SSブログ

洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十六) [岩佐又兵衛]

(その二十六) 「舟木本の『後妻(うわなり)打ち』」周辺など

後妻打ち.jpg

「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)→「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」

【 制作の目的(p172-173)
 京都の絵としては、右隻の五条と左隻の二条がいつの間にかつながるなど、地理的な正確さは無視されているし、描かれた範囲は京都東南部と二条城および内裏程度で、登場する名所もごく一部に過ぎないから、求められたのは京都の全景や名所尽しの情報ではない。その代わり、都市に生活する人々の新しい風俗、特に都市的な遊興の場面が詳しく描かれ、また、政治的な事象に関しても、豊臣・徳川・公家のそれぞれについて、慶長十九年(一六一四)から元和元年(一六一五)に関わるものが意識して描かれており、この意味でも同時代性が強く、「最近」の京都を描こうとする姿勢が見られる。
 (中略)
 他の洛中洛外図屏風と同じように、この「舟木本」もまた、京都の外部にいる人間が「見たい京都」を手元に置くために作られた、と考えるがよいのではないか。

  発注者と作者(p173-174)
発注者についてあえて言えば、やはり地方の大名クラスがまず考えられるのではないだろうか。豊臣の時代に大きく変貌して都市的な繁栄を謳歌し、さらに大阪の陣を経て政治の舞台としても注目を浴びている京都、最先端の建築と風俗が集中している京都に、各地で自らの領国経営と城下町形成を進めている大名たちが関心を持たなかったはずはないから、そのような関心から描かれた京都の絵があってもおかしくない。徳川家でありながら徳川政権そのものではなく、京都を外部の目として享受しようとする、そのような存在の需要である。
 (中略)
 この絵を描いた直後に又兵衛が福井へ移住しており、それが藩主松平忠直(一五九五~一六五〇)の招きによると考えられることから、忠直を候補の一人としてもよいのではないだろうか。

  江戸図との比較(p174-176)
 「江戸名所図屏風」(出光美術館蔵)の発注者としては、画中に唯一描かれた大名屋敷が福井藩のものであることから、福井藩の関与も想定されている(『江戸名所図屏風―大江戸劇場の幕が開く―(内藤正人著)』)。そうだとすれば、時期的には松平忠直は改易されて弟の忠昌の代になるのだが、統治者ではない立場から同時代の首都の絵を求めるという点で、共通性を見てとることはできよう。つまり、「江戸名所図屏風」は「舟木本」の江戸版と考えられるわけで、こうした点から、逆に「舟木本」の発注者を福井藩主松平忠直に擬することは合理性があると思うのだが、どうだろうか。

  暴力場面の意味(p176-179)
 都市の治安を維持することは権力者の本質的な任務であり、またその正当性を証しするものだから、権力者・統治者の立場で描かれた洛中洛外図屏風には、暴力的な場面はまず描かれない。(中略)
 しかし、暴力的な気分は時代そのものの風潮であったために、特定の立場を示すものでなくても、風俗を中心に描く屏風には、その時代の都市を象徴する光景の一つとして描かれたのであろう。それが好んで描かれるようになったという所に、戦乱が過去のものとなりつつある。しかしまだ収まってはいない世の、その時代の気分を感じ取ることができる。

  後妻打ち(p179-182)
 慶長末~元和年間ころを中心とする江戸時代初頭の、暴力的な気風が感じられる場面は、刀や槍を取ってのチャンバラ的な乱闘シーン以外にもある。「舟木本」の左隻第三~四扇の下部、二条城の堀の角あたりでは、鬼のような形相をした女が、赤い服の女の髪を左手に巻き付けて、右手で振り上げた擂り粉木のような棒で打ちすえ、双方から止めに入ろうとする男女と老婆が駆けついてつけている(「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」)。
 (中略)
 これは何の描写かというと、男の寵愛を失った女が鬼となって復讐するという内容の謡曲「鉄輪(かなわ)」の場面に基づいたものではないかと思われる。

《 「悪しかれと思わぬ山の.峰にだに。思わぬ山の峰にだに。人の嘆きは生うなるに。いわんや年月。思いに沈む怨みの数。つもって執心の。鬼となるもことわりや。いでいで命を取らん。『いでいで命を取らんと.しもっを振り上げうわなりの。髪を手にから巻いて。打つや宇都の山の。夢うつつとも分かざる浮き世に』。因果はめぐりあいたり。今さらさこそ.悔しかるらめ。さて懲りよ思い知れ。ことさら怨めしき。ことさら怨めしき。あだし男を取って行かんと。臥したる枕に立ち寄り見れば。恐ろしやみてぐらに。三十番神ましまして。魍魎鬼神はけがらわしや。出でよ出でよと責めたもうぞや。腹立ちや思う夫をば。取らであまさえ神々の。責めを蒙る悪鬼の神通通力自在の勢い絶えて。力もたよたよと。足弱車のめぐり逢うべき。時節を待つべしや。まずこの度は帰るべしと。いう声ばかりはさだかに聞こえ。いう声ばかり.聞こえて姿は。目に見えぬ鬼とぞ.なりにける。」

 上記の「後シテ登場以降の抜粋の仕舞の部分」の(『』)の箇所が紹介されている。上記は次のアドレスによる。

http://www.syuneikai.net/kanawa.htm    》

 (中略)
 「舟木本」は同時代の京都に基づいて描かれているが、もちろんすべてが現実ではなく、この後妻打ちの場面は、文学作品を絵画化して挿入することで、暴力的な場面を意図的に盛り込んだものと思われる。絵を受容する側にも、それを好む気分が確かにあったはずである。
  (中略)
 では「舟木本」で、なぜよりによって二条城のそばにこんな暴力的場面を描くのだろうか。二条城は言うまでもなく徳川家の象徴であり、それは徳川家の内部事情に由来していると考えられないだろうか。というのは、松平忠直の父で、福井藩=越前松平家の初代となった結城秀康は、秀忠の兄でありながら、妾であった母が正妻築山殿の迫害を受け冷遇されたという背景があるからである。そのような将軍家に対する複雑な感情が、先妻が後妻を打擲(ちょうちゃく)するという、後妻打ちにやつした場面として描かれているのではないだろうか。松平忠直は、大阪の陣でも活躍しながら恩賞に不満を抱いていたと伝えられ、徳川方でありながら、京都の統治者である将軍家に対しては必ずしも好意的でない。そのような立場と感情が、大仏近くの乱闘場面と対になる暴力場面という形でここに表現されていると考えられないであろうか。
 そのように考えたもう一つの理由は、先述のように、四条河原で興行されている舞台の一つに人形操りの「山中常盤」が描かれていることである。源義経の母である常盤が、義経を訪ねる旅の途中で強盗に惨殺され、義経が復讐する物語であり、画中の隠れた暴力場面でもある。岩佐又兵衛は、その絵巻物(凄惨な場面で有名)も後に福井で制作しているが、荒木村重の子供であった岩佐又兵衛(岩佐は母方)は、村重が信長に背いた際に母は殺されているため、「舟木本」にこの題目が描かれていることには、その思いが反映していることは疑いない。そのような画家の感情があらわれているのなら、より重要な発注者の思いが描き込まれていてもおかしくない。岩佐又兵衛を招いた松平忠直は、お互いにの境遇に相通ずるものを感じていたのではなかろうか。 】
(『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 (p172-182)』の要点抜粋。一部、記述箇所の表記と省略部分を修正・アドレスなど付記している。)

 上記の「要点抜粋」をした『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 』は、『人間文化研究機構 二〇一二『都市を描く―京都と江戸―』特別図録(※著者は第一部『洛中洛外図屏風と風俗画』の展示プロジェクトの代表)』を基礎として、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』などの参考文献を十分に配慮しての、スタンダード(教科書)的な見解と解しても差し支えないのかも知れない。
 しかし、上記の「要点抜粋」だけでは説明不足と感じられるところもあり、その周辺のことなどを付記して置きたい。

一 福井藩=越前松平家の初代・結城秀康の「実母・長勝院」(徳川家康の側室「通称:おこちゃ、於万の方、小督局」)と「養母・高徳院」(豊臣秀吉の正室「通称「北政所・ねね・おね=御寧など」)そして「結城秀康」の周辺

 長勝院(ちょうしょういん、天文17年(1548年) - 元和5年12月6日(1619年1月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。江戸幕府の初代将軍・徳川家康の側室。物部姓永見氏の娘。通称おこちゃ、於万の方、小督局とも。結城秀康の生母。
天正12年(1584年)、11歳の於義丸が豊臣秀吉の養子となり、のちに元服し秀康と改名した。秀康は結城晴朝の養女・江戸鶴子と結婚し、婿養子として結城氏を継いだ。関ヶ原の戦い後は秀康が北ノ庄城の城主となったため、万もこれに同行する。慶長12年(1607年)に秀康が北ノ庄にて急死すると、家康の許可なしに出家するが、咎めはなかった。
(「ウィキペディア」)

 高台院(こうだいいん、生年不詳 - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。(「ウィキペディア」)

 結城 秀康(ゆうき ひでやす)/ 松平 秀康(まつだいら ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越前国北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。
   出生
 天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称おこちゃ、小督局)。誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村正吉の屋敷であった。現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
あくまで伝承ではあるが秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣の本多重次のもとに預けられたという。
  少年期
幼名を於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれており、研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。
  豊臣家の養子
大坂へは、傅役の小栗大六(小栗重国)と小姓の石川勝千代(石川康勝)・本多仙千代(本多成重[注釈 3])がつき従う。家康より「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。天正12年(1584年)12月12日、羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。
天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原平定、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。
天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。そのため他の養子同様に、再び他家に出される。
   結城家の養子
 天正18年(1590年)、実父の家康が駿遠三甲信から、関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子とすることを考えついた。結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家であった。秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1,000石を継いだ[注釈 4]。また改めて羽柴姓を賜り、官位から羽柴結城少将と呼ばれた。
   越前移封とその後
 死後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。上杉景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。慶長5年9月7日、徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、家康は秀康の武将としての器量を評価しており、父子がそれぞれの立場をわきまえて生涯認めあっていたことは確かである。
関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封された。結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なくなく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能したもので、その結果秀康は自らの権力における旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。慶長9年(1604年)には松平氏に復することも赦されているとする史料も存在する。
慶長10年(1605年)、権中納言へ昇進。越前宰相から越前中納言によばれかたが変わった。
慶長11年(1606年)9月21日には伏見城の留守居を命じられる。だが病を得て職務を全うできなくなったため、慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去。享年34。死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、梅毒ではなかったかとされる。また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。なお曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、他の難病にもとりつかれていたようである。始めは結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺で火葬され、孝顕寺殿前三品黄門吹毛月珊大居士と追号されたが、徳川家・松平家が帰依していた浄土宗による葬儀でなかったことを家康が嘆いたため、知恩院の満誉上人を招いて新たに運正寺を作り、ここに改葬して戒名も浄光院殿前森巖道慰運正大居士と浄土宗での戒名も新たに授与された。越前68万石は、嫡男・松平忠直が継いだ。(「ウィキペディア」)

父:徳川家康(1543-1616)
母:長勝院(1548-1620) - おこちゃ、於万の方、小督局、物部姓(永見氏)永見貞英の娘
養父:豊臣秀吉(1537-1598)、結城晴朝(1534-1614)
正室:鶴子 - 結城晴朝養女、江戸重通の娘 → ※秀康没後、烏丸光広正室
側室:岡山 - 清涼院、中川一元(出雲守)の娘
長男:松平忠直(1595-1650) → 下記の「松平忠直のプロフィール」
次男:松平忠昌(1598-1645)
側室:駒 - 小田氏治の娘
側室:奈和(?-1609) - 長寿院、津田信益の長女
六男:松平直良(1605-1678)
側室:品量院 - 三好長虎の娘
五男:松平直基(1604-1648) → ※結城家の社稷を継承。
室:月照院 - 三谷長基の娘
次女:喜佐姫(1598-1655) - 龍照院長誉光山秋英大禅定尼、徳川秀忠の養女、毛利秀就正室
三男:松平直政(1601-1666)
生母不明の子女
男子:呑栄 - 西福寺21世住職

※曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、→ 「曲直瀬玄朔と越前松平家」との関係 → 特記事項

※曲直瀬道三の『医学天正記』
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00655/index.html

※曲直瀬玄朔の『医学天正記』
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000895#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-1424%2C-224%2C8863%2C4462

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000173#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-1324%2C-208%2C8263%2C4159

二 「築山殿」(徳川家康:正室、長男:松平信康=自害)と「長勝院」(徳川家康:側室、次男:結城秀康=越前松平家祖)そして「西郷局」(徳川家康:側室、三男:徳川秀忠=第二代征夷大将軍)周辺

https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/history/%20wives

築山殿/つきやまどの
今川氏の一族関口義広の女。母は今川義元の妹。家康が駿府で人質であったときに正室となった。永禄2年(1559)に長男信康、3年に長女亀姫を生む。同5年、人質交換によって岡崎に迎えられ、 城の東方にある総持寺の築山に住んだという。天正7年(1579)遠江国富塚(浜松市)で家康の命によって殺され、同所の西来院に葬られた。

於万の方/おまんのかた(小督の局、長勝院)
三河鯉鮒の祠官永井志摩守吉英の女というが定かでない。築山殿に侍女として仕え、天正2年(1574)に家康2男の於義丸(のちに秀康)を生んだ。於万の懐妊を知った築山殿は、嫉妬 して於万を浜松城内の木に縛り折檻したという。元和5年(1619)、越前北庄にて没し、同所考顕寺に葬られた。72歳。

※「於万の懐妊を知った築山殿は、嫉妬 して於万を浜松城内の木に縛り折檻したという」→「後妻(うわなり)打ち」説の根拠とされている。

於愛の方/おあいのかた(西郷の局、宝台院)
戸塚忠春の女。母は三河八名郡の西郷正勝の女。西郷義勝の後妻に入ったが、義勝戦死後は浜松城に召しだされて家康に仕え、西郷清員の養女とされたために西郷に局と呼ばれる。天正7年(1579)に家康3男秀忠を生む。 同17年、駿府に没し、同所の龍泉寺に葬られた。28歳。寛永5年(1628)に従一位と宝台院の号を追贈された。

三 「舟木本」の「後妻(うわなり)打ち」図と「歴博D本」の「夫婦喧嘩」図の周辺

暦博D本・夫婦喧嘩図.jpg

「相国寺門前の夫婦喧嘩図」(「歴博D本」左隻第一扇下部)→「歴博D本・夫婦喧嘩図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 「舟木本」の「後妻(うわなり)打ち図」(「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」)の原型は、この「歴博D本・夫婦喧嘩図」にある。この「歴博D図」については、下記アドレスの、この《「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その一)》のスタート地点で記述している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-18

《●四 洛中洛外図屏風(歴博D本) [江戸時代前期]
※祇園会の祭礼行列や遊楽の場面が特色。第二定型(右隻=内裏、左隻=二条城)の構図だが、二条城は比較的小さい。統治者の視点で描かれていない。大仏の前での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれているなど「舟木本」との共通点が多い。町並みは簡略化され、現実の京都というよりも、抽象化された町になっている。》

 そして、それに続いて、《「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三)》で、下記のアドレスの、そのスタート地点での謎解きの「松平忠直」周辺について記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

《 ここでは、その「謎解き」の、そのスタートに相応しいものを記して置きたい。

【 忠直は、元和元年前後には岩佐又兵衛とその作品を知っており、翌二年に越前に呼び寄せた。そして、又兵衛を中心とした画工集団に、自分の選んだ『堀江物語』以下の物語を次々に絵巻に作らせたのであった。したがって、「又兵衛風絵巻群」の絵巻としての諸特徴には、忠直の好みがよく現れており、忠直が進んで絵巻化した五つの物語には、彼の倫理や願望が色濃く映しだされている。「又兵衛風絵巻群」は、越前藩主松平忠直の斑紋と彼の趣味が生み出した稀有の作品群であり、「忠直絵巻群」だったのだ。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p242-243)

ここに、簡略な「松平忠直のプロフィール」も併記して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお) (1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。
15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。[上野秀治]
『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

(参考) 「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生。
1601(慶長6)秀康、越前入国。北庄城の改築始まる。
1607 秀康、北庄で死去。忠直、越前国を相続。
1611 勝姫と婚姻。
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる。
1615(元和元) 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。長男仙千代(光長)北庄に誕生。
1616 家康、駿府で死去。
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる。
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。仙千代、忠直の名代と
して江戸へ参勤する。
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。永見右衛門を成敗。
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、5月豊後萩原に到着。
1624(寛永元) 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。北庄を福井と改める。
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る。
1650(慶安3)9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀。 》

 これらに続いて、次回以降も、そのスタート地点に戻って、この「舟木本」と「歴博D本」周辺の幾つかの事項の探索を付記して置きたい。
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 1

yahantei

 ここで、やはり、スタート地点に戻ると、これまでの「三藐院ファンタジー」の「人物群像」は、下記のとおり、膨れ上がってくる。



(参考)「源氏物語画帖」「猪熊事件」と「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧(※=「源氏物語画帖」「猪熊事件」、※※=「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」、※※※=「結城秀康・松平忠直」周辺 )の主要人物

※※※結城晴朝(1534-1614)→下総結城氏17代当主・結城秀康の養父「舟木本」
※※豊臣秀吉(1537-1598) →「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) →「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
※※※板倉勝重(15451624-)→ 京都所司代・板倉家宗家初代・「舟木本」
※※※長勝院(1548 – 1619) → 徳川家康側室・結城秀康生母・「舟木本」
※※※曲直瀬玄朔(1549- 1632) →豊臣秀吉・秀次、徳川家康・秀忠、結城秀康の転医
※花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※※本因坊算砂(1559 – 161623)→「家元本因坊家の始祖」「(仮名草子)竹斎」「舟木本」
※※※本阿弥光悦(1558 – 1637) →「琳派」の祖師・「勝重・光広」の書の師(「光悦流」) 
※※高台院 (1561? - 1598) → 「豊国祭礼図屏風」「舟木本」
※※※石村検校1562 – 1642) →「筝曲作曲家・三味線奏者・琵琶法師」「舟木本」
※近衛信尹(一五六五~一六一四)  →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
※久我敦通(一五六五~?)     →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
※後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
※※※狩野内膳(1570-1616) →「豊国祭礼図屏風」筆者・岩佐又兵衛の師(?)「舟木本」
※※※角倉素庵(1571-1632) → 「角倉家」の嫡子・「光悦流」から「角倉流」を創始。
※※※本多富正(1572-1649) →「結城秀康・松平忠直・忠昌」三代の御附家老・「舟木本」 
※※※結城秀康(1574-1607)→ 徳川家康次男・松平忠直実父
※日野資勝(一五七七~一六三九)  →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) →「方広寺鐘銘事件」「舟木本」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※※俵屋宗達(?~1643?)→「光悦と並んで琳派の祖」「舟木本」 
※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」・「舟木本」 
※※※鶴姫(?~1621)→ 結城晴朝の養女、結城秀康・烏丸光広の正室「舟木本」
※八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
※四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

※飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
※※※板倉重宗(1586-1657) → 京都所司代・板倉家宗家二代・「舟木本」
※中院通村(一五八七~一六五三)    → 「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
※※※板倉重昌(1588-1638)→ 徳川家康の近習出頭人・三河深溝藩主・「冬の陣」
※久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
※冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
※※※松平忠直(1595-1650) → 「結城秀康長男」「舟木本」
※※※松平忠昌(1598-1645) → 「結城秀康次男」「舟木本」
※近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
※※※松平直政(1601-1666) → 「結城秀康三男」「舟木本」
※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」
※※※五男:松平直基(1604-1648) → 「結城秀康五男」「舟木本」
※※※松平直良(1605-1678) →「結城秀康六男」「舟木本」



上記の「人物群像」を、眺めていると、「舟木本」を読み解くためのキィポイントは、何となく、次の年代にあるような予感がする。



※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
※※※板倉勝重(15451624-)→ 京都所司代・板倉家宗家初代・「舟木本」
※※※長勝院(1548 – 1619) → 徳川家康側室・結城秀康生母・「舟木本」
※※※曲直瀬玄朔(1549- 1632) →豊臣秀吉・秀次、徳川家康・秀忠、結城秀康の転医
※花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※※本因坊算砂(1559 – 161623)→「家元本因坊家の始祖」「(仮名草子)竹斎」「舟木本」
※※※本阿弥光悦(1558 – 1637) →「琳派」の祖師・「勝重・光広」の書の師(「光悦流」) 
※※高台院 (1561? - 1598) → 「豊国祭礼図屏風」「舟木本」
※※※石村検校1562 – 1642) →「筝曲作曲家・三味線奏者・琵琶法師」「舟木本」
※近衛信尹(一五六五~一六一四)  →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
※久我敦通(一五六五~?)     →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
※後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
※※※狩野内膳(1570-1616) →「豊国祭礼図屏風」筆者・岩佐又兵衛の師(?)「舟木本」
※※※角倉素庵(1571-1632) → 「角倉家」の嫡子・「光悦流」から「角倉流」を創始。
※※※本多富正(1572-1649) →「結城秀康・松平忠直・忠昌」三代の御附家老・「舟木本」 
※※※結城秀康(1574-1607)→ 徳川家康次男・松平忠直実父




by yahantei (2021-12-04 18:46) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。