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応挙工房周辺(大乗寺(その一 松孔雀図襖)) [応挙]

その四 大乗寺(その一 松孔雀図襖)

松孔雀図襖.jpg

応挙筆「松孔雀図襖」十六面の内 紙本金地墨画 寛政七年(一七九五)作
大乗寺(客殿・孔雀の間)

【 寛政七年四月、香住・大乗寺の障壁画として金地に墨だけで描いた襖絵。天明八(一七八八)年一月、応挙は大乗寺の障壁画として孔雀図を描いていた。ところが、完成間近の段階で天明の大火があり、その孔雀図襖は焼失してしまった。それから八年後、応挙はこの「松孔雀図襖」を描いたのである。焼失した孔雀図襖がどのようなものだったのかはわからないが、「松孔雀図襖」は間違いなく応挙最晩年の力作である。 】
(『別冊太陽 円山応挙』所収「作品解説・五十嵐公一稿)

 兵庫県北部、日本海に臨む香住に、高野山真言宗寺院の亀居山大乗寺がある。この大乗寺は別名応挙寺と呼ばれて広く知られている。それは、この寺の客殿が、応挙をはじめその門弟たち総勢十四名が、実に百六十五面の障壁画を揮毫し、さながら円山応挙工房美術館とでも称すべき貴重な美術品を有しているからに他ならない。

①  円山応挙 → 孔雀の間 郭子儀の間 山水の間 (一階)
②  円山応瑞 → 鯉の間  仏間 (一階)
③  木下応受 → (孔雀の間・郭子儀の間 山水の間)小壁(遊亀図)
④ 駒井源琦 → 鴨の間 (二階)
⑤ 長沢芦雪 → 猿の間 (二階) 
⑥ 山本守礼 → 狗子の間(一階)
⑦ 亀岡規礼 → 使者の間(一階)
⑧ 奥 文鳴 → 藤の間 (一階)
⑨ 源 正勤 → 屏風(子猷訪戴図・帰去来図)
⑩ 山口素絢 → (鴨の間・猿の間)小壁(蛾蝶図)
⑪ 森 徹山 → (猿の間)小壁(山雀図)
⑫ 秀 雪亭 → 仙人の間(一階)
⑬ 山跡鶴嶺 → (農業の間)小壁(飛燕図)
⑭ 呉春   → 農業の間 群仙露頂の間(一階)

 上記の「⑨源正勤」は、「⑧奥文鳴」の別号とも解せられ、総勢十四名には、「応挙書簡」にその名がある「嶋田元直」が、参加者の一員だったように解せられる。
 これらのことに関し、「補記一 円山四条派関係系図」及び「補記二 大乗寺デジタルミュウジアム 」等で、その一端に触れて置きたい。

【 松に孔雀図 円山応挙筆
本尊の十一面観音の化仏である阿弥陀は、孔雀を座とすることから仏前の間には、ほぼ実物大の三本の松と三羽の孔雀が描かれている。金地に極彩色という作品の多い中で、本図は金地に墨画という珍しい表現形式が取られており、華やかさの中に幽玄が感じられるものとなっている。淡墨で描かれた松の幹は、墨を通して金地が透けて見えるため、茶がかかった色に感じ松葉の方は黒々とした濃墨で描かれることから、金地と反対色の効果が生じ松葉の緑をイメージさせる表現となっている。また、孔雀の体の量感、金地に負けない力強い表現は応挙が鑑賞者からの距離を考えた「遠見の絵」という設定による。

仏間の前の襖は頻繁に開閉されるため、襖を閉めたときには二羽の孔雀と二本の松、開けたときには、一羽の孔雀と一本の松になりながら、開けても閉めても図柄が乱れることなく、隣の襖面につながるように工夫されている。  】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「孔雀の間」)


補記一  円山四条派関係系図 (『別冊太陽 円山応挙』『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』)等で作成・粗案) ※※=大乗寺障壁画参加者 ※=大乗寺障壁画参加者?

(応挙系譜)
初代     二代          三代      四代
※※円山応挙・・※※円山応瑞(次男)・・ 円山応震 ・・ 円山応立
1733-1795     1766-1829     1790-1838 1817-1875
(応挙門・応門十哲)     
※※ 駒井源琦・・ 並河源章(中島来章の父)
1747-1797    ?-? 
※※長沢蘆雪 ・・ 長沢芦洲 (養子)・・長沢芦鳳
1754-1799   1767-1847     1804-1871
※※山跡鶴嶺
?-?
吉村孝敬
1769-1836
※※山口素絢
1759-1818
※※奥文鳴(「大乗寺障壁画参加者」中の「源正勤」は「文鳴」の別号か?)
?-1813
僧 月僊
1741-1809
西村楠亭
1775-1834
渡辺南岳 ・・・・・・・・・・・・・・中島来章・・ 川端玉章・・・・結城素明             
1767-1813              1796-1871 1842-1913 1875-1957
※※森徹山  ・・ 森 一鳳 ・・・ 森 二鳳 平福百穂
1775-1841     1798-1871 ?-1891 1877-1933
↑ 木村武山
森狙仙(森派) 1876-1942
1747-1821
(応挙門・応挙系)
※※木下応受(応挙三男・木下家養子)
1777-1815
皆川淇園
1735-1807
※嶋田元直(「応挙書簡」では「大乗寺障壁画参加者」か?)
1736-1819
※※山本守礼(規礼の兄)
1751-1790
※※秀 雪亭
?-?
※※亀岡規礼(守礼の弟)
1770-1835
東 東洋
1755-1839
岸駒(岸派)・・  岸岱・・・・・岸連山
1756-1749 1782-1865 1804-1859
原在中(原派)・・ 原在明・・・ 原在照
1750-1837 1778-1844 1813-1872
※※呉春(蕪村門・応挙門・四条派)・松村景文・・横山清暉
1752-1811 1779-1843 1792-1864
  ↑              岡本豊彦・・・塩川文麟・・幸野楳嶺・・竹内栖鳳
与謝蕪村 1773-1845  1801-1877 1844-1895 1864-1942
1716-1783            上田公長 川合玉堂
1788-1850 1873-1957
                 張 月樵・・・織田杏樵
1772-1832 1845-1912
                 柴田義董 ・・大原呑舟
1780-1819 1792-1858
望月玉蟾(望月派)・望月玉仙・・・望月玉川
1692-1755 1744-1795 1794-1852
(応挙師系図)
(江戸鍛冶橋狩野派初代) (鶴沢派初代)(鶴沢派二代)(応挙の師)
狩野探幽  →  鶴沢探山 → 鶴沢探鯨 → 石田幽汀 → 円山応挙
1602-1674 1655-1729 1687-1769 1721-1786 1733-1795

※「大乗寺」の客殿の山側に倒壊した、「牡丹の間」「竹の間」「雪の間」があり、そこに
嶋田元直の「牡丹・竹・雪」の絵があったともいわれている。
※※『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』の「大乗寺障壁製作者一覧」に「源正勤」の名もあるが、これは「奥文鳴」の別号と解せられる。実際の参加者総数十四名は、この「源正勤」を除き、「島田元直」を加えるのが妥当と思われる。


補記二 「大乗寺デジタルミュウジアム 」

http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_05.html

第5話. 応挙と大乗寺

 行基菩薩が開祖であるといわれる大乗寺であるが、江戸中期になって現在の客殿が再建されている。時代の趨勢からか再建以前はさびれた寺であったようである。密蔵、密英 両上人の努力で現在の寺の姿になったといわれている。大乗寺再建の普請が始まった翌年の天明7年(1787年)に大乗寺の密英上人自身が京都に出かけ、応挙に襖絵の依頼をしている。その時応挙が大乗寺と交わした書簡が発見されており、そこには「棟梁円山応挙、嶋田主計四位元直、蕪村高弟呉月溪(呉春)、応挙門人山本數馬(山本守礼)、同秀権九郎(秀雪亭)、応挙嫡子円山右近(応瑞)」と6人の絵師の名が記されている。当初はこの6名で大乗寺の仕事にとりかかったのだろう。応挙を棟梁としその他の絵師を画工としているところからしても、応挙がプロデューサー的役割であったことが想像できる。嶋田元直は官位をもった応挙の門弟であったという。この花鳥画で当時人気が高かった絵師の絵が、現在の大乗寺に残されていないのは残念なことである。(大乗寺を知る その9を参照) 呉春の名に蕪村高弟と付けていることから、応挙が蕪村を尊敬していたことや、呉春が他の門人と違って、あくまで蕪村の弟子であり応挙門下では客人的な扱いの門人であったことを物語っている。大乗寺には呉春の描いた部屋が二間ある。最初に描いた襖絵は蕪村ふうの文人画であり、7年後に描いた襖絵は応挙の影響の濃いものであるところから、呉春が文人画から応挙の影響下に入り画風を変え、円山四条派と称されるまでの両極が見てとれる貴重な例といわれている。山本守礼はこのとき36歳で呉春とほぼ同年代であり、秀雪亭については詳細不明である。応挙嫡子応瑞は21歳での参加である。
 大乗寺の障壁画制作にあたって、密蔵上人と応挙の間でどのような話があったのかは記録にはないが、大乗寺客殿を宗教的空間ととらえ、立体曼荼羅の障壁画による具現化という構想はどのようにして生れたのだろう。根拠はないが、二人の間でそれほど詰めた話はなかったのではないかと想像する。話し合いの中身はどれくらいの画料で描いてくれるかが主題であったのかもしれない。大乗寺再建に取り組んでいる密蔵上人の意を汲み応挙が構想を練りプランを立てたのではないか。大乗寺客殿の図面を眺めながら応挙の頭の中に立体曼荼羅として宗教的空間を構築するアイデアが浮かんだのかもしれない。装飾的な襖絵として満足させながらも、その裏に宗教的意味を隠しもたせ、それぞれの部屋ごとのテーマとなる画題を決め、絵師に部屋を割り振っていったのだろう。
 客殿はその名の通り客を招くための施設であるがどの寺にもあるというものではないようだ。滋賀県の園城寺(三井寺)には初期の書院造りの典型であるとされる2つの客殿があるが、皇族を招くための施設でありいずれも絢爛な障壁画が描かれている。大乗寺の客殿はどのような役割をもっていたのだろうか?大乗寺の客殿は地方の寺としては大きいものであり、高野山金剛峰寺の縮小版となっているという。「山水の間」の構造(※1)などからの想像であるが、かなりの高位の人が定期的に訪れたのではないかと思われる。大乗寺の立地は当時出石藩の西のはずれにあり、天領や他藩のトビ地などもあって、公には微妙な地域であったという。そのためにも会合場所として身分の高い人の来訪にも備えた施設が必要であったのではないだろうか。しかし、大乗寺客殿は出石藩に頼ることなく、周辺の7カ村の協力で再建にあたったという。それにしても当時都で最も売れている絵師である応挙に寺の障壁画を依頼するについては、地方の寺としてのたいへんな決断であったであろう。それとも一部の話として伝わる応挙が幼いころ大乗寺の世話になった恩返し説が根拠なのであろうか。
 再建され応挙一門の絵が収められた客殿はその規模と建物の構造と応挙の絵画による構成プランが一致して一大宗教的空間を構成するのである。様々の経緯から全ての絵が収められるまでに8年の歳月を要している。また再建当初の客殿には現存していない部屋がいくつかあり、それらの部屋にも障壁画が施されていたと思われ、部屋とともに絵も消失してしまっているのは残念なことである。(大乗寺を知る その9を参照)
※1 大乗寺客殿には一段高くなった上座が設けられ、上座へは鯉の間から入っていくことができ、鯉の間は高位な人物の控えの間としての役割をもっている。また上座の裏側に位置する藤の間は異変時に備えた武者が控える「武者隠し」の機能をもっている。

http://museum.daijyoji.or.jp/05temple/05_09.html

その9. 行方知れずの絵

大乗寺客殿建築後20年ほど後、裏山に地崩れがあり、客殿の山側の3部屋に被害を受けたようです。壊れた3部屋は客殿では住職の私的な部屋で、それぞれ「牡丹の間」「竹の間」「雪の間」の名が付いていました。その後、壊れた部分の資材の一部はもらわれて行き、豊岡の福田での寺の建築に利用されたといいます。
 応挙が大乗寺から襖絵の依頼を請けた際の書付が残っており、そこには制作にあたるメンバーに当時人気の絵師であった島田元直の名があります。しかしながら現在の大乗寺には元直の絵は1枚も残されていないのです。壊れた3部屋に描かれていたといわれる牡丹、竹、雪の絵は島田元直の筆によるものではないかと思われます。
 もらわれていった資材の中に島田元直の絵も混じっていたのでしょうか? 豊岡福田の寺では1995年頃の改築時にいらなくなった廃材を焼却したということです。

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04sakka.html

上記のアドレスの「作者別検索」のうち、「源正勤」は「奥文鳴」の別号と思われ、上記の「第五話」と「その九」により、「棟梁円山応挙、嶋田主計四位元直、蕪村高弟呉月溪(呉春)、応挙門人山本數馬(山本守礼)、同秀権九郎(秀雪亭)、応挙嫡子円山右近(応瑞)」の「嶋田主計四位元直」(嶋田元直)が、「大乗寺障壁画制作者(参加者)」として加えるべきと思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%96%87%E9%B3%B4

 上記のアドレスの「奥文鳴」の「代表作」中、「子猷訪戴・帰去来図屏風」は、「源正勤」「奥正勤」は、「奥文鳴」の別号と解している。


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