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「俳誌・ホトトギス」管見(その十三) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・六百号」周辺

ホトトギス・六百号.jpg

「ホトトギス・六百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972713/1/1

(目次)

句日記 / 高濱虛子/p2~3
うれしさ / 寒川鼠骨/p4~5
蕪村句集講義雜感 / 佐藤紅綠/p6~7
謠を習ひ始めた頃 / 安倍能成/p8~9
能十八句 / 野上臼川/p10~10
日記の一節 / 野上彌生子/p10~11
死兒の齡 / 石井柏亭/p12~13
南瓜の辯 / 川端龍子/p14~15
虛子先生 / 中田みづほ/p16~17
遷喬第一號を前にして / 富安風生/p18~19
四S時代のことなど / 山口靑邨/p20~21
明達寺 / 高濱虛子/p22~24
はなれ / 富安風生/p25~26
吉田文庫 / 深川正一郞/p26~27
小諸の夜 / 高濱年尾/p27~28
ホトトギス六百號記念 新潟俳句會 / 長谷川馬刀/p29~30
ホトトギス六百號記念 秋田俳句會 / 柴田果/p30~31
ホトトギス六百號記念 能代俳句會 / 渡邊そてつ/p32~33
ホトトギス六百號記念 頸城俳句會 / 春山他石/p33~35
船河原町發行所の思ひ出 / 高崎雨城/p35~35
彌木にて / 虛子 ; 年尾 ; 立子/p36~37
藪醫者 / 松尾いはほ/p38~39
雜詠 / 虛子/p40~62
消息 / 虛子/p67~67
非無和尙の手紙/p68~
誹諧 連句の季の符號 / 虛子/p63~64
誹諧 二句の連句/p64~64
誹諧 附句練習 / 高濱年尾/p65~66
誹諧 消息 / 年尾/p66~66
玉藻消息 / 星野立子/p62~62

(管見)

一 「句日記 / 高濱虛子/p2~3」周辺

句日記( 昭和11年より昭和15年まで).jpg

『句日記( 昭和11年より昭和15年まで)』(著者・高浜虚子 著/出版者・中央出版協会/出版年月日・昭和17)所収「序」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1220675/1/5

 上記のアドレスで、『句日記( 昭和11年より昭和15年まで)』(下記の「その2」)を閲覧できる。その「序」に「私の生涯の句を纏めたものには、今までに」ということで、虚子が俳句を作り始めた「明治二十四年(十七歳)・二十五年(十八歳)から昭和十年(六十一歳)迄」の句が収載されているものを示して、それに続く、「昭和十一年(六十二歳)から昭和十五年(六十六歳)迄」の句を『句日記』(その2)として、中央出版協会より出版している。

『年代順 虚子俳句全集 第一巻 第一巻  明治時代(上)』
『同上 第二巻 明治時代(下)』
『同上 第三巻 大正時代』
『同上 第四巻 昭和時代(昭和5年4月21日迄)』
(新潮社/昭和15年2月より昭和16年3月迄の出版)
『句日記』(その1) 昭和11年出版/改造社(昭5〜10)
『句日記』(その2) 昭和17年出版/中央出版協会(昭11〜15) 

 さらに、これに続くものとして、「昭和十六年(六十七歳)から亡くなる昭和三十四年(八十五歳)迄」の句も、以下の『句日記(その3~その6)』(「創元社」版と「新樹社」版)として、『句日記』として出版されている。

『句日記』(その3) 昭和22年/創元社(昭16〜20)
『句日記』(その4) 昭和28年/創元社(昭21〜25)
『句日記』(その5) 昭和33年/新樹社(昭26〜30)
『句日記』(その6) 昭和35年/新樹社(昭31〜34)

 そして、これらの『句日記』という、虚子の句集の母胎となったものは、上記の「句日記 / 高濱虛子/p2~3」の、その「ホトトギス」の、それらの搭載されたものが基盤になっている。
 そして、それは、虚子の自選句集「『五百句』・『五百五十句』・『六百句』・『六百五十句』」と『七百五十句』(高浜年尾・星野立子選)と、連動していることになる。

(一) 虚子の自選句集「『五百句』・『五百五十句』・『六百句』・『六百五十句』」周辺

[『五百句』(昭和12年(1937年)6月、改造社)→ 『ホトトギス』500号記念の年に自選して上梓(※明治二十四・五年頃から昭和十年にいたる四十余年間から五百句選出)。
『五百五十句』(昭和18年(1943年)8月、桜井書店)→ 『ホトトギス』550号記念の年に自選して上梓(※昭和十一年から十五年までの句、五百八十八句選出)。

『六百句』(昭和22年(1947年)2月、菁柿堂)→ 『ホトトギス』600号記念の年に自選して上梓(※昭和十六年から昭和二十年までの句、六百四十四句選出)。

『六百五十句』(昭和30年(1955年)6月、角川書店)→ 『ホトトギス』650号記念の年に自選して上梓(昭和二十一年から昭和二十五年までの句、六百九十五句選出)。  ](「ウィキペディア」・「※「俳句・平成七年四月号/大特集高浜虚子とその時代」)

(二) 『七百五十句』(高浜年尾・星野立子選)周辺

[『七百五十句』(昭和39年(1964年))→ 『六百五十句』以後の句を虚子没後に上梓(昭和二十六年一月一日より虚子が倒れる前日の昭和三十四年三月三十一日までの句、七百六十三句選出)。](「ウィキペディア」・「※「俳句・平成七年四月号/大特集高浜虚子とその時代」)


二 「うれしさ / 寒川鼠骨/p4~5」周辺

寒川 鼠骨.jpg

[寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。](「ウィキペディア」)

三 「蕪村句集講義雜感 / 佐藤紅綠/p6~7」周辺

佐藤 紅緑.jpg

[佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六](「ウィキペディア」))


四 「小諸の夜 / 高濱年尾/p27~28」周辺

鎌倉虚子庵に集う一家.jpg

「鎌倉虚子庵に集う一家/前列左より 晴子、糸夫人、虚子、池内たけし、年尾/後列左より 章子、宵子、立子、真砂子」
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/1300/04.htm

[高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人。ホトトギス代表。俳人高浜虚子の実子。「年尾」の名は正岡子規の命名による。
 東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進む。小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旭シルクに入社する。のち転勤により兵庫県芦屋に転居する。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句をはじめる。「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌であった。
 1939年、旭シルクを退社し以後俳句に専念、関西の俳壇の中心として活躍する。1944年、戦時下の物資不足のため『俳諧』を『ホトトギス』に合併させる。1951年『ホトトギス』雑詠選者。1959年、朝日俳壇および愛媛俳壇選者。同年虚子より『ホトトギス』主宰を継承する。1979年10月26日死去、78歳。死後『ホトトギス』主宰は次女の稲畑汀子に引き継がれた。句集に『年尾句集』ほかに『俳諧手引』などの著書がある。](「ウィキペディア」)

五 「虚子の家族」周辺

[配偶者・高浜いと(1897年 - 1959年)

 子供(二男六女)

高浜年尾(長男) → 虚子の長男。俳人。「ホトトギス」三代主宰。
池内友次郎(次男)→ 虚子の次男。作曲家、音楽教育家、俳人。回想記を刊行。
真下真砂子(長女)→ http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
星野立子(次女) → 虚子の次女。俳人。「玉藻」初代主宰。
新田宵子(三女) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
高浜六(四女)  → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
高木晴子(五女)→ 虚子の五女。俳人。「晴居」主宰。
上野章子(六女)→ 虚子の六女。俳人、随筆家。「春潮」二代目主宰。
親族 坊城中子(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
稲畑汀子(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
星野椿(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm ](「ウィキペディア」・「虚子一族の系図」など)


六「小諸時代(昭和19(1944)年~昭和22(1947)年)」周辺

https://www.komoro-tour.jp/spot/person/takahamakyoshi/

[ 昭和19(1944)年、太平洋戦争の戦火を逃れるため、五女の高木晴子一家と小諸へ疎開しました。小諸では五女の晴子と交流のあった小山栄一の援助のもと、精力的に俳句活動を行い、句会を開催しました。また、全国各地のホトトギス句会にも積極的に赴き、多くの俳人や門人の指導に当たりました。小諸時代はひたすら俳句に没頭できた時代でもありました。そんな中で、小諸の自然や風土を詠んだ「小諸百句」、小諸での疎開生活の様子をまとめた「小諸雑記」、小説「虹」が生み出されました。](「こもろ観光局 HOME/ みどころ/ 小諸ゆかりの文化人 /近代俳句の巨匠・高濱虚子」抜粋)

小諸三部作.png

「小諸百句」
底本:「定本高濱虚子全集 第三巻」毎日新聞社・1974(昭和49)年1月発行
底本の親本(単行本):『小諸百句』羽田書店・1946(昭和21)年発行
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/komoro100ku.txt
「序(抜粋)
昭和十九年九月四日鎌倉より小諸の野岸といふところに移り住み昭和二十一年十月の今日まで尚ほ續きをれり。鎌倉の天地戀しきこともあれど小諸亦去り難き情もあり。二年間此地にて詠みたる句百を集めたり。]

「小諸雑記」
底本:「定本高濱虚子全集 第九巻」毎日新聞社・1974(昭和49)年6月発行
底本の親本(単行本):『小諸雑記』青柿堂・1947(昭和22)年発行
「高浜虚子を歩く 其の一 小諸雑記を巡る」
https://www.youtube.com/watch?v=YPptxu6xIA4

「虹」
底本:「定本高濱虚子全集 第七巻」毎日新聞社・1975(昭和50)年1月発行
底本親本(単行本):『虹』苦楽社・1947(昭和22)年発行(「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」)
『虹』所収「虹」
https://note.com/hujiie/n/ne5362fc3f232
『虹』所収「音楽は尚ほ続きをり」
https://haiku.jp/home/read/story-2/
[ 愛ちやんはがんばつてをります。水晶の念珠を右手首にかけて、今生の縁を楽しんでをる様です。

 と言ふ柏翠の葉書が来た。私は其手紙を受取つてから、水晶の念珠を右手首にかけてゐるといふことが頭を離れなかつた。あの病み衰へた手首に水晶の珠数をかけてゐるのかと、昨年の十月に其病床を見舞つて親しく見た其細い手首を想像するのであつた。さうして其数珠を手首にかけたまま静かに横はつてゐる様がけなげにさへ思はれるのであつた。さうして又私の夜眠れない時などは其水晶の珠数を手首にかけて静に寝てゐる愛子の容子を想像してゐると気分が落着いて来て、いつか静に眠に落つる事が出来るのであつた。

 さうしてこんな電報が来た。

 ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ  アイコ

 生死の境を彷徨してゐることがわかつた。電話が通じれば電話をかけたいと思つたが、郵便局に聞き合すと、小諸から三國へは通じないとのことであつた。
 それから柏翠の葉書が来た。

 四月一日午後四時五十分でございました。只今納棺を致しました。 「小諸雑記」一冊と新しい句帳を入れました。その前に母達と愛子を、先生の命名して下さいましたあの九頭竜川に臨んでゐる二階の愛居に運びました。行き度いと云ひ遺しましたので。

  虹の上に立ちて見守るてふことも  愛子
  虹の上に立てば小諸も鎌倉も    同

 愛子は始終虹のことを考へながら息を引取つたものらしかつた。](「公益社団法人 日本伝統俳句協会」抜粋)
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「俳誌・ホトトギス」管見(その十二) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・五百号」周辺

ホトトギス・五百号.jpg
 
「ホトトギス・五百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/1

(目次)

「成程」 / 高濱虛子/p1~4
お濠の水鳥 / 赤星水竹居/p4~5
算術ぎらひ / 富安風生/p5~8
日附 / 佐藤漾人/p9~10
寶生九郞翁(6) / 池內たけし/p11~18
牛鍋 / 大岡龍男/p19~22
おAさん / 眞下喜太郞/p22~23
句日記 / 高濱虛子/p24~26
ホトトギスに關係深かりし物故せる人々 / 高濱虛子/p26~28
復軒先生--虛子先生著「杏の落ちる音」餘談 / 林若樹/p29~38
リアリズムと最短詩型の問題 / 山路閑古/p39~68
現代徒然草 / 永田靑嵐/p68~73
現「ホトトギス」作家小觀 / 伊藤鷗二/p73~82
高濱さんと私 / 安倍能成/p82~86
廻り出す / 京極杞陽/p86~89
河風 / 山本實彥/p90~93
いみじくも小さきわが詩に / 山口靑邨/p93~100
五百號記念集 / 赤木格堂 ; 吉田絃二郞 ; 蘇峰迂人 ; 佐藤紅綠 ; 正宗白鳥 ; 村上鬼城 ; 小野蕪子 ; 杉村楚人冠 ; 吉井勇 ; 近松秋江 ; 池部釣 ; 藤井紫影 ; 宇佐美不喚洞 ; 野間奇瓢 ; 靑木月斗 ; 上司小劍 ; 村上霽月 ; 吉岡禪寺洞 ; 依田秋圃 ; 庄司瓦全 ; 島田靑峰 ; 鹿子木孟郞 ; 寒川鼠骨 ; 飯田蛇笏 ; 中野三允 ; 小川千甕 ; 西川一草亭 ; 前田普羅 ; 山路閑古 ; 目黑野鳥 ; 鍋平朝臣 ; 柳原極堂 ; 武定巨口 ; 日野草城 ; 牛田鷄村 ; 伊藤鷗二 ; 今村幸男 ; 森古泉 ; 服部嘉香 ; 齋藤茂吉 ; 野上豐一郞 ; 野上彌生子 ; 栗本木人 ; 岡本松濱 ; 齋藤香村 ; 三好達治 ; 中村星湖 ; 柴淺茅 ; 福田把栗 ; 中村吉藏 ; 籾山梓月 ; 松浦爲王 ; 臼田亞浪 ; 加茂正雄 ; プロバン一羽 ; ヂュリヤン・ヴヲカンス/p102~136
虛子の胸像製作者たる石井鶴三を圍みて / 石井鶴三 ; 赤星水竹居 ; 麻田椎花 ; 楠目橙黃子 ; 三宅淸三郞 ; 高濱虛子/p137~145
春寒の深川(武藏野探勝の九〇) / 上林白草居/p146~150
雜詠句評會(145) / 王城 ; 茅舍 ; 橙黃子 ; 花蓑 ; 泊雲 ; 素十/p151~154
發行所例會/p155~156
鳴雪翁十三囘忌小句會 / 高濱虛子/p156~158
ホトトギス 五百號史を編むついでに / 高濱虛子 ; 柴田宵曲/p158~164
子規の前に獨り言(1) / 高濱虛子/p166~170
同人集 / ホトトギス同人八十二家/p171~204
外國の俳句 芳草や黑き烏も濃紫 / 高濱虛子/p206~208
外國の俳句 ガリニエの手紙の譯 / 佐藤朔/p209~210
外國の俳句 親愛なる先生 / ヂュリヤン・ヴヲカンス/p211~211
外國の俳句 伯林より / 山口靑邨/p212~213
外國の俳句 戰地より其他/p214~218
外國の俳句 消息 / 虛子/p219~220
外國の俳句 雜詠 / 高濱虛子/p221~290

(管見)

一 「松根東洋城更迭(訣別)」・「水原秋櫻子離脱」・「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名」・「ホトトギス・五百号」前後

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

(「松根東洋城更迭(訣別)」)

大正四年(1915)
 二月 渋柿」創刊。
大正五年(1916)
 四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。
 
(「水原秋櫻子離脱」・「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名)

昭和二年(1927)
 十月 「秋桜子と素十」虚子。
昭和三年(1928)
 四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。
 九月 山口青邨「どこか実のある話」で、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く。
昭和六年(1931)
 十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
 三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
昭和八年(1933)
 一月 誓子「かつらぎ」で「花鳥風月を詠み人事現象を疎略にするのは誤り」と。
 三月 碧悟桐俳壇引退を声明。
昭和十年(1935)
 五月 誓子「馬酔木」に参加。
昭和十一年(1936)
 十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
 
(「ホトトギス・五百号」前後)

昭和十二年(1937)
 二月 河東碧梧桐没。
 六月 虚子『五百句』刊(改造社)。帝国芸術院創設、虚子会員に推される。
昭和十三年(1938)
 四月 「ホトトギス」五百号。高浜年尾俳号を「としを」から「年尾」と改名。
昭和十四年(1939)
 八月 「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」、これより人間探求派の呼称起る。
昭和十五年(1940)
 二月 京大俳句弾圧事件。日本俳句作家協会設立、虚子会長に就任。

二 「ホトトギス」内部の対立・相克・粛清

 大正五年(一九一六)四月十七日の、「国民新聞」の「社告」(明治四十一年に虚子から引き継いだ「国民俳壇(選者)」を一方的に虚子に交替させるという社告)は、虚子と東洋城との、以後の「絶交・訣別」という事態をもたらし、虚子は「ホトトギス」・「国民新聞(国民俳壇選者)」、そして、東洋城は「渋柿」と「朝日新聞(朝日俳壇選者)」(大正八年~大正十二年)と、その相克は、虚子の「韜晦」(清濁併せ吞む本心を見せない気質)と東洋城の「狷介」(気位の高い頑固一徹の気質)の、その気質が倍加されて、その深い対立・相克の溝は終生埋まることはなかった。
 このことは、それに続く、昭和六年(一九三一)の、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱と類似し、以後の「秋櫻子と虚子(そして素十)」との「絶交・訣別」とを意味し、秋櫻子の「主観(創作)写生」の「馬酔木」と、虚子の、客観写生の「ホトトギス」(素十の「芹」)との、その対立・相克とは、これまた、その溝は埋まることはなかった。
 これらのことは、昭和十一年(一九三六)の、「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」と繋がってくる。
 この「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」は、昭和十一年(一九三六)十月号の「ホトトギス」(第四十巻第一号/四百八十二号)には、下記のとおり搭載されている。
 そして、それは、「新興俳句運動」(反ホトトギスの俳句革新運動。水原秋桜子を先駆とし、山口誓子・日野草城らが参加。)に深く関わった「日野草城・吉岡禅寺洞」の除名は、「さもありなん」と理解出来るとしても、虚子崇拝の念が強い「杉田久女」の除名となると、これは、「松根東洋城更迭(訣別)」・「水原秋櫻子離脱」と併せ、一連の、「ホトトギス」内部態勢を固めるための、「異端子の粛清」という印象を深くする。
 この「同人変更」(「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名」)の公告の次に、「俳論・俳話」として、「松本たかし・河野靜雲・淸原枴童・川端茅舎・鈴鹿野風呂~山口靑邨」の、これらの俳人こそ、「虚子」直系の、そして、「ホトトギス・五百号」の、その中心に据えられた「ホトトギス」俳人群像ということになろう。

(「同人変更」と「俳論・俳話」)

同人変更.jpg

(「同人変更」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972600/1/21
(「俳論・俳話」)
[俳論・俳話 二十六篇 縛られないといふこと / 松本たかし/p32~34
俳論・俳話 二十六篇 雜感 / 河野靜雲/p34~36
俳論・俳話 二十六篇 磊塊片々 / 淸原枴童/p37~41
俳論・俳話 二十六篇 金針銀針 / 川端茅舎/p41~47
俳論・俳話 二十六篇 ゆすらうめ / 鈴鹿野風呂/p48~52
俳論・俳話 二十六篇 去來抄を讀みつゝ / 田中王城/p53~56
俳論・俳話 二十六篇 俳句と日本刀 / 赤星水竹居/p56~58
俳論・俳話 二十六篇 さかしら言 / 上林白草居/p58~63
俳論・俳話 二十六篇 俳句に於ける古典主義 / 山路閑古/p64~82
俳論・俳話 二十六篇 此頃の話題 / 伊藤鷗二/p83~92
俳論・俳話 二十六篇 寫生といふこと / 長谷川素逝/p93~100
俳論・俳話 二十六篇 俳句修行ちか道 / 小山耕生/p100~102
俳論・俳話 二十六篇 認識 / 安藤老蕗/p103~104
俳論・俳話 二十六篇 俳句雜話 / 瀧本水鳴/p105~107
俳論・俳話 二十六篇 寫生と推敲 / 木津蕉蔭/p107~109
俳論・俳話 二十六篇 傳統と現實 / 福田蓼汀/p109~113
俳論・俳話 二十六篇 句作の思ひ出 / 宇津木未曾二/p114~118
俳論・俳話 二十六篇 如是我聞 / 小林拓水/p118~121
俳論・俳話 二十六篇 海月・其他 / 柏崎夢香/p121~124
俳論・俳話 二十六篇 俳悦 / 大橋越央子/p124~127
俳論・俳話 二十六篇 洋行俳句瞥見 / 五十嵐播水/p127~133
俳論・俳話 二十六篇 魔 / 皿井旭川/p134~136
俳論・俳話 二十六篇 その外に何もない / 鈴木花蓑/p136~137
俳論・俳話 二十六篇 境涯といふこと / 佐藤漾人/p137~139
俳論・俳話 二十六篇 玉斧 / 楠目橙黄子/p139~142
俳論・俳話 二十六篇 颯々の記 / 山口靑邨/p142~150 ]

三 「ホトトギス・五百号」に祝辞を寄稿した人たち

[ 五百號記念集 / 赤木格堂 ; 吉田絃二郞 ; 蘇峰迂人 ; 佐藤紅綠 ; 正宗白鳥 ; 村上鬼城 ; 小野蕪子 ; 杉村楚人冠 ; 吉井勇 ; 近松秋江 ; 池部釣 ; 藤井紫影 ; 宇佐美不喚洞 ; 野間奇瓢 ; 靑木月斗 ; 上司小劍 ; 村上霽月 ; 吉岡禪寺洞 ; 依田秋圃 ; 庄司瓦全 ; 島田靑峰 ; 鹿子木孟郞 ; 寒川鼠骨 ; 飯田蛇笏 ; 中野三允 ; 小川千甕 ; 西川一草亭 ; 前田普羅 ; 山路閑古 ; 目黑野鳥 ; 鍋平朝臣 ; 柳原極堂 ; 武定巨口 ; 日野草城 ; 牛田鷄村 ; 伊藤鷗二 ; 今村幸男 ; 森古泉 ; 服部嘉香 ; 齋藤茂吉 ; 野上豐一郞 ; 野上彌生子 ; 栗本木人 ; 岡本松濱 ; 齋藤香村 ; 三好達治 ; 中村星湖 ; 柴淺茅 ; 福田把栗 ; 中村吉藏 ; 籾山梓月 ; 松浦爲王 ; 臼田亞浪 ; 加茂正雄 ; プロバン一羽 ; ヂュリヤン・ヴヲカンス/p102~136 ]

五百號記念集.jpg

「五百號記念集」(抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/7

[蘇峰迂人(※「徳富蘇峰」=「国民新聞・国民俳壇」社主)→「最も古き愛読者の一人/蘇峰迂人/ホトトギスと共に虚子先生の愈々健在祈る。」

村上鬼城→「吾、二十幾つにしてホトトギスを知り、今茲七十四歳に及ぶ。五百号の跡を鑑みて感無量。」

吉岡禅寺堂(※除名された「天の川」主宰者)→「高浜虚子先生の長寿を祈り、ホトトギス五百号を遥かに祝福します。」

日野草城(※除名された「旗艦」・「青玄」主宰)→「先生に褒められた話二つ」(省略)

赤木格堂(※漱石門・漱石十哲の一人)→「回顧五十年」(省略)
野上豊一郎(※漱石門・漱石十哲の一人「野上臼川」)→(省略)
野上彌生子(※漱石門・「豊一郎」の妻)→(省略)
※安倍能成(※漱石門・漱石十哲の一人)→「高濱さんと私 / 安倍能成/p82~86」(省略)

村上霽月(※子規門・夏目漱石・内藤鳴雪の知己、「ホトトギス」選者など)→省略
柳原極堂(※子規門、「ホトトギス」創刊、「鶏頭」主宰)→省略
佐藤紅綠(※子規門、劇作家・小説家・俳人)→省略
飯田蛇笏(※東洋城・虚子門、「雲母」主宰)→省略
前田普羅(※虚子門、「辛夷」主宰)→省略
靑木月斗(※子規門、「カラタチ」主宰)→省略

小野蕪子(※虚子・石鼎門、「草汁」創刊、「鶏頭陣」主宰。「新興俳句運動・プロレタリア俳句運動などに対する新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)の黒幕、あるいは特別高等警察への密告者とされる。」)→省略

杉村楚人冠(「朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役」、随筆家、俳人)→省略

島田靑峰(※「41年国民新聞社にはいる。高浜虚子のあとをうけ,昭和3年まで学芸部長。その間「ホトトギス」の編集にあたり,大正11年篠原温亭と俳誌「土上(どじょう)」を創刊。昭和16年新興俳句弾圧事件で検挙された)→省略

中野三允(※子規門、「アラレ」を創刊)→省略

岡本松濱(※「子規の俳句革新運動に共鳴し、和歌山の銀行に勤めながら「ホトトギス」に投句。高浜虚子に認められたことで1904年に上京し、「ホトトギス」発行所に勤めた。渡辺水巴らと交流、「趣味」誌の選も担当し久保田万太郎、野村喜舟らを育てた。1910年、「ホトトギス」を辞して大阪へ戻り消息を絶つが、1926年「寒菊」を創刊し俳壇に復帰、1933年の廃刊まで主宰。下村槐太、阿部慧月、加藤かけい、大場白水郎らを育てた)→省略

臼田亞浪(※「大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊して、俳壇に登場し、信濃毎日新聞等で撰者を務めた。恩師高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。翌大正5年(1916年)やまと新聞を退社し、以後は句作に専念することとなった。)→省略

吉田絃二郞(※小説家、随筆家、「清作の妻」の映画化など。) →省略
正宗白鳥(※自然主義の代表作家として出発。評論・戯曲も知られる。) →省略
吉井勇(※歌人、脚本家。華族(伯爵)でもあった。) →省略
近松秋江 (※代表的な私小説作家の一人。)→省略
池部釣(※風刺漫画家、洋画家。岡本一平の義弟。)→省略
藤井紫影(※子規門。京大教授、近世文学の第一人者)→省略
籾山梓月(※俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。)→省略
西川一草亭(※去風流七代家元。津田青楓の実兄。)→省略
小川千甕(※仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。「ホトトギス」の表紙絵など。)→省略
中村吉藏(※劇作家、演劇研究家。早稲田大学教授。)→省略
齋藤茂吉(※歌人・精神科医。伊藤左千夫門下。)→省略
三好達治(※詩人、翻訳家、文芸評論家。)→省略

プロバン一羽の虚子宛書簡.png

「プロバン一羽の虚子宛書簡」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/70

プロバン一羽 (※北米の「ホトトギス」系俳人)

ヂュリヤン・ヴヲカンスの虚子宛書簡.png

「ヂュリヤン・ヴヲカンスの虚子宛書簡」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/70

ヂュリヤン・ヴヲカンス(※「『虚子の句の仏語翻訳』などに関係する仏蘭西人)

四 「お濠の水鳥 / 赤星水竹居/p4~5」周辺

[赤星 水竹居(アカボシ スイチクキョ) 明治〜昭和期の俳人 三菱地所会長。
生年 明治7年1月9日(1874年)
没年 昭和17(1942)年3月28日
出生地 熊本県八代郡鏡町
本名 赤星 陸治(アカボシ ロクジ)
学歴〔年〕 東京帝大法科大学〔明治34年〕卒
経歴 
東京帝大卒業後、三菱地所部に入社し、明治40年丸の内街の開発建設に当った。学生時代は短歌を作ったが、41年内藤鳴雪に師事して俳句に転じ、のち「ホトトギス」に拠り、昭和4年同人となる。没後「水竹居句集」「虚子俳話録」が刊行された。](「20世紀日本人名事典」)

皇居界隈/東京駅・丸の内.jpg

皇居界隈/東京駅・丸の内 文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし
https://gendaihaiku.blogspot.com/2010/12/blog-post_8147.html

[ 【東京駅・丸の内】

都区次(とくじ):東京駅は丸の内北口から降りていただきます。大規模なビル群が目に入りますね、この景色こそが東京駅を東京の表玄関という所以ですね。東京駅の赤レンガは象徴的で素晴らしいですが、それに引き換え屋根は味気ないですね。

江戸璃(えどり):私のような大正生れの人は知ってるけれど、味のあるドームだったのよ。それが昭和20年5月の東京大空襲で3階から上と屋根が燃えちゃったのよ。現在のは終戦直後の改修だから付焼刃なのよ。米軍も選別爆撃をしていたのだから外してくれてもよかったのよねエ。いま全面に防災の網を張ってトンカン・トンカンと改修工事をやってるわよ。来年の春には元のちゃんとした姿になるんじゃない?

都区次:江戸時代の繁華街というと日本橋なんですが、この東京駅・丸の内はどうだったのですか?東京駅は東海道本線の起点として大正3年12月の開業ですが、周りの景観に比べて駅の開業が相当に遅いようですが?

江戸璃:江戸時代は東京駅から江戸城辺りまでの大手町・丸の内・霞ヶ関などは大名の藩邸だったのよ。

都区次:維新後はそうした大名の藩邸は新政府のものになりますよねエ?

江戸璃:そのとおり新政府に接収されて陸軍用地、官庁用地になったわね。ところがギッチョンチョン、このときの新政府は財政難で麻布の兵舎の建設資金すら無く、明治23年に丸の内の十万余坪を売りにだしたのよ。

都区次:現在の状況から考えると売れたということですね。

江戸璃:そう簡単でもなかったのよ。財相の松方正義が財閥の幹部を呼び出してお願いしたのだけれど相場の数倍とあっては、そうは問屋は卸さないわよねエ。松方は次男が三菱の副社長の岩崎弥之助の長女と結婚している関係から岩崎弥之助に何度も懇願したのよ。弥之助も困っちゃうわよねエ。仕方なくロンドン出張中で経験豊富な上級番頭の荘田平五郎に電報で相談したわけよ。答えは「スミヤカニカイトラルベシ」だったのよ。

都区次:でも、それは言い値で買ったのでしょう?

江戸璃:その通りだけど荘田の考えは「情け有馬(ありま)の水天宮」というのではなくて、すでにロンドンのビル街を想定していたのね。

都区次:丸の内に三菱一号館が出来たのは明治27年ということですが、まだ東京駅は開業してませんよね。

江戸璃:東海道線も新橋まで、中央線もお茶ノ水までで、アクセスは大手町と日比谷間を走っていた路面のチンチン電車だけだったから相当不便で簡単にビルの借り手なんてなかったと思うわよ。歌人の岡本かの子が子供の頃、丸の内は三菱ヶ原と呼ばれて、草茫々の原野でところどころに武家屋敷の跡らしい変わった形の築山があったと書いていたわね。三菱側も土地の確保と政府への「貸し」をつくっておいて東京駅が出来るまで「塩漬け」にしておいたのじゃない?

都区次:さて、現在の丸の内を東京駅より眺めて、ひときわ目につくのが「丸の内ビルディング」です。このビルは二代目で平成十四年八月竣工の地上三十七階、地下四階の超高層ビルという仕様です。下層には歌謡曲『東京行進曲』などで名を残した先代の「丸の内ビルヂング(先代は表記が少し違う)」の面影を残しています。

江戸璃:私ね、二代目の「丸ビル」には悪いけど、先代の方がはるかに味があって好きだったのよ。

都区次:その先代の「丸ビル」に俳句の「ホトトギス」発行所が大正12年から入っていたそうですね。これは三菱が勧誘したのですか?

江戸璃:違うわよ。高浜虚子の方から入居希望したのよ。当時は欧州大戦が収束するか、しないかの時期で、昭和20年代の朝鮮特需のような状況でテナントの募集宣伝をしなくても入居希望があったのよ。新興成金にとって丸ビルへの入居は垂涎の的だったらしいわよ。当時、三菱地所の不動産部長だった赤星陸治(のちの赤星水竹居)が最初のテナントリストを見て、その中にホトトギスの虚子の名があってビックリ仰天したのよ。

都区次:何でビックリ仰天したのですか?

江戸璃:実業家でもないし、牛込の借家で「ホトトギス」を発行しているような虚子が本当に入るのか?家賃は支払えるのか?という疑問が当然浮かぶでしょ。後々になって家賃不払いとかになったら面倒じゃない?それで赤星は虚子に会いに行ったのよ。そしたら意気投合しちゃってね。赤星は虚子を応援する気になったのよ。応援と言ったって赤星は三菱の人だから家賃を負けてやるなんていうことは出来ないでしょう?まず自分が「ホトトギス」に入って、三菱の人達を「ホトトギス」に入れてやったのよ。

都区次:何か虚子が背伸びして丸ビルに入居したようですが、何でですか?

江戸璃:ライバルの河東碧梧桐を意識したのよ。当時、碧梧桐の方が俳句は隆盛で、おまけに浄土真宗の大谷句仏がスポンサーになって全国行脚をしたり、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのよ。虚子も対抗意識を燃やしたのでしょうね。

(丸ビル)
梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け  高浜虚子
丸ビルのあの窓ひとつ冬灯    山尾かづひろ   ](「現代俳句協会ブロッグ」)

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「俳誌・ホトトギス」管見(その十一) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・四百号」()周辺

「ホトトギス・四百号」.jpg

「ホトトギス・四百号」(昭和四年・一九二九/十二月号/第三十三巻第三号)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972518

(目次)

ホトトギス四百號 / 飄亭 ; 紅緑 ; 三重吉 ; 秋聲 ; 虚吼 ; 能成 ; 千甕 ; 鼠骨 ; 癖三醉 ; 伊三郞 ; 霽月 ; 如翠 ; 靑峰 ; 宗之助 ; 寅日子 ; 均 ; 把栗 ; 泊月 ; 普羅 ; 法師 ; 格堂 ; 紫影 ; 靑楓 ; 三允 ; 鬼城 ; 繞石 ; 秋江 ; 落魄居 ; 萍雨 ; 泊雲 ; 小風 ; 月斗 ; 雪鳥/p1~20
ハルビンなど ゾーヤサン チンへの家 / 高濱虚子/p21~38
後藤夜半論 / 水原秋櫻子/p39~44
雜詠句評會(第四十六回) / 花蓑 ; 風生 ; 靑邨 ; 秋櫻子 ; たけし ; 虚子/p45~49
漫談會(第十四回)四百號漫談(再び) / 秋櫻子 ; 靑邨 ; 風生 ; たけし ; 虚子/p50~52
庭の草木 / 大岡龍男/p53~56
幟 / 水原秋櫻子/p57~57
花野 / 鈴鹿野風呂/p58~58
春十句 / 高濱虚子/p59~59
ピレネーだより / 池内友次郞/p60~61
東大俳句會 / 曾根豊水/p62~62
家庭俳句會 / 本田あふひ/p63~63
七寳會 / 佐野ゝ石/p64~64
消息 / 虚子 ; たけし/p65~65
同人、選者/p66~66
雜詠 / 高濱虚子/p67~114

(管見)

一 「虚子・秋櫻子・素十」周辺

秋櫻子と素十.png

「秋櫻子と素十(高浜虚子)」(『ホトトギス』1928年11月所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972505/1/4

 「ホトトギス・四百号」は、昭和四年(一九二九)の十二月号、それに先立つ、昭和三年(一九二八)十一月号に、「秋櫻子と素十」と題する、虚子の、「客観写生」という立場からの、「水原秋櫻子(俳句)と高野素十(俳句)」とを俎上に挙げて、「高野素十(俳句)」の世界を佳とする「平易・余韻」に加えての「客観写生」を、「ホトトギス」の目指す道筋の一つとの考えを表明した。
 この背景には、この前年(昭和三年=一九二八)の、山口青邨が、ホトトギスの講演会(「どこか実のある話」と題する講演)の中で、「東に秋素の二Sあり! 西に青誓の二Sあり!」と、いわゆる、「ホトトギス」を代表する俳人として、「四S(しいエス)」(水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人)を指摘したことなどが挙げられる。

[水原秋桜子( みずはら-しゅうおうし)  1892-1981 大正-昭和時代の俳人。
明治25年10月9日生まれ。高浜虚子(きょし)に師事,「ホトトギス」で山口誓子(せいし)らと4S時代をきずく。昭和6年主宰誌「馬酔木(あしび)」で虚子の写生観を批判,新興俳句運動の口火をきった。39年芸術院賞,41年芸術院会員。産婦人科医で,昭和医専の教授もつとめた。昭和56年7月17日死去。88歳。東京出身。東京帝大卒。本名は豊。句集に「葛飾(かつしか)」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[高野素十( たかの-すじゅう) 1893-1976 大正-昭和時代の俳人,法医学者。
明治26年3月3日生まれ。新潟医大教授,同大学長,奈良医大教授を歴任。高浜虚子に師事。水原秋桜子,山口誓子,阿波野青畝(せいほ)とともに「ホトトギス」の4Sと称された。昭和32年「芹」を創刊,主宰。昭和51年10月4日死去。83歳。茨城県出身。東京帝大卒。本名は与巳(よしみ)。句集に「初鴉」「雪片」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[山口誓子( やまぐち-せいし) 1901-1994 大正-平成時代の俳人。
明治34年11月3日生まれ。山口波津女の夫。高浜虚子(きょし)に師事し,「ホトトギス」同人。水原秋桜子らとともに「4S時代」をきずき,のち秋桜子の「馬酔木(あしび)」に参加,俳句の近代化に貢献した。昭和23年「天狼」を創刊。62年芸術院賞。平成4年文化功労者。平成6年3月26日死去。92歳。京都出身。東京帝大卒。本名は新比古(ちかひこ)。句集に「凍港」「激浪」「青女」「不動」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[阿波野青畝 (あわの-せいほ) 1899-1992 大正-平成時代の俳人。
明治32年2月10日生まれ。原田浜人(ひんじん),高浜虚子に師事し,水原秋桜子,山口誓子,高野素十(すじゅう)とともに「ホトトギス派の4S」といわれる。昭和4年俳誌「かつらぎ」を創刊,主宰した。48年蛇笏(だこつ)賞,平成4年日本詩歌文学館賞。平成4年12月22日死去。93歳。奈良県出身。畝傍(うねび)中学卒。旧姓は橋本。本名は敏雄。句集に「万両」「春の鳶(とび)」「甲子園」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

二 「ホトトギス四百號 / 三重吉 ; 能成 ; 寅日子 ; 靑楓 /p1~20」周辺

[鈴木三重吉( すずき-みえきち) 1882-1936 明治-昭和時代前期の小説家,児童文学者。
明治15年9月29日生まれ。夏目漱石に師事。小説「千鳥」「桑の実」を発表。大正7年「赤い鳥」を創刊し,芸術性ゆたかな童話・童謡の創作を提唱。坪田譲治,新美南吉(にいみ-なんきち)らの童話作家をそだてた。昭和11年6月27日死去。55歳。広島県出身。東京帝大卒。童話集に「世界童話集」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[安倍能成( あべ-よししげ) 1883-1966 明治-昭和時代の哲学者,教育者。
明治16年12月23日生まれ。夏目漱石(そうせき)の門下。岩波版「哲学叢書(そうしょ)」の編集にくわわる。昭和15年一高校長,21年幣原(しではら)内閣の文相,のち学習院院長となる。昭和41年6月7日死去。82歳。愛媛県出身。東京帝大卒。著作に「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」「平和への念願」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[寺田寅彦 (てらだ-とらひこ) 1878-1935 明治-昭和時代前期の物理学者,随筆家。
明治11年11月28日生まれ。ドイツに留学。大正5年東京帝大教授。理化学研究所などの所員をかね,実験物理学,応用物理学,地球物理学など幅ひろい研究を展開した。6年学士院恩賜賞。また夏目漱石(そうせき)に師事し,「藪柑子集(やぶこうじしゅう)」などの随筆をのこす。昭和10年12月31日死去。58歳。東京出身。東京帝大卒。筆名は吉村冬彦。俳号は藪柑子,寅日子など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[津田青楓 (つだ-せいふう) 1880-1978 明治-昭和時代の画家。
明治13年9月13日生まれ。西川一草亭(いっそうてい)の弟。関西美術院で浅井忠(ちゅう)らにまなぶ。大正3年二科会創立に参加,左翼運動にくわわり,昭和6年「ブルジョワ議会と民衆の生活」を出品,検挙される。のち転向して二科会を退会,日本画に転じた。昭和53年8月31日死去。97歳。京都出身。旧姓は西川。本名は亀治郎。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

三 「同人、選者/p66~66」周辺

(その一)「ホトトギス」の代表作家(「その一/虚子雑詠選・明治45~大正5)周辺

[村上鬼城 (むらかみ-きじょう) 1865-1938 明治-昭和時代前期の俳人。
慶応元年5月17日生まれ。群馬県高崎区裁判所の代書人となる。「ホトトギス」に投句して高浜虚子に激励され,大正6年大須賀乙字(おつじ)編「鬼城句集」により俳名をあげた。難聴にくるしみ,不遇の生活を境涯句として表現した。昭和13年9月17日死去。74歳。江戸出身。旧姓は小原。本名は荘太郎。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[飯田蛇笏( いいだ-だこつ) 1885-1962 明治-昭和時代の俳人。
明治18年4月26日生まれ。早大在学中に早稲田吟社で活躍。高浜虚子に師事するが,明治42年郷里山梨県境川村に隠棲(いんせい)。虚子の俳壇復帰とともに句作を再開,「ホトトギス」の中心作家となる。俳誌「雲母」を主宰,山間の地にあって格調のたかい作風を展開した。昭和37年10月3日死去。77歳。早大中退。本名は武治。別号に山廬(さんろ)。句集に「山廬集」「椿花(ちんか)集」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[前田普羅 (まえだ-ふら) 1884-1954 大正-昭和時代の俳人。
明治17年4月18日生まれ。官吏などをへて,時事新報,報知新聞の記者となる。大正はじめより「ホトトギス」に投稿し,高浜虚子(きょし)にみとめられ飯田蛇笏(だこつ)らとともに虚子門の四天王にかぞえられた。富山で「辛夷(こぶし)」を主宰。自然,山岳をよんだ句がおおい。昭和29年8月8日死去。70歳。東京出身。早大中退。本名は忠吉。句集に「普羅句集」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[原石鼎 (はら-せきてい) 1886-1951 大正-昭和時代の俳人。
明治19年3月19日生まれ。家は代々医師。高浜虚子(きょし)にみとめられ,大正4年上京してホトトギス社にはいる。10年「鹿火屋(かびや)」を創刊,主宰。飯田蛇笏(だこつ)らと大正俳壇で活躍した。昭和26年12月20日死去。65歳。島根県出身。京都医専中退。本名は鼎(かなえ)。句集に「花影(かえい)」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

「ホトトギス・同人」.jpg
 
「同人、選者/p66~66」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972518/1/36

(その二) 「ホトトギス」の代表作家(その二/「虚子雑詠選・大正6~大正15)周辺

※ (その一)での「四S(しいエス)」(水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人)の時代

(その三) 「ホトトギス」の代表作家(その三/「虚子雑詠選・昭和2~昭和11)周辺

[川端茅舎 か(わばた-ぼうしゃ) 1897-1941 大正-昭和時代前期の俳人。
明治30年8月17日生まれ。川端竜子の異母弟。岸田劉生(りゅうせい)に師事して画家をこころざしたが,劉生の死と自身の病弱のため俳句に専念する。高浜虚子(きょし)にまなび,「ホトトギス」同人となる。虚子から「花鳥諷詠(ふうえい)真骨頂漢」の称をあたえられた。昭和16年7月17日死去。45歳。東京出身。独協中学卒。本名は信一。句集に「華厳(けごん)」「白痴」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[松本たかし( まつもと-たかし) 1906-1956 昭和時代の俳人。
明治39年1月5日生まれ。宝生(ほうしょう)流能役者松本長(ながし)の長男。9歳で初舞台をふんだが病弱で能を断念。高浜虚子に俳句をまなび,「ホトトギス」の同人となる。昭和21年「笛」を創刊,主宰した。昭和31年5月11日死去。50歳。東京出身。本名は孝。句集に「松本たかし句集」「石魂」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[星野立子 (ほしの-たつこ) 1903-1984 昭和時代の俳人。
明治36年11月15日生まれ。高浜虚子(きょし)の次女。父に師事し,杉田久女(ひさじょ),中村汀女(ていじょ)らとならぶ女性俳人として知られる。昭和5年俳誌「玉藻(たまも)」を創刊,主宰。「ホトトギス」同人。句集「立子句集」「笹目(ささめ)」などのほか,随筆集もおおい。昭和59年3月3日死去。80歳。東京出身。東京女子大高等学部卒。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)


(その四) 「ホトトギス」の代表作家(その四/「虚子雑詠選・「明治45~昭和11)周辺

[原 月舟(ハラ ゲッシュウ) 明治・大正期の俳人
生年 明治22(1889)年5月24日
没年 大正9(1920)年11月4日
出生地 東京市赤坂区青山南町
本名 原 清
学歴〔年〕慶応義塾大学理財科〔大正2年〕卒
経歴 明治の末年から「国民新聞」に投句し、松根東洋城の選を受けた。大正初期、虚子の俳壇復帰とともに「ホトトギス」に投句、大正3年同誌の募集俳句選者の一人となる。7年10月より同誌に「写生は俳句の大道であります」を連載し、ホトトギス流写生論を鼓吹したが、一方ではその瑣末な写生が批判された。没後「月舟俳句集」が刊行された。](「20世紀日本人名事典」)

[西山 泊雲(ニシヤマ ハクウン) 明治〜昭和期の俳人
生年 明治10(1877)年4月3日
没年 昭和19(1944)年9月15日
出生地 兵庫県氷上郡竹田村
本名 西山 亮三
経歴 家業の酒造業を継承。明治36年弟の野村泊月の紹介で高浜虚子に師事。「ホトトギス」の課題句、地方俳句欄選者で虚子に高く評価された。「ホトトギス」同人として「鬼灯」「樗」の雑詠選を担当。句集に「泊雲句集」「泊雲」がある。](「20世紀日本人名事典」)

[鈴木 花蓑(スズキ ハナミノ) 明治〜昭和期の俳人
生年 明治14(1881)年8月15日
没年 昭和17(1942)年11月6日
出生地 愛知県知多郡半田町
本名 鈴木 喜一郎
経歴 大正4年に上京、長く大審院の書記を勤めた。俳句は7年頃から高浜虚子に師事、大正末から昭和初期にかけて「ホトトギス」で活躍し花蓑時代を築く。大阪朝日地方版、新愛知新聞俳壇の選者を担当、「アヲミ」を主宰した。酒好きで有名。「鈴木花蓑句集」の遺著がある。](「20世紀日本人名事典」)

[富安風生( とみやす-ふうせい) 1885-1979 大正-昭和時代の俳人。
明治18年4月16日生まれ。逓信省にはいり,昭和11年逓信次官。在任中から高浜虚子(きょし)に師事し,「ホトトギス」同人。昭和3年「若葉」の選者となり,のち主宰。軽妙洒脱から内省的句風へとうつり,自在な境地に到達した。芸術院会員。昭和54年2月22日死去。93歳。愛知県出身。東京帝大卒。本名は謙次。句集に「草の花」「晩涼」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[山口青邨 (やまぐち-せいそん) 1892-1988 大正-昭和時代の俳人,鉱山学者。
明治25年5月10日生まれ。古河鉱業などをへて母校東京帝大の教授。高浜虚子にまなび,大正11年水原秋桜子(しゅうおうし)らと東大俳句会をおこす。「ホトトギス」同人。「夏草」を創刊,主宰。昭和63年12月15日死去。96歳。岩手県出身。本名は吉郎。句集に「雑草園」,著作に「花のある随筆」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[池内 たけし(イケノウチ タケシ) 大正・昭和期の俳人
生年 明治22(1889)年1月21日
没年 昭和49(1974)年12月25日
出生地 愛媛県松山市
本名 池内 洸(イケノウチ タケシ)
学歴〔年〕 東洋協会専門学校(現・拓殖大)中退
経歴 東洋協会専門学校を中退して宝生流の門に入り、能楽師を志したがそれを断念し、叔父高浜虚子に就いて俳句を志す。「ホトトギス」の編集にたずさわり、昭和7年「欅」を創刊し、8年「たけし句集」を刊行、以後「赤のまんま」「玉葛」「春霞」「その後」「散紅葉」などの句集や随筆集「叔父虚子」などを刊行した。](「20世紀日本人名事典」

[高浜年尾 (たかはま-としお) 1900-1979 大正-昭和時代の俳人。
明治33年12月16日生まれ。高浜虚子(きょし)の長男。中学時代から父の手ほどきをうけ,一時会社につとめたのち俳句に専念。昭和13年から「俳諧(はいかい)」を主宰。26年父より「ホトトギス」をひきついだ。昭和54年10月26日死去。78歳。東京出身。小樽高商(現小樽商大)卒。著作に「俳諧手引」,句集に「年尾句集」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

(その五) 「ホトトギス・同人」を除名された著名俳人

[日野草城( ひの-そうじょう) 1901-1956 大正-昭和時代の俳人。
明治34年7月18日生まれ。昭和2年の句集「花氷」でみとめられ,4年「ホトトギス」同人。10年「旗艦」を創刊,無季新興俳句運動をすすめ,翌年「ホトトギス」を除名される。戦後は「青玄」を創刊,主宰した。昭和31年1月29日死去。54歳。東京出身。京都帝大卒。本名は克修(よしのぶ)。句集に「青芝」「人生の午後」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[吉岡禅寺洞 (よしおか-ぜんじどう) 1889-1961 明治-昭和時代の俳人。
明治22年7月2日生まれ。大正7年福岡で「天の川」を創刊,のち主宰。富安風生,芝不器男(ふきお)らをそだてる。昭和4年「ホトトギス」同人となるが,新興俳句運動にはいり,11年除名された。戦後,口語俳句協会会長。昭和36年3月17日死去。71歳。福岡県出身。本名は善次郎。別号に禅寺童。句集に「銀漢(ぎんかん)」「新墾(にいはり)」](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[杉田久女( すぎた-ひさじょ) 1890-1946 大正-昭和時代の俳人。
明治23年5月30日生まれ。福岡県小倉にすみ「ホトトギス」に投句し,高浜虚子に師事。昭和7年「花衣(はなごろも)」を創刊,主宰。同年「ホトトギス」同人となるが,11年除名される。昭和21年1月21日死去。57歳。鹿児島県出身。東京女高師付属高女卒。旧姓は赤堀。本名は久子。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
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「俳誌・ホトトギス」管見(その十) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(24巻12号)・三百号」(大正十年・一九一三/九月号)周辺

ホトトギス300号.jpg

「ホトトギス(24巻12号)・三百号」(大正十年・一九一三/九月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/1

(目次)

俳句所感/高濱虚子/p1~3
「夜もすがら神鳴聞くや」の句の辯/高濱虚子/p4~6
出征俳信/田北衣沙櫻/p7~19
渡邊南岳 『四季草花繪卷』の序/p19~23
1/正木直彦/p19~19
2/結城素明/p19~22
3/高濱虚子/p22~23
杉山一轉の句/高濱虚子/p23~25
「島」(荻田才之助著)の序/高濱虚子/p26~26
溪谷を出づる人/前田普羅/p27~33
鎌倉能樂會/内藤鳴雪/p34~34
二百號當時を顧みて/室積徂春/p34~38
新題季寄せについて/毛利碧堂/p38~41
石井柏亭先生へ/小寺葉舟/p41~42
團扇(募集俳句)/内藤鳴雪/p42~43
葉櫻(募集俳句)/原石鼎/p43~47
秋風(募集俳句)/村上鬼城/p47~48
各地俳句界/零餘子/p49~63
東京俳句界/p49~50
地方俳句界/p50~63
海外俳句界/p63~63
俳句入門欄/p64~66
高と低と/目黑野鳥/p64~65
投句/p65~66
石鹼玉十句集/p66~67
新刊紹介/p67~68
消息/p68~68
雜詠/虚子/p69~81
中學讀本中にある俳句(俳談會第四十回)/鳴雪 ; 虚子等/附1~附20
其角研究(第十九回の一)/若樹 ; 世音 ; 仙秀 ; 鳴雪 ; 鼠骨 ; 樂堂等/附1~附10
麻三斤/小川芋錢/p5~5
馬/小川芋錢/p9~9
スケッチ/石井柏亭/p13~13
スケッチ/石井柏亭/p17~17
おやつ/森田恒友/p21~21
原/森田恒友/p31~31
裸女/小川千甕/p39~39
童女/小川千甕/p45~45

(管見)

一 「ホトトギス(8巻7号)・百号」、「ホトトギス(16巻6号)・二百号」、そして、「ホトトギス(24巻12号)・三百号」周辺

 「ホトトギス(8巻7号)・百号」は、「明治三十八年・一九〇五/四月号)」、「ホトトギス(16巻6号)・二百号」は、「大正二年・一九一三/五月号」、この八年間うちの大きな出来事は、「百号」時の、夏目漱石の「吾輩は猫である」の搭載により、地方(伊予・東京)俳誌的な「ホトトギス」が、全国的な文芸誌「ホトトギス」へと飛躍的に伸長した時期であった。
 そして、「二百号」時は、漱石の「朝日新聞」に入社などにより「ホトトギス」への寄稿
が皆無となり、さらに、子規没後の、「日本俳壇」を引き継いだ「河東碧悟桐派(新傾向俳句)の革新派」と「ホトトギス」を引き継いだ「高浜虚子派(伝統俳句の守旧派)」との対立・抗争による「ホトトギス」刷新・再生の時期であった。
 その上で、「大正十年・一九一三/九月号」の「※三百号」の目次を見ると、「※二百号」時の「高札」の一つの、「毎号虚子若しくは大家の小説一篇を掲載する事」は影を潜め、「文芸誌・ホトトギス」から「俳誌・ホトトギス」へと回帰したニュアンスが読み取れる。
 すなわち、「※百号」そして「※二百号」時の「作家(小説家)・虚子」から「俳人・虚子」への再回帰というニュアンスが濃厚となってくる。
 これらのことを、「ホトトギス・百年史」で、その要点を抜粋すると、以下のとおりである。

「ホトトギス・百年史(要点抜粋)」(百号から三百号)

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1001-top.htm
http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

※明治三十八年(1905) → 「ホトトギス」百号。
一月 「吾輩は猫である」漱石、明治三十九年八月まで連載。四月 「ホトトギス」百号。
明治四十年(1907)
一月 漱石朝日新聞入社、以後「ホトトギス」に投稿しなくなる。新聞「日本」廃刊、俳句欄「日本及び日本人」に移る。(三月より碧梧桐選)。四月 「風流懺法」虚子。五月 「斑鳩物語」虚子。七月 「大内旅館」虚子。
明治四十一年(1908)
二月 『稿本虚子句集』刊(俳書堂)。虚子、国民新聞に「俳諧師」連載。
十月 虚子国民新聞文芸部部長となり、東洋城を俳句欄選者にする。ホトトギス雑詠を始める。
明治四十三年(1910)
九月 虚子国民新聞退社。「ホトトギス」九月号発売禁止(一宮瀧子「をんな」掲載による)。
十二月 財政難のため「ホトトギス」発行所を芝区南佐久間町に移す。虚子鎌倉市由比が浜同朋町に移住。
明治四十五年(1912)
一月 俳句入門」連載、虚子。七月 雑詠を復活
大正元年(1912)

※大正二年(1913) → 「ホトトギス」二百号
一月 虚子「俳句入門」の中で新人原石鼎、前田晋羅を推す。碧梧桐の日本俳句分裂。
五月 「椿の花」田山花袋。「六ヶ月間俳句講議」連載、虚子。『虚子文集』出版(実業之日本社)。
大正四年(1915)
一月 蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う。二月 「渋柿」創刊。三月 新傾向俳句分裂相次ぐ。
四月 「進むべき俳句の道」連載、虚子。十月 水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)。虚子編『ホトトギス雑詠集』刊(四方堂)。乙字「現俳壇の人々」で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(「文章世界」)。
※※大正五年(1916)
四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。十二月 漱石没。
大正七年(1918)
四月 虚子『俳句は欺く解し欺く味ふ』刊(新潮社)。七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。九月 この年新傾向運動終熄。
大正八年(1919)
九月 草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)。秋桜子・風生・誓子・青邨・年尾・虚子、帝大俳句会結成。
大正九年(1920)
二月 鳴雪・虚子。草城・野風呂・王城・播水、京大三高俳句会を結成。

※大正十年(1921) → 「ホトトギス」三百号

二 「※※大正五年(1916)四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。十二月 漱石没。」周辺

 「ホトトギス」の「百号」(明治三十八年・一九〇五))から「三百号」(大正十年・一九二一)の歩みの中で、子規没後の、その後継者の「虚(虚子)・碧(碧悟桐)」の「対立・抗争・終息」の変遷というのが、その中心の視点ということになるが、その「虚子派(守旧派)」内での、「東洋城更迭・排斥」ともいうべき、虚子の、「国民新聞の『国民俳句』の選を東洋城に代わり再び担当」するという、「虚子(「俳誌・ホトトギス」)と東洋城(「俳誌・渋柿」)」との、今に続く、その因縁のしがらみは、やはり、特筆しておくべきことなのであろう。
 これらについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-19

(再掲)

[(東洋城・三十九歳。虚子は大正二年、俳句に復活したが、四月、東洋城に無断で「国民俳壇」を手に入れた。爾後、虚子及び「ホトトギス」と絶縁し、「渋柿」によつて芭蕉を宗とし俳諧を道として立った。)

※怒る事知つてあれども水温む(前書「有感(大正五年四月十七日国民俳壇選者更迭発表の日)」)

[※「大正五年、虚子が俳句に復活し、四月十七日、東洋城はついに国民俳壇の選者を下りた。それというのも、国民新聞の社長・徳富蘇峰が、選者を下りてほしい旨、手紙を送ってきたためであった。東洋城はかねてより、社長からなにか言ってくるまで辞めないつもりだったが、読むと、かなり困って書いてきたものだとわかった。「仕方がない、社長は大将だ。ここまで書いてくるのは、よほどのことなのであろう」と、ついに下りることを承諾した。そして、
  有感(感有リ)
 いかること知つてあれども水温(ぬる)む
という句をつくり、以後虚子とは義絶した。九月には母の上京を促すため、帰郷した。末弟の宗一(そういち)が東京高商に入学するため上京し、以後、宇和島で独り住まいになっていた母の面倒を見るのは長男(※嫡男)の務めだと思い、同居の説得に行ったのだった。この年、東洋城にとって肉親の死にも等しい哀しいできごとがあった。十二月九日、漱石が死亡したのである。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

三 「ホトトギス・三百号」の画家周辺

石井柏亭・スケッチ画.jpg

「スケッチ/石井柏亭/p13~13」「スケッチ/石井柏亭/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/13
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/15

石井柏亭については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

森田恒友・スケッチ画.jpg

「おやつ/森恒友/p21~21」「原/森田恒友/p31~31」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/17
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/22

 森田恒友についても、下記のアドレスでも、下記アドレスで、「ホトトギス(300号記念号)の「表紙絵」と「挿絵」の画家たちで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-30

(再掲)
[※「ホトトギス(300号記念号)の「表紙絵」を担当したのは津田青風にとっては、その「挿絵」を担当した「小川芋銭・石井柏亭・森田恒友・小川千甕」ともども、一つのエポックであったことであろう。

(補記・「ウィキペディア」など)

小川芋銭(「1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家。」)

石井柏亭(「石井柏亭(1882-1958)は、洋画家として油彩画だけでなく、水彩画、版画、日本画と幅広いジャンルの作品を残しました。さらに、歌人、詩人、批評家、著述家、教育者としても活躍をしました。」)

森田恒友(「1881-1933(明治14-昭和8))、1906(明治39)年、東京美術学校西洋画科卒業。文展に出品。14~15(大正3~4)年に渡欧、帰国後水墨画の制作を始める。22(大正11)年、岸田劉生らと春陽会を創立、以後春陽会を中心に作品を発表。29(昭和4)年、帝国美術学校西洋画科の教授となる。セザンヌほかに学び油彩画を描いたが、一方で南画の理解と制作に励み、特に関東平野の風土をモチーフとして独自の詩情にあふれた水墨画を描いた。)」

小川千甕 (「1882年10月3日 - 1971年2月8日)は、京都市出身の仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。本名は小川多三郎。後に、自由な表現できる日本画である「南画」を追求。多くの作品を発表し、戦後にかけて文人への憧れから「詩書画」を多く手掛けるようになる。) 

(参考) 「明治三十七年・日露開戦勃発時の『漱石・虚子・青楓』周辺の人物像

※内藤鳴雪 847年〜1926年(弘化4年〜大正15年) 57才
※浅井 忠  1856年〜1907年(安政3年〜明治40年) 48才
※夏目 漱石 1867年〜1916年(慶応3年〜大正5年) 37才
※※河東碧梧桐 1873年~1937年(明治6年〜昭和12年) 31才
※※高浜 虚子 1874年~1959年(明治7年〜昭和34年) 30才
長谷川如是閑 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) 29才
※※松根東洋城  1878年〜1964年(明治11年〜昭和39年) 26才
※寺田 寅彦 1878年〜1935年(明治11年〜昭和10年) 26才

※津田 青楓   1880年〜1978年(明治13年〜昭和53年) 24才

※石井 柏亭 1882年〜1958年(明治15年〜昭和33年) 22才
高村光太郎 1883年〜1956年(明治16年〜昭和31年) 21才
※安倍 能成 1883年~1966年(明治16年~昭和41年) 21才
※小宮 豊隆  1884年~1966年(明治17年〜昭和41年) 20才 
川端 龍子  1885年~1966年(明治18年~昭和41年〉 19才
※山脇 敏子 1887年〜1960年(明治20年〜昭和35年) 17才
※安井曾太郎 1888年~1955年(明治21年〜昭和30年) 16才
芥川龍之介 1892年〜1927年(明治25年〜昭和2年) 12才      ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その九) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)周辺

ホトトギス 16(6)(200)表紙.jpg

「ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/1

(目次)

椿の花(小説) / 田山花袋/p1~34
病院にて / 早良平作/p35~38
藤の樹 / ろまん/p39~42
兄さんの結婚の日 / 梅橋/p43~48
牡丹臺と大同江 / 高濱虚子/p49~66
帝國劇場の三月劇 / 内藤鳴雪/p67~71
其後の句作 / 高濱虚子/p72~84
菜の花 / 石井露月/p84~85
新刊紹介 / 司馬太/p85~88
消息 / 虚子/p89~89
東京俳句界 / 高濱虚子/p89~92
地方俳句界 / 高濱虚子/p92~96
雜詠 / 高濱虚子/p97~100
六ヶ月間俳句講義(一) / 高濱虚子/p101~114
表紙畫 人道 / 小川千甕
挿畫 火中の人 / 小川芋錢/p9~9
挿畫 春雨 / 小川芋錢/p13~13
挿畫 編輯室の一隅 / 本間國雄/p17~17
挿畫 新聞社の給仕 / 本間國雄/p21~21
挿畫 或る日 / 鶴田櫟村/p25~25
挿畫 北漢山 / 鶴田櫟村/p29~29
挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33
裏畫 くじびき / 小川千甕

(管見)

一 「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)周辺

 この「二百号(16巻6号/大正二年・一九一三/五月号)」に先立つ、明治四十四年(一九一一)十月号の「第十五巻第一号」で、高浜虚子は「本誌刷新に就いて」を発表して「ホトトギス」の大革新を敢行した。
 その背景は、「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五)の、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「ホトトギス」の搭載により、「松山(柳原極堂)・東京(正岡子規)」を中心とする読者層から、謂わば、「全国的」な読者層をシェアし、経営が好調だったのだか、その漱石の「朝日新聞入社」(明治四十年・一九〇七)、そして、「碧悟桐(「新傾向派」俳句)と虚子(「守旧派」俳句)」との「対立・抗争」などによる、読者層が激減し、経営難に陥ったことが挙げられる。
 これらのことは、その「本誌刷新に就いて」の末尾の、「主として経済上の理由に基づき、社員組織を解き、原稿料をも全廃するといふ事は四方太君(注・坂本四方太)の発意であつたが、他の諸君も皆快く賛成して呉れたのである」で明瞭なことであろう。
 この号をもって、碧悟桐の「課題句選者」は、「松根東洋城・募集句選者」と代替わりすることになる。

ホトトギス(第二十号)目次.jpg

「ホトトギス」(明治四十四年(一九一一)十月号の「第十五巻第一号」)所収「目次と本誌刷新に就いて(高浜虚子)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972302/1/2

二 「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」周辺

 明治天皇が崩御されて、明治時代から大正時代になったのは、明治四十五年(一九一二)七月三十日、明けて、大正二年(一九一三)の元旦号の、その「ホトトギス」の巻頭に、下記の「高札(こうさつ・たかふだ)」(「掟・禁制」を周知させるための掲示板)が掲げられた。

ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号.jpg

「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972317/1/2

 その「高札」の、「平明にして余韻ある俳句を鼓吹する事」(新傾向句に反対する事)は、当時の俳句界を席巻していた、河東碧悟桐の「新傾向俳句(運動)」(伝統的な俳句の礎となっている「定型」・「有季」に拘らず「非定型=自由律」・「無季」の句をも標榜する)に対する、真っ向からの対立・拒否の宣言であった。この宣言は、その後の「虚子俳諧・ホトトギス俳諧」の、バックボーンとして揺るぎないものとなった。

三 「大正二年(一九一三)当時の虚子」周辺

 「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」の、「毎号虚子若しくは大家の小説一篇を掲載する事」で示唆される如く、恰も、漱石の「吾輩は猫である」の「ホトトギス」搭載により、「作家(小説家)・夏目漱石」がデビューしたことに刺激されたのか、「俳人・高浜虚子」というよりも、「作家(小説家)・高浜虚子」を目指しての、謂わば、「俳人・虚子」の時代ではなく、「作家(小説家)・虚子」の時代であった。
 それは、その「高札」の、「虚子全力を傾注する事」の、「虚子即ホトトギスと心得る事」の、その「ホトトギス」の編集全般について、当時の信頼すべき門弟の「嶋田青峰」に委ね、そして、その「高札」の、「平明にして余韻ある俳句を鼓吹する事」も、漱石門の、そして、子規門にも通ずる、愛媛(松山中=松山東高)の後輩の、そして、愛媛宇和島藩の藩主の血筋の、宮内省の式部官を歴任している「松根東洋城」に、その任を委ね、その上での、さらに、体調不調(「腸チフス」)などが重なり、その上での、上記の「高札」、そして、その「ホトトギス・二百号」(「ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05」)ということになる。

四 「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)の「挿絵」周辺

裏畫 くじびき ・ 小川千甕.jpg

「裏畫 くじびき / 小川千甕」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/68

[小川千甕 おがわ-せんよう/ 882-1971 明治-昭和時代の日本画家。
明治15年10月3日生まれ。仏画師北村敬重の弟子となり,浅井忠に洋画もまなぶ。大正4年川端竜子,小川芋銭(うせん)らと珊瑚(さんご)会を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。本名は多三郎。代表作に「炬火乱舞」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[小川芋銭 おがわ-うせん/ 1868-1938 明治-昭和時代前期の日本画家。
慶応4年2月18日生まれ。本多錦吉郎に洋画をまなび,独学で日本画も習得。「朝野新聞」などに挿絵や漫画をかく。茨城県牛久に移り住み,院展を中心に活動。河童(かっぱ)の絵で知られる。日本美術院同人。昭和13年12月17日死去。71歳(。幼名は不動太郎。本名は茂吉。別号に牛里,草汁庵。代表作に「森羅万象」「夕凪」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

挿畫 火中の人 ・ 小川芋錢.jpg

「挿畫 火中の人 / 小川芋錢/p9~9」(ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/14

挿畫 春雨・ 小川芋錢.jpg

「挿畫 春雨 / 小川芋錢/p13~13」(ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/16

 「本間国雄」(本名)は、「本間国生」(画号)であろう。

[本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。](「ウィキペディア」抜粋)

挿畫 編輯室の一隅・ 本間國雄.jpg

「挿畫 編輯室の一隅 / 本間國雄/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/18

挿畫 新聞社の給仕・ 本間國雄.jpg

「挿畫 新聞社の給仕 / 本間國雄/p21~21」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/20

 これに続く、「鶴田櫟村」とは、下記の「鶴田吾郎」のようである。

[鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。
 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。
 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。日本国内を始め中国、ロシア、ヨーロッパなどを旅行、風景画を多数制作した。1920年の帰国後、第2回の帝展に「盲目のエロシェンコ像」が入選する。これ以降、帝展、文展及び日展において活躍した。文展では審査員を務めた。また、1926年(大正15年)頃から加藤版画店で「九十九里の漁夫」など新版画の作品を発表している。
 1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)までの間、風刺版画の雑誌『カリカレ』に素描やスケッチなどのほか、文章を掲載した。1938年(昭和13年)頃、ステンシルを研究していた。
 1939年(昭和14年)、陸軍美術協会の設立に向けて発起人の一人となり[1]、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)には、「空の神兵」と謳われた帝国陸軍落下傘部隊のパレンバン空挺作戦における活躍を描いた戦争画『神兵パレンバンに降下す』を発表[2]。大戦後は日本国内を旅行、各地国立公園の風景を描いており、日本国立公園シリーズ30点を完成させるとともに、日本山林美術協会を創設、自らその代表を務めている。](「ウィキペディア」)

挿畫 或る日 ・ 鶴田櫟村.jpg

「挿畫 或る日 / 鶴田櫟村/p25~25」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/22

挿畫 北漢山・ 鶴田櫟村.jpg

「挿畫 北漢山 / 鶴田櫟村/p29~29」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/24
 
 「挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33」周辺については、これまでに、「津田青楓管見(その一からその十)」など紹介してきた「津田青楓」の、大正二年(一九一一三)の、三十三歳の「挿絵図」ということになる。

挿畫 お化粧・ 津田靑楓.jpg

「挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/26

(再掲)

津田青楓管見(その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

[※大正十年(一九二一) 四十二歳

ホトトギス表紙.jpg
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「俳誌・ホトトギス」管見(その八) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その八)
「ホトトギス(8巻7号)・百号」(明治三十八年・一九〇五/四月号)周辺

ホトトギス(8巻7号)・百号.jpg

「ホトトギス(8巻7号)・百号」(明治三十八年・一九〇五/四月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/1


(目次)

表紙畫 / 橋口五葉
汐干(口繪) / 淺井默語
釣魚(口繪) / 中村不折
吾輩は猫である(三) / 夏目嗽石/p1~8,10~39
ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉/p9~9,11~11,13~13,15~15,17~17,19~19,21~21
團栗(小説) / 寺田寅彦/p39~39,42~46
歸朝雜感(挿畫) / 灰殻道人/p40~41
月給日(小説) / 野村傳四/p46~53
ほねほり(小説) / 高濱虚子/p53~61
げん(ゲン)花(小説) / 河東碧梧桐/p61~69
東京俳句界/p69~72
下士官室(挿畫) / 谷朱冠/p70~70
騎兵徒歩(挿畫) / 谷朱冠/p71~71
地方俳句界/p72~78
田舍源氏に付て(四) / 内藤鳴雪/p78~81
冬三題 / 碧梧桐 ; 露月 ; 虚子/p81~81
葉水の句解釋 / 内藤鳴雪/p81~85
消息 / 虚子記/p85~86
蒲鉾の賛 / 坂本四方太/p86~90
お伽のかるた / 子夜/p90~95
丑三時 / 小風/p95~97
月給日 / 木南人/p97~98
逃げ蛙 / 木兎/p99~100
音樂舞踏研究會 / 菊泉/p100~102
眞田細工講習會 / 夢拙/p102~103
波(春、募集俳句其一) / 鳴雪/p104~108
石(春、募集俳句其二) / 碧梧桐/p108~111
門(春、募集俳句其三) / 淺茅/p111~113
蕪村遺稿講義(秋八) / 鳴雪 ; 碧梧桐 ; 虚子/p113~117
新刊/p117~118
課題/p118~118
十二支(圖案) / 樂堂/p表紙2面~3面
野外演習(裏畫) / 谷朱冠/p表紙4面
附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉
附録 幻影の盾(小説) / 夏目嗽石/p1~35
附録 幻影の盾のうた / 野間奇瓢/p36~36

(管見)

一 「表紙畫 / 橋口五葉」・「ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉」・「附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉」周辺

ステーシヨン、スヶッチ(挿畫.jpg

|ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉」(/p9~9,11~11,13~13,15~15,17~17,19~19,21) https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/2  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/12
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/13  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/14
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/15  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/16

附録 幻影の盾(扉畫).jpg

「附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/67

[橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年(明治14年)[注 1]12月21日 - 1921年(大正10年)2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。(中略)
 雑誌『ホトトギス』の挿絵を描いていた事や、五葉の長兄が熊本の第五高等学校で教え子だった関係で夏目漱石と知り合い、1905年(明治38年)、『吾輩ハ猫デアル』の装幀を依頼される。以来『行人』まで漱石の著作の装幀は五葉がつとめることになる。漱石以外にも、森田草平、鈴木三重吉、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の作品の装幀を手がける。また、この時期の五葉は1907年(明治40年)に東京府勧業博覧会で出品作が2等賞を受賞し、同年の第1回文展では「羽衣」が入選を果たすなどして、画家としても次第に注目されるようになっていった。1911年(明治44年)、籾山書店の企画した叢書のためのデザインは、大正2年まで24もの名作の表紙を飾ることになる。その蝶をモチーフにあしらったデザインのために胡蝶本と愛称された。その他イラストでも活躍し、1911年(明治44年)「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞、懸賞金1000円を獲得し有名になった。この作品は、元禄模様の着物を着た女性が美人画の版本を手に座る姿を描いており、江戸回顧及びアールヌーボーの流行を反映している。(後略) ](「ウィキペディア」)

吾輩は猫である・橋口五葉.jpg

上図左=「吾輩は猫である」上編の装丁 / 上図右=「吾輩は猫である」中編の装丁
下図左=「吾輩は猫である」下編の装丁 (『吾輩ハ猫デアル 上・中・下編』ジャケット下絵/装丁/橋口五葉(1905年)抜粋)
https://www.meijimura.com/meiji-note/post/natsumesouseki/
下図右=「此美人」石版画(橋口五葉)(「ウィキペディア」抜粋)

[ 漱石は、当初、『吾輩は猫である』の挿画を、友人の橋口貢に頼もうと考えていましたが、弟の橋口五葉が、東京美術学校(現東京芸術大学)に在学していることを知り、五葉に絵を依頼しました。
 明治38(1905)年1月18日に「猫の画をかいてくださるよし難有候。なるべく面白いやつを沢山かいて下さい」とハガキを送り、2月12日には「ホトトギスの挿画はうまいものに候。御蔭で猫も面目を施し候。バルザック、トチメンボー皆一癖ある画と存候。他の雑誌にゴロゴロ転ってはおらず候。これでなくては自分の画とは申されません。クジャクの線も一風有之候。足はことによろしく候。あれは北斎のかいた足のように存じ候。僕の文もうまいが、橋口くんの画の方がうまいようだ」と手放しで褒めています。](「漱石『吾輩は猫である』の装丁」抜粋)
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201905100000/

※ 上記の「漱石『吾輩は猫である』の装丁」中の、橋口五葉の「バルザック、トチメン
ボー、クジャク」(「ホトトギス」挿絵)は、下記のものである。

パルザック(挿畫.jpg

「パルザック(挿畫) / 橋口五葉/p10~10」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/8

トチメンボー(挿畫.jpg

「トチメンボー(挿畫) / 橋口五葉/p19~19」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/12

孔雀(挿畫.jpg

「孔雀(挿畫) / 橋口五葉/p24~24」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/15

二 「汐干(口繪) / 淺井默語」周辺

汐干(口繪.jpg

「汐干(口繪) / 淺井默語」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/4

[浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家、教育者。号は黙語(もくご)。(中略)
 1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部大学校(現在の東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年11月に小山正太郎や松岡寿ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授・教頭となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
 『吾輩ハ猫デアル』の単行本の挿画を他の2人とともに描いている。(後略) ](「ウィキペディア」)

三 「釣魚(口繪) / 中村不折」周辺

釣魚(口繪.jpg

「釣魚(口繪) / 中村不折」周辺
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/6

[中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) - 1943年(昭和18年)6月6日)は、明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られる。本名:中村鈼太郎(なかむら さくたろう)。(中略)
 1894年には正岡子規に出会い、日本新聞社の発行する新聞『日本』の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当する。新聞『小日本』126号に俳句が掲載され、初めて「不折」の名を使用する。30歳の時、正岡子規とともに日清戦争に従軍し、中国に渡り書に興味を持つ。31歳の時、堀場いとと結婚。日本新聞社に入社し引き続き挿絵を担当する。34歳の時、第10回明治美術展覧会に「淡煙」「紅葉村」を出品。「紅葉村」は1900年のパリ万国博覧会で褒賞を受賞する。その後、下谷区中根岸31番地に画室を新築し転居した。(中略)
 また、森鷗外や夏目漱石らの作家とも親しく、挿絵や題字を手掛けることも多かった。
島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、『一葉舟』(1898年)の挿絵を担当した。1905年に『吾輩は猫である』上巻が刊行され挿絵を描いた。漱石は不折に宛てて「発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する」という旨の手紙を送っている。

吾輩ハ猫デアル.jpg   

 (後略)   ](「ウィキペディア」)

四 「團栗(小説) / 寺田寅彦/p39~39,42~46」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-01

(「再掲」抜粋)

[※寺田寅彦は、その随筆の筆名は「吉村冬彦」を用いている。この「吉村冬彦」の筆名は、「僕の家の先祖は吉村という姓だったので、それで僕が冬年生れた男だから、吉村冬彦としたわけさ。だから此の名はペンネームというより、むしろ僕は一つの本名と思っているのだ」(『寺田寅彦の追想(中谷宇吉郎稿)』)ということが、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』に記されているが、この「吉村」は、寅彦の高知出身の「父・利正」と深い関わりのもので、そして、この「冬彦」も、寅彦(二十歳)の時の、その高知で「父・利正」の友人の娘「夏子(十五歳)」との結婚、そして、その夏子の死(明治三十五年、寅彦=二十五歳、夏子=二十歳)と深く関わるものなのであろう。
 この「吉村冬彦」という筆名は、大正九年(一九二〇)、寅彦(四十三歳)の時の、上記の「年譜」にあるとおり、「十一月、随筆「小さな出来事」を吉村冬彦の筆名で「中央公論」に発表、以後、随筆にはこの筆名を使用するようになる」の、それ以後の筆名ということになる。
 その以前に、寅彦は、「藪柑子」という、筆名を用いている。これらのことに関して、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、「藪柑子の名が使われたのは、『寺田寅彦は小説を書いている』という非難が大学内部で起こったからである」と指摘している。
 この「寅彦から藪柑子」への筆名の変遷は、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』のものに、次のアドレスのものですると、次のとおりとなる。

https://kyuurisha.com/torahiko-to-yabukohji/

[明治38年4月→「団栗」=筆名:寅彦(1月は本多光太郎博士と実験三昧)
明治38年6月→「龍舌蘭」=筆名:寅彦(8月に寛子と結婚、11月「熱海間欠泉の変動」)
明治39年10月→「嵐」=筆名:寅彦(4月「尺八に就て」)
明治40年1月→「森の絵」=筆名:寅彦(1月に長男の東一誕生)
明治40年2月→「枯菊の影」=筆名:寅彦(4月「潮汐の副振動」、7~8月に三原山調査)
明治40年10月→「やもり物語」=筆名:寅彦
明治41年1月→「障子の落書」=筆名:藪柑子
明治41年4月→「伊太利人」=筆名:藪柑子
明治41年10月→「花物語」= 筆名:藪柑子(同月に博士論文「尺八の音響学的研究」)
明治42年1月→「まじょりか皿」=筆名:藪柑子(3月から欧州留学) ]

[豊隆=蓬里雨・三十七歳。 海軍大学校嘱託教授となる。]

※『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、これらの「藪柑子から冬彦へ」の筆名の変遷などに関連して、「漱石・寅彦・豊隆」の三者関係について、概略、次のとおり記述している。

[小宮豊隆は夏目漱石を敬慕することが極めて厚かったが、彼がまた寺田寅彦にも兄事して深く敬愛していた。寅彦に『藪柑子集』の佳品を書かせたのは漱石であるが、『冬彦集』には豊隆の『啓示と奨励(寅彦)があった。(中略)
 小宮豊隆は「『藪柑子集』は『冬彦集』作家の昔の「顔」である」と書く。そして明治文学史における寺田寅彦の作品を次のように位置づける。すなわち「団栗」によって鈴木三重吉の「千鳥」が生まれ、「千鳥」によって夏目漱石の「草枕」が胚胎されたと見るのである。]

「ホトトギス(明治四十一年十月号).jpg

「ホトトギス(明治四十一年十月号).jpg

「花物語(藪柑子)」掲載「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)(「熊本県立大学図書館オンライン展示」)
https://soseki-kumamoto-anniversary.com/#mv

※ 上記の「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)の、その「目次」(下段)に、「文鳥(夏目漱石)」に続いて「花物語(藪柑子)」が掲載されている。その「目次」(上段)に、「地方俳句界(東洋城選)」・「消息(虚子記)」・「雑詠(虚子選)」・「表紙図案(中村不折)」の名が掲載されている。
 この当時の「ホトトギス」は、「虚子と東洋城」とが、「ホトトギス」の「俳句の部」(「雑詠(虚子選)」と「地方俳句界(東洋城選)」など)を、そして、「漱石と藪柑子=寅彦」とが「小説の部」(「文鳥(夏目漱石)」と「花物語(藪柑子=寅彦)」など)を、タッグを組んでコンビになっていたことが覗える。
 そして、この当時は、「漱石・寅彦(藪柑子)」とは、「俳句」とは疎遠になっていて「小説」の方に軸足を移していたということになる。そして、小宮豊隆は、当然のことながら、「漱石・寅彦(藪柑子)」の「小説」の『解説(評論)』に主力を投入していて、「俳句・俳諧(連句)」とは無縁であったといっても過言ではなかろう。
 これが、大正九年(一九二〇)当時になると、虚子と東洋城とが、大正五年(一九一六)の漱石が亡くなった年(十二月)の四月に、「国民新聞」の「国民俳壇」の選者交替(虚子→東洋城→虚子)を契機としての「虚子と東洋城との絶縁」状態で、この年に、東洋城が全力を傾注していた「渋柿」の主要同人(水原秋櫻子など)が、カムバックした虚子の「ホトトギス」へ移行するなど、大きく様変わりをしていた。
 これらのことと併せて、大正六年(一九一七)の、東洋城の「渋柿」の、「漱石先生追悼号」・「漱石忌記念号」、そして、『漱石俳句集(東洋城編・岩波刊)』の刊行などが、漱石最側近の「寅彦・東洋城・豊隆」とが、東洋城の「渋柿」上に、東洋城の年譜に、「寅彦、豊隆、『渋柿』に毎号執筆する」とあるとおり、その名を並べることになる。
 この時には、寅彦は、「藪柑子」時代の「小説」の世界とは絶縁していて、「小説家・藪柑子」ではなく「随筆家・冬彦」の、その「年譜」にあるとおり、「北村冬彦」という筆名が用いられることになる。
 この漱石の時代の「小説家・藪柑子」から、漱石没後の「随筆家・北村冬彦」への転換は、その寅彦の弟分にあたる「小宮豊隆」が大きく関与していたことが、次の『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』と『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』との二著から覗える。

『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/978015/1/1

[標題
目次
自序
團栗/1
龍舌蘭/16
嵐/31
森の繪/45
枯菊の影/52
やもり物語/73
障子の落書/88
伊太利人/99
まじよりか皿/112
花物語/126
旅日記/160
先生への通信/242
自畫挿畫二葉
『藪柑子集』の後に 小宮豐隆/281 ]

『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/969389/1/1

[標題
目次
自序
病院の夜明の物音/1
病室の花/7
電車と風呂/20
丸善と三越/30
自畫像/59
小さな出來事/93
鸚鵡のイズム/124
芝刈/130
球根/150
春寒/165
厄年とetc./173
淺草紙/193
春六題/201
蜂が團子を拵へる話/214
田園雜感/222
アインシュタイン/236
或日の經驗/262
鼠と猫/273
寫生紀行/305
笑/337
案内者/354
斷水の日/372
簔蟲と蜘蛛/385
夢/394
マルコポロから/400
蓄音機/407
亮の追憶/431
一つの思考實驗/453
文學中の科學的要素/479
漫畫と科學/490
『冬彦集』後話 小宮豐隆/499  ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その七) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その七)
「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)周辺

ホトトギス(8巻4号)表紙.jpg

「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972214/1/1

ホトトギス(8巻4号)目次.jpg

「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972214/1/2

(目次)

素盞鳴尊(口繪) / 默語
孫叔敖(口繪) / 默語
我輩は猫である / 漱石/p1~15
新年五題(挿畫) / 默語
占領地の新年/p5~5
朝鮮の新年/p7~7
歩哨の新年/p9~9
陣中の新年/p11~11
病院の新年/p13~13
灰吹日記抄 / 四方太/p15~17
非片々文學 / 虚子/p18~23
影法師/p18~19
茶漬/p20~23
曙光(挿畫) / 朱冠/p19~19
日出(挿畫) / 朱冠/p21~21
北米雜筆 大統領選擧の夕 / 落葉/p23~24
北米雜筆 風聲録 / 逝水/p25~28
北米雜筆 公園まで / 柴舟/p28~29
俘虜の生活(挿畫二葉) / 爲山/p26~27
拾ひ猫 / 小風/p29~31
鮭漁 / 淡月/p31~32
戰死通知 / 蓙村生/p32~33
屠蘇に醉ふて / 虚子/p33~37
こがらし(挿畫二葉) / はしぐち/p34~35
俳體詩 雪 / 五城/p37~39
俳體詩 菊 / 五城/p40~40
俳體詩 童謠 / 漱石/p41~41
俳體詩 蓑虫の歌 / 蜩鳩/p41~41
寒天(挿畫) / はしぐち/p39~39
戰地雜信 戰場の握手 / 蒼苔/p41~43
戰地雜信 陣中凍夜 / 遼一/p43~44
戰地雜信 豫備兵日記抄(二) / 淡紅/p44~47
歳暮(挿畫) / はしぐち/p43~43
蕪村遺稿講義(秋六、二十) / 鳴雪 ; 碧梧桐 ; 虚子/p47~53
連句 歌仙一巻 / 小洒 ; 素泉/p54~55
田舍源氏に付て / 鳴雪/p55~59
豫言者(挿畫) / 朱冠/p57~57
東京俳句界/p60~61
地方俳句界/p61~67
文學界美術界漫言 新曲「浦島」 / 角居 ; 半壺/p67~69
新年雜咏 / 碧童/p69~70
風邪(募集俳句其一) / 鳴雪/p70~71
榾(募集俳句其二) / 碧梧桐/p72~74
征露節(挿畫) / 朱冠/p73~73
蕎麥湯(募集俳句其三) / 碧童 ; 虚子/p75~77
冬の月(挿畫) / 樂堂/p78~78
消息 / 虚子/p78~79
新刊/p79~79
課題/p79~80
淺草寺雜咏 / 四方太/p80~80
冬の朝(裏繪) / はしぐち
附録 仰臥漫録 / 子規/p1~52

(管見)

一 「我輩は猫である / 漱石/p1~15」周辺

吾輩は猫である.jpg

「我輩は猫である / 漱石/p1~15」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972214/1/5

[『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
 中学の英語教師苦沙弥先生の日常と、書斎に集まる美学者迷亭、理学者寒月、哲学者東風らといった明治の知識人たちの生活態度や思考を飼い猫の目を通して、ユーモアに満ちたエピソードとして描いた作品。
 表面的にすぎない日本の近代化に対する、漱石の痛烈な文明批評・社会批判が表れている風刺小説。なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。](「ウィキペディア」抜粋)

[『漱石氏と私』は日本の俳人、高浜虚子が1918年1月(夏目漱石の没したのは1916年12月)に出版した回想録である。漱石から虚子への書簡を紹介し、明治30年から虚子が中心となって発行した『ホトトギス』で漱石が小説家として脚光をあびる前後の経緯などが紹介される。
 漱石の死の直後から執筆され、1917年の『ホトトギス』に7回に亘って連載されたもの他をまとめて出版したもので、後に、1915年の著書『子規居士と余』とともに岩波文庫で『回想 子規・漱石』のタイトルで刊行された。

 『吾輩は猫である』の誕生の経緯としては、ホトトギスの俳人たちの文章会「山会」に虚子の勧めで文章を書くことを求められた漱石は短期間に数十枚の原稿を書き、虚子が推敲して、山会で紹介され「とにかく変わっている。」ということで好評を得た。『ホトトギス』に掲載されると一挙に漱石の小説家の地位が確立され、『ホトトギス』の売り上げを高めた。それまで仲間うちの雑誌の色彩が濃く、殆ど原稿料を払わないで運営されていた『ホトトギス』は、漱石らの執筆者に原稿料を払うようになった。漱石は『ホトトギス』を商業雑誌として発行したほうがよいと考えていたことなども紹介される。](「ウィキペディア」抜粋)

二 「俳體詩 童謠 / 漱石/p41~41」周辺

http://www.compassion.co.jp/column/archive/bungei032

[源兵衛が 練馬村から/大根を 馬の背につけ/お歳暮に 持て来てくれた
源兵衛が 手拭でもて/股引の 埃をはたき/台どこに 腰をおろしてる
源兵衛が 烟草をふかす/遠慮なく 臭いのをふかす/すぱすぱと 平気で
ふかす
源兵衛に どうだと聞いたら/さうでがす 相変らずで/こん年も 寒いと
言った
源兵衛が 烟草のむまに/源兵衛の 馬が垣根の/白と赤の 山茶花を食った
源兵衛の 烟草あ臭いが/ 源兵衛は 好きなぢゝいだ/源兵衛の 馬は悪馬だ

これは「童謡」と題された夏目漱石の作である。明治三十八年「ホトトギス」の一月号に「吾輩は猫である」と共に掲載された。「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)によれば、大正七年に鈴木三重吉が興した「赤い鳥」運動以前の、童謡らしい創作の動きの魁をなす。
「ホトトギス」は明治三十年に正岡子規の友人・柳原極堂が起こした俳句誌で、子規や高浜虚子らが選者となった。子規は連句に否定的であったが、彼の死後、虚子が連句を新体詩とする復興運動を興し、漱石もそれを支持した。雑俳好きの漱石が面白がり、また「ホトトギス」を仲間内の気楽な投稿誌とみなし、連句形式で詩を書いてみたに違いない。漱石はこれを新体詩ならぬ「俳体詩」と命名し、虚子もその名称を使用した。漱石のそれ以前、「童謡」という言葉は全く使用されておらず、子どもの唄は「童(わらべ)唄」と呼ばれていた。 ](「虹の橋文芸サロン アーカイヴ」抜粋)

童謡・夏目漱石.jpg

「童謡」と題する漱石の詩
https://blog.goo.ne.jp/np4626/e/bbc9d894945bb52d99698177a49b9533

三 「消息 / 虚子/p78~79」周辺

 「(前略) 四月十日を以て発刊すべき第八巻第七号は正に一百号に至り候。(後略)とあり、この号は、「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)から数えて、第九十七号ということになる。

(再掲・抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-07

[「吾輩は猫である」(「初出」と「単行本」)

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/syuyo-neko.html

吾輩は猫である・初出と単行本.jpg

(初出)『ホトトギス』 明治38年1月~明治39年8月まで10回にわたり断続的に連載
(単行本)上編 明治38年10月 中編 明治39年11月 下編 明治40年5月 大倉書店・服部書店
≪(内 容)
 猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は「坊っちゃん」とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石(1867-1916)となった。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 東風君、苦沙弥君、皆勝手な事を申候。それ故に太平の逸民に候。現実世界にあの主義では如何と存候。御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼らのいふ所は皆真理に候。しかしただ一面の真理に候。決して作者の人生観の全部に無之故(これなきゆえ)その辺は御了知被下(くだされたく)候。あれは総体が諷刺に候。現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ『猫』中に収め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働きかける所を議論致したくと存候。
(明治39年8月7日 畔柳芥舟あて書簡より)

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけでしまうつもり。またかくまで世間の評判を受けようとは少しも思っておりませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。(中略)
 妙なもので、書いてしまった当座は、全然胸中の文字を吐き出してしまって、もうこの次には何も書くようなことはないと思うほどですが、さて十日経ち廿日経って見ると日々の出来事を観察して、また新たに書きたいような感想も湧いて来る。材料も蒐められる。こんな風ですから『猫』などは書こうと思えば幾らでも長く続けられます。(「文学談」)≫(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」)

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=209617

≪「俳句の五十年(高浜虚子著)」抜粋

 ある時私は漱石が文章でも書いて見たならば気が紛れるだろうと思いまして、文章を書いて見ることを勧めました。私は別に気にも留めずにおったのでありまして、果して出来るか、出来んかも分らんと考えておったのでありました。ところが、その日になって立寄ってみますと、非常に長い文章が出来ておりまして、頗(すこぶ)る機嫌が良くって、ぜひこれを一つ自分の前で読んでみてくれろという話でありました。文章会は時間が定まっておりまして、その時間際に漱石の所に立寄ったのでありましたが、そういわれるものですから止むを得ず私はその文章を読んでみました。ところがなかなか面白い文章であって、私等仲間の文章とすると、分量も多くそれに頗る異色のある文章でありましたから、これは面白いから、早速今日の文章会に持出して読んでみるからといって、それを携えて文章会に臨みました。私がその漱石の家で読んだ時分に、題はまだ定めてありませんでして、「猫伝」としようかという話があったのでありますが、「猫伝」というよりも、文章の初めが「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しでありますから、その「吾輩は猫である」という冒頭の一句をそのまま表題にして「吾輩は猫である」という事にしたらどうかというと、漱石は、それでも結構だ、名前はどうでもいいからして、私に勝手につけてくれろ、という話でありました。それでその原稿を持って帰って、「ホトトギス」に載せます時分に、「吾輩は猫である」という表題を私が自分で書き入れまして、それを活版所に廻したのでありました。
 それからその時分は、誰の文章でも一応私が眼を通して、多少添削するという習慣でありましたからして、この『吾輩は猫である』という文章も更に読み返してみまして、無駄だと思われる箇所の文句はそれを削ったのでありました。そうしてそれを三十八年の一月号に発表しますというと、大変な反響を起しまして、非常な評判になりました。それというのも、大学の先生である夏目漱石なる者が小説を書いたという事で、その時分は大学の先生というものは、いわゆる象牙の塔に籠もっていて、なかなか小説などは書くものではないという考えがあったのでありますが、それが小説を書いたというので、著しく世人の眼を欹(そばだ)たしめたものでありました。そればかりではなく、大変世間にある文章とは類を異にしたところからして、非常な評判となったのでありました。
 それで、漱石は、ただ私が初めて文章を書いてみてはどうかと勧めた為に書いたという事が、動機となりまして、それから漱石の生活が一転化し、気分も一転化するというような傾きになってきたのでありました。それと同時に『倫敦塔』という文章も書きまして「帝国文学」の誌上に発表しました。
 それから『吾輩は猫である』が、大変好評を博したものですから、それは一年と八ヶ月続きまして、続々と続篇を書く、而(しか)もその続篇は、この第一篇よりも遙かに長いものを書いて、「ホトトギス」は殆(ほとん)どその『吾輩は猫である』の続篇で埋ってしまうというような勢いになりました。それが為に「ホトトギス」もぐんぐんと毎号部数が増して行くというような勢いでありました。≫  ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その五) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」周辺

子規追悼集・表紙.jpg

「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972187

(目次)

追懷雜記 / 内藤鳴雪/p1~11
子規の書簡 / 五百木飄亭/p11~14
思ひ出づるまゝ / 阪本四方太/p15~26
寫生文の事 / 阪本四方太/p26~30
短歌會の起り / 香取秀眞/p30~32
墓側 / 河東碧梧桐/p32~43
子規翁 / 佐藤紅縁/p43~53
故人の回想 / 寒川鼠骨/p53~58
子規子の手簡 / 高濱虚子/p58~64,81~113
子規年表/p65~73
子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75
子規病室、糸瓜棚(寫眞版)/p76~76
秋海棠(寫眞版)/p77~77
天下一品 / 倉田萩郞/p77~77
大龍寺門、子規居士墓(寫眞版)/p78~78
短册三枚(寫眞版)/p79~79
自筆碑文(寫眞版)/p80~80
子規君に關する記憶 / 村上霽月/p113~116
六年有餘 / 渡邊香墨/p116~120
子規先生 / 原抱琴/p120~121
子規先生の南岳草花畫卷を得給ひし事 / 鈴木芒生/p121~125
子規先生を追想す / 吉田月我/p125~128
子規先生追懷記 / 山口花笠/p128~133
子規先生に關する記事 / 關縹雨/p133~133
子規先生訪問につきての記 / 奈倉梧月/p133~135
子規先生十三歳の時の書簡 / 仙波花叟/p135~135
遺髪埋葬式の記 / 三山淡紅/p135~137
獺祭書屋主人 / 加藤鹿嶺/p137~140
子規先生を訪ふ / 宮崎梅塘/p141~143
書簡二通 / 松田半粹/p143~144
追悼句/p144~145
東京追悼會/p145~146
地方追悼會/p146~150,152~152
消息 / 虚子記/p152~159
子規居士弄丹靑(木版、挿畫) / 淺井默語/p151~151
八瀨風景(木版、挿畫二枚) / 淺井默語/p153~153
子規庵庭前(表紙) / 下村爲山/p155~155
嵐山風景(裏畫) / 下村爲山

(管見)

一 正岡子規が亡くなったのは、明治三十五年(一九〇二)九月十九日、この「子規追悼号」は、その百箇日に際しての臨時増刊号で、明治三十五年(一九〇二)十二月二十七日に発刊されている。
 子規が亡くなった、その日(九月十九日)の直近の号は、「ホトトギス」(明治三十五年十月十日発刊、第五巻十二号)で、その号の「消息 / 碧梧桐/p附8~附9」は、碧悟桐が記述している。

第五巻十二号.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月十日発刊、第五巻十二号)所収「消息 / 碧梧桐/p附8~附9」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972183/1/22

 続いて、「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)では、表紙なども一新して、その号の「消息 / 虚子/p66~67」は、虚子が記述している。

第六巻一号・表紙.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972184/1/1

第六巻一号・消息.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)所収「消息 / 虚子/p66~67」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972184/1/36

二 「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」周辺

子規肖像(寫眞版).jpg

「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972187/1/39

 この「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」については、「消息 / 虚子記/p152~159」に、「子規子肖像№1~№25」の、それぞれについて、「原写真裏書」が虚子の写生文さながらに記述されている。
 「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」は、「子規子の手簡 / 高濱虚子/p58~64,81~113」・「子規年表/p65~73」・「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」・「子規病室、糸瓜棚(寫眞版)/p76~76」・「秋海棠(寫眞版)/p77~77」、そして、この「消息 / 虚子記/p152~159」と、「ホトトギス・編集発行人」の「高浜清(虚子)」による「子規追悼集」と解して差し支えなかろう。

三 河東碧梧桐の『子規言行録(政教社版)』と『子規の回想( 昭南書房版)』周辺

子規言行録.jpg

河東碧梧桐の『子規言行録(政教社版)』(標題)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172653/1/3

(目次)

一藝に秀でだる人 陸羯南/1
正岡さん 陸てつ子/7
子規と病氣 宮本仲/10
追懷雜記 内藤鳴雪/17
嗚呼子規 五百木飄亭/38
思ひ出すまゝ 佐藤肋骨/69
追懷斷片 中村不折/83
子規氏の繪 下村爲山/94
日本新聞に於ける子規君 古島一念/97
日本新聞時代餘錄 古島一念/117
余が見たる正岡子規子 末永鐵巖/126
子規の少年時代 三並良/141
子規を偲ぶ 三並良/161
子規の舊事 太田正躬/173
正岡君 大谷是空/176
正岡子規 夏目漱石/185
豫備門時代の子規 菊池仙湖/192
多くの崇拜者 藤井紫影/197
不滅の子規 得能秋虎/203
夏の日のあつもり 西芳菲/206
子親居士の古い時代の句を讀む 高濱虛子/209
思ひ出づるまゝ 阪本四方太/226
寫生文のこと 阪本四方太/250
吾家の子規居士 石井露月/257
子規翁 佐藤紅綠/287
師影六尺 佐藤紅綠/304
絲瓜棚の下にて 佐藤紅綠/315
看病番と子規庵の庭 寒川鼠骨/327
同級生時代より句を學ぶまで 柳原極堂/356
子規君に關する記憶 村上霽月/370
散策集に就て 村上霽月/377
十句集のことゞも 大谷繞石/380
先師の晚年 赤木格堂/408
升さんと食物 河東碧梧桐/454
竹の里人 伊藤左千夫/470
正岡先生の塑像 香取秀眞/500
短歌會の起り 香取秀眞/514
正岡先生の追憶 岡麓/518
追憶記 森田義郞/533
先生と自分 長塚節/545
杜工部集 福田把栗/565
卅四年の新年會 川島奇北/566
三十三年前の事 中村樂天/568
子規先生追懷記 山口花笠/572
六年有餘 渡邊香墨/583
子規先生 原抱琴/592
師長を以て居らす 阪井久良伎/595
觀月の宴 大橋約房/602
鐵意志 磯野飽翁/606
子規の印象 永田靑嵐/609
明治卅二年の頃 寺田寅日子/613
子規先生を訪ふ 宮崎梅塘/618
子規生先訪問に就きての記 奈倉梧月/623
子規先生を追想す 吉田月我/627
先生の南岳草畵卷を得給ひし事 鈴木芒生/633
雜誌「俳諧」を發刊するまで 伊藤松宇/642
思ひ出すまゝ 安江不空/646
頂い陀短册とお寫眞 原千代女/651
二番町の家 久保より江/657
幼少時 正岡八重子/663
始めて上京した當時の子規 藤野磯子/669
家庭より見たる子規 正岡律子/682
附錄
絕筆 碧梧桐/715
終焉 虛子/719
筆者列傳/725
編輯後記 河東碧梧桐/733

 この『子規言行録(政教社版)』所収の「絕筆 碧梧桐/715」と「終焉 虛子/719」とが、子規の終焉記の、その「絶筆三句」周辺の克明なる、子規その人が推奨した「写生文」(そして「山」のある「山会」の記述文)と解することも出来よう。

[ 十八日の朝の十時頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。やがて例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審しながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ糸瓜咲て
とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて
 痰のつまりし
まで又た一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに
 佛かな
と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ
 痰一斗糸瓜の水も
と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ
 間に合わず
と書いて、矢張投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに
 を?ひのへちまの
と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「?」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ
 水の
と書いて
 取らざりき
はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。(明治丗五年九月) 」(「絕筆 碧梧桐/715」=「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172653/1/370

子規・絶筆三句.jpg

https://yeahscars.com/kuhi/hechimanomizu/

 これに続く、「終焉 虛子/719」は、次のようなものである。

[ 九月十八日午前十一時頃、碧梧桐の電話に曰く子規君今朝痰切れず心細き故呼べとの事なり直ぐ来い、と。来て見れば昏睡中なり。碧梧桐の話に、ろくろく談話も出来ず、陸より使来りて余の来たりし時は、母君医者を呼びに行かれたる留守なりしが、「高浜もお呼びや」と一言いわれたるまま電話をかけたるなり。帰りて後自ら筆を採り、例の板に張りたる紙に

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとヽひのへちまの水も取らざりき

という三句を認められたり。それより柳医来り痰の切れる薬をくれて帰りたる由。また柳医の話に、国許に親戚でもあるならば「病重し」という位の電報は打ち置く方宜しかるべしとの事なりし由なるも、碧梧桐と相談の上、嘗て加藤氏の話もありし事とて、今少し様子を見てからの事に決す。

○三並、鷹見に端書にて模様悪しき由報知す。
○秀眞来る。去る。
○鳥堂来る。去る。
○午後五時前目覚め苦痛甚だしき様子、モヒ頓服、なお安静を得ず。五時半宮本医来診、胸部に注射、それより再び昏睡。
○昨日は一度粥を食いたる由、その後はレモン水のほか殆ど飲用せず。本日は陸より貰いしおもゆ少しばかりのほか滋養物喉を通らず。
○夕刻おまきさん、加藤令閨来る。去る。

○午後六時過ぎ碧梧桐去る。「ホトトギス」の校正を了せんがため。
○午後七時過ぎ鼠骨来る。おしづさん来る。
○午後八時前目覚め、「牛乳を飲もうか」という。ゴム管にてコップに一杯を飲む。「だれだれが来てお居でるのぞな」と聞く。妹君、「寒川さんに清さんにお静さん」と答う。直ちにまた昏睡。
○大原恒徳氏に手紙を出す。(以上十八日夜虚子生記)
○鷹見令閨来る。
○母君に大原へ打電をいかがすべきか相談せしところ、昨日病人も「大原へは電報を打とうか」など申し居りたれば打ってくれとの事。直ちに「シキヤマイオモシ」と打電す。
○子規子熟睡の状なお続く。鷹見氏令閨と母君と枕頭に残り、余と妹君と臥す。
○時々常に聞き慣れたる子規君のウーンウーンという声を聞きつつうとうとと眠る。
○暫くして枕元騒がしく、妹君に呼び起さるるに驚き、目覚め見れば、母君は子規君の額に手を当て、「のぼさん、のぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令閨も同じく「のぼさん、のぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁《わきま》えず同じく、「のぼさん、のぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額また僅かに微温を存ずるのみ。時に十九日午前一時。
○妹君は直ちに陸氏に赴き電話にて医師に報ず。
○余は碧梧桐を呼ばんがため表に出ず。十七日の月には一点の翳も無く恐ろしきばかりに明かなり。碧梧桐を呼び起して帰り見れば陸翁枕頭に在り。母君、妹君、鷹見令閨、子規をうち囲みて坐す。
○本日医師来診の模様にては未だ今明日に迫りたる事とは覚えず、誰も斯く俄《にわか》に変事あらんとは思いよらざりし事とて、兼ねて覚悟の事ながらもうち騒ぎなげく。
○碧梧桐来る。本日校正の帰路、非常に遅くなり且つ医師の話になお四五日は大丈夫のよう申し居りし故、今夜病床に侍せず、甚だ残念なりとて悔やむ。
○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。ただ余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさえ見たれば同じくやや微温を感ずるばかりなりしに始めてうち驚きたるなりと。
○陸令閨来る。
○陸翁、碧梧桐と三人にて取敢えず左の事だけ極める。
 一、土葬の事    一、東京近郊に葬ること
 一、質素にする事  一、新聞には広告を出さぬ事
 一、国許の叔父上には打電して上京を止める事
○陸翁同令閨去る。
○碧梧桐と両人にて打電先、ハガキ通知先等調べる。
○夜明けば至急熊田へ行きホトトギスへ子規子逝去の広告を間に合わす事にする。
○陸氏令閨来る。おまきさん来る。
○おしづさん、茂枝さん来る。
○夜ほのぼのと明ける。    (以上十九日朝虚子記) ]
http://www.sakanouenokumo.com/siki_syuuen.htm

 ここに、昭和十九年(一九四四)に刊行された『子規の回想』(河東碧悟桐著)所収の「二十八 辭世/465」や「二十九 死後/471」などを重ね合わせたい。

[『子規の回想』(河東碧悟桐著)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1069377

目次
一 木入れ/3
二 詩會/7
三 其戎宗匠/11
四 野球/14
五 處女作/17
六 七草集/25
七 寄宿舍生活/29
八 三つの會稿/44
九 小説會/54
十 廻轉期/61
十一 月の都創作前後/68
十二 痛切な體驗/88
十三 渡し守/93
十四 三津のイケス/113
十五 松山競吟集/123
十六 一家二十句/128
十七 一家移集/146
十八 運座月並/158
十九 煙草の烟/162
二十 果て知らずの記の旅/170
二十一 吉田のしぐれ/178
二十二 寫生/182
二十三 二高退學/186
二十四 暗澹たる首途/191
二十五 非風の家/201
二十六 從軍前後/206
二十七 古白の死/216
二十八 子規歸神/223
二十九 漱石と子規/227
三十 病後の焦燥/229
附録
一 母堂の談片/237
二 のぼさんと食物/242
三 家庭より觀たる子規/255
續編
一 當時の新調/283
二 厄月/297
三 古白遺稿/302
四 カリエス手術/306
五 新俳句/311
六 蕪村忌/315
七 十句集/320
八 徹夜/327
九 蕪村句集輪講/336
十 百中十首/341
十一 車上旅行/348
十二 「ほととぎす」東上/355
十三 三十一年の俳句界/364
十四 我が病/367
十五 俳句講習/375
十六 興津轉居/381
十七 山會/387
十八 神田猿樂町/393
十九 庭/396
二十 室内/405
二十一 月並論/410
二十二 人生觀/420
二十三 風板/425
二十四 最後の二事業/434
二十五 繪を描く/445
二十六 仰臥漫録/450
二十七 意外なる祕事/454
二十八 辭世/465
二十九 死後/471
餘録
一 子規自叙傳/483
二 嗜好/485
三 癖/488
四 筆跡/489
五 遊戲氣分/491
六 白眼/493
七 財布/495
八 芋阪團子/497
九 子供/498
十 選句殘稿/499    ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その四) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その四)
「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)周辺

ほとゝぎす第二巻第一号表紙.jpg

「ほとゝぎす第二巻第一号=(第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133

ほとゝぎす第二巻第一号目次.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/2

(目次)

口繒 豊年/下村爲山
口繒 菌狩/中村不折
社告/p1~1
祝詞/内藤鳴雪/p1~1
ほとヽきす第二卷第一號の首に題/某/p1~2
古池の句の辯/獺祭書屋主人/p2~7
蕪村句集講義/鳴雪 ; 子規 ; 碧梧桐 ; 虚子 ; 墨水/p7~15
俳諧無門關/俳狐道人/p15~18
雜話/坂本四方太/p18~20
小園の記/正岡子規/p20~24
土達磨を毀つ辭/正岡子規/p24~25
淺草寺のくさ[グサ]/高濱虚子/p25~28
募集俳句 蜻蛉/子規/p28~32
募集俳句 螽/四方太/p32~34
募集俳句 きり[キリ]す/霽月/p34~37
募集俳句 蚯蚓鳴/虚子/p37~40
東京俳况/p41~41
各地俳况/p42~45
夜長の欠び/五百木飄亭/p45~47
文學美術漫評/白雲 ; 九鳥山人 ; ねずみ/p47~50
新體詩(四篇)/p50~51
和歌(十九首)/碧梧桐 ; 竹の里人/p51~52
俳句(四十句)/p52~53
秋十二時/p53~54
朝顔句合/子規判 ; 碧梧桐 ; 虚子/p54~56
附録 俳句分類/獺祭書屋主人/附の1~附の4

(管見)

一 明治三十一年(一八九八)十月十一日発行の「ほととぎす」(第二巻第一号=二十一号)こそ、発行所を東京に移して、「発行兼編輯(集)人 高浜清」と、若干二十四歳の「高浜虚子」のデビュー号ということになる。
 その「高浜虚子略年譜」には、次のように記述されている。

[明治三十一年(一八九八) 二十四歳
一月、根岸子規庵で、子規・鳴雪・碧悟桐らと蕪村輪講を始める。「萬朝報」社に入社。三月、長女眞砂子が誕生。六月、「萬朝報」社を辞職。十月、子規の協力で「ホトトギス」を東京に移して編集・発行人となる。「浅草寺のくさぐさ」を「ホトトギス」に連載、人気を博し、これより写生文の名が起こる。十一月、母柳死亡。十二月、神田猿楽町二十五番地に移転。](「現代俳句の世界一 高浜虚子」所収「高浜虚子略年譜(構成・斎藤慎爾)」)

ほとゝぎす第二巻第一号奥付.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)奥付
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/38

浅草寺くさぐさ.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)所収「浅草寺のくさぐさ(虚子生)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/17

二 「淺草寺のくさ[グサ]/高濱虚子/p25~28」周辺

[写生文の嚆矢は1898年10月、『ホトトギス』第2巻第1号から分載された高浜虚子の随筆「浅草寺のくさぐさ」、同号に掲載された正岡子規の随筆「小園の記」「土達磨を毀つ辞」などにあったとされている。この号は『ホトトギス』が虚子の経営となり、発行所が松山から東京に移ったのちの最初の号であり、これらの随筆は『ホトトギス』編集の中心を担っていた子規と虚子が互いに相談した上で掲載したものと見られる[2]。同年8月に松山から出た『ホトトギス』第1巻20号では、子規は発行所を東京へ移すということに触れ、今後は俳論・俳評・俳句だけでなく俳文や和歌・新体詩なども掲載すると書いており、上記の随筆は新しい俳文を作るという意識のもとで書かれたものだということが窺える。

上記の随筆のうち、「浅草寺のくさぐさ」は虚子が鉛筆と手帳を持って浅草寺に出かけ、実際の境内の情景を観察しつつ文章によって描写したもの、「小園の記」は子規が自宅の庭の様子を描出した随想である。いずれもまだ文語体で書かれているが、当時はちょうど、1890年頃から一時勢いを弱めていた言文一致運動が活気を取り戻してきた時期であり、子規も口語体が文語体よりも事物を詳しく描写するのに向いていることを認め、『ホトトギス』にも間もなく口語体によるこのような写生文が載り始めた。ただし、このような文に対し「写生文」という名称が定着するのは子規の晩年頃であり、当初は「美文」「小品文」「叙事文」などと呼ばれている。

1900年1月からは『日本』紙に子規の文章論「叙事文」が3回にわたって掲載され、「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」などとして自分の求める文章像を明らかにした。またこの前年ころより病床の子規を囲んでの文章会が始まっており、俳人や歌人が集まって互いに文章を練るようになった。この文章会は1900年に「文章には山(中心点)がなければならぬ」という子規の言葉によって「山会」と名付けられ、子規の病没(1902年)後も続けられた。この「山会」は『ホトトギス』の伝統となっており、何度かの中断を経て現代においても開催されている]。
(「ウィキペディア」抜粋)

三 「蕪村句集講義/鳴雪 ; 子規 ; 碧梧桐 ; 虚子 ; 墨水/p7~15」周辺

蕪村句集講義.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)所収「蕪村句集講義(九)(子規記)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/8

子規年譜・明治三十・三十一年.jpg

「正岡子規略年譜」(明治三十一年・三十二年)
http://teamsumi2007.web.fc2.com/nenpyou.htm

 ここで、正岡子規の「蕪村句集講義」そして「蕪村句集輪読会」というのは、明治三十年(一八九七)の、柳原極堂の愛媛(松山)での「ホトトギス(旧)」創刊、そして、明治三十一年(一八九八)の、高浜虚子の江戸(東京)へ発行所を移して「ホトトギス(新)」へとの、その移行と深く関わっていることが読み取れる。

四 「ほととぎす(第一巻第一号)から同(第二巻第一号)」周辺

ホトトギス記念号一.jpg

「ホトトギス」記念号の表紙絵と原画(「第一巻第一号)」から「五百号」」)
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/1300/01.htm

[今年四月で、高濱虚子・年尾・汀子、三代の主宰による月刊俳句雑誌「ホトトギス」が一三〇〇号を迎えます。日本で最も古い、明治三十年一月創刊のこの雑誌は、もともと俳句革新に奮闘する子規を応援し、地元松山の郷党達の勉強の場を提供するために、柳原極堂が独力で編輯し、松山で発行したものでした。発行部数三百では経営できず、極堂は子規に助けを求めます。そして翌三十一年十月、兄から借りた三百円で出版権を極堂から買い取った虚子が発行人となり、東京から「ホトトギス」を出版しました。これが表紙絵・口絵を施された、二十一号です。千五百部刷って即日完売し、追加で五百部刷り直しています。以後「ホトトギス」の販売部数は、小説ブームによる文芸雑誌化や戦争による景気の変動、虚子の病気等の影響を受けて何度も浮沈を繰り返します。ここに陳列した記念号のみを見ても、頁数や内容が極端に異なり、各々の時代を反映させていることが窺えます。]([「ホトトギス」一三〇〇号記念展]抜粋)
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「俳誌・ホトトギス」管見(その三) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)周辺

ホトトギス(第二十号)表紙.jpg

「ホトトギス(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/1

ホトトギス(第二十号)目次.jpg

「ホトトギス(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)目次と「發行所を東京へ遷す事/
獺祭書屋主人/p1~2」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/2

(目次)

發行所を東京へ遷す事/獺祭書屋主人/p1~2
雜話/四方太/p3~5
雜感/子規/p5~7
輪講摘録(八)/子規/p7~12
大阪消息/別天樓/p12~12
松江便り/羽風/p12~13
投寄俳句(夏)/p13~14
仝(秋)/p14~15
報告/p16~16
課題俳句七夕/子規/後1~後3
課題俳句踊/碧梧桐/後3~後5
課題俳句相撲/四方太/後5~後8
購讀者諸君に告ぐ/後8~後9
課題 其他/後9~後10
俳句分類/獺祭書屋主人/付1~付4

(管見)

一 「發行所を東京へ遷す事/獺祭書屋主人/p1~2」は、「伊予(愛媛)・松山の柳原極堂の
編集・刊行する『ほとゝぎす』」から、「東京(子規の「根岸庵)の意を受けての、東京在住
の愛弟子の一人高浜虚子(東京神田錦町一丁目十二番地の「虚子宅」)=編集・発行人)」へ
と「遷(うつ)す事」の、その宣言でもあった。

「購讀者諸君に告ぐ」.jpg

「購讀者諸君に告ぐ/後8~後9」と「課題 其他/後9~後10」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/14

二 編集・発行人が「柳原極堂(正之)」の「ほとゝぎす」は、この「ホトトギス(第二十
号)」(明治三十一年・1898/八月号)をもって終刊となり、次号以下の編集・発行人は「高
浜虚子(清)」と代替わりすることになる。これらのことについては、高浜虚子の自伝の
『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』や『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』の、
「ホトトギスの創刊」に記述されている。

『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』所収「ホトトギスの創刊」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1128476/1/65
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128476/1/66

『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』所収「ホトトギスの創刊」

ホトトギス・虚子発刊.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/31
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/32
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/33

三 これらの『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』所収「ホトトギスの創刊」そして『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』所収「ホトトギスの創刊」(「国立国会図書館デジタルコレクション)は、「『定本/高浜虚子全集/毎日新聞社刊』所収「第十三巻/自伝・回想集」には、次の通りに収載されている。

http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-619.html

[第13巻 自伝 回想集 1973.12.20
 
俳句の五十年…………………………………11
序……………………………………………13

虚子自伝…………………………………… 135
西の下…………………………………… 137
松山……………………………………… 142
京都……………………………………… 146
仙台……………………………………… 154
文芸に遊ぶ……………………………… 157
ホトトギス発行………………………… 161
子規の死………………………………… 163
文章……………………………………… 165
鎌倉……………………………………… 167
十一年間………………………………… 170
九年間…………………………………… 174
その後の十六年間……………………… 176
小諸……………………………………… 178

子規居士と余……………………………… 181
子規子終焉の記…………………………… 247
秋闌………………………………………… 251
正岡子規と秋山参謀……………………… 261

漱石氏と私………………………………… 271
序………………………………………… 273
漱氏と私……………………………… 275
京都で会つた漱石氏…………………… 366

俳談抄……………………………………… 375
中川四明・草間時福…………………… 377
私の東京に出た時分…………………… 377
鴎外……………………………………… 377
私の句日記……………………………… 378
ホトトギスの弱味が強味……………… 379
乙字……………………………………… 381
月並……………………………………… 381
島村元…………………………………… 382
女流作家………………………………… 382
坂本四方太……………………………… 383
松瀬青々………………………………… 385

虚子自伝 抄……………………………… 387
序………………………………………… 389
国民文学欄……………………………… 391
椿の苗木………………………………… 395
松山の方言……………………………… 398
太田の渡し……………………………… 400
刀刄段々壊……………………………… 402
小諸……………………………………… 404

*校異篇…………………………………… 410
本文校異……………………………… 411
初出一覧……………………………… 434
訂正一覧……………………………… 437
*解題(小瀬渺美)……………………… 441
*解説(松井利彦)……………………… 451   ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その二) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)周辺

ほとゝぎす(創刊号)表紙.jpg

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/1

ほとゝぎす(創刊号)目次.jpg

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/2

(目次)

老梅居漫筆 / 鳴雪/p1~2
菫物語 / 半壺生/p3~3
俳諧反故籠 / 獺祭書屋主人/p4~4
俳諧雑誌の發刊を祝して卑見を述ぶ / 五洲生/p5~5
ほととぎすの發刊を祝す / 子規子/p7~7
ほととぎす出づ / 碧梧桐/p8~8
子規の出世を祝す / 飄享/p8~8
極堂詞兄足下 / 空世生/p8~8
ほととぎす發刊祝句/p9~9
當地近頃の俳况 / 駿臺隱士/p9~10
ほととぎすの發刊の辭/p11~12
課題俳句(時雨、千鳥、蒲團) / 子規選/p13~13
課題俳句( 時雨、千鳥、蒲團 ) / 鳴雪選/p22~30
冬季俳句( 混題 )/p31~31
新年俳句( 混題 )/p32~32
河東碧梧桐 / 越智處之助/p33~37

(管見)

一 明治三十年(1897)、虚子、二十三歳。一月、「柳原極堂」が松山で「ほとゝぎす(ホトトギス)」を創刊。発行所は、松山市大字立花町五十番地、当時の極堂の家である。その誌名は「正岡子規」の「子規」の雅号に由来する。表紙は、「下村為山」の筆で「ほとゝき須」と書かれている。

[柳原極堂( やなぎはら-きょくどう)
 1867-1957 明治-昭和時代の俳人,新聞人。
慶応3年2月11日生まれ。正岡子規にまなび,明治30年郷里の松山で「ほとゝぎす」を創刊,翌年同誌を高浜虚子にゆだねる。伊予日日新聞社長などをつとめたのち上京,昭和7年「鶏頭」を創刊,主宰。17年帰郷し,子規の研究と顕彰に専心した。昭和32年10月7日死去。90歳。本名は正之。著作に「友人子規」,句集に「草雲雀」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[下村為山 (しもむら-いざん)
 1865-1949 明治-昭和時代の画家,俳人。
慶応元年5月21日生まれ。明治15年上京して本多錦吉郎,小山正太郎に洋画をまなび,正岡子規と知りあって俳句を研究。俳画家として知られた。昭和24年7月10日死去。85歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。名は純孝。別号に雀廬,冬邨など。作品に「慈悲者之殺生図」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

二 「俳諧反故籠 / 獺祭書屋主人/p4~4」の「獺祭書屋主人」は「正岡子規」、「老梅居漫筆 / 鳴雪/p1~2」の「老梅居」は「内藤鳴雪」、「菫物語 / 半壺生/p3~3」の「半壺生」は「高浜虚子」、「ほととぎす出づ / 碧梧桐/p8~8」の「碧梧桐」は「河東碧梧桐」、そして、「子規の出世を祝す / 飄享/p8~8」の「飄享」は「五百木飄亭」の号である。

[正岡子規( まさおか-しき)
 1867-1902 明治時代の俳人,歌人。
慶応3年9月17日生まれ。明治25年日本新聞社入社,紙上で俳句の革新運動を展開。28年以降は病床にあり,30年創刊の「ホトトギス」,31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ,短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。野球の普及にも貢献,平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。明治35年9月19日死去。36歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。帝国大学中退。本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人,竹の里人。著作に句集「寒山落木」,歌集「竹乃里歌」,ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[内藤鳴雪( ないとう-めいせつ)
 1847-1926 明治-大正時代の俳人。
弘化(こうか)4年4月15日生まれ。伊予(いよ)松山藩士の子。文部省参事官をへて旧藩主設立の常盤会(ときわかい)寄宿舎監督。舎生の正岡子規にまなび,子規没後も日本派の長老として活躍した。大正15年2月20日死去。80歳。江戸出身。本名は素行。別号に南塘,老梅居。句集に「鳴雪句集」,著作に「鳴雪自叙伝」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

〔高浜虚子( たかはま-きょし)
 874-1959 明治-昭和時代の俳人,小説家。
明治7年2月22日生まれ。中学時代から正岡子規に師事。明治31年「ホトトギス」をひきつぐ。一時小説や写生文をかいたが大正2年俳句に復帰。客観写生,花鳥諷詠(ふうえい)をといて俳句の伝統擁護につとめた。昭和29年文化勲章受章。芸術院会員。昭和34年4月8日死去。85歳。愛媛県出身。旧姓は池内。本名は清。句集に「虚子句集」「五百句」,小説に「俳諧師」「柿二つ」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[河東碧梧桐 (かわひがし-へきごとう)
 1873-1937 明治-昭和時代前期の俳人。
明治6年2月26日生まれ。高浜虚子とともに正岡子規にまなび,新聞「日本」の俳句欄の選者をひきつぐ。のち新傾向俳句運動をおこし,中塚一碧楼(いっぺきろう)らと「海紅」を創刊,季題と定型にとらわれない自由律俳句にすすむ。大正12年「碧(へき)」,14年「三昧(さんまい)」を創刊。昭和12年2月1日死去。65歳。愛媛県出身。本名は秉五郎(へいごろう)。作品に「碧梧桐句集」,紀行文に「三千里」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[五百木飄亭 (いおき-ひょうてい)
 1871-1937 明治-昭和時代前期のジャーナリスト,俳人。
明治3年12月14日生まれ。22年上京し,同郷の正岡子規らと句作にはげむ。28年日本新聞社にはいり,34年「日本」編集長。昭和3年政教社にうつり,「日本及日本人」を主宰。大アジア主義をとなえた。昭和12年6月14日死去。68歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。俳号は飄亭(ひょうてい)。著作に「飄亭句日記」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

ほととぎす發刊祝句.jpg

「ほととぎす發刊祝句/p9~9」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/7

三 「ほととぎす發刊祝句/p9~9」に、虚子の次の句が収載されている。

 時雨木枯のあれあれて生(あ)れ出しもの(「松山に於て「ほととぎす」を発刊。祝句(明治三十年)」) (「現代俳句の世界一 高浜虚子」所収「慶弔贈答句」)

ほとゝぎ第一号諸新聞表と奥付.jpg

「ほとゝぎ第一号諸新聞表と奥付」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/22

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「俳誌・ホトトギス」管見(その一) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)周辺

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863

[(目次)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2
弔詞/六家/p7~12
父の病床八日間/年尾/p13~17
虚子先生の御病気/田中憲二郎/p17~22
御祖父様の枕許で/坊城中子/p22~24
虚子先生のデスマスク/上村占魚/p24~26
四月九日と十一日/福田蓼汀/p26~27
壽福寺―火葬場―原ノ臺/伊藤柏翠/p27~29
本葬/深川正一郞/p29~35
御埋葬の記/京極杞陽/p36~36
虚子追憶/岩木躑躅 ; 飯田蛇笏 ; 富安風生 ; 中田みづほ ; 高野素十 ; 阿波野靑畝 ; 山口誓子 ; 柴田宵曲 ; 上林白草居 ; 齋藤俳小星 ; 酒井默禪 ; 大橋越央子 ; 佐藤漾人 ; 日原方舟 ; 鈴鹿野風呂 ; 河野靜雲 ; 奈良鹿郞 ; 田村木國 ; 丹治蕪人 ; 三木朱城 ; 三溝沙美 ; 大岡龍男 ; 江川三昧 ; 安田蚊杖 ; 加賀谷凡秋 ; 川田十雨 ; 大橋櫻坡子 ; 岡田耿陽 ; 久米幸叢 ; 五十嵐播水 ; 森川曉水 ; 皆吉爽雨 ; 柏崎夢香 ; 宇津木未曾二 ; 竹末春野人 ; 上野靑逸 ; 大橋杣男 ; 岡崎莉花女 ; 藤岡玉骨 ; 松尾靜子 ; 小山白楢 ; 矢野蓬矢 ; 木村杢來 ; 今井つる女 ; 景山筍吉 ; 京極杞陽 ; 遠藤梧逸/p37~99
句佛師の五句/高濱虚子述/p100~102
父の最後の句について/年尾/p103~103
春雷/高濱年尾/p104~105
春嵐/佐藤漾人/p105~106
壽福寺/池內たけし/p106~108
巷に拾ふ/大岡龍男/p108~110
目/眞下喜太郞/p110~111
その前後/深川正一郞/p111~112
日記/下田實花/p112~114
隨問・隨答/眞下喜太郞/p114~116
雜詠/年尾選/p117~162
雜詠句評/靜雲 ; 敏郞 ; 杞陽 ; 木國 ; けん二 ; 蓬矢 ; 風人子 ; 莫生 ; 年尾/p163~165
「句會と講演の會」選句/年尾 ; 立子/p166~166
句日記/虚子(遺稿)/p168~168
句帖/年尾/p168~168
消息/年尾 ; 東子房記/p167~167   ]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真一(昭和三十四年四十七日撮影・本葬祭壇)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その二.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真二(昭和三十四年四月一日撮影・俳小屋の虚子)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/3

(管見)

一  弔詞/六家/p7~12
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/4

文部大臣       橋本龍伍
日本芸術院長     高橋誠一郎
日本文芸家協会代表  山本健吉
愛媛県知事      久松定武
(※友人総代)     安倍能成
(全国弟子門代表)   岩本躑躅

 上記の「弔詞/六家/p7~12」のうち、「安倍能成」の肩書は、下記の「葬儀(本葬)通知」からして、「友人総代」としてのものであろう。安倍能成は明治十六年(一八八三)生まれ、高浜虚子は明治七年(一八七四)生まれ、そして、松根東洋城は明治十一年(一八七八)、この三人は、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)の、同窓の三人ということになる。

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その三.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「本葬/深川正一郞/p29~35」

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号四.jpg


虚子追悼号その五.jpg

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6066/
[高浜虚子(たかはま /きょし)
生没年 明治7年2/22日 〜 昭和34年4月8日(1874年2月22日 〜 1959年4月8日)/出身地 愛媛県/ 職業・身分文学者/ 別称 清(本名)
解説/
俳人、小説家。中学時代、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り、後に上京して碧梧桐とともに子規の俳句革新を援ける。明治31(1898)年松山で刊行されていた『ホトトギス』を引き継いで経営、子規の写生主義を散文に生かした写生文も開拓した。38(1905)年に夏目漱石の『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載、その影響で自らも小説家を志し、『風流懺法』(1907)等を発表。大正元(1912)年俳壇に復帰、十七音・季題を守った写生句を説く。昭和2(1927)年からは日本回帰の特色を持つ「花鳥諷詠」論を提唱し、生涯この信条を貫いた。29(1954)年文化勲章受章。]

https://www.cosmos-network.jp/cosmos_collection/32871/

深川正一郎.jpg

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/82/view/14586
[深川正一郎(1902~1987)
 俳人。宇摩郡上山村(現、四国中央市新宮町)出身。大正13(1924)年、上京して文藝春秋社に入社、その後、日本コロンビアに入るが、このとき高浜虚子の俳句朗読のレコード制作を企画実施し、その際に虚子の知遇を得て師事した。昭和21(1946)年より虚子の遺訓に従い終生俳句一筋に生き、『ホトトギス』の中心的な存在となった。温厚な人柄で句風も穏やかで巧みであった。連句実作者としても知られている。また、句作と併行して380篇にも及ぶ写生文を書いた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より) ]

虚子追悼号その六.jpg

https://sumus.exblog.jp/13211828/
[『彷書月刊』5月号が届いた。松尾邦之助特集とはシブい。しかし松尾邦之助は面白い。ジャーナリスト流の文章はやや物足りないところもあるものの、激動の実際面を広く見聞したというところに強みがある。パラパラやっていてこの写真が目にとまった。『フランス・ジャポン』四巻二〇号(日仏同志会、一九三六年五・六月号)掲載で高浜虚子夫妻がパリを訪れたときの記念写真。
 前列左から二番目が高浜虚子。後列右から二人目が松尾邦之助。その松尾の隣、向って右端が池内友次郎(いけのうちともじろう)。虚子の次男として東京に生まれ、慶應義塾大学予科中退の後、一九二七年にフランスに渡りパリ音楽院に入学した。作曲家・音楽教育家であり俳人でもある。]


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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その十 [東洋城・豊隆・青楓]

その十「俳誌・渋柿(1000号/平成9・8)・一千号記念号」

俳誌・渋柿(1000号)表紙.jpg

「俳誌・渋柿(1000号/平成9・8)・一千号記念号」表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076

東洋城のスナップ五.jpg

「晩年の東洋城先生・於鶴翼楼」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/3

(目次)

渋柿一千号を祝す / 米田双葉子/p10~10
渋柿創刊一千号を迎えて / 松岡潔/p11~11
初夏 / 米田双葉子/p12~12
巻頭句 / 米田双葉子/p13~51
選後寸言 / 米田双葉子/p52~53
六月号巻頭句鑑賞 / 赤松彌介/p54~55
<特集>先人の思い出/p56~56
孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67
七人の侍 / 野口里井/p68~72
巨星塔の俳句指導 / 池川蜩谷/p72~73
俳諧道場回顧 / 渡部抱朴子/p73~76
小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78
忘れ得ぬ人々 / 中須賀玉翠女/p78~79
修道士竹田哲の渋柿俳句 / 安江眞砂女/p79~80
伊香保の東洋城先生 / 大島麦邨/p81~82
喜舟先生と千鳥句会 / 田原玉蓮/p82~83
松岡凡草さんを懐う / 中小路梅支/p83~84
佐伯松花先生の思い出 / 豊竹春野/p84~85
一千号記念論文・随筆/p86~101
渋柿俳句の本質と写生について / 石丸信義/p86~88
第一渋柿句集その他より / 小島夕哉/p88~91
随想 / 武智虚華/p92~92
心境俳句について / 松岡潔/p93~99
城師の遺言 / 須山健二/p100~101
渋柿一千号記念全国大会/p102~111
渋柿一千号記念全国大会の記 / 栃木光歩/p102~106
一千号大会に参加して / 豊竹春野/p106~107
えにし / 竹下須磨/p107~107
所感 / 牧野寥々/p108~108
一千号大会祝宴にて / 小島夕哉/p109~111
渋柿年譜 / 米田双葉子/p112~112
記念号一覧表 / 中須賀玉翠女/p113~113
<参考資料>城師百詠絵短冊の意義由来/p113~114
句碑のある風景--渋柿関係者句碑一覧/p115~127
尾崎迷堂句碑 / 小島夕哉/p127~128
塩原にある東洋城の句碑 / 池澤永付/p128~128
句碑のある風景 / 大島麦邨/p128~130
自句自註 最高顧問・代表同人・課題句選者/p131~142
作句あれこれ(八十四) / 米田双葉子/p143~143
課題句<夏野> / 石丸信義/p144~148
各地例会/p149~159
巻頭句添削実相抄/p160~160
歌仙/p161~161
明易き / 徳永山冬子/p162~162

(「渋柿年譜」)

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

「渋柿年譜 / 米田双葉子/p112~112」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/58

(「渋柿」記念号一覧)

渋柿(六〇二号.jpg

「記念号一覧表 / 中須賀玉翠女/p113~113」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/58


※「渋柿年譜」周辺

大正四年(一九一五) 二月、「渋柿」(東洋城主宰)創刊。東洋城、三十八歳。
同十一年(一九二二)九月、「渋柿」(東洋城主宰)百号。東洋城、四十五歳。
昭和六年(一九三一)一月、「渋柿」(東洋城主宰)二百号。東洋城、五十四歳。
昭和十四年(一九三九)四月、「渋柿」(東洋城主宰)三百号。東洋城、六十二歳。
昭和二十二年(一九四七)八月、「渋柿」(東洋城主宰)四百号。東洋城、七十歳。
※※昭和二十七年(一九五二)一月、東洋城「渋柿」隠退。七十五歳。
昭和三十一年(一九五六)一月、「渋柿」五百号(野村喜舟主宰)。東洋城、七十九歳。
昭和三十九年(一九六四)四月、「渋柿」六百号(野村喜舟主宰)。東洋城、八十七歳。
※※※同年十月二十八日、東洋城没。
昭和四十七年(一九七二)八月、「渋柿」七百号(野村喜舟主宰)。
昭和五十五年(一九八〇)十二月、「渋柿」八百号(徳永山冬子主宰)。
平成元年(一九八九)四月、「渋柿」九百号(徳永山冬子主宰)。
平成九年(一九八九)八月、「渋柿」一千号(米田双葉子主宰・松岡潔社主)。

「孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」所収「カイゼル髭の東洋城先生」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/30

カイゼル髭の東洋城.jpg

「孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」所収「カイゼル髭の東洋城先生」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/30

晩年の東洋城.jpg

「孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」所収「晩年の東洋城先生」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/33

(追記その一) 「俳誌『渋柿・210』( 昭和6年10月号)周辺

渋柿(210号・表紙).jpg

「俳誌『渋柿(210号・表紙)』」( 昭和6年10月号)表紙
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n1009762791

渋柿(210号・目次).jpg

「俳誌『渋柿(210号・目次)』」( 昭和6年10月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n1009762791

※ 上記の「渋柿(目次)」の「巻頭語(秋谷立石山人)・表紙」の「秋谷立石山人」は、「松根東洋城」の別号である。(「ウィキペディア」)
 そして、それに続く「仙台より(小宮蓬里野人))」は、「小宮豊隆(蓬里雨))、その後に、「映画原則と俳諧(下「モンタァジュより俳諧根本義へ」)」という、東洋城の論考と、「連句雑俎((五)連句の心理の諸現象))」(寺田寅彦)」の論稿が続いている。
 この「昭和六年(一九三一)十月号」は、「昭和六年(一九三一)一月、「渋柿」(東洋城主宰)二百号。東洋城、五十四歳。」のものである。

渋柿・184号・表紙.jpg

「俳誌『渋柿・184号』表紙」( 昭和4年8月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h1009760164

渋柿・184号・目次.jpg

「俳誌『渋柿・184号』目次」( 昭和4年8月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h1009760164

※ この号の「巻頭言(「無題」)」の「寺田ᮌ木螺(ぼくら)山人」は、「寺田寅彦」の号の一つの「木螺(ぼくら)」(ミノムシ)を用いている。

渋柿・192号・表紙.jpg

「俳誌『渋柿・192号(表紙)』」( 昭和5年4月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j1009763514

渋柿・192号・目次.jpg

「俳誌『渋柿・192号(目次)』」( 昭和5年4月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j1009763514

※ この号の「妹背山婦女庭訓『吉野川』の舞台機構(附・俳諧の精妙)」(東洋城)の、東洋城の「歌舞伎と俳諧」との稿は、「東洋城の俳諧(俳句と連句)」の一端を探る上で貴重なものであろう。


(追記その二)  「俳句」(昭和三十九年十二月号)周辺
https://dl.ndl.go.jp/pid/7962712

「俳句」(昭和三十九年十二月号)

「俳句」(昭和三十九年十二月号).jpg

アート口絵 野ざらしの歴史(十二) / 若杉慧/p6~6
Color 十二月の歳時記/p7~7
Color エトセトラー・ロビー/p8~12
Color 読者サロン/p13~13
Color 今月の推薦作家/p14~14
松根東洋城追悼特集/16~59
東洋城を囲んで(座談会) / 吉田洋一 ; 楠本憲吉/p16~23
思い出片々 / 水原秋桜子/p24~25
遠い思い出 / 秋元不死男/p26~27
軽井沢の松根東洋城 / 吉田洋一/p28~33
人としての松根東洋城先生 / 三輪青舟/p34~37
東洋城翁の京都時代 / 亀田小蛄/p52~55
東洋城俳句鑑賞 / 不破博/p38~43
はぎ女への手紙--東洋城先生書簡 / 池上浩山人/p44~51
松根東洋城年譜 / 徳永山冬子/p56~59
作品 ≪8句≫ 野分あと / 山内美津男/p106~106
作品 ≪8句≫ 秋の風 / 橋場元紀/p107~107
作品 ≪8句≫ 寡居 / 中村初枝/p108~108
作品 ≪8句≫ 聖火ランナー / 加川憲一/p109~109
作品 ≪8句≫ 雪の構内 / 金丸鉄蕉/p110~110
作品 ≪8句≫ 峽田 / 阿部ひろし/p111~111
作品 ≪8句≫ 寒暁の鳩 / 金子晋/p112~112
作品 ≪8句≫ 海の昏 / 田吉明/p113~113
四季新鋭 長い日夜 / 酒井弘司/p146~149
方法と実験の跡--酒井弘司の淡さ / 金子兜太/p150~153
ブライスさんの俳句研究 / 麻生磯次/p80~84
俳句への回帰--安東次男著「鑑賞歳時記」について / 中村稔/p85~88
大須賀乙字年譜-下- / 村山古郷/p114~122
三冊子評釈(八) / 尾形仂/p123~127
ぼうふら草紙(十一)夏の半えり / 高橋忠弥/p96~99
地獄変相への発想--野ざらしの歴史-12- / 若杉慧/p100~105
日本の抒情的エピグラム(俳諧)--真珠の発見-12- / 松尾邦之助/p89~95
作品 ≪15句≫ 荒磯ぐらし / 阿部思水/p60~61
作品 ≪15句≫ 信濃石仏抄 / 藤岡筑邨/p62~63
作品 ≪15句≫ 東京オリンピック / 富田直治/p64~65
作品 ≪15句≫ 秋炎 / 野呂春眠/p66~67
作品 ≪15句≫ 木彫り熊 / 和地清/p68~69
作品 ≪15句≫ 初鴨 / 依田由基人/p70~71
作品 ≪15句≫ 美ヶ原 / 沢田緑生/p72~73
作品 ≪15句≫ 鯷干場 / 加藤かけい/p74~75
作品 ≪15句≫ 秘仏 / 加藤知世子/p76~77
作品 ≪15句≫ 青春地下 / 上月章/p78~79
俳誌月評 / 堀葦男/p134~137
二つの不満--評論月報 / 飴山実/p128~133
新刊紹介 木村三男句集『蕎木』 / 平畑静塔/p138~139
新刊紹介 依田由基人句集『遠富士』 / 中村行一郎/p139~140
新刊紹介 飯泉樹三子遺句集『冬樹』 / 安孫子荻声/p140~141
新刊紹介 皆川白陀句集『露ぶすま』 / 岸田租魚/p141~142
新刊紹介 喜多村慶女句集『慶女句集』 / 森田峠/p142~143
新刊紹介 森総彦句集『贋福耳』 / 星野麦丘人/p143~144
新刊紹介 鈴木豆柿子句集『谷戸の朝』 / 木下夕敬/p144~145
雑詠 十二月集 / 池内たけし ; 秋元不死男/p154~159
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その九

その九「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」周辺

「俳誌・渋柿(609号)」表紙.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「表紙」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/1

(目次)

松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3
巻頭句 / 野村喜舟/p4~23
句境表現の境 / 松根東洋城/p24~27
庭の別れ / 野村喜舟/p27~29
弔辞 / 愛知揆一/p30~30
弔辞 / 高橋誠一郎/p30~30
弔辞 / 水原秋桜子/p31~31
Sの話 / 秋元不死男/p32~34
東洋城を憶ふ / 新野良隆/p34~35
朴落葉 / 楠本憲吉/p36~37
追憶 / 黒川清之/p29~29
松中時代 / 松根東洋城/p38~39
東洋城百詠 / 三輪青舟/p124~126
東洋城先生の連句について / 小笠原樹々/p44~48
青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73
兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90
老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91
東洋城先生とその俳句 / 尺山子 ; 山冬子 ; 博/p92~102
しみじみとした先生 / 沢田はぎ女/p103~105
歌仙(あぢきなやの巻) / 松根東洋城/p106~107
東洋城先生の人と芸術 / 渡部杜羊子/p116~120
東洋城先生を語る(座談会) / 伊予同人/p146~164
偉跡 / 西岡十四王/p40~44
東洋城年譜 / 徳永山冬子/p165~169
特別作品/p176~179
選後片言 / 野村喜舟/p188~189
懐炉 / 野村喜舟/p192~192
人生は短く芸術は長し / 島田雅山/p48~51
三畳庵の頃 / 石川笠浦/p52~53
師をめぐる人々 / 高畠明皎々/p108~110
想ひ出 / 池松禾川/p110~112
先生の遺言 / 不破博/p112~116
春雪の半日 / 野口里井/p120~121
先生病床記 / 松岡六花女/p121~122
梅旅行 / 金田無患子/p123~123
永のえにし / 堀端蔦花/p127~128
追想記 / 三原沙土/p128~129
表札と句碑 / 城野としを/p129~131
先生と私 / 井下猴々/p131~132
城先生の思ひ出 / 榊原薗人/p132~133
下駄 / 石井花紅/p133~134
二人の女弟子 / 牧野寥々/p170~174
終焉記 / 松岡凡草/p135~136
先生は生きてゐる / 田中拾夢/p136~138
葬送記 / 野口里井/p139~139
追悼会/p139~141
西山追悼渋柿大会/p142~145
新珠集 / 松永鬼子坊/p174~175
各地例会/p184~186
提案箱 / 阿片瓢郎/p187~187
誌上年賀欠礼挨拶 / 諸家/p193~197
会員名簿 / 渋柿後援会/p191~191

「俳誌・渋柿(609号)」スナップ.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「目次(その一)・東洋城葬儀の遺影と祭壇(上部)のスナップ」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「目次(その二)・晩年の東洋城スナップ」(※この「東洋城スナップ」は「鶴翼楼」でのものと思われる。)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/4

「俳誌・渋柿(609号)」内扉一.jpg


「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「内扉(上図=東洋城=寺田寅彦スケッチ画、下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

 この「内扉(上図東洋城像=寺田寅彦スケッチ画、下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」の、上図(東洋城像)については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

(再掲)

寺田寅彦の描いたスケッチ.jpg

「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)

[※ 次の「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて)は、『寺田寅彦全集第十二巻』(月報12・1997年11月)に、「資料」(「渋柿(寺田寅彦追悼号・昭和十一年二月)」)の「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に所収されているもので、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」もまた、「渋柿」主宰者の「松根東洋城」が、この「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に、掲載をしたように思われる。
 そして、何よりも、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓)は、下記のアドレスで紹介した、[「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。]と合致する。

(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-04
[※ 歌仙(昭和十一年十一月「渋柿(未完の歌仙)」)

(八月十八日雲仙を下る)
霧雨に奈良漬食ふも別れ哉    蓬里雨
 馬追とまる額の字の上      青楓
ひとり鳴る鳴子に出れば月夜にて 寅日子  月
 けふは二度目の棒つかふ人   東洋城
ぼそぼそと人話しゐる辻堂に     雨
 煙るとも見れば時雨来にけり    子

皹(アカギレ)を業するうちは忘れゐて 城
 炭打くだく七輪の角        雨(一・一七)
胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ 子 (※茶の「胴炭」からの附け?) 恋
葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)    城 恋
細帯に腰の形を落付けて        雨(六・四・一四) 恋
 簾の風に薫る掛香          子(八・二八) 恋
庭ながら深き林の夏の月       城(七・四・一三) 月  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻』)    

「俳誌・渋柿(609号)」内扉二.jpg

「内扉(下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

 ※この「内扉(下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」の、「津田君筆/寺田像/鳴雪翁に/似たるの/評あり」を筆記したのは、東洋城その人のように思われる。
 因みに、津田青楓は、高浜虚子の関係する「ホトトギス」には、「表紙・カット画」などと関係が深いが、松根東洋城の関係する「渋柿」には、その類のものは見いだせない。

「俳誌・渋柿(609号)」安倍能成.jpg

「松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/6

 ※この安倍能成の「松根東洋城君のこと」は、「松根東洋城の、その人とその生涯、その作品」の全体像を証しするものとして、最も枢要なものと解して差し支えなかろう。

「君は性格が狷介で、人を容れる雅量に乏しかつたやうである。」
「正岡子規にも殆ど目もくれなかった。」
「高浜虚子とも、国民新聞俳壇担当の頃は親しかつたやうだが、間もなく絶交の姿になつて居た。」
「故人では芭蕉、今人では漱石、寅彦に止まつて居たやうである。」

 この追悼号には、安倍能成と共に、「渋柿」の「巻頭文」を飾っていた「小宮豊隆(蓬里雨)の名は見いだされない。この頃には、亡き東洋城と同じく、病床にあったのであろう。 
 因みに、「小宮豊隆(蓬里雨)」に関することは、下記のアドレスでフォローすることが出来る。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/search/?keyword=%E5%B0%8F%E5%AE%AE%E8%B1%8A%E9%9A%86

「俳誌・渋柿(609号)」老兄弟会合.jpg

「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50

 ※ これらについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06

(再掲)

[ その記事中の「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」に、「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」の写真が掲載されている。

東洋城兄弟(四人の男兄弟).jpg


「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50

[前列左から「宗一(六十四歳)・卓四郎(七十三歳)・東洋城(豊次郎)(八十六歳)・新八郎(八十一歳)」と思われる。後列の二人は東洋城の甥。中央に「松根家家宝の旗印(三畳敷の麻に朱墨の生首図=「「伊達の生首」)」が掲げられている。「伊達の生首」については、次のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-02   ]

※「松根東洋城年譜」(『東洋城全句集・中巻』所収)での「東洋城兄弟(妹)」の生誕は次のとおりである。

明治十一年(一八七八) 東洋城(本名・豊次郎)、二月二十八日東京築地で生まれた。
明治十三年(一八八〇) 三歳(東洋城)、妹房子生る。(※明治三十四年、東洋城、八十二歳時の、上記「老兄弟会合」時の翌年に没。)
明治十六年(一八八三) 六歳(東洋城)、弟新八郎生る。
明治二十年(一八八七) 十歳(東洋城)、弟貞吉郎生る。(※上記「老兄弟会合」前に没?)
明治二十五年(一八九二) 十五歳(東洋城)、弟卓四郎生る。
明治三十年(一八九七 ) 二十歳(東洋城)、弟宗一生る。

 上記の東洋城の兄弟で、「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」では、東洋城の次弟の「松根新八郎」が、「兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90」を寄稿している。なお、「葬送記 / 野口里井/p139~139」を見ると、この葬儀の「松根家代表挨拶」も、松根新八郎がしている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/74

 この次弟の「松根新八郎」は、「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」の頃は、「白内障」を病んでいて、視力が衰えていたことが、『松根東洋城全句集(中巻)・昭和三十七年(八十五歳)』の、東洋城の句から察せられる。

[ 秋晴れまなこの霧視(かすみ)瞬けど(「松本の弟、白内障症漸進」)
 眼を捨てし弟いかに今日の月(「松本の弟へ」)
 名月や限(り)とおもふ眼の力(「弟の返信欄外」)    ](『松根東洋城全句集(中巻)・昭和三十七年(八十五歳)』)

「松根新八郎」は、「松本高校(現・信州大学)」の教職(「数学」担当)などを携わっていた。そして、東京の「松根東洋城・その母(敏子)」をサポートし続けたのは、「四弟・松根卓四郎」で、東洋城の創刊・主宰した「渋柿」の、その「社主」(「渋柿」発行人の住所「東京都品川区上大崎町一丁目四百七拾番地」と「編集発行人・松根卓四郎」とは、四弟の「松根卓四郎」と、その住所ということになる。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-02-06

俳誌・渋柿(405号).jpg

「俳誌・渋柿(405号/昭和23・1)」(奥付/p17~17)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071536/1/10

 さらに、その末弟の「松根宗一」は、『東洋城全句集(上・中・下巻)』の「編者」(安倍能成・小宮豊隆・野村喜舟・松根宗一)の一人として、「松根家」の親族を代表して、その名をとどめている。
 この「松根宗一」周辺については、下記のアドレスで紹介している。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-08

(再掲)

松根宗一夫妻.jpg

「原子力産業新聞(第157号=昭和35年10月5日)=日本代表ら:コール事務総長と交歓=(左から)松根宗一氏夫人・松根原産代表(松根宗一)」
https://www.jaif.or.jp/data_archives/n-paper/sinbun1960-10.pdf

東洋城家族.jpg

「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/41
[左から「父・権六/伯母・初子(柳原前光(伯爵)夫人・白蓮の養母・東洋城の母の姉)/母・敏子/弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」(明治四十一年七月三十一日写)

[(参考その一)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」周辺

「この青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」の「洋一」とは、漱石門下にも連なる「日本の数学者。元北海道帝国大学教授。立教大学名誉教授。随筆家、俳人」の「吉田洋一(1898年 - 1989年)」その人である(「ウィキペディア」)。
 ちなみに、「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)』で、「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」を寄稿した「松根新八郎」も、「吉田洋一」と同じく「数学者」の世界の人のようである。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1140563741724347776

 上記の「松根東洋城家族」で、一般に、「俳人・東洋城」より以上に知られているのは、「日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた」(「ウィキペディア」)、末弟の「松根宗一」(1897年4月3日 - 1987年8月7日)であろう。  ]

(参考その二)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」周辺

松中時代の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「東洋城」(明治二十八年当時、十八歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

最晩年の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「最晩年の東洋城」(昭和三十九年当時、八十七歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

「俳誌・渋柿(453号)」の奥付.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和40・1)・東洋城先生追悼号」(「奥付」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/105

※「俳誌・渋柿(609号/昭和40・1)・東洋城先生追悼号」(「奥付」)周辺

編集長  徳永山冬子
編集委員 阿片瓢郎・野口里井・不破博・牧野寥々・松岡凡草
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その八 [東洋城・豊隆・青楓]

その八「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」など

俳誌・渋柿(600号)表紙.jpg

「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」所収「表紙」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/1

(目次)

扉(一句) / 野村喜舟
六百号に思ふ / 安倍能成/p7~7
四方の花(百句) / 野村喜舟/p8~13
Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49
Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55
Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61
Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67
Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73
Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79
巻頭句 / 野村喜舟/p14~48
澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70
俳句における音韻的音調 / 西岡十四王/p71~72,74~78,80~82
たなごゝろを合せること / 礒部尺山子/p83~86
芭蕉覚書(2) / 渡部杜羊子/p87~92
空白の雄弁性 / 島田雅山/p93~93
もののあはれ / 三輪青舟/p94~97
寺田寅日子雑感 / 牧野寥々/p98~101
渋柿の立場 / 田中拾夢/p106~108
日曜随想 / 吉本杏里/p108~113
自然性の一考察 / 青木誠風/p113~115
五つの話 / 火野艸/p115~119
顔 / 高畠明皎々/p120~121
渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
巻頭句成績累計表 / 牧野寥々/p128~130
俳誌月且(1) / 不破博/p131~131
四月集 / 青舟 ; 十四王 ; 鬼子坊 ; 尺山子 ; 壺天子 ; 春雨/p102~103
新珠集 / 村上壺天子/p104~105
無題録 / 野口里井/p143~143
各地例会だより/p132~136
巻頭句添削実相/p136~136
処々のまとゐ/p137~137
栃木の伝統を語る 座談会 / 栃木同人/p138~142
選後片言 / 野村喜舟/p144~145
東洋城近詠(病院から)/p146~146

俳誌・渋柿(600号)東洋城近影.jpg

「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」所収「東洋城」近影(八十七歳)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/33

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。
昭和二十八年(1953)七十六歳
 伊香保に避暑。伊香保に句碑建つ。
昭和二十九年(1954)七十七歳
 一月、芸術院会員に任命さる。宮中に召され、陛下より賜餐。「昭和文学全集」昭和俳句集、角川書店刊。
昭和三十年(1955)七十八歳
 「五百号記念号」観、筆跡写真多数掲載。
昭和三十一年(1956)七十九歳
 伊予川内町、総河内神社に句碑建つ。三十年末、関西に遊び、翌一月中旬帰京。松本、新潟、別府、小倉、山陰等を訪ふ。伊香保に避暑。冬、又中国を訪ふ。
昭和三十二年(1957)八十歳
 北陸、伊勢、山口に遊ぶ。軽井沢に避暑。パラチフスの疑いで、逓信病院に隔離入院。程なく退院。万太郎文化勲章を受く。大晦日に西した。『現代日本文学全集』現代俳句集、筑摩書房刊。
昭和三十三年(1958)八十一歳
 京阪に遊び、長州の妹を訪ふ。蔵王に遊ぶ。軽井沢に避暑。港区芝高輪南町二十九、渋沢家へ移転。伊東にて越年。
昭和三十四年(1959)八十二歳
 関西に遊ぶ。萩の妹敏子没。軽井沢に避暑。伊東にて越年。十月、阿部次郎没。
昭和三十五年(1960)八十三歳
 京洛に遊ぶ。軽井沢に避暑。和辻哲郎没。
昭和三十六年(1961)八十四歳
 伊豆山滞留。山陽に遊び、箱根湯本に籠る。軽井沢に避暑。秋、京を訪ふ。
昭和三十七年(1962)八十五歳
 冬から腰痛治療。安芸に遊ぶ。軽井沢に避暑。柳田国男没。炎天句集『片雲』序文執筆。漱石の句を揮毫して伊予河内町に句碑建立。
昭和三十八年(1963)八十六歳
 腰、脚の疼痛あれど、小旅行続く。久保田万太郎没。七月十日軽井沢に避暑、十月一日下山。
昭和三十九年(1964)八十七歳
 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。
 六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。 七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。
 九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。
 十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く。二十九日夜、新宿区戸塚町三ノ九〇一の弟宗一方において通夜。従四位に叙せられる。
 葬儀は三十日午後一時より芝青松寺にて行われ、戒名は松月院殿東洋城。午後二時より同寺にて告別式。午後四時より八芳園において東洋城先生追悼会。遺骨は宇和島の金剛山大隆禅寺に葬る。墓碑は安倍能成の筆。(『東洋城全句集・中巻』所収「松根東洋城年譜」)

(管見)

一 「渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127」周辺

渋柿一号より六百号までの主要論文その一.jpg

「渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/65

渋柿一号より六百号までの主要論文その二.jpg

渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/66

渋柿一号より六百号までの主要論文その三.jpg

渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/67

二 「昭和三十九年(1964)八十七歳/ 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。」の「照葉狂言等六篇執筆」は、下記の六篇のように思われる。この「Variétés」は、フランス語の「雑録=余白に」のような意なのかも知れない。

Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49
Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55
Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61
Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67
Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73
Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79

Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49 → (「明治十一年=一八七八」の出生前のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/27

 ここには、東洋城の誕生した「東京築地木挽町河岸の堀割川の一角」の原風景が「さより(鱵)と水母(くらげ)」の題で活写されている。

東洋城のスナップ一.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ一)

Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55 →(「明治十五(一八二二・五歳)・十六年(一八八三・六歳)の頃のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/30

東洋城のスナップ二.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ二)

Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61→(「明治二十二(一八八九・十二歳)・二十三(一八九〇・十三歳)の頃のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/34

[『照葉狂言』は、泉鏡花の小説。 照葉狂言とは、能狂言に歌舞伎などの要素を加えた芸能である。19世紀中頃大坂に始まり、江戸でも上演された。照葉能狂言、今様能とも呼ばれる。 小説『照葉狂言』は1896年11月14日-12月23日『読売新聞』に連載され、1900年4月に春陽堂から単行本が刊行された。](「ウィキペディア」)

Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67 →(※敗戦直後の「国語国字問題」と芭蕉語録(「俳諧の益は俗語を正すなり」)など) 

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/37

東洋城のスナップ三.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ三)

Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73→(※「鳥の何〇騒がしく渡るかな」の〇は「寺」か「声」か?)

東洋城のスナップ四.jpg 

(「信州小諸千曲川河岸川魚料理亭での食事・隣は吉田洋一氏」)

Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79→(※能「海士」の「真珠貝」供養)

東洋城のスナップ五.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ四)

三 「澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70」周辺

澁柿六百号を語る.jpg

「澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/28

[(出席者)

水原秋櫻子(みずはら‐しゅうおうし)
1892-1981 大正-昭和時代の俳人。
明治25年10月9日生まれ。高浜虚子(きょし)に師事,「ホトトギス」で山口誓子(せいし)らと4S時代をきずく。昭和6年主宰誌「馬酔木(あしび)」で虚子の写生観を批判,新興俳句運動の口火をきった。39年芸術院賞,41年芸術院会員。産婦人科医で,昭和医専の教授もつとめた。昭和56年7月17日死去。88歳。東京出身。東京帝大卒。本名は豊。句集に「葛飾(かつしか)」など。
【格言など】わがいのち菊にむかひてしづかなる
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

秋元不死男(あきもと-ふじお)
 1901-1977 昭和時代の俳人。明治34年11月3日生まれ。秋元松代の兄。昭和15年西東三鬼らと「天香」を創刊。翌年,新興俳句弾圧事件で投獄される。のち獄中句集「瘤(こぶ)」を刊行。24年「氷海」を創刊,主宰。43年「万座」ほかで蛇笏(だこつ)賞。昭和52年7月25日死去。75歳。神奈川県出身。本名は不二雄。別号に東(ひがし)京三,地平線。
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

安住敦(あずみ-あつし)
 1907-1988 昭和時代の俳人。
明治40年7月1日生まれ。逓信省に勤務,局長の富安風生(とみやす-ふうせい)にまなぶ。昭和10年日野草城の「旗艦」に参加,戦後は久保田万太郎の「春灯」の創刊にくわわり,万太郎の死後は主宰。46年俳人協会理事長,57年会長。47年「午前午後」で蛇笏(だこつ)賞。昭和63年7月8日死去。81歳。東京出身。立教中学卒。著作はほかに随筆「春夏秋冬帖」など。
【格言など】花鳥とともに人生があり,風景のうしろに人生がなければつまらない(句作のモットー)
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

楠本憲吉(くすもと-けんきち)
 1922-1988 昭和時代の俳人。
大正11年12月19日生まれ。大阪北浜の料亭「灘万」の長男。日野草城主宰の「青玄」に所属し,昭和44年「野の会」を創刊・主宰するなど,前衛作家のひとりとして活躍。評論,エッセイでも知られた。昭和63年12月17日死去。65歳。慶大卒。句集に「隠花植物」「孤客」など。
【格言など】失いしことば失いしまま師走(辞世)
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)         ]

四 「東洋城近詠(病院から)/p146~146」周辺

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

東洋城近詠(病院から)/p146~146
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/77

如月や肺炎まがひひた臥しに(病名仮称)
如月や臥すし居に一日雪景色
如月や厨の無沙汰厚衾
梅二月あいなめ味を加へけり(家主釣魚恵贈)
如月や抗生物室熱捉らえ(四時間毎分服)
丸裸縦横そびら余寒かな(二月二八日入院 レントゲン室)
如月や粥一片のつかえさへ
如月や吸ひ飲みほしく葡萄液
如月のよき句むかしや歳満つ(病中誕辰)
如月や大鯛さしみ誕生日(同妄想)
如月や一分刻みに下がる熱(旬日静養)
松の葉に手伸べんまでの春日かな(雪の富士)
枝越しや春の小鳥の羽づくろひ(松林清風)

 これらに、上記の年譜(下記に再掲)で見て行くと、「二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆」と、この世田谷の「玉川病院」での作ということになる。
 一旦、ここを退院して、今度は、「六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く」と。東洋城がなくなったのは、「国立大蔵病院」ということになる。

[(再掲)
昭和三十九年(1964)八十七歳
 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。
 六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。 七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。
 九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。
 十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く。二十九日夜、新宿区戸塚町三ノ九〇一の弟宗一方において通夜。従四位に叙せられる。 ]

五 徳永夏川女(「渋柿発行(社主))・編集人の徳川山冬子・夏川女」の「夏川女」)が三月九日に亡くなる。
 その追悼号が、「渋柿(六〇二号/昭和三十九年六月号)」で編まれている。

渋柿(六〇二号.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071679/1/2

「渋柿(六〇二号/昭和三十九年六月号)」

 そこに収載されている「松根東洋城・野村喜舟・石田波郷・宇田零雨」の弔句は次のとおりである。

絶えしとや松の葉末の春嵐(東洋城「弔 夏川女氏 三の九朝 病室にて」)
うめの花ちりつくしたるうつろかな(喜舟「三月八日 夏川女さん永眠す 憶」)
境涯の辛夷ひらくを待たざりき(波郷「謹んで夏川女夫人のご逝去を悼みて」)
君を悼む無韻の楽を聴く春ぞ(零雨「『無字の書をよむ孤り』といひし作者をしのびつつ」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

[(再掲)

「徳永山冬子と夏川女」

 徳永山冬子(明四〇~) 宇和島市生まれ。昭和四年、家業(織物製造・度量衡器販売)に従事、同業(織物)の大塚刀魚に勧められて「滑床会」に入会して「渋柿」に投句、翌年、「水馬よくさかのぼる一つかな」が初入選、以来一回も休まず勉強して今日に至る。昭和二七~四一年の間、「渋柿」の編集・発行に従い、その間、妻・夏川女(~昭三九・59歳)もよくこれを助けた。昭和五二年以来「渋柿」主宰。なお、「水馬」は「あめんぼう」・「みずすまし」のこと。

  月からの冷えの及びし浴衣かな   徳永山冬子
  夢も凍る春寒の夜ありにけり    夏川女(手帳最後の句)  ]
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その七 [東洋城・豊隆・青楓]

その七「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)・『本社移転』など」

城主御隠退後に処する覚悟.jpg

「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)」所収「城主御隠退後に処する覚悟・北雪南花(山冬子宛)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/10

東洋城・幕.jpg

「俳誌・渋柿(454号/昭和27=1952・2)」所収「幕(松根東洋城)・奥付」(C図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/11

(目次)

東洋城近詠/表2
卷頭句 / 東洋城/p1~12
句作問答/p1~7
卷頭句選引繼の挨拶 / 喜舟/p13~13
課題句/p14~15
御隱退後に處する覺悟 / 同人代表/p16~17
松山例會/p11~11
諸處のまとゐ/p11~12
本社移轉/p7~10
添削應求/p19~19
幕 / 東洋城/p18~18
古稀遺言/p20~20
奥付/表紙の3
題僉 / 夏目漱石

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。
昭和二十八年(1953)七十六歳
 伊香保に避暑。伊香保に句碑建つ。
昭和二十九年(1954)七十七歳
 一月、芸術院会員に任命さる。宮中に召され、陛下より賜餐。「昭和文学全集」昭和俳句集、角川書店刊。
昭和三十年(1955)七十八歳
 「五百号記念号」観、筆跡写真多数掲載。
昭和三十一年(1956)七十九歳
 伊予川内町、総河内神社に句碑建つ。三十年末、関西に遊び、翌一月中旬帰京。松本、新潟、別府、小倉、山陰等を訪ふ。伊香保に避暑。冬、又中国を訪ふ。
昭和三十二年(1957)八十歳
 北陸、伊勢、山口に遊ぶ。軽井沢に避暑。パラチフスの疑いで、逓信病院に隔離入院。程なく退院。万太郎文化勲章を受く。大晦日に西した。『現代日本文学全集』現代俳句集、筑摩書房刊。
昭和三十三年(1958)八十一歳
 京阪に遊び、長州の妹を訪ふ。蔵王に遊ぶ。軽井沢に避暑。港区芝高輪南町二十九、渋沢家へ移転。伊東にて越年。


(管見)

一 「俳誌・渋柿(453号/昭和27・1)」(「東洋城『隠居之辞)』)に続く、その「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)」は、それまでの「渋柿本社=「東京都品川区上大崎町一丁目四百七番地(編集発行人:松根卓四郎=松根東洋城主宰)、印刷者・印刷所:松本寅吉(両毛印刷所)=小林晨悟(発行所=渋柿社発行部=栃木市倭町二百九十五番地)」が、「渋柿本社=「東京都杉並区堀之内一ノ二二六・徳永智方=「徳永山冬子・夏川女」編集発行人、野村喜舟主宰(福岡県市小倉在住)と代替わりすることとなる。

本社移転その一.jpg

「渋柿(431号/昭和25年1950・3月号)」の「奥付」(A図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071562/1/10

本社移転その二.jpg

「渋柿(431号/昭和27年1952・1月号)」の「奥付」(B図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/11

二 「渋柿(431号/昭和27年=1952・1月号)」の後、国立国会図書館デジタルコレクション所収のものでは、『渋柿』(496号/昭和30年=1955年8月号)」と飛び、その間は欠号となる。さらに、それに続くのが、その後でも、『渋柿』(510号/昭和31年=1956年10月号)」と、欠号が続き、昭和二十七年(一九五二)から、昭和三十一年(一九五六)までの、
その管見を見て行くのは、甚だ難儀のことになる。
 これらのことについて、『東洋城全句集(中・下巻)』と『渋柿の木の下で(中村英利子著)』との、この間の記述を見て行くと、「俳誌・渋柿」にとって、この間の特筆して置くことは、以下のようなことになる。

三 「徳永山冬子が引き受けた『渋柿』の昭和二十七年二月号には、「城主御隠退後に処する覚悟」という一文が同人代表名で掲載された。執筆者は西岡十四王である。同人代表というのは会社の役員のようなもので、合議制で編集・運営をしていく。最初、東洋城が指名したのは九名であったが、山冬子は全国的な視野に立つと伊予に地域がかたよっているように思えたので、京阪代表、湘南横浜代表、栃木代表のほか、東京地方にもう一名加え、バランスを取った。また新企画として、有力作家を次々に課題句選者にすることを独断で決め、同人代表会に対して事後承認を得た。(中略)
 それを受け、六月には文芸評論家の山本健吉が、
『今年になって渋柿は七五翁の松根東洋城が退いて高弟野村喜舟が選者となった。同誌はこれまで、全く紙のカーテンを下ろされた王国で、同人は他誌への出句も禁じられていたが、喜舟の代になってから旧友の万太郎・秋櫻子・蛇笏なども祝辞を寄せているところを見ると、鎖国主義を廃止して風通しをよくするらしい。四十年の眠りをやっと覚ますわけである。』」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)

四 「昭和二十七年の六月号に、この年「芸術院賞」を受けた山鹿清華が次の一文を寄せた。(中略)
『東洋城先生は京大時代から宣伝嫌いは有名で、もとより名誉とか表彰とかを考えてはおられますまいが、今度の渋柿継承という先生畢生の事業を受け継がれた諸彦(皆様方)は、全責任と義務があると思います。まず東洋城先生を現在の日本に再認識させ、芸術院会員にせねばならぬと思います。たとえそれが先生の意志に反することであっても、明治大正昭和の俳句界に尽くされた功績に対して、芸術院会員にするのが当然であります。それは先生のためなるのみらず、日本の文学史上に誤られざる正しき記録をするという点からも必要なことであります。』 
 この願いは、東洋城が隠退して二年後の昭和二十九年に現実のものとなり、東洋城は日本芸術院会員に任命された。俳人としては高浜虚子に次いで二人目である。(中略)
 この受賞に対し、友人の小宮豊隆は、こんな文章を寄せた。
『私の従兄で、昔砲兵工廠に勤めていた工学士の技師が、俳句の先生を紹介してくれというので、私は東洋城に頼んで行ってもらうことにしたが、しかししばらくすると従兄は、東洋城先生はどうもやかましくて困ると言い出した。東洋城は自分のいいと信じるところを人に説くのはいいが、その説くところから一寸でも一分でも、ちょっとでもそれると、黙って見ていることができない。つまり自分があるくとおりに、弟子をあるかせないと気がすまないのである。これは東洋城が「殿様」で、従って自分はこれを正しいと信じているが、しかしその正しいと信じているところがはたして正しいかどうかと、自分で疑ってみたことが、これまで一度もなかったせいかではないかと思う。東洋城は俳句においては、自分は子規の弟子ではなく、漱石の弟子であると公言している。また東洋城は、芭蕉を尊敬し、自分は芭蕉の道を歩いているのだと、自認している。しかし漱石は無論のこと、芭蕉でも東洋城のような「殿様」ではない。さんざ迷い、疑い、悶え、悩みしたあとで、ようやく自分の道を築き上げているのである。その点で東洋城はもっともっと苦労する必要、苦労人になる必要があったと思う。今度、東洋城はが芸術院の会員に選ばれたのは、その点で友人としてありがたい気がする。』
 すこしばかり「やれやれ」という想いと、「まあ良かった」という想いが混じり合っている。東洋城が芸術院賞を受けるにあたって尽力したのは、久保田万太郎という説もあるが。漱石門下の後輩で、戦後すぐ文部大臣になった安倍能成によると、それは小宮豊隆だという。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)

 この東洋城と寺田寅彦と、そして、もう一人の「渋柿俳諧(連句)」の連衆の、その畏友の、この「小宮豊隆」の、この東洋城の、その日本芸術院会員に任命された際の、その評は、これこそ、「俳誌・渋柿(号/昭和27・)・東洋城『隠居之辞』」の、それまでの、「東洋城による、東洋城のための、東洋城による」、その「東洋城主宰・東洋城(松根卓四郎)社主・東洋城編集・東洋城発行」の「俳誌・渋柿」から、「『野村喜舟主宰(他主要同人)』」による、『徳永(智=山冬子)社主による、そして、『徳永山冬子・夏川女(「山冬子・夏川女御夫妻」、そして、それをサポートする、『松永凡草・六花女』)の、その新生の、「俳誌・渋柿」へと移行ということになる。

五 「徳永山冬子・夏川女」と「松岡凡草・六花女」

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/52/view/6918

「徳永山冬子と夏川女」

 徳永山冬子(明四〇~) 宇和島市生まれ。昭和四年、家業(織物製造・度量衡器販売)に従事、同業(織物)の大塚刀魚に勧められて「滑床会」に入会して「渋柿」に投句、翌年、「水馬よくさかのぼる一つかな」が初入選、以来一回も休まず勉強して今日に至る。昭和二七~四一年の間、「渋柿」の編集・発行に従い、その間、妻・夏川女(~昭三九・59歳)もよくこれを助けた。昭和五二年以来「渋柿」主宰。なお、「水馬」は「あめんぼう」・「みずすまし」のこと。

  月からの冷えの及びし浴衣かな   徳永山冬子
  夢も凍る春寒の夜ありにけり    夏川女(手帳最後の句) 」

「 松岡凡草と六花女

 松岡凡草(~昭五八・84歳) 北条市生まれ。大正一三年、日本勧業銀行に入行、初代松山支店次長 本社「宝くじ」部長など勤務。大正一四年病気帰省中、仙波花叟に師事して渋柿風早句会に入会、昭和三年上京してより東洋城に師事、妻・六花女(明三七~。松山市生まれ。凡草の母と六花女の母とは姉妹)と二人で、東京・戸塚の邸内に、晩年の東洋城のために一庵を提供し、『東洋城全句集』の刊行に努力し、昭和四四年からは渋柿社の運営を総括し、編集・発行人(社主)となったが、凡草没(昭五八・万一四)後の三月からは六花女が、松岡キミエの本名で編集・発行人となった。同年五月号は凡草追悼号となった。

  瓢重う老仙冬を構へたり     凡草(昭和五八年元旦試筆句)
  夫急逝 亡き夫の咳響き来る座敷かな   六花女           」


六 昭和二十九年(一九五四)、東洋城、七十七歳時の「芸術院賞」を受賞し参内した折の句は、次のとおりである。

 吾が車大内山へ霞かな
 階(きざはし)や下駄を草履に春の風
 春空し宮居の疇昔(きのふ)杉戸の絵
 龍顔(※りょうがん)の霞もまさず咫尺(※しせき)かな(※龍顔=帝王の顔。※咫尺=貴人の前近くに出て拝謁すること。)
 春床し御頸飾(ネクタイ)の縞色目
 羹(あつもの)や銀匙うららかに舌青春
  春海の伊勢鰕(えび)やトロリ葡萄酒煮
 焙(あぶり)肉に鮮菜雪(せんさいゆき)や春宴
 春昼やお物語の席のお茶
 御下問に春吟朗す一句かな
  (『東洋全句集・中巻』所収「昭和二十九年」)

七 昭和三十年(一九五五)十二月号の「渋柿」が、「五百号記念号」なのだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」では、これらは欠号となっている。この「五百号記念号」周辺については、下記アドレスの、昭和三十一年(一九五六)十二月号「渋柿」(五百十二号)所収「渋柿五百号史(5) / 徳永山冬子/p47~51」に記述されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071589/1/25

八 昭和三十二年(一九五七)、東洋城、八十歳時の、「渋柿」(五百十九号)には、下記のアドレスによる「故山の俳句 / 石田波郷/p34~36」などが収載されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071596/1/19

九 昭和三十三年(一九五八)、東洋城は、昭和九年(一九三四)、五十七歳時から移り住んでいる、実弟の松根卓四郎宅(品川区上大崎一丁目四七〇)の「鶴翼楼」から、港区芝高輪南町二十九(渋沢方)の借家に移住することになった。
 この東洋城の移住など、晩年の東洋城の身辺にあって、サポートし続けたのは、「松岡凡草・六花女」一家であった。
松岡凡草(明治三十二年・一八九九生れ)は、東洋城の末弟・松根宗一(明治三十年・一八九七)と同窓の東京商科大(一橋大)で、同行の日本興業銀行勤務と、親しい関係にあり、この当時、松根宗一は、原子力産業会議や副会長などをつとめ、財界の顔役の一人であったので、その宗一の長兄の東洋城は、当時の「渋柿」の同人の中にあって、一番心許せる門弟の一家(「凡草・六花女=編集・発行人(社主)と潔(「渋柿」六代主宰)」)であったということになる。

(「渋柿」沿革)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%9F%BF

1914年(大正3年)松根東洋城が宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となった。
1915年(大正4年)松根東洋城が俳誌『渋柿』を創刊主宰。
1916年(大正5年)正岡子規没後『ホトトギス』を継承した高浜虚子が、東洋城を『国民新聞』俳壇の選者から下ろし、代わって虚子自身が選者になったことを契機に東洋城は『ホトトギス』を離脱した。
1952年(昭和27年)東洋城は隠居を表明し、主宰を創刊時から選者として参加し、「国民新聞」の俳句欄で活躍していた門下の野村喜舟に譲る。24年間主宰を務める。句集『小石川』「紫川」などを発刊し、小倉北区の篠崎八幡神社には「鶯や紫川にひびく声」の句碑がある。
1976年(昭和51年)徳永山冬子主宰。4年間主宰を務める。
1990年(平成2年)米田双葉子主宰。8年間主宰を務める。
1998年(平成10年)渡部抱朴子主宰。12年間主宰を務める。俳人協会評議員、子規顕彰全国短歌大会選者などを歴任。愛媛県西条市石鎚山ハイウェイオアシスには「山石鎚 海瀬戸内や 秋晴るる」、愛媛県中山町永田三島神社には「神苑の 木洩日蒼き 五月かな」の句碑がある。
2010年(平成22年)松岡潔主宰。
2015年(平成27年)渡邊孤鷲主宰。
2022年(令和4年)安原谿游主宰代行。
2023年(令和5年)安原谿游主宰。

十 「渋柿(536)」(昭和三十三年=一九五八/十二月号)」の「東洋城近詠(叟愁十句)」は、次のとおりである。

 菊活けて鶴翼楼の別(わかれ)かな
 覚めて又惜む名残や月の楼
 かの銀杏黄ばみもうへず別かな(楼景万感四句)
 秋日射丘辺の墓も別かな(同上)
 散りのこる柳と去(ゐ)ぬる我とかな(同上)
 初冬の桜今咲け吾(あ)去ぬるに(同上)
 塵寒やキルクの床(ゆか)も藁草履(虚堂無物)
 家寒や冥路(よみぢ)の旅の一宿(やど)リ(三界無家)
憔悴を顔寒き鏡かな(煩忙三句神身損耗)
 冬陽炎鶴翼楼は亡かりけり   (『東洋城全句集・中巻』所収「昭和三十二年」)

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

「渋柿(536)」(昭和三十三年=一九五八/十二月号)」所収「東洋城近詠(叟愁十句)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071613/1/33
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その六 [東洋城・豊隆・青楓]

その六「俳誌・渋柿(号/昭和27・)・東洋城『隠居之辞』」など

「俳誌・渋柿(453号)」の表紙.jpg

「俳誌・渋柿(453号/昭和27・1)」の表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071584

(目次)

卷頭語 / 秋谷立石山人/p表1
荻窪から / 小宮蓬里野人/p表2
卷頭句 / 東洋城/p1~15
句作問答/p1~2
卷頭句用語解/p19~19
本社移轉/p2~15
“隱居に就て” / 東洋城/p19~19
東洋城近詠 安藝・長門/p20~20
俳諧勸進帳 / ひむがし/p20~20
奥付/p表紙の3

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。

(管見)

一、「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」・「/御隱退事情 / 十四王/p18~18」・「本社移轉/p2~15」・「“隱居に就て” / 東洋城/p19~19」

 「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」については、下記図(写真)のとおりである。

隠居之辞.jpg

「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071584/1/10

 「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」は、
「小林晨悟氏へ 大正十二年来、昨年末まで、校正、発送、その他対印刷所関係など担当。長年渋柿への格別なる尽瘁(じんすい)の段。なお、氏は生活上の都合により栃木県下各派総合誌発行の由にて渋柿脱退、仕事の多幸を祈る。
安東龍氏へ 多年本社雑務ことに発送用帯紙作製、記入、誌費精密勘定、また在京時は秘書用また市内書店配本並びに集金などに関し、渋柿および社主助力の段。
 右小生より鳴謝(めいしゃ)、”色々長々有難う”  隠居と共に小生も編集経営面から離れたので、三人三つ巴(どもえ)の発行経営の輪も自然ほどけたわけ。
この環、東京、栃木、津山と三遠隔地に分かれわかれで 、幾度かの危難に切れそうになつたのが、ともかくもつながつてきたのも奇跡。長かったな、色々だつたな、などと、これはいつか会うた時に語り合うだろう三人の内輪話。
・・・渋柿幾十年継続の功が、想像できぬほどこの両氏にかかることとは誰も知るまい、が、これだけは是非とも人々に知らされねばならぬ。玄関で郵便夫から受け取るだけで月々渋柿を手にする人達へ、”これこそ徹底的犠牲心故(ゆえ)”と。御両人へは”無理言うて済まなかった”と。(東洋城) 」

 この「隠居之辞」については、『東洋城全句集(下巻)』に全文が収載されている。その末尾に、次のように、何とも、漢文書下ろし調の、当時(七十五歳)の東洋城の、その生涯を掛けて取り組んだ、「俳誌・渋柿」の、その「隠居之辞」(「隠退之辞」)が綴られている。

[ 渋柿遂に渋柿、渋柿こそ九鼎大呂(※キュウテイタイロ=「九鼎」は夏・殷・周の三代に伝わった鼎(かなえ)。「大呂」は周の大廟に供えた大鐘。ともに周の宝物とされた) 貴重な宝、重要な地位、名声などのたとえ。)より重けれ。さればその渋柿を組成する同人諸氏、今や卿等は隠棲の柴門(※サイモン=柴で編んだ門。草庵の門。柴扉(さいひ)。また転じて、粗末な庵(いおり)。)の前に確と個々に芭蕉に直結し、万人一丸渋柿は盤石、寒叟(※カンソウ=老翁・東洋城)微笑、合掌して瞑目す。芭蕉―俳諧―天、道天へ通ず。人々自奮自重、いよいよ渋柿を渋柿に。『栄光俳諧』、『栄光渋柿』。
 さて、余(※東洋城)の今後は、とりあへず隠棲休養。休余余命若し天の籍さば、自他永年の作品の撰定と俳諧深奥突入と、・・・夢はあやなし(※アヤナシ=文ナシ)。」(『東洋城全句集(下巻)』所収「隠居之辞」)

 ここに引用されている「柴門(※サイモン=柴で編んだ門。草庵の門。柴扉(さいひ)。また転じて、粗末な庵(いおり)。)」は、これは、芭蕉の「柴門辞(柴門之辞)」(※江戸前期の俳文。松尾芭蕉作。元祿六年(一六九三)成立。同年五月、門人森川許六が江戸から彦根に帰るときに贈った離別の詞。許六の絵と芭蕉自身の俳諧とについて述べ、「後鳥羽院御口伝」を典拠として「まことありて、しかも悲しびをそふる」風雅について論じたもの。「其細き一筋」につながる晩年の芭蕉の俳諧観が知られる。別名「許六離別詞」。「韻塞(いんふたぎ)」「風俗文選」に収録。)

許六離別詞.jpg

芭蕉筆「許六(きょりく)離別詞(りべつのことば)」
本紙 縦 19.1 ㎝ 横 59.1㎝
[芭蕉(ばしょう)(1644~1694)はわが国の文学史上に傑出する俳人で、代表作「奥の細道」は今も多くの人々に愛読されている。本点は芭蕉晩年の芸術論を知る上で貴重な資料であるばかりでなく、美術品としても評価が高い。元禄6年(1693)、江戸を離れて彦根に帰藩する彦根藩士で門人の森川許六(もりかわきょりく)に贈った芭蕉の餞別(せんべつ)文。許六が芭蕉の絵の師であったことや、「予が風雅(ふうが)は夏炉冬扇(かろとうせん)のごとし」「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所を求めよ」といった芭蕉の名言としてしられる言葉も本点に基づく。芭蕉画の落日(らくじつ)・萩(はぎ)・薄(すすき)の図が下絵として描かれており興味深い。(以下略) ]

https://www.sumitomo.or.jp/html/culja/jp0905.htm

[去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて*,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ.
元禄六孟夏末             風羅坊芭蕉 印 印   ]

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/saimon/saimonji.htm

二、この芭蕉の「柴門辞(柴門之辞)」は、別名は「許六離別詞」である。ここで、「東洋城」を「芭蕉」とすると、「許六」は、東洋城の「感謝(謝辞)」の「大正十二年(※一九二三=関東大震災による「渋柿」印刷所の「栃木(小林晨吾))」への移転」来、昨年末(※昭和二十六年=一九五一)まで、校正、発送、その他対印刷所関係など担当。長年渋柿への格別なる尽瘁(じんすい)」した、「小林晨悟」その人ということになろう。
 この「小林晨悟」については、「俳誌・渋柿」以外は、殆ど知られていない、「松根東洋城直系の愛弟子の筆頭の一人」ということになろう。

渋柿(昭和三十九年四月号)スナップ写真.jpg

「渋柿(昭和三十九年四月号/六百号記念号/東洋城・八十七歳時)」所収「栃木の伝統を語る 座談会 / 栃木同人/p138~142」のスナップ写真」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/73

 上記の「スナップ写真」は、昭和十一年(一九三六=東洋城・五十九歳)四月十二日に行われた、「栃木大平山の東洋城句碑建立」の時のものである。
 この「スナップ写真」の前列の左側一番目の人物こそ、昭和十一年(一九三六=東洋城・五十九歳)当時の、その「松根東洋城」の実像であろう。この年の前年(昭和十年=一九三五)の、十二月三十一日に、寺田寅彦が没している。
 その、東洋城と同年齢の、「東洋城・寅彦・(小宮)豊隆(豊里雨)」の、その「漱石三側近」の、その中心人物ともいうべき、「寺田寅彦(寅日子)」が没した当時の、「松根東洋城」その人の近影ということになろう。
 そして、その「東洋城」(両手は「袴」に隠している)の、その右に、紋付き袴の正装の、緊張して、そして両手を露わに組みながら鎮座しているのは、当時の「小林晨悟」(東洋城より十四歳年下)、その人のように思われる」
 と同時に、この「スナップ写真」の、これら「人物像(群)」というのは、当時の「栃木(下野)」での、その「俳誌・渋柿」関係者が勢ぞろいしている趣きである。
 この時の、「大平山の東洋城句碑」は、下記のアドレスなどで紹介されている。

https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2020-04-24

大平山の東洋城句碑.jpg

「大平山の東洋城句碑」
[(松根東洋城句碑)
この句碑は、碑陰に「昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会」と、建立時期と建立者が刻まれています。松根東洋城は大正4年(1915)に、俳誌「渋柿」を創刊。関東大震災により印刷所が被災した為、栃木市内に移ってきました。「目で見る栃木市史」には、≪東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。≫と、記しています。「渋柿」は昭和27年(1952)まで、栃木市内にて発行されていました。石碑に刻まれた句は、「白栄(※シロハエ)や/雲と見をれば/赤痲沼」です。
ここ謙信平からは、南方に広がる関東平野の奥に、かつては赤麻沼が白雲の如く、望まれた様です。現在は渡良瀬遊水地の葦原が広がっています。地平線には東京スカイツリーや新宿副都心のビル群を望むことが出来ます。 ]

三 ここで、「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」を見て置きたい。

渋柿(平成九年=一千号記念号)」の「内扉」一.jpg

「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」の「内扉」(A図)

渋柿(平成九年=一千号記念号)」の「内扉」二.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/5

「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」の「内扉」の解説文(B図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/5

 「内扉」(A図)の「渋柿」は、夏目漱石書「題籢」の二字である。その下の筆文字のものは、東洋城書の「渋柿命名由来」(B図)の色紙のもので、この色紙のものは、「小林晨悟所蔵」ものということになる。
 これらのことは、下記(目次)の「小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78」(※印)に記述されている。

[(目次)
渋柿一千号を祝す / 米田双葉子/p10~10
渋柿創刊一千号を迎えて / 松岡潔/p11~11
初夏 / 米田双葉子/p12~12
巻頭句 / 米田双葉子/p13~51
選後寸言 / 米田双葉子/p52~53
六月号巻頭句鑑賞 / 赤松彌介/p54~55
<特集>先人の思い出/p56~56
※※ 孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67
七人の侍 / 野口里井/p68~72
巨星塔の俳句指導 / 池川蜩谷/p72~73
俳諧道場回顧 / 渡部抱朴子/p73~76
※ 小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78
忘れ得ぬ人々 / 中須賀玉翠女/p78~79
修道士竹田哲の渋柿俳句 / 安江眞砂女/p79~80
伊香保の東洋城先生 / 大島麦邨/p81~82
喜舟先生と千鳥句会 / 田原玉蓮/p82~83
松岡凡草さんを懐う / 中小路梅支/p83~84
佐伯松花先生の思い出 / 豊竹春野/p84~85
一千号記念論文・随筆/p86~101
渋柿俳句の本質と写生について / 石丸信義/p86~88
第一渋柿句集その他より / 小島夕哉/p88~91
随想 / 武智虚華/p92~92
心境俳句について / 松岡潔/p93~99
城師の遺言 / 須山健二/p100~101
渋柿一千号記念全国大会/p102~111
渋柿一千号記念全国大会の記 / 栃木光歩/p102~106
一千号大会に参加して / 豊竹春野/p106~107
えにし / 竹下須磨/p107~107
所感 / 牧野寥々/p108~108
一千号大会祝宴にて / 小島夕哉/p109~111
渋柿年譜 / 米田双葉子/p112~112
記念号一覧表 / 中須賀玉翠女/p113~113
<参考資料>城師百詠絵短冊の意義由来/p113~114
句碑のある風景--渋柿関係者句碑一覧/p115~127
尾崎迷堂句碑 / 小島夕哉/p127~128
塩原にある東洋城の句碑 / 池澤永付/p128~128
句碑のある風景 / 大島麦邨/p128~130
自句自註 最高顧問・代表同人・課題句選者/p131~142
作句あれこれ(八十四) / 米田双葉子/p143~143
課題句<夏野> / 石丸信義/p144~148
各地例会/p149~159
巻頭句添削実相抄/p160~160
歌仙/p161~161
明易き / 徳永山冬子/p162~162     ]

四 「※小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78」は、「東洋城と小林晨悟」との、その「三十七間、渋柿編集発行に携わった」、その「小林晨悟」について、そして、この小林晨悟の、戦時中の教え子(「栃木中=栃木高校」の教鞭に立った「小林晨悟」の生徒の一人)で、且つ、「渋柿(主要同人)」・「渋柿(栃木俳壇の中枢を担った俳人)」、且つ、「日本(且つ、栃木)連句協会に携わった連句人」の一人であった「富田昌宏」の、その恩師である「小林晨悟」追慕の記でもある。

五 さらに、「※※孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」については、「松根東洋城」の、その全貌の一端を語るものとして、「小林晨悟と富田昌宏」と同じように「松根東洋城と米田双葉子」との、その「終生の師・東洋城」への、その追慕の記でもあろう。
 そして、「※※孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」の記で、その後半部分の「妻持たぬ我と定め(ぬ秋の暮れ)」見出しで、「東洋城と柳澤白蓮」の、その、若き日の「叶わぬ恋愛」関係(聞き書き)について、詳細に触れている。
 そこで、この「白蓮女史が、七十四歳のとき、栃木市の大平山の、東洋城句碑「白栄(※シロハエ)や/雲と見をれば/赤痲沼」を訪れて、その案内人(渋柿の女流俳人「榊原春女」)に、次の二首を色紙に認めて、栃木を去ったことが記されている。
 その白蓮の二首とは、次のものである。

 夢うつつ(※現実)/うつつ(※現実)を夢と/見る人に/思ひ出の日よ/うつくしくあれ
 ながれゆく/水の如しと/みづからを/思ひさだめて/見る夏の雲

 この白蓮の七十四歳の時とは、昭和三十五年(一九六〇)の頃で、東洋城は在世中(八十三歳)で、東洋城が亡くなったのは、その四年後の、昭和三十九年(一九六四)、そして、白蓮女史が没したのは、昭和四十二年(一九六七)のことである。

晩年の白蓮女史.jpg

「晩年の白蓮女史(※「緑内障で徐々に両眼の視力を失う」=昭和三十六年=一九六一前後の白蓮女史)(「ウィキペディア」)

 なお、「東洋城と柳澤白蓮」の、この「叶わぬ恋愛」寒冷については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06

(再掲)

桜散るや木蓮もありて見ゆる堂
木蓮は亭より上に映りけり
君水打てば妾事弾かん夕涼し
[※これらの句が、東洋城と白蓮(柳原燁子)との「叶わぬ恋愛」関係の背景を物語るものかどうかは定かではないが、三十歳になっても独身(白蓮は東洋城よりも九歳前後年下)で、その前年(明治三十九年)に、「妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ」の句を遺している、当時の東洋城の心境の一端を物語るものと解することも、許容範囲内のことのように思われる。「明治四十三年、東洋城は三十二歳のとき北白川成久王殿下の御用掛兼職となったが、あるとき殿下から、「松根の俳句に、妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ、というのがあると聞くが、妻持たぬというのは本当なのか」と聞かれた。それに対して、東洋城は、「俳句は小説に近いものです」と答えた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)と言う。この「俳句は小説に近いものです」というのは、「事実は小説よりも奇なり」の、俳人・東洋城の洒落たる言い回しであろう。]

(追記)

大平山の東洋城句碑.jpg

「大平山の東洋城句碑」
二○二四年四月十三日(土)/令和六年四月十三日
※ 大平山の謙信平(頂上)の茶店兼蕎麦店の前、案内板は無く、「山本有三文学碑」の近傍に、富士山・東京スカイツリーがかすかに望める時もある方向に面している。山本有三文学碑」は、下記のアドレスで紹介されている。

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/yamamotoyuzou-bungakuh
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その五 [東洋城・豊隆・青楓]

その五「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)・東洋城『子規没後五十年』など」

子規没後五十年.jpg

「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「子規歿後五十年 / 城/p16~16」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071581/1/10

(目次)
卷頭語 / 秋谷立石山人/p表1
目白より / 安倍太古漫人/p表2
卷頭句 / 東洋城/p1~13
句作問答/p1~13
續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15
句作問答(第二部)八月號/p15~15
燦華句集序 / 城/p15~15
子規歿後五十年 / 城/p16~16
前號正誤/p17~17
用語解/p17~17
社告/p13~13,17~17
東洋城近詠 一疊庵/p18~18
凝視 / ひむがし/p18~18
奥付/p表紙の3
題僉 / 夏目漱石


(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。

続一畳庵.jpg

「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071581/1/10


(管見)

一 正岡子規が没したのは、明治三十五年(一九〇二)九月十九日、満三十四歳の若さである。その時、「ホトトギス」の「高浜虚子」は満二十八歳、そして、「渋柿」の「松根東洋城」は満二十四歳の時であった。
 爾来、この二人にとって、「旧制松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)」の先輩に当たる「正岡子規」は、終始、「忘れ得ざる大先達」であった。
そこに、この「正岡子規」と同年(慶應三年=一八六年)生まれの、「東大予備門(のち一高、現:東大教養学部)」以来の「正岡子規」の畏友「夏目漱石」(「旧制松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)」の教師として赴任)が介在してくることになる。
これらの経過については、下記のアドレスなどで見て来た。この「夏目漱石」(そして、その門弟の「寺田寅彦)も、この「正岡子規」門に連なる俳人ということになる。

「子規と漱石の世界」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306351243-1

「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見
https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306352448-1

「東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306354706-1

 その東洋城が、この「子規没後五十年」においては、「芭蕉に直結する吾が渋柿は由来居士(※子規)とは余り関係は持たず、自然催しには圏外に在つた」と、これは、言外に、「子規→虚子」ナガレの、日本俳壇中主流を占めている「俳誌・ホトトギス」を向けての批判を含んでいると解して差し支えなかろう。
 東洋城の「芭蕉・子規」論については、「渋柿(昭和七年=一九三二・五十五歳)四月号」において、「子規は実に俳諧復活救世主なり」と、「芭蕉・子規」とを骨格に据えての、次のような「俳諧根本義」などの構想を有していた。

[一 1 譬喩
   2 実例(俳句連句及俳文)—実例による俳諧の暗示
   3 魔訶不思議なもの
 二 4 誕生
   5 芭蕉
   6 衰亡
   7 蘇生—蕪村其他時々人々
8 死滅
 三 9 復活—(子規は実に俳諧復活救世主なり)
 四 10 子規—俳諧復活の状態と作業方式
 五 11 子規の作品
 六 12 イ 時代に対して反動的でありし余勢は俳諧本来の面目に対して変動的なりき
    ロ 俳句を見て連句を見ず
    ハ 芭蕉は消極美の半面と蕪村は積極美の半面を開く(積極美消極美の別 の評)
    ニ 芭蕉は主観的美、蕪村は客観的美(同然批評)
    ホ 其他更に対比評(その評)
    ヘ 芭蕉—無欲捨身—生活則俳諧、蕪村—欲—俳句に区々名利を避けたれど
 七 13  俳諧本来の面目
    イ 子規の芭蕉観
    ロ 芭蕉へ芭蕉へ   ](『東洋城全句集下巻』所収「芭蕉・子規」)

 この東洋城の「芭蕉・子規」を骨格に据えての「俳諧根本義」(俳論)の全貌は、その纏まったものは、完結せずに終わってしまったが、「芭蕉二百五十年記念文—頭の無い恐竜」(「渋柿(昭和十八年=一九四三・四月号~昭和十九年=一九四四・二月号、六十六歳~六十七歳)で、その骨子について再説している。

 そこでは、「子規は『明治俳句』の再建に於て前に言つた如くその半分—下半身を作つたことになる。子規の後続大流はその残る半分—上半身を完成しなければならなかつた。果して子規没後子規の仕事は続けられ着々進行し、子規の時分には思ひもかけられない程な膨大な身柄になり行いた。胴体手足がメキメキ肥り寧ろ異常な発達を遂げた。が、どうしたことか、それは専ら形の方体の方即図。体ばかりで、不思議に上体殊に頭が無い。」とし、東洋城は、「芭蕉に還れ、這つて芭蕉から出直せ、でなければ句など作ることを止めてしまへ。」と、これが、「子規没後五十年」(「昭和二十六年(1951) 七十四歳」)の、東洋城の遺言とも言えるものであろう。

 糸瓜忌やほ句(※発句)堕ちし世も五十年(東洋城「子規没後五十年」・昭和二十六年作)

二 「續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15」は、下記の前年(「昭和二十六年(一九六一)」の「一畳庵(1~5)」)の続編である。

昭和二十六年(一九六一)二月号「一疊庵(1) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071573/1/2
昭和二十六年(一九六一)三月号「一疊庵(2) / 東洋城/p16~16」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071574/1/10
昭和二十六年(一九六一)四月号「一疊庵(3) / 東洋城/p1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071575/1/2
昭和二十六年(一九六一)五月号「一疊庵(4) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071576/1/2
昭和二十六年(一九六一)六月号「一疊庵(5)終 / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071577/1/2

 しかし、この「續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15」は、さながら、芭蕉の「幻
住記庵(げんじゅうあんのき)」の如きものである。

[石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益(りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹(ねざさ)軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
 予また市中を去ること十年(ととせ)ばかりにして、五十年(いそぢ)やや近き身は、蓑虫の蓑を失ひ、蝸牛(かたつぶり)家を離れて、奥羽象潟(きさがた)の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて、今年湖水の波にただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき葦の一本(ひともと)のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。
 さすがに春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥(ほととぎす)しばしば過ぐるほど、宿かし鳥のたよりさへあるを、木啄(きつつき)のつつくともいはじなど、そぞろに興じて、魂、呉・楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫(なんくん)峰よりおろし、北風湖(うみ)を浸して涼し。比叡(ひえ)の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣たるる船あり、笠取に通ふ木樵(きこり)の声、ふもとの小田(おだ)に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰(しほう)の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山(たなかみやま)に古人をかぞふ。
 小竹生(ささほ)が嶽(たけ)・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと近う茂りて、「網代守(も)るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。なほ眺望くまなからむと、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座(えんざ)を敷きて、猿の腰掛と名付く。かの海棠(かいどう)に巣を営(いとな)び、主簿峰(しゅぼほう)に庵を結べる王翁(おうをう)・徐栓(じょせん)が徒にはあらず。ただ睡癖(すいへき)山民と成って、孱顔(さんがん)に足を投げ出(い)だし、空山に虱をひねつて坐す。たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの雫(しずく)を侘びて、一炉(いちろ)の備へいとかろし。はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。
 さるを、筑紫高良山(こうらさん)の僧正は、賀茂の甲斐何某(なにがし)が厳子(げんし)にて、このたび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らる。やがて草庵の記念(かたみ)となしぬ。すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器(うつはもの)たくはふべくもなし。木曾の檜笠、越の菅蓑(すがみの)ばかり、枕の上の柱にかけたり。昼はまれまれ訪(とぶら)ふ人々に心を動かし、或(ある)は宮守の翁(おきな)、里の男(をのこ)ども入り来たりて、「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑(まめばた)に通ふ」など、わが聞き知らぬ農談、日すでに山の端(は)にかかれば、夜座(やざ)静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火(ともしび)を取りては罔両(もうりょう)に是非をこらす。
 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の料(とが)を思ふに、ある時は任官懸命の地をうらやみ、一たびは仏離祖室の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「楽天は五臓の神(しん)を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。
 先づ頼む椎の木も有り夏木立  ](「幻住庵の記(元禄3年4月6日~7月23日 47歳)」他)

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/genjuan/genju000.htm

 芭蕉の「先づ頼む椎の木も有り夏木立」には、西行の「ならび居て友を離れぬ子がらめの塒(ねぐら)に頼む椎の下枝」(『山家集/下/雑の部』)を踏まえている。
 東洋城の「続一畳庵」では、これらの、芭蕉の「幻住庵記」には、一言も触れず、次の、寒山作の「五言律詩」を、「姑(コ=シバラ)く聴け、続け。古詩あり。」として、引用している。

[詩三百三首 其三 ・唐 · 寒山(五言律詩)
 其四十四
https://sou-yun.cn/poemindex.aspx?dynasty=Tang&author=%E5%AF%92%E5%B1%B1&lang=t

独臥重巌下(独リ臥ス重巌(チョウガン)ノ下(モト))
蒸雲晝不消(蒸雲昼モ消エズ)
室中雖澳靉(室中澳靉(オウアイ)ナリト雖モ)
心裏絕喧囂(心裏(シンリ)喧囂(ケンゴウ)ヲ絶ツ)
夢去遊金闕(夢ハ去ッテ金闕(キンケツ)ニ遊ビ)
魂歸度石橋(魂ハ帰ッテ石橋(シャッキョウ)ヲ度ル)
拋除鬧我者(拋除(ホウジョ)ス我ヲ鬧(サワガ)ス者)
歷歷樹間瓢(歴々(レキレキ)タル樹間ノ瓢(ヒサゴ))    ]

 この寒山作の「五言律詩」の後に、次の自作の句を結びとしている。

 秋風や鳴るとしいへば世のうつろ(東洋城「続一畳庵」)

 この上五の「秋風や」は、やはり、芭蕉の「秋の風・秋風」が背後に潜んでいよう。

1 荻の声こや秋風の口うつし(「続山井」、寛文6年(1666)、芭蕉23歳以前。)
2 秋風の鑓戸の口やとがりごゑ(「続山井」、寛文6年(1666)、芭蕉23歳以前。)
3 枝もろし緋唐紙破る秋の風(「六百番誹諧発句合」、延宝5年(1677)、芭蕉34歳。)
4 蜘何と音(ね)をなにと鳴(なく)秋の風(「向之岡」、延宝8年(1680)、芭蕉37歳以前。)
5 猿を聞く人捨子に秋の風いかに(「野ざらし紀行」、貞享元年(1684)、芭蕉41歳。)
6 義朝の心に似たり秋の風(「野ざらし紀行」、貞享元年(1684)、芭蕉41歳。)
7 秋風や薮も畠も不破の関(「野ざらし紀行」、貞享元年(1684)、芭蕉41歳。)
8 たびねして我が句を知れや秋の風(「野ざらし紀行絵巻」、貞享2年(1685)、芭蕉42歳。)
9 東にしあはれさひとつ秋の風(「伊勢紀行跋真蹟」、貞享3年(1686)、芭蕉43歳。)
10 たびにあきてけふ幾日やら秋の風(「真蹟集覧」、貞享5年7月、芭蕉45歳。) 
11 身にしみて大根からし秋の風(「更級紀行」、貞享5年、芭蕉45歳。)
12 あかあかと日は難面(つれなくも)も秋の風(「おくのほそ道」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)
13 塚も動け我泣くこゑは秋の風(「おくのほそ道」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)
14 桃の木の其葉ちらすな秋の風(「泊船集」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)
15 石山の石より白し秋の風(「おくのほそ道」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)

三 『東洋城全句集/中巻/昭和二十六年(七十四歳)』には、「一畳庵/四十八句」として、東洋城の「一畳庵」での四十八句が収載されている。
 そのうちの、「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収の「東洋城近詠 一疊庵/p18~18」の句(下記の十八句)の冒頭の一句は、次の「秋風や」の一句である。

 秋風や一畳庵の破障子(「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「一畳庵」の冒頭の句)


「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「一畳庵(十八句)」と「凝視(ひむがし=東洋城))

 この東洋城の「東洋城近詠/一畳庵」の、そこに表示されている「即景(右側)と即事(左側)と、その区分けによる「即景(右側)」の九句と、「即事(左側)」の九句とが、これまた、
「即景(右側の九句)=客観・写生の句=「子規・虚子の『ホトトギス』の流れの句」」と、「即事(左側の九句)=主観・心境・境遇の句=「子規・漱石・東洋城の『渋柿』の流れの句」」と、そんな、東洋城の、その作句、そして、その選句の、そんな心配りの、その一端のようなものが見え隠れしているように思える。
 そして、その「心配り」は、その「一畳庵(十八句)」の下段に表示されている「凝視(ひむがし=東洋城)」の、その「子供好き=子供の食事の際の仕草とその親の躾など」の、その「一畳庵そして、その近傍との、その「家族的な触れ合い」の描写(「凝視」)」に、東洋城の、その全貌の一端を解明する、そのキィーワードが潜んでいるように思われる。

四 この『東洋城全句集/中巻/昭和二十六年(七十四歳)』の中に、「寒山玲瓏/九句」と、当時の東洋城の「寒山=寒山の漢詩」に寄せてのものが収載されている。

 背に重荷荷坂どこまでの暑さかな(東洋城「寒山玲瓏/九句」の一句目)

[登陟寒山道(寒山道ニ登陟(トウチョク)スルモ)
 寒山路不窮(寒山路ハ窮(キワ)マラズ)
 谿長石磊磊(谿(ケイ)ハ長ク石ノ磊磊(ラクラク)タル)
 澗闊草濛濛 (澗(カン)ハ闊(ヒロ)ク草ノ濛濛(モウモウ)タリ)
 苔滑非關雨(苔ハ滑ラカナリ雨ニ關(セキ)スル非ザルニ)
 松鳴不假風(松ハ鳴クナリ風ニ假(カ)ハザルニ)
 誰能超世累(誰カ能ク世累(セイルイ)ヲ超(チョウ)スルモノゾ)
 共坐白雲中(共ニ白雲ノ中ニ坐セン)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12676430293.html    ]

 径途絶えけり慟哭す草茂み(東洋城「寒山玲瓏/九句」の二句目)

[可笑寒山路(笑ウベシ寒山ノ路)
而無車馬蹤(而シテ車馬ノ蹤(アト)モ無シ) 
聯渓難記曲(聯(ツラ)ナレル渓ハ曲ヲ記シ難ク)
畳嶂不知重(畳(カサ)ナレル嶂ハ重ヲ知ラズ)
泣露千般草(露ニハ泣ク千般ノ草) 
吟風一様松(風ニハ吟ズ一様ノ松)
此時迷径処(コノ時径ニ迷(マヨ)エル処)
形問影何従(形影ニ問ワントイルモ何レニカ従(ヨ)ラン) 」


http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.31.09.03.htm

 正直に生きて棺や夏の月(東洋城「寒山玲瓏/九句」の三句目)

[荘子説送終(荘子ハ送終ヲ説クニ)   
天地爲棺槨(天地ハ棺槨(カンカク)ヲ爲ストス)   
吾歸此有時(吾ハ此ノ有時ニ歸シ)   
唯須一番箔 (唯ダ須ラク一番箔トナスベキノミ)
 死将餧青蠅(死ハ将ニ青蠅ヲ餧(カ)ハントシ)
 吊不勞白鶴(吊(トムラ)ヒハ白鶴ヲ勞サズ)
 餓著首陽山(餓(ウ)エヲ首陽山ニ著ハセバ)
 生廉死亦樂(生ハ廉(ヤス)ク死モ亦タ樂シ)     ]

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12672535285.html

 この道や逝く人ばかり木下闇(東洋城「寒山玲瓏/九句」の四句目)

[四時無止息(四時ハ止ミ息(イコ)フコト無ク)
 年去又年來(年ハ去リ又年ハ來ル)
萬物有代謝(萬物ニ代謝有ルモ)
九天無朽摧 (九天ハ朽チ摧(カ)カルルコト無シ)
 東明又西暗(東ノ明カレバ又タ西ハ暗ク)
 花落復花開(花ノ落ツルモ復タ花ハ開ク)
 唯有黄泉客(唯ダ黄泉ノ客有ルノミニシテ)
 冥冥去不迴(冥冥トシテ去リ迴ラズ)       ]

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12674261618.html

 夏秋と寒く茂や世を隔て(東洋城「寒山玲瓏/九句」の五句目)

[有一餐霞子(ヒトリノ餐霞子(サンカシ)有リ)
其居諱俗遊(ソノ居ニハ俗遊ヲ諱(イ)ム)
論時実蕭爽(論時ハ実ニ蕭爽(ショウソウ)ニシテ)
在夏亦如秋(夏ニ在リテモ亦タ秋ノ如シ)
幽澗常瀝瀝(幽澗(ユウカン)ハ常ニ瀝瀝(レキレキ)タリ)
高松風颼颼(高松(コウショウ)ハ風ニ颼颼(シュウシュウ))
其中半日坐(其ノ中ニ半日坐スレバ)
忘却百年愁(百年ノ愁イヲ忘却ス)

https://note.com/kazmas/n/n70e3aeb989f8

 涼しさや樹下声張りて無宇の本(東洋城「寒山玲瓏/九句」の六句目)

[家住緑巌下(家ハ緑巌ノ下ニ住シ)
 庭蕪更不芟(庭ハ蕪(ア)レルモ更に芟(カ)ラズ)
 新藤垂繚繞(新藤ハ繚繞(リョウジョウ)ト垂レ)
 古石豎巉巖 (古石ハ巉巖(ザンガン)ノ豎(タ)ツ)
 山果獮猴摘(山果ハ獮猴(ビコウ)ガ摘ミ)
 池魚白鷺銜(池魚ハ白鷺ガ銜(クラ)フ)
 仙書一两巻(仙書ノ一两(一・二)巻アレバ)
 樹下讀喃喃(樹下ニ喃喃(ナンナン)ト讀ム)    ]

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12674085689.html

 百畳の一畳に身を昼寝かな(東洋城「寒山玲瓏/九句」の七句目)

[琴書須自随(琴書ハ須ラク自カラ随フベク)
 禄位用何爲(禄位ハ何ノ爲ニカ用ヒン)
 投輦從賢婦(輦(レン)ヲ投ゲテ賢婦ニ從フ)
 巾車有孝兒 (巾車(キンシャ)ニ孝兒有リ)
 風吹曝麥地(風ノ吹ケバ麥地ヲ曝(サラ)シ)
 水溢沃魚池(水ノ溢(アフ)レバ魚池ヲ沃ス)
 常念鷦鷯鳥(常ニ鷦鷯(サザキ)ノ鳥ヲ念ヒ)
 安身在一枝(身ヲ安ンズ一枝ニ在ルヲ)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12671892631.html

 来にし道忘れ果て薬摘みにけり(東洋城「寒山玲瓏/九句」の八句目)

[欲得安身處(身ヲ安ンズル處ヲ得ント欲セバ)
 寒山可長保(寒山コソ長ク保ツベシ)
 微風吹幽松(微風ハ幽松ニ吹キ)
 近聽聲愈好 (近クニ聽ク聲ハ愈々好シ)
 下有斑白人(下ニ斑白ノ人有リテ)
 喃喃讀黄老(喃喃(ナンナン)トシテ黄老ヲ讀ム)
 十年歸不得(十年歸ルヲ得ズンバ)
 忘却來時道(來タル時ノ道ヲ忘却ス)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12674904001.html

 九維六極褌もせずに裸かな(東洋城「寒山玲瓏/九句」の九句目)

[六極常嬰困(六極ハ常ニ困ヲ嬰(メグ)ラシ)
 九惟徒自論(九惟ハ徒ラニ自ラ論ズルノミ)
 有才遺草澤(有才ナレバ草澤ヲ遺シ)
 無藝閉蓬門 (無藝ナレバ蓬門(ホウモン)ヲ閉ヅ)
 日上巌猶暗(日ノ上ルモ巌ハ猶ホ暗ク)
 煙消谷尚昏(煙ノ消ユルモ谷ハ尚ホ昏シ)
 其中長者子(其ノ中ニ長者ノ子)
 箇箇總無裩(箇箇トシテ總テ裩(コン)無シ)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12676611718.html

曽我簫白「寒山拾得図」(双幅).jpg

曽我簫白「寒山拾得図」(双幅)
https://1000ya.isis.ne.jp/1557.html

光琳乾山角皿.jpg

光琳画・乾山書「銹絵寒山拾得図角皿」 重要文化財:江戸時代(18世紀):京都国立博物館蔵 二枚 三・三×二一・八㎝ 二・八×二一・八㎝
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-06-26
【 二枚の皿に寒山と拾得の図を描いた角皿で二枚一組になっている。寒山図の土坡に打たれた点描に光琳独特のリズムが感じられる。寒山図には「青々光琳画之」、拾得図には「寂明光琳画之」と落款を書しているので、やはり元禄十四年以前の作であろうか。拾得図の賛に「従来是拾得 不是偶然称 別無親眷属 寒山是我兄 両人心相似 誰能徇俗情 若問年多少 黄河幾度清」とあり、兄光琳の協力を得て作陶に生きようとする乾山の心がしのばれ、鳴滝初期の代表作の一つに挙げられる。 】 (『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説287」)


五 年譜の「伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。」の、その「皇太后大喪」の折の、東洋城の句は、下記のとおりである。

  貞明皇后大喪の儀終(はて)の御旅の
霊柩列車を見送り奉る
 日盛(ひざかり)に落す涙や霊柩車

 「貞明皇后大喪の儀」は、昭和二十六年(一九五一)六月二十二日の、「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)」による占領下で行われた。

貞明皇后大喪」.jpg

「1951年(昭和26年)6月の貞明皇后大喪」(「ウィキペディア」)

 因みに、「大正天皇の大喪」は、昭和二年(一九二七) 二月七日から翌二月八日にかけて行われた。この時、東洋城、五十歳。この「大正天皇」の生母は、「伯爵柳原前光の妹」で、その「伯爵柳原前光の妻・初子」は、「東洋城の母(敏子)」の、その「初子」の妹にあたる。
そして、東洋城の「結婚は許されず、東洋城が生涯独身を貫ぬいた」と相手方の女性と目せられて「柳原白蓮」は、その「伯爵柳原前光」の「妾の子」で、東洋城とは、血縁関係のない従兄妹(いとこ)同士ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-15

大正天皇の大喪.jpg

「1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪」(「ウィキペディア」)

(「大正天皇と私」より六句)

冬ごもり何に泣きたる涙かな
人の子におはす涙や時鳥
維武揚る微臣秋天をうたふべく
いくさ船並ぶや海の原の秋
草も木もこがらし防げ君が為め(前書「謹祷」)
神去りましゝ夜の凍る大地かな(前書「百姓相泣」)

 とにもかくにも、東洋城にとって、この昭和二十六年(一九五一)、七十四歳時の、生まれ故郷の「伊予(愛媛・「松山・宇和島」)」の、その仮住まいの「一畳庵」は、さながら、「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。」(芭蕉「笈の小文(序」)の、その「西行・宗祇・雪舟・利休・(そして、芭蕉)」の、その「漂泊の詩人たち」の、その根源に宿している「寒山詩」(唐の隠者寒山の詩を収録した詩集。正式名称は『寒山子詩集』。通常もう二人の隠者拾得と豊干の詩も併集するため、『三隠集』『三隠詩集』とも呼ばれる。)を、紐解いていたこというは、これは、ここに、特記して置く必要があろう。
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その四 [東洋城・豊隆・青楓]

その三「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)・東洋城『悼野上氏(臼川・豊一郎)』など」

俳誌・渋柿(431号)表紙.jpg

「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)」表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071562/1/1

俳誌・渋柿(431号)巻頭文・目次.jpg

「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)」(巻頭言「荻窪から(小宮豊隆)」・目次)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071562/1/2

悼野上君(東洋城).jpg

「俳誌・渋柿(431号/昭和25・3)」(東洋城「西に向つて言ひ東に」・「悼野上豊一郎君」)

(目次)
[卷頭語 / 秋谷立石山人/表一
荻窪から / 小宮蓬里野人/表二
卷頭句 / 東洋城/p1~12
句作問答/p1~13
讀人不知の作者 / 城/p14~15
同 句作問答/p15~
松古堂氏逝 / 東洋城/p15~15
卷頭句(脱漏)/p15~15
西に向つて言ひ東に / 東洋城/p16~16
伊豫指導に就て / 東洋城/p16~
悼野上氏 / 城/p16~16
西下餘喘(5) / 東洋城/表四
ドヤ[ドヤ] / ひむがし
奧付/表紙の三
前號正誤/表紙の三     
伊豫指導日程/表紙の三
題僉 / 夏目漱石       ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)


(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。


(「一畳庵(十句)」) (『東洋城全句集(中巻)』所収)

門無くて柿の一本や冬の立つ
茅屋根の茅の厚みや冬に入る
冬灯(※ふゆともし)一畳庵の障子かな
鶲来(※ひたきく)の楓枯枝や冬籠
西吹けば昼も戸閉(※とざ)す冬籠
冬籠るや隣の寺の暁(※あけ)の鐘
日々夜々(※ひびよよ)や前山雪の消え積り
行年(※ゆくとし)峡(※たに)に日当る口の方
年守(※としもる)や松山五里の峡(※たに)の里


(管見)

一 小宮豊隆の「巻頭言」は、これまでの「中野から」が「荻窪から」に変わっている。これは、昭和二十四年(一九四九)三月に、「杉並区沓掛町一七九」に自宅をもとめて転居したことによる。「渋柿(421号)/ 昭和24・5」に、「沓掛町」は、「信州の沓掛と混同され易い。多く下車する駅の名をとつて、『荻窪から』といふ事にしたい。」と記されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071552/1/2

 この「荻窪から」(小宮蓬野里人)の次に、「流浪記(2)僑居 荷捌き 山廬再訪 」(東洋城)が続き、その「奥付」で、「下山移住に就ひては流浪遍歴を旨とし一所不在の」とし、殊に、
東洋城の故郷ともいうべき「松根家(宇和島藩伊達家=母方)」の、その「伊予(松山藩・宇和島藩の各地)」を、その「伊予俳諧道場」逍遥の旅に明け暮れることとなる。
 そこで、「一畳庵(十句)」) (『東洋城全句集(中巻)』所収)を、今に遺している。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071564/1/2

二 「伊予俳諧道場」の逍遥で、東洋城が、昭和二十五年(一九五〇)八月から翌年三月まで滞在して「一畳庵」と名付けた、松山から東へ約十九キロの「川内町河之内音田」の「惣河内神社」の社務所の一隅が、その名なのである。

一畳庵.jpg

「一畳庵」(「いよ観ネット」)
https://www.iyokannet.jp/spot/3438

伊予・地図.jpg

「今治・松山・東温(川内町河之内音田=惣河内神社=一畳庵)・大洲・宇和島」
https://www.iyokannet.jp/spot/3438

 この「惣河内神社」の宮司が、「渋柿」の同人の「巨星塔(きょせいとう)」(本名「佐伯惟揚(これあき)」)で、当時は地元の「三内中学校」の校長も兼ねていた。東洋城は、旧居のある「大洲」ではなく、ここの辺鄙な「惣河内神社=一畳庵」が、一番心休まる所のようで、翌年の昭和二十六年(一九六一)の八月から、その翌年の二月まで、実に、十五か月間も、ここを仮住まいとした。
 これらのことについて、昭和二十六年(一九六一)二月号から六月号にかけて「一畳庵(之記)」を下記のとおり連載している。

昭和二十六年(一九六一)二月号「一疊庵(1) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071573/1/2
昭和二十六年(一九六一)三月号「一疊庵(2) / 東洋城/p16~16」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071574/1/10
昭和二十六年(一九六一)四月号「一疊庵(3) / 東洋城/p1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071575/1/2
昭和二十六年(一九六一)五月号「一疊庵(4) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071576/1/2
昭和二十六年(一九六一)六月号「一疊庵(5)終 / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071577/1/2

三 昭和二十五年(一九五〇)二月に「野上臼川(豊一郎)」が没した。「野上臼川(豊一郎)」への、東洋城の悼句は次のとおりである。

  悼野上豊一郎君 望幽招魂
 きさらぎや君後(※のち)ジテに今一(※ひと)たび

その前年(昭和二十四年=一九四九)十二月に、「野上臼川(豊一郎)」と「法政騒動(学内紛争)」(昭和八年=一九三三)で確執のあった「森田草平」が没している。
 「漱石十弟子(漱石十二弟子)」のうち、物故者は下記の六人ということになる。

寺田寅彦(明治十一=一八七八・十一月~昭和十年=一九三五)
鈴木三重吉(明治十五年=一八八二~昭和十一年=一九三六)
岩波茂雄(明治十四年=一八八一・八月~昭和二十一年=一九四六)
赤木桁平(明治二十四年=一八九一~昭和二十四年=一九四九・十二月十日)
森田草平1881年(明治十四年=一八八〇〉~昭和二十四年=一九四九・十二月十四日)
野上臼川(豊一郎) (明治十六年=一八八三~昭和二十五年年=一九五〇二月二十三日)

なお、「漱石十弟子(漱石十二弟子)」などについては、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-02-17

 また、「法政騒動(学内紛争)」(昭和八年=一九三三)関連については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-08


(参考その一) 松根東洋城の「一畳庵」周辺

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/6/view/1215

[ 一畳庵と名付けたのは松根東洋城本人であり、彼はここに昭和25年(1950年)8月から翌年3月までと、昭和26年8月から翌年2月までの2回、計15か月滞在し、俳誌『渋柿』の選句、弟子たちの指導に当たっていた。
 惣河内神社の宮司は俳人佐伯巨星塔(きょせいとう)(本名惟揚(これあき)、1898~1984年)、その長女が**さんである。
 「父(巨星塔)は若いころ書店で俳誌『渋柿』と出会い、東洋城先生(以下弥生さんの話の中に出てくる先生は松根東洋城を指す。)の指導を受けるようになりました。先生がなぜわたしの家に滞在されるようになったかよく分かりませんが、お弟子さんの中のだれかの紹介ではなかったかと思います。問い合わせてみると『どうぞおいでください。』ということになったのでしょう。社務所は住宅兼用(昭和41年〔1966年〕まで)でしたから、先生とわたしども家族とは一つ屋根の下で住むことになったのです。わたしには妹が4人いますが、下の二人がまだ小さくて、先生に大変かわいがっていただきました。また父をはじめお弟子さんたちも温かくもてなしました。そのようなことが、二度にわたり長期滞在をなさった理由の一つになったのかもしれません。
 一畳庵については、先生の『一畳庵の記』に詳しく書かれていますが、社務所の南西の隅、わずか畳一枚の部屋(座敷の廊下のような部分)のことです。実際は南西の角の半畳も使っておられたので一畳ではなく一畳半です。先生も『そこで一畳庵は正確に尺を入れたら、一畳半庵でなくてはならぬが、』と述べておられますが、さらに筆を続けて『そこはそれ無断越境の気安さ、又蒲団(ふとん)を捲(ま)くって置けば他に場席を塞(ふさ)がなくても机も書座も事足ること故矢張(やはり)一畳庵でいいと思ふ。』と理屈をつけておられます。布団は敷きっぱなし、人が来られると二つ折りにして、南の畳敷きの縁側に置いてある机を挟んで対座されるのでした。
 先生がわが家に滞在しておられたころ、わたしは松山で学生生活をしていて家には時々帰る程度でしたから、先生がお弟子さんをどのように指導しておられたのかよく知りませんが、両親の話によると、お弟子さんたちは先生の前では緊張していたようです。問答形式を通して追及し、相手に考えさせるような指導(安易に添削などしない。)をされたと聞いています。お弟子さんたちは難儀したということです。先生の指導は厳しかったというのはこういう指導だったからでしょう。しかし、相手の気持ちをつかむのが上手な先生でしたから、お弟子さんも指導が厳しいからやめようと思っても、どこかに心のつながりをつくってくださるので、続けられたのだと思います。
 母も俳句をつくっていました(俳号松花(しょうか))。しかし、先生のお世話と子供たちの養育とで大変でしたので『俳句はつくれません。』と先生に言うと、『忙しいと言うが、その家事の中にも題材があるのではないか。』と言われ多少は詠んでいました。ほめられたこともあったといいます。ある時は『うん、松花、なかなかうまい。君は松花じゃなくて大家だよ。』と先生に言われたそうです。先生には厳しい反面こんなところもあったので、もうやめたと思ってもそんなことを言われるとおかしくなって、また思い直して俳句を詠んだと母は話していました。とにかく先生の一畳庵での生活は充実したものであり、先生はこの庵(いおり)のくらしが大変気に入っておられた御様子でした。
 この一畳庵といわれる社務所は神社の所有です。かやぶきなのですが、神社の予算ではかやぶき屋根の維持ができません。やむを得ず町に届け出て(町の有形文化財に指定されているので)、トタンをかぶせました。昔どおりかやぶきの姿を残してほしいという声もありますし、俳文学関係の貴重な建物でもありますので、将来条件さえ整えば、またもとのかやぶきに戻したいと思っています。」 ](データベース『えひめの記憶』)

(参考その二) 「 東洋城と5人姉妹(「佐伯巨星塔」家続)周辺

http://www.trancewave.tv/~iyosaiken/saiken/1997_04.php

[ 一畳庵
 惣河内(そうごううち)神社入り口にあるウラジロガシの巨木を見ながら鳥居をくぐる。右手に東洋城の「山屏風春の炬燵にこもるかな」の句碑があった。石段をあがり、参拝する。拝殿の左手に咲く、桜を見ながら社務所の方に歩いていくと、東洋城の愛弟子、佐伯巨星塔(きょせいとう)氏の長女にあたる佐伯弥生さんが庭の手入れをされていた。社務所の建物は茅葺きにトタンを被せてはあるが、東洋城が滞在したときのままである。弥生さんが、障子を開け放って、東洋城が愛用した机の上に遺影を置き、庭に咲く紫紺の花を活けてくださった。温かい、春らしい日である。下の県道を走る車の音が時々聞こえてくるが、それもどことなく長閑(のどか)に聞こえる。
 東洋城は、昭和25年73歳の春、伊予の門人たちを教えに来て、佐伯家に1泊した。質朴な茅葺きの社務所兼用の住宅、庭の老松、野鳥の鳴き声、庭前に広がる棚田の風景、金比羅寺の大杉、そして屏風の様に囲む山々。河之内の風物と人情がすっかり気に入った東洋城は夏に佐伯家を再訪し、そのまま、居着いてしまうのである。東洋城は、佐伯家玄関脇の庭に面した8畳間の東角の1畳をカーテンで仕切って借り受け、自ら「1畳庵」と命名した。布団は敷きっぱなしで、巨星塔氏をはじめ弟子が来たときには、布団を押しやって座り、1畳の隣の半畳に置いた机を隔てて弟子と向き合い指導した。痩身長躯、俳句については俗事を一顧だにしなかった東洋城の指導は峻烈を極めた。弥生さんは直立不動で叱られている父巨星塔氏の姿をよく覚えておられるそうだ。「ふだんは優しい方やったんですけど、俳句だけは別でした。父はもうほんとうに巨星塔なんて大きな俳号でしたけど、こんなに小さくなってましたよ」と体をすぼめて笑われる。しかし、さすがの東洋城も、食事から、洗濯、足袋の繕い、原稿の清書に至るまで、身の回り一切の面倒を引き受けてくれたカヲル夫人には頭が上がらなかった。「ある時、先生がね。母に俳句をやらんかって勧められたんです。そしたら、母がね、めずらしく逆らったんですよ。先生、私は先生の食事も作らなければならないし、洗濯もしないといかんし、子供たちの面倒もみなければいけない。ですから、とても俳句なんかひねってられませんいうてね」。手きびしい反撃にあった東洋城は、それでも「カヲルさん。俳句はね、身近なものを題材にして作るものだから、大根を切りながらでもできるんだよ」と答えたそうである。結局、カヲル夫人も俳句を始めた。カヲル夫人の俳号は松花という。生まれ育った在所である松本の松からとったものだ。「それがね。母の俳句は身近なものを題材にということに徹したのがよかったのか、結構なとこまでいったんですよ」。
「足袋刺すや 子らそれぞれの足のくせ 松花」
 巨星塔氏とカヲルさんとの間に5人の娘さんがあった。長女の弥生(やよい)さん、次女の昭子(あきこ)さん、3女の嘉寿子(かずこ)さん、4女の綾子(あやこ)さん、5女の二三子(ふみこ)さんである。この、5人姉妹の足袋を繕いながら詠んだカヲル夫人の句を見た東洋城は「松花(ショウカ)君、君は小家じゃなくて大家だよ」と言って心から嬉しそうであったという。

 百日櫻と5人姉妹
 惣河内神社には、四季桜の1種で、東洋城が「百日櫻」と命名して愛惜した桜の木がある。巨星塔氏の母上が大正2年に植えられたものだ。庭の池の片隅に東洋城が揮毫した百日櫻の碑が残っている。今も変わらず、10月のはじめに花をつけ、白猪の滝が氷結する正月にも咲いて春を迎える。
 夏目漱石は「東洋城は俳句本位の男である。あらゆる文学を17字にしたがるばかりではない、人生即俳句観を抱いて、道途(どうと)に呻吟(しんぎん)している」と言った。しかし、孤独な東洋城も呻吟ばかりはしていなかったのである。
 たとえ、ひとときにもせよ、老境にあって、伊予の山峡でこの美しい百日櫻を見、庭に来る「ひたき」を愛で、桜にもまして可憐な愛弟子の5人娘に囲まれて過ごすという幸せを持ったのである。5女の二三子さんが修学旅行で東京に出かけたときのことだ。愛する孫かとも思う二三子さんを案内しようと東洋城が宿に迎えに来た。長身の東洋城は、何時に変わらぬ作務衣にもんぺ姿。落とさぬように、紐で手袋を首に掛け、腰にはこうもり傘をさしていたそうだ。二三子さんは、少し恥ずかしかったそうだが、東洋城は掻き抱くようにして連れ歩いたという。後に東京に嫁いだ3女の嘉寿子さんとも始終行き来があった。なにかというと東洋城は嘉寿子さんを頼った。最後の病に臥した東洋城をほとんど看護したのは嘉寿子さんであった。
 弥生さんは、東洋城の滞在中、愛媛大学の学生で松山市に下宿していた。「先生は抹茶がたいへんお好きで、毎日、母に点ててくれいわれたそうです。母はお茶なんか習ったことないから、上手によう点てんいうとったんですが。私が少し習っていましたので、松山から帰ってきた時に点てて差し上げたら、弥生君のお茶はおいしいねえって言われました」。
 昭和34年、巨星塔氏が還暦祝いの旅でカヲルさんと上京したときのことである。東洋城は夫妻を先導して浅草の仲見世へ行き、4歳になった弥生さんの長男弘(ひろむ)さんへのお土産にと、「赤胴鈴之助の面や髷(まげ)やそれから竹刀、白い袴」を大童で探し歩いたという。「仲見世へおもちゃあさりも長閑かな」そのときのことを詠んだ東洋城の句である。
 東洋城は、ピーナッツを1日に10個と決めて机の上に置き、口寂しいときはそれを摘んだ。食事は多くは摂らなかったが、近在の弟子たちが、野菜や、豆腐、こんにゃくなどを届け、松山の弟子はバス便で肉や魚を届けてよこした。調理はすべてカヲル夫人が行った。生涯娶らず俳句一筋、家庭を持たなかった東洋城にとって、伊予河之内の「桜の園」は、桃源郷のようなところであったに相違ない。

東洋城・鼻サイン一.jpg

「写真を東洋城に送ったら『赤胴君安着。あの写真、飯を食ふ時は食卓へ、机に居るときは机の上 どうもありがと 縫い物そのうち送る カヲルどの』と返事が来た。東洋城は巨星塔氏の初孫、弘さんを自分の孫のように愛した。」

東洋城鼻サイン二.jpg

「東洋城の鼻のサイン
『きみのかいた絵をおぢいちゃんがおくってくださった おもしろい じょうづにできたね ひろむくん』
東洋城は消息の末尾に鼻を一筆で書いた。東洋城は鼻の高い美男子であった。](「伊予細見」)
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その三 [東洋城・豊隆・青楓]

その三「俳誌・渋柿(417号/昭和24・1)・「漱石三十三回忌」など」

「俳誌・渋柿(417号)」表紙.jpg

「俳誌・渋柿(417号/昭和24・1)」表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071548/1/1

「俳誌・渋柿(417号)」目次.jpg

「俳誌・渋柿(417号/昭和24・1)」目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071548/1/2

「俳誌・渋柿(417号)」奥付.jpg

俳誌・渋柿(417号/昭和24・1)」所収「漱石先生三十三回忌(東洋城)」・「奥付など」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071548/1/10

(目次)
[卷頭語 / 秋谷立石山人/p表一
中野から / 小宮蓬里野人/p表二
漱石忌/p1~1
漱石雜詠/p1~1
落木林森(15)夕ぐれ / 東洋城/p2~3
卷頭句 / 東洋城/p4~11
句作問答/p4~8
句作問答(第二部) 九月號、十月號、十一月號/p8~11
お年玉--「空谷無人」に付 / 東洋城/p12~13
下山轉住 / 城/p13~13
例會 松山十一月/p13~13
用語解 / 綠蔭/p13~13
題詠/p14~15
蓑虫 / 十四王/p14~14
冬隣 / 晨悟/p15~15
噫格堂 / 城/p15~15
漱石先生三十三回忌 / 東洋城/p16~16
曲謠 檜垣(上) / 東洋城/p表四
奧付/p表紙の三           ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)


東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。


(管見)

一、 「中野から / 小宮蓬里野人/p表二」の末尾に、「六十でも、七十でも、いい事を始めるのに遅いといふ事はない。今日の三十三回忌を機として、ひとつ大にやる事にしようぢやないか。(昭和二三・一二・九)」と記されている。
 ちなみに、小宮豊隆は、『漱石二十三回忌』(昭和17年)に、『漱石全集(決定版)』の「小宮豊隆『解説』」一巻に収めた『漱石の芸術(著者/小宮豊隆 著/出版者 岩波書店/出版年月日 昭和17)を刊行している。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1078598/1/3

[「漱石の芸術」
目次
『吾輩は猫である』/1
短篇上/26
短篇下/71
『虞美人草』/113
『坑夫』/130
『三四郎』/143
『それから』/161
『門』/178
『彼岸過迄』/195
『行人』/216
『心』/250
『道草』/267
『明暗』/284
小品/323
『文學論』/354
『文學評論』/384
「評論・雜篇」/408
「詩歌俳句及初期の文章」/441
「日記及斷片」/477
「書簡集」/507
「續書簡集」/544
「別冊」/574
談話筆記 本の書き入れ  ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

二、「漱石忌/p1~1」「漱石雜詠/p1~1」中の「東洋城」の句は、次のとおりである。

「漱石忌/p1~1」中の「東洋城」の句は、次の二句である。

五(※いつ)とせや山住(※やまずみ)下りて漱石忌   (東洋城)
大(※おお)いなる冬大(※だい)なる詩(※し)や漱石忌 (同)

三、「落木林森(15)夕ぐれ / 東洋城/p2~3」「卷頭句 / 東洋城/p4~11」「句作問答/p4~8」「句作問答(第二部) 九月號、十月號、十一月號/p8~11」「お年玉--「空谷無人」に付 / 東洋城/p12~13」「下山轉住 / 城/p13~13」「例會 松山十一月/p13~13」「用語解 / 綠蔭/p13~13」のこれらは、全て、「東洋城(俳文)」「東洋城選句(選句)」「東洋城(句作問答)」「東洋城(関連句会・近況報告)」ということになる。

四、「下山轉住 / 城/p13~13」には、「下山準備の数十日、昼夜兼行。(中略) 七十老齢這箇患累顧みてよく身命を次ぐと思ふ。(後略)
  餅を搗く隣や都第一夜  」と、浅間山麓より帰京しての、その第一夜の感慨を記している。

下山転住.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071548/1/8

五、「題詠/p14~15」「蓑虫 / 十四王/p14~14」「冬隣 / 晨悟/p15~15」は、「題詠(秋の空)/水莖春雨選、題詠(蓑虫)/西岡十四王選、題詠(冬隣/小林晨悟選)で、「渋柿」の主要同人が関与しているのは、この「雑詠(題詠)」のページ数にして二頁に満たないということになる。即ち、俳誌「渋柿」というのは、主宰者・松根東洋城が「隅から隅まで」手入れしている個人俳誌という印象すら拭えないというのが、素直な見方であろう。

六 「漱石忌/p1~1」「漱石雜詠/p1~1」そして「漱石先生三十三回忌 / 東洋城/p16~16」も、東洋城の選句、そして、東洋城の「漱石先生三十三回忌」の記述ということになろう。この「漱石先生三十三回忌」の、当日の出席者の名は「鏡子夫人」以外は記述されていない。


(追記その一)  『漱石と十弟子(津田青楓著)』周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-11

(再掲)

漱石と十弟子(津田青楓著)一.jpg

『漱石と十弟子(津田青楓著)』(右上から)「世界文庫・昭和24年版」/「朋文堂新社・昭和42年版」/(右下から)「芸艸堂・昭和49年版」/「芸艸堂(新装版)平成27年版)」
https://twitter.com/unsodo_hanga/status/1355015832892399617/photo/4

 『漱石と十弟子(津田青楓著)』は、昭和二十四年(一九四九)一月に世界文庫より出版した。これは、津田青楓は、その前年(昭和二十三)十二月九日の「漱石三十三回忌」については触れていないが、「漱石三十三回忌」に因んでの出版と解しても差し支えなかろう。
 この著書の、「漱石十弟子」は、年齢順にすると、次のとおりとなる。

松根東洋城(明治十一=一八七八・二月)・寺田寅彦(明治十一=一八七八・十一月)
森田草平(明治十四年=一八八一・三月)・岩波茂雄(明治十四年=一八八一・八月)
鈴木三重吉(明治十五年=一八八二)
阿部次郎(明治十六年=一八八三・八月)・野上臼川(明治十六年=一八八三・九月)・安倍能成(明治十六年=一八八三・十二月)
小宮豊隆(明治十七年=一八八四)
赤木桁平(明治二十四年=一八九一)

 これに、この『漱石と十弟子(津田青楓著)』の折り込みの口絵写真(「漱石山房図/漱石と十弟子(津田青楓画)」には、受付のような人物(百鬼園=内田百閒)が描かれている。この受付のような人物(百鬼園=内田百閒)が、(筆者亀吉=津田青楓)というものもある。

漱石山房と其弟子達A.jpg

「漱石と十弟子(津田青楓画)」昭和51(1976)年/紙本著色/A4判用(縦30.9cm×横22.0cm×厚さ0.04cm)→B図(「漱石山房記念館蔵」)
https://soseki-museum.jp/user-guide/museum-shop/

 これらについては、下記のアドレスなどで先に紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

 ここで、この(百鬼園=内田百閒)と(筆者亀吉=津田青楓)との二人も付け加えて置こう。

津田青楓(明治十三年=一八八〇)
内田百閒(明治二十二年=一八八九)

 上記の「漱石十弟子(漱石十二弟子)」のうち、昭和二十三年(一九四八)十二月九日の「漱石三十三回忌」の年以前の物故者は、次のとおりとなる。

寺田寅彦(明治十一=一八七八・十一月~昭和十年=一九三五)
鈴木三重吉(明治十五年=一八八二~昭和十一年=一九三六)
岩波茂雄(明治十四年=一八八一・八月~昭和二十一年=一九四六)
赤木桁平(明治二十四年=一八九一~昭和二十四年=一九四九・十二月十日)

茂雄と桁平.jpg

「岩波茂雄と赤木桁平(津田青楓「スケッチ画」)」(『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-11

[ 岩波氏(※岩波茂雄)の顔も、桁平氏(※赤木桁平)の顔も画家から言ふと捨てがたい珍品なのだ。岩波ときたら禅月大師十六羅漢像の、なかからぬけ出した一人の羅漢像のやうで、画中の白眉なんだ。線の太い大形な羅漢のとなりに、これは又貧弱な色の青白い、当時大学を出たてのほやほやの法学士、赤木桁平君は、そのころのインテリゲンチャの風采を代表してゐるかに見える。
 それが隅っこの方で岩波が本を見てゐると桁平君が首をのばして、その本をのぞき込んでゐる。その顔の対照が面白いからこの二人はやめられないのだ。岩波はそのころ女学校の先生をやめて、神田にケチくさい古本屋の店を出してゐた。それが漱石のものを手はじめに出版をぽちぽちやり出し、仲間の学者連のものをちらほら出してゐるうちに、変り種の本屋として老舗となり、こつちの知らぬまに多額納税者とやら貴族院議員とやらになつてゐた。趣味のない男だから岩波本が世間に出るやうになつてから、本の装幀はカチカチになつてしまつた。
 桁平は、近江秋江や徳田秋声や田山花袋なぞの自然主義文学が癪だといつて、「遊蕩文学撲滅論」を書いて、文壇をさはがせた。支那戦争が段々英米戦争に発展せんとする段階に突入するころから、どこで学んだのか一ぱしの海軍通になり、「日本の海軍は無敵だよ、イギリスとアメリカほむかうにまはしたつて毅然たるものだよ。」そんな元気で遂に「アメリカ恐るるに足らず」といふ一書を発表して軍国主義のおさき棒を勤めた。終戦後国会議員の責任が追及された時、真先きに辞任してひつ込んでしまつたのは賢明であつた。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

※ 岩波茂雄の最期は、「1945年(昭和20年)3月27日:貴族院議員。/ 1946年2月11日:文化勲章を受章。/1946年4月25日:逝去。」(「ウィキペディア)と、出版界の雄として栄光の裡に没した。
それに対して、赤木桁平のそれは、「1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し赤木を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)、A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留される。同年12月6日に衆議院議員を辞職。後に病気のため釈放されるも、公職追放となり、そのまま不遇のうちに死去。」(「ウィキペディア」)と、岩波茂雄と好対照の不遇の裡に没している。
そして、その没した日が、「漱石三十三回忌」(「1949年(昭和24年)2月9日」)の翌日(2月10日」)というのは、赤木桁平(池崎忠孝)の最期のメッセージのようにも思われてくる。


(追記その二)  小宮豊隆の「東京音楽学校長就任・辞職」周辺

[昭和二十一年(一九四六) 六十二歳
 東京音楽学校長を引き受ける。これは岩波茂雄の奔走によるものである。(以下略)
昭和二十四年(一九四九) 六十五歳
 (前略) 六月 東京音楽学校長辞職。 ](『蓬里雨句集』所収「小宮豊隆年譜」)

[第二次世界大戦後の1946年、新校長小宮豊隆の主導で職員の大量罷免を伴う学内改革が行われた。その結果、高折宮次(ピアノ科主任)、遠藤宏(音楽史科主任)、木下保(声楽科主任)、橋本國彦(作曲科主任)、井上武雄(ヴァイオリン科主任)、平井保三(チェロ科主任)、井口基成(ピアノ科)、宇佐美ため(ピアノ科)、平井保喜(作曲科)、永田晴(管科)、細川碧(作曲科)、中村ハマ(ピアノ科)の11名の教授が罷免され、その独裁的なやりかたに抗議する校長不信任運動に加わった豊増昇、永井進の2名のピアノ科教授が退職した。
 1949年5月31日、学制改革により新制東京芸術大学が発足すると、東京音楽学校はこれに包括されて音楽学部の前身となり、1952年3月に廃止された。本流の予科・甲種師範科が募集70人と超少数精鋭であったが、全入の選科も東京藝術大学音楽学部に統合したため、音楽学部の募集は172名(1951年以降)となった。なお東京美術学校には選科生はほとんど居なかったため、東京美術学校の予科・師範科の募集人数と東京藝術大学美術学部の募集人数はあまり変化しなかった。
 1946年の募集人数 甲種師範科30名、本科40名(予科と統合)。本科内訳 声楽科8名、器楽科(ピアノ・オルガン8名、バイオリン・チェロ・ダブルベース6名、管楽器・打楽器5名)作曲科2名、邦楽科(能楽2名、箏曲4名、長唄4名) ](「ウィキペディア」)

[2.2 東京音楽学校校長の邦楽科廃止論
 小宮は,1948 年 5 月 6 日と 7 日の『時事新報』において,東京芸術大学においては,邦楽科を置く代わりに,邦楽研究所を設ける計画であることを公表した。新しい大学では技術と理論が互いに支えあう教育が行われるべきであり,理論的研究や歴史的研究が遅れている邦楽を後進養成のためだけに大学で教育すべきではないというのが彼の考え方だった。そして,研究所の使命は,邦楽の中で真に民族的なものを明らかにし,将来に生かすべきものとそうでないものを明らかにすることであるとし,その研究のために,純粋な邦楽を純粋に保存する必要があるとした。その考え方の基礎には,邦楽は,洋楽に比べて,現在の日本人の心の一部しか動かすことのできない「過去の芸術」,「無縁の芸術」であるという見方があった(小宮 1948)。
さらに,この問題を取り上げた 6 月 29 日の『読売新聞』には,「邦楽は日本の封建時代に育てられ,完成した日本芸術であるから世界の芸術の仲間入りをするためには必ず洋楽の過程を経なければならぬというのが私の信念だ【中略】邦楽をやりたいものは学部を卒業してから研究所に入ればよい」という小宮の談話が掲載された(吉川 2002: 203)。
 小宮は,新しい時代の日本音楽は,洋楽を基礎として生み出されるべきであり,邦楽はそこでは役割を果たしえないと考えていたようだ。小宮は,ちょうど邦楽科廃止論争に決着がついた 1949 年に初版が出版された『明治文化史』第 9 巻「音楽演芸」の第一章「明治の音楽・演芸」を執筆している。その中で,「和楽」について,「明治維新の変動からはたいした影響を受けることがなく」,「いわば『文明開化』の世界のものとは,全然趣の違った世界を表現しているのに過ぎない」(小宮 1980: 51)としている。
小宮が理想としたのは,日清・日露戦争を経て「名義上だけでも世界の一等国の仲間入りをし」た「新しい日本にふさわしい」「気宇の雄大な音楽」だった(小宮1980: 54)。東京音楽学校の前身である音楽取調掛は,1879 年,伊沢修二を掛長として発足し,「東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事」を方針の 1 つとした。しかし,小宮は「日本の在来の音楽の方面」では,「そういうことが一向顕著でない」と断じ,それは「在来の日本の音楽に携わる人達が,ことごとく個人主義者であり,保守主義者であり,自分の籠っている硬い殻の中から首を出して,世間を眺めようとする意欲を奮い立たせることがなかったせいだったのではなかったか」(小宮 1980: 54–55)と国立民族学博物館研究報告  28巻 2 号268記している。さらに,西洋音楽についての節では,この「和洋折衷」の方針は「虻
蜂とらずのものになり易」く,「音楽取調掛が東京音楽学校となり,東京音楽学校があらゆる方面の外人教師を招聘し,次第に洋楽専門の音楽教育に発展して行ったことは,当然のことだった」(小宮 1980: 61)としている。
『明治文化史』中の文章は,明治時代の音楽について書かれたものだが,小宮は,基本的に邦楽科廃止論争当時の邦楽にも同様の見解をもっていた。東京芸術大学が発足する 1949 年 6 月を目前にして,小宮は 4 月 8 日と 5 月 11 日に衆議院文部委員会に呼び出されている。会議録に記された 5 月 11 日のやりとり(衆議院文部委員会1949)の中で,小宮は,邦楽を「大学の教育の本筋の中からは取除き」「別科としてこれを置きたい」と述べている。
別科とは「一般的な教養は十分ではないけれども技術がすばらしくできるというふうな人の技術を伸ばさせるために」置かれたもので,「今のところ邦楽は技術だけなの」で別科で十分としていた。彼は,研究が進んだ段階で正科に入れるかどうか考えるべきだとも述べているが,本気でそのようにするつもりはなかったようである。「邦楽を認めないとか,あるいは邦楽を低級だというふうに考えてない」とは述べているが,「これから先の音楽は洋楽が本流になるべきもの,また教育するとすればその本流に従って教育すべきであ」るとした。彼によれば,「邦楽の上に西洋音楽のようなものを継ぎ木をして,その継ぎ木をしたものから新しい日本の音楽をつくろうとするのは姑息な手段で」あり,家元制度を打破し新しい音楽をつくる邦楽の革新は,邦楽の制度の中で育ってきた者にはできない。さらに,彼は次のように自身の邦楽観を語っている。
「 実は私は邦楽には将来の発展性はないというふうにしか考えられないのです。その意味で邦楽の将来に対しては私はスケプチツクなんです。その理由は,邦楽は長い歴史を持つているには違いないけれども,しかし琴だの三味線だのというものは,徳川の時代になつてから発逹したものでありまして,また徳川の時代に完成したものでございますから,いわば徳川の町人の趣味あるいは感情,あるいは思想といえば言い渦ぎるかもしれませんが,そういうものを表現しているものではあるけれども,もつと古い時分からの,二千年なら二千年の歴史を貫いて日本に流れている日本の民族精神というふうなものを,十分に表現し得ておるものとは,私は考えられないのであります。ことに江戸時代には,音楽は遊里の生活と結びつき,あるいは芝居と結びついて,江戸の町人一般の好尚を代表し,また好尚をしつけて来ているような形になつております。その徳川の町人文化というものは,たいへんいいものもあるし,また一方からいえば,今日の時勢には非常に適しないものをたくさん持つておる。そういうふうな意味で,琴だとか長うただとかいうもののいいものと悪いものをよりわけて,今日の時勢に適するとか,あるいはこれから先文化国家としての日本人の栄養の源になつて,新しい力を奮い起して新しい仕事をしようという,その仕事の燃料を供給することができるような力は,持つていないと私は信じております(衆議院文部委員会 1949)。」 ] (「小泉文夫の日本伝統音楽研究―民族音楽学研究の出発点として―福岡正太稿」)

※ 『漱石と十弟子(津田青楓著)』では、小宮豊隆について、次のような夏目漱石評を紹介している。
「 豊隆は素裸体になれない男だから、知らぬ奴は反感を起すが悪気はないよ。」
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その二 [東洋城・豊隆・青楓]

その二「俳誌・渋柿(412号/昭和23・8)」・『東洋城『東京(2) 目白と中野 ・ゾラと熊谷 / 城/p1~3』」周辺

俳誌・渋柿(412号・(昭和23・8)・表紙.jpg

「俳誌・渋柿(412号/昭和23・8)」表紙

俳誌・渋柿(412号(昭和23・8).jpg

「俳誌・渋柿(412号/昭和23・8)」

(目次)
卷頭語 / 秋谷立石山人/p表一~
目白から / 安倍太古漫人/p表二~
東京(2) 目白と中野 ゾラと熊谷 / 城/p1~3
卷頭句 / 東洋城/p4~11
句作問答/p4~9
句作問答(第二部) 四月號 五月 六月號/p10~12
松諷詠/p12~12
用語解/p12~12
正誤/p12~12
謝告・募集/p12~12
題詠 山笑ふ 桐の花 蝙蝠 前置付(春夏季) / 晨悟 ; 喜舟 ; 春雨 ; 東洋城/p14~15
一句 / 東洋城/p15~15
消息 日々好日 東京栃木 御紋章燦然 お供へ林檎 千噸客船 畫中山 河鹿とお紺 老不老/p16~16
例會/p17~17
松 / 東洋城/p表四~
與力松/p表四~
奧付/p表紙の三~

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。

(管見)

一、「卷頭語 / 秋谷立石山人/p表一」は、表紙の「題籢/渋柿(夏目漱石筆)」の右側の「巻頭語(秋谷立石山人)」を指している。この「秋谷石山人」は、「松根東洋城」の号の一つである。この号の「巻頭語」は、「鮒が汚水に呼吸困難、水面に口を出/し無理にパクパク。人々亦汚世に噞喁(※けんぎょう=「魚が水面に口を出して呼吸すること。あぎとうこと。また、転じて、はげしく口論、抗議すること。けんぐ。けんぐう。」)、/清流『渋柿』に脱して僅に活き居つゝ。」である。

二、「目白から / 安倍太古漫人/p表二」は、表紙(裏)の、「巻頭言(文)」の「目白から / 安倍太古漫人」を指している。この号の「安倍太古漫人」の「太古漫人」は、「安倍能成」の号の一つである。
「寺田寅彦(木螺山人=ボクラ〈みのむし〉サンジン)」没後は、「小宮豊隆」(蓬里野人=ホウリヤジン)と「安倍能成(太古漫人=タイコマンジン)」が、それぞれ「中野から(「小宮蓬里野人」)と「目白から(安倍太古漫人)」とで、当時の。俳誌『渋柿』の、「松根東洋城(「秋谷立石山人」=「立石山人=リュウシャクサンジン」)との、「三つ鼎(ミツガネ)=鼎の足のように、三人が三方に対座すること」とで、俳誌「渋柿」の柱石となっている。

三、「東京(2) 目白と中野 ゾラと熊谷 / 城/p1~3」は、上記の「東洋城年譜・昭和十九年(1944)」の「空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る」のとおり、東洋城は「浅間山麓」(長野県軽井沢の小瀬温泉)に疎開していて、その疎開先から東京の「目白(能成宅)」と「中野(豊隆宅)」を訪問しての記述である。「目白(能成宅)」では、二人の共通の趣味の「謡」に興じ、一泊して、「中野(豊隆宅)」に朝駆けして、「木螺山人(寺田寅彦)」などとの旧交の談義をしたことが綴られている。
 当時の阿部能成は、文相退任後、上野の「帝室博物館総長・国立博物館館長を務め」の要職にあり、小宮豊隆は、東北大を定年退職して、上野の「東京音楽学校長」の要職にあった。
 「ゾラと熊谷」というのは、その「目白(能成宅)」と「中野(豊隆宅)」との訪問の後、「ゾラの生涯」(「1937年製作のアメリカ映画」)を「帝国劇場」で見たことと、歌舞伎「熊谷」(「初代・中村吉右衛門」出演)を「東京劇場(?)」で見たことなどが記されている。
 因みに、「終戦から復興に向かう日本を象徴する流行歌として知られる楽曲」の「東京ブギウギ」(鈴木勝作詞、服部良一作曲、笠置シヅ子歌唱)が「日本劇場」で、『日劇ショー 東京ブギウギ』で大ヒットとなった年である。

(参考その一)「文部大臣就任時の阿部能成」周辺

幣原改造内閣.jpg

https://www.ehime-art.jp/info/wp-content/uploads/2017/08/abe-yoshishige.pdf
●写真「幣原改造内閣 閣僚の記念写真」
 昭和21(1946)年1月15日撮影。GHQのマッカーサー元帥は、ポツダム宣言に則り、日本の軍国主義侵略政策に加担した総ての人物を公職から追放するように指示した。この結果前年10月に発足していた幣原内閣は総辞職か内閣改造かに追い込まれたが、5人の閣僚を更迭し改造をすることでこの難局を凌いだ。3列目中央が安倍能成、最前列右端が幣原首相、左端が吉田茂外相。(読売新聞社所蔵)

(参考その二) 「帝国劇場」での「ゾラの生涯」(「1937年製作のアメリカ映画」)公演周辺

ゾラの生涯.jpg

『ゾラの生涯』(ゾラのしょうがい、The Life of Emile Zola)の「ポール・ムニ(左)とエリン・オブライエン=ムーア」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF

※ 東洋城は、「『文豪ゾラの生涯』、終戦後映画らしい映画を見たのはこれが始めて。」「偶々帝劇前を通りかゝり席があり入場、」「『東京の現今』を見る上に、『現今の映画』をばも見なければなるまい。」など記し、この「文豪ゾラの生涯」(映画)の後、「祖父は大名(宇和島藩八代藩主・伊達宗城)で、江戸育ち(「中屋敷が木挽町(芝居といえば木挽町)」)の芝居好き(「新富座」の「「歌舞伎」通人」)で、「『吉右衛門』(※「初代中村吉右衛門)」の『熊谷』(※「熊谷陣屋」)の歌舞伎のことが綴られている。
 そこで、最後に、「『「熊谷=歌舞伎」はおいしい御馳走で、「ゾラ=映画」は體の補ひの栄養料理だ』」と、東洋城の終生の「歌舞伎好き」の一端を結びとしている。

(参考その三) 「初代中村吉右衛門」と「熊谷陣屋」周辺

中村吉右衛門.jpg

「歌舞伎美人/もっと楽しむ/「人」を楽しむ/ようこそ歌舞伎へ/『熊谷陣屋』中村吉右衛門」
https://www.kabuki-bito.jp/special/actor/welcometokabuki/post-post-welcometokabuki-87/4/

※ この記事中の、「初舞台/昭和23年6月東京劇場『御存俎板長兵衛(ごぞんじまないたちょうべえ)』一子長松で、中村萬之助を名のり初舞台。」に注目したい。「二代目中村吉右衛門」の初舞台は、昭和二十三(1948)六月、「東京劇場」での、『御存俎板長兵衛(ごぞんじまないたちょうべえ)』(一子長松で、中村萬之助を名のり初舞台)で、この初舞台は、東洋城が記事にしている、初代中村吉右衛門の「熊谷陣営」の公演の時と同じであったように思われる。
 というのは、東洋城が、「偶々帝劇前を通りかゝり席があり入場」したという「ゾラの生涯」の、本邦初公開は「1948年(※昭和23年)6月で(「ウィキペディア」)、東洋城は、帝国劇場で「ゾラの生涯」を見て、その足で、東京劇場の「熊谷陣屋」を見たと解して置きたい。
 そして、その「熊谷陣屋」で「熊谷次郎直実」を演じる「初代中村吉右衛門」については、小宮豊隆が、明治四十四年(一九一一)、二十七歳の時に、「新小説」に『中村吉右衛門論』を発表して、夏目漱石の叱責を甘受しながら、「演劇評論家・小宮豊隆」がデビューした、小宮豊隆(そして、松根東洋城)にとっては、忘れ得ざる歌舞伎役者ということになる。

初代中村吉右衛門.jpg

『一谷嫩軍記』熊谷陣屋(初代中村吉右衛門【熊谷次郎直実】)
https://meikandb.kabuki.ne.jp/actor/364/

東京劇場.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%8A%87%E5%A0%B4
[東京劇場は1930年(昭和5年)3月に演劇場として開業。六代目 尾上菊五郎と十五代目 市村羽左衛門、六代目 尾上梅幸の3大役者がこけら落とし興行を飾った。築地に一際目立つ重厚な建物で知られ、歌舞伎や軽演劇が上演されていた。1945年(昭和20年)、歌舞伎座が東京大空襲で焼亡したため、東京劇場が歌舞伎の演劇場として選ばれるようになった。 戦争終結後の9月には、早くも市川猿之助一座が『黒塚』と『東海道中膝栗毛』を演じていた。 その後も1951年(昭和26年)に再建されるまでは、東京の歌舞伎の中心だった。](「ウィキペディア」)

(参考その四) 小宮豊隆の『中村吉右衛門』(著者/小宮豊隆 著/出版者・岩波書店/出版年月日・1962) (「国立国会図書館デジタルコレクション」)周辺

https://dl.ndl.go.jp/pid/2498132

[目次
中村吉右衛門論 その他
中村吉右衛門論/p3
市村座の『文覚』/p23
『吉右衛門論』に就いて・その他/p30
市村座の『逆櫓』・その他/p36
吉右衛門に与ふ/p46
『新樹』を中心として/p56
『養蚕の家』と吉右衛門と/p70
吉右衛門の第一印象/p80
『勧進帳』の比較/p88
『陣屋』の盛綱/p113
吉右衛門雑記
吉右衛門のお母さん/p135
吉右衛門の芸/p140
私の『中村吉右衛門論』のこと/p152
『沼津』の花道/p159
私の吉右衛門との対談/p162
吉右衛門の由良之助/p215
吉右衛門と『リア王』/p219
熊谷の心理/p223
紅いおちやんちやん/p229
『吉右衛門句集』/p231
『盛綱陣屋』/p234
『盛綱』の映画/p238
吉右衛門と文化勲章/p241
吉右衛門の死/p252
『吉右衛門日記』/p254
吉右衛門を思ふ/p264
『吉右衛門自伝』序/p268
『中村吉右衛門定本句集』序/p273
河竹繁俊君著『中村吉右衛門』序/p277
あとがき/p281            ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)
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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見) [東洋城・豊隆・青楓]

その一「俳誌・渋柿(405号/昭和23・1)」

俳誌・渋柿(405号).jpg

「俳誌・渋柿(405号/昭和23・1)」(奥付/p17~17)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071536/1/10

(目次)
巻頭語 / 秋谷立石山人/p表1~
中野から / 小宮蓬里野人/p表2~
敗太郎(中) / みどり/p1~1
卷頭句 / 東洋城/p2~12
句作問答/p2~6
社告/p17~17
消息 / 諸氏/p17~17
勉強表の勉強表 / 山冬子調/p13~13
落木林森(十三)山中餅搗-雪山の薪 / 東洋城/p14~15
題詠/p16~16
雲の峯 / 喜舟/p16~16
暑さ / 括瓠/p16~16
東洋城近詠/p18~18
玉菜の外葉 / ひむがし/p18~18
奥付/p17~17

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。

(管見)

一、「中野から / 小宮蓬里野人/p表2~」は、「小宮豊隆(俳号・蓬里雨)」の、当時の近況が知らされている。下記「年譜」の「※昭和21年 1946 東京音楽学校(現東京芸術大学)校長となる。教育刷新委員・国語審議会委員となる。」の頃である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-14

(付記)

小宮豊隆(俳号・逢里雨).jpg

「小宮豊隆(俳号・逢里雨)」(「みやこ町歴史民俗博物館/小宮豊隆資料」)
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/top/
[小宮豊隆氏(年譜)
明治17年 1884 3月7日福岡県仲津郡久富村(現犀川町久富)で生まれる。
明治20年 1887 父・弥三郎の転勤にともない大和郡山へ移る。
明治24年 1891 帰郷し、豊津尋常小学校に転校。
明治27年 1894 5月22日父・弥三郎死去。
明治30年 1897 豊津高等小学校卒業。福岡県立尋常中学校に入学。
明治35年 1902 豊津中学校卒業。7月に第一高等学校入学。
明治38年 1905 7月第一高等学校卒業。9月東京帝国大学文学部独文科に入学。従兄の犬塚武夫の紹介で夏目漱石の知遇を得、在学中の保証人を依頼する。大学ではドイツ語の講義とともに、漱石の「文学評論」やシェイクスピアの講義も聴講する。
明治41年 1908 7月東京帝国大学卒業。
明治42年 1909 4月慶応義塾大学に文学部が創設され、講師となる。このころから、ロシア文学への興味が深まる。朝日新聞に文芸欄が創設され、漱石の手伝いをする。
明治44年 1911 1月郷里にて結婚。
大正5年 1916 東京医学専門学校講師となる。12月9日夏目漱石死去。
大正6年 1917 「漱石全集」の編集にとりかかる。
大正9年 1920 海軍大学校嘱託教授となる。
大正10年 1921 芭蕉研究会に参加。
大正11年 1922 4月法政大学教授となる。東北帝国大学法文学部独文講座を引き受ける。
大正12年 1923 3月渡欧。5月にベルリンに到着し、以後欧州各国を歴訪。
大正13年 1924 帰国。東北帝国大学教授となる。
大正15年 1926 芭蕉俳諧研究会を始める。
※昭和21年 1946 東京音楽学校(現東京芸術大学)校長となる。教育刷新委員・国語審議会委員となる。
昭和22年 1947 6月都民劇場運営委員長となる。
昭和23年 1948 11月東北帝国大学名誉教授の称号を贈られる。
昭和24年 1949 6月東京音楽学校々長辞職。東京女子大学講師・俳文学会々長となる。
昭和25年 1950 4月学習院大学教授となる。以降、学習院では文学部長・女子短期大学々長をつとめる。12月文化財専門審議会専門委員となる。
昭和26年 1951 10月学士院会員となる。
昭和29年 1954 5月著書「夏目漱石」で芸術院賞受賞。
昭和30年 1955 4月財団法人都民劇場会長。7月国立劇場設立準備協議会々長を委嘱される。
昭和32年 1957 3月学習院退職。4月東京都教育委員となる。
昭和33年 1958 「世阿弥の芸術」を御進講する。
昭和34年 1959 東京都教育委員辞任。
昭和35年 1960 東大病院に入院。手術を受ける。
昭和36年 1961 喜寿・金婚式。
昭和40年 1965 3月都民劇場会長辞任。同名誉会長となる。
昭和41年 1966 5月3日午前4時、肺炎のため東京都杉並区の自宅にて逝去。享年82歳。東京南多摩霊園と豊津町峯高寺に分骨埋葬。
(「篷里雨句集」巻末年譜及び小宮里子氏のご教示により作成) )

二、「勉強表の勉強表 / 山冬子調/p13~13」は、昭和十四年から昭和二十二年までの「渋柿」の巻頭句を占めた句数の表(抜粋)である。

勉強会一.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071536/1/8

 上記のトップの「喜舟」は、昭和二十七年(1952)に東洋城の跡を引き継いで「渋柿・主宰」を務めた「野村喜舟」である。

野村喜舟.jpg

「野村喜舟」(「北九州市立文学館」)
https://www.kitakyushucity-bungakukan.jp/display/169.html
野村 喜舟(のむら きしゅう)… 1886-1983
俳人。本名喜久二[きくじ]。
石川県金沢市生まれ。
東京市小石川の砲兵工廠に勤務。
夏目漱石門下の松根東洋城に師事、「国民新聞」の俳句欄で活躍。東洋城の主宰する「渋柿」に創刊時から選者として参加。1933(昭和8)年に小倉工廠に転勤となる。52年から76年まで「渋柿」を主宰した。小倉北区の篠崎八幡神社に「鶯や紫川にひびく声」の句碑がある。句集『小石川』」「紫川」など。

三、その「勉強表の勉強表 / 山冬子調/p13~13」の三番目の「晨悟」は、「小林晨悟(こばやししんご)/明治二十七年生れ、昭和四十三年没(1894~1968)」で、「晨悟」は、大正四年「渋柿」創刊より参加、昭和二十七年離脱。この離脱は、東洋城の誌事(主宰)より隠居(隠退)の節目の年となり、『渋柿』主宰は「野村喜舟」、その編集発行は、「勉強表の勉強表 / 山冬子調/p13~13」の、十番目の「(徳永)山冬子」と、八番目の「(徳永)夏川女」との「徳永御夫妻」に託されることになる。
 この「(徳永)山冬子」は、昭和五十一年(1976)に、喜舟の跡を継いで「渋柿・主宰(三代)」となる。

https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E6%B0%B8%20%E5%B1%B1%E5%86%AC%E5%AD%90-1650332

徳永 山冬子(トクナガ サントウシ)

生年明治40(1907)年6月1日
没年平成10(1998)年12月7日
出生地愛媛県
本名徳永 智(トクナガ サトシ)
別名前号=木患子,炬火
学歴〔年〕日本大学卒
経歴昭和4年「渋柿」に入る。初め木患子、次いで炬火と号し、14年上京後山冬子と改める。27〜41年「渋柿」の編集担当。以後代表同人兼課題句選者。52年野村喜舟のあとを受け、主宰。のち最高顧問・編集長。42年俳人協会評議員。句集に「寒暁」「失明の天」など

四、冒頭の「奥付/p17~17」中、

〇「編集兼発行人」→「東京都品川区上大崎一丁目四百七十番地/松根卓四郎」の「松根卓四郎」は、東洋城(嫡男)の弟(三男)である。この「卓四郎」は、「編集兼発行人」となっているが、実質的には「編集兼発行人」は「主宰・東洋城」で、「卓四郎」宅の一間を「渋柿本社」としており、謂わば、「卓四郎」は「社主」ということになる。

〇「印刷者」→「栃木県栃木市室町二百四十五番地・松本寅吉」/「印刷所」→「同・両毛印刷株式会社」は、大正十二年(1926)の、関東大震災により、東洋城の平河町の屋敷、並びに、発行所が炎上して、直ちに、栃木市で、その年の「渋柿十月号」を刊行し、この縁により、昭和二十六・七年(1952)まで、ここが「印刷所・印刷者」となる。「発行所・渋柿者発行部」→「栃木県栃木市倭町二百九十五番地」は「「小林晨悟」の住所と思われる。

五、「落木林森(十三)山中餅搗-雪山の薪 / 東洋城/p14~15」については、『東洋城全句集(中巻)』の「昭和二十二年(七十歳)/「落木林森(下)より百六句」に収載されている。

六、「東洋城近詠/p18~18」については、『東洋城全句集(中巻)』の「昭和二十二年(七十歳)/末尾(八句)」に収載されている。この「末尾(八句)」は、「東洋城近詠/p18~18」では、「山」と出して、「旧年(昭和二十二年)八句」の句にあたり、それに続いて「新年(昭和二十三年)十句」とが、以下のように掲載されている。

「山」(『東洋城全句集(中巻)』には、この「山」の記載はない、「山」とは「疎開先=「浅間山麓」(「年譜」に「昭和十九年、空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る」とある。なお、次弟・新八郎は信州大((旧制松本高校))で教職に就いている。)

「旧年(昭和二十二年)八句」→『東洋城全句集(中巻)』の「末尾(八句)」に収載されている。

神主が暦呉れけり年の暮
食ふことに追はれ疲れや年の暮
大三十日山谷狐屋独坐かな
大年や酒ちよつとまゐる酒配給
山中や狐(こ)ツもかも鳴け年忘
年名残咳名残りとてあらざりけり(前書に「久しく癒えず」)
年守るや句作問答常の如
ト(うらな)思ふや建仁建長除夜の鐘

「新年(昭和二十三年)十句」→『東洋城全句集(中巻)』の「巻頭(十一句)」の「十句」として収載されている。

つくつぐと身に敗戦や去年今年
昨の垢今日の膚(はだへ)や去年今年
元日や雪唯白う雪山家
元日の料理越しけり雪母屋
昔屠蘇てふありき族(やから)並びけり(前書「思ひくさぐさ」)
餅食ふや雑煮は汁のものぐさき
事繁く雪に薪切る二日かな
季寄せ繕ふだけをいとまに三日かな(前書に「忙二句」)
せめてもの正月晴や窓あけて(同上)
初夢や東海の勝浪平
(松内や徹夜に唯の夜を続け)→『東洋城全句集(中巻)』の「巻頭(十一句)」の末尾の句

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「津田青楓」管見(その十) [東洋城・豊隆・青楓]

そ十「津田青楓と良寛そし書道と画道」周辺

良寛像.jpg

《良寛像》1975 出典 : 『青楓美術館図録』
https://note.com/azusa183/n/n4e78d78b364a

良寛歌いろいろ.jpg

《良寛歌いろいろ》1973 出典 : 『青楓美術館図録』
https://note.com/azusa183/n/n4e78d78b364a

「 青楓が良寛に関心をもったのは、良寛愛好家であった夏目漱石と一九一四(大正三)に良寛の草書屏風を見たことがきっかけであった。そこから良寛の書に注意を向けるようになり、関東大震災を機に京都に移住した頃から、日本画家安田靫彦より贈られた良寛の自選歌集『布留散東(ふるさと)』を手本に仮名文字の臨書を毎日はじめるようになった。以来、青楓は書にものめるようになった。 」((『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「「コラム」良寛の跡をたどって(喜多孝臣稿)」)

(参考その一) 「良寛《 歌切 》安田靫彦極箱」(抜粋)周辺

良寛《 歌切 》.jpg

「良寛《 歌切 》安田靫彦極箱」(抜粋)
https://tosui.org/products/%E6%8E%9B%E8%BB%B8-%E8%89%AF%E5%AF%9B-%E6%AD%8C%E5%88%87-%E5%AE%89%E7%94%B0%E9%9D%AB%E5%BD%A6%E6%A5%B5%E7%AE%B1

[ 「良寛歌集『ふるさと』について(竹下数馬稿) 」など抜粋

file:///C:/Users/user/Downloads/KJ00002451957.pdf
https://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/397ryoukannouta.html
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1521325-1811.html
https://ryoukan-w.info/?page_id=95

 はちのこをわがわするれども/とるひとはなしとるひとはなし/はちのこあはれ

しらゆきをよそにのみ/めてすご(ぐ)せしがまさに/わがみにつもりぬるかも
       
 やまぶきのはなのさか/りはすぎにけりふるさ/とひ(び)とを/まつとせし

 かくありとかねてしら/ばたまぼこのおちゆく/ひとにことつ(づ)てましを   ]


(参考その二) 「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十七~その二十)周辺

その十七「昭和八年(一九三三)」 → 「青楓・五十三歳」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-04

※ 十二月、『書道と画道』小山書店から出版。

書道と画道.jpg

https://www.ebinashoten.jp/product/6026
[『書道と画道』( 津田青楓 著/出版者 小山書店/出版年月日 昭和8 /「国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1238347/1/4
標題
目次
私の書歷(上)/1
私の書歷(下)/10
書の理解(上)/21
書の理解(下)/27
良寬の假名文字(上)/31
良寬の假名文字(下)/40
良寬の三嫌ひ/47
字を書く時の氣分/51
書の多面性と一面性(上)/61
書の多面性と一面性(下)/69
筆墨も亦人を擇ぶ(上)/75
筆墨も亦人を擇ぶ(下)/82
心は萬境に隨て轉ず/93
傳神と氣韻(上)/99
傳神と氣韻(下)/107
點と線との藝術/113
蔬菜果物線描法/119
藤井の手首/129
新柄輸入と染悉皆屋/133
案内狀/135
N博士との對話/137
上代假名/139
下手ものと上手もの/141
竹田の畫と僧海量/143
翰墨會/157
大隈言道のひとりごと/171
線の考察/179
寂嚴の書/199
漱石先生の書畫道(上)/207
漱石先生の書畫道(下)/220     ]

その十八「昭和九年(一九三四)」→ 「青楓・五十四歳」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-08

※ 七月、『墨荘雑記』楽浪書院から出版


https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=3252663
[目次 /
土地の歷史 / 1
さくらの花 / 6
創造の過程 / 9
名と實 / 14
紅梅から若葉まで / 19
畫壇人月旦 / 23
伊藤左千夫のこと / 67
『蒸發皿』のあるところ / 71
好きな花厭ひな花 / 75
讀書時間 / 78
戰爭の諸相 / 81
感覺諸相 / 90
京都案内 / 101
素裸體 / 106
新らしきもの / 111
在巴句日記 / 113
會場風景 / 115
旅の記憶 / 119
大正十四年の歌 / 122
詩七章 / 152
制作的懷疑時代 / 163
飽心卽求新 / 168
畫家の轉向問題 / 170
聲明書 / 177
新興リアリズムの建設について / 180
日本畫と西洋畫 / 183
茶道の美の基準の反動性 / 191
織物の話 / 196
書の骨 / 198
支那好き / 200
職人主義の圖案家を排す / 204
閑墨談 / 209
一枚の繪葉書 / 213
暴風の夜 / 223
旅順の日記 / 244
敵襲 / 301
一日紀行 / 309
婦除女 / 314
グルーズの女 / 329
私の隨筆について / 343   ]

その十九「昭和十年(一九三五)」→ 「青楓・五十五歳」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-13

※ 九月、酒井千尋(酒井億尋の兄)の案内で良寛の五合庵の遺跡をまわる。十一月、春陽堂から『良寛随筆』出版。十二月二十二日、青楓芸術のもっとも良き理解者・寺田寅彦死亡。


『良寛遺跡帖』(1935/ 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』)
https://note.com/azusa183/n/n4e78d78b364a

※『良寛遺跡帖』は、昭和十年(一九三五)九月に、「酒井千尋(酒井億尋の兄)の案内で良寛の五合庵の遺跡をまわった」時のスケッチ集である。この年の十一月に出版した『良寛随筆』
の目次は、次のとおりである。

[『良寛随筆』目次
一 良寛の生ひたち
二 良寛の臨終
三 良寛と貞心尼のこと
四 良寛の壮年と晩年の心境
五 情熱を蔵す良寛
六 良寛は愚物か
七 良寛の小判四十枚
八 苦行する良寛

良寛随筆.jpg

良寛随筆/津田青楓/翰墨同好會/南有書院/昭和10年発行/翰墨同好会
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h1089987415     
https://note.com/azusa183/n/n4e78d78b364a            ]

良寛父子伝.jpg

『良寛父子伝(津田青楓著)』(「限定百部出版の五十七」)
https://aucview.com/yahoo/p1085721782/

良寛和尚像(青楓画).jpg

「良寛和尚像(青楓画)」(『良寛父子伝(青楓著)』所収)
https://aucview.com/yahoo/p1085721782/

※ 『良寛父子伝(青楓著)』は、昭和四十二年(一九六七)五月に、「津田青楓先生米寿御祝記念品」(限定百部・自費出版)として刊行されたもので、その原型は、昭和十二年(一九三七)・青楓・五十七歳)九月に、「中央公論(九月号)」に発表したものである。
 その「昭和十二年(一九三七)」の「略年譜」は次のとおりである。

[ 一月家族と伊東温泉に行く小宮豊隆に逢う。中谷宇吉郎宅で年頭の屠蘇をかわす。二月墨人倶楽部を作る。芋銭、放庵、一政、菅楯彦、矢野橋村らと同人結成。六月第一回墨人展、大阪朝日会館で開く。酒井千尋と貞心尼の住んだ閻魔堂(えんまどう)を探査に長岡在福島に行く。同月十五日河上博士五年の刑を終えて出所。この間獄中へ三度ばかり訪ねたが、あかぎれの足を見て落涙したことがある。八月家族と野尻湖に行き『良寛父子傳』校正、中央公論九月号に発表。この年、中央公論新年号付録の「人名辞典」は青楓の『重要作品』としてプロレタリア美術への関心を高めたという「新議会」の他「春郊」「裸婦」を挙げている。]
(『津田青風デッサン集(著者・津田青楓、解説・小池唯則)所収「津田青楓九十六年のあゆみ・・・解説にかえて・・・(小池唯則)」)

 この「良寛父子傳」を中央公論九月号に発表する一年前の、昭和十一年(一九三論)中央公論一月号の「人間良寛」の中で、青楓は、自分が良寛に関心を寄せる心持を次のように述べている。

[ 私の心が良寛に引きずられるのは(中略)、良寛が生涯あらゆるものに堪へしのぶことを私に教へてくれる点にある。/堪へしのぶことは一切を放棄してしまったのちに出てくるものではない。未だ放棄し得ざる悩みの過程から生まれくる。そこに人間良寛が生きて居り、人間としての私等を引きずる力がある。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「コラム 良寛の跡をたどって(喜多孝臣 稿)」)

 続けて、「青楓のいう良寛の『堪へしのぶ』とはどういうことだろうか」ということについて、「コラム 良寛の跡をたどって(喜多孝臣 稿)」では、次のように記述している。

[ 良寛は、好んで世を避け、一切を放棄し、山の中に一人住んだ遁世者である、と多くの人たちはただそのように見ていた。しかし、青楓は、そこに葛藤する良寛の姿を見たのである。良寛の父以南は、勤皇思想家で幕府からの弾圧を受けていた。そのため京都の桂川で入水自殺をしたとされているが、高野山に身を隠したという説もある。青楓は、後者の説をとり、名を明かせずに生きる父の暗い影が良寛にさし、良寛の遁世は、複雑に渦巻く感情を堪えるさなかにあるという。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「コラム 良寛の跡をたどって(喜多孝臣 稿)」)

 さらに、昭和十六年(一九四一)の「対米宣戦布告」があった年に、青楓が綴った「常識の人」(「懶画房草筆(中央公論社)」所収)の、青楓の到達した「良寛像と自画像に」に触れている。

[ そこから青楓は、「良寛は自分から遁世したのではない、世の中がさうさせたのである」と考えを進める(「常識の人・(前掲書所収)」)。それは、あたかも良寛の生き方を国家からの弾圧により洋画の道を捨てた自らの来し方に重ねるかのようである。
「複雑な感情をぢつと押へて堪へ忍んで来た良寛はかうして常識が完備して行った。そして人間の完成へと進んだ。闘ひなから生きて行くことは人間を完成してくれる力を創造する。」(「常識の人・(前掲書所収)」)
 青楓は、皆に愛される良寛の歌や詩は、「堪へしのぶ」ことによる成熟から生まれてきたものとみた。そうした良寛の生き様は、青楓にとって洋画断筆後の一つの道しるべになっていた。」(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「コラム 良寛の跡をたどって(喜多孝臣 稿)」)

※ 青楓の良寛への傾斜というのは、まさに、洋画を断筆した、昭和八年(一九三三)の「二科会退会」後の、『書道と画道』(小山書店刊)をスタートとして、その一応のゴールは、太平洋戦争が勃発した、昭和十六年(一九四一)の『懶画房草筆』(中央公論社刊)ということになる。

懶画房草筆.jpg

『懶画房草筆』(著者 津田青楓 著 出版者 中央公論社 出版年月日 昭和16)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1130599/1/3
(「国立国会図書館デジタルコレクション」 )
[目次
荻窪隱栖記/1p
書畫漫談/16p
無題録/21p
駄馬の如くに/25p
所有癖/37p
人情輕薄/39p
幼時の思ひ出/46p
銀狐/71p
讀書せぬ辯/80p
腹の立つ依頼/82p
冬の華/86p
河上博士と私/91p
牛久沼の翁/115p
寺田寅彦博士/124p
寺田さんと畫/133p
藝術の型/137p
近所で會ふ人々/140p
朝顏の花/148p
赤人の歌一首/152p
權益の過程/154p
湖畔/161p
野尻涼景/163p
病院風景/169p
温泉宿の泥棒/179p
栖鳳さん/189p
尾瀬沼/192p
我が別莊入の記/199p
閑談/216p
我が三様の旅/218p
日本繪畫の精神と技巧/220p
斷片/229p
人間良寛/231p
常識の人/260p
良寛と山小屋/269p
五合庵/278p
良寛の忍苦/284p
玉島圓通寺/290p
死床の良寛/306p
寫生日記/310p
短歌
習作素描歌/347p
乞食/393p
後記/448p       ]


(追記)「津田青楓と河上肇」周辺

※ 「津田青楓」(明治十三年=一八八〇)は、京都(華道の去風流家元の出身だが、小卒の丁稚奉公・日露戦争従軍などの「ノンエリート」)出身、「河上肇」(明治十二年=一七七九)は、山口県(長州)の岩国(岩国藩士の、山口高校・東大卒・読売新聞記者・京大教授歴任の「エリート」)出身で、一歳年上である。
 青楓が河上肇について書いたものとして、そのまとまったものとして『河上・青楓白描像クラルテ社、 1948』が挙げられるであろう。この著書は下記のアドレスで閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1670061/1/7

[『河上・青楓白描像クラルテ社、 1948(昭和23)』
目次
留置場素描/1
河上博士の人間性/11
人を隱す/19
河上博士奧さんの此頃/31
安井の藝術と人/41
惡口循環/45
藝術家の轉向/51
出雲崎の女/57
歌作の一境地/65
風流人の科學/69
自分と自分の仕事を語る/77
漱石先生の畫事に關する手紙/83
鯛の味の如き藝術/93
牛肉と湯葉/95
高野豆腐とダリヤ/99
人間掘出し/103
漱石の書/107
大衆化と普遍化の實現/113
墨汁一滴/117
大味藝術論/129
喜劇役者の役割/135
下手もの/137
寂しき彼/141
兩端をたゝく/143
茶と繪と/147
飽心と求新/151
新時代の畫家の任務/155
繪畫的技術の階級性/165
繪日記/171
京洛雜記/185
わが住居の附近/185
御近所の御方/193
若王子プールの頃/202
秋雨の窓/209          ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

 河上肇が亡くなったのは、太平洋戦争が終結した翌年の、昭和二十一年(一九四六一)一月二十二日、青楓は、最晩年の年譜(『春秋九十五年』所収「年譜」)に、「河上肇博士栄養失調にて京都の寓居にて死亡さる」と記している。その翌年(昭和二十二年)に『懶六十三記』を再刊し、その翌年(昭和二十三年)に、上記の『河上・青楓白描像クラルテ社、 1948(昭和23)』が刊行された。
 河上肇は、この青楓の著書を目にしていない。この著書で、青楓が直接的・間接的に「河上肇と夫人(秀)・家族(次女・民子)、義弟(大塚有章)・実弟(河上左京)」などに触れているのは、その「河上博士の人間性/11・人を隱す/19・河上博士奧さんの此頃/31」である。
 ここでは、青楓は、「河上肇とその周辺」に関して、一切の、その「惡口循環/45」のようなことは触れていない。
しかし、その「惡口循環/45」の中で、次の、良寛の「聞道宜洗耳」に触れている。
この「聞道宜洗耳」の、「似我非為是 異我是為非/是非始在己 道即不如斯」は、これは、やはり、河上肇の、その出獄前後の、河上肇の「閉戸閑詠」(昭和十二年(一九三七)から昭和十七年(壬午、一九四二年)、そして、「河上肇と津田青楓と出後前後の二人」を赤裸々に語った「御萩と七種粥」(下記アドレスで綴った一文の抜粋)」などに対する、一つの、青楓の、その河上肇への鎮魂の一文と解して置きたい。

[ 「良寛詩集」(入矢義高 訳注/東洋文庫)

https://ameblo.jp/sawara20052005/entry-12470410293.html

聞道宜洗耳 不則道難委  
洗耳其如何 莫有在見地  
見地裁有在 与道相離支
似我非為是 異我是為非
是非始在己 道即不如斯  
似篙極海底 祇覚一場癡  

道を聞くには宜しく耳を洗うべし 不(しから)ずんば道は委(し)り難し
耳を洗うとは其れ如何ぞや 見地を在すると有る莫かれ
見地 裁(わず)かに在する有らば 道と相い離支す
我と似たらば非も是と為し 我に異ならば是も非と為す
是非始めより己に在り 道は即ち斯くの如くなら不(ず)
篙(さお)を似て海底を極む 祇(た)だ一場の癡(ち)を覚ゆるのみ   ]

(補記その一) 「御萩と七種粥(河上肇)」(「青空文庫」一部抜粋)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/2847_14486.html

[ 大正十二年九月、関東大震災の後、津田青楓氏は、三人のお子さんを東京に残し、一人の若い女を連れて、京都に移られた。当時私は京都帝大の教授をして居たが、或日思い掛けなく同氏の来訪を受け、その時から私と同氏との交際が始った。(昭和八年、私が検挙された頃、青楓氏は何回か私との関係を雑誌などに書かれた。昭和十二年、私が出獄してからも、更に二回ばかり物を書かれた。で、初対面の時のことも、その何れかで委(くわ)しく書かれている筈である。)
その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓(かぐう)に集って翰墨(かんぼく)の遊びをするようになった。その常連は、私の外には、経済学部の河田博士と文学部の狩野博士で、時には法学部の佐々木博士、竹田博士、文学部の和辻博士、沢村専太郎などいう人が加わったこともある。いつも朝から集って、夕暮時になるまで遊んだもので、会費は五円ずつ持ち寄り、昼食は然るべき料理屋から取り寄せて貰った。
当時はすでに故人となっていた有島武郎氏が京都ではいつも定宿にしていたあかまんやという素人風の宿屋があったが、そこの女主人がいつも席上の周旋に遣って来て、墨を磨すったり、食事の世話を手伝ったりしていた。(この婦人は吾々われわれのかいたものを役得に持って帰ることを楽みにしていた。いつも丸髷まるまげを結っていた此の女は、美しくもなく粋いきでもなかったが、何彼と吾々の座興を助けた。近頃聞くところによれば、何かの事情で青楓氏はこの女と絶交されたそうだが、今はもう亡くなって居るとのことである。)
 私はこの翰墨会(かんぼくかい)で初めて画箋紙(がせんし)に日本画を描くことを学んだ。半截を赤毛氈(あかもうせん)の上に展(ひろ)げて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇(ちゅうちょ)したものだが、幼稚園の子供のような気持になって、恐る恐る筆を執ったのが皮切りで、その後次第に大胆になり、青楓氏と河田博士と私とで山水の合作を描き、狩野博士がそれへ賛を入れたりなどされたこともある。
河田博士は絵専門、狩野博士は書専門、私は絵と書の双方をやった。集っていた人の組合せが好かったせいか、手持無沙汰で退屈するような人は一人もなく、誰かが大字でも書くと硯(すずり)の墨はすぐ無くなるので、あかまんやの女将までが、墨磨りだけにでも一人前の役割を有もっていた。当時私は経済学の研究に夢中になっていた時代なので、月に一回のこうした清遊は、実に沙漠の中のオアシスであり、忙中の閑日月であって、この上もなく楽しいものに思えた。それは私が一生のうちに見た美しい夢の一つである。
 後年囹圄(れいご)の身となるに及び、私は獄窓の下で屡々(しばしば)この昔日の清夢を想い起した。幸に生命があって再び家に帰ることがあったならば、今度こそは一切の世縁を抛(なげ)うたねばならぬ身の上であるから、ゆったりした気持で時折青楓氏の書房を訪い、たとい昔のような集りは出来なくとも、青楓氏と二人で、絵を描き字を書いて半日を過すことが出来たならば、どんなに嬉しいことであろう。出獄の日がやがて近づくにつれ、私は頻(しきり)にこうした空想に耽(ふけ)り、とうとうそんな意味のことを書いて、一度は獄中から青楓氏に手紙まで出したのであった。(その手紙は青楓氏により表装されているのを、後に見せて貰ったことがある。)
 昭和十二年の六月、私は刑期が満ちて自分の家庭へ帰ることが出来た。僅か二十二円の家賃で借りたという小さな借家は、私の不在中に結婚した芳子の家と並んで、東京市の――数年前までは市外になっていた――西の郊外、杉並区天沼という所にあった。偶然にもそれは青楓氏の邸宅と、歩いて十数分の近距離にあった。何年か前に京都を引払って東京に移り、一時はプロレタリア芸術を標榜(ひょうぼう)して洋画塾を開いていた青楓氏は、その頃もはや日本画専門となられ、以前からのアトリエも売ってしまい、新たに日本式の家屋を買い取って、住んで居られた。それは宏荘(こうそう)とまでは行かずとも、相当の構えの家であり、もちろん私の借家とは雲泥の差があった。
 出獄後半年たつと、昭和十三年になり、私は久振りに自分の家庭で新春を迎える喜びを有ち得たが、丁度その時、正月七日の朝のことである、青楓氏が自分のうちで書初めをしないかと誘いに来られた。私はかねてからの獄中での空想が漸(ようや)く実現されるのを喜んで、すぐに附いて行った。
 二階の二間つづきの座敷が青楓氏の画室になっていた。二人はそこで絵を描いたり字を書いたりして見た。しかしそれは、私の予期に反し、獄中で空想していたほど楽しいものではなかった。何と云うことなしに索然たるものがあって、二人とも興に乗ることが出来なかった。時は過ぎ人は老いた、あの時の夢はやはり二度とは見られませんね、私は思わずそんなことを言って見たりした。
 昼食時になると、私たちは階下の食堂に下りた。この室は最近に青楓氏が自分の好みで建て増しされたもりで、別号を雑炊子と称する同氏の絵に、どこか似通ったものが感じられた。同氏は油絵に日本絵具の金粉などを混用されたこともあり、日本画専門になってからも筆は総て油絵用のものを用いて居られるが、この室も、純白の壁や腰板などは洋風趣味であり、屋根裏へじかに板張りをした天井や、竹の格子子(こうしこ)の附いた丸窓などは、茶室か書院かを想わす日本趣味であった。炬燵(こたつ)も蒲団(ふとん)へ足を入れると、そこは椅子になっていて、下げた脚の底に行火(あんか)があった。障子の硝子ガラス越しに庭が見え、その庭には京都から取り寄せられたという白砂が敷き詰められていた。
 炬燵の櫓やぐらを卓子にして、私は昼食を供せられた。青楓氏、夫人、令嬢、それから私、この四人が炬燵の四方に座を占めた。
 私は出獄匆々(そうそう)にも銀座の竹葉亭で青楓氏の饗応(きょうおう)を受けたりしているが、その家庭で馳走になるのは之が最初であり、この時初めて同氏の家庭の内部を見たわけである。ところで私の驚いたことは、夫人や令嬢の女中に対する態度がおそろしく奴隷的なことであった。令嬢はやがて女学校に入学さるべき年輩に思えたが、まだ食事を始めぬ前から、茶碗に何か着いていると云って洗いかえさせたり、出入りの時に襖(ふすま)をしめ忘れたと云って叱ったり、事毎に女中に向って絶間なく口ぎたない小言を浴びせ掛けられるので、客に来ている私は、その剣幕に、顔を上げて見て居られない思いがした。
しかし之はいつものことらしく、青楓氏も夫人も別に之を制止するでもなかった。そればかりか、夫人の態度も頗(すこぶ)る之に似たものがあった。食後の菓子を半分食べ残し、之はそっちでお前が食べてもいいよと云って、女中に渡された仕草のうちに感じられる横柄な態度、私はそれを見て、来客の前で犬に扱われている女中の姿を、この上もなく気の毒なものに思った。貧しいがために人がその人格を無視されていることに対し、人並以上の憤懣(ふんまん)を感ぜずには居られない私である。私はこうした雰囲気に包まれて、眼を開けて居られないほどの不快と憂欝(ゆううつ)を味った。
 私は先きに、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気の裡うちに在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかく箸(はし)を取って、供された七種粥(ななくさがゆ)を食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は索然として箸をおいた。
 人は落ち目になると僻(ひがみ)根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら蕭条(しょうじょう)たる落魄(らくはく)の一老爺(いちろう)や、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。
首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰(ふぎょう)天地に愧(はず)る所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる)袍(おんぼう)を衣き、狐貉(こかく)を衣る者と、与(とも)に立って恥じざる」位の自負心は、窃(ひそか)に肚(はら)の底に蓄えている。
しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人がらその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった些事(さじ)が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何んだか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。
 青楓氏が今の夫人と法律上の結婚をされる際、その形式上の媒酌人となったのは、私達夫妻であるが、私はそれを何程の事とも思っていなかった。ところが、私が検挙されてから、青楓氏の雑誌に公にされたものを見ると、先きの夫人との離縁、今の夫人との結婚、そう云ったような面倒な仕事を、私たちがみな世話して纏(まとめ)たもののように、人をして思わしめる書き振りがしてあり、殊に「私は今も尚その時の恩に感じ、これから先き永久にその恩をきようと思っている」などと云うことを、再三述懐して居られるので、最初私はひどく意外に感じたのであるが、後になると、馬鹿正直の私は、一挙手一投足の労に過ぎなかったあんな些事(さじ)を、それほどまで恩に感じていられるのかと、頗(すこぶ)る青楓氏の人柄に感心するようになっていた。
私は丁度そうした心構で初めて其の家庭の内部に臨んだのだが、そこに漂うている空気は、何も彼も私にとって復(また)甚だ意外のものであった。後から考えると、私はこの時から、この画家の人柄やその文章の真実性などに対し、漸(ようや)く疑惑を有もち始めたもののようである。
 その後の十一月の末、私はまた河田博士と共に青楓氏の画房を訪うた。今度上京するのを機会に、昔のように翰墨会(かんぼくかい)を今一度やって見たいというのが博士の希望であり、私も喜んで之に賛成したのであった。吾々(われわれ)は青楓氏の画房で絵を描いたり字を書いたりして一日遊び、昼食は青楓氏の宅の近所にあるという精進料理の桃山亭で済まし、その費用は河田博士が弁ぜられる。そういうことに、予かねて打合せがしてあった。
 その日私は当日の清興を空想しながら、
十余年前翰墨間
  十余年前翰墨の間、
洛東相会送春還
  洛東相会して春の還るを送る。
今日復逢都府北
  今日復た逢ふ都府の北、
画楼秋影似東山
  画楼の秋影東山に似たり。
という詩を用意して行った。画楼というのは元来彩色を施した楼閣の意味だろうが、ここでは青楓氏の画室を指したつもりであり、東山(とうざん)というのは京のひがしやまを指したのである。
 漢詩の真似事を始めて間もない頃のこととて、詩は甚だ幼稚だが、実際のところ私はまだそんな期待を抱いていたのである。しかし後に書くように、画楼の秋影は私のため残念ながらその昔の東山に似ることを得なかった。
 雑談を済まして吾々が筆を執り始めると、間もなく昼食時になった。ところがその時青楓氏から、桃山亭の方は夕刻そこで食事して別れることにし、昼は簡単な食事をうちで済ませてくれ、と申出があった。で、私は思い掛けなく再びここの家庭で饗応(きょうおう)にあずかる機会を有ったが、今度はその御馳走が余りにも立派なので、その立派さに比例する不快を感ぜざるを得なかった。私は正月の七種粥(ななくさがゆ)を思い出し、それと著しい対照を呈している今日の饗応ぶりを見て、簡素な待遇が必ずしもここの家風でないことを知った。
そして私は、お前一人ならどうでもいいのだが、今日は河田博士に御馳走がしたいので、という意味の無言の挨拶を、その場の雰囲気や夫人の態度から、耳に聞えるほどに感じた。結構な御馳走が次から次へ運ばれるにつれて、私の心は益々(ますます)不快になった。人間は人情を食べる動物である。折角御馳走になりながら、私の舌に長(とこしえ)に苦味を残した。それはその後反芻(はんすう)される毎に、次第に苦味を増すかに覚える。――こういうのが恐らく落目になった老人の僻(ひがみ)根性というものであろう、しかし私はそれをどうすることも出来ない。
 こうした類の経験が度重なるにつれ、それは次第に私をこの画家から遠ざけた。
 翰墨会の夢は再び返らず、獄中では、これからの晩年を絵でも描いて暮らそうかとさえ思ったことのある私も、今では、絵筆を手にする機会など殆ど無くなってしまった。 ](「河上肇著作集」第9巻、昭和39年、筑摩書房刊。)

※ この「御萩と七種粥(河上肇)」の初出は、『思い出(断片の部・抄出)』(昭和二十一年十月、月曜書房刊)で、太平洋戦争中に、発表の当てもなく書かれたものの一篇である。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784773633016


(補記その二) 「閉戸閑詠(河上肇)」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/43720_33018.html

[ 閉戸閑詠 第一集 起丁丑七月 尽辛巳十月
〔昭和十二年(一九三七)〕

野翁憐稚孫
余この歳六月十五日初めて小菅刑務所より放たる
膝にだく孫の寝顔に見入りつつ庭の葉陰に呼吸ついてをり   七月七日

花田比露思氏の来訪を受く
有りがたや七年ぶりに相見ればふるさとに似し君のおもかげ  七月七日

獄をいでて 三首
獄をいでて街を歩きつ夏の夜の行きかふ人を美しと見し
獄をいでて侘居しをれば訪ねくる人のこゝろはさまざまなりき
ありがたや静かなるゆふべ簡素なる食卓の前に妻子居ならぶ  七月二十日
(後略)

〔昭和十三年(一九三八)〕 (略)
〔昭和十四年(一九三九)〕
(前略)

津田青楓氏「君と見て久しくなりぬこのころはおとさたもなしいかにしたまふ」の歌を寄せられたるに答ふ
朝寝して虫ばみ本をつくろひて茶を飲みをれば一日はすぎぬ
人は老い着物もやれて綿出でぬよごれと見しは綿にてありき   二月二十五日

老後無事
たとひ力は乏しくも
出し切つたと思ふこゝろの安けさよ。
捨て果てし身の
なほもいのちのあるまゝに、
飢え来ればすなはち食ひ、
渇き来ればすなはち飲み、
疲れ去ればすなはち眠る。
古人いふ無事是れ貴人。
羨む人は世になくも、
われはひとりわれを羨む。                 六月十九日

青楓氏を訪ひて遇はず
きかぬベル押しつゝ君が門のとに物乞ふ如く立つはさびしも  七月一日

出獄の前日を思ひ起して 二首
わかれぞと登りて見れば荒川や潮みちぬらし水さかのぼる
または見ぬ庭ぞと思ふ庭の面に真紅のダリヤ咲きてありしか  八月七日

(後略)

〔昭和十五年(一九四〇)〕
(前略)

時勢の急に押されて悪性の変質者盛んに
輩出す、憤慨の余り窃に一詩を賦す
言ふべくんば真実を語るべし、
言ふを得ざれば黙するに如かず。
腹にもなきことを
大声挙げて説教する宗教家たち。
眞理の前に叩頭する代りに、
権力者の脚下に拝跪する学者たち。
身を反動の陣営に置き、
ただ口先だけで、
進歩的に見ゆる意見を
吐き散らしてゐる文筆家たち。
これら滔々たる世間の軽薄児、
時流を趁うて趨ること
譬へば根なき水草の早瀬に浮ぶが如く、
権勢に阿附すること
譬へば蟻の甘きにつくが如し。
たとひ一時の便利身を守るに足るものありとも、
彼等必ずや死後尽く地獄に入りて極刑を受くべし。
言ふべくんば真実を語るべし、
真実の全貌を語るべし、
言ふを得ざれば黙するに如かず。          十月九日

(後略)

〔昭和十六年(一九四一〕 略
※ 「河上博士京都に引き揚げらる。」(『春秋九十五年(津田青楓著)』所収「年譜」) )

閉戸閑詠 第二集(昭和十七年度)
昭和十七年(壬午、一九四二年) (略)    ](「河上肇著作集第11巻」筑摩書房/   1965(昭和40)年)
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「津田青楓」管見(その九) [東洋城・豊隆・青楓]

その九「津田青楓と寺田寅彦(寅彦の美術評論)その二」周辺

「告春歌」他.jpg

左図「告春歌」(1965年/紙本墨画淡彩/133.2×65.0/個人蔵)
[昭和乙己歳初夏 青楓亀試筆]
中図「白梅丹頂鶴」(1950年/紙本墨画淡彩/131.0×66.0/笛吹市青楓美術館蔵)
[いにしへの人のえがけるけだかさを/我もためさむ鶴にやき/かな 明宣宗皇帝筆模倣/游鶴自添庭中梅花庚寅歳春日/亀青楓]
右図「寝覚の床図」(1965年/紙本墨画淡彩/131.0×65.0/笛吹市青楓美術館蔵))
[昭和乙己歳初夏 青楓亀写 下から見る寝覚の床を絵に/描けば躑躅霧島古き巌かな 昭和甲寅補筆芙蓉花盛り老聾亀九十五叟]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

[「津田青楓君の画と南画の芸術的価値(寺田寅彦)」抜粋

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43280_23766.html

「 津田君は先達て催した作画展覧会の目録の序で自白しているように「技巧一点張主義を廃し新なる眼を開いて自然を見直し無技巧無細工の自然描写に還り」たいという考えをもっている人である。
作画に対する根本の出発点が既にこういうところにあるとすれば津田君の画を論ずるに伝説的の技巧や手法を盾に取ってするのはそもそも見当違いな事である。
小笠原流の礼法を標準としてロシアの百姓《ムジーク》の動作を批評するようなものかもしれない。あるいはむしろ自分のような純粋な素人《しろうと》の評の方が却《かえ》って適切であり得るかもしれない。一体津田君の主張するように常に新たな眼で自然を見直すという事は科学者にとっても甚《はなは》だ重要な事である。」

「洋画家並びに図案家としての津田君は既に世間に知られている。
しかし自分が日本画家あるいは南画家としての津田君に接したのは比較的に新しい事である。そしてだんだんその作品に親しんで行くうちに、同君の天品が最もよく発揮し得られるのは正《まさ》しくこの方面であると信ずるようになったのである。
 津田君はかつて桃山に閑居していた事がある。そこで久しく人間から遠ざかって朝暮ただ鳥声に親しんでいた頃、音楽というものはこの鳥の声のようなものから出発すべきものではないかと考えた事があるそうである。
津田君が今日その作品に附する態度はやはりこれと同じようなものであるらしい。出来るだけ伝統的の型を離れるには一度あらゆるものを破壊し投棄して原始的の草昧時代《そうまいじだい》に帰り、原始人の眼をもって自然を見る事が必要である。こういう主張は実は単なる言詞としては決して新しいものではないだろうが、日本画家で実際にこの点に努力し実行しつつある人が幾人あるという事が問題である。」 ] 

渓六曲屏風.jpg

「渓六曲屏風」(制作年不詳/紙本墨画淡彩/136.5×271.8/個人蔵(林要旧蔵))
[歩随流水覓渓源 行/到源頭卻惘然 始悟/眞/源/行/不到
 倚笻随/處奔潺湲/懶青楓七十一 ]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説213」)

https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

[林要(はやしかなめ、1894年5月3日-1991年12月26日)は日本のマルクス経済学者。
 山口県出身。1920年東京帝国大学法学部卒、大原社会問題研究所助手となり『日本労働年鑑』の編集にあたる。1923年同志社大学教授。東大新人会で活動以来のマルクス主義者で、そのため1936年、同僚の野村重臣から赤化教授と糾弾されて大学を追われ、38年には執筆も禁止される。
 戦後は愛知大学教授、関東学院大学教授。1979年退職。妻は林てる。](「ウィキペディア」)

[ 林要とのつきあいは、青楓が洋画断筆をしたころから始まった。マルクス主義経済学者であった林要は、反戦思想ゆえ、一九三六年(昭和十一)に勤めていた同志社大学を追われており、青楓とは軍国主義の時代に抗する姿勢や体験をわかつ仲間でもあった。戦後は、林が師友とよぶ青楓と評論家長谷川如是閑や画家正宗得三郎を交えて、談論風発の集まりを持ち、席上で余興に筆をとることもしばしばであった。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「交友の記念品(喜多孝臣稿)」)

長谷川如是閑(右)と津田青楓(左.jpg

『老画家の一生(津田青楓著)』所収「長谷川如是閑(右)と津田青楓(左)(昭和二十四年四月)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296

[長谷川如是閑(はせがわにょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。](「ウィキペディア」)

如是閑像.jpg

「如是閑像」(制作年次不詳/紙本墨画淡彩/79.0×28.4/個人蔵(林要旧蔵)/)
[題如是閑像/ふたつなき馬つら顔/どおもえども羽仁の/五郎と瓜二つかな/青楓亀]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説221」)

林要像如・是閑賛.jpg

「林要像如是閑賛」(制作年不詳/紙本墨画淡彩/133.5×65.24/個人蔵(林要旧蔵)/))
[あけつらふはやしのにかの/あんこうことポウズどな/れりさに教/ろ□□かも/盲亀兼題/
写林君 於韮山 青楓/
抱腹絶倒/抱膝沈思/如是閑題](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説220」)

※ 寺田寅彦が、「津田青楓君の絵と南画の芸術的」を「中央公論」に掲載した、大正七年(一九一八)、青楓、三十八歳の頃、当時、美術雑誌「研精美術」の記者で、画家志望の「酒井億尋」(1894-1983)が取材に来て、爾来、青楓が亡くなるまで、その交友関係は途切れることはなかった。
 後に、酒井億尋は、実業家の道を選び、荏原製作所の二代目社長までつとめ、その美術好きは終生変わらず、「安井曽太郎・津田青楓・川上涼花・セザンヌ・ルノワール」などの作品を蒐集する大コレクターでもあった。
 一九三〇年代には、青楓が共産党員をかくまうために、酒井億尋の別荘を提供してもらったり、戦後、青楓が疎開先(茨城県小田村=現・つくば市)から東京に戻る際の住居の世話など、全て、酒井億尋の手を煩わせた。青楓は、「酒井氏私のためには、ある時はよきパトロンとなり、ある時は心の友となり、私にとっては一日もなくてはいられぬ人であった」と記述している(津田青楓「交遊抄 酒井億尋氏のこと」『日本経済新聞』1963年7月5日。)。

「 畠山一清と酒井徳尋(「川上涼花《麦秋》と日本画制作について(田所夏子稿)」抜粋)

file:///C:/Users/user/Downloads/bulletin_2022_tadokoro_jp%20(1).pdf

荏原製作所の創業者畠山一清は金沢市の生まれで、日本最大規模の山城のひとつとされる能登国七尾城主の末裔であった。東京帝国大学機械工学科で井口在屋博士に師事し、博士
とともに1911年にゐのくち式機械事務所を創立した。畠山は事業のかたわら、茶道具をはじめとする日本や中国、朝鮮などの古美術品の蒐集をおこなっており、それらは現在公益財団法人畠山記念館に収蔵されている。
酒井は叔父である畠山の側近として事業拡大に大きく貢献し、その後畠山の長女睦(むつ)
と結婚、1962年には荏原製作所二代目社長に就任した。
 実業家として腕を振るう一方で、酒井は叔父同様芸術への造詣が深く、日本洋画や西洋絵画の蒐集を行っていた。能楽や茶の湯を嗜み日本や東洋の古美術品に親しんだ畠山に対し、酒井はむしろ洋画や西洋音楽を好んだという。自身も洋画を学び、一時期本郷洋画研究所に通っていたが、もともとかなりの近眼であったところに網膜剥離を起こし、画家になることを断念している。
洋画家の中村彝(つね)を尊敬し、彝が下宿していた中村屋裏のアトリエや、その後引き移った下落合のアトリエにも出入りしていた。彝の没後発足した中村忌会にも参加し、荏原製作所の熱海寮で会を開いたりもしている。
涼花をはじめ、安井曾太郎(1888–1955)、津田青楓(1880–1978)らとも交友があり、批
評家として数多くの文章を残した。なかでも涼花との親交は古く、1912年のフュウザン会に涼花が作品を発表した直後から交流が始まった。
また、津田青楓は「私のごく親しい友だちは、ただ一人。それは酒井億尋という人」と語っており、酒井と親しかった様子がうかがえる。そして「酒井氏は絵が好きだし、鑑賞眼もするどい。度の強い近視眼だが、それでよく絵の良し悪しがわかるのだから不思議だ。多分心眼という感性が発達しているのかもしれぬ」とし、コレクターとしての酒井の眼を賞賛し
ている。
蒐集した美術品には、交流のあった日本の画家たちだけでなく、印象派やその他20世紀フランスの代表的な画家なども含まれていた。 ]

※ 酒井億尋の兄は、良寛研究家の「酒井千尋」で、青楓が良寛の遺跡を巡る際には、その道案内などをつとめたことなどが、青楓の年譜などから読み取れる。
青楓と「酒井千尋・億尋」との関係というのは、青楓が、昭和八年(一九九三)八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル」の、青楓の「二科会脱退」後の、「日本画(主として「南画」)と「書」(主として「良寛の遺墨」)との、青楓の後半生(昭和八年(一九九三)=五十三歳以後~)の、その大きな拠り所の、その物心両面でのサポータという位置を占めることになる。

酒井億尋.jpg

「酒井億尋」 (1894-1983)
http://www.shiro1000.jp/tau-history/murata/sakai.html

秋天敦煌.jpg

「秋天敦煌」(1941/紙本墨画/135.0×61.0/「酒井億尋コレクション」)
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説202」)

良寛和尚の像.jpg

「良寛和尚の像」(1974年頃/紙本墨画淡彩/46.5×66.4/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.asahi.com/articles/DA3S14406292.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
[生涯立身懶 騰々/米 炉邊一束薪/誰問迷悟跡 何知/名利塵 夜雨草/菴裡雙脚等/閑伸 良寛和尚/像幷詩題/亀青楓
わびぬれど/わが菴/□なれ/ばかえ/るなり/こころや/すきを/おもひ出と/して  ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説196」)

[「津田青楓君の画と南画の芸術的価値(寺田寅彦)」抜粋(続き)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43280_23766.html

「 津田君が南画に精力を集注し始めた初期の作品を見ると一つの面白い現象を発見する。例えば樹の枝に鳥が止まっている。よく見ると樹の枝は鳥の胴体を貫通していて鳥はあたかも透明な物体であるように出来上がっている。
津田君は別にこれに対して何とも不都合を感じていないようである。樹枝を画く時にここへ後から鳥を止まらせる用意としてあらかじめ書き残しをしておくような細工はしないのである。
これは一見没常識のように見えるかもしれぬが、そこに津田君の出発点の特徴が最も明白に現われているのである。そういう遣り方が写真として不都合であっても絵画としてはそれほど不都合な事ではないという事が初めから明らかに理解されている証拠である。
また下書きなどをしてその上を綺麗(きれい)に塗りつぶす月並なやり方の通弊を脱し得る所以(ゆえん)であるまいか。本当の意味の書家が例えば十の字を書く時に始め「※一」を左から右へ引き通す際に後から来る「※Ⅰ」の事など考えるだろうか、それを考えれば書の魂は抜けはしまいか。たとえ胴中を枝の貫通した鳥の絵は富豪の床の間の掛物として工合が悪いかもしれぬが、そういう事を無視して絵を画く人が存在するという事実自身が一つの注目すべき啓示レヴェレーションではあるまいか。
自分は少し見ているうちにこの種の非科学的な点はもうすっかり馴れてしまって何らの不都合をも感じなくなった。おそらく誰でも同様であろう。ただ在来の月並の不合理や出来合の矛盾にのみ馴れてそれを忘れている眼にほんの一時的の反感を起させるに過ぎないであろう。」

 (中略)

「 津田君の絵には、どのような軽快な種類のものでも一種の重々しいところがある。戯れに描いた漫画風のものにまでもそういう気分が現われている。その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、却って無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見(べっけん)するところである。これを何と形容したら適当であるか、例えばここに饒舌(じょうぜつ)な空談者と訥弁(とつべん)な思索者とを並べた時に後者から受ける印象が多少これに類しているかもしれない。そして技巧を誇る一流の作品は前者に相応するかもしれない。饒舌の雄弁固もとより悪くはないかもしれぬが、自分は津田君の絵の訥弁な雄弁の方から遥かに多くの印象を得、また貴重な暗示を受けるものである。
このような種々な美点は勿論津田君の人格と天品とから自然に生れるものであろうが、しかし同君は全く無意識にこれを発揮しているのではないと思われる。断えざる研究と努力の結果であることはその作品の行き方が非常な目まぐるしい速度で変化しつつある事からも想像される。
近頃某氏のために揮毫(きごう)した野菜類の画帖を見ると、それには従来の絵に見るような奔放なところは少しもなくて全部が大人しい謹厳な描き方で一貫している、そして線描の落着いたしかも敏感な鋭さと没骨描法(もっこつびょうほう)の豊潤な情熱的な温かみとが巧みに織り成されて、ここにも一種の美しい交響楽シンフォニーが出来ている。
この調子で進んで行ったらあるいは近いうちに「仕上げ」のかかった、しかも魂の抜けない作品に接する日が来るかもしれない、自分はむしろそういう時のなるべく遅く来る事を望みたいと思うものである。
津田君の絵についてもう一つ云い落してはならぬ大事な点がある。それは同君の色彩に関する鋭敏な感覚である。自分は永い前から同君の油画や図案を見ながらこういう点に注意を引かれていた。なんだか人好きの悪そうな風景画や静物画に対するごとに何よりもその作者の色彩に対する独創的な感覚と表現法によって不思議な快感を促されていた。
それはあるいは伝習を固執するアカデミックな画家や鑑賞家の眼からは甚だ不都合なものであるかもしれないが、ともかくも自分だけは自然の色彩に関する新しい見方と味わい方を教えられて来たのである。
それからまた同君の図案を集めた帖などを一枚一枚見て行くうちにもそういう讃美の念がますます強められる。自分は不幸にして未来派の画やカンジンスキーのシンクロミーなどというものに対して理解を持ち兼ねるものであるが、ただ三色版などで見るこれらの絵について自分が多少でも面白味を感ずる色彩の諧調は津田君の図案帖に遺憾なく現われている。
時には甚だしく単純な明るい原色が支那人のやるような生々しいあるいは烈しい対照をして錯雑していながら、それが愉快に無理なく調和されて生気に充ちた長音階の音楽を奏している。ある時は複雑な沈鬱な混色ばかりが次から次へと排列されて一種の半音階的の旋律を表わしているのである。」

(中略)

「 津田君の日本画とセザンヌやゴーホの作品との間の交渉は種々の点で認められる。単にその技巧の上から見ても津田君の例えばある樹幹の描き方や水流の写法にはどことなくゴーホを想起させるような狂熱的な点がある。あるいは津田君の画にしばしば出現する不恰好な雀や粟の穂はセザンヌの林檎りんごや壷のような一種の象徴的の気分を喚起するものである。
君が往々用いる黄と青の配合までもまた後者を聯想(れんそう)せしめる事がある。このような共通点の存在するのは、根本の出発点において共通なところのある事から考えれば何の不思議もない事ではあるまいか。あるいはまた津田君の寡黙な温和な人格の内部に燃えている強烈な情熱の焔(ほのお)が、前記の後期印象派画家と似通ったところがあるとすれば猶更なおさらの事であろう。

(中略)

 青楓(せいふう論と題しながら遂に一種の頌辞(しょうじ)のようなものになってしまった。しかしあらを捜したり皮肉をいうばかりが批評でもあるまい。少しでも不満を感ずるような点があるくらいならば始めからこのような畑違いのものを書く気にはなり得なかったに相違ない。
 津田君の画はまだ要するにXである。何時(いつ)如何(いか)なる辺に赴くかは津田君自身にもおそらく分らないだろう。
しかしその出発原点と大体の加速度の方向とが同君として最も適切なところに嵌っている事は疑いもない事である。そして既に現在の作品が群を抜いた立派なものである事も確かである。それで自分は特別な興味と期待と同情とをもって同君の将来に嘱目している。
そして何時までも安心したりおさまったりする事なしに、何時までも迷って煩悶して進んで行く事を祈るものである。
芸術の世界に限らず科学の世界でも何か新しい事を始めようとする人に対する世間の軽侮、冷笑ないし迫害は、往々にして勇気を沮喪(そそう)させたがるものである。
しかし自分の知っている津田君にはそんな事はあるまいと思う。かつて日露戦役に従ってあらゆる痛苦と欠乏に堪えた時の話を同君の口から聞かされてから以来はこういう心配は先ずあるまいと信ずるようになったのである。 ]

薔薇鶏之図.jpg

「薔薇鶏之図」(1917年/絹本着彩/114.7×26.0/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.fashion-press.net/news/gallery/56714/982209
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説175」)

古都一休寺.jpg

津田青楓「古都一休寺」(1940年/紙本墨画淡彩/45.0×53.4/「浜松市美術館」蔵)
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/
[ (1940年(昭和5)に開催した津田青楓個展出品作。京田辺にある酬恩一休寺の庭と塀を描いたものであろう。画賛した一休禅師の意偈のあとに「老聾亀補筆」とあり、六十一歳時の作品に後年になって讃をいれた、新旧青楓の合作である。一休の意偈は、自らがたどり着いた禅の境地は自分だけのものであるという心持ちを詠んだものである。青楓は、この一休の言葉に晩年の自らの心情を重ねたのであろうか。青楓は老いてのち、過去作ら手をいれることをしばしばおこなっており、過去との対話を楽しんで時を過ごしたようだ。

須弥南/畔誰/会我/禅虚/堂来/也/不直半銭 老聾亀/補筆  ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説200」)
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「津田青楓」管見(その八) [東洋城・豊隆・青楓]

その八「津田青楓と寺田寅彦(寅彦の美術評論)その一」周辺

[「昭和二年の二科会と美術院(寺田寅彦)」(「霊山美術」1927(昭和2)年11月)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card42213.html

 二科会(カタログ順)

 有島生馬《ありしまいくま》氏。 この人の色彩が私にはあまり愉快でない。いつも色と色とがけんかをしているようで不安を感じさせられる。ことしの絵も同様である。生得の柔和な人が故意に強がっているようなわざとらしさを感じる。それかと言ってルノアルふうの風景小品にもルノアルの甘みは出ていない。無気味さがある。少し色けを殺すとこの人の美しい素質が輝いて来ると思う。
(補記)

有島生馬「鬼」.jpg

第1回展に出品された有島生馬「鬼」(1914年・東京都現代美術館蔵) - 時代彩った122点並ぶ 「伝説の洋画家たち 二科100年展」 -
https://www.nishinippon.co.jp/image/4927/

 ビッシエール。 この人の絵には落ち着いた渋みの奥にエロティックに近い甘さがある。ことしのは少し錆《さび》が勝っている。近ごろだいぶこの人のまねをする人があるが、外形であの味のまねはできない。できてもつまらない。
(補記)
ロジェ ビシエール(Roger Bissière)
[1888.9.22 - 1964.1.22 フランスの画家。ヴィルレアル(フランス)生まれ。
ボルドー美術学校で学び、1910年パリに行き雑誌記者をしながら絵を書く。’21年ブラックと出会い立体派の影響を受け、’24年ランソン画塾の教師を経て、’46年ドルアン画廊で初の個展を開く。’58年パリの国立近代美術館で回顧展を開き、’60年からメス大聖堂のステンドグラスを制作する。荘重で宗教的静けさの抽象的構図の中にフランス絵画の伝統を生かす独自の作風を確立する。](日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊))

花を持つ婦人.jpg

花を持つ婦人 Woman with Flowers (「国立西洋美術館」蔵)
https://collection.nmwa.go.jp/P.1965-0001.html

石井柏亭《いしいはくてい》。 「牡丹《ぼたん》」の絵は前景がちょっと日本画の屏風絵《びょうぶえ》のようであり遠景がいつもの石井さんの風景のような気がして、少しチグハグな変な気がする。「衛戍病院《えいじゅびょういん》」はさし絵の味が勝っている。こういう画題をさし絵でなくするのはむつかしいものであろうとは思うがなんとかそこに機微なある物が一つあるであろうとは思う。「クローデル」はよくその人が出ているところがある。私はこの画家が時々もっと気まぐれを出していろいろな「試み」をやってくれる事を常に望んでいる。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

 小出楢重《こいでならしげ》。 この人の色は強烈でありながらちゃんとつりあいが取れていて自分のような弱虫でも圧迫を感じない。「裸女結髪」の女の躯体《くたい》には古瓢《こひょう》のおもしろみがある。近ごろガラス絵を研究されるそうだがことしの絵にはどこかガラス絵の味が出ている。大きな裸体も美しい。
(補記)
[ 小出楢重【ならしげ】は、大阪に生まれ、岸田劉生【りゅうせい】や中村彝【つね】らと同時代の画家であり、黒田清輝以来主流となっていた白馬会系の当時の洋画壇に飽きたらず、単なる洋画の輸入ではなく日本独自の油絵を確立しようと真摯に努めた画家の一人である。「Nの家族」は大正八年の第七回二科展に出品され、他の二点とともに有望な新人に与えられる樗牛賞を贈られ、それまで不遇であった画家が画壇に地歩を築くきっかけとなった作品である。
 小出は、「Nの家族」制作において、明らかにこのような意識のもとに、確固とした構図と技法による本格的な油絵を描こうとしていたことが推測されるが、後年、自ら「日本人の油絵の共通した欠点は、絵の心ではなく、絵の組織と古格と伝統の欠乏である」(『油絵新技法』)と記し、一方で「高橋由一、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる」(同前)と述べており、そのような信念の萌芽が看取されよう。蝋燭の光を思わせる陰影や、フランドル等の室内画を思わせる背景に描かれた鏡やカーテン、ホルバインの画集、そしてセザンヌ風の手前の静物など、雑多な要素を連想させるうえに、三人の人物は画面いっぱいの大きさに描かれているというように、ともすれば煩雑で不統一の画面になりかねない構成であるが、実際にはきわめて均衡のとれた緊密な構図と重厚な色彩をもった、密度の高い作品となっている。
 制作当時、すでに劉生や河野通勢等の画家が北欧ルネサンス風の写実的な表現を追求していたが、本図の画風はそれらの影響というよりは、小出自身の必然的な欲求に起因するものというべきであろう。画家の関心は描かれる対象自体の写生ではなく、あくまでも画面における造形的な均衡と充実にあり、そのような姿勢は大正十年の渡欧を経て晩年に至る、小出の裸婦や静物画群においても一貫しているといえよう。
 本図は小出楢重の前期の代表作であるばかりでなく、その緊密で力強い構成と表現により大正時代の洋画を代表する一作といえよう。](「文化遺産オンライン」)

Nの家族.jpg

Nの家族(小出楢重筆 一九一九/油絵 麻布)(「財団法人大原美術館」蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135664

 熊谷守一《くまがいもりいち》。 この人の小品はいつも見る人になぞをかけて困らせて喜んでいるような気がする。人を親しませないところがある。しかしある美しさはある。
(補記)

麥畑.jpg

『麥畑(むぎばたけ)』 昭和14(1939)年 油彩/板 愛知県美術館蔵(木村定三コレクション)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/220967/

 黒田重太郎《くろだしげたろう》。 「湖畔の朝」でもその他でもなんだか騒がしくて落ち着きがなくて愉快でない。ロート張りの裸体の群れでも気のきいたところも鋭さもなくただ雑然として物足りない。もう少し落ち着いてほしい。
(補記)

黒田重太郎.gif

「黒田重太郎が十代のころに描いた鉛筆素描」(明治38年(1905)年4月15日に描かれた「花園村」=画像右=など)
https://hanabun.press/2018/10/06/kurodajyutarou/
[黒田は小出楢重らと大阪で信濃橋洋画研究所を開設。京都市立美術専門学校(現・京都市芸大)の教授となり後進を育成した。日本芸術院恩賜賞受賞、勲三等瑞宝章受章。1870(昭和45)年82歳で没した。昨年(2017年)が生誕150年。2020年に没後50年を迎える。]

 正宗得三郎《まさむねとくさぶろう》。 この人の絵も私にはいつもなんとなく騒がしくわずらわしい感じがあって楽しめない。もう少し物事を簡潔につかんで作者が何を表現しようとしているかをわかりやすくしてほしいと思う。その人の「世界」を創造してほしい。
(補記)

瀬戸内海.jpg

「瀬戸内海」(油彩,カンヴァス 36.0×45.0cm)
https://www.hiroshima-museum.jp/collection/jp/masamune_t.html
[戦前は二科会で、戦後は二紀会の創設会員として同展を中心に活動した洋画家です。明るく新鮮な色調で存在感のある風景画を多く描きました。富岡鉄斎の研究でも知られ、著書に『鉄斎』などがあります。また、長兄は小説家・文学者の忠夫(正宗白鳥)、次兄は国文学者の敦夫です。]

 鍋井克之《なべいかつゆき》。 この人の絵はわりに好きなほうであったが、近年少しわざとらしい強がりを見せられて困っている。ことしのにはまたこの人の持ち味の自然さが復活しかけて来たようである。しかしあの大きいほうの風景のどす黒い色彩はこの人の固有のものでないと思う。小さな家のある風景がよい。
(補記)
[大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。](「ウィキペディア」)

鴨飛ぶ湖畔.jpg

「鴨飛ぶ湖畔」(昭和7年(1932)「大阪市立美術館蔵(鍋井澄江氏寄贈)」
https://www.osaka-art-museum.jp/def_evt/50thnabeikatsuyuki

 中川紀元《なかがわきげん》。 いつも、もっとずっと縮めたらいいと思われる絵を、どうしてああ大きく引き延ばさなければならないかが私にはわからない。誇張の気分を少し減らすとおもしろいところもないではないが。
(補記)

アラベスク.gif

「アラベスク」(1921年/辰野美術館蔵)
https://www.musashino.or.jp/museum/1002006/1002258/1002259/1002394/1002400.html
[中川紀元は1892(明治25)年2月11日、木曽駒ケ岳を間近に望む長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)に生まれました。
1912(明治45)年、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科に入学しますが、旧体質の指導に失望、また制作にも自信を失い退学。その後、太平洋画会研究所、本郷研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事しました。1915(大正4)年、第2回二科展に初入選。1919(大正8)年には渡仏し、エコールド・パリの空気の中、マチスに師事するという幸運に恵まれました。
滞仏中の1920(大正9)年に「ロダンの家」等で樗牛賞を受賞、帰国後滞欧作7点を出品し二科賞を受賞するなど、そのフォーブな画風は当時の日本画壇に新鮮な衝撃をもたらしました。前衛傾向の画家達とグループ・アクションの結成に参加し活発な活動を展開したのもこの時期です。
1924(大正13)年にアクション解散、油彩画に倦怠を感じた中川は次第に日本画への関心を深め、1930(昭和5)年には中村岳陵ら日本画家たちと六潮会を結成します。
以後、二科会と六潮会という全く異なる展覧会を発表の場としながら制作活動を続けますが、二科会解散後は、熊谷守一らと第二紀会を結成、ここを舞台に水墨画的な油彩画という新しい境地を開拓しました。若い日にパリで学んだ自由な画風に東洋画の伝統が一体となった中川独自の表現はこうして形成されました。中川はその生涯を長野と東京に過ごしましたが、武蔵野市には1956(昭和31)年に転居して以降、1972(昭和47)年に79歳で亡くなるまで居住しました。」

 坂本繁次郎《さかもとしげじろう》。 おもしろいと言えばおもしろいがそれは白日の夢のおもしろさで絵画としてのおもしろみであるかどうか私にはわからない。この人の傾向を徹底させて行くとつまりは何もかいてないカンバスの面がいちばんいい事になりはしないか。
(補記)

坂本繁次郎.jpg

坂本繁二郎《月》1966年 油彩・カンヴァス 無量寿院蔵(福岡県立美術館寄託)
https://artexhibition.jp/topics/news/20220513-AEJ768717/
[坂本繁二郎は1882年、福岡県久留米市生まれの画家。青木繁と同世代にあたり、互いに切磋琢磨する青年期を過ごした。その後、20歳で青木を追うように上京。小山正太郎主宰の不同舎で学び、展覧会出品作が数々の賞を受賞するなど順風満帆な画業をスタートさせた。39歳のときに渡仏。3年間の留学生活を終えて久留米に帰郷し、以降、画壇の煩わしさを避けて郷里にほど近い八女にアトリエで制作に没頭した。
ヨーロッパ留学から最晩年にかけ、牛、馬、周囲の静物、そして月と、平凡な主題を選びながら厳かな静謐さを秘めた作品を描いた坂本。画壇と距離を置いていたものの、戦前と変らぬ穏やかさを湛えた作品群が評価され、74歳で文化勲章を受章した。]()

 津田青楓《つだせいふう》。「黒きマント」は脚から足のぐあいが少し変である。そのために一種サディズムのにおいのあるエロティックな深刻味があって近代ドイツ派の好きな人には喜ばれるかもしれないが、甘みのすきな私にはこれよりももう一つの「裸婦」のほうが美しく感ぜられる。やはり鋭いものの中に柔らかい甘みがある。この絵の味は主として線から来ると思う。この人の固有の線の美しさが発揮されている。「海水着少女」は見るほうでも力こぶがはいる。職業的美術批評家の目で見ると日傘《ひがさ》や帽子の赤が勝って画面の中心があまり高い所にあるとも言われる。これはおそらく壁面へずっと低く掲げればちょうどよくなると思う。静物も美しい。これはこの人の独歩の世界である。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-17

 山下新太郎《やましたしんたろう》。 この人の絵にはかつていやな絵というものを見ない。しかし興奮もさせられない。長所であり短所である。時々は世俗のいわゆる大作を見せてくださる事を切望する。
(補記)

山下新太郎.jpg

「自画像」」(1904年(明治37年))(「東京芸術大学大学美術館」蔵)
[山下 新太郎(やました しんたろう、1881年8月29日 - 1966年4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。
 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である[2]。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。](「ウィキペディア」)

 安井會太郎《やすいそうたろう》。 「桐《きり》の花咲くころ」はこれまでの風景に比べて黄赤色が減じて白と黒とに分化している事に気がつく。これは白日の感じを出しているものと思われる。果物《くだもの》やばらのバックは新しいと思う。「初夏」の人物は昨年のより柔らかみが付け加わっている。私は「苺《いちご》」の静物の平淡な味を好む。少しのあぶなげもない。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-17

 横井礼市《よこいれいいち》。 この人の絵はうるさいところがなくてよい。涼しい感じがある。この人の絵の態度は行きつまらない。どこまでも延びうると思う。
(補記)

横井礼市.jpg

「横井礼以自選画集 非売品」(「横井礼以自選画集刊行委員会 編」)
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=334272812
「横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。
 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 ](「ウィキペディア」)

 湯浅一郎《ゆあさいちろう》。 巧拙にかかわらず一人の個人の歌集がおもしろいように個人画家の一代の作品の展覧はいろいろの意味で真味が深い。湯浅氏の回顧陳列もある意味で日本洋画界の歴史の側面を示すものである。これを見ると白馬会《はくばかい》時代からの洋画界のおさらえができるような気がする。ただこの人の昔の絵と今の絵との間にある大きな谷にどういう橋がかかっているかが私にはわからない。
(補記)

湯浅一郎.jpg

「室内婦人像/Woman in Interio」(「群馬県立美術館」蔵/ 1930(昭和5)油彩・カンヴァス・130.5×97.5cm・湯浅ゆくゑ氏・湯浅太助氏寄贈)
https://mmag.pref.gunma.jp/works/yuasa
[黒田清輝の指導の下、明治30年代に《徒然》《画室》など意欲あふれる作品を残した湯浅一郎は、明治38年の暮れから4年間、油彩の本場ヨーロッパに留学した。スペインでベラスケスの模写に精を出した湯浅は、人物画こそ油彩の本道であり、日本が学ばなければならないものだという確信を持って帰国する。ところが日本の近代洋画の歴史は、湯浅が行おうとした地道な努力とは別の、性急で表面的な模倣の道を選ぶ。
湯浅の晩年の作品であるこの作品は、画面右手前から光の差し込む室内で、揺りいすにくつろいで座り、新聞を読むゆくゑ夫人をモデルにしている。骨とう屋を回るのが好きだったという湯浅は、旅先でもさまざまなものを買い集めてきたようだ。本作に描き込まれた雑多な品々を見てもそのことがうかがえる。それにしても、これだけ数多くの物を描き込んでいながら画面が決して雑然としていないのは見事だ。ゆくゑ夫人の背後には変わった形の鏡が置かれ、そこにはこの作品を描いている湯浅自身が、画架を前にした姿で写っている。自画像をほとんど残さなかった湯浅は、晩年のこの作品の中に自らの姿をとどめた。湯浅が63年の生涯を閉じるのは翌年のことである。

 新しい人にもおもしろい絵があったが人と画題を忘却した。なんと言っても私には津田、安井二氏の絵を見るのが毎年の秋の楽しみの一つである。

   美術院

 近ごろの展覧会の日本画にはほとんど興味をなくしてしまった。すべてがただ紙の表面へたんねんに墨と絵の具をすりつけ盛り上げたものとしか感じられない。先日の朝日新聞社の大展覧会でみた雅邦《がほう》でもコケオドシとしか見えなかった。春挙《しゅんきょ》でも子供だましとしか思わなかった。そんな目で展覧会を見て評をするのは気の毒のような気もする。

 近藤浩一路《こんどうこういちろう》の四五点はおもしろいと思って見た。しかし用紙を一ぺんしわくちゃにして延ばしておいてかいたらしいあの技術にどれだけ眩惑《げんわく》された結果であるかまだよくわからない。ともかくもこの人の絵にはいつもあたまが働いているだけは確かである。頭のない空疎な絵ばかりの中ではどうしても目に立つ。
(補記)

近藤浩一路.jpg

「富士山/1940-50(昭和10-20年代)/紙本墨画・65.1×72.2cm/「静岡美術館」蔵」)
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection_vote/artist.php?AD=ka---kondo_koichiro


 川端竜子《かわばたりゅうし》の絵もある意味であたまは働いているが、いつも少し見当のちがったほうへ働いていはしないか。人に見せる絵と思わないで、自分で一人でしんみり楽しめるような絵をかくつもりでそのほうに頭を使ったら、ずっといい仕事のできる人だろうにと思う。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

 横山大観《よこやまたいかん》の[瀟湘八景《しょうしょうはっけい》]はどうも魂が抜けている。塗り盆に白い砂でこしらえる盆景の感じそのままである。全部がこしらえものである。金粉を振ったのは大きな失敗でこれも展覧会意識の生み出した悪い企図である。
(補記)

横山大観.jpg

横山大観「曳船」明治34年 足立美術館
https://www.museum.or.jp/event/94077
[横山大観(1868-1958)は、明治・大正・昭和の画壇を牽引した近代日本画の第一人者です。70年に迫る画業の中、常に画壇の第一線に立って活躍し、近代美術史に数多くの名作を遺しました。没後60年以上を経た現在も、その名声は色あせることなく生彩を放っています。](「足立美術館」)

 速水御舟《はやみぎょしゅう》の「家」の絵は見つけどころに共鳴する。しかしこれはむしろやはり油絵の題材でないか。とにかくこの人の絵はまじめであるがことしのは失敗だと思う。
(補記)

速水御舟.jpg

「Hayami Gyoshu作品1(新緑/大正4年(1915) 125.0×81.0 cm)
https://www.adachi-museum.or.jp/archives/collection/hayami_gyoshu
[青々とした若葉が画面いっぱいに描かれ、新緑の爽やかさとともに作者の感動がそのままに伝わってくる。御舟の作品に共通する、不思議な新しい感覚は本作でも感じられ、大正初期に描かれたものとは思えないほど瑞々しさにあふれている。
速水御舟/明治27年(1894)~ 昭和10年(1935)
東京に生まれる。松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門し、日本や東洋古典の粉本模写を通じて技量を磨く。その後、今村紫紅に認められ紅児会に参加。紫紅を生涯の師と仰いだ。大正3年には紫紅や小茂田青樹らと赤曜会を結成。同会解散後は院展に作品を発表。絶えず新しい表現を追求し続け、画壇に大きな足跡を遺した。](「足立美術館」)

 富田渓仙《とみたけいせん》の巻物にはいいところがあるが少し奇を弄《ろう》したところと色彩の子供らしさとが目についた。
(補記)
[冨田 溪仙(とみた けいせん、1879年12月9日 - 1936年7月6日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。初め狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。](「ウィキペディア」)

富田渓仙.jpg

渓仙筆 前赤壁図 1921年(「ウィキペディア」)

 あれだけおおぜいの専門的な研究家が集まってよくもあれほどまでに無意味な反古紙《ほごがみ》のようなものをこしらえ上げうるものだという気がする。
 これに反して二科会では、まだあまり名の知られてないようなたぶん若い人たちでも、中には西洋人のまねをしている人はあるとしても――ともかくも何かしら魂のはいった絵をかく人が多い。一つは材料の差異によるにしても。
 最後に一個の希望として、来年あたりから二科会で日本画も募集する事にしたらおもしろいだろうと思う。ただし従来いわゆる日本画の教養を受けた人は出品の資格がないという事にして――これはコントロールがむつかしいかもしれないが――そうして新しい日本画を募集してみたらどうであろう。その結果はおそらく沈滞した日本画界に画時代的の影響を及ぼすようなものになりはしないか。そうなったら自分も一つやってみようかなどとこのようなたわいもない夢のような事を思うのもやはり美術シーズンの空気に酔わされた影響かもしれない。
 勝手なことを書いて礼を失したところが多いと思う。しかし私の悪口は絵に対しての悪口である。名前をあげた限りの「人」に対しては好意と敬愛のほか何物も持っていない事をこの機会に明らかにしておきたい。悪言多罪。](昭和二年十一月、霊山美術)  ]

(追記) 「霊山美術」周辺

霊山美術.jpg

「霊山美術3号(津田青楓編)」(1938=昭和13年)の表紙(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「コラム・津田青楓洋画塾の七年(清水智世稿)」)

※ 寺田寅彦の美術評論「昭和二年の二科会と美術院」の初出の「霊山美術」というのは、津田青楓が開設した「津田青楓洋画塾」(大正十五年=一九二六に、京都市下京区(現・東山区))霊山町に開設した)の、その「塾報」の「霊山美術(RIYOSEN-BIJUTSU)」なのである。
 これが、昭和三年(一九二八)九月に、「鹿ケ谷桜谷町」に移住したことにより、「青楓洋画塾々報(Fusin)=(ヒューザン)」と衣替えをして行く。
 この「ヒューザン」と、「大正元年(一九一二)に斎藤与里、岸田劉生、万鉄五郎、高村光太郎ら後期印象派やフォービスムの影響を受けた青年画家が結成した美術団体の『フューザン・フュウザン会』(同年一〇月に第一回展を銀座の読売新聞社で開き、翌年三月に第二回展を開いたが、その後解散。会名は木炭を意味するフランス語「フューザン」にちなむ)」
とは、その流れを汲む「新しい美術家集団」を目指したネーミングであろうが、直接的な関係はない。
 そして、高村光太郎ら結成した、大正元年(一九一二)の第一回「フューザン会展」に、夏目漱石と寺田寅彦とが来場されて、光太郎の「ツツジ」という作品を、寅彦が購入したことなどが、光太郎の「ヒウザン会とパンの会」(下記アドレス)の中で綴られている。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46380_25635.html

 それだけではなく、当時、夏目漱石が「東京朝日新聞」に、「文展と芸術」という美術評論を書いていて、その中に、「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」という冒頭の書き出しに、高村光太郎が、「読売新聞」上の「「西洋画所見」という文展評の中で、「芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく」が、この、漱石の『自己の表現に始つて』という言には承服できないということの反駁文を載せ、この二人の間に確執が生じるということが、両者をよく知る「寅彦と青楓」介在して表面化するという事件らしきものが、内在している。
 これらのことについては、下記アドレスの「漱石と光太郎・・・第六回文展評をめぐる綾・・・(佐々木充稿)」に詳しい。

https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900024588/KJ00004297097.pdf

 ちなみに、当時の「青楓洋画塾」の客員には、「中川紀元・清水登之・東郷青児・安井曽太郎・鈴木信太郎・古賀春江」が名を連ね、その学芸委員に「寺田寅彦・谷川徹三」

青楓塾展のポスター.gif


「青楓塾展のポスター」
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/
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「津田青楓」管見(その七) [東洋城・豊隆・青楓]

その七「津田青楓の前景(その生い立ちから巴里滞在時前後の頃まで)」周辺

津田青楓が描く花の世界・生家.jpg

【笛吹市青楓美術館】ぶどう畑の中の最古の美術館(4) 「津田青楓が描く花の世界」を見に行く https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

[ 晩年になって、生家の様子を回想し描いた作品。青楓の父、西川一葉(本名・源治郎)は生け花を教えながら、花売りを商っていた。青楓は、幼少の頃より市場への花の買い出しなど家業を手伝っており、その時に使用した荷車や、店先で花売る父の姿が描き込まれている。
 青楓の津田姓は、母の生家に跡継ぎがなく、母方の祖父の養子となって継いだものである。津田家の先祖は明智光秀とか、その家来といった由緒もあったようだが、母が因襲をきらっており、祖父が亡くなった際、系図を屑屋に売り払ってしまったという。(「自撰年譜」)]
(『背く画家津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和(津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

[津田 青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は、京都府出身の画家、書家、随筆家、歌人。良寛研究家としても知られる。本名、津田亀治郎。旧姓、西川。津田は母方の姓。最初の妻の山脇敏子も洋画家である。](「ウィキペディア」)

[ 津田青楓の図案作品──京都の年代 (関西大学名誉教授  スコット・ジョンソン)

https://www.jissen.ac.jp/bungei/event/r28lrh0000003amq-att/eiribon9.pdf

 津田青楓(1880-1978)〔明治 13~昭和 53〕は、プロレタリア運動による彼の政治活動
だけでなく、夏目漱石や彼を慕う文人達との緊密な関係で有名です。

 彼の芸術家としての人生は京都で始まりました。それは小学校の6年を終えるとすぐの
事でした。彼は、最初に京都の呉服問屋である千切屋に奉公し、そのうち千切屋内で意匠
の仕事に携わるようになります。数年後、彼は京都市立染織学校に入り、同時に谷口香嶠
(1864-1915)の画塾にも入門、日本画を学びました。青楓が 18 才の頃には独立した図案
家となり、年長で既に高名であった神坂雪佳に対抗し始めていました。1902 年に浅井忠
が京都府立高等工芸学校でデザインを教え始めたとき、青楓は彼の影響を受けて、彼の関
西美術院で洋画を学びました。

 彼の最初の図案本は京都の本田市次郎の雲錦堂により刊行されました。後に雲錦堂は山
田直三郎の 艸堂と合併し、その後の青楓の図案本は 艸堂から発行されました。
 津田青楓の図案本は 1899 年から 1903 年〔明治 32~36〕に多く出版されました。しかし、渦中の 1900 年〔明治 33〕、20 才になったとき、彼は歩兵連隊に徴兵されて3年間の軍隊生活を送る事になります。彼は衛生兵に志願し、京都深草の師団内部にある衛戍病院で看護教育を受けました。彼は、衛生部志願によって出来た自由な時間を活用し、出版のため
の図案を作り続けることができました。

 1903 年 12 月に彼は除隊し、自由の身になったと思っていました。彼はこの頃に、精魂
を傾けて創造した図案を掲載する雑誌を作るという最も野心的なプロジェクトを始めまし
た。しかし、1904 年4月に日露戦争が起こり、彼は再び徴兵されました。彼の部隊は、
最も血なまぐさい戦闘があった 203 高地の戦いにも配属されており、彼は衛生兵の勤めを
果たしました。この戦争中、戦争前に完成させていたデザインに基づく図案本が、彼の兄
である西川一草亭(1878-1938)と彼の親友浅野古香(後の杉林古香)(1881-1913)によ
って編集されました。   
 青楓は 1906 年〔明治 39〕の春に日本に帰国しました。彼は戦争後に2冊の図案本を作
りました。しかし、2年の戦争は津田青楓を変えてしまいました。彼はもはや京都での生
活を幸せには思えませんでした。そして、1907 年〔明治 40〕に彼はフランスに渡りました。

そこで青楓はアカデミー・ジュリアンで絵画を研究しました。パリでの研究を終えた後に
青楓は京都に戻り、夏目漱石に出会うのです。漱石は彼に東京へ引っ越すよう促し、青楓
はそれを実行しました。

東京では、津田青楓は絵画の新しいスタイルを実験します。完全に急速に変化する東京
のライフスタイルを楽しみました。ですが、その前に、津田青楓は京都時代にこそ、最も
美しく最も独創的な図案本の出版で衝撃的な遺産を生み出していたのです。
 東京では、夏目漱石、与謝野晶子、鈴木三重吉やその他の作家達の本の装幀をしました。
それらの装幀図案が、後に京都の芸艸堂から『装幀図案集』という多色摺り木版本として
発行された事は、青楓がルーツである京都を忘れなかった事を示しているのでしょう。

初期の作品:1899~1903 の出版

 『青もみぢ 1~6』(30 のデザイン)

青もみぢ(第五巻).jpg

「青もみぢ(第五巻)・本田雲錦堂(一九〇〇・六月)」(『背く画家津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和(津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

津田青楓 図案と時代と.jpg

「津田青楓 図案と、時代と、」(2022年6月18日(土)~2022年8月14日(日/渋谷区立松濤美術館)
https://www.museum.or.jp/report/107692

 『図案集』8巻
 『染織図案』4巻

染織図案.jpg

「染織図案(一・二・三・四)」(山田芸艸堂/1904年3月)
thttps://www.pen-online.jp/article/010890.html#photo-gallery-10890-3

 『華橘』
 『華紋譜』2巻

華紋譜.jpg

右「華紋譜(花之巻)・本田雲錦堂(一八九九年六月)」
左「華紋譜(楓之巻)・本田雲錦堂(一九〇〇年四月)」
https://www.museum.or.jp/report/107692

 『うづら衣』3巻

うづら衣一.jpg

「うづら衣・山田芸艸堂(一九〇三年)」

うづら衣二.jpg

「うづら衣・山田芸艸堂(一九〇三年)」
https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

青楓の徴兵期間:1904 年の出版
 『小美術』1~6(西川一草亭、浅野古香と岡田朴亭による図版は木版多色摺りで、浅
井忠と谷口香嶠によるエッセイとコメント入り)

 『小美術図譜』

戦地図案.jpg

津田青楓「戦地図案其二(高梁中のアタアタ車)」『小美術図譜』(山田芸艸堂)より 1904年(明治37) 芸艸堂蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502044

 『ナツ草』

ナツ艸.jpg

津田青楓『ナツ艸』(山田芸艸堂)より 1904年(明治37) 個人蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502043

1906 年の出版
 『落柿』2巻(浅野古香と共著)
 『青もみぢ7~9』
1929 年の出版
 『装幀図案集』(装幀図案:夏目漱石・鈴木三重吉・森田草平・田山花袋・与謝野晶子・田村俊子・村田鳥江・松岡譲の単行本)

鈴木三重吉『櫛』.jpg

津田青楓(装幀) 鈴木三重吉『櫛』(春陽堂) 1913年(大正2) 笛吹市青楓美術館蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502045

[華道家で去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれる。兄の西川一草亭も華道家で、去風流家元。小学校卒業後、京都の呉服問屋である千切屋に奉公し、そのうち千切屋内で意匠の仕事に携わるようになる。

はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年、京都市立染織学校に入学。傍ら、谷口香嶠に日本画を師事[2]。同校卒業後、同校の助手を務める。1899年、関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事。関西美術院で学びつつ京都髙島屋の図案部に勤め、1903年には図案集『うづら衣』(山田芸艸堂)を刊行した。

1904年、兄の西川一草亭らと共に小美術会を結成。

1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にフランスの首都パリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事。アールヌーヴォーの影響を受ける。1909年に帰朝。在仏中に安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎ら画家・彫刻家と交遊した。1913年に文展を脱退し、1914年、二科会創立に参加。1929年、京都市東山区清閑寺霊山町に津田洋画塾を開く。 ](「ウィキペディア」)

青楓の肖像写真.jpg

「1908年の青楓の肖像写真」(「フランス留学時代の津田青楓」)
https://twitter.com/nerima_museum/status/1240190704569044992
「生誕140年記念 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和展」
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

書架の一隅.jpg

左「書架の一隅」(津田青楓画/1911年/「笛吹市青楓美術館」蔵)
右「花鳥図」(津田青楓画/制作年不詳/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.pen-online.jp/article/010890.html#photo-gallery-10890-9

ジャン=ポール・ローランス.jpg

ジャン=ポール・ローランス/Jean-Paul Laurens (「ウィキペディア」)

[ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens、1838年3月28日 - 1921年3月23日)は、フランスの彫刻家・画家である。エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)や、私立美術学校アカデミー・ジュリアンで多くの画家を育てた。](「ウィキペディア」)

フランス留学時の津田青楓.jpg

「フランス留学時の津田青楓(左)と安井曽太郎(右)」(「明治四十一年(一九〇八)二月十五日」)
https://vkzg.cebagent.shop/index.php?main_page=product_info&products_id=27591

津田青楓(右)の安井曽太郎(左).jpg

「昭和十八年(一九四三)時の津田青楓(右)の安井曽太郎(左)」
『老画家の一生(津田青楓著)』所収「漱石忌/昭和三十七年(一九六二)十二月/神樂坂署/p577」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296

(補記) 津田青楓略年譜(「年譜メモ=「津田青楓九十六年の歩み=小池唯則」抜粋メモ)

津田青楓略年譜.jpg

「津田青楓略年譜 出典 : 青楓美術館配布資料」
https://note.com/azusa183/n/n4e78d78b364a

(「年譜メモ」その一)

一八九一年(明治二十四年・十一才) 小学校卒業。三条室町「仙吉」に丁稚奉公。
一八九六年(明治二十九年・十六才) 芸艸堂から八枚の版画の図案集「宮古錦」を「青楓」の号で出版。題も雅号も兄・一草亭が付けた。
一八九七年(明治三十年・十七才) 谷口香嶠へ入門し本格的に修業する。当時、香嶠は竹内
 栖鳳らと高島屋染織部にいた。絵模様の過程が知りたくて京都市立染織学校速成染織科へ入学。
一八九九年(明治三十二年・十九才)  芸艸堂から出版した図案集が高島屋の大番頭に認められて入店。京都高等工芸学校に着任した浅井忠が、民間の関西美術院でも中心の指導者になったので高島屋の仕事のかたわら早速入学する。
一九〇〇(明治三十三年・二十才) 十二月深草歩兵三十八連隊入営。
一九〇一(明治三十四年・二十一才) この頃、兄・一草亭、浅井忠と互いに絵と生花の交換教授をする。
一九〇四(明治三十七年・二十四才) 除隊後、高島屋図案部に再就職。一草亭、浅井忠らを相談役として図案雑誌「小美術」を企画し、編集を一任される。二月、日露開戦。三月、戦時招集。「小美術」廃刊。四月、大阪港出港、乃木将軍の部隊に配属。八月旅順、次いで二〇三高地の激戦に参加。「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」に、「戦争に関する写生文(其三「敵襲」)」(上記の「目次」のとおり)として掲載される。

(「津田青楓の従軍体験」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

一九〇六(明治三十九年・二十六才) 軍隊生活の七年は終わった。永観堂の近くに住み、高島屋図案部に勤め関西美術院に通い、また香嶠塾の研究会にも出席する。

一九〇七(明治四十年・二十七才)  香嶠塾で、女子美出身の山脇敏子を知り、生家の奥座敷で胸式。高島屋の大番頭飯田新兵衛の運動で農商務省実習練習生の許可を得る。父の弟子に安井曽太郎の姉があり、その懇願で、曽太郎、当年、二十才を同伴、四月二十日、諏訪丸で大阪港を出港。同船に徳望家の本多光太郎博士がいた。マルセーユで下船、六月はじめパリ着。英語もフランス語も習っていなかったので、アカデミー・ジュリアン(戦後四年制のデザイン学校に変わった)の入学手続きは安井が一しょにしてくれる。日本人の通訳でジャン・ポール・ローランスの指導を受ける。先輩に斎藤与里、荻原碌山らがいた。当時の留学生は学校に入学する者、画塾に一人通ったり、貸アトリエでモデルに金を払って自由に練習するなどさまざまだった。この頃、湯浅一郎、藤島武二、白滝幾之助、有島生馬、山下新太郎らがいた。レストランに集まると画学生たちは漱石の『坊ちゃん』『草枕』を朗読し話題にして議論した。

山脇敏子.jpg

「山脇敏子(1848年当時)」(「ウィキペディア」)
[1887年(明治20年) 広島県呉市の医師の家庭に生まれ、竹原市で育つ。
1899年(明治32年) 竹原市立東野小学校を卒業して上京。
1905年(明治38年) 女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科卒業。日本画の手ほどきは、殆ど河鍋暁翠から習ったという。女子美術学校の卒業生として、初の文部省留学生に選ばれ渡欧。洋画も学ぶ。
1907年(明治40年) 夏目漱石と親交のあった津田青楓と結婚。漱石を中心に集まる内田百閒や鈴木三重吉ら「木曜会」[3]の作家や、寺田寅彦やセルゲイ・エリセーエフらの学者、また文展に不満を持つ藤島武二や南薫造ら若い芸術家と親交を持った。漱石の絶筆『明暗』のモデルともされる[1]。
1918年(大正7年) 二科美術展覧会に洋画入選。
1919年(大正8年) 他の女流画家たちと日本で初めての女子洋画団体「朱葉会」[4]を結成。命名はやはり創立委員だった与謝野晶子。
1923年(大正12年) 西村伊作が創設した文化学院の講師。まもなく農商務省の委嘱で婦人副業視察に再び渡欧、フランスに1年滞在。この間青楓に愛人ができ1926年(大正15年)離婚。傷心の敏子は画家を諦め、自立への道を服飾に賭けた。三度渡欧し昼は手芸、夜は裁断を二年間必死に勉強。また経済的窮地をパリを訪れていた細川侯爵夫人に救われた。これが縁で後に学習院・常磐会で手芸や洋裁を教えた。
1929年(昭和4年) 東京麹町内幸町に「山脇洋裁学院」(現・山脇美術専門学院)を開設。また日本のオートクチュールの草分け、洋裁店「アザレ」を銀座に開店。官家や知名人の服飾を手がけ格調あるモードは高い評価を得た。
1935年(昭和10年) 陸軍被服廠嘱託。文化服装学院講師。
1947年(昭和22年) 戦後の洋裁ブームの中「山脇服飾美術学院」を設立、理事長・院長となる。
1960年(昭和35年) 脳出血で死去。小平霊園に眠る。](「ウィキペディア」)

一九〇八年(明治四十一年・二十八歳) パリから投じた「掃除女」が「ホトトギス」に掲載され、小宮豊隆が朝日の文芸欄で久保田万太郎の小説と比較して褒めてくれた。
一九一〇年(明治四十三年・三十歳) テアトルの下宿に白滝幾之助、高村光太郎、大隈為三らが寄宿。「ホトトギス」へ「グルーズの少女」他小説数篇を発表。二月、留学の期限が来たので、ふたたびマルセーユから帰る。船中で浅井忠の訃報を聞く。 
一九一一年(明治四十四年・三十一歳) 「ホトトギス」に挿絵を描く。五月、長女あやめ出生。六月、東京小石川の高田老松町へ転居。妻の敏子は近くに住む羽仁夫妻の「婦人の友」社へ出入りする。漱石の「木曜会」の常連となり、いわゆる漱石の十弟子と親しくなる。

(「夏目漱石と十弟子そして津田青楓」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-11

一九一四年(大正三年・三十四歳) 文展に反抗して二科会結成を企てたが、藤島武二、田辺至らは加わらず、開会まで残ったのは、「石井柏亭、津田青楓、梅原龍三郎、山下新太郎、有島生馬、湯浅一郎、斎藤豊作、熊谷守一、坂本繁二郎の九名。二科会第一回展を三越本店で開く。

(「二科会の沿革(津田青楓の「二科会」の歩み)」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-07

一九一六年(大正五年・三十六歳) 十二月九日、漱石永眠、死面を描く。

(「漱石の死に顔のスケッチ(津田青楓画)」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-19

一九一七年(大正六年・三十七歳) 安井曽太郎と水野はまの結婚媒酌を夫妻でつとめる。

安井曽太郎.jpg

「安井曽太郎」(「近代 日本人の肖像」)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/4153/
[明治21年5月17日 〜 昭和30年12月14日/(1888年5月17日 〜 1955年12月14日)
洋画家。明治37(1904)年聖護院洋画研究所(後の関西美術院)に入り、浅井忠に学ぶ。40(1907)年渡仏、ジャン・ポール・ローレンスに師事、その後ピサロやセザンヌの影響を受ける。大正3(1914)年帰国。4(1915)年二科会で注目され会員になる。昭和10(1935)年帝国美術院会員。(1936)年一水会を創立。19(1944)年東京美術学校(後の東京芸術大学)教授。主観主義的な近代写実絵画を確立した。昭和27(1952)年文化勲章を受章。代表作に「婦人像」「金蓉(きんよう)」など。 ](「近代 日本人の肖像」)

一九二二年(大正十一年・四十二歳) 三月、妻敏子の外遊を送る。長女あやめ、次女ふよう、目白女子大付属小学校に通っていたが、三女ひかる(二歳)は友人の画家の懇望あり預ける。
一九二三年(大正十二年・四十三歳) 九月一日、関東大震災起こる。二科会招待日とて寺田寅彦と会場内の喫茶室にいた。途中火災の中を歩いて自宅に帰る。京都に転居を決意。二科会を閉じ、船で作品を運び、十月末大阪で再開。京都吉田町に河上肇先生を初めて訪ねる。河上を介して、京大関係者(狩野直喜・和辻哲郎・河田嗣郎ら)の画会(「翰墨会」)を作ってくれた。
一九二四年(大正十三年・四十四歳) 四月、震災の報に驚き敏子フランスから帰る。二人の子供を伴い神戸港に迎えた。二人は結局別々の生活を択ぶことに話が進んだ。
一九二六年(大正十五年・四十六歳) 晩秋、京都浄土寺去風洞で、河上肇の司会で、名古屋の人、鈴木浜子との結婚披露宴を開く。和辻哲郎、志賀直哉、九里四郎、近藤浩一路、有島生馬、浜子の兄ら列席。五月合議成立した山脇敏子との離婚を十二月届け出。

河上肇.jpg

「河上肇」(「近代 日本人の肖像」)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/256/
[明治12年10月20日 〜 昭和21年1月30日(1879年10月20日 〜 1946年1月30日)
 経済学者。明治35(1902)年東京帝大法科大学政治学科を卒業し、翌年東京帝大農科大学実科講師となる。38年12月教職を辞して、伊藤証信の無我苑に入るが、翌年2月離脱。41年京都帝大講師、42年助教授。大正2(1913)年から4年までヨーロッパに留学。3年法学博士、翌年教授となる。5年『貧乏物語』を大阪朝日新聞に連載し反響を呼んだ。昭和3年京都帝大を辞職。7年共産党に入党。翌年検挙され入獄し、12年6月出獄。以後は漢詩などに親しみ『自叙伝』を執筆。代表的著作は『資本論入門』(1928~9)、『経済学大綱』(1929)。](「近代 日本人の肖像」)

一九二九年(昭和四年・四十九歳) 四月、山脇敏子、生母を慕うあやめ姉妹らを無断で東京へ連れ去る。河上肇、京大を去り労農党入党、東京へ転居。
一九三〇年(昭和五年・五十歳) 十二月、東京荻窪の前田寛治のアトリエが売りに出たので、京都の家を売り払って、希望の塾生(「津田洋画塾」)と共に東京へ転居。以後、京都(一草亭邸内別棟)、名古屋(弟子の画室)、東京(東京・荻窪自家アトリエと、池の端=美校生の合宿所)に画塾があり、西下は月二回にして指導した。
一九三一年(昭和六年・五十一歳) 東京第一回塾展。
一九三二年(昭和七年・五十二歳) 五月四日から八日、東京堂二階で「津田塾二回展」を開く。東京、名古屋、京都の塾生も出品。
一九三三年(昭和八年・五十三歳) この年、塾生の数、京都・名古屋・東京、合計百数十名に及び、京都のみで五十余名を数えた。一月、河上肇検挙される。七月十六日、「犠牲者」を制作中、杉並署へ連行される。翌日、神楽坂署に留置、二十一日の或る新聞は四段ぬきで社会面トップに・・・「二科会の重鎮、津田青楓氏留置」(新議会)の作者・・・という三行の大見出しで報じた。八月七日起訴保留で釈放されると、集まった新聞記者の質問に次のように答えた。「洋画がある程度の水準に達した今日、さらに発展させるには、マルキシズムの観点によって進まなければ進展が望めない。しかし、これを実行すると非合法運動になる。現状ではつまらぬことと思うので、昔描いた日本画は東洋哲学にもとづいて開拓すべき道があるから、西行や良寛のような立場から、今後は日本画に精進したい」。八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル付」という解散声明書を塾の名でハガキに印刷して発送した。熱心な引き止めもあったが二科会を脱会した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

(「ブルジョア議会と民衆の生活(青楓画)」・「疾風怒涛(青楓画)」・「犠牲者(青楓画)」周辺)

青楓の転向を報じる当時の新聞.jpg

「青楓の転向を報じる当時の新聞」
https://artexhibition.jp/topics/news/20200228-AEJ184798/ ](『津田青楓デッサン集(津田青楓著・小池唯則解説)所収「津田青楓九十六年の歩み ー 解説にかえて ー (小池唯則)」)
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「津田青楓」管見(その六) [東洋城・豊隆・青楓]

その六「大正六年(一九一七)『ホトトギス』(虚子)と画家達」周辺

「ホトトギス」の表紙を飾った画家達.jpg

「『ホトトギス』の表紙を飾った画家達そして津田青楓」(「大正六年『ホトトギス発行所』の招待により参集した画家達」)(「自撰年譜(津田青楓著)」)
[「ホトトギス発行所(虚子・島田青峯ら三人)」(上段)と「招待された画家達(下段「青峯の右から時計回りに『橋口五葉→平福百穂→津田青峯→石井柏亭→斎藤與里→川端龍子』」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/5

橋口五葉画.jpg

橋口五葉画「森」(第16巻第1号/ 大正元年(1912)10月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6467/

橋口五葉.jpg

[ 橋口五葉(はしぐちごよう)/ 明治14年(1881)12月21日 〜 大正10年(1921)2月24日

版画家、装幀家。日本画を橋本雅邦に学ぶが、黒田清輝の勧めで洋画に転じ、明治38(1905)年東京美術校西洋画科卒。在学中、白馬会に洋画を出品する。夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』で装幀家として注目され、以降、多数の文学作品の装幀を手掛けた。44年三越呉服店のポスター公募で当選した「此美人」が好評を博す。浮世絵研究でも知られ、歌川広重や喜多川歌麿を中心に多くの論稿を発表した。大正4(1915)年、版元渡辺版画店から「浴場の女」を発表し、以降は亡くなるまで木版画に取り組んだ。](「近代人の肖像(国立国会図書館)」)

平福百穂画「.jpg

平福百穂画「舞妓」(第16巻第4号/大正2年(1913)1月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%A6%8F%E7%99%BE%E7%A9%82-14824

[平福百穂(ひらふくひゃくすい)/1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)
日本画家。四条派の画家平福穂庵(すいあん)の四男として秋田県角館(かくのだて)(現仙北市)に生まれる。本名貞蔵。初め父について絵を習うが13歳で死別。1894年(明治27)上京して川端玉章(ぎょくしょう)の塾に入り、97年東京美術学校日本画科に編入学し、2年で卒業した。『田舎(いなか)の嫁入』は卒業制作。川端塾で結城素明(ゆうきそめい)と親しくなり、1900年(明治33)素明ら6人の同志と自然主義を唱えて无声(むせい)会を結成した。03年から翌年にかけて母校の西洋画科に通いデッサンを学んでいる。日常の情景を写実的にとらえた作品を无声会の展覧会に出品。このころ伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)、斎藤茂吉、岡麓(ふもと)らと知り合って短歌を始め、雑誌『アララギ』の表紙絵も描いた。
 1907年国民新聞社に入社。同僚に川端龍子(りゅうし)がいた。翌年石井柏亭(はくてい)の勧めで雑誌『方寸(ほうすん)』の編集同人になる。09年の第3回文展に『アイヌ』を出品、以後主として文展、帝展で活躍した。16年(大正5)素明、鏑木清方(かぶらききよかた)、吉川霊華(きっかわれいか)、松岡映丘(えいきゅう)と金鈴(きんれい)社を結成。翌年第11回文展で『予譲(よじょう)』が特選になる。自然主義から琳派(りんぱ)風の装飾的な構成への転換を示すが、晩年は南画の手法を加えて清明な画風に到達した。30年(昭和5)にヨーロッパを旅行。この年帝国美術院会員にあげられ、32年から東京美術学校教授を務めた。ほかに『七面鳥』『荒磯(ありそ)』『堅田(かたた)の一休(いっきゅう)』『小松山』などが代表作。歌集『寒竹』がある。(原田実稿)](「出典/小学館/日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)」)

津田青楓画「花かご」.jpg

津田青楓画「花かご」(第16巻第2号/大正元年(1912)11月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E9%9D%92%E6%A5%93-19162#goog_rewarded

[津田青楓(つだせいふう)
 画家。京都生まれ。生家西川家から母方の養子となって津田姓を嗣(つ)ぐ。竹川友広、谷口香嶠(こうきょう)に日本画を学び、京都市立染織学校を経て、1899年(明治32)に浅井忠(ちゅう)の関西美術院に入る。京都高島屋図案部勤務ののち、1907年(明治40)から10年までパリに留学し、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学ぶ。帰国後、夏目漱石(そうせき)に油絵を教え、14年(大正3)には二科会の創立に参加。翌15年、津田洋画塾を開いて京都画壇に一勢力をなした。その後しだいに左翼運動に近づき、31年(昭和6)の第18回二科展に『ブルジョワ議会と民衆の生活』を出品したが、33年の検挙後に転向して二科会を退会。以後はふたたび日本画に転じ、また良寛(りょうかん)研究に専念した。晩年は南画風の自由な作品に独特の情趣を示し、また絵画のほかにも、詩、書、短歌、装丁を手がけるなど、幅広い活動をみせた。(二階堂充稿) ](出典/小学館/日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)」)

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石井柏亭「落椿」(第16巻第5号/大正2年(1913)5月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6349/

[石井柏亭(いしいはくてい)/明治15年(1882)3月28日 〜 昭和33年(1958)12月29日

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 洋画家。父鼎湖に日本画を、浅井忠に洋画を学ぶ。明治34(1901)年自然主義を標榜する无声会、翌年太平洋画会に参加。37年東京美術学校(後の東京芸術大学)洋画科に入学するも、翌年中退した。40年森田恒友、山本鼎と雑誌『方寸』を創刊し、創作版画運動を先駆した。大正3(1914)年二科会の創立に参加。昭和10(1935)年帝国美術院会員となり、二科会を離れて同志と一水会を創立した。堅実な自然主義的な画風の作品を残し、水彩画の発達にも貢献した。代表作に「草上の小憩」等。彫刻家の石井鶴三は弟。](「近代人の肖像(国立国会図書館)」)

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斎藤與里「ダリア」(第15巻第11号/大正元年(1912)8月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.kazo-dmuseum.jp/06art/01artist/saitou.htm

[斎藤與里(さいとうより) (1885-1959)

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明治18年(1885)、現在の加須市下樋遣川に生まれました。同38年(1905)京都に出て、浅井忠、鹿子木孟郎に学び、同38年(1906)から2年間、鹿子木とともにパリに留学しました。帰国後は、文筆活動を積極的に行い雑誌『白樺』などでゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどの後期印象派を初めて日本に紹介しました。大正元年(1912)、岸田劉生、高村光太郎らと「フュウザン会」という若手画家たちのグループを結成。その後、大阪美術学校の創立に参加。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍しました。同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。大正4年(1915)第9回文展に初出品した《朝》が初入選し、同5年(1916)第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選となり、昭和2年(1927)第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となっています。昭和34年(1959)4月に加須市の名誉市民第1号に推挙されましたが、同年5月3日、74歳で世を去りました。 ](「加須インターネット博物館 埼玉県加須市教育委員会 生涯学習部 生涯学習課」)

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川端龍子画「品川の海」(第16巻第3号/大正元年(1912)12月)
http://www.hototogisu.co.jp/

[川端龍子(かわばたりゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。

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(生涯)
 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。
 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。一中分校から発展して東京府立第三中学校が設立されたことで三中に移籍。府立三中在学中の1903年(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募した。このうち『西南戦争の熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(1点20円)の賞金を得た。これが本格的に画家を志すきっかけとなった。
 画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。修善寺温泉で横山大観ら画家や俳人、歌人、文豪のパトロンになっていた新井旅館に籠って画作に励んで資金を蓄え、1913年(大正2年)に渡米した。西洋画を学び、それで身を立てようと思っていたが、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉時代の絵巻物の名作『平治物語絵巻』を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。
 1915年(大正4年)、平福百穂らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎。命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、個人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
 その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。縦1m85cm・幅8m38㎝の大画面に展開する、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト。激しくぶつかり合う水と水、波しぶき。壮大な水の世界を描いた『鳴門』は、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
 1931年(昭和6年)に朝日文化賞受賞。 1935年(昭和10年)、帝国美術院(帝国芸術院の前身)の改革に伴い会員[2]、さらに1937年(昭和12年)には帝国芸術院会員となったが、1941年(昭和16年)に会員を辞任した。
 1937年(昭和12年)に『潮騒』を発表。幅14mの超大作で、岸壁の海岸、深い海の青が浅くなるにつれ、透明度の高い緑に変化していく様子を鮮やかに描いている。この作品で龍子の筆致は大きく変わった。岩に激しくぶつかる水、そこには輪郭線がない。想像だけで描いた『鳴門』と比較すると繊細な波の動きがよりリアルに表現されていることが分かる。新たな水の表現を獲得した龍子であった。
 1939年(昭和14年)、時世に応じて他の作家とともに陸軍美術協会に入会[3]。1941年(昭和16年)に太平洋戦争勃発。自由に絵を描くことが許されない中で、龍子は作品を発表し続けた。1944年(昭和19年)の『水雷神』で、水にすむ神々が持ち上げているのは魚雷であり、暗く深い海の底、その水は重く濁っている。龍子はこの神々に命を投げ出し、突き進む特攻隊員の姿を重ねた。
 龍子は戦前に長男と次女を亡くし、1941年(昭和16年)には弟の茅舎が病没。戦中は三男が戦地で亡くなり、1944年(昭和19年)7月17日に妻に先立たれた[1]。重々しい色使いは龍子の心情の表れかも知れない。
 終戦を翌々日に控えた1945年(昭和20年)8月13日には龍子の自宅も空襲に遭った。使用人2人が亡くなり、家屋のほか食糧難をしのぐため庭で育てていた野菜も被害を受けた。この後すぐ『爆弾散華』(2m49cm×1m88cm)を描き上げた。金箔や金色の砂子の背景にトマトが爆風でちぎれ飛ぶ様を描いたこの作品は、戦死者への追悼も込められているとみる解釈もある。また爆撃によりできた穴を「爆弾散華の池」として残した。
 第二次大戦後の1950年(昭和25年)、65歳になっていた龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始める。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描」と呼ぶ)を残した。これらは、札所で詠んだ俳句とともに画文集『四国遍路』として出版されている。
 1959年(昭和34年)、文化勲章受章。没年の1966年(昭和41年)には、居宅に近い東京都大田区の池上本門寺大堂天井画として奉納すべく『龍』を描いたが未完のまま死去。墓所は、弟の茅舎とともに修善寺の裏手にある。渡米前に滞在した修善寺は気に入った場所で別荘も構え、その庭を描いた『龍子垣』という作品も残るほか、修善寺で苔むさせた東京の自宅に運ぶこともした。世話になった新井旅館の改装にも協力している。
 後日、遺族の相談を受け龍子の遺作を実見した日本画家の奥村土牛は作品を激賞。奥村が画龍点睛して開眼の上、作品は大堂に奉納された。 ](「ウィキペディア」)

(補記その一)「ホトトギス」記念号の表紙を飾った画家達(創刊号~1000号)

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「虚子記念文学館報(2021年4月第40号)
http://www.kyoshi.or.jp/j-eitopi/kanpo/040.pdf

創刊号(明治30年1月)→題字は「下村為山」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%9D%91%20%E7%82%BA%E5%B1%B1-1646904
[ 下村為山(しもむらいざん)
生年・慶応1年5月21日(1865年)/没年・昭和24(1949)年7月10日/出生地・伊予国松山(愛媛県)/本名・下村 純孝/別名・別号=百歩,牛伴
経歴上京して洋画を小山正太郎に学び、不同舎塾の後輩に中村不折がいる。のち日本画を久保田米遷に学び、俳画に一家をなした。明治22年内国勧業博覧会で受賞。俳句は正岡子規に師事し、洋画写生の優越姓を不折に先立って子規に説いたと伝えられる。27年松山に日本派俳句会の松風会を興し、日本派の俳人として活躍、句風は子規に「精微」と評された。30年松山版「ホトトギス」創刊時に初号の題字を書いたといわれる。その後も東京発行の「ホトトギス」や「新俳句」に表紙・挿画などを寄せ、同派に貢献した。句は「俳句二葉集」「春夏秋冬」などに見られる。](「日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)」)

100号(明治38年4月)→表紙画「橋口五葉」→ 上記に紹介
200号(大正2年5月)→ 同  「小川千甕」
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/ogawasenyou/
[ 小川千甕(おがわせんよう/1882〜1971)
明治末期から昭和期までの長きにわたって、仏画師・洋画家・漫画家・日本画家として活躍しました。京都の書肆「柳枝軒」の家に生まれた千甕は、少年時代は仏画を描いていました。その後、浅井忠に洋画を学ぶ一方で、新感覚の日本画も発表し始めます。同じ頃、京都市立陶磁器試験場の絵付け技手となったことをきっかけに「千甕」(せんよう)の雅号を自ら名付けますが、俳画や挿絵の画家としては「ちかめ」の名でも親しまれていました。明治末、28歳で東京へ越し、『ホトトギス』などに挿絵、漫画を発表して人気を博します。さらに1913年(大正2)には渡欧し、印象派の巨匠ルノワールにも会っています。帰国後は日本美術院に出品し、本格的な日本画家として活躍しました。その後、少年時代に憧れた富岡鉄斎を思わせるダイナミックな筆遣いの南画(文人画)で愛されました。](「京都文化博物館」)

300号(大正10年9月)→表紙画「津田青楓」→ 上記と下記のアドレスで紹介
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

400号(昭和4年12月)→表紙画「石井柏亭」→ 上記に紹介
500号(昭和13年4月)→ 同 「小川芋銭」 
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E8%8A%8B%E9%8A%AD-17715
[ 小川芋銭 (おがわうせん)/生没年:1868-1938(明治1-昭和13)
日本画家。東京赤坂の牛久藩邸に生まれたが,牛久村(現,茨城県牛久市)に帰農。幼名不動太郎のち茂吉。別号牛里,草汁庵,芋銭子など。1880年ころ上京,働きながら,本多錦吉郎の画塾彰技堂で洋画を学び,のち日本画を独修した。91年,《朝野新聞》に第1回帝国議会のスケッチが掲載され,93年牛久に帰り農業に従事しながら,《茨城日報》や《いはらき》など,郷里のジャーナリズムに田園風刺漫画を掲載しはじめる。1903年ころ幸徳秋水を知り,《平民新聞》に風刺漫画を発表。08年以降《草汁漫画》の刊行,鹿島桜巷編《漫画百種》,《漫画春秋》,《ホトトギス》などに多くの漫画や挿絵を執筆し,風刺漫画家,河童(かつぱ)の画家としてしだいにその名を知られるようになった。15年,平福百穂,山村耕花,森田恒友,川端竜子らとともに珊瑚会を結成してからは,牛久沼をめぐる水魅,河童などの精霊たちを主題とする田園の幻想を水墨表現に託した作品を発表。《水虎とその眷族(けんぞく)》や《夕風》《狐の嫁入》などは,百穂,恒友,小杉放庵(未醒)などの新しい水墨表現と並んで,彼が近代文人画表現というべき新しい画境を開拓したことを示している。17年から日本美術院同人となる。晩年に《河童百図》がある。](株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)

600号(昭和21年12月)→表紙画「石井柏亭」→ 上記に紹介
700号(昭和30年4月)→ 同  「川端龍子」→ 上記に紹介  
800号(昭和38年8月)→ 同  「川端龍子」→ 上記に紹介
900号(昭和46年12月)→ 同  「小倉游亀」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%80%89%E9%81%8A%E4%BA%80-17748
[ 小倉遊亀(おぐらゆき)/(1895―2000)
本画家。旧姓溝上(みぞがみ)。滋賀県大津に生まれる。1917年(大正6)奈良女子高等師範学校国語漢文部を卒業後、しばらく教壇に立ったのち、安田靫彦(ゆきひこ)に師事する。1926年第13回院展に『胡瓜(きゅうり)』が初入選、1928年(昭和3)に日本美術院院友、1932年同人に推された。1938年小倉鉄樹と結婚したが1944年に死別した。古典を基礎に、大胆でおおらかな構成と、さわやかな情感がにじむ画風を築いて今日に至っている。初期では『浴女』、第二次世界大戦後では『O夫人坐像(ざぞう)』『月』『良夜』『越(コー)ちゃんの休日』『舞妓(まいこ)』『姉妹』などがよく知られている。1976年(昭和51)女性では上村松園(うえむらしょうえん)に次いで日本芸術院会員に推された。1980年に文化勲章を受章。1990~1996年日本美術院理事長。晩年、一時体調を崩したものの、105歳で亡くなるまで制作を続けた。](「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

1000号(昭和55年4月)→ 表紙画「小倉游亀」→ 上記に紹介

「補記その二」「津田青楓の従軍体験」周辺

http://www.hototogisu.co.jp/

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「ホトトギス」(第8巻第8号/明治37年10月)目次

※ 明治37年(1904)2月10日、日露両国は相互に宣戦布告し、日露戦争の火ぶたが切られた。津田青楓(二十四歳)の時で、戦時招集令により後備歩兵第三十八連隊に入隊となる。八月、旅順総攻撃に参加、以後、海鼠山、東鶏冠山、二〇三高地と転戦する。この時の従軍記録の一部が、「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」に、「戦争に関する写生文(其三「敵襲」)」(上記の「目次」のとおり)として掲載される。青楓の「ホトトギス」でのデビューである。
 この時の「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」(目次)に登場する面々は、「内藤鳴雪(五十七歳)・夏目漱石(三十七歳)・河東碧梧桐(三十一歳)・高浜虚子(三十歳)・松根東洋城(二十六歳)」(下記の「参考」) で、「連句(漱石・阪本四方太・虚子・東洋城・小沢碧堂)」・「俳体詩(漱石・虚子・野間奇瓢)」・「蕪村遺稿講義(鳴雪・碧悟桐・虚子)」など、「ホトトギス」の、「碧(碧悟桐)・虚(虚子)対立」以前の、子規亡き後の、漱石の「吾輩は猫である」が、「ホトトギス」(明治三十八年一月連載)に登場する、その一年前のことということになる。

(参考) 「明治三十七年・日露開戦勃発時の『漱石・虚子・青楓』周辺の人物像

内藤鳴雪 847年〜1926年(弘化4年〜大正15年) 57才
浅井 忠  1856年〜1907年(安政3年〜明治40年) 48才
夏目 漱石 1867年〜1916年(慶応3年〜大正5年) 37才
河東碧梧桐 1873年~1937年(明治6年〜昭和12年) 31才
高浜 虚子 1874年~1959年(明治7年〜昭和34年) 30才
長谷川如是閑 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) 29才
松根東洋城  1878年〜1964年(明治11年〜昭和39年) 26才
寺田 寅彦 1878年〜1935年(明治11年〜昭和10年) 26才

津田 青楓   1880年〜1978年(明治13年〜昭和53年) 24才

石井 柏亭 1882年〜1958年(明治15年〜昭和33年) 22才
高村光太郎 1883年〜1956年(明治16年〜昭和31年) 21才
安倍 能成 1883年~1966年(明治16年~昭和41年) 21才
小宮 豊隆  1884年~1966年(明治17年〜昭和41年) 20才 
川端 龍子  1885年~1966年(明治18年~昭和41年〉 19才
山脇 敏子 1887年〜1960年(明治20年〜昭和35年) 17才
安井曾太郎 1888年~1955年(明治21年〜昭和30年) 16才
芥川龍之介 1892年〜1927年(明治25年〜昭和2年) 12才
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「津田青楓」管見(その五) [東洋城・豊隆・青楓]

その五「夏目漱石と十弟子そして津田青楓」』周辺

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『自撰年譜(津田青楓著)』所収「口絵スケッチ「漱石先生客間」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/4
「九竹草堂絵日記(津田青楓画)」(1917年/紙本墨画淡彩/23.2×32.0/「笛吹市青楓美術館」蔵) (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

[明治四十四年(一九一一)、三十二歳
六月、東京へ移転す。茅野氏(※茅野蕭々)より小宮豊隆への紹介状もらふ。豊隆氏の紹介にて漱石先生を訪ふ。その後漱石門下の野上臼川(※野上豊一郎)、森田草平、鈴木三重吉諸氏を知りて訪ふ。
 最初の住居を小石川区高田老松町に定む。家賃六円なにがしなりき。漱石先生ある日ここを訪問さる。薩摩上布に紗の袴をはかれたり。後木曜会に集まる弟子たちへ、「津田はひどい家に住んでゐるよ。」といはる。](『自撰年譜(津田青楓著)』)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

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「漱石山房と其弟子達」(津田青楓画)(制作年不詳/紙本墨画淡彩/33.0×45.8/「日本近代文学館」蔵) (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)
≪「上段の左から」→則天居士(夏目漱石)・寅彦(寺田寅彦)・能成(阿部能成)・式部官(松根東洋城)・野上(野上豊一郎)・三重吉(鈴木三重吉)・岩波(岩波茂雄)・桁平(赤木桁平)・百閒(内田百閒)
「下段の左から」→豊隆(小宮豊隆)・阿部次郎・森田草平/花瓶の傍の黒猫(『吾輩は猫である』の吾輩が、「苦沙弥」先生と「其門下生」を観察している。) ≫

[※大正七年(一九一八) 三十九歳
「俳画展」に「漱石と十弟子」と題する二曲屏風半双を為す。(この作品今小山店主の主の有也。) 画中の人物、安倍能成・寺田寅彦・鈴木三重吉・阿部次郎・小宮豊隆・森田草平・野上臼川・赤木桁平・岩波茂雄・松根東洋城の十氏なり。(『自撰年譜(津田青楓著)』)

「蕉門の十哲といふ絵を見たことがある。芭蕉のお弟子十人を蕪村が俳画風にかいたものなのだ。私は大正七年ある人の主催で現代俳画展なるものの催のあつたとき、慫慂されたので、蕪村にならつて漱石と十弟子を思ひついて、二曲屏風半双を描いて出陳した。
 それはいい工合に今度の空襲で灰になつてしまつた。当時は生存中の十人を一人々々写生し張りきつて描いた。それにもかかはらず後になつてみると随分未熟で見られなかつた。機を見てかき直しませうと、当時の持主に約束してゐたが、其の後戦争が勃発して持主の家も什器も焼けてしまつた。私は安心した。(後略) 」(『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』) ]

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『寅彦と三重吉(津田青楓著)』所収「寺田寅彦スケッチ(津田青楓画)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069464

[ 漱石のすぐ隣には寺田寅彦が背広で片膝を立ててそれをかかへている。画中の寺田さんは若い。「先生、そんなにもらうことが好きなら僕はゲンナマを持つてきませうか。」と小さな声でつぶやいて、ペロリと舌のさきを出し、嬉しそうに笑ふ。寺田さんの皮肉には漱石も一寸まゐることがある。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 私(※青楓)は漱石没後しばしば寺田さんの家へ出掛けて危機に瀕した家庭のことを訴へた。そして、この危機を打開する方法はその時の家内(※山脇敏子)と離婚するより他に方法がない。対処療法はいくら繰り返しも決着がつかない。思ひ切つて大手術をした方がいい。早ければ早い方がいい。そんなことを興奮して寺田さんに訴へた。寺田さんは冷静な態度で反対され、現状維持を主張された。 ](『春秋九十な五年(津田青楓著)』)

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

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「渋柿(寺田寅彦追悼号の巻頭頁)」(第262号、昭和11年2月)(『寺田寅彦全集第十二巻』)
[ありし日の寺田寅彦 /A ペンを措きて /B 心明るく /C 家居 /D 晴れたる野]

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『寅彦と三重吉(津田青楓著)』所収「鈴木三重吉スケッチ(津田青楓画)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069464/1/4

[ 三重吉君(※鈴木三重吉)がその隣にフロックを着て、東洋城が片手をかざしてゐる火鉢の前に、両膝をかかへながら片手を火鉢の上に出してゐる。三重吉君らしい無作法さだ。三重吉とフロックは不似合のやうに思ふが、当時成田中学の先生に就任したてで、背広がないから誰かのものを借用に及んだか、或はもらつてきたものらしい。三重吉君は酔へば広島弁まるだしで、
「屁はショセン風ぢやけんの、へ理屈はヨセヤイ。」
 そんな調子で雲上人(※松根東洋城)でも貴族院議員(※安倍能成)でも誰でもやつつける。酔へば誰かに当たりちらさなきやおさまらない趣味なんだ。痛快なこともしばしば言つた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

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『老画家の一生(津田青楓著)』所収「漱石忌/昭和三十七年(一九六二)十二月/神樂坂署/p577」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296
[前列向かって右から林原耕三、松岡譲、著者(※津田青楓)、安倍能成、松根東洋城、後列右から夏目純一、坂崎坦、野上彌生子・岩波雄二郎氏 ](『春秋九十五年(津田青楓著)』)

[ 昭和三十七年(一九六二) 八十三歳
十二月八日(土)、夕方漱石忌に行く。赤坂山王「山の茶屋」。参会者安倍(※安倍能成)、松根(※松根東洋城) 、松岡、松浦、坂崎、弥生子、岩波、純一君、余(※津田青楓)。松根君漱石の句碑を松山の滝のある山中に作つた話。碑面の自書の文字を見せる。
  漱石忌師走の街を横切りて
  十弟子は三弟子となり漱石忌  ]

※ この時、津田青楓、八十三歳、安倍能成、八十歳、松根東洋城、八十五歳の時で、東洋城は、この二年後に、そして、能成と小宮豊隆(この漱石忌は病床にあり欠席)は、四年後に亡くなる。

安倍能成君像.jpg

上左は、1955年(昭和30)に完成した安井曾太郎『安倍能成君像』。上右は、1953年(昭和28)7月に湯河原の旧・竹内栖鳳アトリエで制作中の安井曾太郎とモデルの安倍能成。下左は、上の写真で制作中の習作とみられる作品。下右は、同作デッサンの1枚。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2011-01-11

[ その隣の安倍君(※安倍能成)は首をうなだれて、和服で座つてゐるが、眼が落ちくぼんで陰気くさい。どう見ても貧乏な哲学者だ。三十年後の今日は、白髪童顔で福々しく、文部大臣として閣議に列席しても他の大臣諸公に比してその堂々たる貫禄は決してひけをとらない。野にある時は大きなことを言つてゐる人間でも、一度大臣となると急に人気とりのこと言つたり、大衆に媚びるやうな言葉を吐く者が多いが、同君は大臣中いつでも自説をまげずにアメリカさんに対しても教組に対しても、正々堂々と思ふところをまげずに貫ぬいてきたのは我々年配者をよろこばせてくれた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

寺田寅彦の描いたスケッチ.jpg

「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

松根東洋城スケッチ(寺田寅彦画).jpg

「松根東洋城スケッチ(寺田寅彦画)」(同上「寺田寅彦の描いたスケッチ」部分拡大図)

[ その隣には松根東洋城君が黒羽二重の紋付き羽織で仙台平かなんかの袴で、野人仲間には鶏群の鶴のやうにお行儀よくナマズヒゲをビンと立てて、いかにも宮内省事務官らしい。今でこそ宮内省に共産党が赤旗を立てて押しよせ、天皇にあはせろとかなんとか、だだをこねて座り込み戦術をやるやうな世の中になつたが、昔の宮内省は全くの雲の上で我々素町人が口にするさへモッタナイやうに思ひこませられてゐた。美男子で宮内省事務官といふと、まるで人種がちがふやうな気がしてゐた。話はすべた雲上人の秘事にわたることで、貧乏くさい文士や画家は半ばケイベツし半分うらやましがつた。
 今は「渋柿」といふ俳諧雑誌を主宰し十徳かなんかをきて宗匠になりきつてござる。そのころからズートと独身で押し通してゐることろ何か主義でもあるのかしらん。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

小宮豊隆(寺田寅彦画).jpg

「小宮豊隆(寺田寅彦画)」(同上「寺田寅彦の描いたスケッチ」部分拡大図)

[ 小宮豊隆君の昔のスケッチを出してみると、つかい古しの鉈(なた)豆キセルのやうに上下にのびて筋が多い筋が多い。同君は豊後の方の旧家の坊ちやんだが、自分ではいつぱし世の中の酸いも甘いもなめつくしてゐるつもりだが、根が坊ちやんだから世間学では小学生なんだ。このごろは音楽学校校長さんで、流行の教授連のストライキで校長排斥とかなんとかフンガイしたり悩んだりしてゐることと思ふが、漱石にきいてみたら、
「豊隆は素裸体になれない男だから、知らぬ奴は反感を起すが悪気はないよ。」といふことだつた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

野上豊一郎と野上弥生子.jpg

「野上豊一郎と野上弥生子(1939年)」(「ウィキペディア」)

[ 三重吉君と東洋城との間にはさまつて、後に野上臼川君(※野上豊一郎)がゐる。野上君は額が少し禿げ上つてゐるが右横の方で綺麗に頭髪を分けてゐる。十弟子中一番癖のない温厚な紳士だ。三重吉や草平君が酔へば八重子(※弥生子)夫人のことをガヤガヤとひやかしたり、羨ましがつたりしてゐた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石門下の四人.jpg

「漱石門下の森田草平(後列左)と阿部次郎(同右)、小宮豊隆(前列左)、安倍能成(同右))」
(『阿部次郎全集』第2巻、角川書店1961)
https://stoica.jp/stoica/104

[ 森田君(※森田草平)はそのころ天神鬚を生やしてゐた。他の連中にくらべて老けてゐる。雷鳥女史(※平塚らいてう)とのゴタゴタのあつたあとで『煤煙』の構想を腹の中に考へてござる最中だつた。天真爛漫で三重吉のやうに毒舌は吐かぬが、正直に肚の底を言ふ人だ。嘗て君は「大ていの書物には読みあきてしまつたが、クリスト伝だけは何度読んでも、心をうたれるものがあつてあきない」と洩らしたことがある。最近共産党へ入つたといふ新聞のニュースがあつたが、年寄のひや水といつて笑ふ人があるかも知れぬが、君は矢張り正直者で善人なんだ。信州の山の中とかで時々酒をあふつて気を吐いてござるといふことである。]
(『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 阿部次郎君と小宮豊隆君が左の隅の方に一つの火鉢を囲んで、次郎君はむかうを向いてゐる後姿だ。後頭部の毛がはや少しうすくなつて地肌の赤みが出てゐる。『三太郎の日記』以後の阿部君は、東北大学の教授におさまつて以来、文学者としても学者としてもあまり発表されず、ジミな存在となってしまつた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石忌.jpg

「漱石忌(12/9)と九日会」(「漱石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロジェクト」東北大学附属図書館) → 部分拡大図 (左=小宮豊隆、中央=岩波茂雄、右=阿部次郎)
https://readyfor.jp/projects/soseki-library/announcements/118615
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-22

茂雄と桁平.jpg

「岩波茂雄と赤木桁平(津田青楓「スケッチ画」)」(『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 岩波氏(※岩波茂雄)の顔も、桁平氏(※赤木桁平)の顔も画家から言ふと捨てがたい珍品なのだ。岩波ときたら禅月大師十六羅漢像の、なかからぬけ出した一人の羅漢像のやうで、画中の白眉なんだ。線の太い大形な羅漢のとなりに、これは又貧弱な色の青白い、当時大学を出たてのほやほやの法学士、赤木桁平君は、そのころのインテリゲンチャの風采を代表してゐるかに見える。
 それが隅っこの方で岩波が本を見てゐると桁平君が首をのばして、その本をのぞき込んでゐる。その顔の対照が面白いからこの二人はやめられないのだ。岩波はそのころ女学校の先生をやめて、神田にケチくさい古本屋の店を出してゐた。それが漱石のものを手はじめに出版をぽちぽちやり出し、仲間の学者連のものをちらほら出してゐるうちに、変り種の本屋として老舗となり、こつちの知らぬまに多額納税者とやら貴族院議員とやらになつてゐた。
趣味のない男だから岩波本が世間に出るやうになつてから、本の装幀はカチカチになつてしまつた。
 桁平は、近江秋江や徳田秋声や田山花袋なぞの自然主義文学が癪だといつて、「遊蕩文学撲滅論」を書いて、文壇をさはがせた。支那戦争が段々英米戦争に発展せんとする段階に突入するころから、どこで学んだのか一ぱしの海軍通になり、
「日本の海軍は無敵だよ、イギリスとアメリカほむかうにまはしたつて毅然たるものだよ。」そんな元気で遂に「アメリカ恐るるに足らず」といふ一書を発表して軍国主義のおさき棒を勤めた。終戦後国会議員の責任が追及された時、真先きに辞任してひつ込んでしまつたのは賢明であつた。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

(補記) 『漱石と十弟子(津田青楓著)』周辺

漱石と十弟子(津田青楓著)一.jpg


『漱石と十弟子(津田青楓著)』(右上から)「世界文庫・昭和24年版」/「朋文堂新社・昭和42年版」/(右下から)「芸艸堂・昭和49年版」/「芸艸堂(新装版)平成27年版)」
https://twitter.com/unsodo_hanga/status/1355015832892399617/photo/4

『漱石と十弟子(津田青楓著)』は、四種類(上図)のものがある。そして、上記に記述したものは、「芸艸堂・昭和49年版」に因るのもので、上記の「世界文庫・昭和24年版」・「朋文堂新社・昭和42年版」とは、「口絵写真」とか「挿絵(スケッチ画)」などが異なっている。

朋文堂新社・昭和42年版.jpg

『漱石と十弟子(津田青楓著)』の「朋文堂新社・昭和42年版」の口絵写真
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f450772422

漱石と十弟子C.jpg

『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊・昭和49年版)』所収「漱石と十弟子」(津田青楓画)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

(再掲)  「青楓・敏子(前妻)・あやめ(長女)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

千草会会報追悼号.jpg

「千草会会報追悼号」(平成21年2月発行) 
https://yamawaki.ac.jp/pdf/chigusa_tsuitou.pdf

[ この年譜に、青楓が、昭和十五年(一九四〇)九月二十五日に発刊(非売品)した、下記アドレスの「自撰年譜」を重ね合わせることによって、「青楓と敏子」との、そのドラマというのは浮かび上がってくる。
  さらに、それられに付け加えて、「青楓と敏子」との、その「敏子」が亡くなった昭和三十五年(一九六〇)以後の、昭和四十九年(一九七四)七月に刊行された『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の、その「新序文」(昭和四十九年七月一日付け)の中の、「私の娘婿Hは丁度銀座裏の陋屋(ロウオク)で細々と出版業をやっていた」と重ね合わせると、「青楓と敏子」と、その長女(あやめ)夫妻(「原愿雄=H」と「原あやめ)」とのドラマとが重ね合わさってくる。
 その「新序文」の「私の娘婿H=原愿雄」は、上記の「千草会会報追悼号」の年譜によると、「太平洋戦争」の終戦の前年(昭和十九年=一九四四)に亡くなっている。すなわち、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の新訂前の、『漱石と十弟子((津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』は、「私の娘婿H=原愿雄」は眼にしていないであろう。
 そして、この『漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』の、その刊行前の、昭和二十二年(一九四七)に、「私の娘婿H=原愿雄」が亡き、その「長女・原あやめ」が、「母・敏子の仕事を手伝うべく、神田駿河台に山脇服飾美術学院開設、副院長に就任」にした、「亡き夫・H=原愿雄」と「実母・山脇敏子の『山脇服飾美術学院開設』の、その『副院長』就任」を祝してのものと解することも、青楓の、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。
 さらに、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四)に、「(山脇)敏子」は、「百合子」の名で、漱石在世中の「青楓と敏子(そして、その家族)」の姿が活写されている。(ちなみに、青楓の『自撰年譜』の「昭和四年(一九二九)」には、「山脇(※敏子)無断で子供等を東京へつれ去る」とあり、当時の「青楓と敏子」との関係は、相当に深刻なものがあったことであろう。)
 そして、『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』に出てくる「百合子」(「(山脇)敏子」)とは、青楓が漱石亡き後の心の拠り所とした「河上肇」(経済学者。啓蒙的マルクス経済学者として大正,昭和初期の左翼運動に大きな影響を与えた)とも深く関与している「中條百合子・宮本百合子」(日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人)の、その「百合子」と解することも、これまた、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。](未定稿)
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「津田青楓」管見(その四) [東洋城・豊隆・青楓]

その四「河上肇と津田青楓」』そして「二科会の沿革(津田青楓の「二科会」の歩み)」周辺

河上肇博士.jpg

『老画家の一生(津田青楓著)』所収「河上肇博士との出遭ひ/p510」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/263

※『自撰年譜(津田青楓著)』の「大正十二年(一九二三) 四十四歳」の中に、「河上肇博士との出合い」について、次のように記述している。

[ (前略) この年の九月一日関東大震災があり、東京全市の三分の一は焦土と化す。実に近来になき一代変事なり。予の身辺にも生涯再びなき大異変あり、内外ともに多事の年となる。(中略)
 京都にて河上肇博士を吉田町の寓居を訪ひ、はじめて識る。余は、博士の大学卒業後読売新聞となり、千山万水楼の名にて同紙上に「社会主義評論」を発表されてよりこのかた熱心なる愛読者となる。博士別号を閉戸閑人と称し、客の来るを好まずと聞きゐしに、初対面の余を快く招じ、帰りには南禅寺附近のわが仮寓まで送られ、途々話の尽くることなかりき。(後略) ](『春秋九十五年(津田青楓著)』所収「自撰年譜」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

青楓画伯像(河上肇写).jpg

『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』所収「青楓画伯像 河上肇写」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/3

※ この『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』の冒頭に出て来る、この「青楓画伯像 河上肇写」は、漱石没後、「関東大震災」(「大正十二年=一九二三」)で京都移住後、青楓が心酔した、「河上肇」([1879~1946]経済学者・社会思想家。山口の生まれ。京大教授。マルクス(主義)経済学の研究・紹介に努め、大学を追われた。のち、日本共産党に入党、検挙されて入獄。著「資本論入門」「経済学大綱」「貧乏物語」「自叙伝」など)その人が、青楓をスケッチした当時のその青楓の実像である。
 このスケッチ画に見られる絵画を通しての二人交遊は、青楓の「研究室に於ける河上肇像」として、
大正十四年(一九二五)の「第十三回二科美術展覧会」の出品作となっている。

研究室に於ける河上肇像.jpg

津田青楓画「研究室に於ける河上肇像」(「京都国立近代美術館蔵」)
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

 そして、これらが、続く、当時の、津田青楓画の傑作、《疾風怒濤》(1932、笛吹市青楓美術館蔵)、そして、《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)との連作を生んで行く。
 これら連作の生まれた、昭和七年(一九三二)、そして、昭和八年(一九三三)当時には、津田青楓は、京都から、再び、東京へと移住し、昭和十年(一九三五)の、寅彦が亡くなる頃は、その左翼運動から身を引いて、同時に、絵画活動の拠点であった「二科会」とも訣別し、これまでの「洋画)」から、「日本画」へと、軸足を進める時でもあった。
 なお、寺田寅彦の青楓(津田亀次郎)宛て書簡は、寅彦が亡くなる昭和十年(一九三五)三月十一日付けものが最後で、そこに、「先日は第二画集を難有う御坐いました。益々油が乗つたやうで実に見事なものであります。天下一品とは此事でありましよう」とある。(『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)


(併記)「二科会の沿革(津田青楓の「二科会」の歩み)」周辺

「二科会の沿革」(「ウィキペディア)
「戦前二科展画像データベース(「津田青楓」」)
https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DBijutus/Nikaten/recordlist.php

1914年(大正三年)文部省美術展覧会(文展、現日展)から分離して、在野の美術団体として「二科会」が結成される。10月1日から10月31日まで、上野竹の台陳列館で第1回二科美術展覧会を開催。有島生馬「鬼」、湯浅一郎「官妓」、斎藤豊作「落葉する野辺」。
の花
※ 青楓(三十四歳)=文展に抗し、有島生馬、石井柏亭らと二科会を結成。石井等とともに最初の委員をつとめる。事務所を自宅に置く(「自撰年譜」)。第一回二科展出品作(「水車場の花」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1915年(大正四年)10月13日から26日まで、三越で、第2回展。田辺至・柳敬助は退会、安井曾太郎・森田恒友・正宗得三郎が会員になる。山下「供物」「端午」、坂本「牛」。安井の滞欧作「孔雀と女」「足を洗ふ女」など50点余を特陳。
※ 青楓(三十五歳)=第二回二科展出品作(「梅に頬白」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1916年(大正五年)10月12日まで、三越で、第3回展。石井「金沢の犀川」、安井「ダリア」。正宗の滞欧作「リモージュの朝」など36点を陳列。
※ 青楓(三十六歳)=第三回二科展出品作(「春」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1917年(大正六年)9月9日から9月中、竹の台で、第4回展。立体派ふうの万鉄五郎「もたれて立つ人」、未来派ふうの東郷青児「狂ほしき自我の跳躍」、神原泰の作品などが注目される。

さくら頃(津田青楓画).jpg

「さくら頃(津田青楓画)」(第四回二科美術展覧会出品)
※「第四回二科美術展覧会」は、大正六年(一九一七)九月十日から三十二日(「上野竹の台陳列館」)、同時の出品作に「春丘(春の丘)」、青楓、三十七歳時(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1918年(大正七年)9月9日から9月中、上野竹の台で、第5回展。劉生「川幡氏の像」、関根正二「信仰の悲しみ」「姉弟」など。
※ 青楓(三十八歳)=第五回二科展出品作(「一隅」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1919年(大正八年)9月1日から9月30日まで、竹之台で、第6回展。小出楢重「Nの家族」、関根「慰められつつ悩む」など。藤川勇造が会員に推され彫刻部を新設する。
※ 青楓(三十九歳)=第六回二科展出品作(「オーベルニュの追想(羊守)」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1920年(大正九年)9月1日から9月中、竹之台で、第7回展。柏亭「農園の一隅」、小出楢重「少女お梅の像」など。
※ 青楓(四十)=野村泊月と丹波柏原に滞在し、作品を売り歩く(「自撰年譜」)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1921年(大正十年)9月9日から9月29日まで、竹之台で、第8回展。安井「人物」、中川一政「静物」、中川紀元「猫と女」など。

静物(津田青楓画).jpg

「静物(津田青楓画)」(第八回二科美術展覧会出品)

風景・春(津田青楓画).jpg

「風景・春(津田青楓画)」(第八回二科美術展覧会出品)
※「第八回二科美術展覧会」は、大正十年(一九二一)九月九日から二十九日(「上野竹の台陳列館」)、同時の出品作に「三つの生)」等、青楓、四十一歳時(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1922年(大正十一年)9月9日から9月29日まで、竹之台で、第9回展。安井曾太郎「椅子による女」、児島善三郎「浅き春」など。

舞子の顔(其の二)(津田青楓画).jpg

「舞子の顔(其の二)(津田青楓画)」(第九回二科美術展覧会出品)
※「第九回二科美術展覧会」は、大正十一年(一九一七)九月九日から二十九日(「上野竹の台陳列館」)、同時の出品作に「紫だりや」)」等、青楓、四十二歳時(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など。なお、「舞子の顔(其の二)」は、下記のアドレスのとおり。

(再掲) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

舞妓の顔.jpg

「舞子の顔(其の一)」(津田青楓画)」(第九回二科美術展覧会出品)

1923年(大正十二年)第10回展は、招待日に震災のために中止、京都・大阪でひらく。山下新太郎「金閣寺林泉」、小出楢重「帽子のある静物」、黒田重太郎「一修道僧の像」、藤川勇造「マドモアゼルS」など、ピカソ・ブラック・マチスらフランス現代画家の作品40余点を特陳。

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

婦人と金絲雀鳥(津田青楓画).gif

※「婦人と金絲雀鳥(津田青楓画)/1920/油彩/116.7×73.0/(モデルは敏子)」(「東京国立近代美術館」蔵) → 1923年(大正十二年)、青楓、四十三歳(第十回二科美術展覧会出品)
https://www.momat.go.jp/collection/o00277

出雲崎の女(津田青楓画).jpg

※「出雲崎の女(津田青楓画)/ 1923/96.5×146.5(モデルは「出雲崎の宿(『くまき』の娘))」/「東京国立近代美術館」蔵)) → 1923年(大正十二年)、青楓、四十三歳(第十回二科美術展覧会出品)


1924(大正十三年)年9月2日から9月29日まで、第11回展。小出「帽子を冠れる肖像」、横山潤之助「ギターもつ男」、藤川「ブロンド」など。
※ 青楓、四十四歳、第十一回二科美術展覧会出品(「阿蘭陀水差」等)


1925年(大正十四年)9月2日から9月29日まで、第12回展。安井「柿実る頃」、曾宮一念「冬日」など。特別出品、坂本繁二郎「帽子を持てる女」「老婆」など。

蔬果図(津田青楓画).jpg

「蔬果図(津田青楓画)」(第十二回二科美術展覧会出品)
※「第十二回二科美術展覧会」は、大正十四年(一九二五)九月三日から二十九日(「上野竹の台陳列館」)、青楓、四十五歳時の作品。

1926年(大正15年)9月4日から10月4日まで第13回展を東京府美術館で開催。有島生馬「岬と海水場」、津田青楓「籐椅子の裸婦」、佐伯祐三「壁」など。

裸婦(津田青楓画).jpg

「裸婦(津田青楓画)」(第十三回二科美術展覧会出品)

藤椅子の女(津田青楓画).jpg

「藤椅子の女(津田青楓画)」(第十三回二科美術展覧会出品)

研究室に於ける河上肇像(津田青楓画).jpg

「研究室に於ける河上肇像(津田青楓画)」(第十三回二科美術展覧会出品)第十三回
※「第十三回二科美術展覧会」は、大正十四年(一九二五)九月五日から十月四日(「東京府美術館」)、青楓、四十六歳時の作品。
※※ 五月、妻敏子と合議成立し、十二月、離婚する。十一月、鈴木はま子との結婚披露を行う。河上肇が司会し、志賀直哉、和辻哲郎、有島生馬ら出席する。(「自撰年譜」)


1927年(昭和二年)9月3日から10月4日まで、府美で、第14回展。長谷川利行「麦酒室」など。以後、2006年まで同館で開催。
※ 青楓、四十七歳、第十四回二科美術展覧会(「海水着少女」等出品)。

1928年(昭和三年)9月3日から10月4日まで、府美で、第15回展。安井「花と少女」、佐伯「新聞屋」など。また中山巍・東郷青児の滞欧作を特陳。
※ 青楓、四十八歳、第十五回二科美術展覧会(「金地院蓮池」等出品)。

金地院蓮池(津田青楓画).jpg

「金地院蓮池(津田青楓画)」(第十五回二科美術展覧会出品) (「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

1929年(昭和四年)9月3日から10月4日まで、第16回展。古賀春江「素朴な月夜」、小山敬三「アルカンタラの橋」など。福沢一郎のシュールリアリズム的な作品を特陳。
※ 青楓、四十九歳、第十六回二科美術展覧会(「夏の日」等出品)。

1930年(昭和五年)9月4日から10月4日まで、第17回展。安井「婦人像」、有島「熊谷守一肖像」など。林重義・向井潤吉・伊藤廉の滞欧作を特陳。メカニズム・シュールリアリズムの作品も展示。
※ 青楓、五十歳、第十七回二科美術展覧会(「唐人お吉に扮する梅村容子(未完成)」等出品)。

1931年(昭和六年)9月3日から10月4日まで、第18回展。有島「震災記念」、青楓「新議会」、安井「ポーズせるモデル」「外房風景」、山下新太郎「少女立像」、鍋井「奈良の月」、小出楢重・湯浅一郎の遺作など。
※ 青楓、五十一歳、第十八回二科美術展覧会(「新議会」=「ブルジョア議会と民衆生活」等出品)。
9月3日から10月4日まで、東京府美術館
10月10日から10月22日まで、名古屋鶴舞公園美術館
10月24日から11月3日まで、大阪朝日美術館

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

ブルジョア議会と民衆の生活.jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活」(昭和六年、第十八回二科展出品)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/214

「ブルジョワ議会と民衆生活」(下絵).jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活(下絵)」/1931年/125.8×80.3/東京国立近代美術館蔵
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品163」)

1932年(昭和七年)9月3日から10月4日まで、第19回展。坂本「放牧三馬」、安井「薔薇」、国吉康雄「サーカスの女」など。山下新太郎・木下義謙らの滞欧作を特陳。
※ 青楓、五十二歳、第十九回二科美術展覧会(「疾風怒涛」等出品)。

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

疾風怒涛二.jpg

「疾風怒涛」(昭和七年、第十九回二科展出品) → 笛吹市青楓美術館蔵
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/215


1933年(昭和八年)9月3日から10月4日まで、第20回展。安井「奥入瀬の渓流」など。併せて創立二十年を記念して、故人や会を離れた作家による43作品の展示も行われた。
※ 青楓、五十三歳、第二十回二科美術展覧会(第四回展出品作「芽出し頃」出品)。
※※ 七月十九日、杉並区天沼一三六の自宅から杉並署に連行され、取り調べを受け、二十日、神楽坂署に移送、留置される。
 八月七日、プロレタリアの一切の関係を断ち切り、洋画の世界からも訣別する転向を決意し、左翼運動関係の関係を語り、釈放される。二十六日、二科会からの脱退を声明し、正式に脱退する。(「自撰年譜」等)。 (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「津田青楓年譜」抜粋など)


(参考一) 「河上肇記念会会報 総目次 1号~最近号 (PDFファイル付)」

http://w01.tp1.jp/~sr10697360/somokuji.html


(参考二) 津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

津田青楓画《犠牲者(習作)》一.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/107539

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「津田青楓」管見(その三)  [東洋城・豊隆・青楓]

(その三)「ブルジョア議会と民衆の生活(青楓画)」・「疾風怒涛(青楓画)」・「犠牲者(青楓画)」周辺

ブルジョア議会と民衆の生活.jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活」(昭和六年、第十八回二科展出品)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/214

「ブルジョワ議会と民衆生活」(下絵).jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活(下絵)」/1931年/125.8×80.3/東京国立近代美術館蔵
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品163」)

[ 一九三一(昭和六)の第十八回二科会展出品作の下絵である。資料44は、出品作の絵葉書(※資料44の絵葉書は省略。その出品作は、上記の「モノクロ」のもの。本来は、この下絵のように「油彩・キャンバス」)。
 当時建設中であった国会議事堂と民衆の住むバラック建築を上下に対比的に描くことによって、「現在の空疎のブルジョア政治」を可視化し、公衆に広く伝え、問題提起するために描いたと青楓はいう。本画は出品時には、下図の上部にコラージュされたマルクスの『賃労働と資本』による一節が作品の下に張られていたが、警視庁から問題視され撤回。タイトルも「新議会」と改題を命じられた。
 しかし、「二科の広告看板」と称せられる新聞や雑誌に盛んに取り上げられることになり、青楓の狙い通り、多くの観衆を得、議論を巻き起こした。一九三三年に青楓が逮捕された折に、本画は官憲に押収され、現在は下絵しか残っていない。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品163」解説)

背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和)一.jpg

(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「背く画家津田青風の一九〇三~一九三三(喜多孝臣)」の論稿中「挿図2『第十八回二科展会場風景』(「アトリエ・8巻10号)」)

※ 上図の『第十八回二科展会場風景』(「アトリエ・8巻10号)」の、青楓の出品作・「新議事堂」(改題前の「ブルジョア議会と民衆の生活」)を見ると、この作品の大きさと、そして、この作品が、当時の「二科の広告看板」として、話題作であったことがうかがえる。

疾風怒涛一.jpg

「疾風怒涛」(昭和七年、第十九回二科展出品)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/215

疾風怒涛二.jpg

津田青楓画《疾風怒濤》(1932/201.0×353.0/笛吹市青楓美術館蔵)
https://bijutsutecho.com/magazine/review/21974

[ 一九三二年(昭和七)の第十九回二科展出品作。一九三一年十二月、京都丹後の奥海岸、「間人(たいざ)での写生をもとに描いた作品。冬の荒々しい波の様子をとらえた青楓の作品として最も大きな作品であり、当時の二科会のなかでも異例の大きさを誇った。
 左翼思想に対する弾圧が強化され、息苦しい世相に対する不平不満を表明したものとも見られ、美術批評家荒城季夫は「場中での力作」と評した。
 また、本作を出品した二科展では会期中に当時非合法であった共産党員となっていた河上肇を美術館玄関下から自動車にのせて麹町の隠れ家に送るという一幕があった。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品164」解説)

津田青楓画《犠牲者》モノクロ.jpg

津田青楓画《犠牲者》(昭和八年=一九三三、第二十六回白日会出品/東京国立近代美術館蔵)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「龜吉檢擧さる/p573」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/295

※ 上記の「昭和八年=一九三三」は制作年次で、この作品が公開された「第二十六回白日会出品」は、敗戦から五年後の、昭和二十五年(一九五〇)の「第二十六回白日会展」が初公開ということである。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

津田青楓画《犠牲者》公開作.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/107539
[津田青楓 (1880-1978)/ツダ、セイフウ/昭和8年=1933/油彩・キャンバス・額・1面/193.0×95.4/第26回白日会展・東京都美術館・昭和25年=1950(犠牲者/The Victim/1933年/油彩・麻布 193.0×95.4㎝)
津田は、1933年7月19日、官憲による家宅捜査をうけたのち、一時拘留された。このとき制作中だったのが、この《犠牲者》である。31年第18回二科展に出品された《ブルジョア議会と民衆の生活》(出品時には、「新議会」と改題させられた。現在、この作品の習作が当館に所蔵されている。)は押収されたものの、この作品は幸い残すことができた。当時、官憲によるプロレタリア思想弾圧は、日増しに激しくなっていた。
とくに京都時代に知己となった河上肇は京都帝国大学教授を辞職した後、日本共産党に加入し地下に潜行していたが、この年1月に検挙された。津田の検挙も、かねてから上記の作品によって官憲の注目をあつめ、また河上の潜行をたすけたという容疑によるものであった。
この《犠牲者》は、同年2月の小説家小林多喜二の獄死に触発されて描かれたもので、津田自身は、「一見拷問の残忍性を物語る酸鼻に堪へないやうなもの」だが、「十字架のキリスト像にも匹敵するやうなものにしたいといふ希望を持つて、この作にとりかかつた」(『老画家の一生』)と後に記している。
 拷問をうけ、吊り下げられた男、そして左下の窓を通してかすかにみえる議事堂、この簡潔な構図に弾圧に対する告発がこめられていることは確かだ。ただし、津田とプロレタリア思想との関係は、社会的 な義憤と河上との親交による共感からのものであり、多分に同伴者的なものであった。
しかし、当時のプロレタリア美術が不毛であったなかで、直接的な社会性を持った作品として評価されている。](「文化遺産オンライン」)

「犠牲者」下部の拡大図.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)の下部(「窓」の部分)拡大図
https://artexhibition.jp/topics/news/20200228-AEJ184798/

※ この下部(「窓」の部分)拡大図に、昭和十一年(一九三六)に竣工された、「新議会(※新国会議事堂)の、その竣工前の屋根の部分が描かれている。

(補記一) 「津田青楓画《犠牲者(習作)》(笛吹市青楓美術館蔵)」周辺

津田青楓画《犠牲者(習作)》一.jpg

津田青楓画《犠牲者(習作)》(笛吹市青楓美術館蔵)(1933年/油彩・キャンバス/71.5×38.0)
https://note.com/azusa183/n/n54e3a4eefd3d

津田青楓画《犠牲者(習作)》二.jpg

「津田青楓画《犠牲者(習作)》(笛吹市青楓美術館蔵)」(下部の拡大図)
※ この下部の「窓」には、「新議会(※新国会議事堂)」は描かれていない。

(補記二) 津田青楓「犠牲者」と太平洋戦争開戦期の太宰治・・・小林多喜二を媒介として・・・(島村輝)周辺

シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」.jpg

シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」開催の報告とギャラリー・トーク開催報告(「栃木県立美術館」2015年12月2日)
https://www.facebook.com/photo/?fbid=1638254789773005&set=pcb.1638254883106329

【シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」 開催の報告とギャラリー・トーク開催報告】
「戦後70年:もうひとつの1940年代美術」展の関連企画として、シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」を11月29日(日)13:15-16:40の約3時間半にわたって開催しました。日本近現代史がご専門の小沢節子さんは「「もうひとつの歴史」への問いかけ-「抑圧」と「解放」のはざまで」というご発表で、今展の構成と出品作品を丁寧に分析されて、「もうひとつの歴史」はひとつではなく複数であること、アジア・太平洋という広がりの中で再考すべきことを指摘され、1940年代後半の美術研究が前後の時代に比べて取り残されていることも今後の課題として挙げられました。
 日本近現代文学研究がご専門の島村輝さんは、「津田青楓「犠牲者」と太平洋戦争開戦期の太宰治――小林多喜二を媒介として」と題して、太宰治の「待つ」と「花火」という1942年の短編を題材に、太宰の隣家にいた津田青楓の検挙と隠し果された絵画《犠牲者》、そして太宰の転向体験などを背景にして、太平洋戦争開始時の太宰の屈折した心情と戦争の行く末に向けた眼差しを読み解き、新しい太宰像を提示していただきました。
最後の伊藤遊さんは、京都国際マンガミュージアムで今夏「戦争とマンガ」展を企画開催された研究員ですが、本シンポでは「マンガは〈戦後〉文化か?」と題して、戦時中に確立された「学習マンガ」というジャンルが戦後も日本独特のものとして引き継がれたこと、手塚治虫によって「傷つく身体」というリアリティがマンガに導入されたこと、戦時中の慰問帳の作り方が「マンガの描き方本」として流行し、戦後にも受け継がれたことなど、戦争とマンガの関係をテーマからではなくマンガというジャンルの成り立ちから分析され、会場からも大きな反響を呼びました。
 休憩をはさんだ全体討議では、ディスカッサントの北原恵さんから個々のパネリストに対する質問と、いくつかの新たな問題提起がなされましたが、なかでも「前線/銃後」は明確に区分できるものなのか(空襲・防空の絵画は「銃後」にジャンル分けしてよいのか)、国家によって弔われ、補償されるのは誰か(日本軍兵士への手厚い補償と、空襲の犠牲者=女性化、ジェンダー化、他者化され、補償の枠外)など、鋭い指摘にその後の議論も盛り上がりました。多岐に渡った内容の濃い発表と討議が続いて、とても短い字数でまとめ切れるものではありませんが、とりあえずのご報告と致します。(司会・担当学芸員:小勝記)

※ この「シンポジウム『戦争と表現-文学、美術、漫画の交差』」は、[シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」報告書 : 「戦後70年: もうひとつの1940年代美術」展関連企画 1940年代美術に関する論文集]として、図書として公開されている。

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I027237781-00

[内容細目
「もうひとつの歴史」への問いかけ 小沢節子 述
津田青楓 《犠牲者》 と太平洋戦争開戦期の太宰治 島村輝 述
マンガは <戦後> 文化か? 伊藤遊 述
コメント:「1940年代/北関東/女性画家」再考 北原恵 述
討議の総括と1940年代美術研究の今後の展望 小勝禮子 述
清水登之の終戦 杉村浩哉 著
戦争・美術・帝国芸術院 迫内祐司 著 ]

 このうちの、「津田青楓 《犠牲者》 と太平洋戦争開戦期の太宰治 島村輝 述」の骨子は、次のとおりである。

一 2015年…「戦後70年」に「戦争」を語る (略)
二 太平洋戦争の開戦と太宰治 (略)
三 「転向点」の太宰治と津田青楓 (略)
四 多喜二虐殺と津田青楓《犠牲者)》(要点抜粋)

 「津田青楓は河上肇をかくまったりしていて、当時二科の画家として左翼運動に近づいた画家である。1931年に二科展に出品した『ブルジョア議会と民衆の生活』は下絵のみが残っているが、本来完成作はもっと細かく書き込まれていたものらしい。しかし、それは彼が検挙されたときに官憲によって持ち去られてしまって、その後行方不明になってしまっている。現在、津田青楓美術館に展示されている『疾風怒涛』という作品は翌年の出品作で、これを抽象化された風景表現なので、弾圧を免れたものである。」

「『ブルジョア議会と民衆の生活』『疾風怒涛』はあまり大きくて場所ふさぎになるので、既に枠からとりはずして巻いたまま隅においてあった。それより心配したのは、目下制作中の『犠牲者(拷問)の画だった。そいつは余り生々しくて、警察の連中を刺激することは百パーセントという作品なんだ。ちょう度古ぼけた屏風の箱があった。蓋には塵埃がいっぱいたまっていた。「立花君、そいつを、あの屏風の箱へ入れよう」、そう云って、画架には静物の未完成のキャンバスを立てかけておいた。』(津田青楓の回想録『老画家の一生』)

「このとっさの機転によって、『犠牲者』は摘発、もち去りを免れ、青楓がずっと保存をし、戦後には展示されるようになったわけである。」

「さてその青楓だが、実はこの1933年に太宰の隣に住んでいたということが明らかになっている。1933年5月14日、飛島定城という人物、その家と共に杉並区天沼1丁目136番地に太宰は転居する。その隣が津田青楓の家だった。太宰の引っ越しが5月14日、津田青楓の検挙は7月19日である。津田青楓はプロレタリア作家同盟の大会に自分の居宅を貸したりしているようなプロレタリア文学運動、文化活動と非常に深い関係にあった画家であり、もちろん多喜二と津田青楓の間に様々な話し合いがあったことが想像される。また青楓が犠牲者の絵を描いていたことを、隣家に住み、交友のあった太宰は知っていたはずである。互いに左翼運動に関わっていたことを背景として、二人がともに同年2月20日の多喜二虐殺への深い思いをいだいていたことは疑いを容れない。」

五 「花火」と「待つ」をつないだもの(関連メモ)

「花火」(太宰治の1942年の作品)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/264_20119.html

※ 主人公夫妻=「洋画家鶴見仙之助夫妻」→ モデルの一端は「津田青風」、しかし、内容の「息子殺人事件」は、「1935年11月の某医師の息子殺人事件」を背景にしている。

「待つ」(太宰治の1942年の作品)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2317_13904.html

※『待つ』は昭和十七年(1942)六月博文館刊の『女性』に発表された。それ以前に京都帝大新聞の依頼により書かれたが、結局掲載はされなかった。二十歳の女性が小さな駅で何かを待っている様子が女性の告白体で描かれた小説である。→ 「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。」

六 「帝国主義戦争」に対する「革命的」な態度(要点抜粋) 

「『待つ』の主人公はただひたすら何ものかを待つという行動をとるわけである。しかし、それが何ものであるあるか、何であるかということに対しては、作品中にははっきりとは書かれていない。これが大きな謎になっていることなのである。」

「そこで思い浮かぶのは、太平洋戦争の開始直前に発覚したゾルゲ事件とその企ての内容である。ゾルゲ事件には尾崎秀美というコミンテルンのエージェントが関わっていたわけだが、尾崎秀美はまた当時の総理大臣近衛文麿の側近でもあった。そして、日中戦争の開始当時、尾崎秀美は日中戦争の早期解決に反対した。なぜかといえば、帝国主義戦争を拡大することによって、その攻撃国、帝国主義国を解体させ、その解体から内乱、そして革命へとということを企てていたことが考えられるのである。」

七 「戦中の青楓、多喜二、太宰らの歩みと太宰再評価の軸」(要点抜粋)

「多喜二は1933年の2月20日、満州事変、上海事変、そして、日本の国際連盟脱退のころ築地警察署にて虐殺され、本格的な大戦争の時期には生きていなかった。」

「青楓は、1933年の7月に検挙されて、以降転向し、以後、政治的題材は手がけなかった。先に引用した『老画家の一生』の中では、『亀吉(※青楓)が左翼運動に出しゃ張ったり、共産主義者を隠したりしたのは、少しネヂがかかり過ぎた』という反省の弁を披露している。

「太宰治は、1932年から33年にかけて段階的転向を行ったが、しかし、その文学的根底には、左翼活動時代に浸み込んだコミンテルン以来の大胆な革命思想が残存し、さまざまにカムフラージュを施しながら、戦争中を表現者として生き抜いたのではないかと考えられる。」]


(補記三)『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」周辺

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」一.jpg

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」(その一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/48

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」二.jpg

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」(その二)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/49

青楓の転向を報じる当時の新聞.jpg

「青楓の転向を報じる当時の新聞」
https://artexhibition.jp/topics/news/20200228-AEJ184798/

[ この年塾生の数、京都、名古屋、東京、合計、百数十名におよび、京都のみで五十余名を数えた。私生活を顧みる暇もなく、自らの洋画制作にうち込み、原稿を書き、日本画を描き、講演に招かれ、青年美術家の研究会や会合に連日のように出席した。この間、小林多喜二の獄死事件が起こり、画学生らの間に専らの話題となる。
 一月、河上肇検挙される。四月、万里子仏英和小学校入学、同月、ソ連大使トロヤノフスキーの肖像画を官邸にて描く。七月十六日朝、弟子の竹内操と立花一花や自分も苦しいモデルとなって「犠牲者」を製作中、杉並署へ連行される。
 自宅からの知らせで、刑事が踏み込む前に危い作品は急いで隠したが、大き過ぎてそのままにしてあった「新議会」は、この時持ち去られた。翌日、神楽坂署に留置。二十一日の或る新聞は四段抜きで、社会面トップに、…「二科展の重鎮、津田青楓氏留置」〈新議会〉の作者…という三行の大見出しで報じた。
 八月七日に起訴保留で釈放されると、集まった新聞記者の質問に次のように答えた。

『洋画がある程度の水準に達した今日、さらに発展させるにはマルキシズムの観点によって進まなければ進展が望めない。しかし、これを実行すると非合法活動になる。現状では、つまらぬことと思うので、昔描いた日本画には、東洋哲学に基づいて開拓すべき道があるから、西行や良寛のような立場から、今後は、日本画に精進したい』。
 
 八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル付」という解散声明書を塾の名でハガキに印刷して発送した。熱心な引き止めもあったが二科会を脱会した。
 十一月、与謝野鉄幹・昌子夫妻に招かれ、一碧湖畔に一泊旅行。十二月、東京高島屋で第一回日本画展個展。心配したがよく売れた。同月、『書道と画道』小山書店から出版。 ]
(『津田青楓デッサン集(津田青楓著・小池唯則解説)』所収「津田青風九十六年のあゆみ(小池唯則)))


(補記四)『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」周辺(続き・「東洋城・寅彦・豊隆)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-04

その十七「昭和八年(一九三三)」

[東洋城・五十六歳。足利にて俳句大会。奈良、京都に遊ぶ。母の遺骨を宇和島に埋葬。「渋柿句集」春夏秋冬四巻・宝文館刊。]

松根東洋城・大洲旧居.jpg

「松根東洋城・大洲旧居」(大洲城二の丸金櫓跡に「俳人松根東洋城 大洲旧居」があった。)
http://urawa0328.babymilk.jp/ehime/oozujou.html

大洲城本丸.jpg

「大洲城本丸」
http://urawa0328.babymilk.jp/siroato/oozujou-4.jpg

[ 東洋城は本名を松根豊次郎といい、明治11年(1878年)2月25日、東京の築地に松根権六(宇和島藩城代家老松根図書の長男)を父に、敏子(宇和島藩主伊達宗城の次女)を母に長男として生まれた。
 明治23年(1890年)10月父権六が、大洲区裁判所判事として、大洲に赴任するに伴って東洋城も大洲尋常高等小学校に転校して来た。当時、この屋敷が裁判官判事の宿舎で、明治31年(1898年)10月、権六が退官するまで、約8年間、松根家の人々はここに居住した。
 東洋城は明治25年、大洲尋常小学校を卒業すると、松山の愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)に入学した。
 4年生の時、夏目漱石が英語教師として赴任し、ふたりの運命的出会いが、その後の東洋城の生き方に大きな影響を及ぼすことになった。
 俳人東洋城は俳誌『渋柿』を創刊(大正8年)、多くの同人を指導し、大洲にもしばしば訪れた。昭和8年(1933年)この「大洲旧居」にも立ち寄り「幼時を母を憶ふ」と次の句を詠んでいる。

淋しさや昔の家の古き春      東洋城
 また大洲の東洋城の句碑には、如法寺河原に
芋鍋の煮ゆるや秋の音しずか   東洋城
 がある。大洲史談会により平成5年(1993年)建立された。

 東洋城は戦後、虚子と共に芸術院会員となり昭和39年(1964年)10月28日東京で87歳で死去した。墓は宇和島市金剛山大隆寺にある。
 なお、ここの家屋(平屋建)は、明治2年(1869年)4月、大洲城二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代末期の武家屋敷の遺構が一部のこされている。]

 「亡母と西下 六十二句」中の十句

淋しさや昔の家の古き春(前書「大洲旧居(幼時を母を憶ふ)」)
柴門は三歩の春の蒲公英かな(前書「大洲にて」)
山(サ)ン川(セン)の何も明ろき木の芽かな(前書「庵主の吟『荘にして何か明るき時雨かな』に和す」)
如法寺を寝法師と呼ぶ霞かな
朧とや昔舟橋あのほとり
春愁や夜の蒲公英をまぼろしに(前書「大洲を出で立つとて」)
蓋とりて椀の蕨に別れかな(前書「大洲甲南庵留別」)
神代こゝに神南山(カンナンザン)の霰かな(前書「若宮平野にて」)
伊予富士の丸きあたまや春の雨(前書「今出の浜四句」のうち)
海を見てゐてうしろ田や春の雨(前書「今出の浜四句」のうち)

松根東洋城句碑(大隆寺)」.jpg

「松根東洋城句碑(宇和島市宇和津町・大隆寺)」
http://urawa0328.babymilk.jp/ehime/22/dairyuuji-3.jpg
[黛を濃うせよ/草は芳しき/東洋城(句意=黛は眉のこと。若草がいっせいに萌えだして芳しい春の天地の中、あなたの眉墨をも濃くおひきなさい。若草さながら芳しく。)/平成13年(2001年)2月25日、松根敦子建立。]


[寅彦(寅日子)・五十六歳。昭和八年(一九三三)。

1月12日、帝国学士院で“Distribution of Terrestrial Magnetic Elements and the Structure of Earth’s Crust in Japan”および“Kitakami River Plain and Its Geophysical Significance”を発表。1月17日、地震研究所談話会で「四国に於ける山崩の方向性」および「日本のゼオイドに就て」を発表。
4月11日、航空評議会臨時評議員になる。4月12日、帝国学士院で“Result of the Precise Levelling along the Pacific Coast from Koti to Kagosima, 1932”を発表。
5月16日、地震研究所談話会で「統計に因る地震予知の不確定度」を発表。5月25日、理化学研究所学術講演会で「墨汁皮膜の硬化に及ぼす電解質の影響」(内ヶ崎と共著)、「墨汁粒子の毛管電気現象」(山本と共著)および「藤の実の射出される物理的機構」(平田・内ヶ崎と共著)を発表。
6月12日、帝国学士院で“On a Measure of Uncertainty Regarding the Prediction of Earthquake Based on Statistics”を発表。
10月12日、帝国学士院で“Luminous Phenomena Accompanying Destructive Sea-Waves”を発表。
11月17日、理化学研究所学術講演会で「墨汁粒子の電気的諸性質(続報)」(山本・渡部と共著)を発表。11月21日、地震研究所談話会で「相模湾底の変化に就て」を発表。
12月11日、航空学談話会で「垂直に吊された糸を熱するときに生ずる上昇力と之に及ぼす周囲の瓦斯の影響」(竹内能忠と共著)を発表。


「鐘に釁る」、『応用物理』、1月。
「北氷洋の氷の破れる音」、『鉄塔』、1月。
「Image of Physical World in Cinematography」、『Scientia』、1月。
「重兵衛さんの一家」、『婦人公論』、1月。
「鉛をかじる虫」、『帝国大学新聞』、1月。
「鎖骨」、『工業大学蔵前新聞』、1月。
「ニュース映画と新聞記事」、『映画評論』、1月。
「書翰」、『アララギ』、1月。
「短歌の詩形」、『勁草』、1月。
「自然界の縞模様」、『科学』、2月。
「藤の実」、『鉄塔』、2月。
「銀座アルプス」、『中央公論』、2月。
「珈琲哲学序説」、『経済往来』、2月。
談話「不連続線と温度の注意で山火事を予防」、『報知新聞』、2月。
「空想日録」、『改造』、3月。
「地震と光り物——武者金吉著『地震に伴ふ発光現象の研究及び資料』紹介」、『東京朝日
新聞』、3月。
「映画雑感」、『帝国大学新聞』、3月。
「物質群として見た動物群」、『理学界』、4月。
「病院風景」、『文学青年』、4月。
「猿の顔」、『文芸意匠』、4月。
「「ラヂオ」随想」、日本放送協会『調査時報』、4月。
「Opera wo kiku」、『Romazi Zidai』、4月。
「測候瑣談」、『時事新報』、4月。
「ことばの不思議 二」、『鉄塔』、4月。
「津波と人間」、『鉄塔』、5月。
「耳と目」、『映画評論』、5月。
※『柿の種』、小山書店、6月。
「蒸発皿」、『中央公論』、6月。
「記録狂時代」、『東京朝日新聞』、6月。
「言葉の不思議(三)」、『鉄塔』、7月。
「感覚と科学」、『科学』、8月。
「涼味数題」、『週刊朝日』、8月。
「錯覚数題」、『中央公論』、8月。
「神話と地球物理学」、『文学』、8月。
「言葉の不思議(四)」、『鉄塔』、8月。
アンケート「最近読んだ日本の良書愚書」、『鉄塔』、8月。
「学問の自由」、『鉄塔』、9月。
「試験管」、『改造』、9月。
「軽井沢」、『経済往来』、9月。
「科学と文学」、岩波講座『世界文学』、9月。
アンケート「記・紀・万葉に於けるわが愛誦歌」、『文学』、9月。
『物質と言葉』、鉄塔書院、10月。
「科学者とあたま」、『鉄塔』、10月。
「浅間山麓より」、『週刊朝日』、10月。
「沓掛より」、『中央公論』、10月。
「二科展院展急行瞥見記」、『中央美術』、10月。
「KからQまで」、『文芸評論』、10月。
「科学的文学の一例——維納の殺人容疑者」、『東京朝日新聞』、10月。
「猿蟹合戦と桃太郎」、『文芸春秋』、11月。
「俳諧瑣談」、『渋柿』、11月。
「人魂の一つの場合」、『帝国大学新聞』、11月。
『地球物理学』、岩波書店、12月。
『蒸発皿』、岩波書店、12月。
「伊香保」、『中央公論』、12月。
「異質触媒作用」、『文芸』、12月。  ]

哲学も科学も寒き嚏(クサメ)哉(二月「渋柿」)
※清けさや色さまざまに露の玉(四月二十二日付け「松根豊次郎宛書簡」)
※薫風や玉を磨けばおのづから(同上)

※ 上記の四月二十二日付け「松根豊次郎宛書簡」は、次のとおり。

[四月二十二日 土 本郷区駒込曙町二四より牛込区余丁四一松根豊次郎氏への「はがき」
 昨日はとんだ失礼、朝出がけ迄に御端書も電話もなかつたが念の為に五時数分前にモナミへ行つて見廻したが御出なく,矢張未だ御帰京ないものと考へて銀座の方へ出てしまつたのでありました。
 「無題」の集録も本文の校正は出来たが、装幀などが中々手間がとれて進行せず、併し五日中位には出来る事になると存候
 ――――――――――――――――――――――――――――
 友人の葡萄の画に賛を頼まれて考案中「清けさや色さまざまに露の玉」などは如何や御斧正を乞ふ。
 又学士院受賞者に祝の色紙を頼まれ苦吟中「薫風や玉を磨けばおのづから」では何の事か分かるまじく候、御高見御洩らし被下度祈候 
 四月廿二日    ](『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)

※ 上記の書簡中の「『無題』の集録も本文の校正は出来たが、装幀などが中々手間がとれて進行せず、併し五日中位には出来る事になると存候」は、上記の年譜中の、「※『柿の種』、小山書店、6月。」で刊行されたもので、その初出のものは、「渋柿」の「巻頭言(寅彦の「無題」)」の、その集録が主体になっていることを意味している。
 この『柿の種』(「小山書店」刊=小山久二郎(「小山書店主」)はは安倍能成の甥で、岩波書店勤務を経て創業)には、小宮豊隆も深く関わっている。
 また、書簡中の「モナミへ行つて見廻したが御出なく」のその「モナミ」は、「帝都座の地下室のモナミ」(「新宿3丁目交差点にあった帝都座(現在の新宿マルイ本館)の地下」)の、「モナミ(大食堂)」で、ここが、東洋城と寅彦との連句の制作現場である。

新宿 モナミ大食堂.jpg

TEITOZA「新宿 モナミ大食堂」
https://tokyomatchbox.blogspot.com/2022/03/blog-post_06.html

[ 寺田君は午後四時頃航空研究所を出て小田急で新宿駅に下車し、すぐモナミへ来る。僕の方が後になる事が多い為君はいつも待合室の長椅子で夕刊か何か読んでゐる。夕刊を読んでしまふと欧文原稿の校正などをしてゐる。僕が側へ腰を掛けて少し話をすると、「行かうか」とか「飯食はうか」というて立上がる。例の古い外套だ。そして左脇に風呂敷(時に大きなカバン)をかかへ右手に蝙蝠傘を杖いてサツサと食堂の方へ行く。ボックスがあいていればボックス、あいてゐなければ柱の蔭か棕櫚の蔭かになるやうな一卓に陣取る。さうして、何か一品註文する。(中略) それからソロソロと仕事にとりかかる。両人が汚い手帖を取り出して前回の附けかけの各自受持ちのところを出す。僕が小さい季寄せを提袋から出すと君がポケットから剥ぎ取りのメモを出し二三枚ちぎつて僕に呉れる。附くと見せ合つて対手が承知すると両方の手帖に記入する、不承知だとダメを出して考へ直す。(以下、略)  ] (『東洋城全句集(下巻)』所収「寺田君と俳諧」)



[豊隆(蓬里雨)・五十歳。昭和八年(一九三三)。一月合著『新続芭蕉俳諧研究』出版。十月『芭蕉の研究』出版。]

※ 小宮豊隆が、東北帝大法文学部(独逸文学)の教授として仙台(仙台市北二番丁六八)に移住したのは、大正十四年(一九三五)の四月、その翌年に「芭蕉俳諧研究会」(阿部次郎・太田正雄(木下杢太郎)・山田孝雄・岡崎義恵・土井光知・小牧健夫・村岡典嗣など)が始まり、この会は、昭和二十一年(一九四六)に、豊隆が東京音楽学校校長として仙台を去るまで続いた。その間の、大正十五年(昭和元年・一九二六)から昭和八年(一九三三)にかけての豊隆の論考は、昭和八年九月九日の「序」を付しての『芭蕉の研究(岩波書店・十月初版)』として結実を遂げている。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-27

『芭蕉の研究』(小宮豊隆著・岩波書店)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1213547/1/1

[目次
芭蕉/1         → 昭和七年十一月四日(論文)
不易流行説に就いて/56  → 昭和二年四月五日(論文)
さびしをりに就いて/107 → 昭和五年八月七日(論文)
芭蕉の戀の句/139    → 昭和七年五月二十日(論文)
發句飜譯の可能性/167  → 昭和八年六月五日(論文)
『冬の日』以前/175   → 昭和三年十二月七日(論文)
『貝おほひ』/199    → 昭和四年三月三日(論文)
芭蕉の南蠻紅毛趣味/231 → 昭和二年二月(論文) 
芭蕉の「けらし」/261  → 大正十五年七月(論文)
芭蕉の眞僞/290     → 昭和六年十月十五日(論文)
二題/296        → 昭和三年九月九日(「潁原退蔵君に」)
            → 昭和七年八月二十三日(「矢数俳諧」)
『おくのほそ道』/303  → 昭和七年一月十四日(論文)
立石寺の蟬/326     → 昭和四年八月二十日(「斎藤茂吉」との論争)
芭蕉の作と言はれる『栗木庵の記』に就いて/330 →昭和六年七月七日(論文)
『おくのほそ道』畫卷/375 → 昭和七年六月十九日(論文) 
芭蕉と蕪村/379      → 昭和四年十月(論文)
附錄
蕪村書簡考證/419     → 昭和三年六月二十八日(論文)
西山宗因に就いて/452   → 昭和七年九月二十日(論文)
宗因の『飛鳥川』に就いて/489 →昭和八年二月十二日(論文)  ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

 その「序」で、豊隆は、「考えて見ると、私は、少し芭蕉に狎(ナ)れすぎたやうな気がする。是は決して、研究にとつて、好ましい事ではないない」と記述している。
 この「序」の、「少し芭蕉に狎(ナ)れすぎた」という想いは、寅彦の「東洋城・寅日子・蓬里雨三吟の座」からの「蓬里雨破門」は、年長(六歳年上)の「兄事」する「漱石最側近」の「東洋城・寅日子」両人に対する「 狎(ナ)れすぎ」(「もたれすぎ」)という想いが、豊隆にとっては去来したことであろう。
 この寅彦の「東洋城・寅日子・蓬里雨三吟の座」からの「蓬里雨破門」は、その後の、この三者の交遊関係は、いささかも変わりなく、逆に、年少者の豊隆が、年長者の「東洋城・寅日子」を、陰に陽に支え続けていたということが、『寺田寅彦全集文学篇(第十五・十六・十七巻=書簡集一・二・三)・岩波書店』の、寅彦からの「豊隆・東洋城・安倍能成・津田青楓など」宛ての書簡から読み取れる。

[※ 歌仙(昭和十一年十一月「渋柿(未完の歌仙)」)

(八月十八日雲仙を下る)
霧雨に奈良漬食ふも別れ哉    蓬里雨
 馬追とまる額の字の上     青楓
ひとり鳴る鳴子に出れば月夜にて 寅日子    月
 けふは二度目の棒つかふ人   東洋城
ぼそぼそと人話しゐる辻堂に     雨
 煙るとも見れば時雨来にけり    子

皹(アカギレ)を業するうちは忘れゐて 城
 炭打くだく七輪の角        雨(一・一七)
胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ 子 (※茶の「胴炭」からの附け?) 恋
葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)    城 恋
細帯に腰の形を落付けて        雨(六・四・一四) 恋
 簾の風に薫る掛香          子(八・二八) 恋
庭ながら深き林の夏の月       城(七・四・一三) 月  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻』)

※ この「四吟(蓬里雨・青楓・寅日子・東洋城)歌仙(未完)」は、当時の「東洋城・寅日子・蓬里雨・青楓」の、この四人を知る上で、格好の「歌仙(未完)」ということになる。
 この歌仙(未完)の、「表六句と裏一句」は、「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。
 その塩原温泉(栃木県)での歌仙の、その発句に、「八月十八日雲仙を下る」の前書を付しての「霧雨に奈良漬食ふも別れ哉(蓬里雨)」の、この前書にある「雲仙(温泉)」(長崎県)が出て来るのはどういうことなのか(?) ――― 、この句の背景には、次のアドレスの「作家を求める読者、読者を求める作家――改造社主催講演旅行実地踏査――(杉山欣也稿)」(金沢大学学術情報リポトロジKURA)で記述されている「雲仙温泉」で開催された「改造社主催講演会」に、その講師として、小宮豊隆の名が出てくるのである。

file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20231201_LE-PR-SUGIYAMA-K-203.pdf

[雲仙の温泉岳娯楽場を会場に、八月十七日~二十二日に開催された九州地区のそれは、やはり新聞各紙の広告によって宣伝が重ねられた。講師は、小宮豊隆・阿部次郎・木村毅・藤村成吉・笹川臨風に、課外講演として京大教授・川村多二(「動物界の道徳」というタイトル)が演壇に立った。「長崎新聞」の紙面から、ここも大盛況であったことが分かる。]

※この八月十七日の翌日(八月十八日)、雲仙温泉での講演を後にして、その帰途中に「東洋城・寅彦・青楓」と合流して、その折りの塩原温泉(四季の郷・明賀屋、近郊に、東洋城の「両面句碑」が建立されている)での一句のように解せられる。
 そして、裏の二句目の「炭打くだく七輪の角・雨(一・一七)」は、昭和六年(一九三一)一月十一日付けの、文音での、蓬里雨の付け句のように思われる。それに対して、「胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ・子」(寅日子・裏三句目)と「葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)・城」と付け、同年の四月十四日に「細帯に腰の形を落付けて・雨」(蓬里雨・裏四句目)」、続く、同年の八月二十八日に「簾の風に薫る掛香・子」(寅日子・裏五句目)と付けて、その翌年の昭和七年(一九三二)四月十三日に「庭ながら深き林の夏の月・       城」(東洋城・裏六句目)」のところで打ち掛けとなっている。
 実に、昭和二年(一九二七)の八月にスタートした歌仙(連句)は、その五年後の、昭和七年(一九三二)の四月まで、未完のままに、そして、寅彦が亡くなった、翌年の、昭和十一年(一九三六)十一月「渋柿」(寺田寅彦追悼号)に公開されたということになる。

(以下、略)

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