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「俳誌・ホトトギス」管見(その十五) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・九百号」周辺

ホトトギス・九百号.jpg

「ホトトギス・九百号」(昭和四十六年/1971/十二月号)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7973013

(目次)

讀者諸君へ/年尾/p3~3
西の虚子忌/高濱年尾/p4~5
出雲路/深川正一郞/p5~6
厄年/成瀨正とし/p6~8
午前三時/杉本零/p8~8
踏切/柴原保佳/p8~9
靴屋の小父さん/副島いみ子/p9~10
年賀状/埜村成行/p11~12
梅/室町ひろ子/p12~12
妹/橋川かず子/p13~13
梅落花こまぐとして/濱井武之助/p14~18
關西ホトトギス同人會/井桁蒼水/p19~19
西國觀音札所探勝/松尾綠富/p20~21
阪東觀音札所探勝/劍持不知火/p22~23
雜詠/年尾/p24~54,56~83
雜詠句評/夜半 ; 非文 ; みつ子 ; 播水 ; 三角草 ; 莫生 ; 秋葭 ; 武之助 ; 年尾/p84~86
雜詠選集(豫選稿)/年尾/p87~98
句日記/年尾/p100~100
消息/年尾/p99~99
俳畫 カヂュラホミトウナ像/直原玉靑/p55~55

(管見)

一 「表紙絵」(小倉遊亀画)周辺

 「ホトトギス」(七百号・八百号)の「表紙絵」を画いた「川端龍子」は、昭和四十一年(一九六六)四月に没しており、その龍子の後を引き継ぐように、当時の女流画家の第一人者で「ホトトギス」の表紙絵を既に画いている「小倉遊亀」が飾っている。

[小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家。本名はゆき。旧姓は溝上。女性初の日本美術院同人。上村松園・片岡球子と並ぶ日本を代表する女性画家の一人。
 現在の滋賀県大津市中央に生まれる。1913年、滋賀県立大津高等女学校(現在の滋賀県立大津高等学校)を卒業後、1913年、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)国語漢文部に入学。1917年、奈良女子高等師範学校を卒業し、京都第三高等小学校に着任。  
 1919年、椙山高等女学校教諭、1920年、捜真女学校教諭を務める。同年、安田靫彦に師事する[3]。1926年、「胡瓜」が院展に入選。1932年、女性として初めて日本美術院同人に推挙される。1938年、山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚し、それ以降は鎌倉に居住した。
 1976年、日本芸術院会員。1978年、文化功労者。1980年、上村松園に次いで女性画家2人目となる文化勲章を受賞。1981年、大津市名誉市民[4]。1990年から1996年まで、日本美術院理事長を務めた。1995年、鎌倉市名誉市民。1998年、奈良女子大学初の名誉博士。
 2000年7月23日、105歳で死去した。同日、従三位に叙される[2]。戒名は「大梅院天池遊亀大姉。
 遊亀の作風は1950年頃までは、細密な描写や端正な作品構成が特徴的である。1951年から1965年頃までの作品は、マチスやピカソといった西洋絵画を研究した成果が大胆に取り入れられる。1966年頃から1976年頃までの作品は、円熟期に達した遊亀独自の境地と評される[6]。
 奈良女子大学の講堂の緞帳は遊亀の「爛漫」、滋賀県立大津高等学校の体育館の緞帳は「うす霜」という原画によるものである。](「ウィキペディア」抜粋)

二 「ホトトギス・九百号」(昭和四十六年/1971/十二月号)周辺

 これらの、「ホトトギス」(七百号・八百号)の「表紙絵」を画いた「川端龍子」から、この、「ホトトギス」(九百号)}を画いた「小倉遊亀」は、「川端龍子」が、虚子の後を引き継いだ長子の「高浜年尾」と見立てると、虚子に最も嘱望された次女の「星野立子」と見立てることも出来よう。 
 そして、この星野立子は、この「ホトトギス・九百号」(昭和四十六年/1971/十二月号)が発刊される一年前の、昭和四十五年(一九七〇)十月に脳血栓で入院し、退院したのは、その翌年の三月、この時に、立子の「玉藻」を代選したのは、立子(次女)の妹の「高木晴子」(五女)で、昭和五十八年(一九八三)に、その立子選が復活するが、その翌年に立子は他界し、娘の「星野椿」が主宰を継承することになる。
 この立子が脳血栓で倒れた、その翌年の、昭和四十六年(一九七一)「ホトトギス(一月号)」の「消息」で、年尾は、「立子が伊豆長岡の順天堂分院で、リハビリテーションの治療を受け、順調に恢復の方向に向かっている」ことを記している。また、「玉藻」にも、「玉藻に力を貸そう」という一文を寄せて、当時の「虚子一族」の結束の固さをを伝えている。

(虚子一族の系図)

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm

三 「ホトトギス『雑詠(ザツエイ)=「特に題をきめず、自由な題材で詠むこと」=「当月の巻頭入選句」』と「星野立子」周辺

 「ホトトギス」の「雑詠欄」などについては、下記のアドレスが参考となる。

「虚子の来歴」

https://haiku.jp/home/read/historyof-kyoshi-takahama/

(抜粋)

[●明治45年
「ホトトギス」に雑詠欄を復活させ、徐々に発行部数を取り戻す。「俳句とはどんなものか」「俳句の作りやう」 「進むべき俳句の道」などを執筆、渡辺水巴、村上鬼城、 飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅などの俳人を世に送り出す。一方で、有季定型の理念を軸に子規の客観主義を継承することで、 近代の俳句の流派としての地位を確立してゆく。

●大正2年
婦人十句集を始める。

●昭和3年
「花鳥諷詠」講演。その後、水原秋桜子、阿波野青畝、山口誓子、高野素十の4Sをはじめ多くの俳句作家を輩出する。]

 この「四S」(「水原秋桜子・阿波野青畝・山口誓子・高野素十」を「山口青邨」命名)の、当時を代表する男性俳人に対して、当時の代表的な女性俳人を、「四T」(星野立子・中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女)と、山本健吉は命名した。
 この「四S」(「水原秋桜子・阿波野青畝・山口誓子・高野素十」)と、「四T」(星野立子・中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女)とに対応させると、「日本三大女流画家」(上村松園・小倉遊亀・片岡球子)ということになる。
 ここで、この「星野立子」は、「ホトトギス」の「全雑詠史(虚子・年尾・汀子選)」の、その「登場回数」は群れを抜いて、トップに位置する「ホトトギス俳人」の第一人者なのである(『よみもの/ホトトギス百年史/稲畑汀子編・著』所収「付録一/時代別ホトトギス代表作家一覧」) 

 因みに、「四S」(「水原秋桜子・阿波野青畝・山口誓子・高野素十」が登場する「昭和二年から昭和十一年」(虚子選)の順位は、次のとおりである。

(別記) 「昭和二年から昭和十一年」(虚子選)の「雑詠」上位俳人

1 星野立子(65)  2 川端茅舎(63) 3 松本たかし(56) 4 阿波野青畝(55)
5 高野素十(54)  6 岡田耿洋(53) 7 野村泊月(41)  8 山口誓子(37)
9 中村汀女(35) 10 池内たけし(31) 10 水原秋桜子(31) 10 皿井旭川()

四 「雜詠/年尾/p24~54,56~83」周辺

雜詠・年尾選.jpg

「雜詠/年尾/p24~54,56~83」(抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7973002/1/11

 「ホトトギス・九百号」(昭和四十六年/1971/十二月号)の、「雑詠」(年尾選)の上位の入選句の俳人たちである。
 この「トップスリー(後藤夜半・星野立子・稲畑汀子)」の、この「稲畑汀子」は、「虚子
→年尾→汀子」と続く、高浜虚子、そして、父年尾の没後の『ホトトギス』主宰を継承する「稲畑汀子」(当時、不惑の四十歳)その人の句ということになる。

虚子と汀子.jpg

「高野山俳句大会で祖父の高浜虚子と言葉を交わす稲畑汀子さん=1952年5月」
https://www.asahi.com/articles/ASQ6S3V80Q6RUCVL039.html

年尾と汀子.jpg

「父の高浜年男と並ぶ稲畑汀子さん=1971年」
https://www.asahi.com/articles/ASQ6S3V80Q6RUCVL039.html

[稲畑 汀子(いなはた ていこ、1931年1月8日 - 2022年2月27日)は、神奈川県出身の俳人。俳人高浜年尾の娘で、俳人高浜虚子の孫。『ホトトギス』名誉主宰、日本伝統俳句協会名誉会長。
 神奈川県横浜市に、父高濱年尾、母喜美の次女として生まれる。幼児期を鎌倉で過ごしたのち、1935年に兵庫県芦屋市に転居する。小学校のころから祖父高濱虚子と父年尾のもとで俳句を教わった。小林聖心女子学院高校卒業、1949年同英語専攻科在学中に病を得て中退する。英語専攻科中退後、俳句修行に専念し、祖父と父に同行して全国を廻る。1956年、24歳で稲畑勝太郎の孫、稲畑順三と結婚。のち2男1女の母となる。1965年『ホトトギス』同人。1977年より『ホトトギス』雑詠選者。
 1979年、父高浜年尾の死去により『ホトトギス』主宰を継承する。翌1980年、夫順三が死去する。1982年より朝日俳壇選者。選句に際しては「善意を持っての選句」を信条とした。以後、世界各地を吟行し、諸外国との俳句親善に努める。
 1987年、日本伝統俳句協会を設立し会長に就任する。1994年、NHK俳壇の講師・選者(1996年まで)。芦屋市教育委員長に就任する。2000年、虚子記念文学館を芦屋に開館[1]、理事長に就任する。2013年10月、『ホトトギス』主宰を息子の稲畑廣太郎に譲り、同名誉主宰に就任する。正岡子規国際俳句賞選考委員なども務める。2019年、 第70回NHK放送文化賞受賞。また、芦屋市教育委員長、地球ボランティア協会会長を務め、芦屋市民文化賞、兵庫県文化賞を受賞した。
 2022年1月、日本伝統俳句協会名誉会長(二代目会長は岩岡中正)となるが、2022年2月27日、心不全のため兵庫県芦屋市の自宅で死去。91歳没。](「ウィキペディア」)
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