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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十九) [岩佐又兵衛]

(その二十九) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その三)

歴博D本・京都所司代.jpg

「歴博D本・京都所司代の裁判風景」(左隻第二・三扇上部)→「歴博D本・京都所司代図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

舟木本・二条城の裁判.jpg

「舟木本・二条城の裁判・料理風景」(左隻第五・六扇)→「舟木本・二条城図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 「歴博D本・京都所司代図」の方位は、右側(北)、左側(南)、上部(西)、下部(西)で、「二条城」の北側の堀に「京都所司代(屋敷)」がある。
 それに対して、「舟木本・二条城図」の方位は、右側(東)、左側(西)、上部(北)、下部(南)で、「二条城」の北側の「京都所司代(屋敷)」は描かれていない(省略されている)。

二条城と京都所司代.jpg

「二条城と京都所司代(屋敷)図」(「寛永後萬治前洛中絵図」)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=5&xywh=4481%2C7231%2C5767%2C11691&r=270

 この「二条城と京都所司代(屋敷)図」は、右側(東)、左側(西)、上部(北)、下部(南)で、「二条城」と「京都所司代」(「板倉周防守」屋敷)とは、明確に区別されていて、実際の絵図としては、「歴博D本・京都所司代図」が、この「二条城と京都所司代(屋敷)図」(「寛永後萬治前洛中絵図」)とに合致する。
 即ち、「舟木本・二条城図」の、「二条城内での京都所司代・板倉勝重の民事裁判」の図は、この舟木本の筆者・岩佐又兵衛のフィクションで、実際の民事裁判の風景は、「歴博D本・京都所司代図」の方が実景に近いものなのであろう。
 では、何故、岩佐又兵衛は、この図のようなフィクションを施したのかというと、次のアドレスの「二条城の歴史・沿革」を見ていくと、その一端が浮かび上がってくる。

https://kojodan.jp/castle/13/memo/3491.html

1601年(慶長6年)徳川家康が西国諸大名に命じて二条城の築城に着手。
1603年(慶長8年)二条城完成(現在の二の丸)。征夷大将軍となった家康が入城、拝賀の式をおこなう。
1605年(慶長10年)城内において秀忠が将軍宣下を受け、2代将軍に就任する。
1606年(慶長11年)天守が完成する。
1611年(慶長16年)家康が豊臣秀頼と会見する。
※1614年(慶長19年)大坂冬の陣の幕府本営が置かれる。城内で軍議を開き、当城より出陣(夏の陣も同様)。
※1615年(元和元年)豊臣氏滅亡後、城中で「禁中並公家諸法度」を制定する。
1620年(元和6年)2代秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として二条城より入内する。
1624年(寛永元年)3代家光が行幸に向けて城の拡張、殿舎の整備に着手する。
1625年(寛永2年)二条城を守衛する役として二条城代を設置。渡辺山城守が初代。
1626年(寛永3年)本丸、二の丸、天守の増改築が完了する。9月に後水尾天皇が中宮和子とともに行幸(5日間)。
1634年(寛永11年)家光が30万人と称する大軍を率いて上洛し、入城する。

 岩佐又兵衛が、この「舟木本」を制作したのは、慶長十九年(一六一四)から元和二年(一六一五)にかけての頃と推定すると、上記の年表の「1615年(元和元年)豊臣氏滅亡後、城中で『禁中並公家諸法度』を制定する」ことと関連し、それを示唆するための、「二条城内での『裁判風景』と『接待料理風景』」というのが、このフィクションの背景ということなのかも知れない。
 これらのことを明確に指摘したのは、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の、下記アドレスのものの中においてであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【第六章 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解
 第一段 牛馬の数
 第二段 物資や人を運ぶ牛馬
 第三段 二条通が五条通につながる
 第四段 舟木屏風を座って見る
 第五段 中心軸上に描かれた二つの印象的な集団
 第六段 ドグマからの脱却
 第七段 表現上の焦点となっている二つの集団
 第八段 二条城に向かう武家の行列
 第九段 読解の手がかりはないか?
 第十段 駕籠舁きの鞠挟紋
第十一段 近習出頭人
第十二段 鞠挟紋は重昌の家紋
第十三段 板倉重昌の上洛とその政治的役割
第十四段 方広寺鐘銘事件での上洛ではない
第十五段 猪熊事件の際の上洛
第十六段 大御所家康の政治意思
第十七段 板倉重昌は乗馬しているのでは?
第十八段 注文主は板倉氏か?
第十九段 五条橋上で踊る一行
第二十段 老後家尼
第二一段 花見踊りの一行の姿
第二二段 傘の文様は?
第二三段 豊国祭礼図屏風の老後家尼
第二四段 高台院の屋敷が左隻第四扇に描かれている
第二五段 どこで花見をしたのか?
第二六段 豊国社の枝垂れ桜は物語る
第二七段 右隻の中心で踊る高台院
第二八段 両隻にある「寶」「光」と豊公贔屓
第二九段 徳川美術館本豊国祭礼図屏風の「豊光」の旗
第三十段 暖簾に豊公敬意の心情を描く
第三一段 右隻は物語る
第三二段 近世風俗画誕生の「坩堝」  】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P179-213)

 その前章の「第五章 猪熊事件・公家の放鷹禁止そして公家衆法度―左隻の読解」(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P140-178))の、次の事項と大きく関係する。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-11

【《駿府の広橋兼勝と板倉勝重》《公家衆法度の制定》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P170-172)

「武家伝奉が広橋兼勝一人だけであった、この時期は、丁度、公家衆法度の作成プロセスと合致する時期であった。慶長十八年(一六一三)四月九日、武家伝奉広橋兼勝は駿府に下った。駿府の大御所徳川家康の下で、京都所司代板倉勝重と武家伝奉広橋兼勝とは、この任に当たったのである。そして、同年六月十六日に、大御所徳川家康は公家衆法度を制定した。

 諸公家(公家衆)法度

一、公家衆家々之学問(以下略)=要約( 公家は各家の代々の学問に油断無く励むべきこと)
一、不寄老若背行儀法度(略)=要約( 行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと)
一、昼夜之御番老若背行為(略)=要約( 昼夜懈怠なく老若共に仕事を相勤むべきこと)
一、夜昼共ニ無指用所ニ(略)=要約(昼夜用無き所に徘徊することを堅く禁ずること)
一、公宴之外私ニテ不似合勝負(略)=要約(賭事・不行儀の公家近侍も先条に因ること)

 この「公家衆法度五ヵ条」は、慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」を踏まえての、公家衆の風儀の矯正を狙いとしたもので、特に、その二条の「行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと(但し、罪の軽重に依る「年序」別に定るべきこと)」は、公家衆の予期せぬものであったことが、『時慶卿日記』(慶長十八七月十二・十三日条)から読み取れる。」 】
(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P171-178の要約)

民事裁判する市倉勝重.jpg

「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)

《二条城と所司代屋敷》《舟木屏風の制作は元和元年の禁中並公家諸法度制定以前である》《二条城の民事裁判》《民事訴訟を裁く京都所司代板倉勝重》《京の秩序を守る所司代》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P174-178)

「実際の『武家伝奉広橋兼勝の招宴』や、『民事訴訟の裁判』をする所は、二条城に隣接した所司代屋敷であろうが、この舟木屏風では、それらを一体のものとして、二条城の一角での図として描かれている。」

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)

「この中央の武士の羽織には、かすかに九曜紋が読み取れる。板倉(勝重)家の家紋は、『左巴・九曜巴・菊巴・花菱』などである(『寛政重修諸家譜』)。これは「九曜巴」で、この中央の武士こそ、板倉勝重なのである。」
 (メモ) 板倉勝重は、徳川家康の信任が厚く、慶長六年(一六〇一)に京都所司代となり、十八年に及び市政に尽力し、『板倉政要』(判例集)は彼と子重宗の京都市政の記録で、その名奉行ぶりは夙に知られている。その書は本阿弥光悦に学び、元和元年(一六一五)の、光悦の「鷹峯」(芸術の村)移住なども、家康との仲介をとり、板倉勝重の配慮として伝えられている。」

 ここで、「歴博D本・京都所司代図」をモデルとした「舟木本」が、その図を「舟木本・二条城図」のように、「二条城と京都所司代(屋敷)とを一体化」してのフィクション化しているということになると、先に、「歴博D本・京都所司代図」をモデル化としての、下記アドレスの、「舟木本・母衣武者その三図」の見立て(徳川家康)と「舟木本・母衣武者その四図」の見立て(徳川秀忠)とは、別人をもって見立替をした方が、より、この「舟木本」の筆者・岩佐又兵衛とその周辺の人物の制作意図の意に叶うのではないかという見方も成り立つであろう。
 即ち、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「右隻」(主として「慶長十九年前後の豊臣家の滅亡」関連)と、その「左隻」(主として「元和元年の徳川家の元和偃武」関連)の両隻とも、先の見立ての「大御所・徳川家康」と「将軍・徳川家忠」とは、具体的に前面に出さずに、例えば、この「舟木本」の注文主とも考えられる「松平忠直」などの「越前松平家」周辺の見立ての方が、より、この「左隻」の「三人の母衣武者」に相応しいのではないかと見方である。
 この見方からすると、この「三人の母衣武者」の見立ては、次のとおりに解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その三図」

 先の見立ての「徳川家康」を、「初代越前松平家藩主・結城秀康」と見立替え(先に見立てたものを取りやめて、後から見立てたものと取り替えること)をしたい。
 下記の「結城秀康 略年譜」のとおり、「徳川(松平)家康の次男(三男・秀忠)」として誕生、そして、豊臣(羽柴)秀吉の養子となり「羽柴秀康」、さらに、関東の守護大名の結城晴朝の養子となり「結城秀康」と、三度、その「姓」を替えて、「慶長5年(1600) 27歳 家康の命により下野国小山に滞陣して上杉景勝の動きを押える。関ヶ原の戦いの後、戦功として越前68万石を拝領する」と、「関ヶ原の戦い」の後、「越前68万石を拝領」した、この「初代越前松平家藩主・結城秀康」こそ、この「舟木本・母衣武者その三図」の一番手に相応しいであろう。

【(結城秀康 略年譜) → 初代越前松平家藩主(※印は「本田富正」関連)

天正2年(1574) 1歳 徳川家康の次男として、遠江国敷智(ふち)郡宇布見(有富美)村(現静岡県雄踏町)の中村源左衛門家で誕生する。
天正7年(1579) 6歳 兄信康(家康の長男)が自害する。
天正12年(1584) 11歳 小牧・長久手の戦いの講和後に羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀康と称して河内国に所領を与えられる。

※天正13年(1585)12歳 「本田富正(14歳)、本家筋の甥・本田成重に替わり『秀康』の附属同行・側近(側仕え)として仕える。〔ウィキペディア〕」

天正13年(1585) 12歳 元服して従四位下・三河守に叙任される。
天正15年(1587) 14歳 秀吉の九州征伐に従い初陣を果たす。
天正18年(1590) 17歳 秀吉の命を受けて結城晴朝の養子となる。晴朝の養女鶴姫と婚姻し、下総国結城10万1千石を相続する。

文禄4年(1595)22歳 嫡男国丸(2代藩主松平忠直)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長2年(1597) 24歳 次男虎松(3代藩主松平忠昌)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長5年(1600) 27歳 家康の命により下野国小山に滞陣して上杉景勝の動きを押える。
関ヶ原の戦いの後、戦功として越前68万石を拝領する。
※「本田富正(29歳)、越前府中(武生)3万9千石の領主(大名格)として、また、『越前藩主・秀康』の御附家老として仕える。〔ウィキペディア〕」

慶長6年(1601) 28歳 越前の地へ初入封し、養父晴朝も越前へ移住する。 北庄城(福井城)の修築普請を開始する。
※「本田富正(30歳)、)結城秀康,北庄城受取りのために本多富正を先発させる。〔福井県史・家譜〕」
慶長8年(1603) 30歳 家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。
慶長10年(1605) 32歳 権中納言に任じられる。弟秀忠が2代将軍となる。
慶長11年(1606) 33歳 禁裏・仙洞御所普請の総督を命じられる。伏見城の留守在城を命じられる。
慶長12年(1607)34歳 伏見より帰国し、北庄城において没する。    
※「本田富正(36歳)、『主君の秀康が死去すると、家中では追腹を行う者が出る中、富正は病気の秀康の名代という形式で駿府城改築の指揮を執っていたため追腹が行えずにいた。追腹が続く状況を危惧した江戸幕府により、2代将軍・徳川秀忠から特使の近藤季用が派遣された。近藤により大御所・家康や幕閣である本多正純署名の書状がもたらされ、これにより今村盛次、片山吉次らその他複数の福井藩の重臣、特に富正の殉死(追腹)は固く禁じられたため、富正は剃髪するにとどまった。また幕府の直命により富正は引き続き福井藩の執政、秀康の子の松平忠直の補佐を勤めることとなった。慶長12年(1607年)、本多家は本藩とは別に、直々に江戸に上屋敷と下屋敷を賜ったが『上屋敷だけで充分』として下屋敷を返上している。』〔ウィキペディア〕 】

軍配指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の二番手の武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その四図」

 先の見立ての「徳川秀忠」は、上記の「結城秀康(略年譜)」の「(※印は『本田富正』関連)」の、「結城秀康の越前入府に御附家老そして越前府中城主の『本田富正(伊豆守)』」
が、その一番手(「初代越前松平家藩主・結城秀康」)の、その終生の「御側用人・万端の用人」として、その二番手として登場させても格別の違和感は抱かないであろう。
 そして、下記の「松平忠直 略年譜」の「慶長十六(1611)」、「越前松平家二代藩主・松平忠直(17歳)の『左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元』、そして、「越前松平家の御附家老・越前府中城主の『本田富正(伊豆守)=40歳』の『従五位下に叙任』に際しての『徳川家康の参内時に同行』」、さらに、「烏丸光広(33歳)  宮廷に復職。後水尾帝即位」の、いわゆる「『「慶長十四(1609) 烏丸光広(31歳)」時に発覚した『猪熊事件』からの復職』」が、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「制作意図」、そして、その注文主の、主たる人物群像は、この三者という図が浮かび上がって来る。
 即ち、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「制作意図」は、「松平忠直と本田富正の叙任・徳川家康の参内に合わせての入内」と、さらに、「猪熊事件からの復職し、翌年、権中納言となる烏丸光広(33歳)』との、この三位一体の中から誕生したものとして解したい。

《※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。
※「本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される〔福井県史・家譜〕。志摩守から伊豆守と名乗りを変更。忠直に秀忠の娘の勝姫が嫁ぐが、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式。女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かった[ウィキペディア]。」
※「烏丸光広(33歳) 宮廷に復職。後水尾帝即位。」(『松永貞徳と烏丸光広』所収「略年譜」)》

羽指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の三番手の武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その五図」

 この、先の見立ての、「越前松平家二代藩主・松平忠直」については、これは、頑として不動のままである。
 そして、この図は、下記の年譜の、「※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。」と関係する、次のアドレスの「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)→舟木本・参内する松平忠直図」と連動していることも、先の見立てと同様に不動のままである。
 さらに、その「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)→舟木本・参内する松平忠直図」は、下記の年譜の、「※慶長十六(1611)本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される。」を加味して、「家康と共に参内する松平忠直・本田富正」(左隻第四扇上部)→舟木本・参内する松平忠直・本田富正図」と修正したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直・本田富正」(左隻第四扇上部)→「舟木本・参内する松平忠直・本田富正図」

 上記の図の、中央が「松平忠直」で、左端が「本田忠正」である。そして、先の、《この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「制作意図」は、「松平忠直と本田富正の叙任・徳川家康の参内に合わせての入内」と、さらに、「猪熊事件からの復職し、翌年、権中納言となる烏丸光広』との、この三位一体の中から誕生したものとして解したい。》も、これまた、不動のままである。
 そして、この「本田富正と烏丸光広」との連携コンビの証左の一つとして、下記の年譜の、次の事項を挙げて置きたい。

※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

 これらの「西行物語絵巻」関連については、さらに、下記の「松平忠直 略年譜」の後に、「追記」を付記して置きたい。

【(松平忠直 略年譜)→ 二代越前松平家藩主(※印は「本田富正」と「烏丸光広」、※※印は「特記事項」と「岩佐又兵衛」関連) 

文禄四年(1595) 1歳 結城秀康の長男、国丸(松平忠直)誕生。母は側室・中川氏。
慶長十年(1605) 11歳 従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
慶長十一年(1606)12歳 右近衛権少将に転任。三河守如元。
慶長十二(1607) 13歳 秀康(34歳)、北庄で死去。忠直、越前75万石を相続。
※「烏丸光広(29歳) 結城秀康未亡人(鶴姫)と結婚。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶長十四(1609) 烏丸光広(31歳) 一月、左大弁に任ず。七月、典侍広橋氏・権典侍中院氏・掌侍水無瀬氏・命婦讃岐らと参議光広、左近衛権中将大炊御門頼国らとの姦淫事件発覚す。この日、勅使により広橋氏以下をその家に禁固し、光広以下の官位を停む。十一月、徳川家康、前記姦淫事件の花山院忠長を蝦夷に、飛鳥井雅賢を隠岐に、大炊御門頼国・中御門宗信を薩摩に、難波宗勝を伊豆にそれぞれ流罪とし、光広および徳大寺実久の罪をゆるす。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。
※「本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される〔福井県史・家譜〕。志摩守から伊豆守と名乗りを変更。忠直に秀忠の娘の勝姫が嫁ぐが、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式。女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かった[ウィキペディア]。」
※「烏丸光広(33歳) 宮廷に復職。後水尾帝即位。」(『松永貞徳と烏丸光広』所収「略年譜」)

慶長十七(1612)18歳 家臣間の争論、久世騒動起きる。
※「本田重正(41歳)、秀康死後、藩内ではおおよそ「富正を筆頭とする徳川系家臣」と「今村盛次を頭とする、秀康召抱えの諸国出身の新参家臣」の対立が表面化する。徳川本家に複雑な感情を抱く忠直は、故にどちらかというと今村派であったといわれている。慶長17年の久世但馬上意討ち、いわゆる「久世騒動」(越前騒動とも)と呼ばれる事件であるが、18歳の当主忠直ではもはや処理し切れないこの家中紛糾した難件は、幕府の後の大老土井利勝や本多正信、さらには家康秀忠らの直接裁定が入った上で処理された[ウィキペディア]。」

元和元(1615) 21歳 大坂夏の陣で戦功、長男仙千代(光長)北庄に誕生。従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
※「本田富正(44歳)、大坂の陣が起こった際は、親豊臣的であった越前家をまとめ上げて幕府方として参戦させる。大坂夏の陣の最終決戦の際、家康の陣営に呼びつけられ、越前軍の働きの悪さを直接叱責されたのは家老である富正らである。大坂城突入の際は越前軍の最先頭に配置され、真田幸村勢と激突。後世に語り継がれる越前兵の精強さを見せつけた上で「大坂城一番乗り」の武功を立てて家康から黄金五十枚を拝領している[ウィキペディア]。」

元和二(1616) 22歳 家康、駿府で死去。
※「烏丸光広(38歳) 二月、権大納言に任ず。四月、徳川家康没。光悦、鷹峰に光悦町を開く。『中院通村日記』三月十三日条に『俵屋絵』のこと見える。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※※「岩佐又兵衛(39歳),北庄に移住〔廻国道中記〕。松平忠直(22歳),弟直政(19歳)に大野郡木本で1万石を分知〔松平文庫〕」(福井県史)

元和四(1618) 24 歳  鯖江・鳥羽野開発を命じる。
元和七(1621) 27歳  参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
※「烏丸光広(43歳) 正室(鶴姫)没。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
元和八(1622) 28歳 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
※※元和九(1623) 29歳 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。
※「本田富正(52歳)、 越前二代藩主忠直に対し幕府は、『振る舞いに難有り』として強制隠居という処分を下す。
 福井藩主の地位は、忠直弟の忠昌に継承されるが、反忠直派であった筆頭家老の富正やその他百人余の家臣らは『幕命により残留(隠居、致仕、豊後に移送される忠直への付属、忠直の子息松平光長との同行(忠昌と入れ替えで転封)などの禁止)』を命じられている。この継承による内外の混乱をも富正は、政治的手腕で乗り切っている。
 この忠昌への相続の際、忠直・忠昌兄弟の弟たちにもそれぞれ分地が行われ、越前家の領地は削減されたが、富正の府中領に変化はなかった。さらに富正に対しては、幕府より「この際に独立大名へ」という打診があったが『秀康への恩があるので』と断っている。なお、本田成重(本田富正と同じ附家老)の丸岡本多氏は、この騒動の際に福井藩より独立。一大名としてそのまま丸岡藩を興している[ウィキペディア]。」

寛永元(1624) 30歳 仙千代(光長)、越後高田に転封。弟忠昌(27歳)が高田より越前家相続。北庄を福井と改める。
※※寛永三(1626) 32歳  忠直、豊後萩原から同国津守に移る。
※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十三(1636) 「 烏丸光広(58歳) 四月、後水尾院の院使として、光広、日光東照宮宝前に太刀を奉納す。十一月、光広、江戸に下向す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十四(1637) 「 烏丸光広(59歳) 二月三日、光悦没(八十歳)。板倉重郷、伊勢物語九段『隅田川図』(宗達画)に詞を書く。七月、光広の帰京に際し、将軍徳川家光、時服、白銀を餞別す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十五(1638) 「 烏丸光広(60歳) 七月二十三日、光広、夜半に没す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶安二(1649) 本田富正(78歳)で死亡。富正が死んだ際、藩主の光通(忠昌次男)は深く悲しみ、領内の歌舞音楽を7日間禁止させた。『国中、父母を失ったが如し』と伝わる。」(「ウィキペディア」)
※※慶安三(1650) 56歳 9月10日、津守で死去。         】
※※「岩佐又兵衛(73歳) 六月二十二日、又兵衛江戸で没す。福井の興宗寺に葬られる。」
(『文春新書 岩佐又兵衛』所収「関係年譜」)

(追記その一)

※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)



https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

西行絵物語三.jpg

俵屋宗達画・烏丸光広賛『西行物語絵巻』(「第四巻」の『奥書き』)

  右西行法師行状之絵
  詞四巻 本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望 申出
  禁裏御本 命于宗達法橋
  令模写焉 於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
   寛永第七季秋上澣
           特進光広(花押)
[右、西行法師行状乃絵詞四巻は、本多伊豆守富正朝臣、
所望に依って、禁裏御本を申し出で、宗達法橋に命じて模写せしむ。
詞書に於いては、予(光広)禿筆を染め了(おわ)んぬ。
胡慮(嘲笑)を招くか。
寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)。
特進(正二位の唐名) 光広(花押)]
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

一 作画年代→「寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)」光広(52)、宗達(63?)
二 原本は「禁裏御本」→「後水尾上皇」の依頼により「揚梅図」を描く(宗達)
三 烏丸光広との交友関係→「特進 光広」(元和6年・一六二〇、正二位)、光悦(73)
四 法橋叙位(宗達)→「宗達法橋」(このとき既に「法橋」の地位にある)
五 古典的題材→宗達の模写したものは「室町時代の海田采女(うねめ)本」
六 模写の態度→大和絵系列の宗達好みの模写の姿勢が顕著である。
七 技法上の特色→「没骨法」「たらし込み法」「ほりぬり(彫り塗り)=最初にひいた描線を塗りつぶさずにこれを生かして彩色する技法」の線の上に墨の「くゝり」の線を加える技法などが随所に見られる。
八 部分転写活用→個々の「人物・樹木・土坡・下草」などを部分的に借用して創作する姿勢が顕著である。
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

(追記その二)

※「寛永十四(1637) 「 烏丸光広(59歳) 二月三日、光悦没(八十歳)。板倉重郷、伊勢物語九段『隅田川図』(宗達画)に詞を書く。七月、光広の帰京に際し、将軍徳川家光、時服、白銀を餞別す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

ここに出てくる「板倉重郷」は、「元和5年(1619年)、京都所司代である初代藩主・板倉重宗の長男として生まれる。寛永13年(1636年)12月29日に従五位下・長門守に叙位・任官し、寛永14年(1637年)に阿波守に遷任する。寛文元年(1661年)12月17日没。

「後水尾院サロン」の一員と思われ、このことからも、「板倉勝重・板倉重宗」も、「後陽成院・後水尾院」サロンとの交遊関係が浮かんでくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-03

 ちなみに、その「益田家本『伊勢物語図色紙』詞書揮毫者一覧」の主だった段とその揮毫者などは次のとおりである。

第六段   芥川    里村昌程(二二歳)    連歌師・里村昌琢庄の継嗣(子)
同上    雷神    同上
第九段   宇津の山  曼殊院良尚法親王(一二歳) 親王(後水尾天皇の猶子)
同上    富士の山  烏丸資慶(一二歳)     公家・大納言光広の継嗣(孫)
同上    隅田川   板倉重郷(一八歳)     京都所司代重宗の継嗣(子)
第三九段  女車の蛍  高松宮好仁親王(三一歳) 親王(後陽成天皇の第七皇子)
第四九段  若草の妹  近衛信尋(三五歳)  親王(後陽成天皇の第四皇子)        
第五六段  臥して思ひ 聖衛院道晃法親王(二二歳)親王後陽成天皇の第一一皇子?) 
第五八段  田刈らむ  烏丸光広(五五歳)    公家(大納言)

 これらの「詞書揮毫者一覧」を見ていくと、『伊勢物語図色紙』」は角倉素庵追善というよりも、第九段(東下り)の詞書揮毫者の「曼殊院良尚法親王(一二歳)・烏丸資慶(一二歳)」などの「初冠(ういこうぶり)」(元服=十一歳から十七歳の間におこなわれる成人儀礼)関連のお祝いものという見方も成り立つであろう。
 ちなみに、烏丸光広(五五歳)の後継子(光広嫡子・光賢の長子)、烏丸資慶(一二歳)は、寛永八年(一六三一)、十歳の時に、後水尾上皇の御所で催された若年のための稽古歌会に出席を許され、その時の探題(「連夜照射」)の歌、「つらしとも知らでや鹿の照射さす端山によらぬ一夜だになき」が記録に遺されている(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』)。
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yahantei

「結城秀康 略年譜年譜」も「松平忠直 略年譜」を、下記のアドレスの、「二条城の歴史・沿革 略年表(詳細年表)」と重ね合わせて行くと、さらに、いろいろな示唆が膨らんでくる。

天正2年(1574) 1歳 徳川家康の次男として、遠江国敷智(ふち)郡宇布見(有富美)村(現静岡県雄踏町)の中村源左衛門家で誕生する。
天正7年(1579) 6歳 兄信康(家康の長男)が自害する。
天正12年(1584) 11歳 小牧・長久手の戦いの講和後に羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀康と称して河内国に所領を与えられる。

※天正13年(1585)12歳 「本田富正(14歳)、本家筋の甥・本田成重に替わり『秀康』の附属同行・側近(側仕え)として仕える。〔ウィキペディア〕」

天正13年(1585) 12歳 元服して従四位下・三河守に叙任される。
天正15年(1587) 14歳 秀吉の九州征伐に従い初陣を果たす。
天正18年(1590) 17歳 秀吉の命を受けて結城晴朝の養子となる。晴朝の養女鶴姫と婚姻し、下総国結城10万1千石を相続する。

文禄4年(1595)22歳 嫡男国丸(2代藩主松平忠直)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長2年(1597) 24歳 次男虎松(3代藩主松平忠昌)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長5年(1600) 27歳 家康の命により下野国小山に滞陣して上杉景勝の動きを押える。
関ヶ原の戦いの後、戦功として越前68万石を拝領する。
※「本田富正(29歳)、越前府中(武生)3万9千石の領主(大名格)として、また、『越前藩主・秀康』の御附家老として仕える。〔ウィキペディア〕」

慶長6年(1601) 28歳 越前の地へ初入封し、養父晴朝も越前へ移住する。 北庄城(福井城)の修築普請を開始する。
※「本田富正(30歳)、)結城秀康,北庄城受取りのために本多富正を先発させる。〔福井県史・家譜〕」
慶長8年(1603) 30歳 家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。
慶長10年(1605) 32歳 権中納言に任じられる。弟秀忠が2代将軍となる。
慶長11年(1606) 33歳 禁裏・仙洞御所普請の総督を命じられる。伏見城の留守在城を命じられる。
慶長12年(1607)34歳 伏見より帰国し、北庄城において没する。    
※「本田富正(36歳)、『主君の秀康が死去すると、家中では追腹を行う者が出る中、富正は病気の秀康の名代という形式で駿府城改築の指揮を執っていたため追腹が行えずにいた。追腹が続く状況を危惧した江戸幕府により、2代将軍・徳川秀忠から特使の近藤季用が派遣された。近藤により大御所・家康や幕閣である本多正純署名の書状がもたらされ、これにより今村盛次、片山吉次らその他複数の福井藩の重臣、特に富正の殉死(追腹)は固く禁じられたため、富正は剃髪するにとどまった。また幕府の直命により富正は引き続き福井藩の執政、秀康の子の松平忠直の補佐を勤めることとなった。慶長12年(1607年)、本多家は本藩とは別に、直々に江戸に上屋敷と下屋敷を賜ったが『上屋敷だけで充分』として下屋敷を返上している。』〔ウィキペディア〕 】

【(松平忠直 略年譜)→ 二代越前松平家藩主(※印は「本田富正」と「烏丸光広」、※※印は「特記事項」と「岩佐又兵衛」関連) 

文禄四年(1595) 1歳 結城秀康の長男、国丸(松平忠直)誕生。母は側室・中川氏。
慶長十年(1605) 11歳 従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
慶長十一年(1606)12歳 右近衛権少将に転任。三河守如元。
慶長十二(1607) 13歳 秀康(34歳)、北庄で死去。忠直、越前75万石を相続。
※「烏丸光広(29歳) 結城秀康未亡人(鶴姫)と結婚。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶長十四(1609) 烏丸光広(31歳) 一月、左大弁に任ず。七月、典侍広橋氏・権典侍中院氏・掌侍水無瀬氏・命婦讃岐らと参議光広、左近衛権中将大炊御門頼国らとの姦淫事件発覚す。この日、勅使により広橋氏以下をその家に禁固し、光広以下の官位を停む。十一月、徳川家康、前記姦淫事件の花山院忠長を蝦夷に、飛鳥井雅賢を隠岐に、大炊御門頼国・中御門宗信を薩摩に、難波宗勝を伊豆にそれぞれ流罪とし、光広および徳大寺実久の罪をゆるす。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。
※「本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される〔福井県史・家譜〕。志摩守から伊豆守と名乗りを変更。忠直に秀忠の娘の勝姫が嫁ぐが、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式。女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かった[ウィキペディア]。」
※「烏丸光広(33歳) 宮廷に復職。後水尾帝即位。」(『松永貞徳と烏丸光広』所収「略年譜」)

慶長十七(1612)18歳 家臣間の争論、久世騒動起きる。
※「本田重正(41歳)、秀康死後、藩内ではおおよそ「富正を筆頭とする徳川系家臣」と「今村盛次を頭とする、秀康召抱えの諸国出身の新参家臣」の対立が表面化する。徳川本家に複雑な感情を抱く忠直は、故にどちらかというと今村派であったといわれている。慶長17年の久世但馬上意討ち、いわゆる「久世騒動」(越前騒動とも)と呼ばれる事件であるが、18歳の当主忠直ではもはや処理し切れないこの家中紛糾した難件は、幕府の後の大老土井利勝や本多正信、さらには家康秀忠らの直接裁定が入った上で処理された[ウィキペディア]。」

元和元(1615) 21歳 大坂夏の陣で戦功、長男仙千代(光長)北庄に誕生。従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
※「本田富正(44歳)、大坂の陣が起こった際は、親豊臣的であった越前家をまとめ上げて幕府方として参戦させる。大坂夏の陣の最終決戦の際、家康の陣営に呼びつけられ、越前軍の働きの悪さを直接叱責されたのは家老である富正らである。大坂城突入の際は越前軍の最先頭に配置され、真田幸村勢と激突。後世に語り継がれる越前兵の精強さを見せつけた上で「大坂城一番乗り」の武功を立てて家康から黄金五十枚を拝領している[ウィキペディア]。」

元和二(1616) 22歳 家康、駿府で死去。
※「烏丸光広(38歳) 二月、権大納言に任ず。四月、徳川家康没。光悦、鷹峰に光悦町を開く。『中院通村日記』三月十三日条に『俵屋絵』のこと見える。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※※「岩佐又兵衛(39歳),北庄に移住〔廻国道中記〕。松平忠直(22歳),弟直政(19歳)に大野郡木本で1万石を分知〔松平文庫〕」(福井県史)

元和四(1618) 24 歳  鯖江・鳥羽野開発を命じる。
元和七(1621) 27歳  参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
※「烏丸光広(43歳) 正室(鶴姫)没。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
元和八(1622) 28歳 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
※※元和九(1623) 29歳 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。
※「本田富正(52歳)、 越前二代藩主忠直に対し幕府は、『振る舞いに難有り』として強制隠居という処分を下す。
 福井藩主の地位は、忠直弟の忠昌に継承されるが、反忠直派であった筆頭家老の富正やその他百人余の家臣らは『幕命により残留(隠居、致仕、豊後に移送される忠直への付属、忠直の子息松平光長との同行(忠昌と入れ替えで転封)などの禁止)』を命じられている。この継承による内外の混乱をも富正は、政治的手腕で乗り切っている。
 この忠昌への相続の際、忠直・忠昌兄弟の弟たちにもそれぞれ分地が行われ、越前家の領地は削減されたが、富正の府中領に変化はなかった。さらに富正に対しては、幕府より「この際に独立大名へ」という打診があったが『秀康への恩があるので』と断っている。なお、本田成重(本田富正と同じ附家老)の丸岡本多氏は、この騒動の際に福井藩より独立。一大名としてそのまま丸岡藩を興している[ウィキペディア]。」

寛永元(1624) 30歳 仙千代(光長)、越後高田に転封。弟忠昌(27歳)が高田より越前家相続。北庄を福井と改める。
※※寛永三(1626) 32歳  忠直、豊後萩原から同国津守に移る。
※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十三(1636) 「 烏丸光広(58歳) 四月、後水尾院の院使として、光広、日光東照宮宝前に太刀を奉納す。十一月、光広、江戸に下向す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十四(1637) 「 烏丸光広(59歳) 二月三日、光悦没(八十歳)。板倉重郷、伊勢物語九段『隅田川図』(宗達画)に詞を書く。七月、光広の帰京に際し、将軍徳川家光、時服、白銀を餞別す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十五(1638) 「 烏丸光広(60歳) 七月二十三日、光広、夜半に没す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶安二(1649) 本田富正(78歳)で死亡。富正が死んだ際、藩主の光通(忠昌次男)は深く悲しみ、領内の歌舞音楽を7日間禁止させた。『国中、父母を失ったが如し』と伝わる。」(「ウィキペディア」)
※※慶安三(1650) 56歳 9月10日、津守で死去。         】
※※「岩佐又兵衛(73歳) 六月二十二日、又兵衛江戸で没す。福井の興宗寺に葬られる。」
(『文春新書 岩佐又兵衛』所収「関係年譜」)

【(松平忠直 略年譜)→ 二代越前松平家藩主(※印は「本田富正」と「烏丸光広」、※※印は「特記事項」と「岩佐又兵衛」関連) 

文禄四年(1595) 1歳 結城秀康の長男、国丸(松平忠直)誕生。母は側室・中川氏。
慶長十年(1605) 11歳 従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
慶長十一年(1606)12歳 右近衛権少将に転任。三河守如元。
慶長十二(1607) 13歳 秀康(34歳)、北庄で死去。忠直、越前75万石を相続。
※「烏丸光広(29歳) 結城秀康未亡人(鶴姫)と結婚。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶長十四(1609) 烏丸光広(31歳) 一月、左大弁に任ず。七月、典侍広橋氏・権典侍中院氏・掌侍水無瀬氏・命婦讃岐らと参議光広、左近衛権中将大炊御門頼国らとの姦淫事件発覚す。この日、勅使により広橋氏以下をその家に禁固し、光広以下の官位を停む。十一月、徳川家康、前記姦淫事件の花山院忠長を蝦夷に、飛鳥井雅賢を隠岐に、大炊御門頼国・中御門宗信を薩摩に、難波宗勝を伊豆にそれぞれ流罪とし、光広および徳大寺実久の罪をゆるす。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。
※「本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される〔福井県史・家譜〕。志摩守から伊豆守と名乗りを変更。忠直に秀忠の娘の勝姫が嫁ぐが、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式。女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かった[ウィキペディア]。」
※「烏丸光広(33歳) 宮廷に復職。後水尾帝即位。」(『松永貞徳と烏丸光広』所収「略年譜」)

慶長十七(1612)18歳 家臣間の争論、久世騒動起きる。
※「本田重正(41歳)、秀康死後、藩内ではおおよそ「富正を筆頭とする徳川系家臣」と「今村盛次を頭とする、秀康召抱えの諸国出身の新参家臣」の対立が表面化する。徳川本家に複雑な感情を抱く忠直は、故にどちらかというと今村派であったといわれている。慶長17年の久世但馬上意討ち、いわゆる「久世騒動」(越前騒動とも)と呼ばれる事件であるが、18歳の当主忠直ではもはや処理し切れないこの家中紛糾した難件は、幕府の後の大老土井利勝や本多正信、さらには家康秀忠らの直接裁定が入った上で処理された[ウィキペディア]。」

元和元(1615) 21歳 大坂夏の陣で戦功、長男仙千代(光長)北庄に誕生。従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
※「本田富正(44歳)、大坂の陣が起こった際は、親豊臣的であった越前家をまとめ上げて幕府方として参戦させる。大坂夏の陣の最終決戦の際、家康の陣営に呼びつけられ、越前軍の働きの悪さを直接叱責されたのは家老である富正らである。大坂城突入の際は越前軍の最先頭に配置され、真田幸村勢と激突。後世に語り継がれる越前兵の精強さを見せつけた上で「大坂城一番乗り」の武功を立てて家康から黄金五十枚を拝領している[ウィキペディア]。」

元和二(1616) 22歳 家康、駿府で死去。
※「烏丸光広(38歳) 二月、権大納言に任ず。四月、徳川家康没。光悦、鷹峰に光悦町を開く。『中院通村日記』三月十三日条に『俵屋絵』のこと見える。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※※「岩佐又兵衛(39歳),北庄に移住〔廻国道中記〕。松平忠直(22歳),弟直政(19歳)に大野郡木本で1万石を分知〔松平文庫〕」(福井県史)

元和四(1618) 24 歳  鯖江・鳥羽野開発を命じる。
元和七(1621) 27歳  参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
※「烏丸光広(43歳) 正室(鶴姫)没。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
元和八(1622) 28歳 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
※※元和九(1623) 29歳 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。
※「本田富正(52歳)、 越前二代藩主忠直に対し幕府は、『振る舞いに難有り』として強制隠居という処分を下す。
 福井藩主の地位は、忠直弟の忠昌に継承されるが、反忠直派であった筆頭家老の富正やその他百人余の家臣らは『幕命により残留(隠居、致仕、豊後に移送される忠直への付属、忠直の子息松平光長との同行(忠昌と入れ替えで転封)などの禁止)』を命じられている。この継承による内外の混乱をも富正は、政治的手腕で乗り切っている。
 この忠昌への相続の際、忠直・忠昌兄弟の弟たちにもそれぞれ分地が行われ、越前家の領地は削減されたが、富正の府中領に変化はなかった。さらに富正に対しては、幕府より「この際に独立大名へ」という打診があったが『秀康への恩があるので』と断っている。なお、本田成重(本田富正と同じ附家老)の丸岡本多氏は、この騒動の際に福井藩より独立。一大名としてそのまま丸岡藩を興している[ウィキペディア]。」

寛永元(1624) 30歳 仙千代(光長)、越後高田に転封。弟忠昌(27歳)が高田より越前家相続。北庄を福井と改める。
※※寛永三(1626) 32歳  忠直、豊後萩原から同国津守に移る。
※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十三(1636) 「 烏丸光広(58歳) 四月、後水尾院の院使として、光広、日光東照宮宝前に太刀を奉納す。十一月、光広、江戸に下向す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十四(1637) 「 烏丸光広(59歳) 二月三日、光悦没(八十歳)。板倉重郷、伊勢物語九段『隅田川図』(宗達画)に詞を書く。七月、光広の帰京に際し、将軍徳川家光、時服、白銀を餞別す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十五(1638) 「 烏丸光広(60歳) 七月二十三日、光広、夜半に没す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶安二(1649) 本田富正(78歳)で死亡。富正が死んだ際、藩主の光通(忠昌次男)は深く悲しみ、領内の歌舞音楽を7日間禁止させた。『国中、父母を失ったが如し』と伝わる。」(「ウィキペディア」)
※※慶安三(1650) 56歳 9月10日、津守で死去。         】
※※「岩佐又兵衛(73歳) 六月二十二日、又兵衛江戸で没す。福井の興宗寺に葬られる。」
(『文春新書 岩佐又兵衛』所収「関係年譜」)


https://kojodan.jp/castle/13/memo/3491.html


二条城の歴史・沿革 略年表(詳細年表 日付は旧暦。)

西暦(和暦)    出来事
1601年(慶長6年)
5月13日、家康、京都屋敷の地を見聞。
5月、家康の屋敷建築のため、町家四、五千軒が立ち退く。
10月9日、家康、京中の屋形を測量する。
12月、家康、西国の諸大名に命じて二条城の造営に着手。
1602年(慶長7年)
5月、御殿作事に着手。
11月29日、家康、松10本植樹のために北野人足を雇用。
1603年(慶長8年)
2月12日、家康、伏見城において将軍宣下を受ける。
3月7日、山科言経等、二条城見物。
3月21日、家康、拝賀の礼をおこなうために二条城に入城。殿舎はほぼ完成。
3月25日、家康、参内して、拝賀の礼をおこなう。
3月27日、勅使、二条城に至り、家康に太刀等を賜う。親王、公家衆、重臣らを招いて将軍就任の祝賀をおこなう。
4月1日、公家衆、二条城に至り、家康に謁見。
4月4日〜7日、家康、公家衆、諸大名、門跡等を招き、能を催す。
4月16日、家康、伏見城に帰る。
7月3日、家康、伏見城から二条城に入る。
7月7日〜8日、二条城で能あり。
7月15日、家康、二条城から伏見城に帰る。10月18日、伏見城から江戸城に帰る。
1604年(慶長9年)
3月29日、家康上洛、伏見城に入る。
6月10日、家康、伏見城から二条城に入る。
6月22日、家康、参内する。
6月23日、親王、門跡(もんぜき)、公家等が二条城に至り、家康に歳首を賀す。
6月24日〜25日、家康、二条城に高台院、公家衆を招いて能を催す。
7月1日、家康、二条城から伏見城に帰る。閏8月14日、伏見城から江戸城に帰る。
1605年(慶長10年)
2月19日、家康上洛、伏見城に入る。
3月21日、秀忠上洛、伏見城に入る。
4月8日、家康、伏見城から二条城に入る。
4月10日、家康、参内する。
4月12日、親王、公家衆、門跡等が二条城に至り、家康に歳首を賀す。
4月15日、家康、伏見城に帰る。
4月16日、秀忠、伏見城において将軍宣下を受ける。
4月17日、秀忠、二条城に入る。
4月27日、公家衆、門跡等が二条城に至り、将軍宣下を賀す。秀忠、伏見城に帰る。6月4日、伏見城から江戸城に帰る。
7月21日、家康、伏見城から二条城に入る。林信勝を二条城へ召す。
8月1日、公家衆、二条城に至り、家康に八朔を賀す。
8月17日、二条城で乱舞あり。公家衆および神龍院梵舜等が伺侯(しこう)する。
8月19日、仁和寺覚深親王、諸門跡首座着任の礼のため、二条城に家康を訪問する。
8月22日、家康、伏見城に帰る。9月15日、伏見城から江戸城に帰る。
天守、取付け櫓、小天守、廊下の造立に着手。翌年4月頃まで継続。
1606年(慶長11年)
4月6日、家康上洛、伏見城に入る。
7月27日、家康、伏見城から二条城に入る。
8月1日、公家衆、二条城に至り、家康に八朔を賀す。
8月2日〜3日、家康、二条城に高台院、公家衆を招いて能を催す。
8月12日、家康、伏見城に帰る。11月4日、伏見城から江戸城に帰る。
9月、天守完成。
この年、幕府、二条城を修築する。
1610年(慶長15年)
11月1日、義演准后、醍醐寺金剛輪院(現・三宝寺)の泉石を二条城に献上する。
1611年(慶長16年)
2月9日、義演、家康の上洛準備のため、数寄屋で使う垣柴60荷を贈る。
3月17日、家康上洛、二条城に入る。
3月28日、家康、二条城で豊臣秀頼と対面する。高台院も同席。
4月2日、勅使、院使、女院使を二条城に遣わす。親王、公家衆、門跡、二条城に至り、家康に拝謁。家康、義直と頼宣を大坂城に遣わし、秀頼の来見に応える。
4月3日、家康、二条城から伏見城に入り、滞留2日で二条城に帰る。
4月8日、家康、高野山大徳院宥雅等を二条城に召し、その論議を聞く。
4月11日、徳川頼宣、二条城にて能を演じ、公家衆、門跡、諸大名が鑑賞する。
4月14日、家康、二条城で能を催し、親王、門跡、公家衆を饗応する。
4月17日、家康の駿河下向に先立ち、勅使を二条城に遣わす。
1614年(慶長19年)
10月20日、大坂方の二条城焼き討ち計画が板倉勝重によって阻止される。
10月23日、家康、頼宣、二条城に入る。家康、藤堂高虎と片桐且元を二条城に召し、大坂城の形勢を問う。
10月24日、勅使伝奏、二条城に至り、家康を慰労する。公家衆、諸大名も二条城に至り、家康に拝謁する。
10月25日〜28日、公家衆、この間二条城において、家康に拝謁することあり。
10月26日、織田信雄および五山僧徒、二条城に至り、家康に拝謁する。京極高政、二条城に至り、家康に拝謁する。
10月27日、秀忠の使、二条城の家康に、秀忠が江戸城を発し、翌日藤沢に到着したことを報告する。南都一乗院尊勢、喜多院空慶、高野山宝性院深覚、片桐貞隆、石川貞政、池田利隆が二条城に至り、家康に拝謁する。家康、とくに玄隆を召して軍議する。
10月28日、醍醐三宝院准后義演、南都大乗院信尊、堀川本願寺光昭等、二条城に至り、家康に拝謁する。
11月1日、八条宮智仁親王、関白鷹司信尚、先関白二条昭実、同鷹司信房、同九条忠栄、および公家衆、門跡、僧徒等、二条城に至り、家康に拝謁する。丹波福知山城主・有馬豊および池田忠継、二条城に至り、家康に拝謁する。
11月4日、右大臣近衛信尋、権大納言一条兼遐以下公家衆百余人、二条城に至り、家康に拝謁する。この後、公家衆、僧徒等、しばしば二条城において家康に拝謁することあり。
11月6日、伊予松山城主・加藤嘉明の嫡子明成および毛利輝元の使者、二条城に至り、家康に拝謁する。高野山大徳院宥宮城、家康に拝謁する。
11月7日、蜂須賀至鎮、二条城に至り、家康に拝謁する。次いで摂津勝間に陣する。
11月10日、秀忠上洛、伏見城に入る。
11月11日、秀忠、二条城に至り、奥御座の間において家康に拝謁する。伊達政宗、二条城に至り、家康に拝謁し、宇治に赴く。今井宗薫、宗呑父子、監禁されていた大坂城を逃れ、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、命じて堺に帰らせる。
11月12日、上杉景勝、佐竹義宣、二条城に至り、家康に拝謁する。徳川義直、二条城を発して、木津に至る。
11月13日、秀忠、土井利勝を二条城に遣わし、家康と密談させる。常陸麻布藩主・新庄直定、下総田子藩主・土方雄重、下野茂木藩主・細川興元等、二条城に至り、家康に拝謁する。
11月14日、本多正信、二条城に至り、家康に拝謁する。
11月15日、家康、二条城を発し、大坂に向かう。この夜、奈良に至る。秀忠、伏見城を発し、枚方に至る。【大坂冬の陣開戦】
1615年(慶長19年)
12月25日、大坂冬の陣、和議がなり、家康、二条城に凱旋する。
12月26日、公家衆、二条城に至り、家康に拝謁する。片桐且元、板倉勝重、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、伝通院廓山を召し、仏法を談ずる。
12月27日、秀忠、土井利勝を二条城に遣わし、大坂城堀櫓等の取り壊しのことを伝える。梵舜、二条城に至り、家康に三光双覧抄を献じる。
12月28日、家康、参内し、和議成立を奏上する。
12月29日、伝奏、二条城に至り、禁中儀式等七カ条を家康に示す。知恩院良純親王等、二条城において家康に拝謁する。
1615年(慶長20年)
1月1日、豊臣秀頼、使を二条城に遣わし、家康に歳首を賀す。大名、僧等も賀す。
1月3日、家康、二条城から駿府城に帰る。
1月19日、秀忠、伏見城に凱旋する。
1月24日、秀忠、伏見城から二条城に入る。
1月25日、五山の僧徒、二条城に至り、秀忠に歳首を賀す。
1月26日、秀忠、参内する。
1月27日、親王、公家衆、門跡以下、二条城に至り、秀忠に拝謁、和議成立を賀す。
1月28日、秀忠、二条城から江戸城へ帰る。
4月18日、家康、大坂再征のため上洛し、二条城に入る。
4月21日、秀忠、伏見城に入る。
4月22日、秀忠、二条城に至り、家康と密議する。
4月23日、公家衆、二条城ならびに伏見城に至り、家康および秀忠に拝謁する。
4月25日、関東の諸軍、京都に到着する。秀忠、土井利勝と安藤重信を二条城の家康のもとに遣わす。家康、秀忠に翌日の二条城への登城を命じる。
4月26日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、秀忠、28日出陣と定める。徳川義直、頼宣、松平忠輝、家康に拝謁する。
4月27日、大坂夏の陣開戦。
4月29日、秀忠、二条城に至り、家康と密議し、5月3日を進攻の日と命じる。
5月5日、家康、二条城を発し、河内星田に至る。秀忠、伏見城を発し、河内砂に陣す。義直、頼宣等も京都を発す。秀忠、家康の営に至り、軍議をおこなう。
5月8日、大坂城落城。家康、二条城に凱旋する。鍋島勝茂、二条城に至り、家康に拝謁する。
5月9日、秀忠、伏見城に凱旋する。
5月10日、家康、秀忠、諸大名と二条城において謁見し、浅野長晟、松平忠直等の戦功を賞す。
5月11日、秀忠、二条城に至り、家康と密議する。
5月13日、毛利秀就、中川久盛、寺沢広高等、二条城に至り、家康に拝謁する。僧衆も二条城に至り、家康に拝謁する。
5月14日、大坂の町奉行、水原吉一、京都に潜伏するが発覚し、処刑されて首級を二条城西門に晒される。
5月15日、公家衆、門跡、二条城に至り、家康に拝謁する。二条城において天台宗の論議あり。
5月18日、秀忠、公家衆、門跡、大名等、二条城に至り、家康に拝謁する。二条城において因明の論議あり。
5月19日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁し、8月まで滞在して、諸般のことを処置するように請う。家康、これを承諾する。
5月21日、二条城において真言宗の論議あり。
5月23日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁し、密議する。二条城において天台宗の論議あり。
6月1日、公家衆、二条城に至り、家康に拝謁する。
6月2日、秀忠、二条城に至る。二条城において天台宗の論議あり。
6月4日、二条城において高野衆の論議あり。
6月5日、島津家久、二条城に至り、家康に拝謁し、物を献じ、次いで秀忠に拝謁する。
6月11日、二条城において因明の論議あり。
6月15日、家康、参内する。
6月16日、二条城において嘉定の儀あり。
6月17日、二条城において天台宗の論議あり。
6月20日、秀忠、二条城に至る。二条城において天台宗の論議あり。
6月28日、秀忠、二条城に至る。
6月29日、本阿弥又三郎、二条城に至り、秀頼の骨喰刀を家康に献じる。
6月30日、家康、片山宗哲等に命じて僧雲叔が献上した書籍を「数寄屋の御書院」にて校合させる。
閏6月1日、公家衆および僧侶、二条城に至り、家康に拝謁する。
閏6月3日、宇和島城主・伊達秀宗、二条城に至り、家康に拝謁する。
閏6月4日、細川忠興、二条城に至り、家康に拝謁する。次いで帰国する。
閏6月6日、秀忠、二条城に至る。二条城において真言宗の論議あり。
閏6月9日、家康、織田有楽斎を二条城に召して、大坂城中の茶器のことを問う。
閏6月15日、松平忠輝、織田常真、梵舜、二条城に至り、家康に拝謁する。中井大和守正清、二条城に至り、法隆寺阿弥陀院の遺物を家康に披露する。秀忠、安藤重信を二条城に遣わす。
閏6月16日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁する。
閏6月17日、公家衆、門跡、諸大名等、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、浄土宗の法文を聴く。
閏6月23日、二条城において真言宗の論議あり。伊達政宗、二条城に至り、家康に定家自筆の古今和歌集を献じるが、家康は辞退する。
閏6月25日、二条城において天台宗の論議あり。
閏6月26日、二条城において真言宗の論議あり。喜連川頼氏、浅野長晟等、二条城に至り、家康に拝謁する。
閏6月27日、秀忠、二条城に至り、舞楽を見る。公家衆、諸大名等も陪観する。
7月1日、秀忠、二条城に至る。家康、二条城で能を催す。
7月3日、二条城において真言宗の論議あり。豊国神社の社僧・梵舜、数寄屋路地に用いる松落葉30俵を二条城に贈る。
7月4日、秀忠、水野忠元を二条城に遣わし、家康に鱸魚を献ずる。二条城において天台宗の論議あり。
7月5日、二条城において幸若舞あり。
7月6日、二条城において真言宗の論議あり。
7月10日、土井利勝、二条城に至り、家康に拝謁する。
7月11日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁し、関東下向の挨拶をする。
1615年(元和元年)
7月17日、秀忠、二条城に入り、「泉水御座敷」で家康と拝謁し、「禁中並公家諸法度」を定める。二条城において能あり。
7月19日、秀忠、伏見城から江戸城へ帰る。
7月20日、29日、家康、二条城「御書院ノ西、御数寄屋ノ廊下ノ座敷(八畳敷か)」において中院通村等の源氏物語の講義を聴く。
7月21日、家康、高台院、公家衆を招き、能を催す。
7月26日、二条城において真言宗の論議あり。
7月28日、梵舜、二条城に至り、増鏡三冊を家康に献じる。
8月1日、親王、公家衆、門跡等、二条城において、八朔を賀し、家康の帰国にあたり挨拶する。南蛮人、二条城に至り、家康に拝謁する。
8月2日、家康、大徳寺の僧・宗眼天叔等を二条城に召して仏法を聴く。
8月4日、家康、二条城から駿府城に帰る。
1616年(元和2年)
4月17日、家康、駿府城で死去。
1617年(元和3年)
6月29日、秀忠、上洛して伏見城に入る。9月13日、伏見城から江戸城へ帰る(二条城は使用されず)。
1619年(元和5年)
5月27日、秀忠、上洛して伏見城に入る。
8月25日、毛利輝元、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
9月18日、秀忠、二条城に至り、藤堂高虎・小堀政一を奉行に任じ、和子入内に備えた女御御殿の造営を命じる。即日、江戸へ向かう。
1620年(元和6年)
2月21日、藤堂高虎、上洛して和子入内を斡旋する。
4月22日、所司代・板倉重宗、関白・九条忠栄を訪ね、和子入内を詮議する。
5月、女御御殿、付属屋完成。
5月28日、徳川和子、上洛して二条城に入る(一時居住)。
6月12日、関白・九条幸家等、二条城に至り、酒井忠世、土井利勝等と、和子入内を詮議する。
6月18日、和子、二条城より後水尾天皇のもとへ入内する。
1623年(元和9年)
6月8日、秀忠、上洛して二条城に入る。
6月9日、昵懇の公家衆、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
6月15日、勅使、院使、親王、公家衆、門跡等、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
6月16日、二条城において嘉定の儀あり。
6月25日、秀忠、参内する。
7月1日、二条城の西長屋、崩壊する。
7月6日、秀忠、大坂に赴く。
7月13日、秀忠、大坂より二条城に帰る。家光、入京して伏見城に入る。
7月15日、勅使、伏見城に至り、家光に拝謁する。家光、二条城に入り、秀忠に拝謁する。
7月27日、家光、伏見城で将軍宣下を受ける。【この行事を最後に伏見城を廃する】
8月6日、家光、将軍宣下の拝賀の礼をおこなうため、参内する。
8月14日、家光、二条城において能を催す。
8月16日、二条城において能を催す。
閏8月1日、暹羅(シャム)国使節、二条城に至り、大広間にて秀忠に拝謁し、書簡と献上品を奉呈する。
閏8月8日、家光、江戸へ帰るため、京を発する。
閏8月21日、秀忠、二条城から江戸へ帰る。
11月19日、和子、皇女・女一宮興子内親王(後の明正天皇)を出産。
家光、上洛の際に佐久間将監(真勝)に命じて、城内に御茶室を造営させる。
1624年(元和10年)
1月、2月、幕府、名古屋城主・徳川義直以下、譜代大名18名(18藩)に命じて、二条城を修築する。
1624年(寛永元年)
5月、家光、後水尾天皇行幸を仰ぐため、二条城拡張、殿舎整備ならびに行幸御殿造営に着手(1626年9月まで継続)。
5月28日、家光、上野高崎城主・安藤重長を、秀忠、秋元泰朝を、ともに大坂に遣わして、二条城修築助役の諸大名の家士を慰労する。
9月、家光、小堀政一らを作事奉行に任命。建築工事は1626年に入って完成。
この年、家光、来るべき二条城行幸のため、二条城天守、行幸御殿を造営し、また伏見城の破却を終了する。
1625年(寛永2年)
4月2日、幕府、駿府城番・渡辺茂を二条城番(二条城在番)となす(二条城代の設置)。大御番衆30名を率い1年間勤務。
5月21日、行幸御殿が完成。
7月下旬、二の丸御殿がほぼ完成。
行幸御殿の障壁画が狩野派一門により描かれる。
1626年(寛永3年)
3月28日、幕府、二条城を修理する。武家伝奏権大納言三条西実条、同権中納言中院通村等、二条城を見物する。
5月3日、鍋島勝重、二条城の庭園に植える蘇鉄を1本献納する。
5月16日、幕府、二条城に行幸を仰ぐため、昵懇の公家衆等に装束料を給う。
5月28日、秀忠、上洛のため江戸を発す。
6月、門や櫓など付属する建物の工事も完成。
6月20日、秀忠、入京して二条城に入る。
6月23日、武家伝奏、二条城に至り、秀忠に拝謁する。公家衆、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
6月28日、公家衆、諸大名等、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
7月3日、親王、公家衆、二条城に至り、秀忠の入京を賀す。
7月12日、秀忠、参内する。家光、上洛のため江戸を発す。
7月13日、秀忠、武家伝奏権大納言三条西実条、同権中納言中院通村、幕府年寄衆下総佐倉城主・土井利勝、同遠江横須賀城主・井上正就、同下総古河城主・永井尚政、所司代板倉重宗および金地院崇伝等を集め、二条城行幸の諸礼について議論させる。
7月25日、秀忠、大坂に赴く。
7月30日、秀忠、大坂より二条城に帰る。
8月2日、家光、入京して二条城に入り、次いで淀城に居館する。
8月11日、秀忠、参内する。
8月14日、家光、淀城から二条城に入る。
8月18日、家光、参内する。
9月6日、後水尾天皇、中和門院と中宮和子を伴い、二条城に行幸。五日間の滞在。【寛永行幸】
9月7日、舞楽御覧。
9月8日、和歌、管弦の御遊あり。天皇、中宮、女院ら、天守を歴覧する。
9月9日、猿楽御覧。
9月10日、女院、午前に二条城より還幸。天皇、再度天守にのぼり還幸の宴後、二条城を発つ。
9月13日、秀忠、家光、参内する。
9月16日、17日、家光、大坂城に至り、普請を見る。翌日、二条城に帰る。
9月25日、家光、江戸へ帰るため、京を発する。
10月6日、秀忠、江戸へ帰るため、京を発する。
この年、狩野探幽ら、二条城障壁画を描く。
1627年(寛永4年)
8月7日、幕府、二条城唐門を南禅寺に下す。金地院に移築。
11月、仙洞御所造営についての法度が発せられる。
1628年(寛永5年)
6月23日、幕府、青山幸成と安藤重長を京坂に遣わし、二条城当直等に関する覚書を授ける。
行幸御殿、中宮御殿、四脚門、唐門などを仙洞御所(後水尾院御所)に移築する(1661年(万治4年)1月15日に焼失)。
1629年(寛永6年)
【紫衣事件】
11月8日、後水尾天皇が譲位。
1630年(寛永7年)
9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。
1632年(寛永9年)
1月24日、秀忠、江戸城で死去。
1633年(寛永10年)
5月、在番の大番士30人に二百石ずつ加恩あり。
7月、小堀遠州、二条城内に茶室造営開始(翌年6月完成)。
1634年(寛永11年)
7月11日、家光、30万の兵とともに上洛して二条城に入る。
7月12日、院使、勅使が二条城に至り、上洛を賀す。
7月13日、院使、勅使が二条城に至り、歳首を賀す。門跡、公家等も拝謁する。
7月14日、門跡、公家衆、二条城に至り、家光に拝謁する。
7月15日、伝奏、諸大名、御三家、家光に拝謁する。院使、二条城に至り、家光に太政大臣昇進を薦めるが固辞する。
7月16日、門跡、各宗派の僧侶、官工、官商、家光に拝謁する。
7月17日、勅使、院使が二条城に至り、重ねて太政大臣昇進を薦めるが、家光は固辞する。徳川頼宣を召す。
7月18日、家光、参内する。
7月19日、御三家、諸大名、二条城に至り、参内を賀す。
7月20日、細川三斎父子、天海はじめ僧侶等、二条城に至り、拝謁する。板倉周防守を仙洞に遣わし、万葉集を院に進ず。
7月21日、二の丸で、摂家、親王、公卿、門跡、殿上人、国持諸大名等を招き、猿楽を催す。市人も陪観を許される。
7月22日、医官、連歌師、および京坂、奈良、堺、伏見の市人、二条城に至り、献上品を奉る。
7月23日、京の町年寄を各町よりふたりずつ、本丸二の丸間の白洲に集め、御上洛の御祝として銀12万枚下賜する。家光はこれを北の櫓から見物する。
7月25日、西本願寺門跡等、家光に拝謁する。
7月26日、東本願寺門跡等、家光に拝謁する。
7月27日、九条前関白幸家、二条城に至り、匂袋を進ず。院使、二条城に至り、万葉集を謝す。
7月28日、伝奏、昵懇の公家、諸大名、門跡、神宮、医師、商人等、拝謁する。
7月29日、伝奏衆が召し出される。
閏7月1日、伝奏、昵懇の公家、諸大名等、拝謁する。上皇、参議勧修寺経広を二条城に遣わし、家光に白蘭を賜う。
閏7月2日、伝奏、一条摂政辞職を伝えるが許されず。
閏7月3日、院使、二条城に至り、院料を謝す。
閏7月4日、家光、仙洞御所に参内する。広所(二条城から移築した建物)で蹴鞠見物あり。
閏7月5日、諸大名等、家光に院参を賀す。
閏7月7日、天海、家光に拝謁する。
閏7月9日、院より双六の盤が進ぜられる。中山王尚豊の使者、佐鋪、玉城、金武三王子、二の丸において家光に拝謁する。尚豊および三使から献上品あり。
閏7月10日、二条康道父子が家光に拝謁する。公家衆、家光に拝謁する。
閏7月13日、九条前関白幸家と庶子千代鶴丸、家光に拝謁する。
閏7月14日、家光、譜代、親藩大名との謁見をおこなう。
閏7月15日、家光、昵懇の公家、大名と二の丸で謁見する。御三家、譜代は小書院で謁見する。
閏7月16日、家光、在洛の諸大名へ時服等を下賜する。諸大名、御礼に参上する。
閏7月21日、勅使烏丸光広が家光に香袋を進上する。
閏7月22日、蹴鞠観覧。御三家、諸大名、公卿等、観覧する。御三家、公卿は黒書院、国持大名は大広間、それ以下の大名は式台で饗応される。
閏7月23日、24日、家光、二条城において一条昭良と内談する。
閏7月25日、家光、大坂城に移る。途中、淀城で永井尚政が供奉する。
閏7月28日、家光、二条城へ帰る。橋本より乗船。途中、長岡勝龍寺を参詣。
閏7月29日、家光、御三家、在京の諸大名と謁見する。一条昭良と謁見する。
8月1日、家光、御所および仙洞へ参内する。
8月2日、一条昭良が参上。二の丸で御酒を進上。院より御簾と土佐絵の屏風を賜る。屏風を上段に立て、諸大名に拝覧させる。天海僧正と謁見する。
8月3日、家光、一条昭良と内談する。
8月4日、天海僧正参上。伝奏、公家ら参上。譜代大名に妻子を江戸に引移すよう申し渡す。
8月5日、家光、二条城から江戸城に帰る。
高知城主・山内忠義、二条城作事のため、材木を献上する。
1635年(寛永12年)
5月23日、幕府、大番頭・保科正貞、同・安部信盛に、番士100名を率いて、同・渡辺茂に代わり、京都二条城を守衛させる。在番交替期を一年と定める。
武家諸法度が改められ、参勤交代制度が確立される。
1637年(寛永14年)
幕府、禁裏を造営する。
1638年(寛永15年)
3月15日、幕府、大番頭・水野元綱、同・北条氏重に、二条城定番を命じる。
1639年(寛永16年)
3月15日、幕府、大番頭・松平忠晴、同・松平直次に、二条城定番を命じる。
7月12日、幕府、大番組頭・筧正成に、二条城在番を命じる。
1640年(寛永17年)
3月7日、幕府、二条城番士に條令を下す。
3月9日、幕府、内藤信廣、保科正貞に二条城番を命じる。
1644年(寛永21年)
2月20日、幕府、大番頭・本多正貫、中根正成に、二条城番を命じる。
1651年(慶安4年)
4月20日、家光、江戸城で死去。
1652年(承応元年)
この頃までに行幸諸施設の整理終わる。
1653年(承応2年)
4月11日、二条城中で火災あり。
1656年(明暦2年)
4月1日、幕府、二条城番士に條令を下す。
1660年(万治3年)
7月6日、京都暴風雨により二条城損壊する。
9月10日、幕府、膳所城主・本多俊次に命じて、二条城石塁を修繕する。
1662年(寛文2年)
5月1日、寛文近江若狭地震により、二条城も被害を受ける。石垣や二の丸御殿に大きな被害。方広寺大仏は倒壊。
5月28日、幕府、大垣城主・戸田氏信に命じて二条城を修理する。
1663年(寛文3年)
9月14日、幕府、石清水社の修繕にあたり、二条城番士に監督させる。
12月6日、京都地震、二条城も損壊する。
1665年(寛文5年)
2月11日、幕府、大番隊士禄百石以下で二条城を守衛する者に、米各二百苞を給付する。
5月12日、京都地震、二条城も損壊する。
1677年(延宝5年)
城内外施設の破損修理(1680年まで)。
1686年(貞享3年)
10月、二条城の破損部分の修理がおこなわれる(1713年3月に完了)。二の丸御殿の屋根はこの頃にはすでに本瓦葺きに。
1699年(元禄12年)
二条城代を廃止し、職務は二条城在番(二条城番)が引き継ぐ。
1701年(元禄14年)
6月20日、大雨と雷により二条城等で被害が出る。鴨川で洪水が発生する。
1703年(元禄16年)
9月、京都所司代屋敷が拡張される。
1708年(宝永5年)
3月8日、京都市中で火災発生、二条城までは延焼せず。【宝永の大火】
1716年(享保元年)
二の丸庭園が改修される(この年から1730年までの間)。
1724年(享保9年)
9月、将軍・徳川吉宗が上洛する噂が流れる。
1730年(享保15年)
京都所司代・牧野英成、「二條御城中二之御丸/御庭蘇鉄有所之図」を制作させる。
1733年(享保18年)
1月、再度吉宗上洛の噂が流れる。
1750年(寛延3年)
8月26日、二条城天守、落雷により焼失する。
1752年(宝暦2年)
4月13日、二条城引き渡しのため、老中・松平武元が上京。
1767年(明和4年)
二条在番を廃止し、二条定番を設置する。
1772年(明和9年)
3月13日、夜、二条城辺に光怪あり。
1788年(天明8年)
1月30日、宮川町より出火、御所、二条城本丸御殿および北側の隅櫓(北東隅櫓、北西隅櫓)等が焼失する。【天明の大火】
5月23日、老中・松平定信、二条城中および大徳寺ほか、洛中延焼の箇所を巡視する。
8月8日、勘定奉行・根岸鎮衛等、仮御所および二条城その他の仮造営の竣工を賞し、物を賜る。

by yahantei (2021-12-16 16:56) 

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