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「俳誌・ホトトギス」管見(その九) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(24巻12号)・三百号」(大正十年・一九一三/九月号)周辺

ホトトギス300号.jpg

「ホトトギス(24巻12号)・三百号」(大正十年・一九一三/九月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/1

(目次)

俳句所感/高濱虚子/p1~3
「夜もすがら神鳴聞くや」の句の辯/高濱虚子/p4~6
出征俳信/田北衣沙櫻/p7~19
渡邊南岳 『四季草花繪卷』の序/p19~23
1/正木直彦/p19~19
2/結城素明/p19~22
3/高濱虚子/p22~23
杉山一轉の句/高濱虚子/p23~25
「島」(荻田才之助著)の序/高濱虚子/p26~26
溪谷を出づる人/前田普羅/p27~33
鎌倉能樂會/内藤鳴雪/p34~34
二百號當時を顧みて/室積徂春/p34~38
新題季寄せについて/毛利碧堂/p38~41
石井柏亭先生へ/小寺葉舟/p41~42
團扇(募集俳句)/内藤鳴雪/p42~43
葉櫻(募集俳句)/原石鼎/p43~47
秋風(募集俳句)/村上鬼城/p47~48
各地俳句界/零餘子/p49~63
東京俳句界/p49~50
地方俳句界/p50~63
海外俳句界/p63~63
俳句入門欄/p64~66
高と低と/目黑野鳥/p64~65
投句/p65~66
石鹼玉十句集/p66~67
新刊紹介/p67~68
消息/p68~68
雜詠/虚子/p69~81
中學讀本中にある俳句(俳談會第四十回)/鳴雪 ; 虚子等/附1~附20
其角研究(第十九回の一)/若樹 ; 世音 ; 仙秀 ; 鳴雪 ; 鼠骨 ; 樂堂等/附1~附10
麻三斤/小川芋錢/p5~5
馬/小川芋錢/p9~9
スケッチ/石井柏亭/p13~13
スケッチ/石井柏亭/p17~17
おやつ/森田恒友/p21~21
原/森田恒友/p31~31
裸女/小川千甕/p39~39
童女/小川千甕/p45~45

(管見)

一 「ホトトギス(8巻7号)・百号」、「ホトトギス(16巻6号)・二百号」、そして、「ホトトギス(24巻12号)・三百号」周辺

 「ホトトギス(8巻7号)・百号」は、「明治三十八年・一九〇五/四月号)」、「ホトトギス(16巻6号)・二百号」は、「大正二年・一九一三/五月号」、この八年間うちの大きな出来事は、「百号」時の、夏目漱石の「吾輩は猫である」の搭載により、地方(伊予・東京)俳誌的な「ホトトギス」が、全国的な文芸誌「ホトトギス」へと飛躍的に伸長した時期であった。
 そして、「二百号」時は、漱石の「朝日新聞」に入社などにより「ホトトギス」への寄稿
が皆無となり、さらに、子規没後の、「日本俳壇」を引き継いだ「河東碧悟桐派(新傾向俳句)の革新派」と「ホトトギス」を引き継いだ「高浜虚子派(伝統俳句の守旧派)」との対立・抗争による「ホトトギス」刷新・再生の時期であった。
 その上で、「大正十年・一九一三/九月号」の「※三百号」の目次を見ると、「※二百号」時の「高札」の一つの、「毎号虚子若しくは大家の小説一篇を掲載する事」は影を潜め、「文芸誌・ホトトギス」から「俳誌・ホトトギス」へと回帰したニュアンスが読み取れる。
 すなわち、「※百号」そして「※二百号」時の「作家(小説家)・虚子」から「俳人・虚子」への再回帰というニュアンスが濃厚となってくる。
 これらのことを、「ホトトギス・百年史」で、その要点を抜粋すると、以下のとおりである。

「ホトトギス・百年史(要点抜粋)」(百号から三百号)

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1001-top.htm
http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

※明治三十八年(1905) → 「ホトトギス」百号。
一月 「吾輩は猫である」漱石、明治三十九年八月まで連載。四月 「ホトトギス」百号。
明治四十年(1907)
一月 漱石朝日新聞入社、以後「ホトトギス」に投稿しなくなる。新聞「日本」廃刊、俳句欄「日本及び日本人」に移る。(三月より碧梧桐選)。四月 「風流懺法」虚子。五月 「斑鳩物語」虚子。七月 「大内旅館」虚子。
明治四十一年(1908)
二月 『稿本虚子句集』刊(俳書堂)。虚子、国民新聞に「俳諧師」連載。
十月 虚子国民新聞文芸部部長となり、東洋城を俳句欄選者にする。ホトトギス雑詠を始める。
明治四十三年(1910)
九月 虚子国民新聞退社。「ホトトギス」九月号発売禁止(一宮瀧子「をんな」掲載による)。
十二月 財政難のため「ホトトギス」発行所を芝区南佐久間町に移す。虚子鎌倉市由比が浜同朋町に移住。
明治四十五年(1912)
一月 俳句入門」連載、虚子。七月 雑詠を復活
大正元年(1912)

※大正二年(1913) → 「ホトトギス」二百号
一月 虚子「俳句入門」の中で新人原石鼎、前田晋羅を推す。碧梧桐の日本俳句分裂。
五月 「椿の花」田山花袋。「六ヶ月間俳句講議」連載、虚子。『虚子文集』出版(実業之日本社)。
大正四年(1915)
一月 蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う。二月 「渋柿」創刊。三月 新傾向俳句分裂相次ぐ。
四月 「進むべき俳句の道」連載、虚子。十月 水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)。虚子編『ホトトギス雑詠集』刊(四方堂)。乙字「現俳壇の人々」で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(「文章世界」)。
※※大正五年(1916)
四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。十二月 漱石没。
大正七年(1918)
四月 虚子『俳句は欺く解し欺く味ふ』刊(新潮社)。七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。九月 この年新傾向運動終熄。
大正八年(1919)
九月 草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)。秋桜子・風生・誓子・青邨・年尾・虚子、帝大俳句会結成。
大正九年(1920)
二月 鳴雪・虚子。草城・野風呂・王城・播水、京大三高俳句会を結成。

※大正十年(1921) → 「ホトトギス」三百号

二 「※※大正五年(1916)四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。十二月 漱石没。」周辺

 「ホトトギス」の「百号」(明治三十八年・一九〇五))から「三百号」(大正十年・一九二一)の歩みの中で、子規没後の、その後継者の「虚(虚子)・碧(碧悟桐)」の「対立・抗争・終息」の変遷というのが、その中心の視点ということになるが、その「虚子派(守旧派)」内での、「東洋城更迭・排斥」ともいうべき、虚子の、「国民新聞の『国民俳句』の選を東洋城に代わり再び担当」するという、「虚子(「俳誌・ホトトギス」)と東洋城(「俳誌・渋柿」)」との、今に続く、その因縁のしがらみは、やはり、特筆しておくべきことなのであろう。
 これらについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-19

(再掲)

[(東洋城・三十九歳。虚子は大正二年、俳句に復活したが、四月、東洋城に無断で「国民俳壇」を手に入れた。爾後、虚子及び「ホトトギス」と絶縁し、「渋柿」によつて芭蕉を宗とし俳諧を道として立った。)

※怒る事知つてあれども水温む(前書「有感(大正五年四月十七日国民俳壇選者更迭発表の日)」)

[※「大正五年、虚子が俳句に復活し、四月十七日、東洋城はついに国民俳壇の選者を下りた。それというのも、国民新聞の社長・徳富蘇峰が、選者を下りてほしい旨、手紙を送ってきたためであった。東洋城はかねてより、社長からなにか言ってくるまで辞めないつもりだったが、読むと、かなり困って書いてきたものだとわかった。「仕方がない、社長は大将だ。ここまで書いてくるのは、よほどのことなのであろう」と、ついに下りることを承諾した。そして、
  有感(感有リ)
 いかること知つてあれども水温(ぬる)む
という句をつくり、以後虚子とは義絶した。九月には母の上京を促すため、帰郷した。末弟の宗一(そういち)が東京高商に入学するため上京し、以後、宇和島で独り住まいになっていた母の面倒を見るのは長男(※嫡男)の務めだと思い、同居の説得に行ったのだった。この年、東洋城にとって肉親の死にも等しい哀しいできごとがあった。十二月九日、漱石が死亡したのである。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

三 「ホトトギス・三百号」の画家周辺

石井柏亭・スケッチ画.jpg

「スケッチ/石井柏亭/p13~13」「スケッチ/石井柏亭/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/13
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/15

石井柏亭については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

森田恒友・スケッチ画.jpg

「おやつ/森恒友/p21~21」「原/森田恒友/p31~31」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/17
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/22

 森田恒友についても、下記のアドレスでも、下記アドレスで、「ホトトギス(300号記念号)の「表紙絵」と「挿絵」の画家たちで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-30

(再掲)
[※「ホトトギス(300号記念号)の「表紙絵」を担当したのは津田青風にとっては、その「挿絵」を担当した「小川芋銭・石井柏亭・森田恒友・小川千甕」ともども、一つのエポックであったことであろう。

(補記・「ウィキペディア」など)

小川芋銭(「1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家。」)

石井柏亭(「石井柏亭(1882-1958)は、洋画家として油彩画だけでなく、水彩画、版画、日本画と幅広いジャンルの作品を残しました。さらに、歌人、詩人、批評家、著述家、教育者としても活躍をしました。」)

森田恒友(「1881-1933(明治14-昭和8))、1906(明治39)年、東京美術学校西洋画科卒業。文展に出品。14~15(大正3~4)年に渡欧、帰国後水墨画の制作を始める。22(大正11)年、岸田劉生らと春陽会を創立、以後春陽会を中心に作品を発表。29(昭和4)年、帝国美術学校西洋画科の教授となる。セザンヌほかに学び油彩画を描いたが、一方で南画の理解と制作に励み、特に関東平野の風土をモチーフとして独自の詩情にあふれた水墨画を描いた。)」

小川千甕 (「1882年10月3日 - 1971年2月8日)は、京都市出身の仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。本名は小川多三郎。後に、自由な表現できる日本画である「南画」を追求。多くの作品を発表し、戦後にかけて文人への憧れから「詩書画」を多く手掛けるようになる。) 

(参考) 「明治三十七年・日露開戦勃発時の『漱石・虚子・青楓』周辺の人物像

※内藤鳴雪 847年〜1926年(弘化4年〜大正15年) 57才
※浅井 忠  1856年〜1907年(安政3年〜明治40年) 48才
※夏目 漱石 1867年〜1916年(慶応3年〜大正5年) 37才
※※河東碧梧桐 1873年~1937年(明治6年〜昭和12年) 31才
※※高浜 虚子 1874年~1959年(明治7年〜昭和34年) 30才
長谷川如是閑 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) 29才
※※松根東洋城  1878年〜1964年(明治11年〜昭和39年) 26才
※寺田 寅彦 1878年〜1935年(明治11年〜昭和10年) 26才

※津田 青楓   1880年〜1978年(明治13年〜昭和53年) 24才

※石井 柏亭 1882年〜1958年(明治15年〜昭和33年) 22才
高村光太郎 1883年〜1956年(明治16年〜昭和31年) 21才
※安倍 能成 1883年~1966年(明治16年~昭和41年) 21才
※小宮 豊隆  1884年~1966年(明治17年〜昭和41年) 20才 
川端 龍子  1885年~1966年(明治18年~昭和41年〉 19才
※山脇 敏子 1887年〜1960年(明治20年〜昭和35年) 17才
※安井曾太郎 1888年~1955年(明治21年〜昭和30年) 16才
芥川龍之介 1892年〜1927年(明治25年〜昭和2年) 12才      ]
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