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抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その二十)「抱一の『猫図(抱一画・鵬斎賛)」(その周辺)

猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛).jpg

「猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛)」(一幅・個人蔵))

≪ 図版解説119  
 一風変わったこの猫の絵には、「壬戌之春正月十四日」と年紀のある亀田鵬斎(一七五二~一八二六)の賛がある。「抱弌」の印のみが捺された新出作品。壬戌は享和二年(一八〇二)で、抱一画としても早期の、また鵬斎との交流の証としては最初期のものとなる。この年、抱一と鵬斎とは、文晁らとともに常州金龍寺に取材旅行に出かけている。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「図版解説119 (松尾知子稿)」)

≪ 作品解説119  
 亀田鵬斎の賛は、ある美しい猫のさまを詠う。
  本是豪家玳瑁(たいまい)兒
  眞紅纏頸金鈴垂
  沈香火底座氈睡
  芍薬花辺趁蝶戯
  磨爪潜條鼠敖者
  拂眉常卜客来時
  平生為受王姫愛
  認得情人出翠愇
   壬戌之春正月十四日
      鵬斎閑人題
 猫の絵は、細い線で輪郭はとるが、ヒゲは白、目は黄色の色彩を少し加え、瞳孔は細く、ほとんど開いていない。
 この猫の姿に対し「寝ための猫」(あるいは寝ざめ)と題した箱は、池田孤邨によるもの。その蓋裏には、「孤邨三信題函」と署名した孤邨のほか、一門の松嶺、緑堂昌信、野沢堤雨が揃って、猫が蝶と戯れることにちなんだものか、蝶の絵の寄せ書きをしているのも珍しい。(挿図=p423、挿図119) 抱一の画譜のために丹念な描写をしている彼らにとっても、珍重な一図であったことであろう。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「作品解説119 (松尾知子稿)」)

 この「享和二年(一八〇二)」は、抱一、四十二歳の時で、この「猫図」に関連した句が、『屠龍之技』(「千ずかのいね」)に収載されている。

5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進 (『屠龍之技』(「千ずかのいね」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

(再掲)

≪ 季語は「蝶」(三春)。しかし、この句の主題は、上五の「から貓(猫)や」の「唐猫」にある。そして、「猫の恋」は「初春」の季語となる。
  その「猫の恋」は、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
猫の恋やむとき閨の朧月    芭蕉 「をのが光」
猫の妻竃の崩れより通ひけり 芭蕉 「江戸広小路」
まとふどな犬ふみつけて猫の恋 芭蕉 「茶のさうし」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋 支考 「東華集」
おそろしや石垣崩す猫の恋   正岡子規 「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり 夏目漱石 「漱石全集」

 掲出の抱一の「から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進」は、上記の「例句」の「まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉)」の、その本句取りのような一句である。

 まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉「茶のさうし」)

http://www.basho.jp/senjin/s1704-1/index.html

「句意は『恋に狂った猫が、ぼおっと横になっている犬を踏みつけて、やみくもに走って行ったよ。』
 私がこの句を知ったのは朝日新聞の天声人語(2017.2.22朝刊)に「猫の恋」の話の中で、「情熱的な躍動を詠んだ名句の一つ」として載っていたからである。「またうどな」と新聞では表記されていた上五の意味がわからないことで興味をもった。
「またうど」は『全人』でもとは正直、真面目、実直などの意であるが、愚直なことや馬鹿者の異称として用いられたこともあるという(『江戸時代語辞典』)。
 そこで私は上記のように解釈したのだが、確かに恋に夢中になった猫が普段怖がっている犬を踏みつけて走っていく状況は面白い。猫の気合とのんびりした犬の対比の面白さとして取り上げた評釈もあるが、私は猫の夢中さを描いた句ととりたい。
 この句の成立時期ははっきりしていないものの、芭蕉にしては即物的な珍しい句という感じがする。(文・ 安居正浩)」(「芭蕉会議」)

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』.jpg

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』(ColBase)/(https://colbase.nich.go.jp/
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/193858/

 この抱一の句の「句意」は、この珍しい舶来の「唐猫」が、「蝶」を捕って、それを「噛(かじ)っている」、その「獅子奮進」(獅子が荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子の)の姿は、これぞ、まさしく、「万国共通」の、歌麿の描く「通ひけり恋路の猫又」の世界のものであろう。(補記) この句もまた、抱一好みの「浄瑠璃」の「大経師昔暦(1715)」上「から猫が牡猫(おねこ)よぶとてうすげしゃうするはしをらしや」とを背景にしている一句なのかも知れない。 ≫

(追記)

「下谷の三幅対(三人組):『鵬斎・抱一・文晁』」と「建部巣兆」(「千住連」宗匠)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-09

「太田南畝・四方赤良・蜀山人」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-10

「亀田鵬斎」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-13

「谷文晁」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-21

「すごろく的 亀田鵬斎と仲間たち」

http://sugoroku.kir.jp/suisen-gakuya/suisen-soukanzu.htm

『抜粋』

*酒井抱一(さかい ほういつ)
宝暦11年7月1日(1761年8月1日)~文政11年11月29日(1829年1月4日)
江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都(ごんのだいそうず)。本名は忠因(ただなお)

*亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)
宝暦2年9月15日(1752年10月21日)~文政9年3月9日(1826年4月15日)
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。

*谷文晁(たに ぶんちょう)
宝暦13年9月9日(1763年10月15日)~天保11年12月14日(1841年1月6日)
江戸時代後期の日本の画家。江戸下谷根岸生まれ。松平定信に認められ、定信が隠居するまで定信に仕えた。

*大田南畝(おおた なんぽ)
寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)
天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。蜀山人。

*7代目・市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)(1791年~1859年)
歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。五代目の孫で六代目の養子。

*佐原鞠塢(さはら きくう)
仙台出身の骨董商。向島百花園を開園する。百花園に360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)に あった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6 年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、 著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。

*駐春亭宇左衛門(しゅうしゅんてい うざえもん)
江戸時代後期の遊女屋,料理店の主人。伯母の家をついで江戸深川新地に茶屋をひらき,のち新吉原に遊女屋をひらく。下谷竜泉寺町にもとめた別荘地から清水がでたため、田川屋という風呂付きの料理店をはじめた。

*八百屋善四郎(やおや ぜんしろうょ) 1768~1839年
江戸浅草山谷(さんや)で八百屋兼仕出屋をいとなんだ八百善(やおぜん) の4代目。
文政の始め頃には馬鹿げたほど高価な料理屋として大評判となる。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十九)「芭蕉・蕉門十哲像」(その周辺)

 「崋山先生図画」(色刷/表装:仮綴/[佐野屋喜兵衛], [出版年不明]/6枚 ; 38×26cm/早稲田大学図書館蔵)は、「支考肖像真蹟. 嵐雪肖像真蹟. 芭蕉肖像真蹟. 其角肖像真蹟. 龝色肖像真蹟. 許六肖像真蹟」の六枚ものである。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu05/nu05_04916/index.html

 これまでに、「其角肖像真蹟・嵐雪肖像真蹟」と「龝(秋)色肖像真蹟・ 許六肖像真蹟・支考肖像真蹟」とを見てきたが、それらは、「[和泉屋市兵衛, [出版年不明]]もので、これらの原画を描いたのが「崋山先生図画 / [渡辺崋山] [画]」ということになる。
 もう一枚の「芭蕉肖像真蹟」は、次のものである。

芭蕉肖像真蹟.jpg

「芭蕉肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05703/index.html

≪     神前
 この松のみばへせし代や神の秋  桃青

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳時の「鹿島詣」の一句である。この前書の「神前」は、「鹿島神宮の神前」、上五の「この松」は、鹿島七不思議の一つに数えられる境内の名物「根あがりの松」、中七の「みばへ」は「実生え」のことである。句意は、「鹿島神宮の松の下に立つと、この松が実生から目を出した頃の神代の秋の気が感じられる。」 ≫(「芭蕉DB」所収「鹿島詣(鹿島紀行/かしま紀行)」   

 渡辺崋山には、俳画風の「蕉門十哲像(渡辺崋山筆)」もある。

蕉門十哲像(渡辺崋山筆).jpg

「蕉門十哲像(渡辺崋山筆)」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi03/chi03_03816_0025/index.html

 この「蕉門十哲像」は、上から「桃隣・杉風・園女・丈草・許六・支考・正秀・嵐雪・去来・其角」の十人である。この「蕉門十哲像」は、『鮫洲抄(さめずしゅう)』(春秋楼編)所収「左右十哲肖像額・ 讃」と同じで、崋山は、この書によって、この、俳画風の「蕉門十哲像」を描いたように思われる。
 『芭蕉の門人(堀切実著・岩波新書)』では、次の十人を、『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』などの画像入りで、紹介している。

一 東西の俳諧奉行

去来(慶安4年(1651)~宝永元年(1704.9.10)
去来.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0018.jpg
湖の水まさりけり五月雨 (『あら野』)

杉風(1647~1732)
杉風.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0003.jpg
あさがほや其日その日の花の出来  (「杉風句集」)

二 武門の出…二筋の道

許六(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
許六.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0002.jpg
十團子も小つぶになりぬ秋の風   (『續猿蓑』)

丈草(寛文2年(1662)~元禄17年(1704.2.24))
丈草.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0019.jpg
ほとゝぎす啼や湖水のさゝ濁    (『續猿蓑』)

三 江戸蕉門のリーダー

其角(寛文元年(1661)7月17日~宝永2年(1705)2月29日)
其角.jpg
「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jpg
鶯の身を逆にはつね哉    (『去来抄』)

嵐雪(承応3(1654)~宝永4年(1707.10.13))
嵐雪.jpg
「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jpg
布団着て寝たる姿や東山    (『枕屏風』)

四 行脚俳諧師

支考(寛文5年~享保16年(1731.2.7))
支考.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0017.jpg
野に咲て野に名を得たり梅の花  (『蓮二吟集』)

野坡(寛文2年(1662.1.3)~元文5年(1740.1.3))
野坡.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0020.jpg
ほのぼのと鴉くろむや窓の春  (『野波吟草』)

五 個性の作者

凡兆(1640?~正徳4年(1714)春)
凡兆.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0016.jpg
市中のものゝにほひや夏の月  (『猿蓑』)

惟然(~正徳1年(1711)2月9日、60余歳)
惟然.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0010.jpg
世の中を這入りかねてや蛇の穴  (『惟然坊句集』)

 ここで、芭蕉から夏目漱石までの「俳諧『猫』句十選」などを下記に掲げたい。

「俳諧『猫』句十選」

猫の恋やむとき閨の朧月      芭蕉「をのが光」
京町の猫通ひけり揚屋町      其角「焦尾琴」
なれも恋猫に伽羅焼いてうかれけり 嵐雪「虚栗」
竹原や二匹あれ込む猫の恋     去来「喪の名残」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋  支考「東華集」
順礼の宿とる軒や猫の恋      蕪村「夜半叟句集」
うかれ猫奇妙に焦げて参りけり   一茶「七番日記」
から猫や蝶嚙む時の獅子奮迅    抱一「屠龍之技」
おそろしや石垣崩す猫の恋     子規「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり   漱石「漱石全集」

「漱石『猫』句五句選

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

里の子の猫加えけり涅槃象    (漱石「明治29年(1896年)」)
行く年や猫うづくまる膝の上    (漱石「明治31年(1898年)」)
朝がおの葉影に猫の目玉かな (漱石「明治38年(1905年)」)
恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石「明治40年(1907年)」)
この下に稲妻起こる宵あらん(漱石「明治41年(1908年)」)=『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の墓に書いた句)          

「漱石『『吾輩は猫である』追善五句選」

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

センセイノネコガシニタルサムサカナ  (松根東洋城)
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ (高浜虚子)
猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり  (鈴木三重吉)
蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元  (寺田寅彦)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき     (同上)


(追記)

 渡辺崋山の「猫図」と夏目漱石の「猫図」を下記に掲げて置きたい。

猫図(渡辺崋山画.jpg

「猫図(渡辺崋山画・部分図)」(「出光美術館蔵」)
https://kumareon.wordpress.com/2007/03/27/%E7%B7%8A%E8%BF%AB%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%80%E7%8C%AB%E5%9B%B3%E3%80%80%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1/

あかざと黒猫図.jpg

「あかざと黒猫図(夏目漱石画・部分図)」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html



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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十八)「秋色・許六・支考」(その周辺)

秋色肖像真蹟.jpg

「秋色(穐色)肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05709/index.html

 「秋色」の自筆短冊の句は、「武士(もののふ)の紅葉にこりず女とは」で、その意は、下記のアドレスによると、「冠里公の屋敷で酒宴となり家来たちがからかったのに対して詠んだと記録にある。『紅葉にこりず』は謡曲『紅葉狩』の鬼女を踏んでいて、また酔って赤い顔の侍を諷してもいるのであろう」ということである。

https://enokidoblog.net/talk/2015/12/14881

 上記のアドレスで紹介されている「冠里公」は、其角門の大名俳人「安藤信友(俳号=冠里)」(備中国松山藩二代藩主)を指している。
《 安藤 信友(あんどう のぶとも)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。備中国松山藩2代藩主、美濃国加納藩初代藩主。官位は従四そして、位下・対馬守、侍従。対馬守系安藤家4代。6万5000石。享保7年(1722年)徳川吉宗の治世で老中に任ぜられる。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった。俳諧よくし、宝井其角の門下、号は冠里。》(「ウイキペディア」)
 そして、この「秋色」は、「其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した」、其角の後継者の一人である「秋色女(しゅうしきじょ)」その人である。

≪ 秋色女(しゅうしきじょ、寛文9年(1669年)[要出典] - 享保10年4月19日(1725年5月30日)は江戸時代の俳人。通称おあき]、号は菊后亭。氏は小川氏か。江戸小網町の菓子屋に生まれる(現在東京都港区にある秋色庵大坂家という和菓子店である)。  
 五世市川團十郎の大叔母にあたる。夫の寒玉とともに宝井其角に師事して俳諧を学ぶ[1]。1690年(元禄3年)初入集[1]。其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した。
 13歳の時、上野寛永寺で「井戸端の桜あぶなし酒の酔」の句を詠んだという秋色桜伝説]や、武家の酒宴に召されて「武士の紅葉にこりず女とは」と詠んだという女丈夫伝説[1]など、川柳・錦絵・講談・歌舞伎の題材として扱われた。≫《「ウイキペディア」》

 抱一にとって、「秋色女」に連なる「「五世市川團十郎」とは昵懇の間柄である。「其角好き」の抱一が、「秋色女贔屓」については、想像するに難くない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-23

許六肖像真蹟.jpg

「許六肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05706/index.html

 この「許六」の自筆色紙の句は、「今日限(ぎり)の春の行方や帆かけ船」のようである。この崋山が描いた「許六肖像」画に、漢文で「許六伝記」を記したのは「活斎道人=活斎是網」で、その冒頭に出てくる『風俗文選(本朝文選)』編んだのが「許六」その人である。
 その『『風俗文選(本朝文選)』の「巻之一」(「辞類」)の冒頭が、「芭蕉翁」の「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)である。

≪ 「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)
 去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.※画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.※予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ。 ≫ (「芭蕉DB」所収「許六離別の詞」)

※画(絵画)はとって予(芭蕉)が師とし,風雅(俳諧)は教へて予(芭蕉)が弟子となす=絵画は「許六」が「予(芭蕉)」の師で、「俳諧」は「予(芭蕉)」が「許六」の師とする。

※予(芭蕉)が風雅(俳諧)は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし=予(芭蕉)の俳諧は、夏の囲炉裏や冬の団扇のように役に立たないもので、一般の民衆の求めに逆らっていて、何の役にも立たないものである。

※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ=後鳥羽上皇の御口伝の「西行上人と釈阿=藤原俊成の歌には、実(まこと)の心があり、且つ、もののあわれ=生あるものの哀感のようなものを感じさせ」、この『実の心ともののあわれ』とを基本に据えて、その(風雅と絵画の)細い一筋の道をたどって、決して見失う事がないようにしよう。

※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」=「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」と解釈され、もともとは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるともいわれている。

≪ 森川許六(もりかわ きょりく)/(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
寒菊の隣もあれや生け大根  (『笈日記』)
涼風や青田のうへの雲の影  (『韻塞』)
新麦や笋子時の草の庵    (『篇突』)
新藁の屋根の雫や初しぐれ  (『韻塞』)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき   (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
御命講やあたまの青き新比丘尼(『去来抄』)
人先に医師の袷や衣更え   (『句兄弟』)
茶の花の香りや冬枯れの興聖寺(『草刈笛』)
夕がほや一丁残る夏豆腐   (『東華集』)
木っ端なき朝の大工の寒さ哉(『浮世の北』) ≫(「芭蕉DB」所収「森川許六」)

 もとより、抱一と許六とは直接的な関係はないが、「画俳二道」の先師として、抱一が許六を、陰に陽に私淑していたことは、これまた、想像するに難くない。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子 (『屠龍之技』「) 第四 椎の木かげ」

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)
≪「宇津の山を過」と前書きがある。
句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」
 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。
 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

支考肖像真蹟.jpg

「支考肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05707/index.html

 支考の自筆短冊の句は、「線香に眠るも猫のふとん哉」のようである。しかし、その前書
が不分明で、「愛猫との分かれ」の句のように解して置きたい。
その上で、この句は、『風俗文選(許六編)』所収の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」(『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」)の「祭文(さいもん・さいぶん)=祭りの時、神の霊に告げる文。また、神式葬儀の時、死者の霊に告げる文」と、どことなく、イメージが連なっているような感じがする。

≪  祭猫文 小序   支考

(漢文→省略)

※A(俳文=俳諧文)

李四が草庵に、ひとつの猫児(めうじ)ありて、これをいつくしみ思ふ事、人の子をそだつるに殊ならず。ことし長月廿日ばかり、隣家の井にまとひ入て身まかりぬ。其墓を庵のほとりに作りて、釈ノ自圓とぞ改名しける。彼レをまつる事、人をまつるに殊ならぬは。此たび爪牙(そうげ)の罪をまぬがれて、変成男子の人果にいたらむとなり。其文曰。

※B(俳詩=俳諧詩=仮名詩+真名詩)

秋の蝉の露に忘れては。鳥部山を四時に噪(さは)ぎ。
秋の花の霜にほこるも。馬嵬(かい)が原の一夜に衰(をとろ)ふ。
 きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
 けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。
されば  柏木衛門の夢。
     虚堂和尚の詩。
恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。
 鼠は可捕(とら)とつく(作)りて。褒美は杜工部。
 蛙は無用といまし(誠)めて。異見は白蔵司
昔は女三の宮の中、牡丹簾(すだれ)にかゞ(輝)きて。花はまさ(正)にはや(速)く。。
今は李四が庵の辺、天蓼(またたび)垣あれ(荒)て。実(み)はすで(已)におそ(遅)し
前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
玉の林の鳥も啼らむ(良無)。
蓮の臺(うてな)の花も降らし(良之)。
 涅槃の鐘の声冴(さえ)て。囲炉裏の眠(ねむり)たちま(忽)ちにおどろ(驚)き。
 菩提の月の影晴(はれ)て。卒塔婆の心(こころ)なに(なに)ゝかうたが(疑)う。
    如 是 畜 生  
    南 無 阿 弥
    弔 古 戦 場 文 ≫((『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」・「佐々醒雪解題・国民文庫刊行会刊・『俳諧俳文集(全)』)

 『俳聖芭蕉と俳魔支考(堀切実著・角川選書)』では、「俳文・俳詩の創造―江戸の詩文改革」の一章を設け、「俳詩の創始者支考―仮名詩と真名詩」の中で、『風俗文選(本朝文選)・許六編』に続く、『風俗文鑑(本朝文鑑)・支考編』と『和漢文藻・支考編』の三部作で、所謂、「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」を体系化、そして、その実践化して行くこの一旦を紹介している。
 ここでは、これらの「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」には立ち入らないで、この「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「祭文」(「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」)と、支考の「猫」の句の関係について見ていきたい。

うき恋にたえてや猫の盗喰 (支考(『續猿蓑』))
(句意=恋の季節の猫は食事などにかまってはいられない。さりながら、食わなくては死んでしまうので時ならぬ時刻に盗み食いをしているのであろう。我が家のおいしい食べ物を盗んだ奴がいるが、そういう事情と思って許してやろう。=「芭蕉DB」)

 この支考の『続猿蓑』所収の句は、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているであろう。

≪ 恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。  ≫

羽二重(はぶたえ)の膝に飽きてや猫の恋 (各務支考)
https://suzielily.exblog.jp/22758128/

 この支考の句もまた、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているように思われる。

≪  きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
   けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
   前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。  ≫
   
 ここまで来ると、冒頭の、渡辺崋山が描いた「支考肖像画」に付せられている、支考の句の「線香に眠るも猫のふとん哉」の一句が、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「四行詩」と一体化してくる。

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考)         ≫

 ここに、抱一の一句を添えたいのである。

https://jozetsukancho.blogspot.com/2017/11/blog-post_18.html

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考) 
  から猫や蝶噛む時の獅子奮迅 (屠龍=抱一)        ≫

 この「屠龍=抱一」の「から(唐)猫」の一句は、「都市蕉門」の「江戸座」の一角を占める「東風派俳諧」を自負している「屠龍=抱一」の、「田舎蕉門」の「美濃派の総帥」の、「盤子・野盤子・見龍・東華坊・西華坊・蓮二・蓮二坊・十一庵・獅子庵・獅子房・獅子老人・渡辺ノ狂・白狂・羚羊子・是仏房・瑟々庵・万寸・饅丁・華表人・羶乙子・表蝶子・博望士・烏有仙・黄山老人・坊主仁平・佐渡入道・霊乙・橘尼子・桃花仙・松尊者竹羅漢・卉名連」の号(又は変名)を有する、「蕉門十哲」の一人に数えられる「支考」への、痛切な揶揄とも激励とも思われるものと解したい。

≪ 各務支考(かがみ・しこう)(寛文5年~享保16年(1731.2.7)
美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田 からはじめて美濃に蕉門俳諧を広めて蕉門美濃派を創始するなど政治的手腕も並々ならぬものがあったようである。
 芭蕉との出会いは元禄3年、芭蕉が幻住庵に入った頃と、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった。
 蕉門随一の理論家といわれる反面、正徳1年(1711)8月15日には、自分の葬儀を主催するなど風狂の風があり、毀誉褒貶もまた激しい。芭蕉も、其角や去来のような信頼を支考に寄せることはなかったが、気の置けない弟子として許していたようであることは、書簡などに見える。 死の床における支考の活躍は獅子奮迅のそれであって、芭蕉の遺書を代筆するなど、その師弟関係は見事に有終の美を飾ったのである。 上の図のように、生涯坊主姿でとおした。 盤子<ばんし>、隠桂<いんけい>は支考の別号。
(支考の代表作)
野に死なば野を見て思へ草の花  『越の名残』)
鶯の肝つぶしたる寒さかな
腹立てる人にぬめくるなまこ哉
気みじかし夜ながし老いの物狂ひ
賭にして降出されけりさくら狩 (『続猿蓑』)
むめが香の筋に立よるはつ日哉 (『炭俵』)
鳥のねも絶ず家陰の赤椿    (『炭俵』)
卯の花に扣ありくやかづらかけ (『炭俵』)
夕貌の汁は秋しる夜寒かな   (『炭俵』)
杉のはの雪朧なり夜の鶴    (『炭俵』)
うき恋にたえてや猫の盗喰   (『續猿蓑』)
春雨や枕くづるゝうたひ本   (『續猿蓑』)
朧夜を白酒賣の名殘かな    (『續猿蓑』)
蜀魄啼ぬ夜しろし朝熊山    (『續猿蓑』)
しら雲やかきねを渡る百合花  (『續猿蓑』)
里の子が燕握る早苗かな    (『續猿蓑』)
凉しさや縁より足をぶらさげる (『續猿蓑』)
帷子のねがひはやすし錢五百  (『續猿蓑』)
二見まで庵地たづぬる月見哉  (『續猿蓑』)
粟の穂を見あぐる時や啼鶉   (『續猿蓑』)
何なりとからめかし行秋の風  (『續猿蓑』)
居りよさに河原鶸來る小菜畠  (『續猿蓑』)
一霜の寒や芋のずんど刈    (『續猿蓑』)
煮木綿の雫に寒し菊の花    (『續猿蓑』)
ひとつばや一葉一葉の今朝の霜 (『續猿蓑』)
野は枯てのばす物なし鶴の首  (『續猿蓑』)
水仙や門を出れば江の月夜   (『續猿蓑』
ふたつ子も草鞋を出すやけふの雪(『續猿蓑』)
余所に寐てどんすの夜着のとし忘(『續猿蓑』)
その親をしりぬその子は秋の風 (『續猿蓑』)
食堂に雀啼なり夕時雨     (『續猿蓑』)
縁に寐る情や梅に小豆粥    (『續猿蓑』)
はつ瓜や道にわづらふ枕もと  (『續猿蓑』)
馬の耳すぼめて寒し梨子の花  (『 去来抄』)
花書よりも軍書にかなし吉野山 (『俳諧古今抄』)
いま一俵買おうか春の雪    (『烏の道』)
馬の耳すぼめて寒し梨の花   (『葛の松原』)
出女の口紅をしむ西瓜哉    (『東華集』)
船頭の耳の遠さよ桃の花    (『夜話狂』)  ≫(「芭蕉DB」所収「各務支考」)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十七)「服部嵐雪」(その周辺)

嵐雪肖像一.jpg

「服部嵐雪/小栗寛令筆」(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)
『国文学名家肖像集(48/101)』(書誌情報:著者・永井如雲 編/出版者・博美社/出版年月日・昭14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1120068/1/48
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/ransetu.htm
≪ 生年月日不詳。下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる。新左衛門。下級武士として一時は禄を食んだが貞亨3年仕官の道を諦めて俳諧師に転身。貞亨4年春宗匠として立机。若いころは相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったようである。
 蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人。芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄5年3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだりした程であった。しかし、それより以前から師弟間には軋みが発生していたらしく、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど風波は激しかったようである。
 元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。いずれ才能ある人々の師弟関係であったために、暗闘や角逐もあったのだが、相互に強い信頼関係もまたあったのである。
(嵐雪の代表作)
布団着て寝たる姿や東山 (『枕屏風』)
梅一輪いちりんほどの暖かさ (『遠のく』)
名月や煙はひ行く水の上 (『萩の露』)
庵の夜もみじかくなりぬすこしづゝ (『あら野』)
かくれ家やよめ菜の中に残る菊 (『あら野』)
我もらじ新酒は人の醒やすき (『あら野』)
濡縁や薺こぼるる土ながら (『続虚栗』)
木枯らしの吹き行くうしろすがた哉 (『続虚栗』)
我や来ぬひと夜よし原天の川 (『虚栗』)
雪は申さず先ず紫の筑波かな (『猿蓑』)
狗背の塵に選らるる蕨かな (『猿蓑』)
出替りや稚ごころに物哀れ (『猿蓑』)
下闇や地虫ながらの蝉の聲 (『猿蓑』)
花すゝき大名衆をまつり哉 (『猿蓑』)
裾折て菜をつみしらん草枕 (『猿蓑』)
出替や幼ごゝろに物あはれ (『猿蓑』)
狗脊の塵にゑらるゝわらびかな (『猿蓑』)
兼好も莚織けり花ざかり (『炭俵』)
うぐひすにほうと息する朝哉 (『炭俵』)
鋸にからきめみせて花つばき (『炭俵』)
花はよも毛虫にならじ家櫻 (『炭俵』)
塩うをの裏ほす日也衣がへ (『炭俵』)
行燈を月の夜にせんほとゝぎす (『炭俵』)
文もなく口上もなし粽五把 (『炭俵』)
早乙女にかへてとりたる菜飯哉 (『炭俵』)
竹の子や兒の歯ぐきのうつくしき (『炭俵』)
七夕やふりかへりたるあまの川 (『炭俵』)
相撲取ならぶや秋のからにしき (『炭俵』)
山臥の見事に出立師走哉  (『炭俵』)
濡縁や薺こぼるゝ土ながら  (『續猿蓑』)
楪の世阿彌まつりや靑かづら (『續猿蓑』)
喰物もみな水くさし魂まつり (『續猿蓑』)
魂まつりここがねがひのみやこなり (『杜撰集』)
一葉散る咄ひとはちる風の上 (辞世句) ≫(「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」)

嵐雪肖像二.jpg

「嵐雪肖像真蹟 / 渡辺崋山画, 1793-1841」([佐野屋喜兵衛], [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_d0165/bunko31_d0165_p0001.jpg

 上記の渡辺崋山の「嵐雪肖像真蹟」画に付せられている、嵐雪自筆短冊の句は、「今少
とし寄見たしはちたたき」「今少し年より見たし鉢叩(『玄峰集(冬)・旨原編』)のようである。
 『玄峰集(冬)・旨原編』では、この句に「鉢たゝき」との前書を付している。そして、『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』では、この句の上五の「今」の脇に、「嵯峨落柿舎での作なり」との頭注を施している。
 この頭注の「嵯峨落柿舎での作なり」の、嵐雪が「嵯峨落柿舎」に行ったのは、上記の
「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」に記されている「元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、『この下にかくねむるらん雪仏』」であった」との、元禄七年(一六九四)の「芭蕉の没と嵐雪・桃隣との芭蕉追善の京阪旅路」での一句ということになる。
 この時、嵐雪、四十歳の頃で、当時の「嵐雪実像」が、この崋山の「嵐雪肖像真蹟」画の「嵐雪像」のようにも思われる。
 と同時に、この嵐雪の「今少し年より見たし鉢叩」というのは、嵐雪の、「この下にかくねむるらん雪仏」(嵐雪の「義仲寺」での「芭蕉追悼吟」)と並ぶ、嵐雪の「落柿舎」での「芭蕉追悼吟」ということになる。
 ともすると、其角俳諧と嵐雪俳諧とを総括的に「其角の瑰奇放逸(「奇抜奇警・自在放埓」)と嵐雪の平弱温雅(「平淡柔弱・篤実渋味」)などと評するが(『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』)、嵐雪の、この句なども、其角の句などと同様、「趣向の多重化」などが施されていることには、いささかの変りもない。
 この句の上五の、「今少し」は、「今少し、芭蕉翁をには生き長らえて欲しかった」の意と、「いま少し、芭蕉翁を追善するため鉢叩きには、年寄りの僧にして欲しかった」との、両義性などが挙げられよう。
 同時に、この嵐雪の句は、次の、芭蕉や其角の「鉢叩き」の句の「唱和」と、その「反転化」の一句であることを如実に物語っているとも解せられる。

長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    (芭蕉『いつを昔』)
鉢叩き暁(あかつき)方の一声(こゑ)は冬の夜さへも鳴く郭公 (長嘯子「鉢叩の辞」)

ことごとく寝覚めはやらじ鉢叩き (其角『五元集』・前書「去来家にて」)
千鳥なく鴨川こえて鉢叩き    (其角『五元集』・前書「去来家にて」)

 鉢たゝきの歌 (其角『五元集拾遺』)
鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
初音きかれて     はつがつを
花はしら魚      紅葉のはぜ
雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
おもしろや此(この) 樽たゝき
ねざめねざめて    つねならぬ
世の驚けば      年のくれ
気のふるう成(なる) ばかり也
七十古来       まれなりと
やつこ道心      捨(すて)ころも
酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2007/08/blog-post_21.html

「其角の『句兄弟・上』(二十六)」

二十六番
   兄 蟻道
 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩
   弟 (其角)
 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

(兄句の句意)弥兵衛が鳴らしているものとは知っていても、誠に鉢叩きの音はもの寂しい音であることか。
(弟句の句意)伊勢縞を来て歌舞伎役者のような恰好をしている鉢叩きだが、その伊達風の華やかな音色ではなく、そこのところが、誠の鉢叩きのように思われる。
(判詞の要点)兄句は鉢叩きにふさわしい古風な鉢叩きの句であるが、弟句はそれを伊達風の新奇な句として反転させている。

(参考)
一 この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。

二 この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。
○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)
 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)
 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)
おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)
鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)
ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

三『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。
千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)
今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)
ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)
旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)
これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。

四『五元集拾遺』に「鉢たたきの歌」と前書きして、次のような歌と句が収載されている。
    鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世の驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       まれなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
   あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  其角

(再掲)
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E3%80%80%E5%8D%83%E3%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AE%E7%A8%B2?updated-max=2023-05-02T15:16:00%2B09:00&max-results=20&start=9&by-date=false

5-4  其夜降(ふる)山の雪見よ鉢たゝき (抱一『屠龍之技』「第五 千づかのいね」)

(「句意」周辺)
 この句の前に、「水無月なかば鉢扣百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」との前書がある。
 この「鉢扣百之丞」は、「鉢叩(き)・百之丞(人名)」で、「鉢叩(き)」=「時宗に属する空也念仏の集団が空也上人の遺風と称して、鉄鉢をたたきながら勧進すること。また、その人々。これは各地に存したが、京都市中京区蛸薬師通油小路西入亀屋町にある空也堂(光勝寺)が時宗鉢叩念仏弘通(ぐづ)派の本山(天台宗に改宗)として有名。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四八日間、鉦(かね)をならし、あるいは鉢にかえて瓢(ふくべ)を竹の枝でたたきながら、念仏、和讚を唱えて洛中を勧進し、また洛外の墓所葬場をめぐった。また、常は茶筅(ちゃせん)を製し、歳末にこれを市販した。《季・冬》」(「精選版 日本国語大辞典」)

鉢たたき.jpg

「鉢叩・鉢敲(はちたたき)」(「精選版 日本国語大辞典」)

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

 辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。

季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。

鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

「前田春来(紫隠)」の『東風流(あずまふり)』俳諧の世界のもので、それは、「西土の蕉門」(上方の蕉門、殊に、各務支考の「美濃派蕉門」(田舎蕉門)」を排斥して、「其(其角)・嵐(嵐雪)の根本の向上躰(精髄の発展形)」(「江戸蕉門=都市派蕉門=江戸座」俳諧)を強調するものであった。
 と同時に、その「春来(二世青蛾)・米仲・存義」らの『東風流(あずまふり)』俳諧は、当時、勃興しつつあった「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)に一石を投ずるものでもでもあった。
 この「五色墨」運動は、享保十六年(一七三一)の俳諧撰集『五色墨』(宗瑞=白兎園=風葉=中川氏=杉風門、蓮之=珪林=松木氏=杉風門、咫尺(しせき)=大場氏=嵐雪門、素丸=馬光=其日庵二世=葛飾風=長谷川氏=素堂門、長水=麦阿=柳居=佐久間氏=沾徳門・伊勢麦林(乙由)門)の「四吟歌仙(四人)+判者(一人)」の「四吟歌仙五巻」を興行したことを、そのスタートとして勃発した俳諧革新運動である。

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十六)「宝井其角」(その周辺)

其角肖像一.jpg
宝井其角(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)
『国文学名家肖像集(47/101)』(書誌情報:著者・永井如雲 編/出版者・博美社/出版年月日・昭14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1120068/1/47
≪寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日)[1])は、江戸時代前期の俳諧師。本名は竹下 侃憲(たけした ただのり)。別号は「螺舎(らしゃ)」「狂雷堂(きょうらいだう)」「晋子(しんし)」「宝晋斎(ほうしんさい)」など。≫(「ウィキペディア」)

其角肖像二.jpg
「其角肖像真蹟 / 渡辺崋山画, 1793-1841」([和泉屋市兵衛], [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05704/index.html

 渡辺崋山が描いた「其角肖像真蹟」に付せられている、其角の色紙の句「饅頭で人をたつねよ山桜」(其角自筆色紙)は、其角の「聞句」(謎句)として、『去来抄(同門評)』で取り上げられている。

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/reference/kyoraisyou/dohmonhyo/d30_manjuude.htm

《  まんぢうで人を尋ねよ山ざくら        其角
 許六曰 、是ハなぞといふ句也*。去來曰、是ハなぞにもせよ、謂不應と云ふ句也*。たとへバ灯燈で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也*。是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂へる事を、我一人合點したる句也*。むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず*。 
(注記)
※許六曰 、是ハなぞといふ句也:許六が、この句は謎の多い句だね、と言った。
※去來曰、是ハなぞにもせよ、謂不應と云ふ句也:私は、謎かもしれないが、言いおおせずという句だろうね、と答えた。
※たとへバ灯燈で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也:たとえば、「灯篭で人を訪ねろ」と言ったらそれは「灯篭を持って人を訪ねろ」ということだ。
※是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂へる事を、我一人合點したる句也:これは、饅頭をほうびにやるから、訪ねて来いと、作者一人が勝手に喜んでいる句だよ。去来の解釈は、「山桜が咲いた。それを一緒に見たいから、なんなら饅頭持って拙宅に遊びに来てくれないか」だが、これで十分と言えないところにこの句の「謎」がある。
※むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず :昔、「聞き句」と言うものがあって、句の切り方、「て、に、は」の微妙な使い方などを学ぶ句なのだが、この其角の句はそれでもなさそうだね。 》(「芭蕉DB」所収「去来抄」)

去来(『去来抄』)の句意=饅頭をほうびにやるから、訪ねて来い。
桃隣(『陸奥衛』・前書=「餞別」)の句意=芭蕉翁の旅姿の如くまんじゅう頭の法体で行脚して来たらよかろう。
旨原・其角(『五元集』・前書=「花中尋友」)の句意=尋ねる友は花より団子の下戸ゆえ、お花見の浮かれた雑踏の中でも、饅頭を食っている男を目当てに尋ねたら見つかるだろう。

 そもそも、其角自身、この句を最初に作句した時(元禄九年=『韻塞』・『桃舐集』、元禄十年=『末若葉』)には、前書が無く、そして、この元禄十年(一六九六)の『陸奥衛』に掲載された時に、「餞別」という前書が付せられて、上記の『陸奥衛』のような句意の取り方が一般的だったようである。
 それが、『五元集』(其角自選、小栗旨原編。延享四年(一七四七)刊)で、「「花中尋友」の前書が付せられ、晩年の其角(宝永四年=一七〇七没)は、上記の『五元集』の句意のように、其角自身で、転換していると解せられるのである。
 これらのことに関して、下記アドレスの「『五元集』に於ける前書について(二上貴夫稿)」
では、次のような示唆に富んだ指摘をしている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/2008/114/2008_114_48/_pdf/-char/ja

≪ 連句の付け合いでは、付句が付くことによって、前句にあった意味内容が変わってしまう事がしばしばある。これは「連句的作意」というものだが、其角最晩年の自選発句集『五元集』をみると、意図的に前書を付け替えることで(或いは新たに前書を付す事で)発句の意味する内容を変えるという試みが幾つかの句でなされているのに気づく。
 『五元集』千四句中、「前書あり」の発句が五百十八句。その内、当初の前書を新しく書き直した句、当初は前書のなかった発句に新しく付けた句、また『五元集』に初めて出て来
る未発表の句で前書のある句、これらの跡をたどることで其角晩年の思想をうかがう事が出来、また、其角が前書を付すという方法で「本説取」を考えていた事が分かるだろう。 ≫「『五元集』に於ける前書について(二上貴夫稿)」

 この「連句的作意」(「前句」と「付句」との句意の転換)と「前書と発句の『本説取』」(「前書」を「本説取」とする句意の多重化)などが、「其角俳諧(洒落風俳諧)」の特徴であり、この其角の「連句的作意」と「前書と発句の『本説取』」を、「抱一俳諧(「東風流俳諧」)」
の基本に据えていることが察知されるのである。
 そして、その「連句的作意」と「前書と発句の『本説取』」の底流には、「唱和と反転」(「前句・前書」に「唱和」して、それに、新しい世界を付与する「反転」化する)との、この二つの原理が大きく作用しているということが明らかになってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

(再掲)
抱一・其角肖像二.jpg
酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。
 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)
二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)
三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)
四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)

 この四について、『井田・岩波新書』では、次のように記述している。

【 ここで書かれた「乙鳥の塵をうごかす柳かな」には、二つの意味がある。第一に、燕が素早い動きで、「柳」の「塵」、すなわち「柳絮(りゅうじょ)」(綿毛に包まれた柳の種子)を動かすという意味。第二、柳がそのしなやかで長い枝で、「乙鳥の塵」、すなわち燕が巣材に使う羽毛類を動かすという意味。 】『井田・岩波新書』

 この「燕が柳の塵を動かす」のか、「柳が燕の塵を動かす」のか、今回の『井田・岩波新書』では、それを「聞句(きくく)」(『去来抄』)として、その「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」とし、この「聞句」(別称、「謎句」仕立て)を「其角・抱一俳諧(連句・俳句・狂句・川柳)」を読み解く「補助線」(「幾何学」の補助線)とし、その「補助線」を補強するための「唱和と反転」(これも「聞句」以上に古来喧しく論議されている)を引いたところに、この『井田・岩波新書』が、これからの「井田・抱一マニュアル(教科書)」としての一翼を担うことであろう。
 そして、次のように続ける。

【 これに対応する抱一句が、第一章で触れた「花びらの山を動かす桜哉」(『句藻』「梶の音」)である。早くに詠まれたこの句は『屠龍之技』「こがねのこま」にも採録され、『江戸続八百韻』では百韻の立句にされており、抱一自身もどうやら気に入っていたとおぼしい。句意は、大きな動きとして、桜の花びらが散れば、桜花爛漫たる山が動くようにみえるというのが第一。微細な動きとして、桜がさらに花弁を落とし、すでにうず高く積もった花弁の山を動かすというのが第二。
 燕の速度ある動きと柳の悠然たる動き、桜の大きな動きと微細な動き、両句ともに、こういった極度に相反する二重の意味をもつ「聞句」である。また、有名な和歌「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(『古今和歌集』巻第一)をはじめとし、柳と桜は対にされてきたから、柳を詠む其角に対し、意図的に抱一が桜を選んだと考えられる。抱一句は全く関係のないモティーフを扱いながら、其角句と見事に趣向を重ねているわけで、これは唱和のなかでも反転にほかならないと確認される。 】『井田・岩波新書』

  乙鳥の塵をうごかす柳かな  其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉   抱一 (『屠龍之技』)

 この両句は、其角の『句兄弟』(其角著・沾徳跋)をマニュアル(教科書)とすると、「其角句=兄句/抱一句=弟句」の「兄弟句」で、其角句の「乙鳥」が抱一句の「花びら」、その「塵」が「山」、そして「柳」が「桜」に「反転」(置き換えている)というのである。
 そして、其角句は「乙鳥が柳の塵を動かすのか/柳が乙鳥の塵を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」だとし、同様に、抱一句も「花びらが桜の山を動かすのか/桜が花びらの山を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」というのである。
 さらに、この両句は、「其角句=前句=問い掛け句」、そして「抱一句=後句=付句=答え句」の「唱和」(二句唱和)の関係にあり、抱一は、これらの「其角体験」(其角百回忌に其角肖像百幅制作=これらの其角体験・唱和をとおして抱一俳諧を構築する)を実践しながら、「抱一俳諧」を築き上げていったとする。
 そして、その「抱一俳諧」(抱一の「文事」)が、江戸琳派を構築していった「抱一絵画」(抱一の「絵事」)との、その絶妙な「協奏曲」(「俳諧と絵画の織りなす抒情」)の世界こそ、「『いき』の構造」(哲学者九鬼周三著)の「いき」(「イエスかノーかははっきりせず、どちらにも解釈が揺らぐ状態)の、「いき(粋)の世界」としている。
 さらに、そこに「太平の『もののあわれ』」=本居宣長の「もののあわれ」)を重奏させて、それこそが、「抱一の世界(「画・俳二道の世界」)」と喝破しているのが、今回の『井田・岩波新書』の最終章(まとめ)のようである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-22

(再掲)

  ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり


(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92?updated-max=2007-03-23T10:43:00%2B09:00&max-results=20&start=11&by-date=false

其角とその周辺・一(一~九)
其角とその周辺・二(十~二十)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92?updated-max=2007-04-24T08:59:00%2B09:00&max-results=20&start=6&by-date=false

其角とその周辺・三(二十一~三十二)
其角とその周辺・四(三十三~四十五)
其角とその周辺・五(四十六~五十五)
其角とその周辺・六(五十六~六十五)
其角とその周辺その七(六十六~七十一)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92

其角とその周辺(その八・七十二~八十)
其角とその周辺(その九・八十一~九十)
其角の『句兄弟・上』一(一~十一)
其角の『句兄弟・上』二(その十一~二十五)


其角肖像三.jpg
(其角肖像)
其角の『句兄弟・上』三(二十六~三十四)
其角の『句兄弟・上』四(三十五~三十九)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十五)「烏丸光廣」(その周辺)

烏丸光広像.jpg
「烏丸光広像(法雲院蔵)・部分図」(「ウィキペディア」)
≪生誕 天正7年(1579年)
死没 寛永15年7月13日(1638年8月22日)
別名 烏有子、腐木(号)
戒名 法雲院泰翁宗山
墓所 法雲院(京都市右京区)
官位 正二位、権大納言
主君 正親町天皇→後陽成天皇→後水尾天皇→明正天皇
氏族 藤原北家真夏流日野家支流烏丸家
父母 父:烏丸光宣
妻 正室:結城鶴子(江戸鶴子) [前結城秀康 正室] 継室:村上頼勝娘
子 光賢、勘解由小路資忠、六角広賢ほか ≫(「ウィキペディア」)

https://www.blogger.com/blog/post/edit/17972871/1433282636558540923

4-68 (江尻)置炬燵浪の関もり寝て語れ (酒井抱一『屠龍之技』「第四 椎の木かげ」)

歌川広重「東海道五十三次・江尻」.jpg
歌川広重『東海道五十三次・江尻』(「ウィキペディア」)
≪江尻宿は、東海道五十三次の18番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区(旧清水市)の中心部にあたる。≫(「ウィキペディア」)

(句意「その周辺」)
 この句には、「江尻の駅寺尾与右衛門が許にて」の「前書」と、「光廣卿の倭哥によりてなり」の「後書」とが付してある。

 「軽挙館句藻」では、「江尻の宿寺尾与右衛門が許に泊る/光廣卿の御歌を染筆せられたる屏風あり/歌烏丸との/
 霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守
それは松これは亭主
 置炬燵浪の関もり寝て語れ 」と、「烏丸光廣」の「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の一首が記されており、その「本歌取り」の一句ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-22

(再掲)

(その七)俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印)

蔦の細道一.jpg
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

蔦の細道二.jpg
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

【 金地に緑青(ろくしょう)の濃淡たけで表された、山の細道と蔦の葉。上部の賛をあらかじめ計算に入れた横長の画面構成には、宗達画・光悦書の和歌巻を思わせるところがある。そしてさらにこの屏風には心憎い仕掛けがある。右隻と左隻を入れ替えても、このように画面がつながって、また別な構図が現れるのだ。空のように見えていた右隻の右上部分は、山の斜面に変貌する。どこまで行っても終わることのない迷路のようだ。自由に立て回すことのできた屏風という形式ならではの発想だが、それを実に巧みに利用している。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

(参考)烏丸光広(からすやまみつひろ) 

没年:寛永15.7.13(1638.8.22) 生年:天正7(1579)
 安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議、同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』 (伊東正子)出典 「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)

(句意)

 江尻宿(静岡市清水区)の本陣「寺尾与右衛門」宅に一泊した。そこに、烏丸光廣卿が「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の和歌を染筆した屏風を見て深い感銘を覚えた。その光廣卿の一首は、歌枕の「三保の松原」の「松」が、これも、歌枕の「清見潟」の「関守」というもので、その一首に唱和して、この「清見潟」の「関守」は、「三保の松原」の「松」に匹敵する、この「江尻宿の本陣」の主人「寺尾与右衛門」その人だと、「置き炬燵」を共にして、その「寝物語り」を、もっともっと聞きたいという、挨拶句を呈することにした。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-06-19

(「三藐院ファンタジー」その十五)

光広・詠草.jpg
「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/803

【 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(釈文)

詠竹契遐年和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光御幸/するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね   】

 この寛永三年(一六二六)の「二条城行幸」の全記録は、下記のアドレスで、その全容を見ることができる。

https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/komonjo/001005/016/910170_1/html/

 その「一連の儀式のクライマックスとなった、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された『青海波』」の舞」の全容は、下記のアドレスのものが参考となり、これは、『源氏物語画帖』の「詞書」の執筆者などを探る上で、極めて重要なデータとなってくる。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1LejrASRSFdRxGu9Y6EYoe

【 「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治」(松島仁稿)(抜粋)

 秀忠は寛永三年(一六二六)、息子である三代将軍・家光とともに大軍を率いて上洛し、〈天皇の庭〉神泉苑を大幅に切り取ったうえ、壮麗に改築された二條城に後水尾天皇を迎る。足利義満や豊臣秀吉、そして光源氏の故事を踏まえたこの行幸の模様は、一代の盛儀として屏風絵や絵巻、古活字版・整版として板行された絵入りの行幸記などにも記録されるが、ここで一連の儀式のクライマックスとなったのが、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された「青海波」の舞だった。
(註22)
 「この日兼てより舞御覧の事仰出されしかば。未刻に至て主上(後水尾天皇)の玉座を階間御簾際に設け。あらかじめ上畳御菌をしく、西間を中宮(東福門院和子・徳川氏)。女院(中和門院前子・近衛氏)の御座とし。畳菌を設く。姫宮方には畳なし。東間を爾御所(徳川秀忠・家光)御座とし。屏風をへだてて二間を親王。門跡。大臣の座とし。關白はじめ公卿。殿上人は縁より孕張に至るまでの間圓座を設く。(中略)
 青海波序(輪台)。中院侍從通純。飛鳥井侍從雅章。左京大夫忠勝。治部大輔宗朝。破は(青海波)四辻侍從公理。西洞院侍從時良。いつれも麹塵閾腋。紅葉の下襲。表袴も同じ。巻纓。蒔絵野太刀。紅緂の平緒。絲鞋。青海波の二侍從は菊花を挿頭す。垣代は堀川中將康胤を始め。殿上人十四人。皆弓。壺胡簶。伶人十二人。染装束。御随身八人。襲装束なり。箏は内(後水尾天皇)の御所作。琵琶は伏見兵部卿貞清親王。箏は高松弾正罪好仁親王。琵琶は伏見の若宮。みな簾中にての所作なり。簀子には關白(近衛信尋・後水尾天皇弟)井に一條右大臣昭良公。九條前関白兼孝公。ともに箏。二條内大臣康道公笙。鷹司左大將教平卿。九條右大將幸家卿は共に笛。四辻中納言季継卿は箏。西園寺宰相中將實晴卿は琵琶。西洞院右衛門督時直卿は篳篥。其座下に打板敷。円座を設。殿上人の座とす。山科少將言総は笙。櫛笥侍從隆朝は笛。清水谷侍從忠定。久世少將通式は共に箏。小倉侍從公根は琵琶。花園侍從
公久は笙。唐橋民部少輔在村は篳篥。同所砌下に板敷をかまへ伶人の座とす。(中略)垣代の輩次第に中門にいり。舞人斜に庭上を巡り大輪をなし。御座の前東西に小輪をなせば。序破の舞人両輪の中にいり。次に一行平立。次に舞人打すちかへめぐりて前行す。(後略)」(『大猷院殿御實紀』寛永三年(一六二六)九月七日條く黒板勝美・國史大系編修會編『徳川實紀第二篇〈新訂増捕國史大系三十九巻〉』、吉川弘文館、一九三〇年〉。括弧内は筆者) 】

光広・富士山.jpg
「烏丸光広筆富嶽自画賛」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1844

【烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉は、江戸時代初期の公卿。多芸多才の文化人として知られ、和歌・連歌はもとより、書画・茶道も能くした。とりわけ和歌は、細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉に学び古今伝授を受けている。一方、能書家としても声価が高い。当初は、当時の公卿に共通の手習書法であった持明院流を習う。が、のちに光悦流に強い影響を受け、また同時に藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風にも私淑して、定家流も掌中にしている。しだいに不羈奔放の光広の性格を投影した光広流ともいうべき書風を確立、わが書道史上、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉・本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉ら「寛永の三筆」と並び称される評価を得ている。本図は、富士山を一筆書きに描き、その余白に富士山を詠み込んだ1首の和歌を書き添えたもの。光広は、徳川家康〈とくがわいえやす・1542-1616〉の厚遇を受け、朝廷と江戸幕府との斡旋役として、生涯幾度となく関東へ下向。そのたびたび京から江戸・駿府に下向している。東海道往来の折に、仰いだ富士の霊峰を詠んだ和歌は数知れず、家集『黄葉和歌集』(巻第七・羈旅部)には20首が収められている。この和歌はその中には見あたらないが、かれの自詠にちがいない。のびのびと淡墨を駆った書画一体の妙は、光広の真骨頂を示すものである。

(釈文)

おもかげの
山なる
気かな
朝夕に
ふじの
高根が
はれぬ
くもゐの         】


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-01-12

その五 「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺

西行絵物語一.jpg
「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

【 本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。
 全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。
 絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。 】

西行絵物語二.jpg
「西行物語絵巻」(出光美術館蔵)第一巻・第二巻・第四巻
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/rimpa/01.php

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/814581.html

(「西行物語絵巻」第一巻・部分図)(出光美術館蔵)
画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638)
江戸時代 寛永7年(1630)第一巻 第二巻 第四巻 紙本着色
第一巻 33.4×1785.0cm
第二巻 33.5×1855.7cm
第四巻 33.6×1821.0cm
【 宗達作品のなかで、年紀が明らかな唯一の作品です。能書家の公家・烏丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の命を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたこと、また「寛永第七季秋上澣」という年紀が判明します。宗達が写した禁裏御本は失われていますが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができます。"たらし込み"をもちいた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではのものです。 】
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十四)「松永貞徳」(その周辺)

松永貞徳像.jpg

「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg
≪「松永貞徳(まつながていとく)
[生]元亀2(1571).京都
[没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年(抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)  

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。
 季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。
 
鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
 「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

「木下長嘯子と松永貞徳」周辺

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486
≪木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁
 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。≫
松永貞徳.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十六 松永貞徳」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1506
≪松永貞徳(まつながていとく) [生]元亀2(1571).京都 [没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある ≫(「ブリタニカ国際大百科事典」)

https://www.buson-an.co.jp/f/haikai30

【蕪村菴俳諧帖30】貞門俳諧

≪ ◆江戸俳諧の開花

 江戸初期の俳諧流派を貞門俳諧(ていもんはいかい)と呼びます。貞徳(ていとく)の門流という意味で、芭蕉の蕉門に相当するもの。宗鑑、守武ら室町俳諧のあと100年ほど停滞していた俳諧を復活させ、 江戸期最初の大輪の花を咲かせたのが、博覧強記の文人 松永貞徳(1571-1653)でした。
貞徳は京都の生まれ。12歳で高名な学者から『源氏物語』の秘伝を授けられ、 20歳の頃からは豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ=書記)となります。
 「貞徳の先生は50人いた」と伝えられるほど多くの師に学んだ貞徳は その豊かな知識と教養を活かすべく30歳にして私塾をひらき、 庶民の子弟を指導するようになります。
 本職は学者、教育者というべきかもしれませんが、 里村紹巴(じょうは)から連歌を学んだのがきっかけで 俳諧の世界に足を踏み入れ、やがてその改革者となっていきます。
 貞徳は日常語や漢語に詩的な価値を与え、 雅語のみを使う和歌、連歌と俳諧とのちがいを明確にしました。また宗鑑などの室町俳諧の悪ふざけ、詠み捨てを否定し、 座興にすぎなかった俳諧の質を高めることに熱心でした。新時代の俳諧理論を書物に著したのも大きな功績でしょう。
 わかりやすい理論に裏打ちされた貞徳の俳諧は人気を博し、 70歳の頃には門弟300名に及ぶ一大勢力となって、 貞徳はまさに俳壇の指導者、支配者として君臨します。同時代には貞徳と直接の関係がない俳家もいたのですが、 かれらまでまとめて貞門と呼ばれてしまうほどでした。

◆蕪村に注ぐ流れ

 貞徳らしさの表れた発句を見てみましょう。

〇花よりも団子やありて 帰る雁

 花の季節だというのに、それを楽しもうとせず帰っていく雁の群。故郷には団子でもあるのではないか、というわけです。「花より団子」を踏まえているのはすぐわかりますが、 じつは『古今和歌集』の次の歌が本歌になっています。

春霞たつを見すてゝ行く鴈は 花なき里に住みやならへる(古今集 春 伊勢)

春霞が立ったのに(花を見ずに)帰ってしまう鴈(=雁)は 花のない里に住みなれているんじゃないかと。帰雁(きがん)を花を解せずとみなすのは和歌の伝統です。
歌詠みでもあった貞徳は、それを俳諧に採り入れたのです。

〇雪月花 一度に見するうつぎかな

これは漢語を用いた例。うつぎ(空木/卯木)は梅雨入り前後に清楚な白い花をつけますが、 その美しさを四季の風物(雪月花)を同時に見るようだと称えています。
蕪村とその一派が漢語を多用していたことを思うと、 貞徳はその大先輩だったことになります。≫

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/729

松永貞徳筆和歌懐紙.jpg

「松永貞徳筆和歌懐紙」(「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)
≪ 松永貞徳〈まつながていとく・1571-1653〉は、江戸時代初期の俳人・歌人・歌学者。京都に生まれ、名は勝熊。長頭丸・延陀丸をはじめ、数多くの号を用いた。晩年は京都五条稲荷町の「花咲の宿」と称す家に住み、五条の翁・花咲の翁とも呼ばれた。自著『戴恩記』には「師の数五十余人」と記す。連歌師であった父永種〈ながたね・1538-98〉の縁もあって、九条稙通・里村紹巴・細川幽斎・飛鳥井雅春といった良師に恵まれ、和歌・歌学をはじめ、儒学・連歌・神道・有職故実など一流の教養を身につけた。木下長嘯子と並び称される当代の代表歌人である。また、俳諧の上手としても知られ、俳壇の中心的存在となり貞門派を創始した。この懐紙は自詠の和歌一首を書いたもの。貞徳は一時、豊臣秀吉の右筆をつとめたという能書。和歌の師であった細川幽斎の書を連想させる、細身で重心の高い字形は、知的ですがすがしい。気品にあふれる落ち着いた書きぶりは、充実した壮年期のものであろうか。家集『逍遊集』に所収される一首。「「山花を待つ」ということを詠める和歌/長頭丸/山里は知る人もなし花咲かばなれよ夢にも黄楊(つげ)の小枕」

詠待山花和歌/長頭丸/やまざとはしる人/もなしはなさかばなれ/よゆめにもつげのを/まくら   ≫

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十三)「鈴木春卓・蠣潭・其一-守一」(その周辺)

蠣潭・藤図扇面.jpg

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-24

(再掲)

 蠣潭は抱一の最初の弟子。酒井家家臣で抱一の付き人を務めた鈴木春卓の養子。幼少より抱一のもとに出入りし、文化六年(一八〇九)、十八歳の時、養父の跡を継いで十三人扶持、中小姓として正式に抱一に仕える。抱一の画業を支え、時には代作も依頼されたことが知られる。
 抱一から強く頼りにされていた蠣潭だが、文化十四年(一八一七)、犬毒(狂犬病)で二十六歳の若さで急死、鈴木家を継ぐべき蠣潭の姉(一説に妹)と縁組みしたのが弟弟子の、其一である。

 上記の「藤図扇図」は、蠣潭=画、抱一=賛(俳句)の、師弟の合作である。抱一の句の「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」、そして、その流麗な筆致が絶妙である。ここには、師弟一体の絶妙な世界が現出されている。

鈴木蠣潭(すずきれいたん)

1782-1817 江戸時代後期の武士,画家。
 天明2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士。藩主酒井忠以(ただざね)の弟酒井抱一(ほういつ)の付き人となる。抱一に画をまなび、人物草花を得意とした。文化14年6月25日死去。36歳。名は規民。通称は藤兵衛、藤之進。(出典:講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

白薔薇図扇面.jpg

鈴木蠣潭 「白薔薇図扇面」江戸時代後期/個人蔵
http://salonofvertigo.blogspot.com/2016/09/

鈴木其一(すずききいつ)/(「ウィキペディア」)

 寛政7年(1795年) - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、江戸時代後期の絵師。江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子で、その最も著名な事実上の後継者である。もと氏は西村、一説には山本。諱は元長、字は子淵。其一は号で、のちに通称にも使用した。別号に噲々、菁々、必庵、鋤雲、祝琳斎、為三堂、鶯巣など。近代に通じる都会的洗練化と理知的な装飾性が際立ち、近代日本画の先駆的な絵師とみなされている。
(生い立ち)
其一の生い立ちは不確かなことが多い。中野其明『尾形流略印譜』や『東洋美術大鑑』など近代以降、弟子の談話などの資料を根拠とした説では中橋(現在のブリヂストン美術館周辺)で、近江出身の紫染めを創始したと言われる紺屋の息子として寛政8年4月に誕生し、兄弟子鈴木蠣潭(れいたん、通称・藤之進、のち藤兵衛)の病死後、蠣潭の姉りよを妻として鈴木家の婿養子になったとされる。一方、『姫陽秘鑑』に収録される文化14年(1817年)7月付の養父蠣潭の名跡養子願には幕臣水野勝之助の家来、飯田藤右衛門厄介の甥で蠣潭母方の遠縁、西村為三郎として武士階級であるように登場し、年齢も23歳、結婚相手も妹になっている。このうち、年齢は其一自身の作品、「牡丹図」の落款と「菊慈童図」の箱書きから文化14年時点で23歳、寛政7年の誕生であることは確かとみられ、結婚相手も論理・法律上の観点から妹である可能性が高いとみられている(姉と結婚すると義兄になるため、名跡を継ぐためとは言え弟の養子にはなれない)。其一は子供のころから抱一に弟子入りし、文化10年(1813年)に内弟子になったとされている。文化14年には前述のとおり兄弟子であった蠣潭の急病死のあと、婿養子として鈴木家の家督を継いだ。『東洋美術大鑑』は其一の俸禄を150人扶持であったと記述するが、これには早くから疑問が呈せられ、松下高徐『摘古採要五編』にみえる酒井家士時代の9人扶持、養父蠣潭の13人扶持と比較しても再考が必要と指摘されている。
(画風準備期・草体落款時代)
年記がある其一の作品は少ないが、落款の変遷から画風展開を追うのが普通である。抱一在世中は、抱一から譲られた号である「庭拍子」、または「其一筆」とだけ記す草書落款が多い。この時期は、抱一の住居「雨華庵」の筋向いに住み、身の回りの世話をしながら彼に学び、個性を顕わにしていく画風準備期とされる。ミシガン大学所蔵の「抱一書状巻」によると、其一はしばしば師の代筆を担当したらしく、抱一作品の中には其一筆と酷似した物も見られる。抱一からは、茶道や俳諧も学び、「鴬巣」の俳号をもち、亀田鵬斎や大田南畝らと交わり、彼らの讃をもつ初期作品も少なくない。文政8年(1825年)西村貌庵が著し、抱一が序を寄せた『花街漫録』の挿絵を描いており、他にも10点ほどの版本挿絵が知られる。
(画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代)
 其一は抱一の四十九日を過ぎてすぐ、文政12(1829年)2月に願い出て、それまでの家禄を返上する代わりに一代画師となった。普通なら姫路藩士として通常の勤務に戻るのが通例であるが、一代画師を選択したのに其一の特異性をみる意見もある。5人扶持・絵具料5両を受け、同時に剃髪し、天保3年(1832年)11月には絵具料を改定されて、9人扶持となる。翌年京都土佐家への絵画修業を名目に50日の休暇を申し出て、2月13日から11月にかけて西遊する。この時の日記『癸巳西遊日記』が、京都大学附属図書館谷村文庫に残されている。其一は、古い社寺を訪ね回り古書画の学習に励むなかで師の影響を脱し、独自の先鋭で近代的な画風へ転換していく。落款も「噲々其一筆」などと記す、いわゆる噲々落款に改め、この後10年程用いた。「噲々」とは『詩経』小雅が出典で、「寛く明らかなさま」「快いさま」を意味する。天保12年(1841年)から弘化3年(1846年)にかけて、抱一が出版した『光琳百図』の版木が焼けてしまったため、其一が複製して再出版している。その制作過程における、宗達や光琳作品の図様や構成法の再学習は、この後の画風に影響を与えたと見られる。天保13年(1842年)の『広益諸家人名録』には其一ではなく、息子守一の名が記されていて、その頃既に家督を譲っていたのではないかと推定されているが、当時の人名録には当主だけではなく隠居、兄弟、子女も掲載される例は多数あり、別の事情により其一は選外になったとみる向きもある。
(画風円熟期・菁々(せいせい)落款時代)
 弘化元年(1844年)頃からは、「菁々其一」と号を改めた菁々落款に変わる。「菁々」も『詩経』小雅にあり、「盛んなさま」「茂盛なさま」を指し、転じて人材を育成することを意味する。明らかに光琳の号「青々」も踏まえており、この改号には、師抱一を飛び越えて光琳を射程としつつ、次なる段階に進み、自ら後進を育てようと目論む其一の意欲が窺える。  
 その作風は再び琳派の伝統に回帰する一方で、其一の個性的造形性が更に純化する傾向が混在したまま完成度を高め、ある種の幻想的な画趣を帯びるようになった。ただし、晩年には工房作とおぼしき其一らしからぬ凡庸な作品が少なからず残り、師・抱一と同様、其一も弟子に代作させたと見られる。また、酒井忠学に嫁いだ徳川家斉の娘喜代姫の厚遇により、酒井家の医師格、つまり御用絵師となり別に30人扶持を賜ったとする説があるが[6]、信頼できる一次資料にはない。安政5年、64歳で没する。死因は当時流行したコレラともいわれる。法名は菁々院元譽其一居士。浄土宗の浅草松葉町正法寺に葬られたが、同寺は関東大震災で中野区沼袋に移転し、其一の墓もそこに現存している。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-28

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」酒井抱一賛/紙本淡彩/一幅 94・2×26・2㎝/細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都/一尺楊枝/只北廓女/朝々玩之/長房の/よふし涼しや/合歓花
抱一題「文詮」(朱文瓢印) 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-16

其一・雪中竹梅図.jpg

鈴木其一筆「雪中竹梅小禽図」双幅・絹本着色 細見美術館蔵 111・9×52・0cm
【 雪竹に雀を右幅、雪の紅白に雀を左幅に描いた双幅。いずれも枝葉、花にこんもりと雪が積もり、なお画面には雪が舞っている。降り積もった雪を薄い水墨の外隈で表し、降る雪、舞う雪はさらに胡粉を吹き付けて雪らしい感じに仕上げている。雪深い中にも早春の気配を感じさせる図である。
 右幅では雪の重みでしなる二本の竹の枝が大きく弧を描き、雀が当たって勢いよく落ちる雪のさまが雪塊とともに長く滝のように表される。墨を交えた緑の竹と、それを覆うかのような雪が鮮やかなコントラストを見せている。同様な表現は、竹に替わり檜ではあるが、其一「檜図」や「四季図」(四幅対)にも見出され、其一が得意とした画題であった。
 これに対し左幅は、一羽の雀が寒さに耐えて羽を休め、静寂な画面である。ほころび始めた紅梅の花にも蕾にも雪が積もり、複雑な余白の表出を其一は楽しんでいるかのようである。
 雪と雀を左右共通のモチーフとしながら、静と動、緑と紅などを対比させ、雪のさまざまな形の面白さをも追及した意欲的な作品である。師の抱一が情趣の表現を追求したのに対し、其一は造形的な効果にも多く関心を払った。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-23

其一・朝顔図屏風一.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵(再掲)→ (其一・金地・「綺麗さび」の「綺麗」)→ (図一)

宗達・雲龍図屏風一.jpg

俵屋宗達筆「雲龍図屏風」六曲一双 紙本墨画淡彩 各一五〇・六×三五三・六㎝
フリア美術館蔵 (宗達・墨画・「綺麗さび」の「さび」)→(図二)

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地淡彩 各一五四・五×一六九・八㎝
建仁寺蔵 → (図三)

其一・風神雷神図襖一.jpg

鈴木其一筆「風神雷神図襖」四面裏表 絹本著色 各一六九・〇×一一六・〇cm
東京冨士美術館蔵→ (図四)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-18

 其一の「朝顔図屏風」(図一)、宗達の「雲龍図屏風」(図二)・「風神雷神図屏風」(図三)は、いわゆる、移動性の「屏風絵(画)」に比して、其一の「風神雷神図襖」は、建物に付属している「襖絵」という違いがある。
 本来は、これらの障壁画(襖絵、杉戸絵、壁貼付絵、天井画、屏風絵、衝立絵などの総称)は、建物の空間と密接不可分のもので、それらを抜きにして鑑賞することは十全ではないのかも知れないが、逆に、それらの本来の空間がどういうものであったかを想像しながら、これの大画面の絵画を観賞する面白さもあるように思われる。
 例えば、この宗達の「雲龍図屏風」(図二)は、「落款が両隻を並べた場合内側となる部分にあることから、並置するのではなく、向かい合わせに置くことを意図していたと推測される」(『琳派四 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)と、そもそもは、其一の「風神雷神図襖」(図四)と同じような意図で制作されたものなのかも知れない。
 さらに、この其一の「風神雷神図襖」(図四)も、襖四面の「裏と表」に描かれていると、上記のように、並置しての、右隻の「風神図」と左隻の「雷神図」との対比が希薄化される恐れがあるように思われる。

 ここで、改めて、上記の四図を見ていくと、この其一の「朝顔図屏風」(図一)は、宗達の「雲龍図屏風」(図二)、そして、其一の「風神雷神図襖」(図四)は、宗達の「風神雷神図」(図三)を、それぞれ念頭に置いて制作したのではないかという思いを深くする。
 と同時に、其一は、宗達の「黒と白」との「水墨画」の極致の「雲龍図屏風」(図二)を、「金地に群青と緑青等の装飾画」の極致の「朝顔図屏風」(図一)に反転させ、そして、宗達の「金地に緑青等の装飾画」の極致の「風神雷神図屏風」(図三)を、「黒と白と淡彩の水墨画」の極致の「風神雷神図襖」(図四)に、これまた、反転させているということを実感する。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-25

其一・白椿.jpg

Camellias (one of a pair with F1974.35) → 白椿(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink, color, and gold on paper → 金地着色画
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

 上記の作品が、屏風の「表」の「金」(ゴールド)の世界とすると、その屏風の「裏」の「銀」(シルバー)の世界が、次のものである。

其一・芒野.jpg

Autumn Grass → 芒野(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858) → 鈴木其一
Historical period(s) Edo period, 19th century
Medium Ink and silver on paper → 銀地墨画 
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

其一・芒野二.jpg

鈴木其一「芒野図屏風」 二曲一隻 紙本銀地墨画 一四四・二×一六五cm
千葉市美術館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-03

守一・東下り.jpg


鈴木守一筆「不二山図」 一幅 絹本著色 一〇四・五×三九・五㎝ 個人蔵
(「『描表装(かきびょうそう)』」は省略)
出典(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 これは、江戸琳派の創始者・酒井抱一(宝暦十一年・一七六一~文政十一年・一八二八)でも、その継承者・鈴木其一(寛政八年・一七九六~安政五年)の作でもない。その其一の子・鈴木守一(文政六年・一八二三~明治二十三・一八八九)の作である。
 守一は、琳派の継承者だが、江戸時代の画家というよりも、幕末・明治時代の画家ということになる。しかし、この絵もまた、次の其一の作品の「型」を踏襲し、景物(富士山など)の配置や人物(主人公と従者)の向きなどに変化をもたらしているということになろう。

鈴木守一(すずきしゅういつ)

https://jmapps.ne.jp/spmoa/sakka_det.html?list_count=10&person_id=725

 19世紀半ばから後半に活躍した江戸琳派の画家。鈴木其一の子として江戸に生まれる。名は元重、字は子英。通称は重五郎。静々、庭柏子、露青などと号す。
 父・其一に画を学び、その模作を数多く残す。天保13(1842)年頃に其一の跡を継ぐ。明治6(1873)年のウィーン万国博覧会に《紅葉鴛鴦》を出品するなど、酒井抱一の孫世代として、幕末から明治にかけて活躍。其一の鮮やかな彩色、明快な構図などを継承しつつ、抱一の情趣を重んじる表現を受け継ぎ、多岐にわたる画題を描いた。
明治期において江戸琳派様式を展開させた点で重要な画家と言える。

鈴木春卓(すずきしゅんたく)

 鈴木春卓は、「蠣潭の養父(?)→其一の義父・養父(?)→守一の祖父(?)」の「鈴木家」の祖ということになる。この「鈴木藤兵衛春卓」の名の初出は、「鈴木藤兵衛春卓/寛政二年九月等覚院様御付」(『摘古採要』所収「等覚院殿御一代記」)のようである。(「抱一上人年譜稿(相見香雨稿)」)
 この寛政二年(一七九〇)、抱一、三十歳時の、その七月に、抱一の実兄の「忠以」が急逝し、その実子の「忠道」が十二歳の若さで、その三代目姫路藩を継承したのである。この時に、抱一は、「酒井家」の第一線から姿を消し、その七年後の寛政九年(一七九七)十月に出家して、「等覚院文詮暉真」を名乗ることになる。
 この抱一の出家関連については、同年十月十七日と十九日付けの「等覚院殿御一代記」に、次のような記述が見られる。

https://www.blogger.com/blog/post/edit/17972871/3724470630003625244

一 同月十七日(寛政九年十月十八日の「得度式」の前日)御得度被為済/京都御住居被成候ニ付/御合力・千石/五十人扶持・御蔵前ニテ/被進候事ニ被仰出
(文意=抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。その前段の「京都御住居被成候ニ付」は、出家後は、京都の西本願寺の末寺に住する」ということであろう。)

 この「付人(つきびと)」三人に関して、「御一代記」に、次のとおり記述されている。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)

 此君大手にいませし頃は左右に伺候する諸士もあまたありしか御隠栖の後は僅に三人のみ召仕われける    

 (中略)

同月十九日等覚院様ニテ左の如く被仰付
御家老相勤候被仰付拾六人扶持被下置  福岡新三郎 (給人格)
御用人相勤候被仰付拾五人扶持被下置  村井又助 (御中小姓)
拾五人扶持被下置           鈴木春卓 (御伽席)

 かくの如く夫々被仰付京都御住居なれば御合力も姫路より京都回りにて右三人の御宛行も御合力の内より給はる事なりされは三人の面々御家の御分限に除れて他の御家来の如くなりし其内にも鈴木春卓は御貯ひの事に預りて医師にては御用弁もあしければ還俗被仰付名も藤兵衛と改しなり後々は新三郎も死亡し又助も退散して藤兵衛のみ昵近申せし也
(文意・注=「此君大手にいませし」(抱一が「酒井家」の上屋敷に居た頃)、「給人」(給人を名乗る格式の藩士は一般に「上の下」とされる家柄の者)、「中小姓」(小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分の者、近侍役)、「御伽席」(特殊な経験、知識の所有者などで、主人の側近役)、この「鈴木春卓(藤兵衛)」は、「医師にては御用弁あ(り)し」(「医事」の知識・経験を有している意か?)、そして、この「鈴木家」が、「(鈴木春卓)→鈴木蠣潭(1782-1817)→鈴木其一(1795-1858)」と、画人「酒井抱一」をサポートすることになる。)

(参考)「抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。」周辺

https://www.viva-edo.com/houroku.html

蔵米取り(くらまいとり)

支給方法 年3回に分けて支給されたため「切り米」と言った。
100俵の場合 春 2月:4分の1=25俵 (借り米)俸禄米の先渡しの意味から
夏 5月:4分の1=25俵 (借り米)
冬 10月:2分の1=50俵(大切米)

扶持米(ふちまい)

下級の侍に支給される一種の手当。戦国時代からの名残。
一人一日五合の計算で支給 一人扶持=一年=360日=一石八斗 を月割りで毎月支給。
 年収に直すとおおまかに、一人扶持=5俵と考えてよい。例:30俵2人扶持の場合 40俵

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC

(旗本) (「ウィキペディア」)

1000石級
 1000石取りの軍役は侍5人、立弓1人、鉄砲1人、槍持2人、甲冑持2人、草履取2人、長刀1人、挟箱持2人、馬の口取2人、押足軽1人、沓箱持1人、小荷駄2人の計21人である。馬は主人の乗用と乗換用2頭に小荷駄用2頭を用意しておくことになっていたが、大半はせいぜい乗馬2頭だけ用意した。
 拝領する屋敷はおおむね三十間四方九百坪ぐらいで門は門番所付長屋門である。家臣の侍のうちから用人が選ばれて主人出勤中の屋敷の表を取り仕切り、奥には女中が奥様付きの老女を筆頭に5、6人いた。
 1000石取りは四公六民とすれば400石の収入であり、使用人を三十人ぐらいとして、それらへの食料を53石程度と見積もると347石が残り、使用人への給料や諸経費を賄っても生活は比較的安定していた階級だったといえる。
 またこの階級は幕府要職に就くことも多く、目付や使番などが適当な勤め場所だった。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十二) 抱一の二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=鷺山・玉助・松柏堂・春来窓」)」(その周辺)

酒井忠道.jpg

酒井忠道(さかい ただひろ / ただみち)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨姫路藩第3代藩主。雅楽頭系酒井家16代。

「酒井忠道」(「ウィキペディア」)
生誕 安永6年9月10日(1777年10月10日)
死没 天保8年7月23日(1837年8月23日)
別名 坂井得三郎?
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下・雅楽頭、従四位下・主計頭、備前守
幕府 江戸幕府
藩 播磨姫路藩主
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠以、母:嘉代姫(松平頼恭の娘)
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:磐(井伊直幸の娘)
子 英(松平斉恒継室)、妙(小笠原長貴正室)、夬(内藤頼寧正室)、寿久(京極高朗継室)、忠親(長男)、忠学
養子:忠実
(生涯)
 第2代藩主酒井忠以の長男。寛政2年(1790年)、12歳の時に父の死により家督を継ぐ。この頃、姫路藩では財政窮乏のため、藩政改革の必要性に迫られており、文化5年(1808年)には藩の借金累積が73万両に及んでいた。父・忠以も河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだが、藩内の反対派によって改革は失敗し、道臣は失脚した。しかし忠道は再度、道臣を登用して藩政改革に臨んだ。
 文化7年(1810年)には「在町被仰渡之覚」を発表して藩政改革の基本方針を定め、領民はもちろん、藩内の藩士全てに改革の重要性を知らしめた。まず、道臣は飢饉に備えて百姓に対し、社倉という食料保管制度を定めた。町民に対しては冥加銀講という貯蓄制度を定めた。さらに養蚕所や織物所を藩直轄とすることで専売制とし、サトウキビなど希少で高価な物産の栽培も奨励した。
 道臣は特に木綿の栽培を奨励していた。木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。幸いにして姫路は温暖な天候から木綿の特産地として最適だったが、当時は木綿の売買の大半が大坂商人に牛耳られていた。道臣ははじめ、木綿の売買権を商人から取り戻し藩直轄するのに苦慮したが、幸運にも忠道の八男・忠学の正室が第11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫であったため、道臣は家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることができた。この木綿の専売により、姫路藩では24万両もの蓄えができ、借金を全て弁済するばかりか、新たな蓄えを築くに至った。
 文化11年(1814年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、天保8年(1837年)に61歳で死去した。  

酒井忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家の第4代藩主。雅楽頭系酒井家17代。
生誕 安永8年10月13日(1779年11月20日)
死没 嘉永元年5月27日(1848年6月27日)
改名 直之助(幼名)、忠実
別名 徳太郎、玉助(通称)、以翼、春来窓(号)
戒名 祗徳院殿鷺山源桓大居士
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下河内守、従四位下雅楽頭、侍従、左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
藩 播磨姫路藩主
氏族 酒井氏(雅楽頭家)
父母 父:酒井忠以、母:松平頼恭の娘・嘉代姫
養父: 酒井忠道
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:西尾忠移の娘・隆姫
側室: 於満寿
子: 采、松平忠固、西尾忠受、東、忠讜、三宅康直、酒井忠嗣正室、桃、九条尚忠室ら
養子:忠学、万代
(生涯)
 第2代藩主・酒井忠以の次男。 文化11年(1814年)、兄・忠道の隠居後に家督を継ぎ、20年以上にわたって藩政をとった。 天保6年(1835年)、57歳で隠居する。 家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。 隠居後、鷺山と号した。
 叔父の酒井抱一と交流が深かった。 抱一の句集『軽挙館句藻』には、しばしば「玉助」の名で登場し、抱一の部屋住み時代の堂号「春来窓」を継承し、抱一が忠実の養嗣子就任の際に贈った号「松柏堂」を名乗っている。 正室の隆姫も抱一から「濤花」の俳号を贈られている。正室の隆姫は、戦国期の播磨姫路城主・黒田孝高や酒井重忠の血筋を引いている。

「抱一」と二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=春来窓・六花」)周辺

 文化十一年(一八一四)、抱一、五十四歳時の『軽挙館句藻』の二月の項に、次のような記述がある。

  きさらぎ廿七日、初鰹を九皐子のもとより送る
  銀鷺・六花両君に呈す
 花をまつ松のさし枝(え)や七五三
 時有(あり)て居替(いがは)る鶴や松の春

≪ 九皐子(きうかうし)は抱一の孫弟子野沢堤雨(一八三七~一九一七)の父とされ、光琳百回忌の展覧会にも一点出品している。忠道(銀鷺)・忠実に異様に早い貴重な初鰹を進呈し、藩主代替わりを暗示する祝儀句をそれぞれに贈っているから、抱一は叔父として、それなりに兄の遺児である両者に神経を遣っていたようにも感じられる。
忠実の方は抱一から春来窓の号を譲られたほか、合作の俳諧摺物を数点制作している。『句藻』をみれば、忠実にあてた句・和歌、季節の品の贈答記事や祝儀句など言及は多い。両者は同じ次男であり、兄忠道が藩主を辞めなければ、忠実は藩主にはなれなかった。抱一は出家したが、似た境遇のせいか、ことさら可愛がったようである。 ≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 この前年の文化十年(一八一三)に刊行された『屠龍之技』(鵬斎序・春来窓跋・南畝跋)の、その「春来窓(忠実)跋」は、次のとおりである。

≪ 抱一上人、春秋の発句有り。草稿、五車に積(つむ)べし。其(その)十が一を挙(あげ)て一冊とす。上人、居を移(うつす)事数々也。其部(そのぶ)を別(わか)つに其処(そのところ)を以(もつて)す。これ皆、丹青図絵(たんせいづえ)のいとまなり。此(この)冊子(さつし)の跋文を予に投ず。尤(もつとも)、他に譲(ゆづる)べきにもあらず、唯、「寛文・延宝の調(しらべ)を今の世にも弄(もてあそぶ)もの有らば、其(その)判(はん)を乞(こは)ん」と。「是(これ)、上人の望(のぞみ)給(たま)ふところ也」と。春来窓、三叉江のほとりに筆を採(とり) 畢(をはんぬ)。≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 ここで、「忠道=銀鷺」が、その実弟の「忠実=春来窓・六花」に、文化十一年(一八一四)九月に、三十八歳の若さで藩主の座を、二歳下の弟の忠実に譲って隠居し、忠道が亡くなったのは、天保八年(一八三七)の六十一歳の時である。
 この忠道の生存中の天保六年(一八三五)に、忠道から家督を継承した忠実は、忠道の実子の「忠学(ただのり)」に家督を譲って、これまた、五十七歳で隠居している。
 この「(忠以)→忠道→忠実→忠学」 の、播磨国姫路藩酒井家(第三代→第六代)の四代の藩主に仕え、五十年余にわたって、姫路藩の財政再建に貢献した家老が、「河合道臣」(号=寸翁)である。

河合寸翁像.jpg

姫路神社境内の河合寸翁像(「ウィキペディア」)

河合道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)
生誕 明和4年5月24日(1767年6月20日)
死没 天保12年6月24日(1841年8月10日)
改名 道臣→寸翁(号)
別名 隼之介(通称)
墓所 兵庫県姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所
主君 酒井忠以→忠道→忠実→忠学
藩 播磨国姫路藩家老
氏族 河合氏
父母 父:川合宗見、母:林田藩士長野直通の娘
妻 正室:泰子(林田藩士長野親雄の娘)
子 良臣
養子:良翰(松下高知次男)
≪ 姫路城内侍屋敷で誕生。幼少より利発で知られ、11歳の時から藩主酒井忠以の命で出仕しはじめた。天明7年(1787年)に父の宗見が病死したため家督1000石を相続、21歳で家老に就任する。茶道をたしなむなど、文人肌であった。
 江戸時代後期の諸藩の例に漏れず、姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。寛政2年(1790年)に忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化5年(1808年)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた。
 道臣は質素倹約令を布いて出費を抑制させる一方、文化6年(1809年)頃から領内各地に固寧倉(義倉)を設けて農民を救済し、藩治に努めた。従来の農政では農民に倹約を説きつつ、それで浮いた米を藩が搾取していたが、道臣は領民に生活資金を低利で融資したり、米を無利息で貸すなど画期的な政策を打ち出した。この政策は藩内で反対も多かったが、疲弊した領民を再起させ、固寧倉の設置で飢饉をしのげるようになるなど、藩内の安定につながった。更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られた。
 姫路藩では新田開発は従来から行われていたが、道臣の時期には主に播磨灘沿岸で推進され、新田での年貢減免策もとった。海岸部では飾磨港をはじめとする港湾の整備に努め、米や特産品などの流通に備えた。加えて城下では小麦粉、菜種油、砂糖など諸国からの物産を集積させ、商業を奨励した。
 道臣の業績として特筆されるのは、特産品販売に関する改革である。藩内を流れる市川・加古川流域は木綿の産地だったが、従来は大坂商人を介して販売していたため販売値が高くなっていた。道臣は木綿を藩の専売とし、大坂商人を通さず直接江戸へ売り込むことを計画した。これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功する。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博した。また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げた。
 天保6年(1835年)、69歳で隠居し、天保12年に没した。享年75。仁寿山校近くの河合家墓所に葬られた。≫(「ウィキペディア」)

 河合道臣は、抱一より六歳年下、道忠より十歳年上である。忠以が亡くなった寛政二年(一七九〇)には、「反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化五年(一八〇八)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた」という。
 この記述からすると、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」関連については、道臣は深く関わってはいない。そして、この忠以の急逝時には、「姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。」と、当時の酒井家の財政状況というのは、危機的状況下にあり、これらのことと、忠以の急逝時の「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」とは、深い関わりのあることは、想像する難くない。
 そして、忠以の家督を、若干十二歳にして継いだ忠道が、失脚していた河合道臣を再登用し、酒井家の財政再建の道筋を示し、自らは、三十八歳の若さで隠居し、その家督を、傍流の実弟。忠実に継がせて、文字とおり、「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」との、この「三鼎(みつがなえ)」の尽力により、「文政六年(一八二三)に、道臣は二十七年けて藩の負債完済を成し遂げた。」と、その後の「酒井家」の再興が結実することになる。
 そして、この「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」の、この「三鼎(みつがなえ)」を、陰に陽に支え続けた、その人こそ、「酒井抱一(本名=忠因、字名=暉真、ほかに、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号し、俳号=白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名=尻焼猿人、屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている)」の、今に、「江戸琳派の祖」として仰がれている」、その「酒井抱一」にほかならない。

(補記) 「無心帰大道」(無心なれば大道に帰す)

https://hatunekai.com/?seasonwords=%E7%84%A1%E5%BF%83%E5%B8%B0%E5%A4%A7%E9%81%93

≪ 無心とは・・・無事や平常心と同じような意味があり
あれこれと作為したり取捨分別する心を捨てる事、
欲のない澄んだ心の事だそうです。
あれこれと思い悩まずに、
ただ只管(ひたすら)に努力をしていれば
進むべき道、正しい道が見えてくるのだと。 ≫
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十一)抱一の兄「酒井忠以(宗雅・銀鵝)」(その周辺)

酒井宗雅公像.jpg

酒井宗雅公像(姫路神社)(「ウィキペディア」)
≪ 酒井忠以(さかい ただざね)」は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家15代。
 姫路藩世嗣・酒井忠仰の長男として江戸に生まれる。父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。
 絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』(掛軸 絹本著色、兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(掛軸 絹本著色、姫路市立城郭研究室蔵)等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。
 天明元年には将軍の名代として光格天皇の即位式に参賀している。一方で藩政は、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革に当たらせようとした。だが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、保守派からの猛反発もあって、道臣は失脚、改革は頓挫した。家督は長男の忠道が継いだ。
 筆まめで、趣味、日々の出来事・天候を『玄武日記』(22歳の正月から)『逾好日記』(33歳の正月から)に書き遺している。忠以の大成した茶懐石は『逾好日記』を基に2000年9月に、和食研究家の道場六三郎が「逾好懐石」という形で再現している。
(年譜)
1755年(宝暦5年) - 生まれ
1766年(明和3年) - 名を忠以と改名
1772年(安永元年)- 酒井家相続(8月27日)
1781年 (天明元年)- 光格天皇即位式のため上洛
1785年(天明5年) - 溜間詰
1790年(寛政2年) - 死去(7月17日)、享年36 ≫ (「ウィキペディア」)

 この「姫路神社」の「酒井宗雅公像」に彫られている「松風伝古今」こそ、「酒井宗雅(茶号)」その人の一面を、見事にとらえている。

≪ 松風(しょうふう)、古今(ここん)に伝える
 松がなびいている風の音は、今も昔も変わらないように、大切な教えはいつも心に響くのです。今も、弟子入りした時も、師が茶を志した時も、利休が秀吉に茶を点てた時も、茶室の松風は変わっていないのです。

https://www.instagram.com/p/CH6RbnYggjQ/

「松がなびいている風の音」=松籟(しょうらい)
「茶室の松風」=釜の湯の煮え立つ音             ≫

https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/187d966e1297be5a1320476b422458be

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」と「酒井忠因=ただなお(抱一)」

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」
○若くして幕府の重責(将軍名代・溜詰)を担うー将軍補佐役として 重要な地位ー
・第10代将軍 家治の日光東照宮社参に跡乗を務める 安永5年(1776) 22歳
・将軍家治の名代として、光格天皇即位式に参賀   安永10年)1781) 27歳
・将軍家治より 「溜詰」を命じられる        天明5年(1785) 31歳
・将軍家斉の名代として 日光東照宮社参       天明7年(1787) 33歳
○松江藩主 松平不昧(治郷)との交流 -茶人酒井宗雅ー
・酒井雅楽頭は 代々大名茶道・石州流
・松江藩主 松平治郷と姫路藩主 酒井忠以が 日光諸社堂修復の助役を命じられる
・松平不昧に師事し 茶道を伝授される。「弌得庵」の号を受ける
・酒井家江戸上屋敷に 茶室「逾好庵」(ゆこうあん)を設ける。
○風流大名として 様々な分野で 才能を発揮
・絵画:素人の余技に留まらぬ画才(「富士山図」、「兎図」、「山水図」など)
・俳諧:「銀鵞」(ぎんが)と号し、旅中、日常の出来事、四季折々を多くの句稿に残す。
・和歌:初就封の途に詠んだ「大比叡や小比叡の山に立つ雲は志賀辛崎の雨となるらん」
○「玄武日記」62冊の編纂
・忠以(宗雅)の公用日記(安永5年(1776)正月~寛政2年(1790)6月)

「酒井忠因=ただなお(抱一)」
○兄(忠以)の庇護のもと恵まれた青年期を過ごす
-若くして「吉原」に通い、奔放な生活を謳歌、江戸の市井文化に参加ー
・17歳のころから 馬場存儀(ぞんぎ)に入門し 俳諧を始める
・「尻焼猿人」の狂号で 狂歌を数多く発表
・20代は 浮世絵美人画を中心に描く(歌川豊春に倣う肉筆浮世絵)
○出家-武士の身分を捨てるー (寛政9年(1797) 37歳)
・西本願寺第18世 文如上人の弟子になり、得度。
「権大僧都等覚院文栓暉真」の法名を名乗る
(出家の前年、姫路藩主 酒井忠道が 弟忠実を養子にと幕府に願い出)
○江戸・新吉原の遊女を落籍。 大塚村へ転居(文化6年(1809) 49歳)
・新吉原・大文字楼の遊女香川を落籍
・内妻とするとともに、下谷金杉 大塚村へ転居
(後に、「雨華(うげ)庵」の扁額(姫路藩主 酒井忠実直筆)を掲げる(文化14年))
○尾形光琳に私淑 -琳派の美術に傾倒ー
・江戸で尾形光琳100回忌法要と光琳遺墨展を開催(文化12年(1815) 55歳)
・『光琳百図』を刊行。文化年間の60歳前後から、より洗練された花鳥図、四季の移ろい、自然の風趣を描く。-後に「江戸琳派」と言われるー 

「二人の師」(「松平不味」と「柳澤米翁」)

「松平不味(ふまい)」(「松平治郷(はるさと)」)(「ウィキペディア」)
 松平治郷(まつだいら はるさと)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩10代藩主。官位は従四位下・侍従、出羽守、左近衛権少将。雲州松平家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。その収集した道具の目録帳は「雲州蔵帳」とよばれる。
生誕 寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]
死没 文政元年4月24日(1818年5月28日)
改名 鶴太郎(幼名)、治郷、不昧(法号)
戒名 大円庵不昧宗納大居士
墓所 東京都文京区大塚の護国寺、京都府京都市北区紫野の大徳寺塔頭孤篷庵、島根県松江市外中原町の月照寺
官位 従四位下侍従、佐渡守、出羽守、左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治、家斉
藩 出雲松江藩主
氏族 雲州松平家
父母 松平宗衍、歌木
兄弟 治郷、衍親、蒔田定静、五百、幾百ら
妻 伊達宗村九女方子、武井氏
子 斉恒、男子、富、幾千、岡田善功

松平不眛像.jpg

松平不眛像(松江観光パンフレットより)

「柳澤米翁(ぺいおう)」(「柳沢信鴻(のぶとき)」) (「ウィキペディア」)
柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。
生誕 享保9年10月29日(1724年12月14日)
死没 寛政4年3月3日(1792年4月23日)
別名 久菊、義稠、信卿、伊信
諡号 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、紫子庵、伯鸞
戒名 即仏心院無誉祐阿香山大居士
墓所 東京都新宿区 正覚山月桂寺
幕府 江戸幕府
藩 郡山藩主
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢吉里、母:森氏
兄弟 信睦、時英、信鴻、信昌、伊奈忠敬、坪内定規
妻 正室:伊達村年の娘
継室:真田信弘の娘
子 保光、信復(次男)、武田信明、六角広寿(四男)、里之、娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)

六義園.jpg

水木家旧蔵六義園図 柳沢文庫所蔵『六義園 Rikugien Gardens』より
https://fujimizaka.wordpress.com/2014/05/25/hanamidera4/

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-19

歌麿・抱一.jpg

「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十)「建部巣兆」(その周辺)

建部巣兆像.jpg

鯉隠筆「建部巣兆像・(東京国立博物館蔵)」(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-16

(再掲)
 建部巣兆は、加舎白雄に俳諧を学び、その八大弟子の一人とされ、夏目成美・鈴木道彦と共に江戸の三大家に数えられ、俳人としては、名実共に、抱一を上回るとして差し支えなかろう。
 抱一は、姫路城十五万石の上流武家の生まれ、巣兆の父は、書家として知られている山本龍斎(山本家江戸本石町の名主)、その生まれた環境は違うが、その生家や俗世間から身を退き(隠者)、共に、傑出した「画・俳」両道の「艶(優艶)」の世界に生きた「艶(さや)隠者」という面では、その生き方は、驚くほど共通するものがある。
 鵬斎は、上記の巣兆句集『曽波可理』の「叙」の中で、巣兆を「厭世之煩囂」(世の煩囂(はんきょう)を厭ひて)「隠干関屋之里」(関谷の里に隠る)と叙している。抱一は、三十七際の若さで「非僧非俗」の本願寺僧の身分を取得し、以後、「艶隠者」としての生涯を全うする。
 この同じ年齢の、共に、この艶隠者としての、この二人は、上記の抱一の「序」のとおり、その俳諧の世界にあって、共に、「花晨月夕に句作して我(抱一)に問ふ。我も又句作して彼(巣兆)に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ」と、相互に肝胆相照らし、そして、相互に切磋琢磨する、真の同朋の世界を手に入れたのであろう。
 これは、相互の絵画の世界においても、巣兆が江戸の「蕪村」を標榜すれば、抱一は江戸の「光琳」を標榜することとなる。巣兆は谷文晁に画技を学び、文晁系画人の一人ともされているが、そんな狭い世界のものではない。また、抱一は、光琳・乾山へ思慕が厚く、「江戸琳派」の創始者という面で見られがちであるが、それは、上方の「蕪村・応挙」などの多方面の世界を摂取して、いわば、独自の世界を樹立したと解しても差し支えなかろう。
 ここで、特記して置きたいことは、享和二年(一八〇二)に、上方の中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』(加藤千蔭「序」、川上不白「跋」)を出版出来た背後には、上方の木村蒹葭堂を始めとする俳諧グループと巣兆を始めとする江戸の俳諧グループとの、そのネットワークの結実に因るところが多かったであろうということである。

曽波可理一.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「鵬斎・叙」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665.html

曽波可理二.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序一」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0004.jpg

曽波可理三.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序二」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0005.jpg

 『江戸文芸之部第27巻日本名著全集俳文俳句集』所収「曽波可理(そばかり)」から、上記の抱一の「巣兆句集序」の翻刻文を掲載して置きたい。

【 巣兆句集序
秋香庵巣兆は、もと俳諧のともたり。花晨月夕に句作して我に問ふ。我も又句作して彼に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ。其草稿五車に及ぶ。兆身まかりて後、国村師を重ずるの志厚し。一冊の草紙となし梓にのぼす。其はし書きせよと言ふ。いなむべきにあらず。頓(とみ)に筆を採て、只兆に譏(そし)られざる事をなげくのみなり
文化丁丑五日上澣日        抱一道人屠龍記 (文詮印)   】

 上記の「巣兆発句集 自撰全集」の冒頭の句も掲載して置きたい。

【 巣兆発句集 自撰全集
   歳旦
 大あたま御慶と来けり初日影
  俊成卿
   玉箒はつ子の松にとりそへて
      君をそ祝う賤か小家まで
 けふとてぞ猫のひたひに玉はゝき
 竈獅子が頤(あご)ではらひぬ門の松
此句「一茶発句集」に見えたり       】

【 我庵はよし原霞む師走哉 (巣兆『曽波加里』)

 巣兆没後に刊行された巣兆句集『曽波加里』の最後を飾る一句である。この句は、「よし原」の「よし」が、「良し」「葦(よし)・原」「吉(よし)・原」の掛詞となっている。句意は、「我が関屋の里の秋香園は良いところで、隅田川の葦原が続き、その先は吉原で、今日は、霞が掛かっているようにぼんやりと見える。もう一年を締めくくる師走なのだ」というようなことであろう。
 そして、さらに付け加えるならば、「その吉原の先は、根岸の里で、そこには、雨華庵(抱一・蠣潭・其一)、義兄の鵬斎宅、そして、写山楼(文晁・文一)と、懐かしい面々が薄ぼんやりと脳裏を駆け巡る」などを加えても良かろう。
 これは、巣兆の最晩年の作であろう。この巣兆句集『曽波加里』の前半(春・夏)の部は巣兆の自撰であるが、その中途で巣兆は没し、後半(秋・冬)の部は巣兆高弟の加茂国村が撰し、そして、国村が出版したのである。
 巣兆俳諧の後継者・国村が師の巣兆句集『曽波加里』の、その軸句に、この句を据えたということは、巣兆の絶句に近いものという意識があったように思われる。巣兆は、文化十一年(一八一四)十一月十四日、その五十四年の生涯を閉じた。

(追記)『徳萬歳(巣兆著)』・『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』の挿絵「徳萬歳」(中村芳中画)

「徳萬歳(中村芳中画)」.gif

『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』中「徳萬歳(中村芳中画)」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06709/he05_06709.html

一 『徳萬歳(巣兆著)』と『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』とは、書名は異なるが、内容は全く同じものである。上記のアドレスの書名の『俳諧万花』は「旧蔵者(阿部氏)による墨書」で為されたものである。

二 『徳萬歳(巣兆著)』は、『日本俳書大系(第13巻)』に収載されているが、その解題でも、この『品さだめ』との関連などは触れられていない。

三 燕市(燕士・えんし)は、「享保六年(一七二一)~寛政八年(一七九六)、七十六歳。
石井氏。俗称、塩屋平右衛門。別号に、燕士、二月庵。豊後国竹田村の商人。美濃派五竹坊・以哉(いさい)坊門。編著『みくま川』『雪の跡』」とある(『俳文学大辞典』)。  】

建部巣兆画「盆踊り図」一.jpg

建部巣兆画「盆踊り図」(絹本着色/下記の「蛍狩り図」と対/足立区立郷土博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/230488

建部巣兆画「盆踊り図」二.jpg

建部巣兆画「蛍狩り図」(絹本着色/上記の「盆狩り図」と対/足立区立郷土博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/285719

千住の文人 建部巣兆.jpg

「千住の文人 建部巣兆 / TAKEBE Socho」
https://speakerdeck.com/adachicitymuseum/takebe-socho?slide=4

千住の文人 建部巣兆二.jpg

千住の文人 建部巣兆 / TAKEBE Socho
https://speakerdeck.com/adachicitymuseum/takebe-socho?slide=8

「建部巣兆の俳句」

http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/souchou-ku.html

霜の聲閑屋の槌をうらみ哉   『潮来集』(一艸編) 
かへるさに松風きゝぬ花の山  『衣更着集』(倉田葛三編)
関の戸にほのほの見ゆる糸瓜かな『春秋稿』(第六編)(倉田葛三編)
我宿ハさくら紅葉のひと木哉  『春秋稿』(第六編)(倉田葛三編)
しはしとて袴おしぬくこたつ哉 『はなのつと』(鹿古編)
芹生にてせり田持ちたし春の雨 『春秋稿』(編次外)(倉田葛三編) 
あたら菊をつますは花に笑れん 『春秋稿』(編次外)(倉田葛三編)
晨明の月より春ハまたれけり  『黒祢宜』(常世田長翠編)
芹生にて芹田もちたし春の雨  『波羅都々美』(五明編)
夏の菊皆露かげに咲にけり   『ななしどり』(可都里編)
ひたひたと田にはしりこむ清水かな『つきよほとけ』(可都里編)
いくとせも花に風ふく桜かな  『風やらい』
鶯の屋根から下る畠哉     『享和句帖』(享和3年5月)
柞原薪こるなり秋の暮     『鶴芝』(士朗・道彦編)
帆かけ舟朝から見えてはなの山 『鶴芝』(士朗・道彦編)
とくとくの水より青き若葉哉  『むぐらのおく』
いくとせも花に風吹櫻かな   『寢覺の雉子』(遠藤雉啄編)
さお姫の野道にたてる小はたかな『有磯蓑』
馬かりて伊香保へゆかんあやめかな 『頓写のあと』(倉田葛三編)
煤竹もたわめば雪の雀かな   『続雪まろげ』(藤森素檗編)
みかさと申宮城野に遊て    『おくの海集』(巣居編)
木の下やいかさまこゝは蝉ところ『おくの海集』(巣居編)
高ミから見ればはたらく案山子哉『曽良句碑建立句集』(藤森素檗編)
稲かけし老木の数や帰花    『萍日記』(多賀庵玄蛙編)
花桶もいたゝきなれし清水哉  『苔むしろ』
あし鴨の寝るより外はなかるべし『繋橋』
大竹に珠数ひつかけし時雨かな 『しぐれ会』(文化5年刊)
啼け聞ふ木曽の檜笠で時鳥   『玉の春』(巣兆編)
湯車の米にもなれて今朝の秋  『古今綾嚢』(黒岩鷺白編)
冬枯のなつかしき名や蓮台野  『しぐれ会』(文化6年刊)
時雨るゝや火鉢の灰も山の形り 『遠ほととぎす』(五柏園丈水編)
涼むなりかねつき坊が青むしろ 『菫草』(一茶編)
爺婆ゝの有がたくなる木葉哉  『物の名』(武曰編)
こそこそと夜舟にほどく粽かな 『続草枕』
はせを忌や笑ひあふたる破れ傘 『しぐれ会』(文化7年刊)
曲りこむ藪の綾瀬や行螢    『物見塚記』(一瓢編)
古郷やとうふ屋出来て春雨   『随斎筆記』(夏目成美編)
時鳥まだ見に来ずや角田川   『随斎筆記』(夏目成美編)
舟曳や五人見事に梅を嗅    『俳諧道中双六』(閑斎編)
遠くから見てもおかれぬ桜かな 『名なし草紙』(苅部竹里編)
二年子の大根の原やなく雲雀  『名なし草紙』(苅部竹里編)
はつ河豚や無尽取たるもどり足 『なにぶくろ』
ほし葉(ママ)釣壁をたゝけはかさかさと『栞集』(成蹊編)
手拭で狐つらふ(う)ぞ花の山 『株番』(一茶編)
蓮の根の穴から寒し彼岸過   『信濃札』(素檗編)
うそ鳴や花の霞の山中に    『木槿集』(一茶編)
梵論の行ふもとしづかに落葉哉 『世美冢』(白老編)
名月や小嶋の海人の菜つミ舟  『青かげ』(石井雨考編)
谷へはく箒の先やほとゝぎす  『三韓人』(一茶編)
見し人の鍋かいて居る清水哉  『的申集』(洞々撰)
御寝ならば裾になりなん嶺の月 『さらしな記行』(小蓑庵碓嶺編)
訪るゝも訪ふも狭筵月一夜   『さらしな記行』(小蓑庵碓嶺編)
朝露や鶴のふみこむ藤ばかま  『小夜の月』(渭虹編)
春は猶曙に来る片鶉      『阿夫利雲』(淇渓編)
菜の花や染て見たひは不二の山 『雪のかつら』(里丸編)
萩咲て夫婦のこことかくれけり 『しをに集』(亀丸編)
芦鴨の寝るより外はなかるへし 『わすれす山』(きよ女編)
時鳥まだ見に来ずやすみだ川  『墨多川集』(一茶編)
酒のみをみしるや雪の都鳥   『墨多川集』(一茶編)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その九)「谷文晁」(その周辺)

谷文晁肖像.jpg

「谷文晁肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024606

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

 「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎」は文政九年(一八二六)に没、そして、「抱一」も文政十一年(一八二九)に没と、上記の作品を仕上げた天保元年(一八三〇)、六十八歳の文晁は、その前年に御絵師の待遇を得て剃髪し、江戸画壇というよりも、全国を席捲する日本画壇の第一人者に祀り上げられていた。

 その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 その画域は、「山水画、花鳥画、人物画、仏画」と幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風(南北合体の画風)を目途としていた。
 ここで、しからば、谷文晁の傑作画となると、「公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館」位しか浮かんで来ない。
 しかし、これは、いわゆる、「真景図・写生画・スケッチ画」の類いのもので、「松平定信の海岸防備の視察の、その巡視に従って写生を担当し、その八十箇所を浄写した」に過ぎない。その「公余探勝」というのは、文晁が考えたものではなく、松平定信の、「蛮図は現にくはし。天文地理又は兵器あるいは内外科の治療、ことに益少なからず」(『字下人言』)の、この貞信の「洋画実用主義理論」ともいうべきものを、方法として用いたということ以外の何物でもない。
 そして、寛政八年(一七九六)に、これまた、定信に『集古十種』の編纂を命ぜられ、京都諸社寺を中心にして古美術の調査することになり、ここで、上記の「八宗兼学」という「南北合体の画風」と結びついて来ることになる(『日本の美術№257 谷文晁(河野元昭和著)。
 この寛政八年(一七九六)、文晁、三十四歳の時の、上記の門弟の一人、喜田武清を連れての関西巡遊は、大きな収穫があった。この時に、文晁は、京都で、呉春、大阪で、木村蒹葭堂などとの出会いがある(文晁筆の著名な「木村蒹葭堂肖像」は補記一のとおり)。

太田南畝肖像.jpg

「太田南畝肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://image.tnm.jp/image/1024/C0024608.jpg

円山応挙肖像.jpg

「円山応挙肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024597

呉春挙肖像.jpg

「呉春肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://image.tnm.jp/image/1024/C0024598.jpg

文晁・蕪村模写.jpg

谷文晁筆「与謝蕪村肖像」(呉春筆「蕪村を模写した作品。画面上部に文晁が門生に示した八ケ条の画論が一緒に表装されている」=『日本の美術№257 谷文晁(p23)』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

蕪村肖像・月渓写.jpg

 この「於夜半亭 月渓拝写」と落款のある「蕪村肖像」が、何時描かれたのかは、「呉春略年表」(『呉春 財団逸翁美術館』)には記載されていない。
 しかし、『蕪村全集一 発句(校注者 尾形仂・森田蘭)』の、冒頭の口絵(写真)を飾ったもので、その口絵(写真)には、「蕪村像 月渓筆」の写真の上部に「蕪村自筆詠草(同右上上部貼り交ぜ)」として、次のとおりの「蕪村自筆詠草」のものが、紹介されている。

  兼題かへり花

 こゝろなき花屋か桶に帰花
 ひとつ枝に飛花落葉やかえり花
        右 蕪村

 この「兼題かへり花」の、蕪村の二句は、天明三年(一七八三)十月十日の「月並句会」でのものというははっきりとしている。そして、この年の、十二月二十五日に、蕪村は、その六十八年の生涯を閉じたのである。
 その蕪村が亡くなる時に、蕪村の臨終吟を書きとったのも、当時、池田に在住していた呉春(月渓)が、蕪村の枕頭に馳せ参じて看病し、そして、その臨終吟(「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけ」)を書きとったのである。

抱一上人像.jpg
鈴木其一筆「抱一上人像」 一幅 絹本着色 八九・五×三一・六cm 個人蔵

鈴木其一筆「抱一上人像」 一幅 絹本着色 八九・五×三一・六cm 個人蔵
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30
「抱一は文政十一年(一八二八)十一月二十九日に亡くなった。その尊像は、翌年四月に鶯蒲が二幅を描いたことや、孤邨も手掛けていたこと(『抱一上人真蹟鏡』所収)が知られている。また抱一の孫弟子野崎真一による肖像画もある。円窓の中に師の面影を描く。鶯蒲作は面長で痩せたイメージに描かれるが、其一本は全体に丸味を帯びた容姿である。其一はこの時期「亀田鵬斎像」(個人蔵)などを手掛けおり、肖像画には強いこだわりをもっていたことと思われる。「噲々其一謹写」と書かれた署名からも、師への崇敬の念が伝わってくる。角ばった頭の形や衣服の描写は、抱一の「其角像」(個人蔵)に通じるものがあり、あるいは抱一が敬愛した其角のイメージも重ねられているのかも知れない。」
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

鵬斎像.jpg

亀田鵬斎像」(鈴木其一筆か?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30

抱一上人像(?).jpg

谷文晁筆(?)・谷文一筆(?)「抱一上人像(?)」(中央の僧体の人物、抱一の向かって左の人物=太田南畝?、右の人物=亀田鵬斎?、そして、「文一筆?」なら、鵬斎の右の人物(ここには、省略されている)=文晁?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30

補記一 亀田鵬斎について

http://sawarabi.a.la9.jp/040725isasaramai/kamedabousai.htm

補記二 酒合戦 →  ミュージアム巡り 江戸のレシピ 街談文々集要

http://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2011/e/d8038e593ad23653fc66cc14623c4b37

補記三 酒合戦 → 千住宿

http://www.wikiwand.com/ja/千住宿

(抜粋)
千住酒合戦
 千住酒合戦とは、文化12年(1815年)10月21日、千住宿の飛脚問屋の中屋六衛門の六十の祝いとして催された。現在の千住一丁目にあった飛脚宿であり、会場を中屋とした。 審査員として、下谷の三福対である江戸琳派の祖の酒井抱一、絵師の谷文晁、儒学者・書家の亀田鵬斎の他、絵師谷文一、戯作者の太田南畝など、著名人が招かれた。酒合戦の時には、看板に「不許悪客下戸理窟入菴門」と掲げられた。この酒合戦は競飲会であり、厳島杯(5合)、鎌倉杯(7合)、江島杯(1升)、万寿無量杯(1升5合)、緑毛亀杯(2升5合)、丹頂鶴杯(3升)などの大杯を用いた。亀田鵬斎の序文(『高陽闘飲序』)によれば、参加者は100余名、左右に分かれた二人が相対するように呑み比べが行われた、1人ずつ左右から出て杯をあけ、記録係がこれを記録した。
 千住酒合戦に関する記録は多数あり、『高陽闘飲図巻』:『高陽闘飲序』亀田鵬斎、『後水鳥記』 谷文一・大田南畝、『擁書漫筆』三 小山田与清(高田與清)、『酒合戦番付』、『千住酒合戦』(木版)、そして『街談文々集要』(万延元年(1860年)序)石塚重兵衛(号:豊芥子)などがある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-19

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-17

日本名山図会. 天,地,人.jpg

「日本名山図会. 天,地,人 / 谷文晁 画」中の「日本名山図会・人」p10「浅間山」≪早稲田大学図書館 (Waseda University Library)≫
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0235/bunko30_e0235_0001/bunko30_e0235_0001.html

≪ 谷文晁(1763―1840)
 江戸後期の南画家。名は正安。通称は文五郎。字(あざな)、号ともに文晁といい、別に写山楼(しゃざんろう)、画学斎(ががくさい)などと号した。田安家の家臣で詩人としても著名な麓谷(ろっこく)を父として江戸に生まれた。画(え)は初め狩野(かのう)派の加藤文麗(ぶんれい)に、ついで長崎派の渡辺玄対(げんたい)に学び、鈴木芙蓉(ふよう)にも就いた。
 大坂で釧雲泉(くしろうんせん)より南画の法を教授され、さらに北宗画に洋風画を加味した北山寒巌(きたやまかんがん)や円山(まるやま)派の渡辺南岳(なんがく)の影響も受けるなど、卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも『山水図』(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に『彦山(ひこさん)真景図』や『鴻台(こうのだい)真景図』などの真景図や『名山図譜』を制作、『木村蒹葭堂(けんかどう)像』のような異色の肖像画も残している。
 1788年(天明8)画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信(さだのぶ)に認められてその近習(きんじゅ)となり、定信の伊豆・相模(さがみ)の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂(へんさん)にも従って挿図を描いている。弟の島田元旦(げんたん)も画をもって鳥取藩に仕え、妻の幹々(かんかん)や妹秋香(しゅうこう)も画家として知られている。
 門人も渡辺崋山(かざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)、高久靄崖(たかくあいがい)らの俊才に恵まれ、当時の江戸画壇の大御所として君臨した。文晁を中心とする画派は関西以西の南画とは画風を異にし、通常、関東南画として区別されている。著書に『文晁画談』『本朝画纂(ほんちょうがさん)』などがある。[星野鈴稿](出典「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その八)「亀田鵬斎」(その周辺)

鵬斎像.jpg

谷文晁筆・亀田鵬斎賛「亀田鵬斎像」(北村探僊宿模)個人蔵 文化九年(一八一二)作
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-20

 この「亀田鵬斎像」は、文化九年(一八一二)四月六日、鵬斎還暦の賀宴が開かれ、越後北蒲原郡十二村の門人曽我左京次がかねてから師の像を文晁に依頼して出来たものであるという。そして、その文晁画に、鵬斎は自ら自分自身についての賛を施したのである。
 その賛文と訳文とを、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』から抜粋して置きたい。

 這老子  其頸則倭 其服則倭  この老人  頭は日本  服も日本だ
 爾為何人 爾為誰氏 仔細看来  どんな人で 誰かと見れば 鵬斎だ
 鵬斎便是 非商非工 非農非士  商でなく 工でなく 農でなく 士でもない
 非道非佛 儒非儒類       道者でなく 仏者でなく 儒類でもない
 一生飲酒 終身不仕       一生酒を飲んで過ごし 仕官もしない
 癡耶點耶 自視迂矣       ばかか わるか 気の利かぬ薄のろさ
  壬申歳四月六十一弧辰月題
   関東亀田興 麹部尚書印

鵬斎像・文晁筆.jpg

「亀田鵬斎像」谷文晁画 北村探僊縮模(「ウィキペディア」=上記図の部分拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

 この「鵬斎」像と、冒頭に掲げた「食卓を囲む文人たち」(次図)の中央に位置する「鵬斎」像とを交互に見て行くと、江戸後期の、当時の並み居る「文人・墨客」の中で、まさに、鵬斎というのは、常に中央に居した、その人物像が彷彿として来る。
 ちなみに、冒頭の「食卓を囲む文人たち」の、右端の大田南畝(蜀山人・四方赤良)は、左端の、大窪詩仏(詩聖堂・既酔亭)について、「詩は詩仏(大窪詩仏)、書は米庵(市川米庵)に狂歌俺(大田南畝)、芸者小万(山谷堀の花形芸者)に料理八百善(山谷堀の名店)」という狂歌を残している。
 この狂歌は、料亭・八百善で、当時の山谷堀の花形芸者であった小万に、その三味線の胴裏に、この狂歌の賛を書いたとも言われている。
 そして、もう一人の、鵬斎の前面に座っている、抱一と間違われている坊主頭の鍬形蕙斎は、一介の浮世絵師から異例の抜擢で美作津山藩の御用絵師となった画人で、山東京伝(北尾政演)とは、同門(北尾重正門)、同年齢(宝暦十一年=一七六一)の間柄である。

料理通.jpg

『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

 上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 (中略)
 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-06

写山楼.jpg

「江戸・足立 谷家関係地図」(谷文晁関係・部分抜粋図)
https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9

 上記は、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」のものであるが、ここに、「下谷三幅対」と言われた、「酒井抱一(宅)」(雨華庵)と「谷文晁(宅)」(写山楼)と「亀田鵬斎(宅)」の、それぞれの住居の位置関係が明瞭になって来る。
 その他に、「鵬斎・抱一・文晁」と密接な関係にある「大田南畝」や「市河米庵」などとの、それぞれの住居の位置関係も明瞭になって来る。その記事の中に、「文晁の画塾・写山楼と酒井抱一邸は、3キロくらい。お隣は、亀田鵬斎(渥美国泰著『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』には、現在の台東区根岸3丁目13付近)」とある。
 この「酒井抱一宅・亀田鵬斎宅」は、旧「金杉村」で、正岡子規の「根岸庵」は、旧「谷中村」であるが、この地図の一角に表示することが出来るのかも知れない。また、当時の江戸化政期文化のメッカである「新吉原」も表示することが出来るのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-09

高陽闘飲図二.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0014.jp

 この「高陽闘飲図巻」中の、桟敷席で酒合戦を観覧しているのは、右から、「文晁・鵬斎・抱一」の下谷の三幅対(三人組)の面々であろう。そして、鵬斎と抱一との間の人物は、大田南畝、抱一の後ろ側の女性と話をしている人物は、文晁の嗣子・谷文一なのかも知れない。
 そして、この抱一像は、法衣をまとった「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせんきしん)・抱一上人」の風姿で、鵬斎も文晁も、共に、羽織り・袴の正装であるが、この酒合戦の桟敷の主賓席では一際異彩を放ったことであろう(その上に、抱一は「下戸」で酒は飲めないのである)。
 この時の、抱一像について、別種の「文晁(又は文一)作」とされているものを、下記のアドレスで紹介している(しかし、当日の写生図は、この図巻の「文晁・文一合作」のものが基本で、それを模写しての数種の模本のものなのかも知れない)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 ここで、文化十二年(一八一五)の、この海外にまで名を馳せている(ニューヨーク公共図書館スペンサーコレクション蔵本)、この「千住酒合戦」(「高陽闘飲」イベント)は、
「酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせ、酒に変えたという」(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」・ウィキペディア)の、「千住連」の俳諧宗匠・「秋香庵巣兆」(建部巣兆)の、その一周忌などに関連するイベントのような、そんな思いもして来る。
 さらに、続けて、この「高陽闘飲図巻」の、次の「太平餘化」の「題字」は、谷文晁の書のようである。

高陽闘飲図三.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0002.jp

 この文晁書の「太平餘化」が何を意味するのかは不明であるが、建部巣兆の義兄の、そして「下谷三幅対(鵬斎・抱一・文晁)」の長兄たる亀田鵬斎の雅号の一つの「太平酔民」などが背景にあるもののように思われる。

高陽闘飲図四.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0003.jp

 これは、文晁の題字「太平餘化」の後に続く、鵬斎の「高陽闘飲序」(序文)である。ここには、巣兆に関する記述は見当たらない。「千寿(住)駅中六亭主人(注・「中六」こと飛脚問屋「中屋」の隠居・六右衛門)」の「還暦を祝う酒の飲み比べの遊宴」ということが紹介されている。
 この「高陽闘飲」の「高陽」は『史記』に出典があって、「われは高陽の酒徒、儒者にあらず」に因るものらしく、「千住宿の酒徒」のような意味なのであろうが、この「序」を書いた鵬斎自身を述べている感じでなくもない。
 この鵬斎の「序」に、前述の抱一の会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の図があって、次に、南畝の「後水鳥記」が続く。
 この「後水鳥記」の「水鳥」は、「酒」(サンズイ=水+鳥=酉)の洒落で、この「後」は、延喜年間や慶安年間の「酒合戦記」があり、それらの「後水鳥記」という意味のようである。
 そして、この南畝の「後水鳥記」と併せ、「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)が描かれている。
 この「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)の後に、大窪詩仏の「題酒戦図」の詩(漢詩)、狩野素川筆の「大盃(十一器)」、そして、最後に、市河寛斎の「跋」(漢文)が、この図巻を締め括っている。
 この図巻に出てくる「抱一・鵬斎・文晁・文一・南畝・詩仏・素川・寛斎」と、さながら、江戸化政期のスーパータレントが、当時の幕藩体制の封建社会の身分制度(男女別・士農工商別)に挑戦するように、この一大イベントに参加し、その「高陽闘飲図巻」を合作しているのは何とも興味がつきないものがある(これらに関して、下記アドレスのものを再掲して置きたい)。
 なお、この「高陽闘飲図巻」については、全文翻刻はしていないが、『亀田鵬斎(杉村英治著・三樹書房)』が詳しい。

(追記)「後水鳥記」(大田南畝記)

http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html#chap03

 後水鳥記
  文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
不許悪客〔下戸理窟〕入庵門 南山道人書
としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、なほ丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
               六十七翁蜀山人
               緇林楼上にしるす

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-10

(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」関連メモ

【酒井抱一の『軽挙館句藻』の文化十三年のところに、  
正月九日節分に市川団十郎来たりければ、扇取り出し発句を乞ふに、「今こゝに団十郎や鬼は外」といふ其角の句の懸物所持したる事を前書して、
  私ではござりませんそ鬼は外   七代目三升
折ふし亀田鵬斎先生来りその扇に
  追儺の翌に団十郎来りければ
  七代目なを鬼は外団十郎     鵬斎
谷文晁又その席に有て、其扇子に福牡丹を描く、又予に一句を乞ふ
  御江戸に名高き団十郎有り
  儒者に又団十郎有り
  畫に又団十郎有り
  その尻尾にすがりて
 咲たりな三幅対や江戸の花     抱一    】
(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-23

【「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図」 
 十二ヶ月花鳥図の中でも最晩年の作。三図はもと同じ十二ヶ月花鳥図屏風を成していた。他に同屏風より「牡丹に蝶図」(フリア美術館蔵)「柿に目白図」(ファインバーグコレクション)が知られる。掛軸に改装する際、画面の一部を裁ち落としている図もあり、本来はもう少し大きい画面であったようだ。
 これらには抱一の親友の亀田鵬斎の子、綾瀬(りょうらん)(一七七八~一八五三)が七言絶句の賛を寄せる。綾は抱一より十七歳年下だが、文政九(一八二六)年に鵬斎は亡くなるので、その前後に抱一が綾瀬と親密に関わった可能性は高いと思われる。
 このセットは細い枝や茎を対角線状に配し、画面の上から下にゆったりとモチーフが下降する構図を特徴とする。最後の数年の抱一作品には花鳥画が少ないが、ここでは余白の中で鳥が要のような役割を果たし、抱一花鳥画の到達点を示している。
 「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図(賛)」
      西風吹冷至漁家片雪
      飛来泊水涯独立斜陽
      如有待擬邀名月伴戸
      花    綾瀬老漁               】 
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

芦に白鷺三.jpg

酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 「枯芦に白鷺図」 一幅 山種美術館蔵
一四二・〇×五〇・二cm
【 もと図一六四(桜に小禽図)、図一六五(菊に小禽図)と同じく十二ヶ月花鳥図のセットの内の一図で、十一月の図とみられる。枯芦に鷺図は室町以来の水墨画でよく描かれ、江戸狩野や京琳派にも作例は多い。『光琳百図』前編の下には、「紙本六枚折屏風墨画鷺之図」としてさまざまな姿の白鷺図が紹介されており、抱一はそうした先行図様を組み合わせたのだろう。さらに雪の降りかかる枯芦を大きく斜めに配して季節感の表出に工夫を加えた。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その七)「太田南畝・四方赤良・蜀山人」(その周辺)

四方赤良.jpg

『古今狂歌袋(後編)』所収「四方赤良」(北尾政演(山東京伝)画/宿屋飯盛(石川雅望)撰/天明七年(1787年)/跡見学園女子大学図書館所蔵/百人一首コレクション)
http://ezoushi.g2.xrea.com/kokonkyoukafukuro2.html
「絵双紙屋」
http://ezoushi.g2.xrea.com/index.html
≪かくばかり目出度く見ゆる世の中を/うらやましくやのぞく月影
 (歌意)このように目出度く見える世の中を、月までが羨ましがってのぞいているじゃないか。(目出度いって。そんなことあるわけないじゃないか。)(一見現実肯定論だが逆説的比喩で世を皮肉る。)
〇本歌
かくばかり経(へ)がたく見ゆる世の中に/うらやましくもすめる月かな/藤原高光・拾遺集
*上の歌のパロディ。≫

尻焼猿人.jpg

『古今狂歌袋(前編)』所収「尻焼猿人」(北尾政演(山東京伝)画/宿屋飯盛(石川雅望)撰/天明七年(1787年)/跡見学園女子大学図書館所蔵/百人一首コレクション)
http://ezoushi.g2.xrea.com/kokonkyoukafukuro.html
≪長月の夜も長文の封じ目を/開くればかよふ神無月なり
(歌意)長月(九月)の夜に長文の封じ目を開けたら読んでいるうちに、とうとう月が変わって神無月(十月)になってしまった。
*尻焼猿人は姫路城主の連枝なので長柄の透かしの唐団扇〔とううちわ〕ごしの肖像画。
*長月(ながつき) 陰暦九月の異称。
*神無月 (かんなづき)陰暦十月の異称。
*長月・長文・(神)無月・なり/「な」音のくり返し。
*封 開 対句。
*尻焼猿人 酒井抱一(ほういつ)/江戸後期の画家。抱一派の祖。名は忠因(ただなお)。鶯村・雨華庵と号した。姫路城主酒井忠以(たださね)の弟。西本願寺で出家し権大僧都となったが、江戸に隠棲。絵画・俳諧に秀で、特に尾形光琳に私淑してその画風に一層の洒脱さを加え一家の風をなした。(1761~1828) ≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-03

(再掲)

四方赤良.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「四方赤良(大田南畝)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)、牛込御徒組屋敷(新宿区中町三七番地)で生まれた。御徒組とは歩兵隊であり、江戸城内の要所や将軍の外出の警護を任とする下級武士の集団で、組屋敷にはその与力や同心が住んでいた。
 十五歳の頃、牛込加賀町の国学者内山賀邸に学んだ。この賀邸の門から、後に江戸狂歌三大家と呼ばれる、「大田南畝(おおたなんぼ)・唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽菅江(あっけらかんこう)」が輩出した。
 明和四年(一七六七)南畝一代の傑作、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行された。その「序」は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」として名高い「平賀源内」(画号・鳩渓=きゅうけい、俳号・李山=りざん、戯作者・風来山人=ふうらいさんじん、浄瑠璃作者・福内鬼外=ふくうちきがい、殖産事業家・天竺浪人=てんじくろうにん)が書いている。
 この狂詩集は当時の知識階級だった武士たちの共感を得て大ヒットする。時に、南畝は、弱冠十九歳にして、一躍、時代のスターダムにのし上がって来る。
 上記の『吾妻曲(あづまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画)は、天明六年(一七八六)に刊行された。南畝が三十七歳の頃で油の乗り切った意気盛んな時代である。その頃の南畝の風姿を、北尾政演(山東京伝)は見事に描いている。
 この「四方赤良」(南畝の狂歌号)の賛は次のとおりである。

  あな うなぎ いづくの 山のいもと背を さかれて後に 身をこがすとは

 この赤良(南畝)の狂歌は、なかなかの凝った一首である。「あな=穴+ああの感嘆詞」「うなぎ=山芋変じて鰻となる故事を踏まえる」「いも=芋+妹(恋人)」「せ=瀬+背」「わかれ=分かれ(割かれ)+別れ」「こがす=焦がす(焼かれる)+(恋焦がれる)」などの掛詞のオンパレードなのである。
 「鰻」の歌とすると、「穴の鰻よ、いずこの山の芋なのか、その瀬で捕まり、背を割かれ、身をば焼かれて、ああ蒲焼となる」というようなことであろうか。そして、「恋の歌」とすると、「ああ、白きうなじの吾が妹よ、いずこの山家の出か知らず、恋しき君との、その仲を、引き裂かれたる、ああ、この焦がれる思いをいかんせん」とでもなるのであろうか。
 事実、この当時、大田南畝(四方赤良)は、吉原の遊女(三穂崎)と、それこそ一生一大の大恋愛に陥っているのである。その「南畝の大恋愛」を、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』から、以下に抜粋をして置きたい。

【 狂歌といえば、その第一人者はやはり蜀山人こと大田南畝である。その狂歌の縁で、南畝は吉原の遊女を妾とした。松葉屋抱えの三穂崎である。天明期(一七八一~八九)に入って、狂歌が盛んとなり、吉原でも妓楼の主人らが吉原連なる一派をつくり、遊郭内でしばしば狂歌の会を催した。その会に南畝がよく招かれていたのである。吉原連の中心人物は、大江丸が想いをよせた遊女ひともとの主人、大文字屋の加保茶元成だった。南畝が三穂崎とはじめて会ったのは、天明五年(一七八五)の十一月十八日、松葉屋へ赴いた折であった。どうも南畝は一目惚れしたらしい。その日にさっそく狂歌を詠んでいる。
   香爐峰の雪のはたへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
 三穂崎の雪のように白い肌に、まず魅かれたのだろうか。年が明けて正月二日には、
   一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉や
と詠み、三穂崎を三保の松原の天女に見立てるほどの惚れようである。三穂崎と三保の松原と松葉屋、この掛詞がよほど気に入ったとみえ、
   きてかへるにしきはみほの松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳
とも詠んでいる。そしてその七月、南畝はついに三穂崎を身請けした。ときに南畝は三十八歳(三十七歳?)、三穂崎は二十余歳だという。妾としてからは、おしづと詠んだ。当時の手狭な自宅に同居させるわけにもいかず、しばらくの間、加保茶元成の別荘に住まわせていた。いまもよく上演される清元の名曲「北州」は、この元成ら吉原連の求めに応じて、南畝が作詞したと伝えられている。 】

尻焼猿人一.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「尻焼猿人(酒井抱一)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

【 大田南畝率いる四方(よも)側狂歌連の、あたかも紳士録のような肖像集。色摺の刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾(みす)越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の王とみゆらん」。】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「作品解説・内藤正人稿」)

【 抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響しているようなだ。だが、この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない。一七七七(安永六)年、兄の子でのちに藩主を継ぐ甥の忠道(ただひろ)が誕生したことで、数え年十七歳の抱一が酒井家から離脱を余儀なくされ、急激に軟派の芸文世界に接近していったことは確かである。だが、その後の彼の美術や文学の傾注の仕方は尋常ではない。その証拠に、たとえば後世に天明狂歌といわれる狂歌連の全盛時代に刊行された狂歌本には、若き日の抱一の肖像が収められ、並行して多くのフィクション、戯作小説のなかに彼の号や変名が少なからず登場する。さらにまた、喜多川歌麿が下絵を描いた、美しき多色刷りの狂歌集である『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明八年刊)にもその狂歌が入集するなど、「屠龍(とりゅう)」「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きかった。このうちの狂歌については、俳諧のそれほど高い文学的境地に達し切れなかったとはいえ、同時代資料における抱一の扱われ方は、二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置を教えてくれる。 】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて・内藤正人稿」)

 御簾ほどに なかば 霞のかゝる時 さくらや 花の王と見ゆらん (尻焼猿人)

 これは、尻焼猿人(抱一)が、この己の肖像画(山東京伝「画」)を見て、即興的に作った一首なのであろうか。とすると、この狂歌の歌意は、次のとおりとなる。

「京都の公家さんの御簾ならず、江戸前のすだれが掛かると、ここ吉原の霞の掛かった桜が、『花の王』のような風情を醸し出すが、そのすだれ越しの人物も、どこやらの正体不明の『花の王』のように見えるわい」というようなことであろうか。
 
 これが、「宿屋飯盛撰」の、「宿屋飯盛」(石川雅望 )作とするならば、歌意は明瞭となってくる。

「この『尻焼猿人』さんは、尊いお方で、御簾越しに拝顔すると、半ば霞が掛かった、その桜花が『百花の王』のように見えるように、なんと『江戸狂歌界の王』のように見えるわい」というようなことであろう。
 
 ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ(尻焼猿人)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰・喜多川歌麿画、天明七年=一七八七)での尻焼猿人(抱一)の一首である。この時、抱一、二十七歳、その年譜(『酒井抱一と江戸琳派全貌(求龍堂)』所収)に、「十月十三日、忠以、徳川家斉の将軍宣下のため、幕府日光社参の名代を命じられ出立。抱一も随行。十六日に日光着。二十日まで。このとき、号「屠龍」。(玄武日記別冊)」とある。
 この頃は、兄の藩主忠以の最側近として、常に、酒井家を支える枢要な地位にあったことであろう。そして、上記の、「『屠龍(とりゅう)』『尻焼猿人(しりやけのさるんど)』の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きく」、且つ、「二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置」は、極めて高く、謂わば、それらの俗文芸(狂歌・俳諧・浮世絵など)の箔をつけるために、その名を実態以上に喧伝されたという面も多かろう。
 そして、それらのことが、この「俗文芸」と密接不可分の関係にあった「吉原文化」と結びつき、上記の、「抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響している」というようなことが増幅されることになるのであろう。
 しかし、その実態は、この、「ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ」のとおり、「この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない」ということと、後に、抱一は、吉原出身の「小鶯女史」を伴侶とするが、この当時は、吉原の花柳界の憧れのスターの一人であったが、抱一側としては、常に、酒井家における立つ位置ということを念頭に、分を弁えた身の処し方をしていたように思われる。
 これらのことについては、この『絵本詞の花』の画像と共に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-06

(再掲)

吉原の抱一.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本詞の花』(版元・蔦屋重三郎編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533129

 上記は、吉原引手茶屋の二階の花見席を描いた喜多川歌麿の挿絵である。この花見席の、左端の後ろ向きになって顔を見せていないのが、「尻焼猿人=酒井抱一」のようである(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)。

 酒井抱一は、ともすると、上記の『本朝画人伝巻一(村松削風著)』のように、「吉原遊興の申し子」のように伝聞されているが、その実態は、この狂歌の、「ほれもせずほれられもせずよし原に 酔うてくるわの花の下蔭」の、この「花の下蔭」(姫路城主酒井雅樂頭家の「次男坊」)という、「日陰者」(「日陰者」として酒井家を支える)としての、そして、上記の、「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく」、そして、「與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」ような、常に、激情に溺れず、細やかな周囲の目配りを欠かさない、これぞ、「江戸の粋人(人情の機微に通じたマルチタレント)」というのが、その実像のように思われて来る。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

料理通.jpg

『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

 上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 この「グルメ紹介本」は、当時、山谷にあった高級料亭「八百善」の主人・栗山善四郎が刊行したものである。酒井抱一は、表紙見返し頁(P2)に「蛤図」と「茸・山葵図」(P45)などを描いている。「序」(p2・3・4・5)は、亀田鵬斎の漢文のもので、さらに、谷文晁が、「白菜図」(P5)などを描いている(補記一のとおり)。
 ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。

 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「享和二年(一八〇二)四十二歳」に、「亀田鵬斎、谷文晁とともに、常陸の若芝金龍寺に出かけ、蘇東坡像を見る」とある。
 この年譜の背後には大きな時代の変革の嵐が押し寄せていた。それは、遡って、天明七年(一七八七)、徳川家斉が第十一代将軍となり、松平定信が老中に就任し、いわゆる、「寛政の大改革」が始まり、幕府大名旗本に三年の倹約令が発せられると、大きな変革の流れであったのである。
 寛政三年(一七九一)、抱一と同年齢の朋友、戯作者・山東京伝(浮世絵師・北尾政演)は、洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五十日の処分を受ける。この時に、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」こと蔦屋重三郎も過料に処せられ、財産半分が没収され、寛政九年(一七九七)には、その四十八年の生涯を閉じている。
 この蔦屋重三郎が没した寛政九年(一七九七)、抱一、三十七最の時が、抱一に取って、大きな節目の年であった。その十月十八日、西本願寺第十八世文如の弟子となり、出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗り、以後、「抱一上人」と仰がれることになる。
 しかし、この抱一の出家の背後には、抱一の甥の姫路藩主、酒井忠道が弟の忠光を養嗣子に迎えるという幕府の許可とセットになっており、抱一は、酒井家を実質的に切り捨てられるという、その「酒井家」離脱を意味するものなのであろう。
 この時に、抱一は、柿本人麻呂の和歌「世の中をうしといひてもいづこにか身をばかくさん山なしの花」を踏まえての、「遯入(のがれい)る山ありの実の天窓(あたま)かな」(句稿『椎の木陰』)との、その出家を受け入れる諦めにも似た一句を詠んでいる。そして、この句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」と、自らの意思で出家をしたように、断定的な句形で所収され、それが最終稿となっている。これらのことを踏まえると、抱一の出家というのは、抱一に取っては、不本意な、鬱積した諸事情があったことを、この一句に託していねかのように思われる。
 これらのことと、いわゆる、時の老中・松平定信の「寛政の改革」とを直接的に結びつけることは極めて危険なことであるが、亀田鵬斎の場合は、幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥するところの、いわゆる「寛政異学の禁」の発布により、「異学の五鬼」(亀田鵬斎・山本北山・冢田大峯・豊島豊洲・市川鶴鳴)の一人として目され、その門下生が殆ど離散するという、その現実的な一面を見逃すことも出来ないであろう。
 この亀田鵬斎、そして、その義弟の建部巣兆と酒井抱一との交友関係は、この三人の生涯にわたって密なるものがあった。抱一の「画」に、漢詩・漢文の「書」の賛は、鵬斎のものが圧倒的に多い。そして、抱一の「画」に、和歌・和文の「書」は、抱一が見出した、橘千蔭と、この二人の「賛」は、抱一の「画」の一つの特色ともなっている。
 そして、この橘千蔭も、鵬斎と同じように、寛政の改革により、その賀茂真淵の国学との関係からか、不運な立場に追い込まれていて、抱一は、鵬斎と千蔭とを、自己の「画」の「賛」者としていることは、やはり、その根っ子には、「寛政の改革」への、反権力、反権威への、抱一ならでは、一つのメッセージが込められているようにも思われる。
 しかし、抱一は、出家して酒井家を離脱しても、徳川家三河恩顧の重臣の譜代大名の酒井雅樂頭家に連なる一員であることは、いささかの変わりもない。その酒井雅樂頭家が、時の権力・権威の象徴である、老中首座に就いた松平定信の、いわゆる厳しい風俗統制の「寛政の改革」に、面と向かって異を唱えることは、決して許されることではなかったであろう。

 さて、「下谷の三幅対(抱一・鵬斎・文晁)」の、鵬斎・抱一に並ぶ、もう一人の谷文晁は、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」とすると、親「松平定信(楽翁)ということになる。
文晁は、寛政四年(一七九に)に、寛政の改革の中心人物・松平定信に認められて、その近習となり、定信の伊豆・相模の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂にも従って挿図を描いている。
 その画塾写山楼には多くの弟子が参集し、渡辺崋山・立原杏所など後の大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。門弟に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われ、、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だったと言う。弟子思いの師としても夙に知られているが、権威主義的であるとの批判も伝えられている。それは、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」なのに比して、親「松平定信(楽翁)」であったことなどに由来しているのかも知れない。
 しかし、この「鵬斎・抱一・文晁」の三人の交友関係は、その「下谷の三幅対」の命名のとおり、「長兄・鵬斎、次兄・抱一、末弟・文晁」の、真ん中に「鵬斎」、右に「抱一」、左に「文晁」の、その「三幅対」という関係で、そして、その関係は、それぞれの生涯にわたって、いささかの微動すらしていないという思いを深くする。

(追記)「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」周辺

芭蕉涅槃図.jpg

「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」(部分図)「早稲田大学會津八一記念博物館」蔵
≪大田南畝賛「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河 一自正風開活眼 俳諧不復擬連歌 庚午仲冬 蜀山人題」≫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%8A%99%E8%93%89

 この「太田南畝(四方赤良・蜀山人)賛」の、「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河」は、芭蕉の「幻住庵記」の末尾に記されている、「先(ま)づたのむ椎の木も有(あり)夏木立」に由来している。

https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/basyou_genjyu/genjyuan01.htm

≪「幻住庵記」全文
石山の奥、岩間のうしろに山有り。国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。… 日ごろは人の詣(もうで)ざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸有り。蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。…
 予また市中を去ること十年ばかりにして、五十年(いそじ)やや近き身は、蓑虫(みのむし)の蓑を失ひ、蝸牛(かたつむり)家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて、今歳(ことし)湖水の波にただよふ。鳰(にお)の浮巣の流れとどまるべき蘆(あし)の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月(うげつ)の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。…  かく言へばとて、ひたぶるに閑寂(かんじゃく)を好み、山野に跡を隠さんとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一(ひと)たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩(やせ)せたり。賢愚文質(けんごうぶんひつ)の等しからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならずやと、思ひ捨ててふしぬ。
 先づたのむ椎の木も有夏木立  ≫(『猿蓑』所収「抜粋」)

 そして、太田南畝の「壬戌紀行」(「享和2年(1802年)3月21日、 大田南畝 が大坂銅座詰の任を終え大坂を立ち、木曾路を経由して4月7日に江戸に着くまでの紀行」)は、
「3月22日(東福寺・西本願寺・金閣寺)→3月23日(膳所城・石山寺・草津宿)→3月24日(高宮宿・醒ヶ井宿・柏原宿)→3月25日(不破の関屋の跡・垂井宿・赤坂宿)→3月26日(岐阜城・犬山城・鵜沼宿)→3月27日(細久手宿・大湫宿・大井宿)→3月28日(立場茶屋・上松宿・福島関所)→4月1日(下諏訪宿)→4月2日(和田宿・望月宿)→4月3日(八幡宿・塩名田宿・追分宿・坂本宿)→4月4日(碓氷関所跡・板鼻宿・高崎宿)→4月5日(本庄宿・深谷宿・熊谷宿)→4月6日(鴻巣宿・浦和宿・蕨宿)→4月7日(戸田の渡し・板橋宿)という行程である。

 抱一の「花洛の細道」は、寛政九年(一七九七)、そして、太田南畝の「壬戌紀行」は、享和二年(一八〇二)のことで、抱一の方が先行するが、抱一と南畝の交遊は、天明八年(一七八八、「一月、太田南畝との交流初見」=『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、さらには、天明四年(一七八四、『たなぐひあわせ』に杜綾公で入集)の頃まで遡ることが出来るのかも知れない。
 とにもかくにも、抱一(狂歌名=尻焼猿人)と太田南畝(狂歌名=四方赤良)との関係というのは、謂わば、「狂歌・俳諧・戯作・漢詩・浮世絵・吉原」等々の、抱一の兄事すべき師匠格の一人であったということは、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「跋」を太田南畝が起草していることからも、窺い知れるところのものであろう。 
 そして、その太田南畝が、上記の「壬戌紀行」で、「西本願寺」そして「石山寺」、さらに、
「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」で、「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河 一自正風開活眼 俳諧不復擬連歌」との賛書きをしているということは、この幻住庵で、抱一一行の一人の「其爪」が剃髪して、次の前書のある一句を、抱一が、その『軽挙館句藻』に遺していることは、やはり、特記をして置く必要があろう。

   みなみな翁の旧跡おたづぬるに、キ爪が幻住庵の清水に
かしら剃(そり)こぼちけるをうらやみて
(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目(『軽挙館句藻』所収「椎の木蔭」)

 さらに、これらの句が入集されている句集名が「椎の木陰・椎の木かげ」で、その句集名の由来は、本所番場の屋敷(酒井家の下屋敷関連?)近くの「平戸藩主松浦家の上屋敷(隅田川を往来する猪牙舟がランドマークした)椎の木」に因るとされているが(『酒井抱一・玉蟲敏子著・日本史リーフレット』)、芭蕉が生前自らの意思で公表した唯一の俳文とされている「幻住庵記」(『猿蓑』所収)の「先づたのむ椎の木も有(あり)夏木立」の、その「椎の木」も、その背景の一つに横たわっているようにも解せられる。

先づ頼む椎の木も有り夏木立(芭蕉「幻住庵の記」)
(これからどうしようというほどの計画があるわけではない。とりあえず旅路の果てに幻住庵にやってきた。見れば、庵の傍には大きな椎木がある。先ずはこの木の下で心と身体を休めてみようではないか。西行の歌「ならび居て友を離れぬ子がらめの塒<ねぐら>に頼む椎の下枝」(『山家集 下 雑の部』)に呼応していることは明らか。ここに子がらめとは、小雀のこと。)
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/genjuan/genjuan5.htm#ku

 この「幻住庵記」は、「A最初期草案断簡・B初期草案・C初稿(元禄三夷則下)・D再稿草案断簡・E再稿一・再稿二(元禄三初秋日)・F定稿一(元禄三秋)・定稿二(元禄三仲秋日)・定稿三(猿蓑)」と、その諸本は、六類型、合計九種類のものが伝来している(『芭蕉七部集(新日本古典文学大系)』所収「幻住庵記の諸本(白石悌三稿))。
 その「A最初期草案断簡」(京都国立博物館真蹟)に、「ともにこもれる人ひとり心さしひとしうして水雲の狂僧なり、薪をひろひ水をくみて(以下欠)」とあり、この「水雲の狂僧」は、『笈日記』を著わした「各務支考」(寛文5年(1665年) - 享保16年)その人だとしている見方がある(『俳聖芭蕉と俳魔支考(堀切実著)』)。
 もとより、支考は、江戸時代中期の人で、南畝・抱一は、それに続く後期の人と、時代を異にするが、「其角らを祖とする都会派江戸座の蕉門」の「抱一」らと、「支考らを祖とする田舎蕉門(「支(支考)麦(麦林=乙由)の徒」と揶揄された「美濃派・伊勢派」など)」とは、相互に相対立する流派と考えられがちだが、少なくとも、南畝・抱一らは、支考らの『葛の松原』・『笈日記』・『梟日記』・『続五論』・『本朝文鑑』・『俳諧十論』・『俳諧古今抄』・『十論為弁抄』・『芭蕉翁廿五箇条』・『古今集俳諧歌解』などとは、直接・間接とを問わず大きな影響を受けたであろうことは、想像するに難くない。
 この支考に連なる俳人で、蕪村と親交の深い俳人に、「雲裡坊杉夫(さんぷ)」(1692~1761)が、「幻住庵再興のため各地を行脚して句を請い、宝暦二年に『蕉門名録集』を刊行した」ことは、下記のアドレスで紹介されている。

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haiku/42260035075.htm

≪雲裡坊杉夫(うんりぼうさんぷ)1692~1761
渡辺氏。尾張の人。俳諧を支考に学び、鳥巣仁の号を授けられ、三四庵・杉夫・有椎翁五世とも号した。延享四年琵琶湖畔の無名庵に入って五世の主となり、境内に幻住庵を再興し、且つ幻住庵の椎の木を無名庵に移植して有椎老人と号した。交友が多く、四方を行脚した。宝暦五年橋立に停留中の蕪村を訪ねて歌仙を巻き、その帰るに当って蕪村は宮津から橋立まで送って来て、「短夜や六里の松に更けたらず 蕪村」と別れを惜しんでいる。のち、雲裡追悼集『桐の影』には、雲裡が江戸の中橋にいた昔をなつかしんだ蕪村の句があって、蕪村東遊時代からの友人である事が知られる。宝暦十年秋、無名庵を出て京都鎌倉の夜長庵に移り、晩秋には筑紫の旅に出た。この行庵が出来た記念に『柱かくし』、寛保三年『桑名万句』があり、無名庵に入って後、幻住庵再興のため各地を行脚して句を請い、宝暦二年に『蕉門名録集』を刊行した。宝暦十一年四月二十七日に没した。年六十九。追福集に明和二年『鳥帽子塚』、安永三年に『向芝園廻文』、同六年に『桐の影』、七年に『蕉門花伝授』などがある。『鳥帽子塚』には宝暦十一年盛夏浮巣庵文素の序があり、 他の文献に徴しても誤りはないと思われるが、『向芝園廻文』には、雲裡の像の上に「宝暦十二年壬午歳四月甘七日卒、葬於義仲寺、時年六十六」とある。≫
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その六)「橘(加藤)千蔭と抱一」(その周辺)

加藤千蔭.jpg

「加藤千蔭『國文学名家肖像集』より」(「ウィキペディア」)

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2023-03-30

(再掲)

鵜飼舟下す戸無瀬の水馴(みなれ)棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)
となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)
あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「うけらが花」)
築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)

 戸奈瀬の雪を
山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

 「藤原(九条)良経」は、抱一の出家に際し、その猶子となった「九条家二代当主」、そして、「藤原定家」は、その「藤原(九条)良経」に仕えた「九条家・家司」で、「藤原俊成」の「御子左家」を不動にした「日本の代表的な歌道の宗匠」の一人である(「ウィキペディア)。

 続く、「橘(加藤)千蔭」は、抱一の「酒井家」と深いかかわりのある「国学者・歌人・書家」で、抱一は、千蔭が亡くなった文化五年(一八〇八)に、次の前書を付して追悼句(五句)を、その「屠龍之技・第七かみきぬた」に遺している。

 橘千蔭身まかりける。断琴の友なりければ
から錦やまとにも見ぬ鳥の跡
吾畫(かけ)る菊に讃なしかた月見
山茶花や根岸尋(たづね)る革文筥(ふばこ)
しぐるゝ鷲の羽影や冬の海
きぬぎぬのふくら雀や袖頭巾

(参考)  橘千蔭(たちばなのちかげ)/享保二十~文化五(1735-1808)/号:芳宜園(はぎぞの)・朮園(うけらぞの)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikage.html

江戸八丁堀の生まれ。父は幕府与力にして歌人であった加藤枝直。橘は本姓。俗称常太郎・要人(かなめ)、のち又左衛門。少年期より賀茂真淵に入門し国学を学ぶ。父の後を継いで江戸町奉行の与力となり、三十歳にして吟味役を勤める。天明八年(1788)五十四歳で致仕し、以後は学芸に専念した。寛政十二年(1800)、『万葉集略解』を十年がかりで完成。書簡で本居宣長に疑問点を問い質し、その意見を多く取り入れた、万葉全首の注釈書である。文化九年(1812)に全巻刊行が成った同書は万葉入門書として広く読まれ、万葉享受史・研究史上に重きをなす(例えば良寛は同書によって万葉集に親しんだらしい)。
 歌人としては真淵門のいわゆる「江戸派」に属し、流麗な古今調を基盤としつつ、万葉風の大らかさを尊び、かつ新古今風の洗練・優婉も志向する歌風である。同派では村田春海と並び称され、多くの門弟を抱えた。享和二年(1802)、自撰家集『うけらが花』を刊行。橘八衢(やちまた)の名で狂歌も作る。書家としても一家をなしたが、特に仮名書にすぐれ、手本帖などを数多く出版した。絵も能くし、浮世絵師東洲斎写楽の正体を千蔭とする説もある程である。文化五年九月二日、死去。七十四歳。墓は東京都墨田区両国の回向院にある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-17

(再掲)

抱一・住吉太鼓橋夜景図.jpg

酒井抱一(庭拍手)画「住吉太鼓橋夜景図」一幅 紙本墨画 八〇・七×三二・二㎝
個人蔵 寛政十二年(一八〇〇)作
【 簡略な太鼓橋、シルエットで表される松林、雲間から顔を覗かせた月、いずれもが水墨のモノトーンで描写されるなかで、「冥々居」印の鮮やかな朱色が画面を引き締めている。「寛政庚申林鐘甲子」の落款は、一八〇〇(寛政十二)年六月十三日の制作であることを語る。橘千蔭の賛は、「あきのよのそらゆく月もすみの江の あらゝまつはらさやににみえけり」。古歌には見当たらず、千蔭自身の作か。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一と橘千蔭(仲町啓子稿)」)

 この抱一と関係の深い、先に、下記のアドレスで紹介した「加藤千蔭」こそ、この「橘千蔭」その人であり、その千蔭が、大阪から江戸出て来た芳中の、『光琳画譜』に、その「序」を草している。その「跋」を草した、川上不白もまた、抱一とは深い関係にある一人なのである。
 これらの、加藤(橘)千蔭、そして、川上不白の関係からして、同じ、私淑する尾形光琳を介して、相互に、何らかの啓発し合う、何らかの関係し合う文化人ネットワークの二人であったという思いを深くする。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-14

(再掲)

(参考二)加藤千蔭(かとうちかげ)
没年:文化5.9.2(1808.10.21)
生年:享保20.2.9(1735.3.3)
江戸中・後期の歌人、国学者。本姓橘、初名佐芳。通称常太郎、又左衛門。朮園、芳宜園、耳梨山人等と号した。狂号橘八衢。幕府の与力で歌人の加藤枝直の子。幼時より才能を発揮し、父枝直の手ほどきを受ける。当時枝直の地所の一角に家を構えていた賀茂真淵に入門する。町奉行組与力勤方見習、奉行所吟味役与力などの公務につき、田沼意次の側用人まで務めたのち、天明8(1788)年に致仕している。官職としては下級幕臣に終始した。 千蔭の文人生活は致仕後に大きく結実した。在職中も歌人としての生活は順調であったが,晩年に至って江戸歌壇における名声はいよいよ高まった。真淵を師としたが、その万葉調にはなじまず、伝統的な歌風に江戸の繁華な風俗を織り込んだ独自の作風を樹立、折しも江戸文芸界空前の活況を呈した安永・天明期(1772~89)の雰囲気に似つかわしい都会派の和歌は大いにもてはやされた。親交を結んだ村田春海と並び称され、彼らおよびその門下を「江戸派」と呼ぶほどの勢力を持つ。幕臣仲間で天明狂歌の立役者だった四方赤良こと大田南畝の初の狂歌選集『万載狂歌集』に橘八衢の名で跋を寄せた点に、天明期の雅俗文芸の融合の様をみることができる。 晩年はまた国学者として『万葉集略解』を完成させた。これは今に至るまで万葉集の主要注釈のひとつとされている。また歌人としては、江戸のみならず京坂の文人とも交渉を持った。富小路貞直や賀茂季鷹との関係は特筆に価する。また、香川景樹の和歌に対しては強烈な対抗心を燃やしていた。『筆のさが』に千蔭の見解が率直に語られ興味深い。ほかに著作として歌文集『うけらが花』、歌論『答小野勝義書』などがあるが、歌壇の大家のわりにまとまった著作は乏しい。<参考文献>森銑三「加藤千蔭遺事」(『森銑三著作集』7巻),内野吾郎『江戸派国学論考』 (久保田啓一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

桐図屏風.jpg

酒井抱一筆・橘千蔭「桐図屏風」(個人蔵)/六曲一双/105.6×278.6/紙本墨画淡彩
https://www.kyotodeasobo.com/art/uploads/houitsu2012-2.jpg
≪墨に緑青などを混ぜた「たらし込み」技法が見所の一つで、比較的保存状態の良い右上の樹幹部分では、幹の質感まで描写している。画面下端から覗く桐の先端部と、上端から覗く樹幹下部とを対比して遠近感を出す構図も、宗理など琳派の先例を発展させたものである。「関西蜚遯人」の落款は珍しい。「抱一」は1798(寛政10)年の初め、38歳の頃から使い始めたもので、制作もそれに近い頃30歳代末から40歳代初めと推定される。橘千蔭の賛は、「夫木和歌抄」より桐を詠んだ三首が選ばれている。もと酒井雅楽頭家に仕えた永田家に伝来した。≫(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一と橘千蔭(仲町啓子稿)」)

「夫木和歌抄」より桐を詠んだ三首(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

百(もも)しきやきりの梢に住(すむ)とりの千(ち)とせは竹のいろもかはらず(寂蓮法師)
古郷(ふるさと)のきりのこずゑをながめてもすむらむ鳥もおもひこそやれ(藤原家隆)
そともなるきりの広葉にあめおちて朝げすずしき風の音かな(藤原為家)

(メモ) 「酒井雅楽頭家に仕えた永田家に伝来した」=「姫路藩家老であった祇国(永田成美)の末裔永田家に伝来した。」
「関西蜚遯人」=「関西の蜚(と)んで遯(のが)れる人」とはいわくありげで、出家間もない号にふさわしい。」(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

https://www.yg-artfoundation.or.jp/sys/art.php?id=98

来燕帰雁図.jpg

葛飾北斎「来燕帰雁図」絹本・着色/82.7×26.0 cm/(吉野石膏コレクション すみだ北斎美術館寄託)/加藤千陰による着賛「はる秋の契り たかへす(とりどり)に 来るも帰るも こゝろ有けり 千蔭」

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4741910/006_p194.pdf

九州大学学術情報リポジトリ「加藤千蔭の画歴(鈴木淳稿)」
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その五)「藤原定家」(「戸奈瀬」周辺)

住吉の名月.jpg

『住吉の名月』(月岡芳年『月百姿』)住吉明神の神託を受ける藤原定家(「ウィキペディア」)

となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)
鵜飼舟下す戸無瀬の水馴棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)
あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「)
築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)
 戸奈瀬の雪を
山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-18

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200015438/images/200015438_00034.jpg

 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
 秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

 としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-09

(再掲)

定家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-31

(再掲)

藤原定家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前中納言定家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056409

周辺メモ)

 『小説 後鳥羽院―― 新島守よ、隠岐の海の(綱田紀美子著)』の中での、「定家家隆両卿歌合」(定家・家隆詠、後鳥羽院撰)などに関する叙述は、次のようなものである。

(第五 「無始の悪行のぞきがたく候」)

 家隆と定家はほぼ同じ年齢で、ともに俊成(定家の父)にそだてられた歌人であり、また、ともに後鳥羽の寵を得て新古今集の撰にあたった者である。家隆は、後鳥羽が隠岐に流されてからもずっと、この二十二歳年下のもと帝王を忘れることができなかった。そうすることが自分の身にとってひどく不利になるということをいささかもかえりみず、後鳥羽との手紙のやりとりを欠かさなかった。歌を通じて、いちずに後鳥羽をささえたのが家隆である。
  (中略)
 定家は後鳥羽より十八歳年長であった。ともに俊成に学んだのであるから、相弟子または兄弟子であり、かつ主君と臣下という複雑な間がらだった。
  
(第六 来ぬ人を待つほの浦の)

寛喜三年(一二三一)土佐から阿波に遷っていた第一皇子土御門院は、病いが重くなり十月六日に出家、同十二日に没した。三十七歳であった。(中略)
貞永一年(一二三二)藤原定家は七十一歳で権中納言にすすみ、また新勅撰集撰進の命を受けた。
文歴一年(一二三四)順徳院の皇子懐成親王は十七歳で亡くなった。承久三年四月から七十日間だけの皇位であり、乱の終わりとともに廃帝にされていたのである。
  (中略)
(「定家家隆両卿歌合」一番)
左 里のあまの汐焼き衣たち別れ なれしも知らぬ春の雁がね(定家)
(里の海人の塩焼きが衣になじむように馴れ親しんだのも知らずに、立ち別れていく春の帰る雁よ)
右 春もいまだ色にはいでず武蔵野や若紫の雪の下草(家隆)
(春とはいえまだそれらしき様子があらわれていない武蔵野では雪の下で紫草の芽が眠っている)
(「同」十五番)
左 ながめつつ思いし事のかずかずは空しきそらの秋の夜の月(定家)
(月をながめながら思った多くのことが、一つ一つみなむだなこととなった。空にはむなしく秋の夜の月が照らしている)
右 暮れぬまに山のは遠くなりにけり 空より出づる秋の夜の月(家隆)
(まだ日の暮れないうちに山の端が遠くなってしまったよ。空には秋の夜を遠くまで照らす月が出たので)
(「同」四十番)
左 心をばつらきものとて別れにし世々のおもかげなに慕ふらむ(定家)
(心とは無情なものだと言って別れたのであったが、幾年経ても消えることのないおもかげを、私の心はなぜ慕うのだろう)
右 せめて思ふ いまひとたびの逢ふことは渡らん川や契りなるべき(家隆)
(せめてもう一度逢う瀬を切に思うのは、三途の川の渡しを渡ることが二人の深い定めだからなのでしょうか)
(「同」四十八番)
左 明くる夜のゆふつけ鳥に立ち別れ浦波遠く出づる舟人(定家)
(夜明けを告げる鶏の声にたち別れて、岸辺の波を遠くはなれはるか沖へと出て行く舟人よ) 
右 沖つ波よする磯辺のうき枕 遠ざかるなり潮や満つらん(家隆)
(沖の波が寄せてくる磯辺に停泊していた旅の舟が遠ざかっていくようだ。潮が満ちてきたのだろう)

「定家家隆両卿歌合」については、下記のアドレスなど。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_d0089/index.html


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

(再掲)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13



(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。


「定家の歌一首 ―「踏迷ふ山なしの花」の歌の解釈をめぐって(赤羽淑「清心語文」)」
周辺

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utaawase/minase15_7.html

水無瀬恋十五首歌合 ―羇中の恋―

踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲 藤原定家『定家卿百番自歌合』
あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる 藤原定家(拾遺愚草員外・一句百首・春三十首・一二七)
よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花 (近江御息所歌合・一五、古今和歌六帖・山なし・四二六八)

うつのやまうつつかなしきみちたえてゆめにみやこの人はわすれず 九条良経『秋篠月集・一四一一』『水無瀬殿恋十五首歌合・轟中恋・四八七』

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その四)「藤原(九条)良経」(後京極摂政前太政大臣(藤原良経))

九条良経.jpg

≪小倉百人一首(91) 歌人/九条良経(後京極摂政前太政大臣・藤原良経)
〈上の句〉きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 〈下の句〉衣片敷き ひとりかも寝む   きりぎりすなくやしもよのさむしろに ころもかたしきひとりかもねむ定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/きり九条良経(後京極摂政前太政大臣・藤原良経)菱川師宣画[他]『小倉百人一首』 1680年(延宝8)国立国会図書館所蔵≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-514-53.html

(再掲「抱一の一句」)

4-51 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て 

季語=月の鹿=鹿(しか)/三秋
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2217
【子季語】すずか、すがる、しし、かのしし、紅葉鳥、小鹿、牡鹿、小牡鹿、鹿鳴く、鹿の声
【関連季語】春の鹿、鹿の子、鹿の袋角、鹿の角切、鹿垣
【解説】鹿は秋、妻を求めて鳴く声が哀愁を帯びているので、秋の季語になった。公園などでも飼われるが、野生の鹿は、畑を荒らすので、わなを仕掛けたり、鹿垣を設えたりして、人里に近づけないようにする。
【例句】
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」
女をと鹿や毛に毛がそろうて毛むつかし 芭蕉「貝おほひ」
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」
ひれふりてめじかもよるや男鹿島    芭蕉「五十四郡」
(参考)「月」(三秋)、そして、「ともし(照射)」(三夏)も季語だが、ここは、この句の前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」で、この句の主題(狙い)と季語(主たる季語)は「鹿」ということになる。そして、この「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、「九条良経(藤原良経)」の「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」などを指しているように思われる。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html#SM

句意(その周辺)=この句を前書抜きにして、字面だけで句意を探ると、「夏の『ともし(照射))の矢(仕掛け罠)を『遁(れ)来て』、今や、『月の秋の雌鹿を求めて鳴く牡鹿の声が谺(こだま)する季節』となったよ。」ということになる。

 ここに、前書の「良経公の御うたにも」の、「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」を加味すると、「たぐへくる」(「連れ添ってくる」)、「たゆむらん」(弱まっている)の用例で、「秋にはたへぬ」の「たへぬ」(「耐へぬ」と「絶へぬ」の両義がある)の用例ではない。

 しかし、これらの「たぐへくる」・「たゆむらん」・「たへぬ」という用例は、相互に親近感のある用例で、その底流には「哀感・哀愁・悲哀」」などを漂わせているような雰囲気を有している。

 すなわち、この前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、具体的に、特定の一首を指しているのではなく、例えば、次のように、数首から成る「多重性」のある前書のようにも思えるのである。

「鹿」
たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(良経「新古444」)
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」

「月」
ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」

「たへぬ」
のちも憂ししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)
俤や姨ひとりなく月の友        芭蕉「更科紀行」

 これらの作業を通して、抱一の掲出句の句意を探ると次のようになる。

句意=「良経公の御うた」にも、数々の「秋にはたへぬ」、その「月の鹿」を詠んでいるものがあるが、「月の友」を求めて、かぼそく鳴いている「鹿」の声を聴いていると、あの「鹿」は、「ともしの弓を遁れ来て」、武蔵野の奥へ奥へと、唯々、「こころの友」を求めて、「月」に向かって泣いているように聞こえてくる。

(再掲)
(その六)後京極摂政前太政大臣(藤原良経)と前大僧正慈鎮(慈円)

九条良経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

判詞(宗偽) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

(『後鳥羽院御口伝』余話=宗偽)→ 抜粋

「近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これら殊勝なり(特に優れている)。斎院(式子)は、殊に『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき。故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由ある(由緒ある)さま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥(平凡な歌)もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし。大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり。」(『後鳥羽院御口伝』)。

九一 きりぎりす鳴くや/霜夜のさむしろに/衣片敷きひとりかも寝む(藤原良経)

「故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとし」と、「長(たけ)を旨とし=風格を旨とし」の代表的な歌人と後鳥羽院は指摘している。これは、この「きりぎりす(五)・鳴くや/霜夜の(七)・さむしろに(五)」の、この破調のような上の句が、実に流暢に、「もみもみと」せずに詠まれているところに、これまた、後鳥羽院の「『たけ(※※)』をむねとし」の一端が詠み取れる。

(藤原義経=九条義経の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1959884598

    家に百首歌合に、余寒の心を
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月(新古23)

【通釈】「空は春というのにまだ霞みきらずに風は寒く、雪げの雲がかかってそのため朧な春の夜の月よ。」『新日本古典文学大系 11』p.26
【語釈】余寒=立春後の寒さ。「なほさえて」は余寒を表わす常套句。雪げにくもる=雪催いに曇る意。 
【補記】建久三年(1192)、自ら企画・主催した六百番歌合、十二番左勝。
【他出】六百番歌合、自歌合、三十六番相撲立詩歌、三百六十番歌合、定家八代抄、新三十六人撰、三五記、愚見抄、桐火桶、題林愚抄

後京極摂政前太政大臣(藤原良経)=九条良経(くじょうよしつね) 嘉応元~建永元(1169-1206)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

 法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
 治承三年(1179)、十一歳で元服し、禁色昇殿。侍従・右少将・左中将を経て、元暦二年(1185)、従三位に叙され公卿に列す。その後も急速に昇進し、文治四年(1188)、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言となり、十二月、左大将を兼ねる。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)となるが、翌年父兼実が土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居を余儀なくされた。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
 幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
 後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』があり(以下「秋篠月清集」あるいは「月清集」と略)、歌合形式の自撰歌集『後京極摂政御自歌合』がある(以下「自歌合」と略)。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。勅撰入集計三百二十首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。

前大僧正滋鎮(慈円)=慈円(じえん) 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-1

(再掲)

その六 後京極摂政前太政大臣と前大僧正慈鎮

藤原義経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後京極摂政前太政大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056401

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-1

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前大僧正慈鎮)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056402

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

(狩野探幽本)

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

(参考)

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/e434372ddc09e9456ac1cde27516a770

【 藤原良経のこと(その一)
このところ一カ月ばかり佐竹本「三十六歌仙絵巻」詞書・和歌の執筆者、藤原良経についてなぜかこだわり続けている。小倉百人一首の一人、後京極摂政前太政大臣(1169~1206・37歳で没)のことである。
 関心を持ち始めたのは昨年、秋田市建都四百年事業の一環として佐竹本「三十六歌仙絵巻」についての講演や絵巻の展示が開催されたことである。
 確か20数年前NHKで絵巻が切断されたエピソードが放映され、それを見た記憶がある。しかし大正時代のことであり、秋田にあまり関係がないこととしていつの間にか忘れていたのだ。
 それが身近に感じられたのは明治・大正時代活躍した秋田の画人土屋秀禾(1867~1929・62歳で没)が制作した模写の版画絵巻を秋田市在住の斉藤真造氏が所有されていてそれを見る機会があったことである。
 本物は鎌倉時代の制作とされ美術価値は高いとされるが色はかすれ当時の色彩ではなくなっている。秀禾の作品では制作当時を再現、八百年前の鮮やかな世界に誘ってくれて、しばし感動の時間を過ごしたことだった。
 その絵巻を眺めているうち、何ゆえ制作されたのだろう。誰が何の為に、と次第、次第に疑問が自分の心にこびりついて離れないようになってきたのである。
 まず当時の時代背景を知りたいと思った。学校時代での記憶だけでは覚束無い。図書館より「日本の歴史」網野善彦他編集シリーズより(頼朝と天下草創)(道長と宮廷社会)(武士の成長と院政)、「日本の時代史」シリーズ(京・鎌倉の王権)を借受し読破した。
 また、巻末にある鎌倉時代の年表をコピーし継ぎ張りにして分かりやすく一枚ものにしたり、手持ちの最新国語便覧(浜島書店出版)から藤原氏の系図、律令官制など関係する箇所をコピーするなど史実の基本情報を集めたりした。
 折りからNHK大河ドラマ「源義経」が放映されている。これらの史実と組み合わすと概略、次のようなことが分る。
 6月5日第22週で平家は西国へ都落ちするのが決まった。やがて平家(鶴見辰吾の宗盛等)は義経(滝沢秀明)によって追討されるがそのとき義経は27歳。良経はその時17歳で従三位となり公卿に列したとある。この時代、二人の「よしつね」がいたのだ。
 また、この年、良経の父兼実は頼朝(中井貴一)の力を背景に義経追討の宣旨後、義経与党の公卿を解官、翌年摂政の地位を獲得したこと。
 ちなみに義経は平家を壇ノ浦で攻め滅ぼしてから自分が追討されることになるのはわずか八カ月後のことである。三年後の30歳で泰衝(渡辺いっけい)に討たれることになる。この時、良経は20歳。
 良経21歳の時、頼朝の姪、京都守護一条能保の女を娶ったこと。また後年、この血縁関係から鎌倉三代将軍実朝が暗殺された後、将軍となった藤原頼経は良経の孫にあたること。また、良経24歳の時、後白河法皇(平幹二朗)崩御。これに合わせたように頼朝は将軍となった。
 良経28歳の時、頼朝は良経の父兼実の政敵、土御門通親と通じ合うようになり皇子(後の土御門帝)誕生を機会に兼実は関白の座を追われることに、一門も同様の処遇となる。などなど、めまぐるしい。
 大河ドラマ「源義経」の別の側面のドラマを知り、史実と重なり合い立体的につながって、さらに興味深くなってくる。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/04432d5f6de5fc99653292ebd36ca6a7?fm=entry_awp_sleep

 藤原良経のこと(二) 
 良経37歳の死に様は衝撃的なものだった。それは現代の詞華集というべき講談社学術文庫「現代の短歌」(1992/6/10発行)に載っている歌人の一人、塚本邦雄氏(1922~)の評論「藤原良経」(昭和50年6月20日初出)の一節を読んでいた時だった。
 次にその一文を記す。氏の名文と共にその衝撃を味わって頂きたい。
 「良経は序(新古今集の)完成の翌日相国(摂政太政大臣)を辞していた。そうして中御門京極に壮美を極めた邸宅を造り営む。絶えて久しい曲水の宴を廷内で催すのも新築の目的の一つであった。実現を見たなら百年振りの絢爛たる晴儀となっていたことだろう。元久三年二月上旬彼はこの宴のための評定を開く。寛治の代、大江匡房の行った方式に則り、鸚鵡盃を用いること、南庭にさらに水溝を穿つことを定めた。数度評定の後当日の歌題が「羽觴随波」に決まったのは二月尽であった。
 弥生三日の予定は熊野本宮二月二十八日炎上のため十二日に延期となった。良経が死者として発見されたのは七日未明のことである。禍事を告げる家臣女房の声が廷内に飛び交い、急変言上の使いの馬車が走ったのは午の刻であったと伝える。
 尊卑分脈良経公伝の終りには「建仁二年二月二十七日内覧氏長者 同年十二月二十五日摂政元久元年正月五日従一位 同年十一月十六日辞左大臣 同年十二月十四日太政大臣 同二年四月二十七日辞太政大臣 建永元年三月七日薨 頓死但於寝所自天井被刺殺云云」と記されている。
 天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある。
 良経を殺したのは誰か。神以外に知るものはいない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を挿頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した。その時王朝は名実共に崩れ去ったのだ。」
  *()内及び段落は筆者。塚本邦雄全集第14集586頁より
 この文を読んで良経の死に様の衝撃さもさることながら、この曲水の宴に「三十六歌仙絵巻」を披露するはずではなかったか、そんな想像を膨らます。
 当時は和歌・絵巻などの文化は政治権力、権威の象徴でもあったから、政敵にとって暗殺するにたる十分な要因になると思うのである。
(*申し訳ありませんが以下追加します)
 良経の死は九条流藤原家にとって大きな痛手であった。
 良経の父、兼実の嘆きはいかばかりであったか。長男を22歳で失っているから尚更であったろう。兼実は良経の死から翌年、58歳で亡くなっている。
 その時、良経の長男道家は13歳、摂関の地位についたのは15年後のことであった。 この間、いかに摂関の地位を望んでいたか道家の日記「玉蘂(ぎょくずい)」にのこされているそうだ。
 ある女房が道家が摂関の地位につく吉夢を二度(建歴二年二月七日と承久二年五月二十三日)見たので喜び、念誦し八幡・春日・北野ならびに三宝に祈りを捧げたとある。 道家が摂関(摂政)の地位についたのは翌年、承久三年のことである。しかし間もなく退き(承久の変)、再び摂関(関白)になったのは七年後のことであった。
 これらの時期のどこかで、絵巻は下鴨神社に奉納されたのではあるまいか。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/b02beda70188fefa63d92726744ae279

藤原良経のこと(三)

良経はどういう作品を残しているだろうか。

 小倉百人一首にある
  
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
    衣かたしきひとりかも寝む

 は一般には知られているだろう。 

 しかし、余程の良経通でなければほかの歌は知られていないのではとの思い込みで前掲の塚本邦雄氏の著書「雪月花」雪の巻、良経百首の中から筆者好みの数首を選び作歌年齢と若干の註釈を氏の文章を参考にして付けてみた。

① 散る花も世を浮雲となりにけり
    むなしき空をうつす池水(「花月百首」花五十首22歳)

*「むなしき空」は「虚空」
 「世を浮雲」の「浮」は「憂き」の懸詞・「浮世」の倒置

② 明け方の深山の春の風さびて
    心くだけと散る櫻かな(「花月百首」花五十首22歳)

*「心くだけ」はさまざまに思ひ煩ふの意
 「さびて」は「寂びて」
       
③ ただ今ぞか(帰)へると告げてゆく雁を
    こころにおくる春の曙(「二夜百首」「帰雁」五首22歳)

④ 夢の世に月日はかなく明け暮れて
    または得がたき身をいかにせむ(「十題百首」「釈教」十首「人」23歳)

⑤ 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
    昔に霞む春の曙(「六百番歌合」春曙25歳)

*「見ぬ世」とは前世、未生以前の時間、「昔」とは生まれてから現在までの舊い日月、曙の春霞はこの昏い、不可視の空間にたなびき渡る。

⑥ 帰る雁今はの心有明に
    月と花との名こそ惜しけれ(「院初度百首」春二十首 新古今・春上32歳)
*今は限り、いざ帰る時と消えて行く雁、下には名残の桜、上には細り傾く晩春の月、見棄てられては花月の名にかかはろう。

⑦ おしなべて思ひしことのかずかずに
    なお色まさる秋の夕暮れ(「院初度百首」春二十首 新古今・秋上32歳)

*筆者寸評
 ①②③④⑤は二十歳前半での作である。それにしてはなんと憂いに充ちた歌なのであろう。すでに人生の無常観を知っている。

 ⑥⑦は三十歳前半の作である。すでに熟成の感あり。何度も口ずさみたくなる歌である。

 良経の家集「秋篠月清集」の作歌年齢をみるとは33歳までである。それ以降は摂政として政治に勤しんでいたのかもしれない。

 この原稿を書いていた日(6月10日)、朝刊を見ていたら度々引用させて頂いた塚本邦雄氏の訃報の記事が掲載されていた。
 氏と筆者の面識などは全くないのであるが藤原良経公を介して歴史の時空間での不思議な縁しを感じている。
 そこで良経公の歌一首と塚本氏の解説の一文を両者へ畏敬を込めて次に記して追悼の意を表したいと思う。

  のちの世をこの世に見るぞあはれなる
    おのが火串(ほぐし)を待つにつけても(「二夜百首」「照射(ともし)」五首)

*標題の「照射」歌中の「火串」共に夏の歌に頻出する狩猟風景である。山深く鹿を誘き寄せるために燃やす篝火や松明が「照射」であり、「火串」は松明をつけるための篝、長い柄を狩人が腰に差す。多くは五月闇の頃行はれる。鷹狩は厳冬、桜狩、紅葉狩の原義である猟は春と秋、照射を併せて四季の猟遊となる。火串待ちは出猟時の準備儀式、居並ぶ面面が順次火種を渡される光景であらう。闇の中にぼうつと浮かび上がる人の姿に、後の世すなはち黄泉の国の死者を連想するのか。煉国の景色を現世で垣間見るとならば、何と凄まじい著想だらう。しかもうつし身の人人が次に繰展げるのは殺戮である。命に関わる沈思を誘ふのも当然ではあらう。由来この題は少数の例外を除いて鹿によせる憐憫の情、あるいは単に季節感に寄せる感懐ばかり歌はれているが、この一首はそれを踏まへた上で本質的な問題に肉薄している。古歌の「照射」すべての中においても一、二を争ふ秀作だらう。 】
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その三)「紫式部」(「空蝉と竹河」・「石山寺」など)

紫式部.jpg

紫式部(菊池容斎・画、明治時代)『前賢故実(菊池容斎著)』「国立国会図書館デジタルコレクション」
https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/1/58

「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-48)

https://yahantei.blogspot.com/

季語=五月雨=五月雨(さみだれ)/仲夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2042

【子季語】さつき雨、さみだる、五月雨雲
【解説】陰暦五月に降る雨。梅雨期に降り続く雨のこと。梅雨は時候を表し、五月雨は雨を表す。「さつきあめ」または「さみだるる」と詠まれる。農作物の生育には大事な雨も、長雨は続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。  
【例句】
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉「奥のほそ道」
五月雨の降残してや光堂 芭蕉「奥のほそ道」
さみだれの空吹おとせ大井川 芭蕉「真蹟懐紙」
五月雨に御物遠や月の顔 芭蕉「続山の井」
五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉「大和巡礼」
五月の雨岩ひばの緑いつまでぞ 芭蕉「向之岡」
五月雨や龍頭揚る番太郎 芭蕉「江戸新道」
五月雨に鶴の足みじかくなれり 芭蕉「東日記」
髪はえて容顔蒼し五月雨   芭蕉「続虚栗」
五月雨や桶の輪切る夜の声   芭蕉「一字幽蘭集」
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 芭蕉「曠野」
五月雨は滝降うづむみかさ哉 芭蕉「荵摺」
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉「嵯峨日記」
日の道や葵傾くさ月あめ   芭蕉「猿蓑」
五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑 芭蕉「続猿蓑」

(参考)

「空蝉」(下記「源氏物語図・巻3)」)

源氏物語図・空蝉).jpg

源氏物語図 空蝉(巻3)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦32.3×57.6㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪源氏は心を許さない空蝉に業をにやして紀伊守邸を訪れる。部屋を覗きみると、空蝉と義理の娘で紀伊守の妹、軒端荻が碁を打っていた。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/46118

「たけがは・竹河」(下記「源氏物語図・巻44)」)

源氏物語図・竹河.jpg

源氏物語図 竹河(巻44)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦48.8×横57.9㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪夕霧の子息蔵人少将は、玉鬘邸に忍び込み、庭の桜を賭けて碁を打つ二人の姫君の姿を垣間見て、大君への思いをつのらせる。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86586

句意(その周辺)=この句の上五の「たけがはも」の「たけがは」は、『源氏物語』の「第四十四帖 :竹河」の「竹河」、そして、中七の「うつ蝉も・碁や」の「うつ蝉」は、「第三帖:空蝉」の「空蝉」を指していて、その「碁や」は、その「竹河(第七段:「蔵人少将、姫君たちを垣間見る」)」と「空蝉(「第三段:空蝉と軒端荻、碁を打つ」)」との「囲碁」の場面を指している。

 句意は、「この五月雨で、『源氏物語』を紐解いていたら、「第四十四帖 :竹河」と「第三帖:空蝉」で、「姫君たちが囲碁に夢中になっている」場面が出てきましたよ。」ということになる。すなわち、この句の「からくり」(仕掛け)は、上記の、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということになる。(蛇足=抱一の「からくり(仕掛け)」は、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということだけではなく、上記の芭蕉の「五月雨」の例句、十一句の全てが、「さみだれ・さつきあめ」で、「さみだるる」の「用言止め」の句は一句もない。この句の、下五の「五月雨」は、「さつきあめ」の体言止めの詠みではなく、「さみだるる」の用言止めの詠みで、この句の眼中には、「姫君たちが囲碁に夢中になっているが、まさに、五月雨(さみだれ)のように、さみだれて、混戦中の形相を呈している」ということになる。この蛇足が正解に近いのかも? )

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-21

名月や硯のうみも外ならず (第二 かぢのおと) 

紫式部一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

紫式部二.jpg

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.png

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

石山寺観月図(土佐光起筆).jpg

石山寺観月図(土佐光起筆)/江戸時代/絹本著色/H-122.3 W-55.6/(MIHO MUSEUM蔵)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm
≪土佐光起(1617~1691)は江戸時代前期の画家で、堺の生まれ。のちに京都に移り住み、承応3年(1654)、永禄12年(1569)以来失われていた宮廷の絵所預(えどころあずかり)となって土佐家を再興した。延宝9年(1681)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられている。滋賀県大津市にある石山寺には、源氏物語の筆者・紫式部が一室でその構想を練ったという伝承がある。また「石山の秋月」と近江八景のひとつに挙げられているように、古くから石山寺あたりの秋月の眺めは格別であることがよく知られている。光起は、そうした画材をもとにこの絵を描いたようである。夜空に浮かぶ秋の名月、その月が石山寺の眼下を流れる瀬田川の川面に映えている。源氏物語の構想に思いを巡らす紫式部とともに、内裏造営に参加した光起らしい雅な筆致で描かれている。≫

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」も、先の「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「第四 椎の木かげ」)の「五月雨(さつきあめ)」と「五月雨(さみだるる)」との、二様の視点があるように、外(ほか)ならず」と「外(そと)ならず」との、二様の視点がある。
そして、この句もまた、一般的な詠み方の「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の、「詠みと意味」とで鑑賞したい。
 句意は、「『石山寺に名月』がかかっている。この『名月』は、『外(そと)ではあらず』、さりとて、『外(ほか)ではあらず』、この『内(うち)』なる『石山寺』の、この『花頭窓の『内』の女性像(紫式部)=『石山寺参籠中の紫式部』=『源氏物語構想中の紫式部』の、その傍らの、『硯のうみ』=『硯海』(『硯の墨汁を溜める所』=『書画に優れた人』=「紫式部」=『源氏物語』)の、その『硯のうみ』に宿りしている(映っている)』。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その二)「清少納言」

清少納言.jpg

清少納言(菊池容斎・画、明治時代)(「ウィキペディア」)
「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ(「百人一首62」「後拾遺集」)
『前賢故実(菊池容斎著)』「国立国会図書館デジタルコレクション」
https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/1/59

「いくたびも清少納言はつがすみ」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-33)

http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

季語=はつがすみ=初霞(新年)

「丁巳春興」(前書)=「丁巳(ていみ)」(丁巳=寛政九年=一七九七)の「春興」(三春の季語の『春興(春ののどかさを楽しむ心)』の他に、新年句会の一門の『春興』と題する刷物の意もある。」

「清少納言」=平安時代中期の女流歌人。『枕草子』の作者。ここは、『枕草子』の、「春はあけぼの」(夜明け)、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」そして「冬はつとめて、雪の降りたる」などの、「春はあけぼの」(夜明け)の一句。

句意(その周辺)=「丁巳春興」の前書がある九句のうちの一番目の句である。抱一、三十九歳の時で、その前年の秋頃から、「第四 椎の木かげ」がスタートとする。
句意=「四十にして惑わず」の、その前年の「新年の夜明け」である。この「新年の夜明け」は、まさに、「いくたびも、清少納言(「春はあけぼの」)」の、その新春の夜明けを、いくたびも経て、そのたびに、感慨を新たにするが、それもそれ、今日の初霞のように、だんだんと、その一つひとつがおぼろになっていく。 

(参考その一)「枕草子」(一段)と(一三九段)

https://origamijapan.net/origami/2018/01/19/makurano-sousi/

(一段)

春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢(ほたる)飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。

秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)

冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭(すみ)持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。

https://origamijapan.net/origami/2019/06/20/makurano-sousi-2/

(一三九段)

頭辨の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ。「明日御物忌なるにこもるべければ、丑になりなば惡しかりなん」とてまゐり給ひぬ。

つとめて、藏人所の紙屋紙ひきかさねて、「後のあしたは殘り多かる心地なんする。夜を通して昔物語も聞え明さんとせしを、鷄の聲に催されて」と、いといみじう清げに、裏表に事多く書き給へる、いとめでたし。御返に、「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、孟嘗君のにや」ときこえたれば、たちかへり、「孟嘗君の鷄は、函谷關を開きて、三千の客僅にされりといふは、逢阪の關の事なり」とあれば、

夜をこめて鳥のそらねははかるとも世にあふ阪の關はゆるさじ

心かしこき關守侍るめりと聞ゆ。立ちかへり、

逢阪は人こえやすき關なればとりも鳴かねどあけてまつとか

とありし文どもを、はじめのは、僧都の君の額をさへつきて取り給ひてき。後々のは御前にて、

「さて逢阪の歌はよみへされて、返しもせずなりにたる、いとわろし」と笑はせ給ふ。「さてその文は、殿上人皆見てしは」との給へば、實に覺しけりとは、これにてこそ知りぬれ。「めでたき事など人のいひ傳へぬは、かひなき業ぞかし。また見苦しければ、御文はいみじく隱して、人につゆ見せ侍らぬ志のほどをくらぶるに、ひとしうこそは」といへば、「かう物思ひしりていふこそ、なほ人々には似ず思へど、思ひ隈なくあしうしたりなど、例の女のやうにいはんとこそ思ひつるに」とて、いみじう笑ひ給ふ。「こはなぞ、よろこびをこそ聞えめ」などいふ。「まろが文をかくし給ひける、又猶うれしきことなりいかに心憂くつらからまし。今よりもなほ頼み聞えん」などの給ひて、後に經房の中將「頭辨はいみじう譽め給ふとは知りたりや。一日の文のついでに、ありし事など語り給ふ。思ふ人々の譽めらるるは、いみじく嬉しく」など、まめやかにの給ふもをかし。「うれしきことも二つにてこそ。かの譽めたまふなるに、また思ふ人の中に侍りけるを」などいへば、「それはめづらしう、今の事のやうにもよろこび給ふかな」との給ふ。

(参考その二) 菊池容斎 -『前賢故実』を著した超大器晩成型絵師と逸話-

http://artistian.net/yosai/#container
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その一)「釈阿」(「藤原俊成」卿)

藤原俊成.jpg

藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代)(「ウィキペディア」)

「おもふ事言はでたゞにや桐火桶」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-26)

https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-264-28.html

句意(その周辺)=この句には、「俊成卿の畫(画)に」との前書があり、「藤原俊成(釈阿)が桐火桶を抱えている肖像画」を見ての一句なのであろう。
句意=俊成卿は、歌を作るときに、「「おもふ事」(心にあること)を、何一つ、「言はで」(言葉には出さず)、「たゞにや」(ただ、ひたすらに、「ウーン・ウーン」と苦吟しながら)、「桐火桶」(桐火鉢)を、抱え込んでいたんだと、そんなことを、この俊成卿の肖像画を見て、実感したわい。

(参考) 藤原俊成(「桐火桶」)(「ウィキペディア」)
 定家は為家をいさめて、「そのように衣服や夜具を取り巻き、火を明るく灯し、酒や食事・果物等を食い散らかしている様では良い歌は生まれない。亡父卿(俊成)が歌を作られた様子こそ誠に秀逸な歌も生まれて当然だと思われる。深夜、細くあるかないかの灯火に向かい、煤けた直衣をさっと掛けて古い烏帽子を耳まで引き入れ、脇息に寄りかかって桐火桶をいだき声忍びやかに詠吟され、夜が更け人が寝静まるにつれ少し首を傾け夜毎泣かれていたという。誠に思慮深く打ち込まれる姿は伝え聞くだけでもその情緒に心が動かされ涙が出るのをおさえ難い」と言った。(心敬『ささめごと』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

釋阿.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411
左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html
 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html
 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-17

釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425
左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html
 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426
右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html
 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-10

和歌巻4.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)
      十首歌人によませ侍ける時、花のうたとてよめる
76 み吉野の花のさかりけふ見れば越(こし)の白根に春風ぞ吹く(皇太后大夫俊成)
(吉野山の花盛りを今日眺めると、白雲を頂いた越の白山に春風が吹いているようだよ。)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html
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