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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その九

その九「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」周辺

「俳誌・渋柿(609号)」表紙.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「表紙」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/1

(目次)

松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3
巻頭句 / 野村喜舟/p4~23
句境表現の境 / 松根東洋城/p24~27
庭の別れ / 野村喜舟/p27~29
弔辞 / 愛知揆一/p30~30
弔辞 / 高橋誠一郎/p30~30
弔辞 / 水原秋桜子/p31~31
Sの話 / 秋元不死男/p32~34
東洋城を憶ふ / 新野良隆/p34~35
朴落葉 / 楠本憲吉/p36~37
追憶 / 黒川清之/p29~29
松中時代 / 松根東洋城/p38~39
東洋城百詠 / 三輪青舟/p124~126
東洋城先生の連句について / 小笠原樹々/p44~48
青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73
兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90
老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91
東洋城先生とその俳句 / 尺山子 ; 山冬子 ; 博/p92~102
しみじみとした先生 / 沢田はぎ女/p103~105
歌仙(あぢきなやの巻) / 松根東洋城/p106~107
東洋城先生の人と芸術 / 渡部杜羊子/p116~120
東洋城先生を語る(座談会) / 伊予同人/p146~164
偉跡 / 西岡十四王/p40~44
東洋城年譜 / 徳永山冬子/p165~169
特別作品/p176~179
選後片言 / 野村喜舟/p188~189
懐炉 / 野村喜舟/p192~192
人生は短く芸術は長し / 島田雅山/p48~51
三畳庵の頃 / 石川笠浦/p52~53
師をめぐる人々 / 高畠明皎々/p108~110
想ひ出 / 池松禾川/p110~112
先生の遺言 / 不破博/p112~116
春雪の半日 / 野口里井/p120~121
先生病床記 / 松岡六花女/p121~122
梅旅行 / 金田無患子/p123~123
永のえにし / 堀端蔦花/p127~128
追想記 / 三原沙土/p128~129
表札と句碑 / 城野としを/p129~131
先生と私 / 井下猴々/p131~132
城先生の思ひ出 / 榊原薗人/p132~133
下駄 / 石井花紅/p133~134
二人の女弟子 / 牧野寥々/p170~174
終焉記 / 松岡凡草/p135~136
先生は生きてゐる / 田中拾夢/p136~138
葬送記 / 野口里井/p139~139
追悼会/p139~141
西山追悼渋柿大会/p142~145
新珠集 / 松永鬼子坊/p174~175
各地例会/p184~186
提案箱 / 阿片瓢郎/p187~187
誌上年賀欠礼挨拶 / 諸家/p193~197
会員名簿 / 渋柿後援会/p191~191

「俳誌・渋柿(609号)」スナップ.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「目次(その一)・東洋城葬儀の遺影と祭壇(上部)のスナップ」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「目次(その二)・晩年の東洋城スナップ」(※この「東洋城スナップ」は「鶴翼楼」でのものと思われる。)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/4

「俳誌・渋柿(609号)」内扉一.jpg


「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「内扉(上図=東洋城=寺田寅彦スケッチ画、下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

 この「内扉(上図東洋城像=寺田寅彦スケッチ画、下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」の、上図(東洋城像)については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

(再掲)

寺田寅彦の描いたスケッチ.jpg

「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)

[※ 次の「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて)は、『寺田寅彦全集第十二巻』(月報12・1997年11月)に、「資料」(「渋柿(寺田寅彦追悼号・昭和十一年二月)」)の「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に所収されているもので、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」もまた、「渋柿」主宰者の「松根東洋城」が、この「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に、掲載をしたように思われる。
 そして、何よりも、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓)は、下記のアドレスで紹介した、[「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。]と合致する。

(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-04
[※ 歌仙(昭和十一年十一月「渋柿(未完の歌仙)」)

(八月十八日雲仙を下る)
霧雨に奈良漬食ふも別れ哉    蓬里雨
 馬追とまる額の字の上      青楓
ひとり鳴る鳴子に出れば月夜にて 寅日子  月
 けふは二度目の棒つかふ人   東洋城
ぼそぼそと人話しゐる辻堂に     雨
 煙るとも見れば時雨来にけり    子

皹(アカギレ)を業するうちは忘れゐて 城
 炭打くだく七輪の角        雨(一・一七)
胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ 子 (※茶の「胴炭」からの附け?) 恋
葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)    城 恋
細帯に腰の形を落付けて        雨(六・四・一四) 恋
 簾の風に薫る掛香          子(八・二八) 恋
庭ながら深き林の夏の月       城(七・四・一三) 月  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻』)    

「俳誌・渋柿(609号)」内扉二.jpg

「内扉(下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

 ※この「内扉(下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」の、「津田君筆/寺田像/鳴雪翁に/似たるの/評あり」を筆記したのは、東洋城その人のように思われる。
 因みに、津田青楓は、高浜虚子の関係する「ホトトギス」には、「表紙・カット画」などと関係が深いが、松根東洋城の関係する「渋柿」には、その類のものは見いだせない。

「俳誌・渋柿(609号)」安倍能成.jpg

「松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/6

 ※この安倍能成の「松根東洋城君のこと」は、「松根東洋城の、その人とその生涯、その作品」の全体像を証しするものとして、最も枢要なものと解して差し支えなかろう。

「君は性格が狷介で、人を容れる雅量に乏しかつたやうである。」
「正岡子規にも殆ど目もくれなかった。」
「高浜虚子とも、国民新聞俳壇担当の頃は親しかつたやうだが、間もなく絶交の姿になつて居た。」
「故人では芭蕉、今人では漱石、寅彦に止まつて居たやうである。」

 この追悼号には、安倍能成と共に、「渋柿」の「巻頭文」を飾っていた「小宮豊隆(蓬里雨)の名は見いだされない。この頃には、亡き東洋城と同じく、病床にあったのであろう。 
 因みに、「小宮豊隆(蓬里雨)」に関することは、下記のアドレスでフォローすることが出来る。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/search/?keyword=%E5%B0%8F%E5%AE%AE%E8%B1%8A%E9%9A%86

「俳誌・渋柿(609号)」老兄弟会合.jpg

「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50

 ※ これらについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06

(再掲)

[ その記事中の「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」に、「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」の写真が掲載されている。

東洋城兄弟(四人の男兄弟).jpg


「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50

[前列左から「宗一(六十四歳)・卓四郎(七十三歳)・東洋城(豊次郎)(八十六歳)・新八郎(八十一歳)」と思われる。後列の二人は東洋城の甥。中央に「松根家家宝の旗印(三畳敷の麻に朱墨の生首図=「「伊達の生首」)」が掲げられている。「伊達の生首」については、次のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-02   ]

※「松根東洋城年譜」(『東洋城全句集・中巻』所収)での「東洋城兄弟(妹)」の生誕は次のとおりである。

明治十一年(一八七八) 東洋城(本名・豊次郎)、二月二十八日東京築地で生まれた。
明治十三年(一八八〇) 三歳(東洋城)、妹房子生る。(※明治三十四年、東洋城、八十二歳時の、上記「老兄弟会合」時の翌年に没。)
明治十六年(一八八三) 六歳(東洋城)、弟新八郎生る。
明治二十年(一八八七) 十歳(東洋城)、弟貞吉郎生る。(※上記「老兄弟会合」前に没?)
明治二十五年(一八九二) 十五歳(東洋城)、弟卓四郎生る。
明治三十年(一八九七 ) 二十歳(東洋城)、弟宗一生る。

 上記の東洋城の兄弟で、「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」では、東洋城の次弟の「松根新八郎」が、「兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90」を寄稿している。なお、「葬送記 / 野口里井/p139~139」を見ると、この葬儀の「松根家代表挨拶」も、松根新八郎がしている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/74

 この次弟の「松根新八郎」は、「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」の頃は、「白内障」を病んでいて、視力が衰えていたことが、『松根東洋城全句集(中巻)・昭和三十七年(八十五歳)』の、東洋城の句から察せられる。

[ 秋晴れまなこの霧視(かすみ)瞬けど(「松本の弟、白内障症漸進」)
 眼を捨てし弟いかに今日の月(「松本の弟へ」)
 名月や限(り)とおもふ眼の力(「弟の返信欄外」)    ](『松根東洋城全句集(中巻)・昭和三十七年(八十五歳)』)

「松根新八郎」は、「松本高校(現・信州大学)」の教職(「数学」担当)などを携わっていた。そして、東京の「松根東洋城・その母(敏子)」をサポートし続けたのは、「四弟・松根卓四郎」で、東洋城の創刊・主宰した「渋柿」の、その「社主」(「渋柿」発行人の住所「東京都品川区上大崎町一丁目四百七拾番地」と「編集発行人・松根卓四郎」とは、四弟の「松根卓四郎」と、その住所ということになる。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-02-06

俳誌・渋柿(405号).jpg

「俳誌・渋柿(405号/昭和23・1)」(奥付/p17~17)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071536/1/10

 さらに、その末弟の「松根宗一」は、『東洋城全句集(上・中・下巻)』の「編者」(安倍能成・小宮豊隆・野村喜舟・松根宗一)の一人として、「松根家」の親族を代表して、その名をとどめている。
 この「松根宗一」周辺については、下記のアドレスで紹介している。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-08

(再掲)

松根宗一夫妻.jpg

「原子力産業新聞(第157号=昭和35年10月5日)=日本代表ら:コール事務総長と交歓=(左から)松根宗一氏夫人・松根原産代表(松根宗一)」
https://www.jaif.or.jp/data_archives/n-paper/sinbun1960-10.pdf

東洋城家族.jpg

「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/41
[左から「父・権六/伯母・初子(柳原前光(伯爵)夫人・白蓮の養母・東洋城の母の姉)/母・敏子/弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」(明治四十一年七月三十一日写)

[(参考その一)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」周辺

「この青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」の「洋一」とは、漱石門下にも連なる「日本の数学者。元北海道帝国大学教授。立教大学名誉教授。随筆家、俳人」の「吉田洋一(1898年 - 1989年)」その人である(「ウィキペディア」)。
 ちなみに、「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)』で、「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」を寄稿した「松根新八郎」も、「吉田洋一」と同じく「数学者」の世界の人のようである。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1140563741724347776

 上記の「松根東洋城家族」で、一般に、「俳人・東洋城」より以上に知られているのは、「日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた」(「ウィキペディア」)、末弟の「松根宗一」(1897年4月3日 - 1987年8月7日)であろう。  ]

(参考その二)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」周辺

松中時代の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「東洋城」(明治二十八年当時、十八歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

最晩年の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「最晩年の東洋城」(昭和三十九年当時、八十七歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

「俳誌・渋柿(453号)」の奥付.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和40・1)・東洋城先生追悼号」(「奥付」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/105

※「俳誌・渋柿(609号/昭和40・1)・東洋城先生追悼号」(「奥付」)周辺

編集長  徳永山冬子
編集委員 阿片瓢郎・野口里井・不破博・牧野寥々・松岡凡草
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