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『鶯邨画譜』と『屠龍之技』 ブログトップ
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第二 かぢのおと(その一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

第二 かぢのおと(その一)

 磯の秋(抱一の「波濤図」周辺) 

    七里濱にて
  浪に立(たつ)人も馬鹿鳥磯の秋(第二 かぢのおと)

 この前書きの「七里濱」は、相模湾の鎌倉と江の島を結ぶ海岸線であろう。抱一の江の島詣では、その俳諧日誌の『軽挙観句藻』に頻繁に出て来るもので、この七里ガ浜は抱一の馴染みの海辺ということになる。
 「浪に立つ人も馬鹿鳥磯の秋」の季語は、「磯の秋」(三秋)で、「磯遊び」(磯祭/花散らし=晩春)の句ではない。「馬鹿鳥」は、「あほうどり(信天翁・阿房鳥)」のことで、「陸上での歩き方が不器用で人を恐れないことからとも、簡単に捕えられるので名づけられた」ともいわれている。
 句意は、「この漁獲最盛期の実りの秋に、波の上に立って波乗りに興じている輩がいる。ああいう輩は、まさしく馬鹿鳥(あほうどり)の名が一番似合っている」というような、シニカル(風刺的・冷笑的)なものであろう。
 このシニカルさは、相手(サーフインに興じている)に対する者と同時に、「波ばかり飽かず描いている」自分への眼差しでもあろう。

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抱一画集『鶯邨画譜』所収「波濤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「波濤図屏風」(二曲一隻・メトロポリタン美術館蔵)、酒井抱一の「波図屏風」(六曲一双・静嘉堂文庫美術館蔵)、俵屋宗達の『雲龍図屏風』(六曲一双・フーリア美術館蔵)」、そして、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵・メトロポリタン美術館蔵)などについて、下記のアドレスで触れた。そのうちの抱一の「波図屏風」と光琳の「波濤図屏風」関連などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30

(再掲)

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酒井抱一筆「波図屏風」(六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館蔵)

【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

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尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)

【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 この光琳の「波濤図屏風」の解説中の、「波濤をかたどる二本の墨線の表現」というのは、いわゆる、「二管の筆を同時に握って描く『双筆』という中国由来の伝統的な水墨技法」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」)を指しているのであろう。
 そして、「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」のサブタイトルの「北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの」というのは、これは、其一よりも、その其一の師の「酒井抱一」に、より冠せられるものという思いを深くする。
 特に、光琳の「波濤図屏風」は、抱一の『光琳百図』に収載されており、抱一、そして、其一の「波濤図」関連のものは、すべからく、ここからスタートしていると解して差し支えなかろう。

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『光琳百図』(酒井抱一編・筆)所収「波濤図」(「ARC浮世絵データベース」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/met/DP266705_CRD

 上記の(再掲)の最初に、抱一の「波図屏風」(紙本銀地墨画着色)を掲げたが、抱一には、「銀地」ではなく「金地」の「波図屏風」(二曲一双)もある。

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酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)

【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図でき絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」中の裏面に「池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした」の、その孤邨の作は次のとおりである。

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池田孤邨筆「千鳥群図」(酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)裏面)

 この池田孤邨より五歳年長の、抱一の一番弟子の鈴木其一には、次の「松に波濤図屏風」がある。

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鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)

【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)


野路や空月の中なるおみなへし (第二 かぢのおと) 

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抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

夏秋草図.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

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酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝

名月や硯のうみも外(そと)ならず (第二 かぢのおと) 

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抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

紫式部二.jpg

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.png

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm

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抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0009_m.html

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」は、「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の「詠みと意味」ということになろう。


吉原の狐舞い(中村芳中『光琳画譜』所収「高砂」「仕舞」「黒木売」「目隠し鬼」「七福神」周辺)

此年も狐舞せて越へにけり  (第二 かぢのおと)

 この句の前に、「青楼」と前書きがあり、これは、年越し大晦日の吉原の「狐舞い」の一句であろう。下記のアドレスで、「大晦日の吉原には獅子舞ではなく、赤熊の毛を付け、錦の衣で美しく着飾った「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れて練り歩いていた」と、この狐舞いについて紹介している。

https://yoshiwara-kitsune.jimdo.com/吉原狐/

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葛飾北斎画『隅田川両岸一覧下編』「吉原の終年」

 抱一と吉原、そして、抱一と芳中などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19

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中村芳中画『光琳画譜』所収「高砂」「仕舞」「黒木売」「目隠し鬼」「七福神」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm

  元日やさてよし原(吉原)は静かなり

 この句は、「吉原月次風俗図・正月」(酒井抱一書・画、紙本墨画 一幅 九七・三×二九・二㎝)の中に書かれている抱一の句である。
 
 これらの「吉原月次風俗図」に触れると、「酒井抱一(江戸琳派)と吉原ネットワーク(吉原文化人ネットワーク)」との密接不可分な世界が浮かび上がって来る。
 そして、その吉原では、若き日の抱一(姫路藩主の弟)は、「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)と呼ばれ、「つまさん(正しくは駒さん)」の、松江藩主・松平不味の弟・雪川(松平桁親)、「ぶんきやうさん」(狂号=笹葉鈴成からの命名)の、松前候の公子・松前泰卿、この「粋人・道楽子弟」の「三公子」の一人として、スーパースター(著明人)の一人だったのである。
 その吉原のスーパースターの「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)が、描く、次の、妓楼大字屋の主人二代目村田市兵衛こと「「大文字屋市兵衛像」がある。

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酒井抱一画「大文字屋市兵衛像」 一幅 絹本著色 一八・四×一五・一㎝
板橋区立美術館蔵

【 抱一がもっとも懇意にしていた吉原の友人は、妓楼大文字屋の主人二代目村田市兵衛。本図は先代の市兵衛が滑稽な風貌からカボチャむとはやされ、その姿を浮世絵師西村重長が描いた図に依る。その初代に因み、二代目は狂名を加保茶元成と称した。本図は「遊郭抱一戯墨」とあるように、大文字屋で余興に描いたのだろう。画中の「加保茶」の印は、同家に伝わるみのかもしれない。八百善旧蔵。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱の心の拠り所『吉原』」(岡野智子稿)」)

 それに比して、中村芳中が、享和二年(一八〇二)、大阪から江戸に出て来て刊行した『光琳画譜』の奥付に、「享和壬戌のとし 東都旅館の 爐辺にて 芳中写之 (花押)」と記載してあるとおり、江戸に出て三年を経ても、大阪からの出稼ぎ絵師の風情である。
そして、光琳風の自己の絵画の版本に、堂々と『光琳画譜』と名を付け、その「序」に、
抱一(俳号=杜陵 狂歌名=尻焼猿人・屠龍 画号=庭拍手)の「住吉太鼓橋夜景図」に賛をしている「加藤(橘)千蔭」、その「跋」に、江戸千家の祖の川上不白が草している。
 これらの千蔭も不白も、抱一を取り巻く文化人ネットワーク(そして、それは吉原ネットワークと重なる)の一人であり、さらに、当時の抱一は、享和元年(一八〇一)に、先に、下記のアドレスなどで紹介した、「燕子花図屏風」(二曲一隻、「庭拍手」の署名、四十一歳)を制作するなど、大きく琳派様式へと方向転換をしている頃と重なるのである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

 これらのことについて、芳中の方からすると、「江戸へ来て芳中が目にしたのは抱一の琳派様式の作品であったかもしれない。芳中にとっては大きな驚きであったと思われる。それでは、ということで対抗的な意味も込めての『光琳画譜』出版であったと解することもできよう」(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』所収「中村芳中について(木村重圭稿))という見方も成り立つであろう。
 そして、当時の、抱一と芳中とを結ぶ接点は、俳諧ネットワークの「大伴大江丸・夏目成美・鈴木道彦・馬場存義・前田春来・岡田米仲」等々の「其角・嵐雪」に連なる俳人たち、狂歌・戯作者ネットワークの「大田南畝(蜀山人・四方赤良・寝惚先生)」の率いる「四方連」と「蔦屋重三郎・山東京伝(北尾政演)」等々の「戯作・浮世絵」に連なる面々、さらに、「下谷の三幅対」とも称せられた「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」を主軸とする「詩・書・画を生業とする江戸文化人のネットワーク」の面々と、それらは、「江戸吉原サロン」と深く結びついているということになろう。
 嘗て、次のアドレスで、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に連なる名士たちの、その一端に触れた。それらを再掲すると、次のとおりである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28

【 松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂 】

 ここで、大阪の中村芳中と江戸の酒井抱一とを結びつける、両者を知る人物を「加藤(橘)千蔭」と仮定すると、その背後の人物とは、やはり、大阪の「木村蒹葭堂」と、江戸の「大田南畝」の、このお二人が浮かび上がってくる。
 ずばり、芳中の『光琳画譜』が出版される一年前の、享和元年(一八〇一)の、太田南畝の年譜に、次のように記載されている。この太田南畝が、キィワードとなる人物のように思われる。

【享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流していた。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/大田南畝

 芳中が、江戸で『光琳画譜』を出版して、再び、大阪に戻ったのは、その出版した年の、享和二年(一八〇二)の年末頃と推定されている。そして、それ以後、文政二年(一八一九)に没するまでの約十八年、芳中は、扇面画を中心として、本格的な琳派作品を精力的にこなしていくこととなる。

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の五図(算用数字は登載番号)

14仕舞 → この「能」の「仕舞」(能を演ずる稽古)のようなものが、芳中画の基本にあるのであろう。

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16高砂 → この「能」の場面の、「爺・婆」を見ている「童」は、芳中その人かも知れない。

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18目隠し鬼 → 芳中の童心が読み取れる、次のアドレスの「象背戯童図」(芦雪)の「戯童」に近い印象を受ける。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-28

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23黒木売(大原女) → 芦雪の「大原女」に比して、芳中のは「飄逸味・滑味」がある。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-07

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25七福神 → 芳中の「童子」図も、芦雪の「童子」図と同じような魅力に溢れている。

芳中七.jpg

(参考二)大田南畝(おおたなんぼ)

没年:文政6.4.6(1823.5.16)
生年:寛延2.3.3(1749.4.19)

江戸時代中・後期の戯作者,文人。名を覃、字子耜、通称直次郎、七左衛門といった。四方赤良、山手馬鹿人、蜀山人、杏花園、寝惚先生など、多くの別号を使った。幕府の御徒吉左衛門正智と利世の長男、江戸牛込仲御徒町に誕生。宿債に苦しむ小身の悴南畝は、若年時から学問に立身の夢を賭け15歳で内山賀邸(椿軒)、18歳ころに松崎観海に入門した。幕臣書生らしく和学と徂徠派漢学を修める一方、平秩東作をはじめ、のちの江戸戯作界の中核をなす面々と交わった。 明和3(1766)年、処女作の作詩用語集『明詩擢材』を編み、翌年、平賀源内の序を付して戯作第一弾の狂詩集『寝惚先生文集』を出版。生涯、徂徠派風の漢詩作成にいそしむ一方、狂詩の名手として20代から30代の大半を江戸戯作の華美な舞台のただなかに過ごし、やがて領袖と仰がれた。同門の 唐衣橘洲 らと共に江戸狂歌流行の端緒を開き、『万載狂歌集』(1783)、『徳和歌後万載集』(1785)などを相次いで出版。天明期俗文芸の隆盛を築いた。洒落本,評判記,黄表紙などの戯作も多く綴ったが、天明7(1787)年,田沼政権の崩壊と松平定信による粛正政策の台頭を機に、狂歌界とは疎遠になり、幕吏本来の姿勢を俊敏に取り戻した。寛政6(1794)年、人材登用試験を見事な成績で合格、大坂銅座出役(1801)、長崎奉行所出役(1804)などの勤務をこなし、かたわら江戸文人の代表格として名声をいやましに上げていった。最晩年に『杏園詩集』(1820)など、漢詩、狂歌文などが多く出版された。<著作>浜田義一郎他編『大田南畝全集』(全20巻)<参考文献>玉林晴朗『蜀山人の研究』,浜田義一郎『大田南畝』 (ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)大田南畝と「お賎」

http://www.muse.dti.ne.jp/~squat/ohtananpo.htm



安永4年の7月、南畝は「評判茶臼芸」を、安永5年に洒落本「世説新語茶」、8年(1779)に浄瑠璃の漢訳「阿姑麻」、洒落本「深川新話」「粋町甲閨」を刊行。岡場所話を書くほどだからさんざん遊んだのだろう。またこの時期に狂歌会も盛ん。この年の12月18日に51歳で平賀源内が獄中死去。安永9年、軽井沢の宿場遊女を題材にした洒落本「軽井茶話 道中粋語録」、黄表紙「虚言八百万八伝」を刊行。翌天明元年(1781)に「菊寿草」、天明2年「岡目八目」を刊行。この「岡目八目」で山東京伝「手前勝手 御存知商売物」最上位で褒め、これで京伝の名は一気に広がった。同年12月、蔦谷重三郎に招かれて恋川春町(39)、南畝(34)、京伝(22)ら8名が吉原に登楼。狂歌集「通詩選笑知」「通詩選」を刊行し、まさに一世風靡。日々、招待遊行が盛んになり、京伝も引き立てた。
 さぁ、ここからが佳境だ。もうしばらく辛抱して読んで下さいませ。天明6年(1786)、老中田沼意が罷免され、代わって老中に就いたのが松平定信で寛政の改革が始まった。その年に南畝は吉原松葉屋の遊女・三保崎(みほざき/新造の位=上妓となる見込みのない遊女)との恋情が燃え上がり、ついには身請けして妾とし、「阿賤(おしず)」と名付け、自宅の棟つづき離れに引き取った。妻妾同居で「不良」が本格化(お賤は南畝の世話を8年したが病気がちで30歳で病死)。この間び改革粛清は進み、勘定組頭(実質の勘定奉行)・土山宗次郎が死刑。南畝は土山によって遊興と享楽の味をたっぷり楽しませてもらっていた関係上、自身の首も危うくなって来た。また山東京伝も洒落本が官憲の心証を害し、版元・蔦谷重三郎が財産半分没収、京伝は手鎖50日の処罰。南畝は狂歌作りをやめた。
 童門冬二の小説「沼と河の間に」は、南畝が狂歌から遠ざかる保身の道を取って仲間からひんしゅくを買うシーンから物語をスタートさせている。寛政元年(1789)、北尾政美画で「鸚鵡返武士二道」を出した恋川春町は、松平定信に召喚され、病気を理由に出頭せず、塁が藩主に及ぶのをおそれて自決したらしい…。新宿2丁目の成覚寺の粗末な墓が胸を打ちます。そして南畝はなんと!44歳(寛政4年)にして猛勉強し、第2回学問吟味に応募したが不合格(狂歌他で文名を高め、土山の庇護にあった南畝に反感を時つ者の反対で不合格になったとも言われている。また巷に
「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も寝られず」
 の狂歌が南畝による作との評判がたって、これが災いしたとの説も…)。
 童門の小説では、のちに「東海道中膝栗毛」を書く十返舎十九、のにち「南総里見八犬伝」を書く勧善懲悪志向の曲亭馬琴の両青年と保身転向した南畝の三つ巴文学論争を展開させている。
 だが南畝は諦めない。病弱なお賎を文学仲間の住職(お寺)に預けて勉学に励み、寛政6年(1794)の二回目の学問吟味に再挑戦し、年少の受験者に混じって白髪まじりの46歳で見事にトップ合格。遠山の金さんの父・遠山金四郎景晋(かげみち)、後に北方探検家として有名になる近藤重蔵も合格。(※近藤重蔵は退役後に身分不相応な邸宅を建て、公家の娘を妾にしたことから不遜だとお咎めを受ける。また57歳の時に別荘の隣家との境界争いから長男・富蔵が殺傷事件を起こす。そう、八丈島流刑で有名なあの近藤重蔵である)
 この前年、寛政5年(1793)6月にお賎は亡くなった。「お賎」と卑しい名を付けた南畝だったが、身まかってから毎年その祥月命日に供養の書会を欠かさない。お賎の法名は「晴雲妙閑信女」。南畝が詠んだ狂歌は「雲となり雨となりしも夢うつつきのふはけふの水無月の空」。お賎が亡くなって10年後、南畝55歳の日記「細推日記」にもその供養書会を牛込薬王寺町の浄栄寺で催していることが書かれている。おっと、その供養書会には次ぎの妾、島田「お香」も列席している。「お香」は南畝の優しさにホロリとしたに違いない。「あたしはそんな南畝にずっと添って行こう」と…。
 またここで記すべきは、彼は学問吟味の試験から合格御礼までの詳細を記した「斜場窓稿」を刊行していること。しかし、合格はしたものの南畝の四番組徒歩の仕事は相変わらずだった。合格から2年後、母が73歳で亡くなった寛政8年にやっと支配勘定に昇進。祖父の代から続いた微禄もやっと30俵加増。そして突然の松平定信の罷免。また巷にこんな狂歌が流行った。
「白河の あまり清きに耐え(棲み)かねて 濁れるものと田沼恋しき」
 これまた南畝の作と思われた。支配勘定なら大阪の銅座詰という出世コースになかなか乗れない。翌々年、妻・里与が44歳で死去。南畝は俗っぽいと思いつつも「日本中の孝子節婦を将軍が表彰する」という案を提出し、「孝行奇特者取調御用」に任命される。寛政12年、これをまとめた「孝義録」50巻を刊行。従来の漢文による公文書ではなく、和文でかつ文学的な編集で、文人ならではの才を発揮した。これが認められて寛政13年(享和元年)、53歳でやっと大阪銅座出役になった。学問吟味の合格から7年の精励を続けて、やっと大阪出張で出世の道が広がった。大阪でてきぱきと仕事を片付ける切れ者公務員。午後2時が退庁時間で、ここからが文人タイム。見聞と人脈を広げで、ここで「銅」の異名を「蜀山居士(しょくさんこじ)」ということから「蜀山人」なる号を思いつく。この時期に20数年前に「雨月物語」を書いた上田秋成を訪問などし、1年で江戸へ呼び戻される。

(参考四)酒井抱一と「小鸞(しょうらん)」

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-19

抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十五) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十五 双亀

亀図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「亀図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html  『鶯邨画譜』の最後を飾る一枚である。この『鶯邨画譜』を媒体として、画人・抱一、そして、俳諧師(俳人)・抱一(屠龍)の、その一端に触れようとしたが、この『鶯邨画譜』は、抱一の主たる「画業」におけるマニュアル(「教科書」)で、俳諧師(俳人)・抱一(屠龍)の、自筆句稿『軽挙観句藻』や自撰句集『屠龍之技』の実像などを探るには、いささか無理があろう。
 この亀図も、下記のアドレスで紹介した「蓬莱山図」、そして、抱一門の池田孤邨の「蓬莱・百亀・百鶴図」(三幅対) などとの関連性を通して、この抱一の『鶯邨画譜』が抱一門の江戸琳派の面々に如何に受容されていったかというアプローチの方が、より適切なことなのかも知れない。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-01-03

 ここでは、この『鶯邨画譜』の、抱一と親しく交流のあった国学者加茂季鷹と、漢詩人中井敬義の、その「序」を掲載しておくことに止めたい(なお、『鶯邨画譜』は、初版と後刷本とがあり、早稲田図書館蔵本は後刷本で、この「序」は付せられていない)。

①序文(加茂季鷹)

大方ゑかく人、くれ竹の世に其名きこえたる上手、其いと多かる中にも、百とせばかりむかし、光琳法橋ときこえしハ、倭もろこし乃おかしき所々をとり並べことそぎたる中に、力を入てみやびかなるおもむきせしもむねと書あらはし筒、其頃此道にならぶ人は多なかりけり、こゝに等覚院抱一君ハ弓を袋にをさめて画に世を乃がれたまひ、かの法橋のあとをしたひてかき出たまへるが、山乃たゝずまい、水のこゝろばへは、いふもさらなり、鳥、化物、はふむしなどハ、さながらたましひ有てうごき出ぬべき心ちなんせられける、とりたてかくこ乃み給ふ事あらたまのとし月つもらざりせば、いかでかくは物しき給ふべき、されば彼法橋もなかなかに及びかたかめりとさへ見侍るハ、藍を出しあゐの藍より青してふためしならむかし、あまりあやしきまで見めでつゝたくもえあらで、いさゝかゝきしるし侍る也、あなめでたあなめでた

②序文(中井敬義)

此一帖は抱一上人ねん翁の、いとまことに画なしぬへるものにして、いたり深くやことなきすとハ、けにたとふへきかたなしかし、上人早うより世の塵を厭ひて、おくまりたる山陰に庵し候て、ひたすら水艸のきく傳を慰めにてかき籠り給へるを、あたらしきことにおもひて、こゝろよせきこゆる人は、あなかちにまいり給はむ、くひておのかしゝ迺心やりにとてかき捨たまへる原繪なとこひ閲(み)ゆるも、あまたありぬ契のもとなり、ためしなき上手にておはすうへに、からくにのふるきおきてをまなへり、我国のミやひたる跡をとめて、ひろくまねひ、ふかく習ひとなぬへき、尤なほさりの墨かきたき世の人とはいとことなり、そもそも三乗の法をときて聖人の御果を絵かき給ふとて、かしこの傳にもありとか法の属にして画をし覚すきたまへる、さるいはれあることになん、おのれ此本をうちひらき見より、上人のらうしねんに走しらす事にならひて其侭に気韻高かりけると、かたかた尊きことおほえて世のひとゝきのやさしきも忘れて、此はしつかたをふとけかしつせるは、感すこゝろの深きよりと、人も又見ゆるしなん也

(『江戸名作画帖全集六(駸々堂)』所収「図版解説・資料」)


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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十四) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十四 唐橘(百両)

唐橘.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「唐橘図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

百両と書(かき)たり年の関てがた(第五 千づかのいね)

 この句は、植物の「百両(唐橘)」(三冬)の句ではなく、関所手形・往来手形などの句で、「年の関てがた(手形)」の「新年」の句であろう。
 そして、「万両(藪橘)」「千両(草珊瑚)」「百両(唐橘)」「十両(藪柑子・山橘)」「一両(蟻通)」は、何れも秋から冬に赤熟し、「三冬」の季語であるが、正月の飾りものとして、ここでは、「年の関てがた」の「年」に掛かり、「年立つ(新年)」の意を兼ねての用例と解したい。
 この句の主題は、下五の「関てがた」で、その「関所手形」(この句では女性の旅の必須の「女手形」?)の手続きは、「大家→町名主→町年寄→奉行所→江戸城留守居役」の手続きを経て発行されるなど、それらと、この上五の「百両」(そして「唐橘」)が関係しているような、そんなことが、この句の背景なのかも知れない。

 下記のアドレスで、先に、「藪柑子と竹籠図」について触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07

 この「藪柑子(山橘)」は、別名が「十両」で、『屠龍之技』には、「十両」の句は見当たらない。「千両」の句は、下記の句が収載されている。

   千両で売るか小倉の初しぐれ(第九 梅の立枝)

 しかし、この句は、「万両(藪橘)・千両(草珊瑚)・百両(唐橘)・十両(藪柑子・山橘)・一両(蟻通)」などの植物の句ではない。「初しぐれ(時雨)」(初冬)の句である。この句の「小倉」は、藤原定家が百人一首を編纂した京都の小倉山の麓・嵐山の「時雨殿(しぐれでん)」を指しているのだろう。その「小倉」の「時雨殿」の「初時雨」は何とも風情があり、「千両で売ろうか」との、抱一の粋な洒落の一句ということになる。

   一文の日行千里としのくれ(第五 千づかのいね)

 この句の前には、「歳暮」との前書きがある。抱一の時代(江戸時代中後期)の「一両」(現代=約七万五千円)は「六千五百文」で、「一文」は「約十二円」とかが、下記のアドレスで紹介されている。

https://komonjyo.net/zenika.html

 「一文の日行千里としのくれ」の「日行千里」は、四字熟語の感じだが、「一文の日行千里としのくれ」は、字義とおりに解すれば、「歳の暮れにあたり、一文無しに近い日々を重ねて、思えば遥かにも千里の道を来たかわい」というようなことであろう。

   鳥既に闇り峠(くらがりとうげ)年立つや (早野巴人『夜半亭発句帖』)

 抱一の俳諧の師の馬場存義を介すると、抱一の兄弟子にも当たる与謝蕪村の俳諧の師・早野巴人(馬場存義と同じく其角系の江戸座の俳人)の「年立つや」(年立ちかえる)の一句である。
この句の「鳥(とり)」は「掛けとり・借金とりの『とり(鳥)』」で、大晦日に駆けずり廻り、「大晦日は一日千金」の「掛け売りの借金取り」が、その裏(ウラ)の意のようである。
そして、この「闇り峠」は、松尾芭蕉が奈良から大坂へ向かう途中この峠で、「菊の香にくらがり越ゆる節句かな」を詠んだ、その古道の峠であるが、ここでは大晦日の闇夜の暗がり峠の意をも込めている。
そして、「年立つや」は、「大晦日が過ぎて新しい年を迎えたのであろうか」という意である。
即ち、この巴人の句は、「大晦日の借金取りは、私の所まで手が廻らず、大晦日が過ぎて新年を迎えることが出来れば、また、一年、借金返済の猶予の口実が出来るわい」というようなことのようである。
 抱一の、上記の、「百両・千両・一文」の句などは、間違いなく、この巴人の「年立つや」の句と、同じ世界のものという雰囲気を有している。

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十三) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』] [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十三  「梨図」周辺

梨図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな (第四 椎の木かげ)

 『屠龍之技』の「第七 椎の木かげ」に収載されている、この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。


梨図・句.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html

 この寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。

【 九月九日、出家にあたり幕府に「病身に付」願い出。十月十六日、姫路藩より、千石五十人扶持を給することに決定する。抱一の付き人は、鈴木春草(藤兵衛)、福岡新三郎、村井又助。(御一代)
十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)
十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)
十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)
十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)
年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

 この句は、抱一の出家の時の句ということになる。抱一の俳諧日誌『軽挙観句藻』には、この時の抱一の和歌も記載されている。

 いとふとてひとなとがめそ
     うつせみの世にいとわれし
            この身なりせば

 この「いとふ」は「厭ふ」で、「世を厭ふ」の「出家する」の意であろう。「ひとなとがめそ」は、「人な咎めそ」で、「な…そ」は「してくれるな」の意で、「私のことを咎めないで欲しい」という意になろう。「うつせみの世」は、「空蝉の世(儚い世)と現世(浮き世)」とを掛けての用例であろう。次の「いとわれし」は、ここでは、「出家する」という意よりも、「厭われる・敬遠される」の意が前面に出て来よう。
 この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。
 この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。 
 
  遯るべき山ありの實の天窓哉

 この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。
 そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。

 抱一の、この出家に際しては、松平定信の寛政の改革、とりわけ、抱一の兄事していた亀田鵬斎らが弾劾される「異学の禁」に対する意見書などを幕府あて提出したなど、さまざまな流言がなされているが、その流言の確たるものは、不明のままというのが、その真相であろう。
 ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。
 なお、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の、その「天窓(あたま)」の読みは、抱一の同時代の小林一茶(抱一より二歳年下)の、その文化十一年(一八一四)の、次の句などから明瞭である。

  三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす
  五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
  片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼


(参考:小林一茶『おらが春』・文化十一年)

https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/267f5ffa138227d3849117331f82c170


 雪とけて村一ぱいの子ども哉
 御雛をしやぶりたがりて這子(はふこ)哉

五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎へ、我が身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ、あきらめがたきは業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす

千代の小松と祝ひはやされて、行すゑの幸有らんとて、隣々へ酒ふるまひて、
 
五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
 片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼
 子宝が蚯蚓のたるぞ梶の葉に
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十i二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十二 紅葉に鹿

鹿に紅葉.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紅葉に鹿図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html   

   啼く山の姿も見えつ夜の鹿  (第九 うめの立枝)
   又もみぢ赤き木の間の宮居かな(第九 うめの立枝)

 抱一画集『鶯邨画譜』の「紅葉に鹿図」は、何とも、花札の「紅葉に鹿図」のありふれた図柄であるが、『屠龍之技』の「鹿」(一句目)の句もまた、何ともありふれた平明な句という装いをしている。

   啼(な)く山の姿を見えつ夜(よる)の鹿(しか)

 句意は、「山で啼いている鹿の姿を、夜で暗いのに、見ることが出来た」ということで、この中七の「見えつ」の「つ」は、完了の助動詞(た。…てしまう。…てしまった)と解するのが一般的であろう。
 そして、「夜の鹿」の句として、芭蕉の次の句などが連想されて来る。

   ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿    芭蕉 「笈日記」

 芭蕉には、もう一句、「鹿の声」の句がある。

   武蔵野や一寸ほどな鹿の声    芭蕉 「俳諧当世男」

 この句の中七の「一寸ほどな」の「ほどな」は、「ほどなる」の「る」が脱落したものの用例で、「広大な武蔵野」の中では、「尾を引いて長鳴きする鹿の声もほんの一寸」程度の印象を受けるというのが、一般的な解となっている。
 これらの芭蕉の句の関連ですると、抱一の句は、「芭蕉さんが、広大無辺の武蔵野の一角で、一寸ほどの短い鹿の鳴き声を聞いたように、一寸ほどの近い距離で、その姿を見ることが出来た」というようなことが、この句の背景として理解することも可能であろう。
 
 すがる鳴く秋の萩原朝たちて旅行く人をいつとか待たむ(『古今集・三六六』)
 すがる臥す木暮が下の葛まきを吹き裏返す秋の初風 (『山家集・中巻』)

上記の『古今和歌集』の「詠み人しらず」の「すがる」は、「腰の細い小型の蜂の古名で、じが蜂」というのが一般的である。そして、次の『山家集』の西行の「すがる」は、「蜂」ではなく「鹿」の異名というのが、一般的である。この西行の歌などから、「鹿」の別名として、「すずか・すがる・しし・かのしし」などが、季語集などには列挙されている。

 この『古今和歌集』の「すがる」(じが蜂)は、次の『万葉集』の「腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)」を踏まえているようである。

【 しなが鳥 安房(あは)に継(つぎ)たる 梓弓(あずさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の ひろき吾妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)のその姿(かほ)の 端正(たんせい)しきに 花の如(ごと) 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道行く人は 己(おの)が行く 道は行かずて 召(よば)なくに 門(かど)に至りぬ さし並(なら)ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こは)なくに 鍵(かぎ)さへ奉まつる 人皆の かく迷(まど)へれば 容(かほ)艶(よき)に よりてそ妹(いも)は たはれてありける ―高橋虫麻呂―(巻九・一七三八) 】

   啼く山の姿を見えつ夜(よ)の鹿(すがる)

 「夜の鹿」を、「夜(よ)の鹿(すがる)」と読み、そして、この「鹿(すがる)」を、「細腰の娘子(をとめ)」と解する句意もあろう。得てして、平明な何の変哲もないような装いをしている其角流の抱一の句は、何かしらの趣向が施されているのが通例であり、その抱一流の趣向からすると、この「夜(よ)の鹿(すがる)」の読みと句意も捨てがたい。

   又もみぢ赤き木の間の宮居かな

 この句は、「啼く山の姿も見えつ夜の鹿」と、同じ頃(「第九うめの立枝」)の「もみぢ(紅葉)」の句である。「宮居」とは「神が鎮座する神社・祠」などを指すのであろう。

   まだ暮れぬ紅葉の寺へ息子行き (『柳多留十六篇』)

 この『柳多留』に掲載されている句の「紅葉の寺」は、浅草竜泉寺町の正燈寺(しょうとうじ)を指し、品川の海晏寺(かいあんじ)と共に、当時の江戸の紅葉狩りの双璧だったようである。浅草の正燈寺の近くに、吉原遊郭があり、品川の海晏寺の近くに品川遊郭が控えている。この句は、「紅葉狩りに息子は正燈寺に行き、その帰りに吉原に寄ってくる」というものであろう。

   又もみぢ赤き木の間の宮居かな

 この句の上五の「又もみぢ」というのは、「紅葉狩りに出かけ、その帰りに、又、紅葉狩り(遊女狩り)に吉原遊郭に寄り道をし」、その吉原遊郭地の中で、中七の『赤き木の間(「赤い木の鳥居」の見立て)』に、下五の、「お稲荷さんなどを祀った『宮居』(祠)」で手を合わせている」というようなことであろう。

吉原.jpg

『絵本吾妻抉(えほんあずまからげ)』(「正燈寺」)



https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p027/

(追記)

山中の鹿図  なく山のすがたも見へず夜の鹿 (『柳花帖』一九)
鹿図     しかの飛ぶあしたの原や廿日月 (『柳花帖』四六)
瓦灯図    啼く鹿の姿も見へつ夜半の声  (『『柳花帖』四㈦)


 抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「啼く山の姿も見えつ夜の鹿(第九 うめの立枝)」なのであるが、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳頃に成った『柳花帖』(抱一が吉原で描いたとされている「俳画集」)では、どうにもこうにも、「鹿」の句が、上記のとおり、三句(そして、三画)が収載されている。

 ここで、二句目の「「しかの飛ぶ」というのは、「鹿(しか)が飛ぶ」というよりも、『古今和歌集』の「すがる(鹿)」(じが蜂)の、『万葉集』の「腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)」を踏まえているものと解したい。
 そして、この句の「あしたの原や」の、「足下(あした)の(が)原」は、「足立(あだち・安達)の(が)原」の、捩り(反意語の捩り)で、能の「黒塚」(「安達ケ原の鬼婆」の場面)を背景にしているという雰囲気である。
 こういう抱一の、趣向に趣向を凝らした精妙な洒落句について、俳句革新を目指している正岡子規は、その『病床六尺』で、次のとおり酷評することになる。

「抱一の画、濃艶愛すべしといへども、俳句に至つては拙劣(せつれつ)見るに堪へず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の賛あるに至つては、金殿に反古(ほご)張りの障子を見るが如く釣り合はぬ事甚だし。」

 ここで、この三句を並列して見て、一句目は「夜の鹿」、二句目は「しかの飛ぶ」、三句目は、「啼く鹿」の表記で、「五・七・五」のリズムからすると、一句目は「夜(よ)の鹿(すがる)」、三句目は「啼く鹿(しか)の」の詠みの雰囲気である。
 その上で、この一句目と三句目へ並列する、またまた、抱一の新しい趣向が浮かび上がって来る。

   なく山のすがたも見へず夜の鹿 (「山中の鹿図」)
   啼く鹿の姿も見へつ夜半の声  (「瓦灯図)

 この一句目の中七「すがたも見へず」の「見へず」(見えない)と、この二句目の中七「姿も見へつ」の「見へつ」(見えた)と、ここにも、何かしら仕掛けがあるような雰囲気なのである。
 そして、この二句目の画題の「瓦灯(かとう)図」からして、これらの句が収載されている『柳花帖』の、その「跋文」、「夜毎郭楼(吉原)に遊びし咎(とが)か予(抱一)にこの双紙(俳画集)へ書きてよ」との、当時の吉原遊郭文化と深い関わりを有しているものと解すべきものなのかも知れない。
 正岡子規が、「抱一の画、濃艶愛すべし」の指摘のごとく、「抱一の句、濃艶愛すべし」として鑑賞するのが、そのスタートなのかも知れない。


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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十一 牡丹図

牡丹.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「牡丹図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html  

 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
    牡丹一輪青竹の筒にさして
    送られける時
  仲光が討て参(まゐり)しぼたんかな  (第三 みやこどり)
    画賛狂句、彦根侍の口真似
    して
  さして見ろぎょやう牡丹のから傘ダ   (第三 みやこどり)

 『屠龍之技』中の「牡丹」の三句である。蕪村にも「牡丹」の佳句が目白押しである。

  牡丹散つてうちかさなりぬ二三片  蕪村 「蕪村句集」
  牡丹切て気の衰へし夕かな     蕪村 「蕪村句集」
  閻王の口や牡丹を吐かんとす    蕪村 「蕪村句集」
  地車のとゞろとひゞく牡丹かな   蕪村 「蕪村句集」  

 抱一の一句目の句は、蕪村の「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句に近いものであろう。二句目の前書きのある「仲光と牡丹」の句は、能「仲光(なかみつ)」を踏まえてのもので、その「仲光」中の、「美女丸」の身代わりになって、「仲光」に打ち首にされる仲光の実子の「幸寿丸 」を「牡丹」に見立てての一句ということになる(下記の「参考」)。
 三句目の「彦根侍と牡丹」の句は、「大老四家(井伊家・酒井家・土井家・堀田家)」の文治派・酒井家に連なる生粋の江戸人・抱一の、武断派・井伊家(彦根藩・彦根侍)の風刺の意などを込めての一句と解したい。この「ぎょやう」(ぎょうよう)というのが、「仰々しい(大げさ)」の彦根方言のような感じに受ける。

(参考)

http://www.kanshou.com/003/butai/nakami.htm

能「仲光」のストリー
【 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
 「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
 仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
 満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
 比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。  】



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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十)

その二十 葛図

抱一・葛図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

抱一・秋草図部分図.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

月に秋草図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝
  どちらかと言へば好きなり葛の花    清崎敏郎
  山道も吾妻郡葛の花          清崎敏郎

(追記)

 夏目漱石の「門」に出てくる「月に秋草図屏風」に類いするものは、六曲一隻の大作ではなく、下記アドレスの「紙本金地著色秋草花卉図(酒井抱一筆)・紙本金地著色孔雀牡丹図(谷文晁筆)」などのより小品ものであったと思われる。抱一には、「月に秋草図」(一幅)ものなどは多い。

www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1010700/kenshitei/1001968.html
タグ:鶯邨画譜
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十九)  [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十九) 

その十九 禊図

禊・抱一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「禊図」は下記のとおり。

禊・光琳.jpg

尾形光琳筆「禊図」一幅 絹本着色 九七・〇×四二・六cm 畠山記念館蔵
【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)

尾形光琳は、下記の宗達の『伊勢物語』(第六十五段)の「禊」の場面の「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」に対して、藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を上部に「楢の木」を配して表現している。。


禊・宗達.jpg
宗達派「伊勢物語図屏風」の部分図「禊図」(「国華」九七七)
画賛「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」

 ここで、『鶯邨画譜』の「禊図」は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」(家隆)の「禊」の場面よりも、「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」(『伊勢物語』)の「禊」の場面のように思われる。

(追記) 下記のアドレスの「乾山の『禊図屏風』」で取り上げている(家隆の歌の「なら」を「楢」と「奈良」とを掛詞としての歌意にしていたが、この歌も京都の上賀茂神社の「御手洗川」と解するのが一般的なようである)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-23

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) 

その十八 蓬莱山図

蓬莱.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「蓬莱山図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

蓬莱二.jpg

池田孤邨画「蓬莱・百亀・百鶴図」三幅対 絹本著色 各九六・〇×三二・四㎝ 個人蔵
【池田孤邨(一八〇三~六八)は其一より七歳年下抱一の弟子。抱一没後は雨華庵から独立し、鶯蒲や其一とある程度の距離を保ちながら明治維新直前まで活躍した。最晩年の元治元年(一八六四)には『光琳新撰百図』を、翌慶応元年(一八六五)には『抱一上人真蹟鏡』を発行、光琳、抱一と連なる流派の一員であることを意欲的に示した。三幅対の中幅は海上に聳える蓬莱の島に初日、右幅は夥しい亀を、左幅にも刈田に鶴の群れを配して新年を祝す掛物である。(後略) 】(『江戸琳派の旗手 鈴木其一』所収「120 蓬莱・百亀・百鶴図」)

 この中幅が「蓬莱山図」である。「蓬莱山」は、仙人の住む理想郷で、中国の神仙思想のシンボルの山である。

「中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。しかし,遠く望めば雲のようであり,近づけばどこへか去って,常人にはいたりえないところという。前4世紀頃から盛んにいわれるようになり,神仙思想の原型となった。日本にも伝わって,富士山,熊野山,宮城県の金華山などの霊山の呼び名となった。また,熱田神宮を蓬莱と呼ぶこともある。」
https://kotobank.jp/word/蓬莱山-132488

 この孤邨が描く「百鶴図」は、「丹頂鶴と真鶴を混ぜる図様も光琳画を継承している」(上記の「作品解説」)と、前回の「鍋鶴」は、「真鶴」と解するのが妥当のようである。
 なお、『江戸琳派の旗手 鈴木其一』には、次のような、「蓬莱山図」主題の「吉祥物」(縁起物)が掲載されている。

 酒井道一画「蓬莱・桜・瓢箪図」三幅対(作品解説129)
鈴木其一画「雛掛物」三幅対 滴翠美術館蔵(作品解説139)

この其一の「雛掛物」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「中央は蓬莱山に日輪、右幅には白椿に鴛鴦、左幅には鯉に萍(うきくさ)を描く三幅対。(中略)蓬莱山の上には二羽の鶴が飛翔し、鴛鴦、鯉も番(つがい)であることを考え合わせれば、婚礼調度として誂えた雛道具の一種だろうか。」

 鈴木其一画「亀蓬莱山図」一幅 細見美術館蔵(作品解説161)

この其一の「亀蓬莱山図」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「(前略)海の彼方にある蓬莱山は古代中国の神仙思想に基づくが、江戸琳派では仙人の住む理想郷として緑の松とともにユニークな形で描かれ、新年の床飾りとして多くの注文を得たようだ。(後略)」

 さて、抱一の「蓬莱山」に関する句というと、抱一自撰句集『屠龍之技』を丹念に見ていくと、これはというのにお目にかかるのかも知れないが、ここは、抱一の先輩格の与謝蕪村の次の句が相応しいであろう。

  蓬莱の山まつりせむ老の春 (蕪村 安永四年=一七七五 六十歳)

 この蕪村の句の意は、「還暦に当たる老いの正月に、蓬莱山を床の間に飾り目出度い寿ぎの年を迎えたい」というようなことであろう。
 この句は、蕪村の夜半亭一門の歳旦開き(初句会)の句で、この句を発句にしての歳旦三つ物が今に遺されている。

  安永乙未歳旦
 ほうらいの山まつりせむ老の春   蕪村
  金茎の露一杯の屠蘇       我則
 閣寒く楼あたたかに梅咲きて    月渓

  其二
 みよし野の旅出撰ばんはつ暦    月渓
  花の都やみなさくら人      蕪村
 おぼろ月堤の小家ゆかしくて    我則

 其三
 冨士の夢さめ行窗や初霞      我則
  よゝと雑煮をくらふ家の子    月渓
 春風に朱のそを舟哥ふらん     蕪村
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十七) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十七 双鶴図

鶴一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「双鶴図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「鶴は千年亀は万年」の諺のとおり、「鶴」「亀」は、長寿のシンボルで、「吉祥物」(縁起物)の典型的な画題である。「双鶴(そうかく)図」になると、鶴は、生涯一羽としかつがいにならないとの、貞操を守る理想の夫婦像のシンボルにもなっている。
 これらの吉祥物の「鶴」は、「丹頂(たんちょう)鶴」が馴染み深いが、この双鶴図は、胴体の羽衣の色が鍋についた煤のように見える「鍋(なべ)鶴」である。

鶴二.jpg

尾形光琳画「群鶴図屏風」六曲一双 紙本金地著色 (フリーア美術館蔵)

 光琳の上記の「群鶴図屏風」は「鍋鶴」で、抱一は、この光琳の群鶴図を念頭に置いての「群鶴図屏風」も制作している。

鶴三.jpg

酒井抱一画「群鶴図屏風」二曲一双 紙本金地著色 (ウースター美術館蔵)

 もとより、光琳も抱一も、「鍋鶴」だけではなく、「丹頂鶴」を画題にしているのも多い。例えば、下記のアドレスで紹介した、抱一の『絵手鑑』の「八鶴」は「丹頂鶴」で、こちらの方が馴染みやすい「鶴」ということになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07

鶴四.jpg

瀬戸民吉製「色絵双鶴図小皿」十枚一組 (国立歴史民族博物館蔵)

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/110/witness.html

 この小皿は「文政九戌十一月瀬戸民吉製」とあり、文政九年(一八二六)の瀬戸焼(愛知県瀬戸焼き)の一つということになる。この文政九年は、抱一、六十六歳の時で、その六月には、『光琳百図後編』が刊行された年である。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、その後、十年足らずして、陶器に意匠化されて、抱一ブランドが製品化されているのは特記して置く必要があろう。

鶴五.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0032_m.html

 「花ぬふ(縫ふ)とり(鳥)」の次の前書きの「己巳(きみ・つちのとみ)」は、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳の時である。「藤塚」は「下谷根岸大塚村」であろう。ここが、「鶯の里」で、それが抱一の号「鶯邨(むら)・おうそん」となっている。
 この四句目は、正月の「鶴」の句である。

  元日の朝寝起すや小田の鶴

 現在の上野の下谷・根岸周辺も、抱一の時代には、下記の広重画にあるとおり、この丹頂鶴を見ることが出来たのであろう。この抱一の句は、「下谷根岸大塚村」に転居しての初めて正月の実景にもとづくものなのかも知れない。
 しかし、冒頭の「双鶴図」の掛幅が、正月の床の間に飾ってあって、その小田の双鶴に「元日の朝寝を起こされた」とする鑑賞の方が、『鶯邨画譜』を有する抱一の句に相応しい感じで無くもない。

鶴六.jpg 

安藤広重画「名所江戸百景」のうち「蓑輪 金杉 三河しま」

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十六)  [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十六 紫式部図

紫式部一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

紫式部二.jpg

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.jpg

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm

紫式部句.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0009_m.html

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」は、「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の「詠みと意味」ということになろう。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十五) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十五 流水に菊

流水に菊.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「流水に菊」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「光琳意匠」の代表的な「流水紋様」と「菊紋様」との組み合わせで、これらの全体像は、下記のアドレスに詳しい。

http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/kawaii.html

• い:金井紫雲編『芸術資料』第1期 第11冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ろ:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• は:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• に:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• ほ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• へ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• と:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ち:中野其明編『尾形流略印譜』春陽堂,明治25(1892)【15-156】
• り:神坂雪佳『百々世草』山田芸艸堂,明治42-43(1909-1910)【406-32】
• ぬ:法橋光琳画『光琳扇面画帖』小林文七,明治34(1901)【寄別4-3-2-3】
• る:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• を:石井柏亭編『浅井忠 画集及評伝』芸艸堂,昭和4(1929)【553-116】
• わ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• か:池田孤村『池田孤村画帖』写【寄別1-7-2-2】
• よ:金井紫雲編『芸術資料第一期 第三冊』芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• た:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• れ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• そ:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• つ:帝國博物館編『稿本日本帝国美術略史』農商務省,明治34(1901)【貴7-126】
• ね:新古画粋社編『新古画粋 第9編(光琳)』新古画粋社,大正8(1919)【421-1】


抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)についても、下記のアドレスで、その全体像を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html

重陽.jpg

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0015_m.html

 「椎の木かげ」編の「重陽」の二句。上記の「見劣し人のこゝろや作りきく」の後に、一行の空白がある。「重陽」の前書きは、次の菊の二句にかかる。

 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床
 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十四) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十四 団扇(抱一の「団扇図」周辺) 

抱一・団扇図二.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「団扇図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「団扇図」の「賛」(発句=俳句)は、『屠龍之技』所収「千づかのいね」編の、次の句であろう。

  井の水の浅さふかさを門すゞみ (『屠龍之技』所収「千づかのいね」編)

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)での、この句が収載されている箇所は次のとおりである。

抱一・屠龍の技・李笠翁.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0022_m.html

   李笠翁になろふて
  一幅の春掛ものやまどの冨士
  井の水の浅さふかさを門すゞみ
  水になる自剃盥や雲のみね

 上記の「写本」を見る限りでは、「李笠翁になろふて」は、この三句の前書きのような感じである。
 この「李笠翁」(李漁)については、百科事典(マイペディア)などでは、次のとおり紹介されているが、与謝蕪村と池大雅の競作画帖「十便(大雅画)十宣(蕪村画)図」(国宝)の主題が、李笠翁の山居「伊園」における漢詩に基づくものであるということと、蕪村や大雅に大きな影響を与えた『芥子園画伝』(中国、清初に刊行された画譜)の「序」を起草した、その人こそ「李笠翁(李漁)」ということの方が、上記の抱一の句の前書きには相応しいのかも知れない。

https://kotobank.jp/word/李漁-148469

【「李笠翁」(李漁)→中国,明末清初の劇作家。字は笠翁(りゅうおう)。江蘇省の出身。明滅亡後清に仕えず終わる。自作の戯曲を上演し全国の名家を巡遊。自由で大胆な表現で恋愛や滑稽(こっけい)を扱った《笠翁十種曲》,口語短編小説集《無声戯》,戯曲論,演出論を含む随筆集《閑情偶寄》などがある。日本には18世紀初頭に伝えられ,読本(よみほん)などに影響を与えた。】

  李笠翁になろふて
 一幅の春掛ものやまどの冨士

 この「一幅の春掛ものやまどの冨士」は、上記に紹介した、蕪村と大雅の「十便十宣図」や『芥子園画伝』(画譜)を背景にしたものではなく、上記の随筆集『閑情偶寄』などの、その「居室部」などを背景にしているようなのである。

李笠翁一.jpg

https://baike.baidu.com/item/闲情偶寄

 抱一は、歌川豊春に「浮世絵」、宋紫石に「漢画(明画)」を習ったされ(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収「屠龍之技(贅川他石稿)」)、その宋紫石の『古今画藪』に、上記の「閑情偶奇」のものが、下記のとおりに翻刻され、掲載されている。

李笠翁二.jpg

『古今画藪、後八種』(宋紫石画)「笠翁居室図式」(第八巻)「尺幅窓図式」(「早稲田大学図書館蔵・高村光雲旧蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_b0132/bunko08_b0132_0008/bunko08_b0132_0008_p0014.jpg

 この「尺幅窓図式」とは、「窓枠を掛幅に見立て、窓の外の風景を絵として楽しむ趣向を
あらわしている」図ということになる。
 ここで、抱一の、「李笠翁になろふて」を前書きとする「一幅の春掛ものやまどの冨士」の句意は明瞭になってくる。すなわち、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう」ということになる。

  井の水の浅さふかさを門すゞみ

 この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧(わ)き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。
 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。
 そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

  夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)

 次の三句目の句は、抱一が、寛政九年(一七九七)に剃髪得度して、法名「等覚院文詮(もんせん)暉真(きしん)」を名乗っている頃のものとして、注目すべき句の一つであろう。

  水になる自剃盥や雲のみね

 季語は「雲のみね(峰)」(聳え立つ山並みのようにわき立つ雲。積乱雲。夏といえば入道雲であり、夏の代名詞である。盛夏の季語)、「自剃盥」というのは、剃髪用の盥というようなことであろう。句意は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。

  香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰  宝井其角(『五元集』)

 この句は、抱一俳諧の師筋として敬愛して止まない其角の「雲の峰」の句である。表面的な句意は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」というようなことであろう。
 しかし、この句の背景は、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。
すなわち、其角は、この句に、当時の其角の時代(元禄時代)の、「将軍綱吉の『生類憐れみの令』による犬保護の世相と、犬の増長ぶりを諷している」(『其角と芭蕉と(今泉準一著)』)というのである。
 とすると、抱一の、この「水になる自剃盥や雲のみね」の句も、抱一の寛政時代の「松平定信の寛政の改革」と、自己に降り掛かった、その「寛政時代(寛政九年)の出家」が、その背景にあると解しても、それほど違和感もなかろう。
 ここまで来ると。この句の、意表を突く上五の「水になる」というのは、抱一の、当時の「時代風詩」と「己の自画像」と読めなくもない。
 すなわち、この句の「雲の峯」は、「寛政の改革の出版統制や風紀統制」など、また、抱一自身の「若き日の青雲の志」などが、その背景にあると解すると、この句の上五の「水になる」は、文字とおり、それらの「青雲の志」が、「水になる」ということになろう
 ここで、これらの句が収載されている前頁の、次の前書きのある一句に注目したい。

   辛酉 春興
   今や誹諧蜂の如くに起り
   麻のごとくにみだれその
   糸口をしらず
 貞徳も出よ長閑(のどけ)き酉のとし

 「辛酉」は、享和一年(一八〇一)、抱一、四十一歳時のもので、「春興」は、「新年の会席において詠まれた発句・三つ物のこと」である。「貞徳」は、松永貞徳(元亀二(一五七一)~承応二(一六五三)、貞門俳諧の祖。松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。歌人・狂歌師としても名高い)である。
 当時の抱一は、浅草寺北の千束村に転居し、その住まいを「軽挙草堂」と称していた。寛政九年(一七九七)、三十七歳時の、剃髪得度した年に、京都の西本願寺に挨拶のため上洛したが、その折りの随行者は、「俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴をした」(『軽挙観(館)句藻』)と、画人との交遊よりも、俳人との交遊関係の方が主であった頃である。
 「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎・文晁」との交遊関係も、享和二年(一八〇二)、四十二歳時に、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと、常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」)と、その一端が今に知られている。
 その上で、この前書き「今や誹諧(俳諧)蜂の如くに起り/麻のごとくにみだれその/糸口をしらず」とは、俳諧宗匠・酒井抱一(「抱一」の号は、寛政十年(一七九八)、三十八歳時の『軽挙観(館)句藻』「千つかの稲」が初出)の、当時の江戸俳壇に対する真摯なる感慨ということになろう。
 そして、「貞徳も出よ長閑(のどけ)き酉のとし」の句は、新年の抱一門句会の、抱一の歳旦吟であると同時に、「貞徳を出(いで)よ」、その混迷した江戸俳壇に一指標を見出したいという、抱一の自負を込めての一句ということになろう。
 これらのことは、先に紹介した、鵬斎の『軽挙観(館)句藻』の、その「序」に、その一端が記されている(下記のアドレスのものを再掲して置きたい)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-18

(再掲)

【 屠龍之技序
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑獨泣獨喜獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹諧体ナル者は。唐詩ニ昉マル。而シテ和歌之ニ効フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興  】

(追記)

一 日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収の「屠龍之技」では、「李笠翁になろふて」の前書きのある三句は、下記のとおり、
「一幅の春掛ものやまどの冨士」に掛かるものとして、次の「井の水の浅さふかさを門すゞみ」の間に、一行を空白にしている。
 「一幅の春掛ものやまどの冨士」は「春の句」、「井の水の浅さふかさを門すゞみ」と「水になる自剃盥や雲のみね」は「夏の句」で、「李笠翁になろふて」の前書きは、「一幅の春掛ものやまどの冨士」の一句のみのものと解する方が妥当のようである。

   李笠翁になろふて
  一幅の春掛ものやまどの冨士

  井の水の浅さふかさを門すゞみ
  水になる自剃盥や雲のみね

二 上記の森鴎外「写本」に出て来る「榎島参詣」というのは、日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収の「屠龍之技」でも、「榎島参詣」だが、『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」の「享和一 一八〇一 辛酉 四一歳 二月二十一、江ノ島参籠」とあり、「江ノ島」であろう。その翌年の正月にも「江ノ島参詣」があり、抱一と「江ノ島」とは深い関係にある(「江ノ島神社」を「亀図天井図」も制作している)。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十三) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十三 百合(抱一の「百合図」周辺)

抱一・百合図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「百合図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 下記のアドレスで、尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双・東京国立博物館蔵)と酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双・東京国立博物館蔵)との秘めたるヒストリーというのを見てきた。 

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26

 さらに、続けて、下記のアドレスで、その「銀地」の酒井抱一筆「夏秋草図屏風(二曲一双 東京国立博物館蔵)と、その下絵なる「金地(下絵)」の抱一筆「夏秋草図屏風草稿」(二曲一双 出光美術館蔵)とのヒストリーを見てきた。
 
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-28

 ここで、上記のアドレスで紹介した、「風神雷神図屏風(光琳筆)・夏秋草図屏風(抱一筆)」(重要文化財)について、次のアドレスの、「国立博物館所蔵 国宝・重要文化財」の「解説文」を掲載して置きたい。

http://www.emuseum.jp/detail/100321/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=201&num=2

夏秋草図屏風(風神雷神図との関連).jpg

上段(表) 尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双) 東京国立博物館蔵
下段(裏) 酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)  東京国立博物館蔵

【宗達の「風神雷神図」を光琳が模写し、その屏風の裏面に抱一がみずからの代表作を描きつけたもの。琳派の系譜を象徴的に表すこの記念的な両面屏風も、画面の損傷から守るべく、近年表裏を分離してそれぞれの一双屏風に改められた。「雷神図」の裏には驟雨(しゅうう)にうたれて生気を戻した夏草と、にわかに増水した川の流れを、「風神図」に対しては強風にあおられる秋草と舞い上がる蔦(つた)の紅葉を描く。
抱一(1761~1828)は諸派の画風を遍歴したあげく光琳の絵画に傾倒し、琳派の伝統を江戸の地に定着、開花させた。がその作風には彼の得意とした俳諧の感覚に通じる風雅な趣が支配的で、琳派伝統の「たらし込み」の手法も抒情的な草花表現にもっぱら活用されている。この図は銀地の上に可憐な草花を描いた抱一らしい優美な作品であるが、一方、色の濃淡の変化を避けて明快な色彩効果をねらっている点に注目したい。抒情性と装飾表現の自然な統合を目指した、おそらく抱一画の到達点を示す一作ということができる。両隻に「抱一筆」の落款、「文詮」の朱文円印がある。】

 この抱一の「夏秋草屏風図」の右隻に、「驟雨(しゅうう)にうたれて生気を戻した夏草」の一つに、「百合」が描かれている。この「百合」の一輪は、冒頭の『鶯邨画譜』所収「百合図」と合致する。

百合図二.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)の「部分・拡大図」

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十二 萩(抱一の「萩図」周辺) 

抱一・萩.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「萩図」の賛(発句=俳句)は、抱一自撰句集『屠龍之技』所収の次の句であろう(句形は異なっている)。

 夕露や小萩がもとのすゞり筥(『屠龍之技』所収「千づかのいね」と題するものの一句)

ここで、抱一自撰句集『屠龍之技』について、下記のアドレスで、「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の全容を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186.html

 その「写本」の紹介について、そのアドレスでは、下記のとおり記されている。

【 [書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明] 1冊 ; 24cm
注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり
鴎E32:186 全頁
琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。】

屠龍之技一.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「序」)

 この『屠龍之技』の、亀田鵬斎の「序」は、『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』の「屠龍之技」(追加編)を参考にすると、次のように読み取れる。

【 屠龍之技
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑獨泣獨喜獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹諧体ナル者は。唐詩ニ昉マル。而シテ和歌之ニ効フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興  】

 「下谷三幅対」と称された、「鵬斎・抱一・文晁」の、抱一より九歳年長の、亀田豊斎の「序」である。この文化九年(一八一二)は、抱一、五十二歳の時で、抱一の付人の鈴木蠣潭は、二十一歳、鈴木其一は、十七歳で、其一は、この翌年に、抱一の内弟子となる。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)で、この年の六月に、蠣潭が二十六歳の若さで夭逝する。
その抱一が、鶯の里(鶯邨=村)の、「下谷根岸大塚村」に転居したのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、抱一が、自筆句集「軽挙観(館)句藻」(静嘉堂文庫蔵)第一冊目の「梶の音」を始めたのは、寛政二年(一七九〇)、三十歳の時である。
爾来、この「軽挙観(館)句藻」は、抱一の生涯にわたる句日記(三十数年間)として、二十一巻十冊が、静嘉堂文庫所蔵本として今に遺されている。
翻って、上記の亀田鵬斎の「序」を有する刊本の、抱一自筆句集ではなく、抱一自撰句集の『屠龍之技』は、抱一の俳諧人生の、前半生(三十歳以前から五十歳前後まで)の、その総決算的な、そして、江戸座の其角門の俳諧宗匠・「軽挙道人(「抱一」、白鳧・濤花・杜陵(綾)・屠牛・狗禅、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」、庭柏子、溟々居、楓窓)の、その絶頂期の頃の、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」の、抱一(軽挙道人)自撰句集のネーミングと解して差し支えなかろう。
 ここで、この自撰句集『屠龍之技』を構成する全編(全自筆句集)の概略は次のとおりとなる。

第一編「こがねのこま」(「梶の音」以前の句→三十歳以前の句?)
第二編「かぢのおと(梶の音)」(寛政二年(一七九〇)・三十歳時から句収載?→自筆句集「軽挙観(館)句藻」第一冊目の「梶の音」)
第三編「みやこどり(都鳥)」(「梶の音」と「椎の木かげ」の中間の句収載?)
第四編「椎の木かげ」(寛政八年(一七九六)・三十六歳時からの句収載? 「庭柏子」号初見。この年『江戸続八百韻』を刊行する。「軽挙観(館)句藻」第二冊目?)
第五編「千づかのいね(千束の稲)」(寛政十年(一七九八)・三十八歳時からの句収載? 「軽挙観(館)句藻」第三冊目? 「抱一」の号初出。)
第六編「うしおのおと(潮の音)」(「千束の稲」と「潮の音」の中間の句収載?)
第七編「かみきぬた(帋きぬた)」(文化五年(一八〇八)、四十八歳時からの句収載? 「軽挙観」の号初出。)
第八編「花ぬふとり(花縫ふ鳥)」(文化九年(一八一二)、五十二歳、自撰句集『屠龍之技』編集、刊行は翌年か? 「帋きぬた」以後の句収載?)
第九編「うめの立枝」

屠龍之技二.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「千づかのいね」)

 「千都かのいね」(「千づかのいね」「千束の稲」)は、『軽挙観(館)句藻』(静嘉堂文庫所蔵・二十一巻十冊)収録の「千づかのいね」(自筆句集の題名)を、刊本の自撰句集『屠龍之技』の第五編に収載したものなのであろう。
 この第五編「千づかのいね」(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)の六句目「夕露や小萩かもとのすずり筥」が、冒頭の、
抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」の賛(発句=俳句)ということになろう。
 そして、四句目の「其夜降(る)山の雪見よ鉢たゝき」の前書き「水無月なかば鉢叩百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」は、六句目の「夕露や小萩がもとのすゞり筥」にも掛かるものと解したい。
 この前書きの「鉢叩百之丞得道して空阿弥と改(め)」の、「鉢叩百之丞」は、其角の『五元集拾遺』(百万坊旨原編)に出て来る「鉢たゝきの歌」などに関係する、抱一の俳諧師仲間の一人なのであろう。

   鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世を驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       稀れなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの    鉢叩やな
  凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき    其角

 ちなみに、『去来抄』の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)に、「鉢叩月雪に名は甚之丞」(越人)の句もあり、「鉢叩百之丞」は、その「鉢叩甚之丞」などに由来のある号なのであろう。
 
  水無月なかば
  鉢叩百之丞得
  道して空阿弥
  と改、吾嬬に
  下けるに発句
  遣しける
 夕露や小萩がもとのすゞり筥

 句意は、「俳諧師仲間の鉢叩百之丞が、得度して出家僧・空阿弥となったが、折しも、小萩に夕べの露が下り、その露を硯の水とし、得度の形見に発句を認めよう」というように解して置きたい。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十一 波濤(抱一の「波濤図」周辺) 

抱一・波一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「波濤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「波濤図屏風」(二曲一隻・メトロポリタン美術館蔵)、酒井抱一の「波図屏風」(六曲一双・静嘉堂文庫美術館蔵)、俵屋宗達の『雲龍図屏風』(六曲一双・フーリア美術館蔵)」、そして、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵・メトロポリタン美術館蔵)などについて、下記のアドレスで触れた。そのうちの抱一の「波図屏風」と光琳の「波濤図屏風」関連などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30

(再掲)

抱一・波二.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」(六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館蔵)
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 この光琳の「波濤図屏風」の解説中の、「波濤をかたどる二本の墨線の表現」というのは、いわゆる、「二管の筆を同時に握って描く『双筆』という中国由来の伝統的な水墨技法」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」)を指しているのであろう。
 そして、「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」のサブタイトルの「北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの」というのは、これは、其一よりも、その其一の師の「酒井抱一」に、より冠せられるものという思いを深くする。
 特に、光琳の「波濤図屏風」は、抱一の『光琳百図』に収載されており、抱一、そして、其一の「波濤図」関連のものは、すべからく、ここからスタートしていると解して差し支えなかろう。

光琳百図・波.jpg

『光琳百図』(酒井抱一編・筆)所収「波濤図」(「ARC浮世絵データベース」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/met/DP266705_CRD

 上記の(再掲)の最初に、抱一の「波図屏風」(紙本銀地墨画着色)を掲げたが、抱一には、「銀地」ではなく「金地」の「波図屏風」(二曲一双)もある。

抱一・波三.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図でき絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」中の裏面に「池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした」の、その孤邨の作は次のとおりである。

孤邨・千鳥.jpg

池田孤邨筆「千鳥群図」(酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)裏面)

 この池田孤邨より五歳年長の、抱一の一番弟子の鈴木其一には、次の「松に波濤図屏風」がある。

其一・波.jpg

鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十 藤(抱一の「藤図」周辺)

抱一・藤一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 先に、次のアドレスで、鈴木蠣潭画・酒井抱一賛の師弟合作の「藤図扇面」について紹介した。上記の「藤図」は、その蠣潭の「藤図」と関係が深いものなのであろう。その画像とその一部の紹介記事を再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24

(再掲)

蠣潭・藤図扇面.jpg

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)

 この抱一・蠣潭の合作の「藤図扇面」の、抱一の賛(発句=俳句)「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」は、抱一句集『屠龍之技』には収載されていないようである。その『屠龍之技』に収載されている句の中では、下記のものなどが、その賛の発句(俳句)に関係があるような雰囲気である。

   文晁が畫がける山水のあふぎに
 夕ぐれや山になり行(く)秋の雲

 この抱一の句は、前書きの「文晁が畫がける山水のあふぎに」(畏友・谷文晁が描いた「山水図」の扇)に、画・俳二道を極めている「酒井鶯邨(抱一)」が、その「賛」(発句=俳句)を認めたものなのであろう。

 当時の江戸(武蔵)の、今の「上野・鶯谷」(「下谷」=「鶯邨」=「鶯村)の「三幅対」といわれた「亀田鵬斎(儒学者・書家・文人)・酒井抱一(絵師・俳人・権大僧都)・谷文晁(絵師=法眼・松平定信の近習)の、この三人の交遊関係は、当時の「化政文化期」を象徴するものであった。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

(再掲)

ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。
上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

其一・燕子花.jpg

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 この『草花十二ヵ月画帖』のものについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-05

其一・藤一.jpg

鈴木其一筆『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)所収「四月」(藤図・絹本著色、二〇・二×一八・四㎝)

 これらの其一の画帖は、抱一の『鶯邨画譜』(版本)を念頭に置いてのものとうよりも、抱一の『絵手鑑』(肉筆画)に近い、其一の「絵手本」として制作されたものなのかも知れない(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説137(岡野智子稿))。

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その九) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その九 藪柑子に竹籠(抱一の「藪柑子と竹籠図」周辺)

  次のアドレスの、「本でだどる琳派の周辺」(「国立国会図書館(国立国会図書館デジタルコレクション)」)で、中村芳中の『光琳画譜』と酒井抱一の『光琳百図』・『尾形流略印譜』
について、次のように紹介している。

http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/1.html#anchor1

【芳中の『光琳畫譜』が出版されてから13年後の文化12(1815)年、同じく江戸の地で、酒井抱一(1761-1828)が光琳の百回忌に遺墨展を催しました。その際に刊行されたのが『光琳百図』と『尾形流略印譜』の2冊です。ごく少部数の私家版としてつくられた初版本の表紙には、『光琳百図』に菊花、『尾形流略印譜』には燕子花をモチーフにした模様が雲母刷
きらずりで施されていました。菊と燕子花はいずれも光琳が得意とした題材で、この表紙デザインも抱一の光琳研究の成果といえます。『光琳百図』は抱一が光琳の作品を模写し集めたもので、表紙を簡素に変えて色々な版元から何度も再販されました。
琳派の造形は京都ではじまり、こうした版本を通じて江戸を中心とした庶民にも広く浸透していきました。 】

 これに続いて、『鶯邨画譜』について、次のように紹介している。

【書名の鶯邨とは酒井抱一の俳号で、抱一が49歳で移り住んだ根岸が鶯で有名だったことからきています。この資料は、絵手本として出版されました。梅の枝を描いた絵は『光琳百図』にある尾形光琳の模写に似ており、抱一が光琳の作品に学んでいたことがわかります。その他には和の草花や縁起物を描いたもの、平安時代から続くやまと絵という伝統的な様式の人物画が収められています。特徴的な美しいグラデーションは、拭きぼかしという版木をしめらせて刷る錦絵の高度な技法によるものです。
『光琳百図』と『尾形流略印譜』同様、初版本(1815年)の表紙は波模様の雲母刷でした。波も光琳の代表的モチーフで、のちに「光琳波」と呼ばれるようになり、特に工芸の分野ではよく利用されています。 】

 この『鶯邨画譜』も、そして、『光琳百図』・『尾形流略印譜』も、版本なのであるが、抱一には、別に『絵手鑑』(一帖七十二図・絹本著色墨画・「静嘉堂文庫美術館」蔵)という、肉筆画の画帖がある。
 この『絵手鑑』については、下記のアドレスで、「冨士山」「蓮池に蛙」「八鶴」の三点を紹介している。

http://www.seikado.or.jp/collection/painting/006.html

【酒井抱一(1761~1828)は、姫路藩主の弟として生まれ、尾形光琳の画風を継承し江戸で新たな展開をみせた江戸琳派を代表する画家。全72図が画帖の表裏に貼りこまれた本作は、抱一が光琳のみならず、狩野派・土佐派・円山四条派・中国画など幅広い画技を習得していたことを如実に物語る作品。抱一自身による箱書のある内箱、酒井道一(どういつ)(抱一の画風に傾倒し、雨華庵(うげあん)四世を継ぐ)による外箱を備え、装丁(そうてい)も当初のものと考えられる。伊藤若冲の版画帖『玄圃瑤華(げんぽようか)』の図様を取り入れた画や、当時流行していた「古画趣味」を反映した王朝の古典人物、俳画など、おさめられた画はバラエティーに富む。抱一の多彩な魅力がつまった珠玉の画帖である  】

絵手鑑一.jpg
 (十九)富士山    (二十一)蓮池に蛙     (三十)八鶴

 この『絵手鑑』は「七十二図」(各二五・一×一九・七㎝)から成るが、上記の括弧書きは、その収載番号である(『琳派五―総合―』所収「静嘉堂文庫美術館蔵酒井抱一筆「絵手鑑について」(玉蟲敏子稿)」)。
 その(六十五)に「藪柑子」と題するものがあるが、抱一は、この「藪柑子」に、「燕子花」などと同じような特別の思い入れが有ったのかも知れない。その句集の『屠龍之技』では、「藪柑子」の句は目につかない。

抱一・藪柑子.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「藪柑子と竹籠図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 鈴木其一には、『草花十二ヵ月画帖』(各一六・七×二一・二㎝)の「十二月」に「雪と藪柑子」と『月次花鳥画帖』(各二〇・二×一八・四㎝)に「藪柑子」が収載されている。

其一・藪柑子一.jpg

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』所収「雪と藪柑子」図(「MOA美術館」蔵)

其一・藪柑子二.jpg

鈴木其一筆『月次花鳥画帖』所収「藪柑子」図(「細見美術館」蔵)

 其一の孫弟子に当たる中野其玉の『其玉画譜』にも、「藪柑子」は収載されている。

其玉・藪柑子.jpg

中野其玉筆『其玉画譜』所収「藪柑子」(個人蔵)
http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その八) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その八 燕子花(抱一の「燕子花図」周辺)

抱一・燕子花.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「燕子花図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の、「燕子花図屏風」(国宝・根津美術館蔵)・「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)・「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝・東京国立博物館蔵)・「伊勢物語八橋図」(東京国立博物館蔵・掛幅)・「燕子花図」(大阪市立博物館蔵・掛幅)そして、尾形乾山の「八ツ橋図」(国(文化庁)・重要文化財(美術品))などについては、次のアドレスで簡単な紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-06

 また、酒井抱一の、「八橋図屏風」(出光美術館蔵)・「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)、そして、『光琳百図』(尾形光琳画・酒井抱一編)所収「燕子花図屏風」などについて、下記のアドレスで紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27

 これらの、光琳・抱一の次代の江戸琳派の旗手・鈴木其一の「燕子花」図関連の大作ものは目にしない。しかし、其一には、「雑画巻」(出光美術館蔵)や『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)などで、その小品ものの「燕子花」図を目にすることが出来る。

其一・燕子花.jpg

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 「月次の草花を十二枚に描き、画帖としたもの」の、「五月」の図柄である。この図柄は「藤と燕子花」であろう。其一は、この画帖とは別に、『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)という画帖もあり、その画帖には「燕子花」図はなく、「藤」図が「四月」に描かれている。
 其一には、これらの画帖の他に、「十二ヵ月花木短冊」(個人蔵)、「十二ヵ月花鳥図扇面」(ファインバーグ・コレクション)、「十二ヵ月図扇」(太田記念美術館蔵)など、「四季の花卉」などを「十二ヵ月に描き分ける」という趣向のものが多い。この趣向は、「師の抱一が確立したもので、人気が高く、かなりの需要があったようである」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説135 十二ヵ月花鳥図短冊」)。
 上記の『鶯邨画譜』所収「燕子花図」は、上記の其一の『草花十二ヵ月画帖』所収「五月」(「燕子花」図)のマニュアル(抱一筆)と解しても差し支えなかろう。
 そして、この「燕子花」図は、「抱一→其一→其明→其玉」と、脈々と受け継がれて行くのである。

其玉・燕子花.jpg

中野其玉筆『其玉画譜』(小林文七編・ARC古典籍ポータルデータベース)所収「燕子花図」
www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=BM-JH398&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その七) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その七 桜町中納言(抱一の「桜町中納言図」周辺)

桜町中納言・鶯邨画譜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「桜町中納言図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「桜町中納言」については、下記のアドレスで、下記(参考その三)のとおり引用紹介した。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-29

(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり) → (再掲)
没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み,風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

 また、次のアドレスで、酒井抱一筆の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)について触れた。そこでの要点も再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-01

(再掲)

ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。  
 その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
 それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。

 さらに、下記のアドレスで、鈴木其一筆「桜町中納言図」(一幅)について触れた。その画像と解説(久保佐知恵稿)のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-09

(再掲)

其一・桜町中納言.jpg

鈴木其一筆「桜町中納言図」 一幅 絹本著色 一一六・八×四九・八㎝
千葉市美術館蔵
【 桜町中納言は、平安時代後期の歌人藤原成範の通称で、桜を殊のほか愛した成範は、自らの邸宅にたくさんの山桜を植え、春になると桜の下にばかりいたと伝わる。能「泰山府君」の登場人物でもあり、短い花の盛りを惜しんだ成範が、その命を延ばしてもらおうと泰山府君に祈ったところ、成範の風流な心に感じた泰山府君が現れ、願いを叶えってやったと云う。本作は、満開の山桜の下でくつろぐ桜町中納言と従者を描いたもので、構図自体は『光琳百図』所載の光琳画をほぼ忠実に踏襲している。「桜町中納言図」は師の酒井抱一にもいくつかの遺品があり、江戸琳派において継承された画題のひとつといえる。(久保佐知恵稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説56 桜町中納言図」)

 ここで、冒頭の抱一画集『鶯邨画譜』所収の「桜町中納言図」(に戻り、これは、まさしく、「抱一筆」とか「其一筆」とかではなく、『鶯邨(抱一の「雨華庵(工房)」の別称)』の「画譜(マニュアル・手本)」の「一コマ」のものという思いを深くする。
 さらに、付け加えるならば、上記の其一筆「桜町中納言図」(千葉市美術館蔵)には、次のような箱書きがある(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

(箱表) 桜町中納言  竪幅
(箱裏) 先師其一翁真蹟 晴々其玉誌 印

 この「晴々其玉」は、其一の高弟・中野其明(きめい)の子息・中野其玉(きぎょく)であり、この其玉にあっては、その「先師」とは、酒井抱一ではなく、鈴木其一その人ということになる。
そして、この其玉に、『鶯邨画譜』を継受したような『其玉画譜』(小林文七編)があり、次のアドレスで、その全図を見ることが出来る。ここに、まぎれもなく、「其一→其明→其玉」の「其一派」の流れを垣間見ることが出来る。

一 ARC古典籍ポータルデータベース (カラー版)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal

二 国立国会図書館デジタルコレクション (モノクロ版)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850329

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