SSブログ

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その九) [忘れがたき風貌・画像]

その九 「二人のキリシタン大名(陸将・高山右近と海将・小西行長)」周辺

小西行長の銅像.jpg

「宇土城の本丸にある小西行長の銅像」
https://senjp.com/konishi/

【 小西行長は、1558年、和泉・堺の商人である小西隆佐(小西立佐、洗礼名ジョウチン)の次男として京都で生まれた。母の名は、小西ワクサと呼ばれる女性で、洗礼名はマグダレーナ。 
父・小西隆佐(小西立佐)は薬種商で、1562年前後に、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなり、宣教師の使者として織田信長に拝謁もした人物であった。
小西家の出自は薬種商ではなく、父・小西隆佐(小西立佐)と小西行長は、元々宇喜多家の家臣とする説や、羽柴秀吉が宇喜多家調略の為、小西行長を送り込んだとする説が近年は有力視されている。
 1572年、18歳の小西行長は、岡山にある商家・魚屋九郎衛門の養子として入ると、商売で宇喜多直家の元を何度か訪ねており、その際に才能を見出されて、宇喜多家の家臣に御船組員として加わり武士となった。正室の名は菊姫。同様に熱心なキリシタンで洗礼名はジュスタ。
 織田信長の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、別所長治の三木城攻めを行った際には、宇喜多直家の使者として羽柴秀吉に降伏したと言われている。織田家に人質として出された宇喜多直家の嫡男・八郎(宇喜多秀家)に付き添い、羽柴秀吉からその才知を気に入られ、1580年より父・小西隆佐(小西立佐)と共に羽柴家で重用されるようになり、父は1585年頃から河内・和泉両国の蔵入分代官となり、1581年には石田三成とともに堺政所に任じらた。
 小西行長は、豊臣政権において当初、播磨(兵庫県)の網干に近い室津で所領を与えられ、やがて、瀬戸内海の塩飽(香川県丸亀市)から堺にかけての船舶を監督する水軍の大将である「舟奉行」に任命され水軍を率いた。また、羽柴秀吉と諸大名との「取次役」としての働きも見受けられ、1584年に高山右近の後押しもあって洗礼を受けてキリシタンとなったとされるが、父親がもっと古くからキリシタンである為、以前からキリシタンであった可能性もある。
1585年には摂津守に任ぜられ、豊臣姓を名乗ることを許されているが、この頃、母・小西ワクサは豊臣秀吉の正室・おねの侍女として大阪城に上がった。
1585年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も運用して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。
 それらの功で、1585年には小豆島10000石となり、小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。
1586年の九州攻め準備の為、赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後、平戸(長崎県)に向かって松浦氏の警固船出動を監督した。
 1587年の九州征伐では、薩摩・平佐城攻略の搦手口の大将として参加。父・小西隆佐(小西立佐)は兵糧を担当したようで、他にも豊臣秀吉の代理人として南蛮船が輸入した生糸の優先買い付けのため、長崎に赴いている。
 1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、改易となった高山右近や、オルガンティーノ宣教師を一時、小豆島に隠した。
 1588年、一揆制圧に失敗した佐々成政の肥後国人一揆討伐で功をあげ、改易された佐々成政の肥後南半国の宇土、益城、八代の約20万石と大出世し、宇土古城に入った。
豊臣秀吉は熊本城を中心に北半分は武功派の加藤清正に、南半分を頭脳派の小西行長に与えたのだ。肥後で小西行長は新たに宇土城を築城開始して本拠を移した。
 しかし、その際に宇土城普請に従わなかった天草五人衆が蜂起(天草国人一揆)。天草五人衆は豊臣秀吉から直接領地安堵されており、小西行長とは対等な立場と考えていたようだ。  
 キリシタンの多い天草衆に対して、同じキリシタンの小西行長は事態を穏便に済ませようとしたが、加藤清正が強固に軍勢を派遣した為、小西行長は加藤清正らとともに平定し、天草10000石も加増された。
宇土城は水城として優れた能力を持った城で、豊臣秀吉は、のちに計画していた朝鮮出兵を考えて、水軍統率に長けた小西行長を肥後に封じたと考えられる。また、豊臣秀吉は八代に麦島城を築城し、小西家三家老の一人で古麓城代ある小西行重(小西美作守行重)に麦島城代を命じた。天草はご承知の通り、70%以上の人々が熱心なキリシタンの地であり、イエズス会の活動を小西行長は支援し、領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガンや時計も作った。
隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城として、隈庄城に弟・小西主殿介、愛籐寺城には結城弥平次ら一族重臣を城代に任じ、バテレン討伐令で失脚した高山右近の旧臣を多数家臣に取り立てている。しかし、残りの肥後北半国を領していた加藤清正とは境界線をめぐって次第に確執を深めて行った。
小西行長の名が広く知られるようになったのは明の沈惟敬(しんいけい)との講和交渉を小西行長が日本代表として交渉を進めたからである。しかし、朝鮮攻めが決定すると、1592年からの文禄の役では、娘・妙の婿でもある対馬領主の宗義智と共に第一軍として6000を率いて朝鮮へ渡航。小西行長と加藤清正の両名が先鋒となることを希望していたが、豊臣秀吉は小西行長に大黒の馬を贈って先鋒として、加藤清正を2番手とした。
 小西行長らは漢城(現ソウル)を陥落させるなど進撃したが、その後はこう着状態となり、小西行長・石田三成らが中心となって和平交渉を進めた。この時、父・小西隆佐(小西立佐)は、兵糧の後方支援を担当していたようだが、肥前国名護屋で発病すると帰国したが、1592年京都で亡くなっている。
 小西行長は、1597年の慶長の役でも加藤清正と共に先鋒を任命されて、南原城攻略などで活躍したが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなり戦いは終結し、島津義弘らの救援も受けて殿軍(しんがり)を務め、12月に無事帰国した。その後は、徳川家康の指示で動くようになり、1599年に薩摩で起こった島津家の内紛では、徳川家康から派遣されている。
1600年、上杉景勝の会津征伐では、徳川家康より上方残留を命じられ、関ヶ原の戦いでは、石田三成に協力して西軍として布陣した。徳川家康寄りだったにも拘わらず、小西行長が西軍に与したのには、朝鮮出兵で強く結びついていた石田三成や、以前仕えた宇喜多家への義理、東軍の加藤清正との対立などが考えられる。小西行長の兵力は、朝鮮出兵での消耗からまだ立ち直っておらず、意外なほど小規模だったようで、4000と言う布陣は石田三成らが貸した兵が多かったとされる。
 小西行長は天満山に布陣して東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦したが、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継が壊滅すると、続いて小西行長・宇喜多秀家も崩れ、小西行長は伊吹山中に逃亡した。9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われていたが、観念した小西行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたと言う。(キリシタンだった為、自害はしなかったとされる。)
 しかし、林蔵主はこれを受けず、竹中重門の家臣・伊藤源左衛門と山田杢之丞の両名に事情を説明して、共々小西行長を護衛して草津にあった村越直吉の陣まで連れて行ったと言う。その2日後には石田三成が捕まり、その翌日には安国寺恵瓊が捕縛された。
 3人は9月29日に大坂と堺で引き廻されて、10月1日、京都の六条河原にて処刑された。その後、首は三条河原で晒されたと言う。享年46。 】

カトリック高槻教会にある右近像.jpg

カトリック高槻教会にある右近像(イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作)
http://www.catholic-takatsuki.jp/ukon_takayama/


https://www.touken-world.jp/tips/65545/

【 西暦(和暦)  年齢 出来事
1552年(天文21年)1歳  摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照(たかやまともてる)の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇(うだてんのう)を父に持つ敦実親王(あつみしんのう)の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
1564年(永禄7年)13歳  父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎(ろれんそりょうさい)と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
1568年(永禄11年)17歳 織田信長の強力な軍事力による庇護のもと、室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)の命により、高槻城(たかつきじょう:大阪府高槻市)に和田惟政(わだこれまさ)が派遣される。これに伴い、高山友照・高山右近親子は、和田氏に仕えることとなる。
1571年(元亀2年)20歳  白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)において和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重(あらきむらしげ)に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長(わだこれなが)による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1578年(天正6年)27歳  主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)へと発展。
1579年(天正7年)28歳  有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔(はりつけ)にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣(かみこ)一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡(あくたがわぐん)を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
1580年(天正8年)29歳  織田信長が、安土城城下に諸将のための邸宅を建築。高山右近にも授与される。
1581年(天正9年)30歳  織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒(せんぽう)を務め、明智光秀軍を破る。
1583年(天正11年)32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で、豊臣家の勝利に貢献する。
1584年(天正12年)33歳 徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍と、豊臣軍が対峙した小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に参戦。
1585年(天正13年)34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城(ふなげじょう)を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
1587年(天正15年)36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長(こにしゆきなが)にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家(まえだとしいえ)に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
1600年(慶長5年)49歳  関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)では東軍に属し、丹羽長重(にわながしげ)を撃退する。
1609年(慶長14年)58歳 高岡城(現在の富山県高岡市)の縄張設計を担当。
1614年(慶長19年)63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
1615年(慶長20年/元和元年)64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
2016年(平成28年) バチカン市国にあるローマ教皇庁から、福者(ふくしゃ:没後、その聖性と徳を認められた信者に与えられる称号)に認定される。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

【(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は? 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-19

小西行長文鞍.jpg

「梅花皮写象牙鞍(かいらぎうつしぞうげくら) 伝小西行長所用」(安土桃山時代・16世紀 個人蔵)
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s39.html

【 梅花皮を模した象牙をふんだんに散りばめた美麗な鞍。小西行長が息女・マリアを対馬の大名・宗義智に嫁がせた際に持たせたものといいます。関ヶ原合戦で行長は斬罪に処されてしまい、徳川政権下での生き残りを図る義智は、マリアを離縁しました。行長の栄光と悲劇を伝える名品です。  】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-07

【≪ もし、宗教を大きく、父の宗教と母の宗教とにわけて考えると、日本の風土には母の宗教-つまり、裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている。だから、超越者に母のイメージを好んで与えてきた日本人には、基督教は、ただ、厳格で近寄り難いものとしか見えなかったのではないかというのを私は序論にした。≫
(遠藤周作『小さな町にて』)

 この遠藤周作の「父の宗教と母の宗教」とに関連して、その遠藤周作の「小西行長伝」の副題がある『鉄の首枷』の、当時の「キリシタン大名」としての「高山右近と小西行長」との、その対蹠的な「キリシタン受容」の仕方が交差して来る。
 この二人は、豊臣秀吉の配下にあって、共に、イエズス会士として、高山右近が「陸の司令長官」とすると、小西行長は「海の司令官」ともいうべき、当時のキリシタン大名の中で将来の嘱望を託された若手の屹立した位置にあった二人と言える。
 そして、天正十四年(一五八七)の豊臣秀吉の「禁教令」(バテレン追放令=伴天連追放令)により、その翌年に高山右近は棄教を迫られるが、右近は信仰を守るために、播磨国(兵庫県)明石領(六万石)の全ての領地と財産を秀吉に返上し、明石領からの追放処分を受ける。
 この時に、その最終の棄教を促す使者として、右近の茶道の師匠である「千利休」に対し、右近は「『宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか』と答えた。利休はその志に感じて異見を述べなかった(『混見摘写』)」と言われている(「ウィキペディア」)。
 この高山右近が明石領から追放処分を受けた天正十五年(一五八七)の「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』所収)には、次のとおり記されている。

≪天正十五年(一五八七)丁亥 (小西行長)三十歳
一月 秀吉自ら島津氏を討つことを決し、諸臣に布告、先鋒を送る。
三月 秀吉、大阪を発して西下する。
四月二十八日 小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆の率いる水軍は、秀吉の命で薩摩平佐城を攻撃する。
五月 秀吉は薩摩川内に入り、島津義久は降伏する。(略)
六月七日 秀吉は筑前宮崎に帰り、九州諸大名の封城を定める。(略)
同十九日 秀吉は日本副管区長コエリョを呼びつけてキリスト教の禁止、二十日以内を期して国外追放を布告する。高山右近は棄教を肯んぜず、明石の所領を棄てる。
六月下旬~七月上旬 この頃オルガンティーノ師は動揺した小西行長と室津で会う。信仰と権力の板挟みになった行長は、面従腹背に生きる。
八月~九月 (略)
十月 秀吉は北野大茶湯を催す。 ≫(「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』p271所収)

この「小西行長年譜」に出てくる、小西行長の「面従腹背の生き方」について、『鉄の首枷』では、次のように綴っている。

≪ 右近が永遠の神以外には仕えぬと室津で語った時、行長は友人とはちがった「生き方」をしようと決心した。それは堺商人がそれまで権力者にとってきたあの面従腹背(めんじゅうふくはい)の生き方である。表では従うとみせ、その裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方である。(中略)
室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった。その正確な日付は我々にはわからぬが天正十五年(一五八七)の陰暦六月下旬から七月上旬であったことは確かである。ながい間、彼は神をあまり問題にはしていなかった。彼の受洗は幼少の時であり、その動機も功利的なものだったからだ。にもかかわらず彼はこの日から、真剣に神のことを考えはじめるようになる。そのためには高山右近という存在とその犠牲が必要だったのである。≫(『鉄の首枷』p95-98)

 ここで、「高山右近」(行長より六歳上とすると三十六歳)の、「永遠の神(Deus)以外には仕えぬ」とする、その「キリシタン受容」を、「父の宗教」とすると、上記の「小西行長」の「面従(面=棄教=永遠の神(Deus)を棄てる)、腹背(心=永遠の神(Deus)に従う)」の「キリシタン受容」の仕方も、これまた、壮絶な「父の宗教(Deus)=キリスト信仰」であるという思いと同時に、ここに、「母なる宗教(Mariae)=マリア信仰」の、その萌芽の全てが宿っているように解したい。
 グレコには、上記の「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )を主題とした「聖ペテロの涙」の作品もあるが、そこには、「小さくマグダラのマリア」が描かれている。この「マグダラのマリア」とは、「聖母マリア」が「キリストの生母たるマリア」とするならば、「キリストの最期をみとった使徒たるマリア」ということになる。

ペドロの涙.jpg

聖ペテロの涙 エル・グレコ フィリップス・コレクション蔵
https://www.marinopage.jp/%e3%80%8c%e8%81%96%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ae%e6%b6%99%e3%80%8d/

≪ 遠く雷鳴が聞こえてきそうな空の下、ペテロはキリストを裏切り、三度否認したことを悔いて、天を仰ぎ涙を流しています。
 グレコ独特の、白眼の部分のウルウルした光がペテロの心情をよく表していて、彼をこの上なく高貴な存在として輝かせています。ペテロの背後には、蔦がからまる洞窟が描かれていますが、蔦は「不滅の愛」のシンボルとされていますから、すでにキリストが悔い悩むペテロを赦し、愛をもって包もうとしているのが感じられます。
 当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していましたから、宗教画家だったグレコはマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いています。その中で、この作品はごく初期のもので、グレコ特有のデフォルメもまだ自然な段階にあり、非常に親しみ易い作品の一つと言えると思います。それでも、どこか地上的要素が姿を消し、超自然的な雰囲気が漂ってしまうところは、やはりグレコ・・・と思ってしまうのです。
 できれば自分もゆらゆら揺れて天に昇ってしまいたい、と願うように両手を組むペテロの左手奥には、見えにくいのですが、小さくマグダラのマリアが描かれています。これは、磔刑の三日後、マグダラのマリアが香油を持ってイエスの棺を訪れたことを暗示しています。すでにその時、主は復活した後で、石棺に白い天使が座っていました。これをペテロに知らせようとするマグダラのマリアの姿が描き込まれているのです。
 流れるようなタッチの中に劇的な雰囲気が漂い始めた時期の、グレコらしい作品です。≫  】

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その八) [忘れがたき風貌・画像]

その八 「二人の能登・堺の等伯」(「長谷川信春=等白=等伯」と「高山右近=南坊等伯」)周辺

大徳寺三門天井画(等伯).jpg

「大徳寺三門天井画・『蟠龍図』(長谷川等白(等伯)筆)」 天正十七年(一五八九) 京都・大徳寺
https://media.thisisgallery.com/20229664

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

【 「蟠龍(ばんりゅう)」図とは、「とぐろを巻いた龍のこと。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍」図で、長谷川等白(等伯)筆に成る「大徳寺三門天井画」には、この他に、その北側に「雲龍」図(「蟠龍」図の北側)、それら続けて「昇龍」図(西側天井図)と「降龍」図(東側天井図)、それらの脇に、「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)とが描かれている。
 それらに付け加えて、「降龍」図(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)との間の「柱」に「阿形仁王像」、そして、「昇龍」図(西側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)との間の「柱」に「吽形仁王像」とが描かれている。
 これらの全容は、『没後400年 特別展「長谷川等伯」展図録(「毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション刊」)』 の、「参考図版解説 大徳寺三門壁画」の解説に詳しい。これらの大徳寺三門壁画」周辺と「長谷川等伯・年表」を、「ウィキペディア」で抜粋すると、次のとおりとなる。 】

【  大徳寺三門天井画・柱絵(京都・大徳寺)
 天正17年(1589年)板絵著色。内訳は、中央に「雲龍図」と「蟠竜図」、その外側にそれぞれ「昇竜図」と「降竜図」、柱に阿吽の「仁王像」、さらに両サイドに「天人像」と「迦 陵頻伽像」を一体ずつ描く。等伯が大絵師への道を辿る契機となった記念碑的作品。この絵でのみ「等白」と署名しており、等伯と名乗る前の画号とみなされている。なおこれらの絵画は、温湿度の影響を非常に受けやすいため、作品保護の観点から一切の拝観が禁止されている。 

   中央画壇での活躍
 天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。 
 天正18年(1590年)、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。
 この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。

   年表
天文8年(1539年) - 能登国七尾に生まれる。
永禄6年(1563年) -『日乗上人像』(羽咋・妙成寺蔵)を描く。
永禄11年(1568年  - 長男・久蔵生まれる。
元亀2年(1571年) - 養父・宗清、養母・妙相没。この年に上洛か。
天正7年(1579年) - 妻・妙浄没。
天正17年(1589年) -『大徳寺山門天井画・柱絵』『山水図襖』(大徳寺蔵)を描く。妙清を後妻に迎える。
文禄2年(1593年) - 『祥雲寺障壁画』(智積院蔵)を完成する。長男・久蔵没。
慶長4年(1599年) -『仏涅槃図』(本法寺蔵)を描く。この頃「自雪舟五代」を自称する。
慶長9年(1604年) - 法橋に叙せられる。後妻・妙清没。
慶長10年(1605年) - 法眼に叙せられる。
慶長11年(1606年) - 『龍虎図屏風』(アメリカ・ボストン美術館蔵)を描く。
慶長15年(1610年) - 江戸下向到着後、没。享年72。  】

【 長谷川等伯が、この「大徳寺三門天井画・柱絵」を制作した「天正十七(一五八九)」は、等伯、五十一歳の時で、この年は、大きな節目の年であった。等伯の生涯は、大きく、次の五期に区分することが出来る。

https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/life.htm

能登の時代(33歳頃まで) →  能登の絵仏師「信春」の時代
京都・堺の時代(33歳~50歳頃)→ 上洛・雌伏・転機「信春から等白」の時代  
京都の時代(50歳代)→「狩野派」と二分する「長谷川派」誕生「等白から等伯」の時代
京都の時代(60歳代)→「桃山謳歌」の「等伯・法橋」の時代
京都の時代(70歳~72歳)→「江戸狩野派・探幽の時代」の「等伯・晩年」の時代

「天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山(三)門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである」(「ウィキペディア」)のとおり、「能登の絵仏師・長谷川信春」が、後の「天下の大絵師・長谷川等伯」に脱皮するのは、「京都・堺」を本拠とする「天下の大茶人・千利休」が大きく介在していることが、これらの「長谷川等伯年表」などから浮かび上がってくる。】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵).jpg

「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」 金沢市有形文化財
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3

【 キリシタン大名高山長房(通称右近)は、茶人で利休七哲の一人としても知られ、南坊・等伯などと号しました。豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます。
 利家没後、利長に仕え、築城技術の経験をかわれて、金沢城の修築さらに高岡築城に采配を振るい、大聖寺城(山口玄蕃)攻略にも参加しました。その間、娘を前田家重臣横山長知の子康玄に嫁がせましたが、老母と長男を失ってからは、徳川家康のキリシタン禁教で、慶長19年(1614年)正月17日に金沢を去るまでの間、信仰と茶湯三昧の生活を送ったと伝えられています。
 本書状は右近の金沢滞在中の足跡を示すもので、姪の嫁ぎ先でもある特権商人片岡孫兵衛(休庵)に、茶の湯に用いる鶴の羽ほうきが出来たので招待したいと申し入れたものです。

(釈文)
一両日不縣御目
御床布候、仍先日之
鶴之羽はうき御ゆ
い候はゝ、少見申度候
ゆわせ候者今晩参候間
ほんに見せ申度候
かしく
十一月廿六日 等伯(花押)
(封紙ウワ書)
「休庵公御床下 南坊」       】(「金沢市文化財保護課」)

【 この「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」の解説のとおり、「豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます」と、「茶人で利休七哲の一人・キリシタン大名高山長房(通称右近)」は、この当時、「長谷川等伯」の生まれ故郷の「金沢・能登」に移住していて、「南坊(みなみのぽう)等伯(とうはく)」の、「金沢・能登」出身の、「長谷川等白」ではなく、「等伯(「天下の大絵師・長谷川等伯」)の、その「等伯」を名乗っている。
 ということは、「高山右近」が「南坊・等伯」を名乗るのは、天正十七年(一五八九)後の、「等白」から「等伯」へと移行した、その翌年(天正十八年=一五九〇)の「狩野永徳」が没した(九月十四日没)年以降の当たりが、一つの目安になるのかも知れない。
 その翌年(天正十九年=一五九一)の二月二十八日に、「千利休」≪大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)≫は、豊臣秀吉の命により自刃させられている。
 これらに関連して、天正十七年(一五八九)に、長谷川等伯は、「千利休・高山右近・小西行長」らに関係の深い「堺」出身の「妙清」を後妻に迎えている(先妻の妙浄は、天正七年=一五七九、等伯四十一歳の時に没している)ことなどから、等伯の「京都・堺の時代(33歳~50歳頃)」に、「千利休」(「高山右近」の「利休七哲」と関連の「キリシタン大名」など)との親交が深くなっていったのかも知れない。 】

等伯像.jpg

「本法寺境内に建つ等伯の銅像」(メモ:後方の松は「本阿弥光悦手植えの松」か?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-11

【 長谷川等伯は1571(元亀2)年頃、故郷の七尾の菩提寺の本山だった本法寺を頼り、京都に出てきました。七尾ですでに画業で名を挙げていましたが、京都で絵の腕にさらに磨きをかけようとしたのでしょうか。現在も本法寺に隣接する塔頭の教行院(きょうぎょういん)に生活の拠点を得て、当時の最先端都市だった京や堺で絵を学びます。並行して千利休ら有力者とのパイプを築いていったと考えられています。

https://media.thisisgallery.com/works/hasegawatohaku_06      】

仏涅槃図.jpg

仏涅槃図(長谷川等伯筆)・本法寺蔵(メモ:光悦の寄進した「法華題目抄: 三九・七㎝×一四八八㎝」と「如説修行抄: 三九・七㎝×一四七二㎝」とも、長大な一巻である。)

【作品解説 
 東福寺、大徳寺所蔵のものと並び、京都の三大涅槃図に数えられる作品です。縦約10メートル、横約6メートルという巨大な作品で、首を上下左右に動かさなければ全体を見ることができません。この作品は完成後に宮中に披露された後、等伯が深く信頼を寄せていた本法寺に寄進されました。釈迦の入滅と、その死を嘆く弟子や動物たちが集まっている様子が、鮮やかな色合いで表情豊かに描かれています。裏面には、等伯が信仰していた日蓮宗の祖師たちの名、本法寺の歴代住職、等伯の親族、そして長谷川一門を担う存在として期待を寄せていた長男・久蔵たちの供養名が記されています。等伯の信仰の深さと、一族への祈りが込められた作品といえるでしょう。】

(本法寺の重要文化財) 『ウィキペディア(Wikipedia)』

重要文化財(国指定)
長谷川等伯関係資料
絹本著色日堯像(長谷川信春(等伯)筆)
絹本著色日通像(長谷川等伯筆)
紙本墨画妙法尼像(長谷川等伯筆)
紙本著色仏涅槃図(長谷川等伯筆)
等伯画説(日通筆)
附:日通書状
附:法華論要文(日蓮筆)
附:本尊曼荼羅(日親筆)
絹本著色日親像 伝狩野正信筆 - 2017年度指定[4][5]。
紙本金地著色唐獅子図 四曲屏風一隻[6][7]
金銅宝塔 応安三年(1370年)銘
紙本墨画文殊寒山拾得像[8] 3幅(文殊:啓牧筆、寒山拾得:啓孫筆)
絹本著色蓮花図(伝・銭舜挙筆)
絹本著色群介図
紫紙金字法華経(開結共)10巻
附:花唐草文螺鈿経箱
附:正月十三日本阿弥光悦寄進状
※法華題目抄(本阿弥光悦筆)
※如説修行抄(本阿弥光悦筆)

(周辺メモ)

※法華題目抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説138
 紙本 一巻 三九・七㎝×一四八八㎝ 

※如説修行抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説139
紙本 一巻 三九・七㎝×一四七二㎝ 

カトリック高槻教会にある右近像.jpg

カトリック高槻教会にある右近像(イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作)
http://www.catholic-takatsuki.jp/ukon_takayama/

【 高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。
 「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25,000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンでした。
 ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅した。右近は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長のところへ向かった。結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放され、この難局はぎりぎりのところで解決したのでした。】(「カトリック 高槻教会」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-12

主なキリシタン大名.jpg

「主なキリシタン大名」((「世界の歴史まっぷ」)
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%e5%8d%97%e8%9b%ae%e8%b2%bf%e6%98%93%e3%81%a8%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e6%95%99/#toc_index-3

【 ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶが、そのうち、大友義鎮(おおともよししげ)(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(ちぢわみげる)(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(くろだよしたか)(如水=じょすい、ドン゠シメオン、1546〜1604)·黒田長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(ほそかわただおき)(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。 】(「世界の歴史まっぷ」所収「南蛮貿易とキリスト教」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-25

茨城キリシタン遺物史料館地図.jpg

「千提寺・下音羽、高山、能勢の位置関係-高槻の山間部-」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p27)

【 千提寺・下音羽のキリシタン遺物を「点」で見るのではなく、「面」で見ることが必要です。現在の北摂の山間部は、能勢町・豊能町・箕面市・茨木市・高槻市と分かれていますが、右近の時代を考える時には、これらの山間部を一体的に捉える必要があるのです。
 1563年父ダリオが受洗後、高山周辺で最初の布教が行われました。その後、右近の戦の功績に対し、信長・秀吉は、父ダリオの出身地高山の周辺の山間部を、右近に与えていきます。
 この山間部では、1580年頃から集中的に布教が行われた結果、多くの僧侶を含む集団改宗が行われました。宣教師の記録で「高槻の山間部」という名前で度々登場してきます。改宗した元僧侶の強い指導のもとに団結し、農民主体の強力な信仰共同体が生まれ、江戸時代の厳しい禁教令のなかでも信仰が維持されました。このような歴史を持つ北摂の山間部から、多くの貴重なキリシタン遺物が大正時代発見されたのです。これらの遺物によって右近の時代の信仰を知ることができます。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」)

原田家本・追記.jpg

「マリア十五玄義図(原田家本)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)

【 (上段の聖母子像)

・中央の上段には右手で幼いイエス(地球儀を右手で持つ)を抱き、左手で白いバラ(椿)の花をつまんでいる聖母マリア様の絵が描かれています。このバラの聖母子像は、もともとの原型があるそうで、幼いイエスが手にするのはロザリオだそうです。この15玄義図では、十字架が付いている地球儀を持った幼きイエスとして描かれています。これは、同じ千提寺で発見された「救世主像」の形に似ていると言われています。16世紀後半、公式にロザリオの祈りが認められ、教会歴で10月7日にロザリオの聖母の日と定めてから以降、ロザリオの祈りが広く普及しはじめ、よく描かれるようになった画題だそうです。  

  (下段の聖体讃美の図)

「いとも尊き秘跡、讃仰せられよ」ポルトガル語: LOVVADO SEIA
O SANCTISS (IMM)SACRAMENTO ( ) は新村氏の追補、新村氏訳

・左に聖イグナチオ・ロヨラ、右に聖フランシスコ・ザビエルが描かれ、名前の前には、いずれも、S.P(聖父)が付いているので、これらの作品は両聖人が列聖されてから制作されたと考えられている。(ザビエルの列聖式は1622年行われたが、大勅書の発布が遅れ、日本に知らされたのは1623年です。)
・12人使徒に加えられえた聖マチアス(5月14日)と、目をえぐり取られても、純潔を守った聖ルチア(12月13日)、何れも古代の殉教者ですが、両聖人が描き加えられた意味については諸説あります。この聖人を霊名とした日本の殉教者は数多くいます。

 ラテン語、左側:S.P.IGNATIVS SOCIETATISIESVS(イエズス会士聖イグナチウス S.P は 聖人の敬称
右側:S.P.FRANCISCVSXAVERIUS (聖フランシスコ ザビエル) 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その七) [忘れがたき風貌・画像]

その七 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

高台寺の聖母子像.jpg

高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」
https://www.kyotodeasobo.com/art/exhibitions/hideyoshi-woman/

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

 このポスターの「戦国と秀吉をめぐる女性」(高台寺「掌美術館」)は、二〇一一年秋の特別展のものであるが、この絵図は、高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」で、この「聖母子像」関連については、下記のアドレスで、「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p108-110」を簡単に紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【この屏風の実質的な注文主の「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)の人物というのは、「高台院(北政所・お寧・寧々)の侍女、マグダレナ(洗礼名)とカタリナ(洗礼名)」(「バジェニスの『切支丹宗門史』には、彼女(北政所)はアウグスチノ(小西行長)の母マグダレナ、同じく同大名の姉妹カタリナを右筆として使っていた。此の二人の婦人は、偉大なる道徳の鏡となってゐた。妃后(北政所)は、この婦人達に感心し、自由に外出して宗教上の儀礼を果たすことを赦してゐた」と記されている)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/31/031_zuisou_a.pdf

「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p108-110」

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=高台院の侍女
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子、霊名カタリナ=高台院の右筆?  】

 その「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p110」
では、「『梵舜日記』によれば、マグダレナは慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていたが、その後記録には出てこない。実子行長が慶長五年(一六〇〇) に四十三歳に斬首されているので、年齢からするとこのころに世を去ったのであろうか。その折、親しくしていた北政所に聖母子像を託したのではないだろうか」と記している(「ウィキペディア」では、「慶長3年(1598年)の秀吉の死後、マグダレーナは再び北政所に召されて侍女となったが、関ヶ原の戦いの敗報と行長の死を知り、悲痛の余りほどなく亡くなった」とあるが、この『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい)。

 ここで、この高台院の侍女をしていたといわれる小西行長の母(洗礼名・マグダレーナ)などに関して、「ハーバード大学発!『レディサムライ』」の造語を副題とする『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、「レディサムライ」の元祖のような「高台院・北政所・ねね(おね)」、そして「侍女マグダレナ」と「秀吉とねねの養女・豪姫(マリア)」との関連の箇所を紹介して置きたい。

【『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』

第一部 ねねと豊臣家の女性たち
 第一講 ねねが武力の代わりに使ったもの
 第二講 安定した暮らしを守るために

(宣教師たちが伝えたねね)
P46- そう伝える宣教師の報告書には、まぐだれな、からら、るしゃ、…… ねねの侍女なのに、日本人の名前でない者がいます。かららとはClaraのこと。るしゃはLuciaのこと。そのほかにも、Monica(もにか)、Julia(じゅりあ)、Maria(まりあ)、Catarina(かてれいな)、Vrsula(うるすら)、Martha(まるた)、Paula(はうら)に、Ana(あんあ)……。日本に来ていたイエズス会士ルイス・フロイスの記録によると、大阪城にいた貴婦人や女官の中には、五、六人のキリシタンがおり、その既婚婦人のうちの一人がマグダレナだといいます。

(侍女マグダレナから情報収集を行っていた)
P46- 彼女はねねの侍女で、とても信心深い女性でした。キリスト教の祝日になると、大阪城を出て大阪の教会のミサに行っていました。彼女のおかげで普段は城の外に出ないねねでも、キリスト教関連の情報を聞き、城下町の様子を知ることができたといいます。それだけではありません。マグダレナは秀吉をも交えて、イエズス会宣教師のことや、彼らが信じる宗教について語り合っていました。大阪城にいた侍女は、秀吉とねねの生活の補助のためだけにそばにいたのではないようです。城の中にとどまらず城外で何が起こっているのかもねねに伝えていて、城にいながら外の状況を把握するために、侍女たちの場外での活動は貴重な情報源になっていました。(以下略)

第三講 苦難の時を乗り越える
第四講 変化に対応し、何度でもやり直す
第二部 世界に広がっていった日本のレディサムライ
 第五講 女性が手紙を書くということ
 第六講 女性たちは武器を手に戦ったのか
 第七講 日本の「大阪」のイメージを屏風で伝える―ドバイにて―
 第八講 レディサムライはゲイシャ? スパイ?
 第九講 当時の日本と世界の繋がりをどう捉えるか―アフリカにて―
 第十講 クイーンとレディサムライ―イギリスにて―
 第十一講 宗教の話を抜きには語れないレディサムライへの目録
(キリスト教の日本伝来)
(信仰を貫いたガラシャ)
(キリスト教徒として生きることを選んだねねの娘)
P181- ……(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)は、太閤様の夫人で称号で(北)政所様と呼ばれている婦人(ねね)を訪問するために赴いた。そこで他の貴婦人たちがいる中で、(ねねに)非常に寵愛されていた二人のキリシタンの婦人たちの面前で、話題が福音のことに及んだとき、(北)政所様は次のように言った。「それで私には、キリシタンのの掟は道理に基づいているから、すべての(宗教)の中で、もっとも優れており、またすべての日本国の諸宗派よりも立派であるように思われる」と。そして(ねね)は、デウスはただお一方であるが、神(カミ)や仏(ホトケ)はデウスではなく人間であったことを明らかに示した。そして(ねねは)、先のキリシタンの婦人の一人であるジョアナの方に向いて、「ジョアナよ、そうでしょう」と言った。(ジョアナは)「仰せのとおりです。神(カミ)は日本人が根拠なしに勝手に、人間たちに神的な栄誉を与えたのですから、人間とは何ら異なるものではありません」と答えた。それから(北)政所様は同じ話題を続けて次のように付言した。「私の判断では、すべてのキリシタンが何らの異論なしに同一のことを主張しているということは、それが真実であることにほかならない。(その一方、)日本の諸宗派についてはそういうことが言えない」と。これらの言葉に刺激されて、別な婦人すなわち(前田)筑前(利家)の夫人は、称賛をもって種々話し始め、あるいはむしろ我らの聖なる掟に対して始めた称賛を続けて、すべての話を次のように結んだ。「私は私の夫がキリシタンとなり、わたしが(夫の)手本にただちに倣うようになることを熱望しています」と。
 (『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一部第二期、83-84頁) 】

 ここに出てくる人物は、「(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)、太閤様の夫人=(北)政所=高台院=おね=ねね=秀頼正母・豪姫養母、前田)筑前(利家)の夫人=芳春院=おまつ=秀頼乳母・豪姫生母、ジョアナ=内藤ジュリアか?=豪姫の洗礼者? もう一人のキリシタン婦人=高台院侍女マグダレナか?=小西行長の母(ワクサ)」の四人と解すると、この四人は、『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、その「レディサムライ」の名に相応しい。
 なお、小西行長の母(ワクサ)=マグダレナについては、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』では、「行長が刑死したとき、父の寿徳(隆佐)は、文禄二年(一五九三)に死亡していたので、この世になく、母のマグダレナは夫の死亡のあと間もなく病死して、次男のこの哀れな最期のことは知らなかったと思える。しかし『切支丹大名記』には『悲傷の極、行長刑死後幾何もなく、その後を追えり』とある。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』では彼女の没年を慶長五年としている」(p297)と記述している。
 しかし、この「慶長五年(一六〇〇)死亡(説)」は、先の『『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」との記述により、「慶長十五年(一五一〇)六月頃」まで、「高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい。
 また、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』の「宇津落城秘話」で、「内藤(小西)如安は、その妻子とともに加藤清正に降伏し、領内のキリシタンを統御するために方便として利用されたが、(略) 後に棄教を迫られ、嫡男好次のいる加賀金沢へ行くのである」との記述があり、「(前田)筑前(利家)」の客将となっている「高山右近」(一万五千石)と共にその客将(四千石)として仕え、慶長十八年(一六一三)、徳川家康のキリシタン追放令が出されると、慶長十九年(一六一四)九月二十四日に、高山右近・如安・その妹ジュリアらは呂宋(今のフィリピン)のマニラへ追放されることになる。

 こうして見てくると、「高台院(北政所・おね・ねね)・芳春院(おまつ)・マグダレナ(小西行長の母・高台院の侍女)・マリア(高山右近の母)・ジュリア(内藤如安の妹)・マリア(豪姫・高台院の養女・芳春院の四女)」、そして、「千宗恩(千利休の後妻・千少庵の生母・千宗旦の祖母)」などは、唯一無二の「「レディサムライ」の元祖にも喩えられる「高台院(北政所・おね・ねね)」の「文化サークル」圏内のメンバーと解しても、いささかの違和感を湧いてこない。
 そして、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)の、その注文主も、この「高台院(北政所・おね・ねね)の『文化サークル』圏内のメンバー」より為されたものと解して置きたい。
 そして、そのことは、その「文化サークル』圏内のメンバーの、「高山右近の母・マリア、小西行長の娘・マリア(宗義智正室のマリア)、高台院と芳春院の娘・マリア(宇喜多秀家正室=豪姫)」等々の、「キリシタン・レディサムライ」の「洗礼名・マリア」を有する女性群像と、「東日本大震災」のあった「二〇一一」年に、初公開ともいえる「「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」 (高台寺所蔵)の、その「聖母子像」の「マリア」像と、見事に一致してくる。
 ここで、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)は、何時頃に制作されたのであろうか?
 このことに関しては、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)に、その引用書きのような感じて出てくる「狩野源助平渡路(ペドロ)」の、その「南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)との関連の考察が必要となって来るが、ここでは、下記アドレスで指摘をして置いたことを、そのまま踏襲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 四 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。

(中略)

 ここまで来ると、「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫)に、その年に豊国神社に奉納された、先(慶長9《1604》年秀吉の7回忌臨時大祭)の公式記録ともいうべき、狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」は、その豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった「淀殿と秀頼」よりの一方的な意向を反映しているもので、それに反駁しての、「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)が、同じ、狩野内膳をして描かせたのが、下記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(六曲一双・神戸市立博物館蔵)」と解したいのである。 】

(追記)

`寧々家系図.jpg

「関ケ原の戦いと『木下家』と『浅野家』・『前田家』の動向」

高台院  → 中立?
父・木下家定(播磨姫路城主)→ 中立(高台院の警護)→備中足守藩主(後継→?)
長男・勝俊(長嘯子・若狭小浜藩主・洗礼名=ペテロ)→任務放棄(東軍→中立)→《家定後継×?》
次男・利房(若狭小浜城主)→ 西軍→《後に家定後継〇?》
三男・延俊(播磨国城主) → 東軍→豊後日出領主(義兄細川忠興)
四男・俊定 →西軍(丹波国城主)→ (秀秋の庇護・備前国城主、後病死)
五男・(小早川)秀秋(備前岡山藩主)→途中寝返り(西軍→東軍)→無嗣断絶(病死)

(浅野家)
浅野長政(常陸真壁藩主・豊臣政権の五奉行) → 東軍
浅野幸長(紀伊和歌山藩主) → 東軍
浅野長晟(安芸国広島藩初代藩主) → 東軍

(前田家)
前田利家(加賀藩主・豊臣政権の五奉行) → 慶長四年(一五九九)没
前田利長(加賀前田家二代藩主・豊臣政権の五奉行・豊臣秀頼の傅役) →中立?(徳川家康に帰順)  慶長十九(一六一四)没
前田利常(加賀前田家三代藩主・利家四男・利長養子) → 大阪の陣(東軍)・ 正室:珠姫(徳川秀忠の娘)

木下家略系図.jpg


(別記) 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

豊臣秀吉(1537-1598)    ⇄ 千利休(1522-1591)
豊臣秀頼(1593-1615)    ⇄ 千宗旦(1578-1658)
淀君(秀頼生母(1569?-1615)⇄ お亀(宗旦生母、?―1606)
高台院(秀吉正室、?―1624)⇄千少庵(宗旦の父、お亀の夫、1546-1614)
↓↑
(利休七哲)
前田利長(肥前)1562-1614→ 父(利家)=利休門(キリシタン大名高山右近を庇護)
蒲生氏郷(飛騨)1556-1595→キリシタン大名(洗礼名=レオン・レオ・レアン)
細川忠興(越中/三斎)1563-1646→正室(玉=キリシタン=洗礼名・ガラシャ)
古田重然(織部)1544-1615→(キリシタン大名高山右近と親交=書状)
牧村利貞(兵部)1546-1593→キリシタン大名(フロイス書簡)
高山長房(右近/南坊)1552-1615→キリシタン大名(洗礼名=ジュスト・ユスト)
芝山宗綱(監物)?―?→(キリシタン大名高山右近と親交=同じ「荒木村重」門=離反)
(瀬田正忠・掃部)1548-1595(キリシタン大名高山右近と親交=右近の推挙で秀吉武将)
↓↑
(キリシタン大名など)
明石全登(ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト)?―1618→ 宇喜多家の客将
織田秀信(ペトロ)1580-1605→ 織田信忠の嫡男、信長の嫡孫
織田秀則(パウロ)1581 ―1625 → 織田信忠の次男、信長の孫
木下勝俊(ペテロ)1569-1649→ 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥
京極高吉1504-1581→ 晩年に受洗するも急死、妻は浅井久政の娘(京極マリア)
京極高次1563-1609→ 秀吉、家康に仕えて近江大津・若狭小浜藩主、正室=初姫(常高院)
京極高知1572-1622→ 秀吉、家康に仕えて信州伊奈・丹後宮津藩主、継室=毛利秀頼の娘
黒田長政(ダミアン)1568-1623→ 棄教後、迫害者に転じる。
黒田孝高(シメオン)1546-1604→ 官兵衛の通称と如水の号で知られる
小西行長(アウグスティノ)1558-1600→ 関ヶ原敗戦後、切腹を拒み刑死
小西隆佐(ジョウチン)?―1592→ 小西行長の父、堺の豪商・奉行
高山友照(ダリオ)?―1595→ 飛騨守、高山右近の父
高山右近(ドン・ジュスト)1552-1615→明石城主、追放先のマニラで客死
細川興元1566-1619→- 細川幽斎の次男、細川忠興の弟
毛利秀包(シマオ)1567-1601 → 毛利元就の子、小早川隆景の養子
↑↓
(豊臣秀吉と高台院の「養子・養女・猶子」など)
(養子)
羽柴秀勝(織田信長の四男・於次)1569-1586→墓所=秀吉建立の大徳寺・総見院など
豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男)1569-1592→正室=江(浅井長政の三女)
豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)1568-1595→豊臣氏の第二代関白
池田輝政(池田恒興の次男)1565-1613→継室=継室:徳川家康の娘・督姫
池田長吉(池田恒興の三男)1570-1614→因幡鳥取藩初代藩主
結城秀康(徳川家康の二男)1574-1607→下総結城藩主、越前松平家宗家初代
小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥)1582-1602→備前岡山藩主
(養女)
豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室)1574-1634→洗礼名=マリア
摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室)1572-1605→秀吉の死後万里小路充房の側室
菊姫(前田利家の庶女。早世)1578-1584→七歳で夭逝
小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世)1585-1591→秀忠(十二歳)と小姫(六歳)
竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室)?―1649→真田信繁=幸村の正室
大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室)?―1609→毛利秀元の正室
茶々(浅井長政の娘。豊臣秀吉側室)1569?―1615→豊臣秀頼生母
初(浅井長政の娘。京極高次正室)1570-1633→常高院、高次・初=キリシタン?
江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室)1573-1626→崇源院
糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室)1571―1645→黒田長政(キリシタン後に棄教)
宇喜多直家の娘(吉川広家正室)?―1591→容光院、弟に宇喜多秀家(正室=豪姫)
(猶子)
宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿で婿養子でもある)1572-1655(正室=豪姫)
智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設)1579-1629→同母兄=後陽成天皇
伊達秀宗(伊達政宗の庶子)1591-1658→伊予国宇和島藩初代藩主
近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御)1575-1630→後水尾天皇生母、父は近衛前久
(秀吉が「偏諱(いみな)」を与えた者)
徳川秀忠(徳川家康三男)1579-1632→江戸幕府第二代征夷大将軍(在職:1605 - 1623)
結城秀康(徳川家康二男)→前掲(養子)  など
↑↓
(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は?
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その六) [忘れがたき風貌・画像]

その六 利休・「狩野内膳筆・南蛮屏風」」周辺

「千利休(せんのりきゅう、1522-91)」.jpg

千利休(せんのりきゅう、1522-91)(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/16-01.jpg
≪「利休宗易居士肖像」 春屋宗園賛 藤原惟友摸 東海大徹書 1軸 ヌ6-5123
堺の会合衆(えごうしゅう)の家に生まれる。武野紹鴎に茶を学び、大徳寺に参禅、信長、ついで秀吉の茶頭(さどう)となる。63歳のとき秀吉の北野大茶会を主宰、天下一の茶匠の地位を確立した。秀吉の側近として政治に深く関わり、石田三成と確執、切腹に至る。≫
(「早稲田大学図書館」)

狩野内膳・ロレンソ了斎.jpg

「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図の二)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-24

 上記の「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」は、「狩野内膳筆『南蛮屏風』を読み解くための貴重な情報を提供してくれる。
 まず、その「この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船である」ということは、この一年後の、文禄元年(一五九二)二月に、「ロレンソ了斎」
は亡くなっている。
 すなわち、この「右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている」老人(老修道士)は、亡くなる一年前の「ロレンソ了斎」(六十五歳)ということになる。

【1592 年(文禄元)(ロレンソ 66 歳) 2 月 3 日 ロレンソの死去 長崎の修道院で死去した。66 歳。

『毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットにすわり小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは 1592 年 2 月 3 日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ。』
*Luis Frois S.I.,“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35    】
(ロレンソ了斎の豊後府内滞在の記録  ロレンソ了斎の生涯に沿って)
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf

 この「ロレンソ了斎」が亡くなる一年前の、この「ロケ・デ・メロ・ペレイア」のポルトガル船が長崎に入港した、その天正十九年(一五九一)は、豊臣秀吉が天下の茶頭「千利休」を賜死(切腹?)させた年なのである。

【天正19年(1591年)2月13日 利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日 京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日 木像の下に利休の首がさらされる。 】
(豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?)
https://rekishizuki.com/archives/1538

 これらを前回(その三十五「参考その一「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜」追加「狩野内膳」)の、その「天正十九年(一五九一)」前後の「年譜(略年譜)」は、次のとおりとなる。

【※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。

△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。

※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)   】(下記の「参考一」から抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

 この天正十八年(一五九〇)の「小田原征伐」とは、豊臣秀吉が頂点に上り詰めた「天下統一」の、その上り坂を象徴するものであろう。そして、天正二十年(一五九二)の「朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の築城」は、豊臣秀吉の野望とその後の豊臣家の滅亡を予兆する、その下り坂を象徴するものということになる。
 そして、その分岐点に位置するのが、天正十九年(一五九一)の「千利休の賜死(切腹?)」事件ということになる。そして、この真相は、上記のアドレスの「豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?」では、下記の八点を紹介しているが、この「六 利休キリシタン説」も、上記の「ロケ・デ・メロ・ペレイアのポルトガル船長崎入港、そしてその一年後の『ロレンソ了斎』の死」に関連させると、その「七 利休芸術至上主義の抵抗説」などと併せ、無下にすることは出来ないであろう。

https://rekishizuki.com/archives/1538

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説
二 大徳寺木像不敬説
三 利休の娘説
四 秀吉毒殺説
五 利休専横の疑い説
六 利休キリシタン説
七 利休芸術至上主義の抵抗説
八 利休所持茶道具の献上拒否説

(「六 利休キリシタン説」に関連して)

【 大徳寺の説に云、諸長老を聚楽の城へ被召寄、家康公、幽斎公を以て被仰出候者、大徳寺山門の下は、上様も御通被成候に、利休が木像を山門の上に作置るゝ事、曲事に被思召候。
申分有之候はヾ可申上と有、古渓承て山門の普請外、木像置候事、我等相談仕候。一山の長老の被存儀ニ無御座候。いか様にも私壱人曲事可被仰付候と被申上候。太閤重而、利休が木像を置る、いわれを可申上由、被仰出、
古渓何共御返答無御座候と被申候。家康公、常々古渓に御懇故、夫ニ而者、埒不明候。何とぞ御機嫌直り候様ニ申上度と被仰候。其時、古渓懐中より、長谷部の小釼を抜出し、御返事ハ是ニ而、自害可仕覚悟ニ候と被申候。
家康公一段埒明候と被仰、則、其段被仰上候へハ、太閤早速御機嫌直り、古渓ハ左様ニて有と思召候。諸事御赦免被成候間、一山の諸長老も可罷歸由、被仰出候。
扨、利休か木像ハ堀川戻り橋の下にくゝりさせ、往来の人に御踏せ候。此木像二条獄所の二階に、今に有之とかやと云々。
(引用:小松茂美 『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年 小学館)

大意、”大徳寺の話では、長老らが聚楽第に召喚され、徳川家康、細川幽斎から尋問を受けた。それは、『大徳寺の山門は関白殿下も通られるのに、利休の像を山門の上に作り置くとは何事か。申し開きの弁があるなら申してみよ。』とあった。
 それに対して古渓和尚が受けて言うには、『山門の普請ほか木像安置の件なども相談してみましたが、一山の長老たちは知らぬことです。これはわたしひとりの罪として仰せ付け下さい。』と。
 対して、『関白殿下も重く見ておられるので、利休の木像が山門に安置してある理由を答えてください』と重ねて尋問すると。
 古渓和尚言うには、『どうとも答えようがありません。』と。
家康公は常日頃古渓和尚と親しくしているので、『それでは埒があきませんね、どうか関白殿下の機嫌が直るように申し上げたいとお話ください。』
 その時、古渓和尚は懐中より小刀の名刀長谷部を抜き出されて、『返事はこれです。自害する覚悟です。』と申し上げます。
 すると、家康公は『これで埒が明きましたよ。』と言われ、すぐに関白殿下にその事を報告になり、「古渓はそうであったか」と関白殿下の機嫌は忽ち直り、すべて御赦免になりました。大徳寺の他の長老らも帰山することが出来ました。
 さて一方、利休と木像はと言うと、一条戻橋に括り付けられ、往来に人々に踏みつけられまして、今木像は二条の獄舎の二階にあると言います。”  】

(「参考その一」)

 「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・南蛮唐物屋の女性=千利休の娘の亀?・フランシスコ会員・イエズス会員」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

 こ の右端の「足首のない女性」は、「赤紐で旅装用の模様の付いた革足袋」を履いている。
 この女性は、『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』では、「足袋のもとである単皮(注・たんぴ=鹿などの動物の一枚革の足袋)を、冬でもないのに、なぜはいているのか。これは、遠出 ― 旅支度である。この女 ― 藤の暖簾がかかっているから、藤屋の女としておこう」(『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』所収「あとがき」)と、その二部作(「第一部 南蛮屏風の女」「第二部 ささやき竹―あるいは、洞の聖母子」)の、フィクション(小説)もので、「狩野内膳の妻・岩佐又兵衛の執心(注・思い慕った)の女性」として見立てられている。
 この『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』は、フィクション(小説)もので、その「あとがき」を見ると、別名(小林千草稿)の「内膳南蛮屏風の宗教性」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)が、このフィクション(小説)ものの、その背景となっている論稿のようなのである。
 そして、その論稿の「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)が、下記のアドレスで、その全容を知ることが出来る。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

 さらに、この「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)を主要な参考文献としている次のアドレスの「長崎ディープ ブログ」(「南蛮屏風」を読む9)では、この「足首のない、革足袋を履いた女性」と「黒いマントの神父(ヴァリニャーノ神父)の横にいる、小綺麗な着物姿の少年(先に「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」と見立てた)」とは「親子なのではなかろうか」との見方をしている。

http://blog.nadeg.jp/?eid=25

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この右端の女性(足首が無く、旅装用の革足袋を履いている)と、左端の正装した少年(右端の女性と同じ模様の革足袋を履いている)とを「親子関係」と見立てると、中央の老人(左手に数珠を持ち、右手で杖をついている)は、「ロレンソ了斎」のイメージがから、敢然として「千利休」のイメージと豹変してくる。そして、それは、即、「千家(千利休家)の聖家族(ファミリー)」のイメージと重なってくる。

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻、宗旦の母)

千家系図(千利休→千少庵→千宗旦)

千利休家系図.jpg

「千利休と女たち」
https://ameblo.jp/morikawa1113/entry-12258588885.html

 ここで、これまでの「宗達ファンタジー・三藐院ファンタジー・又兵衛ファンタジー」に続く「内膳ファンタジー(その一)」として、次の「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」周辺について、未整理のままにメモ的に記して置きたい。

(「内膳ファンタジー」その一)「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻)

千利休(千家一世)→大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)→天文15年(1546年)- 慶長19年9月7日(1614年10月10日)
千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)→天正6年1月1日(1578年2月7日)- 万治元年11月19日(1658年12月19日)
(お)亀(利休の娘、少庵の妻)→生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日)

 千利休の死とその死因などについては、今に至るまで、全くの謎のままである。その死の原因などについて、下記のアドレスでは、次のとおり紹介した(さらに「ウィキペディア」などにより補注・追加などを施した)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説→『多聞院日記』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日)
二 大徳寺木像不敬説→勧修寺晴豊『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日)、吉田兼見『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日)
三 利休の娘説→『南方録』第七巻・滅後、『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年)
四 秀吉毒殺説→ 岡倉天心薯『茶の本』国立国会図書館、千利休薯『利休百会記』岡山大学付属図書館
五 利休専横の疑い説→平直方『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年)
六 利休キリシタン説→小松茂美『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年・小学館
七 利休芸術至上主義の抵抗説→芳賀幸四郎『千利休』(吉川弘文館、1963年)、米原正義『天下一名人千利休』(淡交社、1993年)、児島孝『数寄の革命―利休と織部の死―』(思文閣出版、2006年)
八 利休所持茶道具の献上拒否説→竹中重門『豐鑑』国立国会図書館デジタルコレクション
(「ウィキペディア」などにより下記を追加)
九 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説→杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年
十 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説→会田雄次・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(『プレジデント』27(9) 《特集》千利休、1989年9月)
十一 秀吉は「わび茶」を陰気なものとして嫌っており、黄金の茶室にて華やかで伸びやかな茶を点てさせた事に不満を持っていた利休が信楽焼の茶碗を作成し、これを知った秀吉からその茶碗を処分するよう命じられるも、拒否したという説→笠原一男編集『学習漫画 人物日本の歴史〈12〉織田信長・豊臣秀吉・千利休―安土・桃山時代』集英社
十二 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれたという説→田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その五) [忘れがたき風貌・画像]

その五 「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺

西行絵物語一.jpg

「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

【 本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。
 全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。
 絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。 】

西行絵物語二.jpg

「西行物語絵巻」(出光美術館蔵)第一巻・第二巻・第四巻
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/rimpa/01.php

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/814581.html

(「西行物語絵巻」第一巻・部分図)(出光美術館蔵)
画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638)
江戸時代 寛永7年(1630)第一巻 第二巻 第四巻 紙本着色
第一巻 33.4×1785.0cm
第二巻 33.5×1855.7cm
第四巻 33.6×1821.0cm
【 宗達作品のなかで、年紀が明らかな唯一の作品です。能書家の公家・烏丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の命を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたこと、また「寛永第七季秋上澣」という年紀が判明します。宗達が写した禁裏御本は失われていますが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができます。"たらし込み"をもちいた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではのものです。 】

西行絵物語三.jpg

(「第四巻」の『奥書き』)
  右西行法師行状之絵
  詞四巻 本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望 申出
  禁裏御本 命于宗達法橋
  令模写焉 於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
   寛永第七季秋上澣
           特進光広(花押)
[右、西行法師行状乃絵詞四巻は、本多伊豆守富正朝臣、
所望に依って、禁裏御本を申し出で、宗達法橋に命じて模写せしむ。
詞書に於いては、予(光広)禿筆を染め了(おわ)んぬ。
胡慮(嘲笑)を招くか。
寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)。
特進(正二位の唐名) 光広(花押)]
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

一 作画年代→「寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)」光広(52)、宗達(63?)
二 原本は「禁裏御本」→「後水尾上皇」の依頼により「揚梅図」を描く(宗達)
三 烏丸光広との交友関係→「特進 光広」(元和6年・一六二〇、正二位)、光悦(73)
四 法橋叙位(宗達)→「宗達法橋」(このとき既に「法橋」の地位にある)
五 古典的題材→宗達の模写したものは「室町時代の海田采女(うねめ)本」
六 模写の態度→大和絵系列の宗達好みの模写の姿勢が顕著である。
七 技法上の特色→「没骨法」「たらし込み法」「ほりぬり(彫り塗り)=最初にひいた描線を塗りつぶさずにこれを生かして彩色する技法」の線の上に墨の「くゝり」の線を加える技法などが随所に見られる。
八 部分転写活用→個々の「人物・樹木・土坡・下草」などを部分的に借用して創作する姿勢が顕著である。
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-08-11


最晩年の光悦書画巻(その九)

(その九)草木摺絵新古集和歌巻(その九・西行)

花卉四の二.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

花卉四-三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分図) 本阿弥光悦筆 (4-3) (西行)

 上記の上の図(4-2)の左側の三行が西行の歌である。それを拡大して、西行の歌の全体が見られるものが、上記の下の図(4-3)である。

 逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行『新古今1155』)

(釈文)あふま天濃い乃知も可なとおも日しハ久やし可利介る我心可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

  題知らず
逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行法師『新古今1155』)
(逢うまでの命がほしいものだと思ったのは、まことにくやしかったわたしの心であることよ。)

 この西行の一首は、『山家集』・「恋歌」の部の「恋歌百十首」に、「あふまでの命もがな
と思ひしは悔しかりける我がこころかな」の歌形で収載されている。この『山家集』には西行の連歌は収載されていない。
 西行の数少ない連歌が収載されているのは、「聞書集」と「聞書残集」(『岩波文庫山家集』収載「聞書集」「残集」)とである。
 その「聞書集」に、「藤原俊成」宅に「西行・西住・寂然(藤原頼業)」等が集い、次のような「俊成と西行」との連歌(付け合い)を遺している。

【    五条の三位入道、そのかみ大宮の家に住まれける折、
     寂然・西住なんどまかりあひて、後世の物語申しける
     ついでに、向花念浄世と申すことを詠みけるに
心をぞやがてはちすに咲かせつる今見る花の散るにたぐへて (西行)
     かくて物語中しつつ連歌しけるに、扇に桜をおきて、
     さしやりたりけるを見て         家主 顕広(俊成)
梓弓はるのまとゐに花ぞ見る              (俊成)
     とりわき附くべき由ありければ
やさししことに猶ひかれつつ              (西行)      】
                       (「聞書集」(『岩波文庫山家集』)

 上記の記述中の「五条の三位入道」は、「藤原俊成のこと。五条は五条東京極に住んでいたことに因る。三位は最終の官位を指している」。「家主 顕広」も俊成のことで、「仁安二年(一一六七)十二月二十四日に顕広という名を俊成と改めているので(時に俊成五十四歳、西行五十歳、それ以前の作)ということになる。
 この仁安二年(一一六七)というのは、西行にとって大きな節目の年で、「平清盛が太政大臣となった」年である。その三年前に、西行の『山家集』にしばしば登場する「新院」こと「崇徳上皇」が讃岐で崩御し、西行は、その慰霊のため、仁安三年(一一六八)に、「中国・四国への旅、崇徳院慰霊、善通寺庵居」を決行する。
 すなわち、釈阿(俊成)と西行(円位)とは、保元元年(一一五六)の「保元の乱」(崇徳上皇讃岐に配流)、そして、「平治の乱」(京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。)という、大動乱時代に、その絆を深め合った「真の同志」(歌友)だったのである。

 ここで、これらの「聞書残集」(『岩波文庫山家集』の連歌)を理解するためには、次の
アドレスの、「西行の連歌(窪田章一郎稿)」が、その足掛かりとなってくれる。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf

 そこで、「顕広(俊成)の句(「梓弓はるのまとゐに花ぞ見る」)は眼前に即して作った、唱和をもとめる短連歌で、それを西行に名ざしで求めたのである。長連歌の発句にもなりうるもので、穏やかな、明るい、整った句である。寂然、西住たちも同座している楽しげな席であったから、二句のみに終らずに長く連らねられたことも想像されるが、これも何ともいえない」としている。
 さらに、「西行の附句は、『やさししこと』は、矢を挿して負う意で、前句の『梓弓』『まと』と縁を持ち、また『ひかれつつ』は弓を可く意で縁を持っているのは、連歌の常道である。もう一つ『やさししこと』」、語として無理であるが、優しいことの意をもっていると採っていいだろう。この方が一句の意としては表立っている。諸友とともに春のたのしい集いに花を見て、出家の身ではあるが在俗のころとかわらずに風雅の境地に猶心ひかれているという意になろう」と続けている。
 また、「俊成と西行との交際は御裳濯川歌合に俊成によって記されたように『天承の頃ほひ西行(十四歳)より同じ道にたづさはり、仙洞の花下、雲井の月に見なれし友)であったので、西行の附句は俊成の胸にひびいてゆくものをもっていた筈で、二人のみに交流する個人的な感情のあったことがわかる」と記している。

大原三寂・御子左家系図.jpg

「大原三寂・御子左家系図」(『岩波新書西行(高橋貞夫著)』)

 『古今著聞集(巻十五、宿執第二十三)』に、「西行法師、出家よりさきは、徳大寺左大臣の家人にて侍る」と記されている。西行の出家は、保延六年(一一四一)、二十三歳のときであるが、それ以前は「徳大寺家の家人」で、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことも記録に遺されている。
 この徳大寺家と俊成の「御子左家は、上記の系図のように近い姻族関係にあり、そして、この御子左家と「常盤三寂(大原三寂)」(「寂念・寂然・寂超」の三兄弟)で知られている「常盤家」と、寂超(藤原為経)の出家で離縁した妻の「美福門院加賀」が俊成の後妻に入り、「藤原定家」の生母となっているという、これまた、両家は因縁浅からぬ関係にある。
 さらに、この美福門院加賀と寂超の子が「藤原隆信」(歌人で「肖像画=「似せ絵」の名手)なのである。この美福門院加賀は、天才歌人・藤原定家と天才画人・藤原隆信の生母で、御子左家の継嗣・定家は、隆信の異父弟ということになる。
 上記の「大原三寂・御子左家系図」の左端の「徳大寺家」の「実能(さねよし)」に、西行は、佐藤義清時代は仕え、この実能の同母妹が「待賢門院璋子(しょうし)」(鳥羽天皇の皇后(中宮)、崇徳・後白河両天皇の母)なのである。
 この待賢門院は、幼女の頃から白河上皇の鍾愛の下に育てられ、鳥羽天皇の中宮になって生まれた子の「崇徳天皇」は、鳥羽天皇に「叔父子(祖父の白河上皇の子)として忌避されていた。大治四年(一一二九)に、「治天の君」として院政を敷いた白河上皇が崩御すると、待賢門院は立場は弱くなり、鳥羽天皇は、長承二年(一一三三)に、藤原長実(六条藤家の顕季の長子)の女「美福門院得子(とくし)」を後宮に迎え入れ、西行が出家した翌々年(永治二年=一一四二)に、待賢門院は出家する。
 待賢門院は、西行より十七歳も年長であり、西行の出家の一つの「悲恋(高貴なる女人)」
説の相手方と目する見方もあるが、それは「西行伝説」の域内に留めるべきものなのかも知れない。しかし、西行が、「美福門院派、近衛天皇(美福門院の子・夭折)・後白河院(待賢門院)派」ではなく、「待賢門院派、崇徳院派」であることは、それは動かし難い事実に属することであろう。
 そして、上記の系図の右端の「常盤家」の為忠は、白河院の側近の一人であり、その子の「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」の三兄弟も、西行と同じく、「待賢門院派、崇徳院派」と解するのが自然であろう。
 同様に、上記の「御子左家」の俊成も、「六条藤家」出の「美福門院」派よりも「待賢門院」派と解するのが、これまた自然であろう。
 ここで、先の「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)の「俊成と西行」との連歌(付け合い)に戻って、「寂然・西住なんどまかりあひて」の「西住(さいじゅう)法師」は、俗名は「
源季正(すえまさ)」という武士で、これまた、西行の出家前からの友人なのである。西行は、その『山家集』では「同行(どうぎょう)に侍りける上人」と「同行」(いっしょに修行する人)という詞書を呈している。この西住については、次のアドレスに詳しい。

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

【 為忠が常磐に為業侍りけるに、西住・寂然侍りて、
  太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
  罷りたりけり。有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心の隈は知られぬれ入らで明けぬる月を眺めて (西行)

  かくて静空・寂昭なんど侍りければ、物語り申しつつ、
  連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、
  寂然まで来て背中を合せてゐて連歌しにけり。
思ふにも後合せになりにけり             (寂然)                  
  この連歌異人つくべからずと申しければ
裏返りたる人の心は                 (西行)

  後の世の物語おのおの申しけるに、人なみなみに
  その道には入りながら、思ふやうならぬ由申して
人まねの熊野詣でのわが身かな             静空

  と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして            (西行)

  雨の降りければ、檜笠、蓑を着てまで来たりけるを、
  高欄に掛けたりけるを見て                
檜笠着る身のありさまぞあはれなる           西住

  むごに人つけざりければ、興なく覚えて
雨しづくとも泣きぬばかりに             (西行)        
   
  さて明けにければ各々山寺へ帰りけるに、
  後会いつとしらずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ又逢ふことのさだめなの世や(西行)  】
 (「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)

 この「西行・西住・寂然らの連句」は、『聞書残集』に収載されているものである。この「為忠が常磐に為業侍りけるに」の「為忠が常盤に」は、「藤原為忠の太秦の常盤邸に」の意で、「為業侍りけるに」の「為業」は「常盤(大原)三寂」の「二男・為業=寂念」で、まだ、出家前のことを意味するのであろう。そして、「西住・寂然」の「西住・寂然(四男・頼業)」は、「西行の刎頸の親友」ということになる。
 この「静空」については、「静空は誰れともわからぬが、尾山氏(尾山篤二郎氏)は為忠の長男為盛かといっている。出家後の西行の文学のグループのおもだった人々がこの日は集っている」と、「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、記述されている。
 また、そこで、この「西行・西住・寂然らの連句」について、「この日の西行は心の深さよりはユーモラスな軽妙な味わいを中心として居る。『そり』は剃りで剃髪した僧形のことをいっていると思われ、言葉そのものに無理のあることが興趣を呼んでいるといえよう。西住の句は『身の』に蓑を詠みこんで居り、勾欄にかけられている檜笠と蓑からしたたる雨の雫を、人間化して泣く涙としているところにューモアがある。『あはれなる』を『泣きぬばかり』と受けとめて人間の姿にしたのは、超俗の人がこの一時だけ俗界にかえって心を遊ばせていることが思いあわされて、ユーモアも軽くないものとして味わわれる。夜が明けて別れぎわに『帰りゆくもとどまる人も』と詠んだ時は、ふたたび山寺の生活気分にたちもどっていたのである」との、この評の一端を示されている。

(追記メモ一) 『菟玖波集』における「西行の連歌」関連

「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、「西行の連歌は菟玖波集にも一句も採りいれられず、従来の連歌研究もいまだ扱っていない」というのである。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf
 ↓
 しかし、これは、戦前の昭和五年(一九三〇)の「校本つくば集新釈上巻」(福井久蔵著・早稲田大学出版)当時に基づく論孜なのかも知れない。
 戦後の昭和二十六年(一九五一)に刊行された『日本古典全集 筑波集(上・下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』の、その下巻の「巻十二」と「巻十九」に、次のような、西行の連歌が収載されている。

   空にぞ冬の月は澄みける
    と侍るに
1187 舎(やど)るぺき水は氷にとぢらへて  西行法師 (『菟玖波集・下・巻十二』)
(月が映えるべき水は氷ってしまったので、冬月は空に澄わたっていると前後して見る句)
   (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十二」)

  ひろき空にすばる星かな
1948 深き海にかがまる蝦(えび)の有るからに 西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(深い海に身体を十分伸ばしてよいのに、海老はなぜあのように腰をかがめるかと禅の問答のような付けである。参考: 「すばる星」=昴(すばる)=統(す)ばる=集まって一つになる。すまる=すぼまる=窄まる=すぼむ→すばる星。 「深き海」と「広い空」、「すばる星」と「すぼむ蝦」との対比。)
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_02110/he05_02110_0007/he05_02110_0007_p0027.jpg

     修行し侍るりけるに、奈良路をゆくとて、
     尾もなき山のまろきを見て
   世の中にまんまろにこそ見えにけれ  西住法師
     と侍るとて
1956 あそこもここもすみもつかねば    西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(奈良路の山の形がまんまるなのを見て、円に対して四角のものはないということを利かせようとして設けた付合。参考: 「まんまろ」→まんまろ頭→坊主頭→僧=西住法師と西行法師。西行の別号の「円位法師」を掛けているか。「まんまろ」と「四角の四隅」→融通無碍と四角四面との対比。 )
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


(追記メモ二)『千載和歌集』の「西住・寂然」の歌(『新日本古典文学大系10 千載集』)

(西住法師)

    行路ノ雪といへる心をよめる
463 駒のあとはかつふる雪にうづもれてをくるヽ人やみちまどふらん
(駒の足跡は次から次へと降る雪に埋もれて、後から遅れて来る人は、道に迷うのではなかろうか。)

     夏のころ越の国へまかりける人の、秋はかならず
     上りなん、待てといひけれど、冬になるまで上り
     まうでこざりければ、つかはしける
493 待てといひて頼めし秋もすぎぬればかへる山路の名ぞかひもなき
(待っていて下さいと、私をあてにさせた約束の秋も過ぎてしまったので、帰って来る山路という帰山の名もそのかいがありませんよ。)

     乍臥無実恋といへる心をよめる
753 手枕のうゑに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな
(私の手枕の上に乱れている恋人の朝寝髪、それなのに実は打ち解けていないということを他人は知らないだろうな。参考: 乍臥無実恋=臥シ乍ラ実ノ無キ恋=共に臥しながら男女の関係に至らなかった恋。)

1140 まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける
(睡眠中にそのまま死を迎えたらどうしたらよかろう。寝覚めというものにこそ無いはずの命なのであったよ。)

(寂然法師)

230 秋はきぬ年もなかばにすぎぬとや荻吹く風のおどろかすらむ
(秋が来た。一年も半ばまで過ぎたと言ってであろうか。荻に吹く風が目を覚まさせるようだ。)

     西住法師みまかりける時、終り正念なりけるよしを聞きて、
     円位(西行)法師のもとへつかはしける
604 乱れずと終りを聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
(乱れるところがなかった、とその臨終の様を聞けるのは嬉しいことです。そうとはいっても、死別の悲しみは慰められないのですが。)

664 みちのくの信夫もぢずり忍びつヽ色には出でじ乱れもぞする。
(みちのくの信夫もじずりではないが、忍び忍びしてわが恋心を表にあらわすまい。)

      世を背(そむ)きて又の年の春、花を見てよめる
1068  この春ぞ思ひはかへすさくら花空(むな)しき色に染めし心を
(この春にこそ、桜花の空しい色に染めて執着していた心を翻して、色即是空と悟ることだ。参考: 思ひかへす悟りや今日はなからまし花にそめおく色なかりせば/西行)

      題不知
1069  世の中を常なきものと思はずはいかでか花の散るに堪へまし
(この世を無常と思わなかったら、どうして花の散ることに堪えられるだろうか。無常の認識に立つからこそ散華のあわれに堪えられるのだ。)

      火盛久不燃
1251  煙(けぶり)だにしばしたなびけ鳥辺山たち別れにし形見とも見ん
(荼毘の煙だけでもしばらくの間たなびいていて欲しい。鳥辺山よ、せめてそれを死別したあの人の形見と見ようと思うから。参考: 「火盛久不燃」=罪業応報経の偈の一節。栄枯盛衰の無常をいう。)

(追記メモ三) 「美福門院加賀と待賢門院加賀」・「待賢門院とその女房たち」そして「上西門院と堀川の局・兵衛の局」

(美福門院加賀)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaga_b.html

1232 よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ(『新古今・藤原俊成』)
       返し
1233 たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(『新古今・藤原定家朝臣母=美福門院加賀)

(待賢門院加賀)→ 大宮の女房加賀

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4412.html?sp

799 かねてより思ひし事ぞ伏柴のこるばかりなる歎きせむとは(『千載集・待賢門院加賀)

(待賢門院とそのの女房たち)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇中納言の局
〇堀川の局
〇兵衛の局
堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌が山家集の中に三首あります。
〇帥の局
〇加賀の局→大宮の加賀 
西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、  西行の歌は他の人の代作としてのものです。寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられています。 ○紀伊の局
〇安芸の局
〇尾張の局
〇新少将
源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

(上西門院と堀川の局・兵衛の局)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇上西門院
〇堀川の局・兵衛の局
二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあとに、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えてました。1160年、上西門院の落飾に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと考えられています。上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなったようです。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その四) [忘れがたき風貌・画像]

その四 西行・「釈阿(藤原俊成)・藤原定家」周辺

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429


(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-05

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その一)
その一 西行法師

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
鹿下絵和歌巻・西行.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(山種美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215347

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-12

(「西行法師」周辺メモ)

1 西行法師:こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(山種美術館蔵)

(釈文)
西行法師
こ々路那幾身尓も哀盤しら禮介利
鴫多徒澤濃秋乃夕暮

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

   秋 ものへまかりける道にて
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(山家集470)[新古362]

【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。
【語釈】◇心なき身 種々の解釈があるが、「物の情趣を解さない身」「煩悩を去った無心の身」の二通りの解釈に大別できよう。前者と解すれば出家の身にかかわりなく謙辞の意が強くなる。下に掲げた【鑑賞】は、後者の解に立った中世歌学者による評釈である。◇鴫たつ沢 鴫が飛び立つ沢。鴫はチドリ目シギ科に分類される鳥。多種あるが、多くは秋に渡来し、沼沢や海浜などに棲む。非繁殖期には単独で行動することが多く、掲出歌の「鴫」も唯一羽である。飛び立つ時にあげる鳴き声や羽音は趣深いものとされた。例、「暁になりにけらしな我が門のかり田の鴫も鳴きて立つなり」(堀河百首、隆源)、「をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空」(後鳥羽院)
【補記】秋の夕暮の沢、その静寂を一瞬破って飛び立つ鴫。『西行物語』では東国旅行の際、相模国で詠まれた歌としているが、制作年も精しい制作事情なども不明である。『御裳濯河歌合』で前掲の「おほかたの露にはなにの」と合わされ、判者俊成は「鴫立つ沢のといへる、心幽玄にすがたおよびがたし」と賞賛しつつも負を付けた。また俊成は千載集にこの歌を採らず、そのことを人づてに聞いた西行はいたく失望したという(『今物語』)。『西行法師家集』は題「鴫」、新古今集は「題しらず」。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「鹿下絵新古今集和歌巻」は戦後小刀を入れて諸家に分藏されることになったが、もちろん本来は一巻の巻物であった。しかも全長二〇mを超える大巻であったらしい。この下絵も鹿という単一のモチーフで構成されている。鹿はたたずみ、群れる。雌雄でじゃれ合い、戯れる。跳びはね、走る。そして山の端に姿を消していく。鹿の視線や動きのベクトルは、画面内でさまざまに変化する。先に指摘した「鶴下絵和歌巻」の特異な構成は、この和歌巻と比較することによって一層はっきりするであろう。】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【「西行への傾倒」 光悦が選んだのは『新古今和歌集』巻四「秋歌 上」、岩波文庫版でいえば三六二番から三八九番までにあたる。つまり西行法師の「こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ」から藤原家隆の「鳰のうみや月のひかりにうつろへば浪の花にも秋は見えけり」まで連続する二八首である。西行法師の前後には、寂連法師の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」と藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」がある。有名な三夕の和歌、これをもって秋歌の和歌巻を始めようとするのはだれでも思いつく着想であろう。
 しかし光悦は寂連をカットし、いきなり西行から書きだした。それは光悦が西行を高く評価し、西行に対する特別の感情をもっていたからである。『本阿弥行状記』には西行に関することが数条見出されるが、とくに「心なき」の一首は一七二条に取り上げられている。この一首にならって、飛鳥井雅章は「あはれさは秋ならねどもしられけり鴫立沢のあとを尋ねて」と詠んだ。ところがこの鴫立沢というのは、西行の和歌によって後人が作り出した名所であったので、このような詠吟は不埒であると勅勘を蒙ったという話である。雅章の恥となるような逸話を持ち出しつつ、西行の素晴らしさを際立たせたわけである。それにしても、並の書家であれば三夕の和歌の一つをカットすることなど、絶対にしなかったであろう。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【『本阿弥行状記』一七二段
  心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮 西行法師
 これを秀吟は西行東国行脚の時なり。その旧跡、相模国に鴫立沢と申て庵なども有之候由。然るに飛鳥井雅章卿
  あはれさは秋ならねともしられけり鴫立沢のあとを尋ねて
と申歌を詠給ふ事、右鴫立沢と申は後人の拵へし所なるを、かく詠吟の事不埒也と勅勘を蒙り給ひしとぞ。道を大切になし給ふ事難有御事也。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その一)

http://sakurasayori.web.fc2.com/hyaku88.html

「御裳濯河歌合」(十八番)

左:勝(山家客人)
大かたの霧にはなにの成るならん袂(たもと)に置くは涙なりけり(千載集)                           
右:(野径亭主)
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古今集)
判詞(俊成)
右歌の「鴫立つ沢の」と詠んでいるのは、心が幽玄で姿は及び難いものがある。ただし左の歌で「霧はなにの」と云っているのは、言葉は浅いようだが心はまことに深い。勝ると申すべきであろう。
参考: 右歌は西行の代表作の一つで、いわゆる「三夕(さんせき)の歌」でもある。俊成はこの寂寥感溢れる歌を「心幽玄」として認めているが、左歌の「霧にはなにの」というのを心の深さとして高く評価している。わが袂に置く涙なのだが、あたり一面に置く一粒一粒の露はいったい何がなったのか。この世に存在する、そのものの悲傷であろうか、余情の深い歌である。右の歌は、上句が説明的で下句はその材となっている、というように俊成は見たのであろうか。左歌は「千載集」に採り、右歌は外している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-17

その十八 入道三品釈阿と西行法師
釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

(周辺メモ)西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

 藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。

「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらん」(新古7)
【通釈】岩と岩の間を閉ざしていた氷も、立春の今朝は解け始めて、苔の生えた下を流れる水が通り道を探し求めていることだろう。

「ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水の白波」(新古27)
【通釈】冬の間に降り積もった高嶺の雪が解けたのであるよ。清滝川の水嵩が増して白波が立っている。

「吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」(新古79)
【通釈】吉野山では桜の枝に雪が舞い散って、今年は花が遅れそうな年であるよ。

「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」(新古86)
【通釈】吉野山――ここで去年枝折(しおり)をして目印をつけておいた道とは道を変えて、まだ見ない方面の花をたずね入ろう。

「ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」(新古126)
【通釈】じっと見つめては物思いに耽るとて、花にもひどく馴染んでしまったので、散る時の別れが一層悲しいのだった。

「聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立」(新古217)
【通釈】たとえ聞こえなくとも、ここを時鳥の声を待つ場所としよう。山田の原の杉林を。

「ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる」(新古218)
【通釈】時鳥は深い峰から今出たのだな。私が歩いている外山の山裾に、その声が落ちて来る。

「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」(新古262)
【通釈】道のほとりに清水が流れる柳の木蔭――ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだった。

「よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空」(新古263)
【通釈】もつれ合った野一面の草がふと陰って、見れば涼しげに曇っている夕立の空よ。

「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」(新古300)
【通釈】ああ、どれほど草葉の露がこぼれているだろうか。秋風が吹き始めた。宮城野の原では今頃――。

「雲かかる遠山畑(とほやまばた)の秋されば思ひやるだにかなしきものを」(新古1562)
【通釈】雲がかかっている、遠くの山の畑を眺めると、そこに暮らしている人の心が思いやられるが、ましてや秋になれば、いかばかり寂しいことだろう――思いを馳せるだけでも切なくてならないよ。

「月を見て心浮かれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる」(新古1532)
【通釈】月を見て心が浮かれた昔の秋に、再び巡り逢ってしまったことよ。

「夜もすがら月こそ袖にやどりけれ昔の秋を思ひ出づれば」(351)[新古1533]
【通釈】一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。

「白雲をつばさにかけてゆく雁の門田のおもの友したふなり」(新古502)
【通釈】白雲を翼に触れ合わせて飛んでゆく雁が鳴いているのは、門田に残る友を慕っているのだ。

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古362)
【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。

「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく」(新古472)
【通釈】蟋蟀は秋が深まり夜寒になるにつれて衰弱するのか、鳴き声が遠ざかってゆく。

「秋篠や外山の里やしぐるらむ伊駒(いこま)の岳(たけ)に雲のかかれる」(新古585)
【通釈】秋篠の外山の里では時雨が降っているのだろうか。生駒の山に雲がかかっている。

「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(新古625)
【通釈】古歌にも詠まれた津の国の難波の春は夢であったのだろうか。今や葦の枯葉に風がわたる、その荒涼とした音が聞こえるばかりである。

「さびしさに堪(た)へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古627)
【通釈】寂しさに耐えている人が私のほかにもいればよいな。庵を並べて住もう――「寂しさ増さる」と言われる冬の山里で。

「おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる」(新古691)
【通釈】言葉をかけない私を、ひょっとして、慕ってくれる人もあるかと、ためらっているうちに、年が暮れてしまいました。

「面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて」(新古1185)
【通釈】いつまでも面影の忘れられそうにない別れであるよ。別れたあとも、あの人がなごりを月の光のうちに留めていて…。

「くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな」(新古1268)
【通釈】隈もなく照っている折しも、恋しい人を思い出して、自分の心からせっかくの明月をみすぼらしくしてしまったよ。

「はるかなる岩のはざまに独り居て人目思はで物思はばや」(新古1099)
【通釈】人里を遥かに離れた岩の狭間に独り居て、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。

「数ならぬ心のとがになし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ」(新古1100)
【通釈】身分不相応の恋をしたことを、賤しい身である自分の拙い心のあやまちとして諦めはすまい。あの人にこの思いを知らせて、拒まれた上で初めて我が身を恨もうではないか。

「なにとなくさすがに惜しき命かなありへば人や思ひ知るとて」(新古1147)
【通釈】なんとはなしに、やはり惜しい命であるよ。生き永らえていたならば、あの人が私の思いを悟ってくれるかもしれないと。

「今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとての情けなりけり」(新古1298)
【通釈】今になって分かった。思い出してと約束を交わしたのは、私を忘れようと思っての、せめてもの情けだったのだ。

「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりける我が心かな」(新古1155)
【通釈】あの人と逢うまでは命を永らえたいと思ったのは、今にしてみれば浅はかで、悔やまれる我が心であったよ。

「人は来(こ)で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く」(新古1200)
【通釈】待つ人は来ないまま、風もすっかり夜が更けた気色になったところへ、しみじみと哀れな声で雁が鳴いてゆく。

「待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ」(新古1808)
【通釈】待たれた入相の鐘の音が聞こえる。明日も生きていたならば、またこうして聞こうというのだろうか。

「古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮」(新古1676)
【通釈】焼き捨てられた古畑の斜面の立木に止まっている鳩が、友を呼ぶ声――その響きが物寂しく聞こえる夕暮よ。

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ」(新古1619)
【通釈】吉野山に入って、そのまますぐには下山しまいと思う我が身であるのに、花が散ったなら帰って来るだろうと都の人々は待っているのだろうか。

「山里にうき世いとはむ友もがな悔しく過ぎし昔かたらむ」(新古1659)
【通釈】この山里に、現世の生活を捨てた友がいたなら。虚しく過ぎた、悔やまれる昔の日々を語り合おう。

「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」(新古1471)
【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。

「世をいとふ名をだにもさはとどめおきて数ならぬ身の思ひ出(い)でにせむ」(新古1828)
【通釈】世を厭い捨てたという評判だけでも、そのままこの世に残しておいて、数にも入らないような我が身の思い出としよう。

「都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり」(新古937)
【通釈】都にあって月を哀れ深いと思ったのは、物の数にも入らないお慰みなのであった。

神路山月さやかなる誓ひありて天(あめ)の下をば照らすなりけり(新古1878)
【通釈】神路山の月がさやかに照るように、明らかな誓いがあって、慈悲の光はこの地上をあまねく照らしているのであった。

「さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影やはらぐる月よみの森」(新古1879)
【通釈】霊鷲山にかかる雲から現れた月は、さやかな光をやわらげて、この国に月読の神として出現し、月読の杜に祀られている。

「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」(新古987)
【通釈】年も盛りを過ぎて、再び越えることになろうと思っただろうか。命があってのことである。小夜の中山よ。

「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな」(新古1613)
【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ。


(周辺メモ)藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「聞く人ぞ涙はおつる帰る雁なきて行くなる曙の空」(新古59)
【通釈】聞いている人の方こそ涙はこぼれ落ちるのだ。北へ帰る雁が鳴いて飛んでゆく曙の空よ。

「いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花」(新古100)
【通釈】幾年の春に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。

「またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙」(新古114)
【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。

「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川」(新古159)

【通釈】馬を駐めて、さらに水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち添う井手の玉川を見るために。

「昔思ふ草の庵(いほり)の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
【通釈】昔を思い出して過ごす草庵の夜――悲しげな鳴き声で、降る雨に涙を添えてくれるな、山時鳥よ。

「雨そそく花橘に風過ぎて山ほととぎす雲に鳴くなり」(新古202)
【通釈】雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹いて過ぎる――すると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いている。

「我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ」(新古210)
【通釈】私の心をどうせよというので、ほととぎすは雲間から漏れ出た月――それだけでも十分あわれ深い月影のもとで鳴くのだろう。

「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」(新古238)
【通釈】橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す――私も死んで過去の人となったならば、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。

「伏見山松の蔭より見わたせば明くる田の面(も)に秋風ぞ吹く」(新古291)
【通釈】伏見山の松の蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。

「水渋(みしぶ)つき植ゑし山田に引板(ひた)はへてまた袖ぬらす秋は来にけり」(新古301)
【通釈】夏、袖に水渋をつけて苗を植えた山田に、今や引板を張り渡して見張りをし、さらに袖を濡らす秋はやって来たのだ。

「たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ」(新古320)
【通釈】七夕の天の川の川門を渡る舟の梶――その梶の葉に、秋が来るたび何度書いたことだろう、葉に置いた露のように果敢ない願い文(ぶみ)を。

「いとかくや袖はしをれし野辺に出でて昔も秋の花は見しかど」(新古341)
【通釈】これほどひどく袖は涙に濡れ萎れたことがあったろうか。野辺に出て、昔も今のように秋の花々を眺めたことはあったけれど。

「心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは」(新古527)
【通釈】木々は自分の心から紅葉するのだろうか。立田山――その山の紅葉にまじる松はどうか、時雨に濡れなかっただろうか。そんなはずはないのだ。

「かつ氷りかつはくだくる山川の岩間にむせぶ暁の声」(新古631)
【通釈】氷っては砕け、砕けては氷る山川の水が、岩間に咽ぶような暁の声よ。

「ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな」(新古640)
【通釈】独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。

「今日はもし君もや訪(と)ふと眺むれどまだ跡もなき庭の雪かな」(新古664)
【通釈】今日はもしやあなたが訪ねて来るかと眺めるけれど、まだ足跡もない庭の雪であるよ。

「雪ふれば嶺の真榊(まさかき)うづもれて月にみがける天の香久山」(新古677)
【通釈】雪が降ると、峰の榊の木々は埋もれてしまって、月光で以て磨いているかのように澄み切った天の香具山よ。

「夏刈りの芦のかり寝もあはれなり玉江の月の明けがたの空」(新古932)
【通釈】夏刈りの芦を刈り敷いての仮寝も興趣の深いものである。玉江に月が残る明け方の空よ。

「立ちかへり又も来てみむ松島や雄島(をじま)の苫屋波に荒らすな」(新古933)
【通釈】再び戻って来て見よう。それまで松島の雄島の苫屋を波に荒れるままにしないでくれ。

「難波人あし火たく屋に宿かりてすずろに袖のしほたるるかな」(新古973)
【通釈】難波人が蘆火を焚く小屋に宿を借りて、わけもなく袖がぐっしょり濡れてしまうことよ。

世の中は憂きふししげし篠原(しのはら)や旅にしあれば妹夢に見ゆ(新古976)
【通釈】篠竹に節が多いように、人生は辛い折節が多い。篠原で旅寝していれば、妻が夢に見えて、また辛くなる。

「うき世には今はあらしの山風にこれや馴れ行くはじめなるらむ」(新古795)
【通釈】辛い現世にはもう留まるまいと思って籠る嵐山の山風に、これが馴れてゆく始めなのだろうか。

「稀にくる夜半も悲しき松風をたえずや苔の下に聞くらむ」(新古796)
【通釈】稀に訪れる夜でも悲しく聴こえる松風を、亡き妻は絶えず墓の下で聞くのだろうか。

「山人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし」(新古719)
【通釈】仙人が花を折り取る、その袖を濡らして香る菊の露――それを打ち払う一瞬にも、千年が経ってしまうだろう。

「君が代は千世ともささじ天(あま)の戸や出づる月日のかぎりなければ」(新古738)
【通釈】大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから。

「近江(あふみ)のや坂田の稲をかけ積みて道ある御代の始めにぞ舂(つ)く」(新古753)
【通釈】近江の坂田の稲を積み重ねて掛け、正しい道理の通る御代の最初に舂くのである。

「思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる」(新古1107)
【通釈】思い悩むあまり、あなたの住む方の空を眺めると、霞を分けて春雨が降っている。

逢ふことはかた野の里の笹の庵(いほ)しのに露ちる夜半の床かな(新古1110)
【通釈】あの人に逢うことは難く、交野の里の笹葺きの庵の篠に散る露ではないが、しきりと涙がこぼれる夜の寝床であるよ。

「憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ」(新古1143)
【通釈】辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。

「よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ」(新古1232)
【通釈】仕方ない、それなら、せめて来世だけでも約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから。

「あはれなりうたた寝にのみ見し夢の長き思ひに結ぼほれなむ」(新古1389)
【通釈】はかないことである。転た寝に見ただけの短い夢のような逢瀬が、長い恋となって私は鬱屈した思いを抱き続けるのだろう。

「思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむ折ぞ恋しき」(新古1394)
【通釈】歎き悲しむ今は、逢瀬の時に見た面影はさておいて、あの人をまだ恋していなかった頃のことが慕わしく思われるのである。

「五月雨は真屋の軒端の雨(あま)そそぎあまりなるまでぬるる袖かな」(新古1492)
【通釈】五月雨は、真屋の軒端から落ちる雨垂れが余りひどいように、ひどく涙に濡れる袖であるよ。

「嵐吹く峯の紅葉の日にそへてもろくなりゆく我が涙かな」(新古1803)
【通釈】嵐が吹き荒れる峰の紅葉が日に日に脆くなってゆくように、感じやすくなり、こぼれやすくなってゆく我が涙であるよ。

「杣山(そまやま)や梢におもる雪折れにたへぬ歎きの身をくだくらむ」(新古1582)
【通釈】杣山の木々の梢に雪が重く積もって枝が折れる――そのように、耐えられない嘆きが積もって我が身を砕くのであろう。

「暁とつげの枕をそばだてて聞くも悲しき鐘の音かな」(新古1809)
【通釈】暁であると告げるのを、黄楊の枕をそばだてて聞いていると、何とも悲しい鐘の音であるよ。

「いかにせむ賤(しづ)が園生(そのふ)の奧の竹かきこもるとも世の中ぞかし」(新古1673)
【通釈】どうしよう。賤しい我が園の奧の竹垣ではないが、深く引き籠って生きようとも、世間から逃れることはできないのだ。

「忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば」(新古1509)
【通釈】私も忘れまい。おまえも忘れるなとだけは言っておきたいものだ。殿上から眺める月に心があったならば。

「世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲」(新古1846)
【通釈】世の中のことを次から次へ思い続けて、外を眺めていると、虚空にはなかく消えてゆく白雲よ。

「思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは」(新古1531)
【通釈】思いもしなかった。この世と訣別した秋に巡り逢って、再び生きて月を眺めようとは。

「年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春や立つらむ」(新古1436)
【通釈】年が暮れたのを惜しんで流した涙のつららも解けてしまった。苔の袖にも春が来たのであろうか。

「今はわれ吉野の山の花をこそ宿の物とも見るべかりけれ」(新古1466)
【通釈】出家した今、私は吉野山の桜を我が家のものとして眺めることができるのだ。

「照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける」(新古1468)
【通釈】美しく輝く月も、雲の彼方という遥か遠い世界を行き巡っている。それに対して桜の花こそはこの世界を照らす光なのだ。

「老いぬとも又も逢はむと行く年に涙の玉を手向けつるかな」(新古1586)
【通釈】老いてしまったけれども、再び春に巡り逢おうと、去り行く年に涙の玉を捧げたのであった。

「春来ればなほこの世こそ偲ばるれいつかはかかる花を見るべき」(新古1467)
【通釈】春が来ると、やはりこの現世こそが素晴らしいと心惹かれるのである。来世ではいつこのような花を見ることができようか。そんなことは分かりはしないのだから。

「今日とてや磯菜つむらん伊勢島や一志(いちし)の浦のあまの乙女子」(新古1612)
【通釈】今日は正月七日というので、若菜の代りに磯菜を摘んでいるのだろうか。伊勢島の一志の浦の海人の少女は。

「昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける」(新古1815)
【通釈】まだ若かった昔でさえ、亡くなったのは昔のことだと思っていた親――その親が今もなお恋しく思われるとは、はかないことである。

「しめおきて今やと思ふ秋山の蓬がもとにまつ虫のなく」(新古1560)
【通釈】自身の墓と定めて置いて、今はもうその時かと思う秋山の、蓬(よもぎ)の繁る下で、私を待つ松虫が鳴いている。

「荒れわたる秋の庭こそ哀れなれまして消えなむ露の夕暮」(新古1561)
【通釈】一面に荒れている秋の庭は哀れなものだ。まして、今にも消えそうな露が庭の草木に置いている夕暮時は、いっそう哀れ深い。

「今はとてつま木こるべき宿の松千世をば君となほ祈るかな」(新古1637)
【通釈】今となっては、薪を伐って暮らすような隠棲の住まいにあって、その庭先に生える松に寄せて、千歳の齢を大君に実現せよと、なおも祈るのである。

「神風や五十鈴の川の宮柱いく千世すめとたてはじめけむ」(新古1882)
【通釈】五十鈴川のほとりの内宮(ないくう)の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。

「月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖」(新古1889)
【通釈】澄み切った月が輝く御手洗川に、小忌衣(おみごろも)を着た人の影が映っていて、その氷で摺り付けたかのような山藍の袖よ。

「春日野のおどろの道の埋れ水すゑだに神のしるしあらはせ」(新古1898)
【通釈】春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。

「今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀(みだ)の御国(みくに)の夕暮の空」(新古1967)
【通釈】今目の当りにしているのがそれなのだ、入日を眺めては思い憧れてきた、阿弥陀如来の御国、極楽浄土の夕暮の空よ。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13

「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート