行幸  画・土佐光吉
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阿野実顕・御行.jpg

源氏物語絵色紙帖  行幸 詞・阿野顕 
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900641&parent_data_id=310&data_id=513

(「阿野実顕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/30/%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%B9%B8_%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

蔵人の左衛門尉を御使にて、雉一枝たてまつらせたまふ。仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
  雪深き小塩山にたつ雉の古き跡をも今日は尋ねよ
太政大臣のかかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ大臣御使をかしこまりもてなさせたまふ
  小塩山深雪積もれる松原に今日ばかりなる跡やなからむ
(第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸 第三段 行幸、大原野に到着)

1.3.2 蔵人の左衛門尉を御使にて、 雉一枝たてまつらせたまふ。 仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
(蔵人で左衛門尉を御使者として、雉をつけた一枝を献上あそばしなさった。仰せ言にはどのようにあったか、そのような時のことを語るのは、わずらわしいことなので。)
1.3.3 雪深き小塩山にたつ雉の 古き跡をも今日は尋ねよ
(雪の深い小塩山に飛び立つ雉のように、古例に従って今日はいらっしゃればよかったのに。)
1.3.4 太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ。大臣、御使をかしこまりもてなさせたまふ。
(太政大臣が、このような野の行幸に供奉なさった先例があったのであろうか。大臣は、御使者を恐縮しておもてなしなさる。)
1.3.5 小塩山深雪積もれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ
(小塩山に深雪が積もった松原に、今日ほどの盛儀は先例がないでしょう。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十九帖 行幸
 第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸
  第一段 大原野行幸
  第二段 玉鬘、行幸を見物
  第三段 行幸、大原野に到着
(「阿野実顕」書の「詞」) → 1.3.2 1.3.3 1.3.4 1.3.5
  第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める
  第五段 玉鬘、裳着の準備
 第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る
  第一段 源氏、三条宮を訪問
  第二段 源氏と大宮との対話
  第三段 源氏、大宮に玉鬘を語る
  第四段 大宮、内大臣を招く
  第五段 内大臣、三条宮邸に参上
  第六段 源氏、内大臣と対面
  第七段 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去
 第三章 玉鬘の物語 裳着の物語
  第一段 内大臣、源氏の意向に従う
  第二段 二月十六日、玉鬘の裳着の儀
  第三段 玉鬘の裳着への祝儀の品々
  第四段 内大臣、腰結に役を勤める
  第五段 祝賀者、多数参上
  第六段 近江の君、玉鬘を羨む
  第七段 内大臣、近江の君を愚弄


http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3589

源氏物語と「行幸」(川村清夫稿)

【  玉鬘は、大原野へ行幸する冷泉帝の行列に、光源氏に似た帝の美貌に見とれると同時に、父の内大臣(頭中将)の姿を初めて見た。そこで光源氏は玉鬘に、宮中へ出仕をすすめた。光源氏は内大臣に、玉鬘の裳着(成人式)に立ち会うよう依頼したが、内大臣は彼女が実の娘だと知らないので遠慮しようとした。そこで光源氏は内大臣に、玉鬘が彼の娘であることを打ち明け、内大臣は快諾、晴れて父と娘の対面がかなったのである。

 それでは、光源氏が内大臣に玉鬘が彼の娘であることを打ち明ける場面を、定家自筆本、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(定家自筆本原文)
そのついでに、ほのめかし出でたまひてけり。大臣、
「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」と、まづうち泣きたまひて、「そのかみより、いかになりにけむと尋ね思うたまへしさまは、何のついでにかはべりけむ、愁へに堪へず、漏らし聞こしめさせし心地なむしはべる。今かく、すこし人数にもなりはべるにつけて、はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても、またさるさまにて、数々に連ねては、あはれに思うたまへらるる折に添へても、まづなむ思ひたまへ出でらるる」
とのたまふついでに、かのいにしへの雨夜の物語に、いろいろなりし御睦言の定めを思し出でて、泣きみ笑ひみ、皆うち乱れたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
その機会に、ちらと姫君のことをおっしゃったのであった。内大臣、
「まことに感慨深く、またとなく珍しいことでございますね」と、何よりも先お泣きになって、「その当時からどうしてしまったのだろうと捜しておりましたことは、何の機会でございましたでしょうか、悲しさに我慢できず、お話しお耳に入れましたような気が致します。  
 今このように、少しは一人前にもなりまして、つまらない子供たちが、それぞれの縁談を頼ってうろうろ致しておりますのを、体裁が悪く、みっともないと思っておりますにつけても、またそれはそれとして、数々いる子供の中では、不憫だと思われる時々につけても、真っ先に思い出されるのです」
 とおっしゃるのをきっかけに、あの昔の雨夜の物語の時に、さまざまに語った体験談の結論をお思い出しになって、泣いたり笑ったり、すっかり打ち解けられた。

(ウェイリー英訳)
Genji said at last, and without going into the whole story, broke to To no Chujo the news that Yugao was long ago dead, and that Tamakatsura had for some while been living with him.
Tears sprang to Chujo’s eyes. “I think that at the time when I first lost sight of her,” he said at last, “I told you and some of my other friends about my endeavors to trace Yugao and her child. It would have been better to speak of the matter, but I was so wretched that I could not contain myself. However, the search brought to result, and at last I gave up all hope. It was only recently, when my accession to high office induced all kinds of odd and undesirable creatures in every quarter to claim relationship with me, that I began to think once more about this true child of mine. How much more gladly would I have acknowledged and welcomed Yugao’s daughter than the band of discreditable and unconvincing claimants who henceforward thronged my gates! But now that I know she is in good hands…” Gradually the conversation drifted back to that rainy night and to the theories which each of them had then put forward. Had life refuted or confirmed them? And so, between tears and laughter, the talk went on, with not a shade of reproach or coolness on either side, till morning was almost come.

(サイデンステッカー英訳)
Genji presently found a chance to turn to his main subject.
“How perfectly extraordinary.” To no Chujo was in tears. “I believe that my feelings once got the better of me and I told you of my search for the girl. As I have risen to my modest position in the world I have gathered my stupid daughters around me, not omitting the least-favored of them. They have found ways to make themselves known. And when I think of the lost ones, it is she who comes first to mind.”
As they remembered the confessions made and the conclusions reached that rainy night, they laughed and wept and the earlier stiffness disappeared.

 内大臣の台詞の内容が難解で、翻訳しにくいのだが、ウェイリー訳が冗長なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔である。「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」をウェイリーは省略したが、サイデンステッカーは”How perfectly extraordinary”と訳している。ウェイリー訳にある”It would have been better to speak of the matter … at last I gave up all hope”と”How much more gladly would I have acknowledged… thronged my gates”は余計である。「はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても」を、ウェイリーは”induced all kinds of odd and undesirable creatures in every quarter to claim relationship with me”と訳しているが、誤訳である。内大臣は子供たちの縁談が見つからないのを嘆いているのである。サイデンステッカーは”I have gathered my stupid daughters around me not omitting the least-favored of them. They have found ways to make themselves known”と訳しているが、踏み込み過ぎた超訳である。

玉鬘が大切にされるのを近江の君はうらやむが、内大臣から笑われてしまうのである。】



(「三藐院ファンタジー」その十九)

実顕・詠草.jpg

「阿野実顕筆二首和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/662

【阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉は、江戸時代初期の公卿。初名実政、のち実治。天正20年〈1592〉に実顕と改める(12歳)。大和国内山上乗院の住持、休庵(阿野実時)の子。家職の神楽を代々伝える阿野家が中絶しないよう還俗して、祖父季時の子として家督を継いだ。正二位・権大納言に至る。細川幽斎・中院通村・烏丸光広らから和歌を学んだ。この懐紙は、位署に「左近衛権中将」とある。実顕は慶長12年〈1607〉に左近衛権中将となり、同17年2月28日に参議に進んでいることから、27~32歳の筆跡と知る。字形や字配りなどに、心なしか未熟の面影が漂うようにも思われる。が、後年、光悦流の名手として鳴った実顕が、早くもこの時期に本阿弥光悦の書風を追慕していたさまがうかがえる。「秋の日、同じく二首の和歌を詠める/左近衛権中将藤原実顕/菊薫衣/けふも猶袖こそかほれ/きくのはな一夜の程の/へだてやはある/海眺望/朝ぼらけ浪もはるかに/なごの海や日影にうかぶ/あまのつり舟」

(釈文)

秋日同詠二首和歌/左近衛権中将藤原実顕/菊薫衣/けふも猶袖こそかほれ/きくのはな一夜の程の/へだてやはある/海眺望朝ぼらけ浪もはるかに/なごの海や日影にうかぶ/あまのつり舟 】

(参考)

「近衛家―五摂家筆頭」と他の摂家関連については、下記のアドレスが参考となる。

https://uchicomi.com/uchicomi-times/category/topix/main/13793/

 さらに詳しく、下記のアドレスで、「室町後期の近衛家と他の摂家―近衛政家を中心に(石原比呂志稿)」も閲覧することができる。

https://ci.nii.ac.jp/naid/120006346723

 これらに、『流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯 (中公新書): 谷口研語著』により、「公家社会の家礼慣行」(p177~)並びに「近衛家に家礼する人々」(p179)などを抜粋して置きたい。

【 「家礼または家来・家頼とも書き、カレイあるいはケライと読む。家来というと武家のものとばかり思われているかもしれないが、公家社会にも家礼しいう慣行があった。公家社会の家礼慣行とは、公家がそれぞれ五摂家いずれかの家に親しく出入りして臣礼をとりそれに対して、摂家ではその公家について、さまざまな便宜をはかったり、庇護を与えたりするものである。」(p177) 

「戦国時代の近衛家の家礼については、その全貌は明らかにできないが、江戸時代のある記録では、近衛家の家礼として、日野・山科・広橋・滋野井・平松・萩原・吉田・石井・八条・長谷・交野・錦小路・滋光寺・船橋・桜井・水無瀬・山井・七条・柳原・錦織・町尻・阿野・西洞院・難波・竹屋・櫛筍・四辻・万里小路・外山・園池・高倉・日野西・豊岡・北小路・富小路・三室戸・西大路・裏松・勘解由小路・持明院・石野・土御門・高野・正親町三条・芝山・裏辻・竹内・小倉の四八家があげられており、その他、九条家では二〇家、二条家では四家、一条家では三七家、鷹司家では八家の家礼があげられている。このほか、どの家の家礼でない公家が十余家ある。」(p178)

「戦国時代に近衛家の家礼であったと推定される家には、勧修寺・広橋・下冷泉・五条・山科・吉田・飛鳥井・柳原・西洞院・四辻・万里小路・高倉・北小路・富小路・持明院・土御門・藤井・一条(河鰭)などの諸家がある。ただし、これらが前久の代にもそうであったかどうかは、一部をのぞいては、はっきりしない。」(p179)

「久我事件(永禄十年十月に後宮で起きた不祥事、近衛家と久我家とは極めて親近の関係にあり、権大納言久我通俊関連の事件)の時、前久は中山・山科・勧修寺・持明院・万里小路・四辻・甘露寺・正親町・五辻・烏丸・薄・三条・柳原らの公家衆を自邸に招集して協議しているが、これらはいずれも近衛家の家礼だったのではないかと考えられる。」(p179)

「家礼の仕方にも親疎があり、西洞院や北小路・藤井などは近衛家の家司(けいし=親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職)のごとき立場にあった。」(p179)     】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%AE%B6

【 阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。(旧家、外様)。
16代実顕が阿野家を再興する。実顕は慶長17年(1612年)公卿に列して正二位権大納言に進み、江戸時代の阿野家はこれを極位極官としたが、40代で没した者が多い関係で実際に極位極官に達したのは18代公業・19代実藤・21代公緒・23代公縄の4代にとどまる。】
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