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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その六) [漱石・東洋城・寅彦]

その六「明治四十一年(一九〇八)」

[漱石・四十二歳]
[明治41(1908) 1月~4月、「坑夫」、6月、「文鳥」、7月~8月、「夢十夜」、9月~12月 「三四郎」「吾輩は猫である」のモデルの猫死亡。12月、次男・伸六誕生。 ]

2085 この下に稲妻起こる宵あらん
[九月十三日『吾輩は猫である』のモデルとなった猫が死んだ。その猫の墓標の裏に書いた句(夏目鏡子「漱石の思ひ出」)。]

(付記) 『吾輩は猫である』の猫死亡(周辺)

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

[ 漱石は、親しい弟子達に、猫の死亡通知も出している。 葉書の周囲を墨で黒く縁取りした自筆の死亡通知である。 その文言は、

辱知(じょくち)猫儀久々病気の処 療養不相叶(あいかなわず)昨夜いつの間にかうらの物置のヘッツイの上にて逝去致候
埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候(つかまつりそろ)
但し主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候(もうさずそろ)
 以上

というものだった。 日付は(明治41年=1908年)9月14日、文面に「昨夜」とあるから、猫君の死亡日時は13日晩ということになる。
その後、妻鏡子は、毎月13日を猫の月命日とし、その日には、鮭の切り身と鰹節飯を欠かさずお供えしたという。

なお、漱石の猫の死にちなんで、

松根東洋城は、その時伊豆は修善寺にいた高浜虚子に、猫の訃報を知らせようとこんな電報を打った。

センセイノネコガシニタルサムサカナ

それに対する虚子の返電。

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
吾輩の戒名も無き薄(すすき)かな 

また、鈴木三重吉からは、

猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり

寺田寅彦からは、

蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元
土や寒きもぐらに夢や騒がしき
驚くな顔にかかるは萩の露 
などの句が寄せられた。          ]

(再掲) 「あかざと黒猫図(漱石)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18

あかざと黒猫図(漱石).jpg

「あかざと黒猫図」(夏目漱石画/墨,軸/1311×323/箱書き:漱石書「あかざと黒猫」「大正三年七月漱石自題」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)

https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

[東洋城・三十一歳。「定型を代表するものは「ホトトギス」と「国民俳壇」で、この二つを掌握しているのは虚子であった。虚子は俳句を断念し小説に専念することになり、虚子の懇請により、東洋城は「国民俳壇」の選を引き継いだ(十月)。碧悟桐の新傾向(非定型)の盛んになりゆく頃で、定型派、東洋城の傘下に集まった。 ]

センセイノネコガシニタルサムサカナ(この句は『東洋城全句集・上巻』には収載されていない。この句は「ホトトギス」に、虚子の句などともに掲載されている。)

[寅彦・三十一歳。「障子の落書」を藪柑子の筆名で「ホトトギス」に発表。十月、「尺八の音響的研究」により理学博士の学位を受け、漱石邸で祝宴が催される。]

蚯蚓鳴くや冷たき石の枕元(日記の中より三句。前書「夏目先生より猫病死の報あり。見舞いの端書認む。)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき(同上)
驚くな顔にかゝるは萩の露(同上)


(参考その一)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」周辺

東洋城家族.jpg

「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/41
[左から「父・権六/伯母・初子(柳原前光(伯爵)夫人・白蓮の養母・東洋城の母の姉)/母・敏子/弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」(明治四十一年七月三十一日写)

[「この青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」の「洋一」とは、漱石門下にも連なる「日本の数学者。元北海道帝国大学教授。立教大学名誉教授。随筆家、俳人」の「吉田洋一(1898年 - 1989年)」その人である(「ウィキペディア」)。
 ちなみに、「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)』で、「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」を寄稿した「松根新八郎」も、「吉田洋一」と同じく「数学者」の世界の人のようである。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1140563741724347776

 上記の「松根東洋城家族」で、一般に、「俳人・東洋城」より以上に知られているのは、「日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた」(「ウィキペディア」)、末弟の「松根宗一」(1897年4月3日 - 1987年8月7日)であろう。

松根宗一夫妻.jpg

「原子力産業新聞(第157号=昭和35年10月5日)=日本代表ら:コール事務総長と交歓=(左から)松根宗一氏夫人・松根原産代表(松根宗一)」
https://www.jaif.or.jp/data_archives/n-paper/sinbun1960-10.pdf

(参考その二)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」周辺

松中時代の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「東洋城」(明治二十八年当時、十八歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

最晩年の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「最晩年の東洋城」(昭和三十九年当時、八十七歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24
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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その五) [漱石・東洋城・寅彦]

その五「明治四十年(一九〇七)」

[漱石・四十一歳]
[明治40(1907) 1月、「野分」(『ホトトギス』)、3月末~4月初、京都・大阪に旅行、5月 『文学論』(大倉書店)、5月、入社の辞(『東京朝日新聞』)、6月、長男・純一誕生、6月~10月、「虞美人草」、6月、西園寺公望からの文士招聘会を断る、9月、牛込区早稲田南町7番地へ転居。]

1971 春の水岩ヲ抱イテ流レケリ
[前書「問うふて曰く男女相惚の時什麼(しゅうも)漱石子筆ヲ机頭ニコロガシテ曰ク天竺ニ向ツテ去レ」。什麼(しゅうも)は「そも」とも読み、「何」「如何(いかん)」など疑問をあらわす禅語。ハガキでは「天竺」を「天笠」とする。1975までの五句は、当時恋愛問題で悩み窮地におちいっていた松根豊次郎(東洋城)に宛てたはげましとなぐさめの一連のハガキのうち二通に記された句。※漱石が封書でなく、ハガキにこれらの句を認めたとことについて、東洋城の恋愛の相手が、血縁関係のない従妹の「柳原白蓮(燁子)」で、その父母の「柳澤前光(伯爵)・初子(東洋城の伯母)」の目に入ることを承知してのものとされている。]

1972 花落チテ砕ケシ影ト流レケリ
[問ふテ曰ク相思の女、男ヲ捨テタル時什麼(しゅうも)漱石子筆ヲ机頭ニ堅立シテ良久曰く日々是公日]。「良久」は「やや久しくして」の意。]

1973 朝貌や惚れた女も二三日
[前書「心中するも三十棒」。「三十棒」は「修業者を警策で激しく打つこと」。]

1974 垣間見る芙蓉に露の傾きぬ
[前書「心中せざるも三十棒」。]

1975 秋風や走狗を屠る市の中
[前書「道(い)へ道へすみやかに道へ」。「走狗は猟などで使われた犬。転じて他人の手先になって使われる人を軽蔑して言うが、ここでは東洋城の恋の悩み(煩悩)」。]


[東洋城・三十歳。写生一本の世論に対抗し、俳句の行き方が写生以外にあることを力説。かくて「子規から芭蕉へ」の還元を躬行(きゅうこう)した。]

恋すてし肚裏の寒さこらへけり
[※「肚裏(とり)」とは「 腹の中。心中。」のこと。漱石の句の前書にある「心中するも三十棒」「心中せざるも三十棒」に対応する句のように思われる。]

桜散るや木蓮もありて見ゆる堂
木蓮は亭より上に映りけり
君水打てば妾事弾かん夕涼し
[※これらの句が、東洋城と白蓮(柳原燁子)との「叶わぬ恋愛」関係の背景を物語るものかどうかは定かではないが、三十歳になっても独身(白蓮は東洋城よりも九歳前後年下)で、その前年(明治三十九年)に、「妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ」の句を遺している、当時の東洋城の心境の一端を物語るものと解することも、許容範囲内のことのように思われる。「明治四十三年、東洋城は三十二歳のとき北白川成久王殿下の御用掛兼職となったが、あるとき殿下から、「松根の俳句に、妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ、というのがあると聞くが、妻持たぬというのは本当なのか」と聞かれた。それに対して、東洋城は、「俳句は小説に近いものです」と答えた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)と言う。この「俳句は小説に近いものです」というのは、「事実は小説よりも奇なり」の、俳人・東洋城の洒落たる言い回しであろう。]

柳原前光(伯爵)家系図.jpg

「絶縁状と白蓮事件」所収「柳原二十二代当主・柳原前光(伯爵)家系図」
http://www.kyushu-sanpo.jp/kanko/fukuoka/byakuren-c/byakuren-c.html

 これは、「柳原前光(伯爵)家系図」であるが、この「柳原前光」の正妻「初子」は、東洋城の母(敏子・敏)の実姉である。大正天皇の生母(愛子)は、「柳原前光」の妹にあたる。この「柳原前光(伯爵)家系図」のような「松根東洋城家系図」のようなものは定かではない。
 東洋城は、本名が「豊次郎」で次男であるが、長男が夭逝し、「松根図書→権六」家の嫡男である。実弟の「松根宗一」は、その末弟のようである。その他に、「松根卓四郎・松根新八郎」の実弟の名も、東洋城が主宰した俳誌「渋柿」に出てくるのだが、それらの実弟については、これまた、定かではない。

(付記その一)「松根宗一」周辺(「ウィキペディア」)
[松根宗一(まつねそういち、1897年4月3日 - 1987年8月7日)は、日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた。祖父は宇和島藩家老の松根図書、次兄は俳人の松根東洋城。](「ウィキペディア」)

(付記その二)「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」(「渋柿」昭和40年1月・「東洋城先生追悼号」所収)=「国立国会図書館デジタルコレクション」

松根東洋城(式部官).jpg

「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「松根東洋城」(「式部職の大礼服」着衣)(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/42
[東洋城が心血を注いだ、その俳誌「渋柿」は、昭和十五年(一九四〇)以降のものは、「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することが出来る。
 その昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)の目次は、次のようなものである。
(目次)
松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3
巻頭句 / 野村喜舟/p4~23
句境表現の境 / 松根東洋城/p24~27
庭の別れ / 野村喜舟/p27~29
弔辞 / 愛知揆一/p30~30
弔辞 / 高橋誠一郎/p30~30
弔辞 / 水原秋桜子/p31~31
Sの話 / 秋元不死男/p32~34
東洋城を憶ふ / 新野良隆/p34~35
朴落葉 / 楠本憲吉/p36~37
追憶 / 黒川清之/p29~29
松中時代 / 松根東洋城/p38~39
東洋城百詠 / 三輪青舟/p124~126
東洋城先生の連句について / 小笠原樹々/p44~48
青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73
兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90
老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91
東洋城先生とその俳句 / 尺山子 ; 山冬子 ; 博/p92~102
しみじみとした先生 / 沢田はぎ女/p103~105
歌仙(あぢきなやの巻) / 松根東洋城/p106~107
東洋城先生の人と芸術 / 渡部杜羊子/p116~120
東洋城先生を語る(座談会) / 伊予同人/p146~164
偉跡 / 西岡十四王/p40~44
東洋城年譜 / 徳永山冬子/p165~169
特別作品/p176~179
選後片言 / 野村喜舟/p188~189
懐炉 / 野村喜舟/p192~192
人生は短く芸術は長し / 島田雅山/p48~51
三畳庵の頃 / 石川笠浦/p52~53
師をめぐる人々 / 高畠明皎々/p108~110
想ひ出 / 池松禾川/p110~112
先生の遺言 / 不破博/p112~116
春雪の半日 / 野口里井/p120~121
先生病床記 / 松岡六花女/p121~122
梅旅行 / 金田無患子/p123~123
永のえにし / 堀端蔦花/p127~128
追想記 / 三原沙土/p128~129
表札と句碑 / 城野としを/p129~131
先生と私 / 井下猴々/p131~132
城先生の思ひ出 / 榊原薗人/p132~133
下駄 / 石井花紅/p133~134
二人の女弟子 / 牧野寥々/p170~174
終焉記 / 松岡凡草/p135~136
先生は生きてゐる / 田中拾夢/p136~138
葬送記 / 野口里井/p139~139
追悼会/p139~141
西山追悼渋柿大会/p142~145
新珠集 / 松永鬼子坊/p174~175
各地例会/p184~186
提案箱 / 阿片瓢郎/p187~187
誌上年賀欠礼挨拶 / 諸家/p193~197
会員名簿 / 渋柿後援会/p191~19    ]

 その記事中の「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」に、「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」の写真が掲載されている。

東洋城兄弟(四人の男兄弟).jpg

「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50
[前列左から「宗一(六十四歳)・卓四郎(七十三歳)・東洋城(豊次郎)(八十六歳)・新八郎(八十一歳)」と思われる。後列の二人は東洋城の甥。中央に「松根家家宝の旗印(三畳敷の麻に朱墨の生首図=「「伊達の生首」)」が掲げられている。「伊達の生首」については、次のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-02  ]

[寅彦・三十歳。一月、長男の東一誕生。農商務省農事試験場における種芸試験を委嘱される。東京物理学校の講師となるが翌年に辞任。神経衰弱に悩まされる。]

御降や月白塞ぎ朝詣(一月「ホトトギス」二句。)
御降に尻ぞ濡れ行く草履取(同上)
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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その四) [漱石・東洋城・寅彦]

その四「明治三十九年(一九〇六)」

[漱石・四十歳[明治39(1906)、4月、「坊っちやん」(『ホトトギス』)、9月・「草枕」(『新小説』)、10月、「二百十日」、10月11日 、第1回「木曜会」。]

1882 春風や惟然が耳に馬の鈴(前書「『草枕』より十七句」。「惟然」は蕉門の俳人。)
1883 馬子唄や白髪も染めで暮るゝ春(同上。『草枕(二)』)
1884 花の頃を越えてかしこし馬に嫁(同上。『草枕(二)』。虚子宛書簡=「几董」調の句。)
1885 海棠の露をふるふや物狂ひ(同上。『草枕(三)』)
1886 花の影、女の影の朧かな(同上)
1887 正一位、女に化けて朧月(同上。『草枕(三)』。正一位=稲荷明神。)
1888 春の星を落して夜半のかざしかな(同上)
1889 春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪(同上)
1890 春や今宵歌つかまつる御姿(同上)
1891 海棠の精が出てくる月夜かな(同上)
1892 うた折々月下の春ををちこちす(同上)
1893 思ひ切つて更け行く春の独りかな(同上)
1894 海棠の露をふるふや朝烏(同上。『草枕(四)』)
1895 花の影女の影を重ねけり(同上)
1896 御曹司女に化けて朧月(同上)
1897 木蓮の花許りなる空を瞻(み)る(同上。『草枕(十一)』)
1898 春風にそら解け襦子の銘は何(同上。『草枕(十三)』)

漱石「草枕」.jpg

[これならわかる!夏目漱石の「草枕」](熊本市)
https://www.city.kumamoto.jp/nishi/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=8055&class_set_id=3&class_id=692

[東洋城・二十九歳。宮内省に入り、それより式部官、宮内書記官、帝室会計審査官を歴任。十月、漱石の面会日が木曜日と定められ、寺田寅彦、森田草平、鈴木三重吉、野上白川(豊一郎)、小宮豊隆、安倍能成等と知った。子規母語の俳壇は、定型と非定型とに二分された。その非定型の碧悟桐の「俳三昧」に対抗して、虚子と「俳諧散心」を興した。 ]

※いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり(明治三十八年作。二十八歳。)
黛を濃うせよ草は芳しき  (明治三十九年作。二十九歳。)
妻もたぬ我と定めぬ秋の暮 (明治三十九年作。二十九歳。)

(付記) 「 白蓮、東洋城への恋の歌」周辺

http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3291.html

[俳人、東洋城の親族が、白蓮の直筆短歌の色紙を遺品として保管していました。専門家によれば、書かれているのは、「白蓮が東洋城に宛てた恋の歌」。白蓮の短歌にしては乙女チックで、束の間の幸福感を感じます。

 初夏や白百合の香に抱かれてぬるとおもひき若草の床  白蓮

見つかった短歌は、歌集『幻の華』(大正8(1919)年)に載っています。筆跡も、白蓮にまちがいないとのこと。色紙を保管していたのは、東洋城の義理の姪にあたる女性。

 黛を濃うせよ草は芳しき  東洋城

白蓮の短歌は、東洋城のこの俳句(明治39(1906)年)への相聞歌ではないか?
現在の「渋柿」代表、同人の渡辺孤鷲さんは、そう考えています。

 東洋城は、第8代の宇和島藩主であった伊達宗城(むねなり)の孫で、愛媛県尋常中学校(旧制松山中学)時代の夏目漱石の教え子でもありました。当時、校内一の美少年として知られていたのだそうです。

 いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり  東洋城

 明治38(1905)年、27歳の東洋城の句から、白蓮への恋心が窺い知られます。東洋城の母、敏子は、白蓮の父である柳原前光の妻、初子の妹。つまり、白蓮と東洋城は、血縁関係のない、いとこ。明治39(1906)年、東洋城は、宮内省入省を機に柳原家に仮住まいをしており、そのころ、白蓮は、最初の夫と離婚して実家に戻っていました。まだ20歳の白蓮は、義母の隠居部屋に幽閉されて、姉の信子が差し入れてくれる、『枕草子』や『源氏物語』などを読みふけっていた。
明治41(1908)年に東洋英和女学校に編入するよりも、以前のこと。どちらから恋愛感情を打ち明けたのはわかりませんが、思い合っていたよう。しかし、結婚は許されず、東洋城は生涯、独身を貫きました。『渋柿俳句1000号史』(2001年)によれば、反対したのは東洋城の父(松根城臣)。「子どもを生んで離婚歴のある女を、由緒ある松根家の総領の妻に迎えることに反対した」。

 妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ  東洋城

 そのころ、東洋城が詠んだ句、嫡男だった東洋城の決意は固かったのでしょう。白蓮が伊藤伝右衛門と再婚するのは、それから数年後、明治44(1911)年。東洋城は、政略結婚でそのような男と結婚する白蓮を責めるような句を贈ったとか。

 吾を恨む人の言伝たのまれし四国めぐりの船のかなしも  白蓮

 最初の歌集『踏絵』(大正4(1915)年)に収録された、この短歌。井上洋子氏は、「恨む人とは東洋城ではないか」と推測しています。恨んでいたとして、その後の白蓮の出奔事件をどのように見ていたのか。それにしても、白蓮から贈られた色紙を大事に持っていたことになる。

 夏目漱石は、教え子の恋愛問題を案じていたといいます。東京の第一高等学校に進学してからも、漱石に俳句を送り、添削してもらっており、明治40(1907)年8月21日、漱石は、2人が心中するのではないかと心配して、東洋城に、はがきを2通、送っているそう。

 心中するも三十棒/朝顔や惚れた女も二三日  漱石

 封書ではなくて、はがきだったのは、柳原家の人に目にしてもらい、2人の様子に注意をはらってもらうためであった、とされます。修善寺での大患にも同行することになる東洋城は、漱石に相談していたのか。村岡花子が、愛のない再婚をする白蓮をあれほどに責め、絶交までしたのは白蓮には、思い合っていたのに断念した恋があったと知っていたからでもあった? (以下略)  ]

[寅彦・二十九歳。]

思ふ事の空にくだくる花火哉(明治三十九年作)

(付記) 「 備忘録(寺田寅彦)」周辺

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2455_10268.html

[仰臥漫録 → 夏 → 涼味→ 線香花火 → 金米糖 → 風呂の流し → 調律師 → 芥川竜之介君 →  過去帳 → 猫の死 →  舞踊 ] 

(参考)「松根東洋城」の周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201804190000/

漱石山房の門下生.jpg

「漱石山房の門下生(前列左から「松根東洋城・三重吉・森田草平・小宮豊隆」)

[(鈴木三重吉と東洋城)
 明治39年10月26日の三重吉宛ての手紙で「松根はあれで可愛らしい男ですよ。そうして貴族種だから上品な所がある。然し、アタマは余りよくない。そうして直むきになる。そこで四方太と逢わない。僕は何とも思わない。あれがハイカラなら、とくにエラクなっている。伯爵の伯父や叔母や、三井が親類で、そうして三十円の月給でキュキュしているから妙だ。そうしてあの男は鷹揚である。人のうちへ来て坐り込んで、飯時が来て飯を食うに、恰も正当の事であるかの如き顔をして食う。「今日も時刻をはずして御馳走になる」とか『どうも難有う御座います』とかいったことがない。自分のうちで飯をくった様にしているからいい」と書いています。おそらく、漱石は、こういった東洋城の不器用さを愛していたのでしょう。

(森田草平と東洋城)
 やはり漱石の門人の森田草平も三重吉と同様の気持ちを抱いたらしく、『続・夏目漱石』には「松根氏のことは、あるいは『いやに澄している』とか何とか、少々貶し気味のことをいったのではあるまいか。先生が氏のために大いに弁じていられるのを見ても、どうもそういう気がするし、私自身もその後三重吉が氏に対してそういう評語を下しているのを何度か耳にしたことがある。勿論、氏と三重吉はその後盛んに交通するようになった。が、三重吉は最後まで氏に対する『澄している』とか、『気取っている』とかいう評語だけは改めなかったように思う。しかし、そんなことは問題ではない。先生もいっていられるように、松根氏は上品で、落ち着いた、どこか貴族的風貌を備えた人であったーーいや、ある。氏はなお健在である。聞けば、氏の先祖は出羽山形五十七万石最上家親の一族で、元和八年最上氏改易の後は九州へ落ち、更に伊予松山の久松家へ迎えられて、その客分になっていたというから、貴族種には相違ない。伯爵の伯父というのは柳原前光伯だというようなことも、後から聞いた。が、そんなことよりも、私どもの注意を惹くのは、先生が氏の鷹揚な素質の一例として、『人のうちへ来て坐り込んで、飯時が来て飯を食うのに、恰もそれが正当のことであるような顔をして食う』一事を以てしていられる点である。こうなると、ずうずうしい奴が上品で鷹揚だというようなことにもなるが、先生がそういう積りでいっていられるのでないことは、敢て理るまでもあるまい。要するに物に拘泥しない所を上品としていられた」と書いています。
※明治39年10月21日に森田草平へ宛てた漱石の手紙には、「この東洋城というのは昔し僕が松山で教えた生徒で、僕のうちへくると先生の俳句はカラ駄目だ、時代後れだと攻撃をする俳諧師である。先達て来て玄関に赤い紙で面会日などを張り出すのは甚だ不快な感がある。『僕のために遊びにくる日を別にこしらえて下さい』と駄々っ子見たようなことをいうから、そんなことをいわないで木曜日に来て御覽といったから、とうとう我を折って来たのである。また松茸飯を食わせてやった」とあります。

(坂本四方太と東洋城)
 坂本四方太も東洋城を嫌っていました。おそらく東洋城の浮世離れしているところが嫌だったのでしょう。そこで心配した漱石は、三重吉に意見を送った日(明治39年10月26日)の東洋城宛ての手紙で、東洋城にアドバイスを送っています。「四方太が来たら、つらまえて『あなたはわたしの事を馬鹿だと、おっしゃいましたそうですね』と聞いて御覧。すると四方太が『へへ、どうして』とか何とかいうから、そうしたら『先生からききました』と云い玉え。すると四方太が『ハハハ、あれを見せたんですか』という。『見せた』と僕がいう。『馬鹿は少々ひどすぎる』と君が四方太に云う。すると四方太が『ーーー』何というか知らない。それで馬鹿というものもいわれたものも平気で帰るのだ。あの発句はまずいから駄目だ。送らない。四方太を閉口させようとするなら、礼を卑(いやし)うし、辞をあつうして馬鹿といわれたことなどは素知らぬ顔をして、西片町の寓居を訪うて先生の文章論をきいて、そうして敬服して帰ってくる。二週間ばかり立ってまた行く。また敬服した顔をする。帰りがけに少々自説を述べる。然し、そこの所は愛婿たっぷりにして帰る。三度目には、先の理窟には感心し、同時に自分の説にも未練がある様にする。四度目には大に自説を主張する。但し、帰りがけに四方太の説も採用する。それから五遍六遍と行くうちに、四方太は君の事を馬鹿という事をやめて、僕の所へ端書をよこす。『東洋城は近頃非常な熱心家になってたのもしい。あの位訳のわかったものは。沢山あるまい』。そこで君の勝利に帰する。四方太を降参させるのも、馬鹿を引きこませるのも、俳句一首では駄目だよ」   ]

阪本四方太.jpg

「阪本四方太(俳人 1873~1917)」(「島根県立図書館」)
https://www.library.pref.tottori.jp/information/cat4/cat18/post-17.html
[岩井郡大谷村(現在の岩美町大谷)に生まれる。本名四方太(よもた)。
 仙台にあった第二高等学校在学中より俳句を始める。東京帝国大学に進学後、俳誌『ホトトギス』の同人および選者として活躍。鳥取に近代俳句を導入した先駆者であり、俳句グループ「卯の花会」を指導した。
 東京帝大附属図書館司書として勤めながら正岡子規門下の俳人として新俳句と写生文の開拓普及に大きく貢献した。
 代表作『夢の如し』は写生文として夏目漱石に絶賛された。(以下略)  ]
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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その三) [漱石・東洋城・寅彦]

その三「明治三十八年(一九〇五)」

[漱石・三十九歳]
[明治38(1905) 1月 「吾輩は猫である」(『ホトトギス』)1月 「倫敦塔」(『帝国文学』)
1月 「カーライル博物館」(『学燈』)6月 「琴のそら音」(『七人』)12月 四女・愛子誕生 ]

1872 朝貌の葉影に猫の眼玉かな(「鹿間松濤楼」宛書簡)
1873 蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く(小説『一夜』より)
1874 初時雨故人の像を拝しけり(「籾山仁三郎」宛書簡。「故人の像」=「子規居士半身像)
1875 うそ寒み故人の像を拝しけり(同上)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-07

吾輩は猫である・初出.jpg

「吾輩は猫である」初出/俳句雑誌「ホトトギス」(第8巻4号・1905年・明治35年1月)
https://www.facebook.com/SosekiFan/photos/a.190617470970894/1350207411678555/?type=3

「ホトトギス((第8巻)」(目次集)

http://www.hototogisu.co.jp/

第4号/明治38年(1905)1月
第5号/明治38年(1905)2月
第6号/明治38年(1905)3月
第7号/明治38年(1905)4月
第8号/明治38年(1905)5月
第9号/明治38年(1905)6月
第10号/明治38年(1905)7月
第11号/明治38年(1905)7月
第12号/明治38年(1905)8月
第13号/明治38年(1905)9月

「吾輩は猫である」(「初出」と「単行本」)
https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/syuyo-neko.html


[東洋城・二十八歳。七月、京都帝大仏法科卒業。]

※いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり(明治三十八年作。二十八歳。)
恋猫や寺の茶寮を借り住めば(同上)

東洋城と白蓮二.jpg

2014.9.24愛媛H新聞より
https://toonbusclub.jimdofree.com/%E6%83%A3%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E4%B8%80%E7%95%B3%E5%BA%B5/

寅彦の家族.jpg

「寺田寅彦の三人の妻」
https://ameblo.jp/koketsuyuzo/image-12373883266-14185283842.html
[右→再婚の妻「寛子」
左→寅彦の子供たち(左から「長男・東一、次女・弥生、三女・雪子、長女・貞子(先妻夏子との子)、次男・正二」)]

[寅彦・二十八歳。八月、高知で浜口寛子と結婚。小石川区原町(現・文京区)に住む。]

※炬燵して鏡に対す夫婦かな(昭和二十九年一月四日、「日記」より)
※睦じき顔をならべて炬燵かな(同上)
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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その二) [漱石・東洋城・寅彦]

その二「明治三十七年(一九〇四)」

[漱石・三十八歳]
[明治37(1904) 4月 明治大学講師 12月「吾輩は猫である」を「山会」で朗読]

    子羊物語に題す十句(『沙翁物語集(小松武治訳)』の「序」の十句)
1855 雨ともならず唯凩の吹き募る(『リア王』に対応。)
1856 見るからに涼しき島に住むからに(『テンペスト』に対応。)
1857 骸骨を叩いて見たる菫かな(『ハムレット』に対応)
1858 罪もうれし二人にかゝる朧月(ロメオとジュリエット)に対応。)
1859 小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く(『マクベス』に対応。)
1860 伏す萩の風情にそれと覚りてよ(『十二夜』に対応。)
1861 白菊にしばし逡巡らふ鋏かな(『オセロー』に対応。)
1862 女郎花を男郎花とや思ひけん『ヴェニスの商人』に対応。
1863 人形の独りと動く日永かな(『冬物語』に対応。)
1864 世を忍ぶ男姿や花吹雪(『お気に召すまま』に対応。)

(付記) 「シェイクスピアと漱石と俳句」周辺

https://fragie.exblog.jp/23124174/

[ (前略)
幸運にも夏目漱石は「俳句と外国文学」という文章を遺しているので多少なりとも彼の考え方や姿勢といったものを窺い知ることができる。上記の引用によれば夏目漱石はわれわれ日本人が外国文学を研究・批評する際に立脚する立場の標準として俳句が大いに参考になり役に立つというのだ。ここでは他民族やその文化を自己の文化を基準に判断する傾向すなわち夏目漱石におけるethnocentrism を認めることができるであろう。恐らくこうした考えを夏目漱石は現実の外国文学研究のよりどころとして考えていたのではあるまいか。従って俳句は夏目漱石の外国文学研究の上で大きな位置を占めていたものと思われる。
漱石の文学において俳句がいかに重要なものであったか、改めて知るところとなる。さらに興味ふかいのは、シェイクスピアの言葉に俳句を寄せているということだ。
 夏目漱石は小松武治訳の『沙翁物語集』序として以上十句の俳句を提示している。しかしながら一句一句の前にシェークスピアの章句を置いて意表を突いた意匠となっている。

十句がすべてシェイクスピアの作品の章句とともに引用されているのだが、ここでは数句の紹介にとどめたい。

I have full cause of weeping, but this heart
Shall break into a hundred thousand flaws
Or ere Iʼll weep, O fool! I shall go mad.
                  King Lear Act.Ⅱ .Sc.Ⅳ . 
雨ともならず唯凩の吹き募る

That skull had a tongue in it, and could sing once;
                  Hamlet Act.Ⅴ .Sc.Ⅰ .
骸骨を叩いて見たる菫かな
 
Lady, by yonder blessed moon I swear,
That tips with silver all these fruit-tree tops.
                  Romeo and Juliet Act.Ⅱ .Sc.Ⅱ .
罪もうれし二人にかかる朧月

邦訳がないのが残念であるが、「リア王」「ハムレット」「ロミオとジュリエット」にどういう俳句を漱石がつけたかがわかる。ほかに「テンペスト」「マクベス」「十二夜」「オセロー」「ヴェニスの商人」「冬物語」「お気に召すまま」などへの俳句がある。
以下に俳句のみ記しますので、興味のある方はどの俳句がどの作品につけられたものか当ててみてくださいませ。(中略)

 小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く → 『マクベス』に対応。
 世を忍ぶ男姿や花吹雪     → 『お気に召すまま』に対応。
 白菊にしばし逡巡らふ鋏かな  → 『オセロー』に対応。
 見るからに涼しき島に住むからに→ 『テンペスト』に対応。
 女郎花を男郎花とや思ひけん  → 『ヴェニスの商人』に対応。
 伏す萩の風情にそれと覺りてよ → 『十二夜』に対応。
 人形の獨りと動く日永かな   → 『冬物語』に対応。       ]

[東洋城・二十七歳]
[新設の京都帝大に転ず。「俳諧十夜」を興す。虚子と「四夜の月」を行ふ。]

俳諧の十夜を修す柚味噌かな(前書「『俳諧十夜』より三十一句)
瓶のものに水仙剪るや四方の春(前書「床に掛軸鏡餅は据ゑたれど瓶に花忘られたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」)
※いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり(明治三十八年作。二十八歳。)

[年譜の「俳諧十夜」と一句目の句は、京都での比叡山延暦寺の「十夜講」にならい「句三昧に入る十夜の勤行(ごんぎょう)の俳句鍛錬会」を実施したことと、その時の一句ということになる。また、「虚子と『四夜の月』を行ふ」は、大学の冬季休暇で帰京した際、「名月(十五夜月)・待宵月(十四夜月)・十六夜(十六夜月)・立待月(十七夜)」などを、景勝地などで吟行したことのようである(『渋柿の木ま下で(中村英利子)著)』)。
 二句目の前書「床に掛軸鏡餅は据ゑたれど瓶に花忘られたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」の「母上」が、宇和島藩八代藩主・伊達宗城の三女・敏子で、その二女が、柳原前光伯爵夫人・初子で、その二女(前光の芸者の子)・柳澤白蓮(燁子=あきこ)ということになる。すなわち、白蓮と東洋城とは、血縁関係のない従兄弟同士ということになる。そして、東洋城が、二十七・二十八・二十九歳の頃、この離婚して実家に身を寄せていた「柳原前光・初子」家に、寄寓していたということである。
 上記の「※いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり」(明治三十八年作。二十八歳) の、その「いとこなる女(おみな)」とは、当時の「白蓮」その人であろう。

東洋城と白蓮.jpg

2014.9.24愛媛H新聞より
https://toonbusclub.jimdofree.com/%E6%83%A3%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E4%B8%80%E7%95%B3%E5%BA%B5/

[寅彦・二十七歳]
[四月、数理物理学会において最初の研究発表「ジェットによりて生ずる毛管波に就て」を発表。九月、東京帝国大学理科大学講師となる。]

朧夜や垣根に白き牡蠣の殻(「日本」四月十一日)
そゞろ寒鶏の骨打つ台所(「日本」十一月二十日) 

寅彦と夏子.jpg

「寺田寅彦・妻夏子」(「朝日新聞トラベル」)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html

寅彦と家庭図.jpg

「寺田寅彦・妻夏子・寛子・紳」(「朝日新聞トラベル」)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html

(付記) 「『団栗』寺田寅彦・妻夏子」(「朝日新聞トラベル」)(抜粋)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html

[ 夏子が突然、血を吐いたのは1900年暮れ、東京・本郷西片町の家だった。熊本の第五高等学校の学生だった寅彦が14歳の夏子と結婚したのはその3年前。結婚後も夫熊本、妻高知と離ればなれだったふたりが、ようやく東京で同居して1年もたっていなかった。17歳の幼な妻には、新しい生命が宿っていた。

 翌年2月の暖かい日、寅彦は小康を得た夏子を伴って、家からほど近い小石川の植物園に行く。久しぶりの外出に喜んだ夏子は、園内の小道でドングリをハンカチいっぱい拾った。寅彦の「団栗(どんぐり)」はその思い出だ。夏子は半月後、高知に戻された。肺結核の伝染を恐れた寅彦の父・利正の判断だった。

 夏子は高知市内から小舟で2時間以上かかる種崎で療養した。空気のいい浜辺でという配慮だろうが、「隔離」でもあった。5月、女児誕生。東京で吉報を知った寅彦は「幸ありて桃の若葉と照り栄へよ」という俳句を日記に記した。父から貞子と名づけた、と知らせがきた。(中略)

 ふたりは仲むつまじい若夫婦だった。寅彦は、療養中の一日を記した夏子の日記を添削して、正岡子規が主宰する雑誌「ホトトギス」に投稿した。奈津女という名でその文は載り、夏子をいっとき、幸福にさせた。
 
 夏子は1883(明治16)年、熊本で生まれた。寅彦の父利正と同郷で陸軍仲間の阪井重季(しげすえ)の長女だった。兄2人と妹がいるが、夏子だけ高知で祖母に育てられた。

 阪井家は夏子にどこか冷ややかだった。東京で夏子が肺病で倒れ、若い夫婦が途方に暮れたときも、当時東京に住んでいた夏子の母がとんできて看病した気配はない。前後の年の日記は残っているのに、結婚年だけないのは、結婚に関して秘すべき事情が記してあったため、後に寅彦が廃棄した可能性が大きい。(中略)

「団栗(どんぐり)」の結末で、寅彦はドングリを拾う無邪気な遺児を見て、「始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだ」と述懐する。「終わり」は理解できるが、「始めの悲惨」については不明とされていた。山田さんの推測通りなら、その意味が了解される。

 寅彦は夏子を忘れられなかった。

 「団栗」はじめ、いくつかの随筆にさりげなく登場させている。随筆を書くときは「吉村冬彦」というペンネームを使った。吉村は寺田家の先祖の名字であり、冬彦は「夏子」のイメージから、といわれる。

 夏子の忘れ形見、貞子は母と1歳半で死別し、母の記憶はなかった。

 寅彦は夏子の死後に再婚し、4人の子をもうけた。その妻も30代で急死、さらに再々婚した。3番目の妻を迎え、複雑な家庭ドラマが生じるが、それはそれでまた、別の物語である。 ]
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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その一) [漱石・東洋城・寅彦]

その一「明治三十六年(一九〇三)」

[漱石・三十七歳]
[明治36(1903)1月 帰国 4月 第一高等学校講師 東京帝国大学英文科講師 10月 三女・英子誕生]」

1832 愚かなれば独りすゞしくおはします(熊本の俳人・「井上微笑」宛書簡)
1841 能もなき教師とならんあら涼し(同上)

[その書簡中に「近頃俳句杯やりたる事なく候間頗るマズキねのばかりに候」とある。子規没後は、俳句の実作から遠ざかっている雰囲気が伝わってくる。この「能もなき教師とならんあら涼し」の句は、大正五(一九一六)年に、漱石門下の松根東洋城が、俳誌「渋柿」を創刊するが、その時の大正天皇から俳句について聞かれた際の「渋柿のごときものにては候へど」の句と共に、その東洋城の句に先行する「能もなき渋柿共や門の内」(明治三十一年作)などに由来があるとされている。]

(付記) 漱石の「渋柿」の句など(その周辺)

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202106100000/

[  渋柿の下に稲こく夫婦かな  漱石(明28)
   渋柿や寺の後の芋畠     漱石(明治28)
   渋柿やあかの他人であるからは 漱石(明治30)
   能もなき渋柿共や門の内   漱石(明治31)
   渋柿や長者と見えて岡の家  漱石(明治32)
   渋柿やにくき庄屋の門構   漱石(明治34)
   渋柿も熟れて王維の詩集哉  漱石(明治43)

 東洋城は、本名を松根豊次郎といい、父は宇和島藩家老・松根図書(まつね・ずしょ)の息子でした。母は、宇和島藩主・伊達宗城(だて・むねなり)の娘。伯母の義弟が大正天皇の生母で、柳原白蓮は義理の従兄弟にあたります。当時、東洋城は宮内庁にいて、漱石から俳句を教わり、のちに「ホトトギス」に加わりますが、「自分の俳句の師は漱石である」と宣言し、虚子と袂をわかちました。大正5(1916)年に俳誌「渋柿」を創刊しますが、これは大正天皇から俳句について聞かれた際に「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことに由来します。(中略)
 渋柿は『我輩は猫である』『趣味の遺伝』『野分』『三四郎』に登場します。
『我輩は猫である』『趣味の遺伝』では、インスピレーションを得るための手段として、また『我輩は猫である』では甘くなるという変化の象徴として、『野分』や『三四郎』では、話の本筋ではなくつまらぬもののイメージとして登場しています。(中略)

 十月二十二日〔日〕
 半晴。十一時過。三時半小便をする。
   〇嬉しく思ふ蹴鞠の如き菊の影
〇咋夜九時半頃胃癌の加藤さんが死んだよし。道理で眼を覚ますと人声が聞えた。余〔は〕看病のため徹夜するのかと思っていた。一等室に残るは胃潰瘍の二人である。その一人は二三日有つか有たぬかという所なり。
   〇肩に来て人恨かしや赤蛸蛉
   〇澁柿も熟れて王維の詩集哉(漱石日記)
 
 ある人はインスピレーションを得るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起るという理論から来たものだ。(吾輩は猫である 8) (後略) ]

[東洋城・二十六歳]
[一月、夏目漱石帰朝、東大及び一高の講師となったが。それより漱石庵入りびたりの状態で、漱石によって人間と文学の修養をつむ。一高俳句会を指導。腸チフスを病み東大を休学、宇和島の郷宅で躰を養う。]

菊を見つ熱重き瞼ふたぎけり(明治三十六年作。前書「病臥(腸チフス)抄」)
行秋のチフスが長い病にて(同上)
ぬくめ鳥暁の霜に放ちけり(同上。前書「七十余日後看護婦解雇」)
[この三句目の前書「七十余日後看護婦解雇」が、後の、東洋城の「柳原白蓮(義理のいとこ)」とのロマンスやスキャンダルなどの風聞に関連して、意味深長な雰囲気を有している。]

(付記その一)[松根東洋城と謎の「生クビ」]周辺

https://www.sankei.com/article/20200305-HWGTTXIYMVKVXOAZYLIACP76UY/

[漱石の門人はあまたあれど、なかでも名門の出身というと、松根東洋城(とうようじょう)(1878~1964年)が随一ということになるでしょう。彼の父方の祖父は宇和島藩の城代家老、松根図書(ずしょ)。母は「幕末の四賢侯」の一人として名高い伊達宗城(むねなり)の娘。つまり彼は、殿様の孫なのです。

伊達宗城.jpg

 東洋城は若い頃からイケメンとして名高く、女性関係も華やかだったようです。あの柳原白蓮(義理のいとこ)ともロマンスがあった。彼の肖像を写真で確かめてみると、顔の骨格が祖父の宗城にたいへんよく似ています。面長で、鼻が高く、額が広く、理知的なのですね。そういえば一度だけお目にかかったことのある信州松代の真田家のご当主(慶応義塾大学の教授でいらっしゃる。工学博士)も、タイプの同じ上品な方でした。宗城の実子が真田家に養子に行き、最後の藩主を務めた(維新後は伯爵)。 
 真田の殿様が血筋からすると伊達政宗の子孫というわけで、数奇なめぐりあわせです。
さて東洋城は生まれは東京ですが、愛媛県松山市の尋常中学に通いました。このとき同校に英語教師として赴任していたのが夏目金之助すなわち漱石で、彼から英語や俳句を学んで交流は卒業後も続き、生涯の師と仰ぐこととなったのです。東洋城を正岡子規に引き合わせたのも、漱石でした。彼は小説ではなく俳句の道に進むことになりますが、自分の師は子規ではなく、漱石である、と述べています。
 旧制の一高、東京帝国大学から京都帝国大学の仏法科へ。卒業後は宮内省に入り、さまざまな任に就いた後、大正8(1919)年に退官。明治43(1910)年には、自身が公務で逗留(とうりゅう)していた伊豆修善寺温泉への療養を、漱石に勧めました。胃潰瘍で苦しんでいた漱石はこれに応じたのですが、療養中に大吐血を起こしました。「修善寺の大患」です。
 育ちが良すぎたせいか、東洋城は敵が多かった。私たち一般人とは異なる感覚の持ち主だったのかもしれません。児童文学の草分け、鈴木三重吉との不仲は有名ですが、森田草平や芥川龍之介ら漱石の門人たちは、どうも東洋城より三重吉の肩を持っていたようです。高浜虚子とも『国民新聞』俳壇の選者の座をめぐって確執があり、大正5年に『ホトトギス』から離脱して以降は一切つきあわなかったそうです。(中略)
■「幕末の四賢侯」伊達宗城
1818~92年。旗本・山口家の子として江戸で生まれた。ただし彼の祖父・山口直清は宇和島伊達家の出身であり、跡継ぎのなかった伊達宗紀(むねただ)の養子として宇和島藩主の座につき、殖産興業を中心とした藩政改革を進めた。長州の大村益次郎を招いて軍制の近代化に取り組み、蒸気船を建造。公武合体論者で、幕末の激動期に大きな足跡を残した。]
(「産経新聞・本郷和人の日本史ナナメ読み」/本郷和人稿(東大史料編纂所教授)」) 

(付記その二) 「伊達の生首」

http://www.cyan-color.sakura.ne.jp/w-kuhyo2.html

[ わが祖先(おや)は奥の最上や天の川     東洋城   

とあるように先祖が出羽の国・最上藩にいたころに「生首」の伝説は始まる。
剛勇で知られた先祖の松根新八郎が、幽霊から頼まれて仇討ちの助力をした。
 ある夜、新八郎が城下を歩いていると鬼火がチラチラして幽霊が現れ、「ここは私の仇の家だが、お札が貼ってあって入れない。札を剥がしてもらえないか」と頼まれて剥がしてやったところ
幽霊は侍の姿になり、喜んで家の中へ飛び込んで行き、やがて血の滴る生首を下げて出て来た。侍の幽 
 霊は「何もお礼をするものがないから、これを」と、その生首を新八郎に渡したというのである。
松根家ではこれを邸内の竹薮に懇ろに葬った。
 以来、生首の絵を家の旗印(畳1畳半の大きさ)とし、兜の前立ての飾りにもした。
現在この「首」は宇和島市金剛山大隆寺に移され「松根首塚」として供養が続けられている。
最上から仙台、宇和島と「生首」は髑髏となってからも松根家とともに遠い旅をしたようだ。
松根家の墓所も大隆寺にあり、東京・築地で生まれた東洋城もここに眠っている。山門の横に「黛を濃うせよ草は芳しき」の美麗な石の句碑がある。
 東洋城という俳号は本名の豊次郎をもじったと聞くと、なんだか親近感が湧いて墓所の前を通る時は頭を下げる。
 ちなみに、伊達政宗公のご生母は出羽最上藩のお姫様であり、宇和島藩初代藩主・伊達秀宗公は政宗公の長子である。](「松本よし乃(平成24年4月21日愛媛県現代俳句協会総会の選評から)」)


[寺田寅彦(寅日子・牛頓)・二十六歳]
[気管支炎や肺炎カタルに悩まされる。一月に帰国した漱石との交流が再開。漱石は四月より東京帝国大学文科大学講師となる。七月、東京帝国大学理科大学大学院に進学。実験物理学を研究する。文部省震災予防調査会より海水振動の調査を委嘱される。]

五月雨や根を洗はるゝ屋根の草(明治三十六年作。「日本」六月四日)
道端や草の花とも実とも知れず(同上。「日本」十月二十九日)
竹隠の君子を訪ふや五月雨(同上。前書「午後夏目先生を訪ふ」)

(付記)[『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』]周辺
https://www.milive-plus2.net/biburio2016/40014/#:~:text=%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6%E3%81%AF%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85,%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

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[寺田寅彦は物理学者としてはとても有名で、東京大学の教授をしていたことがあります。また、日本学士院の恩賜賞という、学者に送られる日本で一番権威ある賞を受賞したこともあります。一方で作家としても、大学時代に夏目漱石に出会って弟子入りし、一番弟子としてずっと文学的な活動もしてきた人です。
 その寺田寅彦のエッセイ集。世の中にはたくさんのエッセイがありますが、寺田寅彦のエッセイが他とどう違うか。まず目の付け所が違います。物理学者なので、世の中のいろんな現象に目を向け、「さて、どうなっているのか」ということをずっと見ているのです。
 例えば満員電車について書いているエッセイ。満員電車はできれば避けたいところですが、寺田寅彦も同じで、満員電車をどうやったら避けられるかをずっと考えました。そして、ついに導き出した結論が「ひたすら空いている電車を待つ」。
 例えば御堂筋線などがとても混んでいたとしても、10分くらい待てばそれなりに空いている電車が来るんです。それがなぜかということを、具体的なデータやわかりやすい言葉で説明しています。
 また、文学的な情緒は夏目漱石の弟子ならでは。僕が一番好きなところで、線香花火について述べている文章があります。
 「実に適当な歩調と配置で、しかも充分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに速くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の箭(や)の先端は力弱く垂れ曲る。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線をえがいて垂れ落ちるのである」
 科学的な情緒、そして文学的にわかりやすく伝えようという寺田寅彦の文章の面白さがよく詰まっているところだと思います。
 寺田寅彦は線香花火が大好きらしく、このあとで「線香花火の一本の燃え方には『序破急』があり『起承転結』があり、詩があり音楽がある」と書いています。これもすごく面白いと思います。
 寺田寅彦のいろいろなエッセイの中に、ひとつだけ科学的な考察がほとんどないエッセイがあります。その題名がなんと『夏目漱石先生の追憶』。亡くなった夏目漱石を寺田寅彦が思い出して書いたものです。文学的に淡々と書いているのですが、先生を失って悲しい、寂しいという寺田寅彦の気持ちが伝わってくるいい文章です。夏目漱石がどういう人だったかを知りたい人が読めば、夏目漱石の別の顔がよくわかることでしょう。](「金澤晴樹稿(奈良県・東大寺学園高校2年)」)
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十四) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十四「明治三十五年(一九〇二)・「糸瓜・絲瓜」など」

(子規、九月十八日、「絶筆三句」、十九日、午前一時永眠(三十六歳)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=&season=&classification=&kigo=%E7%B3%B8%E7%93%9C&s=&select=

秋に形あらば糸瓜に似たるべし   ID1461 制作年24 季節秋 分類植物 季語糸瓜
しばらくは風のもつるゝ糸瓜かな  ID1462 制作年24 季節秋 分類植物 季語糸瓜
露いくつ糸瓜の尻に出あひけり   ID4026 制作年25 季節秋 分類植物 季語糸瓜
蔓かれてへちまぶらりと不二の山  ID4027 制作年25 季節秋 分類植物 季語糸瓜
茶屋淋し糸瓜の蔓の這ひかゝる   ID8458 制作年26 季節秋 分類植物 季語糸瓜
家一つ門は糸瓜の月夜かな     ID11585 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
柴の戸に糸瓜の風の静かさよ    ID11586 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
投げ出したやうな糸瓜や垣の外   ID11587 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
投げ出したやうに垣根の糸瓜哉   ID11588 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜肥え鶏頭痩せぬ背戸の雨    ID11589 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
わぐなつて残る糸瓜や屋根の上   ID11590 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
五六反叔父がつくりし糸瓜かな   ID14851 制作年28 季節秋 分類植物 季語糸瓜
雪隠の窓にぶらりと糸瓜かな    ID14852 制作年28 季節秋 分類植物 季語糸瓜
行く秋を糸瓜にさはる雲もなし   ID14853 制作年28 季節秋 分類植物 季語糸瓜
垢すりになるべく糸瓜愚也けり   ID18381 制作年29 季節秋 分類植物 季語糸瓜
秋のいろあかきへちまを畫にかゝむ ID20297 制作年30 季節秋 分類植物 季語糸瓜
へちまとは糸瓜のようなものならん ID20298 制作年30 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔の貧に處る糸瓜の愚を守る   ID20299 制作年30 季節秋 分類植物 季語糸瓜
西行に糸瓜の歌はなかりけり    ID21889 制作年31 季節秋 分類植物 季語糸瓜
内閣を糸瓜にたとへ論ずべく    ID21890 制作年31 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜とも瓢ともわかぬ目利哉    ID23012 制作年32 季節秋 分類植物 季語糸瓜
愚なる処すなはち雅なる糸瓜かな  ID23888 制作年33 季節秋 分類植物 季語糸瓜
目鼻画く糸瓜の顔の長さ哉     ID23889 制作年33 季節秋 分類植物 季語糸瓜
秋ノ灯ノ糸瓜ノ尻ニ映リケリ    ID24485 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
棚ノ糸瓜思フ処ヘブラ下ル     ID24486 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
西ヘマハル秋ノ日影ヤ糸瓜棚    ID24487 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
病間ニ糸瓜ノ句ナド作リケル    ID24488 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
病閑ニ糸瓜ノ花ノ落ツル昼     ID24489 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
日掩棚糸瓜ノ蔓ノ這ヒ足ラズ    ID24490 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜サヘ仏ニナルゾ後ルゝナ    ID24491 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜ニハ可モ不可モナキ残暑カナ  ID24492 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜ブラリ夕顔ダラリ秋ノ風    ID24493 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
牡丹ニモ死ナズ瓜ニモ糸瓜ニモ   ID24494 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
黙然ト糸瓜ノサガル庭ノ秋     ID24495 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
物思フ窓ニブラリト糸瓜哉     ID24496 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔ト糸瓜残暑ト新涼と      ID24497 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔ノ棚に糸瓜モ下リケリ     ID24498 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔モ糸瓜モ同ジ棚子同士     ID24499 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
「絶筆三句」
痰一斗糸瓜の水も間にあはず    ID25012 制作年35 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな    ID25013 制作年35 季節秋 分類植物 季語糸瓜
をととひのへちまの水も取らざりき ID25014 制作年35 季節秋 分類植物 季語糸瓜


(漱石、三十六歳。十二月、帰国の途につく。その直前に子規没との虚子・碧悟桐の書翰が届く。)

66  風ふけば糸瓜をなぐるふくべ哉(明治二十八年)
904  長けれど何の糸瓜とさがりけり(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十七」)
1737 容赦なく瓢を叩く糸瓜かな(明治三十二年。「子規へ送りたる句稿三十五」)
1848 一大事も糸瓜も糞もあらばこそ(明治三十六年)


(寅彦、二十五歳。『俳句と地球物理』所収「略年譜」/『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

面白し瀬戸の絲瓜(へちま)の長短(明治三十一年作)
日一日ぶらりぶらりと絲瓜哉(同上)
世をすねて日影の絲瓜そりかへる(明治三十一~二年作)
長過て肥手桶たゝく絲瓜哉(同上)
干からびし絲瓜をつるす納屋の軒(同上)


(東洋城、二十五歳。『東洋城全句集上・中巻』)

糸瓜忌や只句を作るあな尊と(明治四十五年作)
道の家の糸瓜に起す話頭かな(大正九年作。前書「子規忌順礼 二十七句」)


(参考その一) 「絶筆三句 子規」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-05

(再掲)

https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html

子規・絶筆三句.jpg

「絶筆三句 子規」(紙本墨書/31.0×44.3㎝/国立国会図書館蔵) 
https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html
≪〔正岡子規 著〕〔正岡子規 明治35(1902)年〕写【WB41-61】43 〔絶筆三句〕の画像(デジタルコレクション)
 日本の近代文学に多大な影響を及ぼした俳人、歌人の正岡子規が臨終間際に書き残した三句。明治35(1902)年9月18日の午前11時頃、紙を貼りつけた画板を妹の律に持たせ、仰臥しながら記した。翌19日午前1時頃、子規の息は絶えた。満34歳の若さであった。病魔に苦しみながらも、死の直前まで俳人として生き抜いた壮絶な姿がうかがえる。
(書き起こし)
をととひのへちまの水も取らざりき/糸瓜咲て痰のつまりし佛かな/痰一斗糸瓜の水も間にあはず  ≫

(追記)

   倫敦にて子規の訃を聞て(五句)
1824 筒袖や秋の棺にしたがはず (漱石・36歳「明治35年(1902)」) 
≪ 季=秋(雑)。※子規は九月十九日に他界した。虚子から要請のあった子規追悼文に代えてこれらの句を送った。その書簡では子規の死について、「かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候」と述べている。その後で、「子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖にてピステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーブの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と言い、これらの句を記した。句のあとに「皆蕪雑句をなさず。叱正」とある。筒袖は洋服姿。◇書簡(高浜虚子宛、明治35.12.1)。雑誌「ホトトギス」(明治36.2)。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1825 手向くべき線香もなくて暮の秋 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=暮の秋。◇1824。≫(「同上」)
1826 霜黄なる市に動くや影法師 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=霧(秋)。◇1824。(「同上」)≫
1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=きりぎりす(秋)。◇1824。≫(「同上」)
1626 招かざる薄に帰り来る人ぞ (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=薄(秋)。◇1824。≫(「同上」)


(参考その二)  「碧梧桐の『子規の回想』」周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202105250000/

≪ 子規の最期については、高浜虚子の『子規居士と余』が引き合いに出されます。かたや河東碧梧桐の文が引用されることはあまりありません。『子規居士と余』は岩波文庫の『回想 子規・漱石』に収録されていますが、碧梧桐の『子規の回想』は、子規が漱石の下宿・愚陀仏庵に行くところまでしか『子規を語る』に収録されていないのです。
『子規の回想』に記された「辞世の句」を、次の回は「死後」をみていただきます。
 これが終わりましたら、虚子と碧梧桐の俳句観について書かせていただきます。
 
二十八 辞世
 ことさらに辞世の句を作らないと言った芭蕉を、さすがに芭蕉らしい、と話したこともある。また太祇の辞世の句が、平生の伎価に似ない。あれ程の蕪村にしても辞世はどこか弱々しいと言ったこともある。
 古人の辞世の句をおおむね否定していたから、自分の場合にも無論思い及んだ筈であるが、どういうものか、辞世を作ることにかなり執着を持っていた。芭蕉でもない者が、芭蕉を気取るのを避けた意味であったかも知れぬ。死ぬる三日前に「九月十四日の朝」と題して文章を口誦した程、死生の間に超然としていた人であるから、考え得るなら辞世を考えてもいい、と例の強烈な心的生活力が働いていたかも知れない。
 明治三十三年十八日の「病牀六尺」と四月発行の「ほととぎす」の消息は、子規自らも「近頃不覚をとった」と言っているように、辞世について閑葛藤のあったことを明らかにしている。それによって、追憶の糸たぐって見ると、その五月十三日午後六時頃、子規直筆の急便によって、私はある宴会の席上から駆け付け、虚子も宮本国手も相次いで来着したのだが、子規の阿鼻叫喚の苦悶は、真に見るに堪えぬものがあった。その夜は虚子宿直して翌十四日となり、病苦はやや平静に帰したが、疲労その極に達して、何の食欲もなく、時には失神したのかを患える程全く元気がなかった。その夜私が宿直することになったが、夜九時頃、枕元に坐っておられた母堂に、低いかすれかすれな声で、またとぎれとぎれに、自分死後如何にすべきかの心得と言ったようなようなものを、さも最後の遺言のように語るのであった。側に他人の私の居るのに関らず、随分突っ込んだ辛辣な言葉も交じる。居るにも居られずというのは、その時の私の思いで、さし出口はならず、膝をただしたまま身動きも出来なかった。
 その翌日の朝のことである。三日間の絶食にも煩いされたのであろう。もういよいよ最後だというような悲観的なことのみを口にし、その応接に狼狽困倒したのであった。私の書いた消息に、
 …松山の親族へ電報を打とう、何と打とうか、サヨナラ、ネギシでわかるだろうか、ゴキゲンヨウ、ネギシとしょうかなどと言わるるに到っては小生の衷心矢も楯も堪らず…ご親族への電報ならば看護人より打つかた穏やかなるべし、とて異議申立てしに、さらば露月に、カツ〇ネギシと打つてくれとて、電報頼信紙を取出さるるなど・・・。
 とある。今までも幾度か病体危険を報ぜられたが、私の知る限りにおいて、ここまで切羽詰まったことはなかった。あるいは子規も他日告白しているように、以前自分が何死ぬるものか、と思っている時には周囲が顛動し、今度自分が危険だと思う時には、周囲が冷静である。と言った多少の反抗気分も手伝っていたかも知れぬ。それから、秀真の作った子規の塑像を持って来いと言って、その裏に「白題 土一塊牡丹生けたる其下に 年月日」と墨をつぎつぎ書くのであった。「病林六尺」にも、
 もしこのままに眠ったらこれが絶筆であるぞと言わぬ許りの振舞。
 とあるように、明らかに辞世の一句であったのだ。
「お前はこれ(塑像)を持っといでるので手がダルイかな。
「石膏というものは墨付きの心持のいいものだ。
「いくらでも書いて見たいよ。
 など、静かに言われる・・・°
 と同じ消息にある。どの位の大きさのものか判然記憶はしないが、ともかく仰向けに寝ていたなら、病体に触れないように持っていなけねばならない。横向きであれば、字を書くに都合のいいように向けなければならない。手がだるいより、その工夫の方に苦しみつつ、私はアア辞世の句だ、と「土一塊」の初筆で、もうじーんとと電気をかけられたようになってしまった。
 ところが時経るままに天気回復して、その日の根岸祭りを祝う料理注文など、打って変わった微笑、平和な光景になった。
   この祭いつも卯の花下しにして (子規)
 と、さきの辞世はどこへやらと言った即吟さえ浮かぶ、周囲の愁眉を開くシーンとなった。
 これが歿年五月十五日のことであった。この夏の酷暑を乗り切れば、あるいはまた余命をつなぐことが出来るであろうとも、周囲の人々と話し合っていたのであるが、幸いにして危篤を患えることもなく過ぎた。同七月の『ほととぎす」消息に、
 
 意外の事には例の腰の患部の痛み次第に薄らぎ行きて、昨今は殆んどその疼痛を忘れらるる程とも相成り……されば子規君はその虚に乗じて元気百倍日に十句二十句を作り、写生画一枚二枚を画き、病牀六尺の原稿も手づからみとめらるることあり……
 
 と近来の快事とさえ報じている。患部の痛みの去ったというのは、その癒着のためでなくて、かえって病勢の進行した麻痺状態でなかったであろうか。
 かくて九月に入って、三、四日頃より先ず下痢症に罹り、日に三、四回の便通を見、同八日に初めて脚の水腫を発見した。当時の消息に、
 
 …丁度点灯後小生ー碧梧桐ーと外に数人、例の枕頭にて何くれと雑談中、子規君もいつになく快詞を挟み一時病苦など忘れられたる様子ありしに、突如同君の声にて「アラッ」とさも驚きたる調子に叫ばれ候、何れも何事の起りしぞと、病人の方を注視したる際「早く灯を見せておくれ」と甚だ性急に申され、母上と妹君ランプを提げてその足の方を照されしに、子規君つくづく己が足の甲を見て「コンナに水を持ってる…」と申され…聞けばその水腫れは数日前よりその兆候見えしも、さして著しき変化も見えざれば、それと病人にも明されざりしものの由…
 
 とある。医師は運動不足の病体には普通に見る徴候だと言っている、子規は「甚だ不気味な物じゃな」と不安な言葉を漏らしている。七、八月小康を得ていた病勢は、この水腫を皮切りに、再び猛威を逞しくして、十日の朝には腰部以下の自由を失い、かつ左右両足の位置によって激烈な痛みを感じ、モヒ剤も功を奏しないので、十二日には皮下注射を行っている。子規の苦悶状態はその極度に達したらしく、自ら「拷問」と歎息している。十三日、再び注射、十四日水腫腰部に及び、という風に加速度に昂進を示して、十八日の朝となった。
午後十時頃、いつも画を書く紙を貼る板に、唐紙を張らせたのをお律さんに持たせて、仰向けのまま何かを書こうとする。もう余り物も言わない。痰が切れないということで、かなり苦しそうな咳をする。私が筆に墨を含ませて、子規の右手に渡すしぐさを幾度も繰り返して、
   糸瓜咲て痰のつまり仏かな(子規)
 以下三句の絶筆が出来た。私は五月の辞世の先例もあるので、またこの辞世が笑い話の種となるのではないかの空想を描いたりした。この三句の辞世のことは、「子規言行録」に私の見たままを詳細に報告している。一句書いては休み休みして、最後の「取らざりき」を書き終えた後、筆を捨てるのも、もの臭ささそうに、穂先がシーツの上に落ちて、すこしばかり墨を印した。その画板はそのまま病室の障子に先せかけられて、誰にも見えるようになっている。子規も一度はそれを注視したようであるが、何とも口をきかない。先程この辞世を書き始めてから、一切だんまりで、誰一人口をきかないのであるから、病人の咳が時々静寂を破る外、シーンとして闇の底へ落ちて行くような、重々しい空気がよどんでしまった。それに辞世がいつまでもそこにさらされているのが辛かった。どこかへ片付けようか、と言って見たい咽が強ワ張って詰まっていた。
 どうも五月の時のような余裕も活気もない、もうぐったりした子規であった。いっさい万事これでおしまいだ、と言う風に見える顔色でもあった。私は何を聞こうにも、何を話しかけようにも、頭の中が洞になって、考えも工夫もなかった。どよんだ部屋の空気に金縛りになって、指一本動かすことも出来なかった。子規は最後の元気で、句を考える力もあったのであるから、次に辞世の歌をと思わないでも無かったであろう。また、そこらに居合わす誰にでも、さらに最後の言葉を与えよう思いに耽っていたのかも知れない。不幸にして、丁度その言葉を分かつ適当な人が居なかったせいで、余儀なく、沈黙していたのかも知れない。あるいは平凡なお別れの言葉なんかと、この二月頃時々試みていた仏偶39のような、奇抜な文言でも練っていたのか。それとも最後を取り乱さないように、心の平静を破るまいとしていたのか。
 遺憾ながら、この三句の辞世は、終に真の辞世になってしまった。また好個の記念の絶筆ともなってしまった。私には、それを書き終わった当時の息詰まるような沈黙の方が、一層深く焼きつけられた辞世の印象となった。≫ 
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十三) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十三「明治三十四年(一九〇一)・「野分」など」

(子規・三十五歳。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=34&season=&classification=&kigo=%E9%87%8E%E5%88%86&s=&select=

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ  ID24393 制作年34 季節秋 分類天文 季語野分
野分近ク夕顔ノ實ノ太リ哉    ID24394 制作年34 季節秋 分類天文 季語野分
夕顔ヤ野分恐ルヽ實ノ太リ    ID24395 制作年34 季節秋 分類天文 季語野分

(漱石・三十五歳。)

112 この夕野分に向て分れけり(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿一」)
206 鎌倉堂野分の中に傾けり(同上。「子規へ送りたる句稿四」)
219 四里あまり野分に吹かれ参りたり(同上)
240 荒滝や野分を斫て捲き落す(同上)
257 野分吹く瀑砕け散る脚下より(同上)
258 滝遠近谷も尾上も野分哉(同上。「子規へ送りたる句稿五」)
505 野分して朝鳥早く立ちけらし(同上。「承露盤」より)
954 野分して一人障子を張る男(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿二十」)
1246 砂山に薄許りの野分哉(明治三十年。「七月四日~九月七日まで上京。子規句会」)
1296 野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十六」)
1425 病癒えず蹲る夜の野分かな(明治三十一年。「子規へ送りたる句稿三十一」)
1808 礎に砂吹きあつる野分かな(明治三十四年。「ロンドン在留邦人句会での作」)
1809 角巾を吹き落し行く野分かな(同上)
1899 釣鐘のうなる許りに野分かな(明治三十九年。「東洋城宛書簡」)


(寅彦、二十四歳。高知から夏子をよび本郷西片町に住む。夏子喀血。夏子療養のため帰郷、種崎に住む。長女貞子誕生。肺尖カタルのため一年休学須崎にて療養。)

弦月の下吹き通す野分かな(明治三十一年作)
一夜荒れて晴てしまひし野分哉(同上)
悉く稲倒れ伏す野分哉(同上)
牛小屋の屋根を野分にさらはれつ(明治三十一~二年作)
旅僧の袖もさけよと野分かな(同上)
ばらばらに芭蕉さけたる野分哉(同上)
引越して野分淋しや野分の夜(明治三十二年作)
散々に卒塔婆倒れし野分哉(同上)
本堂の瓦はがれし野分哉(同上)
汽笛高く野分の汽車の通りけり(同上)
野分止んで夕日の富士を望みけり(同上)
雪隠の窓や野分の森を見る(明治三十三年作)
野分やんで波を己に出る浜辺哉(同上)


(東洋城、二十四歳。「東洋城全句集上・中巻」)

一泊の旅の松戸の野分か (明治三十四年作)
この町の尽くる我が家に野分かな(同上)


(参考) 「子規・碧悟桐・虚子」(碧悟桐「子規の回想」)周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202105190000/

虚子と碧悟桐.jpg

http://www.s-kawano.net/s-kawano/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F.pdf

≪ 二高を辞めた碧梧桐と虚子は、子規を頼って上京し、初めは小石川にあった新海非風の家に逗留しています。この頃、日清戦争の取材で、従軍記者として中国に渡った子規は、帰りの船で吐血し、生死の際を彷徨います。碧梧桐と虚子は、子規のいる神戸の病院へ向かい、力の限りの看病をしました。
 このころの二人の生活は、学問を疎にして遊び歩く放蕩の時間を過ごしています。
 子規は、二人を案じました。虚子の『子規居士と余』には「お前一人の時はその程でもないが、秉公(=碧梧桐)と一緒になると忽ち駄目になってしまうように思う。どちらが悪いということもあるまいが、要するに二人一緒になるということがいけないのである」と言われたことを記しています。
 明治28年12月9日、子規は虚子を道灌山へ呼び出し、後継者として身を律し、ふさわしい学問を身につけるように迫ります。しかし、虚子は後継者への道を拒絶します。
 
 子規が早くから俳句の才能を認めていたのは碧梧桐でした。
 明治24年の句会で詠んだ碧梧桐の「面白うきけば蜩夕日かな」に、子規は「諸君取りたまわず。余独りこれを賞す。けだし蕉翁の余韻あればなり」と激賞しています。また、翌年1月21日の碧梧桐宛手の手紙では「我庵はの御句近頃斬新の御手並驚入申候。余は古白の胸中より出しものかと思候もおかし」と書き、6月7日の碧梧桐宛手紙にも「先便の炭売の句蚊柱の句を拝見してその妙なるに驚きしが今度の句はことごとく極上極上、吉のしろ物のみにて貴兄今までの御什中かくの如きのものは一句も見当り不申候。小生一両月前貴兄すでに理想の極点に達し給いし故、日ならずして上達し給わんとは予言せしかともかくまで早からんとは存し不申き」と、碧梧桐の進歩を認めています。
 しかし、碧梧桐は放蕩を好みました。俳句への関心もそれほど深いものではない碧梧桐に対して、子規は幻滅するようになりました。子規は、道灌山での様子を俳友五百木瓢亭に知らせる手紙で「碧梧虚子の中にても碧梧才能ありと覚えしは真のはじめのことにて小生は以前よりすでに碧梧を捨て申し候」と記しています。子規は放埓な生活ぶりのために碧梧桐を後継者として認めることはできなかったのでした。
 
 明治29年12月10日、雑誌「日本人」に連載した時評『文学』で、子規は碧梧桐の変化を記しています。
 
 河東碧梧桐が俳句なるものを認めたるは明治二十三年の頃なるべし。二十四年より作り始めたるにその敏才ははやく奇想を捻出し、句法の奇なるものを作りてもって吾人を驚かしぬ。
……
 二十七年春以後彼は毫も進歩をなさざりき。曩時の麒麟児も一個の豚犬と化し去りぬ。由来彼は秩序的の能力と推理的の常識とを欠く者、少事にありて敏才の人を驚かしたるは彼の不規則なる発達がたまたま文学の方面に向かいしがためなるべし。薄弱なる彼の脳漿は平和なる時沈静しおる時に当りて初めて用をなすべし。一たび外部の刺激に逢えば脳漿忽ちに混乱すべく、混乱して後は殆ど狂の如く愚の如し。彼は修学のため一たび東京に来り。二たび故郷に帰り、三たぴ京都に行き、四たび仙台に遷る。(これ学校制度変更の結果なり)さらでも規則的の修学に適せざる頭脳はこの大混乱に逢うていかでか堪え得ん、この年の暮退学して東京に来れり。明治二十八年は最早学課無く束縛無く詩人として如何様にも発逹すべき機会に遭遇せり。しかれどもその混乱せられたる頭脳は未だ沈静せざるがため彼は平平凡凡なる一年を送りたり。あるいは人をして邪路に陥るにはあらずやと疑はしむるに至りぬ。
……
 明治二十九年とはなりぬ。吾は咋年末昏昏として睡眠に余念なき俳友を起さんとしてしきりに務めたり。しかして第一に起き来りしは碧梧桐なり。最早脳漿沈静したりとおぼし。彼はたしかに一点の霊光を拝したるに相違あらじ。その俳句は一種の趣味を具えてしかも古人の言わざる処をのみ言えり。しかしてその句法一として勁抜ならざるはなし。
……
 これらの句は実に碧梧桐の特色にして去年の碧梧桐は未だこれを知らざりしなり。吾人も始めてこの種の句を見たるなり。俳句自身もまた始めてこの種の句を見たるならん。しかしてこの句を読む者皆その印象の明瞭なるを認むなるべし。印象の明瞭ということは多く余韻ということと相反す。鳴雪の余韻を好むに反して碧梧桐は明瞭なる印象を好む。印象をして明瞭ならしめんとせば空間を狭くせざるべからず。空間狭ければ些事徽物または大事物の断片を容るるに過ぎず。故に碧梧桐の句には小事小物を詠ずる者自ら多し。
……
 碧梧桐既に印象の明瞭なる者を好む、従って客観の事物といえども壮大に過ぎて茫漠たる者を排す。況して主観的の句に至りてはほとんど全くこれを排し去りて毫も取る所なし。これその性質の然らしむるもの。碧梧桐は始終このままにて押し行くべし。故にその作句また主観的なる極めて稀なり。(文学 明治29年12月10日)
 
 11月20日の「「日本人」」『文学』には碧梧桐と虚子を比べ、「詩人の頭脳に両面の活動あり。一面は冷淡に社会を観察し、他の一面は熱情をもってある事物に同感を表す。両面斉しく発達するものもなきにあらねど、多くは両者執れかに僻す。前者に僻するを写実派といい、後者に僻するを理想派という。碧梧桐は冷かなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し。碧梧桐の人間を見るはなお無心の草木を見るがごとく、虚子の草木を見るはなお有情の人間を見るがごとし。随ってその作る所の俳句も一は写実に傾き、一は理想に傾く。一は空間を現し、一は時間を現す」と書いています。
 
 碧梧桐は『子規の回想』で、当時を振り返っていますが、こうした放蕩生活で、明治28年から勤めていた「日本」を辞めなければならなくなります。ただ、こうした放蕩な生活は、次第に影を潜めていきます。碧梧桐は『子規の回想』で、当時を振り返っていますが、こうした放蕩生活で、明治28年から勤めていた「日本」を辞めなければならなくなります。ただ、こうした放蕩な生活は、次第に影を潜めていきます。
 
 子規との道潅山のいきさつなど全然知らなかった私は、虚子に会う毎に別れている不便と寂寞を訴えていたのみならず、子規との喧嘩別れに、少々ヤケも手伝ってか、もう大ぴらに私と同宿する気にもなったのだろう。
 実は初めて白状するが、と言って、須磨保養院以来の話をして、それをお前に打ち明けて言えなかったアシの心の苦痛を察しておくれ、実際お前の顔を見る度にすまんすまんと思っていたのだ、もうアシもな、升さんに捨てられたのだから、今後はお互いに思う存分勝手なことをやろうじゃないか、などとその頃よく行った連雀町の「ぼたん」という安鳥屋で、酔った虚子が管を巻いたものだった。
 この高田屋へは、子規も一、二度来たこともあるが、瓢亭、肋骨など主人夫婦と仲良しになって、オイ阿爺と門口から大きな声で呼びかけたりしていた。ことに牛伴君は八々のいい相手というので、我々のいるいないにに関らず、遊びに来たものだった。
 われわれの中学同窓の青木森々も、二十九年中には同宿の仲間になっていた。三人してかなり放埒な日々をおくったものだ。それに私は何月であったか表面は、従軍していた先輩達が皆帰って来たし、社の人物過剰という意味で、「日本」新聞社をやめさせられた。が、実は無学無能、新聞人にはなれないという折紙をつけられたのだ。ここに再び、前年のように、先輩誰もが匙を投げるような、碧虚二人の荒んだ遊蕩生活が繰返されるいいコンディションを醸成していた。何かしら不平であり、不安であり、身は自由不拘束なんだ。もし軍資金でも十分であったとしたら、それこそ本当に、子規から見放されていたかも知れなかった。
 が、二年前の本郷下宿時代、二高をやめて東上した自分とは、もう環境がすっかり違っていた。俳句の世が、我々内輪のものでなくて、世間に公認された公のものになっていた。我々のようなデカダンなあばずれ書生でもが、いわゆる日本派中堅どころの声誉を嬴得ていた。ポッポツ文学雑誌などの選などを頼まれて、小遣い位出来るようになっていた。(河東碧梧桐 子規の回想 当事の新調)
 
 また、明治30年1月の「ホトトギス」掲載の『明治二十九年の俳諧』でも、碧梧桐の句を「極めて印象の明瞭なる句」とし、虚子と碧梧桐が日本派のエースとして俳壇の前面に強く押し出していきます。
 
 碧梧桐と虚子は、明治29年4月から旧前橋藩士族・大畠豊水経営する神田淡路町の高田屋という下宿屋で、碧梧桐と再び同居を始めました。そこで22歳の虚子は、大畠家の次女いとを見初め、翌年6月に結婚することになります。たまたま、その年の1月に碧梧桐は天然痘に罹り、一か月ほど入院しなくてはならなくなりました。碧梧桐の方がいとと親しかったのですが、空白の時間のために虚子といとの親密度が増した結果でした。
 5月になると傷心の碧梧桐は、北陸の旅を思いつきます。まず京都へ行き、三高で学んでいた寒川鼠骨や新聞記者の中川四明に会い、米原から敦賀に出て金沢に着きました。金沢では同郷の竹村秋竹の家に身を寄せました。虚子の結婚式のある6月には能登へ向かっていると子規の容態が重くなったという知らせが届きます。しかし、虚子から焼香を得たとの連絡があり、碧梧桐は旅を続けました。この紀行は「日本」に連載され、碧梧桐が東京に戻ったのは7月でした。
 
 子規は、帰ってきた碧梧桐に句を贈っています。
   団扇出して先づ問ふ加賀は能登は如何      ≫
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十二) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十二「明治三十三年(一九〇〇)・「五月雨」など」

(子規・三十四歳。八月、喀血。同、二十六日渡欧前の離別に漱石が訪問。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=34&season=&classification=&kigo=%E4%BA%94%E6%9C%88%E9%9B%A8&s=&select=

五月雨や上野の山も見あきたり  ID24271 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
五月雨や背戸に落ちあふ傘と傘  ID24272 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
五月雨や畳に上る青蛙      ID24273 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
五月雨や棚へとりつくものゝ蔓  ID24274 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
根だ搖く川辺の宿や五月雨    ID24275 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
病人に鯛の見舞や五月雨     ID24276 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
病人の枕ならべて五月雨     ID24277 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨

(漱石・三十四歳。英国留学。)

11  さみだれに持ちあつかふや蛇目傘(明治二十四年)
185  五月雨ぞ何処まで行ても時鳥(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿三」)
499  馬子歌や小夜の中山さみだるゝ(同上。「子規へ送りたる句稿九」)
798  海嘯去つて後すさまじや五月雨(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十五」)
935  橋落ちて恋中絶えぬ五月雨(同上。「子規へ送りたる句稿十九」)
938 五月雨や鏡曇りて恨めしき(同上)
1196 五月雨や小袖をほどく酒のしみ(同上。「子規へ送りたる句稿(二十五))
1197 五月雨の壁落しけり枕元(同上)
1198 五月雨や四つ手繕ふ旧士族(同上)
1199 目を病んで灯ともさぬ夜や五月雨(同上)
1213 五月雨の弓張らんとすればくるひたる(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十五」)
1215 水攻の城落ちんとす五月雨(同上)
2082 五月雨や主と云はれし御月並(明治四十一年)
2091 一つ家を中に夜すがら五月雨るゝ(同上)
2098 五月雨やももだち高く来る人(明治四十二年)

(寅彦、二十三歳。「夏子(初妻))を高知から呼び寄せ、本郷区西片町(現、文京区に住む。田丸卓郎が東京帝国大学助教授となり、再び教えを受けるようになる。九月、イギリスに留学する漱石を横浜埠頭(ふとう)を見送る。十二月、夏子が喀血する。)

五月雨や窓を背にして物思ふ(明治三十一年作)
五月雨や堂朽ち盡し屋根の草(明治三十四年作)
五月雨の町掘りかへす工事かな(同上)
五月雨や土佐は石原小石原(同上)
五月雨や根を洗はるゝ屋根の草(同上)

(東洋城、二十三歳。「東洋城全句集上・中巻」)
「七月第一高等学校卒業。東京帝国大学へ入学す。東洋城と号す。その後、緑山、松琴書屋主人、秋谷立石山人の別号をもった。九月、漱石がイギリスへ留学の途に上った。」

五月雨(さみだれ)や茶を挽くにねむうなり(明治三十三年作。二十三歳。) 
五月雨(さつきあめ)試験の心くだちけり(同上)


(参考) 「子規・碧悟桐・虚子」(碧悟桐「子規を語る」)周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202105170000/

正岡子規(自画像).jpg

正岡子規(自画像)
https://www.mcvb.jp/photo/detail.php?i=203

≪ 碧梧桐は、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけとして、同級生の高浜虚子を誘って子規より俳句を学びます。
 明治26(1893)年には、第三高等学校(現京都大学)入学しますが、第三高等学校解散のあおりを受けて、第二高等学校(現東北大学)に編入します。ただ、碧梧桐は勉強に興味がなくなり、中退しようと認め、子規に注意を受けています。一方、虚子も碧梧桐とともに中退していたのですが、子規にそのことを隠しており、虚子の人生にかいま見える狡さがこのころからも現れています。
『子規を語る』の「二高退学」をご覧ください。
 
 明治二十七年は私一個人にとって、いろんな事件の起伏した、落着かない騒がしい年だった。二月には子規からほとんど突然に「小日本」の見本を数百部も郵送されて、それをどう処分しようかに戸惑いしたりした。やむなく学校の生徒控席の掲示版に貼り出して、誰でも取るに任せたりした。子規が「小日本」を創刊するについて、どれほど日夜気苦労していたか、それをさえ想見する予備知識を私は持たなかった。ただ多年の宿題になっていた「月の都」がその第一号から発表されたことが、私の胸を躍らせた位だった。「小日本」は気の利いた、挿画の多い、調子の高い賑やかな新聞だった、と古い記憶を持っている人は、今でも口をそろえてそういう。アアいう調子の新聞がこの頃創刊されたのであったら、必ず成功したであろうともいう。私はそういう批判を明らかに下すほど、新聞に対する感興も持っていなかった。私は新聞「日本」を購読しながら政治論などには一度も目を通さなかった。予規の随筆と俳句欄を見るのみで満足していたのだ。
 四月の末には急病で父を失なった。そのため帰郷して、やっと学期試験に入洛した。学期試験中の試験勉強に草臥れて、ぐっすり寝込んでいた蚊帳の中に、意外にもこの一月から上京中であった虚子を迎える唐突な出来事があった。
「お前、どうしたんぞな」
「もうやめて来たのよ」
「やめて?」
「思うような学問するところは東京にもないな」
「ヘエー」
 私は彼の突然な転身を、ただ驚きの眼で迎えたきりだった。虚子は上京中殆んど何もしなかった。少々遊蕩気分を味った位だった。それで復校して、また窮窟な重詰学課をやると言った。
 学期試験が終るのと同時に、第三高等中学は解散されて、生徒は各地に四散せねばならぬ運命になった。復校を許された虚子は、私と同期生で、文科の本科一年生になったのであるが、私達は仙台の二高移転を志願して許可された。熊本に行くか、金沢に行くか、もしくは鹿児島に行くかが順当なのであったが、私達はただ東京を通過するという点だけで仙台を志願したのだった。
 仙台の二高は、選りに選って私達の意思に反する校風のギゴチなさで一杯だった。三高時代の生徒の自由が極度に束縛されていた。
 文科の本科生も、小学校生徒同様に取扱われていた。裏切られた私達は、毎日気まずい、重苦しい日を送った。毎晩蒸栗を買って来ては、それを二人で剥ぎながら、文学論、人間論、小説家論、現代の小説家評論などで僅かに鬱を散じていた。広瀬川を下に臨む公園を夜半に散歩しては、虚子の燈火観などをしみじみ聞き味うのだった。かくて二年もこの校風に縛られねばならない月日を無限に永いもののように思いなして、今度は私の方が退校論を高調した。復校して問もない虚子は、理性では幾分鈍っていたが、感情ではすっかり私に共鳴した。それで二高在学僅かに二ヶ月で、断然学校と縁を絶った。
 十一月末日のうら寒い日に、私は一人で松島見物などをして上京した。
 それまで子規は新聞事業で多忙であったし、私はいろんな身辺の事実に追われて、手紙の往復もほとんど絶えていた。ただ二高入学当時、東京で親しく子規の謦咳に接したのみだったが、この退学事件については子規も黙止し難かったと見え、左の一書を久しぶりにくれた。子規が仙台の下宿ーー大町通五丁目新町七、鈴木芳吉方ーー宛によこした手紙で、遺っている唯一のものである。
 碧梧桐詞兄 几下        子規拝
 御手紙拝見仕候、益々御清勝奉賀候、御申越之趣にていよいよ学校御退学と御決定被成候由誠にめでたく存候、それ位之御決心なくては小説家にはとてもなれ申まじく天ッ張れ見上げたる御事かなと祝い申候、虚子君の復校せられてよりまだ半年も立たぬ内に、またまた貴兄の退校とはよくよく入組んだ仕掛にて天公の戯謔もまたおもしろく候(以上世界観)
 然れども小生一個より見ればやはり退校之事は御とめ申候、殷鑑遠からず虚子兄にありと存候、学校をやめることがなぜ小説家になれるか一向分らぬ様に思われ候、学校をやめて何となさる御積りか定めて独学とか何とかいわるるならん、なれども独学の難きは虚子兄之熟知せらるる所に候えば同兄より御聞取り成さるべく候、況んや家郷と縁を断ちても遣りとげんとの御決定の由、万一貴兄独立して渡世せねばならぬようになりし暁には何となされ候ぞ「ただ一人の糊口なればそれにてよろしき事と思い居候」との御詞は已に世の中を御存知なき証拠なり、ただ一人の糊口を何とし遂げ給うぞ、よし糊口の道あるにせよそれは非常の困難と労力とを要する仕事にて、つまり小説書くひまなんどは無く、矢ッ張り中学にぶらぶらしておって、相間相間にむだ書していた方が余程ましだったというようなことにはならぬかと存候、つまり貴兄の退校は先日の虚子兄と同じく学校がいやという一点より湧き出した考にて、学校を出て後始めて学校の極楽場たるを知るの愚を学び給わぬかと推察致候。
 それよりもここにもっともおかしきは御書中「これ実に小子の身において最大激変なり」などと書き立て給いしことなり、貴兄自身において最大激変と思い給う程ならば、先ず学校はやめぬ方がよきかと存候、人間世界で最大激変ということは総て善からぬことに候、自分之事いうでなけれど小生の退学せし時などは、小生自身に取りては毫も変動なかりしことにて、一週間に一度くらい登校せしものがその義務を免れし位之者にて候いき、鷺は立てども後を濁さずとか、退学するにしても先ずこの学期だけは試験をすまし、冬期休業には一旦御上京なさるべく御面会致候上縷々可申上候(以上個人観)
 十月二十九日夜獺祭書屋燈下に認む
 
 この手紙では退学を相談してやった返事のようであるが、この時は既に万事を決行していた後だった。虚子も同時に退学したのだったが、子規の手前を気がねして、ただ私一人の問題のように繕っていたのだった。
 虚子は退学攻撃の鉾先きを避けるためであったであろう、なおしばらく仙台に留まっていた。「のぽさん、おこっといでるな」と二人で話し合った心の中は息のつまるような暗さだった。
「よく退学おしたな」と誉められようとも予期してはいなかったのであるが、こう冷静に真向うからドヤしつけられようとも考えていなかったのだった。
 それでも同じクラスの人達が二人の送別会を開いてくれた時には、今日から社会の自由大学で奮闘して、必ず素志を達して見せる、と言ったような気烙を吐いて、私は何か留別の句を席上で読み上げたりした。 ≫
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十一) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十一「明治三十二年(一八九九)・「萩」など」

(子規・三十三歳。『俳諧諧大要』)『俳人蕪村』刊。中村不折の指導を受けて水彩画を試みる。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=32&season=&classification=&kigo=%E8%90%A9&s=&select=

草庵に千句の會や萩の花    ID22929 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
妻を呼ぶ籠の鶉や庭の萩    ID22930 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
杖によりて立ち上りけり萩の花 ID22931 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
庭荒れて萩の亂れをつくろはず ID22932 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
萩咲いて俗に墮つ松の小庭哉  ID22933 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
萩咲て抱一の画を掛にけり   ID22934 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
萩を題に歌つくらしむ萩の宿  ID22935 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
箔燒けて萩の模樣や古色紙   ID22936 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩
彫物の鹿を置きけり萩の庭   ID22937 制作年32 季節秋 分類植物 季語萩


(漱石・三十三歳。五月、長女(筆子)誕生。子規宛句稿(三十二~三十五)。)

161  はらはらとせう事なしに萩の露(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿一」)
896  垂れかゝる萩静かなり背戸の川(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十七」)
897  落ち延びて只一騎なり萩の原(同上)
1264  萩に伏し薄にみだれ故里は(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十六」)
1395  早稲晩稲花なら見せう萩紫苑(明治三十一年。「子規へ送りたる句稿三十」)
1678  白萩の露をこぼすや温泉の流(明治三十二年。「子規へ送りたる句稿三十四」)
1688  灰に濡れて立つや薄と萩の中(同上)
1689  行けど萩行けど薄の原広し(同上)
1860  伏す萩の風情にそれと覚りてよ(明治三十七年) 


(寅彦・二十二歳。東京帝国大学物理学科入学。正岡子規と初対面。)

漁歌止んで只汐風の萩を吹く(明治三十一~二年作)


(東洋城・二十二歳。)

枯萩や汀の屑の鶴一羽(明治四十年作)
萩枯るゝ小御門とそれも連句かな(同上)


(参考)「 正岡子規の俳句革新(三)」

https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/b335fca44e92fab339326c17a14a1b79

第一回蕪村忌.jpg

http://www.s-kawano.net/s-kawano/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F.pdf

 明治三十年一月、子規は、編集発行人を柳原極堂(やなぎはらきょくどう)をして、伊予松山で、俳誌「ホトトギス」を発刊させる。そして、これは、二十号まで続くが、その後、東京の高浜虚子が引き継ぎ、昭和三十五年の子規没後、この虚子が子規の継承者となる。その後、文芸雑誌の時代を経て、大正元年から「花鳥諷詠」という俳句理念の下に、客観写生俳句を提唱・推進し、所謂、「ホトトギス」王国を築き上げる。        
 この「ホトトギス」の雑詠欄から、渡辺水巴(わたなべすいは)・村上鬼城(むらかみきじょう)・原石鼎(はらせきてい)・飯田蛇忽(いいだだこつ)らの俊秀が巣立っていた。さらに、その大正時代に入ると、所謂、四Sといわれる、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)・山口誓子(やまぐちせいし)・阿波野青畝(あわのせいほ)・高野素十(たかのすじゅう)を始め、富安風生(とみやすふうせい)・山口青邨(やまぐちせいそん)という一大「ホトトギス」山脈が築かれていったのである。
 昭和三十四年虚子没後は、長男の高浜年尾(たかはまとしお)が引き継ぎ、その後、年尾の次女の稲畑汀子(いなはたていこ)が継承し、平成六年四月で一一六八号に至っている。                   
 もう一つ、子規の活動の拠点は、「日本」新聞であったが、この新聞紙上により、子規は数々の「俳句革新」運動に係わる俳論を発表すると共に。明治二十六に、「子規選句欄」を設け、子規の新派の俳句の興隆に繋げるのであるが、子規の没後は、これを、河東碧梧桐に引き継がれた。
 碧梧桐は、当初、虚子と歩を同じくしていたが、後に、進歩的、写実的色彩を強め、虚子と袂を断つこととなる。
 この碧梧桐門にも、大須賀乙字(おおすがおつじ)・荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)・小沢碧童(おざわへきどう)・中塚一碧楼(なかつかいっぺきろう)などの新進気鋭の俳人を輩出し、これまた、碧門隆盛の一時代を築いた。 
 これらの碧門俳句は、「新傾向に非ずんば俳句に非ず」と称され、この「新傾向俳句」は一世を風靡するが、後に、この「新傾向俳句」は内部分裂を始め、乙字は伝統尊重と古典復帰を目指し「石楠(しやくなげ)」に拠り、井泉水は無季の自由律俳句の「層雲(そううん)」に走り、四分五裂の状態となり、ここに碧門俳句は、虚子の「ホトトギス」の隆盛に比して衰退転落の運命に堕するのである。
 とまれ、子規の「俳句革新」運動は、子規の没後、その二大俊秀の、虚子の俳誌「ホトトギス」と碧梧桐の新聞「日本」の影響下で、強力に推進され、子規の時代の「新派と旧派」との闘いは、圧倒的な差で子規らの新派の新俳句が、旧派の宗匠俳句を駆逐していくのである。
 しかし、子規の「俳句革新」運動が、さほどまでに成果を上げ得たのは、子規と子規門の力だけによるのであろうか。これは、決してそうではないのである。
 ここで、芭蕉没後(一六九四)三百年にも当たる平成四年(一九九三)に没した、芭蕉俳諧の正統な継承を目指した、加藤楸邨(かとうしゅうそん)の「明治俳句史(上)」(『俳句講座』・明治書院)から、興味ある指摘の要約を見ることにいたしたい。 

○江戸は西方の力に圧せられて敗北した舞台である。新しい政治・社会の勢力は西方から来た人々によって形成さられ、江戸の人は社会の中枢にあって勢いを占めることが不可能な状態に置かれた。           

○従って、文化の中心であった江戸の旧俳人(注・旧派)たちが、おのずと逸楽遊閑の方向に追いこまれたるのは、避けがたい傾向だったわけである。

○この結果、俳人の生活はおのずと遊閑的・寄生的となって、時代の生動する力からは全く遊離せざるを得なかった。従って、そこに辛うじて認められるのは、過ぎ去った過去の郷愁をよりどころとする江戸趣味の世界であった。生きて動きゆく新しい社会の流れに目を閉じて、すでに昨日のものとなった花の残香をなつかしむに過ぎない無気力が氾濫したのであった。

○また、芭蕉の没後は、その門下たちも点印(注・選句料の点料)を用いるようになり、時代が下るにつれて点も甘くなって、大衆に媚びる輩も増加して、(注・そのような状況が)幕末から明治に至ったのである。   

○月並というのは月次とも書いて、毎月いとなむ例会という意味である。(注・この例会での寄せ句を集めたものが、月並集で)、その月並集は遠隔の人の寄せ句まで集めて出されるようになる。それらの句はいずれも入花料が必要とされ、入花料というのは出句の料金で、これが点者の点料や月並集の開板費用に当てられたわけである。こうなると、出句者の側からいえば、芸の問題が中心になるのではなく、次第に高点を競う勢いが馴致され、その結果、高点を取る手引の参考書まで出るようになった。点者がそういう大衆の嗜好を察知して堕落することも、逆に、出句者が点者の好みに迎合してねらいをつけることも、自然の勢いであった。

○子規は当然動かねばならなかった時代の機運に、最もふさわしい人間の在り方で際会したとみるべきで、その革新運動は、子規の功績に帰すべきところ極めて多大であるが、根本的には、時代の要求が子規を促したということも、見のがしてはならぬところである。

○子規のそれ(注・「俳句革新」)は、封建的な時代の庶民の文学から、近代資本主義時代の新しい市民の声の解放という、歴史的役割を負うものと考えられてよいと思うのだが、その第二の波頭(注・「俳句革新」)は、複雑な時代の後進性を負わされていたために、子規において完全な成立を見ることができなかったのである。

○加えるに、子規の在り方と後年の病臥生活という特殊な事情の下に、解放された個は、広い社会とかかわる社会的人間として個となる代りに、狭い「病牀六尺」の中に心境的な定着を示して、多くの課題は子規以後に遺されてきているということができる

○(注・最後に)正岡子規の「日本派」の新しい俳句の運動が進められていた頃、一方では、尾崎紅葉・大野酒竹・角田竹冷らの各々の一団(注・「秋声会」・「筑波会」など)が、旧派とは一線を画して「日本派」と近い動きを示していたことは忘れてはならない。

 これらの楸邨の、子規の「俳句革新」運動に関連した背景の分析や周辺の動向の分析は、極めて適切なものがあるが、さらに、これらに、付け加える事項としては、次のようなことが上げられるかと思う。それらは、今までに、色々の角度から側面的に触れられてきたところではあるが、ここで一括まとめをしておきたいと思う。            

○即ち、子規らの「俳句革新」運動というのは、西洋的な文学思想を持った学生上がりの、まだ、若干二十五歳という少壮ジヤーナリストともいうべき、職業俳人ではない(アマ)子規をリーダとする、いわば、素人(アマ)集団によって成し遂げられたということである。

○また、当時の旧派の俳句は、江戸末期の俗調の延長線上にあり、それは、まさしく、子規が指摘するように、「俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり」との、崩壊寸前にあり、その崩壊は修復する程度では持ち堪えることができず、それは、新しい近代の西洋的な文学思想をもっての全面改築をする必要があったということである。

○更には、これらの「俳句革新」運動は、主として、子規をリーダとする、伊予松山出身の地方の面々から成る「日本派」が活躍するのであるが、その他にも、「秋声会」や「筑波会」という、これまた、職業俳人ではなく、趣味で俳句をしている余技的俳句人(アマ)の活躍も大きな役割を果たした。

○因みに、「秋声会」の、角田竹冷は東京株式取引所理事長などの要職を歴任し、伊藤松宇は王子製紙の幹部職員、巌谷小波は児童文学では多大の貢献をした作家でもあり学者でもある。尾崎紅葉は『金色夜叉』などの大作をものにしている明治文壇の大立者である。

○一方、「筑波会」の面々は、これは、主として東大関係者の会であり、大野酒竹は東大の皮膚科の教授、佐々醒星は国文学の権威の文学博士、笹川臨風は美術評論家としても一流のこれまた文学博士、沼波瓊音は東大の俳諧史の教授と、いずれも、日本の近代化を背負っていた超一流人である。

○こういう当時の、最高級の教育を受け、その西洋の思想をもろに受け止め、そして、明治維新以降の日本の近代化に、それぞれが、それぞれに貢献し、それを推進している超知識人達が、こぞって、新派の近代俳句の「俳句革新」運動に、直接と間接とを問わず、携わったのであるから、これは、其角堂とか雪中庵とかの嗣号の下の家元制度のような旧派の宗匠俳句が駆逐せられていったのは、けだし、止むを得なかったということなのであろう。

 以上が、楸邨の、子規の「俳句革新」運動に関連した背景の分析や周辺の動向の分析に追加して付記しておきたい事項なのであるが、更に、今となっては、子規の「俳句革新」運動の影に隠れて余り指摘することも少ない幾つかの重要な事項について付記しておくこととする。

 その一は、子規が、明治二十八年に「発句(注・俳句)は文学なり、連俳(連句)は文学に非ず」と抹殺したところ連俳(連句)について、子規自身、その四年後の、明治三十八年に、その『俳諧三佳書序』で、「連句に興味を持っている」旨の、それまでの「連俳(連句)非文学論」を撤回するような記載を残しているのである。

○自分は連句という者余り好まねば古俳書を見て連句を読みし事無く又自ら作りし例も甚だ稀である。然るに此等の集(注・『猿蓑』・『続明烏』・『五車反古』)にある連句を読めばいたく興に入り感に堪ふるので、終には、これ程面白い者ならば自分も連 句をやつて見たいという念が起つてくる。    
 そして、それだけではなく、子規と虚子との両吟すら「ホトトギス」誌上(第二巻第二号)に登場しているのである。その表の六句を掲げておくこととする。

 ○発句 萩咲くや崩れ初めたる雲の峰 (子規)
   脇  かげたる月の出づる川上  (月が引き上げられている 虚子)
  第三 うそ寒み里は鎖さぬ家もなし (子規)
  四句目 駕籠二人銭かりに来る   (虚子) 
  五句目 洗石の場を流したる夜の雪 (子規) 
  折端   残りすくなに風呂吹の味噌(虚子) 

 その二は、子規、虚子とも連なり、夏目漱石門の松根東洋城(まつねとうようじょう)とその俳誌「渋柿」が、芭蕉以来の伝統ある連句の世界を、今に伝えているということである。                             

○渋柿はその芭蕉に於てなされし如く「連句」を大切にす。之に依り多く俳諧を闡明(注・びんめい)し拡充し高揚す 

 これは、大正四年に、東洋城がその俳誌「渋柿」を創刊した時の、その目指すべきもの一つとして東洋城が掲げたものである。 
 そして、東洋城は、その生涯において、歌仙(三十六句形式の連句)百六巻の他、数々の連句作品を残しているとか。 
 また、東洋城門には、寺田寅日子(寅彦)・野村喜舟(のむらきしゅう)・阿片瓢郎(あがたひょうろう)などがおり、現在に、その連句の伝統を守っている。
次に、東洋城と寅日子との両吟の、その表の六句を掲げておくこととする。                         

○発句 水団扇鵜飼の絵なる篝かな   (東洋城)
  脇  旅の話の更けて涼しき    (寅日子) 
 第三 縁柱すがるところに瘤ありて  (東洋城)
 四句目  半分とけしあと解けぬ謎  (寅日子) 
 五句目 吸物をあとから出した月の宴 ( 月の定座 東洋城) 
 折端  庭のすゝきに風渡る頃    (寅日子)

 その三は、子規の「俳句革新」運動というのは、虚子と碧梧桐という二人の傑出した弟子により受け継がれ、そして、虚子によって、その近代俳句(新派の俳句)が確立するのであった。そして、碧梧桐の「新傾向俳句」によって、極端なまでに、無季自由律の分野など、現代俳句に見られる多種多様な分野のリーデイングケースのような役割を演じるのであった。 
 そして、この俳句の前衛的な碧梧桐はともかくとして、新しい伝統俳句を樹立した虚子は、既に、子規の生存中の頃から、「連句の趣味」(「ホトトギス」・明治三二・五)なる一文を発表し、子規の「連俳(注・連句)非文学論」とは一味違った見解を発表しているのである。
 また、虚子は、昭和十三年四月に、その後継者の年尾に「誹諧」という雑誌を刊行させ、この「誹諧」には、「俳句・俳文・俳論・連句・俳諧詩」まで多彩な内容となっているとのことである。
 ここにいう「俳諧詩」とは、それは、自由詩なのであるが、俳人も、俳句だけではなくもっと自由に創作を試みるべきとする虚子の心情を物語るものであろう。 

 ○ 俳諧詩  麦踏(虚子作)                                      
 夕ぐれの   畑中に    麦踏んで  ゐる女
 もうすぐに 足もとも   わからなく なるだろう  
夕靄が    だんだんと  濃くなりて やはらかく
 おしつゝみ かいいだく                

その四は、子規の「日本派」(伊予派)と同じく、新派の俳句として「秋声会」・「筑波会」なども、旧派の俳句を一掃するために一つの役割を演じるのであるが、これらの「秋声会」・「筑波会」などの面々においては、子規の「連俳(注・連句)非文学論」にかかわらず、「連句」の復興に力を尽くした人が少なくない。              
その筆頭は、「秋声会」の大物、伊藤松宇である。松宇は、明治四十四年六月に俳誌「にひはり」を創刊主宰して、俳諧の史的研究・連句の再認識に尽力する。松宇は実作者というよりは、俳諧の研究・考証・連句の鼓吹などに大きく寄与した。
次に、松宇と根津芦丈(ねずろじょう)との両吟の、その表の六句を掲げておくこととする。この芦丈は、連句完成数三千巻ともいわれ、その芦丈門に、清水瓢左(しみずひょうざ)・野村牛耳(のむらぎゅうじ)・東明雅(ひがしあきまさ)などの多くの連句人が輩出している。

○発句 夜半の冬狸が付けし継句かな    (松宇) 
 脇  衾すっぽり冠る凩         (芦丈) 
 第三 振って見る徳利の酒を命じて    (松宇)
 四句目  素彫りの像に会心の笑み    (芦丈)
 五句目 啄木鳥の月になるまで啄くらむ (月の定座 松宇) 
 折端  連れし小者の水落し去る     (芦丈)   

 その五は、子規の「日本派」(伊予派)そして、「秋声会」・「筑波会」などの新派の俳句が、芭蕉以来延々と続いていた旧派の宗匠俳諧(連句・俳句)を簡単に駆逐し、その生命を完全に絶ったかというと、それは、そうではなく、今になお、その伝統は受け継がれているものを目にすることができるのである。
 しかし、それは、子規そして虚子につながる近代俳句が巨大化し、その巨大化に比して矮小化されるという運命にはあった。
 いや、言葉を変えれば、子規そして虚子につながる近代俳句の巨大化は、新しい主宰者という一種の権威ある者を誕生させ、かっての宗匠に代わるべき地位を得させたのである。とすれば、「其角堂」とか「雪中庵」とかの嗣号のもとに、かっての宗匠を中心とした伝統俳句が、かっての栄光を取り戻すことは、もはやあり得ないと思われる。

 しかし、こと連句に限っていえば、実は、その近代俳句が避けて通った分野であり、これは、間違いなく、その近代俳句の成果を摂取しながら、再び、脚光を浴びることは、現代の連句界の動向を見て、そう間違っている結論にはならないと予測されるのである。  
 かかる連句の再興に鑑み、実は、かって、宗匠と呼ばれた方々は、名うての連句人であり、それらに連なる伝統俳諧(連句・発句)に携わっている方々との発掘と、その連携ということは、今後の連句に携わっていく者の課題ともいえるであろう。
 かっての、宗匠と呼ばれた、著名な嗣号などを持つ俳諧師の連句を、前句と付句の二句仕立てで、その幾つかを次に掲げることとする。

○発句  水海に昼の月ありほとゝぎす    (嗣号「花の本」・聴秋)
  脇   子供も載せて早苗つむ舟     (湖月)
 ○ナウ五 囀にましらぬ鳩の巣について   (素朗) 
 挙句   とけて残らぬ頃の雪垣      (東都三大家・橘田春湖)
 ○ウ折立 網とりの寒の兎をかきいだき   (東都三大家・ 関為山) 
   二  ぬからす酒の用意してある    (壺公)
 ○ウ十一 幾万の心をそゝる花日和     (嗣号「其角堂」・機一) 
  折端  素足のなじむ若草の上      (一滴)
 ○ウ 五 凩のたゆたふ隙を鐘の声     (予雲)  
  六  船を世帯に夫婦わりなき      (東都三大家・鳥越等栽) 

 さて、この「俳句革新」の原点ということに思いをいたす時、やはり、子規の最晩年の『病牀六尺』の冒頭の書き出しを想起せざるを得ないのである。

○病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。                       

 正岡子規、その三十五年の生涯は、まさに、それは「病牀六尺」の世界であったろう。そして、その「病牀六尺」は、当時の誰よりも広大無限の世界だったのである。
 当時の誰が、子規に匹敵するだけの広大無限の世界を熟知したであろうか。つくづく、人間というのは、自分がその生を保っている、その所を、その世界を、何も目に焼き付けることもなく、何の感慨もなく、ただ、他人ごとのように眺めて、それで、その一生を終わってしまうことであろうか。
 子規は、「病牀六尺」の世界にあって、その目に入る一木一草を、そして、生きとして生けるものを、凝縮して、凝縮して、その全ての在りようを克明に自分の「頭・心・五感」の焼き付けていったのである。      
 まさしく、神というのは、人間に等しく、その恩寵というものを分け与えるものなのだろう。普通人が、八十年、そして、その生涯で見聞きする全てのことを、子規は、その三十五年の生涯で、その「病牀六尺」の世界で全てを見通したのである。    
 こと、「俳句革新」ということに限っていえば、伊予松山出身の、一書生の子規が、その「病牀六尺」の世界で出会った、非常に限られた書生仲間と、その「病牀六尺」の世界で切磋琢磨し、その切磋琢磨の成果をもって、日本全土に「正岡子規の近代俳句」を押し進め、その「正岡子規の近代俳句」で一時代の全てを覆うてしまったのである。
 まさに、それは革命であった。それは、まさしく、江戸から東京への変化と機を一にするものであった。時は、子規を必要とし、しかも、時は、「病牀六尺」の世界での、子規を必要としたのである。その針のような小ささで、そのダイヤモンドのような固さで、そのレザーのような鋭さで、当時の江戸俳諧(古典俳句・旧派)を東京俳句(近代俳句・新派)に変却せしめたのである。
 かって、子規は、明治二十九年に、「俳人ヲ戒メルノ書」を、同郷の伊予の、一舟という俳人に書きおくっている。その冒頭の書き出しは次のとおりである。

○俳句ハ人ニ向ツテ威張ルガタメニ作ルモノニ非ズ       

 これこそ、子規の「俳句革新」の、その原点に位置するものではなかろうか。即ち、「俳句革新」の、その視点は、この「俳句ハ人ニ向ツテ威張ルガタメニ作ルモノニ非ズ」の、このアマチュアリズムこそ、その視点であったのではなかろうか。
 そして、子規の、そのアマチュアリズムの視点には、当時の、旧態然とした職業俳人(プロ)は鼻もちならぬものに映じたのであろう。そして、その職業俳人(プロ)の手から、芭蕉以来の燦然と輝く本当の俳句(連句・発句)を取り戻し、そして、それを、純粋に俳句を愛好する、いわば、純粋俳人(アマ)の手に委ねようとしたのであろう。
 その「俳人ヲ戒メルノ書」は、次の子規の句で結んでいる。                      

○ 柿くふて文学論を草しけり

 その江戸俳諧(古典俳句・旧派)を東京俳句(近代俳句・新派)に変却せしめた原点とは何か。それは、それこそが、職業俳人(俳諧師・プロ)に対する素人俳人(俳句人・アマ)の挑戦以外の何ものでもない。     
 即ち、子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であったのである。 
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十「明治三十一年(一八九八)・「凩・木枯し」など」

(子規・三十二歳。二月、「歌よみに与ふる書」により「短歌革新運動」始まる。十月、東京で「ホトトギス」発刊(松山の極堂から東京の虚子へと継受される)。)

※凩や芭蕉の緑吹き盡す   ID22019 ※制作年31 季節冬 分類天文 季語凩
凩や松葉吹き散る能舞臺  ID22020 制作年31 季節冬 分類天文 季語凩
※から尻に凩あるゝ廣野哉  ID15129※ 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
から尻に凩つよき廣野哉  ID15130 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩に尖らぬ頭ぞなかりける ID15131 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩に向ふて登る峠かな   ID15132 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩の馬吹き飛ばす廣野哉  ID15133 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩の外は落葉の月夜哉   ID15134 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や犬吠え立つる外が濱  ID15135 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や海へ吹かるゝ人の聲  ID15136 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩やがうがうとして瀧落つる ID15137 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
木枯やかちりついたる馬の鞍 ID15138 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や鐘引きすてし道の端  ID15139 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や君がまぼろし吹きちらす ID15140 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や雲吹き落す海のはて  ID15141 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や鹿の餌賣れぬ豆腐殼  ID15142 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や十年賣れぬ古佛    ID15143 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や月の光りを吹き散らす ID15144 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や胴の破れし太鼓橋   ID15145 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や鼠の腐る狐罠     ID15146 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や髯いかめしき騎馬の人 ID15147 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩や船沈みたるあたりより ID15148 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩やものもうつらぬ窓の月 ID15149 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩やよろよろ薄よろよろと ID15150 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
凩を空へ吹かせて谷の家  ID15151 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
ひうひうと凩鳴るや庵の空 ID15152 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩
古御所や凩更けて笑ひ聲  ID15153 制作年28 季節冬 分類天文 季語凩


(漱石・三十二歳。寅彦に「俳句とはレトリックを煎じ詰めたものだ」を教授する。東洋城、子規庵の句会に出席。「子規宛句稿(二十八~三十一)。)

106 驀地に凩ふくや鳰の湖 (明治二十八年。「子規へ送りたる句稿一」)
114 凩に裸で御はす仁王哉 (同上。「子規へ送りたる句稿二」)
127 凩に鯨潮吹く平戸かな (同上)
133 凩や弦のきれたる弓のそり(同上)
259 凩や滝に当つて引き返す(同上。「子規へ送りたる句稿五」)
304 木枯の今や吹くとも散る葉なし(同上。「子規へ送りたる句稿六」)
309 凩の上に物なき月夜哉(同上)
311 凩や真赤になつて仁王尊(同上)
474 凩に牛怒りたる縄手哉(同上。「子規へ送りたる句稿九」)
479 凩や冠者の墓撲つ落松葉(同上)
533 凩に早鐘つくや増上寺 (明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十」)
969 凩や海に夕日を吹き落す(同上。子規へ送りたる句稿二十一」)
980 凩の松はねぢれつ岡の上(同上)
982 策つて凩の中に馬のり入るゝ(同上)
1308 凩や鐘をつくなら踏む張つて(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十七」)
1341 凩の沖へとあるゝ筑紫潟(明治三十一年)


(寅彦・二十一歳。田丸卓郎のすすめで物理学専攻と決意。漱石を中心に俳句結社。)

木枯や故郷の火事を見る夜かな(明治三十一年作)
凩や枯葉するすると馳り出す(同上)
凩や怪しき雲のたゝずまひ(同上)
凩の雨戸をたゝくや夜もすがら(同上)
凩や鉋屑舞ふ普請小屋(同上)
凩の煙突に鳴る夜半哉(同上)
凩や枯葉の走る塔の屋根(同上)
凩や練兵場の砂けむり(同上)
凩の裏の山から鳴て来る(同上)
明け方や凩とぎれとぎれ吹く(同上)
凩の庭の折戸をあほる音(明治三十一~二年作)
木枯の上野の山を鳴て来る(明治三十二年作)


(東洋城・二十一歳。)

木枯に此枝が飛ぶかと思ひけり(明治三十八年作)
木枯や兼平塚を吹き余し(同上。前書「粟津ケ原」)
木枯や二つ越え来し又峠(明治三十九年作)


(参考) 「正岡子規の俳句革新(二)」周辺

https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/ffca6e092d833589740f5b1e0a2bb393

旅装での子規二.jpg

「旅装での子規(二)」(明治二十六年「はてしらずの記(東北旅行)」の頃?)
https://plaza.rakuten.co.jp/orimasa2001/diary/200808060003/

 誠に、子規は「俳句は已に盡きたり」というのである。また、「よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり」と断言するのである。
 正に、子規の「俳句革新」の第一声は、この「俳句滅亡論」という、その実感からスタートをきるのである。           
 そして、その「俳句革新」の第一声は、古色蒼然とした宗匠俳諧への痛罵となって、その矛先を、旧派の宗匠俳諧へと向けるのである。この『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』の結びは、「発句作法指南の評」という、その著者、其角堂機一という宗匠に向けられたものであった。                      

○近頃其角堂機一なる宗匠あり。発句作法指南と云ふ一書を著して世に刊行す。(中略)之を読んで猶不満足を感ずるの箇處多きは勿論の事にて之を詳述するに勝(た)へずといへども一読の際思ひあたりしことのみを挙げて著者の教を乞わはんと欲するなり。

 このような書き出しの「発句作法指南の評」は、これは、正に、明治以前のもの(宗匠俳諧・俳諧・発句・月並俳句)に対する、明治維新後の、新しい近代という息吹をもたらさんとする、西洋思想(西洋思想的な新文学観)に基づく近代俳句(俳諧・発句・月並俳句からの脱却)の挑戦でもあった。
 そして、この子規の西洋思想的な新文学観とは、概括すると、以下、次のように展開されるのであった。                                

明治二十七年 「文学は直接に吾人が感覚に訴へて快楽を生ぜしむべき美術の一種」(「日本」・明治二七・七)

明治二十八年 「感情的文学即ち純粋なる文学」(「日本」・明治二七・十二) 

明治二十九年 「絵画も美術なり、文学も美術なり、美術は感情に訴ふべくして道理に訴ふべからず」(「日本」・明治二九・八) 明治三十一年 「詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相異あるべく無之」(「日本」・明治三一・二) 

 当時の子規の周辺には、子規の郷里の伊予松山藩の面々が顔を揃えていた。子規は、明治二十五年に、東京下谷根岸に居を構えるのだが、その大学予備門入学の頃は、伊予松山藩の本郷真砂町の常磐会寄宿舎にいた。その舎監が、内藤鳴雪(ないとうめいせつ)、そして、その寄宿生は、新海非風(にいのみひふう)・五百木飄亭(いおぎひようてい)・竹村黄塔・勝田明庵、そして、従弟の藤野古白等であった。              
 そして、後に、子規門の二大俊秀の、河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)・高浜虚子(たかはまきょし)が加わってくる。これらの面々が、後に、伊予派と呼ばれる面々で、郷党的色彩が強く、固い師弟朋友の絆で結ばれていた。 
 この伊予派は、別名、「日本派」とも呼ばれるが、これは、子規選俳句欄を擁し、そして、その「俳句革新」のための数々の俳論を発表する、その媒体となった「日本」新聞の名をとって、そう呼ばれるのであった。   
 この「日本派」の面々には、先程の伊予派の面々の他に、石井露月(いしいろげつ)・佐藤紅緑(さとうこうろく)・寒川鼠骨(さけかわそこつ)・松瀬青々(まつせせいせい)・夏目漱石(なつめそうせき)・坂本四方太(さかもとしほうだ)など錚々たるメンバーが顔を揃えた。 
 さらに、子規らと同じく旧派の月並俳句の刷新には、新派として、伊藤松宇(いとうしょうう)、そして、この松宇に繋がる「秋声会」の、角田竹冷(つのだちくれい)・巌谷小波(いわやさざなみ)・尾崎紅葉(おざきこうよう)・星野麦人(ほしのばくじん)らの面々も活躍していた。  
 また、「秋声会」にも関係のあった、大野洒竹(おおのしゃちく)の「筑波会」の面々の、佐々醒星(さつさせいせつ)・笹川臨風(ささがわりんぷう)・沼波瓊音(ぬなみけいおん)などの面々も、新派として旧派の宗匠俳句を排斥するのであった。
 このように、子規の「俳句革新」運動というものは、子規と子規の「日本派」(伊予派)の面々が主力であったが、その「俳句革新」運動の周辺には、当時の錚々たるメンバーの「秋声会」や「筑波会」に連なる新派の面々が、旧派の月並俳句・宗匠俳句と鋭く対立していたということは特記しておく必要があるのであろう。           
 それらの面々の、当時の俳句の幾つかについて記して見よう。         

○ 子に鳴いて見せるか雉の高調子   (子規・明治二五年作)
○ 菊は古し人形作る躑躅(つつじ)かな(鳴雪・俳調の変易に感じて)
○ 梅が香に届かぬくまもなき小庭   (碧梧桐・子規改作)
○ 子規逝くや十七日の月明に     (虚子・子規追悼句)
○ 葉葡萄に酒成る秋わ契りけり    (露月・「碧梧桐来」の前書きあり)
○ 甘酒屋打出の浜に卸しけり     (青々・子規激賞の句)
○ 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥     (漱石・子規宛の手紙の漱石俳句の初見)
○ 絶壁の一本芒乱れけり       (紅緑・処女作)
○ 汽車で行く東海道の月夜かな    (鼠骨・子規選)
○ 鶏頭に芋堀り尽す畑かな      (四方太・鶏頭の句)
○ 深草や秋に似た夜の麦鶉      (松宇・新派俳句雑誌「俳諧」収録)
○ 帰るさに宵の雨知る十夜哉     (竹冷・代表作)
○ 雨蛙梢に雨を称へけり       (小波・代表作)
○ 死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき  (紅葉・辞世の句)
○ 妹が門遊行の柳しだれけり     (洒竹・「帝国文学」所収)
○ 駿河屋の暖簾古りたり乙鳥     (醒星・代表作)
○ 先ず春の曙染や濃紫        (臨風・代表作)
○ 障子しめて秋の夜となる一間かな  (瓊音・代表作)

 さて、新派の新俳句を標榜する面々について、その主たるメンバーは以上であるが、これらの新派の面々と、それに対立する旧派の月並俳句の主たる面々との、当時の俳句愛好者の間での人気の度合いは、どうであったのであろうか。            
 これにらについて、尾形仂氏の興味ある解題(『子規全集第五巻』)の記載がある。

○明治三十一年三月五日、「都新聞」紙上に発表された読者による「俳諧十傑」の投票結果によれば、三万四千四百六十一票を獲得した老鼠堂永機を筆頭に、蕉露庵蕉露・善哉庵孝節・春秋庵幹雄以下、一万八千八百九十二票の桃支庵指直に至るまで、十傑に入選したのはいずれも旧派の宗匠ばかりであった。新派の俳人では角田竹冷が十六位、大野洒竹が二十八位、子規は千十六票で三十七位に止まっている。               

○翌三十二年六月に雑誌ら「太陽」が催した「俳諧十二傑」の投票では、老鼠堂永機・正岡子規・三森幹雄・尾崎紅葉・花の本聴秋・角田竹冷・巌谷小波・雪中庵雀志・幸堂得知・内藤鳴雪・桂花園桂花が選ばれ、新派俳人が十二傑の半数を占めるに至っているが、これは両誌の読者層の相違にもとづくものであろう。

 この当時、人気投票ナンバーワンであった老鼠堂永機が、晋子(其角)の発句に、脇を付けて巻いた「脇越(わきおこし)」の連句(歌仙)が残されているが、その表(おもて)の六句を次に引用して見よう。                         

○ 発句 いそのかみしみづ也けり手前橋     晋子(其角)   
   脇  真菰(まこも)に交る一株の苗   永機 
  第三 よき人のはなしの答静にて      為山 
  四句目  筆とるさまの滞なき       壺公 
  五句目 初月のながめにはづす玉すだれ  (月の定座) 春湖  
  折端  渡るにしては早きあぢむら          きく雄                      

 これらの連句を、子規は、明治二十八年の『芭蕉雑談』の「或問」の中で、「発句(注・俳句)は文学なり、連俳(連句)は文学に非ず」と、これを抹殺してしまうのである。 そして、この態度を、子規は終始変えようとはせず、そして、その連句抹殺の思想は、今日まで、延々と、百年余も続いているのである。 
 子規という革新的な人物は、理論の人とも呼ばれるが、同時に、直観力に優れた情の人でもあった。繰り返すこととなるが、子規の真の狙いは、連句そのものというよりは、宗匠という人種への挑戦にあった。      
 即ち、言葉を変えていえば、それは、当時の権威の象徴でもある宗匠(プロ・職業俳人)を排斥し、「「書生(アマ・素人)の、書生(アマ・素人)のための、書生(アマ・素人)による」俳句を標榜したのであった。
 これらのことは、ずばり、明治二十九年の『俳句問答』の中で、当時の人気投票ナンバーワンであった老鼠堂永機に係わる子規の痛罵となって現れる。

○問 老鼠堂永機翁は俳諧師中の大家と称せられる。左の翁の句は名句なりや否や。且つ翁の俳句の位置は如何。

 時鳥恋に寝ぬ夜の若かりし   
 夕立の戻りの雲や夜の雨   
 霜月やはじめて松の嵐山   
 名月やさすがに雲も捨てられず 
 若楓ぬれ釜かけてうつらせん 

○答 老鼠と云ひ、永機と言う人、幾人もありと許り覚えて能く其人を区別せず。故に此句の作者は価値のある人かはた如何なる俳句を詠みしか知らず。若し、こゝに列挙したる五句に就きて見れば盡く句法のしまりたるは多少の熟練を証せりといへども意匠は皆軽くして句に重み無し。若し此種の句のみならには到底二流以下の俳家たるを過ぎず。右五句の中にては夕立、霜月、若楓の句など面白し。名月は俗気多く最も嫌ふべし。

 時に、子規、二十九歳で、その前年に、日清戦争に従軍し、その帰途、喀血し、以後、子規は病床の日々の中にあったのだ。その子規が、敢然と、当時の俳壇の大御所に対して攻撃をしかけているのである。       
 子規が、俳句を作り始めたのは、十七歳の頃、そして、本格的に、その終生の仕事となった「俳句分類」に着手したのが、その二十四歳の頃、そして、新聞社「日本」」に入社し、旧派の月並俳句を攻撃を開始したのが、その二十五歳の頃であった。 
そして、その四年後に、まだ、一介の、書生(アマ)の、ジャーナリストの、短歌も俳句も俳論もやるマルチストの(それだけ、俳句の実作では名は売れていない)、その子規が、時の俳壇の人気投票ナンバーワンの老鼠堂永機に対して、「此句の作者は価値のある人かはた如何なる俳句を詠みしか知らず」というのであるから、子規という人物は、丁度、戦国時代の織田信長のような、そんな印象すら与えるのである。           
 子規が、最も忌み嫌ったものは何か。それは、戦国時代の織田信長と同じように、その時の実体の無いまやかしの「権威」と、その権威に群がる「亡者」のような人種とであったろう。
 そして、それこそが、子規にとっては、宗匠俳諧(連句・俳句)の、その「庵号」への挑戦であったのであろう。そして、その根源もまた、松尾芭蕉その人に由来しているのであった。 
 その芭蕉は、その「権威」の頂点に祭り上げられ、そして、その芭蕉十哲の高弟達の「嗣号」が、延々と、子規の時代まで続いていたのである。
 中でも、芭蕉十哲の双璧である宝井其角と服部嵐雪の「嗣号」は、甚だ名誉のあるものであったのだろう。其角のそれは「其角堂」であり、嵐雪のそれは「雪中庵」である。
 この「其角堂」が、当時の人気投票ナンバーワンであった(老鼠堂)永機から機一に継がれた時の嗣号代が、何と、当時のお金で三百円であったとかいう。
 子規が、明治二十五年の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』の結びの「発句作法指南の評」で、攻撃したその相手こそ、この其角堂機一についてであつた。 
 そして、明治二十九年に、其角堂機一の親玉の老鼠堂永機を槍玉にあげるのである。
 この老鼠堂永機は、本名は穂積永機(ほづみえいき)といい、その父が、其角堂六世鼠肝で、その父を継ぎ其角堂七世となり、明治二十年に、門人・田辺機一(たなべきいち)に其角堂を譲ったという。その後、老鼠堂または阿心庵との号を用い、全国各地を行脚し、門弟一千人を数えたという。とにもかくにも、学識・人望とも抜群で、当時の大御所的な存在であったのだ。
 この大御所に対して、「こゝに列挙したる五句に就きて見れば盡く句法のしまりたるは多少の熟練を証せりといへども意匠は皆軽くして句に重み無し」と、その作品の酷評までするのだから、これは、正に、織田信長的な行動というのが一番似つかわしいのかも知れない。
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その九) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その九「明治三十年(一八九七)・「旅・枯野」など」

(子規・三十一歳。正月、松山で「ホトトギス」創刊(柳原極堂主宰)。十二月、子規庵で「第一回蕪村忌」を開く。 )

馬士につれ車夫につれ旅の日ぞ長き ID19176 制作年30 季節春 分類時候 季語日永
街道の旅人多き霞かな       ID19219 制作年30 季節春 分類天文 季語霞
旅人の焼野に迷ひとげを踏む    ID19245 制作年30 季節春 分類地理 季語焼野
旅人のついでに参る彼岸哉     ID19257 制作年30 季節春 分類人事 季語彼岸
人の子の凧あげて居る我は旅    ID19307 制作年30 季節春 分類人事 季語凧
旅人の知らで過ぎ行く清水哉    ID19606 制作年30 季節夏 分類地理 季語清水
京近く旅費の尽きたる袷哉     ID19637 制作年30 季節夏 分類人事 季語袷
閑古鳥かなどゝ思へば旅淋し    ID19753 制作年30 季節夏 分類動物 季語閑古鳥
朝寒や木曾に脚絆の旅心      ID19896 制作年30 季節秋 分類時候 季語朝寒
朝寒や脚絆に木曾の旅心      ID19897 制作年30 季節秋 分類時候 季語朝寒
旅籠屋の淨手場遠き夜寒哉     ID19919 制作年30 季節秋 分類時候 季語夜寒
更科や旅人見ゆる十日月      ID19980 制作年30 季節秋 分類天文 季語月
雨晴れて旅僧おこす月見哉     ID20120 制作年30 季節秋 分類人事 季語月見
こほろぎに宿かる蝶の旅寐哉    ID20156 制作年30 季節秋 分類動物 季語蟋蟀
こほろぎに宿かる旅の胡蝶哉    ID20158 制作年30 季節秋 分類動物 季語蟋蟀
朝飯に木犀匂ふ旅籠哉       ID20191 制作年30 季節秋 分類植物 季語木犀
山葛の風に動きて旅淋し      ID20205 制作年30 季節秋 分類植物 季語葛
柿くふて腹痛み出す旅籠哉     ID20210 制作年30 季節秋 分類植物 季語柿
旅人の荷にかけし粟の一穗哉    ID20282 制作年30 季節秋 分類植物 季語粟
初旅をなぐさめ顔の野菊哉     ID20332 制作年30 季節秋 分類植物 季語野菊
旅二人話盡きたる枯野哉      ID20502 制作年30 季節冬 分類天文 季語枯野
旅二人話盡きぬる枯野哉      ID20503 制作年30 季節冬 分類天文 季語枯野
旅二人話なくて越す枯野哉     ID20504 制作年30 季節冬 分類天文 季語枯野
我は京へ神は出雲へ道二つ     ID20511 制作年30 季節冬 分類人事 季語神の旅
鯨突に通り合せし旅路哉      ID20633 制作年30 季節冬 分類動物 季語鯨
旅にして水鳥多き池を見つ     ID20647 制作年30 季節冬 分類動物 季語水鳥
獻上や五十三次鷹の旅       ID20660 制作年30 季節冬 分類動物 季語鷹
吹きおろす木葉の中を旅の人    ID20703 制作年30 季節冬 分類植物 季語落葉

(漱石・三十一歳。「子規宛句稿(二十二~二十七)。)

1003 汽車を遂(とひ)て煙這行(はひゆく)枯野哉(明治三十年「子規へ送りたる句稿二十一」)
1007 かたまつて野武士落行(おちゆく) 枯野哉(明治三十年「子規へ送りたる句稿二十一」)
1008 星飛ぶや枯野に動く椎の影(同上。前書「魏叔子(ぎしゅくし)大鉄推伝一句」)
1009 島一つ吹き返さるゝ枯野かな(同上)

(寅彦・二十歳。七月、阪井夏子(十五歳)と結婚。夏目漱石を訪ね俳句の話を聞く。)

枯野行けば道連(づれ)は影法師かな(明治三十一年作)
山あれて灰の降りたる枯野かな(明治三十一年~二年作)
美しき女に逢ひし枯野かな(大正六年作)

(東洋城・二十歳。松山中学在学中に、熊本五高教授に句を送って添削して貰ふようになり、上京後根岸の子規庵へ通ひ初めた。一高では、潮音、三子、狐雁が仲間であり、教師には五城がゐた。子規庵のほか、ホトトギス例会や碧悟桐庵会への出席も欠かさなかった。俳号は、一声、造酒、造酒充、二葉、みどりとも号した。)

藁しべに蒟蒻さげて枯野かな(明治三十七年作)
鷲の居る石に日当る枯野かな(明治四十一年作)
電線に魂入りし枯野かな(同上)
かゝる里に生れて死ぬる枯野人(同上)
虎の子に鶯飼へり枯野茶屋(同上)
つひそこの火山十里や枯野原(同上)
世の終を入日に見せし枯野かな(同上)


(参考) 「正岡子規の俳句革新(一)」周辺

https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/e0b36fc7362cdd8f080c01a196827075

旅装での子規一.jpg

「旅装での子規(一)」(明治二十六年「はてしらずの記(東北旅行)」の頃?)
https://tenki.jp/suppl/emi_iwaki/2017/06/12/23271.html

正岡子規の「俳句革新」  (抜粋)     
  目次                
⑴ 「俳句革新」の原点 (アマチュアリズムの視点)     
⑵ 芭蕉の実像と虚像  (『芭蕉雑談』の意味するもの)  
⑶ 子規の俳句観(『俳諧大要』その一)
⑷ 子規の写生論 (『俳諧大要』その二)
⑸ 子規の俳句修学論(『俳諧大要』その三)
⑹ 子規の連句非文学論 (『俳諧大要』その四)
⑺ 蕪村再発見 (『俳人蕪村』の意味するもの)
⑻ 子規の実像と虚像 (「子規俳論」の総括的考察)    
(参考文献)
① 『子規全集第四巻(俳論俳話)』(浅原勝解題)・講談社(昭和 五〇) 
② 『子規全集第五巻(俳論俳話)』(尾形仂解題)・講談社(昭和五〇)   
③ 『正岡子規集(日本近代文学体系)(松井利彦校注)・角川書店(昭和四七)
④ 『正岡子規』(松井利彦著)・桜楓社(昭和五四)  
⑤ 『俳句・短歌(近代文学鑑賞講座)』(山本健吉編)・角川書店(昭和三五)
⑥ 『俳句講座七(現代俳句史)』(加藤楸邨他著)・明治書院(昭和三四)  
⑦ 『俳句講座八(現代作家論)』(山口誓子他著)・明治書院(昭和三三)  
⑧ 『子規と漱石と私』(高浜虚子著)・永田書房(昭和五八)        
⑨ 『俳句で読む正岡子規』(山下一海著)・永田書房(平成四)       
⑩ 『正岡子規』(粟津則雄著)・講談社(平成七)   
☆ その他「本文」中に記載  

⑴ 「俳句革新」の原点 (アマチュアリズムの視点)     

 慶応四年(一八六八)七月、江戸は東京に改称され、その年の九月、年号が明治に改元された。明治維新は、日本のあらゆる面において一大変革をもたらした。
 その一大変革とは、日本文学史上、古典文学から近代文学への衣替えでもあった。それは、いわば、それまでの和服という衣を脱ぎ棄てて、新しい洋服という衣で身を包むという革新的なことを意味した。           
 即ち、これを芭蕉の樹立した俳諧(連句・発句)という世界でいえば、それは、芭蕉以来、営々と続いていたその俳諧(連句・発句)という和服は、明治二十年代に入り、正岡子規(一八六七~一九〇二)によって、近代の「俳句」という新しい洋服に生まれ変わってしまうのである。
 これが、子規の「俳句革新」であり、これが「月並俳句(つきなみはいく)から近代俳句」への移行でもあった。
 この子規の「俳句革新」とは何だったのであろうか。
 子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であった。 子規が批判の対象とした、月並(月次)俳句とは、当時の俳諧の宗匠達が開く毎月の例会を意味したが、子規は、それらの月並俳句を「平凡・陳腐・卑俗」として攻撃したのである。     
 そして、子規の月並俳句(旧派)の批判と子規らが目指す近代俳句(新派)との違いは、子規は、その『俳句問答』(明治二十九年五月から九月まで「日本」新聞に連載され、後に刊行本となる)において、要約すれば以下のとおりに主張するのである。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

○答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

○第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

○第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

○第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。          

○第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。   

 この第一から第五までの子規の主張の中で、子規が最も強調したのは、この第五であった。即ち、子規が排斥して止まなかったものは、それは、日本という土地に平然と土俗化し風化した垢まみれの宗匠達が牛耳っいる、その古色蒼然とした宗匠俳諧への痛罵であった。

 それは、作品そのものというよりは、宗匠という人種への挑戦であった。即ち、言葉を変えていえば、それは、当時の権威の象徴でもある宗匠(プロ・職業俳人)を排斥し、「「書生(アマ・素人)の、書生(アマ・素人)のための、書生(アマ・素人)による」俳句を標榜したのであった。       
 正岡子規の生涯というのは、実に三十五年という短いものであった。そして、喀血して子規(「卯の花をめがけてきたか時鳥」・「卯の花の散るまで鳴くか子規」より子規の由来があるとか)と号したのが、明治二十二年、子規十七歳の時、そして、病床の人となり、文字とおり『病牀六尺』の境遇に置かれたのが、明治二十八年、その二十八歳の時であった。
 その永く病床にあったその短い生涯にあって、子規は、「俳句革新」と「短歌革新」において、超人的な足跡を残したのである。  その「俳句革新」は、明治二十五年(二十五歳の時)の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』において口火が切られ、その「短歌革新」は、明治三十一年(三十一歳の時)の『歌よみに与ふる書』においてであった。

 この「俳句革新」の第一声の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』は、明治二十五年六月から十月にかけて「日本」新聞に連載されたものであった。

 そして、この『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』は、その「俳句分類」の子規の作業を通しながら会得された古俳諧の膨大な情報集積を縦横に駆使しながら、随筆的に表したもので、当初から系統だった俳論という体裁ではなかった。

 後に、単行本として出版されるに及び、それは、「俳諧史」・「俳諧論」・「俳人俳句」・「俳書批評」という分野で再編集されるのであった。

 子規は、この俳話において、「俳諧」・「発句」という言葉のほかに、さりげなく「俳句」という言葉も用い、現在の「俳句」という分野を、「俳諧」・「発句」という分野から、全く、単独のものとして独立させるに至るのである。

 即ち、その俳話は、「俳諧という名称」・「連歌と俳諧」・「延宝天和貞享の俳風」・「足利時代より元禄に至る発句」・「俳書」として、次に、「字余りの俳句」という項目が来て、この後に、この俳話において、最も注目すべき「俳句の前途」という俳論が続くのである。

 そして、その前提には、「連歌と俳諧」という項目で、次のような、「俳諧」・「発句」という分野から「俳句」という分野に切り替えようとする、子規の主張の兆しが見られるのである。                                  
○芭蕉は発句のみならず俳諧連歌(注・連句)にも一様に力を尽し其門弟の如きも猶其遺訓を守りしが後世に至りては単に十七字の発句を重んじ俳諧連歌(注・連句)は僅に其付属物として存ず(注・す)るの傾向あるが如し。      

 そして、この『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』において、最も注目すべき「俳句滅亡論」が、その「俳句の前途」において展開されるのである。それを要約すると以下のとおりとなる。                      

○日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅に二三十に過ぎざれば之を錯列法(バーミュテーシヨン)に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は早晩其限りに達して最早此上に一首の新しきものだに作り得べからさ(注・ざ)るに至るべしと。

○試みに見よ古往今来吟詠せし所の幾万の和歌俳句は一見其面目を異にするが如しといへども細かに之を観(注・み)広く之を比ぶれば其類似せる者真に幾何(注・いくばく)ぞや。弟子は師より脱化し来り後輩は先哲より剽窃(注・窃は旧字体)し去りて作為せる者比々皆是れなり。

○終に一箇の新観念を提起するものなし。而して世の下るに従い平凡宗匠平凡歌人のみ多く現はるゝは罪其人に在りとはいへ一は和歌又俳句其物の狭隘なるによらずんばあらざるなり。                 

○さらば和歌俳句の運命は何れの時に窮まると。対へて云ふ。其窮り盡すの時は固より之を知るべからずといへども概言すれば俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり。
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その八) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その八「明治二十九年(一八九六)・「梨の花・柳」など」

(子規・三十歳。正月三日鴎外・漱石らと子規庵で句会。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=28&season=&classification=&kigo=&s=%E9%87%91%E5%B7%9E&select=

此春は金州城に暮れてけり  ID12528 制作年28 季節春 分類時候 季語春の暮
金州や矢の根をひろふ春の風 ID12609 制作年28 季節春 分類天文 季語春風
金州の城門高き柳かな    ID12930 制作年28 季節春 分類植物 季語柳
金州にいくさせし人よ畠打つ ID16063 制作年29 季節春 分類人事 季語畑打
金州や東門の外に梨の花   ID16343 制作年29 季節春 分類植物 季語梨の花

(漱石・三十歳。四月、熊本第五高校講師として赴任。六月、中根鏡子と結婚。「子規宛句稿が始まる(十~二十一)。東洋城、漱石に句を送り、添削を乞う。)

766 待つ宵の夢ともならず梨の花(明治二十九年「子規へ送りたる句稿十四」) 

(寅彦・十九歳。高知県尋常中学校首席で卒業。熊本第五高等学校に入学する。)

ごみをかぶる柳の下のポストかな(明治三十一~二年作)
県庁の柳芽をふく広小路(同上)
門前に泥舟つなぐ柳哉(同上)
招集の掲示を撫る柳哉(同上)
雨の家鴨柳の下につどひけり(同上)
二階から女郎が手招く柳かな(明治三十二年作)
煙草屋の娘うつくしき柳かな(明治三十三年作)

(東洋城・十九歳。)

県道や柳を植ゑずペンキ橋(明治三十三年作)
飛々に村飛々に柳哉(明治三十三年作)
 
(参考) 「子規と鷗外と饅頭茶漬」(周辺)

森鷗外(近衛師団の軍医部長).jpg

「子規・日清戦争。従軍記者の頃の森鷗外(近衛師団の軍医部長)」
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201803220000/

≪ 此春は金州城に暮れてけり(明治28)
  金州の城門高き柳かな  (明治28)
  金州にいくさせし人よ畠打つ(明治29)
  金州や東門の外に梨の花(明治29)
  金州の南門見ゆる枯野哉(明治31)
 
 子規が日清戦争の従軍記者として遼東半島に向かいましたが、金州に上陸した時、すでに日本と清の交戦は終わっていました。子規の金州滞在は、明治28年4月15日から5月10日までで、金州を離れた日に日清講和条約が批准されました。
 この時、近衛師団の軍医部長だった森鷗外も金州に駐屯していました。暇を持て余していた子規と鷗外は、俳句についての意見を戦わせています。鷗外はこのことを「但征日記」に「正岡常規来り訪う俳譜の事を談ず」(5月4日)、「子規来り別る。几董等の歌仙一巻を手写して我に贈る」(5月10日)と記しています。『子規全集』月報7の宮地伸一著「子規と鴎外との出会い」には、「今度の戦争に行って、非常に仕合わせなのは正岡君と懇意になったことだ」と鷗外が柳田國男に語っていたとあります。≫
 子規も、門人たちに書きとらせた「病床日誌」明治28年6月5日に「いちごを食い、頗る壮快なるおももちなり。曰く、いちごとりとは中々おもしろき名なり。小説にすれば森鷗外の好む所か……森に金州にて会いし話をせしや。……中略……金州の兵站部長は森なりと聞き訪問せしに、兵站部長には非ず、軍医部長なりし。これより毎日訪問せり」と書かれています。
 帰国後、鷗外は子規との交遊を深め、明治29年の正月3日。子規庵の発句始に、鷗外が初めて顔を出しました。鳴雪、瓢亭、虚子、可全、碧梧桐、漱石らが参加した会の季題は「あられ」で、鷗外は「おもひきつて出で立つ門の霞哉」と詠み、最高点を獲得しました。この年、鷗外は「めさまし草」を創刊したため、子規一門も俳句や評論を寄稿しました。子規と鷗外の親交は、明治32年6月に、鷗外が小倉師団に転勤するまで続いています。
 学生時代、子規は鷗外の作品に対して、いい感情を持っていませんでした。明治24年8月23日の漱石から子規に宛てた手紙には「鷗外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳もこれなく、これも小子嗜好の下等なる故とひたすら慚愧(ざんき)致居候。元来、同人の作は僅かに二短篇を見たるまでにて、全体を窺うことかたく候得ども、当世の文人中にては先ず一角あるものと存居候いし、試みに彼が作を評し候わんに、結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したるものと存候。右等の諸分子あいまって、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思われ候。もっとも人の嗜好は行き掛かりの教育にて(たとい文学中にても)種々なるもの故、己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏屈な議論に見ゆるものに候ば、小生自身は要所に心酔致候。心持ちはなくとも大兄より見れば作用に見ゆるもごもっとものことに御座候」とあり、鷗外の著作に対して、子規は否定的だったことがわかります。 ≫
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その七) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その七「明治二十八年(一八九四)・「朧・朧夜」など」

(子規・二十九歳。日清戦争従軍記者となり、帰途中に喀血。五月、神戸の病院に入院。室月、須磨保養院に移り、八月帰省。松山中学校教師として赴任した、漱石の「愚垜仏庵」に奇遇、地元の「松風会」の句作を指導。十月、奈良・京都を経て帰京。十二月、道灌山で虚子に後継を委託するも断られる。)

朧とは桜の中の柳かな   ID639 制作年23 季節春 分類天文 季語朧
烏帽子きた殿居姿の朧なり ID1712 制作年25 季節春 分類天文 季語朧
面顔の声朧也春の陣    ID1713 制作年25 季節春 分類天文 季語朧
白き山青き山皆おぼろなり  D1714 制作年25 季節春 分類天文 季語朧
朧より朧に人の咄かな    ID4977 制作年26 季節春 分類天文 季語朧
小夜更て上戸の声の朧なり  ID4978 制作年26 季節春 分類天文 季語朧
昼の月さらに朧と見えぬなり ID4979 制作年26 季節春 分類天文 季語朧
行燈を消せば小窓の朧かな  ID12700 制作年28 季節春 分類天文 季語朧
男やら女やら更に朧かな   ID15975 制作年29 季節春 分類天文 季語朧
ある夜更けて貴人来ます朧哉 ID19236 制作年30 季節春 分類天文 季語朧
茶屋を出る箱提灯や朧人   ID19237 制作年30 季節春 分類天文 季語朧
京の灯や朧の上る東山    ID20862 制作年31 季節春 分類天文 季語朧
吾折々死なんと思ふ朧かな  ID23383 制作年33 季節春 分類天文 季語朧
朧野ヤ朧ヲ破ル藁砧     ID24683 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
末遂ゲヌ恋ノ始ヤオボロナル ID24684 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
背ノ高キ人佇メリ朧陰    ID24685 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
背ノ高キ人ニ逢ヒケル朧哉  ID24686 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
大仏ノ目ニハ吾等モ朧カナ  ID24687 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
遠クトモ近クトモ見エテ灯朧 ID24688 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
篷アゲテ見ル両岸ノ朧カナ  ID24689 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
話シナガラ土手ノ上行ク人朧 ID24690 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
見返レバ住吉ノ灯ノ朧ナル  ID24691 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
闇ヲ出テ朧ニ人ノ陰二ツ   ID24692 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
両岸ノ人家朧ニ下リ舟    ID24693 制作年35 季節春 分類天文 季語朧
路次口ヲ出デヽ朧ノ大路カナ ID24694 制作年35 季節春 分類天文 季語朧

(漱石・二十九歳。四月、松山中学校教師として赴任。六月、松山市二番町の「愚陀仏庵」。八月、子規が寄寓して、十月に帰省するまで作句に励む。「子規宛句稿が始まる(一~九)。東洋城、松山在学中に漱石に英語を教わる。)

511 いそがしや霰ふる夜の鉢叩
512 十月の月ややうやう凄くなる
513 山茶花の垣一重なり法華寺
514 行く年や膝と膝とをつき合せ
515 雪深し出家を宿し参らする
516 詩神とは朧夜に出る化ものか
≪ 季=朧夜(春)。※漱石は虚子の「松山的ならぬ淡泊なる処、のんきなる処、気の利かぬ処」などを愛した(子規宛書簡)。(後略)  ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)


(寅彦・十八歳)

朧夜や湯殿の窓の磨硝子(すりがらす)(明治三十四年作。二十四歳)
湯煙りの白粉臭き朧かな       (同上)

(東洋城・十八歳)

わたつみへ浪を巻きさる朧かな (明治三十四年作。二十四歳)
三軒家橋の人呼ぶ朧かな    (同上、前書「嵐山」) 

(参考)「道灌山事件(その一)~(その六)」周辺

高浜虚子.jpg

「道灌山事件(明治二十八年)」当時の「高浜虚子」
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201803220000/

http://yahantei.blogspot.com/2008/06/blog-post_01.html

(再掲)「道灌山事件(その一)~(その六)」

虚子の亡霊(四十九~五十四)
虚子の亡霊(四十九) 道灌山事件(その一)

 ホトトギス「百年史」の年譜は「明治三十年一月 柳原極堂、松山で『ほとゝぎす』創刊」より始まり、明治二十八年の子規と虚子との「道灌山事件」の記載はない。ここで、「子規年譜」の当該年については、下記のとおりの記述がある。

http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

(子規略年譜)

明治28年(1895)  28歳

4月、日清戦争従軍記者として遼東半島に渡り、金州、旅順に赴く。金州で藤野古曰の死を知る。「陣中日記」を『日本』に連載する。5月4日、従軍中の森鴎外を訪ねる。17日、帰国の船中で喀血。23日、神戸に上陸し、直ちに県立神戸病院に入院。一時重体に陥る。7月、須磨保養院に転院。8月20日退院。28日、松山の漱石の下宿に移り50日余を過ごす。極堂ら地元の松風会会員と連日句会を開き、漱石も加わる。10月、松山を離れ、広島、大阪、奈良を経て帰京。12月、虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる。

http://www.shikian.or.jp/sikian2.htm

 この十二月の、「虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる」というのが、いわゆる「道灌山事件」と呼ばれるもので、次のアドレスのもので、その全容を知ることができる。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

☆俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」これに対して子規は瓢亭あての書簡に「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
(参考) 清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス 宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院

 上記が、いわゆる「道灌山事件」の全容なのであるが、その後、子規自身も、「獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」などで、虚子も、「子規居士と余」などで、この「道灌山事件」については記述しているのであるが、「何故に、子規と虚子とで決定的に意見が相違して、何故に、虚子は頑なに子規の依頼を拒絶したのか」という、その真相になると、これがどうにもウヤムヤなのである。
 このウヤムヤの所に、前回までの、虚子は「芸能・文芸としての俳句」という「第二芸術的」な俳句観を有していたのに、子規は「芸術・文学としての俳句」、すなわち、「第一芸術的」な俳句観を、虚子に無理強いをしたので、虚子はこれを拒絶する他は術がなかったと理解すると、何となく、この子規と虚子との「道灌山事件」の背景が見えてくるような思いがするのである。

虚子の亡霊(五十) 道灌山事件(その二)

 子規と虚子との「道灌山事件」というのは、明治二十八年と、もはや遠い歴史の中に埋没したかに思えたのだが、この平成十六年に、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)が刊行され、全く新しい視点での「道灌山事件」の背景を論述されたのであった。この「全く新しい視点」ということは、その「あとがき」の言葉でするならば、
「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立が、「道灌山事件」の背景とするところの、とにもかくにも大胆な推理と仮説とに基づくものを指していることに他ならない。 
この「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立の推理と仮説は、さらに、例えば、子規の『俳諧大要』の最終尾の「連句」の項の、「ある部分は、子規の依頼の下でゴーストライターとして虚子が書いているのではなかろうか」(同書所収「『俳諧大要』(子規)最終尾の不審」)と、さらに大胆な推理と仮説を提示することとなる。
 この著者は、古典(芭蕉・蕪村・一茶など)もの、現代(素十など)もの、連句(芭蕉連句鑑賞など)ものと、こと、「古典・連句・俳句・ホトトギス」全般にわたって論述することに、その最右翼に位置することは、まずは多くの人が肯定するところであろう。そして、通説的な見解よりも、独創的な異説などもしばしば見られ、例えば、その著の『蕪村の手紙』所収の、「『北寿老仙をいたむ』の製作時期」・「『北寿老仙をいたむ』の解釈の流れ」などの論稿は、今や、通説的にもなりつつ状況にあるといっても過言ではなかろう。
 虚子・素十に師事し、俳誌 「雪」を主宰し、「ホトトギス」同人でもあり、東洋大学の学長も歴任した、この著者が、最新刊のものとして、この『夕顔の花——虚子の連句論——』を世に問うたということは、今後、この著を巡って、どのように、例えば、子規と虚子との「道灌山事件」などの真相があばかれていくのか、大変に興味のそそられるところである。
 ここで、ネット記事で、東大総長・文部大臣も歴任した現代俳人の一躍を担う有馬朗人の上記の村松友次のものと交差する「読売新聞」での記事のものを、次のアドレスのものにより紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆正岡子規は俳諧連句の発句を独立させて俳句とした。と同時に多数の人で作る連句は、西欧の個人主義的芸術論に合わないと考え切り捨てたのである。一方子規の第一の後継者である虚子は連句を大切にしていた。---子規が虚子に後継者になってくれと懇願するが、虚子が断ったという有名な道灌山事件のことである。その結果、子規は虚子を破門したと思われるにもかかわらず、一生両者の親密な関係は代わらなかった。
「読売新聞」2004.08.08朝刊 有馬朗人「本よみうり堂」より抜粋。 

虚子の亡霊(五十一) 道灌山事件(その三)

 この「道灌山事件」とは別項で、「虚子・年尾の連句論」に触れる予定なので、ここでは、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)の詳細については後述といたしたい。そして、ここでは、明治二十八年の「道灌山事件」の頃の子規の句について、
次のアドレス(『春星』連載中の中川みえ氏の稿)のものを紹介しておきたい。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9280/shikiku/shikiku5.htm#shikiku52

☆ 語りけり大つごもりの来ぬところ  子規
    漱石虚子来る
漱石が来て虚子が来て大三十日   同上
    漱石来るべき約あり
梅活けて君待つ庵の大三十日    同上
足柄はさぞ寒かったでこざんしよう 同上

 明治二十八年作。

 漱石はこの年五月、神戸病院に入院中の子規に、病気見舞かたがた「小子近頃俳文に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と手紙で言って来た。第一回の句稿を九月二十三日に送って来たのを嚆矢として、三十二年十月十七日まて三十五回に渡って膨大な数の句を子規のもとに送って、批評と添削を乞うた。

 粟津則雄氏は「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹編)の解説でこのことに触れて、

 ロンドン留学の前年、明治三十二年の十月まで、これほどの数の句稿を送り続けるのは、ただ作句熱と言うだけでは片付くまい。もちろん、ひとつには、俳句が、手紙とちがって、自分の経験や印象や感慨を端的直載に示しうるからだろうが、同時にそこには、病床の子規を楽しませたいという心配りが働いていたと見るべきだろう。

と述べておられる。

 漱石は句稿に添えた手紙の中で、この年十二月に上京する旨伝えて来た。この時期漱石には縁談があって、そのことなども子規に手紙で相談していたようである。
 漱石は十二月二十七日に上京して、翌日、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合をし、婚約した。
 大みそかに訪ねて来るという漱石を、子規は梅を活けて、こたつをあたためて、楽しみに持っていたのである。
 大みそかには虚子も訪ねてきた。
 この月の幾日かに、子規は道潅山の茶店に虚子を誘い、先に須磨で言い出した後継委嘱問題を改めて切り出して、虚子の意向を問い正した。
 文学者になるためには、何よりも学問をすることだ、と説く子規に、厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない、と虚子は答えた。会談は決裂した。
 子規と虚子の間は少々ぎくしゃくしたが、それでも大みそかに虚子はやって来た。子規は最も信頼する友漱石と、一番好きてあった虚子の来訪を心待ちにしていたのである。
 漱石は一月七日まで東京に滞在して、子規庵初句会(一月三日)にも出席した。
 この年を振り返って、子規は次のように記している。

 明治二十八年といふ歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身は取っては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。しかし乍らそれ程一身に大切な年であるにかかはらず俳句の上には殆ど著しい影響は受けなかった様に思ふ。(略)幾多の智識と感情とは永久に余の心に印記せられたことであらうがそれは俳句の上に何等の影響をも及ぼさなかった。七月頃神戸の病院にあって病の少しく快くなった時傍に居た碧梧桐が課題の俳句百首許りを作らうと言ふのを聞て自分も一日に四十題許りを作った。其時に何だか少し進歩したかの様に思ふて自分で嬉しかつたのは嘘であらう。二ヶ月程も全く死んで居た俳句が僅かに蘇ったと云ふ迄の事て此年は病余の勢力甚だ振はなかった。尤も秋の末に二三日奈良めぐりをして矢鱈に駄句を吐いたのは自分に取っては非常に嬉しかった。(獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ)

 時に、子規、二十九歳、漱石、二十九歳、虚子は若干二十二歳であった。当時の虚子は、虚子の言葉でするならば、「放浪の一書生」(『子規居士と余』)で、今の言葉でするならば、「ニート族」(若年無業者)の代表格のようなものであろう。子規とて、書生上がりの「日本新聞」などの「フリーター」(請負文筆業)という趣で、漱石はというと、丁度、その小説の「坊っちゃん」の主人公のように、松山中学校の英語の教師という身分であった。しかし、この三人が、いや、この三人を取り巻く、いわば、「子規塾」の面々が、日本の文化・芸術・文学の一翼を担うものに成長していくとは、
誠に、何とも痛快極まるものと思えてならない。そして、これも、虚子の言葉なのであるが、子規をして、「余はいつも其事を思ひ出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考へずにはゐられぬのである」(前掲書)という、この子規の存在は極めて大きいという感慨を抱くのである。
 ここらへんのことについて、先に紹介した次のアドレスで、これまた、「読売新聞」のコラムの記事を是非紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆高浜虚子には、独特なユーモアをたたえた句がある。5枚の葉をつけた、ひと枝だの笹がある。「初雪や綺麗に笹の五六枚」等々、葉の1枚ずつに俳句が書かれている。東京にいた24歳の正岡子規が郷里・松山の友、17歳の高浜虚子に贈った。「飯が食えぬから」と虚子が文学の志を捨てようとしているらしい。人づてに聞いた子規がこの笹を添えて手紙を送ったのは、1982年1月のことである。「食ヘヌニ困ルト仰セアラバ 小生衰ヘタリト雖 貴兄ニ半碗ノ飯ヲ分タン」。「目的物ヲ手ニ入レル為ニ費スベキ最後ノ租税ハ 生命ナリ」。3年前に血を吐き、四年後には病床につく人が友に寄せた言葉は、悲しいまでに温かい。この笹の枝を子規は、「心竹」と呼んでいる。ささ(笹)いな贈り物だという。心の丈でもあったのだろう。虚子の胸深くに心竹は根を張り、近代詩歌の美しい実りとなった詩業を支えたに違いない。
「読売新聞」2004.01.01朝刊「編集手帳」より抜粋。

虚子の亡霊(五十二) 道灌山事件(その四)

 ネットの記事は雲隠れをするときがある。一度、雲隠れをしてしまうとなかなか出てこない。かつて、「俳句第二芸術論」について触れていたときに、桑原武夫が高浜虚子の、俳句ではなく、その小説について褒めたことがあり、その桑原の初評論ともいえるようなものが、虚子の「ホトトギス」に掲載されたことがあり、その桑原のものを、ネットの記事で見た覚えがあるのだが、どうにも、それが雲隠れして、それを探すことができなかったのである。
 それが、しばらく、この虚子のものを休んでいたら、まるでその休みを止めて、また続けるようにとの催促をするように、そのネット記事が偶然に眼前に現れてきたのである。その記事は、次のアドレスのもので、「小さな耳鼻科診療所での話です」というタイトルのブログ記事のものであったのだ。今度は、雲隠れしないように、その前後の関連するところを、ここに再掲をしておくこととしたい。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

317.俳談(その一)

 センセは、俳句をすなる。パソコンを使い始めて5年。俳句を始めて4年。ちょうど、「俳句とは」を考えたくなる時期にきたようだ。
 乱雑に突っ込まれた本棚を見てみると、それなりに俳句入門の本が並んでいる。鷹羽狩行、稲畑汀子、阿部肖人、藤田湘子、我が師匠の大串章。先生方の言わんとされることが理解できれば俳句ももう少し上手くなれたのであろうか。句集もそれなりに積んである....
 悪あがきついでに「俳句への道」高浜虚子(岩波文庫)を読むことにした。本の後半の研究座談会が面白そうだったので、そこから読み始めた。ところが、いきなりこんな文に出会った。

「近頃の人は、四五年俳句を作って見て、すぐ、『俳句とは』という議論をしたがる。そういう人が多い。こういう人は長続きしない。やがてその議論はかげをひそめるばかりかその人もかげをひそめる。」と、ある。ガーン!!!虚子先生は厳しい。

 とはいえ、「私はしばらく俳論、俳話のやうなものは書かないでをりました。..」と、いいながら「玉藻」(主宰、星野立子)に、俳話を載せた。(昭和27年)ここでの俳論、俳話がまとめられたのが、この文庫である。「私の信じる俳句というのもは斯様なのもであるということを書き残して置くのもである。」と序にある。

 なんたってセンセはミーハーである。いくら大虚子先生のお話でも、まず、愉快そうなところかに目をつける。まず、研究座談会の章から。

 虚子は、子規のところに手紙を出したのも「文学の志しがあるから宜しくたのむ」と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった。「我が輩は猫である」がホトトギスに載る。漱石が小説家としてどんどん有名になっていく。

「漱石のその後の小説を先生はどういう風に感じられますか」と、弟子の深見けん二。虚子のこの質問に対する答えは、愉快である。「漱石の作品は高いのもがあります。だが、写生文という見地からは同調しかねるものもあります。」さーすが、客観写生の虚子先生である。そして、虚子は小説を書いたのである。けん二は、虚子の小説を「写生文」と、言い切っていろいろ質問しているが、虚子は「小説というより写生文という方がいいかもしれません」と答えているが小説の中ではという意味で言っているのである。「写生文は事実を曲げてはいけない。事実に重きをおかなければならない。その上に、心の深みがあらわれるように来るようにならなければならない。私は写生文からはいって行く小説というものを考えています」と、フィクションを否定している。花鳥諷詠の説明を聞いてるようだ。

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、この流れは、現在では、まだ大きな流れではありませんが、しかし、将来は本流と合体するかも知れないし...」ごにょごにょ....。あは。虚子先生、負けん気が強いですね。そして、小説への憧れがいじらしい。

「お父さん、最近『虹』とか、『椿物語』とか、いろいろの範囲の女性を書かれるようですが、お父さんの女性観といったのもをひとつ」と、秦に聞かれた。
「さあ、私は女の人と深くつきあっていませんからね。..小説家といっても、そんなに、女の人と深くつきあうことは出来んでしょう。大抵は、小説家が、自分で作ってしまうのでしょう。」
「里見さんなんかは、そうでもないらしいんですが」と、今井千鶴子。
「少しはつき合わないと書けないのでしょうか」と、なんとカワユイきょしせんせい。
虚子先生は、やはり小説より俳句ですよね。きっぱり。

(余白に)

☆ここのところでは、「虚子は、子規のところに手紙を出したのも『文学の志しがあるから宜しくたのむ』と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった」というところは、いわゆる、子規と虚子との「道灌山事件」の背景を知る上で、非常に重要なものと思われる。すなわち、子規の在世中には、虚子は、「俳句を軽蔑していて、文学=小説」という考えを持っていて、「小説家」になろうとする道を選んでいた。そして、子規も当初は小説家を夢見ていたのであるが、幸田露伴に草稿などを見て頂いて、余り色よい返事が貰えず、当初の小説家の夢を断念して、俳句分類などの「古俳諧」探求への俳句の道へと方向転換をしたのであった。そういうことが背景にあって、虚子は、「文学者になるためには、何よりも学問をすることだ」と説く子規に、「厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない」と、いわゆる、子規の「後継委嘱」を断るという、これが、「道灌山事件」の真相だということなのであろう。そして、子規没後、子規の「俳句革新」の承継は、碧梧桐がして、虚子は小説家の道を歩むこととなる。しかし、虚子の小説家の道は、なかなか思うようにはことが進まなかった。そんなこともあって、たまたま、当時の碧梧桐の第一芸術的「新傾向俳句」を良しとはせず、ここは、第二芸術的な「伝統俳句」に立ち戻るべしとして、再び、俳句の方に軸足を移して、何時の間にやら、「虚子の俳句」、イコール、「俳句」というようになっていったということが、大雑把な見方であるが、その後の虚子の生き様と日本俳壇の流れだったといえるのではなかろうか。そして、上記のネット記事の紹介にもあるとおり、虚子は、その当初の、第一芸術の、「文学」=「小説」、その小説家の道は断念せず、その創作活動を終始続けていたというのが、俳壇の大御所・虚子の、もう一つの素顔であったということは特記しておく必要があろう。

虚子の亡霊(五十三) 道灌山事件(その五)

 前回に続いて、下記のアドレスの、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。ここに、桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではなく、「虚子の散文」と題する一文が紹介されていたのである。

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

 初心者が考える俳句とは、について書いてみようと思ったのだが、虚子先生の小説に話が流れたので、続けてみよう。(昨日、早速ありがたい読者から、「虚子は食えない男だと思う。まさに自分でも詠んでいるように『悪人』だね。」という忠告あり。いいえ、恋人にするつもりないから.......御安心を!)

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、..」と、自分の小説を虚子先生らしからぬ弱きでつぶやいているのだが、なんと、虚子の小説に大賛辞を送っている人がいたんですね。(百鳥2001 10月号『虚子と戦争』渡辺伸一郎著参考)

 誰だと思いますか?桑原武夫。わかりますね、あの俳句第二芸術論を発表した(「世界」昭和22年)桑原武夫です。曰く、現代俳句は、その感覚や用語がせまい俳壇の中でしか通用しないきわめて特殊なものである。普遍的な享受を前提とする「第一芸術」でなく、「第二芸術」とされるものであると、主張しました。これに対して当時、俳壇は憤然としたそうです。

 読者の指摘どうり「食えない男」の虚子先生は「いいんじゃあないの。自分達が俳句を始めたころは、せいぜい第二十芸術ぐらいだったから、それを十八級特進させてくれたんだから結構なことじゃあないか」と、涼しい顔をしていたとか。でも、これって大人の余裕というより本音かもしれませんね。俳句を軽蔑していたと、御本人が言っているくらいですから。第一、ウイットで返すという御性格でもなさそうだしィ。

 その、俳壇にとって憎き相手の桑原博士が、虚子の小説を誉めたのです。(「虚子の散文」と題して東京帝国大学新聞に掲載された。1934年1月)

「私はいまフランスものを訳しているが、その分析的な文章に慣れた眼でみると、日本文は解体するか、いきづまるものが多いのだが、この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵し、フランス写実派の正統はわが国ではそれを受け継いだはずの自然主義作家よりも、むしろ当時その反対の立場にあった人によって示されたくらいだ。....著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある。....」と、エールを送っている。もちろん、この文章は、ホトトギスに転載された。虚子先生の「最後には勝つ」という人生観に、更に自信をもたれたでしょうね。そうだ、桑原武夫も同じく、虚子先生はイジワルと決めつけている。

 ここで、不思議なのは、桑原武夫が書いている「著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。」という下りである。
虚子は「写生文は事実を偽って書くのは卑怯ですよ。写生文がそういう根底に立ってそれが積み重なって、自然に小説としての構成を成してくるのは差し支えないでしょう。....面白くするために容易に事実を曲げるということはしない。」と言っている小説観と、口すっぱく主張している「客観写生」は、意味するところが共通しており「態度を違えて」ないのではなかろうか。

「客観写生ということに努めていると、その客観描写を透して主観が浸透して出てくる。作者の主観は隠すことが出来ないのであって客観写生の技量が進むにつれて主観が擡げてくる。」この虚子の主張と矛盾しないように思うし、あまりにも虚子らしい文章観であり散文であると思ったのであるが、いかがであろう。そして、あっぱれな頑固者だなとも思ったのだが.....。

(余白に)

☆これまでに数多くの「虚子論」というものを目にすることができるが、それらの多くは、どう足掻いても、田辺聖子の言葉でするならば、「虚子韜晦」と、その全貌を垣間見ることすらも困難のような、その「実像と虚像」との狭間に翻弄されている思いを深くさせられるものが多いのである。それらに比すると、上記の「小さな耳鼻科診療所での話です」と題するものの、この随想風のネット記事のものは、「高浜虚子」の一番中核に位置するものを見事に見据えているという思いを深くするのである。それと同時に、このネット記事で紹介されている、いわゆる「俳句第二芸術論」の著者の桑原武夫という評論家も、正しく、虚子その人を見据えていたという思いを深くする。桑原が、上記の「虚子の散文」という一文は、戦前も戦前の昭和九年に書かれたもので、桑原が「俳句第二芸術論」を草したのは、戦後のどさくさの、昭和二十一年のことであり、桑原は、終始一貫して、「俳人・小説家」としての「高浜虚子」という人を見据え続けてきたといっても差し支えなかろう。
その「小説家」(散文)の「虚子」の特徴として、「この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵」するというのである。この虚子の文章(そしてその思想)の「強靱さ」(ネット記事の耳鼻咽喉科医の言葉でするならば「頑固者」)というのは、例えば、子規の「後継委嘱」を断り、子規をして絶望の局地に追いやったところの、いわゆる「道灌山事件」の背後にある最も根っ子の部分にあたるところのものであろう。この虚子の「強靱さ」(「頑固者」)というものをキィーワードとすると、虚子に係わる様々な「謎」が解明されてくるような思いがする。すなわち、子規と虚子との「道灌山事件」の謎は勿論、碧梧桐との「新傾向俳句」を巡る対立の謎も、秋桜子の「ホトトギス脱会」の背景の謎も、さらにまた、杉田久女らの「ホトトギス除名」の真相を巡る謎も、全ては、虚子の頑なまでの、その「強靱さ」(「頑固者」)に起因があると言って決して過言ではなかろう。
さらに、桑原の、「詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。… 観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これは、実に、「虚子」その人と、その「創作活動」(小説と俳句)の中心を、見事に射抜いている、けだし、達眼という思いを深くするのである。このことは、上記のネット記事の基になっている、虚子の『俳句への道』の「研究座談会」のものですると、すなわち、虚子の句に対しての平畑静塔の言葉ですると、「痴呆的」という言葉と一致するものであろう。この、桑原の言葉でするならば、「無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これこそ、「虚子の実像」という思いを深くするのである。これこそ、虚子と秋桜子とを巡る虚子の小説の「厭な顔」、そして、虚子と久女を巡る「久女伝説」を誕生させたところの虚子の小説の「国子の手紙」の根底に流れているものであろう。

虚子の亡霊(五十四) 道灌山事件(その六)

 今回も、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

 虚子先生の「俳句への道」を頭をたれながら正座して読んでいたのである(ほんまかな)が、虚子大先生をぼろくそに無視(?)する評論家もいるようです。

「俳句の世界」(講談社学術文庫)の、小西甚一氏。「実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握は伝統的な季題趣味を多く出なかった。木の実植うといへば直ちに人里離れた場所、白い髭をのばした隠者ふうの人物などを連想する行き方で、碧梧桐とは正反対の立場である。子規が第一芸術にしようと努めたのもを第二芸術にひきもどしたのである。」言いますね、コニシさん。
 小西氏は、どうも楸邨と友人関係、その師と縁戚関係にあり、私情がたぶんに入った評論のようにも思うが、たぶんに半官びいきにも聞える。虚子のライバルとされた、結果的に俳句界に大きな足跡を残さなかった碧梧桐からの流れをくむ自由律の俳句への応援は温かい。ただ、「定型俳句があっての自由律俳句でなんでしてね。父親の脛を齧ることによって父親無用論を主張できる道楽息子と別ものではありません。」と、その限界を述べている。

 ところが、虚子は「俳句への道」のなかで、「自らいい俳句を作らないで。俳句論をするものがある。そういうのは絶対に資格がない。俳句では。作る人が論ずる人であり得ない場合は多いが、論ずる人は、作家であるべきである。」と、痛快に反論しているので、これも愉快である。(小西氏も激辛評論の阿部氏も俳句作者としては、凡作の域をでなかったようだ。)

 また、俳句を作る者に対しても理論を先立てることを戒めている。「私は理論はあとから来るほうがいいと考えている。少なくとも創作家というのもはそうあるべきものだと考えている。理論に導かれて創作をしようと試むるのもは迫力のあるものは出来ない。それよりも何物かに導かれるような感じの上に何ものも忘れて創作をする。出来て後にその創作の中から理論を見出す。創作家の理論というのはそんなものであるべきだと思う。」だそうな。

 ということで、資格のないセンセの俳談は終わり。...

(余白に)

☆ここで、小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)について触れられている。この著は、後世に永く伝えられる名著の部類に入るものであろう。その裏表紙に、編集子のものと思われる、次のような一文が付せられている。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。

 確かに、こういうものは、「不朽の書」といえるものなのであろうが(また、この著者の業績は、この著書の解説者の平井照敏氏が記しているとおり、「大碩学」の名が最も相応しいのかも知れないが)、それでもなおかつ、この著者以後の者は、この著を乗り越えていかなければならないのであろう。
 そういう観点に立って、この著の「高浜虚子」関連(「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」)のみに焦点を絞って、それをつぶさに見ていくと、この著者一流の、連句でいうところの、ここは「飛躍し過ぎではないか」というところが、散見されるように思われるのである。これらのことについて、稿を改めて、その幾つかについて見ていくことにする。

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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その六) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その六「明治二十七年(一八九三)・「花・花曇り」など」

(子規・二十八歳。根岸に転居。浅井忠の紹介で中村不折を知り、写生俳句を作る。)

此花がいやぢやいやぢやと死なれけん ID10315 制作年27 季節春 分類植物 季語花
咲く咲かぬ花にも嘘の世なりけり   ID10316 制作年27 季節春 分類植物 季語花
其まゝに花を見た目を瞑がれぬ   ID10317 制作年27 季節春 分類植物 季語花
花咲て今人の親の病かな     ID10319 制作年27 季節春 分類植物 季語花
花咲て知らぬ男の出入かな     ID10320 制作年27 季節春 分類植物 季語花
花咲て笋飯のさかりかな       ID10321 制作年27 季節春 分類植物 季語花
花咲て老莱の親の病かな      ID10322 制作年27 季節春 分類植物 季語花
花の寺濁酒売の這入けり      ID10323 制作年27 季節春 分類植物 季語花
花の山浮世画の美人来る哉     ID10324 制作年27 季節春 分類植物 季語花
花を見た其目を直に瞑がれぬ    ID10325 制作年27 季節春 分類植物 季語花
晴れつ降りつ花にもならで狐雨   ID10326 制作年27 季節春 分類植物 季語花
山ぞひや花の根岸の一くるわ    ID10327 制作年27 季節春 分類植物 季語花

(漱石・二十八歳。小石川の尼寺法蔵院に下宿。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

40 何となう死に来た世の惜まるゝ
41 春雨や柳の中を濡れて行く
42 大弓やひらりひらりと梅の花
43 矢響の只聞ゆなり梅の中
44 弦音にほたりと落る椿かな
45 弦音になれて来て鳴く小鳥かな
46 春雨や寐ながら横に梅を見る
47 烏帽子着て渡る禰宜あり春の川
48 小柄杓や蝶を追ひ追ひ子順礼
49 菜の花の中に小川のうねりかな
50 風に乗って軽くのし行く燕かな
51 尼寺に有髪の僧を尋ね来よ
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ

夏目漱石短冊一.jpg

「夏目漱石短冊『君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/花に酔ふ事を許さぬ物思ひ』」
(注記・寒川鼠骨函書:「明治廿四年子規居士病む漱石慰問の尺牘に此短冊を添へて贈れり」) (「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

≪  君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/寄子規
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ (漱石・28歳「明治27年(1894)」)
≪ 季=花(春)。 ◇全集(大6)に明治二十七年頃として収める。(上記の「夏目漱石デジタルコレクション」では、寒川鼠骨函書により[1891(明治24).3-4]としている。)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)  ≫

(寅彦・十七歳。)

亡妻の四十九日や花曇り(明治三十二年作。二十二歳。)

(東洋城・十七歳。)

花の山学校を忘れ遊びけり(明治三十四年作。二十四歳。)

(参考)
https://shikihaku-digital-archive.jp/meijinijukunen_haikuko

明治廿九年俳句稿.jpg

子規筆「明治廿九年俳句稿」明治29(1896)年頃/縦245㎜×横170㎜(綴じた状態)
(「松山市立子規記念博物館/デジタルアーカイブ」)
https://shikihaku-digital-archive.jp/meijinijukunen_haikuko
≪※子規の自作句稿としては最大規模の一冊

本資料「明治廿九年俳句稿」は、子規が明治29年に詠んだ俳句をまとめた自筆の俳句稿です。国立国会図書館に所蔵されている子規自選句集「寒山落木(かんざんらくぼく)五」の草稿にあたるもので、季語を四季別・分類(時候・地理・人事・動物・植物など)別に配列し、句集としての体裁を整えています。収録句数は実に3,000句を超え、子規の自作句稿としては最大規模の一冊です。

明治29年は、子規の俳句革新運動が軌道に乗り、日本派(子規派)の俳句結社が全国に現れはじめた時期にあたります。また子規自身の俳句数の面でも、「寒山落木」清書本に記された俳句数は、明治27年で2,366句(抹消句含む、以下同じ)、同28年で2,843句、そして同29年は3,001句に及んでいます(講談社版『子規全集』第2巻解題)。子規にとって明治29年は、自分自身の俳句の上達にとっても、門人たちの活動の面でも、一つのピークを迎えた年でした。

本資料は、もともと明治32年までの4年分の俳句稿と一綴りにされていましたが、昭和20年の終戦後に一年ごとに分けて綴じ直されました。その後、明治31年と同32年の俳句稿は国立国会図書館に収蔵されましたが、明治29年と同30年の俳句稿は長らく行方不明のままでした。現在は、明治29年・30年ともに当館に収蔵され、子規の俳句革新を物語る貴重な資料として保存・活用されています。≫
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その五) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その五「明治二十六年(一八九三)・「蒟蒻・心太」など」

(子規・二十七歳。帝国大学文化大学中退。『獺祭書屋俳話』刊。)

菎蒻につゝじの名あれ太山寺 ID2069 制作年25 季節春 分類植物 季語つつじ
菎蒻の水さえ返る濁りかな  ID4744 制作年26 季節春 分類時候 季語冴返る
立ちながら心太くふ飛脚哉  ID6983 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
心太水にもならず明けにけり ID6984 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
心太龍宮城のはしら立て   ID6985 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
庭先の清水に白し心太    ID6986 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
婆々の留守海月にやならん心太 ID6987 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
みちのくの水の味しれ心太  ID6988 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太

(参考その一)  高浜虚子『子規句解』(「菎蒻」の句)

菎蒻につゝじの名あれ太山寺(明治廿五年)

 松山から一里ばかり離れた處に三津といふ港があつて、それが其時分松山から他に旅行する時の唯一の港であつた。現在は高濱といふ港が其近傍に出來て、其方に汽船が主として發著するやうになつたのであるが其頃は未だ其處は一漁村に過ぎなかつたのである。其の三津の近傍に太山寺といふ山があつて、そこには太山寺といふ寺がある。菎蒻が其處の名物であつてそれを太山寺菎蒻といつて、松山あたりの人々は特に賞翫して居た。そのまた太山寺には躑躅の花が見事であつた。そこで蒟蒻には太山寺菎蒻といふ名前があるが、又つゝじ蒟蒻といふ名前があつてもいゝではないか、と戯れて言つたものであらう。私の子供の時分には太山寺菎蒻といふのは名物であつたが、今は果してどうであらうか。躑躅の花も尚盛りであるかどうか。

(漱石・二十七歳。帝国大学文化大学卒業。高等師範学校英語教師。)

1218 槽底に魚あり沈む心太(明治三十年作。「子規へ送りたる句稿二十五」)
1557 蒟蒻に梅を踏み込む男かな(明治三十二年作。「子規へ送りたる句稿三十三」)  
1951 ところてんの叩かれてゐる清水かな(明治四十年作。「手帳より」)

(寅彦・十六歳。高知県尋常中学校(現・高知追手前高等学校)。)

心太とラムネの瓶を浸しけり(明治三十二年作。二十二歳。) 
心太水晶簾と賛すべく(明治三十四年作。二十四歳。)
涼しさの心太とや凝りけらし(三十四年作。二十四歳。)

(東洋城・十六歳。愛媛県尋常中学校(現・松山東高等学校))

甘酒や一樹の下の心太(明治三十三年作。二十三歳。)

(参考その二) 「寒山落木抄」周辺

https://shikihaku-digital-archive.jp/kanzanrakubok_sho

子規自選句稿「寒山落木抄.jpg

「子規自選句稿「寒山落木抄」明治27(1894)年秋/縦245㎜×横167㎜(綴じた状態)
(「松山市立子規記念博物館/デジタルアーカイブ」)

≪※子規の選句眼の成長を物語る、まぼろしの自選句集
本資料「寒山落木抄」(かんざんらくぼくしょう)は、子規が明治23年頃から同27年冬までの間に自分が作った俳句の中から、計945句を書き抜いて作成した自選句稿です。本文は全50丁、各頁は10行ずつ記されており、収録された俳句は春223句(うち抹消16句)、夏293句(うち抹消32句)、秋236句(うち抹消20句)、冬193句(うち抹消11句)を数えます。

 子規は明治18年頃に俳句を作り始めて以降、明治27年までに1万句を超える俳句を作っていました。子規が自分自身で詠んだ膨大な俳句の中から、様々な観点で良いと思う句を選抜して書き写し、一冊にまとめたのが本資料です。しかしながら本資料は、正式な子規の句集として出版されることはなく、子規の死後も自筆句稿のまま長く保管されていました。

 子規は晩年、唯一の自選句集として『獺祭書屋俳句帖抄上巻(だっさいしょおくはいくちょうしょうじょうかん)』(明治35年4月刊)を出版しています。この『獺祭書屋俳句帖抄』と「寒山落木抄」を比較してみると、共通して選抜されている俳句は全体の半数にも満たず、子規の選句眼(何をもって「良い俳句」とするか)が明治27年と同35年の間で大きく変化したことがうかがえます。本資料「寒山落木抄」は、子規の俳句の成長過程を知る上で、たいへん貴重な資料です。 ≫
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その四) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その四「明治二十五年(一八九二)・「満月・炬燵」など」

(子規・二十六歳。十二月、陸羯南の紹介で新聞「日本」入社。)

https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=24&season=&classification=&kigo=%E9%9B%AA%E8%A6%8B&s=&select=

春風や巨燵櫓のよそよそし    ID1688 制作年25 季節春 分類天文 季語春風
猫のこひ巨燵をふんで忍ひけり  ID1816 制作年25 季節春 分類動物 季語猫の恋
第一ハ雪なり第二巨燵なり    ID4321 制作年25 季節冬 分類天文 季語雪
撰集の沙汰にくれたる巨燵哉   ID4443 制作年25 季節冬 分類人事 季語炬燵
冬こもり命うちこむ巨燵哉    ID4479 制作年25 季節冬 分類人事 季語冬籠
冬籠り倉にもちこむ巨燵哉    ID4480 制作年25 季節冬 分類人事 季語冬籠

(漱石・二十六歳。五月、東京専門学校講師となる。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

(再掲)

38 鳴くならば満月になけほとゝぎす(落第した子規に「退学するな」の意を込めての句。)
39 病む人の巨燵離れて雪見かな(子規書翰「東京専門学校講師」の評判=「悪」との返句。)

病床図画賛.jpg

「病床図画賛/鳴雪・四方太書/子規画/紙本墨書/29.7×45.7㎝」
≪明治三十二年頃の作か。ほぼ同種の画と賛のものが遺っている。病床に筆をとる子規の写生画に、
  湯たんぽに足のとどかぬふとん哉 方(四方太)
  画箋紙に鼻水にじむ寒かな    鳴雪
の賛がある。同冬十二月初旬に病室の南手にガラス戸が入り、暖炉が設けられ暖かい冬を過ごすことが出来た年のことである。(後略)

※内藤鳴雪=俳人。江戸に生まれる。本名素行。松山藩校明教館・昌平黌で漢学を学ぶ。明治に入り文部省に勤務。藩の常盤会寄宿舎の舎監となり正岡子規を知り句作、日本派の長老と仰がれた。句集に「鳴雪句集」「鳴雪俳句鈔」など。弘化四~大正一五年(一八四七‐一九二六) (「精選版 日本国語大辞典)」

※阪本四方太=俳人。本名四方太(よもた)。鳥取県出身。東大国文科卒。正岡子規の指導をうけ、俳誌「ホトトギス」に俳句と共に多くの写生文を発表した。著に「夢の如し」など。明治六~大正六年(一八七三‐一九一七) (「精選版 日本国語大辞典)」  ≫

(追記)

(寅彦=「漱石」との出会い「明治二十九年・十八歳時=第五高校入学時。出典=『牛頓先生俳句集・季題別』、『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

姑の顔むつかしき炬燵かな(明治三十一~二年作。二十一歳~二十二歳)
掻餅に新聞を読む火燵かな(同上。)
火燵してアルバムを見る女哉(同上。)
ねころんで新聞を見る炬燵哉(同上。)
炬燵して絵草紙見て居る女の子(同上。)
炬燵して鏡に対す夫婦哉(明治三十九年作。満二十八歳)
睦じき頸をならべて炬燵かな(同上。)
母なき子の父に親しむ火燵哉(大正六年作。満三十六歳)
今そこに居たかと思ふ火燵(同上。)

(東洋城=「明治二十八年、十八歳時、松山中学校五年生の四月、漱石が教師として来任し、英語の教授を受ける。明治三十八年、京大卒業、翌年、二十九歳時に、宮内省に入り、式部官などを歴任。出典=『東洋城全句集(上・中・下)』の中巻の「年譜」)

筆を硯に届かせんとする炬燵かな (明治三十三年作、二十三歳)
腸焦げて黒き詩を吐く炬燵かな (明治四十二年作、三十二歳)
沓掛も枯野の宿の炬燵かな (明治四十二年作、三十二歳)

(参考その一) 「松山市立子規記念博物館/デジタルアーカイブ」周辺

https://shikihaku-digital-archive.jp/

子規自選句稿「寒山落木抄」

https://shikihaku-digital-archive.jp/kanzanrakubok_sho#gallery1-1

子規筆「明治廿九年俳句稿」

https://shikihaku-digital-archive.jp/meijinijukunen_haikuko

子規編「郷党人物月旦評論」

https://shikihaku-digital-archive.jp/kyotojinbutsu_gettanhyoron

子規選句稿「なじみ集」

https://shikihaku-digital-archive.jp/najimishu

子規歌稿「竹乃里歌」

https://shikihaku-digital-archive.jp/takenosato_uta

(俳句検索)

https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku/page/18?post_type=haiku&haiku_id&p_age=26&season&classification&kigo&s&select&doing_wp_cron=1694506083.4227440357208251953125

(参考その二)『寒山落木』と『俳句稿』周辺

『寒山落木・巻一(明治二十四年~二十五年)』・「寒山落木・巻二(明治二十六年)』→『子規全集』(第一巻)

http://geo.d51498.com/urawa0328/siki/siki-ku.html

『寒山落木・巻三(明治二十七年)』・『寒山落木・巻四(明治二十八年)』・『寒山落木・巻五(明治二十九年)』→『子規全集』(第二巻)

http://geo.d51498.com/urawa0328/siki/siki-ku.html

『俳句稿(明治三十年~三十三年)』→『子規全集』(第三巻)

http://geo.d51498.com/urawa0328/siki/siki-ku2.html

高浜虚子『子規句解』

http://geo.d51498.com/urawa0328/siki/sikikukai.html
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その三) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その三「明治二十四年(一八九一)・朝顔(朝貌)など」

(子規・二十五歳。二月、国文科に転科。虚子を指導。駒込に転居)

https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=24&season=&classification=&kigo=%E6%9C%9D%E9%A1%94&s=&select=

朝かほや斜にさきしつる一ツ  ID1471 制作年24 季節秋 分類植物 季語朝顔
朝な朝な朝がほながき契り哉  ID1472 制作年24 季節秋 分類植物 季語朝顔
朝な朝な朝がほながきさかり哉 ID1473 制作年24 季節秋 分類植物 季語朝顔

(漱石・二十五歳。七月、親しかった兄嫁・登世没)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

23 朝貌に好かれそうなる竹垣根 (季=「朝貌」=「朝顔」=秋。)
25 朝貌や咲た許りの命哉(「悼亡十三句」(嫂登世の追悼句)、冒頭の句。「朝顔=秋」。)
(付記)
26 細眉を落す間もなく此世をば (「同上」、無季の句。)
27 人生を廿五年に縮めけり (「同上」、無季。)
28 君逝きて浮世に花はなかりけり (「同上」、花(春)の句とうより無季の句。)
29 仮位牌焚く線香に黒む迄 (「同上」、無季の句。「通夜」の句。)
30 こうろげの飛ぶや木魚の声の下 (「同上」、「こうろげ=こおろぎ=秋」。「通夜」の句)
31 通夜僧の経の絶間やきりぎりす (「同上」、「きりぎりす=秋」、「通夜」の句)
32 骸骨や是も美人のなれの果 (「同上」、無季、「骨揚(こつあげ)のとき」の句)
33 何事ぞ手向し花に狂ふ蝶 (「同上」、「花・蝶=春)」、「無季(花=亡嫂、蝶=漱石)」)
34 鏡台の主の行衛や塵埃 (「同上」、無季。「初七日」の句)
35 ますら男に染模様あるかたみかな (「同上」)
36 聖人の生れ代りか桐の花 (「同上」、「桐の花」=夏、「朝顔の花」=秋。)
37 今日よりは誰に見立ん秋の月(「同上」、「秋の月」=秋。「月」=亡嫂の見立て。)

(追記)

(寅彦=「漱石」との出会い「明治二十九年・十八歳時=第五高校入学時。出典=『牛頓先生俳句集・季題別』、『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

枳殻(キコク=からたち)垣を朝顔二三のぞきけり(明治三十一年作。二十一歳、漱石初出会)
所狭きまで朝顔並べ屋根の上(「同上」。漱石との初出会いは試験失敗の友人の「点貰い」)
かれがれの朝顔からむれんじ窓(「同上」。五高(田丸卓郎)で「物理学」専攻を固める。)
朝顔の唯一色に淋しさよ(漱石に「俳句」の話を聞き、漱石に師事。「落穂集」など。)

(東洋城=「明治二十八年、十八歳時、松山中学校五年生の四月、漱石が教師として来任し、英語の教授を受ける。明治三十八年、京大卒業、翌年、二十九歳時に、宮内省に入り、式部官などを歴任。出典=『東洋城全句集(上・中・下)』の中巻の「年譜」)

朝顔の夕顔の種蒔きにけり(明治三十五年作、二十五歳。九月、子規没。)
朝顔や置屋もすなる鄙の宿(明治三十七年作、二十七歳。新設の京都大学へ転校。)
朝顔や縁を畳へ日二尺(明治四十四年作、三十四歳。寅彦帰朝。漱石、大阪で病む。)
朝顔や天過つて紺青を(大正八年作、四十二歳。宮内省を退官。「朝日俳壇」の選を担当。)
朝顔やどの色とめし妹が帯(大正九年作、四十三歳。寅彦・豊隆「渋柿」に毎号執筆。)

仰臥漫録・朝顔.jpg

「仰臥漫録・朝顔」(子規画賛)
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202010050000/

(参考その一) 「仰臥漫録5:朝顔」周辺

≪ 子規は明治34年9月9日の『仰臥漫録』には、川崎(のちに原)安民が鋳造した蛙の置物の絵を描きました。高さ7cmの実物大の絵には正面と背面が描かれ、「無花果に手足生えたると御覧ぜよ」と句を詠んでふざけています。(中略)
9月13日には、中央に朝顔を置き、句を添えています。
   朝皃や絵の具にじんで絵を成さず
   朝顔や絵にかくうちに萎れけり 
   朝顔のしぼまぬ秋となりにけり
   蕣のー輪ざしに萎れけり
 
 明治32年8月10日の「ホトトギス」に掲載された『庭』という文に子規庵の庭の変遷が書かれています。子規が家族と移った明治27年2月の頃の庭には、「余が六年前にこの家に移って来た時は、始めて空地を開いて建てた家で、その新しい家へ始めて住んだのだから、庭の隅に一本の椎があり、垣の外に大きな椎と槻がある外は、木も草も何もなかった」とあり、ほとんど何も植えていませんでした。この年の秋の「朝顔の引き捨てられし莟かな」という句には、「草庵の囲いあるとある限り、蕣はいつかせて朝な朝な楽しみしに、ある日家主なる人の使して杉垣枯れなんとてことごとくそを引かせたる。誠に悲しく浮世のさまなりける」の詞書があり、引かれてしまった庭の朝顔を寂しく思う子規が感じられます。
 ただ、翌年もまた、庭の朝顔は花を咲かせました。当時の子規は、日清戦争取材の帰りの船中で吐血したため、須磨保養院で療養していました。看病していた高浜虚子が、子規の母に子規の病状を報告するために一時東京に帰りました。その時の庭の様子を子規に告げたのでしょう。子規は「須磨にある頃、虚子おとずれして、君が庵の朝顔は今さかりというに」の詞書で「帰るかと朝顔咲きし留守の垣」と詠んでいます。(後略)  ≫

(参考その二)  高浜虚子『子規句解』(「蕣」二句抜粋)

http://geo.d51498.com/urawa0328/siki/sikikukai.html

≪蕣や君いかめしき文學士(明治廿六年)

 朝顔は立派な花をつけている。漱石は新たに文學士になつてやつて來た、といふだけの句であるあるが、子規も大學につゞけて居さへすれば共に文學士となつたのである。自分から好んでゞはあつたが、併し病氣のためもあつて、大學を中途退學した。「前にも「孑孑の蚊になる頃や何學士」といふ句があるやうに、もとの同窓生が何學士といふ肩書を背負つて世の中に出て來るのを見ると、多少の感慨が無いでもない。殊に親しい交りを呈した漱石が、文學士といふ肩書を持つてけふ改まつて子規のところへ來た、といふやうな感じである。

蕣に今朝は朝寢の亭主あり(明治廿六年)

 この句はおそらく東北の旅を終へて歸つた時の句であらうと思ふ。子規は元來朝寢坊であつた。それといふのも、夜更かしをして仕事をする癖があつたので自然朝寢をする傾きになつたものであらう。子規の留守中はお母さんも妹さんも、朝早く起きて拭掃除も早く出來る日がつづいたのであるが、子規が歸つて來ると、旅疲れもまじつて忽ち朝寢坊の主人がある家になつた、と云ふことをいつたものである。 ≫
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その二) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その二「明治二十三年(一八九〇)・東風(春風)など」

(子規・二十四歳。第一高等中学校卒、帝国大学文化大学哲学科入学。碧悟桐を指導。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&haiku_id&p_age=23&season&classification&kigo=%E6%98%A5%E9%A2%A8&s&select&doing_wp_cron=1694306169.9556319713592529296875

春風の吹き残したり富士の雪  ID623 制作年23 季節春 分類天文 季語春風
春風も眠る日和や子守うた   ID625 制作年23 季節春 分類天文 季語春風

(漱石・二十四歳。帝国大学文化大学英文科入学。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

4 寐てくらす人もありけり夢の世に(「眼病で退屈している」旨の子規宛書簡、無季)
6 東風吹くや山一ぱいの雲の影(「東風(こち)」=東から吹く風。春風)
(※=付記)
※2337 春風に吹かれ心地や温泉(ゆ)の戻り(大正三年作。四十八歳)

(追記)

(寅彦=「漱石」との出会い「明治二十九年・十八歳時=第五高校入学時。出典=『牛頓先生俳句集・季題別』、『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

電線に凧のかかりて春の風(明治三十一~二年作。「漱石へ送りたる句稿その十一」)
春風や遊女屋並ぶ向ふ岸(明治三十二年作。「ホトトギス(五月)」)

(東洋城=「明治二十八年、十八歳時、松山中学校五年生の四月、漱石が教師として来任し、英語の教授を受ける。明治三十六年、二十六歳時、漱石帰朝、一高・東大講師となり、漱石を師とする。腸チフスで東大休学、翌年、新設の京大に入学、明治三十八年、京大卒業、翌年、二十九歳時に、宮内省に入り、式部官などを歴任。出典=『東洋城全句集(上・中・下)』の中巻の「年譜」)

東風の汐膨ると思ひ地球かな(明治四十四年作。三十四歳)
東風吹くや伊豆眞鶴へただむきに(大正四年作。三十八歳)
東風の汐昔江の島といふを遺しぬ(同上)
東風吹くや鶏犬声を忘れ里(昭和八年作、五十六歳)

(参考)「 ※2337 春風に吹かれ心地や温泉(ゆ)の戻り(漱石、大正三年作。四十八歳)

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201901290000/

銭湯風景.jpg

「春風に吹かれ心地や温泉(ゆ)の戻り(大正三年作。四十八歳)」当時の「漱石・千駄木時代」の「銭湯風景」(?)
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201901290000/
≪  垢つきし赤き手絡や春惜しむ(明治41)
   黍遠し河原の風呂へ渡る人(明治43)
   春風に吹かれ心地や温泉の戻り(大正3)
 
 漱石の長女・筆子の回想録『夏目漱石の「猫」の娘』によると、初めて自宅に風呂がとりつけられたのは、家中で大騒ぎだったといいます。
 筆子の娘婿である半藤一利は『漱石先生ぞな、もし』で「漱石邸に内風呂が入ったのは? となると、残念ながらさだかではないが、明治末年、少なくとも大正元年に『彼岸過迄』が書かれる直前ぐらいのことではないかと二ランでいる。おそらく明治四十三年の修善寺大患後であろう。千駄木町の家に湯殿のあったことを示す図解があるが、風呂桶は据えられていなかったのである」とあります。長女の筆子が生まれたのは明治32年ですから、20歳前後の頃だったのでしょう。
 
 初めて、私の家にお風呂がとりつけられた時にも、家中で大騒ぎをした記憶がございます。家中はしゃぎ回って、私達は勿論のこと、父まで、何度も何度も書斎から出て来ては、お風呂に手を突込んで熱さ加減をみながら、右往左往して居りました。
 ところが、誰一人として、お湯を下の方から掻きまわさなければならないことを知らないのです。お手伝いさんの一人が、手を入れてもう良さそうだと、「旦那様、お湯がわきました」と書斎の父に報らせに参りますと、
「うん、よし、よし」
と待ちに待って板父が、張り切って出て参りました。
 ジャブンと飛び込んだ途端に、
「ひやっ、冷たい」 ≫

道後温泉本館.jpg

道後温泉本館「泳ぐべからず」
https://kinarino.jp/cat8/33008

≪ おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈(だけ)は立派なものだ。」
そう坊っちゃんも褒める「住田の温泉」とは、道後温泉のこと。道後温泉本館が完成した翌年の明治28(1895)年に松山に赴任した漱石は、知人にあてた手紙の中でも絶賛するほど道後温泉がお気に入りで、「坊っちゃん」さながら足繁く通っていたそうです。≫
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「子規・漱石・寅彦・東洋城」(~子規没まで)俳句管見(その一) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その一「明治二十二年(一八八九)・時鳥(子規・ほととぎす)など」

(子規・二十三歳。正月、漱石を知る。五月九日喀血。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&haiku_id&p_age=22&season&classification&kigo=%E6%99%82%E9%B3%A5&s&select&doing_wp_cron=1694245298.6711421012878417968750

川向ひどこのやしきへ時鳥   ID501 制作年22 季節夏 分類動物 季語時鳥
五月雨を思ふてなくか子規   ID502 制作年22 季節夏 分類動物 季語時鳥
往て還るほどは夜もなし子規  ID508 制作年22 季節夏 分類動物 季語時鳥
卯の花をめかけてきたかほとゝきす ID509 制作年22 季節夏 分類植物 季語卯の花

(漱石・二十三歳。子規見舞い二句)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-19

(再掲)

漱石の俳句は、明治二十二年(一八八九)に、東京大学(予備門)での、正岡子規との出会いによる、次の二句から始まる。

1  帰ろふと鳴かずに笑へ時鳥  (漱石・23歳「明治22年(1889)」)
2  聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (漱石・23歳「明治22年(1889)」)

≪季語=時鳥(夏)。「時鳥」の異名「不如帰」(帰るに如かず)に託して喀血した正岡子規を激励した句。子規と時鳥とは同義。正岡子規は明治二十二年五月九日に喀血した。翌日、医者に肺病と診断され、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を作った。卯の花を自分になぞらえ(子規は卯年生れ)、肺病(結核)を時鳥と表現俳句。(中略) 子規はこれらの俳句を作ったことから、自ら子規と号するようになった。この年の一月頃に急速に親しくなった漱石は、五月十三日に子規を見舞い、その帰途に子規のかかっていた医師を訪ねて病状や療養の仕方を聞いている。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

(追記)

(寅彦=「漱石」との出会い「明治二十九年・十八歳時=第五高校入学時。出典=『牛頓先生俳句集・季題別』、『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

時鳥京に客たる三年目   (明治三十四年作。満二十三歳)      
時鳥一寸先の闇の声    (同上)       
時鳥くらがり坂を君帰る  (同上)
時鳥剣(けん)を按(あん)じて失せ玉ひぬ(同上、「失せ玉ひぬ」の原句は「君逝けり」)

(東洋城=「明治二十八年、十八歳時、松山中学校五年生の四月、漱石が教師として来任し、英語の教授を受ける。明治三十三年、二十三歳時、一高・東大へ入学、東洋城と号す。明治三十六年、二十六歳時、漱石帰朝、一高・東大講師となり、漱石を師とする。腸チフスで東大休学、翌年、新設の京大に入学、明治三十八年、京大卒業、翌年、二十九歳時に、宮内省に入り、式部官などを歴任。出典=『東洋城全句集(上・中・下)』の中巻の「年譜」)

時鳥牡丹に月の雫せよ(明治三十五年作。二十五歳)
時鳥硯に墨を立てる時(明治四十三年作。三十三歳)
二階から朝顔棚や時鳥(同上)
時鳥雨の鳥居は松の中(同上)
時鳥も鳴かで明けたる一夜かな(大正十五年、昭和元年、四十九歳)
時鳥あららぎに奈良の夜あるかな(昭和四年作、五十二歳)

「紫陽花郭公図(蕪村画).jpg


「紫陽花郭公図(あじさいほととぎすず)」日本画 / 絵画 / 江戸 / 日本/与謝蕪村 (1716-1784年)/江戸時代/明和7-安永6/紙本,墨画淡彩/38.7 x 64.3cm(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/90300
≪(解説) 俳人、文人、画家であった蕪村は、享保年間末に江戸に下り、俳諧を学び、江戸俳壇に出る一方、絵画にも親しみ、寛保初年に江戸を後にして放浪生活に入り、各地を旅して10年余を過ごした。宝暦初年に京に上り、画業に心を寄せ、国内のさまざまな流派はもとより、中国諸家の作品や版本類を研究して自己の画風を形成した。初期文人画の足跡を受け継ぎ、日本の文人画を大成したのは池大雅と与謝蕪村であった。中国への憧れをもちつつもその影響を離れ、日本的な文人画を創り出すことに大きく貢献した。「岩くらの狂女戀せよほととぎす」この句は天明三年刊維駒編『五車反古』に出ている。おそらく蕪村最晩年の句であろう。空に鋭く啼き渡る郭公と、たっぷりとした墨色の葉にすがすがしい藍色の施された紫陽花が大きく描かれている。句のもつ激しい情調を象徴的に表した珠玉の作品である。≫

(参考) 「一寸先は闇ではなく光」(周辺)

時鳥一寸先の闇の声(寅彦、明治三十四年作。二十三歳)   

https://www.engakuji.or.jp/blog/35010/

(抜粋)

≪ 「二度とない人生(坂村真民)」
(1989年 「二度とない人生だから」は藤掛廣幸に依り曲が付けられ8月6日に「89 海と島の博覧会・ひろしま」のメイン会場で初演された。)

二度とない人生だから
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう
二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず
書くことにしよう
二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう
二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう
二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一遍でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう  ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その十五) [「子規と漱石」の世界]

その十五  漱石の「観自在帖」周辺

観自在帖(全作品紹介).jpg

「観自在帖(全作品紹介)」
https://hzrhq.agaterlm.top/index.php?main_page=product_info&products_id=30145

≪右一列上段「観自在帖(1)」→「観自在(漱石題)/紙本墨書・淡彩・24.4×36.3㎝」
右一列中段「観自在帖(2)」→「藤花図」/同上」
右一列下段「観自在帖(3)」→「隔水東西住」/同上」
右二列上段「観自在帖(4)」→「竹図」/同上」
右二列中段「観自在帖(5)」→「渡尽東西水」/同上」
右二列下段「観自在帖(6)」→「鉢花図」/同上」
右三列上段「観自在帖7)」→「柳芽を」/同上」
右三列中段「観自在帖(8)」→「牡丹図」/同上」
右三列下段「観自在帖(9)」→「起臥乾抻」/同上」
右四列上段「観自在帖10)」→「松林図」/同上」
右四列中段「観自在帖(11)」→「二十年来愛碧林/同上」
右四列下段「観自在帖(12)」→「竹石図/同上」

≪ 観自在とは、迷いの執念から解放された境界にあって、事物のすがたが自由自在に正しくみきわめられることを意味する仏教語。

観自在帖(1).jpg

「観自在帖(1)」→「観自在(漱石題)」
https://jp.mercari.com/item/m87413254274

 大正四年の春、漱石は京都に旅したが、病臥した。その後、小康を得て、乞わるるままに、小品の書画を楽しみながら書いた。贈られた磯田家では、この書画帖の巻頭の書「観自在」(上記図)をとって「観自在帖」と名付けている。
 画帖は「観自在」に続いて「藤花図」(「観自在帖(2)」)「隔水東西住」(「観自在帖(3)」)の五言絶句に展開される。

隔水東西住 (水を隔てて東西に住み)
白雲往又還 (白雲往(ゆ)きて又(また)還(かえ)る)
東家松籟起 (東家(とうか)に松籟起(お))これば)
西屋竹珊々 (西屋(せいおく)竹) 珊々(さんさん))

 この詩は、大正五年初夏頃の「断片」にも載っているが、そこでは「白雲」は「閑雲」、「又」は「復」と改められている。『漱石全集』では「又」は「也(また)」となっている。
 松籟は松風、珊々は、もとは玉のふれあう音から竹の葉のそよぎを形容している。最後の句に呼応して水墨の「竹図」(「観自在帖(4)」)がある。
 次の「渡尽東西水」(「観自在帖(5)」)には、

渡尽東西水 (渡り尽くす東西の水)
三過翠柳橋 (三(み)たび過(す)ぐ翠柳(すいりゅう)の橋)
春風吹不断 (春風(しゅんぷう)吹いて断(た)たず)
春恨幾條々 (春恨(しゅんこん)幾條々(いくじょうじょう))
 春日偶成 漱石

の五言絶句があって、これは明治四十五年(一九一二)五月二十四日の「春日偶成 十首」中の最後の詩。
 修善寺大患の『思ひ出す事など』以後、約一年半ばかり、全く作詩から遠ざかっていた漱石は、この「春日偶成 十首」以後、盛んに作詩した。しかし、それまでと趣を異にして、南画の賛、題詩の類か、少なくとも南画的光景を詠じたものばかりといっていいのが特色だと『漱石の漢詩』の中に松岡譲は述べている。
 この詩は旧作だが「観自在帖」に入れるにふさわしいと思ったのであろう。吉川幸次郎氏は『漱石詩注』で、「渡尽東西水」は明の高青邱(こうせいきゅう)の「胡隠君(こいんくん)を尋ぬ」に「水を渡り復(また)水を渡る。花を看(み)て還(また)花を看る。春風江上の路、覚えず君が家に到る」があり、これはこの句を導いたのであろうと述べている。それはそれとして、前掲(8図=「木屋町の宿をとりて川向の御多佳さんに」の前書がある「春の川を隔てて男女哉」)の「春の川を隔てて男女哉」の情緒につながるものを、かつての作に感じて、記したように思えてならない。
 なお、大正三年の作「同じ橋三たび渡りぬ春の宵」は、この漢詩と通ずるものがある。

 「観自在帖(6)」は、可憐な花をつけた木を描いた「鉢花図」。
 「観自在帖7)」は、
柳芽(やなぎめ)を吹いて四条のはたごかな 漱石
 の俳句で、大正四年四月、京都にて作った八句中の第一句。
 漱石の約一か月の京都滞在中の句で、続いて次の句がある。
見あぐれば坂の上なる柳かな
筋違に四条の橋や春の川
 鴨川に面した宿の二階の部屋に通されたというが、久しぶりに京都の春景色に、旅情を感じている漱石の感慨が示されている。また「はたご」という古風な語が、いかにも京都の土地がらにふさわしい。

 次の「観自在帖8)」は、満開の牡丹、蕾の牡丹を描いた「牡丹図」(下記の図)。

観自在帖(8).jpg

「観自在帖(8)」→「牡丹図」
https://jp.mercari.com/item/m87413254274

 「観自在帖(9)」の「起臥乾抻」は、

起臥乾抻一草亭 (起臥す乾抻一草亭(けんこんいっそうてい))
眼中只有四山青 (眼中只有り四山の青(せい))
閑来放鶴長松下 (閑来(かんらい)鶴を放(はな)つ長松(ちょうしょう)の下)
又上虚堂読易経 (又(ま)た虚堂(きょどう)に上(のぼ)って易経を読む)

 の七言絶句で、「閑来放鶴図」(下記の図)の題賛のみを書いたもの。『漱石全集』では「只」が「唯」となっている。

(付記) 「閑来放鶴図」

≪大正三年の題賛。漱石の理想境と思われるところを実に丹念に描き、この画は代表作の一つと目せられている。印は白文方印「漱石」。≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説39・40(福田清人稿)」)

閑来放鶴図自画賛.jpg

「閑来放鶴図自画賛」紙本着色/146.0×39.0㎝
https://aucview.aucfan.com/yahoo/d205942908/

(観自在帖10.jpg

「(観自在帖10)」→「松林図」
https://hzrhq.agaterlm.top/index.php?main_page=product_info&products_id=30145

 「(観自在帖10)」は、松林の中に庵があり、対話する二人の人物を配した「松林図」(上記の図)。

 そして、「観自在帖(11)」は、次の七言絶句(「二十年来愛碧林」)。

二十年来愛碧林 (二十年来碧林(へきりん)を愛す)
山人須解友虚心 (山人(さんじん)須(す)べからく解す虚心を友とするを)
長毫漬墨時如雨 (長毫(ちょうもう)漬墨(しぼく)時に雨の如し)
欲写鏗鏘戞玉音 (写さんと欲(ほっ))す鏗鏘(こうしょう) 戞玉(かつぎょく)の音(ね))

碧林は青い竹林、山人は山の隠士、長毫は毛の長い筆、漬墨はにじんだ墨、鏗鏘は金属や玉がふれあって鳴る音、戞玉はふれあう玉。この詩は大正三年の画賛であるが「題竹」として、「観自在帖」のために重ねて書いた。

 最後の「観自在帖(12)」岩に竹を配し、淡彩で描いた「竹石図」。詩句六点、画六点で「観自在帖」は構成されている。  ≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説14~25(福田清人稿)」)

この「観自在帖」は、「漢詩」(「観自在帖(3)」・「観自在帖(5)」・「観自在帖(9)」・「観自在帖(11)」)、「俳句」(「観自在帖7)」→「柳芽を」)、「書」(「観自在帖(1)」→「観自在(漱石題)」)、「南画」(「観自在帖10)」→「松林図」)、そして、「俳画」(「観自在帖(2)」・「観自在帖(4)」・「観自在帖(6)」・「観自在帖(8)」・「観自在帖(12)」」)と、漱石の世界の全貌を探索する上で、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 因みに、「俳句」(「観自在帖7)」→「柳芽を」)関連は、次の八句ということになる。

大正4年(1915年)

2437 柳芽を吹いて四条のはたごかな
≪季=柳の芽(春) ※2443までの七句は京都での作。漱石は三月十九日から四月十六日まで京都に滞在した。この句はこの滞在中に磯田多佳(2440参照)に贈った画帖『観自在帖』に記されている。◇全集(大6)が「四月京都にて 八句」として収める(ただし、八句のうち一句は、(2372))に同じ)。  ≫

2438 筋違に四条の橋や春の川
≪季=春の川。※筋違(すじかい)は斜め、はすかい。蕪村の句に「ほととぎす平安城を筋違に」があり、漱石は『創作家の態度』でこの句について言及している。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

2439 紅梅や舞の地を弾く金之助
≪季=紅梅(春)。※金之助は祇園 の芸妓の名。本名梅垣きぬ。≫(「同上」)

     木屋町に宿とりて川向
     の御多佳さんに(一句)
2440 春の川を隔てゝ男女かな
≪季=春の川。京都の漱石の宿は木屋町三条上ルにあった北大嘉(きたのたいが)。多佳は祇園 大友(だいとも)の女将、磯田多佳。鴨川の東に大友が、西に北大嘉があった。後略≫(「同上」)

2441 萱草の一輪咲きぬ草の中
≪季=萱草(かんぞう)=夏。※画賛の句。萱草はユリ科の多年草。夏に百合に似た橙赤色の花を一日だけ開く。忘れ草。西川一草亭が画いた萱草の絵に賛をしたものが知られている(『夏目漱石遺墨集』第三巻)。 ≫(「同上」)

2442 牡丹剪つて一草亭を待つ日哉
≪季=牡丹(夏)。※自画賛の句。一草亭は華道去風流の西川一草亭。実弟が津田青楓であり、漱石は京都滞在中に親しく交わった。≫(「同上」)

(付記) 「牡丹剪つて一草亭を待つ日哉(漱石)」自画賛(周辺)

https://rendezvou.exblog.jp/5253202/

一草亭・自画賛.jpg

「牡丹剪つて一草亭を待つ日哉(漱石)」自画賛図

  牡丹剪って一草亭を待つ日かな  漱石
2443 椿とも見えぬ花かな夕曇
≪季=椿(春)。※自画賛の句。≫(「同上」)

大正3年(1914年)

2372 見上ぐれば坂の上なる柳哉
≪季=柳(春)。≫(「同上」)


(参考その一)「津田青楓・西川一草亭 と 漱石の交友」周辺

https://rendezvou.exblog.jp/6290544/

≪ 漱石と京都、学問の繋がりでは松本文三郎、狩野亨吉がいずれも京都帝国大学(旧文科大学)の長であり、漱石へ教師として講座を依頼していました。明治40年4月、漱石は京都の銀閣寺北にあった松本文三郎の山房に招かれその礼状を送っています。

「拝啓 京都滞在中は尊来を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振るひ落し候」

市街と離れたこの地を漱石はたいへん気に入り、東京付近ではこんな住居は求められないと賞賛しています。しかし、41年6月、書状で教師就任と講義の件は断っているのです。狩野亨吉とも同じやりとりがあったは史実に遺されている処です。

ただ、これら碩学の友人は当時京都在住ではありましたが、故郷は別にあり後に京都を去った人でした。京都に生まれ育ったきっすいの京都人で、親密な知人といえば、津田青楓と西川一草亭きょうだいを措いてはないと思われます。今回はこのふたりにスポットを当ててみることにいたしましょう。

☆フランス帰りの青年画家・津田青楓

漱石門下の小宮豊隆の仲介で津田青楓が漱石に逢ったのは明治44年。京都に育ち、日露戦争が終わると官費でフランスに3年間留学した貧しい青年画家で、帰国してまもなく京都から東京に出た頃でした。本名津田亀次郎、雅号青楓。

彼は、フランスで日本人の仲間が落ち合うレストランでの思い出を述懐しています。留学生の彼らは、漱石の『坊っちゃん』や『我輩は猫である』『草枕』の掲載されている雑誌を持ち込み朗読していたそうです。

津田と共にいた安井(安井曽太郎)は新参者であり、朗読するのは古参の留学生ら。

「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体ぶった風流人はない。広い視界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに、鞠躬如(きっきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である…」

『草枕』の一節を聞いては「愉快だね」と、うれしがる古参者ら。津田はそれを横目で見ながらこの時、漱石に親愛の情を感じはじめたと書いています。

けれども、彼の父親は去風洞挿花家元西川源兵衛(一葉)であり、また表千家の茶人でもあったのですから、皮肉なものです。明治44年、縁あって漱石門下に入ることになります。漱石にとっては趣味にしている描画のよき相談相手になり、心許せる門下生でありました。津田が漱石山房に出入りするようになった後、実兄の西川一草亭をまた漱石に引き合わせるのでした。

 津田清楓は述べています。

「京都はいやだった。親兄弟のお付き合いばかりして、やれお花見だ、やれお茶会だ、やれなんだかんだで引っ張り出されることばかしで、仕事なんかするひまはない。京都の人間は画家は風流人で、風流人は閑人だと思っているんだ。やりきれない…」

 漱石と散歩しながらの話を彼はこんな風に書いています。

「君の親の商売は何だと云われるので、一寸嫌だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です」といい、父は風雅な風采をして茶ばかり啜っていると云った後で、

「だから僕を学校にもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それ家を飛び出して孤児のように自分でやっとここまでこぎつけたのです」

長男は特別で次男以下は同等ではなかった明治の家族制度を思いますと、こうした話も理解できるのではないでしょうか。いっぽう、兄の西川一草亭は長男として教育も受け家業を継ぎました。去風洞挿花をさらに盛り立て、『瓶史』を刊行する著名な文化人となっていました。

☆去風洞主人・西川一草亭

漱石は、大正4年3月21日、京都滞在中に西川一草亭の招きで彼の住居である茶室を訪れています。まず、漱石自身の筆記を見ることにいたします。

漱石全集 大正4年 日記14 (日記・断片 下)
「二一日(日)
八時起る。下女に一体何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だといふ。夜はと聞けば二時頃と答ふ。驚くべし。」

漱石は旅館の女中の生活を聞き、労働時間が長いのに驚いています。それから宿の窓からのぞむ加茂川とかなたの東山が霞でよく見えないのに河原で合羽を干すさまを書きとめています。

☆漱石 去風洞・小間の茶室に入る

「東山霞んで見えず、春気曖、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成(なるべく)早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞といふ門をくぐる。奥まりたる小路の行き当たり、左に玄関。くつ脱ぎ。水打ちて庭樹幽すい、寒きこと夥し。」

寒がりの漱石はここでも京の底冷えの寒さに震え上がっています。数奇屋の庭はこの時期殺風景な感じもあったでしょうし、待合の座敷から暖かい陽光の遮られた暗い茶室へ入り、心寒いばかりの想いがあったのではないでしょうか。それでも漱石の観察眼はするどく克明に記憶にとどめています。

「床に方祝の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華厳世界。一草亭中人。御公卿様の手習い机。茶席へ案内、数奇屋草履。石を踏んでし尺(しせき)のうちに路を間違へる。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。」

ここは、露地を歩きながら茶室への方向を間違え、やっと茶室のにじり口を見つけたところです。武士も刀を外して身分の上下なく入る狭き入り口なのです。漱石はどうやら身をかがめて茶室内に入ったようです。

「更紗の布団の上にあぐらをかき壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂いや水屋のうち迄も」といふ月並みな俳句の賛あり。」

暗い茶室内には天井に突き上げ窓が開けられていました。ここから自然光が入る仕組みになっているのです。しかし、同時に冷気も入ったことでしょう。次に懐石料理が書かれています。この去風洞の近くに「松清」という料理屋があり、亭主は懐石をそこから取り寄せたもようです。

☆懐石料理の献立はどういうものだったか

「料理 鯉の名物松清。鯉こく。鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食ふ。箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。」
(後略)

 箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだ、のくだりは、茶道で懐石の作法になっているものです。客は食事が終わった合図として、静かに箸を膳の上に落とし亭主に知らせ、主はその音を水屋で聞くとすぐに膳を引きに来るわけです。

ところで、この献立を見るかぎりでは、西川一草亭は茶事を余りしていなかったのではないかと私は思います。理論はできても茶道の基本的な稽古をしていたかどうか…。父親から手前を習ったことはあるとだけ書かれています。

茶懐石では、海の幸、山の幸を少しづつとりまぜて消化の好い調理をし、無理なく食べられる分量で客に呈すのが本筋です。料理屋にまかせず亭主自ら客のことを考え吟味しなければいけません。しかし、この献立では胃腸の重篤な病をもつ漱石に如何なものかと思われてならないのです。

☆漱石「腹具合あしし」

案の定、漱石は23日の日記に「腹具合あしく且つ天気あしゝ。天気晴るれど腹具合なほらず。」とあるのです。翌24日には更に、腹具合は悪化します。
多佳女が云い出して北野天神の梅見の約束をしていたにも拘わらず、断りなく多佳が遠出していたことで漱石は深く傷つくのです。

「二十四日(水)
寒、暖なれば北野の梅を見に行こうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方に行って今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ。夕方懸けたって仕方がない。(中略)腹具合あしし。」

この時漱石は東京に帰るべく、「晩に気分あしき故明日出立と決心す」といったんは京都を離れる決意をしたのでした。この危機的状況を救ったのがまた津田青楓その人でした。

付きっ切りで看病する津田は多佳女に懸命にとりなすように依頼し、祇園の芸妓で漱石信奉者のお君さん、金之助にも来て貰い、最悪の状態を切り抜けました。京都滞在はこの後更に続くことになります。

「二十五日
御多佳さんが来る。出立ちをのばせと云ふ。医者を呼んで見てもらえと云ふ。(中略)多佳さんと青楓君と四人で話しているうちに腹具合よくなる。」

結局、漱石は翌月の4月16日まで、都合二十九日間京都に滞在したのです。東京へ帰ってから胃腸の病は深刻になり、翌月大正5年の12月9日までその病苦は続きました。

☆西川一草亭に漱石は感想をのべる

「漱石と庭」と題した一草亭のエッセイに、漱石が来庵した折の事柄が興味深く書かれています。その一部分を抜粋します。

「夏目さんの来られたのは三月の末で、さう云ふ時分にこう云ふ家を見ると只陰気で不愉快なばかりだった。夏目さんはその暗い陰気な座敷の床の前に坐って、欄間に懸かっている「一草亭中之人」と云ふ夏目さん自身の字を眺めたり、床の間に生けておいた室咲きの牡丹の花を見たりして、最後に此処の家賃はいくらするかねと尋ね、「こんな家は只でも嫌だね」と云って心から嫌な顔をされた。」

まあ、客としては失礼な物言いですが、体調の悪い人への亭主の心配りも「も一つ」だったようです。

江戸っ子漱石と京都、かならずしも相性は悪くなかったのです。相性が悪かったのは、京都の寒さだけだったのかもしれません

☆正直で飾り気のない交友

表裏のある狡猾な人間を嫌悪した漱石。それゆえに江戸っ子と自他ともに認めた気性でした。では、その対極にあるのが京都人だという世間の見方があるとすれば…。それは概には云えないのではないでしょうか。

 西川・津田兄弟を見ましても自分の家はもとより時代へ厳しい批判精神をもち、それを公言して憚らなかった京都人なのでした。1千年有余の歴史を有し伝統を保ちつつ、京都が革新の都といわれる所以はここにも見られると思います。

 漱石は祇園の一力で舞妓の運ぶ薄茶を喜んで喫しています。展覧会では茶道具の名品を手帳に書き付けています。そして漱石は乾山の向付けの一揃いを見つけそれを津田青楓に贈ってもいます。茶道そのものを嫌っていたのではありません。

漱石は、東京に帰ってからは「京都の閑雅をひとり懐かしんでいます、また行くつもりです」と書簡に書きながら、大正5年12月9日に、49歳の生涯を終えたのでした。
(後略)   ≫


(参考その二) 「漱石遺墨について」周辺

file:///C:/Users/user/Downloads/8011_0005_05.pdf

(抜粋)

1.漢詩( 『不成帖』 )
2.椿図( 『不成帖』 )
3.春蘭図( 『画帖』 )
4.竹林図( 『不成帖』 )
5.藤花図( 『観自在帖』 )
6.牡丹図( 『観自在帖』 )
7.松林図( 『観自在帖』 )
8.春蘭図ヵ( 『不成帖』 )
9.竹石図( 『観自在帖』 )
10.芭蕉図( 『咄哉帖』 )
11.椿図
12.東家西屋図( 『画帖』 )
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夏目漱石の「俳句と書画」(その十四) [「子規と漱石」の世界]

その十四 漱石の「漢詩と書画」周辺

崖臨碧水図自画賛(漱石)・部分図.jpg

「崖臨碧水図自画賛(漱石)」(部分図)

崖臨碧水図自画賛(漱石)・全体図.jpg

「崖臨碧水図自画賛(漱石)」紙本着色/134.0×33.0㎝
https://nipponkanshi.hankeidou.jp/2016/08/2016080702-242dd1bf16a.html
≪厓臨碧水老松愚 (厓は碧水に臨んで 老松 愚なり)
 路過危橋仄徑迂 (路は危橋を過ぎて 仄径 迂なり)
 佇立筇頭雲起處 (佇立す 筇頭に雲起こる処)
 半空遙見古浮圖 (半空 遥かに見る 古浮図)    ≫
≪ 七言絶句は大正三年作。仄徑(そくけい)はかすかな小道。筇頭(きょうとう)は杖の頭。
古浮圖(こふと)は古い寺塔。印は白文方印で「漱石」とある。 ≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説38(福田清人稿)」)

漱石漢詩文年表一.jpg

「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿))所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」)その一
https://www.taishukan.co.jp/files_upload/upload/owned_media_magazine/journalkanbun203.pdf

漱石漢詩文年表二.jpg

「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿)」所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」その二
https://www.taishukan.co.jp/files_upload/upload/owned_media_magazine/journalkanbun203.pdf

 夏目漱石の「詩(漢詩)と画(南画)の世界」というのは、上記の「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿)」所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」の、その「第四期(1912年5月~1916(大正5年)春)・満四五~四九歳」の時代ということになる。
 その中で、≪〔題自画〕「山上有山路不通」七言絶句。自らの画に題した最初の詩≫の、
その「山上有山路不通」(七言絶句)は次のものである。

山上有山路自画賛(漱石).jpg

「山上有山路自画賛(漱石)」紙本着色/66.5×45.0㎝
https://nipponkanshi.hankeidou.jp/2016/08/2016080701-6b734ac079c4.html

≪山上有山路不通 (山上に山有りて 路 通ぜず)
柳陰多柳水西東 (柳陰に柳多くして 水 西東)
扁舟盡日孤村岸 (扁舟 尽日 孤村の岸)
幾度鵞群訪釣翁 (幾度か鵞群 釣翁を訪ふ)   ≫
≪大正元年十一月作。扁舟は小舟。盡日は終日。釣翁は年老いた釣り人。この頃からしきりに画を描き、自作の題詩を賛し、楽しんだ。対岸に白く塗り残しになっているいくつかりの斑点は、どうやら鵞の群らしいと松岡譲は述べている。なお、四句目の「幾度鵞群」の下にある「知波頭」が,『漱石詩集』になく、削られている。七言絶句であるから、賛の字数はおかしいわけである。なお、印は朱文円印「漱石」 ≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説41(福田清人稿)」)

夏目漱石の生涯というのを、鳥瞰的・概括的に考察するときに、上記の「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿))所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」は、多くの示唆を投げ掛けてくれる。
 以下(参考その一)に、その「抜粋」(第一期~第五期)に対応して、「俳句の時代」・「作家(小説家)の時代」・「漢詩(南画)の時代」などのネーミングを付すると、次のとおりとなる。
 そして、上記の「崖臨碧水図自画賛(漱石)」と「山上有山路自画賛(漱石)」とは、≪第四期1912 年 5 月〜 1916(大正5)年春 →「漢詩(南画)の時代」≫の代表作ということになる。

【(参考その一) 「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿))所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」(抜粋)

第一期〜 1894(明治27)年3 月  → 「修養期」 
《少年期から大学卒業まで》・〜満二七歳
おもに課題作文や友人との交流にともなう漢詩文が書かれていた。

第二期1895 年 5 月〜 1900(明治33)年  → 「俳句の時代」
《松山中学から第五高等学校を経て渡英まで》・満二八歳〜三三歳
第五高等学校在籍中は同僚の漢学者長尾雨山(ながおうざん)(一八六四〜一九四二)に詩の添削を受けていた。

空白期1900 〜 1910(明治 43)年 → 「作家(小説)の時代」 
《英国留学から小説家となるまで》・満三三〜四三歳
一九〇〇年から一九〇三年までの英国留学(滞在中の一九〇二年九月に子規没)、第一高等学校講師着任の後、一九〇五年一月に「吾輩は猫である」を「ホトトギス」誌上に発表。
以降、漱石は小説家の道を歩み、一九〇七年四月には朝日新聞社に入社して長編小説の執筆を仕事とする。

第三期1910(明治43)年 7 〜10 月 → 「病臥・転換期」
《修禅寺大患前後》・満四三歳
胃潰瘍による入院を機に再び詩を作り始める。とくに修禅寺大患後の作が多い。

第四期1912 年 5 月〜 1916(大正5)年春 →「漢詩(南画)の時代」
《詩と画の世界》・満四五〜四九歳
この時期の漱石は好んで南画を描くようになり、しばしば自ら詩を題した。また、人に求められて書いた作も少なくない。

第五期1916(大正 5)年 8 月〜 11 月20 日 「最晩年期」
《『明暗』執筆期》・満四九歳
七言律詩を作ることを日課とし、生涯で最も集中して詩が作られた時期。 】

【(参考その二)  「第七講 漱石の美術批評」(抜粋)

https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0291360.pdf

 晩年に描かれた南画山水を見ると、漱石がいかに描くという行為に没頭し、そこに自分の世界をかったかと思われてならない。それが、漱石の自己本位を基本とする作家のあるべき態度だったかいなかったはずである。私には、この場合の「人が見て」というのは「自分が見て」と同じではなだからといって、漱石はそのために何か具体的な努力をするとか技術的な工夫をしようとは思ってほぼ同様の文面が見られることからも、これが漱石の本心から出たものであることは疑いないが、りません」 ( 「津田青楓宛書簡」大正二年十二月八日付) という言葉がある。
同日、野上豊一郎宛にも気持のする奴をかいて死にたいと思ひます文展に出る日本画のやうなものはかけてもかきたくはあら人が見て難有い心持のする絵を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で難有い築き上げていったかが伝わってくる。しばしば引用される漱石の言葉に「私は生涯に一枚でいゝからである。そして、何よりも、漱石にとって絵を描くことは自己を映し出すことであり、自己を実以上を要すれば、漱石にとって美術とは、孤独を慰める話し相手、創作に刺激をもたらす良き友、自己を映し出し実現することのできる分身のような存在であったという言い方も可能であろう。 】
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夏目漱石の「俳句と書画」(その十三) [「子規と漱石」の世界]

その十三 漱石の「子規没後の俳句(その三)」(「明治四十五年/大正元年~」周辺)

 「子規→虚子」の流れは、俳句結社(雑誌)の「ホトトギス」として、未だに、「俳句」界の、「定型俳句」(「自由律俳句」に対する「定型俳句)の牙城として君臨し続けている。
 これに比して、「子規→碧悟桐」の流れ(「新傾向俳句」)を汲む、「自由律俳句」の「層雲」(荻原井泉水ら)や「海紅」(中塚一碧楼ら)は、多数派の「ホトトギス」に対して少数派ということになる。
 もう一つ、「子規・漱石→東洋城」の、「俳諧=連句」と親近感を有する「定型俳句」(「俳諧の発句」的「伝統俳句」)を標榜する俳誌「渋柿」も、漱石門下の「小宮豊隆、寺田寅彦、安倍能成、鈴木三重吉」等々が参画して、さながら、「ホトトギス」の「虚子俳句」に対する、「渋柿」の「漱石俳句」という感すら抱かせるものがある。

漱石山房と其弟子達A.jpg

「漱石山房と其弟子達」(津田清楓画)→A図
https://blog.goo.ne.jp/torahiko-natsume/e/6ad1c4767dddc3568e6b34e7d727b501
≪「上段の左から」→則天居士(夏目漱石)・寅彦(寺田寅彦)・能成(阿部能成)・式部官(松根東洋城)・野上(野上豊一郎)・三重吉(鈴木三重吉)・岩波(岩波茂雄)・桁平(赤木桁平)・百閒(内田百閒)
「下段の左から」→豊隆(小宮豊隆)・阿部次郎・森田草平/花瓶の傍の黒猫(『吾輩は猫である』の吾輩が、「苦沙弥」先生と「其門下生」を観察している。)
「則天居士」=「則天去私」の捩り=「〘連語〙 天にのっとって私心を捨てること。我執を捨てて自然に身をゆだねること。晩年の夏目漱石が理想とした心境で、「大正六年文章日記」の一月の扉に掲げてあることば。」(「精選版 日本国語大辞典」)
「天地人間」(屏風に書かれた文字)=「天地人」=「① 天と地と人。宇宙間の万物。三才。② 三つあるものの順位を表わすのに用いる語。天を最上とし、地・人がこれに次ぐ。
※落語・果報の遊客(1893)〈三代目三遊亭円遊〉「発句を〈略〉天地人を付ける様な訳で」(「精選版 日本国語大辞典」)→「2096 空に消ゆる鐸のひびきや春の塔(漱石・「前書」=「空間を研究せる天然居士の肖像に題す」)→「空間に生れ、空間を究(きわ)め、空間に死す。空たり間たり天然居士(てんねんこじ)噫(ああ)」(『吾輩は猫である』第三話)

https://www.konekono-heya.com/books/wagahai3.html    ≫

 この「漱石山房と其弟子達」(津田清楓画)は、その姉妹画(『漱山と十大弟子(津田清楓著)』の挿絵)』関連のものがあって、それは下図のようなものがある。

漱石山房と其弟子達B.jpg

津田青楓≪漱石と十弟子≫昭和51(1976)年/紙本著色/A4判用(縦30.9cm×横22.0cm×厚さ0.04cm)→B図
https://takadanobaba.keizai.biz/photoflash/2115/
https://soseki-museum.jp/user-guide/museum-shop/
≪ A図とB図とを比較すると、まず、A図(「則天居士」=漱石)B図(「漱石大明神」となり、A図(百閒)がB図(「筆者亀吉)」=「青楓」)となり、「弟子」(寅彦・能成・東洋城・豊一郎・三重吉・茂雄・桁平・豊隆・次郎・草平)も、そのネーミングを異にしている。
そして、屏風の文字も、A図「天地/人間」に比して、B図「地/非在天/人間」と様変わりをしている。≫

(追記) 夏目漱石俳句集(その九)<制作年順> 明45/大正元年(1912年)~大正5年(1916年)・年月不詳(2284~2527 )

明治45年/大正元年(1912年)

2284 雪の夜や佐野にて食ひし粟の飯
2285 壁隣り秋稍更けしよしみの灯
2286 懸物の軸だけ落ちて壁の秋
2287 行く春や壁にかたみの水彩画
2288 壁に達磨それも墨画の芒哉
2289 如意払子懸けてぞ冬を庵の壁
2290 錦画や壁に寂びたる江戸の春
2291 鼠もや出ると夜寒に壁の穴
2292 壁に脊を涼しからんの裸哉
2293 壁に映る芭蕉夢かや戦ぐ音
2294 壁一重隣に聴いて砧かな
2295 水盤に雲呼ぶ石の影すゞし
2296 湯壺から首丈出せば野菊哉
2297 五六本なれど靡けばすゝき哉
2298 蚊帳越しに見る山青し杉木立
2299 御かくれになつたあとから鶏頭かな
2300 厳かに松明振り行くや星月夜
2301 かりそめの病なれども朝寒み
2302 秋風や屠られに行く牛の尻
2303 橋なくて遂に渡れぬ枯野哉
2304 杉木立寺を蔵して時雨けり
2305 豆腐焼く串にはらはら時雨哉
2306 琴作る桐の香や春の雨

大正2年(1913年)

2307 人形も馬もうごかぬ長閑さよ
2308 菊一本画いて君の佳節哉
2309 四五本の竹をあつめて月夜哉
2310 萩の粥月待つ庵となりにけり
2311 葉鶏頭高さ五尺に育てけり

大正3年(1914年)

2312 播州へ短冊やるや今朝の春
2313 松立てゝ門鎖したる隠者哉
2314 春の発句よき短冊に書いてやりぬ
2315 冠を挂けて柳の緑哉
2316 鶯は隣へ逃げて藪つゞき
2317 つれづれを琴にわびしや春の雨
2318 欄干に倚れば下から乙鳥哉
2319 我一人行く野の末や秋の空
2320 内陣に仏の光る寒哉
2321 春水や草をひたして一二寸
2322 縄暖簾くゞりて出れば柳哉
2323 橋杭に小さき渦や春の川
2324 同じ橋三たび渡りぬ春の宵
2325 蘭の香や亜字欄渡る春の風
2326 老僧に香一しゅの日永哉
2327 竹藪の青きに梅の主人哉
2328 茶の木二三本閑庭にちよと春日哉
2329 日は永し一人居に静かなる思ひ
2330 世に遠き心ひまある日永哉
2331 線香のこぼれて白き日永哉
2332 留守居して目出度思ひ庫裏長閑
2333 我一人松下に寐たる日永哉
2334 引かゝる護謨風船や柳の木
2335 門前を彼岸参りや雪駄ばき
2336 そゞろ歩きもはなだの裾や春の宵
2337 春風に吹かれ心地や温泉の戻り
2338 仕立もの持て行く家や雛の宵
2339 長閑さや垣の外行く薬売
2340 竹の垣結んで春の庵哉
2341 玉碗に茗甘なうや梅の宿
2342 草双紙探す土蔵や春の雨
2343 桶の尻干したる垣に春日哉
2344 誰袖や待合らしき春の雨
2345 錦絵に此春雨や八代目
2346 京楽の水注買ふや春の町
2347 万歳も乗りたる春の渡し哉
2348 春の夜や妻に教はる荻江節
2349 木蓮に夢の様なる小雨哉
2350 降るとしも見えぬに花の雫哉
2351 春雨や京菜の尻の濡るゝほど
2352 落椿重なり合ひて涅槃哉
2353 木蓮と覚しき花に月朧
2354 永き日や頼まれて留守居してゐれば
2355 木瓜の実や寺は黄檗僧は唐
2356 春寒し未だ狐の裘
2357 寺町や垣の隙より桃の花
2358 見連に揃の簪土間の春
2359 染物も柳も吹かれ春の風
2360 連翹の奥や碁を打つ石の音
2361 春の顔真白に歌舞伎役者哉
2362 小座敷の一中は誰梅に月
2363 花曇り御八つに食ふは団子哉
2364 炉塞いで窓に一鳥の影を印す
2365 寺町や椿の花に春の雪
2366 売茶翁花に隠るゝ身なりけり
2367 高き花見上げて過ぎぬ角屋敷
2368 塗笠に遠き河内路霞みけり
2369 窓に入るは目白の八つか花曇
2370 静かなるは春の雨にて釜の音
2371 驢に騎して客来る門の柳哉
2372 見上ぐれば坂の上なる柳哉
2373 経政の琵琶に御室の朧かな
2374 楼門に上れば帽に春の風
2375 千社札貼る楼門の桜哉
2376 家形船着く桟橋の柳哉
2377 芝草や陽炎ふひまを犬の夢
2378 早蕨の拳伸び行く日永哉
2379 陽炎や百歩の園に我立てり
2380 ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚
2381 紙雛つるして枝垂桜哉
2382 行く春や披露待たるゝ歌の選
2383 眠る山眠たき窓の向ふ哉
2384 魚の影底にしばしば春の水
2385 四つ目垣茶室も見えて辛夷哉
2386 祥瑞を持てこさせ縁に辛夷哉
2387 如意の銘彫る僧に木瓜の盛哉
2388 馬を船に乗せて柳の渡哉
2389 田楽や花散る里に招かれて
2390 行春や僧都のかきし絵巻物
2391 行春や書は道風の綾地切
2392 藁打てば藁に落ちくる椿哉
2393 静坐聴くは虚堂に春の雨の音
2394 良寛にまりをつかせん日永哉
2395 一張の琴鳴らし見る落花哉
2396 春の夜や金の無心に小提灯
2397 局に閑あり静かに下す春の石
2398 春深き里にて隣り梭の音
2399 銀屏に墨もて梅の春寒し
2400 三味線に冴えたる撥の春浅し
2401 海見ゆる高どのにして春浅し
2402 白き皿に絵の具を溶けば春浅し
2403 筍は鑵詰ならん浅き春
2404 行く春のはたごに画師の夫婦哉
2405 行く春や経納めにと厳島
2406 行く春や知らざるひまに頬の髭
2407 鶯や髪剃あてゝ貰ひ居る
2408 活けて見る光琳の画の椿哉
2409 飯食へばまぶた重たき椿哉
2410 行春や里へ去なする妻の駕籠
2411 酒の燗此頃春の寒き哉
2412 晧き歯に酢貝の味や春寒し
2413 嫁の傘傾く土手や春の風
2414 春惜む日ありて尼の木魚哉
2415 業終へぬ写経の事や尽くる春
2416 春惜む茶に正客の和尚哉
2417 冠に花散り来る羯鼓哉
2418 門鎖ざす王維の庵や尽くる春
2419 春惜む句をめいめいに作りけり
2420 枳殻の芽を吹く垣や春惜む
2421 鎌倉へ下る日春の惜しき哉
2422 新坊主やそゞろ心に暮るゝ春
2423 桃の花隠れ家なるに吠ゆる犬
2424 草庵や蘆屋の釜に暮るゝ春
2425 牽船の縄のたるみや乙鳥
2426 三河屋へひらりと這入る乙鳥哉
2427 呑口に乙鳥の糞も酒屋哉
2428 鍋提げて若葉の谷へ下りけり
2429 料理屋の塀から垂れて柳かな
2430 酒少し徳利の底に夜寒哉
2431 酒少し参りて寐たる夜寒哉
2432 眠らざる夜半の灯や秋の雨
2433 電燈を二燭に易へる夜寒哉
2434 秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ

大正4年(1915年)

2435 春を待つ支那水仙や浅き鉢
2436 真向に坐りて見れど猫の恋
2437 柳芽を吹いて四条のはたごかな
2438 筋違に四条の橋や春の川
2439 紅梅や舞の地を弾く金之助
2440 春の川を隔てゝ男女かな
2441 萱草の一輪咲きぬ草の中
2442 牡丹剪つて一草亭を待つ日哉
2443 椿とも見えぬ花かな夕曇
2444 宝寺の隣に住んで桜哉
2445 白牡丹李白が顔に崩れけり
2446 木屋丁や三筋になつて春の川
2447 竹一本葉四五枚に冬近し
2448 女の子十になりけり梅の花
2449 水仙や早稲田の師走三十日
2450 水仙花蕉堅稿を照しけり
2451 菊の花硝子戸越に見ゆる哉

大正5年(1916年)

2452 春風や故人に贈る九花蘭
2453 白梅にしぶきかゝるや水車
2454 孟宗の根を行く春の筧哉
2455 梅早く咲いて温泉の出る小村哉
2456 いち早き梅を見付けぬ竹の間
2457 梅咲くや日の旗立つる草の戸に
2458 裏山に蜜柑みのるや長者振
2459 温泉に信濃の客や春を待つ
2460 橙も黄色になりぬ温泉の流
2461 鶯に聞き入る茶屋の床几哉
2462 鶯や草鞋を易ふる峠茶屋
2463 鶯や竹の根方に鍬の尻
2464 鶯や藪くゞり行く蓑一つ
2465 鶯を聴いてゐるなり縫箔屋
2466 鶯に餌をやる寮の妾かな
2467 温泉の里橙山の麓かな
2468 桃の花家に唐画を蔵しけり
2469 桃咲くやいまだに流行る漢方医
2470 輿に乗るは帰化の僧らし桃の花
2471 町儒者の玄関構や桃の花
2472 かりにする寺小屋なれど梅の花
2473 文も候稚子に持たせて桃の花
2474 琵琶法師召されて春の夜なりけり
2475 春雨や身をすり寄せて一つ傘
2476 鶯を飼ひて床屋の主人哉
2477 耳の穴掘つてもらひぬ春の風
2478 嫁の里向ふに見えて春の川
2479 岡持の傘にあまりて春の雨
2480 一燈の青幾更ぞ瓶の梅
2481 病める人枕に倚れば瓶の梅
2482 梅活けて聊かなれど手習す
2483 桃に琴弾くは心越禅師哉
2484 秋立つや一巻の書の読み残し
2485 蝸牛や五月をわたるふきの茎
2486 朝貌にまつはられてよ芒の穂
2487 萩と歯朶に賛書く月の団居哉
2488 棕櫚竹や月に背いて影二本
2489 秋立つ日猫の蚤取眼かな
2490 秋となれば竹もかくなり俳諧師
2491 風呂吹きや頭の丸き影二つ
2492 煮て食ふかはた焼いてくふか春の魚
2493 いたづらに書きたるものを梅とこそ
2494 まきを割るかはた祖を割るか秋の空
2495 饅頭に礼拝すれば晴れて秋
2496 饅頭は食つたと雁に言伝よ
2497 吾心点じ了りぬ正に秋
2498 僧のくれし此饅頭の丸きかな
2499 瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風

年月不詳

2500 忠度を謡ふ隣や春の宵
2501 帰り路は鞭も鳴さぬ日永かな
2502 馬市の秣飛び散る春の風
2503 春雨や四国遍路の木賃宿
2504 野を焼た煙りの果は霞かな
2505 春の水馬の端綱をひたしけり
2506 鶯や障子あくれば東山
2507 鳴く蛙なかぬ蛙とならびけり
2508 大方はおなじ顔なる蛙かな
2509 遠雷や香の煙のゆらぐ程
2510 夏草の下を流るゝ清水かな
2511 蚊ばしらや断食堂の夕暮に
2512 蓮毎に来るべし新たなる夏
2513 そり橋の下より見ゆる蓮哉
2514 ひとむらの芒動いて立つ秋か
2515 びんに櫛そよと動きぬ今朝の秋
2516 うそ寒や綿入きたる小大名
2517 明けたかと思ふ夜長の月あかり
2518 吾猫も虎にやならん秋の風
2519 すゞなりの鈴ふきならす野分哉
2520 酔過ぎて新酒の色や虚子の顔
2521 長からぬ命をなくや秋の蝉
2522 いくさやんで菊さく里に帰りけり
2523 元禄の頃の白菊黄菊かな
2524 ふつゝかに生れて芋の親子かな
2525 行く年を隣の娘遂に嫁せず
2526 発句にもまとまらぬよな海鼠かな
2527 水仙や朝ぶろを出る妹が肌


(参考その一) 「夏目先生の俳句と漢詩(寺田寅彦)」周辺

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43569_24585.html

 夏目先生が未だ創作家としての先生自身を自覚しない前に、その先生の中の創作家は何処(どこ)かの隙間を求めてその創作に対する情熱の発露を求めていたもののように思われる。その発露の恰好(かっこう)な一つの創作形式として選ばれたのが漢詩と俳句であった。云わば遠からず爆発しようとする火山の活動のエネルギーがわずかに小噴気口の噴煙や微弱な局部地震となって現われていたようなものであった。それにしてもそのために俳句や漢詩の形式が選ばれたという事は勿論偶然ではなかったに相違ない。先生の自然観人世観が始めから多分に俳句漢詩のそれと共通なものを含んでいた事は明らかであるが、しかしまた先生が俳句漢詩をやった事が先生の自然観人世観にかなりの反作用を及ぼしたであろうという事も当然な事であろう。ともかくも先生の晩年の作品を見る場合にこの初期の俳句や詩を背景に置いて見なければ本当の事は分らないではないかと思う事がいろいろある。少なくも晩年の作品の中に現われている色々のものの胚子(はいし)がこの短い詩形の中に多分に含まれている事だけは確実である。
 俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠の鑿(のみ)のすさびに彫(きざ)んだ小品をこの集に見る事が出来る。
 先生の俳句を年代順に見て行くと、先生の心持といったようなものの推移して行った迹(あと)が最もよく追跡されるような気がする。人に読ませるための創作意識の最も稀薄な俳句において比較的自然な心持が反映しているのであろう。例えば修善寺における大患以前の句と以後の句との間に存する大きな距離が特別に目立つ、それだけでも覗(うかが)ってみる事は先生の読者にとってかなり重要な事であろうかと思われる。
 色々の理由から私は先生の愛読者が必ず少なくもこの俳句集を十分に味わってみる事を望むものである。先生の俳句を味わう事なしに先生の作物の包有する世界の諸相を眺める事は不可能なように思われる。また先生の作品を分析的に研究しようと企てる人があらばその人はやはり充分綿密に先生の俳句を研究してかかる事が必要であろうと思う。
(昭和三年五月『漱石全集』第十三巻、月報第三号)


(参考その二)  「漱石の親友 天然居士・米山保三郎」周辺

https://rendezvou.exblog.jp/7067220/

 学生時代の夏目金之助に作家になることを勧め漱石が彼の言葉に強く動かされた人物・米山保三郎のことはよく知られています。ただ、これまで研究者の中で誤解があり、漱石の語句の解釈に問題があるまま流布されてきたのが現状です。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

 焼き芋と鼻汁を垂らす、これは禅の歴史に実在した中国の禅僧・懶さん(王ヘンに賛)和尚の故事から来る引用なのでした。漱石は畏敬する親友の米山保三郎へ深い愛情と禅に生きる彼を讃える意味で書いたものでしょう。しかし、世間一般ではなかなか通用しない事も充分知っていました。そうであるからこそ、『猫』のなかで次のように書いているのです。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

 苦沙弥先生、一気呵成にこう書き流し、声を出してこれを読み、「ハハハ面白い」と笑うが、「うん。鼻汁を垂らすはさすがに酷だ、焼き芋も蛇足だ」と線を引き。結局「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」だけにしたころで、これではあまりに簡単すぎると全部ボツにして、原稿用紙の裏に「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士、噫」

 実際、漱石はこの米山の兄、熊次郎から実弟の写真へ揮毫を懇望されて、漱石は俳句を書いています。その俳句とは、

空に消ゆる鐸のひびきや春の塔 という追悼の一句です。親友の死を悼む漱石の心情があふるるばかり、見事な名句と思います。写真は400X300mm、単身像の右側にこの句があり、左にこう記されています。

空間を研究する天然居士の肖像に題す 己酉 四月 漱石

 己酉,となれば、1909年、明治四十二年です。漱石が朝日新聞社に入社して2年目の四月に詠んだものと明確に判るのが嬉しいところです。また、米山が鼻水を垂らすの表現がとかく世俗的に解釈され、漱石がいかにしてこの語句を入れたかということは研究者の間でないがしろにされて来ました。しかし、漱石がただ、ユーモラスにこんな語句を入れるはずはないのです。洟を垂らそうが自分は三昧になっているのだという仏道の修行による逸話なのです。

 出典もありますから、その引用もしておきましょう。『碧巖録』第三十四則より。

「懶瓚和尚。隱居衡山石室中。唐德宗聞其名。遣使召之。使者至其室宣言。天子有詔。尊者當起謝恩。瓚方撥牛糞火。尋煨芋而食。寒涕垂頤未甞答。使者笑曰。且勸尊者拭涕。瓚曰。我豈有工夫為俗人拭涕耶。竟不起。使回奏。德宗甚欽嘆之。」

(懶瓚和尚、衡山石室の中に隱居す。唐の德、宗其の名を聞いて、使を遣して之を召す。使者、其の室に至つて宣言す。天子詔有り、尊者まさに起つて恩を謝すべし。瓚、まさに牛糞の火を撥つて、煨芋を尋ねて食す。寒涕、頤に垂れて未だ甞て答えず。使者笑つて曰く、且らく勸む、尊者、涕を拭え。瓚曰く、我れ豈に工夫の俗人の為に涕を拭くこと有らん耶といつて、竟に起たず。使、回つて奏す。德宗、甚だ之を欽嘆す。)

 私は嘗て東慶寺の井上禅定和尚様から分かりやすいお話を聞いておりました。

昔、中国の偉い坊さんがあって皇帝が先生になってくれって勅使を迎えに遣るんだ。当時の中国では牛の糞の乾いたのを焚き付けにしてその牛糞の火の中へ芋をいれて焼いている処へ勅使が来た。らいさん和尚は牛糞の中から芋を掘り出して勅使に食えって云うんだ。勅使が見るとこの和尚、鼻水を垂らして下顎まで延びている。それを勅使は「まあ、洟を拭きなさいと云ったんだ。

なんだ、お前はそんな事で来たのか、勅使としておれを迎えに来たのではねえのか。おれが洟を垂らしていようがそんな事どうでもいい事だ、おれは三昧になっているんだ。っていう面白い問答があるんだよ。それを元にして漱石は「焼き芋を食らい、鼻汁を垂らす」てな、昔の懶瓚和尚がやったという事を思い出して書いているんだけれど、猫に笑われるから消しちゃうんだ。」(鎌倉漱石の会会報所載)

 やはり禅定様の仰ることは納得のゆくものですね。

念のために付記しますと、漱石の友人で円覚寺・釈宗演の師である今北洪川について参禅をし、居士号を与えられた逸材が二人いました。無為という居士号は菅虎雄、天然の居士号は米山保三郎でした。米山は不運にも若くして病死したのでしたが、彼の伝記を漱石が書くという計画もあったと狩野亨吉は書いています。漱石がもう少し生きていたらなば実現したかも知れないのですが…。
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夏目漱石の「俳句と書画」(その十二) [「子規と漱石」の世界]

その十二 漱石の「子規没後の俳句その二)」(「明治四十年~四十四年」周辺)

吾輩は猫である・初出.jpg

「吾輩は猫である」初出/俳句雑誌「ホトトギス」(第8巻4号・1905年・明治35年1月)
https://www.facebook.com/SosekiFan/photos/a.190617470970894/1350207411678555/?type=3

「ホトトギス((第8巻)」(目次集)

http://www.hototogisu.co.jp/

第4号/明治38年(1905)1月
第5号/明治38年(1905)2月
第6号/明治38年(1905)3月
第7号/明治38年(1905)4月
第8号/明治38年(1905)5月
第9号/明治38年(1905)6月
第10号/明治38年(1905)7月
第11号/明治38年(1905)7月
第12号/明治38年(1905)8月
第13号/明治38年(1905)9月

「吾輩は猫である」(「初出」と「単行本」)

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/syuyo-neko.html

吾輩は猫である・初出と単行本.jpg

(初出)『ホトトギス』 明治38年1月~明治39年8月まで10回にわたり断続的に連載
(単行本)上編 明治38年10月 中編 明治39年11月 下編 明治40年5月 大倉書店・服部書店
≪(内 容)
 猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は「坊っちゃん」とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石(1867-1916)となった。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 東風君、苦沙弥君、皆勝手な事を申候。それ故に太平の逸民に候。現実世界にあの主義では如何と存候。御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼らのいふ所は皆真理に候。しかしただ一面の真理に候。決して作者の人生観の全部に無之故(これなきゆえ)その辺は御了知被下(くだされたく)候。あれは総体が諷刺に候。現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ『猫』中に収め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働きかける所を議論致したくと存候。
(明治39年8月7日 畔柳芥舟あて書簡より)

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけでしまうつもり。またかくまで世間の評判を受けようとは少しも思っておりませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。(中略)
 妙なもので、書いてしまった当座は、全然胸中の文字を吐き出してしまって、もうこの次には何も書くようなことはないと思うほどですが、さて十日経ち廿日経って見ると日々の出来事を観察して、また新たに書きたいような感想も湧いて来る。材料も蒐められる。こんな風ですから『猫』などは書こうと思えば幾らでも長く続けられます。(「文学談」)≫(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」)

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=209617

≪「俳句の五十年(高浜虚子著)」抜粋

 ある時私は漱石が文章でも書いて見たならば気が紛れるだろうと思いまして、文章を書いて見ることを勧めました。私は別に気にも留めずにおったのでありまして、果して出来るか、出来んかも分らんと考えておったのでありました。ところが、その日になって立寄ってみますと、非常に長い文章が出来ておりまして、頗(すこぶ)る機嫌が良くって、ぜひこれを一つ自分の前で読んでみてくれろという話でありました。文章会は時間が定まっておりまして、その時間際に漱石の所に立寄ったのでありましたが、そういわれるものですから止むを得ず私はその文章を読んでみました。ところがなかなか面白い文章であって、私等仲間の文章とすると、分量も多くそれに頗る異色のある文章でありましたから、これは面白いから、早速今日の文章会に持出して読んでみるからといって、それを携えて文章会に臨みました。私がその漱石の家で読んだ時分に、題はまだ定めてありませんでして、「猫伝」としようかという話があったのでありますが、「猫伝」というよりも、文章の初めが「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しでありますから、その「吾輩は猫である」という冒頭の一句をそのまま表題にして「吾輩は猫である」という事にしたらどうかというと、漱石は、それでも結構だ、名前はどうでもいいからして、私に勝手につけてくれろ、という話でありました。それでその原稿を持って帰って、「ホトトギス」に載せます時分に、「吾輩は猫である」という表題を私が自分で書き入れまして、それを活版所に廻したのでありました。
 それからその時分は、誰の文章でも一応私が眼を通して、多少添削するという習慣でありましたからして、この『吾輩は猫である』という文章も更に読み返してみまして、無駄だと思われる箇所の文句はそれを削ったのでありました。そうしてそれを三十八年の一月号に発表しますというと、大変な反響を起しまして、非常な評判になりました。それというのも、大学の先生である夏目漱石なる者が小説を書いたという事で、その時分は大学の先生というものは、いわゆる象牙の塔に籠もっていて、なかなか小説などは書くものではないという考えがあったのでありますが、それが小説を書いたというので、著しく世人の眼を欹(そばだ)たしめたものでありました。そればかりではなく、大変世間にある文章とは類を異にしたところからして、非常な評判となったのでありました。
 それで、漱石は、ただ私が初めて文章を書いてみてはどうかと勧めた為に書いたという事が、動機となりまして、それから漱石の生活が一転化し、気分も一転化するというような傾きになってきたのでありました。それと同時に『倫敦塔』という文章も書きまして「帝国文学」の誌上に発表しました。
 それから『吾輩は猫である』が、大変好評を博したものですから、それは一年と八ヶ月続きまして、続々と続篇を書く、而(しか)もその続篇は、この第一篇よりも遙かに長いものを書いて、「ホトトギス」は殆(ほとん)どその『吾輩は猫である』の続篇で埋ってしまうというような勢いになりました。それが為に「ホトトギス」もぐんぐんと毎号部数が増して行くというような勢いでありました。≫

(追記) 夏目漱石俳句集(その八)<制作年順> 明40年(1907年)~明治44年(1911年)(1910~2283)

明治40年(1907年)

1910 御降になるらん旗の垂れ具合
1911 隠れ住んで此御降や世に遠し
1912 御降に閑なる床や古法眼
1913 打つ畠に小鳥の影の屡す
1914 物いはぬ人と生れて打つ畠か
1915 長短の風になびくや花芒
1916 月今宵もろもろの影動きけり
1917 里の灯を力によれば燈籠かな
1918 春寒の社頭に鶴を夢みけり
1919 布さらす磧わたるや春の風
1920 屑買の垣より呼べば蝶黄なり
1921 香焚けば焚かざれば又来る蝶
1922 旅に寒し春を時雨れの京にして
1923 永き日や動き已みたる整時板
1924 加茂にわたす橋の多さよ春の風
1925 雀巣くふ石の華表や春の風
1926 花食まば鶯の糞も赤からん
1927 姫百合に筒の古びやずんど切
1928 恋猫の眼ばかりに痩せにけり
1929 藤の花に古き四尺の風が吹く
1930 若葉して又新なる心かな
1931 髪に真珠肌あらはなる涼しさよ
1932 時鳥厠半ばに出かねたり
1933 のうぜんの花を数へて幾日影
1934 看経の下は蓮池の戦かな
1935 蓮剪りに行つたげな椽に僧を待つ
1936 蓮に添へてぬめの白さよ漾虚集
1937 白蓮に仏眠れり磬落ちて
1938 生死事大蓮は開いて仕舞けり
1939 ほのぼのと舟押し出すや蓮の中
1940 蓑の下に雨の蓮を蔵しけり
1941 田の中に一坪咲いて窓の蓮
1942 夕蓮に居士渡りけり石欄干
1943 明くる夜や蓮を放れて二三尺
1944 蓮の欄舟に鋏を渡しけり
1945 蓮の葉に麩はとゞまりぬ鯉の色
1946 石橋の穴や蓮ある向側
1947 一八の家根をまはれば清水かな
1948 したゝりは歯朶に飛び散る清水かな
1949 宝丹のふたのみ光る清水かな
1950 苔清水天下の胸を冷やしけり
1951 ところてんの叩かれてゐる清水かな
1952 底の石動いて見ゆる清水哉
1953 二人して片足宛の清水かな
1954 懸崖に立つ間したゝる清水哉
1955 したゝりは襟をすくます清水かな
1956 両掛や関のこなたの苔清水
1957 市に入る花売憩う清水かな
1958 樟の香や村のはづれの苔清水
1959 澄みかゝる清水や小き足の跡
1960 法印の法螺に蟹入る清水かな
1961 追付て吾まづ掬ぶ清水かな
1962 三どがさをまゝよとひたす清水かな
1963 汗を吹く風は歯朶より清水かな
1964 岩清水十戸の村の筧かな
1965 かち渡る鹿や半ばに返り見る
1966 二三人砧も打ちぬ鹿の声
1967 寄りくるや豆腐の糟に奈良の鹿
1968 橋立や松一筋に秋の空
1969 抽んでゝ富士こそ見ゆれ秋の空
1970 鱸釣つて舟を蘆間や秋の空
1971 春の水岩ヲ抱イテ流レケリ
1972 花落チテ砕ケシ影ト流レケリ
1973 朝貌や惚れた女も二三日
1974 垣間見る芙蓉に露の傾きぬ
1975 秋風や走狗を屠る市の中
1976 山の温泉や欄に向へる鹿の面
1977 灯火を挑げて鹿の夜は幾時
1978 芋の葉をごそつかせ去る鹿ならん
1979 厠より鹿と覚しや鼻の息
1980 山門や月に立たる鹿の角
1981 ひいと鳴て岩を下るや鹿の尻
1982 水浅く首を伏せけり月の鹿
1983 見下して尾上に鹿のひとり哉
1984 行燈に奈良の心地や鹿の声
1985 漫寒の温泉も三度目や鹿の声
1986 岩高く見たり牡鹿の角二尺
1987 蕎麦太きもてなし振や鹿の角
1988 郡長を泊めてたまたま鹿の声
1989 宵の鹿夜明の鹿や夢短か
1990 暁に消ぬ可き月に鹿あはれ
1991 秋の空幾日迎いで京に着きぬ
1992 雲少し榛名を出でぬ秋の空
1993 押分る芒の上や秋の空
1994 秋の空鳥海山を仰ぎけり
1995 朝顔の今や咲くらん空の色
1996 立秋の風に光るよ蜘蛛の糸
1997 恩給に事足る老の黄菊かな
1998 菊に結へる四っ目の垣もまだ青し
1999 端渓に菊一輪の机かな
2000 杉垣に昼をこぼれて百日紅
2001 酸多き胃を患ひてや秋の雨
2002 大鼓芙蓉の雨にくれ易し
2003 後仕手の撞木や秋の橋掛り
2004 朝日のつと千里の黍に上りけり
2005 露けさの庵を繞りて芙蓉かな
2006 露けさの中に帰るや小提灯
2007 かりがねの斜に渡る帆綱かな
2008 雁や渡る乳玻璃に細き灯を護る
2009 北窓は鎖さで居たり月の雁
2010 傾城に鳴くは故郷の雁ならん
2011 夕雁や物荷ひ行く肩の上
2012 灯を入るゝ軒行燈や雁低し
2013 帆柱をかすれて月の雁の影
2014 客となつて沢国に雁の鳴く事多し
2015 遠近の砧に雁の落るなり
2016 提灯に雁落つらしも闇の畔
2017 花びらの狂ひや菊の旗日和
2018 侘住居作らぬ菊を憐めり
2019 白菊や書院へ通る腰のもの
2020 草庵の垣にひまある黄菊かな
2021 旗一竿菊のなかなる主人かな
2022 草共に桔梗を垣に結ひ込みぬ
2023 白桔梗古き位牌にすがすがし
2024 草刈の籠の目を洩る桔梗かな
2025 桔梗活けて宝生流の指南かな
2026 扶け起す萩の下より鼬かな
2027 ふき易へて萱に聴けり秋の雨
2028 藁葺に移れば一夜秋の雨
2029 雷の図にのりすぎて落にけり
2030 秋の蚊の鳴かずなりたる書斎かな
2031 黒塀にあたるや妹が雪礫
2032 女の童に小冠者一人や雪礫
2033 茶の花や黄檗山を出でゝ里余
2034 丸髷に結ふや咲く梅紅に
2035 むら鴉何に集る枯野かな
2036 川ありて遂に渡れぬ枯野かな
2037 法螺の音の何処より来る枯野哉
2038 たゝむ傘に雪の重みや湯屋の門
2039 吾影の吹かれて長き枯野哉
2040 女うつ鼓なるらし春の宵
2041 白絹に梅紅ゐの女院かな
2042 酒買ひに里に下るや鹿も聞き
2043 文債に籠る冬の日短かゝり

明治41年(1908年)

2044 日毎踏む草芳しや二人連
2045 二人して雛にかしづく楽しさよ
2046 鼓打ちに参る早稲田や梅の宵
2047 青柳擬宝珠の上に垂るゝなり
2048 居士が家を柳此頃蔵したり
2049 門に立てば酒乞ふ人や帽に花
2050 鶯の日毎巧みに日は延びぬ
2051 吾に媚ぶる鶯の今日も高音かな
2052 勅額の霞みて松の間かな
2053 飯蛸の一かたまりや皿の藍
2054 飯蛸や膳の前なる三保の松
2055 飯蛸と侮りそ足は八つあると
2056 春の水たるむはづなを濡しけり
2057 連翹に小雨来るや八っ時分
2058 花曇り尾上の鐘の響かな
2059 籠の鳥に餌をやる頃や水温む
2060 山伏の関所へかゝる桜哉
2061 強力の笈に散る桜かな
2062 南天に寸の重みや春の雪
2063 真蒼な木賊の色や冴返る
2064 そゝのかす女の眉や春浅し
2065 塩辛を壺に探るや春浅し
2066 名物の椀の蜆や春浅し
2067 僧となつて鐘を撞いたら冴返る
2068 穴のある銭が袂に暮の春
2069 いつか溜る文殻結ふや暮の春
2070 逝く春や庵主の留守の懸瓢
2071 嫁がぬを日に白粉や春惜む
2072 垢つきし赤き手絡や春惜む
2073 春惜む人にしきりに訪はれけり
2074 おくれたる一本桜憐なり
2075 逝く春やそゞろに捨てし草の庵
2076 青柳の日に緑なり句を撰む
2077 短夜を交す言葉もなかりけり
2078 文を売りて薬にかふる蚊遣かな
2079 安産と涼しき風の音信哉
2080 二人寐の蚊帳も程なく狭からん
2081 青梅や空しき籠に雨の糸
2082 五月雨や主と云はれし御月並
2083 鮟鱇や小光が鍋にちんちろり
2084 まのあたり精霊来たり筆の先
2085 此の下に稲妻起る宵あらん
2086 朝寒や自ら炊ぐ飯二合
2087 公退や菊に閑ある雑司ケ谷
2088 大輪の菊を日に揺る車かな
2089 たゞ一つ湯婆残りぬ室の隅
2090 春色や暮れなんとして水深み
2091 一つ家を中に夜すがら五月雨るゝ
2092 垣老て虞美人草のあらはなる

明治42年(1909年)

2093 小袖着て思ひ思ひの春をせん
2094 初日の出しだいに見ゆる雲静か
2095 とかくして鶯藪に老いにけり
2096 空に消ゆる鐸のひゞきや春の塔
2097 俊寛と共に吹かるゝ千鳥かな
2098 五月雨やももだち高く来る人
2099 初秋の芭蕉動きぬ枕元
2100 春はものゝ句になり易し京の町
2101 手を分つ古き都や鶉鳴く
2102 黍遠し河原の風呂へ渡る人
2103 黍行けば黍の向ふに入る日かな
2104 草尽きて松に入りけり秋の風
2105 鞭鳴らす頭の上や星月夜
2106 なつかしき土の臭や松の秋
2107 負ふ草に夕立早く逼るなり
2108 高麗人の冠を吹くや秋の風
2109 秋の山に逢ふや白衣の人にのみ
2110 秋晴や山の上なる一つ松
2111 故郷を舞ひつゝ出づる霞かな
2112 動かざる一篁や秋の村
2113 帰り見れば蕎麦まだ白き稲みのる
2114 銅の牛の口より野分哉

明治43年(1910年)

2115 独居や思ふ事なき三ケ日
2116 御堂まで一里あまりの霞かな
2117 花びらに風薫りては散らんとす
2118 ふと揺るゝ蚊帳の釣手や今朝の秋
2119 秋の思ひ池を繞れば魚躍る
2120 宮様の御立のあとや温泉の秋
2121 尺八を秋のすさみや欄の人
2122 温泉の村に弘法様の花火かな
2123 別るゝや夢一筋の天の川
2124 秋の江に打ち込む杭の響かな
2125 秋風や唐紅の咽喉仏
2126 秋晴に病間あるや髭を剃る
2127 秋の空浅黄に澄めり杉に斧
2128 衰に夜寒逼るや雨の音
2129 旅にやむ夜寒心や世は情
2130 蕭々の雨と聞くらん宵の伽
2131 秋風やひゞの入りたる胃の袋
2132 風流の昔恋しき紙衣かな
2133 生残る吾恥かしや鬢の霜
2134 立秋の紺落ち付くや伊予絣
2135 骨立を吹けば疾む身に野分かな
2136 稍寒の鏡もなくに櫛る
2137 鯛切れば鱗眼を射る稍寒み
2138 病む日又簾の隙より秋の蝶
2139 病んでより白萩に露の繁く降る事よ
2140 蜻蛉の夢や幾度杭の先
2141 蜻蛉や留り損ねて羽の光
2142 取り留むる命も細き薄かな
2143 仏より痩せて哀れや曼珠沙華
2144 虫遠近病む夜ぞ静なる心
2145 余所心三味聞きゐればそゞろ寒
2146 月を亘るわがいたつきや旅に菊
2147 起きもならぬわが枕辺や菊を待つ
2148 生き返るわれ嬉しさよ菊の秋
2149 たそがれに参れと菊の御使ひ
2150 範頼の墓濡るゝらん秋の雨
2151 菊作り門札見れば左京かな
2152 洪水のあとに色なき茄子かな
2153 菜の花の中の小家や桃一木
2154 秋浅き楼に一人や小雨がち
2155 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
2156 鶴の影穂蓼に長き入日かな
2157 一山や秋色々の竹の色
2158 古里に帰るは嬉し菊の頃
2159 静なる病に秋の空晴れたり
2160 菊の宴に心利きたる下部かな
2161 大切に秋を守れと去りにけり
2162 竪に見て事珍らしや秋の山
2163 坐して見る天下の秋も二た月目
2164 ともし置いて室明き夜の長かな
2165 堂守に菊乞ひ得たる小銭かな
2166 力なや痩せたる吾に秋の粥
2167 佳き竹に吾名を刻む日長かな
2168 見もて行く蘇氏の印譜や竹の露
2169 秋草を仕立てつ墓を守る身かな
2170 秋の蚊や我を螫さんと夜明方
2171 頼家の昔も嘸栗の味
2172 鮎の丈日に延びつらん病んでより
2173 肌寒をかこつも君の情かな
2174 貧しからぬ秋の便りや枕元
2175 京に帰る日も近付いて黄菊哉
2176 稲の香や月改まる病心地
2177 天の河消ゆるか夢の覚束な
2178 裏座敷林に近き百舌の声
2179 帰るは嬉し梧桐の未だ青きうち
2180 帰るべくて帰らぬ吾に月今宵
2181 雲を洩る日ざしも薄き一葉哉
2182 甦へる我は夜長に少しづゝ
2183 骨の上に春滴るや粥の味
2184 鶺鴒や小松の枝に白き糞
2185 寐てゐれば粟に鶉の興もなく
2186 粟の如き肌を切に守る身かな
2187 冷やかな瓦を鳥の遠近す
2188 冷かや人寐静まり水の音
2189 的礫と壁に野菊を照し見る
2190 鳥つゝいて半うつろのあけび哉
2191 朝寒や太鼓に痛き五十棒
2192 先づ黄なる百日紅に小雨かな
2193 いたつきも久しくなりぬ柚は黄に
2194 足腰の立たぬ案山子を車かな
2195 骨許りになりて案山子の浮世かな
2196 病んで来り病んで去る吾に案山子哉
2197 濡るゝ松の間に蕎麦を見付たる
2198 藪陰や濡れて立つ鳥蕎麦の花
2199 稲熟し人癒えて去るや温泉の村
2200 柿紅葉せり纏はる蔦の青き哉
2201 就中竹緑也秋の村
2202 数ふべく大きな芋の葉なりけり
2203 新らしき命に秋の古きかな
2204 逝く人に留まる人に来る雁
2205 鶏頭に後れず或夜月の雁
2206 釣台に野菊も見えぬ桐油哉
2207 思ひけり既に幾夜の蟋蟀
2208 過ぎし秋を夢みよと打ち覚めよとうつ
2209 朝寒も夜寒も人の情かな
2210 顧みる我面影やすでに秋
2211 暁や夢のこなたに淡き月
2212 ぶら下る蜘蛛の糸こそ冷やかに
2213 嬉しく思ふ蹴鞠の如き菊の影
2214 肩に来て人懐かしや赤蜻蛉
2215 渋柿も熟れて王維の詩集哉
2216 つくづくと行燈の夜の長さかな
2217 小行燈夜半の秋こそ古めけり
2218 一叢の薄に風の強き哉
2219 雨多き今年と案山子聞くからに
2220 柿一つ枝に残りて烏哉
2221 君が琴塵を払へば鳴る秋か
2222 たゞ一羽来る夜ありけり月の雁
2223 明けの菊色未だしき枕元
2224 日盛りやしばらく菊を縁のうち
2225 縁に上す君が遺愛の白き菊
2226 井戸の水汲む白菊の晨哉
2227 蔓で堤げる目黒の菊を小鉢哉
2228 いたつきも怠る宵や秋の雨
2229 形ばかりの浴す菊の二日哉
2230 三日の菊雨と変るや昨夕より
2231 白菊と黄菊と咲いて日本かな
2232 菊の香や幾鉢置いて南縁
2233 生垣の隙より菊の渋谷かな
2234 暖簾に芸人の名を茶屋の菊
2235 青山に移りていつか菊の主
2236 搨置いて菊あるところどころかな
2237 燭し見るは白き菊なれば明らさま
2238 菊の雨われに閑ある病哉
2239 菊の色縁に未し此晨
2240 蔵沢の竹を得てより露の庵
2241 柩には菊抛げ入れよ有らん程
2242 有る程の菊抛げ入れよ棺の中
2243 ひたすらに石を除くれば春の水
2244 病んで夢む天の川より出水かな
2245 風に聞け何れか先に散る木の葉
2246 萩に置く露の重きに病む身かな
2247 冷やかな脈を護りぬ夜明方
2248 露けさの里にて静かなる病
2249 迎火を焚いて誰待つ絽の羽織
2250 朝寒や生きたる骨を動かさず
2251 無花果や竿に草紙を縁の先
2252 屠牛場の屋根なき門や夏木立
2253 勾欄の擬宝珠に一つ蜻蛉哉
2254 冷かな文箱差出す蒔絵かな
2255 冷かな足と思ひぬ病んでより
2256 冷ややかに觸れても見たる擬宝珠哉
2257 冷やかに抱いて琴の古きかな
2258 提灯を冷やかに提げ芒かな
2259 なに食はぬ和尚の顔や河豚汁
2260 浦の男に浅瀬問ひ居る朧哉

明治44年(1911年)

2261 腸に春滴るや粥の味
2262 蝶去つてまた蹲踞る小猫かな
2263 たく駝して石を除くれば春の水
2264 鶏の尾を午頃吹くや春の風
2265 冠せぬ男も船に春の風
2266 涼しさや蚊帳の中より和歌の浦
2267 四国路の方へなだれぬ雲の峰
2268 起きぬ間に露石去にけり今朝の秋
2269 蝙蝠の宵々毎や薄き粥
2270 稲妻に近くて眠り安からず
2271 灯を消せば涼しき星や窓に入る
2272 風折々萩先づ散つて芒哉
2273 耳の底の腫物を打つや秋の雨
2274 切口に冷やかな風の厠より
2275 たのまれて戒名選む鶏頭哉
2276 抱一の芒に月の円かなる
2277 稲妻に近き住居や病める宵
2278 石段の一筋長き茂りかな
2279 空に雲秋立つ台に上りけり
2280 広袖にそゞろ秋立つ旅籠哉
2281 鬢の影鏡にそよと今朝の秋
2282 朝貌や鳴海絞を朝のうち
2283 女して結はす水仙粽哉

(参考)「漱石氏と私(高浜虚子)」周辺(「抜粋」)

https://www.aozora.gr.jp/cards/001310/files/47741_37678.html

≪ 漱石氏が創作に筆を執りはじめるようになってから、氏と私との交渉も雑誌発行人と人気のある小説家との関係というようなものがだんだんと重きをなして来た。今までは漱石氏は英文学者として、私の尊敬する先輩として、また俳友として、利害関係の無い交際であったのであって、何か文章を書くように勧めて「猫」の第一回が出来たのも、それを以て『ホトトギス』の紙上を飾ろうとか、雑誌の売れ行きを増そうとか、そういうような考は少しもなく、尊敬する漱石氏が蘊蓄(うんちく)を傾けて文章を作ってみたらよかろうという位な軽い考であったのであるが、一度び「猫」が紙上に発表されて、それが読書界の人気を得て雑誌の売行(うりゆき)が増してみると、発行人としての私は勢い『ホトトギス』のために氏の寄稿を要望せねばならぬような破目になって来た。漱石氏もまたはじめの間はその要望を寧ろ幸いとして強いて創作の機会を見出すようにつとめつつあったらしかった。
 そうこうしているうちに氏は一躍して文学界の大立物となってしまった。各種の雑誌は競うて君の作物を掲げ、その待遇も互に他におとらぬようにと競争するようになって来た。『ホトトギス』は従来原稿料というものを殆ど払ったことはなかったのであるが、「猫」には一頁一円の原稿料を払うことにした。そうしてこれはやがて他の作家にも及ぼしてすべての人の作物に同じような原稿料を仕払うことにした。しかしながら一頁一円の原稿料というものは、当時にあっても決して十分の待遇とはいえなかった。他の雑誌はもっと沢山の原稿料を支払って居るものであることが、後になって分った。今まで世間と殆んど没交渉であった『ホトトギス』は、原稿料の相場というようなものは皆目承知しなかった上に、四、五人の社員組織でやっていた窮屈な制度のもとにあっては、にわかに『ホトトギス』を世間体の雑誌に改革して競争場裡に打って出るというようなことは仲々難かしかった。漱石氏はそんなことには頓着なしに、『ホトトギス』は自分の生れ故郷としてこちらが要望するままに暇さえあれば筆を執ることをいつも快諾したのであったが、しかも他の雑誌社からの要求が烈しくなればなるほど自然『ホトトギス』のために筆を執る機会が少くなって来た。それと同時に氏はその門下生ともいうべき人々の作品を『ホトトギス』に紹介して、これを紙上に発表することを要求した。私は大概その要求に従った。中には止むを得ず載せたようなものもあったけれども、中にはまた沢山の傑作もあった。三重吉みえきち君をはじめとして今日文壇に名を成している漱石門下の多くの人が大概処女作を『ホトトギス』に発表するようになったのもそのためであった。
 漱石氏はまた『ホトトギス』を今少し機関の備わった堂々とした雑誌にして発行したらよかろうという考を持もっていたのであった。私がその事を快諾さえすれば、氏は十分に力を尽してくれる考があったことと想像するがその頃の『ホトトギス』の事情はその要求を容いれることが出来なかった。これを詳しく書くのは面倒臭いが、要するに四方太君などは漱石氏の文芸に不服で、それよりも純正の写生文雑誌として世間の人気などに頓着なく押し進みたいという希望を持っていたし、発行人としての私はそんなことをして損ばかりしていてもやり切れないから、少しは世間に面(つら)を出して人気のあるものにしたいと、漱石氏の作品などを歓迎する傾きがあった。けれどもまた私としては、漱石氏のような考のもとに全然『ホトトギス』を改革してしまって、四方太君らを排斥してしまうことは出来ないし、また世間の雑誌の如く原稿料を潤沢にして漱石氏はじめ多くの新進作家諸君を優遇するとなると、ただ鳴るが面白いことになってしまって『ホトトギス』の世帯はとてもやり切れない、と考えたところから、いつも四方太君などに不平を抱かせながら、漱石氏らにもまた慊(あき)たらぬ思いをさせるような態度で、その日暮(ひぐらし)に雑誌を出していた。
 明治三十九年以後の漱石氏と私との関係は、今言ったような有様で、ある時は漱石氏から私に対して雑誌編輯の上の督励となったり、後進の推薦となったり、また一般文壇に対する不平や懊悩(おうのう)を訴えて来るような場合も少くなかったが、今手紙を取り出してみても、最も多いのは私の原稿の依頼に対して何日までに書くとか、何枚書いたとかこう忙(せわし)くってはやり切れないとかいう用談の方が多くなって来て居る。今その手紙について一々当時の聯想を書いてみたら面白いのであるが、手紙だけの分量でもかなり多い上にその手紙だけでほぼ当時の状態も想像せられることと思うから左に明治三十九年の手紙で、手元に残って居るもの一切を掲載することにする。≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その十一) [「子規と漱石」の世界]

その十一 漱石の「子規没後の俳句その一)」(「明治三十七年~四十年」周辺)

https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html

子規・絶筆三句.jpg

「絶筆三句 子規」(紙本墨書/31.0×44.3㎝/国立国会図書館蔵) 
https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html
≪〔正岡子規 著〕〔正岡子規 明治35(1902)年〕写【WB41-61】43 〔絶筆三句〕の画像(デジタルコレクション)
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした俳人、歌人の正岡子規が臨終間際に書き残した三句。明治35(1902)年9月18日の午前11時頃、紙を貼りつけた画板を妹の律に持たせ、仰臥しながら記した。翌19日午前1時頃、子規の息は絶えた。満34歳の若さであった。病魔に苦しみながらも、死の直前まで俳人として生き抜いた壮絶な姿がうかがえる。
(書き起こし)
をととひのへちまの水も取らざりき/糸瓜咲て痰のつまりし佛かな/痰一斗糸瓜の水も間にあはず  ≫

(漱石「略年譜」)「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html

明治35(1902) 9月 子規死去
10月 スコットランド旅行
12月 帰国の途に着く

明治36(1903) 1月 帰国
4月 第一高等学校講師 東京帝国大学英文科講師
10月 三女・英子誕生 藤村操自殺

明治37(1904) 4月 明治大学講師
12月 「吾輩は猫である」を「山会」で朗読

明治38(1905) 1月 「吾輩は猫である」(『ホトトギス』)
1月 「倫敦塔」(『帝国文学』)
1月 「カーライル博物館」(『学燈』)
6月 「琴のそら音」(『七人』)
12月 四女・愛子誕生

明治39(1906) 4月 「坊っちやん」(『ホトトギス』)
9月 「草枕」(『新小説』)
10月 「二百十日」
10月11日 第1回「木曜会」 伊藤左千夫『野菊の墓』

明治40(1907) 1月 「野分」(『ホトトギス』)
3月末~4月初 京都 大阪に旅行
5月 『文学論』(大倉書店)
5月 入社の辞(『東京朝日新聞』)
6月 長男・純一誕生
6月~10月 「虞美人草」
6月 西園寺公望からの文士招聘会を断る
9月 牛込区早稲田南町7番地へ転居

(追記) 夏目漱石俳句集(その七)<制作年順> 明37年(1904年)~明治39年(1906年)

明治37年(1904年)

1851 人の上春を写すや絵そら言
1852 ともし寒く梅花書屋と題しけり
1853 鳩鳴いて烟の如き春に入る
1854 杳として桃花に入るや水の色
1855 雨ともならず唯凩の吹き募る
1856 見るからに涼しき島に住むからに
1857 骸骨を叩いて見たる菫かな
1858 罪もうれし二人にかゝる朧月
1859 小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く
1860 伏す萩の風情にそれと覚りてよ
1861 白菊にしばし逡巡らふ鋏かな
1862 女郎花を男郎花とや思ひけん
1863 人形の独りと動く日永かな
1864 世を忍ぶ男姿や花吹雪
1865 野に下れば白髯を吹く風涼し
1866 夏の月眉を照して道遠し
1867 十銭で名画を得たり時鳥
1868 秋立や断りもなくかやの内
1869 ばつさりと後架の上の一葉かな
1870 秋風のしきりに吹くや古榎
1871 名月や杉に更けたる東大寺

明治38年(1905年)

1872 朝貌の葉影に猫の眼玉かな
1873 蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く
1874 初時雨故人の像を拝しけり
1875 うそ寒み故人の像を拝しけり
1876 白菊の一本折れて庵淋し
1877 只寒し封を開けば影法師
1878 一人住んで聞けば雁なき渡る

明治39年(1906年)

1879 寄りそへばねむりておはす春の雨
1880 本来はちるべき芥子にまがきせり
1881 短冊に元禄の句や京の春
1882 春風や惟然が耳に馬の鈴    (『草枕』より十七句~)
1883 馬子唄や白髪も染めで暮るゝ春
1884 花の頃を越えてかしこし馬に嫁
1885 海棠の露をふるふや物狂ひ
1886 花の影、女の影の朧かな
1887 正一位、女に化けて朧月
1888 春の星を落して夜半のかざしかな
1889 春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
1890 春や今宵歌つかまつる御姿
1891 海棠の精が出てくる月夜かな
1892 うた折々月下の春ををちこちす
1893 思ひ切つて更け行く春の独りかな
1894 海棠の露をふるふや朝烏
1895 花の影女の影を重ねけり
1896 御曹司女に化けて朧月
1897 木蓮の花許りなる空を瞻る
1898 春風にそら解け襦子の銘は何(~『草枕』より十七句)
1899 釣鐘のうなる許りに野分かな
1900 祖師堂に昼の灯影や秋の雨
1901 かき殻を屋根にわびしや秋の雨
1902 青楼や欄のひまより春の海
1903 渡殿の白木めでたし秋の雨
1904 春雨や爪革濡るゝ湯屋迄
1905 暮れなんとしてほのかに蓼の花を踏む
1906 乱菊や土塀の窓の古簀垂
1907 冬籠り染井の墓地を控へけり
1908 鰒汁と知らで薦めし寐覚かな
1909 春を待つ下宿の人や書一巻

(参考その一)「絶筆三句 子規」周辺

http://www.sakanouenokumo.com/siki_zeppitu.htm

≪ 子規の辞世の句となった糸瓜の三句。その場に居合わせた河東碧梧桐は、当時の様子を次のように回顧している(出典「子規言行録(明治版)」)。

十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈《やがて》例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審ながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ

 糸瓜咲て

とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて

 痰のつまりし

までまた一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに

 佛かな

と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ

 痰一斗糸瓜の水も

と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ

 間に合わず

と書いて、矢張り投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに

 をとひのへちまの

と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「と」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ

 水の

と書いて

 取らざりき

はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。  ≫

(参考その二) 「子規居士弄丹青図(浅井忠)」周辺

子規居士弄丹青図.jpg

「子規居士弄丹青図」(「ホトトギス」正岡子規追悼号(明治35年12月)挿絵用画稿 浅井忠)
http://nobless.seesaa.net/article/483626589.html
≪浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その十) [「子規と漱石」の世界]

その十 漱石の「五高・英国留学・帰朝(子規没前後)」時代(「明治三十三・四・五・六年」周辺)

浅井忠送別会.jpg

「浅井黙語(忠)のパリ留学を祝う送別会(浅井忠画) 「ホトトギス」明治33年(1900)1月号掲載」
https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/topics/famous_persons/shiki/japanese/page_04.html
≪ 明治33年(1900)1月16日、万国博覧会視察と留学のためパリへ行く画家浅井忠の送別会が子規庵で開かれました。集まったのは、子規、浅井をはじめ、内藤鳴雪(ないとうめいせつ 俳人)陸羯南(くがかつなん)、下村為山(しもむらいざん 画家、俳人)、中村不折、五百木瓢亭(いおきひょうてい 日本新聞記者、俳人)、松瀬青々(まつせせいせい 俳人)、高浜虚子です。画家三人による合作の絵に皆で賛(さん 画の余白に句等を添える)を書き、洋食を食べ、さまざまに楽しんでいます。その様子を子規は短歌にしています。≫

(上記の「画家浅井忠の送別会」の人物群像)

(前列の「画筆中の「浅井忠」と、左=「下村為山(黒羽織)?」と右「中村不折?」)

≪※浅井 忠(あさい ちゅう) 1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家、教育者。号は黙語(もくご)。(中略)1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞[2]。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。(中略)正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。『吾輩ハ猫デアル』の単行本の挿画を他の2人とともに描いている。(「ウイキペディア」)

※下村為山(しもむらいざん)生年/慶応1年5月21日(1865年)・ 没年/昭和24(1949)年7月10日・出生地/伊予国松山(愛媛県)/本名下村 純孝/別名別号=百歩,牛伴。経歴/上京して洋画を小山正太郎に学び、不同舎塾の後輩に中村不折がいる。のち日本画を久保田米遷に学び、俳画に一家をなした。明治22年内国勧業博覧会で受賞。俳句は正岡子規に師事し、洋画写生の優越姓を不折に先立って子規に説いたと伝えられる。27年松山に日本派俳句会の松風会を興し、日本派の俳人として活躍、句風は子規に「精微」と評された。30年松山版「ホトトギス」創刊時に初号の題字を書いたといわれる。その後も東京発行の「ホトトギス」や「新俳句」に表紙・挿画などを寄せ、同派に貢献した。句は「俳句二葉集」「春夏秋冬」などに見られる。(「20世紀日本人名事典」) 

※中村不折(なかむらふせつ)[生]慶応2(1866).7.10. 江戸[没]1943.6.6. 東京洋画家,書家。本名はさく太郎,号は環山。初め南画を学び,1887年小山正太郎,浅井忠に洋画を学んだ。 94年日本新聞社に入社し新聞挿絵を担当。 1901年渡仏,アカデミー・ジュリアンに学び J.P.ローランスに師事して官学派の画風を習得。 05年帰朝後は太平洋画会会員となる。文展審査員,19年帝国美術院会員,34年太平洋美術学校校長,39年帝国芸術院会員を歴任。重厚な画風の歴史画にすぐれ,また日本画も巧みで北画風の水墨画を得意とした。書の造詣も深く六朝風を学び,能書家としても著名。また東京根岸の自宅の邸内に書道博物館を創設して,書に関する文献,参考品1万点余を展示。主要作品『建国そう業 (そうぎょう) 』 (1907,焼失) ,『賺蘭亭図 (らんていをあざむくのず) 』 (20,東京国立近代美術館) 。

(後列の「病臥中の子規」の右側の「黒羽織」の三人)

※陸羯南(くがかつなん)/ 没年:明治40.9.2(1907)/生年:安政4.10.14(1857.11.30)/明治時代の新聞記者。陸奥国(青森県)弘前に津軽藩士中田謙斎の長男として生まれる。幼少時から漢学を学び,藩校の後身東奥義塾に入学,漢学,英学等を学ぶ。明治6(1873)年東奥義塾を中退し,仙台の宮城師範学校に入学したが,校長と衝突し退学となり,9年上京。同年7月,司法省法学校に入学した。同期生には,原敬,福本日南,国分青崖らがいた。12年寮の食事への不満が原因で起きた賄征伐事件で,原敬らと共に退学処分を受け,故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となった。またこの年,親戚の陸家再興の名目で陸姓を名乗る。13年,讒謗律に触れ罰金刑を受ける。青森新聞社を退職し,種々の仕事を転々としたのち,16年に太政官御用掛となり,官僚の世界に入った。この間,フランスの政治,行政の調査に当たり,その書物を翻訳出版するなど後年の政論の基礎を培った。 18年内閣官報局が新設されるや,編集課長に就任したが,21年,在野の言論活動を志し退職,同年4月3日,谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊し,さらに発展させて翌22年2月11日新聞『日本』を発刊,新聞の党派性,営利性を否定し,自らの信ずる「道理」のみによって自立する「独立新聞」という峻厳な新聞理念を提示し新聞ジャーナリズムに大きな影響を与えた。同時に国民主義を標榜し,三宅雪嶺,志賀重昂らの政教社の発行する雑誌『日本人』と提携しながら,明治20年代,30年代を通じて,欧化主義を批判するナショナリズムを領導する言論活動を展開した。しかし明治末期には,新聞界の営業主義化の大勢のなかで新聞経営は苦境に陥り,39年『日本』を手放さざるをえなくなった。翌年病没。明治期の「独立新聞記者」の典型であった。<著作>『陸羯南全集』全10巻/(有山輝雄) (「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)→(「子規」の右側の人物?)

※内藤鳴雪(ないとうめいせつ)/俳人。江戸に生まれる。本名素行。松山藩校明教館・昌平黌で漢学を学ぶ。明治に入り文部省に勤務。藩の常盤会寄宿舎の舎監となり正岡子規を知り句作、日本派の長老と仰がれた。句集に「鳴雪句集」「鳴雪俳句鈔」など。弘化四~大正一五年(一八四七‐一九二六)(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)→(「不折?」の右後方の人物?)

※五百木瓢亭(いおきひょうてい) 1871-1937 明治-昭和時代前期のジャーナリスト,俳人。明治3年12月14日生まれ。22年上京し,同郷の正岡子規らと句作にはげむ。28年日本新聞社にはいり,34年「日本」編集長。昭和3年政教社にうつり,「日本及日本人」を主宰。大アジア主義をとなえた。昭和12年6月14日死去。68歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。俳号は飄亭(ひょうてい)。著作に「飄亭句日記」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)→(「鳴雪?」の後方の人物?)

(「羯南?」と「瓢亭?」の間の二人)

※松瀬 青々(まつせ せいせい) 明治2年(1869年)4月4日 - 昭和12年(1937年)1月9日)は、日本の俳人。「倦鳥」を創刊・主宰。関西俳壇で高濱虛子主宰の「ホトトギス」と一線を劃す俳人として重きをなした。本名・弥三郎[1]。大阪市出身。(「ウイキペディア」)

※阪本(坂本)四方太(さかもとしほうだ)  1873年〈明治6年〉2月4日 - 1917年〈大正6年〉5月16日)は、俳人。本名、よもた。鳥取県出身。正岡子規門下生。俳誌『ホトトギス』にて活躍。代表作は『夢の如し』。墓所は豊島区駒込の染井霊園。(「ウイキペディア」)
→(「ホトトギス」の記事中に「四方太」の名あり。)

(「子規」の左側の人物→虚子?)

※高浜虚子(たかはまきょし) 没年:昭和34.4.8(1959)/生年:明治7.2.22(1874)
明治から昭和の俳人,小説家。本名清。虚子号は本名をもじって正岡子規によりつけられた。伊予国(愛媛県)松山藩の元藩士池内家の4男として松山市に生まれ,祖母方の姓を継ぎ高浜姓となる。伊予中学時代に同級生の河東碧梧桐を介して郷里の先輩で帝国大学文科大学の学生であった子規と文通して文学を志し,やがて碧梧桐と共に仙台の二高を中退,子規による日本派俳句を推進する両輪となった。明治31(1898)年松山から発行されていた『ホトトギス』を引き継いで東京から編集発行し,俳句とともに写生文や小説を掲載,明治38年からは夏目漱石の『吾輩は猫である』『坊つちやん』などの掲載で誌名を高め,自らも『俳諧師』『風流懺法』などを発表。俳句は碧梧桐にまかせ小説に転じようとしたが,碧梧桐の客観写生俳句が新傾向へと進んで定型や季題を無視する形勢となった大正2(1913)年俳句に復活,以後多数の傑出した俳人を育てて,子規の抱いていた俳句の未来への疑問を吹き払い,庶民の詩,花鳥諷詠の詩として俳句を普及し繁栄させた。その指導方針は主観尊重の写生から客観写生へと変わったが,俳句は有季定型の伝統詩であるという守旧派の立場を貫いた。その人柄は洋行中も和服で通したこと,ファシズムも戦争も自然現象のごとく「何事も野分一過の心」で過ごしたこと,『ホトトギス』を家系相続とし家元化したことなどに顕著である。『進むべき俳句の道』『五百句』『句日記』『虚子俳話』『定本虚子全集』など著書多数。文化勲章受章。(矢島渚男)  (「朝日日本歴史人物事典」)

(追記) 夏目漱石俳句集(その七)<制作年順> 明治33年(1900年)~明治36年(1903年)

明治33年(1900年)

1780 新しき願もありて今朝の春
1781 菜の花の隣もありて竹の垣
1782 鶯も柳も青き住居かな
1783 新しき畳に寐たり宵の春
1784 春の雨鍋と釜とを運びけり
1785 折釘に掛けし春著や五つ紋
1786 ひとり咲いて朝日に匂ふ葵哉
1787 京に行かば寺に宿かれ時鳥
1788 ふき通す涼しき風や腹の中
1789 秋風の一人をふくや海の上
1790 阿呆鳥熱き国にぞ参りける
1791 稲妻の砕けて青し海の上
1792 雲の峰風なき海を渡りけり
1793 赤き日の海に落込む暑かな
1794 日は落ちて海の底より暑かな
1795 空狭き都に住むや神無月
1796 柊を幸多かれと飾りけり
1797 屠蘇なくて酔はざる春や覚束な
1798 貧乏な進士ありけり時鳥

明治34年(1901年)

1799 絵所を栗焼く人に尋ねけり
1800 白金に黄金に柩寒からず
1801 凩の下にゐろとも吹かぬなり
1802 凩や吹き静まつて喪の車
1803 熊の皮の頭巾ゆゝしき警護かな
1804 吾妹子を夢みる春の夜となりぬ
1805 満堂の閻浮檀金や宵の春
1806 見付たる菫の花や夕明り
1807 病んで一日枕にきかん時鳥
1808 礎に砂吹きあつる野分かな
1809 角巾を吹き落し行く野分かな
1810 近けば庄屋殿なり霧のあさ
1811 後天後土菊匂はざる処なし
1812 栗を焼く伊太利人や道の傍
1813 栗はねて失せけるを灰に求め得ず
1814 渋柿やにくき庄屋の門構
1815 ほきとをる下駄の歯形や霜柱
1816 月にうつる擬宝珠の色やとくる霜
1817 茶の花や智識と見えて眉深し
1818 茶の花や読みさしてある楞伽経

明治35年(1902年)

1819 山賊の顔のみ明かき榾火かな
1820 花売に寒し真珠の耳飾
1821 なつかしの紙衣もあらず行李の底
1822 三階に独り寐に行く寒かな
1823 句あるべくも花なき国に客となり
1824 筒袖や秋の柩にしたがはず
1825 手向くべき線香もなくて暮の秋
1826 霧黄なる市に動くや影法師
1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし
1828 招かざる薄に帰り来る人ぞ

明治36年(1903年)

1829 落ちし雷を盥に伏せて鮓の石
1830 引窓をからりと空の明け易き
1831 ぬきんでゝ雑木の中や棕櫚の花
1832 愚かければ独りすゞしくおはします
1833 無人島の天子とならば涼しかろ
1834 短夜や夜討をかくるひまもなく
1835 更衣同心衆の十手かな
1836 ひとりきくや夏鶯の乱鳴
1837 蝙蝠や一筋町の旅芸者
1838 蝙蝠に近し小鍛冶が槌の音
1839 市の灯に美なる苺を見付たり
1840 玻璃盤に露のしたゝる苺かな
1841 能もなき教師とならんあら涼し
1842 蚊帳青く涼しき顔にふきつける
1843 更衣沂に浴すべき願あり
1844 薔薇ちるや天似孫の詩見厭たり
1845 楽寝昼寝われは物草太郎なり
1846 雪の峰雷を封じて聳えけり
1847 船此日運河に入るや雲の峰
1848 一大事も糸瓜も糞もあらばこそ
1849 座と襟を正して見たり更衣
1850 衣更て見たが家から出て見たが

(参考その一)「画家浅井忠の送別会」周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202008010000/

≪ 忠は、明治33年2月16日に新橋から神戸に向かい、28日に神戸港から「神奈川丸」に乗り込んでパリを目指しました。4月15日にマルセイユについた忠は、マルセイユ観光ののち列車に乗って17日の夕方にパリに着きました。開催されていたパリ万国博覧会をしばしば訪れ、5月からはマラコフ58番地で池辺義象、福地復一らと共同生活を始めています。パリの生活にようやく慣れた5月20日に、忠は子規に宛てて手紙を送りました。その内容は、『巴里消息』として7月10日号の「ホトトギス」に掲載されています。博覧会の絵を見て不満が募ったこと、日本風の装飾(アールヌーボー風)がヨーロッパを席巻していることなどが伝わってきます。
 
 拝啓、近頃御病気如何、好時節に向い御快方のことと奉存候。小生不相替健全、はばかりながら御安慮被下度候。博覧会この頃ようやくおおかた整頓仕候。美術館の絵画、仏国十年以来の名作を陳列して大に世界に驕らんとす、諸外国また競争日本の国画及び油画その間にはさまれ実に顔色なし。その前に立留るもうら恥しく候。もとより美術館に入りて恥かき候ことは予め期したることなれど、かくはかり萎れかえりたる有様を目の前に見るは情けなき次第に有之候。油画の画風、概していえば、前世紀のものは曇天に向い当世紀の画風は晴天に向いたる傾きありて、すべて明るく晴したる有様に有之候。画風の千差万別なる、あまり奇を好みて文人画的なるあり、また美術院的なるもありて、何が何やら画いた人も知らざるならんと思わるる物さえ有之候。彩色の研究は確に当世紀に大進歩をなしたる様相見え候。しかしてその弊のある所もまた相見え候。山水画の進歩は年々著しき様も相見え候。平易なる画題をとらえて洒落なる無邪気なる山水画も増加せし様見え候。英独諸国も大抵仏国風に化せられたる様相見え侯。仔細に熟視すれば、おのおの異りたる所は有之候得共、以前の如く特有を顕わし居らざる様に有之候。
 独の着実なると英の色の濃きはよく見れば確に分別有之候。伊太利は退歩、露と米は中々強敵に有之候。甚だ不思議なるは油画の変化極りなきことにて、日本油画の皆同一流儀の如く見えて色の枯痩したるは先ずおくも、日本画の四條と狩野の絶対に反対なる画風もこの場内に入りては皆一流の如く無味淡泊にして白紙に少少形を止めたる様見え候もおかしく候。総じてたっぷりしたる墨画が一番目を引き、細かき彩色画の如きは少しも目に止らず、日本画には彩色なしというても宜敷候。日本の美術は、工芸家の通弊として、大体の組織に甚だ不注意にして、細かき筆遣い細かき仕事を自慢して、女の頭の髪の毛の線がきとか、象牙彫りの魚の鱗とかいうものに骨折りて四昼半の座敷で賞翫せんとするものを、五間や六間離れて見ては何が書きあるや更にわからず。少くとも十間以上離れざれば品物が分明ならざる様な大胆の仕事の数千もある中に入り込みせられたるその筈と申すべし。陶器、織物、室内装飾に至りてはただあっけに取られ申候。八九分は皆日本意匠を取りて日本品よりは遥に上手に仕事され、茶人の涎を流しそうなるもの、骨董屋の堀り出し相なるものより、埃及(エジプト)、支那、日本を加味して自由自在に応用変化したるもの、着眼の点可恐ことに候。ヲーストリー、ホンガリー、ノルウヱー、デンマークなどの東洋的室内装飾の渋くして凝りたるには宜に一驚を喫し候。仏国自慢の工芸列品は未だ整頓不致、アシバリード右方は諸外国の列品にして、左方は仏国の諸列館なり。整頓の上はまた肝玉をつぶすことと存居候。クシャクシャ的、金ピカ的のものは独逸、露西亜の列品の一部に在るのみにて、余は皆ノロリとしたる東洋的曲線の形式に法りて、模様に至りては純然たる日本画か亜細亜的装飾のみ競争して応用したる様見えたり。色彩は多くじみに傾き、鈍き鼠色か、鈍き緑か、鈍き紫か、シットリと
沈んだる色多し。噪々しく目を射るような派手なる時代は過ぎ去りたりと見え申候。織物の模様に至りては、中村不折をして泣かしむるやうなもの多く、ビカピカと絹の光りたるようなものでなく、木綿物ににぶ色を以て不器用に埃及的模様を施したる、いうに言われぬ味ありて、旅で買いたきものばかりたくさんにしてただ涎を流しおり候。五六尺の小さき織物でも百五十法以上のもの多く、手も出しかねおり候。
 これに反し日本の出品には実に嘔吐を催し候。諸外国のスッカリ整頓したる真中に挟まれ、未だ荷ときもせず明箱ばかりにて、少しつら出しおるものは相も不替横浜仕入れの義経弁慶などの赤画をただ無暗矢鱈に透間なくかき散したるもの多く、蒔画に至りては勧工場的安物の仕入物の如く、形と模様とすべよくもよくも不揃にかつ厭味にかくも出来たものと思わるるもののみ少々面出しおり候。小生悪口をたたき候所、普き物は未だ箱内に仕舞ありと弁解致居候が、日本品はかなり手後れになりて閉場まで陳列に間に合わざる方仕合せかと存候。しかしその内どんなものが出るや不分候。見ぬ内の攻撃はこれ位に致置可申候。織物は先ず日本の出品の中にて比較的一番宜敷様見受候。しかし色の配合などいうことは知らぬと見え、折角の模様を地合でぶっこわしたるものや工手間を掛けてますますマズクしたるもの多し。今少し学問的に講究して、彩色の取り合せとか、線の一致とかいう位のことは知らぬ内は到底だめに有之候。日本の位置が余り欧洲と遠かり過ぎて世界の広きを不知、西洋人に世辞を言われて鼻を高くしておる間は何事もダメと存候。西洋人の日本意匠を取るは明治時代の小刀細工的のものなどは毫末も省みず、少なくも元緑以前の心持の大なる大マカなる処に着眼せるなり。故にある人はまたこれを弁解して古物崇拝となり、ただ先人の跡を学ばしめんとするに至る。この辺宜敷具合ものと存候。何に致せ日本の美術家工芸家が大本を睨めずしてただ枝葉ばかりに走り、田舎に引込みて井中の蛙たる中はイツもこんなものと存候。これまでとても外国博覧会に賛同して本国に報告することは手前味噌の偽りの報告のみにて出品者を誤らしめたる罪軽からずと存候。この度は岡目の人も大分見え候間幾分兵相を知ることも出来可くと存候。しかし熱心なる芸術家は少く、ツマリ運動者が運動の結果ごますりて保護金に有り附きたる人多き故、有益なる報告を費し帰る人は幾何ならんか、誠に思うままにならぬは世の常ながら、真実芸術に身を入れおる人はイツモ人後に立つは悲むべき至りに候。如何に従来の博覧会屋と唱えて再三再四宜務に当りたる人が無学なる職人を誤りたるかを宜見致候。兼てよりこれらのこと知らざるに非るも眼前に見ることの腹立たしさ御推察可被下候。その他面白からぬこと見聞、不平はますます嵩み申候。国に帰りてこんな悪口をきいたら、外国に行て年月も立たぬうち外国贔屓になりて本国をくさす不届物とて人は相手にせざるならん。本国の人に世辞を遣うて賞られたければ矢張り従来の老人連の太鼓事務官の亜流たらざるべからず。目あり耳あるもの見聞して黙してはおられず候。ついに報告やら不平やらごったになりて無益の寝言に流れ汗顔の至に御坐候。
 この表紙はノルウエーの敷物に余程面白き鬼や不思議の動物のかたありて面白く感じ候間ふと浮び申候。可成鈍き色に上るよう印刷屋へ御命し被下度候。黄色は黄土色が宜敷かと存候。
 陸翁へもこの寝言御咄し被下度、この次は全部整頓の上まじめの報告御送り可申上候。過日来サンクルー、ベルサイユ、サンゼルマンなどの二三里離れたる田舎へ遊び、巴里の盛界を脱して何ともいわれざる愉快を覚え候。巴里附近の田舎の景、実に美しくセーブル、ムードレなどセーヌ河の河蒸気に乗りて二錢を投ずれば三四十分にて逹し申候。この頃当地一年中の好時節、青葉茂りて百花開き、三河島、王子あたりの景色よりは田園の様清潔にして実に心地よく、その内このあたりに居を移して気楽に暮し度思いおり候。乍末御社中諸君へ宜敷御伝声奉願上候。   巴里にて。
   五月廿日
  子規  詞兄
 表紙の下絵を御目に掛けんとて書き出し候所、ついに不平を洩して面白くも無きこと長々書き連ね候段御許し被下度候。(浅井忠 子規宛書簡)≫

(参考その二)「夏目漱石と浅井忠との交流」周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202204250000/

≪ 漱石と忠の交流は、漱石のロンドン留学から始まりました。漱石は途中のパリで万博に夢中になり、この万国博に22日、25日、27日の3度、訪れています。明治33年10月22日の『漱石日記』には「十時頃より公使館に至り、安達氏を訪う。あらず。その寓居を尋ねしが、また遇わず。浅井忠氏を尋ねしも、また不在にて不得已帰宿。午後二時より渡邊氏の案内にて博覧会を観る。規模宏大にて二日や三日にて容易に観尽せるものにあらず。方角さえ分らぬ位なり。『エヘル』塔の上りて帰路。渡邊氏方にて晩餐を喫す。それよりGrand Voulevardに至りて繁華の様を目撃す。その状態は夏夜の銀座の景色を五十倍位立派にしたるものなり」、10月26日には「朝浅井忠氏を訪う。それより芳賀藤代二氏と同じく散歩す。雨を衝て還る。樋口氏来る」と書かれており、中を訪ねていたことがわかります。
 
 明35(1902)年7月2日付の妻鏡子宛の手紙に、「只今巴理より浅井忠と申す人帰朝の序拙寓へ止宿是は画の先生にて色々画の話杯承り居候」と記し、この時から漱石と忠は一気に親しくなったと思われます。明治41年2月15日、神田美土代町で行われた第一回朝日講演会の記録『創作家の態度』には「その時、浅井先生はどの街へ出ても、どの建物を見ても、あれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰るまで色尽くしで御仕舞いなりましたーー先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだなと大に悟りました」とあり、浅井とロンドン市内を歩いた漱石は、画家のものの見方を直に触れることができました。また、談話の『文士と酒、煙草』で「いつかロンドンにいる時分、浅井さんといっしょに、とある料理屋で、たったビール一杯飲んだのですが、たいへんまっかになって、顔がほてって町中を歩くことができず、ずいぶん困りました。日本では、酒を飲んでまっかになると、景気がつくとか、上きげんだとか言いますが、西洋ではまったく鼻つまみです
からね」と語っています。
 
 浅井は佐倉藩士の長男として江戸に生まれ、1876年に工部美術学校に入学しフォンタネージの指導を受けます。そして明治美術会の結成に参加し、東京美術学校教授となって1900年からフランスヘ留学していました。1902年に掃国した忠は京都に移り、後進の指導にあたります。
 
 忠は、漱石の依頼で処女作『吾輩は猫である』の中篇と下篇の挿画を頼みました。明治38年2月12日の橋口五葉への自筆絵はがきに「浅井の口絵画の百姓の足はうまいと思う。如何」と送っています。また、明治39年11月11日、橋口五葉宛に「浅井の画はどうですか。不折は無暗に法螺を吹くから近来絵をたのむのがいやになりました」とあり、上篇のみ中村不折が挿画を担当した理由がほの見えてきます。
 
 また、漱石は『それから』にも、忠を登場させています。「直木は代助の顔を見てとうとう笑い出した。代助も笑って、座敷へ来た。そこには誰も居なかった。替え立ての畳の上に、丸い紫檀の刳抜盆が一つ出ていて、中に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった。からんとした広い座敷へ朝の緑が庭から射し込んで、すべてが静かに見えた。戸外の風は急に落ちたように思われた。(11)」とあります。浅井忠は「黙語」という画名を持っていたのです。
 「三四郎」では三四郎と美彌子が深見という画家の遺作展を見る場面がありますが、これは第6回太平洋画会で行われた忠の遺作展を念頭に描いています。
 
「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」
「ありがとう」
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。
 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるということである。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである。(三四郎 8)  ≫

(参考その三)「世紀転換期のヨーロッパ滞在 : 浅井忠と夏目金之助(伊藤徹稿)」(「関西大学学術リポジトリ」)

(参考その四)「浅井忠の明治」周辺

http://nobless.seesaa.net/article/483626589.html

≪ 明治3年に土佐藩が送り出した英国留学生5人の中に、のちの民権家馬場辰猪のほか明治洋画界の草分けとなる国沢新九郎(明治10年死去)がいた。国沢は法律の勉強を命じられていたが、画家に転向して明治7年に帰国、東京麹町平河町に洋画塾「彰技堂」を開いて人気を博すようになる。このあたらしい画塾に、佐倉藩出身の20歳の聡明な若者が入塾する。のちの洋画家浅井忠(ちゅう)(1856~1907)である。
 夏目漱石の『三四郎』に、美禰子と三四郎が絵画の展覧会「丹青会」に行く有名なくだりがある。画家の原口が三四郎に「深見さんの水彩は普通の水彩の積りで見ちゃ不可ませんよ。何処までも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、中々面白い所が出て来ます」と言い残して野々宮と出て行き、次のように続く。
 <細長い壁に一列に懸っている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少くって、対照に乏しくって、日向(ひなた)へでも出さないと引き立たないと思う程地味に描いてあるという事である。その代り筆が些(ちっ)とも滞っていない。殆んど一気呵(か)成(せい)に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭(りんかく)が明かに透いて見えるのでも、洒落(しゃらく)な画風がわかる。>
 丹青会とは、明治41年に上野で開催された太平洋画会第6回展のことで、ここで深見先生こと浅井忠の回顧展が開催されていた。浅井はこの展覧会の前年、明治40年に京都で51歳で亡くなっている。
 夏目漱石はひと回り年配の洋画家浅井忠を畏敬してやまなかった。上の『三四郎』の文章からも、浅井の絵の質の高さを世に知らしめる意図が窺えるし、『それから』にも「湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった」と浅井を登場させているほどだ(「黙語」は浅井の号)。
 漱石は明治33年10月に英国留学の途上パリに立ち寄り、ひと足先に同地に44歳という遅い留学をしていた浅井を訪ねている。浅井は明治29年に東京・上根岸に居を構えたことで近くに住むジャーナリストの陸羯南(くがかつ(なん)や正岡子規と交流を深め、子規庵にも出入りするようになっていた。漱石はその子規の紹介で、パリの浅井を訪ねたのである。このときの出会いがふたりの初対面らしく、よほど気が合ったのか2年後の明治35年には日本への帰国途上の浅井がロンドンの漱石を訪ね、下宿に4日間も滞在しているのである。
 漱石は浅井没後、明治41年の講演で次のように回想している。
 「私が先年倫敦に居った時、此間亡くなった浅井先生と市中を歩いたのであります。其時浅井先生はどこの町へ出てもどの建物を見てもあれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰る迄色尽しで御仕舞いになりました。流石画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだと大いに悟りました」
 わかいころ建築家志望だった漱石は、留学時代から美術工芸誌「The Studio」を定期購読するほどの美術好きで、かれの芸術観の基層には当時欧州を席巻していたアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーの影響、そして洋画家浅井忠の存在がどっしりと盤踞(ばんきょ)していたはずである。
 また子規が「写生」に目覚めるのも浅井忠との出会いによる。浅井はわかい弟子の中村不折(ふせつ)(画家・書家)を子規に紹介し、その不折をして浅井が師フォンタネージから学んだ絵画技法である写生の本質を子規に伝授せしめ、子規はそれを俳句や短歌にも応用するようになる。漱石の『吾輩は猫である』初版本の上巻挿画を不折、中・下巻を浅井が描いていることからも漱石・子規と画家の浅井・不折の親密さが見てとれるだろう。
 さて浅井の洋行が決まってのち、明治33年1月16日に陸、子規のほか画家や俳人など10人ほどが集まり子規庵で送別会が開かれた。長身で端正な風貌の浅井をいつも「先生」と呼び尊敬してやまなかった子規であったが、病の悪化で死を覚悟していたかれはそのとき「先生のお留守さむしや上根岸」の句を詠み、もう会えぬかもしれぬ浅井を哀惜したのである。しかしさいわいにも浅井は帰国後、開校予定の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授として京都へ移住する前に子規を見舞うことができたのだ。このわずか3週間後に子規は亡くなる。
 浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。
 このように明治の文化人たちにおおきな影響を与えた“日本近代洋画の父”浅井忠はしかし没後、薩摩出身で11歳年少の黒田清輝(せいき)の陰に隠れてしまい、作品のレベルのみならずその先駆的業績すら過小評価されてきた感がある。浅井の生きた明治という時代は、社会のあらゆる分野が薩長土肥、なかんずく薩長二藩の下級武士たちによる「薩長に非ずんば人に非ず」と云われるほどに強力な藩閥政治の只中にあり、絵画芸術もむろんその埒外にはなかったのだ。
 浅井忠は、江戸東方の要衝であった下総の佐倉藩(現千葉県佐倉市)出身である。同藩は幕末、英邁な藩主堀田正陸(まさよし)(のち幕府老中首座)が江戸の蘭方医佐藤泰然を招き、大坂の適塾と並び称される高名な蘭学塾「順天堂」(現順天堂大学の前身)を創設するなど学問分野におおくの俊才―思想家の西村茂樹、外交官の林董(ただす)、医者の松本良順、農学者の津田仙(せん)など―を輩出したことで知られるが、戊辰戦争で新政府軍の前にやむなく恭順、禄高三百石の藩士の長男であった浅井忠之丞(のちに忠と改名)は朝敵の子、負け組として冷や飯を食うことになるのだ。
 一方、勝ち組である薩摩の子爵の養子として何不自由なく育った黒田清輝は、明治17年に弱冠18歳でフランスに留学する。もともとは政治家を目指し法律を学ぶ予定だったが、土佐の国沢新九郎同様に絵画に興味が移り転向する。この10年間にもわたる優雅な留学生活が、黒田におおきな僥倖をもたらすことになる。
 黒田の洋行中、国内では岡倉天心とフェノロサによる洋画排斥運動が燃えさかり、洋画家たちは死に体も同然になっていたのだ。展覧会での洋画展示も禁止され、明治22年に開校された東京美術学校(学長は岡倉天心)にも西洋画科は設置されないという逆風下、洋画家のリーダー格であった浅井は日本初の美術団体「明治美術会」を創設して必死に踏ん張っていた。そんな矢先の明治26年7月、薩閥のプリンス黒田清輝が帰国する。
 黒田の帰国は浅井ら洋画家に朗報と思われたが、黒田は帰国の3年後に明治美術会と袂を分かって新グループ「白馬会」を創設し、その翌月に天心は東京美術学校長を罷免され同校に西洋画科が設置されると同時に黒田が教授に就任、洋画界は政治に翻弄されつつ内部分裂してゆく。印象派風の明るい絵を描く白馬会の画家らは外光派・紫派と呼ばれてもてはやされ、浅井らは脂(やに)派・旧派と揶揄されるようになるのだ。日本の美術界はすでに黒田清輝を中心に回りはじめていたのである。
 そんな流派同士の不毛な争いにほとほと嫌気がさしていた浅井に突然、文部省からパリ万博の監査官任命と2年間のフランス留学の命が下る。浅井は渡りに船とばかりに翌年の明治33年に渡欧、帰国後は東京美術学校教授を辞して京都に赴き、京都高等工芸学校開校と同時に教授として図案科で美術やデザインを教え、聖護院洋画研究所のちに関西美術院を創設して後進の指導を行うようになる。派閥争いにうつつをぬかす東京の美術界をよそに、浅井は京都で悠然と油絵、水彩画、陶芸のほか洒脱なデザイン画を描き、のちの日本画壇を代表する梅原龍三郎、安井曾太郎、津田青楓らを育ててゆくのである。
 だが残念なことに、そんな生活も永くは続かなかった。
 京都に移住してわずか5年後の明治40年暮れ、美術・工芸の革新を目指した天性の芸術家は、時代の波に翻弄されながら51年の生涯を古都の地で閉じるのである。死の間際まで関西美術院と京都高等工芸学校の学生らを気にかけ、「どうか美術院も学校も宜しく頼む」と言い遺したという。
 実を云うと、わたしはその旧京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の建築工芸学科卒である。同科は昔の図案科であるから、不肖ながらわたしは浅井忠の遥か遠い弟子ということになる。そう勝手に決めこんで、最近はヘタな素描や水彩画をはじめている。お手本は云うまでもなく、浅井黙語先生である。≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その九) [「子規と漱石」の世界]

その九 漱石の「第五高等学校」」時代(その四・明治三十二年周辺)

蕪村忌.jpg

「蕪村忌(明治32年(1899)12月)」 (子規庵蔵)
https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/topics/famous_persons/shiki/japanese/page_04.html
≪西側黒板塀前で撮影。子規は、中央で脇息(きょうそく、肘掛け)にもたれています。≫

http://chikata.net/?p=2883

(再掲)

明治32年(1899年)
1月、子規へ句稿を送る(75句)
1月、子規『俳諧大要』を発表。
2月、子規へ句稿を送る(105句)
5月、長女(筆子)誕生。
9月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、阿蘇登山。
10月、子規へ句稿を送る(29句)

(追記) 夏目漱石俳句集(その六)<制作年順> 明治32年(1430~1540)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200912article_1.html

明治32年(1899年)

1430 我に許せ元日なれば朝寝坊(「虚子・碧悟桐」宛書簡)

1431 金泥の鶴や朱塗の屠蘇の盃 (子規へ送りたる句稿三十二・七十五句・一月)
1432 宇佐に行くや佳き日を選む初暦
1433 梅の神に如何なる恋や祈るらん
1434 うつくしき蜑の頭や春の鯛
1435 蕭条たる古駅に入るや春の夕
1436 兀として鳥居立ちけり冬木立
1437 神苑に鶴放ちけり梅の花
1438 ぬかづいて曰く正月二日なり
1439 松の苔鶴痩せながら神の春
1440 南無弓矢八幡殿に御慶かな
1441 神かけて祈る恋なし宇佐の春
1442 呉橋や若菜を洗ふ寄藻川
1443 灰色の空低れかゝる枯野哉
1444 無提灯で枯野を通る寒哉
1445 石標や残る一株の枯芒
1446 枯芒北に向つて靡きけり
1447 遠く見る枯野の中の烟かな
1448 暗がりに雑巾を踏む寒哉
1449 冬ざれや狢をつるす軒の下
1450 凩や岩に取りつく羅漢路
1451 巌窟の羅漢共こそ寒からめ
1452 釣鐘に雲氷るべく山高し
1453 凩の鐘楼危ふし巌の角
1454 梯して上る大盤石の氷かな
1455 巌頭に本堂くらき寒かな
1456 絶壁に木枯あたるひゞきかな
1457 雛僧の只風呂吹と答へけり
1458 かしこしや未来を霜の笹結び
1459 二世かけて結ぶちぎりや雪の笹
1460 短かくて毛布つぎ足す蒲団かな
1461 泊り合す旅商人の寒がるよ
1462 寐まらんとすれど衾の薄くして
1463 頭巾着たる猟師に逢ひぬ谷深み
1464 はたと逢ふ夜興引ならん岩の角
1465 谷深み杉を流すや冬の川
1466 冬木流す人は猿の如くなり
1467 帽頭や思ひがけなき岩の雪
1468 石の山凩に吹かれ裸なり
1469 凩のまがりくねつて響きけり
1470 凩の吹くべき松も生えざりき
1471 年々や凩吹て尖る山
1472 凩の峰は剣の如くなり
1473 恐ろしき岩の色なり玉霰
1474 只寒し天狭くして水青く
1475 目ともいはず口ともいはず吹雪哉
1476 ばりばりと氷踏みけり谷の道
1477 道端や氷りつきたる高箒
1478 たまさかに据風呂焚くや冬の雨
1479 せぐゝまる蒲団の中や夜もすがら
1480 薄蒲団なえし毛脛を擦りけり
1481 僧に似たるが宿り合せぬ雪今宵
1482 雪ちらちら峠にかかる合羽かな
1483 払へども払へどもわが袖の雪
1484 かたかりき鞋喰ひ込む足袋の股
1485 隧道の口に大なる氷柱かな
1486 吹きまくる雪の下なり日田の町
1487 炭を積む馬の脊に降る雪まだら
1488 漸くに又起きあがる吹雪かな
1489 詩僧死して只凩の里なりき
1490 蓆帆の早瀬を上る霰かな
1491 奔湍に霰ふり込む根笹かな
1492 つるぎ洗ふ武夫もなし玉霰
1493 新道は一直線の寒さかな
1494 棒鼻より三里と答ふ吹雪哉
1495 なつかしむ衾に聞くや馬の鈴
1496 親方と呼びかけられし毛布哉
1497 餅搗や明星光る杵の先
1498 行く年の左したる思慮もなかりけり
1499 染め直す古服もなし年の暮
1500 やかましき姑健なり年の暮
1501 ニッケルの時計とまりぬ寒き夜半
1502 元日の富士に逢ひけり馬の上
1503 蓬莱に初日さし込む書院哉
1504 光琳の屏風に咲くや福寿草
1505 眸に入る富士大いなり春の楼  (1431~「同上」)

1506 馬に蹴られ吹雪の中に倒れけり(「手帳」より 三十一句)
1507 雪の客僧に似たりや五七日
1508 沈まざる南瓜浮名を流しけり
1509 石打てばかららんと鳴る氷哉
1510 楽しんで蓋をあくれば干鱈哉
1511 乾鮭や薄く切れとの仰せなり
1512 妾と郎離別を語る柳哉
1513 春風に祖師西来の意あるべし
1514 禅僧に旛動きけり春の風
1515 郎を待つ待合茶屋の柳かな
1516 鞭つて牛動かざる日永かな
1517 わが歌の胡弓にのらぬ朧かな
1518 煩悩の朧に似たる夜もありき
1519 吾折々死なんと思ふ朧かな
1520 春此頃化石せんとの願あり
1521 招かれて隣に更けし歌留多哉
1522 追羽子や君稚児髷の黒眼勝
1523 耄碌と名のつく老の頭巾かな
1524 筋違に葱を切るなり都振
1525 玉葱の煮えざるを焦つ火鉢哉
1526 湯豆腐に霰飛び込む床几哉
1527 立ん坊の地団太を踏む寒かな
1528 べんべらを一枚着たる寒さかな
1529 ある時は鉢叩かうと思ひけり
1530 寄り添へば冷たき瀬戸の火鉢かな
1531 雪を煮て煮立つ音の涼しさよ
1532 挙して曰く可なく不可なし蕪汁
1533 善か悪か風呂吹を喰つて我点せよ
1534 何の故に恐縮したる生海鼠哉
1535 老たん(※耳偏に冉)のうとき耳ほる火燵かな
1536 仏画く殿司の窓や梅の花     (1506~「同上」)

1537 夫子貧に梅花書屋の粥薄し(子規へ送りたる句稿三十三・一〇五句・二月)
1538 手を入るゝ水餅白し納屋の梅
1539 馬の尻に尾して下るや岨の梅
1540 ある程の梅に名なきはなかり鳧
1541 奈良漬に梅に其香をなつかしむ
1542 相伝の金創膏や梅の花
1543 たのもしき梅の足利文庫かな

1544 抱一は発句も読んで梅の花
≪季=梅の花(春)。※抱一は江戸後期の画家、酒井抱一。諸芸に優れ、俳諧は江戸座に学んだ。自選発句集『屠龍之技』がある。≫

1545 明た口に団子賜る梅見かな
1546 いざ梅見合点と端折る衣の裾
1547 夜汽車より白きを梅と推しけり
1548 死して名なき人のみ住んで梅の花
1549 法橋を給はる梅の主人かな
1550 玉蘭と大雅と語る梅の花
1551 村長の上座につくや床の梅
1552 梅の小路練香ひさぐ翁かな
1553 寄合や少し後れて梅の掾
1554 裏門や酢蔵に近き梅赤し
1555 一つ紋の羽織はいやし梅の花
1556 白梅や易を講ずる蘇東坡服
1557 蒟蒻に梅を踏み込む男かな
1558 梅の花千家の会に参りけり
1559 碧玉の茶碗に梅の落花かな
1560 粗略ならぬ服紗さばきや梅の主
1561 日当りや刀を拭ふ梅の主
1562 祐筆の大師流なり梅の花
1563 日をうけぬ梅の景色や楞伽窟
1564 とく起て味噌する梅の隣かな
1565 梅の花貧乏神の祟りけり
1566 駒犬の怒つて居るや梅の花
1567 筮竹に梅ちりかゝる社頭哉
1568 一斎の小鼻動くよ梅花飯
1569 封切れば月が瀬の梅二三片
1570 ものいはず童子遠くの梅を指す
1571 寒徹骨梅を娶ると夢みけり
1572 驢に乗るは東坡にやあらん雪の梅
1573 梅の詩を得たりと叩く月の門
1574 黄昏の梅に立ちけり絵師の妻
1575 髣髴と日暮れて入りぬ梅の村
1576 梅散るや源太の箙はなやかに
1577 月に望む麓の村の梅白し
1578 瑠璃色の空を控へて岡の梅
1579 落梅花水車の門を流れけり
1580 梅の下に槙割る翁の面黄也
1581 妓を拉す二重廻しや梅屋敷
1582 暁の梅に下りて嗽ぐ
1583 梅の花琴を抱いてあちこちす
1584 さらさらと衣を鳴らして梅見哉
1585 佩環の鏘然として梅白し
1586 戛と鳴て鶴飛び去りぬ闇の梅
1587 眠らざる僧の嚏や夜半の梅
1588 尺八のはたとやみけり梅の門
1589 宣徳の香炉にちるや瓶の梅
1590 古銅瓶に疎らな梅を活けてけり
1591 鉄筆や水晶刻む窓の梅
1592 墨の香や奈良の都の古梅園
1593 梅の宿残月硯を蔵しけり
1594 畠打の梅を繞ぐつて動きけり
1595 縁日の梅窮屈に咲きにけり
1596 梅の香や茶畠つゞき爪上り
1597 灯もつけず雨戸も引かず梅の花
1598 梅林や角巾黄なる売茶翁
1599 上り汽車の箱根を出て梅白し
1600 佶倔な梅を画くや謝春星
1601 雪隠の壁に上るや梅の影
1602 道服と吾妻コートの梅見哉
1603 女倶して舟を上るや梅屋敷
1604 梅の寺麓の人語聞こゆなり
1605 梅の奥に誰やら住んで幽かな灯
1606 円遊の鼻ばかりなり梅屋敷
1607 梅の中に且たのもしや梭の音
1608 清げなる宮司の面や梅の花
1609 月升つて枕に落ちぬ梅の影
1610 相逢ふて語らで過ぎぬ梅の下
1611 昵懇な和尚訪ひよる梅の坊
1612 月の梅貴とき狐裘着たりけり
1613 京音の紅梅ありやと尋ねけり
1614 紅梅に艶なる女主人かな
1615 紅梅や物の化の住む古館
1616 梅紅ひめかけの歌に咏まれけり
1617 いち早く紅梅咲きぬ下屋敷
1618 紅梅や姉妹の振る采の筒
1619 長と張つて半と出でけり梅の宿
1620 俗俳や床屋の卓に奇なる梅
1621 徂来其角並んで住めり梅の花
1622 盆梅の一尺にして偃蹇す
1623 雲を呼ぶ座右の梅や列仙伝
1624 紅梅や文箱差出す高蒔絵
1625 藪の梅危く咲きぬ二三輪
1626 無作法にぬつと出けり崖の梅
1627 梅活けて古道顔色を照らす哉
1628 潺湲の水挟む古梅かな
1629 手桶さげて谷に下るや梅の花
1630 寒梅に磬を打つなり月桂寺
1631 梅遠近そぞろあるきす昨日今日
1632 月升つて再び梅に徘徊す
1633 糸印の読み難きを愛す梅の翁
1634 鉄幹や暁星を点ず居士の梅
1635 梅一株竹三竿の住居かな
1636 梅に対す和靖の髭の白きかな
1637 琴に打つ斧の響や梅の花
1638 槎牙として素琴を圧す梅の影
1639 朱を点ず三昧集や梅の花
1640 梅の精は美人にて松の精は翁也
1641 一輪を雪中梅と名けけり    (1537~「同上」)

1642 靴足袋のあみかけてある火鉢哉 (「手帳」より 十六句 )
1643 ごんと鳴る鐘をつきけり春の暮
1644 炉塞いで山に入るべき日を思ふ
1645 白き蝶をふと見染めけり黄なる蝶
1646 小雀の餌や喰ふ黄なる口あけて
1647 梅の花青磁の瓶を乞ひ得たり
1648 郎去つて柳空しく緑なり
1649 行春や紅さめし衣の裏
1650 紫の幕をたゝむや花の山
1651 花の寺黒き仏の尊さよ
1652 僧か俗か庵を這入れば木瓜の花
1653 其愚には及ぶべからず木瓜の花
1654 寺町や土塀の隙の木瓜の花
1655 たく駝呼んで突ばい据ぬ木瓜の花
1656 木瓜の花の役にも立たぬ実となりぬ
1657 若葉して籠り勝なる書斎かな   (1642~「同上」)

1658 暁や白蓮を剪る数奇心 (「村上霽月」宛書簡)  

1659 馬渡す舟を呼びけり黍の間(子規へ送りたる句稿三十四・五十一句・九月)
1660 堅き梨に鈍き刃物を添てけり
1661 馬の子と牛の子と居る野菊かな
1662 温泉湧く谷の底より初嵐
1663 重ぬべき単衣も持たず肌寒し
1664 谷底の湯槽を出るやうそ寒み
1665 山里や今宵秋立つ水の音
1666 鶏頭の色づかであり温泉の流
1667 草山に馬放ちけり秋の空
1668 女郎花馬糞について上りけり
1669 女郎花土橋を二つ渡りけり
1670 囲ひあらで湯槽に逼る狭霧かな
1671 湯槽から四方を見るや稲の花
1672 鑓水の音たのもしや女郎花
1673 帰らんとして帰らぬ様や濡れ燕
1674 雪隠の窓から見るや秋の山
1675 北側は杉の木立や秋の山
1676 終日や尾の上離れぬ秋の雲
1677 蓼痩せて辛くもあらず温泉の流
1678 白萩の露をこぼすや温泉の流
1679 草刈の籃の中より野菊かな
1680 白露や研ぎすましたる鎌の色
1681 葉鶏頭団子の串を削りけり
1682 秋の川真白な石を拾ひけり
1683 秋雨や杉の枯葉をくべる音
1684 秋雨や蕎麦をゆでたる湯の臭ひ
1685 朝寒み白木の宮に詣でけり
1686 秋風や梵字を刻す五輪塔
1687 鳥も飛ばず二百十日の鳴子かな
1688 灰に濡れて立つや薄と萩の中
1689 行けど萩行けど薄の原広し
1690 語り出す祭文は何宵の秋
1691 野菊一輪手帳の中に挟みけり
1692 路岐して何れか是なるわれもかう
1693 七夕の女竹を伐るや裏の藪
1694 顔洗ふ盥に立つや秋の影
1695 柄杓もて水瓶洗ふ音や秋
1696 釣瓶きれて井戸を覗くや今朝の秋
1697 秋立つや眼鏡して見る三世相
1698 喪を秘して軍を返すや星月夜
1699 秋暑し癒なんとして胃の病
1700 聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ
1701 秋茄子髭ある人に嫁ぎけり
1702 湖を前に関所の秋早し
1703 初秋の隣に住むや池の坊
1704 荒壁に軸落ちつかず秋の風
1705 唐茄子の蔓の長さよ隣から
1706 端居して秋近き夜や空を見る
1707 顔にふるゝ芭蕉涼しや籐の寝椅子
1708 涼しさや石握り見る掌 (前書「寅彦桂浜の石数十顆を送る」)
1709 時くれば燕もやがて帰るなり
1710 秋立つや萩のうねりのやゝ長く (1659~「同上」)

1711 いかめしき門を這入れば蕎麦の花(子規へ送りたる句稿三十五・二十九句・十月)
1712 粟みのる畠を借して敷地なり
1713 松を出てまばゆくぞある露の原
1714 韋編断えて夜寒の倉に束ねたる
1715 秋はふみ吾に天下の志
1716 頓首して新酒門内に許されず
1717 肌寒と申し襦袢の贈物
1718 孔孟の道貧ならず稲の花
1719 古ぼけし油絵をかけ秋の蝶
1720 赤き物少しは参れ蕃椒
1721 かしこまる膝のあたりやそゞろ寒
1722 朝寒の顔を揃へし机かな
1723 先生の疎髯を吹くや秋の風
1724 本名は頓とわからず草の花
1725 苔青く末枯るゝべきものもなし
1726 南窓に写真を焼くや赤蜻蛉
1727 暗室や心得たりときりぎりす
1728 化学とは花火を造る術ならん
1729 玻璃瓶に糸瓜の水や二升程
1730 剥製の鵙鳴かなくに昼淋し
1731 魚も祭らず獺老いて秋の風
1732 樊かい(口偏に會)や闥を排して茸の飯
1733 大食を上座に粟の飯黄なり
1734 瓜西瓜富婁那ならぬはなかりけり
1735 就中うましと思ふ柿と栗
1736 稲妻の目にも留らぬ勝負哉
1737 容赦なく瓢を叩く糸瓜かな
1738 転けし芋の鳥渡起き直る健気さよ
1739 靡けども芒を倒し能はざる  (1711~「同上」)

1740 重箱に笹を敷きけり握り鮓 (「手帳」より 十四句)
1741 見るからに涼しき宿や谷の底
1742 むつとして口を開かぬ桔梗かな
1743 さらさらと護謨の合羽に秋の雨
1744 渋柿や長者と見えて岡の家
1745 門前に琴弾く家や菊の寺
1746 時雨るゝや足場朽ちたる堂の漏
1747 釣鐘をすかして見るや秋の海
1748 菊に猫沈南蘋を招きけり
1749 部屋住の棒使ひ居る月夜かな
1750 蛤とならざるをいたみ菊の露
1751 神垣や紅葉を翳す巫女の袖
1752 火燵して得たる将棋の詰手哉
1753 自転車を輪に乗る馬場の柳かな  (1740~「同上」)

1754 見るからに君痩せたりな露時雨(霽月の「九州めぐり句稿」より十三句)
1755 白菊に酌むべき酒も候はず
1756 抜けば崇る刀を得たり暮の秋
1757 白菊に黄菊に心定まらず
1758 ホーと吹て鏡拭ふや霜の朝
1759 時雨るや宿屋の下駄をはき卸す
1760 凩や斜に構へたる纏持
1761 旅の秋高きに上る日もあらん
1762 行秋を鍍金剥げたる指輪哉
1763 秋風や茶壺を直す袋棚
1764 醸し得たる一斗の酒や家二軒
1765 京の菓子は唐紅の紅葉哉
1766 長崎で唐の綿衣をとゝのへよ (1754~「同上」)

1767 横顔の歌舞伎に似たる火鉢哉(「虚子」宛書簡 四句)
1768 炭団いけて雪隠詰の工夫哉
1769 御家人の安火を抱くや後風土記
1770 追分で引き剥がれたる寒かな (1767~「同上」)

1771 決闘や町をはなれて星月夜  (『全集』収載)
1772 安々と海鼠の如き子を生めり
1773 時雨ては化る文福茶釜かな
1774 寒菊や京の茶を売る夫婦もの
1775 茶の会に客の揃はぬ時雨哉
1776 山茶花や亭をめぐりて小道あり
1777 茶の花や長屋も持ちて浄土寺
1778 小春日や茶室を開き南向
1779 水仙や髯たくはへて売茶翁  (1771~「同上」)


(参考) 「 根岸庵を訪う記(寺田寅彦)」周辺

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24406_15380.html

 九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居(ぐうきょ)を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑(にぎ)おうている。西郷の銅像の後ろから黒門(くろもん)の前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力(じんりき)と何か八釜(やかま)しく云って直(ねぶ)みをしていたが話が纏(まと)まらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠(かぶ)ったのがここばかりでない途中でも沢山(たくさん)見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入はいった。鞦韆(ぶらんこ)に四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。

其処(そこ)へ美術学校の方から車が二台幌(ほろ)をかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場(かんこうば)の方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方(そちら)へ足が向いたが丁度その前まで行くと一切(ひときり)済んだのであろうぴたりと止(やめ)てしまって楽手は煙草などふかしてじろ/\見物の顔を見ている。後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々大姉(だいし)と刻してある。真逆(まさか)に墓表(ぼひょう)とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処(そこ)で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼(せいりょう)な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸(かみねぎし)までの道を聞いたら丁寧(ていねい)に教えてくれた。

不折(ふせつ)の油画(あぶらえ)にありそうな女だなど考えながら博物館の横手大猷院尊前(だいゆういんそんぜん)と刻した石燈籠の並んだ処を通って行くと下り坂になった。道端に乞食が一人しゃがんで頻(しきり)に叩頭(ぬか)ずいていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文(びたいちもん)も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。つくつくほうし(※漢字)が八釜(やかま)しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭(うやうや)しく子規しきの家を尋ねたが知らぬとの答故(ゆえ)少々意外に思うて顔を見詰めた。するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。
交代の時間が来たからと云うて序(つい)でにこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔おうへいがお)が癪(しゃく)にさわったれども前のが親切に対しまた恭しく礼を述べて左へ曲った。何でも上根岸八十二番とか思うていたが家々の門札に気を付けて見て行くうち前田の邸(やしき)と云うに行当(ゆきあた)ったので漱石師(そうせきし)に聞いた事を思い出して裏へ廻ると小さな小路(こうじ)で角に鶯横町(うぐいすよこちょう)と札が打ってある。これを這入って黒板塀と竹藪の狭い間を二十間(けん)ばかり行くと左側に正岡常規(つねのり)とかなり新しい門札がある。黒い冠木門(かぶきもん)の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を乞うと右脇にある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師より予(かね)て紹介のあった筈(はず)である事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう。枕上(まくらがみ)のしきを隔てて座を与えられた。

初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間(ま)の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々咳(せき)が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に倚(よる)事さえ叶(かな)わぬのであろうか。右脇には句集など取散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止るのは足の方の鴨居(かもい)に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本(もと)を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。
まいかいは花が落ちてうてながまだ残ったままである。白粉花(おしろいばな)ばかりは咲き残っていたが鶏頭(けいとう)は障子にかくれて丁度見えなかった。熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言(かげん)な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。
師と子規と親密になったのは知り合ってから四年もたって後であったが懇意になるとずいぶん子供らしく議論なんかして時々喧嘩(けんか)などもする。そう云う風であるから自然細君(さいくん)といさかう事もあるそうだ。それを予(あらか)じめ知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。

室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々(らいらい)たる赭土塊(あかつちくれ)を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。不折ほど熱心な画家はない。もう今日の洋画家中唯一の浅井忠(ちゅう)氏を除けばいずれも根性の卑劣な媚嫉(ぼうしつ)の強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭(いや)であるから邪魔をしようとするのである。
驚いたものだ。不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬(ねたみ)を買い既に今度仏国博覧会へ出品する積(つも)りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道(しどう)の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白(こうはく)を貪(むさぼ)ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。少し若い女などになるとどうしても一円は取られる。それでなかなか時間もかかるから研究と一口に云うても容易な事ではない。
景色画でもそうだ。先頃上州(じょうしゅう)へ写生に行って二十日ほど雨のふる日も休まずに画いて帰って来ると浅井氏がもう一週間行って直して来いと云われたからまた行って来てようよう出来上がったと云っていたそうだ。それでもとにかく熱心がひどいからあまり器用なたちでもなくまだ未熟ではあるが成効するだろうよ。
やはり『ホトトギス』の裏絵をかく為山(いざん)と云う男があるがこの男は不折とまるで反対な性で趣味も新奇な洋風のを好む。いったい手先は不折なんかとちがってよほど器用だがどうも不勉強であるから近来は少々不折に先を越されそうな。それがちと近来不平のようであるがそれかと云うてやはり不精だから仕方がない。
あのくらいの天才を抱きながら終ついに不折の熱心に勝を譲るかも知れぬなど話しているうち上野からの汽車が隣の植込の向うをごん/\と通った。隣の庭の折戸の上に烏からすが三羽下りてガー/\となく。夕日が畳の半分ほど這入って来た。
不折の一番得意で他に及ぶ者のないのは『日本』に連載するような意匠画でこれこそ他に類がない。配合の巧みな事材料の豊富なのには驚いてしまう。例えば犬百題など云う難題でも何処どこかから材料を引っぱり出して来て苦もなく拵(こしら)える。
いったい無学と云ってよい男であるからこれはきっと僕等がいろんな入智恵をするのだと思う人があるようだが中々そんな事ではない。僕等が夢にも知らぬような事が沢山あって一々説明を聞いてようやく合点(がてん)が行くくらいである。どうも奇態な男だ。先達(せんだ)って『日本』新聞に掲げた古瓦の画などは最も得意でまた実際真似(まね)は出来ぬ。あの瓦の形を近頃秀真(ほずま)と云う美術学校の人が鋳物(いもの)にして茶托(ちゃたく)にこしらえた。そいつが出来損なったのを僕が貰うてあるから見せようとて見せてくれた。十五枚の内ようよう五枚出来たそうで、それも穴だらけに出来て中に破れて繕つくろったのもあるが、それが却(かえ)って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。
巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛(かたつむり)を這わして「角つのふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちがって鋳物だから蝸牛が大変よく利いているとか云うて不折もよほど気に入った様子だった。羽織を質入れしてもぜひ拵えさせると云うていたそうだと。話し半(なかば)へ老母が珈琲(コーヒー)を酌んで来る。子規には牛乳を持って来た。汽車がまた通って「※つくほうし」(漢字)の声を打消していった。
初対面からちと厚顔(あつかま)しいようではあったが自分は生来絵が好きで予(かね)てよい不折の絵が別けても好きであったから序(つい)でがあったら何でもよいから一枚呉(くれ)まいかと頼んで下さいと云ったら快く引受けてくれたのは嬉しかった。子規も小さい時分から絵画は非常に好きだが自分は一向かけないのが残念でたまらぬと喞(かこ)っていた。

夕日はますます傾いた。隣の屋敷で琴が聞える。音楽は好きかと聞くと勿論きらいではないが悲しいかな音楽の事は少しも知らぬ。どうか調べてみたいと思うけれどもこれからでは到底駄目であろう。尤(もっと)もこの頃人の話で大凡(おおよそ)こんなものかくらいは解ったようだが元来西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないからなおさら駄目だ。どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。
黯然(あんぜん)として吾(われ)も黙した。また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込みこみがないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考(しろうとかんがえ)で何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手ひきての情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽がくの大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴(ろはん)の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。

空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか畳の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。烏はいつの間にか飛んで行っていた。また出ますと云うたら宿は何処(どこか)と聞いたから一両日中に谷中(やなか)の禅寺へ籠る事を話して暇(いとま)を告げて門へ出た。隣の琴の音が急になって胸をかき乱さるるような気がする。不知不識(しらずしらず)其方へと路次を這入(はいる)と道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨といでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとよう/\広い街に出たから浅草の方へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘(こうもりがさ)を阿弥陀にさしてゆる/\あるく。山の上には人が沢山たくさん停車場から凌雲閣ゅりょううんかく)の方を眺めている。左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業(かるわざ)の太鼓御賽銭(おさいせん)の音に汚(けが)すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡き(んぶちめがね)隣に坐った禿頭の行商と欠伸(あくび)の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。 (明治三十二年九月)  ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その八) [「子規と漱石」の世界]

その八 漱石の「第五高等学校」時代(その三「明治三十一年」)周辺

http://chikata.net/?p=2883

(再掲)

明治31年(1898年)
1月、子規へ句稿を送る(30句)
2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
5月、子規へ句稿を送る(20句)
9月、子規へ句稿を送る(20句)
10月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

寺田寅彦.jpg

(昭和9年の寅彦/『昭和文学全集3寺田寅彦集』から)「(熊本県立大学図書館オンライン展示))
https://soseki-kumamoto-anniversary.com/info/%e7%ac%ac%e4%ba%94%e9%ab%98%e7%ad%89%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e3%81%ab%e5%85%a5%e5%ad%a6%e3%81%97%e3%81%9f%e5%af%85%e5%bd%a6/
≪ 第五高等学校に入学した寅彦は、「夏目漱石先生の追憶」(改造社『俳句講座 第八巻 地方結社編』昭和7年12月/昭和8年12月岩波書店発行『蒸発皿』に再録)に「学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教はつた」と書いているように漱石の英語の授業を受け、明治31年(1898年)――「第二学年の学年試験の終つた頃」、「同県学生のうちで試験をしくじつた」「二三人の為に」「点を貰ひに」、「白川の河畔」の漱石の家を「初めて尋ね」たとき、俳句について話を聞き、以後、漱石の家に出入りして俳句の添削を受け、漱石が子規に送ってくれた寅彦の句が『ほとゝぎす』『国民新聞』や新聞『日本』等に掲載されるようになり、また、明治32年(1899年)7月に第五高等学校を卒業して9月に東京帝国大学理科大学入学することになった寅彦は、漱石の紹介で子規を訪ね、『ほとゝぎす』との縁がさらに深まった。
 また、漱石が明治33年(1900年)9月に文部省の派遣でイギリス留学に出発したときには、在京の寅彦は、「先生が洋行するので横浜へ見送りに行つた。船はロイド社のプロイセン号であつた。(中略)「秋風の一人を吹くや海の上」といふ句を端書に書いて神戸からよこされた」(「夏目漱石先生の追憶」)と書いているように、横浜に見送りに行き、また漱石が2年間の留学を終えて明治36年(1903年)1月に帰朝したときにも、新橋停車場に出迎えに行っている。
 帰朝後漱石は第五高等学校を辞職して第一高等学校・東京帝国大学の講師となり、明治40年(1900年)には教職を辞して東京朝日新聞社に入社して〝お抱え作家〟となったが、寅彦は、「帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。(中略)千駄木に居を定められてからは、又昔のやうに三日にあげず遊びに行つた」と書いているように、イギリスから帰ったばかりの漱石の仮寓を訪ね、その後、同年3月に転居した千駄木町の住まいを、日記に「夜夏目先生を千駄木町の新寓に訪ふ」(3月16日)、「午後夏目先生を訪ふ書斎にて種々の書籍を見せてもらふ」(同22日)、「夜夏目先生を訪ふ。宗教論。乱れ髪の歌の話」(同24日)とあるように、早速頻繁に訪れ、明治39年12月に転居した西片町の住まい、明治40年9月に転居した早稲田南町の漱石山房に出入りし、また漱石を誘って音楽会等にも出かけている。そのような二人の交流は大正5年(1916年)12月9日に漱石が亡くなるまで続いた。≫

(追記) 夏目漱石俳句集(その五)<制作年順> 明治31年(1327~1629)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_16.html

明治31年(1898年)

1327 行く年や猫うづくまる膝の上(「子規へ送りたる句稿(二十八)三十句。一月)
(「夏目漱石デジタルコレクション」草稿)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

1328 焚かんとす枯葉にまじる霰哉
1329 切口の白き芭蕉に氷りつく
1330 家を出て師走の雨に合羽哉
1331 何をつゝき鴉あつまる冬の畠
1332 降りやんで蜜柑まだらに雪の舟
1333 此炭の喞つべき世をいぶるかな
1334 かんてらや師走の宿に寐つかれず
1335 温泉の門に師走の熟柿かな
1336 温泉の山や蜜柑の山の南側
1337 海近し寐鴨をうちし筒の音
1338 天草の後ろに寒き入日かな
1339 日に映ずほうけし薄枯ながら
1340 旅にして申訳なく暮るゝ年
1341 凩の沖へとあるゝ筑紫潟
1342 うき除夜を壁に向へば影法師
1343 床の上に菊枯れながら明の春
1344 元日の山を後ろに清き温泉
1345 酒を呼んで酔はず明けたり今朝の春
1346 稍遅し山を背にして初日影
1347 駆け上る松の小山や初日の出
1348 甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
1349 温泉や水滑かに去年の垢
1350 此春を御慶もいはで雪多し
1351 正月の男といはれ拙に処す
1352 色々の雲の中より初日出

1353 初鴉東の方を新枕 (前書「賀虚子新婚 一句」)
≪季=初鴉(新)。※虚子宛書簡には「承はれば近頃御妻帯のよし何よりの吉報に接し候心地千秋万歳の寿をなさんがため一句呈上致候」とある。虚子は前年の六月に結婚した。 (後略)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1354 僧帰る竹の裡こそ寒からめ
1355 桐かれて洩れ来る月の影多し
1356 一尺の梅を座右に置く机   (1327~「同上」)

1357 梅ちつてそゞろなつかしむ新俳句(「虚子」宛書簡)
≪季=梅(春)。※虚子から「新俳句」(明治三一・三)を送ってもらった令状に記した句。礼状で漱石は「小生爾来俳境日々退歩昨今は現に一句も無之候此分にてはやがて鳴雪老人の跡釜を引き受ける事ならんと少々寒心の体に有此候」と述べた。(後略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1358 春雨の隣の琴は六段か(「子規へ送りたる句稿(二十九)二十句。五月)
1359 瓢かけてからからと鳴る春の風
1360 鳥籠を柳にかけて狭き庭
1361 来よといふに来らずやみし桜かな
1362 三条の上で逢ひけり朧月
1363 片寄する琴に落ちけり朧月
1364 こぬ殿に月朧也高き楼
1365 行き行きて朧に笙を吹く別れ
1366 搦手やはね橋下す朧月
1367 有耶無耶の柳近頃緑也
1368 颯と打つ夜網の音や春の川
1369 永き日を太鼓打つ手のゆるむ也
1370 湧くからに流るゝからに春の水
1371 禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花
1372 春の夜のしば笛を吹く書生哉
1373 海を見て十歩に足らぬ畑を打つ
1374 花一木穴賢しと見上たる
1375 仏かく宅磨が家や梅の花
1376 鶴を切る板は五尺の春の椽
1377 思ひ切つて五分に刈りたる袷かな (1358~「同上」)

1378 となりから月曇らする蚊やり哉 (「九州新聞」)
1379 松風の絶へ間を蝉のしぐれかな (「同上」)

1380 小き馬車に積み込まれけり稲の花(「子規へ送りたる句稿(三十)二十句。九月)
1381 夕暮の秋海棠に蝶うとし
1382 離れては寄りては菊の蝶一つ
1383 枚をふくむ三百人や秋の霜
1384 胡児驕つて驚きやすし雁の声
1385 砧うつ真夜中頃に句を得たり
1386 踊りけり拍子をとりて月ながら
1387 茶布巾の黄はさめ易き秋となる
1388 長かれと夜すがら語る二人かな
1389 子は雀身は蛤のうきわかれ
1390 相撲取の屈託顔や午の雨
1391 ものいはぬ案山子に鳥の近寄らず
1392 病む頃を雁来紅に雨多し
1393 寺借りて二十日になりぬ鶏頭花
1394 恩給に事を欠かでや種瓢
1395 早稲晩稲花なら見せう萩紫苑
1396 生垣の丈かり揃へ晴るゝ秋
1397 秋寒し此頃あるゝ海の色
1398 夜相撲やかんてらの灯をふきつける
1399 菅公に梅さかざれば蘭の花 (1380~「同上」)

1400 朝顏や手拭懸に這ひ上る  (「承露盤」)
1401 能もなき渋柿どもや門の内 (「承露盤」)

1402 立枯の唐黍鳴つて物憂かり(「子規へ送りたる句稿(三十一)二十句。十月)
1403 逢ふ恋の打たでやみけり小夜砧
1404 蝶来りしほらしき名の江戸菊に
1405 塩焼や鮎に渋びたる好みあり
1406 一株の芒動くや鉢の中
1407 乾鮭のからついてゐる柱かな
1408 病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋
1409 かしこまりて憐れや秋の膝頭
1410 かしこみて易を読む儒の夜を長み
1411 長き夜や土瓶をしたむ台所
1412 張まぜの屏風になくや蟋蟀
1413 うそ寒み油ぎつたる枕紙
1414 病むからに行燈の華の夜を長み
1415 秋の暮野狐精来り見えて曰く
1416 白封に訃音と書いて漸寒し
1417 落ち合ひて新酒に名乗る医者易者
1418 憂あり新酒の酔に託すべく
1419 苫もりて夢こそ覚むれ荻の声
1420 秋の日のつれなく見えし別かな
1421 行く秋の関廟の香炉烟なし (1402~「同上」)

1422 朝寒の楊子使ふや流し元 (「反省雑誌」)
1423 駕舁の京へと急ぐ女郎花(「同上」)
1424 柳散り柳散りつゝ細る恋(「同上」
1425 病癒えず蹲る夜の野分かな(「同上」
1426 つるんだる蜻蛉飛ぶなり水の上(「同上」
1427 菊作る奴がわざの接木かな  (「承露盤」)
1428 ゆゝしくも合羽に包むつぎ木かな (「承露盤」)
1429 風呂に入れば裏の山より初嵐 (『寺田寅彦全集』中の句)

(参考)「子規庵句会図(河東碧悟桐賛・下山為山画、明治三十・三十一年頃)周辺

子規庵句会図.jpg

≪「子規庵句会写生図」画・下村為山 賛・河東碧梧桐 」(昭和10年(1935)、子規庵寄託資料、紙本淡彩、48.0×52.3㎝)

https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/topics/famous_persons/shiki/japanese/page_04.html

 明治30、31年(1897-1898)頃の子規庵新年句会での盛会の様子を描いたこの図は、昭和10年に「中央美術協会」が、俳句革新記念として限定30部作成しました。掛軸として頒布されたその1幅が平成25年(2013)子規庵に寄贈されました。すべて肉筆のため、画も賛も少しずつ異なる箇所があります。子規を初めとして石井露月、佐藤肋骨、河東碧梧桐、坂本四方太、内藤鳴雪、佐藤紅緑、高浜虚子、大谷繞石、吉野左衛門、五百木飄亭、梅沢墨水、数藤五城、赤木格堂、諫早李坪、下村為山、折井愚哉、寒川鼠骨、福田把栗、山田三子、谷活東、岩田鳴球、松下紫人等(子規から左回り)が参加しています。≫

≪「碧悟桐賛」全文
明治三十年頃より子規居士/の傘下に集る同人一党日に/月に新人を迎へ例月根岸子規/庵の句会の意気常に沖天/の概を占めせり/
牛伴画伯(注・「為山」の俳号)の此写生図ハ恐らく/明治三十一・二年頃の新年/発会の光景なるべく鳴雪の/披講各自採点の状四十/年を隔てて当時を目賭せし/む画中の人既に故人となれる者/子規居士と共に十名曰く/
  内藤鳴雪 坂本四芳太 /  石井露月  墨水 / 数藤五城 大谷繞石 / 吉野左衛門 諫早李坪 / 新井愚哉/
 而して今日尚ほ健在なる者も/多く白頭霜鬢既に老境に入る/当時を追想して多少の感慨なめしとせんや / 碧悟桐識   ≫(『俳人の書画美術7 子規(集英社刊)』所収「図版解説125(和田茂樹)」)
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夏目漱石の「俳句と書画」(その七) [「子規と漱石」の世界]

その七 漱石の「第五高等学校」時代(その二(明治三十年)周辺)

熊本・第五高等学校.jpg

「熊本・第五高等学校」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

熊本・第五高等学校二.gif

(「同上」解説文)

(追記) 夏目漱石俳句集(その四)<制作年順> 明治30年(1039~1326)

1039 生れ得てわれ御目出度顔の春(「子規へ送りたる句稿(二十二)二十二句。一月)
1040 五斗米を餅にして喰ふ春来たり
1041 臣老いぬ白髪を染めて君が春
1042 元日や蹣跚として吾思ひ

子規へ送りたる句稿二十二.jpg

(「子規へ送りたる句稿二十二」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

子規へ送りたる句稿二十二の二.gif

(「子規へ送りたる句稿二十二(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

1043 馬に乗つて元朝の人勲二等
1044 詩を書かん君墨を磨れ今朝の春
1045 元日や吾新たなる願あり
1046 春寒し印陀羅といふ画工あり
1047 聾なる僕藁を打つ冬籠
1048 親子してことりともせず冬籠
1049 医はやらず歌など撰し冬籠
1050 力なや油なくなる冬籠
1051 仏焚て僧冬籠して居るよ
1052 燭つきつ墨絵の達磨寒気なる
1053 燭きつて暁ちかし大晦日
1054 餅を切る庖丁鈍し古暦
1055 冬籠弟は無口にて候
1056 桃の花民天子の姓を知らず
1057 松立てゝ空ほのぼのと明る門
1058 ふくれしよ今年の腹の粟餅に
1059 貧といへど酒飲みやすし君が春
1060 塔五重五階を残し霞けり    (1039~「同上」)

1061 酒苦く蒲団薄くて寐られぬ夜(「子規へ送りたる句稿(二十三)四十句。二月)
1062 ひたひたと藻草刈るなり春の水
1063 岩を廻る水に浅きを恨む春
1064 散るを急ぎ桜に着んと縫ふ小袖
1065 出代の夫婦別れて来りけり

1066 人に死し鶴に生れて冴返る
≪季=冴返る。(中略) この句はのちに雑誌「ほとゝぎす」(明治32・1に掲載された。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1067 隻手此比良目生捕る汐干よな
1068 恐らくば東風に風ひくべき薄着
1069 寒山か拾得か蜂に螫されしは
1070 ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり
1071 落ちさまに虻を伏せたる椿哉
1072 貪りて鶯続け様に鳴く
1073 のら猫の山寺に来て恋をしつ
1074 ぶつぶつと大な田螺の不平哉
1075 菜の花や城代二万五千石
1076 明天子上にある野の長閑なる
1077 大纛や霞の中を行く車
1078 烈士剣を磨して陽炎むらむらと立つ
1079 柳あり江あり南画に似たる吾
1080 或夜夢に雛娶りけり白い酒
1081 霞みけり物見の松に熊坂が
1082 酢熟して三聖顰す桃の花
1083 川を隔て散点す牛霞みけり
1084 薫ずるは大内といふ香や春
1085 姉様に参らす桃の押絵かな
1086 よき敵ぞ梅の指物するは誰
1087 朧夜や顔に似合ぬ恋もあらん
1088 住吉の絵巻を写し了る春
1089 春は物の句になり易し古短冊
1090 山の上に敵の赤旗霞みけり

1091 木瓜咲くや漱石拙を守るべく
≪季=木瓜の花(春)。※『草枕』「十二」に「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」とある。「守拙」の語は陶淵明の詩「園田の居に帰る」の「拙を守って園田に帰る」に由来。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1092 滝に乙鳥突き当らんとしては返る
1093 なある程是は大きな涅槃像
1094 春の夜を兼好緇衣に恨みあり
1095 暖に乗じ一挙虱をみなごろしにす
1096 達磨傲然として風に嘯く鳳巾
1097 疝は御大事余寒烈しく候へば

1098 菫程な小さき人に生れたし
≪季=菫(春)。※小品『文鳥』に「菫程な小さな人が、黄金の槌で瑪瑙の碁盤でもつづけ様に敲いて居るような気がする」とある。(中略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1099 前垂の赤きに包む土筆かな
1100  水に映る藤紫に鯉緋なり     (1061~「同上」)

1101 生き返り御覧ぜよ梅の咲く忌日(「黒木翁三周忌」)
1102 古瓦を得つ水仙のもとに硯彫む(新聞「日本」)
1103 狸化けぬ柳枯れぬと心得て(新聞「日本」)
1104 梓彫る春雨多し湖泊堂(「子規宛書簡」、「湖白堂」=「藤野古白」の別号)

1105 古往今来切つて血の出ぬ海鼠かな(「子規へ送りたる句稿(二十四)五十一句。四月)
1106 西函嶺を踰えて海鼠に眼鼻なし
1107 土筆物言はずすんすんとのびたり
1108 春寒し墓に懸けたる季子の剣
1109 抜くは長井兵助の太刀春の風
1110 剣寒し闥を排して樊かいが
1111 太刀佩て恋する雛ぞむつかしき
1112 浪人の刀錆びたり時鳥
1113 顔黒く鉢巻赤し泳ぐ人
1114 深うして渡れず余は泳がれず
1115 裸体なる先生胡坐す水泳所
1116 泳ぎ上がり河童驚く暑かな
1117 泥川に小児つどいて泳ぎけり
1118 亀なるが泳いできては背を曝す
1119 いの字よりはの字むつかし梅の花
1120 夏書する黄檗の僧名は即非
1121 客に賦あり墨磨り流す月の前
1122 巨燵にて一筆しめし参らせう
1123 金泥もて法華経写す日永哉
1124 春の夜を小謡はやる家中哉
1125 隣より謡ふて来たり夏の月
1126 肌寒み禄を離れし謡ひ声
1127 謡師の子は鼓うつ時雨かな
1128 謡ふものは誰ぞ桜に灯ともして
1129 八時の広き畑打つ一人かな
1130 角落ちて首傾けて奈良の鹿
1131 菜の花の中へ大きな入日かな
1132 木瓜咲くや筮竹の音算木の音
1133 若鮎の焦つてこそは上るらめ
1134 夥し窓春の風門春の水
1135 据風呂に傘さしかけて春の雨
1136 泥海の猶しづかなり春の暮
1137 石磴や曇る肥前の春の山
1138 松をもて囲ひし谷の桜かな
1139 雨に雲に桜濡れたり山の陰
1140 菜の花の遥かに黄なり筑後川
1141 花に濡るゝ傘なき人の雨を寒み
1142 人に逢はず雨ふる山の花盛
1143 筑後路や丸い山吹く春の風
1144 山高し動ともすれば春曇る
1145 濃かに弥生の雲の流れけり
1146 拝殿に花吹き込むや鈴の音
1147 金襴の軸懸け替て春の風
1148 留針や故郷の蝶余所の蝶
1149 しめ縄や春の水湧く水前寺
1150 上画津や青き水菜に白き蝶
1151 菜種咲く小島を抱いて浅き川
1152 棹さして舟押し出すや春の川
1153 柳ありて白き家鴨に枝垂たり
1154 就中高き桜をくるりくるり
1155 魚は皆上らんとして春の川  (1105~「同上」)

1156 青葉勝に見ゆる小村の幟かな(雑誌「めさまし草」)

1157 行く春を剃り落したる眉青し(「子規へ送りたる句稿(二十五)六十一句。五月) 
1158 行く春を沈香亭の牡丹哉
1159 春の夜や局をさがる衣の音
1160 春雨の夜すがら物を思はする
1161 埒もなく禅師肥たり更衣
1162 よき人のわざとがましや更衣
1163 更衣て弟の脛何ぞ太き
1164 埋もれて若葉の中や水の音
1165 影多き梧桐に据る床几かな
1166 郭公茶の間へまかる通夜の人
1167 蹴付たる讐の枕や子規
1168 辻君に袖牽れけり子規
1169 扛げ兼て妹が手細し鮓の石
1170 小賢しき犬吠付や更衣
1171 七筋を心利きたる鵜匠哉
1172 漢方や柑子花さく門構
1173 若葉して半簾の雨に臥したる
1174 妾宅や牡丹に会す琴の弟子
1175 世はいづれ棕櫚の花さへ穂に出でつ
1176 立て懸て蛍這ひけり草箒
1177 若葉して縁切榎切られたる
1178 でゞ虫の角ふり立てゝ井戸の端
1179 溜池に蛙闘ふ卯月かな
1180 虚無僧に犬吠えかゝる桐の花
1181 筍や思ひがけなき垣根より
1182 若竹や名も知らぬ人の墓の傍
1183 若竹の夕に入て動きけり
1184 鞭鳴す馬車の埃や麦の秋
1185 渡らんとして谷に橋なし閑古鳥
1186 折り添て文にも書かず杜若
1187 八重にして芥子の赤きぞ恨みなる
1188 傘さして後向なり杜若
1189 蘭湯に浴すと書て詩人なり
1190 すゝめたる鮓を皆迄参りたり
1191 鮓桶の乾かで臭し蝸牛
1192 生臭き鮓を食ふや佐野の人
1193 粽食ふ夜汽車や膳所の小商人
1194 蝙蝠や賊の酒呑む古館
1195 不出来なる粽と申しおこすなる
1196 五月雨や小袖をほどく酒のしみ
1197 五月雨の壁落しけり枕元
1198 五月雨や四つ手繕ふ旧士族
1199 目を病んで灯ともさぬ夜や五月雨
1200 馬の蠅牛の蠅来る宿屋かな
1201 逃がすまじき蚤の行衛や子規
1202 蚤を逸し赤き毛布に恨みあり
1203 蚊にあけて口許りなり蟇の面
1204 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂
1205 夏来ぬとまた長鋏を弾ずらく
1206 藪近し椽の下より筍が
1207 寐苦しき門を夜すがら水鶏かな
1208 若葉して手のひらほどの山の寺
1209 菜種打つ向ひ合せや夫婦同志
1210 菊地路や麦を刈るなる旧四月
1211 麦を刈るあとを頻りに燕かな
1212 文与可や筍を食ひ竹を画く
1213 五月雨の弓張らんとすればくるひたる
1214 立て見たり寐て見たり又酒を煮たり
1215 水攻の城落ちんとす五月雨
1216 大手より源氏寄せたり青嵐
1217 水涸れて城将降る雲の峰    (1157~「同上」)

1218 槽底に魚あり沈む心太 (七月四日~九月七日まで上京。子規句会。1250迄)
1219 蛭ありて黄なり水経註に曰く
1220 魚を網し蛭吸ふ足を忘れけり
1221 水打て床几を両つ并べける
1222 蚤をすてゝ虱を得たる木賃哉
1223 撫子に病閑あつて水くれぬ
1224 土用にして灸を据うべき頭痛あり
1225 楽に更けて短き夜なり公使館
1226 夕立や犇めく市の十万家
1227 音もせで水流れけり木下闇
1228 夕涼し起ち得ぬ和子を喞つらく
1229 落ちて来て露になるげな天の川
1230 来て見れば長谷は秋風ばかり也
1231 浜に住んで朝貌小さきうらみ哉
1232 冷かな鐘をつきけり円覚寺
1233 虫売の秋をさまざまに鳴かせけり
1234 案の如くこちら向いたる踊かな
1235 半月や松の間より光妙寺
1236 薬掘昔不老の願あり
1237 黄ばみたる杉葉に白き燈籠哉
1238 行燈や短かゝりし夜の影ならず
1239 徘徊す蓮あるをもて朝な夕な
1240 仏性は白き桔梗にこそあらめ
1241 山寺に湯ざめを悔る今朝の秋
1242 其許は案山子に似たる和尚かな
1243 漕ぎ入れん初汐寄する龍が窟
1244 初秋をふるひかへせしおこり哉
1245 北に向いて書院椽あり秋海棠
1246 砂山に薄許りの野分哉
1247 捨てもあへぬ団扇参れと残暑哉
1248 鳴き立てゝつくつく法師死ぬる日ぞ
1249 唐黍や兵を伏せたる気合あり
1250 夜をもれと小萩のもとに埋めけり   
1251 群雀粟の穂による乱れ哉
1252 刈り残す粟にさしたり三日の月
1253 山里や一斗の粟に貧ならず
1254 粟刈らうなれど案山子の淋しかろ
1255 船出ると罵る声す深き霧
1256 鉄砲に朝霧晴るゝ台場哉
1257 朝懸や霧の中より越後勢
1258 川霧に呼はんとして舟見えざる(1218~「同上」)

1259 南九州に入つて柿既に熟す   (九月十日熊本着。一句)
1260 今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる(「子規宛書簡」)
1261 影二つうつる夜あらん星の井戸(新聞「日本」)

1262 樽柿の渋き昔しを忘るゝな(「子規へ送りたる句稿(二十六)三十九句。十月)
1263 渋柿やあかの他人であるからは
1264 萩に伏し薄にみだれ故里は
1265 粟折つて穂ながら呉るゝ籠の鳥
1266 蟷螂の何を以てか立腹す
1267 こおろぎのふと鳴き出しぬ鳴きやみぬ
1268 うつらうつら聞き初めしより秋の風
1269 秋風や棚に上げたる古かばん
1270 明月や無筆なれども酒は呑む
1271 明月や御楽に御座る殿御達
1272 明月に今年も旅で逢ひ申す
1273 真夜中は淋しからうに御月様
1274 明月や拙者も無事で此通り
1275 こおろぎよ秋ぢゃ鳴かうが鳴くまいが
1276 秋の暮一人旅とて嫌はるゝ
1277 梁上の君子と語る夜寒かな
1278 これ見よと云はぬ許りに月が出る
1279 朝寒の冷水浴を難んずる
1280 月に行く漱石妻を忘れたり
1281 朝寒の膳に向へば焦げし飯
1282 長き夜を平気な人と合宿す
1283 うそ寒み大めしを食ふ旅客あり
1284 吏と農と夜寒の汽車に語るらく
1285 月さして風呂場へ出たり平家蟹
1286 恐る恐る芭蕉に乗つて雨蛙
1287 某は案山子にて候雀どの
1288 鶏頭の陽気に秋を観ずらん
1289 明月に夜逃せうとて延ばしたる
1290 鳴子引くは只退窟で困る故
1291 芭蕉ならん思ひがけなく戸を打つば
1292 刺さずんば已まずと誓ふ秋の蚊や
1293 秋の蚊と夢油断ばしし給ふな
1294 嫁し去つてなれぬ砧に急がしき
1295 長き夜を煎餅につく鼠かな
1296 野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ
1297 豆柿の小くとも数で勝つ気よな
1298 北側を稲妻焼くや黒き雲
1299 余念なくぶらさがるなり烏瓜
1300 蛛落ちて畳に音す秋の灯細し   (1262~「同上」)

1301 朝寒み夜寒みひとり行く旅ぞ(新聞「日本」)

1302 淋しくば鳴子をならし聞かせうか(「子規へ送りたる句稿(二十七)二十句。十二月)
1303 ある時は新酒に酔て悔多き
1304 菊の頃なれば帰りの急がれて
1305 傘を菊にさしたり新屋敷
1306 去りしとてはむしりもならず赤き菊
1307 一東の韻に時雨るゝ愚庵かな
1308 凩や鐘をつくなら踏む張つて
1309 二三片山茶花散りぬ床の上
1310 早鐘の恐ろしかりし木の葉哉
1311 片折戸菊押し倒し開きけり
1312 粟の後に刈り残されて菊孤也
1313 初時雨吾に持病の疝気あり
1314 柿落ちてうたゝ短かき日となりぬ
1315 提灯の根岸に帰る時雨かな
1316 暁の水仙に対し川手水
1317 蒲団着て踏張る夢の暖き
1318 塞を出てあられしたゝか降る事よ
1319 熊笹に兎飛び込む霰哉
1320 病あり二日を籠る置炬燵
1321 水仙の花鼻かぜの枕元   (1302~「同上」)

1322 寂として椽に鋏と牡丹哉    (「承露盤」より四句)
1323 白蓮にいやしからざる朱欄哉   (同上)
1324 来る秋のことわりもなく蚊帳の中 (同上)
1325 晴明の頭の上や星の恋      (同上)
1326 竿になれ鉤になれ此処へおろせ雁 (「子規」句会、上京中の句)


(参考) 「1098 菫程な小さき人に生れたし」周辺

≪ 「漱石の俳句(6)菫程な小さき人に生れたし」

http://chikata.net/?p=2883

 二〇一四年、漱石から子規へ送った手紙があらたに発見されたというニュースがありました。手紙の日付は明治三〇年八月二三日。その中に未発表の俳句が二句ありました。

禅寺や只秋立つと聞くからに
京に二日また鎌倉の秋を憶ふ

二句目は鎌倉で療養中だった妻への思いを詠んだ句です。この年の六月、漱石は実父が亡くなったため、鏡子と東京に戻ります。その長旅のせいで鏡子は流産します。鏡子はそのため鎌倉で療養しました。「また」というのは、漱石自身がその三年前である明治二七年、神経衰弱に苦しむ自身の療養のため鎌倉円覚寺に参禅しているからです。

明治二七年というと、五月に北村透谷が自殺、八月に子規も従軍した日清戦争が起った年です。西暦にすると一八九四年。この世紀末から新世紀に変わる数年間、漱石の人生はたいへんなスピードで動きます。句の背後を知る意味でも、子規との関係と一緒に少し年譜をたどってみます。

明治27年(1894年)
12月、鎌倉円覚寺に参禅。

明治28年(1895年)
 1月、根津の子規庵で句会に参加。
 4月、東京を去り、松山へ赴任。
 同月、子規の従弟で、漱石の教え子でもある藤野古白が自殺。
 同月、子規が近衛連隊の従軍記者として遼東半島を回る。
 5月、子規が帰国の船上で喀血し倒れる。神戸で入院。
 8月、子規が療養のため松山にもどり、漱石の下宿先(愚陀仏庵)に移り住む。
 10月、子規が東京に戻る。
 同月、子規へ句稿を送る(5句)
 同月、子規へ句稿を送る(46句)
 同月、子規へ句稿を送る(42句)
 11月、子規へ句稿を送る(50句)
 同月、子規へ句稿を送る(18句)
 同月、子規へ句稿を送る(47句)
 同月、子規へ句稿を送る(69句)
 12月、東京に戻り鏡子と見合い、婚約。
 同月、子規へ句稿を送る(41句)
 同月、子規へ句稿を送る(61句)

明治29年(1896年)
1月、子規へ句稿を送る(40句)
同月、子規へ句稿を送る(20句)
3月、子規へ句稿を送る(101句)
同月?、子規へ句稿を送る(27句)
同月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、熊本に赴任。
6月、鏡子と結婚、式を挙げる。
7月、子規へ句稿を送る(40句)
8月、子規へ句稿を送る(30句)
9月、子規へ句稿を送る(40句)
10月、子規へ句稿を送る(16句)
同月、子規へ句稿を送る(15句)
11月、子規へ句稿を送る(28句)
12月、子規へ句稿を送る(62句)

明治30年(1897年)
1月、柳原極堂が松山で「ほとヽぎす」を創刊。
同月、子規へ句稿を送る(22句)
2月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、子規『俳人蕪村』を発表。
5月、子規『古白遺稿』を刊行。
同月、子規へ句稿を送る(61句)
6月、実父(直克)逝去。鏡子流産。
8月、鏡子が療養する鎌倉別荘へ行く。
10月、子規へ句稿を送る(39句)
12月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、正月まで小天温泉へ旅する。『草枕』の題材となる。

明治31年(1898年)
1月、子規へ句稿を送る(30句)
2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
5月、子規へ句稿を送る(20句)
9月、子規へ句稿を送る(20句)
10月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

明治32年(1899年)
1月、子規へ句稿を送る(75句)
1月、子規『俳諧大要』を発表。
2月、子規へ句稿を送る(105句)
5月、長女(筆子)誕生。
9月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、阿蘇登山。
10月、子規へ句稿を送る(29句)

明治33年(1900年)
1月、子規「叙事文」にて、写生文を提唱。
7月、英国留学の準備のため帰京。
8月、子規を訪問する。
9月、子規「山会」を開催。
同月、英国へ出発。

愚陀仏庵を子規が去ってから、漱石はまるで俳句によって病を癒すかのような勢いで大量の句を作っては、子規へ送り続けています。むしろ、俳句という「病」にかかったかのようでもあります。ところが、明治三二年、長女・筆子の誕生以降、句作の量が激減し、子規への句稿もその年末でストップします。翌年は年間一九句しか遺していません。子どもの誕生が漱石の病を軽減したのか、まるで俳句を作りながら新しい命を求めていたかのようにすら思えます。

ところで明治三〇年の二月、子規へ送った句稿の中に不思議な句があります。

菫程な小さき人に生れたし

菫のような可愛さにあこがれる女性の句と思う人もいるようですが、まぎれもなく、夏目漱石の句です。

この句は有名なので、今更付け足すまでもなく、すでに解釈がなされています。やはり、熊本時代の句であるだけに、熊本を舞台にした小説『草枕』(明治三九年)の世界とつなげて、面倒な人の世を離れて、ひっそりと菫のように生きたいという気持ちと解されることが多いと思います。

また「菫程な小さき人」という表現は、明治四一年の作品『文鳥』に再び現れます。『文鳥』は小説とも随筆とも日記とも言えないような小品(写生文)です。漱石は、教え子の鈴木三重吉のすすめで、文鳥を飼います。その文鳥について、次のように書かれています。

《文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いているような気がする。》(明治四一年『文鳥』)

この一節をもとに菫の句が解釈されることもあります。例えば、詩人の清水哲男はこう評しています。《人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんな風な人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう》。たしかに「累々と徳孤ならずの蜜柑かな」(明治二九年)の蜜柑しかり、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」(明治三〇年)の木瓜の花しかり、この句は菫に自己の理想を詠んでいることは、疑いようがありません。

いずれにしても、先ほどの『草枕』の隠遁詩人の世界からつながる解釈です。ただ、先ほどの年譜を見ると、この句を詠んだとき、漱石は結婚したばかりであることがわかります。このときの漱石の心を思うと、下五の「生れたし」は自分自身のことでもあると同時に、これから生まれてくるであろう誰か、つまり、未来の子どもに向かって自身の理想を投げかけているようにも聞こえてきます。

なぜなら「生れたし」と言って、生まれたいと思っているのは作者ですが、作者は既に生まれてしまっているわけです。もし、生まれるのが自分ではない他者である場合、この「生れたし」は「生まれてほしい」という意味にもなります。もちろん、もし生まれ変われるなら、という隠れた気持ちを読みとれば作者自身のことになるわけですが。五七五だけなら、どちらの読みも可能です。

もし明治三〇年に妻・鏡子が流産せずに子どもが生まれていたら、この菫の句は子どもに向かって詠んだ句として解釈されていたかもしれません。(関根千方) ≫

≪ 菫程な小さき人に生れたし(夏目漱石)

https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20060218,20060217,20060216&tit=20060218&today=20060218&tit2=2006%94N2%8C%8E18%93%FA%82%CC

季語は「菫(すみれ)」で春。大の男にしては、なんとまあ可憐な願望であることよ。そう読んでおいても一向に構わないのだけれど、私はもう少し深読みしておきたい。というのも、この句と前後して書かれていた小説が『草枕』だったからである。例の有名な書き出しを持つ作品だ。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。この後につづく何行かを私なりに理解すれば、作者は人間というものは素晴らしいが、その人間が作る「世」、すなわち人間社会はわずらわしく鬱陶しいと言っている。だから、人間は止めたくないのだが、社会のしがらみには関わりたくない。そんな夢のような条件を満たすためには、掲句のような「小さき人」に生まれることくらいしかないだろうというわけだ。では、夢がかなって「菫程な」人に生まれたとすると、その人は何をするのだろうか。その答えが、小品『文鳥』にちらっと出てくる。鈴木三重吉に言われるままに文鳥を飼う話で、餌をついばむ場面にこうある。「咽喉の所で微(かすか)な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや)かである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌(つち)で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけ様に敲(たた)いているような気がする」。すなわち、人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんなふうな人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう。すると「菫」から連想される可憐さは容姿にではなくて、むしろこの人の行為に関わるとイメージすべきなのかもしれない。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その六) [「子規と漱石」の世界]

その六 漱石の「第五高等学校」時代(「松山から熊本へ」周辺)

夏目漱石年譜(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」) (抜粋)
https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html
【 明治29(1896)  4月 熊本県第五高等学校に赴任する。『フランスの革命』『ハムレット』『オセロ』を講義する。 6月 鏡との結婚式を挙げる。 
明治30(1897) 6月 父・直克死去。
明治31(1898) 7月頃 鏡 自殺を図る。
明治32(1899) 5月 長女・筆子誕生。
明治33(1900) 5月 文部省から英国留学を命じられる。 9月 横浜港出港。 10月 ロンドン着。クレイグ教授の個人授業を受ける。  】

熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと一.jpg

「熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html
(中列、右から二番目「漱石」)

熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと二.gif

(「同上・解説文」)

「明治二十九年(一八九六)・漱石(三十歳)」の「松山より熊本移住」の頃(周辺)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-19

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)


(追記) 夏目漱石俳句集(その三)<制作年順> 明治29年(517~1038)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_8.html

(松山時代、517~)

517 時鳥馬追ひ込むや梺川
518 暁の夢かとぞ思ふ朧かな
519 うかうかと我門過ぎる月夜かな
520 夕立の野末にかゝる入日かな
521 橋の霜継て渡れと書き残す
522 茶煙禅榻外は師走の日影哉
523 干網に立つ陽炎の腥き
524 うつむいて膝にだきつく寒哉
525 苟くも此蓬莱を食ふ勿れ
526 半鐘とならんで高き冬木哉
527 先生や屋根に書を読む煤払
528 雨に雪霰となつて寒念仏
529 雪洞の廊下をさがる寒さ哉
530 水かれて轍のあとや冬の川
531 東風や吹く待つとし聞かば今帰り来ん


532 此土手で追ひ剥がれしか初桜(子規へ送りたる句稿十・四十句・一月)
533 凩に早鐘つくや増上寺   (「同上」~571)
534 谷の家竹法螺の音に時雨けり
535 冴返る頃を御厭ひなさるべし
536 出代りや花と答へて跛なり
537 雪霽たり竹婆娑々々と跳返る
538 水青し土橋の上に積る雪
539 若菜摘む人とは如何に音をば泣く
540 花に暮れて由ある人にはぐれけり
541 見て行くやつばらつばらに寒の梅
542 静かさは竹折る雪に寐かねたり
543 武蔵野を横に降る也冬の雨
544 太箸を抛げて笠着る別れ哉
545 いざや我虎穴に入らん雪の朝
546 絶頂に敵の城あり玉霰
547 御天守の鯱いかめしき霰かな
548 一つ家のひそかに雪に埋れけり
549 春大震塔も擬宝珠もねぢれけり
550 疝気持雪にころんで哀れなり
551 天と地の打ち解けりな初霞
552 呉竹の垣の破目や梅の花
553 御車を返させ玉ふ桜かな
554 掃溜や錯落として梅の影
555 永き日や韋駄を講ずる博士あり
556 日は永し三十三間堂長し
557 素琴あり窓に横ふ梅の影
558 永き日を順礼渡る瀬田の橋
559 鶴獲たり月夜に梅を植ん哉
560 錦帯の擬宝珠の数や春の川
561 里の子の草鞋かけ行く梅の枝
562 紅梅に青葉の笛を画かばや
563 紅梅にあはれ琴ひく妹もがな
564 源蔵の徳利をかくす吹雪哉
565 したゝかに饅頭笠の霰哉
566 冬の雨柿の合羽のわびしさよ
567 下馬札の一つ立ちけり冬の雨
568 梅の花不肖なれども梅の花
569 まさなくも後ろを見する吹雪哉
570 氷る戸を得たりや応と明け放し
571 吾庵は氷柱も歳を迎へけり   (532~「同上」)

572 元日に生れぬ先の親恋し(子規へ送りたる句稿十一・二十句・一月)
573 あたら元日を餅も食はずに紙衣哉 (「同上」~591)
574 山里は割木でわるや鏡餅
575 砕けよや玉と答へて鏡餅
576 国分寺の瓦掘出す桜かな
577 断礎一片有明桜ちりかゝる
578 堆き茶殻わびしや春の宵
579 古寺に鰯焼くなり春の宵
580 配所には干網多し春の月
581 口惜しや男と生れ春の月
582 よく聞けば田螺なくなり鍋の中
583 山吹に里の子見えぬ田螺かな
584 白梅に千鳥啼くなり浜の寺
585 梅咲きて奈良の朝こそ恋しけれ
586 消にけりあわたゞしくも春の雪
587 春の雪朱盆に載せて惜しまるゝ
588 居風呂に風ひく夜や冴返る
589 頃しもや越路に病んで冴返る
590 霞む日や巡礼親子二人なり
591 旅人の台場見て行く霞かな  (572~「同上」)

592 春の夜の琵琶聞えけり天女の祠
593 路もなし綺楼傑閣梅の花
594 家の棟や春風鳴つて白羽の矢
595 蛤や折々見ゆる海の城
596 霞たつて朱塗の橋の消にけり
597 どこやらで我名よぶなり春の山
598 大空や霞の中の鯨波の声
599 行春や瓊觴山を流れ出る
600 神の住む春山白き雲を吐く
601 催馬楽や縹渺として島一つ
602 真倒しに久米仙降るや春の雲
603 春暮るゝ月の都に帰り行
604 羽団扇や朧に見ゆる神の輿
605 つゝじ咲く岩めり込んで笑ひ声
606 春の夜や独り汗かく神の馬
607 朦朧と霞に消ゆる巨人哉
608 鳴く雲雀帝座を目懸かけ上る
609 真夜中に蹄の音や神の梅
610 春の宵神木折れて静かなり
611 白桃や瑪瑙の梭で織る錦

子規へ送りたる句稿十二.jpg


子規へ送りたる句稿十二の二.gif

(「子規へ送りたる句稿十二」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

612 つくばいに散る山茶花の氷りけり(子規へ送りたる句稿十二・一〇一句・三月)
613 烏飛んで夕日に動く冬木かな
614 船火事や数をつくして鳴く千鳥
615 檀築て北斗祭るや剣の霜

(「子規へ送りたる句稿十二(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

616 龍寒し絵筆抛つ古法眼   (612~「同上」)
617 つい立の龍蟠まる寒さかな
618 廻廊に吹きこむ海の吹雪かな
619 梁に画龍のにらむ日永かな
620 奈良の春十二神将剥げ尽せり
621 乱山の尽きて原なり春の風
622 都府楼の瓦硯洗ふや春の水
623 門柳五本並んで枝垂れけり
624 若草や水の滴たる蜆籠
625 月落ちて仏灯青し梅の花
626 春の夜を辻講釈にふかしける
627 蕭郎の腕環偸むや春の月
628 護摩壇に金鈴響く春の雨
629 春の夜の御悩平癒の祈祷哉
630 鳩の糞春の夕の絵馬白し
631 伽羅焚て君を留むる朧かな (原句 伽羅焚て君を留めて朧かな)
632 辻占のもし君ならば朧月
633 蘭燈に詩をかく春の恨み哉
634 恐ろしや経を血でかく朧月
635 着衣始め紫衣を給はる僧都あり
636 物草の太郎の上や揚雲雀
637 野を焼けば焼けるなり間の抜ける程
638 涅槃像鰒に死なざる本意なさよ
639 春恋し朝妻船に流さるゝ
640 潮風に若君黒し二日灸
641 枸杞の垣田楽焼くは此奥か
642 春もうし東楼西家何歌ふ
643 猫知らず寺に飼はれて恋わたる (原句 猫知らず寺に飼はれて恋をする)
644 芹洗ふ藁家の門や温泉の流
645 陽炎に蟹の泡ふく干潟かな
646 さらさらと筮竹もむや春の雨
647 日永哉豆に眠がる神の馬
648 古瓢柱に懸けて蜂巣くふ
649 ゆく春や振分髪も肩過ぎぬ
650 御館のつらつら椿咲にけり
651 二つかと見れば一つに飛ぶや蝶
652 唐人の飴売見えぬ柳かな
653 刀うつ槌の響や春の風
654 踏はづす蛙是へと田舟哉
655 初蝶や菜の花なくて淋しかろ
656 曳船やすり切つて行く蘆の角
657 勅なれば紅梅咲て女かな
658 紅梅に通ふ築地の崩哉
659 桔槹切れて梅ちる月夜哉
660 濡燕御休みあつて然るべし
661 雉子の声大竹原を鳴り渡る
662 雨がふる浄瑠璃坂の傀儡師
663 むくむくと砂の中より春の水
664 白き砂の吹ては沈む春の水
665 金屏を幾所かきさく猫の恋
666 春に入つて近頃青し鉄行
667 朧の夜五右衛門風呂にうなる客
668 永き日や徳山の棒趙州の払
669 飯食ふてねむがる男畠打つ
670 春風や永井兵助の人だかり
671 居合抜けば燕ひらりと身をかはす
672 物言はで腹ふくれたる河豚かな
673 戛々と鼓刀の肆に時雨けり
674 枯野原汽車に化けたる狸あり
675 其中に白木の宮や梅の花
676 章魚眠る春潮落ちて岩の間
677 山伏の並ぶ関所や梅の花
678 梅ちるや月夜に廻る水車
679 兵児殿の梅見に御ぢやる朱鞘哉
680 酒醒て梅白き夜の冴返る
681 飯蛸の頭に兵と吹矢かな
682 蟹に負けて飯蛸の足五本なり
683 梓弓岩を砕けば春の水
684 山路来て梅にすくまる馬上哉
685 若党や一歩さがりて梅の花
686 青石を取り巻く庭の菫かな
687 犬去つてむつくと起る蒲公英が
688 大和路や紀の路へつゞく菫草
689 川幅の五尺に足らで菫かな
690 三日雨四日梅咲く日誌かな
691 双六や姉妹向ふ春の宵
692 生海苔のこゝは品川東海寺
693 菜の花の中に糞ひる飛脚哉
694 菜の花や門前の小僧経を読む
695 菜の花を通り抜ければ城下かな
696 海見ゆれど中々長き菜畑哉
697 海見えて行けども行けども菜畑哉
698 麦二寸あるは又四五寸の旅路哉
699 莚帆の真上に鳴くや揚雲雀
700 風船にとまりて見たる雲雀哉
701 落つるなり天に向つて揚雲雀
702 雨晴れて南山春の雲を吐く
703 むづからせ給はぬ雛の育ち哉
704 去年今年大きうなりて帰る雁
705 一群や北能州へ帰る雁
706 爪下り海に入日の菜畑哉
707 里の子の猫加へけり涅槃像
708 鶯のほうと許りで失せにけり
709 鶯や雨少し降りて衣紋坂
710 鶯の去れども貧にやつれけり
711 鶯や田圃の中の赤鳥居
712 鶯をまた聞きまする昼餉哉  (612~「同上」)

子規へ送りたる句稿十三.jpg

(「子規へ送りたる句稿十三」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

713 三日月や野は穢多村へ焼て行く(子規へ送りたる句稿十三・二十七句・三月)
714 旧道や焼野の匂ひ笠の雨
715 春日野は牛の糞まで焼てけり
716 宵々の窓ほのあかし山焼く火

子規へ送りたる句稿十三の二.jpg

(「子規へ送りたる句稿十三(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

717 野に山に焼き立てられて雉の声
718 野を焼くや道標焦る官有地
719 篠竹の垣を隔てゝ焼野哉
720 村と村河を隔てゝ焼野哉
721 蝶に思ふいつ振袖で嫁ぐべき
722 老ぬるを蝶に背いて繰る糸や
723 御簾揺れて蝶御覧ずらん人の影
724 蝶舐る朱硯の水澱みたり
725 蔵つきたり紅梅の枝黒い塀
726 山三里桜に足駄穿きながら
727 花を活けて京音の寡婦なまめかし
728 鶯や隣あり主人垣を覗く
729 連立て帰うと雁皆去りぬ
730 歯ぎしりの下婢恐ろしや春の宵
731 太刀佩くと夢みて春の晨哉
732 鳴く事を鶯思ひ立つ日哉
733 吾妹子に揺り起されつ春の雨
734 普化寺に犬逃げ込むや梅の花
735 紅梅は愛せず折て人に呉れぬ
736 花に来たり瑟を鼓するに意ある人
737 禿いふわしや煩ふて花の春
738 きぬぎぬの鐘につれなく冴え返る
739 虚無僧の敵這入ぬ梅の門     (713~「同上」)

740  春の雲峰をはなれて流れけり(「漱石・虚子・霽月」句会)
741 捲き上げし御簾斜也春の月  (同上)
742 紅梅や内侍玉はる司人    (同上)

743 先達の斗巾の上や落椿(子規へ送りたる句稿十四・四十句・三月)
744 御陵や七つ下りの落椿
745 金平のくるりくるりと鳳巾
746 舟軽し水皺よつて蘆の角
747 薺摘んで母なき子なり一つ家
748 種卸し種卸し婿と舅かな
749 鶯の鳴かんともせず枝移り
750 仰向て深編笠の花見哉
751 女らしき虚無僧見たり山桜
752 奈古寺や七重山吹八重桜
753 春の江の開いて遠し寺の塔
754 柳垂れて江は南に流れけり
755 川向ひ桜咲きけり今戸焼
756 頼もうと竹庵来たり梅の花
757 雨に濡れて鶯鳴かぬ処なし
758 居士一驚を喫し得たり江南の梅一時に開く
759 手習や天地玄黄梅の花
760 霞むのは高い松なり国境
761 奈良七重菜の花つゞき五形咲く
762 草山や南をけづり麦畑
763 御簾揺れて人ありや否や飛ぶ胡蝶
764 端然と恋をして居る雛かな
765 藤の花本妻尼になりすます
766 待つ宵の夢ともならず梨の花
767 春風や吉田通れば二階から
768 風が吹く幕の御紋は下り藤
769 花売は一軒置て隣りなり
770 登りたる凌雲閣の霞かな
771 思ひ出すは古白と申す春の人
772 山城や乾にあたり春の水
773 夫子暖かに無用の肱を曲げてねる
774 家あり一つ春風春水の真中に
775 模糊として竹動きけり春の山
776 限りなき春の風なり馬の上
777 乙鳥や赤い暖簾の松坂屋
778 古ぼけた江戸錦絵や春の雨
779 蹴爪づく富士の裾野や木瓜の花
780 朧故に行衛も知らぬ恋をする
781 春の海に橋を懸けたり五大堂
782 足弱を馬に乗せたり山桜   (743~「同上」)

783 君帰らず何処の花を見にいたか
784 宗匠となりすましたる頭巾かな
785 永き日やあくびうつして分れ行く
786 わかるゝや一鳥啼て雲に入る783


(松山時代から熊本時代へ)

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

788 花に寝ん夢になと来て遇ひたまへ
789 名乗りくる小さき春の夜舟かな
790 市中に君に飼はれて鳴く蛙
791 尾上より風かすみけり燧灘
792 窓低し菜の花明り夕曇り
793 駄馬つゞく阿蘇街道の若葉かな
794 山吹の淋しくも家の一つかな
795 月斜め筍竹にならんとす
796 ぬいで丸めて捨てゝ行くなり更衣
797 衣更へて京より嫁を貰ひけり788

798 海嘯去つて後すさまじや五月雨(子規へ送りたる句稿十五・四十句・七月)
799 かたまるや散るや蛍の川の上
800 一つすうと座敷を抜る蛍かな
801 竹四五竿をりをり光る蛍かな
802 うき世いかに坊主となりて昼寐する
803 さもあらばあれ時鳥啼て行く
804 禅定の僧を囲んで鳴く蚊かな
805 うき人の顔そむけたる蚊遣かな
806 筋違に芭蕉渡るや蝸牛
807 袖に手を入て反りたる袷かな
808 短夜の芭蕉は伸びて仕まひけり
809 もう寐ずばなるまいなそれも夏の月
810 短夜の夢思ひ出すひまもなし
811 仏壇に尻を向けたる団扇かな
812 ある画師の扇子捨てたる流かな
813 貧しさは紙帳ほどなる庵かな
814 午砲打つ地城の上や雲の峰 (原句 号砲や地城の上の雲の峰)
815 黒船の瀬戸に入りけり雲の峰
816 行軍の喇叭の音や雲の峰
817 二里下る麓の村や雲の峰
818 涼しさの闇を来るなり須磨の浦
819 涼しさの目に余りけり千松島
820 袖腕に威丈高なる暑かな
821 銭湯に客のいさかふ暑かな
822 かざすだに面はゆげなる扇子哉
823 涼しさや大釣鐘を抱て居る
824 夕立の湖に落ち込む勢かな
825 涼しさや山を登れば岩谷寺
826 吹井戸やぼこりぼこりと真桑瓜
827 涼しさや水干着たる白拍子
828 ゑいやつと蠅叩きけり書生部屋
829 吾老いぬとは申すまじ更衣
830 異人住む赤い煉瓦や棕櫚の花
831 敷石や一丁つゞく棕櫚の花
832 独居の帰ればむつと鳴く蚊哉
833 尻に敷て笠忘れたる清水哉
834 据風呂の中はしたなや柿の花
835 短夜を君と寐ようか二千石とらうか
836 祖母様の大振袖や土用干
837 玉章や袖裏返す土用干      (798~「同上」) 

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(子規へ送りたる句稿十六・三十句・明治二十九年八月)

838 すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺(季=涼し(夏)。「光琳寺」=漱石の家の裏手の寺)
839 涼しさや門にかけたる橋斜め(季=涼し(夏)。)
840 眠らじな蚊帳に月のさす時は(季=蚊帳(夏)。)
841 国の名を知つておぢやるか時鳥(季=時鳥(夏)。「おぢやる」=「居る」の尊敬語)
842 西の対(たい)へ渡らせ給ふ葵かな(季=葵(夏)。「西の対」=夫人の棲む建物)
843 淙々(そうそう)と筧の音のすゞしさよ(季=涼し(夏)。)
844 橘や通るは近衛大納言(季=橘の花(夏)。)
845 朝貌の黄なるが咲くと申し来ぬ(季=朝顔(秋)。)
846 紅白の蓮擂鉢に開きけり(季=蓮し(夏)。)
847 涼しさや奈良の大仏腹の中(季=涼し(夏)。)
848 淋しくもまた夕顔のさかりかな(季=夕顔(夏)。)
849 あつきものむかし大坂夏御陣(季=暑し(夏)。)
850 夕日さす裏は磧のあつさかな
851 午時の草もゆるがず照る日かな
852 琵琶の名は青山とこそ時鳥
853 就中大なるが支那の団扇にて
854 くらがりに団扇の音や古槐
855 夏痩せて日に焦けて雲水の果はいか
856 床に達磨芭蕉涼しく吹かせけり
857 百日紅浮世は熱きものと知りぬ
858 手をやらぬ朝貌のびて哀なり
859 絹団扇墨画の竹をかゝんかな
860 独身や髭を生して夏に籠る
861 夏書すとて一筆しめし参らする
862 なんのその南瓜の花も咲けばこそ
863 我も人も白きもの着る涼みかな
864 物や思ふと人の問ふまで夏痩せぬ
865 満潮や涼んで居れば月が出る
866 大慈寺の山門長き青田かな
867 唐茄子と名にうたはれて歪みけり  (838~「同上」)

(子規へ送りたる句稿十七・〔四十句・明治二十九年九月〕)

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868 初秋の千本の松動きけり
869 鹹はゆき露にぬれたる鳥居哉
870 秋立つや千早古る世の杉ありて
871 見上げたる尾の上に秋の松高し
872 反橋の小さく見ゆる芙蓉哉
873 古りけりな道風の額秋の風
874 鴫立つや礎残る事五十
875 温泉の町や踊ると見えてさんざめく
876 碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き
877 ひやひやと雲が来る也温泉の二階
878 玉か石か瓦かあるは秋風か
879 枕辺や星別れんとする晨
880 稲妻に行手の見えぬ広野かな
881 秋風や京の寺々鐘を撞く
882 明月や琵琶を抱へて弾きもやらず
883 廻廊の柱の影や海の月
884 明月や丸きは僧の影法師
885 酒なくて詩なくて月の静かさよ
886 明月や背戸で米搗く作右衛門
887 明月や浪華に住んで橋多し
888 引かで鳴る夜の鳴子の淋しさよ
889 無性なる案山子朽ちけり立ちながら
890 打てばひゞく百戸余りの砧哉
891 衣擣つて郎に贈らん小包で
892 鮎渋ぬ降り込められし山里に
893 鱸魚肥えたり楼に登れば風が吹く
894 白壁や北に向ひて桐一葉
895 柳ちりて長安は秋の都かな
896 垂れかゝる萩静かなり背戸の川
897 落ち延びて只一騎なり萩の原
898 蘭の香や聖教帖を習はんか (原句 蘭の香や聖教帖を習ふべし)
899 後に鳴き又先に鳴き鶉かな
900 窓をあけて君に見せうず菊の花
901 作らねど菊咲にけり折りにけり (原句 作らねど菊咲にけり活にけり)
902 世は貧し夕日破垣烏瓜
903 鶏頭や代官殿に御意得たし
904 長けれど何の糸瓜とさがりけり
905 禅寺や芭蕉葉上愁雨なし
906 無雑作に蔦這上る厠かな
907 仏には白菊をこそ参らせん  (868~「同上」)

(子規へ送りたる句稿十八・〔十六句・明治二十九年十月〕

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910 行く秋をすうとほうけし薄哉
911 行く秋の犬の面こそけゞんなれ
912 てい袍を誰か贈ると秋暮れぬ
913 祭文や小春治兵衛に暮るゝ秋
914 僧堂で痩せたる我に秋暮れぬ
915 行秋や此頃参る京の瞽女
916 行秋を踏張て居る仁王哉
917 行秋や博多の帯の解け易き
918 機を織る孀二十で行く秋や
919 行く秋やふらりと長き草履の緒
920 日の入や五重の塔に残る秋
921 行く秋や椽にさし込む日は斜
922 山は残山水は剰水にして残る秋
923 原広し吾門前の星月夜
924 新らしき蕎麦打て食はん坊の雨
925 古白とは秋につけたる名なるべし   

(子規へ送りたる句稿十九・〔十五句・明治二十九年十月〕

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926 今年より夏書せんとぞ思ひ立つ
927 独り顔を団扇でかくす不審なり
928 降る雪よ今宵ばかりは積れかし
929 思ひきや花にやせたる御姿
930 影法師月に並んで静かなり
931 きぬぎぬや裏の篠原露多し
932 見送るや春の潮のひたひたに
933 人に言へぬ願の糸の乱れかな
934 君が名や硯に書いては洗ひ消す
935 橋落ちて恋中絶えぬ五月雨
936 忘れしか知らぬ顔して畠打つ
937 行春を琴掻き鳴らし掻き乱す
938 五月雨や鏡曇りて恨めしき
939 生れ代るも物憂からましわすれ草
940 化石して強面なくならう朧月

(子規へ送りたる句稿に二十・〔二十八句・明治二十九年十一月〕

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941 藻ある底に魚の影さす秋の水
942 秋の山松明かに入日かな
943 秋の日中山を越す山に松ばかり
944 一人出て粟刈る里や夕焼す
945 配達ののぞいて行くや秋の水
946 秋行くと山僮窓を排しいふ
947 秋の蠅握つて而して放したり
948 生憎や嫁瓶を破る秋の暮
949 摂待や御僧は柿をいくつ喰ふ
950 馬盥や水烟して朝寒し
951 菊咲て通る路なく逢はざりき
952 空に一片秋の雲行く見る一人
953 秋高し吾白雲に乗らんと思ふ
954 野分して一人障子を張る男
955 御名残の新酒とならば戴かん
956 菊活けて内君転た得意なり
957 見えざりき作りし菊の散るべくも
958 肌寒や膝を崩さず坐るべく
959 僧に対すうそ寒げなる払子の尾
960 善男子善女子に寺の菊黄なり
961 盛り崩す碁石の音の夜寒し
962 壁の穴風を引くべく鞘寒し
963 蟷螂のさりとては又推参な
964 此里や柿渋からず夫子住む
965 初冬や向上の一路未だ開かず
966 冬来たり袖手して書を傍観す
967 初冬を刻むや烈士喜剣の碑
968 初冬の琴面白の音じめ哉

(子規へ送りたる句稿二十一・〔六十二句・明治二十九年十二月〕

969 凩や海に夕日を吹き落す
970 吾栽し竹に時雨を聴く夜哉
971 ぱちぱちと枯葉焚くなり薬師堂
972 浪人の寒菊咲きぬ具足櫃
973 謡ふべき程は時雨つ羅生門
974 折り焚きて時雨に弾かん琵琶もなし
975 銀屏を後ろにしたり水仙花
976 水仙や主人唐めく秦の姓
977 水仙や根岸に住んで薄氷
978 村長の羽織短かき寒哉
979 革羽織古めかしたる寒かな
980 凩の松はねぢれつ岡の上
981 野を行けば寒がる吾を風が吹く
982 策つて凩の中に馬のり入るゝ
983 夕日逐ふ乗合馬車の寒かな
984 雪ながら書院あけたる牡丹哉
985 堅炭の形ちくづさぬ行衛哉
986 雑炊や古き茶碗に冬籠
987 鼓うつや能楽堂の秋の水
988 重なるは親子か雨に鳴く鶉
989 底見ゆる一枚岩や秋の水
990 行年を家賃上げたり麹町
991 行年を妻炊ぎけり粟の飯
992 器械湯の石炭臭しむら時雨
993 酔て叩く門や師走の月の影
994 貧にして住持去るなり石蕗の花
995 博徒市に闘ふあとや二更の冬の月
996 しぐれ候程の宿につきて候 (原句 しぐれ候程の宿につきて候程に)
997 累々と徳孤ならずの蜜柑哉
998 同化して黄色にならう蜜柑畠
999 日あたりや熟柿の如き心地あり
1000 大将は五枚しころの寒さかな
1001 勢の蜀につらなる小春かな
1002 かきならす灰の中より木の葉哉
1003 汽車を逐て煙這行枯野哉
1004 紡績の笛が鳴るなり冬の雨
1005 がさがさと紙衣振へば霰かな
1006 挨拶や髷の中より出る霰
1007 かたまつて野武士落行枯野哉
1008 星飛ぶや枯野に動く椎の影
1009 鳥一つ吹き返さるゝ枯野かな
1010 さらさらと栗の落葉や鶪の声
1011 空家やつくばひ氷る石蕗の花
1012 飛石に客すべる音す石蕗の花
1013 吉良殿のうたれぬ江戸は雪の中
1014 覚めて見れば客眠りけり炉のわきに
1015 面白し雪の中より出る蘇鉄
1016 寐る門を初雪ぢやとて叩きけり
1017 雪になつて用なきわれに合羽あり
1018 僧俗の差し向ひたる火桶哉
1019 六波羅へ召れて寒き火桶哉
1020 物語る手創や古りし桐火桶
1021 生垣の上より語る小春かな
1022 小春半時野川を隔て語りけり
1023 居眠るや黄雀堂に入る小春
1024 家富んで窓に小春の日陰かな
1025 白旗の源氏や木曾の冬木立
1026 立籠る上田の城や冬木立
1027 枯残るは尾花なるべし一つ家
1028 時雨るゝは平家につらし五家荘
1029 藁葺をまづ時雨けり下根岸
1030 堂下潭あり潭裏影あり冬の月   (969~「同上」)

1031 扶けられて驢背危し雪の客(雑誌「めざまし草」)
1032 戸を開けて驚く雪の晨かな(「新俳句」)
1033 薫風や銀杏三抱あまりなり(「承露版」より)
1034 茂りより二本出て来る筧哉(「承露版」より)
1035 亭寂寞薊鬼百合なんど咲く(「承露版」より)
1036 土手枯れて左右に長き筧哉(「承露版」より)
1037 はじめての鮒屋泊りをしぐれけり(この句の短冊あり・松山道後温泉)
1038 どつしりと尻を据えたる南瓜かな
≪ 季=南瓜(秋)。※『吾輩は猫である』中篇自序で、904の句とこの句を正岡子規の墓前に捧げている。(後略)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

(参考)『吾輩は猫である』中篇自序(周辺)

904  長けれど何の糸瓜とさがりけり
1038 どつしりと尻を据えたる南瓜かな

『吾輩は猫である』中篇自序

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2671_6498.html

≪「猫」の稿を継(つ)ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱(おい)て、上下二冊の単行本にしようと思って居た。所が何かの都合で頁(ページ)が少し延びたので書肆(しょし)は上中下にしたいと申出た。其辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善(よかろ)うと同意して、先(まず)是丈(これだけ)を中篇として発行する事にした。
 そこで序をかくときに不図(ふと)思い出した事がある。余が倫敦(ロンドン)に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地かのちの模様をかいて遙々(はるばる)と二三回長い消息をした。無聊(ぶりょう)に苦んで居た子規は余の書翰(しょかん)を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程(よほど)の重体で、手紙の文句も頗(すこぶる)悲酸(ひさん)であったから、情誼(じょうぎ)上何か認(したた)めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んで居る身分ではなし、そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘(そのまま)にして居るうちに子規は死んで仕舞しまった。
 筺底(きょうてい)から出して見ると、其手紙にはこうある。

 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。夫(それ)ガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往(いっ)タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若(もシ)書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 画ハガキモ慥(たしか)ニ受取タ。倫敦(ロンドン)ノ焼芋(やきいも)ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折ハ今巴里(パリ)ニ居テコーランノ処ヘ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢(お)ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガ、モーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ。
 虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。
 錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。
 僕ハ迚(とて)モ君ニ再会スルコト、出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
  明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス
東京 子規 拝

  倫敦(ロンドン)ニテ
   漱石 兄

 此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥(たし)かである。余は此手紙を見る度(たび)に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯(つゆいつわり)のない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う余の返事には少々の遁辞(とんじ)が這入(はいっ)て居る。憐(あわれな)る子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐かいもなく呼吸(いき)を引き取ったのである。
 子規はにくい男である。嘗(かつ)て墨汁一滴か何かの中に、独乙(ドイツ)では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采(だいかっさい)を博しているのに漱石は倫敦(ロンドン)の片田舎(かたいなか)の下宿に燻(くすぶ)って、婆さんからいじめられていると云う様な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え抔(など)と云われると気の毒で堪(たまら)ない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞しまった。
 子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云うか知らぬ。或(あるい)は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免(ごめん)だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事が左程(さほど)の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗(あん)に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好(かっこう)かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬(むく)いたと云うから、余も亦また「猫」を碣頭(けっとう)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。
 子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を咏(よん)で死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
  長けれど何の糸瓜とさがりけり
という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併あわせて地下に捧げる。
  どつしりと尻を据すえたる南瓜かぼちゃかな
と云う句も其頃作ったようだ。同じく瓜と云う字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄(あいだがら)だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈(はず)だ。そこで序(ついで)ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(すえ)るべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未(いまだ)に尻を持って居る。どうせ持っているものだから、先(まず)どっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積(つも)りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め一言断って置く。
  明治三十九年十月  ≫
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